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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2005/3/30

 愛知万博が開催されています。「愛・地球博」というセンスのかけらもない下品なネーミングもさることながら、ロボットの音楽演奏、巨大な万華鏡、観覧車…等々、あとはどこもかしこもCG映像ばかり…って、なんというか「子供騙し」のような、そして安っぽい遊園地のようなアトラクションを並べ、大の大人が4600円の入場料と交通費を払ってわざわざ見にいくようなイベントじゃなさそうです。月の石や冷凍マンモスにも興味が沸きません。
 万博と言えば、1970年に大阪で開催された万博には、まだまだ夢があったような気がします。そして万博が多くの人に夢を与えた1800年代のロンドン、パリ、ウィーン万博等、中でも万博史上最も大規模で華やかであった1900年のパリ万博では会場内に当時画期的だった電力で動く高架電車や動く歩道が設置され、夜間照明に浮かび上がる水の宮殿・幻想宮などの芸術的な建造物には、パリ市民だけでなくヨーロッパ中、世界中から訪れた人々が感歎の声を上げたことでしょう。
 ともかく愛知万博の出し物は、政府、民間企業のパビリオンを問わず、小粒です。私には、SF小説に出てくるアンドロイドには程遠い出来損ないのロボットがトランペット吹いているのを見て、いったい何に、どんな技術に感心しろと言っているのかよくわかりません。観客自身が映画の出演者になるとかいう「フューチャーキャスト」やら、360度の画像や3Dメガネをかけて時速500kmのリニアモーターカーを体感したりするアトラクションは、確実にバカ高い入場料や膨大な待ち時間に見合うとは思えません。  そして愛知万博の最大の問題は、「自然の叡智」とか「循環型社会」とかいうお題目でしょう。こんなお題目を掲げている限り、万博が多くの人に夢や驚きを与えるものにはならないと思います。
 私は反感を買うことを覚悟ではっきりと言ってしまいますが、自然環境の問題を含む「地球という惑星が持つ生物を涵養する根源的なポテンシャルと、そのポテンシャルを破壊する方向に働く人類の営み」…という矛盾は、科学の力で解消することは不可能だと考えています。
 まずひとつは、人間の「豊かな生活をしたい」という欲求がある限り、現在地球上で豊かな生活をしていない数十億人の人々の生活向上の欲求を抑えることは不可能だからです。
 先進国にはエネルギー消費を最小限に抑えた田舎暮らしに憧れ、実行する妙な人もたくさんいますが、それを世界の人口の80%を占める発展途上国の人間に求めることは不可能です。例えば中国とインドの国民の数を合わせた20億人以上の中で、その80%以上は先進国の基準で見れば「貧困」または「豊かではない」生活を営んでいます。そして彼らは、先進国または国内の富裕層の生活に憧れ、また近づこうと必死の毎日を送っています。この欲求は自然ですし、誰にも妨げることはできません。他のアジア、アフリカの発展途上国でも同じです。そして、冷暖房を完備した大きな家に住み、快適に移動や旅行などをする豊かな生活は、どんな形であれ必ず自然を破壊しますし、エネルギーを消費します。確かに燃料電池など効率的で優れたエネルギーの開発が進んでいますが、これらの現時点でまだコストのが高いエネルギーの恩恵を、地球上の全ての国の人が受けられる社会が来るのは、おそらく数十年以上先の話でしょう。いや、そうしたの程度の見通しすら怪しいものです。その間、地球上の大半の人間は、ひたすら化石燃料を消費し樹木を伐採し、CO2や窒素酸化物を大気中に排出し続けるでしょう。爆発する人口増加に伴い、地球上の森林や草原は片っ端から耕地に変換していかざるを得ません。増え続ける世界の全ての人々を、現状の自然を破壊することなく飢餓から救えるような画期的な農業生産向上技術なんて、現実には存在しません。遺伝子組み換えも、農薬の改良も、おそらく食糧不足を救ってはくれないでしょう。
 地球環境問題を科学の力で解消できないもう1つの大きな理由は、人間が「非常に愚か」であるという点です。京都議定書の発効に伴って、一部の人たちが二酸化炭素を出さないように日常生活や家庭内でのエネルギー消費を抑える運動をしていますが、一方で人間は膨大なエネルギーを消費する「戦争」に血道をあげているという現実があります。例えば「戦争で消費するエネルギー」についての詳細なデータはありませんが、最近のイラク戦争や湾岸戦争で消費されたエネルギーの量や排出された環境汚染物質の量は、日常生活を営む個人のチマチマした節約などバカバカしいほどの規模であることは、詳しいデータなどなくとも想像がつきます。そして人間は、けっして戦争をやめようとはしません。
 これら「地球環境問題を科学の力で解消できない」2つの大きな理由、「人間の生活向上の欲求は限りがない」「人間は愚か」…という話の根拠は、非常に身近なところで簡単に証明することができます。それはいつも書いていることですが、「乗用車規制」の話です。とりあえず様々な低燃費技術の話は置いておいて、内燃機関を採用する自動車の燃費はほぼエンジンの排気量に比例して悪化することは絶対的な事実です。そして逆に、CO2などの排出量はエンジンの排気量に比例して増えます。この事実だけをとっても、「商用車を除く自家用の乗用車は軽に限定」という法律の有効性は明白です。少なくとも、「1500cc以下」程度に規制しても、「一家に1台以上は許可制」などと規制しても、実のところ大半の家庭は困らないでしょう。こうした規制をするだけで、石油の消費量は大幅に減り、大気中のCO2は減ります。しかし、こうした規制に賛成する人はまずいません。自動車メーカーが安価な小排気量乗用車しか売れないとなったら、当然ながら自動車産業の衰退を招くし、それは経済全般の衰退へと繋がるからです。そして何よりも、多くの自動車ユーザが納得しません。みんな、お金さえあれば「いいクルマ」に乗りたいのです。一家に2台以上のクルマが欲しいのです。そして、一方で環境問題を訴え、一方で大排気量のスポーツカーを「文化」だと持ち上げる、バカな自動車評論家もたくさんいます。例え燃料電池車が、政府の目標どおり2030年に1500万台普及したとしても(まずあり得ないでしょうが…)、2030年の国内自動車保有台数予測のわずか25%に過ぎません。ガソリンを燃やす数千万台の自動車が走っている状況に変わりはないのです。ましてや発展途上国や中進国では、今後数十年間に普及する自動車の大半がガソリン内燃機関搭載車でしょう。

 人間の欲求には限度がない…とまでは言いませんが、一定以上の生活水準を希求するのが人間の本質であるならば、現時点で「人間らしい生活」すらできない地球上の数十億人の人間が、一定以上の生活水準を求めていくプロセスは、人類破滅へのシナリオそのものです。そしてそうした事態を、現代の科学は絶対に救うことができません。科学の進歩が間に合わない…と言い換えてもいいでしょう。誰が考えても判る話です。

 さて、万博の話に戻ります。私は「絢爛たる万博」が見たいのです。科学技術の粋を集めた「こぢんまりとしたエコカー」の展示なんて別に見たくありません。むしろ、雲をつくような高層建築物、ジェット機、兵器、ロケット、高速乗用車など、人間の持つ科学の力の集大成を見たいのです。つまらない「自然の叡智」とか「循環型社会」なんてお題目ではなく、「根源的な人類の技と力」が見れるのならば見たいと思います。例えそれが、人類を破滅に導く存在であったとしても…です。
 私にとっての「根源的な人類の技と力」のイメージとは、例えば「航空ショー」です。実は、別に飛行機オタクでも兵器オタクでもない私は、航空ショーなんてものを心底バカにしていました。ところが何年か前に、たまたま知人に誘われて入間基地で行われた航空ショーを見物に出かけたところ、いやまあ本当に驚きでした。手の届きそうな頭上を、凄まじい轟音と共に飛ぶF-15を目前に見て、これこそが「人間が作り出した力」だと、無条件で感動しました。当たり前の話ですが、私は戦争は嫌いです。兵器も嫌いです。そしてF-15が、いかに人類の叡智の対極にある存在かということも十分判っています。それでもなおかつ、あの「力強さ」、そして科学の成果のストレートな発露には、素直に感動しました。

