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July 24, 2006
過去1週間の読書記録
相変わらず、電車の中で読みやすい文庫・新書を中心に、乱読というか濫読状態が続いています。昨夜までの過去一週間に読了した本は、文庫が7~8冊と新書が3冊、ハードカバー1冊ほど。新刊もあれば、未読の既刊本もあります。いつもながらエンタメ小説中心ですが、他のジャンルの本も少し読みました。先週は仕事が忙がしかったので、読書量はちょっと少なめかも。
まずは新刊文庫で面白かったのは、「出版業界最底辺日記―エロ漫画編集者『嫌われ者の記』」(塩山 芳明 ちくま文庫)です。著者とは同業…ではないですが、業界的にかなりわかる部分もあり、また同世代の人間でもあるし、彼の読んでいる本も共感できる部分があります。ともかく、こうしたサブカル関連業界にいる人たちって、実にしたたかでしなやかです。
そして吉本隆明「初期ノート」(光文社文庫)は、まあ高校時代に全集で読んだ部分も含めて再読目的で購入。この時代に生きた人々にとって「敗戦」がどういうものであったか…を深い部分まで知ることができます。この人、最近の時事評論は面白くもなんともないけど、戦中・終戦直後の時代背景の中で、思春期の青年がこんなことを考えていたのかと思うと、非常に興味深いものがあります。
新刊とはいえ、1ヶ月遅れで読んだのがジョージ・P.・ペレケーノス「魂よ眠れ」(ハヤカワ文庫)です。黒人探偵デレク・ストレンジシリーズの文庫新作ですが、説明の必要はなし。文句なしに面白かった。
新書の方は既刊書が中心で、まずは「フランス史10講」(岩波新書)、「ブリュージュ-フランドルの輝ける宝石」(中公新書)の2冊。ここ1年ぐらい、かつて嫌いだった「ヨーロッパ」がマイブームなので、その延長での読書です。「フランス史10講」は、ローマ時代から中世、近世を経て現代までのフランスの歴史とその文化の立脚点を要領よく解説した本、「ブリュージュ」は、ハンザ同盟の中心都市の1つであるブリュージュの歴史と中世フランドル地方の政治、経済、文化について書かれた本です。ブリュージュは、私も訪れたことがあります。どちらも啓蒙書レベルの歴史入門書ですが、通勤電車でパラパラと読むのにちょうどよく、それなりに面白かった。
新書で面白かったのは、既刊書ですが、書店の店頭でタイトルを見てふと購入した中公新書「南米ポトシ銀山」。あの、中世ヨーロッパ経済を変え、産業革命の引き金となるほどの富をヨーロッパに蓄積させたと言われるポトシ銀山の歴史を書いた本ですが、この本は「インディアスとヨーロッパを結ぶ経済学」の本でもあります。南米ポトシで算出された銀のうち、スペイン王室が直接吸い上げたのは、わずか1/5に過ぎません。何よりも、記録に残らず持ち出された量が、全産出量を半分近くに及ぶという実態については、初めて知りました。これら、記録に残らない大量の銀の一部はヨーロッパを介さずにアジアと貿易されたり、南米に留まったりした経緯が書かれています。また、インディオには過酷であった輪番制「ミタ労働」について、植民地経営側からも多くの反対論が出ていたことが記されています。中世にあっても、「人権」を唱えた人が数多くいたわけです。それにしても、300年以上にも及ぶこのポトシ銀山の地獄の強制労働で、数百万人のインディオの命が失われた…という説もあるそうですが、世界中で植民地から収奪された富の大きさと、収奪された民の側の苦しみは、どの植民地でも同じです。
あと読んだのは文庫の既刊書です。なんとなく気になっていたので、迷いながらも横山秀夫「クライマーズ・ハイ」を読みました。やっぱり面白くないですね。同じ日航機事故を絡めたエンタメ小説なら、先月読んだ香納諒一「炎の影」(ハルキ文庫)の方がはるかに面白いかも。以前この日記で「半落ち」がいかにつまらない小説かを書いたことがありますが。横山秀夫の作品の中で、私がまあまあ面白いと思ったのは、一般には評判がよくない「ルパンの消息」だけかもしれない。
まあ、横山秀夫が面白くないと思いながらも文庫化されるたびに読み続けているわけですが、要するにこの人の作品には「けれん」が多過ぎるんです。もともと、小説、しかもエンターテイメント小説なんて、それ自体がけれんの産物以外のなにものでもないわけで、けれんがあるからという理由で「面白くない」というのもおかしいかもしれない。でも、「けれん」にも種類があります。少なくとも、大向うをうならせる「けれん」なら、それはそれであっさり降参します。同じ演出や「はったり」でも、あまり露骨に「感情のツボ」を狙おうとしていると、多少ならずともうんざりするわけで、横山秀夫の小説はまさにそれ。セコいけれんが満載…って感じ。何か、「感動を強制」というか「感動への誘導」をされているような気がしちゃうわけです。このセコさは宮部みゆきに合い通じるものがあるんだけど、まだ宮部みゆきの方がマシかも。
先に香納諒一の名前が出ましたが、同じハードボイルド系では、東直己「熾火」も先週文庫で読みました。畝原シリーズの4作目ですが、このシリーズは相変わらず好調です。人間の暗い部分をあっさり書く…というスタンスがいい。
次いで船戸与一「夢は荒れ地を」(文春文庫)も、遅ればせながら先週読了。船戸与一は基本的に嫌いであまり読まない作家ですが、この作品に関しては舞台設定がいい。よく知ってる場所ですし…。カンボジアにPKOで派遣された自衛隊員のその後…という設定は面白かったし、カンボジアへの国際援助の闇の部分が描かれているのもよかった。そういえば、この本を読んでいるときに「カンボジアの旧ポル・ポト派最高幹部の一人だったタ・モク元参謀総長が死去」というニュースが流れたのは、妙にタイムリーでした。
既刊の文庫では、佐々木譲「疾駆する夢〈上・下〉」も、先週読了しました。好きな作家の作品ですが、内容に想像がついたので、これまで買わなかったんです。で、読んで見たら、やっぱり買わなきゃよかったってのが感想。いくつかの書評にも書かれている通り、これは「小説版プロジェクトX」以外の何者でもなく、しかも自動車産業の戦後を描いている部分も中途半端です。佐々木譲は「ベルリン飛行指令」「エトロフ発緊急電」「ストックホルムの密使」「ワシントン封印工作」と、1990年代には立て続けに面白い作品を書き、また「帰らざる荒野」など北海道を舞台にした和製ウェスタンものも好きでした。彼の作品が持つ「けれん」は、嫌いじゃなかった。でも彼は「武揚伝」あたりから作品に志向するものが変わってきたようです。最近の彼の作品は、面白くなくなってきた。そういえば、彼が書いた集英社新書「幕臣たちと技術立国」も読みましたが、別に面白くなかった。
