WS30の世界はオルタナティブ・デジカメサイト。デジカメ、MPEG-4動画、PCの話題、サブカル系の駄文コンテンツをどうぞ…
title baner
画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2004/7/29

 大麻所持容疑で中央大生2人を逮捕…というニュースがありました。これは先日の「埼玉県の高校生らが大麻を乱用していた」事件の延長ですが、大麻購入資金調達のために集団で盗みを繰り返していた高校生といい、高校生の大麻吸引を知りながら警察に通報しない高校教師といい、大学内で売買していたかもしれないという中央大生といい、どれもまあひどい話です。
 それにしても「ひどい話」とは思いながらも、「大麻」の問題に関する社会的なリアクションや犯罪の軽重に関する社会的な認識等については、なんとなく釈然としない部分があります。

 大麻の所持、売買、吸引は「大麻取締法違反」という法律で禁じられていることで、間違いなく犯罪です。そして、(財)麻薬・覚せい剤乱用防止センターのサイトに書かれているように「…大麻を乱用すると気管支や喉を痛めるほか、免疫力の低下や白血球の減少などの深刻な症状も報告されています。また大麻精神病と呼ばれる独特の妄想や異常行動、思考力低下などを引き起こし普通の社会生活を送れなくなるだけではなく犯罪の原因となる場合もあります。また、乱用を止めてもフラッシュバックという後遺症が長期にわたって残るため軽い気持ちで始めたつもりが一生の問題となってしまう…」という「大麻の害」もまた事実です。
 しかし、「法律に反する」「身体や社会に害を与える」というだけで、大麻取締法違反者が「ここまで厳しい社会的制裁」を受ける…という現実についての疑問が生じるのです。そう、ある種「罪の軽重」の問題です。

 例えば「駐車違反」は法律で禁じられています。また、「身体や社会に著しい害を与える可能性がある」犯罪です。駐車違反が原因で発生した人身事故は数多くあり、死者だって多数出ています。例えば幹線道路や高速道路上に違法駐車しているトラックにバイクが追突する事故は多発していますし、違法駐車している車のために視界が遮られて脇道から飛び出した自転車やバイクの認知が遅れてはねてしまう…といった事故も多発しています。
 現在の日本で大麻が原因で生じる死者やけが人と、違法駐車が原因で生じる死者やけが人のどちらが多いか…という現実を見れば、間違いなく違法駐車の方が「厳しく取り締まられるべき」ものだと感じます。
 にもかかわらず、大麻取締法違反者は極端に厳しい罰と社会的制裁を受けますが、駐車違反をした人間はたいした罰も受けなければ、たいして社会的批判にも晒されません。こうした事実は、私にはなんとなく納得できないことなのです。

 こちらのBlog に、かなり私に近い意見が書かれていました。無許可で引用させて頂きますが、その意見とは次のようなものです。
 「…最も大きな問題は、大麻のようなたいした害もあるかどうか分からないものが規制されているためにアンダーグラウンド・エコノミーに大量の資金が流れていることであると思います。暴対法など施行してもこれらの資金の流れを止めなければ、意味がありません。このことを社会はもっと重大に受け止めるべきですし、この線に沿った主張が最も説得力を持つと思います。ひとつだけ心配しているのは、カンナビストたちがカンナビスを自由の象徴のように考えている点です。大麻の自由化は必要ですが、アルコール程度の酩酊がある以上、自動車の運転の禁止など細かい法律改正が必要です…」
 この方の意見の中で、特に納得できるのは2つの部分です。1つは、「アンダーグラウンド・エコノミーに大量の資金が流れていることを防がなければならない」という点、そしてもう1つは「カンナビストたちが大麻を自由の象徴のように考えているのはおかしい」、という点です。

 まず、多くの麻薬類が暴力団の資金源になっているという現実についてです。本気で麻薬を取り締まりたいのであれば、暴力団などという存在は全て壊滅させればいい。暴対法成立後も、暴力団はぬくぬくと組織を温存し、覚せい剤や麻薬で稼いでいます。政府や警察に本気で暴力団を潰す気があるとは誰も考えていないでしょう。麻薬の部分的な合法化が、こうした地下経済への資金の流入をある程度阻止できる可能性は十分にあります。
 また、いわゆる「カンナビスト」の一部が「大麻がタバコよりも害が少ない…」などと力説していることには、私も納得できないものを感じます。特に大麻を「自由の象徴」とする意見には、バカバカしさを感じます。人間にとっての本質的な自由とは「酩酊した状態ではない、覚醒した脳が生み出す思考」であって、マリファナなんて無関係です。その意味では「大麻は文化」などというのは、ある種のたわごとに過ぎません。むろん「アルコールは文化」というのも同様にたわごとです。酩酊した状態、正常ではない精神が生み出す文化を、無条件で「文化」と認めてはいけません。

 反面、「麻薬」が生み出した文化が存在することも事実です。フロイトや折口信夫、画家モジリアニから架空の名探偵シャーロックホームズに至るまで、「麻薬」とは切っても切り離せません。私の好きな60年代後半から70年代前半にかけての「ロック音楽」は、少なからず「ドラッグ」の影響を受けていました。しかし、これらの文化のどれをとっても、「麻薬を吸引していたから生まれた文学・芸術・音楽」ではないはずです。しかし、麻薬の存在が一種の「触媒」となったことは認めざるを得ません。

 おそらく、「麻薬の害と、文化の触媒」の問題には妥協点があるはずです。
 私は、2002年9月9日の日記に、次のようなことを書きました。
 「…国家は、都合のよいときだけ麻薬を合法化します。第二次大戦中に日本軍部は兵士に覚せい剤である『ヒロポン』を配りました。ベトナム戦争中には、アメリカ政府及び軍は、アヘンやヘロインの摂取を事実上放置しました。いずれも戦場で兵士が感じる恐怖をマヒさせ、強い軍隊を作るためです。兵士にドラッグを与えた例は、洋の東西を問わず、古代からあたりまえのこととして行われてきました…」
 「…人間の精神の活動とドラッグは、切っても切り離せないものだと思います。あえて言うなら、一部のドラッグは人間の脳が持つ可能性を引き出す『触媒』のようなものだと考えます。だからといって、無条件でドラッグを認めよ…などと言っているわけではありません。覚せい剤中毒者やヘロイン中毒者が引き起こす悲惨な事件や、アヘン戦争のような史実を見て、無条件であらゆるドラッグを認めろというのは非常識でしょう。細かい話を省きあえて単純化して個人的な考えを述べれば…、アルコールや煙草、コーヒーも含む全てのドラッグの中で、依存性が極端に強く健康に著しい害のある『ハードラッグ』を禁止する…ことについては、無条件で行われるべきだと思います。この中にはヘロインやコカイン、覚せい剤や各種合成ドラッグが含まれます。次に、健康を害する可能性はあるが摂取方法や摂取場所を限定することで、摂取しない第三者への影響を最小限に留められるもの。そして一定の習慣性や依存性はあるが、これも摂取方法によって歯止めをかけられるもの。さらに、文化と密接に関連しているもの。…以上の条件を満たすドラッグは解禁してもよいと思います。ここには、酒、煙草、マリファナが含まれると考えています…」
 …こうした私の意見は、現時点でも変わりません。ただし、ソフトドラッグ解禁後に、人間社会がうまくドラッグをコントロールできるだけの叡智を持っているかどうか…、その点についての確信はありません。

 考えてみると、日本も国家政策として「麻薬生産、売買」に手を染めた時期があります。例えば、太平洋戦争前及び戦中の日本は、満州国で麻薬の生産を管理し専売制度を作りました。さらに大量のペルシャ産アヘンを中国大陸に輸入して独占販売し、機密軍事活動や傀儡政権維持に必要な資金を得ていました。これは全て軍と政府が積極的に行った政策で、大陸における麻薬政策の礎を作った後藤新平にはじまり、昨日の日記で書いた里見甫や有吉明、石原莞爾、板垣征四郎、土肥原賢治、戦後首相になった岸信介、戦後通産相などを歴任した愛知揆一など、多くの民間人や軍人、著名政治家が麻薬の流通と販売に手を染めています。そして、中東からのアヘンの輸入を一手に引き受けて莫大な利益を上げたのは三井物産や三菱商事などの大手商社でした。

2004/7/28

 「冬のソナタ」ブームのせいで、「韓国の男性と結婚したい」という日本女性が急激に増えているそうです。韓日の国際結婚相談所「楽園コリア」については、雑誌AERAやTBS「アッコにおまかせ」などで取材、報道されました。4月のペ・ヨンジュンの来日プロモーション以後、日本女性の加入者が急激に増え、日本女性の加入者がそれまでの150人から一気に1,200人以上になったそうです。加入についての日本女性からの質問電話だけ一日に100件を超えているとのこと。
 で、韓国人男性と日本人女性との結婚…という話で、唐突に思い出したのは、大正時代のアナーキスト「金子文子」のこと。彼女は、言ってみれば「近代日本における韓国人男性と日本人女性結婚の嚆矢」に近いですね。それにしても、ここに書かれている「父には逃げられ、母には捨てられ、9歳で父の妹の結婚先朝鮮忠清北道の岩下家に引き取られ養子となり、その後母方の祖父母の五女として入籍、17歳の時に実父により母の弟に嫁がせられようとする」…という彼女の人生たるや、なんとも凄まじいものです。私は金子文子が書き残した短歌が非常に好きです。「ペン執れば今更のごと胸に迫る 我が来し方のかなしみのかずかず」に始まり「散らす風桜花ともどもに いさぎよく吹け いさぎよく散れ」までの歌は、凛冽で清廉な空気の中に燃える熱情が感じられます。それにしても、「ブルジュアの軒にツツジの咲いて居り プロレタリアの血の色をして」ってのも、なんとも凄い歌ですね。
 さらに話は連想の趣くままに飛びます。
 朴烈・金子文子夫婦が逮捕されたのは関東大震災直後の1923年、そして大逆罪で起訴されたのは1925年です。治安維持法が制定された年ですね。1925年といえば、カメラの王様「ライカ」が誕生した年です。1925年、ドイツのライプチヒ見本市で画面サイズ24×36ミリでパーフォレーション付きフィルムを用いた小型カメラが発表されました。それがドイツ西部のエルンスト・ライツ社の「ライカA型」です。このライカを初めて日本に持ち込んだのは、当時ドイツに留学していた陸軍の石原莞爾です。
 石原莞爾といえば満州事変の首謀者で、毀誉褒貶の激しい人物です。彼が人生をかけたのが中国の地。その頃の上海には「東亞同文書院」なる有名な大学がありました。この同文書院を1915年(大正4年)に卒業した里見甫の伝記(西木正明著「其の逝く処を知らず」)を読んでいたら、当時の同文書院は卒業旅行なるものがあって、卒業する学生にお金を支給して中国大陸を旅行させたそうです。その折にイーストマン・コダック社の「ベスト・ポケット・コダック」と数本のロールフィルムを貸し出した…と書いてありました。いや、1915年の話ですよ、さすがに当時のエリートが集まる大学、同文書院は国際的で進んでましたねぇ。
 その「ベスト・ポケット・コダック」は、上述したライカA型の発売に先立つこと13年、1912年にイーストマン・コダック社が発売したロールフィルム式のカメラです。蛇腹を引き出して撮影するカメラで、蛇腹を格納するとポケットに入る大きさだったので、「ベスト」と名付けられました。それで、このカメラの画面サイズ(6×4.5p)を「ベスト判」と呼びます。
 ところで、里見甫って最近ブームなんですか? ここのところ佐野眞一も、週刊新潮に「満州の夜と霧 阿片楽土の王」という里見甫の伝記を書いてますよね。里見甫の最初の奥さんが、つい数年前まで生きていた…というのは、この伝記で知りました。

