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September 28, 2005

あの頃…

 たまたまYahoo! Japanのトップページに「アートの街ニューヨークに夢中」というリンクがあったので、読んでみました。ここに書かれている「ニューヨーク・カルチャーマップ」が別に悪いとは言いませんが、「ニューヨークの文化」を辿る…にしては、底の浅い企画ばかりで面白くもなんともない。アルゴンキン・ホテルなどに行ってバーで飲んでみたところで浮いちゃうだけだと思うし、老舗のジャズクラブなんてやたらと気取ってて面白くないし、…と、まあ人それぞれです。
 時折日記に書いているように、私自身はたまたまニューヨークに縁があり、1970年代に学生生活を送り、さらに10年ほど間隔を空けて1980年代前半のニューヨークに1年以上暮らし、そしてまた10年以上の間隔を空けて90年代後半から毎年恒例のようにニューヨークを訪れていました。2001年の冬を最後に恒例のニューヨーク行をやめた私ですから、ここ2~3年の街の様子は知りません。でも「ニューヨークの文化」を語るのなら、ベトナム反戦や公民権運動高揚の余波が残っていた1970年代のニューヨークの音楽やアート、クラブカルチャーが勃興してそれがビートニクなどとも結びついた1980年代の活気に満ちたニューヨークの体験を、一度きちんと書いてみようと思っていました。
 私にとってのニューヨークの文化とは、老舗のジャズクラブでもなく、ブロードウェイのミュージカルでもなく、アンディ・ウォーホルなどのアートでもなく、美術館巡りでもありません。「ビートニク」こそが、私がニューヨークのカルチャーを思い起こすとき、真っ先に頭に浮かぶ言葉です。
 50年代後半から始まるビートニクというムーブメントを、60年代のカウンターカルチャー、70年代のヒッピー文化などと結び付けて思い起こす人が多いでしょうが、確かにその通りです。
アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアックウィリアム・S・バロウズらの交流は、その後のアメリカ、いや世界の文化に途方もなく大きな影響を与えました。そして、私自身にも影響を与えました。アンディ・ウォーホル、バスキア、メープルソープ、ドアーズ、ジャニス、ジミヘン、グレートフルデッド、パティ・スミス…60年代から70年代にかけての前衛的な美術も音楽も、その全てがビートニクの影響を受けています。こんな話は、私がわざわざ書くようなことではありません。しかし、実際にニューヨークで生活して感じたのは、ビートニクの影響はもっと遥かに奥深く、幅広い…ということでした。そして、ビートニクの影響が最も強かった…というより、ビートニクが、そこに住む人の骨まで染み付いている街こそがニューヨークでした。例えば、80年代のクラブカルチャーは、私もよく通ったRoxy、Mudd Club、Danceteria、the Ritzなどで隆盛を極めましたが、こうしたクラブではダンスミュージックをバックに、バロウズによる詩の朗読などが行われたりしていたのです(バロウズの詩とロックの融合は、ニルヴァーナあたりにも見られます)。また、当時イーストビレッジの端にあった前衛クラブabcRINOでは「ギンズバーグを語る夕べ」なんて催しも行われていました。白髪のお年寄りと10代の若者がいっしょになって、コカインやマリファナを嗜みながらビートニクについて夜を徹して語り合ったりしていました。

 70年代のニューヨークについては、当時の資料が手許にほとんどありません。しかし、80年代のニューヨーク生活は、ライターの仕事をやっていたこともあって、写真や文章など大量の記録が残っています。そんなわけで、まずは80年代のニューヨークの思い出を少し書いてみようと思います。

