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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/8/28

 数日前に、「ヒマワリ油でトラクター 筑波大などが運転実験」…というニュースがありました。同じニュースは、「ヒマワリ油をエコ燃料に! 筑波大教授らシステム開発」というタイトルで産經新聞にも掲載されていました。
 貴重な食用油であるヒマワリ油から自動車用燃料を作る…って、実にバカバカしい話です。
 世界でサンフラワーオイルと称されるヒマワリ油は、コレステロール低下作用を持つリノール酸やオレイン酸を含む良質の植物油です。油としてそのまま利用する他に、マーガリンやショートニングの原料にもなります。つまり、「地球上の多くの人間が飢えに悩む人類にとっては貴重な食料」です。
 そして、農家の労働力を使ってヒマワリを作付けし、肥料や労働力を使ってヒマワリを育て、収穫し、さらにそこからプラント稼動のための電気エネルギーを注ぎ込んで、自動車用燃料を作る…なんてプロセスの、いったいどこが「エコロジー」なのでしょうか。正気とは思えません。エネルギー効率、エネルギー収支を考えない、この手の「いんちきエコ話」にはもううんざりです。
 それにしても、斐川町の遠藤泰夫参事とやらの「…ヒマワリは二酸化炭素吸収力が高く温暖化対策にもなる。水田が(転作で)油田になるかも…」という発言には、ただただあきれるばかり。水田が油田?…、この自治体にはマトモにモノを考える人間はいないのでしょうか?
 この島根県斐川町と、ヒマワリの種から採った油をバイオディーゼル油(BDF)として燃料に活用する共同研究を続けてきたのが、筑波大応用生物化学系の松村正利教授の研究室…とのことですが、マジメな話、本当に大学でこんなバカな研究をやってるのでしょうか? その松村教授は「現時点ではコストが割高だが、環境保全やエネルギー自給の観点からヒマワリを資源作物と位置付け、国家戦略としてバイオディーゼル油への転換を促進すべきだ」と強調しています。こんなアホな研究が国立大学で国費を投入して行われているとすれば問題だし、こんなバカ教授は即刻クビにすべきでしょう。
 また、この話を聞いて「ヒマワリ油をエコ燃料に!」なんてタイトルを付ける産經新聞の記者もアホですね。

 いや、こういうバカバカしい「エコロジー」をまともに批判する人間はいないものかとネット上を徘徊していたら、ありました、こんなコラムが…。「アメリカ米を使ってバイオマス燃料を」という話に対する批判ですが、久々に朝日新聞で、まともなコラムを読みました。
 ここで述べられているように、世界中で実験が進んでいる「バイオマス燃料」には3つの大きな問題があります。

   ・エネルギー効率が悪いので、本質的にエコロジーとは無縁の代物であることが多い。
   ・地球規模で生じている飢餓の問題、食料問題を無視している。
   ・発展途上国などでコスト面で折り合いがついても、そうした「安い労働力」を生み出す世界経済の構造自体がおかしい。

 私の考えは、このコラムの筆者の「そもそも世界では飢えている人間のほうがはるかに多い。食糧を燃料にしてしまうというのは、飢える人には飢えていてもらって、食糧の余っている国でエコロジカルな実験をしましょうという話だ…」…という意見と、基本的に同じです。

 「物事の本質」なんて、どれも意外と単純な話です。膨大な人的エネルギーを投入して作られる農作物から燃料を精製しても、そんなものがエコロジーであるはずがないことは、難しいことを考えなくたって誰でもわかることです。単純な「人間のあるべき姿」を前提にしないと、「科学」なるものは、だんだん妙な方向に向かっていくようです。

2003/8/27

 お盆を過ぎてから、暑い日が続きます。オフィスではエアコンがフル稼働していますし、効率的に室内を冷却するために、小さな扇風機も回しています。
 扇風機は右回りか左回りか?…という質問は時々クイズの問題になっています。答えは「右回り」です。これはご存知の方も多いと思うのですが、何故右回りなのか…については、ちゃんと説明されている例をあまり見かけません。
 私は漠然とですが、導線に直流の電気を流したときにその電流の向きに対して右回り(時計回り)に磁力線ができるという…、昔学校で理科の時間に習った直流モーター話が頭にあったので、何か合理的な理由があって「右回り」なのだと思っていました(むろん直流モーターでも電極を逆にすれば左右どちらにも回ります)。

 ところが、今日オフィスの扇風機を見ながら思ったのですが、扇風機に使われているのは直流モーターではなく、交流モーターですよね。特に右回りでなくてはならない理由はありません。
 ちょっとおさらいしますが、モーターには、直流電流を動力とする直流モーターと交流電流を動力とする交流モーター(交流誘導モーター)があります。扇風機は、洗濯機など他の家電製品のモーターと同じく交流モーターが使われています。交流誘導モーターは、微妙にタイミングをずらした交流電流を回転子の上下左右に設置されたコイルに流すことで、コイルがつくる磁力を回転させます。この回転する磁力が回転子を動かします。原理的には、右回りでも左回りでも可能なはずです。

 で、少し調べてみたら、面白い事がわかりました。モーターというのは、もともと右回りを「正回転」と言うのだそうです。しかも、その理由は「特にない」…のだそうです。いつ、どこで、誰が「モーターは右回りが正回転」と決めたのか、分からないのだそうです。「時計の回転の方向と同じにした」…という説が有力ですが、定かではありません。

 時計が右回りである理由…、これは合理的な説明ができます。おそらく「日時計が右回り」だからでしょう。ただし、これは北半球での話です。
 もし、北半球よりも南半球で人類の文明が栄え、最初の日時計が誕生し普及していたら、時計は左回りになっていたはずです。そして、モーターも左回りが正回転になり、その結果扇風機は左回りであったろうと思います。

 ということで、「扇風機が右回りである理由」は、「人類の主要な文明が北半球で栄えたから」…というのが答えとなりそうです。

2003/8/26

 1981年から 1993年まで、フジテレビ系列で日曜日の朝に放映されていた「東映不思議コメディー・シリーズ」、これはなかなか味のある番組が多かったですね。
 中でも、1989年以降の一連の作品群がよかったと思います。

  ・魔法少女ちゅうかなぱいぱい
  ・魔法少女ちゅうかないぱねま
  ・美少女仮面ポワトリン
     −愛ある限り戦いましょう、命燃え尽きるまで、美少女仮面ポワトリン!……こんなセリフでしたっけ?
  ・不思議少女 ナイルなトトメス
  ・有言実行三姉妹シュシュトリアン

 ところで、「ヒロインナビゲーター」や「5MBの特撮ヒロイン」…あたりは有名なサイトですね。この手のファンの方も、一種のフェチでしょうね。
 子供番組のヒロインにエロチックな妄想を抱く…、こういった方向性は私の趣味じゃないですけど、何となくわかるなぁ。少なくとも、昨今の週刊現代や週刊ポストの袋とじヌードをニヤニヤと眺めている人よりは想像力があって、健全なエロなのではないかと…

