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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/6/30

 唐突な主権移譲が行われたイラクの情勢は混沌としています。いっこうに治安が回復せず、局地的な戦闘が繰り返され、軍だけでなく民間人の死傷者も増え続けるイラクの現状は、もう誰が見ても泥沼化の一途を辿っているように見えます。
 ここへ来て「イラクのベトナム化」という話が、日欧、そしてアメリカのジャーナリズムでも公然と言われるようになりました。そんなこともあって、中公新書「ベトナム戦争」をあらためて読み直しました。私の世代は、「ベトナム戦争」という言葉が比較的身近なものとして感じられます。私が中学生の頃には既にベトナム反戦運動が盛んでしたし、「べ平連」は誰もが知る存在でした。ベトナム戦争についてはよく知っているつもりでも、あらためてその経緯を通読すると、インドシナ植民地史としての複雑な背景と、アメリカがあそこまで引き込まれた理由…が、よく理解できます。

 さて、現在のイラクを指して言われるところの「ベトナム化」という言葉を、「戦争の泥沼化」と言う意味で理解している人が多いようですが、実はちょっと違います。アメリカという国にとって、「ベトナム化」とは「多くの戦死者を出しながら、明確な成果、もしくは解決が得られない戦争」を意味する言葉です。
 アメリカは、独立戦争以降、メキシコ戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、「戦争」を行うたびに、領土や覇権など「明確な成果」を得てきました。加えて、全ての戦争において、アメリカは「正義」を謳うことができました。風向きが変わったのは、朝鮮戦争からです。朝鮮戦争は3万人以上の死者を出しながら、「何も解決できなかった」ことで、国内から大きな批判を浴びました。そしてベトナム戦争は、朝鮮戦争以上に「結果としてアメリカに何も持たらさない戦争」だったゆえの批判を浴びたのです。  アメリカ国民は、「戦争の成果」と「正義」に敏感なのです。

 アメリカがインドシナに介入し始めたのは古く、1954年にまで遡ります。ディエンビエンフーで敗退したフランスの撤退以後、徐々に関与を深めていったアメリカは、1964年に起きた「トンキン湾事件」を機に一気に直接介入をすることになります。ここで戦争の詳しい経緯には触れませんが、アメリカは本格介入した1965年から撤退した1973年までの間に、最大で年間50万人以上の自国兵士を送り、1,400万トン(太平洋戦争で日本に投下した爆弾の100倍)を超す爆弾を投下した挙句、58,000人の死者と30万人の戦傷者を出して、為すことなく撤退しました。アメリカがベトナムに費やした戦費は2,400億ドルで、これは現在の価値に直せば5〜6,000億ドルに上ります。ちなみにベトナ側の被害は、戦死傷者300万人、民間人の犠牲が400万人枯葉剤の被害者100万人、難民は1,000万人…という膨大なものであったことも忘れてはなりません。
 アメリカは、ベトナムでこれだけの犠牲を払って、結局何も得られませんでした。それどころか、戦争反対の世論で国内は二分され、帰還兵までが冷たい仕打ちを受ける…という結末となりました。この「犠牲だけ大きく、結果として何も得られなかったベトナム」は、政府に対する大きな批判を醸成し、その後のアメリカの政治にも大きな影響をもたらしました。ベトナム戦争以降は、議会も大統領も「確実に結果を得られない戦争」には二の足を踏むようになりました。
 パパブッシュは、湾岸戦争で「最小限の犠牲」で一定の成果を得ることで、世論の批判を回避しました。しかし、ブッシュ坊やの方は、どうやら失敗したようです。いかに「9.11」の衝撃が大きく「正義」を訴えやすかったといえ、アメリカにとって現在のイラクは、「ベトナム戦争の悪夢」を蘇らせるような事態が展開しつつあります。要するに、「犠牲と出費に対する成果が得られない」と、アメリカの国民が考え始めているのです。ほどなくアメリカは、「この事態から逃げる」方法を算段し始めるような気がします。

