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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/5/27

 グリコが「懐かしいCD」付きのお菓子「青春のメロディ付きチョレート」を発売するという記事を読んで「食玩の次はCDか…」と感心していたのですが、実はもうブルボンが1960−80年代の曲を収めたCD付きの「「懐メロクッキー」を売り出していたということを知って、さらに驚きました。お菓子なんてほとんど食べないし、コンビニのお菓子売り場も見ないので、こんなものを売っていることを知りませんでした。

 リコーから発売されるSDカードスロット付きデジカメ「Caplio Pro G3」には、興味深々です。
 何が興味を惹くかといえば、「GPSカードの搭載」。GPS機能付きデジカメは業務用では商品化されたこともありますし、HIBIさんの「山と自然の旅」ではこんな試みも紹介されています。かなり高価で大掛かりなシステムになってしまうのが残念です。
 またauのGPS機能とカメラを搭載した携帯電話端末を使えば、位置情報を付加したデジタル画像を得ることができますが、VGA画像しか撮影できません。
 そんな中でこの「Caplio Pro G3」にGPSカードを装着すれば、簡単に持ち歩きできる300万画素の小型・軽量デジカメで、撮影画像に位置情報を付加できるわけです。

 ニュースリリースには、「撮影した場所の緯度・経度情報を写真データに記録。地図ソフトと連動させることで、撮影位置を地図上に表示可能。例えば、通信カードと併用(GPSカードとの差替え)し、災害現場を撮影した画像に発生位置の情報を付加して対策本部に送信すれば、対策本部で現場の状況と位置を素早く把握することが可能…」とあるように、PHSカードと併用することで様々な使い方ができます。
 しかし、こんな面倒な使い方をしたり、主に業務用途でのメリットを謳うよりも、「日常的に携帯できる小型・軽量・高画質のデジカメでGPS位置情報付きの画像を撮影できる」という点に、個人的には強く惹かれます。これって絶対に面白いですよね。価格は99,800円とのことですが、物欲が抑えきれなくなりそうです。
 もっとも、最近登場したメガピクセルカメラ付きケータイがさらに高画質化し、自律型GPS機能が搭載されれば、こんなデジカメは不要になるかもしれません。

 今飲んでて気が付いたのですが、「アミノ式」ってライチの味がしますよね。ライチで連想したのですが、そろそろ雨季に入ったタイは、ライチを始めとする果物の種類が豊富になって安くなる季節です。SARS問題がなければ、のんびり旅行に行きたいですね。

 今日の画像は、飲み屋の軒上の屋根で寝ていた猫です(F402で撮影)。高いところだったので、手を伸ばしてブラインドで撮影しましたが、どうにか撮れてました。

 暖かい季節になったせいか、冬の時期に較べて街角で見掛ける猫が多くなりました。でも最近は、猫に声をかけても見事に無視され続けてます。
 今、真剣に猫を飼おうかと考えてますが、また以前の飼い猫のように20年以上の長寿だったら…と考えると、無責任に飼うのもマズイので我慢してます。

2003/5/26

 昨日は、「子犬が欲しい」という家庭のためにクルマで「犬の配送」をしました。とても人懐こくてかわいい子犬でしたが、この件については後日詳しく報告します。

 63万画素「スーパーCCDハニカム」を搭載したカメラ付きケータイ「ドコモD505i」を入手しました。むろん「携帯電話として」ではなく「デジカメとして」です。日常ユースのデジカメとしては、かなり使えます。
 こちらに、デジカメとしてのD505iの実力 〜これはもう「ケータイ付きデジカメ」だ!…という詳細なインプレッションを掲載しました。興味のある方はお読み下さい。

2003/5/23

 仕事中にBGM替わりにかけているFMラジオから、「LEAVING ON A JET PLANE」(悲しみのジェットプレーン)が聞こえてきます。この曲は、昔からなんとなく好きな曲です。妙な話ですが、私は国内外の旅行時に飛行機に乗ると、この曲が頭の中に浮かぶのです。ジェット機に乗っている…という状況からの単純な連想でしょうが、ともかく昔から時々口ずさむ曲なんです。

 「LEAVING ON A JET PLANE」と言えば、アメリカのカントリーシンガー、故ジョン・デンバーの曲。映画「アルマゲドン」のサントラでも有名になりました。で、最近ラジオでよくかかる「LEAVING ON A JET PLANE」は、カナダ出身のシンガーソングライター、CHANTAL KREVIAZUKが歌っているもの。CHANTAL KREVIAZUKのけだるい歌声も悪くはないのですが、でも私にとっての「LEAVING ON A JET PLANE」は、1969年にPPM(Peter, Paul and Mary)が歌って全米ヒットチャートの1位になった時のバージョンです。そうです、中学生になって聞き始めたばかりのラジオの深夜放送から流れてきたPPMの歌声です。