2003/8/25

 夏休みというほどのものでもありませんが、4日間ほどネットも携帯電話も遮断し、仕事とも世間とも隔絶された状況にありました。珍しく本や新聞なども読まなかったので、その間つらつらと考え事をして過ごしていたわけです。まあ、社会から隔絶された状況でいろいろと考えたからと言って、なんら従来のライフスタイルに変わりがあるはずもなく、今日からは多忙な仕事を中心とする日常生活に戻っています。…っていうか、別に人生について深く考えていたわけではなく、付き合っている女性の事とか、中期的な仕事の段取りとか、現在の食生活と自分の健康状態との関係とか…、まあおよそ現実的なことばかり考えていました。

 私のような年齢になると、よく「人生を見つめ直す」という意味不明の思考に陥る人が多いようです。よくあるのが「旅に出る」とか「禅寺で修行する」とかいうパターンで、その次に多いのが病気で長期入院したことをきっかけに…と言うパターンでしょう。  こうして何日も何週間も考えた結果、「家庭を顧みず仕事一筋でやってきたそれまでのライフスタイルを見直し、家族との時間を大切に過ごす新しいライフスタイルを実現する」…なんて結論を出す事が多いようです。具体的には、サラリーマン生活をやめて田舎暮らしをスタートするとか、定年前に退職して大学に入り直して学ぶ…なんて話をよく聞きます。
 まあ、要は流行の「スローライフへの転向」というヤツです。多くの場合、「人間らしい生き方を取り戻す」「自然との共生を考える」などが、このスローライフへの転向の理由付けとなっているようです。
 私が思うに、何日も禅寺などに篭って思索した末に「スローライフへの転向」なんて結論に達するのは、非常に安易でくだらないことに感じます。第一、この程度の問題を考えるのなら、別に何日も何週間も考える必要は無く、喫茶店で5分も考えれば済むはずだし、毎日の通勤電車の中でだって考えられることです。自分がどのように生きていくか…なんてことは、私も日々考えていますが、別にわざわざ旅に出たり禅寺に篭ったりして考えようなんて思いません。日常生活の中で考えています。経済問題や子供の教育問題などを考えれば、人生の問題は5分で出る結論じゃない…という反論もあるかもしてませんが、それは話が逆です。サラリーマン生活をやめるとか、田舎暮らしをするといったことに伴う経済問題や教育問題は、例え1ヶ月禅寺に篭って考えたって、どうにかなる問題ではありません。日常生活の中で1年ぐらいの長期間を「現実的に」考え、さまざまな問題を調べて解決してこそ、やっとどうにかなるような問題です。
 考えて見れば、いろいろと人生の問題を考えた末に「スローライフへの転向」を決意する人は多いのですが、逆の結論、つまり「よりビジーなライフスタイルへの転向」を決意する」という人はあまりいないですね。ミもフタもない話ですが、たいていの人は、「易きに流れる」わけです。「スローライフ」とか「ナチュラルライフ」なんてのは、口に出すと美しい言葉ですが、要するに「社会からの脱落を美化する言葉」でもあります。多くの人が、「現実からの脱出」を考える時には、いかにして「より楽な生活」「働かなくてもよい生活」を考えるわけです。まあ、わざわざ長期間の旅に出て考えたあげく「楽な生活をしよう」なんて結論を出したサラリーマンの話などを雑誌で読んだりするたびに、こいつバッカじゃねえの…などと思う私であります。

 しばらく、日記をお休みしていたので、今日はサービス画像をお届けします。練馬のレストランバーで働く美しいインド人女性、サームさんです(D505iで撮影)。
 子供が2人いてけっこうな年齢(?)であるにも関わらず、とても美しく、しかも聡明な女性です。日本語はカタコトしかできないので、英語でお話するしかないのですが、英会話の勉強にはもってこいですね。
 ところで彼女に聞いたのですが、インドでは他のアジア諸国と同じくGSM携帯電話が一般的に使われており、このGSM端末が標準で採用する携帯メール「SMS」(いわゆるショートメール)には、日本のパソコンからEメールを送っても届かないそうです。ところが、インスタントメッセージ「ICQ」の最新版には「SMS送受信機能」が搭載されており、これで海外のGSM携帯とメールのやり取りができるとのこと。
 …自分は携帯電話関係の仕事もやっているのに、「ICQ→GSM携帯メール」という、こんな初歩的なシステムについて知りませんでした。まあ、私自身がメッセンジャーを全く使わないのが理由とは言え、非常に恥ずかしいことです。

2003/8/18

 若い世代を中心に「右傾化が進んでいる」…と言う話をよく聞きます。「プチウヨク」なんて言葉もあります。こうした現象について、いわゆる進歩系知識人と呼ばれる人々がいろいろと分析していますが、納得できる意見はありません。個人的には「若い世代の右傾化」の理由がイマイチよく判りませんでした。
 たまたま先日、「九十九式」というブログサイトを見ていたら、こんな一文に出会いました。
 この文、雑に書いているようで、ちょっと面白い。要するに「反体制=ウヨク=カッコイイ」…ということらしいです。そうか、ロックは反体制、だからロッカーは右傾化するのか…なんて、一瞬納得しました。かなりわかりやすいと思います。窪塚洋介なんて、きっとこのタイプなんでしょうね…

 「…今や、マスコミという第三の権力がその弾圧的体質を剥き出しにし、国家権力は不敗に堕して米・中の奴隷と化した昨今では、今までの価値観、社会に蔓延している旧態依然とした価値観(左翼イデオロギー)に対して、真っ向から反旗を翻すのが、反体制なのである」…、ほー。
 前半は、少し意味不明の部分もありますが、まあフーンって感じ。この筆者は、その定義はともかく、「国家権力」なるものは嫌いなんでしょう。「旧態依然とした左翼イデオロギー」ってのが、社民党やら共産党、一部の労働組合、それから新左翼の生き残り…あたりを指すのなら、私も嫌いですし、バカバカしいと思ってます。ああ、マスコミもひどいものです。
 理由や根拠にきっと違いはあるでしょうが、「国家権力」と「マスコミ」と「旧態依然とした左翼」がまとめて嫌い…というのは、私と同じです。他にも同じように考える人は多いかもしれません

 しかし…、ですよ。
 若者が[国家権力」と「マスコミ」と「旧態依然とした左翼」に対して反旗を翻すと、なぜ「ウヨク」になるのか、なぜ「テンノウヘイカバンザイ」になるのか、そこんとこはやっぱりよく判らない。

 で、あらためて考えてみました。なぜ、若い世代の「右傾化」が進んだのだろうか…と。3分間ほど真剣に考えた末の結論は、「別に右傾化なんか進んでいない」…というものです。
 私は右傾化が進んでいるのではなく、あまりモノを複雑に考えることをしなくなった若い世代を中心に、日本全体が「わかりやすい言葉」「わかりやすい考え方」に流れているだけのように思います。
 本来、「国」とか「民族」とか「社会」といったものは、「わかりにくいもの」です。さらに「個人と国の関係」や「個人と社会の関係」を考えるとなると、考えている自分自身が「社会」との関係を確立し、社会の中における「自分という個」の相対的な位置を定めることが必要となります。しかし、若い世代に限らず、多くの人間が自分自身や思考の対象物の「相対的な位置付け」を考えることを苦手にしているように思います。

