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October 17, 2005

ボレロ

 いや、オフィスの引越しと事後処理が仕事の繁忙期と重なって、あまりの多忙さにサイトをしばらく放置していました。ボチボチとこのBlogも再開しようと思ってます。

 ところで(…この接続詞を使うのヘンかも…)旬の話題じゃないのですが、押尾コータローがアコースティックギターで演奏する「ボレロ」の話です。昨年でしたか、確か製薬会社のCMで使われて話題になってましたが、一度ちゃんと聴いてみたかったわけです。そしたら、先日テレビで「JAL仁和寺音舞台」のライブ録画をやっていまして、初めて押尾コータローのボレロを最後まで聴きました。
 ボレロの感想の前に、この「JAL仁和寺音舞台」ってコンサート、とてもまともに見るに耐えない内容でした。いや「東洋と西洋が出会うとき」というテーマも、京都の歴史的建造物である寺院を会場にしていることといい、出演者の顔ぶれといい、演出といい、「あざとさ」と「計算されたマーケティング」が鼻に付くことこの上なく、もう私が最も嫌いなタイプのコンサートだったのですが、それはともかく、押尾コータローの演奏するボレロを、はじめて終わりまで聴いたわけです。で、押尾コータローの「ボレロ」の感想なんですが、「どうでもいい」の一言でした。どこが気に入らないのかうまく説明できないけど、アコースティックギターでボレロを演奏する…という発想の段階から、もう「エグい」感じ。私は、この手の音楽はダメです。
 そこで思ったのが「ボレロ」という曲について。ボレロって、こうやって「切り口を変えて」よく使われます。モダンなイメージを出すために、他のアートとの融合…という形で使いやすいんですね。もう20年も前のことですが、モーリス・ベジャールのバレエ団による「ボレロ」を、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で見たことがあります。私はバレエは比較的好きなんですが、このボレロはつまらなかった。2階席の一番前あたりで見ていたのですが、上演が終わった後、観客総立ちで延々と拍手。私は、たいして面白くなかったので、義理で少し拍手してから着席したところ、隣の席のオジサンがなぜカーテンコールをしないのか…と怒ったように言うんです。私は「別に面白くなかった」と言ったら、睨まれました。
 このモーリス・ベジャールのバレエの「ボレロ」なんかも、ある意味で押尾コータローのボレロと似た部分があります。ある種の人にとっては、「理解しやすいモダン」なんでしょう。
 ついでに言えば、ローラン・プティ演出の「ピンク・フロイド・バレエ」なんかも、似たようなもので見る気はしないですね。私はピンク・フロイドは大好きですが…

 昨今話題の新刊、光文社新書「下流社会」を思い出した次第です。この本、面白いというよりも、まあ概ね「当たり前」のことが書いてあるに過ぎません。むろんマーケティングの専門家の視点ですから類型化がステレオタイプになっている面はありますが、例えば「自分らしさを求めるのは下流」とか、「低階層の若者ほど自己能力感がある」(むろんこれには「学習以外の部分で…」という但し書きが付きます)なんて話は、まったくもって「笑っちゃうほどその通り」としか言いようがありません。この「下流社会」の中で、男性をヤングエグゼクティブ系、ロハス(LOHAS)系、SPA!系、フリーター系…とステレオタイプに分けてるわけですが、この中の「ロハス系」ってのは私が一番嫌いなタイプで、しかも最近やたらと増えている感じがします。比較的高学歴だが強烈な上昇志向があるわけではない、単純なブランド信仰はないけれど「モノへのこだわり」は誇りに思い、文化への理解度が高いことも誇る、そして環境問題やボランティアなどに対する関心が高い…という層です。

 いきなり「下流社会」の内容の話になって、ボレロから話が逸れたようですが、実は言いたいことはこれから。押尾コータローのボレロの演奏や、モーリス・ベジャールのバレエの「ボレロ」なんかを「アート」と認知して好む層…ってのは、ロハス(LOHAS)系に多いんでしょうね。ある意味で、もっともマーケティング戦略通りに行動する層。「JAL仁和寺音舞台」なんかもロハス(LOHAS)系が好きそう。だから、この手のあざといコンセプトの「アート」や「イベント」が、次々に登場するわけですね。