 私は1990年のパリ万博のような、絢爛たる万博を見たい。ロボットの楽器演奏なんて、バカにするな…と言いたい。曲がりなりにも「万博」と名打つイベントをやるのなら、何もF-15を飛ばせとは言いませんが、せめてインチキ臭い環境配慮なんかやめて、人類の終焉を予感させるような壮大な博覧会をやろうじゃないですか。

2005/3/25

 いや、ライブドア、ニッポン放送、フジテレビの株騒ぎについては、アホらしいからもう書かないでおこうと思ったのですが…。昨日、ソフトバンク・インベストメントなんて会社が突然ホワイトナイトとして登場し、マスコミはさらにヒートアップして大騒ぎです。今朝なんかTVのどのチャンネルを回しても、朝のワイドショーでこの話ばかり。むさ苦しいホリエモンと、嫌味たっぷりの日枝に加えて、バカっぽい亀淵に加えて、野村證券出身の北尾なんて胡散臭い人物までが登場して、どうでもいいこと喋ってます。
 笑ったのは、朝日新聞の朝刊の社会面。ニッポン放送やフジテレビの社員が「ソフトバンクならなんとした会社だから安心」…といったコメントを連発していました。アホらしい。
 フジテレビ広報部も「放送とインターネットの融合を模索していた中で、IT最大手とお互いのニーズが一致した…」などとコメントしていますが、確か彼らは「ライブドアは目新しいIT技術なんか持ってないただの乗っ取り屋」とも言ってました。確かにその通りなんだけど、ソフトバンクはライブドアと違って実のあるIT企業だと思ってるのなら、そりゃ違うでしょ。
 ライブドアがどこにでもある「ホームページ制作会社」だった時代以降、光通信とツルんだ「サーバー会社」の時代を含めて、資金調達とM&Aだけに頼って発展してきた会社です。そこには、自社技術なんてものはありません。そしてソフトバンクも同じです。かつては「ソフトの卸会社」で、私がパソコンソフト関連の仕事を始めた1980年代後半あたりは、孫正義はエロゲーの卸でかなり儲けてたと思いますよ。1990年以降の発展は資金調達とM&Aだけに頼ったもので、やはりそこには自社技術なんてものはありませんでした。プロ野球の球団経営で楽天とライブドアが争った時に、ライブドアがアダルトコンテンツに関係している云々…で非難されたことがありましたが、2社の争いを横目に、ソフトバンクはちゃっかりとダイエー球団を手に入れました。かつてのソフトバンクが理念もクソもない「エロゲー卸会社」だったことを、みんなは忘れちゃったんでしょうか。
 少なくとも「IT企業」とは言えないソフトバンクが、まともな「ITと放送の融合」プランを持っているとは到底思えない。まあ、当面はせいぜいYahoo!向けのブロードバンドコンテンツの提供…ぐらいのつまんない話しか出ないでしょう。でも、孫正義はIT戦略会議のメンバーを務めるなど政府のお歴々の覚えも目出度いし、まあ日枝や亀淵のようなオジサンには付き合いやすいんでしょうね。
 この際、ニッポン放送もフジテレビも、そしてライブドアもソフトバンクも、みんなまとめて潰れちゃってくれないかなぁ…

2005/3/23

 連休中、所用で秋葉原のパーツショップ街に買い物に出かけたら、神田明神通りの三菱銀行の先、ラオックスコンピュータ館の向かい側あたりに見慣れない輸入食品の店が出来てました。面白そうなのでちょっと入ってみたら、お店のレジに「メイド」が立ってました。「エッ」と思ったのですが、別に売っているものは普通の輸入食品で、オタク系の店ってわけじゃなさそうです。なぜ食品店にメイドが…と思って調べてみたら、こちらに情報がありました。その店は「FOODS SHOP WATABE 秋葉原店」で、確かにメイドがいるんだそうです。いや、メイド喫茶(行ったことないですが)なんてこちらのサイトあたりを見ればわかるように、アキバだけでなく全国規模で増殖中のようです。風俗系のお店でもいまやメイド服姿は一般化し、AV分野でもメイドものが増えていると聞きました。
 なぜメイド姿がこれほど受けるのか、まあ男性にとって「女性に奉仕されること」に対する何がしかの期待感があり、それが性的な欲求にも繋がるからなんでしょうが、オタク文化系のサブカル評論は苦手なので、ここで素人の私が分析する意味はないでしょう。着ている若い女性の側も楽しんでいるそうですから、これはもうあまり理解できません。ともかく食料品店にもメイドがいる…という現実は、オタク系のメッカであるアキバの凄みと「格の違い」をあらためて見せ付けられた思いがします。

 私自身にとって「メイド」という言葉は、「奉仕」とか「ご主人様」などの単語とともに、何故か「コロニアリズム」を連想させます。傅く(かしずく)ように主人仕える…という形態は、まさに17世紀以降のアジアやアフリカの植民地において欧米人が現地人に強制した文化でした。昔、香港のペニンシュラホテルのロビーラウンジでお茶を飲んだときには、従業員がテーブルに傅くように跪いて紅茶をセットしてくれましたが、なんとなく違和感はありました。こうしたサービスを受けることについては、リアルな階級社会を維持している欧米人にはあまり違和感がないのでしょうが、日本で生まれ育った人間には相当に違和感があります。だから。コロニアル風のサービスを売り物にするペニンシュラやラッグルズなどのアジアの高級ホテルや、同じくアジアやアフリカの高級リゾート地は、どうも馴染めない日本人が多いようです。

 その欧米では、1980年代以降、「ポストコロニアリズム」が1つの社会運動の様相を呈しています。植民地政策を推し進めた当事者である欧米人は、いまや過去に自らが行った植民地政策の是非についての論争を前面に出すのではなく、植民地政策の結果起こった現状を正しく認識し、自らの植民地であったアジア・アフリカなど第三世界の文化や先住民の文化などを高く評価する方向に進んでいます。昨今妙に盛り上がっており、私が嫌いな「反グローバリズム」なんてお題目も、元を糺せばポストコロニアリズムが精神的な母体となっているものでしょう。ともかく欧米諸国は、過去の植民地政策における自らの行為を単純に反省する…というのではなく(反省しない…ということでもないが)、「多文化を容認し、異なる文化を積極的に評価する」「文化的多様性を持つ社会を構築する」という方向で、過去に自らが行った植民地政策に対する精神的な清算を進めているように感じます。クレオール主義なんていう「文化の混交、融合」を評価する動きも、ポストコロニアリズムに類したものです。