 それに較べて、「国」や「公」を第一に考えるウヨク的な主張の多くは、あまり相対的に自分の位置を考える必要がありません。「国を愛するべき」「日本人であることに誇りを持て」とか、「国」や「公」をほぼ絶対的に上位の価値とすることで、論理展開がシンプルになっています。おそらく、こうした考え方が、「ウヨク」的思想が受け入れられやすい土壌になっているのだと思います。
 価値感というのは、本来相対的なもののはずです。しかし、面倒な思考プロセスを必要とする「相対」に較べ、「絶対」という考え方は「モノを考えない人」にとっては楽で魅力的です。例えば、「○○はこうあるべきだ」の○○の部分に、「国」「民主主義」「家族」「教育」そして「人間」などの言葉を入れると、簡単に一つの「主張」が出来上がります。そして、その手のシンプルな主張は、考えることなく受け入れる…のに適しています。
 逆に言えば、別に右翼的主張ではなくとも、「自分」の上に絶対的な価値が提示されていれば、それは、現代において受け入れられやすい思想…ということになります。実際にそうですよね。オウムやパナウェーブの例を出すまでもなく、妙な新興宗教に惹かれる人、確実に増えています。

 しかし、こうなると「右傾化」を憂う人は、「戦争論」やら「ゴーマズム宣言」のようにビジュアルでわかりやすい言葉に対して、同じようにわかりいやすい言葉で対抗する必要があります。「旧態依然としたサヨク」なんてのは、絶対に「戦争論」やら「ゴーマズム宣言」に勝てるわけがない…と思うなぁ。だって、「知識人」の語る言葉は難しい。難しい言葉でしか語れない人が多過ぎます。

 あー、こんなこと書いてるからって、私自身は、全く「右傾化を憂いている」わけではありません。基本的にどうでもいいと思ってます。
 そういえば、前述のサイトにこんな一文がありました。
「…石原都知事の発言を批判して悦に入ったり小林よしのりを読んでる奴を『信者』と批判してスノッブ気取りの人達は、そのカッコ悪さが、無批判に受け入れている人々のそれと同等である事を、そろそろ自覚した方がいいと思う…」
 ええ、私も筑紫哲哉も久米宏も嫌いです…いや嫌いというのではなく、何の興味もない存在です。でも、小林よしのりや石原慎太郎となると、さすがに「どうでもよくはない」存在です。私は不快ですよ。ああいう人たちの言葉。でも、小林よしのりの戦争論を賛美する人を「信者」と批判すると、それは「スノッブを気取る」…ことになると言われてもねぇ。
 「スノッブ」なる言葉を辞書で引くと、「教養のある人間のように振る舞おうとする俗物」などと書いてあります。私は、確かにスノッブですが、別に「気取っている」わけじゃありません。おそらく根っからのスノッブなんです。このサイトに駄文を書いててよく判りました。

 しかしもともとは、「このサイト内の人格」として私自身がささやかに目指していたのは全く逆さまの「逆スノッブ」だったんです。つまり、「俗物のように振舞う教養人」だったわけです。その方が、カッコイイじゃないですか…。しかし、毎日のように駄文を書いていると、「教養の無さ」というのは言葉・文章の端々で露呈されるもの。結果的には、自分の書いている駄文は、スノッブにも逆スノッブにもどちらにも見えず、単なる「一見俗物に見えるが、実はやっぱり俗物」にしか過ぎないことがわかってきました(笑)

 …そんなわけで、今後私は、当サイトのブログ化を進める上で「俗物による俗な発言」を強化しますぞ。それはつまり、愚にもつかない方向に行くってことです。
 今日の文章も、絶対にもう一度読み直す気はしないですねぇ。何が書きたかったのか、自分でもよくわかない展開ですから…

 明日あたりから、数日間のお休みを取る予定です。今週中には復帰しますが、しばしサイトの更新は中断します。

2003/8/16

 お盆で帰省中の方も多いでしょう。ただでさえ地味なこのサイト、ましてやこんな支離滅裂な日記を読んでいる方もこの時期はいっそう少ないはずですね。私は今日もオフィスで仕事中ですが、街は静かでマッタリした雰囲気です。私もマッタリした気分で、どうでもいい話題を…

 あらためてする話でもないのですが、100円ショップってすっかり生活の中に定着しました。いまや日用品や文具だけではなく、鍋やフライパン、ネクタイや下着やTシャツ、各種工具、CDや本など、生活の中で必要とするあらゆるものが購入できます。個人的にも、100円ショップ無くしては生活できません。私が大量購入して愛用する3段折り畳み傘はCanDoで購入したものだし、中国語学習用CDと語学テキストはダイソーで購入したものです。パソコンの組み立てに使う工具…、例えばマグネット付き大型ドライバーやラジオペンチ、ニッパー、ヘキサゴンレンチなども、全て100円ショップで購入しています。海外旅行にもっていく折り畳みスリッパも、100円ショップで買っては使い捨てています。デジカメケースも100円ショップです。オフィスの近くの100円ショップでは、500mlのお茶のペットボトルを2本で100円で売っていたりするので、よくまとめ買いします。
 数年前までは「やっぱり100円」という商品が中心だったと思うのですが、最近では「えっ、これが本当に100円?」という商品が増えたのは確かです。
 100円ショップに類似するワンプライスショップは、世界中にあります。私が知っている範囲でも、アメリカの大都市部にはどこでも99セントショップがあるし、パリでは1ユーロショップを見ました。北京には10元均一ショップがありました。聞いた話ですが、イギリスには1ポンドショップ、香港には10香港ドルショップがあるそうですし、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、ブラジル、ロシアなんかにもワンプライスショップがあるそうです。
 で、この100円ショップに代表される「ワンプライスショップ」…と言う業態の起源は、どこにあるのでしょうか。流通業、小売業関係に詳しい友人に聞いてみたのですが誰も知りません。ネットで調べてもわかりません。
 ダイソーの中国進出が、「100円ショップという日本独自の業態を海外輸出」と話題になっていたことがありますが、少なくとも日本が起源ではありません。私が知っているのは、まだ日本に100円ショップが無かった1970年代に、ニューヨークのマンハッタン地区のあちこちに「88セントショップ」があったことです。たしか、タイムズスクエアにもあったはず。この88セントショップは、どこも10坪程度の小さなお店で、日本の初期の100円ショップと同様、ささやかな日用品や文房具を売っていました。1ドル300円の時代ですから、88セントでも高かったのですが、私は荷造りヒモやガムテープ、ボールペンなどをよく買った記憶があります。
 この88セントショップは、既に1960年代にアメリカ各地の大都市部にあった…という話を知人から聞きました。どうも、この1960年代アメリカの88セントショップこそが、100円ショップを始めとする世界のワンプライスショップの起源ではないかと思っているのですが、誰か詳しいことを教えて下さい。

