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CCDのサイズ(画素ピッチ)問題と写真の本質   2003/7/17

 たまたま機会があって、デジカメユーザーが集まる某サイトの「会議室」のログをかなり丹念に読んでみました。
 そこでは、「極小画素CCD」を使ったデジカメ批判、メーカー批判の意見が大量に寄せられており、あらためて極小画素CCDを採用するデジカメを否定し、そうしたデジカメを製品化するメーカーを批判するユーザーが非常に多いことを知りました。

 個別ユーザーの意見は、概ね、極小画素CCD批判で知られる某評論家の見解(何でも、極小画素CCDで撮った画像を見ていると気分が悪くなってくるんだそうです…)に沿ったものです。有名ライターだけあって、さすがに影響力は大きいですね。いや、私も単純に「高画素=高画質」だなんて思ってはいません。しかし、一般ユーザーの投稿を読んで面白かったのは、「たかがデジカメに使われるCCDの画素」の問題なのに、「写真の意味」や「文化」、「産業」、そして「個人の生き方」の問題にまで話が展開していることです。
 例えば「ノイズまみれのデジカメは"文化"をダメにする」「本当によい工業製品を作ろうとしないメーカーの姿勢が日本の産業をダメにした」とか「本当に美しいものは極小画素CCDを搭載するデジカメで撮影すべきではない」…云々。いや、それにしても極小画素叩きは佳境に入っているようです(笑)
 たかがデジカメのCCDの画素数の話じゃないですか。それに、単純に「高画素=高画質」ではなくても、「画素が多い方が基本的に高画質」というのも歴然とした事実です。「たかがCCDの画素ピッチの問題」が、日本の製造業の抱える問題やメーカーのモノ作りの姿勢にまで話が発展すると、やっぱりちょっと笑っちゃいますね。

 また、一般雑誌やWebマガジンにライターが書いているデジカメインプレッションにも、極小画素という言葉が出てくる頻度が高くなりました。例えば、ちょっとでもノイズが見られると「極小画素の影響もあるが…」などのフレーズが使われるし、逆に画像がよいと「極小画素にも関わらず…」というフレーズを使って褒めたりします。
 ともかく、デジカメに関して何か発言する時には、必ず「極小画素」という言葉を意識しなくちゃいけない…という感じですね。

 先に断わっておきますが、私はデジカメメーカーを擁護するためにこの駄文を書いているわけではありません。何の利害関係もないし、むしろ私が欲しい「小型で広角・単焦点のデジカメ」をなかなか商品化してくれないメーカーには、ちょっと失望しています。
 また以前も書いたように、CCDのチップサイズ、画素ピッチは大きい方が高性能(基本的な受光キャパシティが高い)という点に異論はありません。極小画素CCDには何の問題もない…と主張したいわけではありません。仮定の話ですが、もし同じ製品価格と同じ製品サイズで、光学系も画像処理系も全て同じで、なおかつ画素数も同じで、異なるチップサイズのCCDを搭載した2種類の製品があれば、躊躇うことなくのチップサイズが大きい(画素ピッチが大きい)CCDを搭載した方の製品を購入します。私は、価格も製品サイズも全ての条件が同じなら、より高画質のデジカメの方を使いたいからです。
 …まあそんな話はさておいて、本題に入ります(読み直しも推敲もしていないので、悪文、誤字・脱字は許容してください)。


■メーカーに要望したりメーカーの批判をするのは自由ですが…

 前にも書きましたが、極小画素CCDと言っても、その定義は曖昧です。画素ピッチ3μ以下はダメという話もあれば、4μ以下はダメという話もあります。回析現象の問題なども考えると、レンズの解像度との関係は重要でしょう。いずれにしても、現時点では1/1.8インチ500万画素CCDが、極小画素批判派の最大の標的にされているようです。というのも、1/1.8インチ500万画素CCD採用デジカメが、高画質を売り物にするハイエンド機の主流になりつつあるため、画質にこだわるユーザーにとっては、より腹立たしいのでしょう。
 さて、「画質にこだわる」ユーザーの方々が、デジカメメーカーに対してひたすら「高画質機の商品化」を求めるのは全く自由です。デジカメにも多様性は必要だと思いますし、高価で高画質なコンパクトデジカメ…が存在してもよいと思います。私も「超高画質コンパクト機」があれば欲しいと思います。むろん、極小画素の弊害についてどのように発言されるのも自由ですし、メーカーを批判するのも自由です。
 しかし、某会議室だけではなく「極小画素反対」を声高に唱える方のサイトや掲示板なども覗いていたら、こんな発言もありました。「本当に豊かな感性を持っている人なら、極小画素CCDで撮ったノイズまみれの画像を許容できないはずだ」とか、「こんな質感のない画像を見て平気でいられるのは無神経」とか、「このノイズを不愉快に思わないヤツにデジカメを語る資格はない」とか…
 この手の意見を聞くと、「極小画素CCD採用デジカメを平然と使っている」私は、思わず声を上げたくなります。ゴーマンかましてんじゃねぇよ、ゴルァ…
 例えば「極小画素CCDを採用したデジカメで撮った画像を見ていると気分が悪くなる」…というような特異体質の方が、それを世間に訴えるのはいっこうに構いません。しかし、世の中のデジカメユーザーが皆同じような体質だと断定するのは勘弁して欲しいなぁ。「1/1.8インチ500万画素CCD搭載機で撮った画像を注視していると脳や体に変調をきたす」…という方は、医学的に見ると、あくまでフツーとは違う「特異体質」だということを忘れないで下さい。