 …うーん、連想の趣くままとはいえ、「冬ソナ」から「里見甫」に至る今日の話の流れは支離滅裂です。でもこういう支離滅裂な自分、けっこう好きです。

2004/7/27

 吉野屋や松屋から牛丼が消えて、かなり経ちました。私は牛丼が主メニューだった時代には、年に数回しか食べませんでした。だから吉野家や松屋なんて、昨年まではほとんど行ったことがなかったのです。むろん、牛丼以外のメニューなんて食べたこともありませんでした。ところが、牛丼がなくなって各社が豚丼を始めた頃、豚丼がどんな味なのか知りたくて、一通り食べて見ました。オフィスの近辺には、吉野家、松屋の他に、中卯とすき家があるので、全部食べてみました。結論として、豚丼は中卯、吉野家、すき家、松屋…の順に美味しいという結論に達しました。私はどうも、牛丼よりも豚丼の方が好きなようです。
 さて、米国産牛肉の輸入が再開されない中、各店ともに次々にいろいろなメニューを出してきます。私は、この「牛丼店の新ニュー」にけっこうはまってしまい、最近では週に1〜2回は、これらの店でお昼を食べるようになりました。牛丼が無くなったのを機会に、なぜか牛丼店通いに目覚めたわけです。で、新しいメニューをいろいろと食べ比べているのです。
 最近のお気に入りは、松屋「ヘルシーチキンカレー」、吉野家「牛カレー丼」の2つです。松屋のカレーなんて1年前までは一度も食べたことがなかったのに、「ヘルシーチキンカレー」は、最近は週に1回は食べています。どこが美味しいのか聞かれても困るのですが、なんとなく気にいってます。いつも「ライスは半分にして」と言ってます。

 今日オフィスにBフレッツ・マンションタイプが開通しました。周囲がみな光ファイバーを導入する中、古い建物で配線スペースが狭かったため13階まで直接光ファイバーを引くことができずにあきらめてADSLを使ってましたが、いろいろあってようやくBフレッツ・マンションタイプの導入が実現しました。終端装置から部屋まではVDSLを使うとはいえ、一応100Mbpsの最新型です。接続完了後に早速計測してみたところ、下りが25〜40Mbps程度、最高で50mbs強といったところです。上りの方は平均して5〜6Mbps程度でした。ルーターは単に安かったという理由で「corega BAR Pro3」を使っています。LANからの利用ですから、まあ常時この速度ってわけにはいかないでしょうが、従来のADSLと比較すれば雲泥の差です。また、ADSLとは周波数が異なるので併用も可能です。
 以前にも日記で書いたことがありますが、20年ちょっと前に初めてパソコン通信を試みた頃は300bpsのテレフォンカプラの時代でした。当初のプロトコルはXMODEMやYMODEM。まだ適当な通信ソフトがない時代でしたが、かなり長い間、NECの通信ソフト「CTERM」を使っていました。モデムは1200bpsの時代が長く続き、28.8KbpsのモデムからISDNになった時には、あまりの速さと便利さに感動したものです。その後オフィスでは128Kbpsの専用線「OCNエコノミー」(月額3万円以上かかりましたが固定IPを16個くれました)を利用していました(初期のインターネットプロバイダは、マンションの1室で128Kbpsの回線引いてやってるところがありました。中堅のプロバイダでも256Kbpsのセルリレーを使って、数千人の会員を収容してました)。

 今日の読書は、金子勝「粉飾国家」(講談社現代新書)。「民営化も粉飾の一部」「一般会計には実態がない」…など、まさにその通りです。この国の余命は、どうやら私の余命よりも短そうです。

2004/7/26

 この週末に、ある女性と話す機会がありました。彼女は「子育てを支援する」ことを目的に設立された某NPOに所属しています。そのNPOでは、幼児の創造力育成と情操教育実現のために、「間伐材を利用して作った木のおもちゃ」を生産している工房と提携してそれを広く普及させたい…と考えているそうです。そのための商品紹介・販売用のホームページを制作して欲しいということでした。

 彼女は、実に熱意を持って「木のおもちゃの効用」を語ってくれました。彼女の主張によると、「…TVの長時間視聴やTVゲームの長時間プレイが子供の感情の発達や豊かな創造力の発達を阻害する要因となっている。木のおもちゃで遊ぶことで、子供には創造性と豊かな情操が育まれる。さらに間伐材を利用していることで自然を守ることの大切さも教えられる」のだそうです。ともかく「いかに木のおもちゃが素晴らしいか」について、30分以上語り続けました。
 いや、子供の情操力を高めたり知育の発展を促したりする活動に依存はありませんが、だからといって「木のおもちゃ」は、そこまで手放しで賛美するほど素晴らしいものでしょうか。私は、彼女の話を聞きながら、かなり疑問と反発を感じました。
 第一に、TVの視聴やTVゲームやパソコンは、それほどに「子供の感情の発達や豊かな創造力の発達を阻害する要因」なのでしょうか。私はそうは思いません。要するに「バランス」の問題だと思います。1日中TVやパソコンに向かっていたら、それがバランスを欠くのは当たり前、逆に「朝から晩まで部屋で木のおもちゃと遊んでいる子供」というのも不気味なものです。当然バランスを欠くもので、歪んだ成長をしそうです。子供なんてものは、適当に積み木などで遊び、年齢にもよりますがTVの幼児番組やアニメも適当に見て、TVゲームでも適当に遊ぶ、そうして、近所の子供と外で遊ぶ…、要は適当にいろいろなことをやればよいのだと思います。
 だいたい、「幼い時にTVゲームを比較的長時間プレイした子供」と「幼い時に比較的長時間木のおもちゃで遊んだ子供」を一定人数サンプリングして、その後の発育度合いを追跡し、結果として「幼い時に比較的長時間木のおもちゃで遊んだ子供の方が、ゲームをやった子供よりも豊かな創造力を培った」…という統計的な資料が存在するのでしょうか。確かに子供の遊び道具として、「木のオモチャはTVゲームの対極」にあるかもしれません。しかし、だからといって「木のおもちゃは良いモノ、TVゲームは悪いモノ」では、まるでブッシュの善悪二元論と同じです。私は「TVゲームは悪いが木のオモチャはよい」などという単純な問題ではない…と思います。
 それに私は、「木」という材質にそこまでこだわるのもヘンだと思います。例えば「積み木」が木製でもプラスチック製でも、遊んでいる子供にとっては大差ないと思います。樹脂にホルムアルデヒドなどの有害物質が含まれていない限り樹脂を否定する理由はないはずですし、逆に木という材質にそこまでこだわる理由はないはずです。それに、同じ形の積み木が「木製か樹脂製か」で、子供の遊び方や子供の感情の発達に与える影響が違うとは思えません。いや、絶対に材質の違いによる影響はないはずです。

 …と、その女性に対してこうした意見をちょっと述べたら、その女性は怒り出してしまいました(笑) 彼女は頑迷に「絶対TVゲームはダメ、それにプラスチックのおもちゃはダメ」…と言い張るのです。
 そこで、「木のおもちゃ」を販売しているサイトをいくつか覗いてみたところ、木のおもちゃの効用について、驚くほど「独断的な意見」が並んでいたのです。

 まずはこちらのサイト。「…芸術脳とも言われる右脳の教育には、幼年期が最も大切だといわれています。色鮮やかにペイントされた、木のおもちゃは、お子様の可能性を広げてくれるでしょう」
 …なんで「右脳の教育」と「木のおもちゃ」に関係があると決め付けているのでしょう。
 次にこちらのサイト。「0歳の赤ちゃんでも、百歳の老人でも同じように持つことが出来る能力‥それはモノにふれ不思議を認める感性。アメリカ合衆国の天才科学者として知られたバックミンスター・フラーの解き明かす宇宙のプロセスは三角形から始まりましたかたちに触れることから、広大な宇宙の真理に迫る科学者の目。同じ所から歩き始めませんか」
 …ここでは、木のおもちゃを「右脳学習教材」と決め付けています。これではまるで「カルト」です。
 そしてこちらのサイト。「…木のおもちゃが教えてくれること…現代的なプラスチックのおもちゃは、実に本物そのものですが、その中には子どもの独創性を反映させる余裕はありません。シンプルでいてはっきりした色の木のおもちゃは、子どもたち自身が想像できるチャンスと想像し創造できる余裕を持ち合わせているのです。太陽の恵みを葉で吸収し、エネルギーを枝や幹いっぱいに蓄えた木で作るおもちゃだからこそ、子どもたちは木のおもちゃで遊ぶ中で、知らず知らずのうちに自然のもたらすこのエネルギーと暖かさ、心地よさを感じとり、吸収しているのです。日本では、独自の伝統を持った木のおもちゃは、民芸店などでしか見られなくなりましたが、ヨーロッパでは、昔ながらの職人気質と子どもの個性を大切にするという考えをしっかりと受け継ぎ、木製のおもちゃ作りを続けている人や会社が今でも誇りを持って仕事をしています」
 …いや、参りました。「現代的なプラスチックのおもちゃは、実に本物そのものですが、その中には子どもの独創性を反映させる余裕はありません」…と、根拠もなく決め付けています。続いて「…太陽の恵みを葉で吸収し、エネルギーを枝や幹いっぱいに蓄えた木で作るおもちゃだからこそ、子どもたちは木のおもちゃで遊ぶ中で、知らず知らずのうちに自然のもたらすこのエネルギーと暖かさ、心地よさを感じとり、吸収しているのです」…なんて独断的で根拠のない論理が散りばめられたフレーズを読んでいると、あまりのバカバカしさに「オイオイ、ちょっと待てよ」ってチャカしたくなります。もうこれは「宗教や風水に近い与太話」ですね。いやこれでは、「木のおもちゃを賛美する人たち」は、カルトの世界にいるのとなんら変わりません。

 でも、こうしたフレーズが「ある種の人たち」に受けそうなのは、これまたよく理解できます。「牛乳パックを砕いて、漉いてハガキを作る」のが「環境に優しい」ことだと信じている人たちです。ちなみに、この感想も、そのまま口に出してしまったら、NPOの彼女は本気で怒り始めました。
 結局、その「木のおもちゃ」を賛美するNPOからのホームページ製作依頼の仕事は、断ることになりました。…っていうか、相手から断られたのです。何でも「理念に共感してくれる人に仕事を依頼したい」のだそうです。
 私は商売が下手ですね。理念に賛同するフリをすれば仕事が来たのに、本音を言ったおかげで仕事を断られました。まあいいか、予算も安かったし。それに、仕事とは言え、あんなカルトっぽい人たちと毎日顔を合わせるのはつらいです。

