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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2005/1/31

 とうとうインフルエンザに罹りました。現在体温39.2度。PCの画面を見ていると目が廻ります。
 病院で「タミフル」っていうインフルエンザの特効薬をもらってきました。これで治るといいんですけど…

2005/1/28

 日記代わりというのも何ですけど…

 コレどうぞ!


2005/1/27

 先夜、熊の子鮨、ハルピン水餃子といつものコースで飲んだくれて何故かまだ飲み足らず、霙(みぞれ)混じりの冷たい雨が降る深夜に辿り着いたのはこれまたいつものBAR、立教通りに面したビルの地下にひっそりと佇むライブハウス「FREE FLOW RANCH」でした。
 カウンターに座り、Grateful Deadを聞きながら特製のビーフジャーキーを齧り、「Maker's Mark」の水割などたしなめば、まあとりあえず仕事上のトラブルは忘れるというもの。いや、深夜のバーでバーボン片手にオールドロック…なんて書くと、中年男としてはかなり気恥ずかしいシチュエーションではあります。しかし、サイト内で何度も紹介するように、このFREE FLOW RANCHというお店は、まったく気取らず客層もとんがってなくて、料理も美味しくて安い…ってことで、オジサンにもすごく居心地がいいんです。
 で、そこでふと聞いたのが懐かしい曲、NGDBの「Mr. Bojangles」です。HGDBとは言わずと知れたThe Nitty Gritty Dirt Band(ニッティ・グリッティ・ダート・バンド)のことで、「Mr. Bojangles」はアルバム「Uncle Charlie & His Dog Teddy」のB面(レコードの話)のトップに入っている名曲です。最近は何かのCMでも使われましたよね。この「Mr. Bojangles」は、ニューオリンズの安酒場で踊るミスター・ボージャングルについて唄っているんですが、ともかく歌詞がいい。なんともよい雰囲気の曲ですな(曲の由来はこちら)。で「Mr. Bojangles」という馴染みのある曲は別にして、「Uncle Charlie & His Dog Teddy」というアルバムを10年ぶりぐらいにちゃんと聞きました。いや自分でもレコード持ってますが、最近アナログレコードを聞いてないんです。CDを持っていないこともあって、ホント久しぶりにアルバムを通して聞きました。そうしたら、このアルバムって、もう実にいい。うっとりするほどいい。こんなコンセプチュアルに構成されたアルバム、このジャンルの音楽では珍しいかもしれません。多彩な楽器と多彩なルーツ音楽が溶け合い、アルバムの全収録曲を通してきちんとしたストーリーがあります。あらためてNGDBの多芸振りと凄さを再認識した次第。NTDBについては、まあ「ブルーグラス、ラグタイム、R&B、ケイジャンなど、オールドタイムとロックを融合させた」なんてよく書いてありますし、「カントリーロック」なんてジャンルに分類されてたりします。いや、ひどい批評になると「カントリーバンド」になってたりしますが、私にとっては紛れもなく「ロックそのもの」です。
 NDGBと「Uncle Charlie & His Dog Teddy」については、ご存知ない方はWebでちょっと検索してもらえば、ぞろぞろろと情報(こちらこちら)が出てきますよ。ちなみにジャクソン・ブラウンはNTDBの初期のメンバーでした。
 「くだらないJPOPばかり聞いてる最近のガキにはNGDBの音楽のよさはわかんないだろうなぁ…」って、カウンターの隣に座ったオニーサンと話をしてました。

Mr. Bojangles
words and music by Jerry Jeff Walker

I knew a man Bojangles and he'd dance for you
In worn out shoes
Silver hair, ragged shirt and baggy pants,
The old soft shoe
He'd jump so high, he'd jump so high,
Then he'd lightly touch down
Mister Bojangles, Mister Bojangles, Mister Bojangles, dance

I met him in a cell in New Orleans, I was
Down and out
He looked to me to be the eyes of age as he,
He spoke right out
He talked about life, talked about life
He laughed, slapped his leg and stepped

He said the name, Bojangles, then he danced a lick,
Across the cell
He grabbed his pants and took a stance and he jumped so high
He clicked his heels
He let go a laugh, let go a laugh
Shook his clothes all around
Mister Bojangles, Mister Bojangles, Mister Bojangles, dance

He danced for those at minstrel shows and county fairs
Throughout the south
He spoke in tears of fifteen years how his dog and him
They traveled about
The dog up and died, he up and died
After twenty years he still grieves

He said, "I dance now at every chance in honky tonks
For drinks and tips
But most the time I spend behind these county bars
'Cause I drinks a bit"
He shook his head now, he shook his head
I heard someone ask please
Mister Bojangles, Mister Bojangles, hey Mister Bojangles, dance


2005/1/25

よい写真とは? …その5

 「良い写真とは何か?」というテーマで思い浮かぶことをつれづれに書き始めましたが、まだまだ話の結末が見えません。ここで少し方向を変えて、「良いカメラとは何か?」という方向に話を振ってみます。
 それにしても、過去に書いた部分も含めて誤字脱字、変換ミス、論理矛盾が多い点は、ご容赦下さい。思い付いたことを書きっ放しにしているだけで、全く読み直していませんので…。しょせんは、商業雑誌に出稿する文ではなく、私的日記に綴る「与太話」です。でも、気が向いたらそのうち字句や内容を読み直して、まとめるかもしれません。

■写真撮影システム(カメラ)に何を求めるか

 この問題は、「個人の好み」という結論を書いてしまうと、まあ「ミもフタもない」ことになってしまいます。しかし、少なくとも「記録」という第一義的な機能に対するニーズを考えると、あらゆる場面で優れた画像記録が可能なカメラ…、すなわち「全てを備えたカメラ」…これを求めるのが1つの正しい方向となるでしょう。例えば、デジタル・銀塩を問わず「高機能の一眼レフカメラ」…あたりが典型的な「良いカメラ」となってしまいます。しかし、こうした「どんな撮影目的にも対応する」というカメラが、良いカメラとは限りません。多目的に対応しようとすればするほど多機能が要求され、多機能の装備は必然的にサイズの大型化と重量の増加、そして操作系の複雑化を生むからです。日常的に持ち歩くのに苦痛を感じるほどの大きさと重さを持つカメラは、人間が使う「道具」としては不出来なものと判断すべきです。だから、たくさんの交換レンズを持ち歩いてこそ機能を発揮するデジタル一眼レフは、普遍的な意味での「良いカメラ」とは思えません。
 むろん「どんな目的か」によって良いカメラは変わる…という常識的な意見はあるでしょうが、かといって「目的別」に良いカメラを判断すると、「総合的に良いカメラ」の姿が見えてきません。ここはあえて、「総合的に良いカメラ」とは何か…について考えて見ます。
 また「誰にとって良いカメラなのか」という条件もありますが、ここは「ごく普通の人」ということにしておきましょう。プロカメラマンはむろん、カメラを趣味とするハイアマチュアやカメラマニアの立場は排除します。あくまで特にカメラに詳しくない一般の人…が対象です。

 私の考える「良いカメラ」とは、「私自身が自分の眼で得られる視覚情報を、ほぼ正確に記録してくれる」…という条件を満たすことに尽きます。この「私自身の眼」は「一般の人々の眼」とほぼ同義だと思われます。
 私はカメラに対して、自分の眼で見えないものまで記録してくれるような機能を必要としません。例えば、人間の視力を超える望遠撮影機能やマクロ撮影機能は不要です。まあズームレンズは搭載していてもいなくても構いませんが、人間の視力を考えると、せいぜい28o〜70oぐらいの範囲で十分です。
 余談ですが、デジカメが市場に登場した初期の頃に、「ズーム搭載」という表記が光学ズームではなくデジタルズームを意味しているケースがあり、そうした表記をするメーカーに非難が集まったものでした。画質が劣化するデジタルズームはズームではない…というわけです。それはそれでよいとしても、よく考えて見ると人間の眼の機能は光学ズームよりもデジタルズームに近いのです。視力1.0の人間は、視力を2.0に変化させることはできません。要するに人間には、光学ズーム機能は搭載されていないのです。
 また、羽ばたいている昆虫の羽根の動きを止めて見せるような高速シャッターは要りません。夜間に、実際に見えないほど遠いところにあるものを写してくれるような大型ストロボは要りません。人間は、見えないものは見えないのです。