■論点のズレ

 さて、冗談を言っててもしょうがないですから、少し真面目に書きましょう。極小画素CCD批判を展開している某ライターの書いた文章を、2点ほど読んでみました。読んだ媒体は、「PC USER」と「アサヒカメラ」です。
 まず、「アサヒカメラ」の方では、画素ピッチが異なる複数のCCD採用機種の画像の細部(例によって画像の一部を等倍拡大)を詳細に比較して、極小画素CCDによる画質劣化を指摘しています(画質比較結果には納得します)。その上で、概略として次のような意見を述べています。

 「一般ユーザーは複数機種を所有せず画像を詳細に比較する手段を持たないので、画質の判断ができない。メーカーはその責任において極小画素の弊害の認知を進め、高画質機の投入を行うべき」「極小画素CCDの採用は、デジカメの小型化とコストダウンにはメリットがある。デジカメの製品形態には多様性があってもいい。だから、小型・低価格のコンパクト機には極小画素採用機があってもいい。しかし画素ピッチが大きい高画質機もユーザーの選択肢に含めるべきだ」…などと主張しています。

 内容は面白かったですよ。少なくとも、デジカメについて書くライターの中では、面白い趣旨の文を書く方だと思います。「デジカメ製品の多様性」を望む後半部分は私と同じ意見で、非常に納得できる主張です。しかし、そう主張しながらも一方の「PC USER」誌の「コンパクトデジカメ比較特集」では、「取り上げた機種の全部が極小画素CCD採用機種なので、まともな画像を撮れる機種はない」という前提を執拗に主張した上で、「中でもマシなものは…」という形で結論を出しています。「全部が極小画素CCD採用機種なので、まともな画像を撮れる機種はない」「大半の機種は気分が悪くなる画像」とけなすのは、アサヒカメラ誌で主張している「デジカメの製品形態には多様性があってもいい。だから、小型・低価格のコンパクト機には極小画素採用機があってもいい」という主張とは、矛盾しています。普及価格帯のコンパクトデジカメの画像比較で、なぜあえて「極小画素の弊害」を強調しなければならないのか…、その点は理解できません。
 さらにアサヒカメラ誌で書いているところの、「一般ユーザーの立場」についても、納得できない部分があります。私は、一般ユーザーの多くは、例え「1/1.8インチ500万画素CCD採用デジカメで撮った画像」と「2/3インチ500万画素CCD採用デジカメで撮った画像」を比較したとしても、デザインや価格を基準に製品を選ぶ…と考えています。一般ユーザーは、「画像の片隅を等倍に拡大して」画質を比較した結果に興味はないと考えます。さらに後述するように、ごく普通の人間が写真を見る時には、「細かい画質の差」や「細部のノイズの有無」なんかを見るのではなく、「写っている被写体の本質的情報」を見ようとするものだと思っています。

■シロートの目

 誤解を受けないようにあらかじめ断わっておきますが、私は「写真を撮る技術」に関しては完全にシロートです。私は、高度な撮影技術を持たないどころか、はっきり言って写真撮影が下手です。優れた写真家が持つような感性も、持ち合わせていません。だから、ライターや取材の仕事で商業印刷物で使われる写真をどうしても自分で撮らなければならない時には、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」を信じて、デジカメにせよ銀塩カメラにせよ、条件を変えながらひたすら大量に撮影します。10枚に1枚、または30枚に1枚でも使える写真があればOKだからです。
 あと私は、広告代理店や出版社での勤務経験がありますから(主に営業部門ですが)、商業印刷向けの写真素材の「質」に関して、ある程度の目利きはできます。ちゃんとしたプロが撮ったもので、中判カメラでISO感度の低いリバーサルフィルムを使って撮影した銀塩写真と、ハイエンドデジカメで撮影した画像との違い、特に質感や立体感の違いぐらいなら、さすがに判ります。

