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August 31, 2005

ジニ係数

 「給食はホテル製 私立小が競争」という記事がありました。究極とも言える不味い給食を食べさせられ、残すと「私は給食を残しました」と書かれたプラカードを胸にかけて廊下に立たされる…という今どきなら人権団体が黙っていないような小学校に通っていた私から見れば、ホテル製の美味しい給食なんてうらやましい限りです。それにしても「気になる学費は、立命館小が約150万円、同志社小が約130万円(初年度、入学金や諸経費を含む)」というのは、すざまじい話です。私も子供を私立中高に通わせましたが、東京の私立の中ではかなり高い水準の学校であったにも関わらず、ここまで高くはありませんでした。私の場合は1人っ子だったし、塾や予備校にも通っていないし、大学は国立なので、教育費はなんとか事足りましたが、子供が2人いて、その2人がこの手の小学校に通い、さらにはずっと私立で大学まで通うとなると、想像を絶する教育費です。実感として、2人の子供を同時にこの手の小学校に通わせるとなると、年間300万円を超える授業料+α(授業料以外の臨時支出や積立金、習い事や塾の費用等)で年間500万円近い教育費が飛びます。となると、実感として年間800万円程度以上の所得、いや最低でも1000万円近い年間所得がないと厳しいでしょう。しかも子供が小学生…では、両親の年齢は30代でしょうから、その年代でこれだけの所得があるか、または両親の実家から相当の援助があるような恵まれた家庭がかなり多い…ということになります。
 一方で、先日も触れた「国民生活白書」に書かれているように、増え続けるフリーター同士が結婚しているような家庭では、共稼ぎで年収240万円…といったケースが一般的。これでは、私立小学校に通わせられる家庭とフリーター家庭との所得格差は、5倍にも達します。

 ところで「貧富の差」という話になると、最近、中国における貧富の差の拡大が、社会を不安定化させる要因になりつつある…という話題が各所で書かれています。こちらの記事によると、「都市-農村家庭収入のジニ係数(収入格差の比)は0.561」…と書かれています。ここに出てくる、社会の分配の不平等性を表す指標としての「ジニ係数」というのは最近時々見かける言葉ですが(こちらこちらを参照)、ではわが国のジニ係数はどのぐらいなのでしょう。
 ネットで検索してみたところ、日本のジニ係数(2002年)について厚生労働省が算出した数値がありました。これによると「日本のジニ係数は0.5に近づき、世帯の所得格差は過去最大、上位25%の世帯で全体の所得の75%を占める状態」と書かれています。これは2002年の数値ですので、フリーターやニートが急速に増え続けている2005年現在は、この数値はもっと高いでしょう。で、前述の記事には「収入格差を計る国際的な基準であるジニ係数に従うと、0.3以下が最善、0.3~0.4が正常、0.4を超えると警戒、0.6に達すると、社会動乱が随時発生する危険状態となる…」と書かれています。ジニ係数に見る日本の貧富の差は、「社会動乱が随時発生する危険状態」に近づきつつあることを示しているのかもしれません。
 上述した「5倍の所得格差」は、所得の最も高い部分(お金持ち)と低い部分(例えば生活保護家庭)の差ではありません。「高額な授業料を必要とする私立小学校に子供を問題なく通わせられる層」と「増え続けるフリーター層」の差であり、いずれも日本の社会の中で相当なウェイトを占める一般的な階層です。この差が「5倍」というのは、日本の社会は相当にヤバイ…ということです。

 さて、私は明日から海外出張に出かけます。来週の月曜日まで更新はお休みする予定ですが、気が向いたら海外から何か書き込むかもしれません。

投稿者 yama : 05:35 PM | コメント (0) | トラックバック

August 30, 2005

海に行かなくなった夏

 私にとって、「夏は海」です。幼いころから毎年家族で訪れた静岡県の弁天島海水浴場、母親が私と妹をよく連れて行ってくれた知多半島の新舞子や内海の海水浴場、小学生の頃に親戚の家に泊まりこんで毎日通った三重県津市の御殿場海水浴場、ニューヨークの冷房のないロフトに住んでいた頃、地下鉄で毎日のように通ったコニーアイランドやロッカウェイビーチ、そして20代以降は友人とヨットに乗ったりバーベキューをして一夏を過ごした葉山の森戸海岸や人の少ない一色海水浴場、長者が岬での磯遊び。女の子と付き合っていれば、夏はいつも「海へ行こう」だけで事足りました。潮の香、ヤドカリやウミウシなどの磯の生き物、ビーサンで歩く焼けた砂の感触、海の家のまずい焼きそば、水着の女の子の歓声、そして沈む夕日にくっきり浮かぶ富士山のシルエット、葉山の中華料理屋「海狼」やフランス料理の「ラ・マレード・チャヤ」で友人と過ごした夜。「魚寅」も美味しかった…
 ところが、40代の半ばを過ぎたあたりから、海へ行くことがほとんどなくなりました。アウトドアでの遊びがが嫌いになったわけではないので、山やキャンプには行きます。海岸を車で走って、景色のいい場所で降りて海を眺めたりもします。でも、炎天下の海岸で、彼女と一緒に水着姿で1日ボンヤリ過ごす…というスタイルが、年をとるとともに億劫になってきました。
 海へ行かなくなる…ということは、私にとって「若さを失っていくこと」と同じことだったのかもしれません。数年前から、何となくそんなことを考えてきました。そして同時に、一つのプランが頭の中で形作られつつあります。
 それは、自分の住まいを海岸に移す…ということです。現在私は、まあ都心に近い場所に住んでいます。都市のライフスタイルは心底好きです。以前は、年をとったらもっと街中に住もうと考えていました。新宿とか池袋の駅から徒歩5分以内ぐらいに住もうと考えてきました。そんな私ですが、昨年あたりから「海の近くに住みたい」という気持ちの高まりを抑えきれなくなってきました。
 今、引越し先として考えているのは、やっぱり三浦半島あたり。都市の喧騒も感じられるし、都心にも比較的近い。当然ながら、完全に田舎に引っ込んでしまうと仕事に影響が出ます。とりあえず交通の便もいい厨子駅に近いところあたりで、本気でマンションでも探そうと思っています。秋から冬に決めて、来年の夏までに引っ越しできたらいいなぁ…と真剣に考えてます。

投稿者 yama : 06:31 PM | コメント (0) | トラックバック

August 29, 2005

この国の「持続」

 昨日、いくつかの選挙関連の討論番組を見たので、今回の総選挙について少し感想を…
 それにしても、各政党の論客による討論の中で、「今後、日本という国がどうなっていくのか」について誰も突っ込んだ議論をしないのが不思議でなりません。言うまでもありませんが、この国は、まともな手段では償還不可能なGDPの1.5倍に達する借金があり、詐欺のような年金制度や医療保険制度は事実上崩壊し、生産力を維持できないほどに出生率の低下と少子化が進み、子供の学力はひたすら落ち続け、低所得のフリーターやニートが増え続け、1980年代のニューヨーク並みに日常生活の治安は悪化し、地方には処理不可能な大量の産業廃棄物が投棄され、食料の50%以上を輸入に頼り、最大の貿易相手国である中国との外交関係は悪化し、憲法を無視して海外への派兵が行われている…わけです。どれをとっても国家の存続に関わる重大な問題で、それぞれの現場に身を置く人間、関連省庁の政策担当者、研究者等を交えて議論し、複数の選択肢を提示した上で「国家がとるべき政策」を問わなければ何も進まないわけです。これらの問題を放っておけば、民族派諸氏の言うところの「世界に誇る豊穣な文化・文明を育んだ、八百万の神々のおわす豊葦原瑞穂国」は、そう長い日を置かずして「地球上から消える」でしょう。観念的に「日本にはまだ“元気がある”」なんてバカなことを言ってごまかしている段階ではないことは自明です。
 むろん、これらの問題について個別に指摘する政治家、候補者はたくさんいますが、その解決法について、高度なレベルでの議論が進む気配はいっこうにありません。現在行われている政治家レベルの議論を聞いていると、民営化にはなっていない郵政民営化法案の是非に始まり、福祉目的税化した消費税の導入の是非とか、年金の一元化とか、育児助成金制度の導入とか…まあ、問題の根本的な解決とは程遠い「問題先送り政策」ばかりが話されていますが、何だか空しくなります。
 これらの問題を解決し、現在の日本を「持続可能な国家」への変貌させるためには、大げさな話ではなく、おそらく「政策」なんてものの枠を超えた「根本的な国家維持システム変革」が必要とされています。例えば、子育てのための地域共同体の制度化、中小企業を統合した共同生産体制の創出、大規模な移民受け入れ態勢の確立、通貨制度の常識に囚われない経済システムの導入、物々交換制度の現代的復活、企業活動拠点の強制的な地域分散、農産物輸入の大幅規制、年金制度の撤廃、公的医療保険の撤廃、中途半端な社会福祉制度の全廃、教育補助の拠点集中と一定以下の学力者に対する教育補助撤廃…といったレベルの劇的な解決策を本気で議論すべきであり(各制度の是非はともかく…)、さらには近隣諸国との国家的統合などを含め、資本主義と社会主義、民主主義と独裁政治、小さな政府と大きな政府…といった、従来から常識となっている国家の統治手法の概念すら超えた「生き残り策」を検討すべき時なのかもしれません。病み疲れた日本という国家に対しては、「投薬による対処療法」ではなく、「外科的手術」が必要でしょう。
 むろん「弱者の切捨て」には反対ですし、ありきたりな話ではありますが「多様性」「寛容さ」「表現の自由」「想像力」…あたりが「住みやすい社会」のキーワードになるということに異論はありません。でも、こうしたキーワードを実現するための「外科的手術」の方向については、従来の常識を超えるレベルでの真剣な議論があってもよいと思います。そして、日本1国だけがどのように持続・存続するか…という議論はあり得ないはずです。靖国問題も含めて「日本人の誇りとアイデンティティ」について真剣に議論するのは大いに結構ですが、今この瞬間にイラクやアフガニスタンでは戦争によって、アフリカでは飢餓やエイズによって、膨大な数の、われわれと同じように「普遍的な幸せを願う人類」が殺され続けていることを、私は考え続けています。