 さて、「私自身が自分の眼で得られる視覚情報をほぼ正確に記録してくれる」という条件から見た「良いカメラ」の常識的な原理・原則として、まず「(自分の視力・視野・色彩認識能力をカバーする程度に)良く写る」「(操作性を損なわない程度に)小型・軽量」「操作が簡単」…の3点を基本とします。それに準じる条件として「人間の視野をカバーする比較的広角寄り」のレンズを搭載している…という条件をつけます。あとは人間の眼と同程度の、暗視能力、明るさ調整機能(自動露出、逆光補正)があれば申し分ありません。
 上記以外の機能は、上記の3原則とバーターにして考えてもよい…と考えています。要するにそれがどれだけ便利な機能であっても、上記の3条件のどれかを阻害するのであれば不要と判断するわけです。
 繰り返しますが、これはあくまで「一般の人」をターゲットにしています。例えば「万人」を相手にすれば、操作が簡単な方が良いカメラというのは自明でしょう。しかし、一部のハイアマチュアやカメラマニアの人の中には、複雑な操作系を持つカメラの方が好き…という人もいるかもしれません。

 さて、この「(自分の視力・視野・色彩認識能力をカバーする程度に)良く写る」「(操作性を損なわない程度に)小型・軽量」「操作が簡単」…の3点を基本として、「良いカメラ」を判断した場合、結論としては「現行の国産メーカーの400〜500万画素以上のコンパクトデジカメは、ほぼ全製品が『良いカメラ』に該当する」…ことになります。銀塩カメラの場合も、やはり普及価格帯以上のコンパクト銀塩カメラのほぼ全製品が該当することになります。

 この「現行の国産メーカーの400〜500万画素以上のコンパクトデジカメ」が、「私自身が自分の眼で得られる視覚情報をほぼ正確に記録してくれる」という条件を本当に満たしているかどうかについて、特に「(自分の視力・視野・色彩認識能力をカバーする程度に)良く写る」かどうかについて、私はひとつの実験を試みました。

 まずは視力に該当する解像度についてです。現在仕事をしているオフィス(ビルの13階)から窓の外の景色を見て、遠くのものをどこまで識別できるか…を実際に試してみました。その上で手持ちの500万画素のコンパクトデジカメ(3倍ズーム搭載)の広角側(画角35o程度)で撮影し、PCの画面で等倍表示し、自分の眼で識別できるものが全て写っているかどうか確かめてみました。例えば、道路を歩いている人の様子、少し離れたビルの窓の中の様子、看板の文字…といったものです。結論としては、500万画素のデジカメの広角側で撮影した画像には、ほぼ完全に「自分の眼で見えるモノ」が写っています。ちなみに私の現在の視力は1.0程度です。私は眼鏡を掛けていますが、長時間のパソコン作業用にあまり視力を矯正せずに(60p視力を重視)、遠方の視力が1.0あたりになるように矯正しているのです。
 視野については、35oの画角で十分でした。35oだと視野周辺部は写っていませんが、「注視」よりははるかに広い範囲が写されており、特に不満は感じません。ただ、できれば28oまでは行かなくとも30o程度の画角があればなお可…です。
 色彩については、判断は微妙です。私が眼で見た感じとは多少異なる部分があります。しかし、「私自身が自分の眼で得られる視覚情報をほぼ正確に記録…」という条件なら、十分に満たしていると判断しました。赤いものは赤く、青いものは青く…写っていれば日常記録としては十分に有効だからです。

■残る問題点

 さて、銀塩カメラはともかくデジカメを見た場合、現時点で市場に投入されている400〜500万画素の製品は、「私自身が自分の眼で得られる視覚情報をほぼ正確に記録してくれる」という条件から見ると、ほぼ全部が「良いカメラ」です。極端な小型カメラで操作性が悪いものなどを除いて、ほとんどが合格点に達するでしょう。しかしこうした思いの中で、ひとつだけ既存のデジカメに「問題」を感じる部分があります。
 人間の眼が恐るべき力を発揮するのは、遠近感、立体感などの空間認識能力です。これは二次元でしか画像を記録できないカメラに求める機能ではありません。しかし、カメラに「優れた記録機能」を期待するのなら、この「空間表現」をも求めたくなります。そして、こうした空間表現は二次元画像では「階調表現」である程度カバーすることができます。
 結局、「画質」を語る時にもっとも重要な機能は「階調表現」だと、私は認識しています。基本的に「質感や奥行き」…、つまり二次元画像で三次元を表現する部分は「階調表現」に依存するとことが大きいからです。そしてこの「階調表現」の部分は、デジカメはその特性上比較的苦手です。
 この「階調」というのは現実に「リニア」なもので、人間の眼はそれをリニアのままで認識します。CCDで得た光信号を電子回路で処理するデジタル画像の場合は、どうしてもbit化の問題が出てきます。デジタルは微分・積分の世界であり、どう突き詰めていってもアナログとは異なる表現しかできません。これはオーディオの世界でも言われることなのですが、やはり今後のデジカメには、この「階調表現」の部分が大きな課題となって残っていくでしょう。
 ただ、人間の「脳」の視覚認知プロセスが本当に完全なアナログであるかどうか、私は詳しく知りません。第一、「脳」の認知の詳細については、まだまだわかっていないことがたくさんあるはずです。
 そんな話はともかく、現時点で市場に投入されている400〜500万画素の製品のほぼ全部が「良いカメラ」…と言い切る私ですら、階調表現能力における、さらなる技術革新を望んでいます。

 ※ …この話はさらに続きます。

2005/1/24

よい写真とは? …その4

■写真はアート足り得るか

 先に結論を書くと、私は「アートとしての写真」という存在を疑っています。さすがに「写真表現はアートにはならない」とは言いません。フォト・コラージュのような手法を駆使すれば、いくらでも芸術表現は可能でしょう。しかし、ただカメラで被写体を撮影しただけ…の写真は「アートにはなり得ないのではないか」…と考えています。
 さて、またしてもプロカメラマンを貶めるような発言になりますが、ご容赦下さい。
 「上手い絵」を描くのは非常に大変です。長い時間を掛けて技術を会得しなければなりません。しかも例え技術を会得しても、上手い絵が描けるとは限りません。センスや才能が必要です。しかし「上手い写真」は、誰でも比較的容易に撮れます。「容易」とまでは言いませんが、「上手い写真と下手な写真の差」は、少なくとも「上手い絵と下手の絵の差」ほどはありません。初めて絵筆をとって他人の鑑賞に堪えうる絵を描ける人は絶対にいませんが、初めてカメラを持って街を歩いて写真さを撮っても、カメラの性能さえよければ、十分に他人の鑑賞に堪え得る写真を撮ることが可能です。
 こうした「差の小ささ」は、同じ被写体を同じ機材で、プロとアマがそれぞれ撮影してみるととよくわかるはずです。プロが撮った作品とアマチュアが撮った作品の差は、見る人によってはほとんど差がないと感じるかもしれません。特に「視点」「構図」が同じであればなおさらです。
 むろんライティングや光の操り方(撮影時刻や場所の選択)によって表現に大きな差は出ますし、先に挙げた「視点」や「構図」というもの自体が、ある種の「技術」や「経験」で決められます。そうした部分を百も承知で言わせてもらえば、やはり写真撮影分野では「プロの技術が持つアドバンテージ」は比較的小さい…と感じます。
 この「写真は良い機材さえ使えばシロートでもそこそこの水準の作品をモノにできる」「写真にはプロとアマの差が小さい」…という事実、これはある種「写真」というものの本質をを表しています。カメラという機械は、しょせんは「コピー機」なのです。

 私は現在主流となっている光学式コピー機が普及し始めた頃(25年ほど前でまだゼロックスと呼ばれていました)、紙媒体をコピーするだけでなく、面白半分にホチキスのような文具などいろいろなものを載せてコピーして遊んでいました。自分の手や顔(まぶしいのを我慢して)を撮ってみたことも一度や二度ではありません。そのとき、つくづく「コピー機はカメラ」だということを実感したものです。コピー機で撮ったコピーに芸術性を求める人は、普通まずいないでしょう(コピーアートなんてものもありますが)。しかし、全く同じ機能のシステムであるにも関わらず、カメラで撮った写真はアートになり得る…のだとすれば、ある意味で不思議な話です。