 しかしですね、この程度のシロートの私の目で見ると、いわゆる極小画素CCD搭載機の撮影画像に見られるノイズ程度のことに「そうまでこだわる理由」が理解できません。
 誤解しないで下さい。「差がわからない」とか、「極小画素の弊害を認めない」とか主張しているのではないのです。私には、例えば1/1.8インチ500万画素CCD採用デジカメの画質が、「口を極めて罵るほどのひどい画質」「メーカーのモノ作りの姿勢を問題にするほどの不良製品」「評価する人の審美眼を疑うような製品」…とは、到底思えないのです。また、高画質デジカメは歓迎しますが、画質がよければが値段が高くても大きくても構わない…というのは、一般ユーザーの感覚とは違うと思うのです。製品コストを無視した、ユーザー不在の議論は嫌いです。

 私が「極小画素叩き」の主張の多くを不自然に思う理由、また多少不快に思う理由は主に次の3点です。

   ・一般ユーザーの感覚とズレている。
   ・普通の条件で写真を鑑賞する時、人間の目の機能で判別できる範囲を超えた話。
   ・写真鑑賞の本質とズレている。

 さて、これら3つの点について、少し詳しく自分の意見を整理します(整理できないかも…笑)。

■鑑賞条件によって見える部分が異なる

 例えば最近購入したSONY「DSC-V1」、これは1/1.8インチ500万画素CCDを最小し、ノイズや色再現性など画質面であまり高い評価が得られていない…というか、けっこう評判の悪い機種です(だから買ってみた部分もありますが…笑) 要するに「クロート好みじゃない」機種ですね。一方、私が普段仕事用に使っているNikon「COOLPIX5000」は、同じ500万画素でも2/3インチCCDを採用しており、画質面では評判のよい「クロート受け」する機種です。この2台で全く同じ条件で同じ被写体を撮り較べたことはないのですが、両機種ともにかなり使い込んだので、撮影画像の傾向の違いはよくわかります。単純に言っちゃえば、COOLPIX5000の方は発色はおとなしめ、シャープネスも実際の解像度より低めのイメージです(実際に解像度が低いわけではないですが…)。DSC-V1の方は発色は鮮やかめ、エッジもくっきりしていて実解像度相応の解像感があります(こちらは実際は細部がつぶれてたりします)。ノイズは…となると、確かにもモニタ上で原寸表示かXGAフルサイズ程度まで拡大表示すると、DSC-V1で撮った画像の方が気持ちノイジーな感じはあります。また、画像全体に多少のザラつきを感じます。反面、COOLPIX5000は解像感があまり感じない代わりに、画像は滑らかでノイズも目立ちません。
 でも、こうした両機種の違いは、あくまで「出力画像の画質傾向の違い」であって、「COOLPIX5000は、DSC-V1よりも格段に高画質」…と言って騒ぐほどの差や問題を感じません。どちらの機種も、私が普段執筆しているPC系雑誌用のブツ撮りには十分に使えます(まあ200万画素のデジカメの画像でも雑誌掲載用写真として平気で使ってますから…)。むろん、日常のスナップにも子供運動会の撮影にも、海外旅行の記念写真にも、どちらの機種も問題なく使えます。私の趣味(?)である「身近な女性のフェティッシュな表情や仕草」を撮るのにも、DSC-V1はバッチリです。
 また、雑誌の原稿用に使った場合(実サイズで誌面の半分の面積程度なら)、印刷された写真を見て、普通の読者には2台の画像の差を指摘できないしょう。また、私の日常的な利用形態である、スナップ撮影画像をパソコンモニタ上で適当なサイズで見る…というケースでも、はっきり言って大差ない画像です。プリンターで出力しても、2Lサイズ程度までの印刷なら画質差はわかりませんし、ノイズも見えません。
 また、DSC-V1はCOOLPIX5000よりもかなり実売価格が安いし、ボディは小型軽量です。個人的に見ても、確かにCOOLPIX5000の画質の方が好きですが、「購入時の実売価格の差」と「製品サイズの差」を考えると「商品価値」の判断は微妙になります。結局は用途の問題でしょう。
 海外旅行に2台にうちのどちらかを持っていくことになったら、私は躊躇無くDSC-V1を選ぶでしょう。小型・軽量の方がいいに決まっていますし、旅行の記念写真撮影用デジカメとしてDSC-V1は過不足の無い画質だからです。