 そういえば、今日は私の誕生日です…

2003/8/15

 私は、女性が大好きですが、ただ好きなだけではなく、けっこう惚れっぽかったりします。だって、表面的に付き合う…というのは、全く面白くありません。お互いに好きになる…関係になると、いろいろな予測不可能な出来事が生じます。むろんトラブルも増えます。私は、こと女性との関係の中では、「トラブルが大好き」なのです。何か、事態が面倒になった方が、かえってわくわくします。あまり具体的には書けませんが、私の人生には修羅場も多いです。でも、修羅場の渦中にいると、生きているって実感がわきます。このあたりの感覚は、少しヘンかもしれないと自分でも思っています。
 また、私には「好きなタイプ」というのがまったくありません。人生で、20代以降これまでにお付き合いした女性を思い返してみても(?)、見事なほどタイプが違います。身長だって140センチ台から170センチまでいるし、メチャクチャなインテリから、芸術系、音楽系、特筆することのない平凡な女性までいます。年齢もその時その時で、年上から10才以上も年下まで、バラバラです。
 自分は「許容範囲が広い」から、こうした様々なタイプの女性と付き合ったり友人になったりしているわけではありません。これは許容範囲の問題ではなく、好奇心の問題です。
 私は女性に限らず、身近なところで「多様な人間」に囲まれているのが好きです。社会的なポジションの多様さ、感性の多様さ、知性の多様さ…などもそうですが、外観や容姿、ファッションの好みなども多様であればあるほどいいと思っています。しかも、自分にはないもの…を持っている人は、それがだんせいであろうと女性であろうと、とりあえず近づきます。そして、女性であれば、とりあえず「好きになる」ことにしています。
 こうして、男女を問わず、仕事関係、私生活関係を問わず、多様な巡り合いを求めてきた私は、現在の年齢になって「残り時間が少ない」ことに、多少焦りを覚え始めました。
 残り時間が少ないだけではありません。ここのところ、体調が著しく悪い。こんな状況はかつて経験したことがありません。これは、マジメな話、意外と早死にしそうな予感がします。いよいよ、持ち時間が少なくなってきたことを実感しています。
 そんなわけで、人生の持ち時間が少なくなった私は、Webサイトを使った自己主張を、より強くしようと考え始めました。これまでは、本音を絶対に書かないようにしていましたが、もうどうでもいい、徹底的に言いたいこと、思っていることを書いてやろうかと考えています。気に入らないヤツらには、片っ端からケンカを売ります。トラブルも起こします。
 そんわけで、近々このサイトを全面的にリニューアルする予定です。デザインの変更…ではなく、サイトのコンセプト自体を大幅に変更するつもり。リニューアルのキーワードは「ブログ」です。要するに、「デジカメサイト」色を薄め、「徹底した自己主張」色を強める…ことになりそうです。
 ああ、今日はいったい何を書いてるんだろう…

 今日は、早朝からニューヨークを含むアメリカ東部とカナダの大停電のニュースが飛び込み、CNNの画面に釘付けでした。ブルックリンブリッジを徒歩で渡って帰宅する人の波、フラッシング方面に行く7番の地下鉄の高架部分で停止した列車から救助される人々…など、見入ってしまいました。

2003/8/14

 今日の東京は、気温20度です。暑いはずの夏は、いったいどこに行ったのでしょうか。
 さて今日は、私の注目サイトをいくつか…

■「地下水道
 昨今は「サブカルチャー」という言葉の意味するところが、かなり変化してきている気がします。コミック・アニメ、アイドル、フィギュア、さらにはインディーズ音楽など、いわゆる「オタク文化」の数々は、私が理解するサブカルチャーとは少し意味合いを異にします。かつてのサブカルチャーは、単に「傍流」というだけではなく、「カウンターカルチャー」という性格が強かったはず。既存文化、既存社会に対抗する文化である以上、既存社会の枠組みの外に出た形での「自立」が絶対条件でした。むろん、こうした自立の背景には、サブカルチャーを担う人間の「個の自立」が前提条件となったはずです。昨今のオタクカルチャーには、精神的にも経済的にも「自立した個人」を感じることができません。
 とは言え、「傍流文化系リンク集」と称するこのサイトには、70年代のサブカルチャーから現在のオタク文化まで、様々な「ムーブメント」への入り口があります。丹念にリンクを辿っていると、飽きません。

■「MOJO WEST
 このサイトでは、この日本に短い間存在した「本物かもしれないサブカルチャー」の伝説を伝えてくれます。私は、日本は「ロックミュージシャンがほとんど存在しない国」…と思ってますが、ごくわずかにサブカルとしてロックが生まれかけた時代があります。
 1970年代の初め頃、京大西部講堂で「MOJO WEST」というコンサートが開かれていました。当初はフォークともロックともつかない様々なジャンルのミュージシャンが出演していましたが、徐々にロックコンサート・スタイルが定着していきました。隔週土曜日に開催された「MOJO WEST」会場には、世界的な異議申し立て運動に揺れる「時代の精神」がありました。第1回から出演した伝説のロックバンド「村八分」についても、語られています。サイト内の、「MOJOの歴史年表」や「MOJO WEST 資料館」は、当時の様子を記録した貴重な資料です。

■「医学部都市伝説
 ここは、都市伝説関連ではかなり有名なサイトです。このサイトの筆者の言うように、医学の世界というのは、特に都市伝説が多いところです。「死体洗いのバイト」の話とか、「耳から出ている糸を引っ張ったら失明した」なんて話とか…、必ずどこかで聞いたことがあるはず。ネタもさることながら、そのネタを料理する筆者の切り口も非常に素晴らしい。全く偶然ですが、私がこの日記で取り上げたネタと一度ダブったこともありますので、もしかすると筆者は、興味の対象など、私と似たところのある方かもしれません(先方は迷惑でしょう)。いずれにしても、読んで飽きないサイトです。

2003/8/12

 ここ数ヶ月、味付け玉子…美味しい「味玉」の作り方を研究してきましたが、どうやらほぼ満足できるレシピを確立したので、書いておきます。
 まずは半熟玉子を作りますが、半熟加減と茹で時間の関係…はなかなか難しい。私の場合、沸騰したお湯で、冷蔵庫から出したばかりの玉子なら7分間、常温の玉子ならば6分強ぐらい茹でます。これはスーパーで売っている「Mサイズ」の玉子を一度に5〜6個茹でる時間の目安です。茹で上がった半熟玉子は、冷やしてカラを剥いておいて下さい。
 漬けダレの方ですが、私は、水、しょうゆ、みりん(酒+砂糖でも可)、だしの素(そばつゆでも可)…で濃いヤツを作ります。和風だしベースですね。あとは好みで、刻んだネギやニンニクその他の香辛料などを入れてもよいでしょう。いろいろと試してみてください。
 ひと煮立ちさせた後、漬けダレを熱い状態のままでボウルか広口ビンに入れ、そこにカラを剥いた半熟玉子を沈めて、玉子全体が完全に浸かる状態にします。漬けダレが熱い状態で玉子を入れると、しっかりと味が染みます。
 漬けダレが冷めたら、そのまま冷蔵庫に入れます。6〜8時間ほど漬け込めば、半熟の黄身にタレが染みこんだ美味しい味玉の完成です。ビールのツマミ、ご飯のおかず、ラーメンのトッピング…など何にでもOKです。食べ過ぎに注意しましょう。

2003/8/11

 かつては夏の風物詩であった「スイカ割り」、これが「目の不自由な人に対する差別」とみなされるようになって、かなり経ちます。今や、TVニュースやドラマではまず絶対に「スイカ割り」のシーンにはお目にかかれません。しかしこの論理でいくと、後ろで羽織に入って手の役をやる人が前が見えないことによって面白い動作をすることを笑う「二人羽織」も、視覚障害者に対する差別です。箱の中にはいっているモノを手触りで当てる遊びも、むろん視覚障害者に対するひどい差別です。さらに、わざわざ歩行困難な状態で競争する「二人三脚」は、足の不自由な人に対する差別ということになります。子供の遊びの中には、片足で飛び跳ねる「ケンケン」を取り入れたものが多数ありますが、これらは方足のない障害者に対する差別ですよね。
 …まったく、スイカ割りを差別だなんてバカなことを、誰が言い出したのでしょうか?

