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September 29, 2005

あの頃…(2)

 1983年当時のニューヨークの、街の記憶を、とりとめもなく語り続けます。

 George Washington Hotelのエアコンのない部屋は、その年の夏が異常に暑かったこともあって、7月末には耐えられない状況となりました。そこで8月に入るとすぐに、同じく長期滞在者用のホテル、Times Square Motor Hotelに移りました。ここは43Stと8th Avenueの角にあり、タイムズスクエアは歩いて2分というロケーションです。音がうるさいエアコンが付いた部屋はボロかったけどやたらと広く、巨大なベッドと白黒テレビが置いてありました。ゴキブリが多かったなぁ。
 8th Avenue 沿いの角にはドーナツショップが入っており、早朝から近所の年寄りが集まって、甘くて大きなドーナツを食べながらコーヒーを飲んでました。Times Square Motor Hotelには、ロビーにつながる小さなデリがありました。ホテルにはキッチンがなかったので、いつもこのデリで、いつも焼いたチキンをライブレッドに挟んでもらい、35セントのミラービールで夕食にしていたのを思い出します。8th Avの反対側にはギリシャのファーストフード「スヴァラキ」の店がありました。他に、8 th Av沿いには安いダイナーがたくさんあって、食事には困らなかったと記憶しています。8th Avを1ブロックほど北へ歩くとMILFORD PLAZAがありました。このホテルは最近はきれいになりましたが、当時はかなり寂れていて、マイナーな航空会社の客室乗務員が宿泊してました。ロビーの地下に汚くて安いバーがあって時々飲んでいたのですが、東欧系の航空会社のスチュワーデスが話しかけてきて一緒に騒いだことが何度もあり、今ではいい思い出です。
 43 Stをハドソン川の方へ歩き、9 th Avを超えたあたりに大きな郵便局があったと思います。9th Avのミッドタウンは通称「ヘルズキッチン」として知られているところで、往年の「悪の巣窟」的な雰囲気はなかったものの、荒れたアパートメントや得体の知れない店が入ったビルなどがありました。ローレンスブロックの小説を読むたびに、あのあたりの雰囲気を思い出します。いずれにしても、9 th Avよりも西側には、まず行くことはありませんでした。
 タイムズスクエアは、あまり現在とイメージは変わりません。ただ、「電気屋」と「身分証明書屋」がやたらと多かったのを思い出します。

 当時私がニューヨークで何をやっていたのか、というと…、ある月刊誌から「観光ブームに沸くニューヨークの裏側」…みたいな連載コラムをもらったので、ネタを求めてカメラ片手に毎日街を歩き回っていました。当時取材に使っていたカメラは、PENTAX「MX」(50㎜ F1.4/135㎜ F3.5)とオリンパス「XA」、あとはキヤノネットで、MXではリバーサルと白黒を使い分け、コンパクトはトライX入れて白黒専用にしてました。
 で、ネタ探しによく歩いていたのは、やはりロワーマンハッタンです。いつも地下鉄で出かけました。その頃の地下鉄のトークンは50セントですから、今思うと安かったですね。地下鉄の構内では、たいてい下手なミュージシャンが演奏してましたが、これは今と同じです(最近はオーディションがあるらしいですね)。
 ウェストビレッジ、イーストビレッジ、バワリーといった一帯が私のテリトリーでした。70年代後半の著名なサブカルチャー雑誌、「ソーホー・ウイークリー・ニューズ」が前年に廃刊された直後で、やはり主な情報源は「ヴィレッジボイス」でした。ヴィレッジボイスやニューヨークタイムスの日曜版でクラブの開店やイベント開催、オフオフ・ブロードウェイの開幕の情報などを得ると、取材なんて大げさなことではないですが、ノコノコと出かけて行っては写真を撮ったりしていたわけです。そういえば、ロッキー・ホラーショーは、この頃はまだオフ・ブロードウェイでしたね。

 華やかな雰囲気が味わいたくてよく行ったクラブとなると、やはりRoxyですか…。18th StのウェストサイドにあるRoxyは、巨大な体育館のようなディスコでした。当時、周囲は何もない倉庫街でしたが、毎晩入り口にたくさんの人が並んで、異様な雰囲気を醸していました。チャージを払って中に入るとバーコーナーでは、100ドル札を丸めて鼻に当て、コカインをキメてるヤツなんかがいました。ただ、従業員の見ているところであからさまにドラッグやると注意を受けてましたね。このRoxyやDanceteriaで、クラブカルチャーってヤツを実感したわけです。当時のクラブミュージックの主流はヒップホップです。1970年代の末期に生まれたヒップホップを、私が初めて「カルチャー」として体感したのはRoxyやDanceteriaなど巨大クラブでの狂乱でした。ただ、個人的な音楽の趣味から言えば、同じクラブでもMudd ClubやRitz、そしてCBGBなんかの方が好きで、こちらにも時々出かけました。RitzではB.B.キングやチャカ・カーンを間近に聞けてうれしかったなぁ…。話は止め処なく飛びますが、クラブカルチャーといえば、私は70年代にマンハッタンでは伝説となった「パラダイス・ガラージ」に行ったことがあります。こんな話をしても、知らない人の方が多いかもしれません…
 ヒップホップが、ストリートカルチャーとして当時のニューヨークに根付いていたか…という話になると、思い出すのがラジカセです。その頃、街を歩いていていちばん目に付いたのは、バカデカい「ラジカセ」でした。もう、若い連中は誰もが巨大なラジカセを持って歩いていました。10キロぐらいはありそうな大きなラジカセが、電気屋の店頭に並んでおり、それを肩に担いでダンスミュージックを鳴らしながら歩く黒人たちの姿は、もうニューヨークの風物詩のようなものでした。黒人ともにディスコや街中で目立ったのは、ラティーノです。こちらは小柄な体にマッチョな筋肉を身につけて、足取りも軽やかにストリートで踊ってました。
 その頃私も、安いラジカセを買いました。これは「真夜中のカーボーイ」を気取って、ニューオリンズ行きのグレイハウンドバスに持ち込んだ時、トイレストップで泊まったバスディーポで盗まれちゃったことを覚えてます。

 この年の夏、あまりに暑い日が続いたため、海水浴にもしょっちゅう出かけました。行き先は地下鉄で行けるコニーアイランドかロッカウェイビーチですが、いつも海パンにTシャツという姿で、地下鉄に乗ってましたね。
 さて、そうこうしながら暑い夏が終わる頃、私はブルックリンのプロスペクトパークの隣にあるアパートへと引っ越しました。

投稿者 yama : 04:11 PM | コメント (0) | トラックバック

September 28, 2005

あの頃…

 たまたまYahoo! Japanのトップページに「アートの街ニューヨークに夢中」というリンクがあったので、読んでみました。ここに書かれている「ニューヨーク・カルチャーマップ」が別に悪いとは言いませんが、「ニューヨークの文化」を辿る…にしては、底の浅い企画ばかりで面白くもなんともない。アルゴンキン・ホテルなどに行ってバーで飲んでみたところで浮いちゃうだけだと思うし、老舗のジャズクラブなんてやたらと気取ってて面白くないし、…と、まあ人それぞれです。
 時折日記に書いているように、私自身はたまたまニューヨークに縁があり、1970年代に学生生活を送り、さらに10年ほど間隔を空けて1980年代前半のニューヨークに1年以上暮らし、そしてまた10年以上の間隔を空けて90年代後半から毎年恒例のようにニューヨークを訪れていました。2001年の冬を最後に恒例のニューヨーク行をやめた私ですから、ここ2~3年の街の様子は知りません。でも「ニューヨークの文化」を語るのなら、ベトナム反戦や公民権運動高揚の余波が残っていた1970年代のニューヨークの音楽やアート、クラブカルチャーが勃興してそれがビートニクなどとも結びついた1980年代の活気に満ちたニューヨークの体験を、一度きちんと書いてみようと思っていました。
 私にとってのニューヨークの文化とは、老舗のジャズクラブでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、アンディ・ウォーホルなどのアートでもなく、美術館巡りでもありません。「ビートニク」こそが、私がニューヨークのカルチャーを思い起こすとき、真っ先に頭に浮かぶ言葉です。
 50年代後半から始まるビートニクというムーブメントを、60年代のカウンターカルチャー、70年代のヒッピー文化などと結び付けて思い起こす人が多いでしょうが、確かにその通りです。
アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアックウィリアム・S・バロウズらの交流は、その後のアメリカ、いや世界の文化に途方もなく大きな影響を与えました。そして、私自身にも影響を与えました。アンディ・ウォーホル、バスキア、メープルソープ、ドアーズ、ジャニス、ジミヘン、グレートフルデッド、パティ・スミス…60年代から70年代にかけての前衛的な美術も音楽も、その全てがビートニクの影響を受けています。こんな話は、私がわざわざ書くようなことではありません。しかし、実際にニューヨークで生活して感じたのは、ビートニクの影響はもっと遥かに奥深く、幅広い…ということでした。そして、ビートニクの影響が最も強かった…というより、ビートニクが、そこに住む人の骨まで染み付いている街こそがニューヨークでした。例えば、80年代のクラブカルチャーは、私もよく通ったRoxy、Mudd Club、Danceteria、the Ritzなどで隆盛を極めましたが、こうしたクラブではダンスミュージックをバックに、バロウズによる詩の朗読などが行われたりしていたのです(バロウズの詩とロックの融合は、ニルヴァーナあたりにも見られます)。また、当時イーストビレッジの端にあった前衛クラブabcRINOでは「ギンズバーグを語る夕べ」なんて催しも行われていました。白髪のお年寄りと10代の若者がいっしょになって、コカインやマリファナを嗜みながらビートニクについて夜を徹して語り合ったりしていました。