 このポストコロニアリズムの世界的な潮流、日本にとってもけっして他人事ではありません。欧米列強に遅れてアジアにおける植民地経営を試み、台湾、朝鮮半島、中国(満州)と植民地を拡大し、さらに大東亜共栄圏なる構想の下にさらに広大な植民地を求めて日華事変から太平洋戦争を戦った日本でも、当然ながらポストコロニアリズムへのアプローチが盛り上がってもよさそうなものです。むろん、日本にもポストコロニアリズムという領域で積極的に発言し活動する学者や論客が多数いますが、それにしてもこれらの論客の多くが、自分の国が行った植民地経営、つまり「日本のコロニアリズム」の話になると、なんとなく歯切れが悪くなるのは否めません。
 戦後の日本は、ポストコロニアリズムという形での植民地主義の清算を、ある意味で拒んできました。現在の日韓、日中の市民レベルでの軋轢の要因の1つは、おそらくこうした部分にあるのではないかと思うのです。ただし、日本が植民地主義、植民地政策の清算を拒んできた…という物言いは、誤解を受ける可能性があります。私が言う「清算」とは、どちらかと言うと左翼系に多い進歩的知識人がよく口にする「反省・謝罪」…を意味しているのではありません。むろん、逆に民族派の論客が言うところの「植民地の近代化を助けたのであって侵略ではない」…という見解を固めることでもありません。こうした感情的な論争は、ある意味で不毛な部分があります。
 先日この日記で竹島問題について書いたところ、予想通り何通かのメールを頂き、その中には「竹島は日本の領土と明確に書かないお前は売国奴」…のような内容のメールもありました。こうした意見には、どうも反論する気がしません。なぜかと言えば、私が普段考えていることとは、「視点」が全く異なるからです。現在起きている、日韓や日中の市民レベルでの軋轢について、「まずは反省」「まずは謝罪」とか、逆に「日本は悪くない」とか、そうした主張をぶつけ合ったり、互いの理屈の正しさを検証してみたり…という作業には、とんと興味が沸かないのです。

 日本は確かに台湾、満州、朝鮮半島を植民地として経営しました。国家事業としての植民地経営の是非は別にして、これは誰も否定できない歴史的事実です。そして、植民地である以上、欧米がアジアやアフリカの植民地に対して行ったことと同様に、自国の文化を強制し、植民地の住民を見下す扱いをしました。これもまた間違いの無い事実です。植民地における現地住民に対する残虐行為は、「キリスト教徒vs非キリスト教徒=文明vs野蛮・未開」と考えられていた18世紀以前に、イギリスがインドで、フランスがアフリカで、スペインが中南米で、オランダがインドネシアで、そしてベルギーがコンゴで行ったものと、日本が朝鮮半島や中国で行ったものは、多少様相が違ったかもしれません。しかし武力に基づく政治的支配を背景にした植民地経営ということであれば、少なくとも19世紀後半から20世紀に入って以降に欧米列強が植民地で行った苛酷な支配、例えばフランスによるアルジェリア支配などと大差ない程度には、日本も暴力的な支配を行ったことは事実でしょう。ここで、南京虐殺があったかなかったか…のような議論をする気はありませんが、例えば1990年に大手ゼネコンの鹿島と当時の中国人労働者・遺族との間で和解が成立した花岡事件は、裁判所も事実関係を認めた、誰も否定することができない「史実」です。国は違っても、植民地を経営する側の意識なんて大きな差はありません。でも、こうした歴史的経緯を双方の立場から検証し直すことや、植民地政策が国家運営の手法として世界の常識であった時代のモラルを、現代のモラルの視点から検証し直す問題などは、とりあえず私は置いておきたいのです(むろん、こうした問題を無視する…というのではありません)。

 私が思うのは、異文化や異質な価値観、異質な思考…といったものに対して、どう向き合い、どのように折り合いをつけていくべきか、ということです。
 日本という国が、こうした視点から植民地経営を行った過去を清算できないのは、おそらくいくつかの理由があります。
 欧米が、アジアやアフリカ、中南米など欧州とは全く異なる文化・文明を持ち、肌の色や体格も全く異なる地域を植民地化したのに対し、日本は文化面での類似が高い地域を植民地にした…という事実です。欧米人は、植民地経営に乗り出したとたん、「異質」と正面から向かい合う事態に陥りました。日本は、「異質」をさほど意識せずに「支配者と被支配者」の差別意識だけを醸成することになりました。
 また18世紀以前の欧州では、「キリスト教徒vs非キリスト教徒=文明vs野蛮・未開」といった論理的な正当性があったがゆえに、植民地政策には未開の民を導くという大義名分が与えられました。それに比べて日本は朝鮮や中国を「未開の民が住む地」などとは考えておらず、その意味では純粋に経済的な支配意図だけで植民地経営を進めました。
 そして、これは1つめの理由とも重なりますが、世界の多くの地域において、第二次大戦後数十年の間に人種や文化の混交が非常に早いスピードで進んだ中にあって、日本だけは異質な文化を拒否し続けて繁栄を享受してきた…という現実です。
 こうしたことから、次のようなことが言えると思います。近世以降の欧米は、そもそも「異質」(それどころか未開・野蛮の地、人)と認識していた植民地の文化に対して、ある時期から「対等の国家同士、人間同士」として向き合うことを迫られたのです。さらに第二大戦後の欧州諸国は、国内に旧植民地出身者である多数のイスラム教徒や黒人などを抱えることで、異質なものと正面から向かい合うことが必然的に要求されました。それは、どのようにして異質な存在との「理解」「共存」を深めるか…という精神的作業でもあり、その作業をする中で、嫌でも植民地経営を行った過去にも向かい合わざるを得なかった…のではないかと思うのです。むろん欧州には、ネオナチに代表される排他的な潮流も確実に存在しますが、少なくとも学問のレベル、知識人のレベルでは、文化的な清算が進んでいるだけでなく、新しい価値や文化を見出す方向に進んでいることは事実です。

 それに比べて、文化的共通点が多く肌の色や体格も共通した地域、そして古代からの長い文化的交流を持つ地域を植民地とした日本人は、欧州諸国が植民地で直面したような「異質」と正面切って向かい合う必要がありませんでした。戦後も多数の中国人や朝鮮半島者を国内に抱えながらも、そうした人々に対しては「同化」を求めることで処理してきました。そして例えばイスラム圏やアフリカ圏に住む人々、すなわち「明らかな異質」との出会いを避ける方向で国家を運営してきました。これは、世界各地からの移民、難民、亡命者などを基本的に受け入れない…という先進国では稀な姿勢となって、現在に至っています。要するに日本は、過去の植民地政策を文化的な側面で清算することなく、21世紀を迎えたのでしょう。
 むろん、異質なものや文化との共存を拒む…という国家のスタンスがよいか悪いか…は別問題です。某都知事のように治安問題を挙げて外国人の排斥を主張する人もいますが、果たして今後の世界は、そのような国家、国のあり方…が存在することを許すのでしょうか。これは、誰かが許す許さないという話ではなく、「地球上に住む人類全体、国家間の新しい枠組みがもたらす状況」が許さないだろうと思っているのです。
 第一、現実に日本国内には100万人を超える在日韓国人が居住しており、その他の国から来る「外人」も、非常な勢いで増えています。私のオフィスがある豊島区は、夜間人口の1割を超える外国人が居住し、ゴミ出し場には数ヶ国語で説明が書かれています。こんな国に住みながら、異文化を拒絶する…では、暮らしていけないのではないかと単純に思います。
 そして当たり前の話ですが、現在の世界を見渡して、単一の文化や単一の価値観で成立している国なんてほとんど存在しません。この日本も例外ではありません。最も判りやすい例で言えば、日本が世界に誇る文化である「磁器」の技術は、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)で秀吉の命で佐賀藩の鍋島直茂が連れてきた朝鮮の陶工によってもたらされたものです。朝鮮人陶工の李参平が泉山に白磁鉱を発見した…と記録にあります。他にも、毛利輝元が連れ帰った朝鮮の陶工李敬一族が萩焼開窯の祖となったとの記録もあります。陶磁器に限らず、古代から、また中世以降続く日本の伝統的文化の多くは、大陸からもたらされたものである事実を、誰も否定はできません。古事記、日本書紀に書かれた日本人の誇りともされる神話世界すら、韓国・中国の古代神話との多大な共通点から見て、何らかの影響があったことは否定できません。伊勢神宮の祭神、皇祖神であるアマテラスの伝説も、こうした東アジアに共通する神話世界と深い繋がりがあります。さらに道教的な神仙伝説の影響も受けていると言われています。
 日本という国に誇りを持つのは、よいことかもしれません。しかし、日本という国や文化に誇りを持つということは、少なくとも近隣諸国の文化との混交を前提とする話になります。