 小学生の頃までは夜は9時に寝ることを義務付けられていた私が、ラジオの深夜放送なるものに目覚めたのは、中学校に入ってからです。
 いきなり洋楽が好きになった私は、深夜の自室で毎晩ヒットチャート系の番組を聴いていました。PPMの「LEAVING ON A JET PLANE」が流れてきた1969年当時は、もう解散が近くなったビートルズの「ゲット・バック/ドント・レット・ミー・ダウン」やアルバム「Abbey Road」などが流行っった年です。ビートルズなんかはどうでもよいのですが、1969年と言えば、あのウッドストックのロックフェスティバルが開催された年です。サンタナ、ジミ・ヘンドリックス、CSN&Y、ザ・フー、ジョー・コッカー、ジェファーソン・エアプレインらが出演したのですから、そうしたミュージシャンの曲も流行っていたのでしょう。
 しかし、後になって中学の高学年から高校に入る頃にはすっかりツェッペリンなどのブリティッシュ・ロックにハマッた私ですが、1969年という中坊の頃はまだロックの何たるかはわからず、ポップスライクな曲に惹かれたものです。

 1969年という年は、世の中が騒然とした年です。ベトナム戦争はそろろ終末に近づいていました。南ベトナム開放民族戦線の前面攻勢の前に敗色が濃くなったアメリカは、既に海兵隊の撤退を始めていました。この年にニューヨークタイムスは「ソンミ村虐殺事件」を報道し、ワシントンでは30万人もの参加者による反戦デモが行われて、全米に嫌戦気分が高まっていました。そういえば沢田教一がカンボジアで死亡したのも1969年です。
 日本では、東大安田講堂が陥落して高揚した全共闘運動が衰退へと向かい始め、連続射殺犯の永山則夫が逮捕されました。映画「真夜中のカーボーイ」が封切られたのもこの年です。
 まだ、こうした騒然とする社会との積極的な関わりを持たなかった中学生の私は、学生運動の意味などわからず、ロックにも反戦フォークにも興味を持たず、深夜放送から流れてくる美しい洋楽をじっと聴いていました。そんな中で惹かれた曲の1つが、PPMの「Leaving On A Jet Plane」でした。

 PPMというグループは、その後の私の音楽遍歴の中では取るに足らないミュージシャンでした。1960年代後半から70年代前半にかけて、トラディショナルなフォーク・ソングやピート・シーガーの「花はどこへ行った」、「天使のハンマー」、自作曲である「悲惨な戦争」「ちっちゃな雀」などで「反戦」「連帯」を歌ったグループですが、何となく中途半端なイメージしかありません。同じメッセージソングでも、時代を動かすほどの強烈なメッセージを詩に込めたボブ・ディランほどのインパクトはなく、CSN&Yほどのロックテイストもなく、どうでもよいと思っていたグループでした。

 ところが、CHANTAL KREVIAZUKが歌う「LEAVING ON A JET PLANE」を聞いて、ふと思い立って、MP3でPPMのアルバムを入手して聞いてみたら、悪くないのです。同じ「天使のハンマー」でも、ディランが歌うそれとは違い、美しいコーラスの中に「抑制された意思表示」や「禁欲的なメッセージ」を感じ、これはこれで悪くありません。
 何よりも当時の激しく変動する時代にあって、こうした形で「ポップス化」された楽曲の方が大衆に受けたのは、よく理解できます。

 そういえば、最近車のCMでザ・バーズの歌う「Mr.Tambourine Man(ミスタータンブリン・マン)」が使われており、懐かしい思いで聴いています。1965年に大ヒットしたこの曲は、言うまでもなくボブ・ディランの歌として知られています。ディランはこの曲に、かなり強烈なメッセージを託しました。しかし、この曲を全米1位に押し上げて有名にしたのは、なぜかザ・バーズの歌う甘いメロディでした。
 私は、ディランの「Mr.Tambourine Man」は好きでしたが(むろん後になってからの話です)、ザ・バーズの歌う「Mr.Tambourine Man」は嫌いでした。第一、バーズの曲ではディランのバージョンの歌詞の一部が省かれているのです。しかし、最近TVのCMで聴くザ・バーズの「Mr.Tambourine Man」は悪くありません。まさに、PPMの歌う「LEAVING ON A JET PLANE」と同じく、「ポップス化」されることで、ディランの強烈なメッセージが大衆に優しく伝わり、結果として社会に広く浸透させる役割を果たしたのかもしれません。

 こうした「抑制されたメッセージ」の持つ意味を、多少なりとも評価できるようになった…ということは、きっと「自分が年をとった」ということなんでしょうね(笑)

