WS30の世界はオルタナティブ・デジカメサイト。デジカメ、MPEG-4動画、PCの話題、サブカル系の駄文コンテンツをどうぞ…
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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/7/31

 「少し本音」を書きます(笑)
 当サイトの管理者宛メールアドレスには、以前も書いたように「デジカメに関する質問」がかなり来ます。また「デジカメがどうあるべきか」…という、何かどうでもいいいような話で、やたらと長いメールを送ってくる人もいます。これも前に書きましたが、私はサイト内容に関するメールでの質問や意見交換を出来る限り避けたいという方針ですが(質問や意見などがあれば掲示板に何でも書いて下さい)、一度だけならたいていは丁寧に返事を書いています。まあメールが来ると言っても、最近は月に数通ぐらいのものでした。
 ところが、一昨夜から昨夜にかけて、珍しく同じ内容で数人(5〜6人)からメールが来ました。基本的には、私(サイト管理者)がサイト内に書いた「デジカメに対する意見らしきもの」に対する批判です。うち1通はかなり長いメールで、私のデジカメに対する意見を強く非難するものでした。しかも、その同じ人からは昨夜一晩で似たような主旨のメールが、しつこく20通以上も送られてきました。匿名&捨てアドレスで…。
 こんなことは、このサイトを開設して初めてです。あ、いや「差別問題」に触れたときには、ウヨク的な脅迫メールがけっこう来ましたね。まあWebサイトなどを開設していればいろんな反応があることは承知の上ですし、腹を立てるようなことではないことも十分承知しています。また、書いたこと何の反応もないよりは、批判・罵倒メールの2〜3通も来た方が面白い。この手のメールを受け取るのがイヤならば、別にサイトなんかを開設しなければいい…わけですよね。はい、…よくわかってます。
 しかし、あまりにも的外れな内容でネチネチと意味不明の批判をされるのもムッときます。そう、内容があまりにも的外れなんです。掲示板なら何を書かれてもいい。気に入らない書き込みは容赦なく削除するし、荒れたら掲示板そのものを無くしたって構わない。一晩で20通以上のメールですよ、面倒だなぁ…

 しつこいメールの内容というのは、要するにこちらの文に対する批判なんですが…。もう、笑っちゃいます。
 「極小画素CCDを擁護するこのサイトはクソサイト」とか「あなたのような人がいるから、デジカメメーカーが増長する」とか「あなたのような考えでは、デジカメの将来のためにならない」、「ユーザーを舐めている」…っていうような批判です。こちらの文章の何をどう読んだら「デジカメメーカーが増長する」というのでしょうか。どこが「ユーザーを舐めている」のでしょうか。また極小画素CCDについては、別に擁護も批判もしていません。そんなこと書いた覚えはありません。私は「デジカメ界の将来」なんて、はっきり言ってどうでもいいです。また、他のユーザーなんてどうでもいい。ついでに、誤字・脱字だらけなのも、論理展開が矛盾だらけなのも、承知してます。いいじゃないですか、商業メディアじゃないんだから。まあ、某評論家の尻馬に乗って、「極小画素CCDのノイズを不愉快に思わないヤツにデジカメを語る資格はない」なんて語るゴーマンな人が嫌いなのは事実です。でも、全体の主旨としては「対抗言論ごっこ」をやって遊んでるだけなのに…
 こんな文章にメールを10通以上も送ってくるあなたは、「デジカメ工業会」か何かに属している方ですか? それともデジカメの将来が人生の一大事なんですか(笑)

 むろん最初は、「冗談」か「遊び」だと思いました。これが、批判メールを1〜2回送ってくる程度なら、こんなことを書くほどヤボじゃありません。掲示板で批判してもらうのもけっこう。でも、遊びにしては一晩で20通以上のメールを送り付けてくるなんてシツコイ。それに、不愉快になるような幼稚で汚い言葉だらけ。はっきり言います。「アンタ、バカじゃねえの?」

 ホントにわかってないなぁ…。「遊び」がわからないのかなぁ…。別にわかってもらわなくてもいいですけど…
 確かにいろいろな目的サイトを開設する人がいるでしょう。中には「自己主張」のためにサイトを開設する人も多いかもしれません。しかし、私はこの「WS30の世界」というサイトを、完全に「遊び」だと考えています。このサイト内で「本音」はほとんど書きません。また何も主張しません。本当の私が「実際に何を考えているのか」を、このWebサイトで公開する意思が全くないからです。
 今回批判された文章だって、適当に書いたもの。少なくとも半分はジョークだし、残り半分に本音が含まれているかどうかだって怪しいものです(笑) それに、どこをどう読んでも、特定個人に対する誹謗中傷は含まれていないはず。

 ところで、「WS30の世界」というWebサイト全体を、パラパラと読んで頂けばわかるはずです。どこにも「一貫した主張」「確固たるコンセプト」なんてないことが…。むろん、「一貫した主張のないサイト」を開設していることには「自分なりの理由」があります。
 私はこのサイトを、全くの趣味で開設しました。「Webサイトでどこまで遊べるか」、「どんなコミュニケーションが派生するか」…といった部分を試してみたい…と思っているだけです。
 だからサイト内の雑文は、「言葉で遊んでいる」だけです。別に広告取って収入得ているわけじゃないし、明日サイトを閉じたって一向に構わない。で、このサイトを閉じた直後に、「デジタル一眼レフの世界」というサイトを開設したって構わない…と本気で思っているわけです。
 だから、このサイトに書いてあることは、全部が「虚構」かもしれないんです。私は、実はライターではないかもしれない。40代と書いていますが、30代かもしれないし60代かもしれない。デジカメだって、本当は大嫌いかもしれない。音楽はロックじゃなくて本当は演歌がすきかもしれない。実は私は「女性」かもしれない…。仮想世界であるWebサイトなんて、そんなものです。

 ここは、一応「デジカメ」がメインテーマ(?)ですが、サイト内の全テキスト量の中でデジカメ関係のコンテンツが占める割合は、半分以下のはず。基本的には、ノンジャンルの駄文の集積です。まあ、デジカメで撮影することが好きなのと、このサイトの開設時にデジカメ話からスタートしたため、なんとなく「一見デジカメサイト」にしているに過ぎません。
 しかし私は、デジカメというモノに対して、別に「1人のユーザーとして…」以上の思い入れはありません。「自分の好みに合ったこんなデジカメが欲しい」という欲求は人並みにあっても、「デジカメはどうあるべきか」なんて理念は全くないです。そんな大それたことは、考えたこともありません。はっきり言って、私はデジカメの商品企画現場や生産現場に関わりを持っているわけではないし、関わりを持ちたいとも考えていません。そんな私に、「あなたのような人がいるから、デジカメメーカーが増長する」とか「あなたのような考えでは、デジカメの将来のためにならない」…ってメールを送ってきても、ホントに無意味です。

 でも、「サイト内の雑文は言葉で遊んでいるだけ」「本音は書かない」…とは言いましたが、そこは多少なりとも「虚構と真実の混交」があることは確かです。それは、読んでる人が自然に感じること。何が虚構で何が真実かを見るのも、楽しみの1つ…てことにしといてください。だからWebは面白いんじゃないですか…

 私は、このサイトを運営することで何の利益も得ていません。広告なんて掲載していないし、今後も掲載する気はありません。本名や仕事で使っているペンネームを公開して、自分の仕事の宣伝をしようと言う気も、むろんありません。
 現状ではトップページが1000アクセス/日に過ぎない個人サイトですよ。この程度の規模の個人サイトは、日本語サイトだけで何万、何十万とあるでしょう。こんな小さな個人サイトで何を主張しても、影響力なんかあるわけがないのは十分承知。今後もこのサイトで何かを主張したり広告料を得るために、アクセス数をアップする努力をしようという気は全くありません。
 こんな規模だから、好きなことを書いてられるんです。

 オレはね…、ただの「オサーン」ですよ!

 でも、ホントのこと言うとね、わけのわからないメールが来て、ちょっと面白かった…です。
 もしかすると、彼は20通のメールで私と遊んでくれたのかもしれません(笑)

2003/7/31

 最近は地域通貨(ローカル・カレンシー)を導入する自治体が増えています。地域通貨に関する詳しい説明はしませんが、「特定の地域やコミュニティの範囲内で財やサービスの交換に充当される、限定されたお金」…という概念は別に悪くはないと思います。  しかし、「愛と信頼のシンボル通貨」「善意の交換(ボランティア)を促進する温かいお金」などと言うのはピンときません。対象が何にせよ「対価」「媒体」として存在するのですから、ある意味で「純粋に経済的な仕組み」という部分もあり、利益を目的にしていようといまいと、経済行為であることは確かです。いや、逆説的にいえば、「教育や福祉、環境等の多様な非市場分野の財・サービスの交換に介在する媒体」などと言っても、ある部分で純粋に経済的な仕組みを確立しないと、地位通貨は遊びで終わってしまいます。

 地域通貨の発行主体が「NPO法人」である例が多いのも、何となく気になる部分です。
 「NPO(Non Profit Organization)」は、「非営利=無報酬の活動」と誤解されている部分がありますが、NPOにおける「非営利」とは、「利益を関係者間で分配せず、使命を達成するための次の事業にあてる」ことであって、組織や事業の継続には当然「資金」が必要です。特に「組織の継続のための資金」とは、要するに「人件費」であって、高度な事業を進めるNPO法人ほど「給料を取る専従職員」の存在を必要とします。実際に、政府は、「新しい雇用の創出」と意気込み、失業者対策の一環としてNPO法人の活性化を目論んでいます。例えば米国では、NPOで働いている人が約1,500万人以上、うち1000万人が有給です。GDPに占める割合は6.8%と、経済市場としても労働市場としても無視できない規模になっています。
 で、地域通貨の発行だけを目的にNPO法人が設立される例も増えています。…ってことは、NPO法人の運営資金は、地域通貨流通プロセスのどの部分から「捻出」されるのでしょうか?