2004/7/22

 丸山昇「上海物語〜国際都市上海と日中文化人」(講談社学術文庫)という、非常に面白い本を読了しました。
 内容はといえば、「…上海の近現代を彩った人々が織りなすドラマ帝国主義対半植民地、革命対半革命。矛盾・対立が渦巻く『中国の中の外国』上海租界を舞台に展開された、魯迅、郭沫若、金子光晴、内山完三らの活動の軌跡を追う」…という紹介文の通りです。主に20世紀初頭から第二次世界大戦前まで上海における日中の文学者の動向を詳しく追ったもので、中国側の登場人物は魯迅、柔石、殷夫、丁玲、夏衍、潘韓年、郭沫若などの文学者や、孫文、蒋介石、周恩来などの政治家たち、日本側の登場人物は尾崎秀実、佐藤春夫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、金子光晴、内山完三、堀田善衛…など文学者だけではなく様々な立場の文化人も数多く登場し、さらにはスメドレーやバーナード・ショウも登場するという非常に興味深い内容です。
 この本、近代中国文学研究の第一人者によって書かれたという学術書的な取っ付きにくさはありますが、それよりも1920〜30年代の日中文化人の人間模様、1930年に成立した「左翼作家連盟」に集った中国人文学者たちの過酷な運命、そして上海の租界や市街地の様子、当時の市井の人々の暮らしなどが生き生きと描かれ、一般的な歴史書にはない面白さを感じました。
 上海はアヘン戦争後の1845年にイギリス租界が登場、1863年にはアメリカやフランスが加わって共同租界となりました。その後1931年の満州事変、1932年の上海事変などを経て日本による軍事的圧力が強まる中で、1941年の太平洋戦争開戦までの間は、本来は植民地的支配の象徴であるはずの共同租界の存在自体が、中国人による反日運動の拠りどころになるという、皮肉な経緯を生んでいます。私は10年ほど前に仕事で上海を訪れたことがありますが、その時は、南京路を中心とした共同租界、淮海路を中心とした西洋風な町並みが残るフランス租界、中華路と人民路に囲まれた旧城地域などを見て、戦前の上海に思いを馳せました。しかし、上海を訪れる前にこの本を読んでいたら、もっといろいろな想いで上海の町並みを眺められたと思い、残念でなりません。近々、再度上海を訪れようと思います。

 ところで、この「上海物語」には、1937年に上海に渡ってその後反日・反戦活動を続けた長谷川テルという女性が登場します。長谷川テルを描いた日中合作の「望郷之星-長谷川テルの青春」(1980) という映画があるそうですが、この映画のことは知りませんでした。ともかく、確たる意思と数奇な運命を辿った女性です。
 で、この女性に興味を惹かれたのは、彼女が「エスぺランティスト」であった…という部分なのです。
 実は私、これまでは「エスペラント」をちょっとバカにしていた部分があります。中学、高校生の頃に、エスペラント普及の経緯ザメンホフの伝記などを読んだことがあるのですが、その思想の根底に「言語を統一すればすべての民族や国家の平等が実現し、平和な社会が訪れる」という思想があったように思いました。「言語の統一」なんてもので差別がなくなり、平和な社会が訪れる…なんて安易な話は、まったく納得できません。加えて私は、多様な文化を愛するので、言語の統一、しかも人工言語による統一なんて、なんともくだらない話だと思っていました。言語の同一性が文化の多様性を損なう…とまでは思いませんが、ごく一部の特殊な例(支配による言語の強制)を除けば、人類の営みの中でナチュラルに分化し多様化してきた言語や文字を、あえて統一する意味などないと思ってきたからです。
 まあ、「変形生成文法」なる考え方を提唱した言語学者のノーム・チョムスキーあたりは、「ある具体的な発話(文章)は基本的な基底構造から導出される」とし、「この基底構造が言語の種類によらず共通である」…などと述べていますが、確かに世界中の言語はどれも人類が生み出したものである以上、一定の構造的共通性はあるでしょう。こうした「多様な言語の構造の深い部分での共通性」を基にした人工言語ならばそれなりに評価もできるのですが、エスペラントの語彙はヨーロッパの言語だけから借用されたもので、基本は「ロマンス語」に過ぎません(こちらを参照)。人工言語としては、合理性という側面から見ても、たいしたものじゃないと思います。
 そんなこんなで、エスペラントなるものをちょっとバカにしていたわけです。

 しかしあの時期に上海に渡った長谷川テルの行動を見ると、戦前の軍国主義教育の中で、「エスペラント運動」がもたらした役割を評価しないわけにはいかない…と、ちょっと思いました。戦後の民主教育を受けた現代に生きる私たちは、「国際的視野」なんてものは、誰でも簡単に身につけることができます。また、「反戦思想」とか「国家間の侵略行動の是非」なんてものについても、様々な意見や価値観を持つことができます。しかし、戦前の強烈な国家主義、軍国主義教育の中で「国際的な視野」を持つためには、エスペラント運動のようなものが一定の役割を果たしたことを、きちんと評価すべきではないか…という気持ちになりました。また、中国に渡って以降も、窮地に陥った長谷川テルを助けたのは「上海世界語協会」のメンバーたちです。あの大杉栄もエスペラントが堪能であったそうですし、1906年の二葉亭四迷による学習書発行、第1回日本エスペラント大会の開催などに始まる戦前の日本のエスペラント運動について、ちょっと調べてみたくなりました。

2004/7/20

 熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産リストに登録されました。こちらの社説にもあるように「…紀伊半島の大半を占める紀伊山地は2千メートル近い山々が連なり、大量の雨が深い森を育ててきた。古くから山や岩、森や木、川や滝などには「神が降り立つ」と考えられた。そんな自然崇拝を背景に神道も生まれた。高さ133メートルの那智の滝は信仰の対象であり、大きな岩を神体にした神社もある。…日本固有の信仰である神道と大陸伝来の仏教、それらが融合した神仏習合、さらに外来の道教をとりいれた修験道が共存するという多神教の世界…」…とうことで、「日本独自の宗教観」「森林文化を基盤とする多神教の世界」…といった視点で、「紀伊山地の霊場と参詣道」の文化的価値を見直す動きが盛んです。
 そんな背景もあって、今日付けの朝日新聞の朝刊に、梅原猛が「農耕文化」や「森林文化」などの視点から、東西文明の違いを強調するエッセイを書いていました。

 この「小麦農業と稲作農業の違いが生み出した文化の相違」とか「森林を残し、森林を敬う日本の文化」…といった切り口は、梅原猛の十八番(オハコ)とも言える持論で、あちこちで同じ意見を繰り返しています。
 彼の見解とは、「西欧文明は小麦農業と牧畜を生産の基本として森を伐採して農地を拡大した結果、砂漠化をもたらした。森の神が殺されて都市文明がうまれた。これが西洋文明である。東洋文明は稲作農業で水が、つまり雨が必要で、森を大切にした。そして生きとし生けるものが共存する東洋の思想が根づいた」というもので、「小麦文明は森を切り開いて耕作地にし、残りを牧草地化することによって自然の回復力を奪い、樹木や植物の育たない砂漠へと変えてしまう。かたや稲作文明は水田にひく水を多量に必要とする為、水を貯え浄化する森を神の居場所として尊重。中国では黄河流域と長江流域の景観が各々に当てはまる。日本では川や森での狩猟採集生活をおこなっていたが、安定した食料確保のため稲作に切り替わる。農耕が始まっても森は神域とされ、田の神と森の神が同居することとなり、どちらかが滅びどちらかが発展するということにはならなかった。その結果、国土の3分の2が森林で、その内自然林が40%を占めるという稀なる先進国となり、こうした異文化の共生と循環の思想が、地球環境問題の解決には不可欠」…などと、環境問題にも触れた上で、日本の「森林文化」、そしてその森林文化の礎となった「縄文文化」を賛美しています(森の文明と日本 〜現代に生きる縄文文化)。

 私は、この梅原猛の論理展開に何の感銘も受けないばかりか、全く納得ができません。一見もっともなことを言っていますが、特に論拠のな実にいいいかげんな話だと思います。
 日本は先進国の中ではもっとも森林が残っている…という理由は、例えば平野の多い欧州と比べて日本は急峻な山岳地帯の面積が多く、森林の開墾ができなかった…という理由に過ぎないと思います。要するに急斜面は農耕に不向き…というだけのい話です。平野部だけをとって残された森林の面積を比較すれば、欧州も日本も比率は変わらないでしょう。欧州でも、アルプス地方など急峻な斜面が多い地方では、十分な森林が残っています。梅原猛は、こうした「平野部と農業に適さない山岳部の面積比」という地形の問題を踏まえた上で「国土の3分の2が森林で、その内自然林が40%を占めるという稀なる先進国」と言っているのでしょうか。

 水田による稲作か小麦栽培か、そのどちらが主流になるかで、人間の営みや思想が大きく変わるなどとは、全く思えません。何をつくろうと、農業が自然を破壊することは同じですし、一定量の穀物を作るために必要な水の量…という意味では稲も小麦も大差ありません。「稲作文明は水田にひく水を多量に必要とする為、水を貯え浄化する森を神の居場所として尊重」…などと言いますが、小麦を作るためにも水は必要ですし、そのためには森を尊重しなくてはならないのは、同じです。むしろ、メコンデルタや揚子江デルタのような、最初から「水田様の泥濘地」があったからこそ、「水田を使った稲作」が生まれたのであり、話は逆です。こんなこじつけのような説をもっともらしく、あちこちで説いて回るのはボケ爺と一緒です。

 第一、今の世界を見ていて、また歴史を振り返って、「東洋的思想」と「西洋的思想」なんてものを分けることに、何か意味があるのでしょうか。ましてや「東洋の文化」が「西洋の文化」と比べて、それほど優れたものだとはとても思えません。

 日本、または東洋の文化を「生きとし生けるものが共存する」文化などと言っても、歴史を見る限り、虐殺・殺戮・階級差別・自然破壊など、洋の東西を問わず人間のやっていることは基本的に同じです。中国人も日本人も自然:を破壊しながら生活の場を拡大してきたのは、西洋諸国と同じです。領土拡張戦争や宗教対立から来る異教徒の虐殺は、東洋でも頻繁に行われ来ました。確かに日本という国は多神教的な部分がありますが、東洋文明の代表たるインドなどは、原理主義的なヒンドゥー教が圧倒的な勢力を持っています。自然を畏敬する人間の集団であるはずの日本は、近代に入ってから自然を破壊しまくっています。日本は「水を大切にする文化」なんて、大嘘でしょう。あちこちにダムを作りまくり、大量の食物を輸入することで「水の潜在的輸入国」なのです。岩波新書「ウォーター・ビジネス」を読めば、降水量も多く水に恵まれていると思われる日本も、実は海外の水資源を自分のもののように使っている現状が資料に基づいて明らかにされていきます。
 そういえば、例の「つくる会」教科書が、「日本列島では、四大文明に先がけて一万年以上の長期にわたって続いていた、『森林と岩清水の文明』があった」とか、「縄文文明」などと意味不明の説を開陳して笑いものになりましたが、梅原猛の「東洋文化優位」説にも、似たような部分があります。
 それにしても、バカの一つ覚えのように、著作やエッセイ、そして講演で「東洋と西洋の違い」について同じ説を繰り返している梅原猛という学者を、哀れに思います。

 ところで、今回世界遺産となった「紀伊山地の霊場と参詣道」については、私は非常に好きな地域です。私は、中部地方を中心に登山をやっていたので、大台ケ原や大峰など、紀伊半島の山々には何度も登っています。宗教的・文化的な意味合いを除いても、紀伊山地は素敵なところです。

2004/7/16

 イラクでイスラム武装勢力に民間人を人質にとられたフィリピン政府は、イラクからの撤兵を決めましたが、まだ予断を許さない状況です。武装グループ側は、完全撤退を確認するまで人質を解放しない…との声明を出しています。フィリピンはアメリカの同盟国ながらも、こうしてイラク撤退の方向へ向かう背景には、フィリピンが抱えた特殊な事情があります。アメリカの対テロ政策に追随したくとも、「海外労働者に経済的に依存する」という国の事情がイスラム国家と対立することを許さないからです。
 フィリピンの全賃金労働者数は約1,500万人で、うち約500万人が海外で働いている…とされています。これは、全賃金労働者の1/3以上に当たります。しかし実数はもっと多く、海外労働者の数は700万人前後に上る…とも言われています。出稼ぎ先のトップが実は中東地域で、就労人口別に就労先国を見ると1位がサウジアラビア、そして4位にU.A.E、5位にクウェート、7位にバーレーン、10位にカタール…といった状況です。GNPの多くの部分を海外就労者からの仕送り、しかも中東地域の就労者からの仕送りに頼っているフィリピンでは、この海外雇用政策が破綻すると国の経済が立ち行かなくなるわけです。

