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June 27, 2006
皇室雑感
先日、旧知の全国紙の記者と某所で痛飲する機会がありました。彼によると、第三子を懐妊中の紀子妃はどうやら男児をお産みになるようで、大手マスコミでは既に公知の事実となっている…とのこと。むろん、酔った記者の戯言かもしれませんが、一部マスコミでも昨今そのように報道されていることは確かですし、ここへ来て「跡継ぎ問題」論争が下火になった経緯や政府関係者等の間に流れる空気を読む限り、紀子妃の子供が男児である可能性は、かなり高そうです。
ところで、ちょっと古いニュースですが、八戸に本拠を置く地方紙に、次のような記事が掲載されました。
「…デーリー東北政経懇話会四月例会が十七日、八戸グランドホテルで行われた。明治学院大国際学部教授の原武史氏が『皇室問題の深層を読む』と題し講演。秋篠宮妃紀子さまの懐妊で沈静化した皇室典範改正論議をめぐり、第三子が男児、女児にかかわらず、皇位継承問題は当面の間、長引くとの見通しを示した。原氏は最近の天皇家をめぐる発言を踏まえ、『天皇陛下と皇太子さまは皇室の伝統やしきたりについての考え方に大きな隔たりがある』と指摘。紀子さまに皇位継承権のある男児が生まれた場合、伝統を重んじる天皇陛下の考え方に近い秋篠宮家の比重が高まり、こうした確執が表面化する可能性に言及した。
女児の場合は再び皇室典範の改正論議が再燃し、“ポスト小泉”政権の大きな政治課題になるため、『どういう結果になっても、ベストの解決はあり得ない』と語った。原氏はベールに包まれた皇居の“内側”も紹介。宮中三殿では、戦前と変わらない祭祀(さいし)が年三十回程度、執り行われており、『国民の平安のため、天照大神や歴代天皇に真剣に祈りをささげるのが皇室にとって最も大切なことだ』と強調した。こうしたしきたりは、男系の天皇制の下で延々と引き継がれ、女性にとっては心身ともに負担が大きい、と指摘。皇太子妃雅子さまが適応障害を患ったのは、なかなか実現しない皇室外交や、男児誕生への期待が重圧になったからではなく、『こうした皇居内の環境に最大の原因があるのでは』との見解を示した(2006/04/18)…」
天皇と皇太子の間に「皇室のあり方」について考え方や価値観の違いがある…というのは、世代の差と、生き抜いてきた時代の差を考えれば、十分にに頷ける話です。これは「確執」という性質のものではないでしょう。一方で、天皇に近いと言われる秋篠宮と皇太子の間には、明らかに確執がありそうです。
この秋篠宮の皇太子の確執については、秋篠宮が誕生日の会見で皇太子による「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」との発言を批判して、それが英紙タイムズ
「日本の皇族の確執が噴出」と大きく報じられたりもし、かなり世上の話題となった経緯もあります。
私は、現在、皇太子vs秋篠宮間、または東宮家vs秋篠宮家において、一種の「権力闘争」があるのではないかと思っています。皇太子と秋篠宮の兄弟間で、確執ではなく、一定の権力闘争が行われている…と考えると、いろいろと腑に落ちる部分があります。
むろん、現憲法下における象徴天皇制なるものを考えれば、「権力」という言葉を使うのは穏当ではないことは百も承知。確かに天皇は一切の世俗的な権限(憲法第6条の任命権、7条の国事行為等は世俗的な権限とは言えない)や権力を持っていない。従って、天皇に何らかの「力」があったとしても、それは法の下の「国民に対する強制力」ではありません。しかし、「権力」というのは、もっと広い意味をも持ちます。大辞林によれば、権力とは「他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力」ということ。ここで注目したいのは「他人を支配し従わせる力」です。他人を支配し従わせる力は、何も法によって与えられた力だけではありません。古代社会において「シャーマン」が他者を従わせる力を持っていたのと同じく、現代社会においても法によってではなく、もっと別の形での「他人を支配し従わせる力」が存在することは否定できません。