 さらに私は、地域通貨を「エコ通貨」などという呼び方をされると、ちょっと引いてしまいます。何が「エコ」なんでしょう。こう言う人たちとって「エコ」とは何なのでしょう?
 こうして見ると、地域通貨の名称や単位のネーミングにはけっこう妙なものが多いですね。例えば、全国各地の生活クラブでは「エッコロ・マネー(単位はエッコロ)」という地域通貨を実施していますが、胡散臭い名称って感じ。
 まあ、千葉の「ピーナツ(単位はPea:ピー)とか、川口の「キューポラ」とか、名古屋の「なーも」とか、地域の象徴とか特産を名称や単位にするのは、まだ可愛い感じ。
 神奈川県大和市の地域通貨「LOVES(ラブズ、単位はラブ)」、秋田の地域通貨は「まごころマネー(単位は「akita」)」、四国の方の自治体では「みらい」、富山市の「夢たまご」、甲府市の地域通貨「元気」…といったあたりは、特に胡散臭くて、気持ちの悪い名称ですね。その他にも、ハート(小海町)、エコビー(四賀村)、ポエマ(磐田市)、大夢(津市)…などを見ても判るように、「心の触れ合い」「エコロジー」などを象徴するような安易なネーミングが並んでいます。あーやだ…

 今日の日記は(も?)、特に意味も結論もありません。ただ、ブツブツと書いているだけ。別に環境団体やNPOを批判したり貶めたりする目的で書いたものではむろんありません。自己分析をしてみると(?)、こうした無意味な駄文を書く個人的背景というか動機は、おそらく2つあります。
 第一に私は、何か「キャッチコピー的な言葉で立派な理念や理想を主張する人たち」が生理的にダメなんです。サヨクであろうとウヨクであろうと政治家であろうと市民活動家であろうと、理念や理想を現す言葉をキャッチコピーのように使っているのを見ると、まず「センスが悪い」とか「胡散臭い」とか感じてしまうのです。
 第二に「非営利」という曖昧な言葉が嫌いです。NPOの例でも思うのですが、「世のため人のため」に何かをやるにしても「お金」が必要です。ボランティア(無償労働)にしても、「寄付」にしても、その背景に誰かの営利活動の結果による「お金の余剰」がなければ成立しません。無償で能力や労働を提供する人…というのは、どこか別のところでお金を稼いでいる、またはお金を稼いでいる人に寄生して生活している例が大半です。だから私は、「非営利」という概念に釈然としないものを感じるのです。

 まぁ、つまるところは私自身が「斜に構えた人間」だってことみたいですが…

 さて、今日の画像はまたしても、部屋の観葉植物の鉢に生えたキノコです(U30で撮影)。
 以前生えてきたキノコはすぐに萎びたのですが、その後も次から次へと生えてきます。どうやら室内の空気中には、キノコの菌が充満しているようです。やっと夏らしい天気になりそうだと言うのに、部屋の中がジメジメしているようでイヤな感じです。
 今回のキノコはあまりにも立派(傘の直径が4cmぐらい)なので、念のため(?)デジカメで記録しておきました。
 キノコの右横に写っているのは、タイで買ってきた金属製の小さなゾウの置物で、何となく並べて撮ってみました(笑)

2003/7/30

 昨夜、たまたま都立高校の教員をやっている知人と話をする機会がありました。彼は、「石原都政」を口を極めて批判・罵倒していました。

 石原都政は、「都立高校の差別化をはかる」として、都立高校の改革を進めています。都教委は「都立高校改革推進計画・新配置計画(案)」を発表し、2003年度より都立高校の全日制普通科の学区を島嶼も含め撤廃、さらに都立高校を「進学校」「中堅校」「教育課題校」「専門学校」の4つに類型化する方針を発表しています。例えば、「進学指導重点校」では1日7時間授業など受験重視の時間割を組み、土曜日も学校として補習を行っています。また、異動要綱にとらわれず「受験指導に精通した教員の重点配置」を行い、教師の予備校での研修なども行われているそうです。

 こうした都教委の方針に対して、東京都教職員組合は猛烈に反対しています。彼らの主張は「受験競争を緩和し、希望するすべての生徒に豊かなゆきとどいた高校教育を保障すること」…であり、都立高校入学希望者の全入(事実上の無試験入学)を主張しています。
 都教組の主張によると「…一番の問題は、子どもたちが、その一校一校を見極めて受験しなければならないということです。それは、中学卒業の段階では、とても難しいことです。統廃合を口実にして、差別・選別の教育を一気に進めようとしています」…ということらしいです。
 つまり、「学校に格差があると子供がどこへ進学するか判断できない」、「学力による差別・選別はいけない」…と主張してるのです。
 全く同じ言葉「希望するすべての子に高校で学ぶ機会を」…は、「革新都政を作る会」のホームページにも掲載されています。理由も都教組と全く同じです。

 私は、「石原都政」なるものは嫌いですが、少なくとも「高校の差別化、ランク付け」を行うことには全面的に賛同しています。この都立高校の今後の方針に関しては、逆に都教組や革新都政を作る会の主張の方が理解できません。

 「希望する子どもに高等教育を保証する」こと自体に、異議はありません。それは憲法にも保障された権利です。しかし正確には「自ら希望し、なおかつ学力が伴っている子どもに高等教育を保証する」…という意味のはずです。
 「高等教育」という言葉は、どのように定義されるべきでしょう? 「普通」に対する「高等」のはずです。教育内容、カリキュラムが「高等」である以上、高等な教育内容を理解するだけの「前提となる知識」「前提となる理解力」が必要です。従って、高等教育とは「希望する全ての人」ではなく「理解する能力のある全ての人」に…与えられるべきものです。
 「意欲さえあれば…」というのは非常に奇妙な論理です。高等教育の実施に必要な条件は「理解する能力」であって、「理解しようとする意欲」ではないはずです。

 例えば「東京大学」は日本における最高学府として認知されており、高度な教育を受けることができます(ホントに最高学府に相応しい教育をしているかどうかについては別の話)。その東京大学や京都大学には、大学入学を希望する人なら誰でも入学したいわけですよね。で、仮に東京大学や京都大学が学力による選抜試験をせずに「学ぶ意欲のある人を全て受け入れる」ことにしたら、どうなるのでしょうか?
 二次方程式が解けない高校生がたくさんいる…という現状の中で、東大や京大の理学部数学科は、そうした低レベルの高校生を入学させて、大学の授業で二次方程式を教えろ…というのでしょうか? それでは高度な教育機関、すなわち「高等教育」ではなくなってしまいます。

 私は、以前から主張しているように、例えば偏差値60以下(あくまで便宜上の表現です)の大学は全て廃止するか、さもなくば補助金をゼロにし、その代わり「本当に学ぶ意欲があり、学力もある」人だけが通う「本当の高等教育の場としての大学」に関しては授業料を無料にすべき…だと考えています。所得に関係なく、「本当に学ぶ意欲があり、学力もある」人が誰でも安心して学べてこそ、「平等かつ公正」な教育機会が創出されると思っています。学力が無いばかりか、学ぶ意欲すらない学生でも大学に入学でき、そうした学生に膨大な国費が投入されている現状は、目を覆うものです。そのせいで、独立行政法人化した国立大学上位校の授業料が大幅にアップするとすれば、それは教育の機会均等を妨げるものとなります。

 同じことは、高等学校で行われてもよいはず。第一、日本では「誰もが受けるべき教育」「憲法で明記された教育権」を実現するために「義務教育」期間が定められています。高等学校は、その義務教育の次の段階にあるべき「高等教育」です。
 高等学校は、中学校の学習内容を全て理解している人だけが行くべきところ…です。そこで、高等学校の入試で「中学校で学ぶべき学習内容を理解しているかどうか」を試すための学科試験を課すのは当然です。その点をもってしてだけでも、厳正な入学試験は存在すべきです。中学で学ぶべき学習内容を理解していない人間が通うべき場所は、高等学校ではなく、「中学補習校」でなくてはなりません。
 さらに、入学試験で学力の差を測り、それに応じた効率的な教育を行うことの、どこがいけないのでしょう。何が「差別」なのでしょう。単に「能力に応じた高度な教育を行う」、ということに過ぎません。ここで「差別」という言葉を言い出すことこそ、「学力の差」を人間の能力の差と考えている証のようなものです。私は「学力のない人間は、人間として劣る」などと、これっぽちも思ったことはありません。優れた音楽家も、優れたスポーツ選手も尊敬しますし、学校も出ていなし有名でもない隣の家のおじいちゃんも尊敬しています。

 この問題では、都教組が使う「差別・選別」という言葉自体が、根本的におかしいと思います。学力に差が生じるのは、持って生まれた人間の学習能力に差がある以上、当然のことです。それは、人間としての「差別」とも、人間の「選別」とも無関係です。
 また、学習意欲の無い人間が、学力をつけられるわけがありません。能力差を埋めるべく猛烈な努力をし、なおかつ結果を出した人間は、高等教育の現場で同等に扱われてもいい。しかし高等教育は、「受けるための最低限の資格」が無ければ成立しません。  教育現場でやるべきことは「学力の差、学習能力の差は、人間としての本質的能力の差ではない」ということを徹底的に教えることです。それによって高学力の人間の胡散臭いエリート意識もなくなるし、逆に低学力の人間のコンプレックスもなくなります。つまり「学力の差が差別意識に結びつく」ことがなくなるのです。
 学力差と差別を結び付たがる都教組、及び同様の主張を持つ教師は、「人間とは何か」という本質的な定理を教えられない怠慢で無能な教師です。

 私は石原東京都知事という人物が嫌いです。「三国人発言」に代表される彼の言論は、とてもじゃないが高等教育を受けた人間のものではありません。本質的な差別主義者の匂いがする彼は、もしかすると「学力のランク付け」の先に「本質的な人間の差別・選別」をしようと考えているかもしれません。むろん論外です。しかしそうした人間に都合よく利用される危険性を承知の上で、この教育問題に関しては、都教組の言い分の方が間違っているように思います。

2003/7/29

■2つのニュース

 先週末、「ブリヂストンの米子会社ブリヂストン・ファイアストーンは24日、同社のタイヤをつけたフォード車で事故が多発し、2000年に大量の無料回収(リコール)をした問題で、消費者による集団訴訟が和解したと発表した。和解総額は、消費者の一部への和解金支払いを含めて約3800万ドル(45億円)」…というニュースが報道されました。2000年に起こった、フォード「エクスプローラー」の事故多発事件については覚えている方も多いでしょう。

 そしてここ2週間ほど、アフリカのリベリア内戦の様子とアメリカの派兵の動向が連日のニュースになっています。
 今朝の新聞には、「西アフリカの内戦国リベリアで27日、首都モンロビアに向けて最大の反政府勢力「リベリア和解民主連合」(LURD)が大規模な攻撃を再開した」…というニュースがありました。さらに「反政府勢力、リベリア第2の都市を制圧」…というニュースも掲載されていました。

 さて、リベリアの内戦を伝えるニュースと、ブリヂストン・ファイアストーン社の訴訟和解ニュースには、関連があります。というよりも、ご存知の方もおられると思いますが、ブリヂストンの傘下に入った米ファイアストーン社の歴史はリベリアの歴史と切っても切れない関係があるのです。
 …こうした意外な関連を見つけてニヤリとできるところも、ニュースの面白さですよね。

 米ファイアストーン社とリベリアという国の関連を説明するためには、リベリアの独立から話を進めなければなりません。

■リベリア独立の経緯

 奴隷貿易の起点となったアフリカ西海岸にあって、現代のリベリアがある地域は、かつては胡椒海岸とか穀物海岸と呼ばれていました。この地にに植民国家を建国したのはアメリカです。アフリカ大陸には、イギリス、フランス、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどのヨーロッパ諸国の植民地から独立した国が多いのですが、そのアフリカ大陸にあって、遅れてきた帝国主義列強であるアメリカが勢力を伸ばしたのが現在のリベリアでした。
 1821年、アメリカは自国の解放奴隷を現在のリベリアの首都モンロビア付近に移民(入植)させました。リベリアという国名は「自由(Liberty)の国」という意味です。この植民活動の主体となったのは「アメリカ植民協会」で、これは1816年に第5代大統領ジェームズ・モンローが設立したものです。リベリアの首都である「モンロビア」は、このモンローの名に由来しています。
 1847年、バージニア州出身の混血人ロバーツが、アメリカ憲法を参考にした憲法を制定し、共和国としての独立を宣言しました。アフリカ大陸で最初の共和国です。国旗はアメリカ国旗をそのまま模倣しました。赤と白の11本のすじは独立宣言に署名した11人を、青はアフリカ大陸を、星は当時アフリカでただ一つの独立国であったことを表しています。

 しかし、この独立したばかりのリベリアには問題がありました。「アメリコ・ライベリアン」と呼ばれる全人口の5%に満たないアメリカからの植民者(解放奴隷)だけが政府の要職に就き、特権的階級としてもともと現地に住んでいる部族を支配する構造となっていたのです。
 アメリカで支配から開放された奴隷が、新しい国で他の人々を支配する…考えてみれば皮肉な話です。この建国時に作られた「アメリカからの植民者vs現住部族」という構図が、現在のリベリア内戦の遠因ともなっています。