 そんな話以上に、私は「文化のダイナミズム」を高める方向に世界は進む方がよいと考えます。例えば、ポスト・コロニアリズムの最も一般的な定義は、次のようなものです。
 …社会や文化を単一な民族と共通の言語に基づく一元的なものとみなす従来の見方を批判して多様性と重層性を強調する。社会や文化は「混血=雑種(ハイブリッド)化」によってこそダイナミックに変化していく…
 「社会や文化は「混血=雑種(ハイブリッド)化」によってこそダイナミックに変化していく…」、こうした考え方は、私の普段思うところと一致します。日本は、「内に抱える異質」や「近隣諸国の異文化」と向き合うことで、社会が「面白く」なっていくはずです。面白い社会…こそが、私の望む社会です。少子化が進む日本こそは、もっと積極的に移民を受けいれるべきだと思います。

 竹島問題だけでなく、韓国や中国などの近隣諸国との文化的軋轢が起こる度に、その原因や主張の違いををチマチマと検証する気にはなれません。それよりも、かつて日本の植民地であったこれらの国との今後を考えるために、いろいろな本を読み直します。
 例えば、ポストコロニアリズムの潮流の幕が開けるきっかけを作ることにもなったエドワード・W. サイード「オリエンタリズム」はむろん、G.C.スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」、パトリック・シャモワゾー/ラファエル・コンフィアン「クレオールとは何か」、今福龍太「クレオール主義」、本橋哲也「ポストコロニアリズム」、姜尚中「オリエンタリズムの彼方へ−近代文化批判」、岡倉登志「野蛮の発見」…、こうした本の中から、もしかすると、日韓、日中がうまくやっていくための何らかの示唆が得られるかもしれないと思うのです。
 私は学者でもなければ知識人でもありません。市井に棲む一介のオジサンに過ぎません。だから難しい学術文献を読んだりはしませんが、こうした本の大半は文庫や新書で購入できるものばかりです。また、ただのオジサンではありますが、海外での居住経験を持ち、現在もなお海外を旅することが好きな私は、異文化と接触することが何よりも好きなのです。そしていつも、多様性を持つ「面白い社会」に生きていたい…と考えています。

 いや、アキバの話、メイドの話から、とんでもない、しかも長い与太話に発展してしまいました。ほとんど無意味な戯言なので、無視してください。

2005/3/17

 朝鮮日報中央日報/、東亜日報など韓国メディアや韓国のネットコミュニティの書き込み(日本語化されているもの)などを読むと、今回の島根県議会による「竹島の日」条例制定に対するの韓国の一般市民の反発は、すさまじいものがあります。

 私は領土問題にあまり関心がありません。これは「国益」の話とは無関係の理由なのです。
 世界の歴史を見ていると、「国家」なるものが地球上に発生したその時から、人間は領土を争ってきました。当然ながら、古代から中世にかけての農耕社会において富を生み出すのは土地の生産力であり、統治システム、経済システムが同じなら、より広い土地(と人口)を持った国の方が高い国力を持つことができたからです。むろん、中世以降は商業(貿易)、工業、海洋・海底資源といった土地の面積以外の要素が国力を大きく左右してきましたが、そんな現代でも、依然として「領土」は国家の力を測る象徴的存在です。そうして、古今東西長い間飽きもせずに「領土」を争ってきた地球上の全ての国家は、結果として「武力で奪った土地」を自らのものにしてきたわけです。
 地理上の発見以降の欧州列強は、アジアやアフリカの土地を自らの領土にするために互いに奪い合いました。その一部は、未だに領有を続けています。アメリカはネイティブアメリカンの土地を武力で奪ってきたわけですし、イスラエルはパレスチナ人の土地を武力で奪って建国されました。こんな話を書いていたらキリがありません。
 だから、「もともと誰が生活していたか」「本来は誰のものか」「どの民族の拠点だったか」なんて議論は、領土の問題を考える上でほとんど無意味です。また、「何百年も前にどこの国の主権が及んでいたか」なんてことを議論することも考えることも無意味です、そんあことを領土問題の基準に持ってきたら、世界地図は全面的に書き換えられてしまうことになります。地理上の発見以降に作られた「国際法」なんて、土地を収奪し、侵略した側に都合よく作ってあるのですから、何の解決策も提示しません。こうした「領土を巡る歴史的経緯」こそが、私が領土問題にあまり関心を抱かない理由です。

 「竹島は日韓のどちらの領土か」という問題については、今回の問題が起こって、初めて調べてみました。また日韓両国の公的な主張も読んでみました。
 確かに複雑な問題です。周辺の小さな島嶼を含めて、島の名称自体が曖昧ですし、どんな資料文献の表記がどの島に該当する記述なのか…すら曖昧です。
 そして、もともとどちらの国の人間がこの竹島に生活の場を置いていたのか…なんて話は、日韓両国の主張が違って当然ですし、どちらが正しいかなんて決められるものではありません。
 そうなるとこの竹島問題の争点は、だいたい次のような部分に集約できそうです。日本側はあくまで、「1905年に竹島を日本領と公示した時、朝鮮は何も不服申し立てを行っていない。従って、この時点で国際法上竹島は日本領土と認められる」…というのが最大の主張となるでしょう。韓国側は1905年の日本の公示を認めた上で、太平洋戦争で日本が敗戦した後1946年のGHQ指令「若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書」、そして「日本は、暴力及び貪欲により略取した一切の地域より駆逐さるべし」と規定したカイロ宣言によって、1905年の日本の領有公示は無効…と判断しているわけです。

 まあ、日本側の主張にも十分な根拠があるし、韓国側の主張にも論拠はあります。どこかのWebサイトに「…当時(1905年2月22日)の韓国は歴然とした独立国。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、1905年11月17日。従って強奪でも強制でもなんでもない。大韓帝国は主張できる立場にあった…」などと書いてありましたが、私はそうは思いません。日本の韓国への干渉は1876年の江華条約あたりに始まり、日清戦争後の1895年の下関条約で日本は朝鮮から清の勢力を排除し朝鮮半島への影響力を一気に強めました。同年、閔妃暗殺事件が起こっています。1904年2月、旅順攻撃の日に日韓議定書、同じ日露戦争中であった1904年8月には第一次日韓協約を結び、日本政府が推薦する者を財政・外交の顧問とすることを強制した…という経緯を見れば、日露戦争中の日本の軍事プレゼンスに大きな圧力があった1905年当時の韓国で、日本の領有公示に対して韓国政府が異議を唱えることが出来た…なんて話はバカバカしい。そうなると朝鮮半島本土はむろん、竹島も「暴力及び貪欲により略取した一切の地域」に該当する可能性はあります。

 私は竹島問題について、何が言いたいわけでもありませんし、日韓両国のどちらの主張が正しいのか正確に判断するだけの知識は、今のところありません。ただ先に書いたように、世界史を見る限り、領土問題というのはある意味でバカバカしい部分があります。アメリカは今後絶対にネイティブインディアンに土地を返すことはないでしょうし、オーストラリアがアボリジニーに土地を返すことも無いでしょう。パレスチナからイスラエルが出て行くことはないだろうし、ジブラルタルだって、イギリスは領有し続けるでしょう。世界の中で、「○○固有の土地」なんてものは、ほとんど存在しないのです。
 まあ、あえて言えば、日本が本当に竹島に主権を確立したければ、過去の世界の歴史を見る限り「武力で占領」するしかないかもしれません。