技術立国をキーワードとする本とか、プロジェクトX的な話が好きなら、以前も紹介しましたが、中川靖三「日本の半導体開発-超LSIへの道を拓いた男たち」(講談社学術文庫)、杉山隆男「メディアの興亡」(文春文庫)、下山進「勝負の分かれ目」(角川文庫)…あたりが、圧倒的に面白いですね。いずれも文庫本で買えます。
そういえば、またしてもNHK BSで放送された「BS世界のドキュメンタリー」の話題。昨夜10時から2時間に渡って放映された「ドレスデン大空襲 前・後編」は、戦慄の記録映像でした。このドレスデンで行われた蛮行とたいして変わらないことが、現在レバノンで進行しています。「戦争反対」という意思は、理屈抜きでもっと単純に声を上げた方がよいかも…と、柄にもないことを考えてしまいました。
投稿者 yama : 04:53 PM | コメント (0) | トラックバック
July 22, 2006
ニュースいろいろ
ミス・ユニバースの民族衣装審査、日本は「赤忍者」…って記事がありました。忍者の服って民族衣装か?…など、いろいろ突っ込みどころは多いでしょうけど、それはそれ。この格好、メチャいい! フェチな私は大好きです。
30代前半男性、45%が親と同居-晩婚化が影響…って、やっぱり信じられない。僕らの世代はみんな、あれほど親元から離れたかったのに。
イスラエル軍が、戦車部隊をはじめ数千人規模の地上部隊をレバノンとの国境地帯に集結させています。地上軍による大規模侵攻が始まります。既に300人以上の民間人死傷者が出ていますが、国連人道問題調整事務所によると、家屋を失うなどした被災者も約50万人に上るとのことです。
このイスラエルの軍事行動を、依然としてアメリカは支持。国連事務総長によるイスラエルとヒズボラの停戦案に拒否の姿勢を見せています。安保理議長国フランスは、UNIFILの増強や、これに代わる国際部隊の派遣案のたたき台を理事国に提示し調停努力を示したい意向だが「米国の反対ですぐには無理」な状況とのこと。
一方で、イランの核問題をめぐる安保理決議については、米国は「国連憲章第7章の第39条と第40条に基づいて行動する」と規定した決議案を提示しています。そういえば台湾が大軍事演習というニュースもありました。
なぜ、核開発について、イランはダメでインドやイスラエルは容認されるのか。なぜ、イスラエルの軍事行動を認め、台湾の軍事演習を認める一方で、北朝鮮によるミサイル発射は非難されるのか。ともかく「ダブルスタンダード」以前の問題で、どうにも理屈は通りません。
北朝鮮が人権を無視する独裁国家だから…という理由を付けるのは簡単です。しかし、世界にはわけのわからない国家がいくらでもあります。ベラルーシのルカシェンコやトルクメニスタンのニヤゾフは、金正日よりもまともなのか? トルクメニスタンは北朝鮮よりもまともな国か?
そういえば、反体制市民を数千人以上虐殺、数万人が行方不明になったチリのピノチェト政権、アメリカはむろん、日本も成立直後に承認しました。
昭和天皇のメモが原因で、日経本社に右翼が火炎瓶。私は、昭和天皇の心情がなんとなく理解できます。昭和天皇は、昭和も後期になってからのあのゆっくりしゃべる年老いた姿が印象的ですが、若い頃の言動を見ていると、頭の回転も速いし、かなりエキセントリックな部分もあります。ともかく昭和天皇にとって、あの「敗戦」が大きな痛手であったことは間違いありません。文春新書「あの戦争になぜ負けたのか」、そしてその著者でもある半藤一利の「昭和史」、さらには保阪正康「昭和陸軍の研究」(これは非常に優れた本だと思います)…等を読めばわかるように、日本の敗戦にはあきらかに「責任を取るべき人間」がいます。ここでは、侵略戦争というレベルでの「国家としての責任」問題を書くつもりはありませんが、「日本の国民に対する責任」を持った人間がいることは間違いありません。とりわけ軍人の一部は明らかに誤った戦争指導をし、天皇に真実を伝えなかった。インパールやフィリピンをはじめとする南方戦線では、正気の沙汰ではない作戦計画で何十万人の兵士が餓死していきました。昭和天皇が、そうした人間を、戦場で死んでいった人間と区別したいと考えるのはごく自然です。
投稿者 yama : 03:24 PM | コメント (0) | トラックバック
July 19, 2006
憂鬱な雨が続きます
数日前のニュースですが「今更ながら…受験生42人『合格』 明星大で今年も入試出題ミス」…という記事。その入試問題というのが…「徹底」の「テイ」と同じ部首を持つ漢字を(1)「ヤッカイ」(2)「グチ」(3)「クッセツ」(4)「チュウヨウ」(5)「センプウキ」の選択肢から選ぶ…というもの。「中庸」の「庸」も含め、全て中学で習う漢字です。要するにこの問題は、中学校レベルの漢字テスト。あんまりだと思う。大学入試で中学レベルの漢字テストを出題するのは異常だし、それを間違うような人間が大学を目指すのも異常。漢字交じりの日本語の読解力をテストしたければ、難しい漢字を問題文に含めればいいだけなんですけど、それ以前の問題として、大学とは何か…をあらためて考えさせられます。
同じような話では「大学淘汰: 学生に日本語、再教育」…というちょっと前の毎日新聞の記事も、ネット上でかなり話題になりました。
松本歯科大学の「言語表現・日本語」なる講座では、<ながねんにわたってはぶらしをまよこにうごかすはみがきをつづけているとしにくにちかいぶぶんがくさびじょうにすりへって……>…という文を辞書片手に漢字に直させているんです。授業の目的は「歯科医師国家試験の出題意図が理解できるため」ってことだそうですが、要するに「歯科医師国家試験の問題が読めるようにするため」ってことですよね。この授業に対する学生の感想文が「じしょが上手にひけなくて…」、授業中の様子は「途中で力尽きたのか、机に突っ伏したり、並んだ椅子に横たわる者もいる…って、あんまりだ。小学校レベルの漢字が読めない人間が入れる大学…ってのもどうかと思いますが、それが歯科大というのだから恐ろしい。歯科医も人の命を預かる医師ですよ。私は、小学校レベルの漢字が読めない、書けないという医師に歯の治療をしてもらいたくはありません。