 ところで、わが日本でも国内の産業が未発達ゆえに、海外出稼ぎを奨励した時期があります。こちらにあるように、「日本人の海外渡航は、明治維新とともに始まりました。世界各地を結びつける国際経済、労働市場、交通網の一部となった明治日本は、近代化とそれに伴う急速な社会変化に見舞われました。特に農業形態や経済構造が変わっていくなかで、農村部を中心に余剰労働力が生まれ、国内及び海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われ…」…ました。しかし、明治初期には数年間の契約労働による「出稼ぎ」の形態をとっていたのが、徐々に余剰労働問題の解決、そして人口問題の解決を目的とする「移民」へと変化していきました、そしてそれは政策的な「棄民」でもあったのです。
 既に明治中期にハワイ移民、そして南米移民が盛んになった頃、民間の移民事業会社は、「移民先の環境を誇大に広告」することで、疲弊した農村から大量の移民希望者を集めていました。しかし、大半の移民先の実情たるやひどいものであり、例えば1899年に桜丸で渡航した第1回ペルー移民などは、募集時の話とは全く違う、作物も出来ない砂漠の入植地に放り出され、掘っ立て小屋で食うや食わずの生活を余儀なくされました。その結果、ほぼ全員が移植地から逃亡した…という記録が残っています。こうした詐欺的な移民募集は、民間の移民事業会社が行ったものとは言え、大物政治家がバックについた事実上の官約移民であったことは公然たる事実です。
 加えて、海外移民の多くは第二次世界大戦時に辛酸を舐めました。帰国した移民すら「非国民」「スパイ」扱いを受けた例も多いし、北米のように収容所生活を余儀なくされた例もあります。もっとも悲惨であった例の1つは、フィリピンなどへの南方移民です。フィリピン、ミクロネシアなどでは太平洋戦争時に軍属として移民が駆り出されて、戦争で命を落とした例もあります。また戦後の移民帰還に伴って多くの子供が現地に取り残された他、現地に残った移民の中には、戦後ずっと移民の子孫であることを隠して山中に潜んで暮らしているなどの悲惨な例も多いようです。
 ハワイ、北米、アルゼンチン、ブラジルなどには、戦後経済的に成功した移民もたくさんいますが、国のなんらかの保護によって成功したのではなく、いずれも辛酸を極めた生活と困窮、そしてそこから逃れるための血の滲むような努力を重ねた上での成功であったのです。
 ともかく明治以降の日本の移民政策の背景には、「国内の余剰労働力の処理」…という「棄民」的な思想が色濃くあったことは確かです。明治初期、「脱亜入欧」論の福沢諭吉が、あまりの貧困から娼婦に身を落とす農村の娘が海外へ出稼ぎに出て「からゆきさん」になるのを、「経世上必要なる可」と述べて奨励したのはよく知られているところです。からゆきさんに関しては、福沢諭吉など当時の知識人や政治家の肯定もあって、こちらに書かれている通り、「…日本人娼婦がシンガポールにはじめてあらわれたのは1870〜71年(明治3〜4)年ごろであったといわれる。日露戦争のころにはシンガポールだけでも600人あまりの日本女性が売笑婦として活動していた」…という実態があります。福沢諭吉に代表される「海外に貧困女性を捨てることを是とする」思想…、これこそが明治以降の日本政府を率いるエリート層の底流に流れている思想の本流なのかもしれません。

 さて、冒頭で挙げた現代のフィリピンの場合、かなり事情は異なります。フィリピンの出稼ぎ労働者の中には、かなり悲惨な境遇を送っている事例もあります。香港やサウジアラビアでメイドをしている女性の中には、薄給で重労働を課せられ、雇用主にレイプされる…などというケースもあり、フィリピン国内でもたびたび大きな問題となっています。しかし、そうした実態がどこまで改善されているかはともかく、フィリピンには、フィリピン人労働者の海外雇用の促進と監視、公正で平等な雇用慣行に関する権利の保護を行う「フィリピン海外雇用庁」や、登録された海外フィリピン人労働者とその扶養家族の福祉支援を行う「海外労働者福祉庁」などの政府機関があり、少なくとも海外出稼ぎ労働者を「国を挙げて保護・支援する」という姿勢を見せています。
 むろん時代の差は無視できませんが、「棄民」を企図した日本と、「大切な労働力」と考える現代のフィリピンとは、かなり大きな差を感じます。

 日本の「棄民」政策は、明治・大正時代だけに行われたことではありません。第二次大戦後になっても続きました。戦後の棄民政策としてもっともよく知られているのが、「ドミニカ移民」です。「ドミニカ日本人移民裁判」というサイトには、その経緯と日本政府(現在の政府も含む)の対応が、詳しく書かれています。こちらに書かれている経緯を読むとわかりますが、まさに日本利府とJICAは、「詐欺」を行いました。訴状にあるように、日本政府は「…国策移民の嚆矢として、被告は、昭和29年(1954年)初頭よりドミニカ共和国への大量移住者送り出しを計画し、同国政府との外交交渉に着手した。同時に、マスコミや政府関係諸機関を通じて、それまで1般には知られていなかったドミニカ共和国を『カリブ海の楽園』と形容し、同国が無償で広大な優良農地を数万家族の日本人に与える計画を持っているなどと虚偽誇大宣伝して、日本全国にドミニカ移住熱を煽った…」のです。日本政府の言を信じた移民たちでしたが、現地に到着すると「…約束の農地はなく、作物を作っても売れず、移住者は、荒地と悪戦苦闘をしながら、日本から持ってきた財産を売り食いして生活をしのいだが、まもなく破産状態に陥った…」のです。
 …これは明治時代の話ではありません。現在も続いている裁判です。

 …人質事件に対応してイラク撤兵を検討しているフィリピン政府、そして民間人の人質事件発生時に「自己責任論」を声高に喧伝した日本政府…、フィリピン政府の置かれた特殊事情を勘案しても、あまりにも対応が異なります。
 さらに北朝鮮拉致事件においても、1960年代から行われていた拉致の事実を知りながら、数十年に渡って事態を放置した日本政府の姿勢は、どこまでも糾弾されるべきです。いまさら曽我さん一家再会のような「政治ショー」をやったところで、60年代以降長きに渡った政府の「拉致無視政策」の過去を拭い去ることはできません。
 そして私は、こうした「民間人には冷たい」日本政府の対応の背景に、日本という国が伝統的に持つ「棄民思想」を感じてしまうのです。逆に「官>民」の日本政府は、イラクにおける「政府関係者」の犠牲に際しては国を挙げて英雄扱いをしました。奥大使の件は、記憶に新しいところです。

 そういえば、終戦時の満州において、軍部や満鉄関係者だけが逃亡し、開拓民が棄てられた経緯についてはよく知られているところです。終戦直前に満州に侵攻したソ連軍に対して、開拓民の保護もせずその蹂躙を放置した関東軍は、さらに開拓民が逃げるのを阻むように道路や橋を破壊しました。満蒙に新天地を求めて渡った民間人200万人が、ソ連軍の侵攻とともに軍と日本政府から見捨てられたのです(半藤一利「ノモンハンの夏」「ソ連が満州に侵攻した日」)。

 「平然と棄民する国」…それが、明治以降の日本の歴史です。

2004/7/14

 マイケル・グルーバー「夜の回帰線(上・下)」(新潮文庫)を読了しました。個人的には、今年上半期に読んだミステリーの中では文句なしにベストワンです。私はもともとホラー小説の類が嫌いなので、帯に書かれた「呪術師たちが戦いの火蓋を切る」なんて臭いコピーを読んだ時には、「ちょっと読んでつまらなかったら途中でやめちゃえ」と思って買いました。しかし、読み出したらもう上下巻を最後まで一気読みでした。
 マイアミで発生した猟奇的な殺人事件に端を発するストーリーは、主人公である刑事と女性人類学者の「現在」、そして女性人類学者の日記の形で示される「過去」(シベリアやアフリカでの出来事)という2つの時制、2つの物語が交錯しながら展開します。上下巻に分かれる長い小説なので多少冗長な部分もありますが、それにしても「呪術」を単純に非科学的な存在として捉えているのではなく、民俗学、人類学という科学的な裏付けを散りばめながら話を進めていく筆力は、見事としか言いようがありません。実在していても不思議ではないような、シベリア奥地の少数民族やアフリカ奥地の少数民族の歴史と伝統の中に、「人知が及ばない出来事」や「人間の持つ不可思議な能力」が、科学と非科学の境界線上に書かれているのです。

 それにしても、このミステリーの底流を流れる雰囲気は独特で、魅力的なものです。全編を通して色濃く描かれているように感じるのが、「人種」の問題。主人公の刑事はキューバ系黒人、そしてもう一方の主人公である学者は名家出身の白人女性、その夫は黒人、さらには「娘」は黒人…。加えてキューバ人亡命社会の中での、複雑な社会階層構成も描かれます。しかし、こうした「人種」のい違いが書き込まれているからといって、「人種間の対立」という単純な図式がモチーフになっているわけではありません。人種問題というよりも、「クレオール」的な切り口を感じます。2003年6月2日の日記でも書きましたが、クレオールという概念にもっとも特徴的に存在するのは、「あくまで文化やアイデンティティを切り口にし、人種や民族の問題を避ける点」です。この人種による「文化やアイデンティティ」の違い…のようなものが、実にうまくストーリーに反映されています。
 こうしたクレオール的な雰囲気は、「マイアミ」という、キューバだけでなくハイチやドミニカなどカリブ諸国からの移民、不法入国者が溢れる都市が舞台になっていることで、さらに増幅されています。マイアミこそは、アメリカにおけるクレオール文化の中心地でもあり、この小説の中で重要な位置を占める「アフリカの記憶」が残る都市でもあるからです。

 私はこの小説を読みながら、かつてグレイハウンドバスでの大陸横断旅行中に滞在したマイアミの街を思い起こしていました。夏のマイアミ(1年中夏ですが5月から9月までは特に暑い)の夜は、気温も湿度も高く、肌に大気がまとわりつくような感じがあります。都会と言ってもリゾート地的な明るい雰囲気と、治安が悪く犯罪も多いダウンタウンの2つの面を持っています。しかし、夜のダウンタウンを歩けば、音楽にも食事にもクレオール文化が強く感じられ、独特の楽しさがありました。

 ともかく、この「夜の回帰線」という小説は面白い。マイケル・グルーバーという作家によって小説内に散りばめられた民俗学、人類学の知識は半端ではありません。虚と実が入り乱れるストーリーは、多少読み続けるのに面倒な部分があるかもしれませんが、読後感に余韻が残る味わい深いミステリーでした。

2004/7/13

 結局、購入しました、世界最小のiモード端末「premini」です。先日、日記で散々ケチをつけましたが、小型・軽量のストレート端末がドコモでは他にないわけですから、選択肢がなかったということです。使った感じはいいですね、小さくて持ち歩くのが楽です。シャツの胸のポケットに放り込んでおけます。小さなボタンは確かに押しにくいのですが、適度につけられた傾斜と、ボタンの押し込みストロークがかなり長いこともあって、十分な実用性があります。まあ私は、携帯で長いメールを打つこともないし、電話番号の入力も電話帳や着信履歴から行うので、特に不便はありません。iモード画面も小さいわけですが、これはもう「preminiでネットアクセスはしない」…と決めたので、問題無しです。
 「preminiでネットアクセスはしない」というのは、京ポン(AH-K3001V)を併用するからです。で、私は当面「premini+京ポン」体制で行くことに決めましたが、この組み合わせは「最強のモバイルライフ」が実現するかもしれません。