 ところで、「多くの戦死者を出しながら、明確な成果、もしくは解決が得られない戦争」…という以外にも、ベトナム戦争とイラク戦争には多くの類似点があります。
 例えば、マスコミ操作です。ベトナム戦争は、徹底した報道管制が敷かれました。ケネディは、ベトナムで起こっている事態を、徹底して国民の眼から隠そうとしました。ケネディ時代の国防省の報道官は「国家安全保障に関わることならば政府は国民にウソをつく権利がある」とまで発言しました。ケネディはマスコミへの圧力を強め、協力を要請する…なんて生易しいものではなく、批判的な記者の追放を強要したり、不都合な映像を流すことを禁じたりしました。この方針は、その後のベトナム戦争を戦ったジョンソン、ニクソンの両政権にも引き継がれ、結果として国民の不信感を増大させたのです。これは、現在のブッシュ政権が行っているマスコミ統制と同じです。
 そして、「マイノリティの戦争」という面でも、イラク戦争はベトナム化しつつあります。ベトナム戦争では徴兵制があったにも関わらず、実際に戦い、そして死傷した将兵は、黒人やヒスパニックなどのマイノリティが高い割合を占めました。現在行われているイラク戦争も同じです。イラクに派遣された兵士を人口比で見ると、白人よりも黒人やヒスパニックの割合が高い…という現実については、実は最近になってアメリカのマスコミでも取り上げられ始めました。貧困を背景に持つマイノリティが、あたかも白人の傭兵のように前線で危険な任務についています。
 ひどい話ですが、ブッシュの言う「正義」なんてこの程度のもののようです。

2004/6/29

 唐突な話ですが、「左右」って何でしょう。
 「右」と「左」がよくわからない人って、大人にもいますよね。知人とそんな話をしていて、「左右とはどんな概念か」「左右を認識するということはどういうことか」「右、左の定義は何か」…等々について興味を持ちました。
 調べ始めたら、私と同じような疑問を持った人がたくさんいます(例えばこちらの方)。

 まずはWeb辞書で「右」を検索してみたところ、かなり笑える定義が書いてあります。まず「広辞林」では「空間を二分したときの一方の側。その人が北に向いていれば、東にあたる側」…とあります。次に「大辞泉」では、「東に向いたとき南にあたる方。大部分の人が食事のとき箸はしを持つ側」と…なっています。

 さて、「右」「左」の認知の問題は面白いぞ…と思い、さらに検索を進めました。まずは、こちらに「幼児交通安全教育に関する一考察 左右の概念と右方通行について」という面白い文章がありました。これによると、「上下と言う概念では重力と言う第3の指標が存在するのに対して、左右の場合それは物質の分子というような日常からほど遠い所に求めるしかないので、右でない方が左、と言ったあいまいな定義しかできない」…とあります。
 …うーん確かにそうですね。左右を決める「正確な指標」って何でしょう。

 さらに、こちらにも、面白い話がありました。
 「左右というのはこのように人間社会にとって欠かせない事のようなのだが、それは我々の社会の通念に過ぎず、全くこの考え方を持っていない民族も存在する。メキシコ・マヤ族の一つテネハパ族のツェルタル語とかオーストラリア先住民族のグウグ・イミディール語には、左右という表現はなく、物の位置を表すには東西南北や上下で示し何ら不自由はないという。これは左右の概念が人間の持つ自己中心的な空間認識から生まれたとされる心理学説に対して、必ずしもそうではない人間も存在するという証だとされている」
 …この話は、いろいろと調べて見ると、どうも講談社ブルーバックスの「方向オンチの科学」という本に書いてあるらしい。

 さらに「もし『右』や『左』がなかったら―言語人類学への招待」なる本でも、マヤのツェルタル語が出てきますね(この本を読んだ人の解説はこちら)。

 「…前後もわからなくなるほど正気を失うことを『前後不覚』と言いますが,何故『左右不覚』とは言わないのでしょうか?」という面白い質問と、その答えをWeb上で見つけました。
 「…江戸時代初期までは,右手のことを馬の手綱を取る手という意味で馬手(めて)、左手のことを弓を取る手という意味で弓手(ゆんで)と呼んでいました。しかし,江戸の平和な時代になると馬手,弓手という合戦に関係のある言葉は廃れていきました。それ以後,明治になり『右』、『左』という言葉が出来るまで,数少ない職業軍人(武士や特殊な職にある者)を除いた一般庶民は左右の概念を持つことができなかったようです。そのために『左右不覚』と言う言葉は生まれなかったというわけです。ちなみに上下の概念も明治に入ってから左右の概念と同時に生まれたため(『前後左右』ではなく『上下左右』というのはこのためです)、『上下不覚』と言う言葉も生まれませんでした」…とありますが、日本では「明治時代になるまで一般庶民は左右の概念を持つことができなかった」というのは本当でしょうか?