 さて、こんなことを書くと「お前の目は節穴か?」と言われそうですが(笑)、私は、例えば1/1.8インチ500万画素機であるDSC-V1で撮った画像のノイズが、個人的な撮影画像の利用場面の範囲ではほとんど気になりません。
 つまり私は、「普通はXGAまたはS-XGAの液晶パソコンモニタ画面で、適当なサイズ(SVGA程度)で鑑賞する」「原則としてプリントはしない。時々普及価格帯のインクジェットプリンタで2Lサイズ、またはハガキサイズで印刷する」…という画像の使い方をしています。
 まず、パソコンモニタ上では、XGAモニタ上に画像管理ソフトを立ち上げて、そのソフト内で見るのですから、せいぜいSVGA(800×600dot)程度で鑑賞することが一番多いということです。SXGAモニタを使っている時には、XGAサイズ程度で鑑賞することもあります。プリンタによる出力は、どうしても他人にプリントを渡したい時に2L(キャビネ)サイズ程度の写真品質用紙を買ってきて出力する…というもので、間違ってもA4サイズの出力なんかを常用していません。コストがバカ高いし、そんなデカいプリントの使い途はありません。
 こうした条件下でDSC-V1で撮った画像とCOOLPIX5000で撮った画像を、パソコンのモニタ上でごく普通の条件で表示して比較しても、前述した画質傾向の差以外にたいした差は認められないのです。
 もう1つ、私のデジカメの利用場面で多いのが、「身近な女性を撮影すること」です。ポートレートなんておおげさなものではなく、ちょっとフェティッシュを感じる女性の仕草なんかをスナップするのが大好きです。こうしたケースでは、別に極賞画素かどうかなんて全く気にしません。いや、よい表情やよいポーズの画像を撮影できるのなら、200万画素でも500万画素でも構わないくらいです。等倍表示しなければはっきりわからないノイズの有無よりも、「よい表情」を撮れるかどうかの方が、はるかに重要です。

■一般ユーザーの目

 ところでシロート、すなわち一般的なデジカメユーザーのレベルである私は、書店で普通に販売されているオフセット印刷された雑誌記事中で使われる「写真」が、いったいどんなレベルのデジカメで撮影されたものなのか、全く判別できません。
 例えば、A4の雑誌のオフセット・カラーページの中で、実寸で2Lサイズ(キャビネ:約18×13cm)程度のかなり大きめの商品写真やポートレート写真があったとしましょう。私はこうした写真を見ても、それが銀塩カメラで撮られたものか、デジカメで撮られたものかすら、わからないのです。またデジカメ撮られたことが判っていたとしても、それが300万画素のデジカメで撮られたのか、500万画素のデジカメで撮られたのかは、判別できません。しかし、こうした商業雑誌に掲載されている写真で、暗部ノイズやラチチュードなどというものが気になったことは一度もありません。
 これがA4の判形全体を使って、オフセットではなくグラビア印刷された風景写真となると、銀塩・デジタルを問わず、カメラの性能違いで被写体の質感や立体感の差が大きく出ることはあります。
 でも、自分で撮った風景写真に、高画質商業印刷物やグラビア写真集レベルの画質を求めるユーザーって、いったいデジカメユーザーの何%に達するのでしょうか? そこそこの画質が求められる一般雑誌のカラーページの写真でも300〜500万画素のコンシューマ用デジカメが使われている現状で、一般ユーザーにそれ以上の高画質を求められるシチュエーションが、いったいどれだけあるのでしょう。
 また普通は、一般ユーザーがデジカメ画像を出力するのはコンシューマ用のプリンタです。インクジェットプリンタで印刷した場合、デジカメの出力画像の質以前に、プリンタの性能が問題となります。普及価格帯のコンシューマ用のインクジェットプリンタで、写真品質で2Lサイズ(キャビネ:約18×13cm)程度のサイズに出力した時、例えば同じ500万画素機で1/1.8インチCCDと2/3インチ機との差が明確に判別できるとは、私は思いません。いや、思いませんというよりも私は判別できません。
 よく「A4サイズにプリント出力すると画質の違いが顕著にわかる」という人がいます。しかし、人間の「視力」を考えると、細かいノイズを明確に認知できるとは思いません。以前何度も書いたことがありますが、人間の眼の「視力」というのは、分解能を表す単位です。ちなみに「視力1.0」の人の場合、30cm離れた印刷物の約300dpiを分解できます。視力1.0の人が、A4にプリントした画像を壁に掛けて60cm〜1m以上離れて見る…というごく普通の使い方をするなら、解像度だって200万画素のカメラで撮影した画像で十分です。そんな条件で極小画素がもたらす暗部ノイズを見分けわれる…なんて、人間の目の機能から見ても不思議な話です。