 70年代のニューヨークについては、当時の資料が手許にほとんどありません。しかし、80年代のニューヨーク生活は、ライターの仕事をやっていたこともあって、写真や文章など大量の記録が残っています。そんなわけで、まずは80年代のニューヨークの思い出を少し書いてみようと思います。

 さて、学生時代の70年代に次ぐ2度目のニューヨーク滞在を敢行したのは1983年のこと。なだ20代であったこの年、バイクの事故で長期入院したことをきかっけに勤めていた会社を辞め、フリーライターを始めた頃でした。フリーライターなどというとカッコいいですが、就職情報誌の特集記事や総合ビジネス誌の埋め草記事など細々とした仕事しかなく、実態はOLをやっていた嫁さんに食わせてもらっていたも同様でした。そんな私は、先のことを考えず、現地から原稿を送る約束の若干の仕事を受注して、ニューヨークに飛びました。まだ、「格安航空券」なるものが簡単に手に入った時代ではありませんでしたが、それでも大韓航空なら往復15万円程度でオープンチケットが購入できました。
 80年代の初め頃までは、マンハッタンの中心部に安ホテルや安アパートがいくらでもありました。83年の初春、ニューヨークに到着した私が、まず落ち着いたのは、Lexington Aveの23丁目にあるGeorge Washington Hotelでした。地下鉄の駅前で、2ブロックほど南へ歩くとGramercy Parkがあるよいロケーションのホテルでした。ただ、今でこそ「Gramercy」と言えばマンハッタンの中でも1、2を争うおしゃれなエリアですが、当時は何もないところで、近所に数件のデリやグロッサリーがあるだけの閑散としたところでした。ところでこのGeorge Washington Hotel、今でも同じ場所にありますが、1928年開業の古いホテルで戦前には英国の著名な詩人W.H.Audenなども滞在していたという由緒あるホテルです。建物は古く、当時から長期滞在者用のアパートメントになっており、マンスリーで200~300ドル程度(といっても1ドル=270円前後の時代)で部屋を借りられました。ちなみに現在のGeorge Washington Hotelは、近辺の大学や専門学校の合同学生寮にもなっており(一般人も入居可)、マンスリー700~1000ドル程度で部屋を借りることができるはずです。
 1983年のニューヨークは、どんな雰囲気だったかと言えば、現在のニューヨークとはかなり違います。前年の1982年に始まったビッグアップルキャンペーンで、本格的に世界の観光地として売り出し始めたわけですが、まだまだ
 当時、既にグリニッジビレッジ一帯は観光地でしたし、ギャラリーが並ぶSOHOの地価も上がる一方でした。でも、Canalの南側はただ閑散とした倉庫街だったし、チャイナタウンは現在の1/3程度の規模で、薬中とアル中がたむろするバワリーはむろん、今はおしゃれな街となったイーストビレッジなんて怖くて、夜は歩けたものではありませんでした。ただ、イーストビレッジには、先端的なクラブやギャラリーが続々とオープンし始めていたので、怖いのを我慢してよく出かけたものです。最悪だったのがアルファベット・アベニュー界隈で、知人のアパートで飲んでいると、深夜にはどこからともなく銃声がよく聞こえてきたものです。ともかく、バワリーより東側は夜出歩くことができないエリアでした。ロワーマンハッタンは、西側も同じようなもの。ウェストビレッジは賑わっていましたが、ハドソン川に近いエリアは、ずっとアッパーの方まで、危険で閑散としたエリアが多かった。用もないのに8thアベニューよりも西側に行く人なんて、誰もいませんでした。最近はギャラリーなども増えたチェルシーは当時閑散としており、ノリータあたりにもお店は少なかったと記憶しています。
 アッパータウンも似たようなものです。42stは、ブロードウェイと8thアベニューの間の2ブロックにxxx映画館やストリップ、覗き屋、エロショップ、ドラッグの吸引具を売る店が並んでいました。8thアベニューも、42stからセントラルパークまでの間はエロ系の店ばかり。ポートオーソリティのバスターミナルの周囲は、日が暮れるとフッカーが列をなして並んでいました。それもゲイのフッカーばかりです。タイムズスクエアやブロードウェイの劇場街ですら、ちょっと通りを奥に入れば、深夜にはドラッグ売りが徘徊していました。
 セントラルパークの北側は、もう荒れ果てた通りが多く、むろんいまや再開発が進んで観光地化しつつあるハーレムなんて、用もなく訪れる人はほとんどありませんでした。
 そういえば80年代に入ってすぐに「ビタミン・バイブル」なんて本がベストセラーになり、コロンバスベニュー近くのレストランに入った時、テーブルの上に「自由にお取りください」とばかりに各種ビタミンのタブレットが置いてあったのは驚きました。
 そういえば、当時の地下鉄の落書きには、ニューヨークのアートシーンに登場して間もないキースへリングの「コピー」がいっぱいありました。

 さて、次回からは当時撮影した街の写真も入れて、「あの頃の活気に溢れたニューヨーク」を辿ってみたいと思います。

投稿者 yama : 03:56 PM | コメント (0) | トラックバック

September 24, 2005

書皮(しょひ)

 私の「密かなお気に入りサイト」に、「書皮の名刹」…があります。同じように「書皮」を扱ったサイトとして「書皮友好協会」があり、こちらもよいサイトなんですが、私は「書皮の名刹」さんの方がなんとなく好きです。よくもまあ、これだけたくさんの「書店カバー」の画像を集めたものです。しかも書店MAP付で…。私も種類だけならもっとあるでしょうが、いちいち写真撮影したりスキャンしたりするのは面倒。管理人には頭が下がります。で、どちらのサイトにも「書皮」の説明はありますが、要するに「書店カバー」のことです(それにしても「しょひ」では変換されません)。
 私は、本を買うと必ず「カバー」をつけてもらいます。レジ袋不要論と同じエコロジーの観点から「いりません」というべき…という意見もありますが、そんな意見は「くそ食らえ」です。ロクに本も読まねぇヤツに、言われたくありません。私は、他人に本のタイトルを見られるのが嫌いだし本を汚したくないので絶対にカバーを必要としますし、実はそんな話以前に「書店カバー」というものが結構好きなんです。この一見何の変哲もないカバーには、「書店の個性」が見えるんですよね。
 最近頭にくるのが、タイアップ広告版の書店カバーで、この前なんか、西武リブロで買った本全部に、ディズニー柄の幼稚なカバーつけられて、メゲました。