以前読んだ「天皇制の基層」(吉本隆明・赤坂憲雄著)という本を思い出したのですが、この対談の中で、あのかつての左翼運動の代表的論客(こんな表現は全く不本意ですが)たる吉本隆明が天皇制を語るときに、必ず彼が終戦以前に持っていた「天皇に対する理屈抜きの畏敬の念」を語り、「もし仮に天皇と会うことになったらどうしよう」という戸惑いをぶちまけます。その上で、「象徴天皇制であっても、ひとたび国家的危機に陥った時、日本人はひ弱なカリスマ性に頼ってしまい天皇を使って自己正当化してしまうのではないか」という疑念を呈しています。吉本隆明すらが抱いている天皇への思いは、彼の本音というだけでなく、多くの日本国民の心の根底に存在する感情の存在を指摘しているのだと思うわけです。で、こうした感情が存在する以上、現実的にはこの日本において「天皇」というポジションが「影響力」という名の「権力」を持っていることを否定することは難しい。そして、多くの人がそれを認めるが故に、「民主主義」を絶対の価値観とする人々が「天皇制反対」を強く主張する…という面があるのでしょう。
さて、ここからは推測に過ぎませんが、東宮家vs秋篠宮家という構図が存在すると仮定して、「天皇の権力」に対して比較的執着度が高いのが秋篠宮の方ではないか…と想像されます。まあ、当然と言えば当然でしょう。皇位の直接継承者たる皇太子とその弟君とでは、単なる皇位継承順位の差以上に、大きな「立場の違い」があります。日常生活においても、宮中三殿で行われている「天皇の祭祀」には秋篠宮には無縁であり、いずれその祭祀の当事者となることを「当然のこと」として受け入れている皇太子の側は、おそらく「権力」などという考え方は絶対にしないはず。
東宮家vs秋篠宮家という構図で見た場合、雅子妃と紀子妃の関係はどうでしょうか? これは、紀子妃が雅子妃を相当に意識しているように見えます。雅子妃にとっては、依然として皇室カルチャーへの生理的な部分での順応が大きな位置を占め、秋篠宮家や紀子妃の存在は、皇室全体の中でのそれなりの位置付けとして意識されているだけのように感じます。一方で紀子妃は、雅子妃をかなり過剰に意識していると推測します。俗世の能力の面だけでなく、一女性としてもです。さらに、旧華族ではない民間からの妃として皇室に入った女性として、「人気」の部分で雅子妃を強く意識しているようにも思えます。いかんせん、一部マスコミのバッシングにも関わらず雅子妃と愛子内親王の人気は絶大です。もしかすると紀子妃は、雅子妃の人気が内心では面白くないかもしれません。この紀子妃の雅子妃に対するある種のライバル意識が、秋篠宮の皇太子に対する対抗意識と相乗し、結果的に秋篠宮家としての「権力獲得」を目指す動きにつながっているようです。むろん、こうした動きの総決算が今回の「男子出産を目的としたご懐妊」であったようにも思います。天皇に権力があるとするなら、皇位継承者の親が大きな影響力を持つようになることは、既に幾多の歴史が証明しているとおりです。
それにしても、ミギでもヒダリでもない私が、この日記で、何を三流週刊誌のような「皇室内輪憶測話」を書いているのか?…と、不振に思われる方もいるでしょう。
理由は簡単です。私は最近、かなり熱心な皇室ウォッチャーなのです。とりわけ、皇太子と雅子妃の動向が気になるのです。こうなったきっかけはといえば、やはり以前の日記でちょっと触れたことがありますが、「皇太子の純愛」が非常に気に入ったのです。失礼ながら、40歳を超えられ中年の域に達している皇太子が、雅子妃に対して相も変わらず惚れ抜いており、惚れているが故に、今上の陛下の考え方や広く従来の皇室文化と衝突することを承知で、雅子妃を気遣う数々の勇気ある発言をされては物議を醸している…、この姿が、ある意味でとても微笑ましいのです。先般発表された今夏のオランダ行きについても、おそらく各所から批判が持ち上がるでしょう。「公務を疎かにしながら、海外へ遊びに行くのはけしからん」という論調の発言を、既に耳にします。皇太子は百も承知でしょう。それでもなおかつ、皇太子は雅子妃の海外での静養を強く主張したものと推測されます。そんな板挟みに苦しむ、そして平凡な中年男の苦悩をも滲ませる、真面目で律儀な皇太子の姿が、結構好きです。そうです、私は雅子妃のおっかけオバチャン達とは異なる立場ながら、皇太子ご一家のファンなのです(笑)