 話は全く変わりますが、私はアンジェラ・マキ・バーノンの大ファンです。EXエンターテイメントの「アロハ天国」は、よく見てます。

投稿者 yama : 03:05 PM | コメント (0) | トラックバック

August 26, 2005

人間教育

 昨日の朝のNHKニュースで、「流通経済大学 サッカー部、その強さの秘密…」という特集をやっていました。流通経済大は大学リーグで3位に入った強豪チームなんだそうですが、その強さの秘密は「密度の高い共同生活」と「監督による人間教育」にある…という話です。部員は200人以上、うちレギュラークラスだけでなく100人以上が寮に暮らしており、狭い部屋に数人が同居するという共同生活環境の中でチームメンバー同士の信頼感を高めあっています。監督の談話によると、「サッカーがうまくなるだけなら別に毎日2~3時間の練習でもいい。しかし、サッカーの技術だけでなく人間を磨かないとダメ」とのこと。
 で、寮では監督も一緒に寝起きし、監督が各部屋を回って部屋が整理整頓されているか、掃除が行き届いているか見回るシーンなどをやっており、私は目を疑いました。さらに部員は、定期的に寮の近所のゴミ拾いをさせられているのです。このゴミ拾いで、地域社会への奉仕・感謝の気持ちを育てるのだそうです。ゴミ拾いに出かける大学生に対し、監督は「一番少なかったヤツには罰として○○」なんて声をかけてました。これ、小学校の光景じゃなく、大学の光景です。取材記者のインタビューに答える部員は、「こうして地域社会に役立つこともうれしいし、人間的にも成長します」なんて答えていました。その口調は、とても大学生とは思えない「子供」のようでした。
 私には、監督に引率されてゴミを拾う大学生サッカー部員の姿が、それはもう薄ら寒い、気色の悪い光景に見えました。
 これまでに何度も書いたように、小学校から大学まで、学校教育の現場というのは「人間教育の場」であってはならないはずです。あくまで「勉強の場」です。ましてや大学となれば、これは、もう「人間教育」なんて言葉が出てくる方がおかしい。大学は、勉強どころか「高度な学問」を修める場です。何で大学生にゴミ拾いなんてものをやらせることが、ニュースで好意的に紹介されているのでしょうか。私はゴミ拾いという行為自身が人間教育になるとは思っていませんし、それ以前の問題として、「大学生」に教育的な理由でゴミ拾いをやらせる指導者ってのは、頭がおかしいんじゃないか…とまで思います。さらに、「大学生」の部屋を見回って「整理整頓ができているか」を確かめるなんて、アホらしい。日本の大学の現場は、こんな幼稚園のような場所になってしまいました。高度な学問を学び、自立的に自分と社会との関わりを考える大学生…というのは、もう夢の中の話なんでしょうか。
 別に「日本の将来が思いやられる」…なんてことを書くつもりはありません。大学の寮の部屋が整理整頓されているかを指導者が見回り、大学生に「教育としてのゴミ拾い」をさせているような「大学」が存在する国には、もう将来なんてありません。

 教育現場での「怪しげな人間教育」の実施は、中学や高校では、もう当たり前のようです。このニュースもも、気持ちが悪い。「トイレを磨いて心を磨こう」なんて、何か怪しい宗教か洗脳系セミナーのスローガンのようで、実に気持ちが悪い話です。「心を磨くこと」と「便器を素手で掃除すること」…の間には何の関係もないのは当然ですが、それ以前にこの手の手法を「教育」として受け入れる公教育現場の判断に、おぞましさを感じます。
 この記事に出てくる「掃除に学ぶ会」「日本を美しくする会」というのは全国にあるようです。本家はこちらですね。ここに書かれていること、洗脳系セミナーのようで、ホントに不気味な団体だなぁ…。この団体、全国の学校で同じようなことをやってます。

投稿者 yama : 11:52 AM | コメント (0) | トラックバック

August 24, 2005

個の戦線

 昨日「本多勝一が嫌い」と書いたついでの話ですが、その本多勝一や同じく私が嫌いな小田実や坂本龍一あたりと比較的仲がよいジャーナリストの辺見庸、私は何故か彼は好きです。正確には彼が書くものが好き…です。彼の書く文章は、アジテーションでありながら叙情的で、レトリックを多用しながらも主旨は明快です。私の好きなアジテーター、谷川雁ほど叙情的ではありませんが、オルガナイザーの資質を感じます。そして何よりも、組織とか運動とかを口にする以前に「個人の意思」「個人のあり方」が前面に出てくるところが、私の感受性を刺激します。
 講談社から文庫化されたのを機会に、「永遠の不服従のために」「いま抗暴のときに」の2冊を読み返してみましたが、その内容はある意味でシンプルかつストレートなもので、ある種の人たちにとっては「単純な反体制」としか感じられないでしょう。でも、「外在する不可視の監視・暴力組織と自己体内の神経細胞との関係性、内なる自己抑圧システムを感じる瞬間」「個の戦線、思想や表現が社会の中で肉体を獲得するかどうか」…などに拘る彼のスタンスは、私は「ミギ、ヒダリ」といった図式以前の、もっと根源的な「個vs社会」を考える上で、重要なものだと思ったりしています。私が「市民運動」「環境運動」のような抵抗形態があまり好きではなかったり、新党を結成した田中康夫のように政治力学に身を置く行動形態がなんとなく嫌いだったりするのは、いずれも「社会の変革」を「集団が持つ力」を利用して行う…という部分が、あまりにも前面に出過ぎるからなのかもしれません。何かを変える…ための方法論としては別に間違っていないのでしょうが、それよりも私には、「個の戦線」というスタンスの方が生理的に合っています。
 ポスト団塊世代として70年代前半あたりから様々な議論の場に身を置いた経験から見ると、人が何かを為そうとする時、まず「個人のあり方」から考える人って意外と少ない…のが実態です。以前書いたように、私は自己批判とか自己変革などの言葉(サヨク用語)は反吐が出るほど嫌いです。しかし、自己のもっとも深い部分と現実の社会(社会システムや政治システムを含む外在するあらゆるもの)との関わりを掘り下げてゆく思想的営為は、別の意味で重要だと考えます。
 私は若い頃から、アジアの一部、例えばインドやバングラデシュ、タイやミャンマーの辺境部などを旅行するたびに「コロニアリズム」について考えさせられてきました。しかし、辺見庸の「もの食う人びと」を読んだ時、完全に「やられた」…と思いました。アジアを自分の肉体で感じ、自己の肉体でアジアの社会と対峙する…という彼の手法に衝撃を受けました。「もの食う人びと」は、ルポルタージュである以前に、また社会問題に対する彼の姿勢(時にはサヨクと批判される)に対する評価を考える以前に、「自分と社会、自己と他者、自己と世界…の関わりを追求するための方法論」として感銘を受けた記憶があります。