■はじめにコンセプトありき

 私は時代や洋の東西を問わず、「良い写真」と評価されている作品の大半が、「はじめにコンセプトありき」で撮られている点に、「アートとしての写真」が持つある種の「胡散臭さ」を感じます。
 いまや写真作品に評価を得るためにはは、「何を撮るか」が最も重要で、次に「どのように撮るか」があり、「写真撮影技術」なんてものはほとんど鼻にもかけられない時代です。いや、これは何も最近始まったことではありません。既に写真が発明された直後の19世紀から、写真家は「コンセプト」で勝負していました。絵画を模倣するピクトリアリズムなども、コンセプトからのアプローチの1つと言えます。写真というメディアは、アート領域に入ると、より「写真よりも写真集が評価される」ことになります。同じコンセプトの写真を大量に並べることで、コンセプトを明確にしやすいからです。「1カットだけで評価される写真」は、報道写真にはたくさんありますが、アート作品ではほとんどお目にかかりません。
 戦後の有名な写真家、例えばラルティーグにしても、メープルソープにしても、森村泰昌にしてもアラーキーにしても、「写真自体の美」ではなく、「コンセプト」がその作品を有名にせしめたことは確かです。彼らの写真作品に対しては、撮影技術面からの批評は皆無です。余談ですが、澤田知子のコスプレ写真は、「名画の中の人物に自ら扮する」ことで話題を攫った森村泰昌のコンセプトのパクリ…とまでは言いませんが、コンセプト面で森村泰昌の何らかの影響を受けたことは確かでしょう。

 写真については、シロートからプロカメラマン、果ては芸術評論家まで、それに思い入れを持つ多くの人々が「写真論」を語ります。その中では、「写真には単に視覚情報だけでなく撮り手の意識も写り込む」といった意味のことが、普遍的に主張されています。でも、私は、見る側の思い入れが撮り手の意識を感じさせる…部分が大きく、現実には「写真は視覚情報のコピー」に過ぎない…のではないかと思うのです。
 例えば、「視点」という問題です。先日アジア各地の貧しい子供たちを撮影した写真集を見ていたら、巻末の解説の中に「作者の優しい目線」というフレーズが何度も出てきました。確かに、子供の目線の位置まで屈んで撮っていることで、見下ろして撮る写真とは一味違うものになっています。でも、こんなことは、写真をちょっと齧った人間にとっては「常識」です。視点を変えることによる様々な効果…、なんてものは既に「撮影テクニック」の範疇です。
 「撮影テクニック」とは、言わば「見る側の意識をコントロールするための技術」です。しかも、私は「絵画のテクニック」や「小説のテクニック」あたりと比べると、かなりレベルは低いと感じているのです。誰でも簡単にアーティストを気取れるメディア…、それが「写真」のもつもう1つの顔なのかもしれません。デジカメ人気も、こうした写真の特質に支えられている部分が大きいと思います。

 ※ …この話はさらに続きます。

2005/1/21

 「良い写真とは?」で書き出したとりとめもない文がまだまだ続きそうなので、1回お休みします。
 で、今日は久々にデジカメのインプレッションを書きます。ここ何ヶ月もインプレッションを書いていませんが、実はこの間リコー「GX」など数台のコンパクトデジカメを購入しました。仕事で使うオフィスの備品として、価格が下がったNikon「D70」も購入しました。でも私は、例え好きなコンパクトデジカメであっても、最近の高画質製品に興味を失いつつあります。ともかく、どれも大差なく良く写るからです。もう、500万画素前後、3〜5万円前後のコンパクトデジカメは、メーカーを問わずどの製品を買っても大差がないようです。それに、この手のデジカメは私がインプレッションを書かなくても、実の多くのユーザからの使用報告がWeb上に書かれています。
 今回入手したのは、このサイトらしいキッチュで安価な型落ち機で、久しぶりに使用感を書いてみたくなりました。
 その製品とは、1万円ちょっとで購入したPanasonic「SV-35AV」です。





2005/1/20

よい写真とは? …その3

 「写真表現」という言葉、また「メディアとしての写真」という言葉などを使うと、その意味や価値を突き詰めることは非常に困難な作業になります。しかし、「写真」という言葉ならば、いくつかの絶対的な意味や価値を指摘することができそうです。  その「写真」の持つ機能の中で、おそらくは「記録」という機能が最も一般的に認知されるところです。そして、写真が「優れた記録」となるためには、一定レベルの画質が要求されます。
 「良い写真とは?」について考え始めた本稿ですが、ここで「画質」について考えて見たいと思います。

■「高画質」の意味

 まあ、「良い写真」の条件が一様ではなく、ましてや「高画質の写真」が「良い写真」と同義ではないことは自明です。「高画質の写真」は、「良い写真」の必要条件の一部ですらありません。しかし、プロ・アマを問わず「良い写真」を撮りたいと思う人の大半が、高画質の写真が撮れる撮影機材を選択することも間違いなく事実です。それはおそらく、写真が持つ「記録」という本質的な機能・属性によるものでしょう。「写真」というメディアにおける「記録」機能とは、「目で見えるモノ」をコピーすることを意味し、コピーは正確でなくてはなりません。つまり写真撮影システムには、第一義的には「視野に見えるものをそのままコピー」する機能が求められます。
 むろん、様々な機材、特にレンズの機能を利用することによって、超望遠レンズで撮影した写真、超広角魚眼レンズで撮影した写真、マクロレンズで撮影した写真、赤外線カメラで撮影した写真…など、絶対に人間の眼で見ることができない「非現実」的な写真を撮影することもできますが、こうした「虚構の写真」についての評価は、ちょっと後の話にします。
 銀塩、デジカメを問わず、撮影された写真(画像)の画質を語るとき、もっとも一般的な指標として「人間の目で見た通りかどうか」…が使われます。写真撮影技術が開発された初期の頃、写真がモノクロしかなかった時代、そして現在よりもかなり画質が低かった時代には、「人間の眼で見た通り」という言葉は「高画質」と同義でした。しかし、現在の写真撮影システムは「条件次第では人間の眼よりも高度な機能」を持ちます。とは言え、人間には見えないものも見えます。カメラがこうした人間の眼の機能を超える能力を備え始めた現在でも、「人間の目で見た通りかどうか」という指標は、色、解像度、ラチチュードなどの個別項目について使われますし、写真全体の雰囲気を判断する「質感」「立体感」「空気感」などといった部分でも使われます。まずは、この「人間の眼で見た通り」という問題から、「画質」を再考してみます。

 写真の本質的機能が、「人間の眼で見えるモノをコピーする」ということを意味するならば、現在「高画質の写真」の条件とされる要件の多くが、合致しないことになってしまいます。
 例えば、当サイト内で何度も書いたように、「人間の視野はシャープな広角レンズ」という言葉にはウソがあります。正確には「人間の視野は周辺がボケた広角レンズ」に過ぎません。確かに人間の視野は広く、正常な人の目で白い明るい視標を見た場合、上が60度、下が70度、外側が100度程度の範囲を見ることができます。しかし、注視している中心部分は高い解像度で認識していますが、視野の周辺部はボケています(こちらの解説文の中の「どれだけ細かいものを見分けられるか=視力の意味とその評価」を参照してください)。また、視野は対象物の色にも影響を受け、白、青、赤、緑の順に狭くなります。さらに人間の眼には、「マリオット盲点」なる、視野内にあって絶対に見えない部分が存在します。
 もし「人間の眼で見た通りに写った写真」を想定するとなると、画角が35ミリフィルム換算で28〜30ミリ程度のレンズで撮り、周辺部ほどボケており、しかも周辺部の白や青い部分だけはかなりシャープに写っている…というものになるわけです。銀塩に限らずデジカメに限らず、こんな写真が撮れるカメラは存在しません(ソフトフォーカスレンズなどが近いかもしれませんが…)。しょせんカメラは、どんな高性能の製品でも「虚構の画像」しか記録できていないわけです。
 ラチチュードについても同じです、人間の目は確かにデジカメに使われる一般的な撮像素子(CCD等)よりも高いラチチュードを持っていますが、それはあくまで「暗いところと明るいところを絞りを変えて別々に見て頭の中で合成する」という作業をやっているからです。強い逆光下で風景の中に立つ人間を見たとき、明るい背景と暗い人間の顔を、同じ絞りで認識することはできません。従って、あまりにも明度差がある暗い部分の階調と明るい部分の階調が同時に出ている写真があれば、それは「不自然な写真」ということになります。
 さらにもう一つ、「認識」「認知」の問題があります。人間は、目でモノを見ているときの大半は、「何か目的物」を見ています。漠然と視野に入る風景全体を見ている…なんて状況は非常に少なく、視野の中の「何か」を見ている…というシチュエーションが圧倒的に多いはずです。
 例えば、繁華街の雑然とした風景の中を歩いていても、視線の先は、前方から歩いてくるかわいい女の子であったり、捜しているお店屋さんの看板であったり、けっしてボンヤリと視野全体を見ているわけではありません。ある瞬間瞬間は、必ず「何か」を中心に見ています。ましてや、特定の人間を相手に話している時、相手の顔を見ている瞬間には、けっして背景となる風景や足元の地面などは見ていません。人間の視覚認知能力は意外と「不器用」なのであって、視野全体に存在するものを同時に細かく認識することは得意ではありません。
 こうした「人間の眼の機能」を前提に考えると、「人間の目で見たとおり写っている写真」を求めるならば、周辺部まできっちりと写っている写真は、超望遠レンズで撮った写真と同様、「人間の眼では見えない光景を写した不自然な写真」ということになります。