こうした学力低下にどう対応すればよいのか?…については、もういろんな人が勝手なことを言ってます。確かに義務教育レベルの学力低下問題への対応となると、一朝一夕に改善するのは難しいと思います。でも大学生の学力低下については、解決法は簡単です。
「大学生の学力低下」という言葉自体が矛盾しているわけで、「学力の低い人間が大学生でいられなくすればよい」ということ。まずは、学力のない人間が大学に入れないようにする…、そして入学後に勉強しないやつは退学させる…要はこれだけでしょう。これ以上の方法もこれ以下の方法もありません。以前から何度も言っているように、レベルの低い大学については文部省の助成金を全面的にカットする…、たったそれだけです。低レベルの大学は「バカ高い授業料を払える人間だけが行くところ」として存続するのは構いませんが、まあ補助金をカットされた大学の大半は経営できずに潰れるでしょう。こうして大学の数はうまく淘汰されるはず。「レベルの低い大学」の判断基準は難しいと思いますが、とりあえずは現行の大手予備校の数値を参考に偏差値(あえてこの言葉を使いますが…)60とか65以下の大学は全て助成金をカットしても構わないと思います。助成金を受けるべき大学の数は、現行の20%程度が妥当だと思われます。
しかしながら、義務教育レベルの学力低下問題への対応は確かに難しいし、こちらの方がはるかに重要な問題。少なくとも、「ゆとり教育の是非」なんて単純な話じゃないでしょう。また「教育の機会均等」と「学校選択の自由」をどう両立させるかという問題もあります。そして公権力がどのように教育に関わっていくかという問題もある。教師の質の向上という問題もあるし、それ以上に家庭内教育(主に「躾」)の問題もあるでしょう。さらには、国家が教育にどこまでお金をかけるかという問題もあります。公財政支出学校教育費(初等中等教育)がGDPに占める比率を見ると、先進国の中で日本は極端に低い。フランスが4%で、アメリカやイギリスが3%半ば、それに比べて日本は2.7%だそうです。ちなみに高等教育費のGDP比も日本は極端に低く、例えば米・独・仏が1%でアメリカが0.8%であるのに対し、日本は0.5%です(ちくま新書「義務教育を問いなおす」)。この日本という国は、教育にお金をかけない国…なんですね。
他の先進諸国並みの教育費を確保した上で、まずは「競争」を復活させること、「児童・生徒間の学習能力の差異の存在を認める」こと、学習能力や学力の差異を人間の価値の差異と同一視しないという価値観を教えること…等は、最低限やらなくてはならないように思います。しかし、それだけでは、学力の底上げは難しいでしょう。「学ぶ」ということの意味を、自分自身が報われるかどうかという損得の問題だけで考えているレベルでは、多くの子供が競って学ぶ環境の実現は不可能だと思われます。
私は、義務教育レベルで、子供が熱心に学ばないのは、家庭教育崩壊の問題や、希望が持てない格差社会という問題などもさることながら、背景にはもっと根源的な「社会の活力」の有無があるのではないか…と思ったりする次第です。発展を続けるアジア諸国や日本の1950~60年代を例に出すまでもなく、社会全体に活力があり、進歩を続けていると体感できる社会であれば、教育環境にも活気が出て、子供たちは必死で学ぶでしょう。
そうなると、現在の日本の社会に活力がない最大の要因は、少子化人口減少ということになります。未来を担う子供や若い世代が少なく、一方で某日銀総裁のようなモラルの欠片もないクソジジイやババアが好き勝手に権力を持て遊んでいる現在の日本は、活力がないばかりか、若い世代にとっては希望を持てない暗黒の社会に他なりません。
この危機的な状況にある出生率の低下を解決し、日本という国に活力をもたらす処方箋は、やはり移民だと思われます。仮に、達成すべき出生率を2%と定めます。そして現実の出生率1.25%との差を、移民で埋める…これがすぐに実現できて効果が高い方法です。幸い…といっては何ですが、今なら日本に移民を希望する人はまだいるはずです。10、20年後の日本は、誰も移民を希望しない社会に落ちぶれているかもしれません。一定の能力テストや条件を課した上で、主に人口増に悩むアジアやアフリカから毎年数十万人の若者を受け入れる…、私は日本という国に活力を取り戻すよい方法だと真剣に考えています。
投稿者 yama : 11:59 AM | コメント (0) | トラックバック
July 15, 2006
うなぎが食べたい
朝刊を読んでいると、しばし虚無的、絶望的な気分に襲われます。
イスラエルによるレバノン攻撃の記事。国際空港に続いてベイルート市街地に対する空爆が続き一般市民に犠牲が出ています。ライス国務長官によるイスラエルに対する「自制」要請も、一方でブッシュが「レバノンを攻撃することで自国を防衛する権利はある」と発言しているようでは効果なし。むろん、侵攻の原因にヒズボラによるイスラエル兵拉致があるにしても、圧倒的な戦力を駆使しての市街地攻撃は、アフガニスタン攻撃やイラク攻撃を思い出させます。結局、犠牲になるのは市民。
ところで、そのイスラエルが停戦条件を提示しました。拉致された兵士の解放…という条件はまあ当然でしょう。しかし「ヒズボラの武装解除などを定めた国連安保理決議の履行」を条件として提示しているのには、驚きました。よく知られていますが、イスラエルは1948年のイスラエル建国で生じたパレスチナ難民の帰還権を宣言した国連総会決議194号を無視しました。1967年には、第3次中東戦争後にイスラエルに対して占領地からの撤退を求めた国連安保理決議242号を無視、それ以後もイスラエルは安保理決議を無視し続けています。近いところでは、2004年に安保理はデモ隊に向けての発砲と住宅破壊に関してイスラエルを非難する決議を行っていますが、イスラエルは当然無視しました。イスラエルはこれまでに60以上もの国連の決議を無視しています。イスラエルが無視しているのは国連決議だけではありません。2004年に国際司法裁判所が、ヨルダン川西岸の分離壁を違法と認め、撤去を勧告したこともありました。これまた当然、イスラエルは無視しました。
翻って、現在朝鮮のミサイル発射に対する安保理非難決議の成立が難航しているという記事。「安保理決議」や「国連決議」そして「国際法」なんてものが、現実の世界でどんな意味と効力を持つものか、中東の歴史やイラク攻撃の経緯などを見ていれば誰でもわかることです。いったい、日本政府は何がしたいんだろうか?
