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June 24, 2006

「国」を背負う人々

 サッカーのワールドカップというのは、オリンピック以上に、目に見える形でナショナリズムが発現される場でもあります。過剰なほどに「国を背負って戦う」という言葉を発する選手達、そして顔に国旗をペイントするなど露骨な愛国心を見せて応援するサポーター…、多数のフーリガンの存在、そして自国チームが負けると必ず話題なる「選手に危害を加えるという脅迫」…、こうした形での愛国心の発露は私個人には無縁ですが、むろん否定するものではありません。
 ところで、日本と同じ組で戦ったオーストラリアvsクロアチア戦の前に、テレビで両国の因縁の関係について説明していました。オーストラリアにはクロアチアからの亡命者が多く、オーストラリア代表チーム主将(?)もクロアチア出身者だそうです。一方でクロアチア代表選手の中には内戦終結後にオーストラリアから帰国した選手が何人もいるそうです。そんな選手たちへのインタビューでは、2つの祖国同士が戦うことについての非常に複雑な心情が語られていました。
 それにしても、「たかがスポーツ(あえて「たかが」と書きますが…)」の対戦で、選手や観客をここまで熱くさせる「国家」とは、いったい何なのでしょう? あらためて「国家とは何か」を、考えてしまいます。

 昨日の日記で触れた「中世ヨーロッパの歴史」と同じ講談社学術文庫の新刊に「エゾの歴史 …北の人びとと日本」(海保嶺夫著)という本があり、これも先日読了しました。
 この「エゾの歴史」は、同じ「蝦夷」と表記しながらも、12世紀を機に呼称が変化した古代「エミシ」と中・近世「エゾ」の連続性の謎を解き明かそうとする労作ですが、同時に「自由な民」であった北方文化圏の人々を描いて、「近代国家とは何か」について考えさせられる本でもあります。昨日触れた「中世ヨーロッパの歴史」が、欧州の近代化のプロセスにおける「中世」の位置付けを明確化する中で、比較的ポジティブに「近代国家のあり方」を捉えているのに対し、「エゾの歴史」では近代国家の持つネガティブな側面が浮き彫りにされます。

 「蝦夷」「アイヌ」という文脈では、日本の中央政権との対立を軸に、江戸中期以降の和人による搾取と弾圧の歴史、明治期以降の差別の歴史などが大きく取り上げられますが、この本ではそんな話が語られているわけではありません。
 縄文時代と同じ頃に擦文式土器文化圏を作り上げた民族の末裔であるエミシ、そしてエゾの人々は、古来より本州北部、北海道、サハリン、千島列島、大陸のアムール川流域、そして朝鮮半島をまたぐ環日本海交易圏を自由に往来し、独自の文化圏・経済圏を作り上げていました。大陸においてはアムール川流域まで清朝の支配が及んだのは、やっと19世紀のこと。その支配すら、まったく緩やかなものでした。サハリンや千島列島には19世紀までいかなる国家権力の支配も及んでいませんでした。当然ながら、東北、北海道に住むエミシ・エゾの人々には、鎌倉幕府、室町幕府と続くなかで、中央権力の統治は及んでいませんでした。驚くのは、1482年、俘囚の長=蝦夷管領である安東氏(安東政季と推定)によって、「夷千島王」の名で朝鮮(李朝)国王に使節が送られていることです。その後日本が政治的な統一をみた江戸時代に入ってなお、北海道には幕府の支配が及ばず、エゾの民が江戸幕府公認で国境を跨いでの自由な往来を確保していた経緯が明らかにされます。
 こうした「自由に移動する民」の存在は、近代国家の枠組みが成立する以前、世界中どこにでも見られたことです。かつてはロマ(ジプシー)の一部も国境を越えてヨーロッパ内を自由に移動していました。日本にも昭和の初め頃までは、「サンガ」と呼ばれる戸籍を持たない人々が存在しました。そして今でも、東南アジアには国境を越えて移動する「海漂民」が存在します。

 「エゾ=自由に移動した人々」の存在を前提に、著者は次のように語ります。

 …近代になり「国境」が画定し、ために民族は分断され、人や物の交流はに大きな制限が加えられるようになった。近代国家は、人を「国家」という檻の中に閉じ込め、よほどの理由がない限り、檻の外へ長期的に出ることを認めない。かかる体制の成立を「近代」であるがゆえに「進歩」として肯定しなければならないのであろうか。そのようなものがなかった時代の方が、人ははるかに「自由」であった。「自由」を時代のメルクマールとすれば、「近代」はそれ以前より進んでいるとは言いがたい…
 …国家権力は時代の進行とともにしだいに個人に近づいてくる。一方では、個人の権利・自由は時代とともに拡大・強化され、それこそが近代化であるとの考えが根強い。国家権力が個々人をとらえきった掌のなかでの権利や自由などの強化・拡大というべきであろう。近代化の特質は、あらゆるもの(言語・風習・教育などすべて)の均質化をともない、地域的、文化的相違を否定する。近代化とは右のような現象を伴うというあたりまえのことが忘れられることが多い。近代化=地域的・民族的特色の否定であり、手放しの賛美はできない…

 むろん、近代国家に住む現在の私たちが、国家・国籍の枠を勝手に超えて活動することは不可能です。歴史を後退させることも不可能です。そして私自身、「国家の枠組みを壊せ」と主張するつもりもありません。しかし、地球上に暮らす全ての人々がより住みやすく、争いの無い世界を作るためにも、「緩やかな国家統治システム」について考えることは重要かもしれません。

投稿者 yama : June 24, 2006 11:28 AM

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