■ファイアストーン社との関係

 1800年代の後半になると、リベリアは深刻な財政危機に陥ります。リベリア政府は、1900年代に入るとすぐに、自国内の天然資源の利権を欧米列強に提供することで財政難を脱しようとしました。そのリベリア最大の資源は、天然ゴムでした。リベリアの天然ゴムの産出量は現在でも世界6位で、当時はアフリカ最大の産出国(現在はナイジェリア)だったのです。
 1900年代初頭に、天然ゴム農園を始めたのは英国系の会社でしたが、それはすぐにアメリカ系の会社に取って代わられます。1925年、アメリカの巨大ゴム資本ファイアストーン社(Firestone Tyre and RubberCompany)に対して広大な土地が提供されました。
 ファイアストーン社は、その設立時からフォードと深い関係を持っています。1895年にフォードの創業者であるヘンリー・フォードがファイアストーン創業者のハーベイ・ファイアストーンから試作車向けのタイヤを購入したことから関係が始まります。ちなみに、現在のフォードの会長の母親はハーベイ・ファイアストンの孫娘です。

 ファイアストーン社は、リベリア政府に対して総額250万ドルの借款を供与する見返りに、大規模な天然ゴムのプランテーションを開きました。この借款によって、リベリア政府の財政は安定しましたが、代わって植民地的プランテーション経営による原住民に対する圧政と過酷な奴隷的強制労働が出来したのです。ゴム農園を支配したのは、ハーベイ・ファイアストーンです。ハーベイ・ファイアストーンは、リベリア政府に対して自分の影響力を行使しました。また、アメリカ・ドルがそのまま公式通貨として使われました。
 1931年、国際連盟は奴隷的強制労働の査察に入ることを決めましたが、リベリア政府はこれを拒絶しました。その背後には、ファイアストーン社の強い影響力がありました。
 これが「自由の国アメリカ」の実態です。

 その後、世界中から批判を浴びたこともあって、1936年になってプランテーションでの強制労働の慣習は改善されましたが、ファイアストーン社との関係は続きました。

■その後の歴史と現在

 第一次世界大戦では、リベリアはドイツに宣戦布告し、連合軍の一員として、西アフリカでの軍事基地を提供しました。第二次大戦では、リベリア枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)に宣戦布告をしました。こうした経緯を踏まえ、第二次大戦後のアメリカ政府は、リベリアの支援に積極的に乗りだし、政治の安定と資源開発、そして民主化を進めました。
 1951年にはアメリカン・ライベリアンの女子と、原住民の土地所有者に大統領選挙権を拡大し、1957年には人種差別を撤廃しました。そのリベリアは、1970年代に入って、米ソ冷戦の影響を受け始めます。1971年に独裁者タブマン大統領が逝去し、ウィリアム・トルバーJrが新大統領になりました。ウィリアム・トルバーJr大統領は、ソ連からの援助を受け入れます。
 さらに1980年代に入ると、国内政治は一挙に不安定になります。1980年に、下士官であったサミュエル・ドーが軍事クーデターを起こし、全権を掌握します。1985年、ドーは選挙で大統領に選ばれます。さらに、1989年、チャールス・タイラーに率いられた反政府組織であるリベリア愛国戦線NPFL(National Patriotic Front of Liberia )が台頭してきました。
 この時期以降のリベリア内戦の歴史については、こちらのサイトに詳しいのでお読み下さい。


 リベリア内戦にアメリカが介入しようとしているのは、こうした経緯があります。アフリカ大陸では内戦が多発しており、1990年以降のコンゴなどは「アフリカ大戦」とも呼ばれる周辺国家を巻き込んだ大規模な内戦で、数百万人が死亡しています。こうしたアフリカ大陸の状況の中で、リベリアの内戦にだけアメリカが介入する理由は、リベリアが「アメリカの植民地」とも言うべき歴史を持った国だからです。
 また、第二次世界大戦後になっても、ファイアストーン社はリベリア国内に大きな影響力を持ち続けました。最新のデータはありませんが、1977年時点のゴムの栽培面積は、ファイア・ストーン社が3割、9000人のリベリア人園主が約5割を占めていました。

 リベリアという国については、多くの人が「世界有数の商船保有国」(とは言っても「便宜置籍船」ですが…)ということぐらいしか知らないかもしれません(パナマに次いで第2位)。当然、日本との貿易は、日本のリベリアに対する船舶輸出が主体です。こうした「名前は知られているが、実態は知られざる国」であるリベリアと、世界有数のタイヤメーカーであるブリヂストン・ファイアストーン社との関係…、面白い話だと思います。

 リベリア内戦についての見解は、ここでは書きません。シエラレオネなど周辺国の利害も絡んであまりに複雑だし、アフリカ大陸の政治状況は簡単にコメントできるようなものではありません。
 ただ、現在の多くのアフリカ大陸諸国の内戦や政治的不安定の要因が、根本的なところで18世紀以降の欧米列強による植民地的侵略にあるように、現在のリベリア内戦の遠因にもアメリカの植民政策があることは確かです。

2003/7/28

 いったい、梅雨はいつ明けるのでしょうか? でも、今日は湿度も低めで涼しく、過ごしやすい1日です。
 さて、新デジカメ(とは言っても発売後かなり経過していますが…)であるSONY「DSC-U30」の簡単なインプレッションを書きました。
 熟成したマイクロデジカメ、SONY「DSC-U30」…、興味のある方はお読み下さい。

2003/7/26

 鉢植えの観葉植物の根元に生えたキノコ、今日見たら、もう萎びて倒れていました。たった1日の短い命でした。合掌…

2003/7/25

 ジメジメした毎日が続きます。そのせいでしょうか、自宅に室内で育てている鉢植えの観葉植物があるのですが、その植物の根元に正体不明の「キノコ」が生えてきました。一見、きれいでオーソドックスなスタイルのキノコで、高さは10センチ弱です。昨夜は大きいのが1本と小さいのが1本生えていたのですが、今朝見たら、小さい方も大きくなっていました。
 ところで、この観葉植物の鉢は、屋外へは持ち出したことがありません。しかし、そこにキノコが生えるとなると、空気中を浮遊している「菌」がどこかから入ってきたことになります。つまり、室内にもキノコの菌が浮遊しているわけです。

 しかし、屋外・屋内を問わず空気中をキノコの菌が浮遊しているとなると、われわれ人間は普段からこの菌を吸い込んでいるということになりますね。…ってことは、人間の体内、特に呼吸器系の肺や気管あたりから「キノコが生える」ってことはないのでしょうか?

 ちょっと怖くなったので、調べてみました。するとやっぱり、ありました。人間の体内に生えるキノコの話が…。このスエヒロタケというキノコは、人間の肺に生えることがあるそうです。しかもこれ、食用キノコです。なんでも「肺スエヒロタケ感染症」といって、世界では7例しか報告されていないとのこと。

 しかし、世界で7例と言っても怖いですね。知らないうちに吸い込んだ「キノコの菌」が体内で生育するんですよ。何だか、エイリアンみたいじゃないですか。生きながら体内にキノコが繁殖する…、おおコワッ!

2003/7/24

 深夜にボンヤリとTVを見ていたら、ブリヂストン「REGNO」のCMで、VANILA FUDGE(ヴァニラ・ファッジ)の「YOU KEEP ME HANGING ON」という曲が流れていました。
 この曲にまつわる思い出なんかを日記として書こうと思ったのですが、ついつい長くなってしまったので、「VANILA FUDGE  『YOU KEEP ME HANGING ON』」…という雑文にまとめました。
 内容を全く推敲していないので、読みにくいとは思いますがご容赦下さい。いずれちゃんと、手を加えます(読み直して気に入らなければ削除します)。

2003/7/23

 「書店で本の必要な部分だけをカメラ付きケータイ電話で撮影する」…という、「デジタル万引き」なる行為が話題になっています。特に「イベント情報」や「美味しい店情報」などを掲載している「情報系雑誌」の売れ行きが落ちているそうで、書店や出版社からは「書店内でのカメラ付き携帯電話の使用を禁止すべき」と、強い抗議の声が挙がっています。
 私はこんな方法、考えてもみなかったので、最初に話を聞いた時には不謹慎にも「昔カメラ付きケータイがあれば、自分もやったのに…」なんて一瞬思いました。むろん、実際に書店で本や雑誌のページをカメラ付きケータイで写したことはありません。しかし考えてみれば、貧乏な学生時代に大学の生協の書店で、専門書の一部をこっそりとメモしたことは、一度ならずありますし、社会人になってからだって、仕事の資料として使うため、高価な専門書や政府刊行物の一部を書店の店頭で「暗記」してくる…なんて、よくやっていました。考えて見れば、誰もがやってた「暗記」が「カメラ付き携帯電話での撮影」に変わっただけじゃありませんか…

 確かに、イベント情報や美味しい店情報などを掲載している情報誌は、必要な部分だけをカメラで撮られちゃ商売になりません。でも考えて見れば、それで雑誌の売行きが落ちるってことは、これまでは「ごく一部の必要な部分だけを見るため」に雑誌全体を買わされていた…という読者が多かったわけです。要するにこの手の雑誌はコストパフォーマンスが悪かった、ということです。そんな情報誌は、どう考えても今後は「ネット情報」に移行するに決まってますよね。ネット上の情報サイトで情報を調べて「必要な部分だけをプリントする」ことで、紙媒体の情報誌の大半は不要になるわけです。
 情報誌なんてメディアは、ジャンルを問わずいずれ「ネット情報」に駆逐される運命にあります。特にリアルタイム性が必要なものほど、ネットメディアが優位になるわけです。「ぴあ」や「花子」は、確かに90年代においては画期的な情報媒体でしたが、ブラウザフォンの普及も含めてインターネットの本格的普及期に入った現在、その歴史的役割は終えているように感じます。

 私は、書店で「本の必要な部分だけをカメラ付きケータイ電話で撮影する」ことを「よいこと」だとは全く思いませんが、「部分的にケータイで撮る」ことで「買う意味が無くなる」ような雑誌・書籍を作っている方の責任…という話は、もっと重要だと考えています。つまり、「デジタル万引きで事足りるような本は、例えケータイでの撮影を禁止してもいずれは売れなくなる」…と思うからです。
 このデジタル万引きについては、「非常に困る」「書店の生死に関わる問題」などといった書店経営者のコメントがよく紹介されています。現在、書店の経営が厳しいことは百も承知です。本が売れないばかりか、若年層の万引き常習化による利益率の低下、さらにはBOOKOFFのような新タイプの新古本書店の登場によって、既存の書店の多くが危機的な経営状況になっています。
 しかし書店は、戦後長い期間に渡って、再販制度に守られて比較的経営努力を必要とせずにやってきた業界でもあります。個性もなにもない、ただ本を並べただけ…という書店がたくさんありました。個人的には、こうした書店業界に対しては、なんとなく同情心も薄くなります。

 本が売れなくなって困るのは、書店や版元(出版社)、取次店だけではありません。印刷会社、製本会社、配送会社、倉庫業者等をはじめ、デザイン会社、編集プロダクション、フリーのDTPデザイナーやフリーの編集者など、書籍や雑誌の世界で食べている人間は皆困ります。そして、作家やライター、カメラマンなど「コンテンツ制作者」も困るのです。
 私はその「ライター」を職業として食べているわけですから、デジタル万引きの話を「他人事」としてコメントしているのではありません。書店経営者と同じく、「わが身の問題」なのであります。書店に対して「同情心が薄い」と書きましたが、私はけっして無責任に発言しているわけではなく、「業界の当事者の一人」として発言しているつもりです。