まもなくサンクトペテルブルグでサミットが開催されます。このサミットで、アメリカとロシアが衝突の可能性…という記事がありました。ロシアおよび旧ソ連圏の民主化の遅れを非難するアメリカ、そして沿カスピ海諸国においてエネルギーを巡る欧米とロシアの争いの表面化。この記事を読んでいたら、7月8日にNHK BSで放送された「BS世界のドキュメンタリー-潜入ルポ・旧ソ連軍巨大兵器庫 密輸疑惑に迫る」という番組を思い出しました。たまたま見ていたのですが、秀逸な番組でした。世界各地の紛争地域への武器密輸出の拠点と疑われてきた「沿ドニエストル共和国」への潜入ルポで、フランスのTV局が制作したもの。ウクライナ国境に接するモルドバ共和国内の「独立国」である沿ドニエストル共和国については、こちらや、こちらを参照して頂くとして、ともかく沿ドニエストル共和国のような傀儡国家を平然と作り上げるロシアとそれに対して何もできない「国際世論」の現状は非常に不気味です。旧ソ連の覇権回復を狙うプーチン政権下のロシアと、もう一方の覇権国家であるアメリカは、そんなに遠くない将来、大規模な地域紛争の形で争う可能性は高いかもしれません。
そして、もっとも絶望したのが、国立教育政策研究所が実施した学力テストの結果を報じた記事。小学生から大学生まで、学力低下を指摘する記事にはもう驚きませんが、それにしても、国家や社会の将来を考えると虚無的な気分になります。
こんな気分を吹き飛ばすには、美味しい物を食べるに限ります。今日は暑いし、久しぶりに神田「きくかわ」でうなぎでも食べようかなぁ…
投稿者 yama : 12:27 PM | コメント (0) | トラックバック
July 11, 2006
GR DIGTAL
そういえば、ここのところサイト内にデジカメの話題を書いていません。新規購入デジカメのインプレッションも書いてませんね。毎日使っているTimbuk2のメッセンジャーバッグには必ずデジカメを入れて持ち歩いてますし、写真も毎日のように撮ってますよ。でも、サイトに書くようなデジカメの話は最近無くなってしまったのです。
そもそも、この「WS30の世界」というサイト、安価で手軽なデジカメで楽しもう…というコンセプトで開設したものです。まあ、トイデジカメが無くなり、エントリー機種ですら500万画素が普通という時代になった現在、本当のところはそんなコンセプトなんてどうでもよいのですが、それでも、私がインプレッションを書くのは、基本的にはエントリークラスのデジカメや、あまり売れ筋じゃないマイナーなデジカメが圧倒的に多かった。というのも、ハイエンド機種は高画質で当たり前、またメジャーな機種は多くのサイトでインプレッションが公開されている。結局、私なんかがわざわざ書くまでもない…という思いがありました。また、マイナーで安価な製品が予想外に高画質だった…という方が、書いてて面白いというのもあります。だから、このサイトでは仕事で使っているデジタル一眼レフやハイエンド機の話を書いたことがなかった次第です。ともかく、安くて手軽な小型デジカメを毎日とっかえひっかえ持ち歩いて写真を撮るのが、いちばん楽しいと思ってました。
そんな私が、ここ数ヶ月は、もう仕事以外では1種類のデジカメしか使わなくなった。何を隠そう、リコー「GR DIGTAL」です。やっぱりいいです、使ってて楽しいです、このカメラ。
でも、GR DIGTALの使用記なんて、プロカメラマンからハイアマチュア、ただのデジカメ好きに至るまで、ネット上で腐るほど書かれています。それも、かなりカメラに詳しい人達がいろいろと好き勝手に評価してます。私なんか、何も書くことないです。それと、GR DIGTALって、やっぱりハイエンド・コンパクト機でしょ。値段も、いまだに実売で7万円ぐらいはするし、最近は6万円もあればAPS-CサイズのCCD積んだ型落ちのデジタル一眼がレンズキット付きで買えちゃうんだから、やっぱりコンデジにしちゃ高い。でGR DIGTALは、レンズも画像処理エンジンも値段相応に性能がいい。これだけの値段なんだから、きれいな写真が撮れて当然…って部分がありますよね。
そんなわけで、このサイトにとってはGR DIGTALのインプレッションなんて書いてもしょうがないと思ってました。それに、GR DIGTALのコンセプトについては本音では「評価しない」ってのがあるし、平均的ユーザ層については「仲間になんかなりたくない」(笑)って部分があります。要するに、「GR DIGTALにけっこう満足してる平凡な自分」がすごく嫌なんです。
でも、一応、使っていることを書いちゃった以上、GR DIGTALを数ヶ月間使ってみた感触だけは簡単に書いておきます。画質については特に評価しません。まあRAWではほとんど撮らないし、JPEG最高画質で見てる限りは、別に文句はないです。
実際に使っていて非常によいと思う部分は、やはり優れたホールド感と適度な重量感、要するにカメラを構えた時のバランスがいい点。これはもう、出色でしょう。横長のフォルムで、両手で構えても具合がいい。縦位置での撮影も問題なし。重量も適当です。軽量なカメラが好きな私は、最初はバッテリー込みで200gあるってのはちょっと重過ぎると思ってました。でも、このカメラに限っては、重量バランスがいいので重く感じない。大きさは、もう少し小さくてもいいかなと思ってます。
ボタン配置も含めた操作性については、まあこんなもの。ADJダイヤルは慣れればそれなりに使いよいですね。誤操作防止用のロックボタンとか、上下ボタンによる露出補正は使いやすい。
GR DIGTALでは「絞り優先モード」と「スポット測光」を多用するようになりましたが、絞り優先時の絞り値のダイヤルによる変更が楽でよいですね。絞り優先というのは、私のような銀塩世代にとってはとても使いやすいんです。かつて銀塩コンパクトの中で最もよく使ったオリンパスXAや、銀塩一眼レフでスナップ用に愛用したペンタックスMEなんかも絞り優先でした。これらのカメラと同じ感覚で、常に絞りを意識しながら撮って楽しいところがGR DIGTALのいいところです。
それで、言うまもなく魅力的なのが、単焦点・広角レンズなんだけど、これに類した単焦点コンデジとしてはかつて愛用してたKodakのDC3800、SONYのDSC-U30あたりを思い付くぐらい。ともかく、風景はただ撮るだけ、近いものを大きく撮るのなら被写体に近寄ってパッとシャッター押すだけです。撮るときにズームの画角なんて考えなくてもいいのは、実に気楽。