2003/5/21

 まともに帰宅できないような多忙な日が続き、日記の更新ができません。

 唐突な話ですが、インドネシア国軍がアチェ州に対して全面的な侵攻を開始しました。アチェの独立を宣言して戦う反政府独立ゲリラ組織「自由アチェ運動(GAM)」の制圧が目的です。もともと「アチェ王国」という独立国であり、特別州として大幅な自治が認められていたアチェですが、天然ガス、石油、森林など豊富な資源を持っている点が災いし、どうやらメガワティ政権は東チモールのように独立させる気はサラサラなさそうです。
 現在のインドネシア及び東南アジア全体の政治的・社会的な安定という視点から見た場合、アチェの早急な独立がよい結果をもたらすかどうかの判断は難しいのですが、少なくともアチェには「独立を要求する正当な理由と歴史的背景」があります。「自由アチェ運動(GAM)」は、テロリスト集団ではありません。

 インドネシアという国は約1万7千の島々から成っていますが(実際はもっと多いらしい…)、多様な民族・文化の複合国家です。本来なら1つの国家として存在する方が不自然な地域なのですが、要するに「オランダ領東インド」であったエリアが第二次大戦後に独立した…と考えるとわかりやすいと思います。
 そのインドネシアにあって、アチェは独自の民族と文化を育んできた地域です。アチェ州は、スマトラ島の北端部に位置しています。スマトラ島は、インドネシアでは、カリマンタン島に次ぐ第二の面積の島であり、現在のインドネシアの政治・文化の中心となっているジャワ人が住むジャワ島よりも大きな島です。アチェ州の面積は約5万5400平方キロで、約400万人の人口のうちの90%をアチェ人(アチェ族)が占めています。言うまでもなく宗教はイスラム教です。
 現在独立を宣言しているアチェ州は、15世紀に成立したアチェ王国(首都はバンダアチェ)の支配地域とほぼ重なる地域です。インドネシアと言えば、歴史で習ったように、シュリーヴィジャヤ、マジャパヒトという2つの強国が知られています。アチェ王国は、そのマジャパヒト王国から独立しました。シュリーヴィジャヤ、マジャパヒトともに非イスラム国家ですが、スマトラ島には12〜3世紀からイスラム商人が多数寄航するようになり、インドネシアで最初にイスラム教に改宗したのが、アチェの人々でした。  アチェはマラッカ海峡の入り口に位置し、対岸の商業国家マラッカとともに栄えました。特に、スマトラ特産の胡椒を一手に扱うことで、莫大な富を蓄積して栄えました。16世紀初頭にマラッカがポルトガルに占領されて以降も独立を維持し、17世紀に至っても東南アジアのイスラム文化の中心として隆盛を誇りました。
 19世紀になってアチェの植民地化を目論んだオランダと戦い、30年にも渡る勇敢で壮絶な抵抗の末、1903年にスルタンが亡命してアチェ王国は滅びました。
 第二次大戦の勃発直後にオランダが日本軍に敗れ、その時アチェは独立宣言をしました。第二次大戦戦後にインドネシア全域がオランダからの独立戦争を展開した際、アチェの人々は最前線でオランダと戦い、インドネシアの独立に最大の貢献をしました。1949年のインドネシア連邦共和国独立とともにアチェは連邦内の一自治国として独立しましたが、1950年には強引にインドネシア共和国へ統合され、その時から現在に至るまで紆余曲折を経ながらアチェの独立運動が続いています。
 なかでも1976年にハッサン・ディ・ティロが結成した反政府独立ゲリラ組織「自由アチェ運動(GAM)」は、インドネシア政府との武力闘争を続けています。

 アチェ独立運動はこうした経緯を持つわけですが、歴史的な背景や文化的な背景、そして民族構成などを見る限り、アチェの独立運動は、筋が通った話です。単にアチェがかつて独立国家であった…というだけの理由ではありません。ジャワ島に住むジャワ人とスマトラ島に住むアチェ人では、同じイスラム教徒でも文化的性向が異なります。海洋国家、商業国家であるアチェは、農業国家であるジャワとは文化的基盤を異にします。そうした文化基盤の違いがまた、ジャワの人々がアチェを憎み、軽視する理由ともなっている点が不幸ではあります。
 東チモールと同等、またはそれ以上にインドネシアから独立する正当な理由があるし、第二次大戦後の経緯を見てもインドネシアの不法占拠・占領に近い部分があります。第二次大戦後、インドネシア国軍によって虐殺されたアチェ人は、既に数万人に達するという推定もあります。
 しかし、不幸なことにアチェは、東チモールとは違って豊富な天然資源があります。インドネシアは絶対に手放さないでしょう。逆に言えば、独立したにもかかわらず既に世界から忘れ去られ、失業率70%と貧困にあえぐ東チモールとは異なり、アチェは独立しても国家として十分に自立できる経済基盤があるわけです。