 ともかく「書店の個性」は重要だと思いますし、私は書店の好き嫌いがとても激しい。
 考えてみると、私の書店通いの原点は、名古屋の「日進堂書店 桜山店」で(わかる人には出身高校名がわかっちゃうかも)、もう高校の帰り道には、毎日必ず…と言ってよいほど行ってました。1年のうち200日以上は通ったでしょう。小さめの書店ながら過不足のない品揃えで、けっこうゴチャゴチャとしてて、それがまた落ち着きました。ここで立ち読みだけで読了した本の数は、何百冊にもなると思います。
 ともかく、私が嫌いなタイプの書店は、「ギッシリ感」がない店。本の陳列がスカスカで、棚が低くて、やたら平積みが多い店はダメです。本を買う気がしません。例えば、最近やたらと都内に増殖しているブックファースト系の書店は大嫌い。実は、閉店にあたって多くのファンが惜しんだABC(青山本店と六本木店が営業を続けることになりましたが)も、あまり好きな書店ではありません。
 ともかく、少ゴチャゴチャと「本が詰まっている」感じの書店が好きです。地元の池袋では。以前も書いたように西口の芳林堂が無くなったことが大きなダメージ。私は、過去20年間の全購入書籍の70%を芳林堂から買ってました。芳林堂廃業のダメージからは、現時点でも立ち直っていません。結局、現在は、池袋ではリブロ西武店で購入することが増えています。西口では旭屋(改装中)でも時々買う他、立教通りにある大地屋の文庫ボックスでも買います。そして、日本最大の蔵書数を誇る東口のジュンク堂は、本の並べ方がどうもダメ。ほとんど行きません。東口なら、老舗の新栄堂の方がよっぽどマシ。
 新宿は、以前最もよく行っていた山下書店の本店(新宿マイシティ)が、閉店しちゃいましたね。悲しい。となると、東口ではやはり紀伊国屋の本店で買うことが多いかも。新宿駅近辺では、福家書店のサブナード店も時々買います。同じ紀伊国屋でも高島屋タイムズスクエアにある方の店はなんとなく買わない。新しく三越に出来たジュンク堂新宿店は、やはり苦手、特に文庫本の並べ方が見にくくてダメ。西口なら、とりあえずは小田急10Fの三省堂でしょう。ルミネにあるブックファーストは、2店とも最悪。陳列は「スカスカ」だし…、ここでは絶対に本を買いません。
 で、新宿での穴場書店となると、これはもう西武新宿駅PEPEの7Fにある書原でしょう。ここの書原は、まず売場面積の割に陳列している本の数が多く、「ギッシリ感」がいい。本の種類にはちょっと癖がありますが、「本好きのツボ」をかなり心得てます。書原は、阿佐ヶ谷本店も隙間なくギッシリと本が詰まった感じでいいですね。
 渋谷は「ギッシリ感」「ゴチャゴチャ感」が高かった大盛堂本店が休業してしまい、もうがっくり。三省堂も無くなったし、東急プラザの紀伊国屋以外に行く店がありません。あ、道玄坂の地下にある旭屋書店はかなりいいですね。山下書店(渋谷店、南口店)には最近行ってませんが、以前はけっこう買ってました。特に南口店が「本の詰まり具合」が好きでよく行ってましたが、まだあるんでしょうか。
 その他の地区では、東京駅の八重洲ブックセンター、秋葉原の書泉ブックタワー、上野の明正堂書店などもよく行きます。なぜか、書店街として有名な神田近辺には、ほとんど行きません。
 私が住んでいる練馬区の地元には書店が少ないのが悩み。時々買いに行くのは地下鉄有楽町線平和台駅前のあゆみブックス、あとは西武線中村橋駅近くの中村橋書店で、どちらも割といい書店だと思います。

投稿者 yama : 12:21 PM | コメント (0) | トラックバック

September 22, 2005

「鎮火報」と「カリフォルニアの炎」

 日明恩「鎮火報」(講談社ノベルス)を読了しました。これまたハードカバーではなく、ノベルスになってから読んだというわけです。
 ともかく「面白かった」…というのが感想です。ある種の「青春小説」…と言ってもよいかもしれません。母親をはじめ同僚や友人、謎の年配者の知人など主人公を取り巻く人間たちの人物像が多少「とってつけた」ような感じがする他、主人公や周囲の人間の中の何人かが抱えている「トラウマ」の原因が少しステレオタイプな感じがするのが、難といえば難でしょう。でも、そうした部分を補って余りあるほどの面白さです。ストーリーの底流を流れる視点は悪くないし、不法滞在の外国人の取り上げ方もいい。主人公に絡む出入国管理官の人物像もいい。そして何よりも、文体や文章のテンポなど全体に歯切れがいい。文体が少し「今ふう」過ぎると感じるのは、私が年寄りだからとうだけではなく、メフィスト賞を受賞したという作者の経歴によるところも大きいでしょう。私は日明恩という女性作家を知らなかったのですが、まあメフィスト賞受賞作品というのは、私の興味からもっとも遠いところにある作品ばかりなのでやむを得ません。作者のペンネームも「それらしく」て、嫌といえば嫌ですね。まあ、そんなことはどうでもよく、ともかく面白い小説であったことは間違いありません。

 消防士を主人公にした本としては、翻訳小説ではスザンヌ・チェイズン「欺く炎」「火災捜査官」(二見文庫)あたりはかなり面白かったと記憶しています(主人公は厳密には消防士ではないですけど…)。で、今回私が書きたかったのは、この「鎮火報」を読んで、ある小説のことを思い出した…という話。その小説というのはドン・ウィンズロウ「カリフォルニアの炎」です。この小説は、私が好きな翻訳小説の中でも、確実にベストテンに入ります。カリフォルニア火災生命という保険会社の査定人ジャックを主人公にした小説で、あえてストーリーは書きませんが、とにかく面白いし主人公の性格造形もいい。
 で、この「カリフォルニアの炎」は「鎮火報」と雰囲気が似ているんです。もちろん、同じように「火災」をテーマにしていても、扱っている題材もストーリーもまったく違う。でも、一見クールな主人公のメンタルな部分や周辺の人物や事象との距離感…といったものが似てる感じがするんです。私が思うに、日明恩という作家、間違いなくドン・ウィンズロウ「カリフォルニアの炎」をかなり読み込んでいます(違ってたらゴメンサイ)。
 誤解しないで欲しいのですが、間違ってもパクったとか参考にした…などと言ってるわけじゃありません。「火災がテーマ」以外にストーリーに共通点はありませんから。でも、全体を流れる雰囲気が似ています。それも「いい意味」で似ています。どちらも、私の大好きな雰囲気を持っています。
 日明恩という作家、他の作品を読んでみたくなりました。ただし、「メフィスト賞」の作品は勘弁ですけど…

投稿者 yama : 04:27 PM | コメント (0) | トラックバック

September 20, 2005

文庫本代を返せ…

 横山秀夫「半落ち」…、文庫化されたのを機会に読んでみました。2002年に「傑作感動ミステリー」として各種のミステリー年間ランキングで第1位を獲得し、直木賞選考時にも話題なった超ベストセラーです。「ベストセラーはとりあえず読まない」…という主義なので、文庫化されるまで読まなかったというわけ。で、読んでみたら、あまりにつまらない小説で唖然。無理やり作ったヒューマニズム・ドラマです。「男はなぜ最愛の妻を殺したのか…、男はなぜあと1年だけ生きる決心をしたのか…?」というコピーの理由が、こんなものだったなんて。「命の意味を問う」…なんてコピーもありましたが、アルツハイマー、嘱託殺人、そしてドナー…なんて、「命の意味」を問うためにもっとも安易な題材を使った典型的な三題噺。ここまで安っぽく、とってつけたようなお話で、無理やり感動させられちゃたまりません。
 横山秀夫の一連の警察小説は、むろん面白く読んでます。最近では、いきなりノベルスで刊行された彼の初期作品「ルパンの消息」なんて、抜群に面白かった。サントリーミステリー大賞を逃したデビュー前の佳作をベースにした作品とのことですが、デビュー前にこれだけのストーリーを書けるなんて半端じゃない。ミステリーだけじゃなく、「クライマーズ・ハイ」もいい作品。
 でもこの「半落ち」は、私が読んだ彼の作品の中では、もう最悪でしょう。最終章を読んだとき、文庫本代を返せ…と言いたくなりました。
 さらに、同じくベテランが書いたミステリーで、最近読んでつまらなかったのは、宮部みゆき「誰か」。この作品もノベルスになったのを機会に読んで見ましたが、これまたオチがつまらない。宮部みゆきって、こんなに安っぽいストーリーを作るのか…と、やはり唖然。
 まあ、横山秀夫にしても宮部みゆきにしても、ストーリー(作り話)の面白さで読ませる部分が大きい作家。で、ストーリーテラーが手を抜くと、こんな安っぽい小説ができる…ということを、あらためて感じました。