投稿者 yama : 05:08 PM | コメント (0) | トラックバック

August 23, 2005

自立した18歳

 駒大苫小牧高、優勝報告会中止 生徒にも説明…というニュース、なんでも優勝返上の可能性もあるとかで、まあどうでもいい話ですけど。こちらの記事を読むと、ヒステリックな暴力があったそうで、しかも「野球部長に事実関係を確認したが「30~40発張ったということはないが、そういうなら反論はしない」と答えたそうです。
 で、こうした事件が発覚しただの、隠蔽しただの、はたまた出場停止処分がどうのこうのと…こういう高校野球絡みのニュースを聞くと、規約や倫理を振りかざす高野連という存在の不気味さもさることながら、高校野球を「清らかな青春の祭典」と持ち上げるマスコミの「偽善」にもヘドが出ます。
 私はもともと高校野球にはあまり興味もないし、高校生も高野連が作った規約を知ってて野球やってるわけですから、高野連なる組織を批判するつもりは毛頭ありません。また、高校生がスポーツに熱中するのが嫌いってわけでもありません。先輩だの指導者だのとの上下関係を大事にする体育会系のノリってヤツも、自分には合いませんが、特に嫌いじゃないです。さらに、こうしたスポーツを通して礼儀や節度を学ぶっていう話も、それなりに意味のあることだとは思います。ただ、ともかく嫌いなのが、この世界で日常化しているらしい暴力。毎年のように暴力事件が出てきます。先の明徳義塾の出場辞退もそうですが、高校野球の世界では、上級生が下級生を、先輩や指導者が部員を「殴る、蹴る」っていうのが日常化しているようで、非常に不快です。4月には、広島県の近大付福山の野球部で上級生が下級生に暴力を振るうという事件があり、学校側が野球部の活動を休止させた…というニュースもありました。以前、確かPL学園が夏の甲子園大会の出場停止処分を受けた時も、野球部内に発生した傷害事件が原因でした。この事件では加害者の3年生部員が損害償請求を起こされ、他にも2年生部員が上級生からバットで頭部を殴られ7針を縫う怪我をしたり、1年生部員が上級生から頭部を小突かれ4針を縫う怪我をさせられたりといった話が次々に発覚、野球部内で上級生部員による下級生部員への暴力が日常化していたことが明らかになりました。まったく、こうした陰湿な世界はスポーツとは無関係のはずです。
 さらに不快なのが、高野連の処分話に対して必ず出る意見で、「球児に罪はない」「子供たちがかわいそう」…ってやつ。さらに「何も悪いことをしていない選手まで連帯責任で罰するというのは非民主的」という意見に至っては、アホらしいとしか言いようがない。私はそうは思いません。日常的に暴力行為が存在して、そうした状況を部員自身が認識しているならば、状況を自分たちで正すべき。高校生って、そういうことを自らできる年齢のはず。今回の件だって、部員自身が声をあげないのが不思議です。高校生にもなって、誰かの言うことを何でも「ハイ」はないだろう…って感じ。運動部でも生徒会でも何でもいいけれど、自分たちがある集団・組織に属していて、その組織のあり方がおかしいかどうかを考えないなんて、高校生の自我のレベルとしてはずいぶん低い感じ。比較するのもヘンな古い話ですが、例えばあの福岡伝習館闘争の記録などに出てくる高校生がどのように社会や組織について深く考えていたか…などを読むと、スポーツをやっている子供は純真…みたいなレベルで高校生自身の責任が曖昧にされるのは妙な話です。
 少なくとも17~18歳という年齢は、自立してモノを考えるべき「大人」のはずです。

 ニュースと言えば、中国兵「百人斬り」:原告の請求を棄却…という、こっちの話も結構エグい。この訴訟に関しては「民族派vs本多勝一」という図式がよく出てきますが、どっちもどっち…です。
 まず私は、本多勝一っていう人間は、どうにも好きになれません。朝日新聞に「カナダエスキモー」を連載していた頃を覚えていますが、いつの間にか彼は「大物記者」になり、自分で自分を「大物」と認識するようになってしまった。この話、以前にも書いたかもしれませんが、昔「噂の真相」で本多勝一が「世界中でエスカレーターは片側に立つのがルールである(急ぐ人のために片側を空けておくべき)」と書き、それに反論した一読者に「公的に謝罪要求をする」…という妙な事件がありました。いや、この時には「噂の真相」をずっと読んでいたので、本多勝一のいヒステリックな態度に呆れ果てました。この事件の経緯は、本多勝一に恫喝を受けた本人によって、こちらに詳しく書かれていますが、「自分の意見に反対するやつは潰す」…という本多勝一は、ジャーナリストの資質が欠如しています。
 本多勝一らがリクルートの接待旅行に参加したと報じた月刊誌の記事を巡る岩瀬達哉との名誉毀損訴訟の一件もそうです。事実はともかく、当初の岩瀬達哉に対する本多勝一のヒステリックな対応は、とてもじゃないですけどジャーナリストのそれではありませんでした。
 で、「アンチ本多勝一」という点では私も民族派と呼ばれる方々とまったく同じですが、それは「100人斬り問題」の本質じゃない。この件に関しては、南京虐殺があったかなかったか…も大きな問題じゃないと思ってます。
 この裁判についての民族派の主張は、大筋で「南京虐殺はなかった」→「当然2少尉は100人斬りなどやっていない」→「それが証拠に100人なんて斬れっこない」…というものだと思いますが、まあその通りでしょう。「日本刀で3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は折れ曲がり、柄ががたがたになる」…と山本七平氏が言うように、私も「100人斬りなどなかった」と思います。ただし、100人斬りがなかったと思うからと言って、南京虐殺はなかった…などとも思っていませんので、念のため。
 で、誰がこの件でいちばん反省すべきかといえば、毎日新聞のはず。当時戦意を煽る戦争報道を続けた毎日新聞が、こちらの記事にあるように「報道時、2少尉は記事で英雄視された。戦闘中の出来事を適正に取材し報じた」…などと胸を張って言ってること自体がおかしいんです。戦意高揚のための紙面作りを競っていたという点では、朝日新聞も同じ。戦後、掌を返すように「民主主義」を唱えたこれらの新聞は、戦時中に自らが果たした役割についての検証と反省が足りません。
 ただし、戦意高揚のためのデッチアゲ記事であろうとなかろうと、野田、向井両少尉側にも問題はあります。野田、向井両少尉は、当時確かに「英雄」になりました。しかも彼ら自身が認めて、各地で講演までしています。裁判でも、原告側は「すでに日本で報道され大騒ぎになっており、当時は否定することができなかった」という苦しい弁解をしていました。事実であれば、悲しい話です。マスコミが虚像を作り上げて、両少尉はその虚像に「自らの意思で乗った」わけです。そして最大の問題は、あの時代に「シナ人(意図的に書きました)を刀で斬りまくった英雄」が存在したことです。戦意を煽る戦争報道に乗せられる「大衆」のあり方は、南京大虐殺の有無よりも、大きな問題のはずです。
 結局のところ、A級戦犯やら天皇やらの「戦争責任」の問題を追及するよりも、「不特定多数の大衆の戦争責任」を追及する方がもっと重要…かと思った次第です。

 本多勝一に対する批判的な見解と、100人斬り問題に対する朝日・毎日両新聞社の姿勢への批判を書きましたが、「オマエは右か」という罵倒メールをもらいたくないので(笑)、再度確認しておきます。私は「数」はともかく、事実として南京虐殺はあったと考えています。機会があれば、いずれその根拠を書きます。

投稿者 yama : 05:46 PM | コメント (0) | トラックバック

August 19, 2005

熱帯植物園

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 釈迦頭、マンゴスチンに次いで、「ンゴッ」と「ラムッ」、さらには「ドラゴンフルーツ」の種を植えてみました。いずれも大きな声では言えない方法で、友人から入手したものです(深く追求しないで下さい)。
 ちなみに「ンゴッ」は「ランブータン」で、ライチそっくりの味です。種は、左の画像の白い大きい方のヤツ。「ラムッ」の方は「サポジラ」とも言うそいうですが、もっとポピュラーな英語名とかあるんでしょうか? なんとなく「柿」によく似た味で、私は好きです。種は、黒い小さいヤツです。「ドラゴンフルーツ」は最近沖縄あたりでも栽培されており、スーパーでもよく売ってますよね。サボテンの一種です。今回蒔いたのは、中が白い酸味のあるタイプ。キウイのようなブチブチした小さな黒い種は、本来食べる部分ですが、周囲の果実と一緒に30粒ぐらいを鉢に埋めました。


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 釈迦頭とマンゴスチンは、すくすくと育っています。写真は左がマンゴスチンで、右が釈迦頭です。釈迦頭は2本とも高さ15センチぐらいにまで育ちました。マンゴスチンは、蒔いた5個の種の全部が発芽し、うち4つが大きくなりつつあります。もっとも、マンゴスチンは発芽してから実がなるまで10年ぐらいかかるそうで、「モモ、クリ3年、カキ8年、マンゴスチン10年」…ってなもんでしょうか。むろん、実なんてなるわけないですけど。

 我が家のベランダは、いまや熱帯植物園になりつつあります。今後とも、ときどき育成状況を報告させて頂きます。

投稿者 yama : 06:06 PM | コメント (0) | トラックバック

August 18, 2005

蒼ざめた馬

 今回の解散・総選挙、そして郵政反対派の未公認と対立候補擁立に至る小泉首相の行動について、ある議員がTVカメラの前で「政治テロ」なんてバカなコメントをしていました。
 それにしても「テロ」という言葉を、こうも安易で薄汚いイメージに貶めたのは、ブッシュでしょうか、アルカイーダでしょうか、それとも安易に連発するマスコミでしょうか…