 今回のメディア側ティ政権のアチェ侵攻は、現在行われているイスラエルのパレスチナ侵攻を彷彿とさせます。インドネシア政府は「自由アチェ運動(GAM)」のメンバーを「テロリスト」と決め付けています。イスラエルが、パレスチナ民衆のインティファーダをテロと呼ぶのと同じ理屈です。ここにも、アメリカのブッシュ政権が何の理念もない「テロとの戦い」を進めているおかげで、歴史的正当性を持つ独立運動が不当に抑圧されている…やりきれない現実があります。

 今回のアチェ侵攻で、おそらく多くのアチェ人の一般民衆が犠牲になるでしょう。世界の人々の眼が、もっとアチェに向くことを祈ります。
2003/5/15

 「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(「救う会全国協議会」)は、「拉致は人類共通の敵であるテロであり、許し難い人権侵害」とコメントしています。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」は、拉致問題の実情を国連人権委員会に訴え、同委員会は北朝鮮人権決議を採択し拉致問題の解決を求めています。
 この拉致問題においては、「人権」が1つのキーワードになっています。いや拉致問題だけではなく北朝鮮という国の体制を語るときにも「人権」が度々使われ、要するに北朝鮮は「人権を侵害している国」…という認識が一般的なようです。
 「拉致」が「人権の侵害」にあたる行為だという点については、私もまったく異論はありません。北朝鮮がどうも「人権を抑圧している国家」だ…という点についても、ほぼその通りであろうと思います。

 さて、翻ってわが日本では「人権」なるものはどのような形で認知されているのでしょうか? また、日本人にとっての人権とは、どんなものでしょうか?
 日本国憲法の第三章第十一条において「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」…とされています。この条文と憲法の第三章全体を読む限り「日本は人権を保障する国」と言うことができます。
 しかし、日本という国に住む人の全てが「人権」なるものを本当に「実感」しているか…というと、そうは思えない感じがします。また「人権の尊重が憲法で規定されている」という事実は、実は「人権の本質」とは無関係です。日本人の多くは、人権を「公民権」に近い感覚で捉えているように感じます。

 まず、「人権」とは「国家が保証するもの」ではありません。ましてや日本国憲法に「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる…」と明記されていますが、人権は「国が国民に与える」ものでもありません。国が保証し、法律で規定して保護するのは、「人権」というよりも、どちらかというと「公民権」です。

 もともと西欧民主主義の成熟過程で固まってきた「人権思想」は、キリスト教とは切っても切り離せない概念です。西欧においては、「人権」とは「法律」の上位に位置する概念であり、「人間が持って生まれてきた生来の権利」のことです。人権思想は、キリスト教から生まれました。西欧のキリスト教国では、人権は「万物の創造主たる神が与え給うた」ものとして一般的に認知されてきました。神から受け取った権利ゆえに、国家も法律も及ばない権利と理解されているのです。

 日本や中国や韓国など、東洋の非キリスト教国家には、もともと「人権」という概念はなかったように思います。東洋では、国民の幸福は施政者から与えられるもの…という古来からの考え方が、近代になっても続いてきました。日本の場合は、明治期にキリスト教思想とともに「人権」なる概念が入ってきましたが、それは日本人の持つ共同体幻想とは馴染みの薄いものであったと思います。
 記憶だけで書いているので間違っている部分もあるかもしれませんが、人権について日本で最も早い時期に体系立てて論考したのは、おそら植木枝盛でしょう。植木枝盛は、ルソーに代表されるフランスの民権思想の啓蒙に尽力した中江兆民とは異なり、明確に「持って生まれた人の権利」を意識していたように思います。植木枝盛は「国は人民が集まっているからできるものであって、政府があるからできたわけでも、君(天皇)がいるからできたわけでもない」として、「主権在民」という概念を明確にしましたが、そうした考えの礎となったのは「キリスト教的人権思想」だったはずです。とは言え、よきキリスト者であろうとした内村鑑三のように、植木枝盛が宗教としてのキリスト教自体に深い影響を受けたフシはありません。しかし、植木枝盛はキリスト教的な「神の下の平等」を、「国家は普遍的人権を尊重するところから始まる」と発展的に考えた人物でした。
 こうして明治期に植木枝盛のような人物が活躍し、さらにキリスト教も広く入ってはきましたが、結局のところ明治期以降の日本には、キリスト教的「人権」が根付くことはありませんでした。福沢諭吉などが言うところの「宗教とは関係のない合理的な国家形態」を追求し、結果として「国民の権利は国が与えるもの」「天皇が与えるもの」…という方向で、「国民の権利」を考えるに留まったのです。大正デモクラシーも、本来の意味での「人権」よりも「公民権」の概念がクローズアップされたものとなりました。