投稿者 yama : 04:43 PM | コメント (0) | トラックバック

September 18, 2005

借りたお金は期日に返すのがルール

 昨日、佐世保市の商店街で行われた陸自による武装行進。さすがに唖然としました。
何のために「武装して」商店街を行進しなくちゃなならないのか、理由がわかりません。こちらの記事によると「自衛隊の真の姿を見てほしい」というのが武装の理由だそうですが、別に自衛隊が武器を持っていることなど、わざわざ市民に見せる必要はありません。この武装行進について、右寄りのネット世論では「よくやった」「海外派遣や災害救助などでがんばっている自衛隊は堂々と行進すべき」…との意見が多いようです。また、今回の「市中武装行進」に多くの市民団体が反対したことについて、ネット世論では「反対しているやつはプロ市民」「有事の時には、今回の行進に反対した市民団体を守るべきではない」…といった意見が、大量に書き込まれました。
 しかし、私も「街中での武装行進」には反対です。これは、自衛隊の存在に反対する・しないとか、ウヨクかサヨクかとか、憲法9条論議などとは全く関係のない理由です。仮に憲法9条が改正され、自衛隊が「国軍」に生まれ変わったとしても、私は「街中での武装行進」には反対します。
 古来、古今東西の歴史の中で、「国家の軍隊」が「守るべき対象である国民」に対して銃を向けた例は、枚挙に暇がありません。最近では、民主化を要求する学生に銃口を向けた天安門事件がもっとも有名ですが、東チモールの独立やアチェの独立をインドネシア国軍が武力で弾圧したり、ウズベキスタンで民主化を要求する市民のデモに軍が発砲したり、韓国の民主化運動の象徴とされる光州事件でも軍が市民に発砲しました。「日常的に軍が武装して市中を武装行進」する…ということは、その武力誇示の対象が、いつか「国民・市民」に向けられるかもしれない…という事態を想起させられます。ここでは日本に軍隊が必要かどうかの議論をする気はありませんが、仮に憲法改正によって「日本国軍」が誕生したとしても、一般市民の前を武装行進することは絶対に許してはいけません。「国家」は、けっして「無謬」ではありません。
 そして、もし「国軍が市民の前で堂々と武装行進する」ことを認めるのなら、アメリカのように「市民が武装する」ことも認めるべきです。

 ところで、先に書いたように、ネット世論では「プロ市民」なる言葉が多用されています。妙な話ですが、私も「市民」とか「市民運動」という言葉が本質的に好きではないので、「プロ市民」という蔑称で呼ぶ人たちの気持ちがわからないではありません。ただ現実には、大阪の市民団体「見張り番」の代表である松浦米子氏のように、オンブズマン活動を行って大阪市や職員団体の公金を300億円以上自主返還させるなど(大阪市役所関係者からの脅迫に屈せず)、非常に立派な活動を行っている個人や市民団体もあるので、十把一絡げに「プロ市民」と蔑称するのはいただけません。

 さて、「プロ市民」と蔑称されてもしかたがないような、感覚がズレた「市民」の例もまた、いくらでもあります。
 こちらの「個人情報を守らない企業」…という記事は、かなり笑えました。この記事が掲載された「JANJAN」は、「市民が記者になってニュースを送るインターネット新聞」というもので、わりとよく知られています。
 で、その笑える記事なんですが、一読して頂ければわかるように、要するに「妻に内緒でクレジット会社のカードローンを作っていたのが、妻にバレた」ことを、「個人情報の漏洩」だと怒っているのです。しかし、その理由たるや「ローンの支払いが1週間ほど遅れた」というものです。しかも、「妻に個人情報は漏洩され、家まで押しかけて来られ、はっきり言っていい迷惑」…とあるように、情報漏えいの相手は自分の妻です。
 この人物は、返済が遅れたのは「たかが1週間」と言っていますが、「期日を決めて借りたお金を期日までに返す」というのは、最も基本的な社会のルールです。こうしたルールを守らなかったら、社会は成り立ちません。返さないお金を催促するため、クレジット会社が「玄関に手紙を入れた」のは当然です。この人物は、返済期日にお金を返さない自分の非を棚に上げて、「彼らはクレジット会社の看板をあげたやくざでしょうか。このクレジット会社の社長は大分銀行の出向社長です。銀行員がトップにいるのにモラルの無い金融機関です」…と書いているわけです。バカかお前…、以外に感想はありません。
 そして、こんなバカの書いた記事を「市民の発言」として掲載し、「市民は善、大企業は悪」と決め付けている「JANJAN」、なんともお粗末な「市民感覚」です。

投稿者 yama : 02:42 PM | コメント (0) | トラックバック

September 16, 2005

日本国民であること「誇り」9割

 日本国民であること「誇り」9割…という記事がありました、これは、「日本国民であることを誇りに思う」かどうかを聞いたところ、「非常に」47%、「多少は」41%を合わせて、計88%が「誇りに思う」と答えた…という内容です。
 このアンケート、質問内容自体になんとなく理解できない部分がたくさんあります。私は、「日本人であることを誇りに思うかどうか?」と問われたら、返答に窮します。なぜ「自分の属性の1つに過ぎない“国籍”を誇らなければならないのか?」…という部分が今ひとつわからないからです。この問題、時々日記で書くと、わけのわからない罵倒メールが来たりします。典型的な内容は、「自国に誇りを持てないヤツはこの国から出て行け」という類のもの。どうも、「自分が住んでいる国は誇らなければいけない」「自分が住んでいる国を誇りに思うのは当然」という価値観が、相当広範囲に広まっているようです。

 さて、「日本国民であることを誇る」という質問についての第一の疑問なんですが、アンケートに答えた「誇りに思っている人たち」にとって、“誇り”とはどういう意味で使われているのか?」…というものです。
 以前も書いたことがありますが、辞書で「誇り」を引いてみると、「すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する」「誇示すべき状態にある。また、そのことを名誉に思う」(大辞泉)…とあります。別の辞書では「得意気なさまを示す。意気があがる」(大辞林)…とあります。まあ、端的に言えば「得意になる、自慢する」…というのが、「誇る」の中心的な意味ということになります。ということは、「日本国民であることを誇る」…というのは、「日本国民であることで、得意であったり自慢したくなったりする気持ちがある」…とおいうことになります。こうなると、「特にになったり自慢したりする相手」はいったい誰なんでしょう。他の国の人々に対してですか? むろん「誇る」という言葉は、他者に対して使うとは限らず、もう少し内向きの意味もあります。自分の心の中で、密かに誇ればよい…わけです。それにしても、内々であっても「他者と比較して」…と言う部分は変わりません。比較する対象物、または比較する相手がなければ「誇る」ことはできません。
 いったい、他の国に対して「日本国民であることを誇る」ことに、どんな意味があるのか、いまひとつはっきりしません。
 さらに、「日本人」というのは、本来「謙虚を美徳とし、むやみやたらと他人に何かを誇ったりしない」のではなかったのでしょうか? アメリカのスミソニアン博物館へ行くと、これでもかとばかりに、建国200年ちょっとのアメリカという国が作り出した工業生産品や様々な遺物が展示されています。航空機や自動車など、アメリカが生み出した「文明の産物」、そして「アメリカの歴史」があまりにも露骨に「誇らしげに」展示されていて、それはもうあきれるほどです。日本人は、こんな形で何かを誇るということをしないところが、よいところだったような気がします。

 第二の疑問は、「自国を誇るのは当然」というは、どの国にも普遍的に当てはまる概念か?…というものです。そうであれば、韓国や北朝鮮の人たちが自分の国や文化を「誇りに思う」ことは「当然」ということになります。中国の国民が中国という国や自分たちの文化を誇るのは当然です。パレスチナに生まれて育った人がパレスチナを誇りに思うことは当然だし、ユダヤの人々が現在のイスラエルを誇りに思うことも当然…というわけです。そこで、例えば何らかの理由でお互いに「いがみ合っている」2つの国家があったとしましょう。その2つの国がいずれも自国の文化を過剰に誇っていることが、国家の関係としてよいことなんでしょうか。自国、または自国の文化を誇ることが、相手の国、相手の国の文化、そして相手の国に住む人々を認めることと一致するなら問題はないわけです。しかし、「誇る」という気持ちが第一の疑問で述べたように「誇る相手」を必要とし、その相手がいがみ合っている対象の国であったら、もう悲惨な話になります。「国民が自国を誇るのは当然」であれば、相手の国の国民も事情は同様であることを、まずもって理解すべきです。

 第三の疑問は、「日本国民」という言葉は何を意味するか?…です。これは、「自国を誇る」と言うときに、「自国=自分の国」という言葉を発する主体は誰か?…という疑問です。例えば「日本国民は、日本という国を誇るべき」…という場合の「日本国民」とは、「日本国籍を持つもの」という意味なのでしょうか? であれば、日本には、文化も言語も異なる「日本国籍」の人間がたくさんいます。日本には、2003年末で191万人(総人口の1.5%)の外国人が生活し、うち定住外国人は永住者(特別永住者と一般移住者)が約74万人(外国人登録者の39%)で、さらに永住資格取得者は毎年約4万人ずつ、帰化者は毎年約1万7000人ずつ増加しています。この数字を多いと見るか少ないと見るかは人によるでしょうが、私は日本は「複数の文化を持つ国」だと思います。