また、F2.4という明るさもいい。F2.8と較べると1絞り分明るいだけなんだけど、この1絞り分が大きい。私のようにどんな場合でもまずストロボを使わないって人間にとっては、レンズの明るさは1絞り分だって非常に重要。それにF2.4なら、絞り開放で使えば、この口径でもなんとかバックのボケを楽しめます。むろんF2.0、またはF1.8ぐらいならもっといいけど、まあレンズの口径とカメラのサイズを考えればこのF値は妥当なところでしょう。
逆に、使ってみてイマイチだと思っている点を挙げます。あえて言いいますが、評価が高い28mmという画角は、それなりに「飽き」がきます。28 mm単焦点って、本当に使いやすいんだろうか。ここ何ヶ月かGR DIGTALを使って見て、あらためて問い直しているところです。なんと言うのか、「もっと自然な写真が撮りたい」って部分があります。
GR DIGTALの場合、28 mmどころか21 mmのワイコンがけっこう売れてるし、ユーザーのBlogサイトなんか見ても21mmで撮った写真を掲載している人って多いですよね。確かに、28mmとか24mmの広角って風景撮るには最高だし、21mmともなればパースが効いた面白い写真撮れます。でも、これって、広角の面白さを賛美する一部のプロやハイアマチュアによる悪影響があるような気がしないでもない。悪影響っていうより、けっこう「乗せられている」部分がありそうです。日常的に使っていると、パースが効いた写真が撮りたい時って、実はそんなに多くはない。21mmや24mmなんて常用する気は全くしないし、28mmだってうっとおしいことがあります。それから、広角は人物が撮りにくい。撮りにくいというか、自然な距離感の人物写真が撮れません。こういうときに、28mmだと「いかにも広角で撮った」という感じの近接写真しか撮れない。広角で撮った人ポートレートは、たまには面白いかもしれないけど、やっぱり「凝視」した感じのナチュラルなポートレートにはなりません。
風景を撮るのなら28mmは文句がないか…といえば、これまたそうでもない。写る範囲が広いことは基本的にいいことだけど、街角にあるオブジェのようなものを撮りたい時や、都市風景の一部だけをスパッと切り取りたい時など、40~50mmぐらいのレンズの方が自然な写真が撮れます。海外旅行で写真を撮っていると、個人的には望遠ってのはほとん不要だとは思いますが、50mm程度の画角が欲しいシチュエーションはけっこうあります。私は海外旅行でも、街角の人物やその場で知り合った人物をよく撮りますし…
考えて見ると、銀塩時代にスナップ用として使いやすかった一眼レフ用レンズは、個人的には35mm、40mm、50mmの3本で、特に私は標準レンズと呼んでバカにされた50mmがけっこう好きでした。ペンタックスMX+50mm F1.4レンズの組合わせ、またはペンタックスME+40 mm F2パンケーキレンズの組み合わせあたりが、スナップには一番使いやすかった。50 mm F1.4の絞り開放は、女の子撮ったりするとすごくいいんです。
そういえば、デジカメでは非常によく使った上述のKodakのDC3800、SONYのDSC-U30は、どちらも32~33mmぐらいの準広角。これは、風景も人物も意識せずに適当に自然な写真が撮れてよかったですね。
あと、以前書いたことがありますが、人間の目の視野って本当は広角レンズじゃない。確かに視野は広いんですけど、中心部と較べて周辺部の視力は大幅に落ちてるわけです(人間の視力には「中心視力」と「中心外視力」があり、例えば視力が1.0以上あるのは網膜の中心のほんのわずかな部分に過ぎない。網膜の中心部から外れると視力は急激に落ち、中心からわずか10度離れた網膜上では視力は0.05程度となる。視野の中心部以外は「ぼんやりと見えている」だけ)。人間が「目の前のものを普通に見ている」状態の視野を画角換算すれば、50mmレンズあたりの方が近い感覚でしょう。
そんなこともあり、このGR DIGTALも、次の機種では少なくとも35mm(35mm換算)ぐらいの画角のレンズを搭載したバリエーションが欲しい。35mm前後の方が、個人的には海外旅行などで使い勝手がよさそうです。それともう1つは、60mmぐらいのささやかな中望遠単焦点機も面白い。これは、ポートレートを中心に、「凝視型街角スナップ」に使いたい。60年代には、50mmとか60mmでF1.8とかの明るいレンズ積んだ個性的な銀塩コンパクトがあったんですけど。要するにズーム機も2焦点機もいらないけど、GR28/GR35/GR60と単焦点機をラインアップしてくれるとうれしいわけです。勝手な話ですが…
まあ、昨今のカメラ好きの多くは、次世代GRには銀塩GRのような21mmレンズを搭載したバリエーションが欲しいとか、多少ボディが大きくなってもいいからAPS-CサイズCCDでF1.8、24mmあたりのレンズを搭載した機種が欲しい…などといった要望を持ってるんでしょうけど…
結局、私が現在のGR DIGTALを評価し、実際に使っている所以は、「予想ほどにはスペックが尖がっていない」点にあるんです。細かい欠点もたくさんある。液晶モニターの輝度が低いし、光学ファインダーも欲しかった。ワイコンじゃなく、テレコンも欲しい。AF性能など他にもスペック上の不満もたくさんあるけど、コンデジとしては間違いなくよくまとまっている。発売前に騒がれた大サイズCCDではなく、リーズナブルな1/8インチ800万画素CCDの採用もよい判断だし、レンズのF値を2.4に抑えた妥協も悪くない。バッテリーの選択も妥当。カメラのボディサイズやバランスを考慮した製品作りには、非常にクレバーな判断があったように思います。
そんなわけで、私がこのGR DIGTAL使ってたって、別に面白くもなんともないですね。でも、間違いなくいいカメラです。こうして毎日使ってても飽きないんだから。結局自分は、けっこう平凡なカメラ好き…だってことをあらためて認識した次第です。
投稿者 yama : 03:49 PM | コメント (0) | トラックバック
July 07, 2006
「神の使い」がやってきた
先日自宅のベランダから外を眺めていたら、隣家の屋根に、見たこともない大きな黒い鳥がとまってこちらを見ていました。感覚としてはカラスの3倍ぐらいはありそうです。写真を撮ろうと思ってカメラを取りに部屋に引き返し、再度ベランダに出てみると鳥は去った後でした。で、気になってWeb野鳥図鑑で調べて見たら、どうも「カワウ(川鵜)」らしいということがわかりました。東京に川鵜がいるという話は聞いたことがありますが、自宅は練馬区です。川鵜がよく見られるのは東京湾とか多摩川河口とかに近いところだろうと思っていたので、さらに調べて見ると、次のように書いてありました。「…川鵜はペリカン目ウ科に属する鳥で、通常数百羽の群れをなして行動する習性があり夏場は海を中心に、冬場は内陸の河川に生息すると言われている。関東地方では、主に東京都内の池や川岸等に巣を構えていたが1980年代の後半辺りから冬場に餌を求めて関東近県(内陸)にも多く飛来するようになった」…と書かれています。さらに調べて見たら、練馬区内でも川鵜が頻繁に目撃されていることが判明。石神井公園や光が丘公園内の野鳥の池あたりでは、いつでも見られるそうです。そういえば自宅は石神井川にも近く、川鵜を目撃しても特に不思議な場所ではないようです。夏場とはいえ、何らかの理由で練馬の住宅街に飛翔してきたのでしょう。