 日本人に「人権」の概念を初めて明確にしたのは、やはり第二次大戦後の「日本国憲法」です。しかし、憲法に述べられた「人権」の概念も、戦後から現在に至るまでどうも日本人には馴染まなかったような気がします。
 一般的な日本人が考える「人権」の概念は、これまでにも述べたように「公民権」に近いものと言えます。つまり「国が保障する国民の権利」です。人権と公民権は「似て非なるもの」です。誰もがあらかじめ持っているのが人権で、国や社会共同体から与えられるのが公民権です。公民権は法律によって保護されますが、人権は法律とは無関係の「普遍的な個人の権利」です。日本人には、「憲法に明記しあろうとなかろうと、全ての人間があらかじめ持っている権利」…という考えを持つ人は少ないような気がするのです。

 私自身は「人権は人が生きていく上で最も重要な権利」と考えていますが、それは「すべての人は神の下には平等」などと馬鹿げた理由ではありません。人権には、神も国家も無関係です。人間は、信じる宗教や生まれた国家を問わず、生まれた時から等しく人間らしく生きる権利を持っている…という当たり前の事実から、そう思っているのです。

 さて、拉致問題でクロースアップされた北朝鮮の独裁体制下では、国民が「人権をないがしろに」されており、また拉致問題でわかるように他国の国民の人権もないがしろにしていることは事実です。そこで日本人の多くは、北朝鮮国民が「人権を尊重されていない」理由として、「北朝鮮という独裁国家が人権を保証していないから」と考えてはいないでしょうか? しかし、北朝鮮に住む人々にも全ての国に住む人間と同じように人権はあります。国家が保証しようとしまいと関係なく、人権を持っているわけです。当然ながら、「北朝鮮は人権がない国」ではありません。「国家権力が人権を抑圧している国」です。

 ところで、私がなぜ「北朝鮮に住む人々の人権の有無」なんかにこだわるかと言うと、「北朝鮮バッシング」が、北朝鮮の国家体制にではなく、北朝鮮の人々、さらには朝鮮半島に住む人々全体に及んでいるような気がするからです。北朝鮮に住んでいる人々、すなわち「北朝鮮の国民」には人権があります。北朝鮮の国家体制の是非とは無関係の問題です。この「北朝鮮の国民も人権を持っている」ということは、言い換えれば「北朝鮮の国民を尊重しなけらばならい」ということです。

 かといって、アメリカのように「サダムフセイン政権は人権を抑圧しているからそれは打倒するべき」と考え、同様に現在の北朝鮮の独裁政権を武力で倒すべきだ…と結論付けるのも、いまひとつピンときません。アメリカは、西欧型民主主義のエバンジェリストであるだけでなく、守護者たらんとしています。しかし、イラク戦争でブッシュが何度も「神のご加護」と発言しているように、アメリカの信奉する西欧型民主主義なるものの中核にある人権とは、「神の下の平等」です。
 人権は、自ら主張するものであって、他人に主張してもらうものではありません。ましてや、「キリスト教的平等の押し付け」など迷惑以外の何物でもありません。現在、イラクの人々の多くは、サダムフセイン政権を武力で倒したアメリカの行為に対して、よい感情を抱いてはいないでしょう。北朝鮮の政権が人権を抑圧しているのだとすれば、それを糺すのは北朝鮮の人々でなくてはならないと考えます。

 …またしても、論旨のハッキリしない駄文を長々と書いてしまいました。異論・反論は勘弁してください。私自身、ここに書いている内容は本当に自分自身が考えていることなのかどうか…、よくわからないのですから(笑)

2003/5/12

 たまたまMacintoshを使ったデジタルアートを紹介するアメリカのサイトを見ていたら、注目すべきデジタルアーティストの1人に「Buffy Sainte-Marie(バフィ・セントメリー)」の名前が挙がっていたので、ちょっと驚きました。

 ネイティブアメリカンのシンガーであるバフィ・セントメリーは、私の世代にとっては懐かしい名前です。彼女が歌った映画「いちご白書」の主題歌「Circle Game」は、多くの人の耳に残る名曲です。
 とはいえ、「Circle Game」はバフィ・セントメリーの歌ではなく、ジョニ・ミッチェルの曲のカバー。じゃ、バフィ・セントメリーの曲はといえば、まず最も有名なのが「Up Where We Belong」。これは、映画「愛と青春の旅立ち」のテーマ曲として、ジョー・コッカーとジェニファー・ウォーンズのデュエットが歌って大ヒットしました。ちなみにバフィは、「Up Where We Belong」というタイトルのアルバムも出しています(私の愛聴盤です)。それから、私が大好きなドノバンの「Universal Soldier」も彼女の曲です。しかしバフィの歌といえば、やはり前述の「Circle Game」や映画「ソルジャー・ブルー」の主題歌などが知られており、その独特の歌唱法から、なんとなくエキセントリックなイメージを持つ人も多いでしょう。しかし、彼女が歌う「Universal Soldier」などを聞くと、フォークソング寄りというか、カントリーっぽさなんかもあって、60年代アメリカンミュージックの香りがかなり強いと思います。それもそのはず、バフィは1964 年にニューポート・フォーク・フェスティバルでデビューして以降、ニール・ダイアモンドやジャニス・ジョプリンなど当時のアメリカを代表する多くのミュージシャンに楽曲を提供しています。