投稿者 yama : 05:22 PM | コメント (0) | トラックバック

October 04, 2005

「2ちゃんねる」という「幻想」

 今回のエイベックスの「のまネコ」問題では、マスコミによって「大手企業 vs 2ちゃんねる」という図式がクローズアップされていますが、何かピンとこない部分がります。言うまでもなく、2ちゃんねるは「誰でも利用できる媒体」に過ぎず、「2ちゃんねる」という名称の「何か共通の意思を持った集団・組織」が存在するわけではありません。にもかかわらず、意図的にか、はたまた「2ちゃんねる」というメディアの本質を理解できないせいか、「2ちゃんねる」の「幻想の実体」が一人歩きしています。
 今回、エイベックスの社員に対する殺人予告が連続して2ちゃんねる上に書き込まれ、それをエイベックス側が「反社会的行為」と非難するとき、意図的に「書き込んだ個人」ではなく「2ちゃんねる」という「実体のない集団」を、「恐ろしいもの」「ならず者」としてイメージづけしようとやっきになっています。現実には、「2ちゃんねる」にはエイベックス側の人間も自由に書き込めるし、実際にそうした行動をとっている可能性は高い。となると、殺人予告なんてものは、エイベックスの関係者によって、またはエイベックス側の依頼を受けた誰かが書き込んだものであっても、なんら不思議はありません。いや、そうかんがえる方が自然です。企業にとっては「実体のない不特定多数」と戦うのは難しいでしょうが、それがたとえ幻想であっても「実体」を付与し、加えて「反社会的な実体」をも付与すれば戦いは容易になります。
 殺人予告を受けたエイベックスの声明は、実に姑息な雰囲気が漂う内容です。
 「…本日未明、2ちゃんねるにエイベックス社員に対する殺人予告が載せられました。“のまネコ“問題が取りざたされるようになってから、今までも、一部の心ない方から嫌がらせまがいのことが私たち及び関係者に対して行われてきましたが、 善意のファンや一般消費者の方々の声を真摯にうかがおうと思い、特段の措置はとりませんでした。しかし、今回のものは明らかに不法かつ著しく反社会的であって到底見過ごすことができるものではないので、警察に被害届けを出すことにしました」…というくだりでは、明らかに自らを「被害者」に仕立て上げようとしており、その被害を与えた対象を、あたかも「2ちゃんねる」のように見せかけています。
 さらに松浦勝人社長は、記者会見で、「「いい面と悪い面がある匿名文化の悪い部分が出た」と「のまネコ騒動」に強い不快感を示した」…と、被害者としての自らの立場、「良識あるもの」としての自らの正義を、さりげなく強調しています。
 こうした状況の中で、2ちゃんねるが、「不特定多数が集うメディア」として強い立場を維持したければ、相手の「挑発」に乗らないことこそが肝要です。ところが、私が笑ったのは、2ちゃんねるの中に、「松浦勝人宅を全力で守るOFF」というスレがあったことです。ここには、「…のまネコ問題でAVEX社.社長の松浦勝人氏に対する2ch内からの脅迫や殺人を仄めかす書き込みが多発している。 幾らなんでもこの行為は行き過ぎている面がある。 2ch内で起きた事は同じ2ch内で解決しないといけない筈だ! 自分達の尻は自分達で拭かなくては赤子と同じ 馬鹿で無知な警察なんかには任せてはいられない!!! お前ら!俺達の名誉にかけても松浦勝人を守り抜くぞ! 」…と宣言がされ、さらにこのスレの中では「…一応言っとくけど俺はAVEXマンセー派では談じてない! でも今回の殺害・放火の件については2ch側に明らかに非はあると思うんだ それに万が一実際に上記の様な事が起きたら今の時点では有利な立場にある 2ch側が世論に訴えかけられると同時に存在維持自体危うくなる 何にも事態が無くても結果的には無駄にはならないと思うし、今の時点よりは2ch側もこの事件に関しては重大な関心と迷惑心を 持っている事を世間に行動として示す形にもなるしね。」…なんて「茶番」のような意見が書き込まれています。
 この、「2ch側」と書いてしまう参加者の意識、そして「2chという良識ある集団」をイメージ付けようとする姿勢は、結局のところ、逆に「エイベックスによる被害者の立場の捏造」に根拠を与えてしまっています。「2ch側」と書いてしまうことで、本来「架空であるはずの加害者」に「実態」を与えてしまっているわけです。
 2ちゃんねるというメディアを本当に「世論」として有効に機能させたいならば、そこに書き込む人間が、自ら「2ch側」などと主張しては、お終いでしょう。「○○側」という対場など存在しないからこそ「世論」になる…ということを、このスレを立てた人間は理解していません。
 「恋のマイアヒ」にも例のフラッシュにもまったく興味はありませんが、今回の「のまネコ」騒動の本質的な問題点は、実に明快です。本来「著作権」を厳密に守っていかなければ自らの存在意義さえなくなるはずのエイベックスなる企業が、著作権というものに対して「幼稚園程度の認識」しか持っていなかった…、というただそれだけのことです。まったくもってエイベックスは、クソのような企業です。
 最後に繰り返します。2ちゃんねるは「誰でも利用できる媒体」であって、本来「2ちゃんねる vs ○○○○」という対立の図式を想定すること自体に意味がありません。そして、「誰でも利用できる媒体」であり続けることこそ、「強い媒体」の最大の武器なんです。2ちゃんねるが、「大企業の不正と戦う正義の市民団体」に成り下がっちゃ、面白くもなんともありません。

投稿者 yama : 01:44 PM | コメント (0) | トラックバック