 どうも「極小画素叩き」をしているデジカメユーザーの一部や、銀塩カメラの世界に昔から存在する「ハイアマチュア」の人たちは、私たち一般ユーザーとは「異なる視点」「異なる方法」で世の中の「写真」を眺めているようです。「異なる視点」というよりも、目の認識機能自体が違うのかもしれません。例えば、ちょっと記述が古いページですが、こちらのような、細部を等倍に解像して、極小画素の「絞りと回折の関係」を指摘されても、「それがどうした」と思ってしまいます。確かに、CCDの画素の微細化に伴って分解能が追いつかないケースもあるでしょう。しかし先の「アサヒカメラの実証テスト」もそうですが、一般ユーザーがこんな風にデジカメの撮影画像の細部を比較するのでしょうか? 細部を拡大(等倍)比較することが、「写真を鑑賞する」という行為の中で、何か意味のあることなのでしょうか?
 また、ハイアマチュアの人たちは、A4サイズにプリント出力して、顔を近づけて目から30cmぐらいの距離で「舐めるように」鑑賞しているのかもしれません。何が写っているかを見るよりも先に「画質」を検討するのでしょうね。アホですね。
 モニタ上の鑑賞でも同じです、パソコンモニタ」というのは、60cm離して見るのが健康によいとされています。例えば15インチモニタ上にSVGAまたはXGAサイズで表示した画像を、視力1.0の人が60cmの距離で見て、いったい画像の細部がどこまで認知できるというのでしょう。

■写真を鑑賞する…ということ

 まずは、よく言われる簡単な例えを提示しましょう。
 自分の子供が写っている写真を誰かに見せたとします。その時、「かわいい赤ちゃんですね」という感想が欲しいのでしょうか。それとも「綺麗に写ってますね」という感想が欲しいのでしょうか。

 ごく普通の人は、赤ちゃんの写真を見せられると、写っている「赤ちゃんの表情」や「赤ちゃんの仕草」を見ます。「かわいい赤ちゃんですね」という反応をするはずです。ノイズの有無なんかを見て、「写真がきれいかどうか」なんて判断は絶対にしません。  おなじことは、ガールフレンド、ボーイフレンドのポートレートにも言えます。「これが私の彼氏だよ」と言って見せられた写真に、いったい誰が「暗部ノイズ」を気にするというのでしょうか。
 むろん、その写真がピンボケとか手ブレとかで見にくい写真であれば、多少は気にするでしょう。しかし、"画質が一定水準をクリアしていれば"画像の品質なんてものを、写真の判断基準にはしません。

 あくまで個人的な意見ですが…、結局のところ、多くの人にとって「よい写真」とは「生き生きとした人の表情や仕草が写っている写真」であり、「被写体がはっきりと認知できる写真」なのだと思います。これは、人間の「視覚機能」「認知機能」の持つ本質的な働きの問題です。これは、実は写真を鑑賞する時だけではなく、日常の「風景」を見ている時も同じです。
 このあたりの話は、以前こちらでも書いたことですが、再度確認しておきます。
 写真鑑賞も、風景の鑑賞と基本は同じです。人はパッと見せられた写真を鑑賞する時に、普通は画像の細部なんかを見ません。ましてや、ノイズの有無など気にしません。「被写体の本質的な情報」を見るのです。「被写体の本質的な情報」とは、写っている人間の表情であったり、建築物の形であったり、料理の種類や色であったり…ということです。
 ここで、先ほどの問題が出ます。"画質が一定水準をクリアしていれば"…と言う条件です。この「人間の視覚が許容する一定水準の画質」とは、少なくともおもちゃを除く現行の全ての銀塩カメラと、200万画素以上のデジカメであれば、ほぼ100%クリアしているます。乱暴な言い方をすれば、現行のカメラで、丸いものが四角く写るカメラもなければ、赤が青に写るカメラも存在しません。
 写真は「出来る限り視覚に近い状態で被写体を写す」もの…という考え方があります。こうした定義には、同意する部分もあります。視覚でノイズはあり得ないのに、撮った写真にノイズがあれば、それは「見た通りではない」…ということになります。だから「美しくなければ写真ではない」という考え方が出てくるのでしょう。しかし、「美しくなければ写真ではない」というのであれば、その「美しさ」や「写実性」の基準や閾値は、いったいどこにあるのでしょうか。
 例えば、発色の問題などは、多くのユーザーが気にしますが、こちらで書いた通り、人間の色彩認知能力にはかなりの個人(個体)差があることがわかっています。色覚(色神)検査をご存知でしょうが、色覚検査の「正常」「異常」というのは、いずれもかなり広い範囲で認められえています。加齢によっても、色の認知能力には変化があるそうです。人間の色彩知覚能力に関しては、正常と異常の間に明確な線を引くことが出来ません。さらに「記憶色」などという概念を持ち出すことも無意味です。