■「虚構」こそが写真の本質

 先に書いた、超望遠レンズで撮影した写真、超広角魚眼レンズで撮影した写真、マクロレンズで撮影した写真、赤外線カメラで撮影した写真、長時間露光で撮影された写真…などは、絶対に人間の眼で見ることができない「非現実」的な写真ではあっても、「記録」という面から見れば、大きな意味があります。写真撮影システムには、「目に見えるものを記録する」という役割だけでなく、「目に見えないものも記録する」という機能を期待されているからです。
 結局のところ、「記録」というカメラの第一義的な機能から見ると、「人間の眼で見た通り」なんて指標は、とっくの昔にあまり重要な問題ではなくなっているのかもしれません。
 逆に、「写真」ではなく「写真表現」という切り口の中で、「人間の眼で見た通り」という指標が、別の形で重要視されるようになってきました。
 実は、写真撮影に対して一定の知識や経験を持っている人は、前述した「人間の目が持つ認識機能の特徴」を熟知しています。これは、デジタル・銀塩を問わず、カメラの機能、レンズの機能が部分的に人間の眼の機能を超えたがゆえに、写真表現からリアリティが失われがちになってきたからだと思います。
 例えば、ポートレートなどでもっとも一般的に使われるテクニックに、「背景をボカす」…という撮り方があります。四隅までシャープな写真がよい写真…であるならば、背景をボカす必要はありません。しかし背景をボカした方が、実際の人間が認知している自然な画像に近いものとなることは、誰もが知っている通りです。
 ラチチュードをコントロールするのも一般的です。「ハイライトとシャドーのコントロール」は基本的なテクニックで、何も明暗の階調を緻密に表現することだけが良い写真の条件ではありません。せたりします。例えば逆光でハイキーな写真を撮って明るい部分を意図的に白飛びさ、背景を整理する…といったポートレート写真を良く見かけます。これは、逆光状態で実際に人物を見たときの人間の眼の見え方…にかなり近いものです。

 要するに、現在の写真システム、すなわち銀塩カメラやデジタルカメラは、「人間の眼で見た通り」の画像も、実際に人間の眼が見えない画像も、自由に(完全に自由にではありませんが)作り出せる…ということです。それを「視覚効果」として自由にコントロールすることで、「写真表現」を作り出しているわけです。この点だけをもってしても、写真は「虚構」であり、その中で「解像度」とか「ラチチュード」などの細かいスペック部分で、「人間の眼で見た通りかどうか」を指標に評価してみても、あまり意味のあることだとは思えません。
 そして、こうした中で今なお写真が、前述した写真全体の雰囲気を判断する「質感」「立体感」「空気感」などといった部分で、「人間の眼で見た通り」という要求水準に達していないのは、しょせん人間の眼が見るモノは「三次元」であるのに対し、写真は「二次元」に過ぎない…という根底的な違いがあるからです。
 二次元のメディアでしかない写真は、誰がなんと言おうと、人間の眼が得ている視覚情報と比較すればしょせんは「虚構」に過ぎません。どのように視覚効果をコントロールしようと、どれほど「高画質」であろうと、「人間の眼で見た通り」の画像なんて得られるわけがありません。

 ※ …この話はさらに続きます。

2005/1/18

よい写真とは? …その2

■プロカメラマンの黄昏

 あらかじめお断りしておきますが、「黄昏」などという言葉を使ったからといって、プロカメラマン、各分野の職業フォトグラファーの存在や活動を貶める意図はありません。逆に私は、プロカメラマンに対して職業柄多大な経緯を払っています。しかし私は、前述した「写真家らしくない写真家」「感性(だけ)を売り物にする写真家」「コンセプト重視の写真家」などが高い評価を受けつつある現状は、プロカメラマンの位置を、より身近なところまで引き降ろしつつあるように感じます。
 加えて、ここ数年のデジタルカメラのめざましい機能向上によって、かつてプロカメラマンがアマチュアに対して持っていた「絶対的なアドバンテージ」が、大きく損なわれつつあることはを強く感じています。ここでは、前述した「写真表現に対する評価軸のブレ」という問題をさておいて、デジカメの登場とその機能高度化が与えた影響について思うところを少し書いてみます。

 かつて銀塩一眼レフで素人取材写真を撮らされていた頃は、「プロ」の撮る写真は凄い…と、いつも思っていました。写真にあまり興味のない人でもよく知っている著名な写真家の例で言えば、宮崎学の撮る野生動物の写真、マクロ撮影技術を駆使した栗林慧の昆虫写真、岩合光昭が撮る生き生きとした野生動物の姿など、素人では逆立ちしても撮れないような写真だと感じていました。そして幾多のスポーツカメラマンが撮影する「一瞬を切り取った」写真、商業カメラマンが撮影する「手で触れることができそうな立体感、質感を持つ商品写真」、さらに澤田教一のような優れた報道カメラマンが自らの生命を省みずに撮影する戦慄するような事故や戦場の写真、一流のポートレートカメラマンが撮影した「一瞬の表情の変化を捉えた、生き生きとした人物写真」…など、もう素人が逆立ちしても撮れない写真でした。
 カメラの機能に対する深い理解と習熟、一瞬のシャッターチャンスに反応する素早い反応と的確なカメラ操作、瞬時に外光の状態を見切る経験と判断力、高度なライティング技術、そして悪条件下で長時間シャッターチャンスを待つ途方もない忍耐力…など、優れた写真とはまさに「プロの技」に支えられていることを思い知らされたものです。こうした技術や能力は、一朝一夕で身につくものではなかったはずです。

 ところが、銀塩時代に始まった「カメラ」の諸機能の進歩によって、よい写真を撮ること…に関しては、確実に「敷居が低くなった」ということが言えます。高速・高精度のAF機構が代替してくれる「確実なピント」や「動く被写体への対応」、そして高精度の露出機構やパターン測光が代替してくれる「光を操る技術」、卓絶したプロの技巧に支えられていた部分のいくつかは、確実に「カメラの役割」へと移行しつつあります。手ぶれ補正機能によって、従来難しかった条件でのスローシャッターも利用できるようになりました。
 こうした技術は、いずれも銀塩カメラの時代に開発され実用化が進んだものです。しかし、これがデジタル時代に入って、さらに劇的な進歩を遂げつつあります。
 AFや測光はより高精度に、露出計算などの演算処理はより高速になり、加えてデジタル処理機能で色彩までも自由に操れるようになりました。自動的な段階露出撮影を可能にするオートブラケティングも、標準的に搭載されています。さらにデジタルカメラでは、撮影済みの写真を搭載モニタで撮影直後に確認できる…という離れ業もできるようになりました。プロがポラロイドカメラで確認していた事前撮影すら不要になったのです。
 「銀塩カメラで撮ろうがデジカメで撮ろうが、アマとプロの写真は違う」…それは当然です。その部分を否定したいのではありません。しかしデジタルカメラの時代に入って、「プロの技術的アドバンテージが小さくなった」ということは絶対に否定できません。さらに撮影補完機能の進歩に加えて、こうした高度な機能を搭載したカメラが極端に安価になりつつあるという現状があります。

■プロのアドバンテージ

 プロの技術的なアドバンテージは、撮影現場で必要な技術だけではありません。銀塩時代には、「写真」を完成させる上で「撮影」と同等またはそれ以上の重要な意味を持っていたのが、ラボワークです。プロカメラマンのラボワークは、到底アマチュアの及ぶところではない高度な技術の裏付けがありました。
 そしてプロがプロたる大きな理由の1つであった「面倒で専門的なラボワーク」も、画像処理ソフトが代替しくれるようになりました。画像処理ソフトを使えば、ライティング効果までも「撮影後に設定」できるようになったのです。言ってみれば、「ラボワークも含めてプロの技術の一部をメカやコンピュータが代替してくれる」時代になったと言えます。
 ラボワークに加えて、要求される写真の質と媒体との関係…と言う問題もあります。一般的に写真は、印刷媒体で使われます。特に商業写真の分野において、「自分が撮影する写真と掲載対象となる印刷媒体が持つ表現特性の関係」を知悉していることは、プロカメラマンにとって重要な要件でした。これも、カメラのデジタル化とDTPの高度化にとって、パラメータ化が容易になり、あまり気を使わなくても済むようになりました。