 東京は台風一過の晴天で、暑い日になりました。
 ところで、TVニュースの台風情報と言えば、暴風の中を女性アナウンサーが合羽を着て高波の防波堤に立ち、風に飛ばされそうになりながら中継する…というスタイルが、すっかり定着しました。しかし、これを見ている視聴者の多くは、女性アナウンサーがTVカメラの前で波にさらわれるシーンとか、カメラの前で強風で倒れてきた大木の下敷きになるシーン…を心のどこかで期待していると思います。また、あんな危険な場所で中継させるTV局の方も、どこかでハプニングを期待している…のではないかと思います。
 私は、…どうせだったらヤラセでもいいいから女性アナウンサーが「キャー、助けて〜」と悲鳴を上げながら波にさらわれるシーンをやってみんかい!…と書こうと思ったのですが、実際に台風の犠牲になった方々に対して不謹慎この上ない発言なので、この話はなかったことにして下さい。今回の台風で犠牲になられた方の冥福をお祈りするとともに、多数の行方不明の方々のご無事を願っています。

 スポーツニュースは夏の甲子園一色です。それにしても、甲子園球児の「眉毛剃り率」の高さには驚かされます。丸坊主に、細く薄く剃った眉毛…、あまりに不気味でバカっぽく見えるので、国営放送で帽子を取った「眉毛剃り顔のアップ」を放送するのは禁止して欲しいなぁ。丸坊主にするのなら、ひげを生やすなど、バランスを重視した外観を心掛けて欲しいものです。

 そういえば、Jリーグの平塚(現湘南)→清水→C大阪と渡り歩いて引退した田坂選手は、スキンヘッドで眉毛がありません。ご存知の方も多いでしょうが、広島出身の彼に毛が無いのは原爆症が原因です。おい、遊びで眉毛剃ってるヤツら、眉毛のない人に対する差別だぞ!

2003/8/9

 読売新聞が運営している「大手小町」という、昨今流行の女性サイトがあります。中に「発言小町」という投稿コーナーがあって、そこに、若いお母さんからこんなタイトルの質問がありました。
 「魚の皮ってたべられますか?」
 質問内容は次のようなものです。
 「エビのしっぽは、たべても害がないと聞きました。でも魚の皮はどうなんでしょう? うちの3歳の子が、焼いた鮭の皮が大好きなんです。害がなければいいのですが…」

 あまりに信じられない質問内容に、一瞬絶句しました。最近の若いお母さんにとっては「魚の皮」は食べる物ではないのでしょうか?
 だって、魚というのは皮の部分も含んで「魚」であって、焼き魚や煮魚を出されて「皮の部分だけ食べない」なんて食べ方は、常識的に損存在しません。
 さらに、魚の皮ってそれだけで食べても美味しいですよね。鮮度のいいフグやマダイ、そしてアイナメなんか、お刺身を作った後、皮の部分だけを湯引きして細かく切り、酢の物にすると美味しい…ってのは常識じゃないですか?

 いや、最近の主婦は「骨付きの魚を調理しなくなった」という話は聞いたことがあります。何でも、主婦がうまく魚を下ろせないし、食べる際にも骨と身を分けるのが面倒…というのが理由で、それであらかじめ骨を取った魚を売っているという話です。  まあ、確かに骨は一般的には食べるものではありません。鰯の丸干しとか鯵の南蛮漬けとか、骨ごと食べると美味しい魚や調理形態もありますが、一般的な焼き魚や煮魚、そしてムニエルなんかも含めて、骨は食べないのが普通です。だから、この骨の話は納得できる部分もあります。
 しかし、皮は違います。皮は魚の一部であり、一緒に食べるのは常識です。

 しかし、ちょっと調べてみると、驚くべき実態がわかってきました。レストランや日本料理店などの経営者の話によると、若い女性を中心に「魚の皮だけを残す」人が非常に多いとのことです。普通の焼き魚や煮魚を食べる時、皮だけを残す人はごく普通なんだそうです。
 そりゃ、親が食べないんだから、これからの子供は「魚の皮を食べない」のがあたりまえになるかもしれません。

 長野市の給食センターの栄養士さんの話だと、子どもたちが避けるのは「めんどくさいもの」「固いもの」「汚れるもの」だそうです。「めんどくさいもの」の代表が魚のフライとのこと。魚の皮を食べない子どもが多く、フライにするとと皮がとりにくいんだそうです。それで、学校側からは「フライは給食メニュー出さないで欲しい」と注文がくるとか。
 ちなみに、丸干しイワシを出すと、骨が残飯となって戻ってくるそうです。

 こういった現象をもってして「日本の食文化の崩壊」なんて大げさな話にはしたくないのですが、…それでもなんとなく妙な世の中になってきたと思ってます。
 私は、「ブリの照り焼き」の皮の部分が大好きです。

 今日の画像は、セブンイレブンの「世界名作劇場 絵皿プレゼント」の絵皿で、「フランダースの犬」の2枚です。むろん、私がもらったわけじゃなく、オフィスの女性スタッフがもらってきたもの。
 でも、ネロとパトラッシュの話は、悲しいばかりで何の教訓も無く、不思議な話ですね。世界で人気があるのが、日本と韓国だけ…というのは何となく頷けます。
 アントワープのノートルダム大聖堂で、ネロとパトラッシュが死ぬ前に見上げたルーベンスの名作「聖母被昇天」を実際に見てきましたが、まあ「こんなものか」という感想でした。

2003/8/8

 NECは8月7日、「PC-9800」シリーズの受注を9月20日で終了すると発表しました。私は9800シリーズが嫌いで、1990年代前半にはMacintosh、そしてその後PCコンパチ機(DOS/V)によるWindows環境へと移行しましたが、それでも1982年に発売された初代のPC-9800から10年以上使い続けた経緯があるだけに、感慨深いものがあります。1970年代から遊びで使っていたパソコンをビジネスに使うことを模索し始めたのは1980年代前半ですが、本格的にビジネス現場に複数台のパソコンを導入したのは、1985年に発売された「PC-9801VM2」からです。それまで使っていたCANONのワープロ専用機(キャノワード40)を捨てて、パソコンのワープロソフトへと移行しました。当時はワープロソフトとして初の連文節変換を実現した「松」(確か148,000円でした)を使い、パソコン通信には300bpsのテレフォンカプラや300bpsのモデムを使っていました。エプソンの24ドットのプリンターが40万円近くしたし(しかも別途6万円出してJIS第二水準漢字のROMを購入)、初めて導入した20MB(ギガではなく、メガバイトです!)の外付けHDDドライブは35万円ほどしました。5インチの2HDのフロッピーが、1枚1000円以上だった時代です。その後Macintoshの本格的導入に踏み切った時には、CXを中心に等倍のCD-ROMドライブやら増設メモリ(32MBで50万円前後)で200万円以上。さらにQuarkXPress、Photoshop、Illustratorなどソフトが50万円以上、初めて購入したレーザープリンタであるMacintosh用のレーザーライターは、解像度が240dpiで、フォント込みで130万円もしました。