 こうしてみると、なんのために高画質を求めるのか?…という問題、ひいては、写真に何を望むか…という問題です。本来の「被写体を撮る」という行為が、「美しい写真を撮る」という行為に変質してしまっている…というのが、極小画素叩きをするハイアマチュアユーザーに対する、私の感想です。「美しい写真を撮りたい」という欲求は私にもあります。しかし、それにどこまでこだわるか…で、価値観の違いが浮き彫りになるようです。

■そんなに高画質が好きなら…、そんなに高ダイナミックレンジが欲しいのなら…

 そういえば、極小画素CCDを非難する意見の中で、こんなユニークな主張もありました。
 「本当に美しいものや、人類の文化遺産を撮影するような場合、絶対に極小画素CCDを採用したデジカメでは撮らない。高画質のデジカメで撮ることが後世に残すべき文化に対する礼儀だ…」
 うーん、何ともコメントのしようがない意見です。
 建築物でも民族の風習でも何でもいいです。仮に「写真として後世に残すべき文化遺産」があったとします。そうしたものを被写体にする時には、1/1.8インチ500万画素CCDを搭載したデジカメを使ってはダメ…というわけですね。
 もし、人間の豊かな感性を尊重し、文化的意義も考えると「高画質(高い色再現性と高い解像度)、しかも高ダイナミックレンジのカメラで撮影しなければダメ」というのであれば、デジカメなんか使わないで銀塩カメラをお使いなさい…と言いたい。半端なデジカメの話なんかをしていないで、銀塩カメラを使って下さい。むろん、35oの一眼レフなんてダメですよ。小型軽量だけど、あまりよいレンズがない6×4.5もやめましょう。最低でも6×6、6×7、6×9あたりを使いましょう。いや、ポートレートや建築物の撮影なんかには、最低でも4×5、できれば8×10でも使うべきでしょうね。
 チマチマと1/1.8インチ500万画素CCDを搭載したデジカメと2/3インチ500万画素CCDを搭載したデジカメの画像を比較して「文化」なぞを語っても仕方がないでしょう。4×5や8×10の銀塩フィルムが持つ画質、そして表現力は圧倒的ですよ。写真と文化を語るのであれば、まずはそのあたりから話を始めてください。

 いや、こんな話を書いたからと言って、私が中・大判カメラの信奉者だなんて、間違っても思わないで下さい。実は、親しい知人に何人もプロカメラマンがいますが、彼らの間でも中・大判カメラに対する評価は分かれます。

■プロカメラマンに聞く「画質ニーズとカメラ」

 さて、現実問題として「プロ」の世界では、媒体側からどんな画質ニーズがあるのでしょう。また、そうした媒体側からのニーズに対して、カメラマンはどんな機材を使うのでしょう。
 私が知っている範囲でも、銀塩の世界でも、高画質画像を残す目的を持つ撮影に「中判しか使えない」…と言われていたのは、もうひと昔の話です。むろん、現在でも銀塩の中判カメラは商業写真分野で広く使われているし、確固たる評価を得てはいます。しかし、35o一眼レフの銀塩カメラ、またはデジカメしか使わない商業写真専門のカメラマンが増えていることも確かです。雑誌の高画質グラビアはむろん、A1サイズに引き伸ばすポスター用の商業写真にまで35oフィルムが常用される時代になっています。某公立博物館に勤める知人の学芸員に聞くと、博物館などで使われる文化財記録用のカメラでも、中判を使っている例もまだまだ多いようですが、35oカメラを使うケースも増えてきています。