 他にも、デジカメの普及がプロとアマチュアの差を小さくした部分があります。写真には「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」という部分が絶対にあります。例えば露出。商業写真撮影などにおいて、低感度リバーサルフィルムなどを使用すると適正露出を得るのは実に難しいことでした。また、適正露出が判っても、対応する絞りとシャッター速度の組み合わせは膨大で、その中で被写界深度の変化による効果や被写体の動きなどを考えながら、適正な組み合わせの撮影を行うためには、プロでも膨大な数のカットを撮影するのが普通でした。プロとアマの技術の差は、「よい写真を撮れる確率の差」でもあるのです。
 実のところ、銀塩カメラ時代の「写真撮影」分野で、何よりも「プロをプロたらしめていた理由」の1つに、高度な撮影技術や長い撮影経験などもさることながら、「プロは膨大な枚数の写真を撮る」という事実があった思うのです。銀塩カメラの時代には、膨大な枚数の写真を撮ることは、非常にお金の掛かることでした。例えば毎月100本のフィルムを撮るとすれば、フィルム代と現像代で10万円以上の出費を覚悟しなければなりませんでした。
 デジカメの場合、この「膨大な数の写真を撮る」ことに、ほとんどコストが掛からないのが強みです。つまり、写真にあまりお金を掛けられないアマチュアでも容易に大量のカットを撮影することができるため、「よい写真」を撮る確率を上げることが、比較的容易になったわけです。むろん、いくら大量に撮影しても、その中から「よい写真を見抜く目」がなければ無意味です。アマチュアは所詮アマチュアでしょう。しかし、物理的に「よい写真が撮れるか撮れないか」という問題に限定すれば、アマチュアにもよい写真が撮れる可能性が、はるかに高まったことは事実です。デジカメ時代になってプロとアマチュアの差が縮まった、一つの大きな要因は、こんなところもあります。

 そしてもう1つ、「作品発表」の問題もあります。これはデジタルカメラの普及や機能高度化の問題とは直接関係がありませんが、銀塩写真時代には自分が撮影した作品を公開する場を確保することは非常に困難でした。写真を公開してくれるギャラリーが少なかったという事情もあります。また、仮に発表の場を確保したとしても、展示用の写真を焼くことには、大変な労力を要しました。昨今は、「ネット」という発表の場を誰でも容易に確保できます。しかもその「ネット上での展示作品」を作るために、ネット画像との親和性が高いデジタルカメラは絶対的な威力を発揮します。

 こうした状況下だからこそ、「写真」にはますます「感性」がクローズアップされてきました。その結果が、木村伊兵衛賞にHIROMIXや蜷川実花あたりが選ばれる…という状況に反映しているのかもしれません。

 ※ …この話はさらに続きます。

2005/1/15

 よい写真とは何か? 写真の「上手い・下手」とは何か? 高画質の写真は良い写真か?…等の問いは、一概に答の出ない難しい問題です。そしてこの問いに対する答は、デジカメ画像と銀塩写真の違い、デジカメの画質論争、極小画素CCDに対する評価…等の問題についても、一定の判断基準を与えてくれるでしょう。
 ここのところ、サイト内でデジカメや写真について触れることが少なくなりましたが、この「よい写真とは何か?」という命題について、少し考えるところがあったので、この日記で連載してみようと思います。連載…というと大げさですが、長くなりそうな予感がするので、何回かに分けて書こうと思っています。むろん、書きたいことが整理されているわけではないので、相変わら適当な内容です。数回に分けて書いた上で、内容を読み直してみるつもりです。

よい写真とは? …その1


■王様の耳はロバの耳

 私は、木村伊兵衛写真賞なんてものにほとんど興味はないのですが、たまたま記憶に残っているこの写真賞の話題から話を進めたいと思います。
 もう1年近く前のニュースですが、第29回木村伊兵衛賞に「コスプレ・セルフポートレート写真」の澤田知子が選ばれて大きな話題になりました。澤田知子の仕事に関しては、各方面から「表現メディアとしての写真の可能性を再認識させられた」という賛辞・評価が相次いでいます。プレスリリースから抜粋すれば、…「外見と内面との関係」をテーマにした作品が海外で高い評価を得ている彼女の作品は、自らの圧倒的な存在感を見せ付け、それはあたかも外見による判断軸を持つ人々への挑発とも思えるほどのリアルな情感を醸しだし、表現のユニークさと同時に、確固たる観察眼をも感じさせる」…などと評価されています。
 「表現メディアとしての写真の可能性」という言葉には、実にいろいろな意味があります。まず、写真には「コンセプトで評価」という部分もあります。例えば今回の木村伊兵衛賞を受賞した「澤田知子コスプレ写真集」は、私はちっともよい写真とは思いません。こうした写真は、どう見ても「ブサイクな女のコスプレ・セルフポートレート集」であり、それ以上でも以下でもありません。よく言ってフェチなマニアには受けるかもしれませんが、この写真集を見て「美しい」とか「心を打たれる」などシンプルな感動を呼び起こされる人って、ほとんど言いないんじゃないかと思います。「小難しい理屈」を抜きに見た場合、100人中90人以上の人が、「ブサイクな女のコスプレ・セルフポートレート集」という私と同様の感想を抱くでしょう。
 木村伊兵衛賞受賞時に高名な写真家が彼女の写真を評して、「…コスプレした自分が被写体になるということ、けっしてセルフポートレートとしてでははなく、写真家の特殊な眼を放棄することが逆に写真を見る者の眼の意味を浮かび上がらせるということを、あくまで写真の側から問うという意味でこの受賞は画期的だ」…とコメントしていましたが、こういうのを「屁理屈」といいます。
 私は、これは一種の「王様の耳はロバの耳」ではないかと思います。多くの人間が「ブサイクな女のコスプレ姿のセルフポートレート集」…ではないかと思っていても、木村伊兵衛賞を受賞した上、高名な写真家や美術評論家が「写真家の特殊な眼を放棄することが逆に写真を見る者の眼の意味を浮かび上がらせる」なんて小難しい理屈で評価するので、「ロバの耳」とは言えなくなっているのではないか…と率直に感じる次第です。

■「評価する側」が評価される

 誤解を解くために書いておきますが、私はここまでの文で澤田知子という写真家をけなしたわけではありません。少なくとも「写真表現に対する新しい試み」(全く新しいとも思いませんが…)であることは確かです。また彼女の写真が木村伊兵衛賞に値しない…と言っているわけでもなければ、彼女の写真を絶賛する写真家や評論家の審美眼や感性を疑っているわけでもありません。彼女の写真が海外からもアートとしての高い評価を得ているということは事実です。
 言ってみれば、「澤田知子コスプレ写真集」には、「アートにスレた人々」からもてはやされ評価されやすい…という要件をたくさん備えています。自明の話ですが、「アートを評価する」ということは「評価する自分が評価される」ことでもあります。「澤田知子コスプレ写真集」は、目新しさはむろん、見る側に「写真表現に対する従来の評価軸の変更を余儀なくさせる」…という部分が、刺激的なのでしょう。要するに「評価する側の感性をアピールしやすい」わけで、それが最大の「受ける」理由ではないかと考えます。  こうした「評価する側の感性をアピールしやすい」作品は、自分の持つ評価軸をがブレやすい…というある種の「危険」を孕んでいることが多い、という点が問題になります。つまり、「多くの人が評価しているものを、自分も評価しないとまずい、自分の感性を疑われるかもしれない」…と、見る側に考えさせやすいのです。
 人の感性、要するに「どんなものに感動するか?」なんて実に多様です。例えば「セカチュー」に感動する人もいれば、私のように「アホらしい」と思う人もいるわけで、だからといって私に「セカチュー」に感動する人を非難することはできません。だから、澤田知子のコスプレ・セルフポートレート写真集に「感銘を受けた人」「アートとしての価値を認めた人」を、非難することなんてできません。
 ただ、人は「他者の評価に引き摺られる」ことも確かです。特に「権威を持つ人の評価」に大きな影響を受る人が多いことは確かです。本来ごく個人的な感情であるはずの「感動や感銘」だって、他人の影響を受けるのです。そしてイジワルな味方をすれば、澤田知子のコスプレ・セルフポートレート写真集に対する一般の評価には、こうした「彼女の写真を絶賛する他の写真家や評論家の意見に引き摺られた」ものが多いような気がします。