「鵜」と言えば、真っ先に思い出すのは鵜飼です。魚を噛まずに丸呑みにする鵜の習性を利用して、首を縛って飲み込めないようにした鵜を紐で繋いで鵜匠がそれを操り、鮎を飲み込ませて取る漁法です。長良川の鵜飼が最も有名ですが、私は非常に近い名古屋で育ちながら、実際に見たことはありません。余談ですが、長良川の鵜飼で使う鵜は三陸海岸で捕獲したものを訓練しているという話を、前にTV番組でやっていました。
ところで、こちらにもあるとおり、鵜飼は、古事記や日本書紀、万葉集、そして中国の随書・東夷伝にも記述があるほど古くからある漁法です。全国のあちこちの河川で、おそらくは古墳時代から行なわれていました。そして私は、もともとこの鵜飼がいわゆる「川の民」「被差別民」の生業であり文化だということを先日読んだ「日本民衆文化の原郷 -被差別部落の民族と芸能」(沖浦和光:文春文庫)という本で知りました(非常に面白い本なのでお奨めです)。そして、世阿弥に「鵜飼」という謡曲があることも、初めて知りました。
この「日本民衆文化の原郷」という本のⅢ章「鵜飼で生きる川の民」には、広島県の三次で行なわれていた鵜飼について詳しく書かれており、江の川水系の被差別部落が、川の民の文化を今に伝えていること。そして彼らによって古くから鵜飼が行われてきたこと、さらには様々な芸能さらには、中世においてすでに「鵜飼の民」が賎視されてきたこと…などが、現地調査の結果として詳しく書かれています。また、鵜飼には「徒鵜飼」と「船鵜飼」があり、本来の川の民の漁法であった徒鵜飼が、近世後期になって、江戸幕府の御用鮎漁として保護された長良川の船鵜飼の鵜匠制度として各地に広まったということです。長良川の鵜飼は、特別な形で発展したものだったようです。
川を巡る文化論というのは非常に面白いものがあります。こちらに書かれている文を少し引用します。
「…川は文化の通路である反面、その規模にもよるが、人や物資の流通を遮断し、文化の境界線を形成する場合もある。そのことは、物理的に障害をなしているだけでなく、観念的に現世と来世を隔てる区画としても作用する。川を渡る際の特別な習俗や、橋そのものに対する観念、および渡り初めの行事によく表現される場合がある。
…日本の河川は荒川(あれかわ)で、流水の増減度が著しいために、河川敷・河原が広い。荒地のまま放置され、無主の広場も多い。しかし、河原には、一時的にせよ、住みつくようになったのは、ずいぶん古くからのことであるらしい。河原を生業の場とした人たちは、ときの権力者からは何らの干渉も受けず、租税な ど免れる気楽さがあった。そこに一応の生活根拠を置いたことから“河原の人”とか“河原乞食”などと呼ばれ、不当に蔑視されたのは、おそらく古代末期以降のことである。彼らの雑役として、最も古くから知られているのは、キヨメ(清掃人夫)であった。河原には市(いち)が立つところもあり、あるいは処刑や葬送の場、合戦場ともなった。とくに注目に値することは、この広大な空閑地に、14世紀半ばごろには粗末ながら筵囲(むしろがこい)小屋がつくられ、田楽の 勧進興行が行われるなど、民衆芸能の発祥地となったことである。近世以降の諸芸能の多くは、直接には河原を舞台に、河原の仲間によって育成されてきたものであった…」
そういえば、京都の鴨川の河川敷では、中世以降「芸能」の興行が頻繁に行なわれ、そうした興行を仕切っていたのは、時の権力者に属さない「川の民」「河原者」たちであった…と、様々な本で読んだことがあります。
こちらの資料を読むと、河原に住む人々の存在自体が、被差別部落の歴史の端緒という説もあるようです。ちょっと引用してみましょう。
「…中世起源説の立場からみると、部落の歴史の中世の部分については、次のようである。延長5年(927)に完成した『延喜式』に<濫僧>や<屠者>が京都の鴨御祖社の南辺に居住することはできないとして、彼らを排除し たことがみえる。さらに長和5年(1016)の記録には、京都・鴨川の河原に住みついていたと思われる<河原人>が死牛の皮を剥ぎ取っていたことが記されている(『左経記』同年正月2日の条)。鎌倉時代の文永・弘安年間(1264~88)の著とされる『塵袋』によれば、キヨメが<エタ>とも称され、人交わりができない人とみられていた(ちなみにこれが<エタ>の初見とされている)。こうした記録などによって、このころにはすでに部落の歴史は始まっているとみるのである。このようにして始まった<河原者>(<えた><キヨメ>もほぼ同じ階層の人々を指す言葉として使われていたようである)などの中世の被差別身分の人々は、法制的に制度化されたものではなかったが、中世後期の下剋上の社会においても、多少の流動性はあったものの最終的には解体されずに残存し、それらの人々が近世の<えた>(近世部落)にそのまま直結し、その被差別身分が近世の豊臣政権ないしは幕藩権力によって制度化されたとみるのである。
一方、近世政治起源説をとる立場からみると、中世の河原者などは、近世の<えた>身分の存在形態においても系譜においても差異とズレが認められるので、部落史の前史をなすものであっても、部落史そのものではないと理解するのである。中世起源論者が、中世の<河原者>などを、近世権力による追認・制度化・固定化と解釈するのに対して、近世政治起源論者は、単なる追認とはとらえずに、その制度化の過程こそ部落形成の過程と解し、その制度化ないしは固定化をもって部落史の起点とみなす…」
まあ、京都・鴨川の河原に住み着いた人々が被差別部落の起源となったかどうかについては諸説があるようですが、前述した江の川流域などの全国各地の川の民も含めて、現代では忌むべき身分制度である「被差別部落」の民こそが、能、歌舞伎、狂言、人形浄瑠璃など、中世以降の伝統的日本文化、いわゆる「芸能」の源流・底流を育んできたことは確かです。また彼らは、民間信仰、民族信仰を連綿と伝え、芸能興行や全国を渡り歩く門付け芸を通じて、神や仏、さらには天皇制を重んじる独特の世界観を伝えました。