 まず、京ポンは「Opera 7.0」を搭載しており、PCと同じ「フルインターネット・アクセス」を実現しています。レンダリングモードやズームを搭載しているので、QVGA画面で比較的快適にPC向けWebサイトを閲覧できます。JavaScriptやSSLにも対応しているので、商用サービスサイトの大半にアクセスできます。オンラインバンキングも利用できます。この京ポンの「フルインターネット・アクセス」機能は、各所で指摘されている通り、携帯コンテンツの課金ビジネスを無意味なものにしてしまう可能性を持っています。iモード公式サイトにある有料の乗り換え案内コンテンツや地図サービス、各種ニュースなど、PC版ならば無料で利用できます。当然ながら、iモードなんて全く必要としません。

 さらに、こちらの記事を読むと分かる通り、「…携帯電話の『定額制』と『AirH" PHONE』を天秤にかける」ことで、この組み合わせのメリットが浮き彫りにされます。
 「…auやドコモの定額料金が『基本料金』に上乗せする定額料金なのに対し、DDIポケットのつなぎ放題プランは基本料金のみであることだ。つまりau/ドコモのユーザーにとって『パケット定額制を導入する』か、それとも『新たにA&B割込みのAirH" PHONEを導入する』かは、並列で選択できることになる…」…ということです。そして「…AirH" PHONEをセカンドケータイとして持っていれば、携帯電話の基本料金を最も安いプランに切り替え、『携帯電話は着信中心、発信はAirH" PHONE中心』という使い分けも考えられる。これによって、携帯電話とPHSで"通話料金と通話エリア"を相互に補完できる…」…のです。
 こうした使い方をする限り、「premini」は、従来からの携帯電話番号にかけてくる通話向けの「受信専用端末」です。iモードも使わないので、画面が小さいことやボタン操作がしにくいことは、全く問題になりません。小型・軽量であることのメリットだけが浮き彫りにされます。

 ところで「AirH" PHONE」は、現時点で北京市内とバンコク市内でローミングサービスが使えるのですね。両都市とも年内に仕事で訪問する予定があるので、ぜひ使って見たいと思っています。
 …というわけで、飽きるまでは「premini+京ポン」体制で行きます。

2004/7/12

 私はこの日記に、時々政治的な話を書きますが、本質的な部分で政治に対する興味はありません。ましてや過去の「選挙結果」などを見ても、「こんなもので日本が変わるわけがない」との思いを少なからず抱いてきました。まあ、そうは言いながら、昨日は投票所に行き、また深夜まで開票結果を見ていたのは、やはり頭の隅っこに「後の世代のためにも、少しでも状況をよくしていかなければ…」という常識的な考えがあるからでしょう。
 そして今回の選挙、表層的な選挙結果については特にコメントしたいような問題はありません。あえて言えば、私は「二大政党制」をよい制度とは思っていませんので、今回のような形で「政党の多様性」が失われるのは、かなり残念だと思いました。
 ところで、こうした表層的な結果に関するコメントとは別に、今回の選挙ではどうしても気になることがあります。こういうことは、本当は書かない方がよいのかもしれません。しかし、あえて書きます。今回の選挙は、私にとってかなり不愉快でした。それは、民主が伸びたとか、自民が減ったとか、その他の野党が壊滅したとか、そういった話ではなく、「自民党が露骨に公明党・創価学会の票を頼った選挙だった」…という状況についてです。しかも民主党躍進の結果として、自民党は政権運営のためにますます公明党への依存度を高めざるを得なくなりました。
 私は、宗教団体が国の命運を握る、宗教団体が国政に大きな影響を与える…というのは、考え得る「最悪の国政シナリオ」だと思います。むろん、ここで言う宗教団体は「創価学会」を指していますが、これが創価学会ではなくどこかの「キリスト教団体」であろうと、「神道の団体」であろうと同じです。その宗教団体の教義内容とは無関係に、政治の現場からは宗教を排除する必要があると考えているからです。ともかく、「政教分離」は厳格に守る必要があります。現在の「創価学会」と「公明党」の関係をどう見るかについては、憲法学者の間にも多くの異論がりますが、難しい理屈は抜きにしても、「公明党議員当選のために行う創価学会員の激しい選挙運動」「創価学会員の票によって左右される選挙結果」「そして公明党議員候補者の選ばれ方」…などから見て、「厳密な意味での政教分離」が行われていないことは、子供にもわかる話です。
 思い起こして見れば、ヨーロッパの近代社会、市民社会の成立は「宗教の影響をでき得る限り排除する」ことで成し遂げられました。民主主義の確立とは、言うまでもなく「制度的な部分でのキリスト教の影響排除」を意味しました。中世の長いカトリック教会の政治的支配を脱するために、ヨーロッパは非常に長い時間と膨大な犠牲者と気が遠くなるほどの思想的営為…を必要としました。むろん、長いキリスト教の歴史を考えれば、精神的影響を排除できるわけもなく、現実には欧米においてキリスト教団体は大きな影響力を保っています。しかし、重要な点は「政治制度としての影響力排除」です。それゆえに、現在の日本の憲法においても「政教分離」が定められているのです。

 そういえば、書店でたまたま手に取った新潮新書「創価学会」という本を買って読了しましたが、中身のない本でした。著者の島田裕己といえば、中沢新一とともにオウム賛美をしていたバカな「宗教学者」です。創価学会を評して「日本の戦後社会の戯画」「日本人の誰にとっても遠い組織ではない」「私たちの欲望を肥大させたものが創価学会」などと、わかったふうな学者台詞を吐いており、ただただ呆れました。この男が「ただのアホ」だってことが、よくわかりましたが、そのために680円を出費したのはもったいなかったなぁ…
 創価学会がどんな教義を持っていようと、とりあえずは構いません。ただ、1人の「カリスマ的指導者」「教祖」に率いられた宗教団体が、影響力を持つということは、1人の人間の意見が国政を左右する…ということと同義です。それは、実にマズイことです。そして、創価学会の指導者は池田大作です。池田大作という1人の人物が国政への影響力を大きく高めた今回の選挙結果に対しては、全ての人がもっと危機感を持ってもよい…と思います。

 ところで私は、池田大作なる人物を「非常によく知っている」とは言えません。しかし、時々自宅の郵便受けに放り込まれる聖教新聞を興味半分に読んでみたり、Webや雑誌などで伝えられる彼の発言を聞く限り、指導者としての資質はともかく、巨大教団の指導者にふさわしい豊かな教養と思想・哲学を持っているようには感じられません。あ、少なくとも池田大作の「詩」なるものが、文学性、独創性、芸術性が欠如した「実に幼稚なシロモノ」だってことだけは、断言します。この意見に反対する「詩人」はいないでしょう。…とはいえ、本稿の目的は創価学会批判でも池田大作批判でもありません。
 創価学会については、その性格を判断するための個人的な体験がいくつかあります。同じマンションに住んでいる、不断まったく付き合いのないオジサンが、選挙になると必ずやってきて「○○をよろしく」と言っていきます。仕事上で付き合いのある学会員も、選挙前になると必ず電話をかけてきます。また、私が15年ほど前に住んでいたマンションでは、下の階の部屋に学会員が集まって月に何度か早朝や夜にお経をあげていたので、ある日「もう少し静かにして欲しい」とお願いしたところ、聞き入れてくれませんでした。2度目に強く言いに行ったら、「宗教の自由」だの「宗教弾圧」だのとわけのわからないことを言われて、キレそうになったことがあります。あとは、以前私のオフィスに熱心な学会員がいて、「いかに創価学会の教えが正しく、他の宗教が全て間違っているか」について、何度も議論を吹っかけられたことがあります。そういえば彼は、選挙の時に取引先の社長に「○○をよろしく」とやってしまい、おかげで取引先を失った経験があります。ビジネスに宗教の話を持ち込まない…という最低のコンセンサスを守らなかったことを批判したら、彼は「自分は正しいことをしている」と言って譲りませんでした。

 「創価学会はカルトである」…というフランス政府の認定は、反学会ウォッチャーが拠り所にしている事実です。実際にカルトと断定してよいのかどうかは、判断が難しいところだとは思います。ただ、上述したような体験も踏まえた上で、私が感じた創価学会という宗教団体が持つ「排他性」や「権力志向」は、カルトへと発展する素地を十分にもってはいる…と思っています。

 あらためて確認しておきますが、本稿を書いた私の目的は「創価学会批判」ではありません。私は今回、創価学会の影響を排除しろと書きましたが、これが創価学会ではなく「神社神道」であっても「ローマンカトリック」であっても、同じように批判するでしょう。私が言いたいのは、現状の日本の政治において「政教分離が厳格に守られていない」ことへの批判と、それがもたらす影響への恐怖です。
 私にとってはオウムも創価学会も同じです。「よい教義の宗教」も「悪い教義の宗教」も、とりあえずは関係ありません。絶対的な権力を持つ1人の人物、または少数のグループに率いられたが宗教団体が、国政に影響力を持つことは、非常に恐ろしいことです。ともかく、完全無欠の人間も、完全無欠の思想も存在しません。人間は必ず誤謬を犯します。そして、全ての「思想」の是非は相対的なものです。そういう視点で考えると、現在の創価学会が「池田大作の誤謬を糺す」自己検証能力を持ってるとは思えません。また、創価学会の「思想」の元になった日蓮正宗の教えが、人類にとって絶対的に正しいものとは限りません。そうである以上、限りなく「絶対」に近い権力を持つ指導者と、限りなく「絶対」に近い教義を信じる宗教集団、すなわち創価学会が国政に大きな影響力を持つ現在の状況には、危惧を感ぜざるを得ません。

 民主主義という制度が正しいかどうか、実は私の頭ではよくわかりません。もしかすると「悪しき民主主義」は「良き独裁政治」に劣るかもしれません。加えて、現在の日本で実施されている議会制民主主義は、「国民の意思の反映」という原理原則面での欠陥をたくさん抱えています。例えば、今回の参院選であらためて露呈した「一票の格差」もそうです。
 にもかかわらず、より多くの意見、多様性のある意見を国政に反映する…という「原理・原則」は、やはり守らねばならないと思います。そのためには、「巨大宗教団体」の国政への影響力を排除する仕組みを、もう一度考え直した方がよいと思います。

2004/7/10

 曽我ひとみさんが家族と再会できたのは、喜ばしいことです。彼女の苦難の人生と、その原因となった「彼女には何の責任もない国家間の確執」を思えば、彼女には人一倍「幸せになる権利」があるはずです。
 しかし、もうTVのニュースで曽我ひとみさんの顔を見るのはうんざり…と言ったら、不謹慎な発言でしょうか。昨夜以降、あらゆるチャンネルのニュース、特番、そしてワイドショー、ニュースショーで、全く同じ映像を繰り返して流しています。同行している外務官僚の顔とかも見飽きました。曽我さんの動向についてニュース性がない…と言うのではなく、あらゆるメディアで同じニュースを放送し続けるなんて、まるで言論統制下の社会です。「自民党の選挙に利用されているから」…という理由が不快なのではありません。そんなことは、ニュースを見ているすべての人がわかっていることでしょうから。そうではなく、「同じニュース」を「同じ切り口」で流し続けるマスコミにうんざりしているのです。私は、ニュースで曽我さんの顔が出てくると、チャンネルを回してしまいます。