 私は「テロ」「テロル」という言葉を、漠然とながら、ある種の「美しい響き」を持つ言葉として認識していた部分があります。
 例えばロープシンの「蒼ざめた馬」。エスエル(社会革命党)の指導者であったサヴィンコフによって書かれました。この本は高校時代に現代思潮社版で読んだと記憶していますが、現在手許にあるのは晶文社から工藤正広の訳で出ていたもの。この本の帯には、「国家権力に鋭く対決する真実の瞬間を求めつづけたテロルの純粋な魂は歴史の闇をよぎってどこへ消えたか」とあります。ロシア革命前のナロードニキに始まる「赤色テロ」は、結局ロシア革命の闇の彼方に埋もれてしまいました。しかし「蒼ざめた馬」には、闇に消えた多くのテロリストの心の内奥、極限の行動に伴う深い精神的な営為が描かれていました。テロル…という行動様式に、なんとなく惹かれるきっかけになった作品です。
 カミュの「正義の人々」も忘れられません。私は、9.11事件の本質について、そしてブッシュや小泉が事あるごとに連呼する「正義」という言葉の軽さについて、カミュの口から語ってもらいたかったと、真剣に思います。
 沢木耕太郎の「テロルの決算」も、非常に印象に残る物語でした。社会党委員長だった浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢の決意と行動に、そして刺された側の浅沼稲次郎が積み重ねてきた想いに、ある種の「美」というか、鮮烈な生き様を感じたものです。

 ともかく、今もって世界中で連呼され続ける「テロ」という言葉にはうんざりしています。簡単に一般市民を殺す奴らもクソですが、自分の意見や価値観にそぐわない行動を何でも「テロ」という言葉で片付ける奴らもクソです。

 それにしても、以前も書きましたが「エロテロリスト」を名乗るインリン・オブ・ジョイトイはエラい。彼女は、「テロ」という言葉の本質をよく知っています。最近は、リング上で「M字ビターン」なんてやってっますけど…

投稿者 yama : 04:19 PM | コメント (0) | トラックバック

August 17, 2005

大国とは?

 昨日、日本は世界第二位のGDP…なんて話を書きましたが、実態は怪しいものです。
 まずは常識的な話ですが、GDPという数字の曖昧さです。GDPには「実質GDP」と「名目GDP」があり、数値の算出にあたっては様々な補正がなされます。またGDPギャップ(一国の全産業の潜在的生産能力と実際のGDPの差)なんてものもあります。面倒な説明を抜きにすれば、どの国の政府も、なんとか自国のGDPや成長率を大きく見せたいわけで、様々な数字の操作を用いてGDP値を大きめに発表するのが一般的だし、日本政府が発表するGDPもその例外ではありません。
 さらに、国家間のGDPを比較するとなると、別の問題も生じます。GDPの計算はそれぞれの国の通貨をベースにして行い、その上で為替レートで補正するわけですが、この「為替レート」というやつがクセモノで、各国の経済の実態を必ずしも反映したものではありません。そこで、最近では購買力平価(PPP:こちらを参照)なるものを換算基準に用いることがあります。
 購買力平価をもとにした世界のGDPランクが、こちらです。日本は中国よりも低く、インドと拮抗する水準になっています。この「実は中国が日本をGDPで上回る」という話は、数年前から多くのエコノミストが話題にしており、今なお各所で議論を呼んでいるのでご存知の方が多いでしょう。
 もっとも、購買力平価の概念や算出法については問題もあります。一般に「低所得国ほど名目為替レートが購買力平価ベースの為替レートを大幅に下回るため、ドル換算で見て物価が安い」という傾向が強くなります。従って、発展途上国の一人当たりGDPなどは大幅に上方修正されるわけですが、この「名目為替レートと購買力平価ベースの為替レートの差」の修正が「行過ぎ」になることが多いわけです。
 例えば、購買力平価で考えれば中国は日本よりGDPが大きいと言っても、今後さらに中国の国民1人あたりのGDPが増えれば、中国側の購買力平価の修正項目が少なくなり、結果的にGDP合計の修正度合いも少なくなってくるはずです。国民の所得が増えて低所得国の域を脱するに従って、GDPの伸びは鈍ってくるわけです。中国のGDPについても、行過ぎ修正の結果によるところが大きく、例えば中国の農村部に住む農民や一般労働者が、「世界第二位の豊かなGDP国家」に住んでいることを実感することは、現実にはないはずです。
 そして実際に、中国科学院研究チームが発表した「中国現代化報告2005」では、「購買力平価で計算した中国の1人当たりGDPは01年に3580ドルと、英国や米国の19世紀後半の水準にすぎないなどと分析。01年時点で米国とは約100年、ドイツと約80年、日本と約50年の総合的な「時差」があるとし、過去20年の高成長を維持しても現在の高収入国家の水準に達するには約50年かかると指摘。そのためには労働生産性を33倍、農業の生産性を47倍に高める必要があると警告。これらを踏まえ、楽観的にみても中国の総合的な経済水準が02年の米国の水準に達するのが50年ごろ、本格的な先進国になるのは80年ごろ」…と自国の状況を分析しています。
 ついでの話ですが、このGDPについて以前面白いコラムがあります。ここに書かれているのは中国のGDPがどうこう…という問題ではなく、「GDPの大きい国が必ずしも強国とは限らない」という話です。まさにその通りだと思います。
 なんかどうでもいいことをごちゃごちゃ書いてきましたが、いずれにしても「GDP」なんてものは、「豊かな国とは?」「大国・強国とは?」を考える時に、あまり指標にはなりません。「豊かさ」であれば、植民地時代からの資本蓄積が大きい西欧諸国などは、1人あたりのGDPの数値に見るより現実の生活は遥かに豊かです。「大国・強国」というのならば、やはり国土が広く人口や資源が多い「BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)」諸国は、みな間違いなく大国です。

 では翻って、日本は?…と問うてみれば、世界中の多くの人が「経済大国」であることは認めても、もっと本質的な部分で「大国」とは誰も思わないでしょう。これは、精神的に貧しいとか、国際貢献が少ない…などという問題とは関係なく、やはり歴史的・本質的に「極東の小さくて目立たない国」なんだと思います。そしてこの国の豊かさについては、言うまでもなく住んでいる私たち自身が一番よく知っています。ホントにこの国は、いろんな意味で「貧しい国」になっちゃいました。教育システムはとっくに崩壊し、年金制度や保険制度も近々確実に破綻します。生活力もなく老いていく多くの国民は、今後どうやって生きていくのでしょうか…

 うーん…やっぱり、総選挙の結果に興味はありません。

投稿者 yama : 03:04 PM | コメント (0) | トラックバック

August 16, 2005

似非(エセ)インテリの選挙ニヒリズム

 考えてみると、私はここ何年か書いてきた日記で「選挙」について触れたことは一度もないと思います。成人して選挙権を得て以降、選挙なんてものに一度たりとも関心を持ったことがありませんでしたから。むろん、ほぼ一度も棄権することなく投票所に足を運んではいますが、それによって「何かが変わる」ことを本気で期待したことなどありません。開票速報なんて番組も、一度も見たことがありません。
 私は、どこか心の片隅で「選挙」なるものをバカにしていました。いや、過去形ではなく、今でもバカにしている部分があります。金権選挙、地縁選挙、選挙区制度問題、定数是正問題など、現在のわが国の選挙の実態や選挙制度そのものへの不信感はむろん、それ以前に私は、「議会制民主主義」の有効性も、「多数決」なる物事の決め方の合理性も、全くと言っていいほど納得していません。「じゃあ、議会制民主主義に変わるシステムは?」と問われれば、それなりに答はありますが、ここで書くつもりもありません。いずれにしても、日本のような「ムラ社会」における選挙の実情と、現実に見る候補者のレベル、そして選挙に熱狂する「支持者」と称する人たち…を見ていると、「空しさ」のようなものを感じていたことは確かです。

 そんな私でも、今回の小泉首相による「郵政解散→総選挙」の経緯をニュースには、思わず引き込まれるものがあります。加えて、「現実に日本という国の政治権力を握る」といういうことの意味を、初めて少し考えてしまいました。