「川は、物理的に障害をなしているだけでなく、観念的に現世と来世を隔てる区画としても作用する」…からこそ、河川の存在そのものが、流域に住む民に豊かな想像力を与え、豊穣な文化を生み出す源となったであろうことは、理解できます。
川鵜の話に戻りますが、川鵜は「海と川を往来する鳥」であり、川の民の文化とも深く関わっている鳥でした。
この川鵜が往来する一方の「海」もまた、仏教でいうところの「浄土」につながるとという概念がありました。熊野の補陀洛山寺で知られる「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」です。補陀洛渡海とは、南の海上にあると想像された補陀洛世界、観音浄土を目指して船出するもので、紀州熊野の海岸や高知県の室戸岬や足摺岬などからは、多くの修行者が小船に乗って南の海の彼方へ消えていきました。
南の彼方の浄土たる海と、現世と来世を隔てる河川とを自由に往来する川鵜は、まさに「神の使い」とでも言うべき鳥なのかもしれません。
投稿者 yama : 03:16 PM | コメント (0) | トラックバック
July 05, 2006
テポドンかぁ…
起床後出勤までの時間帯、概ね午前7時15分頃から8時40分頃までの間は、朝食を摂ったり、新聞を読んだり、そしてTVを見て過ごしています。まあ、どこの局を見ると決めているわけではないので、チャンネルを替えながら面白い話題をやっていそうな番組を見ているわけですが、特に民放は基本的にはどのチャンネルも同じニュースをやっていることが多く、キャスターが「小倉某」だの「みの某」だのと変わり、コメンテーターが変わっても、言っていることは誰も同じで、甚だ面白くありません。
例えば、昨日はNHKを除く全てのチャンネルで中田英寿選手引退のニュース、そして今日は北朝鮮によるミサイル発射のニュースです。中田選手引退については、かの人物に対する関心があまりないので、別に全ての民放チャンネルが同じような内容を流すほどのことじゃない…と強く感じました。そういえば新聞に全文が掲載されていた中田選手の引退コメントを読んでみましたが、あの手の文意・文章は、私は生理的にダメです。あの、ブラジル戦後にピッチで長時間寝そべってたのも、わざとらしいと思ったくらいですから。ま、こんな話はどっちでもいいか…
そして、今日の北朝鮮によるミサイル発射は、NHKも含めて全局が同じ内容のニュースです。安部氏の記者会見中継以外には、各局が用意した「自称北朝鮮問題専門家」諸氏の憶測だけのコメント。輪をかけてヒドイのが各局のコメンテーターの言いたい放題。本当に、こんなどうでもいい話を延々とやられても面白くない。
素人の感想ではありますが、朝の時点ではミサイルの数も落下時点も不明瞭なコメントばかり。どこから発射されてどこに落ちたのかリアルタイムで正確にトレースしていながら、情報を出さないようにしているだとすれば理由はさっぱり不明。逆に、官房長官のコメントのように、発射後数時間たった時点で「正確な落下場所については現在精査している」なんて話なら、もっとわけがわからない。正確に弾道をトレースできないのであれば迎撃なんてできっこないわけです。まあ、アメリカのミサイル迎撃実験は失敗続きの上、米軍関係者が「よほど条件が揃わないと迎撃は難しい」「迎撃の確率は低い」と公言しているような代物ですから、まあどうでもいいんですけど。おまけにこの記事によれば、「ミサイルは同日午前3時半すぎから断続的に計6発発射されたが、海上保安庁が警報を出したのは午前8時53分」…って何だ? 船舶や飛行機にリアルタイムで警報すら発せられない状況なわけで、世界第2位だったかの国防費を使っているこの国の防空能力なんて、こんなものです。新聞記事によれば、米軍の早期警戒衛星が最初に発射確認、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」は米海軍のイージス艦と連携しミサイルの弾道を捕捉した…とのことですが、民間に警報を出せないようじゃ、「自衛隊」は誰を守るためにあるんだろう。
あげくに早速制裁措置を決めたとのことですが、特定船舶入港禁止法を発動して万景峰号など北朝鮮船舶の入港を半年間禁止するって、たった半年間の措置ってそりゃ何だ? 日本に敵対する意図でミサイルを発射した、すなわち「宣戦布告」に近いと捉えるのなら、あまりもほのぼのとした措置。どうせ今後、送金停止などの経済制裁を行うことになるのでしょうが、何だかこれが、敵対的な意図でミサイルを発射した国への対応かと思うと情けない。
国連の安保理に持ち込んだって、別にどうにもならない可能性が高い。そんなことは誰もがわかっていること。まずシビアな制裁決議には中国が拒否権を発動することは確実。それ以前に、アメリカにとっても欧州諸国にとっても、日本海の真ん中辺りに向けて北朝鮮がミサイルを発射したなんてレベルの北朝鮮と日本との小競り合いなんて、ほとんど関心の対象にならない。しょせんは極東の片隅、世界地図の端っこでの小さな出来事です。欧州や米国にとっては、パレスチナ問題やイラク問題の方がはるかに、直近の解決すべき紛争でしょう。
欧米の認識以前に、日本の安全保障…、いやそんな大げさな話ではなく、日本という国に住む我々自身の生活への影響を考えても、北朝鮮が日本海へ向けてミサイルを発射したなんて出来事よりも、パレスチナやイラクで現在進行中の「戦争」の行方の方が、はるかに大きな問題だと思うのは私だけじゃないでしょう。こちらの方は、ことによればさらに大きな地域紛争へと発展し、日本に石油が入ってこなくなる…という方向へと事態が急激に展開するかもしれない。日常生活への影響は、大変なものになります。
不謹慎を承知であえて言わせてもらえば、今回は別に日本の国土にミサイルが打ち込まれたわけじゃないし、ミサイル落下時点はほとんど領海の境界線上あたりと国土からは程遠い。私はここまで大騒ぎするのが理解できません。
私は小心者だから、北朝鮮のミサイルは怖いし、戦争も怖い。何よりも、日常生活が大きな影響を受けるのは怖いことこの上ない。でも、現実的に考えて、日本の大都市なり工業地帯なり原発なりに北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくる確率よりも、イラクへ自衛隊を派兵し、さらいはアメリカとの軍事同盟をいっそう強調したことで、東京の地下鉄にイスラム過激派が爆弾を仕掛ける可能性の方が、はるかに高いように思います。
そんなことを考えれば、最初の話に戻って、朝のニュースで北朝鮮問題だけを報道し続けることで、本当に知りたいニュースをきちんと解説しないのは困ったものです。