 さて、最近の書籍業界は、こうした様々な衰退要因に業を煮やし、図書館の存在にまでケチを付け始めています。曰く「図書館がベストセラー書を大量購入するので本の売上げが落ちる」…というわけです。しかし、書籍、特にハードカバーの価格がバカ高くなっている現状、図書館は「本の読み手を育てる」という面では重要な存在です。図書館を否定することは、タコは自分の足を食い潰すことと同じです。

 出版業界の一部や既存書店から非難を浴びているBOOKOFFのビジネスだって、出版に携わる人たちがこぞって「コンテンツに対する付加価値」を追い求めてこなかったことが原因です。
 どうも、版元から書店まで書籍業界を挙げて、「大きな勘違い」をしているように思えます。
 私は「良質なコンテンツ」、しかも「印刷メディア向きのコンテンツ」とはどういうものか…について再度原点に戻って考え、印刷メディアのあり方をちゃんと議論していく…という姿勢がない限り、本や雑誌などの市場は今後も衰退の一途を辿ることは必須です。このあたりの話を書くと長くなるので割愛しますが、やはりノンフィクション作家・佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』…を一読することを勧めます。刊行時に出版業界で大きな話題になったこの本は、図書館の役割に関するスタンスとか、電子出版に関する考え方とか、インターネットの問題とか、私自身が納得できない部分も多々ありますが、現在の出版・書籍業界の全体を俯瞰するにはよい本です。ちなみに出版・書籍業界の未来のためにも、この本は図書館で借りず、ぜひ購入してください(笑)

 Yahoo!のトップページからリンクしている「今週のベストセラー」を時々見ていますが、それはもうひどい状況です。ここ数年間に渡って、ベストセラーになる本と言えば「新興宗教の教祖が書いた本」「愚にもつかないビジネス書」「タレントが書いた本」「占い本」、そして「大人が読むための幼稚な童話・寓話」…など、「クソのような本」ばかりです。まともな本どころか、ミステリーすらベストテンにランク入りすることが少なくなってきました。こうした本しか売れない現状は、出版業界、書籍業界だけに責任があるわけではなく、読み手の責任でもあることは当然です。そして、「教育」や「社会全体」の責任でもあります。

 デジタル万引きを勧めるわけではありませんが、カメラ付きケータイで撮影する人が増えてぐらいで売れなくなる本なんて、「なくなってもいい」と思います。近所にBOOKOFFが出来たからといってつぶれる書店も、いりません。くだらない本ばかり作っている版元も倒産すればいいし、くだらないコンテンツしか書けないライターも失業すればいいと思います。
 ただし、社会全体で「本の読み手を育てる努力」、そして「よい読み手に供給するよいコンテンツを作る仕組みを作る努力」は、重要だと思います。

 最後に、悪いこととも思わずマンガ本の万引きを繰り返すガキは、見つけ次第ちゃんと警察に突き出しましょう。

2003/7/22

 もうじき「土用の丑の日」です。「土用の丑の日に鰻を食べる…という風習は平賀源内の発案…という話は定説となっていますが、どの資料を見ても「真偽のほどは確かではない」と書いてありますね。まあそんな話はともかく、私の母方の実家は江戸時代から続く料亭でしかも鰻料理を中心に出していたこともあって(現在は営業しておりません)、小さい頃から食べていた鰻は好物ですし、毎年丑の日にも出来る限り鰻を食べるようにしています。

 で、この「丑の日」なんですが、丑(牛)が干支(十二支)に選ばれた理由は、各所に書かれています。まず「干支」とは、十干(かん)十二支(し)の略で、この干支による紀年法はB.C.4世紀ごろの中国で始まりました。十干は日の記号で、1ヶ月を3つの旬に分割して1順(10日)の毎日につけた記号です。支は歳月の記号で、1年12ヶ月につけます。この両者を組み合わせて60の順序を作っているわけです。
 十二支の文字には、後漢時代から、鼠・牛・虎・兎のような動物を当てるようになりました。この干支は、年だけではなく月や日にも当てられ、その他、時刻や方位に対しても当てられました。近代の暦が出来る以前の人々にとって、干支は日常生活の規範ともなる重要な意味を持っています。
 十二支につかわれる動物の種類がなぜ決まったかについては諸説がありますが、一つだけはっきりしていることは、どの動物も古くからなんらかの「信仰対象」であったり「神聖」を持っているとされているものばかりです。
 十二支に使われる動物の中でも、「丑の日」の丑、すなわち「牛」は、古代から人間社会と密接な関係にあり、その神聖の度合いの高さは、同じ十二支内にある「蛇」と並んで、世界的に共通するものです。ある意味では、最も宗教と係わりが深い動物です。

 牛を神聖視する宗教としては、ヒンドゥー教が有名ですが、ヒンドゥー教と起源を同じくする仏教でも牛は神聖な動物です。仏教の始祖とされる仏陀(釈尊)の本名は定かではありませんが(初期の仏典には個人名が書かれていない)、「ゴータマ・シッダールタ」という通称がよく知られています。シッダールタは「目的を成就した」の意味で、ゴータマ(ガウタマ)の方は、なんと「勝れた牛」「最良の牛」の意味です。仏教では、もともとヒンドゥー教と同様に、牛を崇める習慣があるわけです。
 仏教だけではなく、神道でも牛は信仰の対象となっています。
 身近なところでは、全国の「天神様」の多くには、牛が横たわっている像があります。牛は、天神さま・菅原道真公のお使いの動物として信仰されてきました。また、仏教と神道の両者で「牛頭天王」が広く信仰されています。これは牛の頭を持つ憤怒相で表される神様で、祇園精舎の守護神とも言われます。日本では厄除けの神として京都の八坂神社などに祀られていますね。

 牛に対する信仰の起源を辿っていくと、ヒンズー教やバラモン教よりさらに古い時代に遡ります。古代文明の起源の地である小アジアのヒッタイトやアッシリア、そしてメソポタミア文明において、既に牛は神聖な動物でした。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そしてヒンドゥー教、仏教など、現在の全ての主要な宗教のルーツである、ミトラ信仰において、牛は神聖な動物でありました。ミトラ神話には「聖なる牛」が出てくる話がたくさんあります。

 ところで、「全ての世界の主要な宗教の起源はミトラ信仰」と書きましたが、これはつまり「アーリア人」の信仰の話です。インド・ヨーロッパ語族であるアーリア人は、現在のヨーロッパ及びアジアの文明の源となった人々です。
 ミトラ教は、アーリア人の宗教の神の一柱ミトラを主神とした宗教で、メソポタミア周辺に定住したアーリア人(イラン・アーリア人)の宗教が元になって、ミトラ教が作られました。初期のミトラ教は、古代ミトラ教と呼ばれ、ミトラそのものはアーリア人の神話における神の名称で、ヒンドゥー教のミトラに対応しています。ミトラ教の内部で、ミトラ派とマズダー派に分かれて抗争が起こり、ザラスシュトラが生まれました。ザラスシュトラの死後にミトラ教マズダー派は教義を更に変えて、ゾロアスター教(マズダー教)として独立しました。つまり、ゾロアスター教はミトラ教の一派が発展し独立したものです。
 ミトラ教は、ユダヤ教、キリスト教、マニ教、イスラム教に直接またはゾロアスター教を経由して、極めて直接的で大きな影響を与えました。以前、この日記の中で、「キリスト生誕の日とされる12月25日のクリスマスはゾロアスター教の冬至の祭り」と言う話を書いたことがありますが、さらに起源を遡ると、「ミトラ神の誕生日」になります。
 バラモン教は、インドに定住したインド・アーリア人が、ミトラ信仰を元にして、地元の民族宗教を取り込んだ宗教です。そのバラモン教から、さらにヒンドゥー教と仏教が生まれたわけですから、仏教に対するミトラ信仰の影響は明らかです。ちなみに、仏教の「マイトレーヤ(弥勒菩薩)は、ミトラ教からの影響を直接受けたものです。
 それにしても、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が基本的に同じ宗教の分派に過ぎないことは誰もが知ってることですが、ミトラ教を起源に考えると、ヒンドゥー教や仏教も同じ起源となるのは、驚くべきことです。

 9.11テロ事件以降、さらに先頃のアメリカによるイラク攻撃などもあって、最近では専門学者だけではなく巷間のごく普通の人々の間にも広く宗教論争が交わされるようになりました。各所の掲示板などで議論されている内容を読んでみると、イスラム教に対する拒絶感は非常に強いものがあります。
 私のように、もともと宗教に興味がない人間からすると、宗教論なんてそんなに真剣に議論することなのだろうか?という疑問があります。だって、世界の主要な宗教は、基本理念というか教義というか、その概念に大きな差はありません。主要な宗教に共通する概念は、「天国と地獄」「天使と悪魔」「終末論」…みたいなものです。これは既に、ミトラ教の時代から存在した概念です。
 例えばゾロアスター教からユダヤ教やキリスト教、イスラム教への展開の過程には「二神教から一神教へ」という変化はありますが、一神教と言えども、正邪の概念は二神教とたいして変わりません。「天国と地獄」「天使と悪魔」「終末論」は、多少形は変わっていますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そしてヒンドゥー教や仏教にもあるものです。私なんか、各宗教の「基本的な部分での違い」がよくわかりません。
 あくまで個人的な思いですが、現在世界中で起こっている宗教間の争いを見ていると「実につまらんことで争っている」という感が否めないのも、こんなところにあるのでしょう。


 いやはや、「土用の丑の日」の「牛」の話が、妙な方向に展開しました(笑)
 たかが牛、されど牛…です。

2003/7/18

 中学生が集団で同級生をリンチ殺人した沖縄の痛ましい事件、12歳の少年が4歳の少年を殺した長崎の事件、そして小学生の女の子4人の監禁事件と、私のような人間には理解し難い事件が続いています。
 こうした事件が続発する原因と是正のための対策について、社会学者、教育学者、新聞の論説委員、そして政治家から果てはワイドショーのコメンテーターやタレントまでが、寄ってたかって何かしらの私見を述べています。彼らの意見は様々ですが、1つだけ共通する意見があります。それは、「昔はこんな社会ではなかった」…と言う部分です。「最近の子供は…」とか「最近の学校教育は…」とか「最近の家庭教育は…」などと、近年の社会環境や教育環境、家庭教育などを槍玉に挙げ、結果として「昔はこんなふうじゃなかった」と言います。
 彼らの言うところの「昔」が、いつの時代を指すのかわかりませんが、まあ発言している人たちが50代以上の人が多いので、20〜30年ぐらい前のことを指すのでしょう。
 確かに、この20〜30年で社会環境は大きく変わりました。30年前にはファミコンもなかったし、インターネットもありませんでした。しかし私は、いろんな人が声を揃えて言うほど、「昔と今」が変わったようにも思えないのです。
 子供や若者が起こす不可思議な事件、殺伐とした事件の要因を、昔と今の家庭教育の違いに求める人は一番多いようです。確かに、「DQNな親がDQNな子供を再生産している…」という意見には少なからず首肯する部分もありますが、昔はDQNな親がいなかったか…となると、やっぱりたくさんいたと思います。
 社会モラルの低下を原因に挙げる人もいます。しかし、モラルの低下と言ったって、昔の人間は高いモラルを持っていたのか…とあらためて問われると、そうとも言い切れません。だいたい、昨今の60代、70代以上の人間のDQN具合といったら、ひどいものです。現在「老人世代」であるレイプを勧めるハレンチ国会議員や、モラルのかけらもないトップ官僚、無定見な銀行経営者などを見ていると、彼らがちょうど「子育て」をする世代であった30年前は、現在よりも家庭教育がマトモだった…なんて、とても思えません。
 高度成長時代と違って今は将来への希望がなくなった。だから夢を無くした子供や若い世代が犯罪に走るんだ…という意見もあります。しかし、こうした意見も怪しいものです。私が子供の頃は「輝く将来への希望に満ちた社会」であったかどうかを考えると、別に今とそれほど変わりません。お金がない家庭の子供は、やはり進学や将来選択に対するハンディがあったし、大学卒業時の就職状況だって、特によかったわけではありません。
 受験教育やら詰め込み教育やらを、子供の暴走の原因に挙げる人もいますが、私が高校受験、大学受験をしていた頃も、それはすさまじい受験戦争でした。