2005/3/14

 マラッカ海峡で海賊襲撃、邦人ら誘拐 …という記事(こちらこちら )が、ニュースを賑わせています。
 「マラッカ海峡で海賊」と聞いて、インドネシアのブギス族の名前を思い出した人は多いと思います。むろん、今回の海賊がブギス族であるかどうかはわかりません。しかし、現在もインドネシア、南スラウェシを中心に多くの人が住むブギス族は、古代から優れた航海術と造船技術を持つ海洋民族として有名であり、しかも大航海時代に香料を求めてインドネシアに訪れたポルトガル人やオランダ人によって「精強な海賊の民」として伝えられてます。
 ブギス族で思い出すのは、以前読んだ、ステルス艦の女性艦長アマンダ・ギャレットの活躍を描くジェイムズ・H・コッブ著の軍事小説"カニンガム・シリーズ"の第3作、「攻撃目標を殲滅せよ―ステルス艦カニンガム3・上下」(文春文庫)です。この小説では、南太平洋で回収中の人工衛星が海賊に強奪され、それが大掛かりな海賊組織の犯行によるものだとわかり、その犯人たる大物インドネシア人が率いているのがブギス族…という設定なっていました。

 海賊…という言葉からブギス族の名を挙げたからと言って、優れた海洋民であるブギス族の名誉を傷つけるつもりは全くありません。ある資料には次のように書いてあります。
 「…ポルトガルやオランダが来る以前から、アジア多島海にはイスラーム港市が栄え独自の交易圏ができていた。島々は船で結ばれ、優秀な造船術と航海術を持つ海の民ブギス・マカッサル族がアジアの海を走り回っていた。そこに、勢いの衰え始めたポルトガルに代わってオランダが、香料貿易の独占を図って進出する。海の民はオランダに背く者、従う者に分かれ戦い始めた。アジアの海民は、大航海時代を築いたヨーロッパの航海術に劣らぬ技術を持っていた…」
 ブギス族は、アジア多島海地域に西洋による植民地支配が及ぶ以前は、多島海の経済的支配者でもあったわけです。
 第一、北欧のバイキングの例を出すまでもなく、中世から近世にかけて欧州の多くの国家にとって、海賊行為は立派な経済行為でした。中世の地中海では、ジェノヴァなどイタリアの海洋国家の私掠船やイスラムの私掠船などが入り乱れて、海賊行為は日常的なものでした。大航海時代以降は、アジアの海ではオランダ、ポルトガル、イギリスなどが入り乱れて、お互いの根拠地や船舶を襲いあいました。
 そして海賊と言えば、やはり国家を挙げて海賊行為を働いたイギリスを思い起こさずにはいられません。こちらこちらを読むとわかるとおり、スペインの無敵艦隊を破ったフランシス・ドレイクは、新大陸から富と黄金を持ち帰るスペイン船を武力で襲い略奪する私掠船を率いていた人物であり、それはイギリス王室の意に適った行動でした。ドレイクらがスペインから略奪した富がイギリスの国家財政を潤し、それが後の産業革命の礎となった経緯については、私が説明するまでもありません。フランシス・ドレイク海賊によって挙げた功績によって「サー」の称号を得たのです。
 そして日本も同じです。瀬戸内海の河野水軍や肥前の松浦党などは、優れた航海術でアジアの海を荒らしまわった海賊集団としても有名です。

 それにしても、中世のカリブ海じゃあるまいし、この21世紀になった現代でも国際海域に「海賊」が出没する…という事件に、何となく違和感を感じられる方もいるかもしれません。しかし、今も海運業者にとって海賊は大きな脅威です。特にマラッカ海峡周辺などでは、商船の海賊被害が多発しています。日本船主協会のサイトには「海賊インフォメーション」というページがあり、海賊被害の状況が詳しく報告されています。サイトの中では、海賊警報装置「とらのもん」なんてものも紹介されています。これは細いワイヤーを甲板際に取り付け、不法侵入者がワイヤーに触れると警報が鳴る仕組み…だそうです。
 いや、今回の事件で誘拐された日本人船員のことは気掛かりです。心より、無事をお祈りします。

2005/3/12

 福井晴敏「終戦のローレライ」、先月文庫化されましたね。映画化もされて、まさに旬の物語です。ベストセラーは読まない…という「歪んだ、本読みの矜持(?)」から、ハードカバーが話題になった時から、手にとって見る気は全くありませんでした。それに、こんなに内容に関する情報があちこちに流出していれば、読まなくても読んだ気になります。
 ところが何を思ったか先日文庫を4冊まとめて購入し、深夜芋焼酎をロックで飲みながら、3時間ちょっとかけて一気に読みました。ついでに翌日の夜、同じ福井晴敏の「亡国のイージス」を購入して、2時間かけて読了しました。
 …で、「終戦のローレライ」の感想は、「鬱陶しい」(最近では「うざい」が一般的か?)の一言に尽きます。

 何を鬱陶しいと感じたのかといえば、むろん「個人と国家の関わり」についての主張をやたらと登場人物の台詞で押し付けられること…に尽きます。別に作者が、「国家と個人の関わり」についてどう考えていようと構いません。それを小説の形で主張するのも結構。しかし、もっとスマートにやって欲しい。この小説に限っては、登場人物の台詞は臭過ぎます。「ローレライ」なる兵器の設定を含め、小説全体のプロットも、先に「国家と個人の関わり」に関する主張があって、それを効果的に主張するために無理矢理設定したような不自然さが漂います。「亡国のイージス」も、全く同じです。いや、直截的に語られる主張の鬱陶しさは、「終戦のローレライ」以上かもしれません。
 この不自然さと主張を押し付けられる不快さ…って、誰かの小説に似ていると思ったら、思い出しました。トム・クランシーです。彼の小説は暇つぶしにはいいんですが、元CIA分析官で後にアメリカ大統領になるジャック・ライアンなる人物が主人公のシリーズ、あれって「アメリカの正義」「国家への奉仕」といった概念をやたらと押し付けられる、実に不愉快な部分があります。「終戦のローレライ」や「亡国のイージス」と、ある面でよく似ています。
 私は、軍事小説の類を読まないわけじゃない。例えば、パッとは思い付きませんがデイル・ブラウン、ラリー・ボンド、リチャード・ヘンリックあたりは、文庫の新刊が出るたびに全部読んでます。だから、戦争をテーマにした小説が嫌いといわけじゃありません。しかし、この手のエンターテイメント小説で、「主張を押し付けられる」のは好きではありません。

 ミステリーやアクション小説の類でも、人間の心の動きや、人と人との繋がり、生き方、そして国家と個人の問題、民族の問題などを考えさせられるタイプの小説はたくさんあります。もうこれは挙げていくとキリがない。例えばデニス・レヘインの「ミスティック・リバー」のような、深い読後感を持つミステリーは大好きです。ジョージ・P・ペレケーノスだって、アメリカ社会におけるマイノリティのポジションに対して、非常にスマートな主張を込めています。しかし、けっして「作者の主張を押しつけられる」わけではありません。国家と個人の関わりなんて問題であれば、例えば高村薫の「李歐」あたりは、ごく自然にそうした部分を考えながら読まざるを得ません。でも、福井晴敏のように「直截的」でもなければ、「鬱陶しさ」もありません。
 結局のところ、「終戦のローレライ」や「亡国のイージス」なんてのは、作者が何かを主張したいがための小説だとすれば、やり方が「下手」なんですね。マンガや娯楽映画の原作にはいいいかもしれませんが、大人の読む小説からは程遠い感じ。やっぱり、福井晴敏を今まで読まなかったのは正解だったし、今回読んでみて「2度と読まない」ことを再確認しました。