2004/7/8

 ああ、暑い…。今日は珍しくスーツを着ているので、昨日よりさらに暑く感じます。

 投票日も近くなり、今日も選挙カーが候補者の名前だけを連呼しながらオフィスの前を通り過ぎて行きます。政策を主張するわけでもなく、名前の連呼は無意味、うるせえなぁ…。で、先日に続いて、選挙の争点について考えて見ます。今回は、私自身があまり考えてこなかった「安全保障」や「愛国心」について、さらには「国の国民に対する義務と、国に対する国民の義務」について…です。

 今回、拉致被疑者の曽我さんが家族と会えることになったのは、非常に喜ばしいことです。昨日のニュースでは、小泉首相と曽我さんの面会を報じていましたが、あまりに露骨な選挙利用ですね。まあそんな話はどうでもよいのですが、この北朝鮮拉致問題は「国家安全保障」について大きな議論を巻き起こしました。その後のイラク派兵問題、さらにはイラク人質事件での人質バッシング問題なども重なり、「国と個人の関わり」について考えさせられる状況が続いています。そういえば今日、外出先の新橋駅頭で、拉致被害者家族会から参院選に立候補した増元氏が演説を行っていました。ちょっと聞いていたのですが、「…数十人の拉致被害者を見捨てる国家を容認すれば、いずれ1億人の国民全てを見捨てる国家になっってしまう。そうならないためにも、国民を大事にする国にすべきだ」…と主張していました。増元氏に限らず、国と個人の関わりについて言及する候補者が増えています。
 また、「日本版『北風』に注目 参院選で韓国メディア」という記事で、「韓国で北朝鮮絡みの大きな事件が選挙結果に影響を与えることを『北風』と呼び、ほとんどは国民の危機意識の高まりから保守勢力に有利に作用してきた」…とあるように、日本の保守勢力が「北朝鮮絡みの安全保障問題」をテコに保守層を固めようとしているのは、当然のことでしょう。

 この「国と個人の関わり」については、この参院選では2つの「視点」が問題にされています。まずは先に挙げた増元氏の演説にあった、「国が個人に対して何をすべきか」…を問うもの。そしてもう1つは、逆に「個人が国に対して何をなすべきか」を問うものです。
 最近は「個人が国に対して何をなすべきか」…、いわゆる「国民の義務」についての議論が盛んです。自民党の憲法改正案を読むと、まさに「国民の義務」を強化する方向がトレンドとなりつつあります。例えば改正案の中では「非常事態については、国民の生命、身体及び財産を危機から救うことが国家の責務である」と明言する反面、「その責務を果たすために非常時においてこそ国家権力の円滑な行使が必要である」と、国家権力の強化を謳っています。加えて、「国の防衛及び非常事態における国民の協力義務」や「家族・共同体における責務」を明確にする方向を打ち出しています。

 でも本当のところ、個人はどの程度、所属する国に対する義務を負うと考えるのが正しいのでしょうか。

 この「国と個人の関わり方」…なんて話になると、いろいろと面倒な「前提となる要件の整理」が必要になります。例えば「固有の文化の尊重」とか「愛国心」とか、「民族の性質」なんて話です。いずれも、非常に曖昧で多様な意見がある問題ばかり。これを議論していると、なかなか前に進みません。ここはひとつ「国」というものについて、うんと単純に考えちゃいましょう。「国」「国家」とは何か…という問題を、できる限り単純化するのです。
 まず「国家」を辞書で引いてみましょう。まず学研国語大辞典では「一定の領土と、そこに住む一定の住民から成り、主権による統治組織をもっている社会集団」…とあります。次に広辞苑では「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権を持つ政治社会。近代以降では通常、領土・人民・主権がその概念の三要素とされる」…とあります。そして大辞林では「一定の領域に定住する人々が作る政治的共同体。国家の形態・役割は歴史的に異なるが、一般には、近代の国民国家を指し、主権・領土・国民で構成され、統治機関を持つ」…とあります。

 こうした定義を簡単にまとめてしまえば、「国家」とは「一定の領土をもち、一定の住民があり、主権を持つ統治組織がある社会」…ということになります。いや、簡単な話ですよね。ここには、「固有の文化」や「民族」「宗教」なんて曖昧な概念は登場しません。一定エリアに人が住んでて、そこに統治機構があれば「国」なんです。

 もう一歩踏み込んで、国際法上の「国家」の定義を見てみましょう。社団法人太平洋地域研究所が開設しているサイトの中に「クック諸島は独立国か…主として比較憲法の視点から」…という面白い論文があります。
 これによると「国際法上の国家の要件」について、次のように述べています。
 「…国家の定義については、政治学、憲法学、国際法学等、学問分野によってさまざまな定義がなされるが、国際法上は、次の4つの要素を有する団体が、国際法上の人格を有する国家(=主権国家)とされている。@恒常的住民、すなわち国籍を有し定住する「国民」。A明確な領域、すなわち領土・領水・領空。B政府、すなわち国民と領域を支配する実効的な統治機構。C他国と関係を取り結ぶ能力、すなわち外交能力。以上の4つがそれである(「国の権利および義務に関する条約」「モンテヴィデオ条約」、1933年署名、1934年発効。)…」

 この論文も、結局は市販の辞書と同じことを言っています。国家の定義として「住民、領土、政府、外交能力」の4つのみを挙げており、実にシンプルです。
 国家の定義はシンプルです。これはシンプルにせざるを得ないからだと思います。国家の定義の中に、「文化」や「民族」や「宗教」や「地域性」といった曖昧なものを入れると、収拾がつかななくなるからでしょう。なぜなら、国家の成立過程があまりに多様だからです。われわれは「日本」という、比較的国家の成立過程がシンプルで、しかも「民族的、文化的に傾向を一括りにしやすい国」に住んでいます。だから、「国家」というとすぐに「日本固有の文化」とか「日本人の特質」…といった概念を出せるのです。こうした「日本」のような国家は世界的に見ると、少ないのではないかと思います。多様な文化を持つ民族が混合した国、政治的な意図で無理やり作られた国…なんてのがたくさんあります。

 例えば、成立時期が新しく、しかも多民族国家であるアメリカという国は、「固有の文化」や「固有の特質」なんてものを主張しにくいでしょう。
 またイスラエルという国は、非常に複雑な過程を経てできた国です。国際法による「国家の定義」よりも「民族」を重要視し、平然と国際法を破って周辺国を侵略して領土を拡大してきました。ユダヤ民族の歴史は聖書の創世紀に始まり、紀元前10世紀古代王国が栄えましたが、やがて王国は北と南に分列し、アッシリアと新バビロニアに滅ぼされました。その後2千年近くにわたりユダヤ民族は世界各地に離散します。19世紀末の欧州でシオニズム運動が起こり、20世紀初頭よりユダヤ人のパレスチナ移住が増大。1947年国連総会は「政治的な配慮」によってパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する決議を採択、イスラエルはこの決議を受入れ1948年に独立を宣言します。さらに周辺のアラブ諸国と4度にわたり戦争をして強引に領土を拡張しました。こうした成立経緯を持つイスラエルという国は、国家の定義を、国際法よりも上位概念としての「民族」に置かざるを得ないのです。
 アフリカの大国であるザイールなんて国を見ると、イスラエルとは逆に、国家の定義は国際法によるしかないような国家です。1960年にベルギーより独立したコンゴ共和国に始まります。この時点で、ネイティブな住民の民族や文化を無視した国境線が引かれました。さらにコンゴ動乱経て1965年にクーデターによるモブツ政権成立、1967年にコンゴ民主共和国に国名を変更し、1971年にザイール共和国に国名を変更しています。内戦による300万人以上の死者を出し、今なお内戦は続いていますが、これは「植民地宗主国によって民族や文化が分断された」という成立経緯によるところが大きいのでしょう。

 適当に思いついたこれらの国の成り立ちを見ればわかるように、ともかく「国家」を辞書的にシンプルに定義しなければ、話は際限なく複雑になりそうです。逆に言えば、日本という国は「国家」を語るときに「語りやすい国」だと思います。

 さて「国家」を、「一定の領土をもち、一定の住民があり、主権を持つ統治組織がある社会」とシンプルに定義した場合、国家の「一般的、原則的な存在理由」は簡単です。
 国家について間違いなく言えることは、その成り立ちから言えば「人が集まって国を作る」のです。国家は「共同体」です。あらかじめ「国」が存在するわけではありません。「共同体」が「国」に発展するのです。では、人はなぜ「共同体」を作り、そして「国」を作るのでしょうか。これまた、比較的簡単に一般的な答えを出すことができます。基本的には「集団の利益を追求するため」でしょう。ここでいう「利益」には、「身体や財産の保護」も含まれるはずです。

 国家の主権者は、その構成員たる住民です。そして住民の共同体である国家に対して、住民が求めるものは「共同体の利益」というわけです。しかし、住民の意思に個人差がある以上、「どのような共同体の利益を求めるか」については、個々の考え方が違うはず。そこで、住民の意思の最大公約数を探る試みがなされなければなりません。それが、「民主主義」であったりするわけです。
 また、最大公約数とはいえ、それを探る政治のシステムによっては「多数決」や「議会制民主主義」のような、実は「不合理なシステム」を導入せざるを得ません。他に方法がないからです。何が不合理かといえば、自分の意見が通らない人が出るからです。そして、自分の意見が通らなくても「我慢する」ことが要求されます。すなわち「規制」を受け入れるのです。共同体としての国家は規制を生み、それは国家によって得る「利益」の「代償」です。それこそが、個人と「自分以外の住民」との間の「契約として甘受すべきもの」だと考えます。
 私は「日本」という国に住んで、自らが構成員で主体たる国家に保護され、安全で豊かな生活を甘受しています。その代償として、国家に対して犠牲や代償を払うわけではありません。「自分以外の住民」に対して、犠牲や代償を受け入れているわけです。

 さて、こうして、冒頭から書いてきた「国と個人の関わり」の話に戻ります。
 まず「国が個人に対して何をすべきか」…は、国家共同体を構成する住民が自ら作った「意思決定システム」によって決めた「住民の利益(安全を含む)の追求」です。
 逆に「個人が国に対して何をなすべきか」は、国家共同体を構成する住民が自ら作った「意思決定システム」によって決めた「住民の利益を追求するために必要なこと」です。こうして原則論に立ち返り、「国家」をあらためて「自分を含む共同体」として捉え、「意思決定システム」たる「選挙」に望もうと思います。

 そういえば高校時代に、ルソー「社会契約論」、クラウゼヴィッツ「戦争論」、スピノザ「国家論」、ロック「市民政府論」、ホッブス「リヴァイアサン」、エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」、レーニン「国家と革命」など、国家論の古典をたくさん読みましたが、その時期以後は永らく「国と個人の関わり」について深く考えずに生きて来ました。私は、ハンチントン「文明の衝突」やハレー「歴史としての冷戦」、カー「危機の20年」のような、ここ20年くらいの間に話題となった国家論関係の書物をまったく手に取らずに来ました。しかし、今回の参院選で投票するに際しては、「個人と国家の関わり」について、少し考えた上で投票をしようと思っています。

 …いや、今日は何が書きたかったのかわからなくなりました。読み直しませんので、誤字脱字、支離滅裂な文意文脈はご容赦下さい。内容は「シャレ」です(笑)