 さて、学生時代の70年代に次ぐ2度目のニューヨーク滞在を敢行したのは1983年のこと。なだ20代であったこの年、バイクの事故で長期入院したことをきかっけに勤めていた会社を辞め、フリーライターを始めた頃でした。フリーライターなどというとカッコいいですが、就職情報誌の特集記事や総合ビジネス誌の埋め草記事など細々とした仕事しかなく、実態はOLをやっていた嫁さんに食わせてもらっていたも同様でした。そんな私は、先のことを考えず、現地から原稿を送る約束の若干の仕事を受注して、ニューヨークに飛びました。まだ、「格安航空券」なるものが簡単に手に入った時代ではありませんでしたが、それでも大韓航空なら往復15万円程度でオープンチケットが購入できました。
 80年代の初め頃までは、マンハッタンの中心部に安ホテルや安アパートがいくらでもありました。83年の初春、ニューヨークに到着した私が、まず落ち着いたのは、Lexington Aveの23丁目にあるGeorge Washington Hotelでした。地下鉄の駅前で、2ブロックほど南へ歩くとGramercy Parkがあるよいロケーションのホテルでした。ただ、今でこそ「Gramercy」と言えばマンハッタンの中でも1、2を争うおしゃれなエリアですが、当時は何もないところで、近所に数件のデリやグロッサリーがあるだけの閑散としたところでした。ところでこのGeorge Washington Hotel、今でも同じ場所にありますが、1928年開業の古いホテルで戦前には英国の著名な詩人W.H.Audenなども滞在していたという由緒あるホテルです。建物は古く、当時から長期滞在者用のアパートメントになっており、マンスリーで200~300ドル程度(といっても1ドル=270円前後の時代)で部屋を借りられました。ちなみに現在のGeorge Washington Hotelは、近辺の大学や専門学校の合同学生寮にもなっており(一般人も入居可)、マンスリー700~1000ドル程度で部屋を借りることができるはずです。
 1983年のニューヨークは、どんな雰囲気だったかと言えば、現在のニューヨークとはかなり違います。前年の1982年に始まったビッグアップルキャンペーンで、本格的に世界の観光地として売り出し始めたわけですが、まだまだ
 当時、既にグリニッジビレッジ一帯は観光地でしたし、ギャラリーが並ぶSOHOの地価も上がる一方でした。でも、Canalの南側はただ閑散とした倉庫街だったし、チャイナタウンは現在の1/3程度の規模で、薬中とアル中がたむろするバワリーはむろん、今はおしゃれな街となったイーストビレッジなんて怖くて、夜は歩けたものではありませんでした。ただ、イーストビレッジには、先端的なクラブやギャラリーが続々とオープンし始めていたので、怖いのを我慢してよく出かけたものです。最悪だったのがアルファベット・アベニュー界隈で、知人のアパートで飲んでいると、深夜にはどこからともなく銃声がよく聞こえてきたものです。ともかく、バワリーより東側は夜出歩くことができないエリアでした。ロワーマンハッタンは、西側も同じようなもの。ウェストビレッジは賑わっていましたが、ハドソン川に近いエリアは、ずっとアッパーの方まで、危険で閑散としたエリアが多かった。用もないのに8thアベニューよりも西側に行く人なんて、誰もいませんでした。最近はギャラリーなども増えたチェルシーは当時閑散としており、ノリータあたりにもお店は少なかったと記憶しています。
 アッパータウンも似たようなものです。42stは、ブロードウェイと8thアベニューの間の2ブロックにxxx映画館やストリップ、覗き屋、エロショップ、ドラッグの吸引具を売る店が並んでいました。8thアベニューも、42stからセントラルパークまでの間はエロ系の店ばかり。ポートオーソリティのバスターミナルの周囲は、日が暮れるとフッカーが列をなして並んでいました。それもゲイのフッカーばかりです。タイムズスクエアやブロードウェイの劇場街ですら、ちょっと通りを奥に入れば、深夜にはドラッグ売りが徘徊していました。
 セントラルパークの北側は、もう荒れ果てた通りが多く、むろんいまや再開発が進んで観光地化しつつあるハーレムなんて、用もなく訪れる人はほとんどありませんでした。
 そういえば80年代に入ってすぐに「ビタミン・バイブル」なんて本がベストセラーになり、コロンバスベニュー近くのレストランに入った時、テーブルの上に「自由にお取りください」とばかりに各種ビタミンのタブレットが置いてあったのは驚きました。
 そういえば、当時の地下鉄の落書きには、ニューヨークのアートシーンに登場して間もないキースへリングの「コピー」がいっぱいありました。

 さて、次回からは当時撮影した街の写真も入れて、「あの頃の活気に溢れたニューヨーク」を辿ってみたいと思います。

投稿者 yama : September 28, 2005 03:56 PM

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