2005/3/11

 京セラが年内めどにデジタルカメラの国内販売から撤退…というニュースがありました。
同じニュースには「…海外向けデジカメは、銀塩カメラの市場がある中近東やブラジル、東南アジア・中国で市場が見込めるとし、他社に生産委託し販売を続ける計画」…とありますから、カメラ事業からの全面撤退ということではなさそうです。
 まあ、京セラのデジカメって個人的には特に魅力を感じる機種はなかったのですが、京セラのデジカメに一定のクオリティ部分でのイメージ付けがなされていたのは、やはり「コンタックス」ブランドに拠るところが大きかったことは確かです。そして京セラの光学機器製造部門は、ご存知の通り旧ヤシカを引き継いだものです。私は、京セラブランドのデジカメがどうなろうと何の感慨も感じませんが、ヤシカというブランドには、かなりの懐かしさを感じる世代です。

 終戦直後に八州光学精機として創業したヤシカは、技術面で定評のあるカメラメーカー、レンズメーカーでもありましたが、そのヤシカのレンズ製造技術は実は戦前からの名門光学機器メーカーである富岡光学(現・京セラオプティックス)から受け継いだものでした。
 操業当初のヤシカはカメラのレンズの供給を富岡光学に依存していました。そしてその後ヤシカは、その富岡光学を参加に納める形でカメラメーカーとして発展してきた経緯があります。
 富岡光学は昭和初期に創業した名門光学機器メーカーで、第二次世界大戦前後には射撃照準器など軍用の光学機器(こちらを参照)を製造していました。戦後のカメラブームの中では、ヤシカ以外にもリコー、Polaroidなど多くのメーカーにカメラ用レンズを供給してきました。ヤシカに対しては、レンズを供給するだけでなく、カメラ自体も設計・製造して供給していたようです。富岡光学はヤシカの傘下にあった時代から、コンタックスのレンズを製造しており(ライカのレンズもOEM生産していたという話もあります)、その後ヤシカが京セラに吸収・合併されて後は京セラオプティックスという社名になり、コンタックスレンズを製造し続けて現在に至っています。

 ヤシカのカメラに最初に接したのは、まだ中学生の頃、友人が親に買ってもらったことを自慢していた「エレクトロ35」です。エレクトロ35は最新の電子シャッタ−と絞り優先のAEを装備したレンズシャッター機で、その先進性を感じさせる「エレクトロ」という名称も好イメージにつながり、当時空前の大ヒットとなったカメラでした。そしてこのエレクトロ35のレンズも富岡光学の手に拠るものです。
 そしてもう1つヤシカで思い出すのは、FX-3という一眼レフカメラです。私は昔仕事用にPENTAXのMXというマニュアルカメラを使っていたのですが、それを仕事で長期滞在するニューヨークに持っていくときに、M40oF2.8という、いわゆるパンケーキレンズを買って持っていきました。ちなみに、「DA 40mmF2.8」というデジタル一眼レフ用レンズとして復活していますね。全く、このレンズを使うためにだけでもistDを買ってもいいと思っているぐらいです(APS-Cで使うと焦点距離が60oになっちゃいますが…)。
 「PENTAX MX+M40oF2.8」でのスナップの使い心地の良さにハマった私は、その後「軽量マニュアル一眼レフ+パンケーキレンズ」という組み合わせをさらに2組も購入し、計3組も所有していました。まずは「オリンパスOM-1+同40o・F2」、そしてもう1つが「ヤシカFX-3+テッサー45oF2.8」です(当時XR RIKENON 45mm F2.8というリコーのパンケーキレンズもありました、これは使ったことがありません)。
 さて、いかにも安っぽいヤシカFX-3は、MXと比べてファインダーが暗いこと、分割巻上げができないこと、ボディがちょっと滑りやすくホールド感に難があること…などの問題がありました、それを除けば非常に小型軽量シンプルなカメラで、使い心地は悪くなかったと思います。ボディはボロボロ、レンズにカビが生えちゃいましたが、今も手許にあるので、そのうち写真をアップします(前にアップしたかも…)。

 京セラのデジカメ撤退の話からとりとめのない昔話になりましたが、何はともあれ海外向けでもいいから、「富岡光学→ヤシカ」の伝統を絶やさないように、銀塩カメラの生産だけは続けて欲しいものです。ただ、ニュースによると「他社に生産委託し販売を続ける」とのことなので、もうまともなカメラは出ないかもしれません。

2005/3/7

 Yahoo!のニュースにも掲載されていた「バンダイはドラえもん建造計画を成し遂げられるか?」という記事…を読んで、「夢」とか「感動」といった言葉についていろいろなことを考えてしまいました。
 この記事を読むと、まずは「子供に夢を提供するため」「感動」を創りだすという分野」などと、夢や感動という言葉を高く評価する論調になっています。私は、この夢や感動という言葉を高く評価する昨今の風潮に、なんとなく疑念と危惧を感じるのです。

 まず先にはっきりとしておきたいのですが、本物のドラえもん(むろん普通にスムーズに2足歩行して、自発的意思を持ち、人間と普通に対話するロボット…という意味)は10年経っても絶対にできないし、「本物に近い」ものだって5年後を想定しても絶対に無理でしょう。2足歩行などメカトロニクス関連の問題は別にしても、ドラえもんのようなフレンドリーなロボットを作るためには、人工知能(古い言葉ですが…)と人間並みのパターン認識能力が不可欠です。
 人工知能なんてものは、莫大な費用を掛けて各所で何十年も前から研究されていながら、ほとんど研究が進まない…という典型的な分野です。まあ、今後何年研究を続けても、「人間の能力と比較できる」レベルのコミュニケーション能力を持つ人工知能の開発は不可能でしょう。
 パターン認識は、目的を絞ることで実用化が進んでいますが、人間の能力からは、あまりにかけ離れたレベルでの進歩に過ぎません。音声認識のレベルなんて、10年前と比較してもその進歩は遅々としています。画像認識・視覚認識も同じ。確かに、産業用途や特定目的に絞れば、文字や顔、姿・形の認識能力などもかなり進み、実用レベルで使われ始めましたが、それでも人間の持つ能力と比較すればお話にならないレベルです。指紋や掌形などを正確に認識することはできても、人間の持つ全体的な雰囲気、漠然とした特徴などから総合的に個体を識別するには程遠い…という段階です。第一、OCRレベルの文字認識でも、手書き文字となると人間の認識能力に遠く及びません。字が傾いていたり、汚れていたり、崩してあったりしたら、もう機械は読み取ることができません。手書きの草書や行書を実用レベルで読み取るOCRなんて、5年後にも実用化には至ってないでしょう。こんなことは、実際に研究している人間がいちばんよくわかっているはずです。

 まあ、「実現不可能なものに挑戦してみよう」という話を、まるまる否定するつもりはありません。ライト兄弟による飛行機の発明や、近いところでは青色発光ダイオードの実用化などを例に出すまでもなく、過去の人類の歴史の中では、「実現不可能なものへの挑戦」が、科学や技術を発達させてきました。しかし、「夢」を追うものならば、子供や大衆に「夢や感動」を与えるものならば、どんな開発活動も評価する…という姿勢は誤りです。
 先日、産総研が多大な開発費用と開発時間をかけてアザラシ型のロボット「パロ」を開発して市販する…という話がマスコミを賑わせました。各種センサーを備えて人間の言葉や行動に反応し、いわゆる「癒し効果」を持つロボットだそうです。その癒し効果については、心理的効果、生理的効果、社会的効果が認められているそうです。しかも、最新版は7カ国語の音声認識機能を備えているとのこと。でも、この「パロ」の動作をTVで見ていましたが、くだらないものだと感じました。おもちゃ会社が作るのならともかく、税金を遣って産総研が開発するような代物だとは到底思えません。バンダイのような民間企業なら、「夢」にいくら金を注ぎ込もうが、株主以外は別に誰も文句を言う筋合いではありません。しかし、仮にも産総研(産業技術総合研究所)は独立行政法人であり、その運営には膨大な額の税金が注ぎ込まれています。こんなくだらないロボットの開発にに、公的研究機関に何億、何十億もの税金を掛けられてはたまりません。