 時は過ぎて、ビジネスでフルに使える機能レベルのWindows機は5万円以下で購入できるようになり、高性能のレーザプリンタが2万円台で購入できます。パソコンや周辺機器の購入は、いまや「設備投資」ではなくなりました。

 私は、1970年代に初めてパーソナルコンピュータに触れて以降、ちょうどパーソナルコンピュータの発展に合わせて、人生そしてビジネス生活を送ってきました。ビジネスでも私生活でも、コンピュータのない生活など考えられないほど、パソコンとは深く関わっています。別に技術者ではありませんが、コンピュータにはいろいろな夢を描いてきました。ワープロ、CAD、画像処理、パターン認識、インターネットなど、コンピュータの能力の向上とともにアプリケーションは拡大し続け、今後のコンピュータが社会でどのような役割を果たしていくのか、想像がつかないほどの進歩を続けています。

 ところで、米SCOグループ社がLinuxの知的所有権を主張し、Linux利用者からライセンス料を徴収する計画を発表して、世界中で大きな問題となっています。オープンソースを推進するグループに属する人々の憤りは激しいものですが、彼らの怒りは私にも理解できます。私自身、現時点で「コンピュータの将来に夢を描く」…中で、非常に大きな部分を「オープンソースの発展」が占めているからです。
 ATTのベル研に始まったUNIX開発の歴史、その後のUNIXコードの分散のプロセスを辿れば、いろいろと複雑な経緯があることは承知しています。しかし、弱者という言葉は嫌いですが、やはりLinuxは「持たざるもののためのOS」です。発展途上国など、Windowsに莫大なロイヤリティを支払えない国、そして安くなったとは言え所得水準と較べるとまだまだパソコンが高価…という発展途上国の学生などは、Linuxお呼び各種オープンソース・アプリケーションソフトに大きな期待をかけていることは言うまでもありません。多少大げさに言えば、コンピュータソフトを「商品」としないことで、人類が得られるモノは非常に大きいはずです。

 エイズの治療薬でも、安い薬品を途上国が調達できる方法を模索する動きの中で、欧米企業の知的所有権の主張が大きな壁となっています。莫大な利益を挙げ、莫大や役員報酬を支払う欧米の大手製薬会社が、「知的所有権侵害によって新薬の開発に齟齬をきたす」と主張しても、エイズ治療薬を投与できないために死に瀕している数千万人の貧しい人々を前にして、何の説得力もありません。また欧米の政府も、例え人道的な近況措置であっても、エイズ治療薬の知的所有権の部分的放棄には消極的な姿勢を崩していません。
 今アメリカは、リベリアに派兵し、数十万人の難民のために国際的な枠組み組んで莫大な援助をしようとしています。自国の影響下にある国や、自国の国益に関わる問題にだけは「人道援助」を大義名分として掲げる一方、たかだか製薬会社の利益を守るために数千万人の人間を見殺しにするのは、納得できるスタンスではありません。
 Linuxの知的所有権問題は、まさにこのエイズ治療薬の問題と同根です。今しばらく、成り行きに注目したいと思っています。

 今日の画像は、街で見掛けたSUZUKI「GT-380」です(F402で撮影)。
 1974年に発売されたこのバイクは、2サイクル水冷3気筒という、今となってはまずお目にかかれないエンジンレイアウトのバイクですが、「サンパチ」の愛称で、その後長い間多くのライダーに愛され続けました。実はこのバイクは、私が自動二輪免許を取得する時の教習車でした。この時代のバイクを大事に乗っている人を見ると、何となくうれしいですね。
 SUZUKIのGTシリーズは、まさに「日本の2スト車の歴史」そのものです。GT250、GT380、GT550、GT750など名車は多いのですが、中でもT250に始まるGT250シリーズは、RG250、そしてRG250Γへと発展した名車中の名車です。このSUZUKIのGT250シリーズには、たくさんの思い出があります。

2003/8/6

 鰻が大好きな私ですが、1人前の「うな重」を食べるのはちょっと胃に重い…と思う時があります。そこでお勧めしたいのが「鰻の佃煮」です。今なら築地の佃煮の老舗「佃茂」の「うなぎ佃煮」です。小振りの鰻を開いたもので、季節限定商品の上、出荷数も限定なんですが、今なら通販で申し込みOKです。そのまま炊き立てご飯に載せて食べても美味しいし、お茶漬けにしてもいい。値段は確か1100円で、安いのもいいですね。
 京都「かね庄」の「お茶漬け鰻」もすごく美味しい。通販で取り寄せができます。こちらは通年食べることができますが、お値段の方は100gで2400円と高いのが難です。

2003/8/5

 電車の座席に座っている人で、一番端の席が空くと、すぐにそこに移動する人がいます。特に一番端の席の隣の席に座っている人は、隣の端の席が空くと、サッと移動します。で、自分がたまたまその一番端の席の前に立っている場合、目の前の席が空いたので座ろうとすると、既に座っているヤツが横からスライド移動してきて座ってしまい、自分が座れなくなることがあります。仕方なく、移動して空いた方の斜め前の席に座ろうと思うと、そこにはその前に立っていた人がサッと座っちゃいます。で、空いた席の前に立っていたはずの自分は、どこにも座れなくなるなるのです。何か、腹が立つ…というよりも、虚しさが込み上げてくる一瞬です。
 また、スライドしてきたヤツの前には、たまたま誰も立っていなくて、そいつがスライドすることによって空いた方の席に、座れることがあります。でも、そのスライドしてきたヤツがさっきまで座っていた席が、何だか生暖かくて、それがまた腹が立つことがあります。
 都会の電車の中では、日夜、心の葛藤を伴う物語が繰り広げられているのです。

 …この話、意味の通る日本語になってますか?

2003/8/4

 相変わらず環境問題に関する様々な主張を聞くたびに、いったい何がウソで何がホントか?…というのがわからなくなっています。
 以前私はこの日記で、「ハイブリッド車」や「電気自動車」は、高効率のガソリン内燃機関をそのまま利用するよりもエネルギー効率が低いので環境に優しくない…という話を書きましたが、その確信は今でも変わっていません。
 「太陽電池が環境に優しい」ということにも疑問を呈しましたが、確かに発電効率が上がったとしても、シリコンを溶融するなど製造時に消費したエネルギーや、さらには製造時に出る有害物質とその処理…などについて細かく説明した資料はなかなか見当たりません。ましてや将来大量に太陽電池が使用されると、同時に寿命の尽きた太陽電池を大量に処分する時代が来ます。その処理法や費用、処理過程で出る有害物…に関する適切な説明資料は存在しません。私は、そのあたりをあきらかにしない「太陽電池は環境に優しい」なんて話は全く信用していません。
 話題の燃料電池も同じです。太陽電池などに較べればはるかに効率がよくクリーンなのは確かですが、これまた製造時や廃棄時に消費するエネルギーや、製造時、廃棄時に出る有害物質とその処理…に関する詳細な資料はなかなか見つかりません。いまのところ、燃料電池車が本当に環境によいのかどうか…まだ個人的な疑問が残っています。
 何といっても、長い歴史を持つガソリン内燃機関というのは、それほどにエネルギー効率がいいし、環境問題ではまだやれることがたくさん残っています。
 リサイクル…に関しては、詳細な検討がされないまま「家電リサイクル法」が成立しました。自治体のゴミの分別収集は、ますます分別が細かくなっています。リサイクルの場合、「コストが掛かってもゴミを減らすべき」という観点でみれば、リサイクルコストを無視する意見は理解できます。しかし、「リサイクル時に必要なエネルギー」や「リサイクル時に出る廃棄物」などの環境問題は、けっして明確になっていません。ゴミを減らすことは絶対に必要でしょうが、何でもリサイクルすることでそれ以上に環境によくないことが起こる…可能性を、私は捨て切れません。