 今回の選挙でも見られる小泉首相の政治手法を、「二元論的ポピュリズム」と揶揄する知識人はたくさんいます。
 でも、実体のない郵政民営化法案をもってして「反対派」vs「賛成派」、「改革勢力」vs「抵抗勢力」といったわかりやすい構図を作り上げ、ただ構図を作り上げただけでなく、それを実際の選挙で「反対派」vs「刺客」なる「誰の目にも見える戦い」の形に具体化する手法は、並み大抵のものではないような気がしてきました。その結果は見ての通りで、TVは定時ニュースもワイドショーも特番も「総選挙」報道一色。数日前の日記で書いた通り、なかば唖然、そして半ば感心して毎日見ている次第です。
 亀井某あたりは、もうすっかり小泉首相の引き立て役。彼が派閥の会長を辞任したことについてのコメントを求められた小泉さんが、笑いながら「本人に聞いて下さい」というシーンをニュースで見ましたが、たいしたものだと思いました。亀井某が、あの顔で独裁政治だの品がないだの言っても、国民は笑うだけだってことを、小泉首相はよく知ってるのでしょう。
 「刺客」なる言葉はマスコミが作り出したものですが、このひとつ間違えば自分たちに不利に働くネガティブな言葉すら、小泉首相の周辺は否定していません。この「刺客」という言葉が持つ「マスコミ受け」の方が、はるかにメリットが大きいことをよくわかっています。さらにまた、「刺客」候補者の選び方も実にうまいと言わざるを得ません。女性候補を中心に話題の美人官僚やら女性大学教授やら多士済々のメンバーを集め、挙句に東大医学部・ハーバード・司法試験合格という「冗談のようなエリート」までが登場するに至っては、私はほとほと感心してしまいました。
 いやもう、いったい誰がこの政治ショーのシナリオを書いたのかは知りませんが、歴史に残る「ポピュリズム選挙」であることは間違いありません。バックに優秀な広告屋でもいるのかなどとは思いますが、それ以上に小泉という政治家のマーケティング感覚の鋭さに不気味さすら感じます。
 そして、「二元論的ポピュリズム」なんて笑っている私レベルの「似非インテリの選挙ニヒリズム」なんてものは、「甘い」とすら感じさせてくれます。

 今、私たちは、ある集団が、議会制民主主義を利用して鮮やかな「政治ショー」を演出し、具体的な権力を奪っていく「歴史的過程」を見ているのかもしれません。例えば、かつて歴史で習ったフランス革命の権力交代劇…、ブルボン王朝→立憲君主制派→ジロンド派→ジャコバン派→テルミドールの反動→ナポレオンによる軍事独裁体制…というドラマチックな権力交代劇は、読み物としては面白かったけど、あくまで「過去の出来事」でした。しかし、現在進行している日本の総選挙は現実の出来事です。

 むろん今回の総選挙は、自民党の現政権側が勝とうと負けようと、その後民主党が政権を握ろうと握るまいと、また自民の反対派を核に政界再編劇が起ころうと、結局はこの国のあり方に何の変化もないでしょう。どこが政権をとろうと官僚は官僚で現在の権限を維持し続けるでしょうし、「官僚-政治家-資本家」という三題噺も続くでしょう。
 こんな総選挙を、その後の世界の方向性に多大な影響を与えたフランス革命と比較するのは、バカバカしいことは十分にわかっています。
 しかし、斜陽国家とはいえ、2003年で4兆3264億ドルという世界第二位のGDPを持つ日本という国の「政治権力」を握るということは、世界の政治や経済の中でのポジションで比較すれば、そりゃあもう18世紀にフランスの政治権力を握ること、20世紀初頭に革命でロシアの政治権力を握ること…などと遜色がない実態を持つはずです。だって、世界で第19位のスウェーデンのGDPはわずか3000億ドル、第20位のオーストラリアのGDPは2500億ドルに過ぎません。これは日本のGDPの1/15以下です。4兆3264億ドルというGDPを持つ日本の経済力、そして具体的に動かせるお金は、少なくともアフリカやアジアの10や20の国の将来、国民の将来を簡単に左右することができます。こういう「大国」の政治権力の行方については、やはり軽視してはいけないのかもしれません。

 これで、もし小泉首相率いる「自民党改革派」が今回の「刺客」選挙で勝ち、目論見どおり権力を握ったとすれば、私は「ポピュリズム」なるものに対する認識を改めるとともに、「似非インテリの選挙ニヒリズム」を返上するかもしれません。

投稿者 yama : 05:29 PM | コメント (0) | トラックバック

August 12, 2005

もう、どうでもいいや…

 子育て負担の軽減を=費用、時間とも余裕なく-05年版国民生活白書…というニュースの中で、「若年層ではパート・アルバイト同士の夫婦が増加。共働きでも世帯年収が240万円程度しかなく、所得面では明らかに子供を養う余裕がない」…との分析。世帯収入が240万円というと、日本の物価水準で見れば、都市に生活していれば非常に厳しいですね。確かに子育ての余裕はないでしょう。もっと大きな問題は、パート・アルバイトでは将来的にも所得が増加する見込みがないこと。一方で、子供を私立の中高一貫校に入れ、塾通いやらお稽古事などをさせれば、年間100万以上は楽にかかります。周囲にはこうした支出をなんとも思わない層も多く、要するに日本は明確な「階層社会化」が進みつつあるということ。みんなが中産階級…という日本型社会主義の終焉は誰もがとっくにわかっていたとはいえ、この年間世帯収入240万円層の増加は、年金問題だけでなく、医療、教育、福祉など、これまでの日本の政策の全てを見直す時期に来ているということですね。こんな中で行われる今回の総選挙、政治家やマスコミの能天気なハシャギ様は、さすがにこの国が「お先真っ暗」であることを、あらためて認識させてくれます。

 で、今回の総選挙、結果的にはどうも小泉政権が続くことになるかもしれません。いまやマスコミの話題は、「刺客」「落下傘候補」vs「優勢反対議員」のニュースばかり。これじゃ政権交代もクソもない。今朝の新聞記事によれば、話題の東京10区の池袋駅頭で100人の有権者に聞いたところ、半分以上の人が「小池百合子に投票する」と答えたとか。とてもじゃないけど、「分裂選挙で民主優勢」って感じじゃないですね。それにしても、今回の解散によって支持率を上げ、既に選挙戦序盤でマスコミ相手に「話題づくり」のイニシアチブを取る、小泉という政治家の「嗅覚」の鋭さを感じます。
 今回の衆院解散は、戦後最悪と言ってもよい「言語不明瞭」首相がやったことにしては、とりああえず快挙(怪挙?)と言ってもよいでしょう。ここ数年、道路公団の橋梁官製談合の発覚をはじめ、歯科医師会献金事件、大阪市政と労組の醜い関係など、政治家や官僚による構造的腐敗が次々と発覚する中、ここらで総選挙「民意(嫌いな言葉ですが…)を問う」のも1つの選択肢だと思います。しかし、半分以上の有権者が「小池百合子に投票する」と答える…という状況を見る限り、有権者より小泉さんの方が1枚上手ですね。
 今日になって、優勢反対派がやっぱり新党を結成するなんて話も出てきますが、仮に新党ができても民主党、自民党と併せて、保守vs保守vs保守…となり、もう日本は言ってることに大差のない保守政党同士の争いになるわけで、いったい対立軸がどこにあるのかさっぱりわかりません。そして残るのは宗教政党と古典的な左翼政党だけとあっては、国民にはまともな選択肢すらない…と思うのは私だけではないでしょう。さすがに今回は、選挙に行くかどうか真剣に悩むことになりそうです。
 これで「小泉自民+公明」が過半数を獲得したら(要するに現状維持で過半数ですから)、全くもって、この国では「議会制民主主義」と「衆愚政治」の区別がなくなるような気がします。まあ、結果を受け止めるのは「国民」ですから、医療、教育、福祉など何がどうなっても自業自得みたいなものかも。ホント、つまらない世の中になりました。

 世界陸上をボンヤリと見ていて思ったのですが、いわゆる陸上の競争競技を、なぜ「直線コースだけで競わないのか」が、よくわかりません。コースによってコーナーワークが違う…なんて競技方法で、公平な争いはあり得ません。純粋に「タイムを競う」のであれば、せめて400mぐらいの距離までの競技は全て直線だけにするべきですし、屋内競技場で無風状態にし、しかも気温や高度も同じにすべきです。それでこそ「公平」かつ「正確」に「記録」を争うことができるはず。世界各地に400mの直線を持つ競技用建物を作ることぐらい、別に何の問題もないでしょう。
 また、100分の1秒を争う競技で、なぜ「スタートのミス」を問題にするのかよくわかりません。別に「1人ずつ」走って、純粋にスタートからゴールまでのタイムを計測すれば済むことです。スタートのピストルなんて不要で、走りたいときに走り出して電気的に計測するだけですよね、まあ、これは別に陸上競技に限ったことではないのですが、「記録」についてうるさく言うのなら、まず「条件」の差をなくすべきだと、ごく単純に思うのですが…
 まあ、こんなことは誰もが思っていることなんでしょうけど…

投稿者 yama : 06:35 PM | コメント (0) | トラックバック

August 11, 2005

樽ドル

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 寡聞にして知らなかったのですが、最近グラビアアイドルの一分類として「樽ドル」というジャンルがあるらしいですね。
 ある人から「樽ドル」という言葉を聞いて、うまいこと名付けるなぁ、と感心した次第。樽ドル…、実にいいネーミングですね。ついでに、樽ドル、嫌いじゃありません。

