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June 20, 2006

ぼちぼち再開

 半年ぶりに日記を再開します。

 先日訪れた御殿場の「加和以(かわい)」という和食店、手頃な値段で季節の食材を使ったカジュアルな懐石風の和食を食べさせてくれます。とても美味しいし、雰囲気もよく、広い庭もよく手入れされていてきれいです。場所は、東名高速を御殿場インターで降りて富士五湖方面へ向かい、国道246号に出たら三島方面へ左折して1kmほどのところにある杉名沢信号を右(山側)へ約500m入ったところ。周囲は水田と森で、何もありません。御殿場方面へ行かれる際には、ぜひ昼食でもどうぞ。詳しいことはネットででもお調べください。予約が必要です。

 一方で、先頃知人に連れて行かれた一見おしゃれな某レストランは、味も態度も実にひどかった。場所と店名は伏せときますが、昨今流行の「マクロビオティック」を売り物にするレストラン。有機野菜などオーガニックフードを食材にした料理らしいんですが、カウンターで食べていたら、シェフが「いかがですか?」と聞きにきます。ちょうど食べていた料理に「オクラ」が使われていたので、私は「オクラは嫌いなのでちょっと…、それと全体的に味付けが薄いですね…」と答えました。するとシェフ曰く、「オクラは美味しい野菜ですよ、○○産のこのオクラの美味しさには自信があります。食事の基本はまず野菜ですよ」「うちの調理は素材が本来持つ味をに大切にするため、味付けは極力抑えています」…ここまではいいでしょう。「人間の体は、素材の持つ本来の味を美味しいと感じるようにできています。よい野菜なら火も通さず何もつけずに丸ごと食べるのが一番美味しいのです。お客様も、毎日こうした調理法で野菜を食べていれば野菜の美味しさがわかるはず。わからない方がおかしいのです」「野菜と穀物が人間にとって必要な生命力を生み出すのです」…ってのは、なんて言い草だ?
 うるせえ! まずもって「好き嫌いは自由」でしょ。オクラを美味しいと感じようと感じまいと、余計なお世話でしょ。これは前にも書いたことがあるけど、私は野菜全般にあまり好きではありません。そして食べ物の好き嫌いが無い…っていう人間は「感受性が鈍い」と思ってます。ファッションであれ絵画やイラストであれ、人間が五感で感じるものには全て好き嫌いがあって当然。五感の1つである味覚にも個人差や好き嫌いがあって当然です。味覚には、育った環境や食生活による差異がある方が当たり前。オクラが嫌いだという私に対して、「美味しいから食べろ」とは傲慢です。でもここまでなら、まだいい。
 何よりも気に入らないのは、「人間の体はこうなっている」「人間の食生活はこうあるべき」なんてわかったふうな言い方。まるで、味が薄いと感じる私の方がおかしいかのような物言い。こういう傲慢な考え方は実に不愉快です。「マクロビオティック」でも何でも、自分が何を信じてても構いませんが、他者や客に押し付けないで欲しい。むろん、野菜嫌いなら最初からそんな店に行かなきゃいい…ってのは確か。でも、このレストラン、外観は普通のお店だし、特に「当店は野菜料理です」とも「当店は味が薄いですから、それがお嫌いな方はおやめ下さい」とも書いていない。知らずに入って、こんなものを食べさせられ、挙句の果てに「この料理を美味しいと思わない方がおかしい」なんて指摘されたら、誰にとっても不愉快極まりない話だと思うのですが…。
 第一、「人間が本来あるべき姿」なんてことを言うのなら、こんなところで、金のかかった食材使ってオーガニックフーズなんてものを食ってる方が、はるかに「人間が本来あるべき姿」から外れているって思うけどなぁ…

 実際、自然食材などと称する農産物、高価な食材や素材を使った料理を主体とする食生活を実践することなど、普通の人間にとって何の意味があるのでしょう。例え、野菜や穀物にいくばくかの健康増進効果があったとしても、野菜や穀物中心のマクロビオティック料理とやらが人間のあるべき食生活として、「自然」だとは思えません。ましてや、そのレストランのシェフが言うところの「人間が本来あるべき食生活」「本来持っている味覚」なんて傲慢な言葉は、バカバカしいの一言に尽きます。「人間の本来の姿」なるものは、もっと多様な価値基準をもとに判断すべきでしょう。世界を見渡せば、何千年も前から魚類中心の食生活を送っている海洋民族や肉食中心の食生活を送ってきた遊牧民族などもたくさんいます。