2004/7/7

 今日は「七夕」ですね。私は、27才の七夕の日にバイクの事故で大怪我をして、その後の人生が変わりました。…感慨深い日です。
 ちなみに、「七夕」という言葉は中国語です。「七夕」の文字は、日本では新古今和歌集に見られるのが最初のようです。ただ「天の川」を見上げるだけでなく、ぜひ「七夕の起源」という面白い論考を読んでみてください。

 プロ野球の合併問題、まさにオーナー側は「はじめに合併ありき」で話を進めています。「近鉄本社・山口社長発言に選手会激怒」という記事がありましたが、ここはもう選手会は協調して「スト」をうつべきでしょう。大リーグの選手が待遇改善を求めてストを行った際には「高額年俸の選手がなぜストを」というファンの反発を招きましたが、今回のストは話が違います。一部の選手は職場を失い失業する可能性があるばかりか、ファンも2リーグ制を望んでいます。ストに反対するファンは少ないと思いますよ。

 新潟で起こった、小学生が包丁で同級生を刺す…という事件、確かに「異常」な事件ではありますが、「恨み」や「憎しみ」という動機があるという点においては、成り行きには納得できる部分もあります。例え小学生であっても、イジメなどにあえば「相手を包丁で刺したいほど憎む」という感情が芽生えることは十分に理解できますから。
 実は私、佐世保の小学生刺殺事件のときにも、似たようなことを考えました。被害者の女の子に対する同情と悔やみの気持ちを十分に踏まえた上で、加害者の女の子の「相手を殺したいと思う気持ち」をいろいろと思いやってしまうのです。うまく言えませんが、人が人を殺したい気持ちは、もしかすると「人間的な感情の発露」でもあるような気がするのです。それが小学生同士であっても…です。少なくとも小学校6年生の感情の動きは、大人とたいして変わらないでしょう。そういった意味で、あまり異常な事件とは感じませんでした。
 長崎男児誘拐殺人や神戸の「サカキバラ」事件などは、非常に「病んだ部分」「異常な部分」を感じて無責任な論評をしたくないのですが、今回の事件、そして佐世保の事件については、「小学生が小学生を傷付けたり殺したりすることの異常さ」ばかりを論うのではなく、「ごくあたりまえの人間の感情」という視点でも考えてみたいです。この話は、また別なところで書きます。

2004/7/6

 「町名消える田沢湖・角館」という記事を読みましたが、「またか…」という感じですね。全国の自治体で進む「平成の大合併」では、合併後の自治体名称については、もうあちこちで批判の声が上がっています。例えばこちらでは、やたら増えつつある「ひらがな市名」の是非について、侃々諤々の議論が続けられています。また、「南アルプス市」のようなカタカナ市名に関しては、「日本語地名の歴史と伝統」という面からも反対が大きいようです。また、「…かな書きの自治体名は、必ずしもダサいとは思いませんが、単語の『分かち書き』のない日本語の表記上、ちょっと不便だとは思います」…という「分かち書き」面での指摘は、面白いと思いました。

 私は、こうした合併後の地名について、ひらがなでもカタカナでもあまり気にはなりません。むしろ、いちばん大きな問題だと思うのは「今まで全く使われていなかった新地名」が使われる…ことだと思っています。それは、既に知っている「地名と、それに対応する地図上の位置」が一致しなくなる…からです。
 私は、旅が好きでバイクで日本中を走り回ってきましたし、登山が好きだったので電車でも日本中あちこち旅をしました。仕事でもかなり旅行している方だと思います。だから、一般的にはあまり有名ではない市町村名でも、聞けばたいていどこにある市や町なのかがわかります。しかし、聞いたことのない新しい地名ができると、それがどこにあるのかわからない…わけです。困ります。
 例えば、「南アルプス市」と言われても、長野県、静岡県、山梨県に渡る広大な南アルプス地域のどこにあるのかさっぱりわかりません、八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町…が合併したということですが、うち白根町、芦安村、櫛形町あたりなら、どこにあるかすぐにわかります。だから、合併後の市名を「白根市」か「芦安市」にでもしてくれれば、「ああ韮崎の南あたりだな…」とピンとくるわけです。「芦安」は夜叉神峠や北岳方面へ登山をした人なら誰でも知っている地名ですし、「櫛形」は櫛形山に登ったことがあればすぐにわかります。それが「南アルプス市」では、地図上の位置をイメージできません。こんな合併地名が全国にできたら、これまで経験的に蓄積した「地名と地図上の位置」に関する知識が、かなり無駄になってしまいます。
 もう1つ困るのは、仕事上での不便が生じることです。例えば、私のオフィスではパッケージソフトを販売しているのですが、日本中のユーザから電話での問い合わせがあります。資料を送付するため「ご住所をお願いします」と言った時、相手が告げた住所が「聞いたことのない名称」の場合、「どんな字を書くのですか?」といちいち相手に聞き返さなくてはなりません。例えば、最初に例に出した「仙北市」場合、電話越しに「当方の住所はせんぼくし…」と言われても、それがどんな字を当てるのかさっぱりわからないわけです。そうなると「せんぼく市というのはどんな字を書くのですか?」と聞き返さなければなりません。これが「かくのだて市」であれば、いちいち漢字を聞かなくてもすぐにわかるわけです。これは私のオフィスに限らず、日本中で起こることでしょう。電話越しに住所を聞き取る…必要がある仕事は、全て非常に困るはずです。加えて、その市町村が「何県にあるか」が、パッとわからないと、郵送料なんかもわかりません。いちいち調べる必要があります。知っている地名なら、経験的に物品の郵送料なんかも覚えています。

 経験的に蓄積した「地名と地図上の位置」に関する知識が無駄になる…ということが、全国のあらゆる場面で、しかも多くの人の上に起こるとしたら、それは莫大な経済的損失であり、時間的損失です。せっかく得た知識が無駄になり。またあらためて覚えなくてはならない…のは、実にバカバカしいことです。
 そんなわけで市町村が合併した際には、「もっとも知名度の高い自治体の名称に統一する」…という原則を作って欲しいと思います。

 例えば温泉地で有名な湯布院の場合、同じ大分郡の挾間町、庄内町と合併して「由布市」になるそうですが、なぜ最も有名で誰でも知っている「湯布院市」にしないのでしょうか。そりゃ確かに、挾間町、庄内町の住民は「おらが町」の地名がなくなるのですから、いい気持ちはしないでしょう。でも「由布市」という知名にしたところで、「元の地名がなくなる」…という結果は同じです。だったら、合併する市町村の中で一番よく知られている地名にしておいた方が、利便性が高いはずです。思うに、旧挾間町、庄内町の選出議員あたりの「プライド」の問題なんでしょうが、「由布市」なんて馴染みのない名前にするのは実にバカバカしいことです。  冒頭で挙げた「仙北市」なんて、「角館市」か「田沢湖市」にしておけば、何の問題もない…と思うのですが。遠方に住んでいる人間にとっては、「仙北市」なんて「地図上の場所をイメージできない」名称にする意味がさっぱりわかりません。

 むろん、「平成の大合併」には他にも問題があります。こちらで田中康夫が書いているように、「合併特例債で新たなハコモノを造る」ことが目的で合併を進める市町村もあるなど、政策的に見て不透明な側面があります。さらに、こちらで言及されていように、「3割自治」という地方交付税システムを維持したままでは、「平成の大合併」の本来の目的であるはずの「地方分権」が進展するとも思えません。あい変わらず、中央省庁の役人が予算を楯に強大な権力を振るう構図は変わらないでしょう。

 私は「歴史的、文化的」な見地から旧地名を残すべきだ…とか、ひらがな地名やカタカナ地名は文化への冒涜だとか…、そんな話にはあまりこだわってはいません。しかし、少なくとも「せっかく知識として持っている地名の位置関係」が役に立たなくなる…という利便性の面からみた問題は非常に大きいし、損失だと思っています。

2004/7/5

 いやもう、参院選の公示以降、オフィスの近くを通る選挙カーがうるさいし、オフィス近くの池袋駅頭には党首や幹事長クラスがよく演説に来るので、これまた人だかりが通行の邪魔で鬱陶しい。選挙が重要ということは百も承知ですし投票には行くつもりですが、選挙カーと街頭演説は「禁止」しても何ら差し支えないと思います。
 もっと鬱陶しいのが、タレントを使ってやっている「投票に行こう」というTVCFです。選挙権があるのは20歳以上ってことはガキじゃあるまいし、仮面ライダーの選挙広告には驚きました。投票を促すために、タレントを使ったCMをやる意味はあるのでしょうか。それこそ税金の無駄遣いなので、やめて頂きたい。

 政治に絶望している上、「今後日本がどんな国になるか」…についてさほど興味を持っていない私には、今回の参院選でどんな投票行動をとるべきか判断しかねています。政治に興味がない…というよりも、日本の将来を考えると「この国は一度ダメになった方がよい」とすら思えるからです。実際私は、「日本はもうダメ」に近いとの感覚を持っています。近い将来この国が経済的に行き詰るのは、ほぼ確実のような気がしています。確実に予想される産業の衰退と今後も続くであろう歳入減に対して、疲弊した経済システムは何ら手立てを打つことができません。いたずらに赤字国債を発行し続け、依然として無駄な公共事業に膨大な予算を投入し、役人が自らの天下り先の特殊法人にお金を注ぎ込み続けている現状は、モラルハザードという側面もありますが、ある種の「制度疲労」でもあるようです。「長年続けてきた決まりごとが、その決まりごとによって利益を得る人が存在のために、変えられなくなった」状態です。「長く続いてきたシステム」を前にして、政治家だけで泣く国民の多くも、面倒な改革の道を歩みたくないようです。加えて、教育レベルの低下と、上から下まで社会に蔓延するモラルの低下は、国の将来を絶望視させてくれます。

 参院選といえば、「良識の踏み絵」なる妙なサイトがあります。議員データベースがいったいどんな情報を提供してくれるのかと思ったら、「年金未納・未加入」「小泉再訪朝に対する評価」「自衛隊の多国籍軍参加に対するスタンス」「サマワは戦闘地域だと思うか?…という問いに対する答え」の4点を評価基準にしろ…ということらしい。あまりの中身のなさ、アホらしさに驚きました。要するに「国家の安全保障に対するスタンス」を見極めて投票しろ…ってことでしょうが、なんともバカバカしい。このまま行けば、この国は北朝鮮からミサイルが飛んでくるよりも先に、経済的に破綻してしまいます。安全保障の問題が「どうでもいい」とは言いませんが、国が破綻するかもしれないのに国家安全保障なんて考えても無意味でしょう。議員の年金未納問題だって、「正確な試算結果に基づく破綻しない年金案を提示できるかどうか」に比べればたいしたことではありません。「良識」「国家百年の計」のようなものを問うのであれば、同じ年金問題でももっと本質的な部分で問うべきなのは当然ですし、例えば国家財政を揺るがせかねない郵政民営化や財投の問題、公共事業問題等に対する考え方を問う方がはるかに意味があります。