■写真表現って何だろう

 多少大げさな話ですが、これまでに書こうとしてきたことは「写真表現の本質」についての問題かもしれません。澤田知子のコスプレ・セルフポートレート写真集を例にとれば、「表現メディアとしての写真の可能性を再認識させられた」という各方面からの評価は、ある意味で当を得ている部分があります。私なりに言い換えれば、澤田知子の受賞は「表現メディアとしての写真の評価軸のブレを再認識させられた」…となります。
 澤田知子に触れたついでに言えば、最近メディアへの露出が多い写真家、蜷川実花あたりにも触れた方がよきかもしれません。
 先に書いたように、木村伊兵衛写真賞なんてものに基本的に興味はないのですが、まあ「写真の制作・発表活動において優れた成果をあげた新人」に対して送られる賞ですから、多様な写真家が受賞することに異議はありません。しかし、かつて受賞した藤原新也、岩合光昭、中村征夫、星野道夫などの諸氏の作品が、「到底アマチュアには撮影できない」写真で会ったのに対し、昨今の木村伊兵衛写真賞の受賞者は、ある意味で「アマチュアっぽさ」が目立ちます。思えば、若い女性が受賞者となった今年の芥川賞騒ぎを先取りしたようなHIROMIX、長島有里枝、蜷川実花の3人受賞で話題を呼んだ2001年以降、時代のトレンドに合わせる形で「写真家らしくない写真家」「感性(だけ)を売り物にする写真家」「コンセプト重視の写真家」などが高い評価を受けつつあります。むろん、HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花、そして澤田知子といった写真家たちが、「写真技術がない」とか「下手」とか言っているのではありません。
 この木村伊兵衛賞受賞者の傾向の変化に見られるように、「感性」はともかく「コンセプト」などという曖昧なものが「よい写真の基準」に大きな影響を与えると、昨今の写真関係者の間でコンセンサスが出来ているのであれば、「構図」「色彩感」「立体感・空気感」「躍動感・動き」など、従来の写真表現の中で大きな位置を占めていた評価軸は、「コンセプト」なる評価軸とどのように対立し、補完し合うのか、少し考えてみたくなります。して、この問題を考えることは、おそらく「よい写真とは何か?」と言う問いに答を与えてくれるかもしれないし、デジカメの画質論争にも何らかの答を与えてくれる可能性があります。

 ※ 長くなりそうなので、今日はこのあたりで止めます。この話は続く予定です。


2005/1/13

 トラブル続きの毎日です。仕事上のトラブルやら私生活のトラブルやら…、年明け早々、憂鬱な毎日です。日記を更新する時間すらありません。
 さて、そんな日々にあって、わずかな時間をみつけて読む本だけが、一時の安らぎを与えてくれます。昨日電車の中で読了したのは中公新書「消滅する言語」。面白かったです。それにしても私には、タイトルに「言語」という言葉が入っている本は、たいてい衝動的に購入する癖があります。

 作夜は「熊の子寿司」で夕食。ネット上などにはあまり情報がない寿司屋ですが、池袋西口の奥まったところにある、知る人ぞ知る立ち喰い寿司屋(回転寿司ではありません)。横に6〜7人並べば満員になるカウンターだけの小さなお店で、お酒は出ないので持ち込みです。近所のコンビニで缶ビールを買っていけば、グラスを貸してくれます。最初はホタテと中トロのお刺身でビールを飲み、アナゴ、ヒラメ、中トロ、シマアジなど適度にお腹が満たされる程度の寿司をつまんで、2人で2500円〜3000円程度。値段は回転寿司並みですが、大ぶりのネタもシャリも実に美味しく、まさに「他人には教えたくない寿司屋」です。そういえば昨夜は新年初めての訪問でしたので、お年賀に立派な湯呑みを頂きました。

 8億4千万円で和解が成立したブルーダイオード裁判、「日本の司法は腐っている」と言い切る中村修二氏の怒り、実にもっともです。「むりやり和解をさせられた」という氏の主張は、事実なんでしょうね。アメリカへの永住を決めた氏でなくては、なかなか「司法が腐っている」とまで公言できないでしょう。裁判官は準備書面など読んでいない…という氏の発言は、実は私自身も巻き込まれたビジネス上のトラブルに関する裁判で体験したとおりです。私はその裁判で争点となった「ソフトウェアのオリジナリティ」や「ソフトウェア開発の手法」に関して膨大な準備書面を書きましたが、裁判官はまともに読んでくれませんでした。この裁判中、日亜側の広報活動が実に見苦しかったことも、印象に残ります。ただ、何度もTVのニュースで流れた、記者会見の席上で甲高い声で繰り広げられる氏のパフォーマンスを、苦々しい思いで見ていた人も多いでしょうね。以前この日記でも書きましたが、同じ世界的な科学者でも、日本人のメンタリティでは、島津製作所の田中耕一氏の方が支持されることは確実です。

 このニュースを読んで、不思議な感じを受けました。旧日本軍慰安婦問題に関しても報道の自由の問題に関しても、ここで何かを主張する気はありません。ただ私は、NHKなる国営放送事業者においては、こうした「番組内容についての政治介入」など日常茶飯的に行われており、それに対して抗議する職員など存在しない…のだと当然のように思ってきました。また、露骨な政治介入などなくても、「お利巧に自主規制する」現場職員が大半だと思っていました。NHKという組織に、「告発によって不利益を蒙る」ことを覚悟の上でこのような会見を行うチーフ・プロデューサーが存在しているという現実が、ある種新鮮な驚きだったのです。

 いつも素敵な「お笑い」を提供してくれている産経新聞の「正論」ですが、今回は珍しくちょっと納得できる内容でした。私のような業界にいても、「…東芝と富士通とNECの時価総額を全部足し合わせても、創業からたった六年、わずか二千七百人のグーグルの時価総額に及ばないのはなぜか。いったいグーグルとは何なのか、その台頭は何を意味するのか」…、この単純な問いに正確に答えられる人は以外に少ないのです。

2005/1/10

 ちょっと古い記事ですが、昨年末にITmediaに掲載された小寺信良氏のコラム「BD対HD DVD戦争に着地点はない?」…を読んでいて、いろいろと考えました。
 このコラムでは「次世代メディアの一本化という線は完全になくなった」とした上で、「過去の例を見ても、ユーザーは安くて便利なものを望むのは自明の理だ。これだけの争いと損害を経験しておきながら、覇権が絡むと、人間というのはちっとも過去の経験が生かせない生き物らしい」と結び、要するにBD対HD DVD戦争を繰り広げるメーカーを批判しています。
 私は常々「進歩の速いIT分野などでは、無理に規格を統一する必要はない」と主張しているのですが、現在繰り広げられているBD対HD DVD戦争についても、メーカーは自由に規格競争をすればいいと思っています。複数の規格の中からユーザが「デファクトスタンダード」を選んでいくのが最も正しいプロセスだし、メーカー同士で規格統一のための談合なんかやられたら逆に不愉快です。自分が購入した機器の規格が、他の規格に押されて消えることを「損害」と思う人が多いようですが、私は別に気にしません。だって、オーディオやコンピュータの分野では、「消えたメディア」が山のように存在し、それらのうちの多くを実際に使っているからです。そして、こうした状況は「技術の進歩」がもたらしたものであり、別にサポートをやめるメーカーが悪いわけじゃないと考えているからです。
 この「消えたメディア」について語るとなると、もうコンピュータメディア分野では思い出せないくらいたくさんあります。
 まずは、フロッピーやHDDなどリムーバブル系の記録メディア。フロッピーは、8インチ、5インチのあと3インチと3.5インチが標準化競争を繰り広げて、最終的に3.5インチが勝ち残ったわけですが、その間にもいろいろと奇妙な規格がありました。中でも、2インチ台フロッピーは、ミツミ電機、東京電気。そしてタイプライターメーカーであるシルバー精工などが商品化して規格の普及を図った経緯があります。うちミツミのフロッピーは、ファミコン用ディスクシステムとして大量に出荷された経緯がありますね。その後は、大容量化競争に火が付きました。
 まず思い出すのは、Iomegaの「ZIP」でしょう。ZIP100、250、750の3種があったことを覚えてますが、結局どれも普及しませんでしたね。容量1GBのJazドライブなんてのもありましたが、これもいつの間にか見なくなりました。「Super Floppy」というヤツもありました。確か「FDS-120」という3.5インチFDと同形状のメディアで120MBの容量が使えるものでしたが、消えました。
 HDD系で覚えているのは、まずは「SyJET」で、これはメディア1枚で1.5GBの容量がありました。「ORB(オーブ)」というのもありましたね。これはメディア1枚で2.2GBの容量だったと思います。「GIGAMO」ドライブってのもありましたが、どんなスペックだったのか記憶にありません。「PD」ってのもありました。あれは光磁気系でしたっけ。容量は600MBぐらいはあったと思います。いつの間にか消えました。
 そういえば最近になっても、新しいリムーバブルHDDの規格がいくつか登場しています。まずは容量20GBの「iVDR mini」ドライブ、「iVDR-20」ですが、これは普及するのでしょうか? ZIPのIomegaも懲りずに、1.8インチの磁気ディスクを使った容量1.5GBの「DCT」を商品化しています。そういえば、数年前まであれほど使ったMOだって、現在は消えたも同然…って感じがします。128、230、540、640MB、1.3、2.3GB…と大容量化が進んできましたが、今はCD-R(RW)とDVD系に完全にとって代られました。
 CD-Rといえば、1.3GBの容量の「Double Density CD-R/RW」規格や、マルチレベル記録技術を応用した大容量CD-Rは、どうなったのでしょう。他にも最近、2倍の容量が記録できて現行ドライブと互換性のあるCD-Rの話を読んだ記憶がありますが、忘れちゃいました。
 話のついでですが、非常に高価な「磁気バブルメモリ」なんてのも実際に商品化されましたよね。
 オーディオメディアだって、「消えたメディア」の話をするとキリがありません。かつてカラオケに使われた8トラックテープや、Lカセット…でしたっけ、大きいサイズのカセットテープもありました。2トラ38のオープンリールテープはかなり最近まで一部のオーディオマニアに使われていたようですが、さすがに消えつつあるようです。  デジタル記録だっていろいろあります。8ミリビデオへのPCM音声記録、これまた全く使われなくなったメディアです。実はこれ、DATが出るまでは私自身が利用していました。サンプリング32bitで長時間のステレオ録音できるので、衛星PCM放送の録音に使っていたのです。DATもなんとなく過去のメディアになりつつあります。現在でもオーディオマニアは使っているし、無論デンスケなどプロ用録音機器には広く使われています。しかしDATウォークマンなんて商品は過去のものになったし、コンシューマ向け商品は全く生彩がありません。ソニーが商品化している「切手サイズ」のデジタルマイクロテープ。優れたメディアだとは思うけど、これはメモリ録音の普及によって存在意義がなくなったようです。
 まあ、コンピュータ分野もオーディオ分野も、今年はどんな新しいメディア規格が登場するかと思うと、楽しみですね。