 以前も書きましたが、私は基本的に「グラビアアイドル大好きオジサン」です。電車の中で週刊誌や夕刊紙などを読んでいて、グラドルの写真が掲載されていると、周囲の目も気にせずジーッと眺め、あれこれ思いを巡らすのです。さすがにこの年ですから、これは「オカズ」になるかどうか…なんてことを考えるわけじゃありません。実は、水着で微笑むグラドルの写真を見るたびに、「この子は楽しいんだろうか」とか「この子はどんな人生観を持っているのか」とか、「どんな家庭で育って、どんな教育を受けてきたんだろうか」…なんてことを考えるのです。挙句に「この子の知性や性格はどうなんだろう」なんてことを考えます。
 自分で書いてて、妙なヤツだと思います。だって、水着の女の子のグラビアを見つめながら、「この子はどんな家庭で育ったんだろう」「どんな将来を夢見て仕事をしているんだろう」…なんて考えるのはどう考えてもヘンです。オッパイを眺めて「こんな子とヤリテェ」とか考える方が、はるかに健全だと思います(笑)。第一、グラドルの水着姿を眺めながら「この子はどんな家庭で育ったんだろう」って考えるのって、キャバクラの女の子に人生論をお説教したり、風俗で働く女子高生にお説教したりする「嫌なオッサン」と大差ないメンタリティじゃないですか(私はキャバクラや風俗に行ったこともないし、女子高生にお説教もしませんが)…

 いや、実は私はグラドルやってるティーンエジャーや、似たような仕事でレースクイーンなんて職業の若い女性達を見ると、その「生きざま」に何か「潔さ(いさぎよさ)」みたいなものを感じるのです。もうひとつ、「けなげ」にも思えるわけです。だって彼女たちは、毎日毎日水着姿の自分の体を大衆の目に晒すことで日々の糧を得ているわけすよね。分別のある大人が水商売をやったり、ストリッパーやったりするのとはわけが違います。彼女たちの年齢は、たいていは10代半ばから後半程度でしょ。ある意味で「ごくまっとうな手段で自分の体を商売にしている」わけで、これって風俗で働くのとは別の意味で凄いことのような気がします。
 まあ彼女たちが雑誌のインタビューやTV番組で、グラドルになった経緯や仕事に対する考え方などいろんなことを喋っているのを読んだり聞いたりしたことはありますが、どこまでホントの話かわかりません。彼女たちの仕事に対する心構え…って、今ひとつよくわかりません。ともかく、毎日自分のカラダが多くの人の目に晒されている感じって、どんなものなんでしょうか。

 グラドルの女の子を見ててもう一つ感じるのは、今まで生きてきた自分の世界の「狭さ」です。レールを外れて好き勝手に生きてきたつもりで、実は「一定の枠組みの中」だけで自分の行動や付き合う相手を規定してきたのかもしれません。
 考えてみると、私はこの年までたくさんの女性と知り合い、遊んできましたが、その中には誰一人として「タレント志望」という女性はいませんでした。むろん現役のグラドルとお友達になったこともない。広告代理店に勤めている時代に、若いタレントと話したり飲みにいったりしたことは何度もありますが、話すのは仕事の話や雑談ばかりで、別に突っ込んだ人生論を交わしたことはありません。だから、水着姿を人目に晒すことで食べている女の子のメンタリティなんて、わかるわけはありません。当人たちは、それなりに面白おかしくやっているのかもしれないし、女優や「売れるタレント」を夢見ているのかもしれませんが、それでも心の深奥には何らかの人生観や職業倫理があるのでしょう。でもその、グラドルやってるティーンエジャーの人生観や職業倫理なんて、私にはさっぱりわからないので興味を惹かれるわけです。自分にとっては「別世界の人間」に対する興味なんですね。

 そこで感じるのは、所詮自分の周りにいるのは男でも女でも「ある種の社会階層にとっての常識的な人生」「ある種のインテリ」(どっちもうまい言葉が見つかりません)…ばかりで、つまらない人生だったかも…という想いです。
 繰り返しますが、私がグラドルを好きなのは、その生き方にある種の「潔さ」を感じるからです。その気持ちだけは、確かです。世の中、何でメシを食おうと職業に貴賤がないのは自明の道理。もし今の自分に娘がいて、それがたまたま適当に可愛くて、その子がグラビアアイドルの道を選ぶと言うのなら、一も二もなく大賛成すると思います(残念ながら娘はいませんが)。
 ともかく、グラドルの水着姿を眺めながらこんなこと考えてる自分って、やっぱり嫌な人間かもしれません。

 こんな話を書く気になったのは、今日、大卒6人に1人「ニート予備軍」 文科省調査…というニュースを読んだから。この「6人に1人」という数字は、私の周囲の知人の子息の状況レベルで見ても妥当な数値だと思います。ホントに、働かない若者が増えました。就職活動を先延ばししたいからと言って院に進学する大学生と、それを許容する親…、そんな話ばかりです。挙句にフリーターやってる高学歴の若者、周囲にたくさんいます。
 人生なんて働かなきゃ食えないんだから、「働く」ということに対してもっとシンプルになった方がいい…って思います。働くってことは、体を張ること…だって、大人が身をもって教えなきゃならないんでしょうね。

 ああ、ホントに与太話でした…

投稿者 yama : 02:44 PM | コメント (0) | トラックバック

August 10, 2005

よいデジカメに巡り会ったかも…

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 購入直後にこちらで紹介したニコン「COOLPIX7600」の、その後の話です。このブサイクなデジカメ、購入して3ヶ月ですっかり「常用デジカメ」になりました。国内外でガンガン撮ってます。欠点もたくさんありますが、なんとなく「無骨」で、でも「ちゃんと写る」ところが気に入ってます。私が過去に使ったデジカメの中で、1、2を争うほど気に入ってます。
 先に「欠点」ですが、ファーストインプレッションで書いた通り、「動作が鈍い」「暗い場所に弱い」…の2つについては、もうどうしようもありません。起動時感は我慢できる範囲ですが、操作の1つ1つについて、「一呼吸」ある感じ。要するに「テキパキと」シャッターボタンを押せない感じです。事実上フルオートのカメラなのに、パッと構えてサッと撮る…のではなく、ゆっくり構えてゆっくり撮る…つもりで使った方がストレスが溜まりません。単三電池なのでストロボ使用時には、チャージの遅さが気になるし、「マクロボタンがない」のでマクロの設定と解除のためにいちいちメニューを出さなきゃいけません。なにをやっても、テキパキとは撮れません。
 暗所に弱い…のは、予想以上。室内でノンストロボで撮ると、けっこうな確率でブレてます。オートではISO200までゲインアップするはずですが、あとでExifを見ると、ちょっと明るい室内はたいていがISO50になってます。まあ、ストロボ撮影が嫌いな私としては、ひたすら多くの枚数を撮影して保険を掛けるしかありません。
 あらためて感じている長所の方は、やはり「解像度の高さ」と「ナチュラルな発色」です。解像度が高いのは700万画素だから当たり前…という意味ではなく、画素数以上に「解像度感」がありますね。要するに「シャープ」なんです。EDニッコールレンズの威力を見せつけられます。そして、発色がナチュラルな点も実にいい。ともかく、色がクド過ぎもしないし、眠さもない。明るさがある屋外での撮影であれば、どんな被写体をどんな条件で撮っても、色に関してはほとんど補正する必要がありません。まあ、好みの問題もあるでしょうけど…
 このシャープさと自然な発色は、撮影条件次第では、仕事で使ってる「D70」で撮影した画像と比較しても遜色がないほど。ノイズもほとんど気にならないレベルです。仕事用の撮影でも、サブカメラとして使うようになりました。2400mAのニッケル水素電池2本で300枚近く撮れるスタミナも文句なしです。

 そして数ヶ月使い込んでみて感じた最大の長所は、このデジカメが持つ「写真撮影感覚」かもしれません。
 COOLPIX7600は、何でも「初心者用デジカメ」だそうですが、そのちょっと「トロイ動作」とマッタリした操作感、そして独特のグリップ感が相まって、のんびりと写真を撮れます。そう、デジカメは「画像を得る」という感じが強い中で、このデジカメは「写真を撮る」という感覚を持っています。これって、けっこう貴重かもしれません。デザインも、どう見ても無骨です。昨今のスタイリッシュなコンパクトデジカメと比べれば、はっきり言ってかなり「カッコ悪い」。でも、目立たないところが何ともいいですね。私のようなオジサンが使っているのですから、最近のおしゃれなスクエアフォルムのコンパクトデジカメよりも、これくらいブサイクな方が、似合ってると思います。