 「夢を追った」人間が、科学技術に限らず、芸術や文化の面で様々な成功を成し遂げてきたことは事実です。しかし、人間が生きていく上で「夢と現実」のバランスが不要かと言えば、決してそうではありません。最近世の中に足りないのは、夢や感動ではなく、「現実とのバランス」の方だ、という気がしています。
 特に私は、昨今「夢」と言う言葉は「過大評価されている」と思います。子供や青少年に「夢を持て」と教えるのが間違いだとは思いませんが、「夢」だけを持ち続けていればどんな人生も豊かになる…というわけではないからです。実際、この不況下の日本にあって、「夢」と「現実」の区別がつかない若者が増えています。急速に増えつつある10代から20代前半のフリーターやニートの一部は、明らかに「夢」という言葉に逃げています。歌手や俳優、TVタレントや舞台役者になりたいとか、メジャーなバンドを作りたいとか、どう考えても実現が困難な目標を「夢」に設定し、高校や大学を中退したりしてフリーターを続けている…、こんな若者が増え続けていることは、けっしてよいことではありません。さらにこうした若者の多くは、「自分の夢を追いかけている」と言えば、大人が反論しにくいことを、ある意味でよく知っているのです。場合によっては、自分自身をも騙しているケースも多いと思います。大奥の場合は、現実逃避でしょう。
 同じような問題は、受験の世界にもあります。医師になるために難関の医学部を目指して何年も浪人したり、会社をやめて再受験したりする若者が増えているのも、こうした現象の1つでしょう。司法試験合格を目指して、会社を辞めてロースクールに入り直す若者なども増えています。こうした行動は一見すると夢を追っているように見えますが、自分の実力を正確に評価していない例も非常に多いように見受けられます。これまた、甘えた現実逃避が多いのでしょう。

 子供や若者に、「世界に1つのオンリーワン」とか「夢を持て」などの言葉をかけることが一概に悪いことだとは言えません。しかし彼らに、現実とは何か…を教えるのも、周囲の大人や教育現場が果たす役割であり、しかも重要な役割だと考える次第です。子供や若者に対して耳障りの良い言葉だけをかけ続けることは、彼らに媚びていることでもあり、また大人の責任を放棄していることでもあります。

2005/3/5

 昨日は、東京に雪が降りました。たいした積雪量ではなかったのですが、こちらのニュースを読むと、ケガ人も結構出てます。ここ数日、青森では記録的な豪雪で被害が拡大しています。やはりこの冬記録的な積雪の被害受けた新潟県では、数百の家屋が積雪の重みで倒壊しました。考えて見れば日本という国は、関東以北及び広範囲な日本海側を中心に半分近くの都道府県で積雪による被害を蒙っています。降雪がなくならなくとも、降雪量が少しでも減れば、人は暮らしやすくなりGDPも上がるでしょう。
 先日、あの胡散臭い京都議定書が発効しましたが、今冬の各地の雪害状況を見ていると、あらためて「地球温暖化のどこが悪い」…という気になります。よく言われる「海面の上昇」や「砂漠化の進展」なども、地球温暖化の影響ではない…可能性が高いと見ています。
 難しいことを考えなくとも、気候は寒いよりは暖かい方がいいに決まっています。「暖かい」を通り越して「暑く」なったとしても、別に困ることはない…というのも当然の話です。人類が生活を営むにあたって、気候が「暑くて困る」ことよりは「寒くて困る」ことの方がはるかに多いわけです。そんなわけで、私は最近「地球温暖化のメリット」を合理的に説明するソースを、けっこう気に掛けています。
 以前Blogでも書いた通り、温暖化によるメリットは非常に大きいわけです。積雪地域が温暖化で受けるメリットは半端なものではありません。

 日本の積雪地帯の話だけでなく、ともかく世界には「寒いゆえに作物ができない」…という膨大な土地がります。シベリア、アラスカ、カナダ北部、グリーンランドなどで農作物が採れるようになれば、食糧問題の解決には大きく寄与するでしょう。
 「二酸化炭素地球温暖化脅威説批判」、そしてこの中で引用されている「CO2温暖化脅威説は世紀の暴論 −寒冷化と経済行為による森林と農地の喪失こそ大問題」によると、「…気温が低い時代は人類は不幸であった。その理由は,陸の光合成は気温が15℃以上でなければならないからである。現在、平均気温が15℃ということは、陸地の半分で光合成ができないことを意味する。これが低温になると、この面積が増えて、食料が得られなくなる」…と、とても納得できることが書いてあります。
 「地球温暖化京都会議への消えない疑問」…あたりも気になるソースです。

 地球温暖化の話は、温暖化することで実際にどんな影響があるか…という視点よりも、「人間の営みが地球環境や生態系に影響を及ぼすことはよくないこと」、というあまり根拠のない「哲学的視点」によって語られることの方が多いように思います。
 「…この地球温暖化の本質的な問題はなんだろうか?それはおそらく、人類の活動が地球全体の環境に影響を及ぼす可能性があるということであろう。地球温暖化の問題というのは、温暖化そのものにあるのでは なく、人類が温暖化を引き起こす可能性がある、という事実に問題があるのだろう。しかもそれによって被害を受ける人たちと、加害者たちの立場が全く異なることも、ことさら問題を大きくしている」…と書く、こちらのサイトにも、そうした考え方が書いてあります。

 私は、「人間の営みが地球環境や生態系に影響を及ぼすことはよくないこと」…という考え方自体に、多少の疑問を抱いています。  考えて見ると、生物は生きていること自体が環境に影響を及ぼします。…というよりも、生命が誕生し、生物が繁栄することによって地球の環境は変わってきました。海中に葉緑素を持って光合成 (水と二酸化炭素と太陽のエネルギーを使って酸素を放出する)を行う植物の祖先(藻類)が誕生したおかげで、地球上に初めて酸素が供給され、酸素で呼吸する生物が誕生することになったのです。また太古の時代に地球上には生物が生存できないほど強力な紫外線が降り注いでいましたが、植物が放出する酸素の一部がオゾンに変化して 大気圏に蓄積されたおかげで、地球上に静物が住めるようになりました。
 こうした経緯を踏まえて思うのですが、「自然の生態系」なんてものは、巷間言われるほどバランスがとれているものなんでしょうか? 仮に人間が地球上に誕生していなくとも、地球上に住む生物の自然な営みによって、逆に生物が棲めない環境が創出される…というケースはあり得ないのでしょうか? 例えば、突然変異で二酸化炭素や窒素を大量に生成・放出するような生命体が繁殖し、全ての動物が絶滅する…ということだって、十分にあり得ると思うわけです。地球上に生命が誕生してそれが進化したこと自体が、途方もない偶然の出来事です。逆に、偶然の出来事で、地球上に全く生命が住めない環境に変わることだってあるはずです。