 今日は休日ですが、所用があってオフィスへ。出勤途中に羽織・袴の若者を何人も見かけました。それにしても成人式に男が羽織・袴を着る習慣は、いつ頃から定着したのでしょうか? それも正直言って似合わないしバカっぽい。今日池袋周辺で見かけた男性は全員が白い羽織を着ていました。で、全員が茶髪か金髪。流行っているのか、ほぼ全員が無精ひげっぽいひげを生やし、ほとんどチンピラにしか見えません。そうえば、昨年の成人式に全国各地の会場で酒飲んで暴れてた連中も、みんな同じような格好をしていました。  「成人式」なるものを自治体が開催すること自体の無意味さについては、いまさら私が書くまでもありませんが、それ以前に成人式に出る若者のファッションも含めたバカっぽさは、いったいどうしたことなんでしょう。
 …ああ、いかにもオジサン臭いコメントだ。年取るのは、嫌ですねぇ。

 同曜日の夜、としまえんのシネコンで「AVP(エイリアンvsプレデター)」を見ました。ストーリー展開には突っ込みどころが多かったけど、けっこう楽しめました。

2005/1/7

 グリコの「スポロン」という飲料が好きです。以前は「三角錐に近い円錐」の容器を3個、てっぺんの部分で繋げた形で売っていましたが、いつの頃からか4個繋げた形になり、そしていつの間にか紙パックでの販売だけになっちゃいました。グリコのホームページを見ても、昔の形状の容器は見当たりません。こちらのページを見ると、1989年頃までは容器が3連になって売っており、その後4連になったと書いてあります。しかし、私の記憶では、5〜6年前に3連パックタイプを近所のスーパーで売っていました。
 ともかくあの「3連」がよかったと思います。1個100mlですから、1個だと量が少なくて物足りない、でも2個飲んじゃうと残りが1個になって、残りを飲む時に物足りない。1個飲もうか2個飲もうか迷うところが、またよかったりしました。切り離した後で、ストローを入れる口の部分のテープを剥がして細いストローを差し込んで飲む…、あの感じもよかった。ともかくスポロンは美味しい。  スポロンのファンはけっこういるようで、「スポロン同盟」なるものもあります。私も参加しようかなぁ…

 そして私は、同じ容器つながりで、「プチダノン」も好きです。プチダノンは小さいカップ4個を繋げて売っているじゃないですか。あの販売形状が何となく好きだし、容器1個の量がちょっと物足りないぐらい少ない点も、スポロンと似ています。むろん、味も好きです。大きさの割に値段は高めですけど。思い起こせば、昔「アッタマばっかりでも、カッラダばっかりでもダメよね、プチダノン…♪」ってコマーシャルがありましたよね。
 現在プチダノンは「カルピス味の素ダノン株式会社」という会社の商品になっていますが、もともとは世界的な食品メーカー「Danone」と味の素の合弁企業が「味の素 プチダノン」として販売していたはず。こちらを見ると1980年に合弁会社を設立したとのことですから、プチダノンの販売もその頃からなんでしょう。プチダノンは、ヨーグルトではなくチーズ…だと聞きましたが、まあどっちでも構いません。まったりした食感はお気に入りです。プチダノンにはフルーツ味もありますが、あれはダメ。私が食べるのはプレーンだけです。

 私は牛乳を飲むとお腹がゴロゴロしてダメなんですけど、乳酸飲料とか「飲むヨーグルト」系の飲料類はだいたい好きです。冷蔵庫には必ず入ってます。ヤクルトも好きだし、ヤクルトの類似製品(ローリーエース、マミー、ヨークなど)も好きです。まあ、類似品はどれも本物のヤクルトよりもジャンキーな味ですが、そこがまたいいですね。そしてカルピスも好きです。小学生の頃、お中元でもらったカルピスを家族で大事に飲んでた記憶があります。フルーツカルピスの入った詰め合わせなんて、当時としては垂涎モノでした。ちなみに、この手の飲料を「乳関連飲料」といい、その成分によって細かく分類されています。
 ヨーグルト類は、最近は名前に「○○牧場の…」とかついている高級志向、自然志向の製品もたくさんありますが、やっぱり昔からのメーカーが出しているジャンキーなものがいい。ヨーグルトは、昔ながらの広口ビンに入って紙のフタがあるヤツなんかが好きですね。

2005/1/6

 年末にTVのニュース番組を見ていたら、バイクの違法駐車の問題を特集していました。渋谷などの都心部で二輪車の違法駐車が多く困っていること、そういった状況がある反面、都心にはバイクを停められる駐車場がほとんどないこと、四輪車用の駐車場の多くでバイクが利用を断られることが多いこと…、などを報道していました。
 こちらに書かれているように、「…原付については、『自転車等法』に基づいて、駅周辺に設置された駐輪場に、自転車とともに駐車できるようになった。大問題は、原付より大きな二輪車の駐車である。駐車(輪)場設置に関する法律には、『自転車等法』と『駐車場法』がある。駐車場法による駐車場は、自動車を基準にして作られている。そのため公共の駐車場にせよデパート等の駐車場でも二輪車は拒否されるのが実情だ。つまり、自動二輪車は、街中で合法的に駐車できるスペースがない」…というのですから、酷い話です。さらに、こちらのサイトや、こちらのサイトあたりを読むと、バイク駐車の問題点がよくわかります。
 確かに二輪車、特に自動二輪車に乗っていると、駐車スペースに非常に困ります。そして四輪車用の駐車スペースではバイクを拒否するケースが非常に多い。私事ですが、以前自宅のマンションの駐車場をバイクを駐車するだけのために1スペース分有料で借りたら、管理組合から「四輪車の駐車スペースが足りないから、できればバイクは他の場所に停めて欲しい」と言われたことがあります。お金を払っているのに、「貸せない」と言われたわけです。私は、自転車置き場などに置いていたずらされたくないし、不法に路上に駐車するのもいやなので、月額1万7000円を払ってクルマの駐車スペースを借りたわけですが、それをやめて欲しいと言われてしまいました。困ったものです。バイクと言う乗り物は、なぜかいつまで経っても「鬼っ子」です。