 クドクドとこんな話を書いたのは、最近私は、社会全般に渡る「多面的にモノを考える力の衰退」を不安に思うからです。かつてのオウムやパナウェーブ研究所のように「まともにに考えればとても理論などとは言えない」ことを信じ込む人間が増えています。さらに、宗教のようなものだけでなく、本来は人間の自律的思考がベースになるはずの「市民運動」や「環境運動」、そして「平和運動」や「善意運動」などの世界でも、「単純な論理」「単純な思い込み」を振りかざす人間や団体が増えてきています。さらに、あちこちで語られる「政治的信条」なんてものの多くが、誰かの口上に乗せられただけの非常に単純な思い込みによるものが多く、細かい背景について突っ込んだ質問をすると、まともな答えが返ってきません。多くの政治家や評論家の知的レベルから見れば、当然かもしれませんが…
 こうした「多面的にモノを考える力の衰退」現象は、特に若い世代に顕著です。それを助長しているのは、教育現場とマスコミでしょう。教育現場では、教育する側(教師)にこうした力がなくなっているように感じます。マスコミに至っては、何か国際的な事件などが起こると、ワイドショーなどで実に低レベルの背景説明しかしないのが当たり前になってきています。
 ある「意見」や「主張」があれば、それに関していろいろと調べて「きちんとウラを取る」という作業は、確かに面倒です。しかし最近では、多くの人間がそうした「ウラ取り」をせずに何かを信じ込むことによる、奇怪な社会事件が増えています。しかも、その多くが「人間の善意」によって起こるから、事はややこしくなります。
 例えば、単純な思考プロセスによる善意運動の例として、「携帯チェーンメールによる献血」が有名です。既にご存知と思いますが、インターネット上でAB型RH(-)型の献血を求めるメールが飛び交っており、いわゆるチェーンメール(無限に流れ続けるメール)になりつつあります。内容は、日本医科大学多摩永山病院で妊娠中の女性が帝王切開をしなければならなくなり、7月上旬に手術をするとのこと。問題はその人の血液がAB型のRH(-)であるため、十分な輸血用血液の確保が難しく、同じ血液型を持つ人に採血を求めたいといったもの。最後に、多くの人に連絡してほしいと明記してあります。
 問題は、この話自体は事実であった点です。しかし、献血の募集期間が明確ではないこともあって、単に混乱を招くに留まりました。さらに大きな問題となったのは、「血液が足りない。子供を助けて…」など、多数の類似の話(今度は作り話)が携帯チェーンメールとして、日本中を駆け巡ったことです。日赤本社などには、問い合わせが殺到しました。
こんな話は、私の感覚では、信じる方がどうかしています。

 こうした話の延長で、最近興味を引いたニュースがありました。
 「広島市中区の平和記念公園内にある『原爆の子の像』の周囲に設置されたガラスケース内の折り鶴が放火される事件があり、広島県警は同日、関西学院大学4年生を器物損壊容疑で逮捕した。」というニュースがあり、そしてその後「文学部の男子学生が器物損壊容疑で逮捕された関西学院大で、学生らが鶴を折って広島に届ける運動を始めた。大学側も急きょ受付窓口を設け、6日に学生代表が広島に届けることにした。」という続報がありました。
 折鶴に放火する…という学生の行為は非常に心無いものですが、それに対して「関学の学生がお詫びの鶴を折って届ける」という話は、あまりにも単純な行動で、何となく釈然としないものを感じていました。何でもメールで「鶴を折ろう」という話が全学に伝わったそうです。それは要するに「単純な思考プロセスによる善意運動」ではないか…と考えたのです。では実際に学生は何を考えているのだろうと思って、こちらの掲示板を見てみました。すると…
 「周りの学生に強制して鶴折らせたり、ただ鶴を折るだけで問題の本質をうやむやにしてしまうような事はやるべきでない」とか、「鶴は平和を願って折るモノであって、一人の愚行を償うため、埋め合わすために折るモノではない」とか、問題の本質を考える学生の意見がたくさん掲載されていました。こうした意見に対して、「どんな理由で作られたにせよ、届けられた多くの折鶴をみたら、平和を祈ってくれる人がこんなにいるんだーと見る人は思うんじゃないかな。こんな時は素直に考えた方がいい」…という声もありました。
 私は、こうした学生の多様な思考プロセスを読んで、少し安心した部分があります。
 この「折鶴に放火した学生」と「お詫びに他の学生が鶴を折る」という事の流れは、けっして単純化してよい話ではありません。様々な問題を考えるべき話なのです。

 私は「平和を願って鶴を折る」という行為には意味を見出せないし、基本的に嫌いです。しかし、鶴を折る人の気持ちが嫌い…というわけではありません。また、広島にはまだたくさんの原爆の被害者が生存しており、その人たちの気持ちは最も重要です。そして何より「運動としての行為の有効性」が考えられるべきです。「平和を祈る折鶴」には、こうした、「人間の気持ちと行動」に関わるあらゆる「運動論」の問題が内包されています。
 さらに、「核兵器廃絶」という運動の持つ問題も考えなくてはなりません。私はその重要性は理解しますが、反面、その後の世界では原爆の犠牲者よりもはるかに多くの人間が通常兵器や小火器で死んでいます。こうしたアフリカなどでは、現時点でも数百万人規模の犠牲者が生まれている戦争が進行しており、それは核兵器ではなく通常兵器による犠牲者です。核兵器廃絶問題を考えることは、現在進行中の世界状況を考えるために、大きなきっかけにもなります。
 大学生であれば、「平和を願って鶴を折る」ということから、様々に派生する問題を調べて考えて欲しいと思います。