 要するに、30年前も現在も、社会環境はあまり変化したようには思えないのです。私なんかはっきり言って高校時代なんかは完全な「不良」に近いわけで、ロクに学校にも行かず、学校内でタバコを吸っているのを見つかって停学になったこともあります。私の中学時代にも学校内でも「いじめ」はありましたし、高校時代には暴走族に近いヤツらもいました。

 結局のところ、昔も今もヘンなヤツはいたし、犯罪者もいた。ただ、現在起こる犯罪の一部は「質が変化した」ので、理解しにくくなって大人が苛立っている…という構図なんだと思います。例えば、先に書いた「レイプを勧めるハレンチ国会議員」にとっては、性欲に任せて女性を襲う行動は理解できても、ネット上の出会いサイトが原因で起こる性犯罪は理解できないのでしょう。「モラルのかけらもないトップ官僚」は、お金目当ての露骨な収賄は納得できても、オークションを利用したネット詐欺となると、同じお金目当ての犯罪でも何が何だかよくわからないのでしょう。要するに、「自分たちに理解できない若い世代の行動」に苛立っている感じがあります。
 こういう「大人」や「老人」の姿を見ているのは、なんとなく滑稽でもあります。だから、ここのところ続発している子供や若者の犯罪事件に関するニュースを見ながら、事件に対する大人たちの画一化された反応を見て、少し距離を置いて観察している状況です。

 それにしても、長崎事件や女の子の監禁事件を機に、またしても2ちゃんねるが叩かれていますね。今朝TVを見ていたら、ワイドショーのレポーターがひろゆき氏にインタビューをしていました。「人権侵害に当たる書き込みが続いていますが、掲示板の管理者の責任についてどうおかんがえですか?」と質問し、それに対してひろゆき氏が、「書き込む人間はモラルがないとは思いますが、人の口に戸は立てられませんから…」なんて、あの緊張感のない口調と表情で言うものだから、レポーターは怒っていました。あの、ひろゆき氏の「つかみみどころの無さ」に余計腹が立つのでしょう。私は、見ていて笑っちゃいました。
 不特定多数の人間が書き込む匿名掲示板の書き込み内容に対して、運営管理者の責任がどこまであるのか、私は判断できません。しかし、2ちゃんねるのような「匿名掲示板」は、私は重要な存在だと思っています。一部の識者や人権派弁護士などが主張している「匿名での発言は不可」という形にすることには絶対反対です。まあ「表現の自由」なんて大上段に構えた理由ではなく、「誰でも好きなことが言える社会」を本能的に必要だと感じているからでしょう。ここで「人権侵害」が起きないようにするためには、「書き込む個々の人間のモラル」に頼る以外にありません。それが出来るからこそ「人間が作る社会」なんだ…という、祈るような気持ちもあります。私自身も2ちゃんねるではけっこう悪口を書かれた経験がありますが、それでもなおかつ私は、「自由にモノが言える社会」というヤツを重要だと思っています。このあたりは、私の信じている数少ない「原則」の1つでもあります。

2003/7/17

 いや、最近はデジカメとは無関係のヨタ話ばかり書いていますが、実はデジカメの話なんて、あまり書くことがありません。でも、時々は何か書かないとなぁ…なんて思っていたら、思わぬメールを頂きました。
 私が書いたこちらの文章を読まれた方から、「あなたの言うことは間違っている。極小画素CCDを採用した劣悪な画質のデジカメを作るメーカーはもっと糾弾されるべきだ。あなたのようなメーカー寄りの発言をする人がいるから、デジカメがダメになっていく…」…という主旨のメールです。読んで、「うわっ」と思いました。

 いや、私はデジカメのメーカーがダメになろうとなるまいと知ったことではないし、また日本のデジカメ産業の発展に貢献しよう…なんて高尚な気持ちはコレっぽっちもありません。安いデジカメで日夜スナップを撮ってるだけの、至って軽薄な人間です。
 第一、私はこの個人的サイトは「遊び」で運営しているわけで、心にあることないこと、いいかげんに書いています。つまり、「適当な内容」を書いて遊んでいるだけです。
 しかし、「あなたのようなメーカー寄りの発言をする人がいるから、デジカメがダメになっていく…」」なんて書かれると、ちょっと反論したくなるのが私の悪い習性です。
 そんんわけで、久しぶりにデジカメ話を書いてみました。
 題して「CCDのサイズ(画素ピッチ)問題と写真の本質」…です。半分は冗談だと思ってお読み下さい(笑)
 適当に書いたので誤字・脱字だらけだろうし、そのうち手直ししたり、もしかすると削除するかもしれません。

2003/7/16

 昨日のCUBEパソコンの自作話の続きですが、個人的にはあまりパソコンのデザインにはこだわらない方です。実用性から見れば、しょっちゅうHDDやCPU、ビデオカードをグレードアップしてしている私のオフィスなんかでは小さい筐体のパソコンは使えないし、冷却の面から見ても不利です。
 とは言え、「小さいパソコン」はなんとなく魅力がありますね。そのうち1台作ってやろうとは思っていました。問題は用途です。
 数年前にFlex-ATXタイプのマザーボードが登場して以降、小型で安価なパソコンは作りやすくなっています。最近はFlex-ATXよりさらに小さいMini-ITXフォームファクターのマザーが登場し、特にVIAが注力しています。同社のEPIA やEdenが大ヒットしたのは、ご存知の通りです。さらに、5インチベイサイズのマザーだってあります。
 Mini-ITXマザーでは、VIAの「VIA EPIA」シリーズの「M10000」が使いやすそうですね。「M10000」は、Ezra-TコアのC3を搭載した製品が販売されていましたが、最新製品ではNehemiahコアのC3を採用しています。Nehemiahコアでは、L2キャッシュ構成が16-way associativityとなり、SSEをサポートしているので、かなり性能はアップしています。
 もっとも、CPUやチップセットが多少高性能化したとは言え、C3の1GHzではマルチメディア用途で使うにはスペック不足。むろん3Dゲームも厳しいし、オフィスアプリだってハードに使うにはちょっと厳しい。しかし、用途を絞れば面白いパソコンができそうです。

 さて私は、この「M10000」を使って、小型パソコンを1台作ろうかと考えているのですが、今考えているのは、デスクトップに置ける小さな「インターネットラジオ視聴・録音用マシン」です。こんな感じのマシンを目指そうかなぁ…。高音質のUSB接続外部音源と高音質のアクティブスピーカーとセットで使ったら、オーディオセットのような雰囲気になってよさそうです。

 前にも書きましたが、ラジオというメディアはもともと大好きです。かなり徹底した「ながら族」の私は、仕事をしている時も読書をしている時も、絶対に「音」が必要です。でも、深夜静かにクラシックが流れている…なんて環境はかえって落ち着きません。周囲に、ある程度ガチャガチャした「ノイズ」があった方が仕事に集中できるのです。そんな私にとって、ラジオは最高のメディアの1つです。
 CDや自作のMP3曲集など、パッケージ化されたメディアでBGMを楽しむのも悪くありませんが、セットするのが面倒だし、好きな曲ばかりだと「ノイズ」になりません。音楽の方に気が行ってしまい、かえって集中が削がれます。私は、ラジオの持つ「適度なノイズ感」が好きなんです。
 オフィスではFM放送を流しっ放しにしている私ですが、自宅では深夜にインターネットラジオをよく聴いています。いつも聴いている番組は、だいたいがClassic Lockと呼ばれるジャンルですね。WMP9などに登録されているラジオ局は低ビットレートのものばかりで音質はイマイチです。しかし、「RadioStorm」あたりを探すと、かなりの音質で聞ける高ビットレートの放送局があります。せっかくのブロードバンドですから、高ビットレートの局を探して視聴したいものです。
 そのインターネットラジオ、あまりやっている人は多くはありませんが、録音して楽しむことができます。「S rec」を始め、リアルタイムで録音して]MP3ファイル化できる様々なソフトがありますから、高ビットレートの局を聞いているのならぜひ試してみましょう。

 ところで、莫大な税金をアナアナ変換に注ぎ込み、各方面からの強い批判を浴びながらおバカな役人が強引に進める地上波デジタルTVの話題の影に隠れていますが、今年の秋から始まる地上波による「デジタルラジオ放送」が面白そうです。実は、かなり楽しみにしています。もともと地上波テレビのデジタル化で空くことになるVHF帯の電波を有効利用するために総務省が計画したもので、音質はCD並みとのこと。
 10月から始まる試験放送は、東京、大阪の一部地域です。こちらこちらを読むと、「関東では1セグメントあたり100ワットというから、おおざっぱに東京・神奈川・千葉・埼玉の東京タワー寄り半分ぐらいの地域では聞こえるはず…」とのことですから、オフィスでも自宅でも視聴可能でしょう。どちらも東京タワーがくっきりと見える場所ですから…。
 試験放送開始にあわせて、専用受信機の開発も進んでいるそうです。受信機の価格はいくらぐらいになるのでしょう。また、CD並みの音質…となると、著作権問題が起きることは間違いないでしょう。電子透かしを入れるとか、コピー防止機能を採用する…といった形になりそうですね。
 この地上波デジタルラジオ受信機、パソコンに内蔵可能なPCIカードタイプの受信機の商品化を期待しています。そうしたら、前述の小型PCに内蔵できるし、HDDに録音できて便利ですよね。
 そういえば先日、「地上波デジタルTVが見られる携帯電話」というのをNECが試作しました。しかし、バッテリーの問題が解決できるかどうかわかりません。私はむしろ、「地上波デジタルラジオが聴ける携帯電話」が欲しいですね。こちらの方がチップの消費電力が少なくて済み、液晶表示用電力も不要なので、ずっと実用的だと思うのですが。どうでしょう。

2003/7/15

 世間がどう考えようと、また法律がどうなっていようと、私は世間の大勢に反して「モラルに反するとは考えていないこと」がいくつかあります。
 まずは「マリファナ」、次いで「P2Pソフトによる楽曲データの交換」、そして「不倫」です。

 まず、マリファナについて。私は機会があれば嗜みます。むろん、法治国家に住む私は法律を守って暮らしておりますので、自宅の押入れでこっそりとシンセミアの栽培なんかはしていません。でも、嗜んでも罪ではない国に滞在している時は、遠慮なくやります。