 実際に知人のプロカメラマン(一般雑誌、スポーツ、広告分野を中心に、代理店や出版社から堅実に仕事を受託している40代の中堅カメラマン)に聞いてみたところ、「銀塩の世界では、自分自身も含めた多くのプロカメラマンは、ブローニーと35oの使い分けは目的や画質ではなく撮影のシチュエーションで決めている」…とのこと。一定時間内にリズミカルに大量枚数を撮影したいときは35oを使うし、じっくり腰を落ち着けて被写体と向き合いたい時にはブローニーを使う…、そんな感じだそうです。中判カメラをよく使う…というプロカメラマンも多いが、媒体側からの画質ニーズによって使っているわけではなく、「中判の撮影感覚が好きだから」という理由で使っている人が多いそうです。また、スタジオは中判、フィールドは35o一眼…と言うのも過去の話で、スタジオでも35o一眼レフやデジタル一眼レフを使う例がかなり多いとのことです。少なくとも、スタジオ撮影で商業写真を撮る際に、「画質」を考えてブローニーと35oを区別するケースはあまりない…とのことでした。

 つまり、確かに今でも中判は広く使われているが、それは中判の方が35oより画質がよいから…という理由ではなく、中判の持つ「独特の撮影感覚」に惹かれて中判を使用するプロカメラマンが多い…ということです。また、プロカメラマンである彼に「ブローニーと35oの画質の違い」について聞いてみると、「画質が違うのは当然だが、広告分野も含めて自分が関わっている大半の印刷媒体で、35oと中判の画質の差が問題になることはまずない」との話でした。こうして銀塩の世界ですら、あからさまに「35oは中判より画質が悪い」というプロが少なくなっています。

 また、彼に聞いたところでは、商業写真分野でのデジカメ利用は確実に増えているそうです。実際にスタジオでのブツ撮りやポートレート撮影に、デジタル一眼レフが使われている現場を何度も見ているそうです。中判カメラのデジタルバックも使われますが、デジタル一眼レフも、ごく一般的に使われているそうです。既に、デジタル一眼レフの利用場面は、雑誌のグラビアや表紙用のポートレート撮影から、広告写真にまで拡がっているとのことです。彼に話では、「商業写真分野に限定しても、おそらく、仕事でデジタル一眼レフを使ったことがないプロカメラマンは全体の30%もいない…」という話でした。また、雑誌用のポートレートを専門に撮影しているプロで、「デジカメの発色傾向の方がよいポートレートが撮れる」と断言する人もいるそうです。

 そのプロカメラマンに、ついでにもう一つ聞いてみました。デジタル一眼レフを使う場合、「RAWモードを使うのが常識か?」という質問です。
 それに対して彼は、「自分の場合はほとんどがJPEG」との答えでした。雑誌の表紙向けの人物写真なんかでも、JPEGを使うことが多いとのことです。「RAWからの現像のパラメータは複雑で面倒。ゴチャゴチャ時間をかけているよりも、JPEGで一発の方が気の利いた仕上がりになる。時間をかけるのは無駄だし、そんな余裕のない仕事が多い。時間をかけるなら、せっかくデジカメを使うメリットがなくなる。TIFFだって、DTP現場からの要求がなければまず使わない。低圧縮のJPEGなら、一般雑誌のカラーページ程度であれば媒体とその読者が要求する画質水準を十分に充たしている」…というのが、自分も編集者も共通の認識とのことでした。

■一般のデジカメユーザーに必要とされる画質って…

 さて、長々とプロカメラマンから聞いた話を書いたのは、「プロですら」、いや「プロだからこそ」、画質に対するニーズを踏まえて機材を選択しているという現実です。
 一般ユーザーが、「高画質画像が必要」という時の、現実的な用途を考えてみてください。グラビア印刷用の写真原稿に使う…なんてことはあり得ません。せいぜい「パソコンのモニタ上で上限でもXGAサイズで見る」とか「普及タイプのインクジェットプリンタを使って2Lサイズ、ハガキサイズでプリントする」などという用途を想定した時、いったい「極小画素の弊害」の何が関係があるというのでしょうか。

 繰り返しますが、私は「極小画素批判」を「批判」している…のではありません。私が批判しているのは、「極小画素のカメラを使っているやつは感性の無いヤツ」という類の発言です。等倍画像で細部を観察することの意味はともかく、低ダイナミックレンジで暗部ノイズが多かったり、低感度であったり、画像処理で厚化粧の画像になっていたり…、極小画素CCD採用機の中には確かに画質が落ちる機種もあります。しかし、そうした部分を「ヨシ」として、なおかつ自分が撮りたいものを撮るためにデジカメを使っている人間のメンタリティを、貶められたくないのです。過去にも書いたように、銀塩の世界でも、コンタックスの最高級一眼レフを使っている人間が、LOMOを使っている人間を「感性がないヤツ」とは批判しないはずです。また、例えスペックやサンプル画像なんてものを見ないで、家電量販店の店頭で勧められたデジカメを使っているユーザーの多くは、「自分の子供の弾けるような笑顔が写っていればいい、多少のノイズなんかは気にならない…」と考えていると思うからです。
 デジタル一眼レフのユーザーのサイトなどを見ていると、プロですらあまり使わないRAWの画質について延々と議論されていたりします。それはおそらく、多くの「普通のデジカメユーザー」とは無関係な話です。そうしたマニアックなレベルの画質談義の延長線上に「極小画素の弊害」談義があるとすれば、一般ユーザーとはかけ離れたバカバカしい話です。