正直なところ、皇室典範の改定論争に興味はありません。これも以前書いたように、皇室神道の伝統を守り、大嘗祭をつつがなく行うためには、天皇は男子でなくてはなりません。天皇制の存続は、男系を基本とした皇位の継承によって行われるべきであり、一部で言われる女系容認は、現行の天皇制とは質的に異なる制度への移行を意味します。それを多くの国民が望むのならそれはそれで構いませんが、私はやはり反対です。例え既に万世一系の遺伝子伝承は失われているとしても、貴重な伝統文化としての皇室神道はできる限り純粋な形を残すべきだと思います。先に触れた「天皇制の基層」でも述べられているとおり、明治維新に際して、皇室は大きく変容し、江戸期以前に行われていた重要な祭祀はかなりスポイルされています。それも、何らかの形で旧来の姿に戻すべきでしょう。
ただし、こうした意見を持つことと、政治的立場の右・左はまったく無関係であることを、再度書いておきます。
投稿者 yama : 05:55 PM | コメント (0) | トラックバック
June 24, 2006
「国」を背負う人々
サッカーのワールドカップというのは、オリンピック以上に、目に見える形でナショナリズムが発現される場でもあります。過剰なほどに「国を背負って戦う」という言葉を発する選手達、そして顔に国旗をペイントするなど露骨な愛国心を見せて応援するサポーター…、多数のフーリガンの存在、そして自国チームが負けると必ず話題なる「選手に危害を加えるという脅迫」…、こうした形での愛国心の発露は私個人には無縁ですが、むろん否定するものではありません。
ところで、日本と同じ組で戦ったオーストラリアvsクロアチア戦の前に、テレビで両国の因縁の関係について説明していました。オーストラリアにはクロアチアからの亡命者が多く、オーストラリア代表チーム主将(?)もクロアチア出身者だそうです。一方でクロアチア代表選手の中には内戦終結後にオーストラリアから帰国した選手が何人もいるそうです。そんな選手たちへのインタビューでは、2つの祖国同士が戦うことについての非常に複雑な心情が語られていました。
それにしても、「たかがスポーツ(あえて「たかが」と書きますが…)」の対戦で、選手や観客をここまで熱くさせる「国家」とは、いったい何なのでしょう? あらためて「国家とは何か」を、考えてしまいます。
昨日の日記で触れた「中世ヨーロッパの歴史」と同じ講談社学術文庫の新刊に「エゾの歴史 …北の人びとと日本」(海保嶺夫著)という本があり、これも先日読了しました。
この「エゾの歴史」は、同じ「蝦夷」と表記しながらも、12世紀を機に呼称が変化した古代「エミシ」と中・近世「エゾ」の連続性の謎を解き明かそうとする労作ですが、同時に「自由な民」であった北方文化圏の人々を描いて、「近代国家とは何か」について考えさせられる本でもあります。昨日触れた「中世ヨーロッパの歴史」が、欧州の近代化のプロセスにおける「中世」の位置付けを明確化する中で、比較的ポジティブに「近代国家のあり方」を捉えているのに対し、「エゾの歴史」では近代国家の持つネガティブな側面が浮き彫りにされます。
「蝦夷」「アイヌ」という文脈では、日本の中央政権との対立を軸に、江戸中期以降の和人による搾取と弾圧の歴史、明治期以降の差別の歴史などが大きく取り上げられますが、この本ではそんな話が語られているわけではありません。
縄文時代と同じ頃に擦文式土器文化圏を作り上げた民族の末裔であるエミシ、そしてエゾの人々は、古来より本州北部、北海道、サハリン、千島列島、大陸のアムール川流域、そして朝鮮半島をまたぐ環日本海交易圏を自由に往来し、独自の文化圏・経済圏を作り上げていました。大陸においてはアムール川流域まで清朝の支配が及んだのは、やっと19世紀のこと。その支配すら、まったく緩やかなものでした。サハリンや千島列島には19世紀までいかなる国家権力の支配も及んでいませんでした。当然ながら、東北、北海道に住むエミシ・エゾの人々には、鎌倉幕府、室町幕府と続くなかで、中央権力の統治は及んでいませんでした。驚くのは、1482年、俘囚の長=蝦夷管領である安東氏(安東政季と推定)によって、「夷千島王」の名で朝鮮(李朝)国王に使節が送られていることです。その後日本が政治的な統一をみた江戸時代に入ってなお、北海道には幕府の支配が及ばず、エゾの民が江戸幕府公認で国境を跨いでの自由な往来を確保していた経緯が明らかにされます。