 冒頭の話に戻りますが、このバフィ・セントメリーは大好きな歌手でありながら、彼女が純粋なネイティブアメリカンであること以外には、その私生活や活動についてよく知りませんでした。それでちょっと調べてみると、1970年代の半ば以降は、育児のため音楽活動からしばらく遠ざかっていましたが、1993年にアルバム「Coincidence and Likely Stories」でカムバックしています。カムバック以降は、特に北米各地に住むネイティブアメリカンの権利に関して積極的に発言し、世界各地の先住民とともにコンサートを開いたり、また北米各地の大学で講師を勤めるなど、かなり精力的に活動しているようです。そして現在はハワイに住み、世界的なエコロジー運動に参加する一方、インターネットを通じての異文化理解教育などに関わったりしているとのことです。

 バフィがデジタルアーティストとして知られ始めたのは最近ですが、もともと彼女はマサチューセッツ大学では東洋哲学を専攻し、さらにファインアート博士号を持っているとのことです。バフィの画風は独特で、やはりネイティブアメリカンの姿や生活、そして世界の先住民を取り巻く自然環境をテーマにしたものが多いようです。彼女の個性的な作品はこちらのサイトで見ることができます。

2003/5/9

 昨日のWebニュースで「SARSウイルスの変異は朗報?」…という記事がありました。
 記事の要点は…
 「現在SARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルスが急速に変異している。SARSウイルスはコロナウイルスの一種であるため、急速に変異して治療法の開発を阻む可能性があることはわかっていた。これは悪い知らせのように思えるが、実は患者の回復率向上につながるかもしれない。SARSウイルスは、変異によってさらに致死性を強めるのではなく、逆に危険度が弱まると考えることもできる。ウイルスにとっては、宿主を生かしておくほうが有利だからである。ウイルスが変異して宿主を殺すことは、淘汰の上であまり有利ではない。それよりも、分裂を維持して人から人へ感染するほうがいいはず」…というものです。

 この説の正誤については、私には判断できません。それよりも、この話の中心にある「生物の種の合理的行動に基づく自然界の摂理」というような考え方が気になります。
 地球上に生命が誕生して以降、様々な種が生まれ、あるものは繁栄し、あるものは短期間で滅びました。三葉虫や恐竜など繁栄の絶頂で滅亡した種もたくさんあります。こうした生物の種の盛衰については、「自然界の摂理に従った…」というのが、一般的な説となっています。恐竜の滅亡については、最近では小惑星か隕石の衝突…という説が有力ですが、この説が出てくる前は、繁栄し過ぎた結果種の保存のために滅んだ…といった理由も唱えられていました。
 集団自殺を図ることで知られているレミングについても同じです。この不可解な行動の理由について、「一定の頭数を超えると種の生き残りをはかるため、集団自殺する…」という説が唱えられています。他にも「地磁気の影響」など様々な説がありますが、実は「理由はよくわからない」というのが結論のようです。しかし、「種の保存を図るため」というのは最も説得力の強い理由として、多くの人を納得させています。

 ともかく、「自然界や生態系というものは本来合理的に出来ている」…という理論は、多くの人が主張するところとなっています。こうした「種の合理的行動」「自然界の摂理」を、生態系の問題以外の様々な人間の行動の説明や社会現象の説明にあたって持ち出す人も多いですね。

 私は、自然現象から社会現象、人間の行動に至るまでの多くのことを、「自然界の摂理」で説明してしまう…というスタンスが非常に嫌いです。
 まず第一に、「自然」とか「生態系」なんてものは、合理的な理由で変化しているとは思えません。…というよりも、結果として合理性があったのかなかったのか…なんてことは、地球の生態系が今なお変化し続ける現状にあって、判断のしようがないでしょう。
 さらに、有史以降の人間という生物種の行動を見ていると、とてもじゃないけど「自然界の摂理」による合理性が働いているようには思えません。無意味に戦争やら殺人やらを繰り返す「人間」は、どう見ても種としての合理的な行動をとっていないように見えます。

 自然破壊に反対するナチュラリストは、自然や生態系を保護する最大の理由としてこの「自然の摂理を維持することの重要性」を挙げますが、なんとなくわかったようなわからないような話です。自然の生態系を人間の手で破壊すると、なんだかすごく大きな災厄が襲ってくるような言い方をします。でも、地震や洪水、そして火山の噴火などによる自然破壊は「それも自然の摂理のうち」と許容しますよね。「ダムで生態系が破壊されるのはダメだけど、火山の噴火で生態系が破壊されるのはOK」…とする論理が、イマイチ合理的ではない…と思うのです。いや、むろん私も不要なダムを作るのは反対ですけど…