 いまさらあえて主張するほどのことでもありませんが、このバイクの駐車場問題や二輪車用ETC問題に限らず、道路行政や交通行政の中でなぜこうまでバイクの存在が無視・軽視されるのでしょうか。例えば、バイクの走行や駐車に関しては、道路交通法規すら曖昧な部分が多々あります。また、バイクの高速道路二人乗り禁止問題や一部の自動車専用道路におけるバイク規制等に留まらず、バイクという乗り物の実態に合わない矛盾した法令や規制がたくさんあります。四輪車の昼間点灯運動なども盛んですが、バイクから見るとかえって危険だという点についてもっと突っ込んだ議論があるべきでしょう。大型バイクは自賠責や任意の保険金も異常に高いし、有料道路の通行料も道路へのダメージの少なさや走行に必要なスペースの小ささから見て、異常に高い。こうした行政や警察によるバイク軽視については、もう何十年も前からライダーの多くは不満を持っています。そして、こうしたライダーの置かれた不本意な立場、道路行政や交通行政におけるバイクの位置について、四輪車のドライバーが驚くほど無知である状況も、全く変わっていません。
 さらに大きな問題があります。バイクを運転したことのないドライバー、またはちょっと原チャリなどに乗りその後四輪車オンリーとなったドライバーたちの多くが、道路交通の中におけるバイクの存在を「邪魔」と感じている…という問題です。曰く、「動きが予測できない」「見えない」「どこから出てくるかわからない」「チョロチョロして目障り」…といった言葉をよく聴きます。不思議な話です。
 バイク好きの私の贔屓目ではなく、客観的に見てバイクは都市コミューターとして優れた適性を持っています。まずバイクは走行にあたって道路の占有率が小さく、渋滞緩和に有効です。都市部で大きな問題となる駐車スペースも小さく、車1台が停められるスペースがあればバイクなら5〜6台は停められます。むろん、四輪車と比較すれば燃費も格段に優れています。車より構造がシンプルで部品点数が少なく、廃車後の最終的な廃棄物が少ない点も環境に優しいでしょう。
 こうしたバイク、都市交通の中でもっと上手く生かす道はないのでしょうか。資源が少なく土地が狭い日本という国土において、バイクはもっと有効に活用できるコミューターになるはずです。そういえば、次世代の都市コミューターとして「セグウェイ」なんて乗り物が世界的に話題となっています。しかしよく考えて見ると、わざわざ「セグウェイ」なんてバカ高い不安定な乗り物を使わなくても、スーパーカブやSUZUKI「チョイノリ」(今日、こんな記事がありましたが…)のような燃費がよくて完成度が高い小型バイクをもっと普及させればよいだけのこと。私のカブだって、排気量は90CCながら時速80Kmは出るし、燃費は絶対にリッター50Kmを下回ることはありません。
 バイクは「成熟した乗り物」です。社会全体で、バイクの有効な活用を考えるべきでしょう。なんたって日本は、世界一のバイク生産国なのですから…。

2005/1/4

 年末に奈良県の幼女誘拐殺人事件の犯人(容疑者)が逮捕され、年が明けてのその後の報道の中で、容疑者逮捕に至るプロセスが徐々に明らかになってきました。容疑者は近隣に住む前科者ということで事件直後から警察がマークしていた人物とのことですが、容疑者特定の決め手になったのは、やはり携帯電話の通話記録と端末位置情報であったようです。
 今回の事件で携帯電話会社は、警察からの要請によって、いち早く携帯電話の通話記録と端末の位置情報を提供したようです。事件発生後どの時点で、端末の通話記録や位置情報が提供されたのかはわかりませんが、携帯電話会社がいともあっさりと通話記録や位置情報を警察に提供したことには、多少なりとも「ひっかかり」を覚えるのは私だけではないでしょう。
 むろん、今回の事件における携帯電話の役割を考えれば、捜査にあたっての携帯電話の通話記録の重要性については言うまでもないことで、今回の事件捜査のために警察に通話記録を提供した携帯電話会社を批判しているわけではありません。また、こうした凶悪犯罪の捜査のためには、「市民のプライバシー」なんてものが二次的な問題であることも理解できます。ましてや昨今の重大犯罪の多くに携帯電話が使われていることを考えれば、携帯電話端末の通話記録や位置情報を犯罪捜査のために利用することは、ある意味で当然のことと言えます。
 ただ、警察がどのようなプロセスを踏んで携帯電話会社に通話記録の提供を求めたのか、また携帯電話会社はどのような内規のもとに警察に通話記録を提出したのか…、そのあたりの「ルール」の部分が私は気になるのです。いかなる犯罪であろうと、その中で携帯電話がいかなる役割を果たしていようと、民間企業が通話記録や端末の位置情報を公権力に提供するにあたっては、少なくとも「ルール」というか「一定の基準」が必要だと思うからです。警察の要請があればどんな場足でもすぐに特定端末の通話情報や公開する…というのであれば、警察という組織や警察に影響力を持つ個人や団体、そして国家権力にとって不都合な個人の個人情報は、警察を通していつでも入手できることになってしまいます。
 同じ問題は日本全国の主要道路に設置されたNシステムや、都市部の街頭に増え続ける監視カメラについても言えることです。Nシステムが凶悪犯罪の犯人逮捕に大きな力を発揮しているという事実、さらには監視カメラが犯罪の抑止力になっているという事実…を否定するつもりは毛頭ありません。実際に奈良県の幼女誘拐殺人事件においても、民間マンションの駐車場に設置された監視カメラが、犯人の乗用車の特定に一定の役割を果たしています。しかし、こうして集められる「市民の行動記録」がどのように利用されているのか…については、全ての人間が関心を持ち続ける必要があるでしょう。
 奈良県の幼女誘拐殺人事件の捜査で携帯電話会社の持つ通話記録が利用されたことに引っかかりを覚えたのは、実はこの妙な事件を思い出したからです。これは、一宗教団体が自らの団体に敵対する可能性のある人物の行動を監視する目的で携帯電話の通話記録を利用しようとした可能性がある、非常に恐ろしい事件です。考えて見ると、この団体が影響力を持つ政党は東京都の与党であり、警視庁にも大きな影響力を持っていることが知られています。この事件の経緯を知るにつれ、携帯電話会社に対しては、通話記録や位置情報、メールの送受信記録などの個人情報を厳重に管理して欲しいと願わざるを得ません。携帯電話会社による個人情報の管理体制、及び公権力への情報提出ルールについては、企業の内部規定に頼るのではなく、法律でさらに厳しく規制・監視されるべきでしょう。

 まあ考えて見れば、こうして民間企業や公権力に自分の行動を把握されるのは止むを得ないことでもあります。私は、クレジットカードを使っているし、携帯電話も使っています。プロバイダを通してインターネットを利用しているし、メールも利用しています。そしてクルマにも乗ります。いずれも、誰かが簡単に個人情報を取得できるシステムです。自らの行動パターンを他者に知られるのが嫌ならば、こうしたものを使わずに生活すればいいわけですから。ある意味、わかっていて使っているわけですから、あまり大きなことは言えません。
 そういえば、「お財布ケータイ」の普及が進んでいます。携帯端末を使って買い物ができるばかりかJRなどの自動改札にも使えます。携帯端末を使って自動改札システムを利用するとなれば、公共交通機関を利用しての個人の移動記録は、ますます簡単に集めることが出来るわけです。
 そして、今日の新聞に「緊急時にTVが自動起動し避難命令…システム整備へ」…という記事がありました。考えてみるとこれは、誰かが自分のTVのチャンネル管理権を乗っ取ることができる…という恐ろしいシステムです。そのうちに、家庭で視聴しているTV番組を自動的に局側で把握する…というシステムができるでしょう。ああ、ホントに嫌な世の中になりました。

 今日の画像は、コメダ珈琲店の有名なスイーツ、「コメダ珈琲店」です。
 私がこのお正月に名古屋の実家へ帰った折に、実家の近くにあるコメダ珈琲店の本店を訪れ、食べてきました。
 「コメダ珈琲店」がどんな店なのか、「シロノワール」がどのような食べ物なのか…についてはあえて説明もしませんし、リンクも貼りません。どちらも知らなくて、なおかつどんなものか気になる方は、ネットで検索して見てください。信じられないほど大量の情報が存在します。
 一つだけ言えることは、コメダ珈琲店は名古屋独自の「喫茶店文化」の象徴のような存在だし、巨大なシロノワールはギョッとするほど大きく、それなりに美味しいということです。名古屋へ立ち寄る機会があれば、まだ食べたことのない方は、ぜひ一度お試し下さい。

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