 第四の疑問は、第三の疑問とつながります。第三の疑問では「国民の定義」を挙げましたが、ここで挙げるのは「国家の定義」です。「日本国民であることを誇る」というときの、「国」という言葉の意味です。「国家」とは何か?…という話です。1933年に締結された『国の権利及び義務に関する条約』の条文をみると「第一条 国の要件」において、「国は国際法上の人格を持つ為に、次の資格がなければならない。(イ)永久的住民、(ロ)明確な領域、(ハ)政府、及び(ニ)他国との関係を取り結ぶ能力」…とあります。「国に誇りを持つ」と言うときの「国」とは、こうしたレベルで定義される「国家」を意味するのでしょうか?
 となると、やっかいな問題が生じます。国家に「共通の文化基盤がない」という国家が、地球上には非常にたくさん存在するからです。つまり、国家を構成する人間が、同一の歴史的基盤や文化的基盤を持たない…という国が多いと言うことです。
 西欧文明中心主義の産物でもあり、それ自体が非常に曖昧な定義である「民族」という言葉はあまり使いたくありませんが、あえてここでは「民族」なる言葉を使いましょう。「国家」と「民族」がほぼ一致する場合には、「国家」は歴史的にも文化的にも「一定の傾向や特質、共通の文化基盤」を持ちます。しかし、例えばアフリカの多くの国や、中近東、中央アジアの一部の国のように、18世紀以降の西欧諸国の植民地支配の結果、これら強国の利害によって歴史や民族を無視して国境線が引かれて成立した国家が多い…という事実があります。こうした国では、歴史や文化が異なる民族が「国家」を構成しています。こうした国家に住む人々に対しても「自国を誇れ」「自国の文化」というのなら、いったい自分の国の「どの部分に対して」誇りを持て…というのでしょうか? そして、こうした「国家」ができた最大の原因こそは、他の国家の侵略、植民地支配によるところが大きいのです。
 さらに、こうした国でなくとも、アメリカやフランス、そしてイギリスのように世界には「移民国家」もたくさんあります。こうした「他民族国家」において、「国に誇りを持て」と言う場合、少なくとも「他民族が共有できる価値観」を提示できなければ、「国家に誇りを持つのは当然」という考え方は成立しません。翻って、現在の日本で「国に誇りを持て」と主張している人たちの場合、「他民族に共通する価値観」を念頭に発言しているとは思えません。

 最後に、民族派と呼ばれる人たちはよく「日本の歴史に誇りを持て」と言います。私は、「国の歴史」というのは、どうも「誇りを持つ対象」ではないような気がするのです。「歴史」なんてものは、「事実の積み重ね」に過ぎません。歴史を正しく知ることは絶対に必要だと思いますが、何もそれを「誇る」必要はないのではと思います。
 日本という国には、1500年にも達する長い歴史があります。それでも、現在認められている歴史学・考古学の成果を基にすれば、日本が「国家」として成立した時期は、最大限遡っても4~5世紀と考えるのが妥当。仮に記紀に記された神話時代を入れても、2世紀より遡ることはできません。世界を見渡せば、日本より古い歴史を持つ国家がいくらでもあります。紀元前から栄えたエジプトやギリシャはむろん、イスラエルやレバノンなど中近東の国々、古代ローマに端を発するイタリア、古代ペルシャにつながるイラン、そしてインドや中国。さらに、お隣の朝鮮半島にも、大和朝廷よりも古い歴史を持つ古代国家がありました。
 この地球上で、国の歴史の長さを誇ってみたところで、ほとんど無意味です。そして、「文化を誇れ」と言うときの「文化」なるものは実に多様であり、その多様な文化を持つ人々が集まって構成されている国家が多いのは、日本も含めて自明の話です。

 誤解しないで欲しいのですが、私は冒頭で挙げた読売新聞の調査で「日本国民であることを誇りに思う」と答えた人々を非難したいのではありません。ただ、私自身は「日本国民であることを誇りに思うか?」…と問われた瞬間に、「日本国民とは何か」「日本とは何か」「国家とは何か」…といった疑問が真っ先に浮かんでくるというだけの話です。

投稿者 yama : 04:54 PM | コメント (0) | トラックバック

September 14, 2005

デジカメサイトとしては、書くことが…

 昨日発表され、Web上でも話題を独占したたリコー「GR-D」には、なんとも感慨深いものがあります。評価は様々ですが、曲がりなりにも広角単焦点レンズを搭載した高級コンパクトデジカメが製品化されたことは、デジカメ市場の「成熟」を明確に物語っています。
 GR-Dについては、「スペックが中途半端」とか「APS-CサイズCCDを採用して欲しかった」などの声もあるようですが、個人的には機能・デザインともになかなかよくできた製品だと思います。単4型バッテリーの採用も、市販電池使用の利便性とサイズ・重量のバランスをとった結果でしょう。あえて注文をつければ、視野率が多少低くてもいいから光学ファインダーが欲しかったことぐらいですね。この手のカメラなら、やはり液晶をモニタを見るために顔や体から離して構えるのは、なんとなく違和感があります。あとは、エンプラの採用でボディの剛性や質感を落とし、レンズの明るさをF2.8にするなど光学系のスペックを落とした、実売4万円前後の廉価版の発売を希望します。個人的にはもう、いかにスペックが魅力的であろうと、実売価格5万円以上のコンパクトデジカメを購入する気持ちはありません。
 ここへ来てのデジカメ市場の成熟の証は、他の様々な製品でも見て取ることができます。手ぶれ補正機能の一般化もそうです。そして、SONYからCMOSとは言え1000万画素を超える撮像素子を搭載したコンシューマ向けデジカメ「DSC-R1」が発売されたことも、ある種の感慨があります。ほんの5年前、200万画素機が「高画質」の代名詞であったころ、撮像素子の画素数の1000万という数字は、理屈では確実にいずれ到来することがわかっていても、現実には「夢」のような話でした。しかも、「DSC-R1」が採用したCMOSの「5.49um」というセルピッチにもインパクトがあります。
 特にCCDについては、多画素化、特に画素ピッチが小さくなることへの批判もある中で、現実に多画素化による弊害は確実に抑えられつつあり、いつのまにかエントリーモデルですら500万画素CCDを採用する時代に入りました。しかも1/2.5型の500万画素や、1/1.8型の700/800万画素CCDは、大きな破綻を見せてはいません。この分だと、1年以内にメインストリームの製品は、すべて700万画素以上のCCDを搭載することになりそうです。
 最近の製品では、Panasonic「DMC-LX1」も、とても魅力的なコンセプトの製品です。28㎜の広角側を活かす「16:9」のワイドCCDで撮る画像は、優れた光学系と併せて、使ってみたい気にさせてくれます。いずれ価格が安くなったら、購入するかもしれません。古い銀塩ユーザーには違和感が大きい「16:9」のワイドCCDが、今後広く普及するかどうかを、興味深く見守りたいと思います。
 その他、デジ一眼の大幅な低価格化(ボディの実売価格が6万円台)や、レンジファインダー機のエプソン「RD-1」の存在、そしてMPEG4動画の撮影に特化した三洋「DMX-C5」、CCDに替わる撮像素子の可能性を示す「FOVEON X3」や「ν Maicovicon」の実用化なども含めて、デジカメの高機能化と多様化は、趣味の領域での利用も含めて、ほぼ銀塩カメラの存在を不要にしつつあることは間違いないでしょう。
 こうなると、あと個人的に欲しい製品はといえば、U30と同程度またはそれ以下のサイズで400~500万画素のCCDを搭載した「デジタル・ミノックス」のような製品ぐらいですが、これも間違いなく近々製品化されるでしょう。
 現実に、仕事では過不足のない性能のデジ一眼を使い、旅行などでは700万画素のコンパクト機を愛用している私は、もうほとんどデジカメに求めるものがなくなりました。そりゃ確かに、よりダイナミックレンジが高いCCDの搭載や、小型で長時間利用できるバッテリーの採用、PCとのインタフェースの改善(この面では無線LANを搭載したNikon「COOLPIX P1」は興味深い試みです)、GPS搭載デジカメの低価格化など、デジカメに希望すべき機能はありますが、反面、日常的な利用においては現行レベルの製品にほとんど不満はありません。

