September 08, 2005
テトラリンガル
昨夜、ちょっとした用事(ADSLモデムの設定)を依頼されて、インド人シェフのSさん宅に伺ってきました。作業が済んだ後、レストランに勤務するSさんがまだ帰宅していなかったので奥さんといろいろな話をしていたのですが、ちょっと考えさせられることがありました。
Sさんはインド人で、オリッサ州の出身です。むろん、違法滞在などではなく、日本企業に就職して正規の就労ビザで働いています。奥さんはマレーシア国籍のインド人で、子供が3人います。奥さんの話によると、奥さんはいずれマレーシアに帰って子供を育てたいとのこと。しかし、ご主人のSさんはインドでの生活を希望しているのだそうです。奥さんの話によれば、両親が住むマレーシアにはクアラルンプール近郊に瀟洒な家を購入してあり、いつでも帰れるとのこと。また、マレーシアならSさんの仕事も、大学を出ている奥さんの仕事も問題なくあり、生活には困らないそうです。それに対して、敬虔なヒンドゥー教徒でもあるSさんは、インドの実家へ帰って両親や兄弟とともに、インドの伝統的な生活に則った生活をしたい…との希望です。
奥さんがマレーシアでの生活を希望する理由の第一は、住環境と子供の教育だそうです。インドのオリッサ州にあるSさんの実家近辺は、いわゆるインドの「田舎」であり、教育面や住環境面で、子供の生活に適さないとの考えです。それに比べてマレーシアのクアラルンプール近辺は、教育レベルや生活水準が高く、また心境には水洗トイレも完備しているなど衛生環境面でも日本で育った子供が馴染みやすい…と考えています。教育面では、公立学校の水準も高く、日本での教育と比較してまったく遜色はないレベルだといいます。
将来インドの生活を希望するSさんと、将来マレーシアでの生活を希望する奥さんの意見の違いは、なかなか解決できない問題のようで、奥さんからはそんな悩みを打ち明けられました。
この話を聞いて、私はちょっと考えてしまいました。日本で生まれた日本人の大半は、日本の学校を卒業して日本国内で就職する道を選びます。むろん海外での就学、生活を機能する日本人も増えてはいますが、ごくわずかです。現在海外で生活している日本人の大半は、企業からの出張などによるもので、「自分で海外での生活を選ぶ」人は、非常に少ないですね。
それに比べて、Sさんも奥さんも「国境」なるものをほとんど意識していません。日本、マレーシア、インドのどこで暮らすかの選択は、生活の快適さと子供の教育…という2つの視点からだけで考えています。話を聞いていると、東京の企業に勤めるサラリーマンが、千葉に住むか、埼玉に住むか、神奈川に住むか…といった程度の気軽さで、国境を越えた生活の話がされています。加えて、近所づきあいもうまく行っており、子供達は日本人のたくさんの友達と楽しく過ごしており、日本で問題なく生活していかれるにも関わらず、「インドかマレーシアか」という選択はあっても「日本で生活する」という選択はありません。
3人の子供は、一番下が3歳の男の子、あと、日本の公立幼稚園に通う女の子、同じく日本の公立小学校低学年の男の子です。みな、とてもいい子たちなんですが、言葉については3人とも、ヒンドゥー語、マレー語、英語、日本語の4ヶ国語を完璧に操ります。バイリンガル、トリリンガルどころか、「テトラリンガル」というわけです。食事や風習などの文化面でも、3人の子供は、何度も長期帰っているインドの生活、マレーシアの生活、そして日本の生活のどれにも順応しています。どの国でも、問題なく生活していかれるでしょう。
ここで私が考えてしまったのは、日本でよく使われる「国際的」「国際感覚」「国際人の育成」等の怪しげな言葉です。気軽に日本でシェフとして活躍するSさんはむろん、奥さんと3人の子供にも、国際感覚などという言葉は不要です。別に、どこの国であっても気にせず働き、生活し、日本人が日常考える「生活の快適さ」「教育環境」などを考えた上で、「国」という枠を自然に踏み超えています。
日本の教育現場では、やたらと「国際感覚の育成」みたいな言葉が出てきます。国際感覚なるものを育成すると称して、子供が小学校に上がる前から幼児英語学校に通わせる母親、小学校への英語教育の導入、高校や大学では「国際感覚の育成」「国際人の育成」と称して英語教育だけを売り物にする事例があちこちに見られます。
この手の話になると、特に不快なのが「大学」です。以前から何度も書いているように「英語教育」なんて絶対に大学でやることじゃありません。にもかかわらず、こんなアホ大学が、こんな「教育の特色」を売り物にしていたりするわけです。「真の国際人を養成することを大学の理念としており、異文化体験を通じた国際的な視野とセンスを身につける」…とは、ホントに笑わせてくれます。Sさんの家の子供たちを見ていると、この大学で学んだ学生が身につける「国際感覚」なるものの胡散臭さが鼻につきます。
アジアを旅していると、「国境にこだわらない人」にたくさん出会います。高い教育レベルを身につけた人はむろん、貧しい庶民に至るまで、何のためらいもなく「国境」を越える人をいくらでも見かけます。こうした人が生まれる背景には、「貧困」や「先進国への憧れ」など、ネガティブな要因がたくさんあることも事実で、こうした諸問題を無視するつもりはありません。しかし、翻ってかつて貧しかった頃の日本では、主体的に国境を越える人間は非常に少なかった。この点は、膨大な華僑や印僑を生み出した両国をはじめ、多くの人が平気で国境を超えた他のアジア諸国とは根本的に違います。明治中期以降の南北アメリカ移民や、昭和に入ってからの満州開拓民などの例はあっても、いずれも「豊かな生活」を保障する国策的な詐欺的宣伝に乗せられた例が多く、主体的に国境を越える例とは根本的に異なります。日本という国は、古代から倭寇が活躍した中世あたりまでの方が「国際人」が多く、明治以降の近代においては国際感覚を国家レベルで喪失してしまったようにも思います。
「テトラリンガル」の子供たちと、とても美味しい「マレー風チキンカレー」です。
投稿者 yama : September 8, 2005 12:12 PM
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/mt-tb.cgi/21