 次は「P2Pソフトによる楽曲データの交換」ですが、これについては現在私がやっているかどうかはノーコメントとさせて頂きます。ただし1つだけ言っておきますが、「P2Pソフトで楽曲データを交換してもよい」というのは、私が友人と作っているような「友人・知人間で作るクローズドなP2Pネット内での交換行為」を指しています。
 私は、ミュージシャンと聴き手の間で妙な仕組みを作って、正当な楽曲の対価から搾取している「音楽産業」のあり方には大きな疑問を持っています。また、膨大に蓄積された楽曲資産の中から「メガヒット」だけを狙ってリリースし、膨大な蓄積を持つ過去の優れた楽曲群を適正な価格で公開しない音楽産業には不満を持っています。個人とその友人間で、「既に廃盤になっていて買えない楽曲を交換する」という行動は、「優れた音楽を流通させる」役割を持っていますし、CDの売上げを妨害するものではありません。
 ちなみに私は、同世代の平均的な人間の10倍以上は、きちんと対価を支払って音楽ソフトを購入していると思います。

 そして3つめは「不倫」です。つい先頃も、J2サッカーチームの監督とNHKアナウンサーの不倫が騒がれました。また、以前「不倫は文化だ」との迷言を吐いた芸能人がいましたが(そんなもん文化なわけねぇだろ!)、意味不明の発言ながらちょっと笑っちゃいました。
 さて、不倫の定義はいろいろとあるでしょうが、もっともシンプルな定義は「既婚者が本来のパートナー以外の相手と恋愛する」ことですよね。もう少し定義を固めるならば、「既婚者が本来のパートナー以外の相手と恋愛し、性的な関係を結ぶ」…というのが正しい定義でしょう。片方だけが既婚者の場合もありますし、双方とも既婚者の場合もあります。
 不倫という言葉は「倫理にもとる」という意味でしょうが、私はなぜ「既婚者が本来のパートナー以外の相手と恋愛し、性的な関係を結ぶ」ことが倫理にもとるのか、理解できません。
 ごく単純に考えても、誰かを好きになることは悪いことじゃないし、好きになった異性とセックスするのも当然です。問題は、出会いには「順序」ってヤツがあることです。
 人生なんて先々どんな出会いがあるか予測できないわけで、ある時期「この人が最高、一緒に生活したい」と思って結婚しても、その後もっとよいパートナーにめぐり合うことだってあります。経年によっても「最初にパートナー契約をした相方が最高」という状況が続けば、それにこしたことはありません。しかし、人生で「明日のこと」はわかりません。こんなことを書いている私には、不倫の経験が一度ならずあります(立場はいろいろですが…笑)

 今日の画像は、組み立て中のCUBE型PCです(D505iで撮影)。
 これは、「Shuttle SK41G」というベアボーンを使ったものです。SK41Gは、一世代前のVIA KM266/8235というチップセットを使ったマザーなので、最近では2万円台半ばと格安で入手できます。Barton(バートン)コアのAthlonは使えませんが、とりあえず旧コアのAthlon2400(いまや1万円以下)を搭載して、パフォーマンス的に問題はありません。AGPスロットもあるので格安のGforce4のカードも挿しました。メモリはPC2700のDDRを512MBです。
 80GBのHDDを入れて全部で5万円強ってところでしょうか。ShuttleのCUBEケースはデザインも悪くないし、全体的にはよいマシンですね。
 でもこれ、私のじゃありません(笑)

2003/7/14

 今日は「タグ」についてです。タグと言っても、HTMLのタグではありません。「インドの秘密結社」の話です。

 昨夜、仕事で使う資料を探すために本棚をひっくり返していたら、昔読んだ面白いタイトルの文庫本を発見し、なんとなく深夜までかかって再読してしまいました。山際素男著「カーリー女神の戦士」(集英社文庫)…という本です。
 この本は、ある種の「伝奇小説」であり「奇書」と言ってもよい内容です。インドの殺人教団「タグ」の一族に生まれた男の半生を描く冒険譚なのですが、最初に読んだ時には、「完全な作り話」だと思いました。しかし、本のあとがきで作家の五木寛之が「世界史上類をみない殺人集団…」「14世紀以降500年間に渡って2000万人以上の人間を絞殺し続けた…」「イギリスの行政官であるウィリアム・スリーマン卿がその掃討に半生を費やした…」などと書いているのを読んで、「これは実話をもとにした話」だと理解しました。
 また山際素男という著者も、けっして伝奇作家なんかではありません。現代インド研究家でもありジャーナリストでもあって、インドやチベットに関する優れたノンフィクションなど多数の著作があります。

 それにしても、この「タグ」という殺人集団が実際にインドに存在し、しかも「500年間に渡って2000万人以上の人間を絞殺し続けた」となると、これほど世の中に知られていないのは不思議な話です。だって、この博識を自負する私が知らないんですから(実は誰でも知ってる話だったりして…笑)

 この「カーリー女神の戦士」という本、1984年に発刊された文庫本であり、現在は既に絶版になっています。20年近く前に読んだ時にも、この「タグ」という集団に興味を持ったのですが、調べる手段もなく、そのままになっていました。
 しかし、20年前とは状況が異なり、現在は「インターネット」という便利な代物があります。そこで、Gogleを使って情報を検索してみました。するとネット上で名前は散見されますが、信用するに足るまともな資料は出てきません。英語のサイトでも検索をかけてみましたが、短時間の検索では適切な資料を発見できませんでした。「インド:India、秘密結社:secret society、殺人:murder」など様々なキーワードを入れて見た他、ウィリアム・スリーマン卿のスペルを「William Schliemann」などと推定して、検索もかけてみましたが、タグに関する情報を入手することは出来ませんでした。うーん、なんとなく消化不良です。「タグ」に関する詳しい情報が知りたくてたまりません。

 インドの秘密結社と言えば、「タグ」以外に「サギー」が知られています。これは映画「インディー・ジョーンズ 魔宮の伝説」に登場することでも知られていますが、この「サギー」も実際に存在した教団のようです。「タグ」と同様に、ネット上にその名前は散見されますが、詳細な資料は発見できません。

 そういえば昨日の昼間、知人のインド人のシェフ、サティヤさんと会いました。彼は、池袋のレストランをやめてから、新宿のカフェで働いているのですが、昨日の昼食はそのサティヤさんのいるお店で食べたのです。彼は、先月1ヶ月ほど家族連れでインドに帰っていたのですが、故郷はどうだったのかを聞いたら、「摂氏50度の日が続いて大変だった」と言ってました。そういえば先月、「南インドで熱波のために死者続出」というニュースを読んだ記憶があります。
 昨夜、たまたま本棚で目に付いた「カーリー女神の戦士」という本を再読することになったのは、昼間インド人のサティヤさんと会ったことがきっかけになっているのでしょう。人間の行動のもとになる動機は、いつも単純です(特に私は単純です)。今度サティヤさんに、「タグ」について聞いてみようかと思っています。

 それにしても、「カーリー女神の戦士」という本、古書店や図書館などで見つけたら、是非一読してみてください。

2003/7/11

 昨夜遅い時間に帰宅してぼんやりとTVでスポーツニュースを見ていたら、大相撲名古屋場所の取り組み結果をやっていました。で面白かったのは、結びの一番で横綱朝青龍が旭鷲山をはたき込んだ際に「まげをつかむ反則があった」ということで物言いがつき、結果朝青龍の反則負けになった…という取り組みです。
 私は相撲に全く興味がないので知らなかったのですが、朝青龍と旭鷲山の2人の関取は先場所も対戦して朝青龍が負け、その時に負けた朝青龍が旭鷲山に非礼な態度をとって問題になったんだそうです。
 で、先場所の話と昨夜の反則負けを合わせて、番組のキャスターが「朝青龍は横綱に要求される品格に欠けるのではないか」といった話をしていました。いや、相撲なんて格闘技なんだから、品格なんてものよりも闘志を剥き出しにして戦う姿勢を見せた方が面白いと思うんですけど。

 私は、力士の土俵上の態度に要求される「品格」なるものが、よくわかりません。だって、素っ裸にマワシを締めて格闘する相撲って、競技自体に「品格」を感じないじゃないですか(私とは異なる見解をお持ちの方もおられるでしょうが…)。あの格好で「品格」を求められても無理でしょう。マワシなんて言っても、要するに「一種のフンドシ」なわけで、あんなフンドシのような下品な衣装を身にまとって競技するスポーツは、世界を見渡しても他に類を見ません(私が知らないだけかもしれませんが…)。

 先に「相撲には全く興味がない」と書きましたが、実は一度だけ国技館に相撲の本場所を見に行ったことがあります。取引先からの接待で「マス席」に招待され、土俵にも花道にも近い場所で見ていたのですが、それはもう圧倒されました。いや、取り組み自体にも迫力があったのですが、それよりもすぐ近くを巨大な男がハダカでウロウロしている…状況に圧倒されたのです。
 デカいお尻が、目の前にあるのです。マス席ではお弁当が出るのですが、大男の汚いお尻を見ながら弁当を食べるのには、ちょっと参りました。すぐ近くで見ているので、お尻にできたブツブツまで見えるのです。取り組みを終わった力士のお尻には砂がいっぱい付いていて、非常に汚いものでした。また、何だか熊みたいに毛むくじゃらの力士がいて、汚いお尻の中心部に近いところにいっぱい毛が生えているのを見たときには、かなりショックを受けました(笑) メシを食いながら見るものじゃないですね。それに、「尻毛ショー」と「品格」は、やっぱり相反するものだと思います。

 なぜ、相撲ではパンツをはかないのでしょうか。いや競技の形態や技の種類から見て「マワシ」が必要なことはわかりますが、マワシの下にパンツをはいた方がよくはありませんか? 確かモンゴル相撲では、競泳用水着のようなパンツをはいてましたよね。シルムと呼ばれる韓国相撲(日本の相撲の起源とも言われています)はどうなんでしょうか?
 「伝統的国技だから」…という、たったそれだけの理由で、ハダカに近い格好(ある意味でハダカよりも猥雑な格好)で競技を行ってもよい…ということにはならないでしょう。ギリシャ時代には全裸で競技していたオリンピックも、歴史は相撲よりも古いですが、現代では各競技ともにスポーツウェアを着ていますよね。今のままでは、ますます若い世代は相撲から遠ざかるでしょう。

 ところで、朝青龍の反則負けの原因となった「チョンマゲ」(審判の場内アナウンスでもチョンマゲという言葉を使っていました)、その「チョンマゲ」という言葉の語源について面白い話を見つけました。こちらのサイトです(ただし、このサイトの隣国に対する考え方には賛同できません)。それこそあまり上品な話ではありませんが、他のサイトでもこの説を採用しているところがありました。…というよりも、Webで調べた限りではその他に有力な説がない感じです。誰か「チョンマゲ」の正確な語源についてご存知の方があれば、教えてください。

 「画像日記」なのに、今日も画像はありません(笑)

2003/7/10

 「殺人未遂逮捕−12年前の容疑者がTVに出演し警察にばれる」というニュース、ミステリー小説の結末のようで実に興味深いものです。ところで私は、この容疑者が出演した6月27日放送のNHK「にんげんドキュメント」をたまたま見ていました。
 別に感動・感心するような話ではなく、年配の容疑者が何年も四国八十八カ所の巡礼の旅を続けるお遍路さんとして紹介され、地元の人の接待で命をつなぎ、俳句でお礼する様子を映したものです。

 この「お遍路さん」の話は、TVのドキュメンタリーの題材としてよく使われます。リストラされた中年男性がお遍路を通じて自分を見つめる…といった切り口が多いですね。前に見た番組では、まだ20代前半の若者が人生に疑問を感じてお遍路を続ける姿をやっていました。