 そろそろ、「デジカメサイト」なんてものをやめる時期が来たようです。

投稿者 yama : 04:19 PM | コメント (0) | トラックバック

September 13, 2005

トレンドだった「ビートルズ嫌い」

 先日、池袋のライフハウス(?)FREE FLOW RANCH で、マスター 深田氏と、日経BP「大人のロック」の話をしてました。たまたま、FREE FLOW RANCHが「大人のロックVol.4」の「ロック酒場」で紹介されたからです。
 そのときは、出版社に勤めるK氏も一緒だったのですが、私はこの「大人のロック」というのは非常にイイ線を狙った企画だと創刊時から感じていたことを話しました。現在40~50代のロックファンというのは、自分の周囲での実感としても結構多く、こうした「大人のロックファン」をターゲットとする雑誌やムックは、マーケティング的にもかなり成功する可能性が高いと思うわけです。この「大人のロック」の発行部数、実売数はどの程度なのか知りませんが、少なくともVol.4まで発行されているのですから、そこそこの販売実績は挙げているのでしょう。
 でもこのムック、かなり筋金入りのロックファンである私は、Vol.1こそ書店で見掛けて即購入しましたが、Vol.2以降は購入していません。書店店頭で立ち読みするだけです。理由は簡単で、取り上げているミュージシャンが私の趣味に合わないからです。
 日系BPのサイトで各号の表紙を見てもらえば判る通り、大きく取り上げられているのはストーンズ、ビートルズ、クランプトン、クィーン、ツェッペリン、イーグルス…等々で、あとはせいぜいピンク・フロイド、ELPあたりまでと、なんだか「日本のマーケットで成功したステレオタイプなメジャーバンド」ばかりです。ま、Vol.3の表紙に小さく「ユーライアヒープ」の名が見えるなど、本文ではデュアン・オールマンやドクター・ジョンなど渋めのミュージシャンも紹介されてはいますが、あくまで「オマケ」。特にストーンズ、ビートルズ、クランプトン、クィーンあたりは毎号くどいほど特集されている。これがつまらないわけです。私はビートルズは嫌い、ストーンズは嫌いではないが別に大ファンでもない、ツェッペリンは好きだけど熱狂するほどでもない、クィーンやイーグルスはどうでもいい…という人ですから、こうまでステレオタイプにストーンズ、ビートルズばかりが大きく取り上げられると、なんだか「中年ロックファンを舐めるな(笑)」という気になってきちゃいます。どうも、私の世代でロックが好き…というと、最低でもストーンズ、ビートルズ好きというイメージが出来上がってるみたいですね。
 そりゃわかりますよ、ストーンズ、ビートルズこそ「ロック」であり「青春の音楽」だと思っている中年が現実に多いことは…。そして、マーケティング的にはこうした層をターゲットにしなきゃ売れないことも…。まあ、オールマン・ブラザース・バンドやグレイトフル・デッド、CCN&Yやザ・バンド、そしてCCRあたりの名をでかでかと表紙に印刷して大特集を組んでも、あまり売れないでしょうから。
 でも…ですね、せっかく「大人のロック」…というマーケットを狙うのであれば、「商業ロック」の象徴でもあったビートルズやストーンズが嫌い…と主張することこそがトレンドであった、1970年代当時の「ある種の風潮」をも念頭に置いた企画がもっと欲しい。あ、オールマン・ブラザース・バンドやグレイトフル・デッドなんてのは確かに私の個人的趣味です。むろんビートルズ嫌いで、プログレッシブ・ファンでもいいし、NYパンクのファンでもいいけど、ともかく「アンチビートルズ」は、ロックの世界でマーケティングをする上ではかなり重要なキーワードのはずです。
 妙な話なんですが、1960年代後半から1970年代にかけては、「ビートルズ嫌い」こそがロック好きの証…という側面が、確実にあります。私のビートルズ嫌いなんて、ある意味でトレンドに流されやすかったから…だけかもしれません。
 そうなんです、この「大人のロック」というムック、少なくとも私の周囲には「ビートルズ特集ばかりやってるから買わない」…という中年ロックファンがたくさんいるのです。このムック、せっかくいい企画なのに惜しいなぁ…

投稿者 yama : 06:22 PM | コメント (0) | トラックバック

September 12, 2005

「共生」は本当に可能か?

 衆院選は、絶対安定多数を大きく上回る296議席を獲得した自民党が圧勝、与党が2/3超の議席を得る…という、事前予想通りの結果に終わりました。
 この結果についてはマスコミ上でたくさんの人が論評していますし、また個人のBlogなどでもこの選挙の結果についてのコメント一色です。というわけで、いまさら私が書くことなどありませんが、いくつか気になったことだけをちょっと…

 まずは与党が得た「衆院の2/3」という議席数についてですが、第96条の「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」という改憲問題の規定と第59条の「衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」という規定ばかりがクローズアップされています。しかし、この2つ以外にも、日本国憲法には「衆院の2/3」が関わる規定がたくさんあります。
 まず、第55条【議員の資格争訟】では「両議院は各〃その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」。次いで第57条には「両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる」。さらに第58条【役員の選任、議院規則、懲罰】には「院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」…とあります。要するに、気に入らない議員の資格を剥奪したり、公開であるはずの議会を秘密会議にしたり…、考えてみるとけっこう怖い規定です。
 さらに、日本国憲法以外にも「議員の2/3」が問題になる法律はたくさんあります。まず「衆議院規則」では第198条に「議院は、被告議員の資格の有無について議決によりこれを判決する。資格のないことを議決するには、出席議員の三分の二以上の多数によることを要する。議院の判決には、理由を附けない」。第246条でには「懲罰委員会が除名すべきものとして報告した事犯について、出席議員の三分の二以上の多数による議院の議決がなかった場合に、議院は、懲罰事犯として他の懲罰を科することができる」…という憲法の規定を追認した規定があります。
 そして「裁判官弾劾法」では裁判官を罷免するにあたって「訴追委員会の議事は、出席訴追委員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、委員長の決するところによる。但し、罷免の訴追又は罷免の訴追の猶予をするには、出席訴追委員の三分の二以上の多数でこれを決する」…という規定があります。先ほどの、気に入らない議員の資格を剥奪したり、公開であるはずの議会を秘密会議にしたり…以外に、気にらない判決をした裁判官を罷免することもできるわけです。
 今回の選挙で有権者が自民党・小泉政権に与えた権限は、非常に大きなものだと、あらためて感じる次第です。

 それにしても、田中康夫が今回の選挙結果について「終わりの始まり」とコメントしていましたが、私もそれに近い感想を抱きました。いやこれは田中康夫のように「自民党が大勝したから」という理由ではありません。
 8月29日の日記で書いたように、この国は「“戦争”や“預金封鎖”などといった禁じ手以外のまともな手段では償還不可能なGDPの1.5倍を超える借金があり、詐欺のような年金制度や医療保険制度は事実上崩壊し、生産力を維持できないほどに出生率の低下と少子化が進み、子供の学力はひたすら落ち続け、低所得のフリーターやニートが増え続け、1980年代のニューヨーク並みに日常生活の 治安は悪化し、地方には処理不可能な大量の産業廃棄物が投棄され、食料の50%以上を輸入に頼り、最大の貿易相手国である中国との外交関係は悪化し、憲法を無視して海外への派兵が行われている」…という「政策なんてものの枠を超えた“根本的な国家維持システムの変革”が必要とされている」状況にあって、誰も「本質的な問題を議論しない」中で選挙が行われたからです。私は、民主党が勝利していようと、社民党が大勝していようと、「終わりの始まり」に変わりはなかったように思ってしまいます。

 思えば小泉政権は、この国の基本的な方向として、「改革」と称する「競争原理、強者の論理に基づく進路」に舵を切っているわけです。ところが、この「競争原理、強者の論理」に対する強力な“アンチテーゼ”が、現在の日本には存在しません。現時点では、「対立する価値観」を「万人が納得する形」では誰も提示できないのです。一部政党の唱える「富の再配分」についても、確固たる経済的な裏付けはありません。結局のところ、今回の選挙に関係なく、現在の日本の基本的な方向性である「競争原理、強者の論理」に対して、唯一「共生」という言葉のみが、アンチテーゼであり続けました。
 「共生」という言葉は、理念として間違っているとは思いませんが、必然的に賛同と共感の両者を生みます。「人類であれば誰とでも共生したいか」…と問われると、多くの人はそうは思いません。例えば「努力もしないやつに税金を遣うのは無駄」とか、「犯罪者に税金を遣うな」…あたりはごく一般的ですし、中には「移民や他民族、他の国と共生する必要はない」…と考える人も多いわけです。
 こういう心理、正直なところ私にもあります。さすがに「移民や他民族、他の国と共生する必要はない」などとは間違っても考えませんが、「幼児虐待や女児殺害などを行う社会性を持たない人間」に対しては、どこか共生を拒否する気持ちが湧くことを否めません。しかし、謙虚になって「すべての人類に対する共生の気持ち」を自分の気持ちの中で醸成したとします。しかし、そこでまた考えてしまうのです。「人類すべてが共生する社会」なんてものが、本当に可能なんだろうか…と。

 実のところ私は、地球上に生きる人類は、「人類すべてを対象とした“共生”や“持続”をキーワードとする社会システム、適切な統治システムの案を本当に持っていない」のではないか?…という“恐さ”を感じています。人口問題と食料問題だけを挙げても、現時点で有効な人口抑制手段はない…し、食糧増産もほぼ限界に来ています。確かに、破局を遅らせる対処技術や対処療法はたくさんあるかもしれません。しかし、現在の地球が、確実に100億人を超える人類を養っていけるかどうかについて、確信をもって答えられる科学者はいないでしょう。
 私は、人類の特質、社会の発展については、特に悲観論者でも、逆にオポチュニストでもありません。科学技術の発展についてもそれなりに期待・確信しています。むろん、宗教には一切の興味がありません。こんな私でも、種としての誕生以来400万年、文明を築いてから6千年の長きに渡ってこの地球上で繁栄してきた人類が、もしかすると「種として発展の限界に達した」可能性を考えてしまうのです。いかに人間の叡智を結集しても、いかに科学技術が発展しようとも、この「限界」を打ち破ることはできないのでは…と恐れるのです。