 ところで、この「人間の食生活」「本来あるべき姿」といった話になると、思わず「未開社会から農耕社会の移行は必ずしも社会の進歩を意味するものではない」…と語る、C.レヴィ=ストロースの言葉を思い出します。
 先頃、平凡社ライブラリーから刊行された「レヴィ=ストロース講義」は、1996年に東京で行なわれた彼の3回の講演と質疑応答の内容を収録したもので、これまで数多く読んできたC.レヴィ=ストロースの著作の中でも、わかりやすさと彼の思想のエッセンスが抽出しやすい点においては出色の本です(彼の好きな日本文化について語る言葉の中にはちょっとおかしな認識もけっこうありますが、まあご愛嬌です)。
 講演の中で、いつも通りにレヴィ=ストロースは問いかけます、「未開とは何か」を。そして、彼は言います。農耕以前の未開社会における食生活は、食料となる生物種が多種で脂質が少なく、繊維とミネラルに富み、たんぱく質やカロリーも十分で、農耕社会以後のそれよりもはるかに豊穣であると。従って、未開社会には伝染性のない病気、特に肥満、高血圧、循環器系の病気などはないと。また、婚姻制度等によって集団の人口及び人口密度を適切にコントロールする術を知っている未開社会においては伝染病の流行がない、とも指摘します。「農耕の始まりは一面において退歩」と言う人類学者としての彼の言葉は、非常に謙虚な立場から語られています。人間本来の姿…については、多種多様な回答があることを思い知らせてくれます。
 現代に生きるわれわれの多くが、人類社会の進歩は「農耕の発展から始まる生産力の増加と人口増加が端緒」と認識し、その結果生まれた社会と文明の発展過程を是とし、工業力や文明の高度な発展段階である現代社会のさらなる進歩のためには「環境問題への配慮が必要」と考えている…、こんなありきたり現状認識にはもう飽き飽きしました。
 私はレヴィ=ストロースに特に心酔しているわけではありませんが、高校時代に「悲しき熱帯」を読んで以来現在に至るまで、彼の言葉の端々から「多面的なものの見方」を教えられ、また考えさせられることが多いのは事実です。

 それにしても、現代の社会において「本来の人間があるべき姿は…」などと画一的で底が浅い思い込みをする人には、比較的「環境問題」や「健康問題」について声高に語る人が多いような気がします。そして多面的なものの見方ができない人ほど、自分の意見に反対されると不快な顔をし、激昂したりもします。
 例えば、リサイクル問題など、もう何年も前から武田邦彦氏が提起している「材料工学の視点から見た無意味なリサイクル」という指摘がいまだ十分に咀嚼・検討されることなく、「再生○○」と称する「無駄な工業製品」が大量に作り続けられています。かねて武田邦彦氏の問題提起が全て正しいと思っていたわけではありませんが、一定の条件下では「リサイクルはするな」という示唆に富んだ意見はもっと突っ込んで検討されるべきしょう。私自身は、フリース(シンチラ)を再生しているアウトドアメーカー「パタゴニア」が、地球環境に優しい企業だなんて思ったことは一度もありません。ばかデカい6気筒3.3Lエンジンを搭載し400万円以上もするハリアー・ハイブリッドを生産しているトヨタが「環境に優しい企業」と自ら謳うことに、なぜ誰もが文句をいわないのか理解できません。相変わらず、バカバカしい「マイナスイオンの健康効果」を謳う大手メーカーの家電製品はなくなりません。膨大な労力と税金をつぎ込んだ自治体によるペットボトルのリサイクルなど、無駄の極致だと思ってます。そして言うまでもなく、私が昨今の風潮の中で最もアホらしいと思い続けているのは、「ロハス」という言葉。高価な自然食材を食べ、無駄なエネルギーを使って再生されたリサイクル製品を愛用し、電車に乗れば十分行ける場所に行くためにハイブリッド車に乗って、そんな生活が「地球環境にも優しいロハスな生活」だなんて胸を張っている人間を見聞きすると、これはもうお笑い草です。でも、こうしたライフスタイルを実践している人ほど、「バカらしい」という意見を表明すると怒り出す例が多いようです。むろん、こうした「ロハスなんてアホらしい」という意見自体もまた相対的なものであるわけで、私自身はこの手の話で他者と議論をすることは、絶対にありません。毎日淡々と、好きな物を食べ、好きな酒を飲み、好きなモノに囲まれて暮らしているだけです。
 まあ、個人の信条でどんなライフスタイルを実践しようと、何を食べようと自由ですが、他人には押し付けないで頂きたい。また、「人間は本来こうあるべき」なんて傲慢な言葉を語るのも、やめて頂きたいものです。

投稿者 yama : June 20, 2006 10:18 AM

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