 こうして考えて見ると、「人類」という知性や向上心を持つ生物が誕生し、利便性の高い生活を送りたいという欲望に従って、化石燃料など地球上の様々な資源を利用してモノを作り出してきた経緯は、ある意味で「地球にとって自然な経緯」であるのかもしれません。
 むろん「自然な営み」の範囲をどこまで許容するか…という問題はあります。しかし、本来暗闇である夜に明々とネオンサインを輝かせてエネルギーを消費している人間の行為を「不自然」とするならば、様々な薬品や治療器具を作り出して病気の治療を行い、寿命を引き伸ばしている人間の医療行為もまた「不自然」です。

 まあ、いろいろな意見があってよいのでしょうが、私自身は地球温暖化を歓迎します。凍えるような冬のマンハッタンの深夜のバーでビールを飲んでいるのも嫌いじゃないけど、灼熱のバンコクの屋台で昼間からビールを飲んでいるのも好きです。年をとったせいか、寒い場所よりも暑い場所の方が好きになりつつあります。

2005/3/1

 1月から機を見てポツポツと気まぐれに書き続けてきた「良い写真とは?」という駄文、そろそろお終いにしようと思います。

 このサイトの中で私は度々、「写真撮影の本質は、被写体と撮影する自分との関係性の問題」「写真を撮るという行為は、多くの場合、対象物(被写体)を本来存在する場所から切り離して自分の世界に取り込む作業」「写真を撮るという行為は、個人的に『風景を記号化』する作業であり、所詮は独りよがりな行為」…等々の発言をしてきました。まあ、誰もが思う通りの至極当たり前のことを書いているだけであり、特にオリジナリティのある意見というわけではありません。
 こうした意見ゆえに、このサイトでは、多少なりとも「デジカメのスペックに拘る人々」や「極小画素CCD撲滅論信者」等に対するアンチテーゼの意味を込めて、「カメラのスペックなんてどうでもいい」と書き、さらに「安くて小さいカメラの楽しさ」を何度も主張してきた…という部分があります。むろんこれすらも、私の強い主張ではなく、ましてや何かを啓蒙しようという大それた意図でもなく、要するにデジカメも銀塩カメラも安物ばかり買い続けてきた私という人間による、「ある種の言い訳」だったような気もします。

 ところで、私は「饒舌なアーティスト」が嫌いです。饒舌なアーティストとは、自分の作品について、また自分の作品の解釈について語る人を指します。作品を見るものに解釈を委ねるのではなく、自ら解釈する人です。絵画、彫刻、音楽、文学などジャンルを問わず、「アート作品を見て(聴いて)何を感じるか」は、鑑賞者だけに判断が委ねられるべきです。そしてそれを全面的に鑑賞者に委ねた場合、鑑賞者ごとに感じ方が異なるのが当たり前です。
 そこで「写真」を、他の芸術作品と同等の位置に置いて考えると、結局、誰かが撮影した写真作品を鑑賞する側にとって「良い写真とは?」という問いに対する答はありません。各個人で答が異なる…という当たり前の結論になるからです。しかし、「撮影者にとっての良い写真」…であれば、これは確実に存在します。それは、写真を撮影する瞬間、自分が「何を撮ろうと思ったか」「どのように撮ろうと思ったか」といいう部分について、後からその写真を自分で鑑賞して「撮影意図通りに撮れている写真」が、「良い写真」です。言い換えれば、「どのように風景を記号化しようとしたのか」という意図に合致した記号化がなされていれば、それが撮影者にとっての良い写真、ということになります。

 さて、自分で「鑑賞する側にとって『良い写真とは?』という問いに対する答はないが、撮影者にとっての良い写真という答なら存在する」…と書いておいて、この言葉を翻すような話を書きます。「鑑賞する側にとっての良い写真とは、各個人で答が異なる」…という当たり前の話が結論では、あまりに芸がありません。

 ロバート・キャパが1936年のスペイン市民戦争で撮影した「崩れ落ちる兵士」という有名な写真があります。兵士が銃弾に倒れる一瞬を撮影したもので、写真が有名になっただけではなく、写真家としてのキャパをも一躍有名にしたのは誰もが知るところでしょう。
 まったくもって奇跡的な偶然の産物としか言いようがないこの写真については、「キャパがポーズを取らせたヤラセ写真」とか「キャパ以外のカメラマンの作品で盗作」などといった噂がありました。このな噂を検証しようとしたジャーナリストもいましたが、結局真実を確かめることができませんでした。ところが最近になって、この写真が真実であることがほぼ証明されつつります。というのも、この兵士の身元が突き止められたからです。市の瞬間が撮られた写真の兵士は、当時24歳のフェデリコ・ガルシアという共和国側軍の兵士であることがわかりました。1996年に、当時生きていた本人の義姉が、写真の人物をガルシアと認めたのです。ガルシアと一緒に参戦した彼女の夫(本人の兄)が戦争から戻り、フェデリコ・ガルシアが死んだこと、写真どおりに弾に当たった瞬間に両腕を大きく開いたところを見た人がいると語ったこと…を証言しました。そして現在まで保管されていたスペイン市民戦争従軍兵士関連の資料からも、この写真の撮影日とされている1936年9月5日に、フェデリコ・ガルシアという兵士が撮影場所であるセロ・ムリアーノというところ死亡した事実が確認されました。結局、この「崩れ落ちる兵士」という写真は「事実を写したもの」であったわけです(現在もなお異説があります)。

 さて、長々とこんなつまらない話を書いたのには、理由があります。鑑賞者側にとっての良い写真…という概念の中に、「大衆の幻影としての良い写真」なるものが存在するかもしれないからです。
 「崩れ落ちる兵士」で有名になったこのロバート・キャパという報道写真家は、必ずといっていいほど「戦場から戦争の悲惨を伝え続けた」などという冠詞付きで語られます。当然ながら「崩れ落ちる兵士」も、そういた意図で撮影された写真として有名になりました。
 しかし、考えて見るとこの写真がどのような意図で撮影されたか、それはキャパの言葉でしかわかりません。実際にキャパは、写真を偽造をしたことがあります。スペイン市民戦争従軍時、1936年にスペインのマラガとアルメリア間の道路で撮ったとして発表した写真は、実際は前年の9月にセロ・ムリアーノで撮ったものであったことが判っています。確かキャパ自身は「崩れ落ちる兵士」について、「戦争の悲惨さを訴えるもの」とは明言していません。
 しかし、撮影者の意図はどうあれ、「崩れ落ちる兵士」は、戦争の悲惨さを訴える写真として有名になりました。この写真にはそれだけのメッセージ性が備わっていました。
 「戦争の悲惨さ」を伝える「記号」という役割ならば、演技をさせたヤラセ写真であっても、盗作であっても問題はありません。この写真を撮ったキャパの意図がどうあれ「見る側」が勝手にこの写真に「戦争の悲惨さの象徴」という記号を見るならば、それはある種の「良い写真」と言うこともできます。さらに、加えて「撮影者が意図した記号化」がそうであれば、記号としての役割はより十分に果たしていることになります。例えそれが「ヤラセ写真」であっても…です。また、多くの人が「崩れ落ちる兵士」という写真を見て戦争について深く考えるとすれば、写真から受け取るメッセージが例え見る側の幻想であっても、それはそれで「良い写真」なのかもしれません。
 「共同幻想を惹起する写真」は、その幻想が社会のよい方向を向いている限り、「良い写真」というわけです。

 そしてもう1つ、明確にしておきたいことがあります。写真撮影は「記号化作業」であるがゆえに、カメラという撮影機材のスペックについて議論することは全く無意味です。むろん、「見た通り」に写ることなど、要求する意味もありません。「記号」は、「写実」とは違うからです。報道や学術的記録など、特定用途に関してのみは、カメラのスペックは重要な要素となりますが、趣味的な撮影行為の範囲内では、カメラなんて何でもいいのです。そうした点こそが、LOMOのような低スペックのトイカメラが広く受け入れられる理由です。

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