 もし、何らかの方法で人口増加の速度を遅らせることができたとしましょう。そして画期的な科学技術の進歩によって食糧増産とエネルギー確保に成功し、地球上に住む全ての人類の持続的な生存が可能なったとしましょう。さらには、戦争のない平和な社会が実現したとしましょう。そうなったときに、人類は「共生」できるのでしょうか。「共生」の絶対的な条件である、現在の世界に見る「絶望的な生活水準の格差」を無くすことが可能でしょうか?
 この点については、悲観的にならざるを得ません。例えば、現時点で1人当たりのGDPの世界平均は、日本のGDPの約30%に過ぎません。無理がある仮定・計算法ですが、もし「共生」の原理に従って世界の富を均等に再配分すると、日本人の場合は現在の1/3の生活水準になるということになります。そんな「国際社会システム」を、日本に限らず、先進国で豊かな生活をしている人間が許容するわけはありません。
 多くの人が唱える「共生」という言葉の裏には、しょせんは「現在の自分の生活水準を落とさない」…という「前提」が存在します。そんな前提の「共生」は、本来あり得ないはずです。

 今回の総選挙の結果いかんに関わらず、「終わりの始まり」は、とっくの昔に始まっていたのかもしれません。

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September 09, 2005

新しい発芽

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 某所から持ち帰ったマンゴスチン、釈迦頭(シュガーアップル)の種は発芽後も順調に育ち、観葉植物の様相を呈しています。

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 そして、後から植えたランブータンとドラゴンフルーツも発芽しました。
 ランブータンは2本の芽が7センチほどに育ち、さらに1本の芽が土から出ようとしています(写真左)。ドラゴンフルーツは、先日の台風で鉢(…といってもペットボトルをカットして底に穴を開けたもの)がひっくり返り、やむなく適当に埋め直した…という事故がありましたが、とりあえず1本の芽が2センチほど伸びてきました(写真右)。 種を植えた熱帯フルーツの中で、あと発芽していないのでは2週間ほど前に植えた「ラムッ」だけです。

 いや、どの種もこんな簡単に発芽して順調に育つとは思いませんでした。自分で食べた果実の中に入っていた種を、適当な鉢に埋めただけなのに…
 むろん、肥料などは何もやっていません。土は普通の園芸用の土で、しかも何か他の植物を植えて枯れた後の鉢に入っていた土のままです。水は、土が乾燥してきたらやるだけです。熱帯の果物の育て方なんてどうせわからないので、このままでしばらく放置するつもりです。冬は越せない可能性が高いけれど、寒くなるまで生きていたら、室内に移して育ててみるつもりです。

 むろん、私には「ベランダ園芸」の趣味などありません。それどころか、草花の種類なんてさっぱりわからない人間です。自分で植えた植物を育てるのは、おそらく小学生の頃以来でしょう。でも、こうして実際に植えて見ると面白いものですね。庭のある家に引っ越そうかなぁ…なんて、まじめに考え始めました。

投稿者 yama : 04:39 PM | コメント (0) | トラックバック

September 08, 2005

テトラリンガル

 昨夜、ちょっとした用事(ADSLモデムの設定)を依頼されて、インド人シェフのSさん宅に伺ってきました。作業が済んだ後、レストランに勤務するSさんがまだ帰宅していなかったので奥さんといろいろな話をしていたのですが、ちょっと考えさせられることがありました。
 Sさんはインド人で、オリッサ州の出身です。むろん、違法滞在などではなく、日本企業に就職して正規の就労ビザで働いています。奥さんはマレーシア国籍のインド人で、子供が3人います。奥さんの話によると、奥さんはいずれマレーシアに帰って子供を育てたいとのこと。しかし、ご主人のSさんはインドでの生活を希望しているのだそうです。奥さんの話によれば、両親が住むマレーシアにはクアラルンプール近郊に瀟洒な家を購入してあり、いつでも帰れるとのこと。また、マレーシアならSさんの仕事も、大学を出ている奥さんの仕事も問題なくあり、生活には困らないそうです。それに対して、敬虔なヒンドゥー教徒でもあるSさんは、インドの実家へ帰って両親や兄弟とともに、インドの伝統的な生活に則った生活をしたい…との希望です。
 奥さんがマレーシアでの生活を希望する理由の第一は、住環境と子供の教育だそうです。インドのオリッサ州にあるSさんの実家近辺は、いわゆるインドの「田舎」であり、教育面や住環境面で、子供の生活に適さないとの考えです。それに比べてマレーシアのクアラルンプール近辺は、教育レベルや生活水準が高く、また心境には水洗トイレも完備しているなど衛生環境面でも日本で育った子供が馴染みやすい…と考えています。教育面では、公立学校の水準も高く、日本での教育と比較してまったく遜色はないレベルだといいます。
 将来インドの生活を希望するSさんと、将来マレーシアでの生活を希望する奥さんの意見の違いは、なかなか解決できない問題のようで、奥さんからはそんな悩みを打ち明けられました。

 この話を聞いて、私はちょっと考えてしまいました。日本で生まれた日本人の大半は、日本の学校を卒業して日本国内で就職する道を選びます。むろん海外での就学、生活を機能する日本人も増えてはいますが、ごくわずかです。現在海外で生活している日本人の大半は、企業からの出張などによるもので、「自分で海外での生活を選ぶ」人は、非常に少ないですね。
 それに比べて、Sさんも奥さんも「国境」なるものをほとんど意識していません。日本、マレーシア、インドのどこで暮らすかの選択は、生活の快適さと子供の教育…という2つの視点からだけで考えています。話を聞いていると、東京の企業に勤めるサラリーマンが、千葉に住むか、埼玉に住むか、神奈川に住むか…といった程度の気軽さで、国境を越えた生活の話がされています。加えて、近所づきあいもうまく行っており、子供達は日本人のたくさんの友達と楽しく過ごしており、日本で問題なく生活していかれるにも関わらず、「インドかマレーシアか」という選択はあっても「日本で生活する」という選択はありません。
 3人の子供は、一番下が3歳の男の子、あと、日本の公立幼稚園に通う女の子、同じく日本の公立小学校低学年の男の子です。みな、とてもいい子たちなんですが、言葉については3人とも、ヒンドゥー語、マレー語、英語、日本語の4ヶ国語を完璧に操ります。バイリンガル、トリリンガルどころか、「テトラリンガル」というわけです。食事や風習などの文化面でも、3人の子供は、何度も長期帰っているインドの生活、マレーシアの生活、そして日本の生活のどれにも順応しています。どの国でも、問題なく生活していかれるでしょう。
 ここで私が考えてしまったのは、日本でよく使われる「国際的」「国際感覚」「国際人の育成」等の怪しげな言葉です。気軽に日本でシェフとして活躍するSさんはむろん、奥さんと3人の子供にも、国際感覚などという言葉は不要です。別に、どこの国であっても気にせず働き、生活し、日本人が日常考える「生活の快適さ」「教育環境」などを考えた上で、「国」という枠を自然に踏み超えています。

 日本の教育現場では、やたらと「国際感覚の育成」みたいな言葉が出てきます。国際感覚なるものを育成すると称して、子供が小学校に上がる前から幼児英語学校に通わせる母親、小学校への英語教育の導入、高校や大学では「国際感覚の育成」「国際人の育成」と称して英語教育だけを売り物にする事例があちこちに見られます。
 この手の話になると、特に不快なのが「大学」です。以前から何度も書いているように「英語教育」なんて絶対に大学でやることじゃありません。にもかかわらず、こんなアホ大学が、こんな「教育の特色」を売り物にしていたりするわけです。「真の国際人を養成することを大学の理念としており、異文化体験を通じた国際的な視野とセンスを身につける」…とは、ホントに笑わせてくれます。Sさんの家の子供たちを見ていると、この大学で学んだ学生が身につける「国際感覚」なるものの胡散臭さが鼻につきます。