 宗教や寺社参拝に全く興味がなく、しかも、あらためて「自分を見つける」とか「自分を見つめ直す」という行動をとった経験がない私にとって、「遍路」なんて行動は不可解極まりないものです。寺を回って、いったい何が面白いのか、何のメリットがあるのかわかりません。むろん、気分転換の意味で旅行として四国に行くとか、観光として四国の山の中を歩くというのなら理解できます。しかし、「自分を見つける」とか「自分を見つめ直す」なんて、別に寺を回らなくてもできるじゃないですか。「自分を見つめる」なんて作業は、日々の生活の中でやればよいことであって、「寺」なんて無関係です。

 結局のところ、「遍路」という行動は、実際に実行する人にとっては宗教的な意味が1〜2割くらいで、あとは「日常はまずやらない、つらい長距離歩行によって、ある程度肉体を苛め、不条理な競争社会に生きている現実を忘れ(現実から逃避し)、自分のことだけを考える」…のが目的なのでしょう。
 これは、宗教で言うところの「修行」や「苦行」の意味と似たようなものかもしれません。

 ところで私には、「修行」や「苦行」っていう行動も理解できません。キリストも断食修行をしたし、十字架に貼り付けられたつらい時間を過ごしたことにもなってます。仏陀もマホメットも「悟り」をひらくまでには何かしらの修行しました。原始キリスト教にはヨガのような修行がありますし、ヒンズー教にはその「ヨガ」という苦行があります。道教や儒教でも、道士や仙人になるための修行があります。そういえば、某オ○ムなんかでも、妙な修行とかを義務付けてました。宗教と修行は、切っても切り離せないもののようです。

 でも、考えてみると、歴史を変えるような偉大な発見も、歴史に残る優れた思想も、別に修行などしていない人間の頭脳から生まれています。「つらい修行をやることで何かを会得する」…というプロセスなんか、何ら合理性がありません。荒行や長期間に渡る修行を続けて「聖人」と呼ばれるようになった人はたくさんいますが、真理に到達するのに、肉体を追い込まなければならない…という論理自体が理解できません。
 ある高僧が言っていたのですが、仏法では「誰もが否定できない当たり前の事」を「法(真理)」と言うのだそうです。仏法の基本となる真理は「悪いことをしては、いけませんよ、良いことをしなさい」…と、まあこういうものです。
 そんなもん何十年も修行して出すような結論か?…と思うわけです。だいたい宗教で言うところの真理だの教義だのは、単純なものが多い。当たり前です。高度な学問を修めていない一般大衆にも理解できるように、出来る限り単純な内容でなければ、教義なんてものは成り立たない。だから、古今東西のどの宗教でも、モノの善悪や人の生き方など、基本となる教義で言っていることに、大きな差はありません。こうした単純な真理を、つらい修行を経てしか考え付かなかった宗教家って、みんな頭が悪いんでしょうか?
 あと、荒行でよくやる「長時間睡眠をとらない」なんてのは、それによって脳内にドーパミンを分泌させて擬似的にトリップする目的もあるそうです。つまり、薬物を使わずに「ハイ」になれるってことですね。

 以前TVで、比叡山で荒行である「千日回峰行」を何度もやったという「大阿闍梨」なる人物が、一種の「聖人」として紹介されていました。自分の体を極限まで苛める…なんてことをやるだけで、「聖人」になれるってのが、安易な感じですね。第一、TVで見た「千日回峰行」の修行内容なんて、一流の登山家なら簡単にこなせそうな代物です。こんなことを書くと、「じゃあお前やってみろ」なんていう人もいるかもしれませんが、御免です。別に、マゾじゃありませんから…(笑)。
 自分を肉体的に限界まで追い込むことなら、一流のスポーツ選手なら誰でもやっていることです。千日間どころか何年も自分の体を徹底して苛めているスポーツマンならいくらでもいるでしょう。ともかく「千日回峰行」なる荒行を繰り返した人は「聖人」だなんて、じつに安易なものですね。

 繰り返しますが、歴史を変えるような偉大な発見も、歴史に残る優れた思想も、別に修行などしていない人間の頭脳から生まれています。アインシュタインは、荒行などしなくても相対性理論を考えつきました。偉大な文学者であり思想家でもあるゲーテは、荒行をするどころか無類の女好きでした。
 私は、禅もヨガも含めて、全ての「修業」は無意味だと思っています。もし私が、「自分を見つめたい」「何か偉大な思想を後世に残したい」とでも思った時には、好きな女性と一緒に楽しく飲み歩くことを目的にした旅にでも出る…ことにします(笑)

2003/7/8

 「ウナギの完全養殖に成功 世界初、水産総合研」というニュース、朗報です!
 記事中に「…食卓に上るウナギは95%以上が天然の稚魚(シラスウナギ)を育てた養殖物。価格はシラスウナギの漁獲に左右される。天然ウナギは乱獲などで絶滅が危ぐされており…」とあるように、私は好物であるウナギの漁獲制限や絶滅を恐れていました。  独立行政法人水産総合研究センター養殖研究所(三重県南勢町)の田中秀樹ウナギ種苗研究チーム長…を中心とする方々の、長年に渡る努力の結果とのことですが、たいしたものです。みんなで、水産総合研究センターに偉業を称えるメールを送りましょう。

2003/7/8

 昨日に続いて嫌いな言葉…、今日は「維新」です。
 そう、なんとなく「主張」が込められている言葉ですが、多くの場合、非常に安易に使われ、「マニフェストばかりで中身がない」人たちが好んで使います。よく似た使われ方をする言葉に「回天」というのがあります。「回天」は「維新」よりも、さらに「劇的な変化」を意識させたい時に使う言葉です。戦前の旧軍も含めて、右寄りの人々も好んで使いますね。そうだなぁ、左寄りが好んで使うのが「革命」で、右寄りが好むのが「回天」ですかねぇ…

 さて、「維新」を辞書(大辞林)で引いてみれば、次のような意味です。

   〔「維(これ)新なり」の意。詩経(大雅、文王)「周雖二旧邦一、其命維新」から〕
    (1)すべてのことが改められて、すっかり新しくなること。
    (2)明治維新のこと。御一新。

 まあ、意味からすれば、たいていの場合は「維新」なんて妙に力んだ言葉でカッコつけなくても、「刷新する」なり「一新する」なりで十分です。それでも、「維新」という言葉が多用される背景には、「維新」という言葉が持つ一種の魔力があるようです。  この「維新」という言葉、保守・革新を問わず「政治家」が好んで使うことは周知の通りです。政治家の団体には、「○○維新の会」なんてのがよくあります。企業経営者も維新好きが多いですね。政府の経済財政諮問会議が「新世紀維新−日本経済再生シナリオ」なんてレポートを出したこともあります。「技術維新」とか「人材維新」なんて言葉も、変革をテーマにする企業のレポートの中などでよく使われます。格闘技の世界でもよく使われますね。「平成維新軍」やら「空手維新」なんて団体がありますね。その他、劇団とか趣味のサークルとかでも「…維新」という名前を付ける例は、かなり多いようです。

 政治家や企業経営者を始め、「維新」という言葉をやたらと使いたがる人々は、やはり「維新」のもう1つの意味である「明治維新」を頭の中に描いているケースが多いんでしょうね。要するに、明治維新に対して何らかの思い入れがあるんでしょう。下手すると、「自分は志士だ」なんて思い込んでる人もいるかもしれません(笑) 自分が訴える変革を「維新」と名付ければ、必然的に自分自身が「志士」に置き換えられる…ということですね。

 だいたい私は「明治維新」という歴史上の出来事に対して、何ら思い入れがありません。西欧と較べて遅ればせながらの、一種の「市民革命」であったことは確かですが、別に現代史で使われる本来の意味での「市民」が主体になったわけではありません。また経済構造の変革という視点から見ると、封建制社会から資本主義社会への変革を行う「ブルジョア革命=市民革命」だった…というには、かなり半端な変革です。というのも、既に江戸中期以降、「ブルジョア=市民」は実質的な経済力で武士を凌駕していたわけで、明治維新によって社会を支える経済構造が根本から変わったわけではありません。戊辰戦争の折に薩長軍に出資したのは、関西の「豪商」達であります。影の主役である豪商の手先になって戦ったのが薩長軍…という構図はよく知られているところ。むろん、出資したお金は、維新後に何百倍、何千倍にもなって帰ってきました。結局のところ明治維新なるものの正体は、「革命」というよりは「一種の権力闘争」であった…という感じです。

 その明治維新を好きな人が称えてやまないのが、「志士」なる面々です。
 まあ、「志士」なんて呼ばれる人々の正体は、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆など明治まで生き残った志士たちを見ればわかります。ほぼ全員が政府の高官としてめいっぱい出世し、国家と国家の資産を好き放題に私物化したのは間違いのないところ。おまけに、全員が自分で自分に対して「爵位」を授与して贅沢三昧をしました。野に下って政商になった志士もいますが、いずれも国有財産の払い下げを受けて財を成したヤツばかり。「志士」の大半は、その後の行動を見るとモラルのかけらもありません。
 たまたま「志半ば」で死んだ高杉晋作やら坂本竜馬やらは、ほとんど根拠も無く美化されています(頭の悪いアジテーターである司馬遼太郎の影響なんかが大きいかも…)。まあ歴史に「if」は禁物ですが、もし彼らが明治時代まで生きていたら、きっと政府の高官になった上で汚職にまみれ、「公爵」やら「伯爵」やらを受けて華美な生活を満喫した…との推測が、当を得ているようです。

 …悪態をつくのは、この辺でやめときましょう。明治維新好き、志士好きの方々にはゴメンナサイです(笑)

2003/7/7

 私は「生きがい」という言葉が嫌いです。
 「生きがいを見つけよう」とか、「もっと生きがいのある仕事をしたい」とか、「自分の人生には生きがいがない」なんて言葉を聞くと、何だかなぁ…って感じです。
 「生きがい」を辞書で引くと、「生きるに値するだけの価値。生きていることの喜びや幸福感」(大辞林)とあります。「生きるに値するだけの価値」って、意味不明の言葉です。人は何らかの「価値」が無ければ「生きるに値しない」のでしょうか? その「価値」っていうのは、いったい何でしょうか?
 例えば、私自身は、自分が「生きがいを持った人生」を送っているのかどうかなんて、よく判りません。そんなことは、生まれてこの方、一度も考えたことがないからです。
 自分が仕事を選択する時には、「生きがい」なんてよくわからないもので判断したりしません。「お金になるか」「楽しいか」のどちらかが判断基準です。友人と話したりする時間や趣味の時間は、「楽しい」時間であって、別に「生きがい」なんて曖昧なものとは無関係です。
 人はなぜ、「現在の生活が楽しい」と言わず、「現在の仕事には生きがいを感じる」と言うのでしょうか? 「楽しいかどうか」と「生きがいを感じているかどうか」が、意味の違う言葉であるなら、「生きがいは感じているけど楽しくない」または「楽しいけれど生きがいはない」というシチュエーションがあるということになります。
 私には、「生きがいは感じているけど楽しくない」も、「楽しいけれど生きがいはない」も、どちらの状況も具体的にイメージがつきません。
 「楽しい」と言わずに、あえて「生きがい」という言葉を使うところに、「何だかよくわからない精神的な価値」に人生の拠り所を求めたい…という弱さを感じます。例えば、「自分の生活は苦しい」としても、「生きがいのある人生を送っている」と自分で自分で言い聞かせることで苦しさに耐える…というネガティブな思考を感じます。また、味気ない人生を送っていても、「自分は生きがいを持っているから救われる」…というふうに、自分自身を納得させられるのかもしれません。
 「生きがい」は、「楽しい」と比較すると、素直じゃない言葉だと思います。「生きがい」という言葉には、微妙に自分に対する「言い訳」や「モラトリアム」を感じます。
 「生きがい」なんて求めるのはやめましょう。辞書にあるように、「生きるに値するだけの価値」なんてつまらないものを追い求めるのはやめましょう。