こうした「自由に移動する民」の存在は、近代国家の枠組みが成立する以前、世界中どこにでも見られたことです。かつてはロマ(ジプシー)の一部も国境を越えてヨーロッパ内を自由に移動していました。日本にも昭和の初め頃までは、「サンガ」と呼ばれる戸籍を持たない人々が存在しました。そして今でも、東南アジアには国境を越えて移動する「海漂民」が存在します。
「エゾ=自由に移動した人々」の存在を前提に、著者は次のように語ります。
…近代になり「国境」が画定し、ために民族は分断され、人や物の交流はに大きな制限が加えられるようになった。近代国家は、人を「国家」という檻の中に閉じ込め、よほどの理由がない限り、檻の外へ長期的に出ることを認めない。かかる体制の成立を「近代」であるがゆえに「進歩」として肯定しなければならないのであろうか。そのようなものがなかった時代の方が、人ははるかに「自由」であった。「自由」を時代のメルクマールとすれば、「近代」はそれ以前より進んでいるとは言いがたい…
…国家権力は時代の進行とともにしだいに個人に近づいてくる。一方では、個人の権利・自由は時代とともに拡大・強化され、それこそが近代化であるとの考えが根強い。国家権力が個々人をとらえきった掌のなかでの権利や自由などの強化・拡大というべきであろう。近代化の特質は、あらゆるもの(言語・風習・教育などすべて)の均質化をともない、地域的、文化的相違を否定する。近代化とは右のような現象を伴うというあたりまえのことが忘れられることが多い。近代化=地域的・民族的特色の否定であり、手放しの賛美はできない…
むろん、近代国家に住む現在の私たちが、国家・国籍の枠を勝手に超えて活動することは不可能です。歴史を後退させることも不可能です。そして私自身、「国家の枠組みを壊せ」と主張するつもりもありません。しかし、地球上に暮らす全ての人々がより住みやすく、争いの無い世界を作るためにも、「緩やかな国家統治システム」について考えることは重要かもしれません。
投稿者 yama : 11:28 AM | コメント (0) | トラックバック
June 23, 2006
ワールドカップ中継を見ながら…
ドイツ・ワールドカップで、日本の決勝進出はなりませんでした。まあ、今後は戦犯探しがうるさくなるかもしれませんが、試合後のジーコのコメント通り「対戦相手が体格・体力でも、技術でも上回っていた」というのが、唯一かつ単純な敗因でしょう。欧州リーグではまともに使い物にならないレベルの選手、例えば中田や柳沢あたりが中心選手のチームなんですから、負けて当然です。でも、そんなことを専門家の誰もが事前にわかっていたわけで、予選を突破して大会に出場できただけもよしとすべきなんでしょうね。
いや、ワールドカップの結果なんてあまり興味はないのですが、ワールドカップ関連のテレビ番組の中継映像で見かけるドイツ諸都市の街並みや、欧州各国のサポーターの様子などは、文化的な興味もあって見飽きません。前回のワールドカップは日韓共催ということでアジアで開催されましたが、やはりサッカーの祭典であるワールドカップの開催地としては、東京やソウルの風景よりも、ヨーロッパの街並みの方がよく似合います。
ヨーロッパといえば、先日「中世ヨーロッパの歴史」(堀越孝一 講談社学術文庫)を読了しました。今さらヨーロッパ史もないものですが、あらためて中世ヨーロッパの通史を読むと、以前理解が曖昧だった部分でいろいろと気付かされるところがあります。
自分の無知と不勉強を晒すだけのつまらない話ですが、いくつかの感想を述べます。
実は、以前からちょっと不思議だったのが、欧州各国の文化や言語のあまりに大きな違いです。7世紀以降のフランク王国による統一以降の欧州の成立過程を見ると、国によってここまで文化や言葉が違う理由が感覚的に理解できませんでした。ゲルマンの影響が大きいドイツと、ローマ帝国の末裔であり地中海文明を起源とするイタリアが、文化も言語も大きく異なるのはよくわかります、しかし、例えば同じガリアからスタートし、いったんローマ化し、その後ゲルマン人に征服される…という同じような歴史を辿ったスペインとフランスの文化の差異は不思議です。スペインとフランスとでは、食を含む生活全般に渡って文化が相当に異なるように思います。またフランス語とスペイン語は、「同根」に近いはずなのに、わずか500年程度で、どうしてこんなに異なる言語になったのか。むろん似ている部分は多いけれど、少なくとも方言程度の違い…ではないですよね。