 いやホント、COOLPIX7600という、これと言って特徴のない安デジカメが、ここまで自分の撮影スタイルに合っているとは思いませんでした。

投稿者 yama : 02:13 PM | コメント (0) | トラックバック

August 09, 2005

釈迦頭の発芽

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 左の画像は、「釈迦頭」の種を植えて、発芽後約2週間目の様子です。
 小さな植木鉢に種を2個埋めたところ、2本とも発芽しました。右の画像は、同じくマンゴスチンの種を5個埋めて、発芽後約10日目の様子です。1本だけ大きくなりましたが、他に3個の種が発芽しています。
 「釈迦頭(SUGAR APPLE)」という果物は、最近は日本でも出回り始めたのでご存知の方が多いと思います。大きな声では言えませんが、先月末に某所で食べた釈迦頭があまりにも劇甘に熟しており、立派な種が入っていたので、持ち帰って植えてみようと思った次第。
 その時に一緒に食べたマンゴスチンの種と共に実際に持ち帰り、冗談で鉢に植えてみたのですが、まさかこんな簡単に発芽し、しかもすくすくと育つとは思っても見ませんでした。
 調べてみたところ、釈迦頭は西インド諸島原産のバイレイシという植物に属し、いくつかの品種があるそうです。最も甘い品種は、やはり年間の平均気温が20度前後の熱帯または亜熱帯でなくてはうまく育たないそうですが、交配によって温帯でも育つ品種があり、これは実があまり甘くないそうです。日本では、石垣島や宮古島での栽培・結実例があるとのことでした。
 で、今回発芽して育っているのは、明らかに熱帯で栽培されている品種。いや、連日35度を越す夏の東京の気温は、いまや熱帯並み。確か、東京の昨年の8月の平均気温は、バンコクのそれを上回った…というニュースがありました。釈迦頭やマンゴスチンが育って当然の環境です。
 バイレイシは、屋内へ入れれば秋から冬を越すことも可能とのことなので、しばらく栽培を続けてみようと思います。

投稿者 yama : 11:23 AM | コメント (0) | トラックバック

August 08, 2005

熱帯夜に書く靖国問題

 真夏の夜の夢のように、靖国問題について書いてみます。

 私は「首相」が靖国神社に参拝することについては、明確に「反対」の立場です。
 ただ、反対の理由というのは、「中国や南北朝鮮とは仲良くやっていくべきだから」とか「A級戦犯を合祀している靖国参拝は侵略戦争賛美になるから」…、などといった単純なものではありません。私は、靖国神社の問題について、「政治問題」や「戦争責任問題」、そして「宗教問題」としてよりも、「文化の問題」として、よりいろいろなこと考えてきたからです。

 明確に言えば、私は明治時代中期から始まった日本の積極的なアジア進出を「植民地政策」だと思っていますし、植民地政策を遂行する上で「戦争」が必要であり、その「植民地戦争を遂行するためのシステム」の1つとして「靖国神社」と「国家神道」が機能してきた事実を否定はしません。日本が行った植民地獲得のための戦争で、被植民地側に「日本という国家、そして日本人」を憎み非難する感情があるのは当然で、そうした被植民地国家側の人々の気持ちを考えるべき…という靖国参拝批判論者の意見も理解できますが、もっと遥か別の位置で、「日本人と靖国神社の関係」「日本人のあり方」などに興味を抱いてきました。

 まずは、靖国問題を考える適当な題材として、各所で話題になった筑摩新書「靖国問題」(高橋哲哉)から話を進めましょう。読んだ方は多いと思いますし、その内容に対する評価も真っ二つです。この本は、靖国神社にまつわる問題について、「感情」「歴史認識」「宗教」「文化」「国立追悼施設」という5つの視点から論点を整理しており、各章で展開される論理の是非、または展開される内容の論理性への評価はともかく、「論点の整理」という部分では比較的よくまとまった本ではないかと思います。もっとも、基本的に著者は「太平洋戦争を植民地獲得のための侵略戦争」と位置づけ、「靖国神社は国民を喜んで戦争に追いやる国家装置」…という基本的スタンスを明確にしていますから、その点だけでも多大な批判を浴びてはいます。この「靖国問題」に対する典型的な反対論は、宮崎哲弥によるものでしょう。彼は「…高橋哲哉は、国家による追悼を一切認めない。A級戦犯分祀論も、新しい追悼施設案も、本書によれば、世人を瞞着するための反動勢力による策謀に他ならない。原理主義者なのだ。ならば高橋は、中国、台湾、韓国、北朝鮮の、国立の追悼施設や墓地に対しても、同様の非難を浴びせるべきだろう。靖国に唾を吐きかけたように。やってみるがいい」…と書いています。
 こうした感情的反応の是非は置いておくにしても、私も実はこの「靖国問題」という本の内容にはいくつかの疑問があります。疑問とうよりも、「生理的に受けいれられない」部分があります。

 「感情」「歴史認識」「宗教」「文化」「国立追悼施設」の5つに分けられた論点の中で、もっとも私が違和感を感じたのは「文化」の問題です。著者は、第一章「感情の問題」では靖国のシステムの本質が、戦士の悲しみを喜びに不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」であることを指摘して、第二章「歴史認識の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識の一部に過ぎず、本来、日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきだと主張、第三章「宗教の問題」では、これまで天皇や首相の靖国参拝を合憲とした判決は一つもなく、靖国神社を非宗教化することは不可能だと指摘しています。このあたりの話は、ある面では妥当な論拠が多いと感じました。
 しかし、もっとも興味深く読んだ、第四章「文化」では、靖国参拝賛成派の江藤淳の言うところの「日本人の死生観」について、それを靖国賛美に繋げる江藤淳の論理矛盾を指摘しています。これが、どうも納得できないのです。
 実は私は、著者が鋭くその矛盾を突いている「江藤淳」とかなり近い立場で靖国神社について考えてきました。
 本書の中で紹介されている江藤淳の言葉の中に、「日本人が風景を認識する時には、単なる客観的な自然の形状として認識するのではなくて、その風景を見ている自分たち生者の視線と交錯する死者の視線をも同時認識している」…というのがあります。私は、それが日本人に共通する感覚かどうかは知りませんが、個人的にはまったくその通りだと考えてきました。これはおそらく、私の生まれ育った環境によるものです。

 私の生家は、あの草薙の剣で知られる熱田神宮のすぐ隣でした。幼稚園に通う子供の足でも5分とかからないところに、広大な熱田神宮の境内がありました。そして、自宅のすぐそばには「段夫山古墳」という、全長約150mの東海地方最大の前方後円墳があり、実は当時はその古墳の上に我が家の墓地があったのです(この墓地は現在は平和公園という市営墓地に移転し、古墳は史跡となっています)。私は、この熱田神宮と段夫山古墳の間に位置する生家で5歳まで育ちました。物心がついた頃には毎日のように近所の子供達と、鬱蒼とした森に囲まれた荘厳な雰囲気の熱田神宮の境内で、鶏などを追いかけて遊びました。そして、時には段夫山古墳の上で父と一緒に凧揚げをしました。墓地のある古墳でも、毎日のように遊んでいたのです。さらに、私の「祀られた者と自然な関係」はそれだけではありません。おばあちゃん子であった私は、祖母に手を引かれて覚王山日泰寺 の境内で行われる縁日によく連れて行かれました。祖母が死んだ後、毎晩寝る前には仏壇の前で手を合わせ、「おばあちゃん、おやすみなさい」という言葉を掛けることを、中学生の頃まで続けていました。私の家では、お盆になると連日仏壇にお供え物(豆とさつま芋を煮付けたもの等)を作ってお供えし、お盆の最後の日にはそれを藁で包んで川に流しに行きました。
 私は、まさに「死者やご先祖様と共存して生きる」…という「日本人の死生観」を具現化するような幼少時代を送ったわけです。そして、私のように日本を代表する神社や古墳の上で遊んだ育ったかどうかは別にしても、私の育った家庭のように日々死者を思い起こして暮らしている家は、この日本ではごく平均的な家庭であったと思います。