 そして最も気になることは、この「自然界の摂理」を「神の見えざる手」と置き換えると、簡単に「万人が納得しやすい宗教」が出来上がります。まあ、キリスト教なんかはその典型ですね。日本でも、新興宗教の教祖なんかの中には、自然現象や社会現象の説明にやたらとこの「自然界の摂理」を振り回す人が多いですね。
 まあ、地球上に何かの災厄が起こるたびに、得体の知れない宗教が力を伸ばしていきます。困ったものです。

 ところで冒頭のSARSの話ですが、逆にSARSの流行について「自然や生態系を破壊した人間に対する自然界からの警告」とする意見も多いですね。極端な意見の中には、中s例に流行したペストも、エイズも、そしてSARSも、増えすぎた地球上の人口を減らすために流行るべくして流行った…などとするものもあります。こうした意見を吐く人は、SARSによって人口が大幅に減ることを是としているのでしょうね。

 何か、非常にとりとめのない話だなぁ…(笑)

 ところで宗教と言えば、パナウェーブ研究所のニュースはもう飽きました! 警察が監視してるのも無駄な税金使うだけだし… あの白い人も車もまとめてどっかに埋めちゃえ!と言いたいとこだけど、とりあえず全員を病院にでも収容して精神科でカウンセリングを受けさせましょう。むろん、診察費用はあとで本人か家族に請求しておくべきです。

 タマちゃんのニュースももうたくさん! 顔に釣り針が刺さってたって構いません。いいかげんに放っておきましょう。そういえば「タマちゃんを食べる会」ってのがあるそうですが、これいいですね。
 私はトドやアザラシ、そしてイルカを食べたことがありますが、クジラみたいでけっこう美味しかったですよ。タマちゃんも、味の方はかなりいけるかもしれません。

2003/5/6

 3月9日の日記で、NECのノートPC「LG93JJ/D」(超低電圧版PentiumV 933MHz、市販のLJ700とほぼ同等品)を購入した話を書きました。購入直後にLJ300用のリカバリー用に格安で購入したUSB外付けドライブのPanasonic「KXL-RW32AN」を使ってリカバリーディスクを作成し、1パーテーションで再フォーマットした件も報告しました。
 その後メモリを512MBに増設し、Office2000など必要なソフトをインストールして使っていましたが、無線LANの接続にはけっこう手こずりました。結局プリインストールされていた何とかいう名前のファイアウォールソフトをアンインストールして解決しました。
 他には特に不具合もなく、快調です。薄型で1.15kgの重量なので持ち運びには便利ですし、バッテリー動作時間は2時間強ですが、これも私の利用形態では問題はありません。ここ1〜2ヶ月は「Centrino」を搭載した高性能ノートPCが相次いで発売されていますが、個人的にはPentiumV 933MHzのパフォーマンスは十分です。ただ、折り畳んで持ち運ぶ時に、マグネシウム合金製の筐体上部が薄すぎてちょっとペコペコした感じなのは、いただけません。

 仕事先でのプレゼン用途などに本格的に使い出したところ、今度はHDD容量の不足を感じ始めました。私は大量の予備データを持ち歩くのですが、30GBではなんとなく不安です。
 そこで考えたのが、USB接続のHDDユニットの利用です。2.5インチのHDDは余ったのを持ってますから、HDDケースだけを購入するつもりでいろいろと探したところ、見つけたのが、玄人志向の2.5インチ用ケース「GAWAP2.5PS-USB2.0」です。  新宿のソフマップで購入しましたが、2,980円と格安で、むろんUSB2.0対応です。バスパワーで動くのですが別に電源ケーブルも付属しています。これがACアダプタではなくて、もう1つ別のUSBポートから電源を取るタイプのケーブルです。つまり、USBポートを2つ使うわけですね。
 まあ、所有しているノートPCは「LJ300」も「LG93JJ/D」も、USBポートが3つ付いており、USBマウスを使いながらでも、2つのUSBポートが空くのでOKですね。

 ケースはプラスチック製でチャチなんですが、値段が値段なのでよしとしましょう。玄人志向の製品だけあって、小さく薄っぺらな英文のマニュアルが入っているだkですが、心配はいりません。ただ、内部のコネクタに2.5インチのHDDを挿して、上下カバーを嵌めるだけです。早速Fujitsuの30GB(4200rpm)のHDDを入れて、「LG93JJ/D」に接続しました。デバイスマネージャーのUSBデバイスのところを見ると、特に添付のドライバー使わなくても「大容量USBデバイス」として認識しています。そこで、コントロールパネルの「管理ツール」から「ディスク管理」を選び、初期化後にFAT32でフォーマットしてやりました。これで、「マイコンピュータ」からドライブDとして見えるようになり、一件落着です。
 掌に乗るほど小さく、超軽量・大容量のモバイルストレージが格安で手に入りました。