不勉強な私には、現在のスペインは、レンコンキスタによってフランスを中心とする騎士団が作った国…という漠然とした認識がありました。従って、言語も含むスペインの文化というのは、西フランク→フランスの影響を大きく受けており、そこに古来イベリア半島に住むガリアの影響と8世紀以降51世紀までイベリア半島を支配したイスラムの影響が混在している…というような単純な認識をしていたわけです。
しかし、この本を読むと、スペインという国は、レコンキスタによって騎士団が作った国を起源とするのではなく、あくまでレコンキスタはるか以前の「西ゴート王国の末裔」であることがよくわかります。フランク王国成立以前、西ゴート王国は、ゲルマン人によって建国された国ながら、もっともローマ文化の影響を残した国でもあり、また熱心なキリスト教国でもありました。この「西ゴート文化」は、イスラムの征服時にも退潮することなく、結果として、ラテン文化の影響がフランスより多く残った…と考えればよいのでしょうか。
言語的に見れば、フランス語は北のオイル・ロマン語、南のオック・ロマン語ともにゲルマン語の影響が相当に強く、それに比べて、フランク王国成立時のスペインは、バスク語地域を除いては概ねカタロニア語とガリア-ラテン語が影響を与え合い、そこにフランクで一度文化的に混合されたオック・ロマン語が加わった…という感じなのでしょう。
イベリア半島は、確かに長期に渡ってイスラムの支配下にありました。グラナダが陥落したのが1492年ですから、732年のツール・ポワチエの戦いから計算すれば、700年間に渡る支配です。しかし、実のところ12世紀には既にイベリア半島の約60%は、レオン、ナバラ、カスチラなどキリスト教諸侯領となっていたわけで、イスラムによる実質的な支配期間は短く、しかも支配化の領土を全面的に管理していたというよりも、拠点、拠点を押さえていただけのようです。そうした状況を考えても、イベリア半島における「西ゴート文化」は、イスラムの影響下にあってもしぶとく生き続けたのだと思われます。
さて、あらためて整理すれば、概ね次のような感じだと思います。
●ヨーロッパの文化は、主にローマ、ガリア、ゲルマンの混合によって成立していること(むろん東方文化や北方文化の影響もあるが…)。
●ヨーロッパの言語は、ローマ(ラテン)語、ガリア(ケルト)語、ゲルマン語の混合が基本で、「それぞれの影響の度合い」が、結果的に言語の差異となって現れていること。
まあ、当たり前の話ではありますが、政治や文化も含めた現代のヨーロッパの諸事情についての理解を深める上で、中世史を通読し直すことには、大きな意味がありそうです。こうした様々な背景を知っていれば、ワールドカップ観戦のためにドイツを訪れても、いろいろと腑に落ちることが多いでしょう。
ところで、この「中世ヨーロッパの歴史」という本の、著者による「あとがき」には、次のような記述がありました。
…フランク王国の分割協定であるヴェルダンとメルセンの両条約、そのメルセンは、EU、ヨーロッパ共同体が始動した「マーストリヒト協定」で知られるマーストリヒトのすぐ北にある地名だ。…ECの首脳陣は、メルセンの記憶を拠り所にマーストリヒトに集まったのではなかろうか。フランク王国が解体し、諸国家がっ群れ立つヨーロッパがはじまったメルセンから一千年、ヨーロッパはメルセンの呪縛を解こうとこころみる…
著者も言うように、事実がどうだったのかはわかりません。でも、マーストリヒト条約とメルセン条約の関係に思いを馳せることができただけでも、十分に面白い本でした。
とりとめもない話になりました。
投稿者 yama : 11:25 AM | コメント (0) | トラックバック
June 20, 2006
ぼちぼち再開
半年ぶりに日記を再開します。