 しかし、この話は、アマチュアはプロとは違うのだから「必要以上の高画質を求めるのも自由」…という話でもあります。その意味では、アマチュアが趣味の世界でどこまで画質にこだわろうと、「オレはRAWしか使わない」なんて主張するのも、それは全く勝手だとは思います。
 しかし、こうした「画質にこだわる特別な人々」が、「ノイズまみれのデジカメは"文化"をダメにする」「本当によい工業製品を作ろうとしないメーカーの姿勢が日本の産業をダメにした」とか「本当に美しいものは極小画素CCDを搭載するデジカメで撮影すべきではない」…などと、「一般論」として発言するのは、やっぱりヘンです。
 ましてや、「本当に豊かな感性を持っている人なら、極小画素CCDで撮ったノイズまみれの画像を許容できないはずだ」とか、「こんな質感のない画像を見て平気でいられるのは無神経」とか、「このノイズを不愉快に思わないヤツにデジカメを語る資格はない」…なんてことを言われて感心する一般ユーザーはいないでしょう。

■「写真」の本質…再考

 以前私は「写真」の本質について、「…『写真を撮る』という行為は、『被写体と、撮影する自分との関係性』の問題と考えるべき…」と書いたことがあります。その文の一部を、再度引用します。

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 人でもモノでもいい、何かを写した写真があったとします。その被写体が本来存在する場所には「風土」や「文化」、「歴史」、そして「被写体固有の状況」などがあります。しかし、撮られた写真は、そうした被写体が持つ一切の背景や属性を無視した「記号」としてしか存在し得ません。従って、その写真を見た人間は、被写体について「自由に解釈」することができます。こうして見ると、「写真が語るもの」と「写真を見た自分が語ること」とは、同義です。
 「写真を撮る」という行為については、「被写体と、撮影する自分との関係性」が問題となります。
 写真を撮るという行為は、多くの場合「対象物(被写体)を本来存在する場所から切り離し、自分の世界に取り込む」という作業です。撮影者は、自分が被写体を見て感じたもの…を印画紙(メモリ)に焼き付けようとします。そして多くの場合、写真を撮ることは、意図的に現実を無視することを意味します。カメラのレンズの背後に隠れて、現実と関わることを拒むのです。現実と関わることで実存する自分が消えて、後にはリアリティのない「写し撮られた2次元画像」だけが残るのです。
 例えば海外旅行に行ったとしましょう。アジアの大都市で、貧困と病気が溢れる凄絶なスラム街に踏み込んだとします。このあまりの悲惨な光景の「写真を撮った」とすると、「写真を撮る」という関わり方を選択した時点で、既に「対象と本格的に関係性を持つことを拒絶している」…とも言えます。現実の光景を写真に切り取ることで、現実を、後から自分がいかようにも解釈可能な「記号」へと変貌させることができるからです。
 結局のところ「写真を撮る」という行為は、個人的に「風景を記号化」する作業であり、「独りよがりな行為」に過ぎません。
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 こうして考えて見ると、解像度なんか低くてもモノクロ写真でも、「記号化」という撮影作業の本質は変わりません。いや、解像度が低かったり、歪みがあったり、発色が不自然であったりするからこそ、記号化という作業に「個人の意思」がより強く発現されるケースだってあります。それが、低画質カメラ「LOMO」ブームの本質ではないのでしょうか。

 …こんな風に「写真」を考えている私は、極小画素の弊害…なんてものを全く気にしないのです。だって、サイト内のこちらで紹介した通りの4年前のデジカメの画像と比較すると、最近のデジカメは、それが例え極小画像CCD搭載機種であっても、こんなに進化したではありませんか。
 むろん今後、安価なコンパクトデジカメにも画素ピッチの大きい多画素のCCDが採用されて高画質化が進展するならば、それはそれで大歓迎です。私は「安くて小さいデジカメ」が大好きですが、「安くて小さくて高画質」なら、なお好きです。しかし私は、最近のデジカメの画質にもけっこう満足しています。そして、写真をたくさん撮りたいからこそ、「毎日持ち歩ける小さいデジカメ」が大好きです。


さらに後日談へと続く…


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