 論旨の全く定まらない、ダラダラとした長い話になりました。要するに、学んだり調べたり考えたりすることはとても大事だと思う…という、オサーンの愚痴でした。

2003/8/1

 「少し本音」を書きます(笑)
 当サイトの管理者宛メールアドレスには、以前も書いたように「デジカメに関する質問」がかなり来ます。また「デジカメがどうあるべきか」…という、何かどうでもいいいような話で、やたらと長いメールを送ってくる人もいます。これも前に書きましたが、私はサイト内容に関するメールでの質問や意見交換を出来る限り避けたいという方針ですが(質問や意見などがあれば掲示板に何でも書いて下さい)、一度だけならたいていは丁寧に返事を書いています。まあメールが来ると言っても、最近は月に数通ぐらいのものでした。
 ところが、一昨夜から昨夜にかけて、珍しく同じ内容で数人(5〜6人)からメールが来ました。基本的には、私(サイト管理者)がサイト内に書いた「デジカメに対する意見らしきもの」に対する批判です。うち1通はかなり長いメールで、私のデジカメに対する意見を強く非難するものでした。しかも、その同じ人からは昨夜一晩で似たような主旨のメールが、しつこく20通以上も送られてきました。匿名&捨てアドレスで…。
 こんなことは、このサイトを開設して初めてです。あ、いや「差別問題」に触れたときには、ウヨク的な脅迫メールがけっこう来ましたね。まあWebサイトなどを開設していればいろんな反応があることは承知の上ですし、腹を立てるようなことではないことも十分承知しています。また、書いたこと何の反応もないよりは、批判・罵倒メールの2〜3通も来た方が面白い。この手のメールを受け取るのがイヤならば、別にサイトなんかを開設しなければいい…わけですよね。はい、…よくわかってます。
 しかし、あまりにも的外れな内容でネチネチと意味不明の批判をされるのもムッときます。そう、内容があまりにも的外れなんです。掲示板なら何を書かれてもいい。気に入らない書き込みは容赦なく削除するし、荒れたら掲示板そのものを無くしたって構わない。一晩で20通以上のメールですよ、面倒だなぁ…

 しつこいメールの内容というのは、要するにこちらの文に対する批判なんですが…。もう、笑っちゃいます。
 「極小画素CCDを擁護するこのサイトはクソサイト」とか「あなたのような人がいるから、デジカメメーカーが増長する」とか「あなたのような考えでは、デジカメの将来のためにならない」、「ユーザーを舐めている」…っていうような批判です。こちらの文章の何をどう読んだら「デジカメメーカーが増長する」というのでしょうか。どこが「ユーザーを舐めている」のでしょうか。また極小画素CCDについては、別に擁護も批判もしていません。そんなこと書いた覚えはありません。私は「デジカメ界の将来」なんて、はっきり言ってどうでもいいです。また、他のユーザーなんてどうでもいい。ついでに、誤字・脱字だらけなのも、論理展開が矛盾だらけなのも、承知してます。いいじゃないですか、商業メディアじゃないんだから。まあ、某評論家の尻馬に乗って、「極小画素CCDのノイズを不愉快に思わないヤツにデジカメを語る資格はない」なんて語るゴーマンな人が嫌いなのは事実です。でも、全体の主旨としては「対抗言論ごっこ」をやって遊んでるだけなのに…
 こんな文章にメールを10通以上も送ってくるあなたは、「デジカメ工業会」か何かに属している方ですか? それともデジカメの将来が人生の一大事なんですか(笑)

 むろん最初は、「冗談」か「遊び」だと思いました。これが、批判メールを1〜2回送ってくる程度なら、こんなことを書くほどヤボじゃありません。掲示板で批判してもらうのもけっこう。でも、遊びにしては一晩で20通以上のメールを送り付けてくるなんてシツコイ。それに、不愉快になるような幼稚で汚い言葉だらけ。はっきり言います。「アンタ、バカじゃねえの?」

 ホントにわかってないなぁ…。「遊び」がわからないのかなぁ…。別にわかってもらわなくてもいいですけど…
 確かにいろいろな目的サイトを開設する人がいるでしょう。中には「自己主張」のためにサイトを開設する人も多いかもしれません。しかし、私はこの「WS30の世界」というサイトを、完全に「遊び」だと考えています。このサイト内で「本音」はほとんど書きません。また何も主張しません。本当の私が「実際に何を考えているのか」を、このWebサイトで公開する意思が全くないからです。
 今回批判された文章だって、適当に書いたもの。少なくとも半分はジョークだし、残り半分に本音が含まれているかどうかだって怪しいものです(笑) それに、どこをどう読んでも、特定個人に対する誹謗中傷は含まれていないはず。

 ところで、「WS30の世界」というWebサイト全体を、パラパラと読んで頂けばわかるはずです。どこにも「一貫した主張」「確固たるコンセプト」なんてないことが…。むろん、「一貫した主張のないサイト」を開設していることには「自分なりの理由」があります。
 私はこのサイトを、全くの趣味で開設しました。「Webサイトでどこまで遊べるか」、「どんなコミュニケーションが派生するか」…といった部分を試してみたい…と思っているだけです。
 だからサイト内の雑文は、「言葉で遊んでいる」だけです。別に広告取って収入得ているわけじゃないし、明日サイトを閉じたって一向に構わない。で、このサイトを閉じた直後に、「デジタル一眼レフの世界」というサイトを開設したって構わない…と本気で思っているわけです。
 だから、このサイトに書いてあることは、全部が「虚構」かもしれないんです。私は、実はライターではないかもしれない。40代と書いていますが、30代かもしれないし60代かもしれない。デジカメだって、本当は大嫌いかもしれない。音楽はロックじゃなくて本当は演歌がすきかもしれない。実は私は「女性」かもしれない…。仮想世界であるWebサイトなんて、そんなものです。

 ここは、一応「デジカメ」がメインテーマ(?)ですが、サイト内の全テキスト量の中でデジカメ関係のコンテンツが占める割合は、半分以下のはず。基本的には、ノンジャンルの駄文の集積です。まあ、デジカメで撮影することが好きなのと、このサイトの開設時にデジカメ話からスタートしたため、なんとなく「一見デジカメサイト」にしているに過ぎません。
 しかし私は、デジカメというモノに対して、別に「1人のユーザーとして…」以上の思い入れはありません。「自分の好みに合ったこんなデジカメが欲しい」という欲求は人並みにあっても、「デジカメはどうあるべきか」なんて理念は全くないです。そんな大それたことは、考えたこともありません。はっきり言って、私はデジカメの商品企画現場や生産現場に関わりを持っているわけではないし、関わりを持ちたいとも考えていません。そんな私に、「あなたのような人がいるから、デジカメメーカーが増長する」とか「あなたのような考えでは、デジカメの将来のためにならない」…ってメールを送ってきても、ホントに無意味です。

 でも、「サイト内の雑文は言葉で遊んでいるだけ」「本音は書かない」…とは言いましたが、そこは多少なりとも「虚構と真実の混交」があることは確かです。それは、読んでる人が自然に感じること。何が虚構で何が真実かを見るのも、楽しみの1つ…てことにしといてください。だからWebは面白いんじゃないですか…

 私は、このサイトを運営することで何の利益も得ていません。広告なんて掲載していないし、今後も掲載する気はありません。本名や仕事で使っているペンネームを公開して、自分の仕事の宣伝をしようと言う気も、むろんありません。
 現状ではトップページが1000アクセス/日に過ぎない個人サイトですよ。この程度の規模の個人サイトは、日本語サイトだけで何万、何十万とあるでしょう。こんな小さな個人サイトで何を主張しても、影響力なんかあるわけがないのは十分承知。今後もこのサイトで何かを主張したり広告料を得るために、アクセス数をアップする努力をしようという気は全くありません。
 こんな規模だから、好きなことを書いてられるんです。

 オレはね…、ただの「オサーン」ですよ!

 でも、ホントのこと言うとね、わけのわからないメールが来て、ちょっと面白かった…です。
 もしかすると、彼は20通のメールで私と遊んでくれたのかもしれません(笑)

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