先日訪れた御殿場の「加和以(かわい)」という和食店、手頃な値段で季節の食材を使ったカジュアルな懐石風の和食を食べさせてくれます。とても美味しいし、雰囲気もよく、広い庭もよく手入れされていてきれいです。場所は、東名高速を御殿場インターで降りて富士五湖方面へ向かい、国道246号に出たら三島方面へ左折して1kmほどのところにある杉名沢信号を右(山側)へ約500m入ったところ。周囲は水田と森で、何もありません。御殿場方面へ行かれる際には、ぜひ昼食でもどうぞ。詳しいことはネットででもお調べください。予約が必要です。
一方で、先頃知人に連れて行かれた一見おしゃれな某レストランは、味も態度も実にひどかった。場所と店名は伏せときますが、昨今流行の「マクロビオティック」を売り物にするレストラン。有機野菜などオーガニックフードを食材にした料理らしいんですが、カウンターで食べていたら、シェフが「いかがですか?」と聞きにきます。ちょうど食べていた料理に「オクラ」が使われていたので、私は「オクラは嫌いなのでちょっと…、それと全体的に味付けが薄いですね…」と答えました。するとシェフ曰く、「オクラは美味しい野菜ですよ、○○産のこのオクラの美味しさには自信があります。食事の基本はまず野菜ですよ」「うちの調理は素材が本来持つ味をに大切にするため、味付けは極力抑えています」…ここまではいいでしょう。「人間の体は、素材の持つ本来の味を美味しいと感じるようにできています。よい野菜なら火も通さず何もつけずに丸ごと食べるのが一番美味しいのです。お客様も、毎日こうした調理法で野菜を食べていれば野菜の美味しさがわかるはず。わからない方がおかしいのです」「野菜と穀物が人間にとって必要な生命力を生み出すのです」…ってのは、なんて言い草だ?
うるせえ! まずもって「好き嫌いは自由」でしょ。オクラを美味しいと感じようと感じまいと、余計なお世話でしょ。これは前にも書いたことがあるけど、私は野菜全般にあまり好きではありません。そして食べ物の好き嫌いが無い…っていう人間は「感受性が鈍い」と思ってます。ファッションであれ絵画やイラストであれ、人間が五感で感じるものには全て好き嫌いがあって当然。五感の1つである味覚にも個人差や好き嫌いがあって当然です。味覚には、育った環境や食生活による差異がある方が当たり前。オクラが嫌いだという私に対して、「美味しいから食べろ」とは傲慢です。でもここまでなら、まだいい。
何よりも気に入らないのは、「人間の体はこうなっている」「人間の食生活はこうあるべき」なんてわかったふうな言い方。まるで、味が薄いと感じる私の方がおかしいかのような物言い。こういう傲慢な考え方は実に不愉快です。「マクロビオティック」でも何でも、自分が何を信じてても構いませんが、他者や客に押し付けないで欲しい。むろん、野菜嫌いなら最初からそんな店に行かなきゃいい…ってのは確か。でも、このレストラン、外観は普通のお店だし、特に「当店は野菜料理です」とも「当店は味が薄いですから、それがお嫌いな方はおやめ下さい」とも書いていない。知らずに入って、こんなものを食べさせられ、挙句の果てに「この料理を美味しいと思わない方がおかしい」なんて指摘されたら、誰にとっても不愉快極まりない話だと思うのですが…。
第一、「人間が本来あるべき姿」なんてことを言うのなら、こんなところで、金のかかった食材使ってオーガニックフーズなんてものを食ってる方が、はるかに「人間が本来あるべき姿」から外れているって思うけどなぁ…
実際、自然食材などと称する農産物、高価な食材や素材を使った料理を主体とする食生活を実践することなど、普通の人間にとって何の意味があるのでしょう。例え、野菜や穀物にいくばくかの健康増進効果があったとしても、野菜や穀物中心のマクロビオティック料理とやらが人間のあるべき食生活として、「自然」だとは思えません。ましてや、そのレストランのシェフが言うところの「人間が本来あるべき食生活」「本来持っている味覚」なんて傲慢な言葉は、バカバカしいの一言に尽きます。「人間の本来の姿」なるものは、もっと多様な価値基準をもとに判断すべきでしょう。世界を見渡せば、何千年も前から魚類中心の食生活を送っている海洋民族や肉食中心の食生活を送ってきた遊牧民族などもたくさんいます。
ところで、この「人間の食生活」「本来あるべき姿」といった話になると、思わず「未開社会から農耕社会の移行は必ずしも社会の進歩を意味するものではない」…と語る、C.レヴィ=ストロースの言葉を思い出します。