 アジアを旅していると、「国境にこだわらない人」にたくさん出会います。高い教育レベルを身につけた人はむろん、貧しい庶民に至るまで、何のためらいもなく「国境」を越える人をいくらでも見かけます。こうした人が生まれる背景には、「貧困」や「先進国への憧れ」など、ネガティブな要因がたくさんあることも事実で、こうした諸問題を無視するつもりはありません。しかし、翻ってかつて貧しかった頃の日本では、主体的に国境を越える人間は非常に少なかった。この点は、膨大な華僑や印僑を生み出した両国をはじめ、多くの人が平気で国境を超えた他のアジア諸国とは根本的に違います。明治中期以降の南北アメリカ移民や、昭和に入ってからの満州開拓民などの例はあっても、いずれも「豊かな生活」を保障する国策的な詐欺的宣伝に乗せられた例が多く、主体的に国境を越える例とは根本的に異なります。日本という国は、古代から倭寇が活躍した中世あたりまでの方が「国際人」が多く、明治以降の近代においては国際感覚を国家レベルで喪失してしまったようにも思います。

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「テトラリンガル」の子供たちと、とても美味しい「マレー風チキンカレー」です。

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September 07, 2005

2気筒同時爆発

 「昔は…」で始まる話は年寄り臭くて嫌いですが、ホント、最近は面白いバイクがなくなりました。また最近のライダーからは、外観の改造やエンジンの出力アップ等はともかく、バイクの機構そのものに手を加えて「遊ぶ」という話をあまり聞かなくなりました。昔は、わけのわからない改造をして、いろいろと遊んだものです。時代もおおらかだったのかもしれません。
 1970年代の終り頃…ということでもう25年以上前の話ですが、ヤマハの650ccツインの「TX650」に乗っていたことがあります。TX650というバイクは、XS650の流れを汲むいわゆる「4スト ビッグ・ツイン」で、ヨーロピアンテイストを持つなかなか味のあるバイクでした。
 当時、何かのバイク雑誌(たぶんモーターサイクリスト)を読んでいたところ、このTX650のカムを改造して「同時爆発」にし、650cc単気筒バイクにする…という記事が掲載されていました。つまり、360度クランクのカムシャフトの半分を180度ひねることで、左右の2本のシリンダーの吸入から圧縮、爆発にいたる行程を同期させてしまおう…という試みです。この記事に感動(?)した私は、早速その記事中で紹介されていたショップに依頼して「同時爆発カム」の製造を依頼し、純正のカムと交換してもらいました。さらにショップで勧められたのはXS650用デコンプの搭載です。TX650はセルがついていてデコンプは搭載されていなかったのですが、同時爆発にした場合セルでは始動しない可能性があるとのことで、セルなしの旧XS650に搭載されていたデコンプを搭載したわけです。確か、部品製作と改造工賃とで15万円近いお金がかかったと記憶しています。当時TS650の新車価格が40万円程度だったと思うので、えらく高い改造費だったわけです。
 で、出来上がった2気筒同時爆発タイプのTX650ですが、まずは始動が問題でした。XS650、TX650のキック始動は、ノーマルの360度クランクでもかなりのケッチンを覚悟しなくちゃならなかったので、同時爆発にした場合の始動はちょっと恐怖でした。しかし、ショップの方が点火時期を遅らせることでケッチン防止対策をしてくれたおかげで、思ったより簡単にキックで始動できたのです。デコンプの使い方にもちょっと試行錯誤したものの、割と簡単にキックで始動できるのが以外でした。
 で、実際の乗り心地は、あっけないほど平凡なものでした。もともとショートストロークのエンジンだったこともあって、ほとんどシングルらしさを感じないもので、何のためにお金をかけて改造したのかよくわからない結果だったと記憶しています。
 …こんなバカなことをやっていた時代が、懐かしく思い起こされるオジサン世代のライダーです。やっぱり、死んでも「ビッグスクーター」のようなつまらないバイクには乗りたくありません。

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September 06, 2005

シカゴブルースの故郷

 刻々と伝わってくるニューオリンズの惨状(こちらこちら)を見ていると、まさに「アメリカの病巣」が浮き彫りになっています。
 アメリカ史上最悪に近い被害をもたらしたハリケーン「カトリーナ」が過ぎ去って10日が経過したこの段階で、いまだに被害の全貌、犠牲者数がよくわからない。日本では考えられない話で、これではバングラデシュあたりをサイクロンが襲った時と変わりません。アメリカの大都市では、どこに誰が住んでいるか…ということが正確にわからないということです。日本で台風や地震で被害が発生すれば、公園や河原で寝泊りするホームレスが被害者となっても、その身元はすぐに判明します。しかし、アメリカの大都市部では、低所得者層の居住区を中心に「隣の家や隣の部屋にどんな人が住んでいて何をしているのか」を誰も知らない…というエリアが多数存在します。こうした人々が被害にあっても、結局誰も実情を把握できないということです。ニューオリンズには人口の20%以上となる10万人以上の低所得者層が存在し、こうした人々の被害状況については全くわかっていません。今回のハリケーン被害における最終的な死者は、ニューオリンズ市内だけでも数千人に達する、と言われています。
 CNNを見ていても、車で脱出できずにニューオリンズに留まらざるを得なかった低所得者層が、イラク戦争や「テロとの戦い」だけに湯水のように金を遣い、国内の低所得者層を救済に目を向けないブッシュ政権を、口を極めての罵っていましたが、まさにアメリカは中産階級以上の人間の意見だけが反映され、快適に暮らせる国家です。アメリカには3700万人(国民全体の13%、都市部では17%)にも及ぶ貧困層(世帯年収1万9307ドル:約214万円以下)が存在し、彼らの動向については、地域コミュニティも自治体も誰も把握していない…といっても過言ではありません。
 こうした状況に対しては、日本のネット上でも議論が起きていますが、例えばこちらのスレでは、「二ガーなんて何人死んでもどうでもいいだろ。9.11で白人が死んだのとは命の重さが全然違う。白人一人に対して二ガーなんて50億人いても吊りあわない。放置でいいよ、放置で。あとは基地外二ガー同士で殺人、強盗、略奪、レイプで自然淘汰されるだろ(原文ママ)」…といった不愉快な意見が平然と書かれていて唖然としました。一方でこの言語道断の意見は、「アメリカの白人中産階級の本音」でもあります。9.11テロ事件の犠牲者の主役となったヤッピー層やイラク戦争の死者に対しては、国家を挙げて低調に弔う姿勢を見せるブッシュ政権ですが、数千人にも及ぶかもしれない今回の犠牲者に対しては、「ニューオリンズでは排水が終わる数か月後まで人的被害の全容をつかむのは難しい…」などと平然とコメントしています。加えて、現在のアメリカで自ら希望してイラクに向かう州兵や戦場での準軍事業務への就労を志望する民間人の大半が貧困層…という事実も、忘れてはなりません。
 ところで、わが国の今回の総選挙でも「大きな政府、小さな政府のどちらがいいか」も一応争点となっていますが、今回のアメリカのハリケーン被害の実態は、候補者の主張を選択する上での重要なポイントの1つとなります。財政が破綻している日本では、当然ながら「小さな政府」以外に選択の余地がありません。マルクス主義者が理想とするような形での「富の再配分」が適当な政策だとは思いませんし、社民党や共産党が示すような「貧乏な人にも優しい社会」を作るために膨大な税金を遣う余裕は、すでにわが国にはありません。しかし、自由競争を原則として、なおかつ「セーフネット」を完備する…という方向に対して、もっと議論があって然るべきだと思いますし、特に「民営化推進・改革」を主張する候補者は、こうしたセーフネットのあり方について、予算から具体的施策に至るまで詳細な将来像を提示すべきです。
 わが国でも、拉致事件の公然化や中国との政治的軋轢が続く中で、軍事予算を増やし、防衛力を強化して「国の防衛」に力を注げ…という意見も多いようですが、単純な話、国の防衛とは「国民を守る」ことと同義です。「国を守る」のが国家の義務…、いや義務というよりも「国家の存在意味」だとすれば、低所得者層の切捨ては、「国民を守る」という国家の本来の姿からは程遠いものです。
 結局のところ、戦後長く続いた「日本型社会主義の終焉」を迎えつつある現在、国民すべてが生存でき、しかも持続可能な社会システムとはどんなものか…について、国民全体が関心を持たなくてはならないのでしょう。このまま行けば、日本はおそらく、大規模な地震や台風の被害にあっても誰が何人に死んだかよくわからい…という国になりそうです。

 ニューオリンズは、何度も訪れた大好きな街の1つです。ジャズはあまり聴かない私ですが、20年前に初めて訪れたプリザベーションホールで聴いたオールドジャズは忘れられません。加えて今回のハリケーンの被害が大きかったミシシッピ州は、私が大好きなシカゴブルースの故郷です。私が大好きなブルースシンガーのサン・ハウスやマディ・ウォーターズは、ミシシッピ州生まれのデルタブルース・シンガーです。被災地の一刻も早い復旧を祈ります。

投稿者 yama : 11:54 AM | コメント (0) | トラックバック