2003/5/3

 こんなコンテンツを作ってみました。別に依頼されたわけじゃありません。無許可で勝手に作った宣伝ページです。

2003/5/1

 ちょっと古いニュースですが、自由党推薦で岩手県議に当選したザ・グレート・サスケ氏が「覆面姿のまま県議会に出席する」として物議を醸しました。結局は岩手県知事が容認姿勢を表明することで騒動は収まりましたが、この「議会に覆面出席することの是非」を議論している中で、気になる発言がありました。
 反対派の議員の1人が、「議会は神聖な場。何でもありではなく、ルールを作って尊重しなければならない。だから覆面はもってのほか…」と発言しているのです。過去にノーネクタイ議員が登場した時や、帽子を被った女性議員が登場した時にも、この「議会は神聖な場所だから」という理由で反対した議員がいましたよね。

 議会は、決して神聖な場所ではありません。自由に議論する場であり、法に則って議決を行う場所です。しかし、議会を「神聖」と言われると、そうした一般論以上に大きな問題を感じる部分があります。議会を「神聖な場所」と認識している議員があるとすれば、「神聖」という言葉の使い方に非常に無神経と言わざるを得ません。
 私が知っている「神聖な」に該当する最も一般的な英語表現は「holy」です。holy day(祭日)の「holy」で、具体的に「神」を意味する言葉です。例えばキリスト教の「聖地」のことは「Holy Land」と言います。
 歴史的に見れば、中世のヨーロッパなどで本来の意味での「神聖な場所」で議会が開催される…ということはありました。しかし、信教の自由を是とする近代国家では、議会こそは「絶対に神聖であってはならない」と思います。

 私は先日のイラク攻撃で、ブッシュ大統領がやたらと「神」を連発するのを聞いて、非常に危うい感じを持っています。不愉快です。だから「神聖な」などという言葉は、軽々しく使って欲しくありません。
 ところが、日本では「神聖な」という単語は、非常に軽々しく使われます。相変わらず 「教師は聖職」とか「教育は神聖」という人は少なくありません。「教育」も絶対に神を持ち込んではいけない場所であり、「教育は神聖」なんて表現はもってのほかです。
 同じように「医療は神聖」とか「医者はすべての人間のいのちを左右する神聖な職業」なんて使われ方もしますが、これもヘンですね。医療行為も「神」とは対極にある「人間」に対して行うものですから…

 さらに、「野球のマウンドは神聖な場所」…みたいな言い方も好きではありません。相撲の「土俵」は確かに神聖な場所です。相撲はスポーツではなく神事の一面も持っているわけですから。しかし、「野球」と「神」は無関係です。
 「そんな細かいことどうでもいいじゃん」という方も多いかもしれません。でも、私は「神聖」と言う言葉が安易に使われることがすごく気になるのです。「神聖」と言う言葉は大嫌い…と言ってもよいかもしれません。
 さっきの野球の例で言えば、「神聖」と表現することで、何か「重々しく表現しよう」という部分があるのでしょう。しかし、「野球のマウンドは神聖」なんて言われると、かえって「ボキャブラリーが貧困だなぁ」と感じてしまうのは私だけでしょうか…、私だけでしょうね(笑)

 さて、月が改まって5月になりました。そういえば、今日はメーデー(死語)です。世間ではGW期間中とのことですが、特に日常に変化はありません。ごく普通にオフィスで仕事をしていますし、ごく普通に休日出社です。SARSのおかげで海外にも行けず、それなりにストレスは溜まってます。
 ここのところは仕事を終えた後、深夜まで「ハルピン水餃子」か「Free Flow Runch」でマターリ飲んで、その後タクシーで帰宅…というパターンが多いですね。ハルピン水餃子の金さんは、SARSでパニック状態にある北京の実家が心配で、母上に何度も電話をかけているようです。

 ところで、先週オープンした六本木ヒルズは、GW期間中の人手が100万人を超えるとの予想です。あんなところへ行って何が面白いのか…と言いたいところですが、何を隠そう、実は私も既に六本木ヒルズには行きました。週末にたまたま近くを通る用事があったので、15分ほど周囲を廻ってみたのですが…まあなんと言うか…人だらけでした。
 F402で撮ってきたので、六本木ヒルズの画像を何枚かアップしておきます。でも、F402は実にいいデジカメなんだけど、こういう画像を撮るときには「もうちょっと広角だったらなぁ」って思います。ああ、28o以下のレンズが付いた単焦点の小型デジカメが欲しい!

         


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