 例えば、忘れられつつある郵政民営化問題は重要です。数日前の日経新聞の社説に、「与野党は郵政改革の具体案を示せ」という郵政民営化についての、久々にまともな論評がありました。
 郵政民営化と財投の問題については、郵貯の莫大な資金を使うことで国の「第2の予算」とまで称される強大なシステムとなった財投を「いかにまともなシステム」に改善するか…が問われているわけです。現在の財投制度は市場経済に馴染んでいないばかりか、誰もが知る通り、特殊法人の資金源になっており、天下りした官僚の給料やバカ高い退職金に化けています。さらに大きな問題として、特殊法人に投入した膨大な資金の多くが不良債権となっており、郵貯には返ってこないかもしれない…という切羽詰った状況があります。これを税金で穴埋めする…となると、もう額に汗して働いて税金を納めることがバカバカしくなります。
 日経の社説では、「…国債を買うしかない国営金融事業を放置すれば、いずれ日本経済は行き詰まる」と、子供でもわかる話を改めて明確に述べています。日本人は、「貯金で国際を買わされている」のです。そして、誰が見ても経済が破綻するとわかっているのに誰も郵政改革に手がつけられない理由として、「郵政問題には約30万人が働く組織の改革に伴う痛みが加わる。特定郵便局長は自民党の族議員とつながり、労働組合は民主党の有力支持基盤だ」…と、これまた従来から言われてきたことをきちんと提示しています。要するに、郵政改革が進まない…ということは、与野党議員の多くが誰も本気で国の将来を憂いていない…ということです。
 この「国が滅ぶかどうか」と密接につながり、しかも「特定の人間の利益を代弁しているかどうか」がはっきりとわかる「郵政民営化に対するスタンス」を立候補者に問うだけでも、「国家百年の計を考えている人かどうか」「ヒモ付きの立候補かどうか」、そして「良識を持った人かどうか」は、はっきりとわかります。立候補者に対する「良識の踏み絵」なんてサイトを作るのなら、安全保障問題で「国を憂いているかどうか」を判断するよりも、まずは国として破綻しかかっている経済問題で「国を憂いているかどうか」を判断したいものです。

 選挙カーがうるさかったので、珍しく政治絡みの与太話を書いてしまいました。参院選、私は本当に行くでしょうか? 自分でもよくわかりません。それにしても、「国家百年の計」という言葉は嫌いです。

2004/7/2

 私はiモードなんてものが発売される前からずっとドコモの端末を使っており、仕事に使っている関係上、電話番後の変更が難しいので、ドコモから他のキャリアに変更できません。ユニバーサルナンバーが実施されたたら、即ドコモを辞めるつもりではいますが、いまのところは無理です。しかし、最近2台目として使い始めた「AH-K3001V」(京ポン)の使い勝手が非常によく、特にiモード関連の機能の大半を「京ポン」の強力なネットアクセス機能で代替できるので、D505iをもっと軽量でシンプルな端末に変更したいと思っていました。そこへドコモから発売されたのが、「premini」です。私は現在使っている重くてデカイiモード機「D505i」をこの「premini」に機種変更しようと思っていました。
 まあ、多少デザインが「あざとい」感じを受けるのはしょうがないとしても、この軽さ・小ささは魅力です。
 しかし、先ほどこちらの記事で「premini」の開発ストーリーと開発者からのメッセージを読んだら、ちょっと買う気が失せちゃいました。こいつら、何エラそうなこと言ってんだ?

 「premini」は、確かにここ数年の「携帯端末の多機能化・大画面化」に背を向けています。カメラを搭載してませんし、iアプリにも対応していないなど、機能面でのコンセプトもはっきりとしています。どれがどうした? そういうシンプルな端末って、ずっと前から多くのユーザが欲しかったものじゃないんでしょうか。
 この記事の中で、開発グループの人たちは、やたらと「機能の必要性を見分けられる人」「自分のスタイルを持った人」へ向けて開発したことを強調しています。この「premini」は、そんな大げさなことを言うほどの端末なんでしょうか。そんなに「独創的」な端末なのでしょうか。
 はっきり言って、「premini」のようなサイズでシンプルな機能の携帯端末は、GSM端末の世界では常識でした。GSM圏へ行けば、「premini」と似たような機能とデザインの端末がいくらでも並んでいます。ヨーロッパやアジアでは重くて大きい端末はごく一部の人が持つだけで、基本的にはストレートの小型端末が主流です。確かにGSMはiモードのようなブラウザフォン機能が劣るからでもあるのですが、逆に言えばバカでかい端末には「ニーズが少ない」という部分もあります。私はヨーロッパの携帯端末販売店やバンコクのマーブクロンセンターなどに並んでいる、小さくてシンプルな多様な端末デザインを見るたびに、うらやましくてしょうがありませんでした。「premini」のようなサイズの端末が、いっぱいあるのです。日本の』キャリアも端末メーカーも、こうした端末を作ってこなかっただけじゃないですか。
 「調査に基づき、メール、通話、カラー液晶、iモードに特化」したんだそうですが、損ニーズ、わざわざ調査しないとわからなかったのか?…と突っ込みを入れたくなります。
 「ユーザーに媚びるのではなく、常に先鋭的なユーザーに狙いを定めて市場を引っ張ってきたソニー・エリクソン」…とありますが、じゃあ今まで「横並び」の端末を作ってきたのはなぜだ?
 さらに、「…"自分はこれだけしか使わない"ときちんと見分けられる人は、コダワリのある、自分のスタイルを持っている人。単純に機能を取るのではなく、逆に質感や世界観の部分は大事に"シンプルなライフスタイル"をサポートしていく」…という発言に至っては、バカバカしくなります。たかが携帯端末に「世界観」もクソもあるか…と言いたい。

 私は、日本のキャリアの中でも特にドコモの端末が、全部2つ折りになった504シリーズあたりから、デザイン面でひどくなったと思いました。505シリーズや506シリーズ、そしてFOMA900シリーズなど、全部同じじゃないですか。「機能の必要性を見分けられる人」「自分のスタイルを持った人」は、何も最近になって登場したわけじゃありません。これまでだってたくさんいたけれど、「選択の余地がなかった」だけです。別に「世界観」なんて大げさなものじゃなくても、私はずっと小さなストレート端末が欲しかったのです。デザインや機能面でもう数年間も、同じようなサイズと機能の「横並び端末」をユーザに提供しておきながら、今さらエラそうなコメントを出すなといいたい、ソニー・エリクソン!
 最後に、この「premini」のデザイン、まだまだクドイ。女性ユーザを意識し過ぎ。もっと「大人が使える」シンプルな形状の端末を望みます。

2004/7/1

 近鉄の経営難に端を発するプロ球団合併騒動については、こんなところで私が発言しなくても、球団関係者や監督、選手、そしてスポーツ評論家や政治家、市井の片隅の熱烈な野球ファンのオッチャンに至るまで、ありとあらゆる人が発言をしている国民的関心事のようです。
 今朝のニュースでは、Tシャツ姿のライブドア堀江社長の会見を放映していましたが、その会見内容も面白かったし、その後に放映された巨人軍オーナーの渡辺恒雄の傲慢な発言も面白いものでした。それにしても、「もう決着済み。知らない人が入るわけにはいかんだろ。ボクも知らないような人が…」というナベツネの発言は、愉快です。ナベツネなる人物の「傲慢さ」は、いったいどこから来るでしょう。まあ政治部の記者だった時代から政治権力の中枢にいる政治家との親交を深め、読売新聞のトップに上り詰めてからは、「自分が日本の政治を動かしている」という肥大した自尊心を膨らませ続けた、ただの「勘違いヤロー」なんでしょうが、あそこまで不遜な口の利きようをする人物がいるのも、愉快と言えば愉快です。
 一方で「新規参入の阻害」「閉鎖的なプロ野球界を敵に回しても戦う」というライブドア堀江社長の方も、なにやら胡散臭さがつきまといます。まあ、一応業界人としてオン・ザ・エッジの創業時代、例の「光通信」との蜜月時代など、ITバブルの経緯をウォッチしてきましたから、ライブドアなる企業の「虚業ぶり」も鼻につきます。ソフトバンクと同じく「株式の時価総額」を上げることが至上命題の企業に過ぎません。とはいえ、堀江氏はあの年で相当なお金持ちになったのですから、ナベツネと同じように「肥大した自尊心」の塊なんでしょうね。
 そして、近鉄首脳陣が「ライブドアなんて企業には売らん」と言ってみたり、オリックスの宮内社長が選手会長の古田を怒ったり、まあ「尊大なオーナー」達のオンパレードです。

 で、今回あらためて確認できたことは、プロ野球のオーナー会議ってのは、「球団経営を金持ちの道楽と考える人たちのクラブ」だってことです。だからナベツネが、「金だけを持っている」新興企業が気に入らない…というのは、よく理解できます。最後発でオーナーとなったオリックスだって、「リース業」なる新興業態であったがゆえに、宮内社長とナベツネは反目しあってきました。
 欧米と違って日本には「公然たるエスタブリッシュメント」が存在しません。そんな中で、プロ球団のオーナーになることは、エスタブリッシュメント気分を味わわせてくれる「クラブ」に入会したようなものでしょう。だから、新興事業者の参入を阻止したいナベツネの気持ちも、それに入りたい堀江社長の気持ちもよく理解できます。

 一方で、こうしたオーナー達の姿勢に対して、「ファンの立場」というヤツを錦の御旗に、反対意見を述べる人もたくさんいます。そうした視点での発言の多くには、「子供に夢を与える」とか「地域振興」なんて言葉が散りばめられますが、要するに「プロ野球は公共性を持つ」という主張に集約されるようです。
 しかし、金持ちの道楽で運営されるプロ野球は、けっして「公共の財産」ではありません。所詮は「金も権力もある(…と自分で思っている)ヤツら」のお遊びです。「プロ野球の公共性」なんて幻想です。だから、教団合併の是非の問題や、1リーグ制の是非の問題などについて、オーナー達のスタンスを目くじら立てて非難することは、馬鹿げています。また、「公共性」なんて視点で、「プロ野球界が発展するためにはどうすればよいのか」なんてことを口角泡を飛ばして議論するのも、馬鹿げています。

 この「球団経営は金持ちの道楽」ってことは、選手たち自身もよく知っていることでしょう。私は某在京球団を所有する企業の総務部の社員と親しいのですが、その球団の選手たちは、企業の広報活動に使われるだけでなく、経営者の個人的なパーティなどにしょっちゅう呼ばれるそうです。大手広告代理店に勤める私の知人の話によれば、プロ野球選手はオーナー関係者以外でも、タニマチの一言ですっ飛んでくるのが普通とのこと。顔の広い私の友人はよく、財界人のパーティや財界人の子供の結婚式などに、プロ野球選手を参加させるセッティングを依頼されるそうです。選手たちはみな、芸能人と同じようにご祝儀をもらってニコニコと帰っていくそうです。そういえば先日逮捕された「食肉界のドン」であるハンナングループの浅田満は、在阪の有名プロ野球選手のタニマチとしてはあまりにも有名でした。

 ともかく今回の合併騒動やライブドアの買収表明劇の中で、「球団経営は金持ちの道楽」という事実が、あらためて衆目に晒されることになったと思います。プロ野球に、公共性なんてこれっぽちもないこともよくわかりました。
 だから今回の騒動は、「勘違いヤロー達の争い」と見れば、それはそれで面白いものです。猿山のボス争いを見ているようなもので、けっこう楽しめます。

 さて、先月は「画像日記」と称しながら一度も画像をアップしませんでした。その反省を踏まえて(笑)、月初めの今日は画像をアップします。
 今日の画像は、セブンイレブンで売ってる「焼き鯖寿司」です(U30で撮影)。税込みで557円とかなり高いのですが、美味しそうだったので昼食用に買ってきました。
 厚いところでは2センチ以上ある肉厚の鯖が載っており、焼き加減や歯応えもよく、かなり美味しかったことを報告しておきます。ただ、557円という価格はサラリーマンの昼食にしては高過ぎます。それに、昼食にボリュームを求める人にとっては量的にも満足のいくサイズではありません。でもお勧めします。一度召し上がってみて下さい。

Email Webmaster if your incur problems.• Copyright © 2001 yama. ALL RIGHTS RESERVED. Since 2001.1.22
※ 当サイトは Internet Explorer6.0 に最適化されています。