 「靖国問題」第四章の内容を詳しくは書きませんが、確かに江藤淳は「日本人の死生観」と「靖国神社」との結びつきを、うまく説明していません。高橋哲哉の指摘にはもっともな部分もあります。でも、靖国神社に参拝する人は、おそらくそこまで考えることはしません。靖国神社には、おそらく「理屈抜き」で「日本人の死生観」と結びつく部分があるように思います。それは戦争、特に太平洋戦争において、過去の日本の歴史の中であまりに短期間で多くの死者を生み、それが現代に生きる日本人の心の傷として、いまだ大きく残っているからです。私の世代であれば、両親、両親の兄弟、または近い親戚の中に、必ずといっていいほど戦争での犠牲者がいます。
 私は、靖国参拝に「拘る」人々の気持ち、とりわけ日中戦争から太平洋戦争にかけて肉親が戦場で亡くなった遺族た関係者が靖国神社に拘る気持ちがわかります。こうした方々にとって、まさに靖国神社こそが、「生者と死者を繋ぐ架け橋」であるからでしょう。そこでは、高橋哲哉が言うところの「じゃあ、なぜ靖国神社には一般民間人犠牲者が祀られていないか?」とか「敵国側の死者や犠牲者が祀れていないか?」…などといった疑問など、思ってもみないはずです。また、靖国神社が「国家が戦争を遂行するための装置であった」かどうかなど、考えることもないはずです。戦前の軍国主義教育の是非を論ずるのは容易でしょう。しかし、結果として「悲しみの感情を転化すする場」として靖国神社が多くの日本人の心に刷り込まれた現状を、簡単に変えることはできません。それほどに靖国神社は、一部の日本人の心の中に入り込んでいるように思います。
 私のように「死者やご先祖様と共存して生きる」ことを自然に身につけてきた人間にとって、靖国神社というのは、実に「わかりやすい場所」です。そして「靖国神社に参拝する」という行為も、理解しやすい行動です。これは、私が嫌いな「宗教」の問題とは、私の中では全く異なるものとして認識されるのです。だから私は、靖国参拝を否定する気持ちが、どうしても湧いてこないのです。
 大きな問題は、現在の日本には靖国神社以外に「死者とともに生きる」…という日本人の死生観を満足させてくれる場所がほとんど存在しない…、という事実です。いや、一般的な意味ではそうした場所は幾多存在はするのですが、「戦場で亡くなった人を想う気持ち」を素直に昇華してくれるような場所が存在しない…というのは、紛れもない事実です。
 こうなると「靖国問題」の著者が主張するように、靖国神社に代わる「国立追悼・平和祈念施設」を作るべき…という話は、全くいただけません。そんな空々しいものを作っても、靖国神社の代わりにはなりません。戦場で亡くなった方々の遺族が靖国神社を「生者と死者を繋ぐ架け橋」だと強く想うのは、戦前から続いたそれなりの長い歴史と教育の結果によるものです。真新しい「国立追悼・平和祈念施設」を作ってそこに死者を祀ってみても、誰も「生者と死者を繋ぐ架け橋」などという「鎮魂の感情」を抱くことはないでしょう。

 考えてみると不思議な話です。私は、「日本人である自分」を別に「誇り」になど思ってはいません。これは実に単純な理由です。「誇り」とは辞書にあるように「誇ること」であり、「誇ること」の意味がこれまた辞書にあるように「すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する。誇示すべき状態にある。またそのことを名誉に思う」…というものだからです。私は日本人であることを他者(例えば他の国の人)に対して「自慢」に思ったり「誇示したい」と思ったことなど一度もありません。人間は、「生まれた国を他人に自慢する」「国籍を他人に自慢する」…方が不自然だと考えています。むろん、明確に申しあげておきますが、自慢する気もないけれど、卑下する気持ちも全くありません。別にどこの国に生まれようと、人は人、皆同じではないかという、至って単純な話です。
 一方で、私の人格は「日本で生まれて育った」ことに、非常に大きな影響を受けています。「死者やご先祖様と共存して生きる」という環境で自然に育ったからこそ、私自身は日本人の死生観を色濃く持っています。これは、「宗教」とは無縁の話です。
 私は日本という国が好きです。私は、現在の「日本」という国から出て行く気がありません。海外での生活経験を持ち、今現在でも海外で暮らす手段をも持っていますが、それでも今のところ、日本以外の国で暮らすつもりはありません。だから、きちんと納税しています。ただ、私が日本という国が好き…という気持ちは、あくまで「他の国と比べて相対的に日本が好き」…という話です。何だか得体の知れない「愛国心」で、日本に住んでいるわけではありません。私が「日本が好き」という言葉を発する時、そこには具体的な要素があります。日本の食事や食材が好き、日本の四季や気候風土が好き…と言ったものです。その中に「日本の文化が好き」というのも含まれますが、そこで私が思う「日本の文化」は、少なくとも「新しい教科書を作る会」が力説するような部分とはかなり違いがあります。
 その「相対的に日本が好き」で「日本人に多い死生観を持っている」…という私という人間は、特に身内に戦死者がいるという関係者など靖国神社に参拝する日本人の気持ちがわかるし、それを安易に「国立追悼・平和祈念施設」で代替しようという意見には、まったく賛成しかねます。 靖国神社を参拝する人のメンタリティには、やはり「宗教」とは異なる要素が多く踏まれている…と感じます。

 私が首相の「靖国参拝」に反対する理由は簡単です。「首相」という一国を代表する立場の人間は、安易に靖国神社に参拝してはいけません。首相であるからこそ、一般の人が素直な気持ちで参拝する中で感じなくてもよい「靖国神社の歴史的役割」を深く考える必要があるからです。その上で「将来の靖国神社のあり方」についても、深く考察する必要があります。小泉首相が参拝理由としていつも挙げる「日本人として当たり前の気持ち」は、小泉首相が「一般の日本人とは異なる立場で物事を考えなければならない日本を代表する公人」であるがゆえに、成り立たない理屈だと思っています。なぜ一国を代表すべき人物が、そんなことがわからないのか、情けない話です。

 ところで、「靖国問題」という本には、もう一つ納得できない部分があります。第一章「感情の問題」は、私はよく書かれていると思います。著者は「靖国神社が戦争のための装置」であることに、批判的な眼を向けています。でも、どう考えても私は、「国家」という存在・システム自体が「戦争のための装置」…だと思っています。だから、国家が国家として存続するためには、宗教とは別物の「戦争をさせる仕掛け」が必要です。そういう意味では、「靖国神社」は比較的よくできた仕掛けです。当たり前の話ですが、こうした認識は「戦争の是非」を論ずるものではありません。「国益」というものが他の国家の「国益」と敵対すれば、国家という枠組の中では、「戦争」が必然になる…と言っているに過ぎません。私は当たり前のこととして、戦争はやらずに済ませるべきだ、戦争はなくすべきだと思っていますが、それを「国家」というシステムを残したまま実現できる…とは思っていません。「国家」というシステムをなくす…以外に、絶対的に戦争をなくする手段を、私はどう考えても思いつきません。「外交」「話し合い」「国連」など、戦争を避ける術はたくさんありますが、どれも「絶対的に有効なもの」ではありません。国家にとっては国益が至上であり、国益という視点での判断の中では「戦争と平和を天秤にかける」ことを要求されることが、必ずあるはずです。
 「靖国神社が戦争のための装置」であることを問題にし、その対応策として「国立追悼・平和祈念施設」を提案する意見が生まれるのは、間違いなくその背景として「戦争をしない国家」という概念が存在するからです。私は「戦争をしない国家」というものが、存在できるとは思っていません。

 私は、靖国神社を「植民地戦争遂行のためのシステム」と認識していると書きました。だから、非植民地国側の感情への配慮は必要と書きました。一方で靖国神社に参拝するのは日本人として妥当な気持ち…とも書きました。なおかつ、安易に「国立追悼・平和祈念施設」を作ることには反対するとも書きました。
 勝手なことを書いた上で、では靖国問題をどうすればよいのか…を考えてみました。要するに、どのように戦死者を祀れば「日本人の死生観」に合致し、近隣諸国との軋轢を生まないのか…という「対案」です。安易に「国立追悼・平和祈念施設」などを作らなくとも、実は日本には「死者と生者の架け橋になる場所」がたくさんあります。戦死者を祀る場所は、何も植民地戦争を遂行するシステムの1つであった靖国神社に拘る必要はありません。精霊崇拝を祖とする神道の象徴的施設である神社には、靖国神社よりももっと歴史があり、もっと万人が鎮魂の感情を素直に出せるできる場所がたくさんあるような気がします。
 極論すれば、皇祖であるアマテラス大神を祭る神社「伊勢神宮」に、有史以降の全ての戦死者を祀っても構わないと思います。「伊勢神宮」は、稲作文化が生んだ日本人の死生観を、とことん具現化した場所です。その歴史的経緯から見ても、「生者と死者を繋ぐ架け橋」にふさわしい場所の1つです。靖国神社ではなく伊勢神宮に戦死者が祀られていて、しかもそこに戦争で敵対した国の人が一緒でなくとも、少なくとも「戦争で死んだ庶民」も同じように合祀され、さらには、靖国には祀られていない「戊辰戦争の会津藩を含む旧幕府軍死者」なども一緒に祀られているとすれば、適当に作った「国立追悼・平和祈念施設」なんかよりも、ずっとよい方法でしょう。むろん伊勢神宮も、植民地策遂行のために、国家神道の象徴としての役割を担わされた時期がありますが、それよりもはるかに昔から「庶民がお参りする場所」として機能してきた歴史があります。

 …熱帯夜、思いつくままに話を書いていたら、何だかわけのわからない内容に変容してきました。読み直すのも面倒なので、明日にでもいったんアップします。その上で読み直して、続きを書きます。
 そういえば、伊勢神宮や熱田神宮について、ちょっと書きたいこともあったような気がします。

投稿者 yama : 04:00 PM | コメント (0) | トラックバック