先頃、平凡社ライブラリーから刊行された「レヴィ=ストロース講義」は、1996年に東京で行なわれた彼の3回の講演と質疑応答の内容を収録したもので、これまで数多く読んできたC.レヴィ=ストロースの著作の中でも、わかりやすさと彼の思想のエッセンスが抽出しやすい点においては出色の本です(彼の好きな日本文化について語る言葉の中にはちょっとおかしな認識もけっこうありますが、まあご愛嬌です)。
講演の中で、いつも通りにレヴィ=ストロースは問いかけます、「未開とは何か」を。そして、彼は言います。農耕以前の未開社会における食生活は、食料となる生物種が多種で脂質が少なく、繊維とミネラルに富み、たんぱく質やカロリーも十分で、農耕社会以後のそれよりもはるかに豊穣であると。従って、未開社会には伝染性のない病気、特に肥満、高血圧、循環器系の病気などはないと。また、婚姻制度等によって集団の人口及び人口密度を適切にコントロールする術を知っている未開社会においては伝染病の流行がない、とも指摘します。「農耕の始まりは一面において退歩」と言う人類学者としての彼の言葉は、非常に謙虚な立場から語られています。人間本来の姿…については、多種多様な回答があることを思い知らせてくれます。
現代に生きるわれわれの多くが、人類社会の進歩は「農耕の発展から始まる生産力の増加と人口増加が端緒」と認識し、その結果生まれた社会と文明の発展過程を是とし、工業力や文明の高度な発展段階である現代社会のさらなる進歩のためには「環境問題への配慮が必要」と考えている…、こんなありきたり現状認識にはもう飽き飽きしました。
私はレヴィ=ストロースに特に心酔しているわけではありませんが、高校時代に「悲しき熱帯」を読んで以来現在に至るまで、彼の言葉の端々から「多面的なものの見方」を教えられ、また考えさせられることが多いのは事実です。
それにしても、現代の社会において「本来の人間があるべき姿は…」などと画一的で底が浅い思い込みをする人には、比較的「環境問題」や「健康問題」について声高に語る人が多いような気がします。そして多面的なものの見方ができない人ほど、自分の意見に反対されると不快な顔をし、激昂したりもします。
例えば、リサイクル問題など、もう何年も前から武田邦彦氏が提起している「材料工学の視点から見た無意味なリサイクル」という指摘がいまだ十分に咀嚼・検討されることなく、「再生○○」と称する「無駄な工業製品」が大量に作り続けられています。かねて武田邦彦氏の問題提起が全て正しいと思っていたわけではありませんが、一定の条件下では「リサイクルはするな」という示唆に富んだ意見はもっと突っ込んで検討されるべきしょう。私自身は、フリース(シンチラ)を再生しているアウトドアメーカー「パタゴニア」が、地球環境に優しい企業だなんて思ったことは一度もありません。ばかデカい6気筒3.3Lエンジンを搭載し400万円以上もするハリアー・ハイブリッドを生産しているトヨタが「環境に優しい企業」と自ら謳うことに、なぜ誰もが文句をいわないのか理解できません。相変わらず、バカバカしい「マイナスイオンの健康効果」を謳う大手メーカーの家電製品はなくなりません。膨大な労力と税金をつぎ込んだ自治体によるペットボトルのリサイクルなど、無駄の極致だと思ってます。そして言うまでもなく、私が昨今の風潮の中で最もアホらしいと思い続けているのは、「ロハス」という言葉。高価な自然食材を食べ、無駄なエネルギーを使って再生されたリサイクル製品を愛用し、電車に乗れば十分行ける場所に行くためにハイブリッド車に乗って、そんな生活が「地球環境にも優しいロハスな生活」だなんて胸を張っている人間を見聞きすると、これはもうお笑い草です。でも、こうしたライフスタイルを実践している人ほど、「バカらしい」という意見を表明すると怒り出す例が多いようです。むろん、こうした「ロハスなんてアホらしい」という意見自体もまた相対的なものであるわけで、私自身はこの手の話で他者と議論をすることは、絶対にありません。毎日淡々と、好きな物を食べ、好きな酒を飲み、好きなモノに囲まれて暮らしているだけです。
まあ、個人の信条でどんなライフスタイルを実践しようと、何を食べようと自由ですが、他人には押し付けないで頂きたい。また、「人間は本来こうあるべき」なんて傲慢な言葉を語るのも、やめて頂きたいものです。