2003/7/5

今日の気温は35度だそうです。真夏のような暑さですが、湿度が低めでけっこう気持ちのよい日です。でも、私は今日もオフィスで仕事です。あ〜あ、海に行きたいなぁ…
 そういえば、今日はアメリカの独立記念日ですね。3年前に、ちょうど独立記念日のシカゴで見た、ミシガン湖上の花火大会を思い出します。

 さてさて、「ボランティアを志す若者」という、ささやかなエッセイをアップしました。

2003/7/4

 私は、銀塩もデジタルも、カメラのブランドにはほとんどこだわりません。しかし、カメラ好きのハイアマチュアも、プロカメラマンも、カメラにこだわりのある人の大半は、「ニコン派」か「キヤノン派」に分かれるようです。やはり写真の世界では、「ニコン」と「キヤノン」という2つのブランドの力は、非常に大きいということでしょう。
 銀塩カメラの時代は、私の知っている範囲では、新聞社系のカメラマンはニコンユーザーが圧倒的に多く、雑誌社のカメラマンはニコン派とキヤノン派がほぼ半々だったと思います。広告写真系はキヤノンが少し優勢で、ニコン派以外にコンタックス派もけっこういました。銀塩カメラの時代からデジタルカメラの時代に変わっても、写真好きの人達の間には、相変わらず「キヤノン派」と「ニコン派」が分かれてますね。
 ところで、あまり知られてはいませんが、そのキヤノンとニコンは、かつて提携していたことがあります。
 戦前、キヤノンがまだその前身の「精機光学研究所」であったころ、「ハンザ・キヤノン」という画期的な35mmカメラを発売しました。このカメラ、レンズは日本光学工業…つまりニコン製だったのです。キヤノンのボディにニコンのレンズ…、なんとなく不思議なカメラですね。ちなみに、ハンザというのは、現在も写真用品で知られている近江屋写真用品のブランド名です。当時の精機光学は自前の販売ルートを持たなかったため、ハンザを通じてカメラを販売したわけです。
 当時の経緯については、キヤノンの公式サイトの中にも書かれています。

2003/7/2

 わがオフィスの近くに、「支那そばや」なる新ラーメン店が開店しました(要町に近い西池袋です)。何でも、横浜のラーメン博物館にも出店している「佐野実」という有名人(私はよく知りません)がプロデュースした店らしく、10日ほど前の開店日には「佐野実来たる!」なんて貼り紙もあって、行列が出来ていました。
 開店日以降は、本日に至るまで、連日行列が出来ています。閉店時間は「スープがなくなるまで」ってことでマチマチですが、夕方には閉店しています。その「支那そばや」、今日店の前を通り掛かったら、「本日は旨いスープが出来ないので閉店します」…なんて貼り紙があって、実際に閉店していました。
 「スープがなくなるまで…」ということで、毎日適当な時間に閉店するのも、「旨いスープができない…」ということで時々店を閉めちゃったりするのも、いわゆる「計算された営業戦略」なんでしょうが、それにしてもあざといですね。バカみたい。  「旨いスープが出来ない」…って理由でマジで休むか? 毎日同じ味のスープが出来ないなんて「プロ」じゃないですよね。そんなヤツが、お店なんかやるなよ!

 「支那そばや」が、どの程度の有名店なんだか知りませんが、たいした店じゃないことは確かです。だって、中で調理しているこのお店の主人は、ラーメン店を開業する2ヶ月ぐらい前までは、同じ場所で「せんた」という弁当屋をやっていたのですから…。ええ、ここ5年ぐらいは毎日、弁当屋の店先で高くてマズい弁当作ってましたよ。うちのオフィスのすぐ近くに「ほかほか弁当」が開店したら、客が来なくなって閉店に追い込まれたようです。最後の方は、ホントにヒマそうでした。
 弁当屋のオヤジが、たった2ヶ月弱でどんな修行をしたのか知りませんが、素人が1〜2ヶ月で開店できる店なんだから、たいした店じゃないでしょう。
 なのに、連日客が行列作ってます。ヘンなの…
 
 あ、そうそう、今日のお昼は久しぶりに「あ・うん」の鯛ラーメンを食ってきました。

2003/7/1

 「…京都府の小学校が学習の『習熟度別学級』制度を実施し、学習進度の早いグループに『ひかり』、学習進度の遅いグループに『こだま』と名付けている。こんな露骨な名称にすると『こだま』グループの子供は『ひかり』グループの子供に対して拭い難い劣等感を抱く。また『ひかり』の子供は人を侮蔑するようになる。もっと子供の気持ちに配慮した名称に変えるだ」…という内容の論説コラム(ノンフィクションライター:島本慈子のクレジット)が、今日の朝日新聞朝刊に掲載されていました。

 人間の学習能力には差がありますから、進度別に分けることには賛成です。しかし「劣等感を抱くから進度別グループの名称を変えろ」というのは、バカげた意見です。学習進度が遅い子供が、学習進度が速い子供に対して「なんらかの劣等感」を抱くのは当然です。また、学習進度が早いグループが「ひかり」で遅いグループが「こだま」…とは、非常にわかりやすくてよいと思います。

 私は、劣等感をバネにもっと競争させることで教育レベルが上がる…という視点で話しているのではありません。「ゆとり教育」に反対する一部の人たちの主張に多い、「競争こそが学力を向上させる」…という考え方に賛同しているのではありません。私は、別に教育現場で過度の競争は必要ないと思っています。競争することで向上する学力なんてのはわずかなものであり、学習能力や理解能力に関しては、基本的には持って生まれた「資質」や「能力」の壁は乗り越えられない…からです。

 これまでに何度も書いているように、教育現場でやるべきことは、人間の能力の差をはっきりと認めさせた上で「学習能力の差は人間的優劣の差ではない」ということを教えることです。学習能力が劣る子供が、学習能力に優れた子供に対して「学習能力面での劣等感」を認識することは、逆によいことです。同じように、体育の時間や運動会などを通して、運動能力がない子供が運動能力の高い子供に対して「運動能力面での劣等感」を抱けばよいのです。そうした「個人の能力の差」を明確に認識した上で、「学習能力の差も運動能力の差も、人間としての存在の優劣とは無関係」ということを認識していくべきです。子供が「個別の能力に対する劣等感や優越感」を抱くことは、むしろ自然です。しかし、それが「人間としての劣等感や優越感」に直結していかないように子供を教え導くのが、家庭や学校そして社会全体が成すべき「教育」なんだと思います。

 人間という生き物には、あらゆる面で個人差、個体差があります。「平等」なんてものは、「能力や外見の多様性を認める」ところから始まります。この多様性を認めた上で差別をしない…という考え方を徹底していかないと、民族差別や障害者差別はなくなりません。
 能力の違いを、それを感じさせない「名称」でオブラートに包んで糊塗するような姑息なやり方では、何も解決しません。

 さらにもう1つ。同じコラムで「…『のぞみ』に教育資源を集中して『こだま』を切り捨てる危険性…」を危惧していました。確かに、義務教育の現場においては、「切り捨て」は許されないでしょう。国全体の教育水準の底上げを図るためにも、学習レベルの高低に関わらずそれに応じた最大限の教育を行うべきです。しかし、こうした「教育資源の均等配分」を義務教育以降の学校教育でも続けるかどうかについては、いいかげんに「平等」をやめるべきです。
 この意見も過去に書いたことがありますが、むしろ高校や大学では「優秀な人間に対して教育資源を集中的に投下する」…という方向に進むべきでしょう。例えば大学。少子化の中で、特に受験勉強をしなくても誰でも入れる大学、いわゆるFランク大学が増えています。友人の大学教員の話では、こうしたFランク大学に通う学生の大半は高校レベルの学習知識がなく、まともな大学教育ができないそうです。  読売新聞には、次のような記事がありました。

 …大学入試センターは、推薦入試などの合格者に「大学で学ぶのに最低限必要な学力」があるかを入学前にチェックできる新タイプの試験問題を作成する方針を決めた。早ければ今秋から、希望する大学、短大に提供し、試験の結果によっては、合格者に入学までに基礎を身につけるよう促したり、入学後の教育の参考にするなどして役立ててもらう。定員確保に苦しむ一部の私立大で、入試が事実上の"フリーパス"になっている実態を反映した「学力低下防止策」と言えそうだ。新たに作成されるのは、中学生から高校1年程度の水準の「総合基礎試験」。国語、数学、英語の3教科で、「大学での学習に必要な最も基本的な学力」を想定し、分数の計算なども含める予定。現行の大学入試センター試験が平均点60点を念頭に作成しているのに対し、素直にやれば80点」の水準を目指す。 推薦入試に加え、面接や書類選考などで選抜するAO(アドミッション・オフィス)入試を実施する大学は急増しており、こうした入試で合格した大学入学者は、昨年度で全体の38%にあたる約22万人に達している。 背景には、18歳人口の減少で、私立大が学生確保に苦労し、約3割が定員割れに陥っている状況がある。本来、推薦やAO入試は、個性の重視や選抜の多様化が目的だが、学生を早めに確保する手段に活用し、一般入試合格者はわずかという大学も一部にある。入学後に授業についていけない学生に高校レベルの補習を実施したり、入学前にリポートなどの「準備教育」を行う大学も増えている。新設される「総合基礎試験」は、合格者の基礎学力を測ることにより、準備教育や補習、入学後のコース振り分けを行う際の目安などとして、大学に活用してもらうのが狙い。センター側は採点、分析を行うことで、学力に関する調査研究にも活用する。 大学入試センター試験は国公立大のほか、私立大の7割以上が利用しており、「現行の水準では難しすぎる受験生も多くなってきた」と指摘されていた。このため、センター試験と同日程に、平易な内容の国語、数学の「総合基礎」試験を新設し、選択科目として組み込む案が浮上。私大や短大などに入試問題として利用してもらう方向で、同センターの丸山工作理事長らが中心となって、検討を進めていた。 しかし、現行のセンター試験より大幅に易しい入試問題を作成することは「前例がない」として、センター内では合意が得られなかった。また、文科省も「大学の多様化で必要性が出てきたとの考えはわかるが、『大学入試でそんな簡単な試験をしていいのか』という見方もあるだろう。導入には論議が必要」(大学入試室)と消極的。結局、入試以外の形で導入することで落ち着いた。

 中学生から高校1年程度の水準の「総合基礎試験」…って何ですか? 分数の計算を含める…って、酷すぎます。国公立を含めて大学の多くが、一般教養過程で高校の補習授業をやっている現状は、バカバカしいにもほどがあります。高校レベルの学力の有無を確かめるちゃんとした厳しい入試をやればよいだけの話。それで学生が集まらないのなら、そんな大学は無くせばよいだけのこと。こうしたレベルの低い大学の多くは、文科省の補助金を廃止すべきです。その分を、もっとレベルの高い学生に教育資源を注ぎ込んで下さい。TOEFLやTOEICの700点程度を取らせることを売りものにした大学とか、WindowsやOfficeの使い方を教える程度の大学が多過ぎます。そんな大学は、私立の専門学校で十分です。

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