例えば前述したパレスチナの情勢。もっと詳しく報道して欲しい。ハマスなどによるイスラエル兵拉致に端を発したイスラエル軍のガザ地区攻撃は、民間人の犠牲者を増やしながら凄惨な状況になっています。エジプトが仲介に乗り出していますが、おそらく今回は簡単に解決しそうもない。そして、イラク。ここはもう手が付けられない「紛争地域」と化しています。
そしてリアルタイムで状況を詳しく報道して欲しいのが、開票中のメキシコ大統領選です。ベネズエラ、ペルーと中南米諸国に相次いで成立している左派政権が、アメリカと国境を接する大国メキシコにも誕生するかどうか…は実に大きな問題です。アメリカ離れが進む欧州に加えて、中南米の反米政権がさらに増えることで、アメリカの影響力は大きく低下します。ベネズエラのチャベス大統領が西アフリカで開かれているアフリカ連合首脳会議にゲストとして招かれるなど、第三世界における反米潮流は進んでいる。日本も、アメリカとの同盟強化ばかり図っていては、世界の中で孤立が進むのは目に見えている。外交の軸足をアジアやアフリカ、中南米に移さなければダメだと考える人間は多いはず。
世界的に見て、これほどに平和が脅かされる危機的な状況なのに、そうしたニュースはきちんと報道・解説されず、北朝鮮のテポドン一色ってのも、何だかなぁ…
まあ、今日の日記は全部が素人の与太話です。別に日本が世界から孤立しても構わないんですけど、個人的には海外での仕事が増えているので、できる限り日本が海外から後ろ指を指されないような状況になる方がありがたいですね。
投稿者 yama : 04:48 PM | コメント (0) | トラックバック
July 03, 2006
蒸し暑い日が続きます
世論がいっせいに同じ方向に流れることを危惧するのは、私だけではないでしょう。最近気になるのは、人並みに「死刑の是非」についてです。
山口県光市で起きた母子殺人事件で最高裁は、無期懲役を言い渡した2審の広島高裁判決を破棄し、審理を同高裁に差し戻しました。むろん、事実上高裁に死刑判決を求めたものですが、この事件では遺族の本村洋さんが積極的にマスコミに登場して死刑を求める遺族の心情を強く訴え、真澄の論調も含めて世論の多くは、木村さんの主張を支持しました。この判決の記憶が冷めやらぬ先月末から今月始めにかけて、高知・飲食店経営者殺害事件、福岡の3女性連続殺害事件、大阪・岐阜で連続強盗殺人事件など、立て続けに5~6件の死刑求刑がニュースとなりました。そして先日は、広島市の小1女児殺害事件の被害者、木下あいりちゃんの父建一さん)が、「7歳の女の子に性的暴行を加えることは拷問に等しい。犯人は1度ならず2度命を奪ったようなもの。極刑は当然」とマスコミに訴えました。
遺族の肉声が持つ力は非常に大きく、「刑の厳罰化」と「死刑適用のハードルの引き下げ」は、既に検察、マスコミ(特にワイドショー)、世論の3者間でコンセンサスが形成されつつあり、それを裁判所が追認しているのが現状のようです。
あらためて書くまでもないことですが、昨今の厳罰主義を望む世論の論拠を整理すれば、概ね「被害者の心情を汲むべき」と「どうせ更生しない」、そして「社会不安の増大への対応」…という3つの理由が浮かび上がります。むろん、そのどれについても理解します。現在の刑事裁判が被害者の心情どころか存在すら無視していることは事実ですし、幼児犯罪者や性犯罪者が更生する確率が低いことも事実でしょう。そして、昨今の日本では日常的な社会生活を不安にさせるほどに凶悪犯罪が増大しています。これに対して犯罪の抑止力としての刑罰強化を望む声が多いのは理解できます。
しかし、これらの点を理由とする「厳罰主義の強化」、とりわけ「死刑肯定」は、本質的な「死刑の是非」の論議とは、かけ離れた方向にあることは確かで、非常に危惧する次第です。人治ではなく、あくまで法治を国家の礎と認識するのならば、「法」はどのような形であるべきか、そして「刑罰」はどのように決められるべきか、…については、もっと別の視点から議論が尽くされるべきであると考えるからです。
私は、死刑には反対です。私は、今日において「人権」や「人道性」を根拠とする死刑廃止論はほとんど有効性を持たないと感じているし、私自身も人権などというあいまいな言葉は嫌いです。ましてや道徳心や人道性に訴えての死刑廃止を主張する気はありません。
例えば、光市の事件を例に取れば、確かに犯人には更生の可能性は薄いように感じます。犯人の父親の言葉にも腹が立ちました。従って、極刑の宣告に反対しているわけではありません。「極刑が死刑」であるという点にについてのみ反対なのです。死刑反対の理由は、別に凶悪犯罪者も更生の余地があるから…ということではありませんし、繰り返しますが「人権」などというものに配慮しているからでもありません。様々な説がある「厳罰化が犯罪抑止力を高めるかどうか」の議論にも、あまり興味はありません。
私が死刑に反対する理由は、ともかく「国家が個人を殺す制度」に反対…という点に尽きます。ジャック・デリダの「法の力」を持ち出すまでもなく、法の背景には暴力が存在する…その1点のみが、私にとって問題なのです。ここで長々と自説を説明する気はありませんが、私は被害者遺族が個人的な立場で復讐を目的に加害者を殺す…ことを認める方が、国家が個人を殺す制度を認めるよりは、まだ「マシ」な気すらします。
死刑の是非を考えていくことは、戦争の是非や国のあり方について考えることと同質の問題です。こうした視点で死刑の問題についてまともな発言している人はたくさんいますが、いかんせん「難しい言葉で語る哲学者や法律家」ばかりで、そうした人たちの言葉が世論の形成に影響を与えることはまずない…のが悲しい現実です。
私にとっては、「死刑に反対」と発言すると「人権派」「左巻き」などのレッテルを貼って罵倒する…という最近の世論、特にネット世論の動向は非常に気になります。山口県光市で起きた母子殺人事件の弁護人が今年3月の弁論を「弁護士会の用件」を理由に欠席したことで、大きな非難を浴びたことは記憶に新しい。確かに、この人権派弁護士のやり方は気に入らないのですが、彼の事務所に、弁論欠席後、毎日100本を越す「殺したろうか!」といった脅迫や嫌がらせの電話がかかり、一週間以上鳴りやまなかったという話を聞くと、やっぱり何やら薄ら寒くなります。
結局私は、切実な声で訴える犯罪被害者の心情にせいいっぱい共感する一方で理性の力で「法」を考える…という至極当たり前の思考様式を、いかにして守り続けられるかを、かなり真剣に考えてしまうのです。
ネット世界の片隅で、私の書く言葉など、何の影響力も持ちません。だからこそ、たまにはこうした俗っぽい本音を書いてみたくもなるのです。