 いや、「右」と「左」の概念について調べると、いろいろと面白い話が出てきます。今度、認識論や言語論の面から、徹底的に調べて見ることにします。

2004/6/28

 大学生の学力が落ちている…という話は、ここ数年幾度となくマスコミで取り上げられ、私もこの日記で関連する話題を何度も書いたことがあります。いまや、「昔と比べて相対的に学力が落ちている」という話には留まらず、世界的に見て日本の学生の学力が低い…ことが問題になりつつあります。
今週号の週刊現代の記事中で、京都大学経済研究所の西村和雄教授の、次のようなコメントが掲載されていました。「日本の大学生がア、アメリカの一流大学の大学院に入ろうとすると、以前は多くの日本の大学生が奨学金付きで入学許可を得ていたのに、今は奨学金はおろか、入学許可もほとんど下りないのが実情です。アメリカの大学関係者は『日本からの大学生はかわいそうだから入れないようにしている』と言います。学力が低くて授業についていけないからなんです」
 アメリカの大学といえば、アジア系学生が相対的に高い学力を持っている…ことが、最近の傾向として広く認知されています。中国系、韓国系、インド系などの学生が非常に優秀であることは、誰もが認めるところです。そんな中で、同じアジア系ながら日本の学生だけは「授業についていけない」ということですから、ヒドイ話です。問題は、実に深刻です。
 上記のコメントを述べていたのは京大の先生ですが、ノーベル賞学者を輩出したその京大ですら、「教え方のレベルが低い」という理由でカリフォルニア大学から交換留学を断られた…という話は、数年前に大きな話題となりました。

 ところで、学力が低下しているのは大学生だけではありません。「ゆとり教育」のせいかどうかは知りませんが、小学校、中学校、高校と、子供の学力低下は目を覆うばかりです。しかし、教師など教育の現場にいる人間は、相変わらずトンチンカンな認識しかないようです。朝日新聞朝刊に毎週1回連載されているコラムに「杉並校長日記」というのがあり、先週土曜日に「学力テストがはらむ分かりやすさの魔力」という一文が掲載されていましたが、これを読んだら何だかバカバカしくなりました。

 「…杉並区教委は、都の発表と前後して、学力をどうとらえているかを発表した。ここでは学力を三つの力に分解して考えている。『学ぼうとする力(意欲や態度)』『学ぶ力(思考力や判断力)』『学んだ力(知識や理解)』の3段階だ。時間的な経緯で切った考え方ともいえる。…まずなにより、学ぼうとする意欲が必要だ。そして、同じことを教えても、学ぶ力があるほうがより身に着くに違いない。最後に学んだ結果として知識が増えたり理解が深まったりする。こうして考えると、『学力テスト』というのは『学んだ力』を測る道具に過ぎないともいえそうだ…」
 中学校の校長が、「…『学力テスト』というのは『学んだ力』を測る道具に過ぎない…」なんて、意味不明のコメントを出すのですから、悲しくなります。なぜ「学力」の問題を語るとき、教育現場の人は「学力以前の問題」をこうも重要視するのでしょうか。「学力とは学力テストの結果」…という明快な解釈の、どこがいけないのでしょう。
 「学ぼうとする力(意欲や態度)」「学ぶ力(思考力や判断力)」があれば、「学んだ力(知識や理解)」はなくてもいいのか?…と突っ込みを入れたくなります。そもそも「学力」が落ちた最大の要因の1つに、教育現場で「学習意欲」なる得体のしれないものを評価する「絶対評価」があるのは常識でしょう。「学ぶ力(思考力や判断力)」の方はともかく、「学ぼうとする力(意欲や態度)」なんてものは、どうでもいいものです。逆に言えば、「勉強に対する意欲」がないけれども成績のよい子供…は、評価しないのですか? 私は逆に、「学んだ力(知識や理解)」さえあれば、「学ぼうとする力(意欲や態度)」「学ぶ力(思考力や判断力)」なんてなくてもいいと思います。
 思い起こして見ると、私が小中高と過ごしてきた学校教育の中で「勉強が大好き」なんて人間は、まあ皆無でした。「成績のよい子供」というのは、別に「勉強熱心な子供」「学ぶ意欲が旺盛な子供」と重なりません。ミもフタもない話ですが、成績のよい子は、別にそんなにガリガリ勉強しなくても成績がよいし、成績の悪い子は、多くの場合いくら勉強をやっても成績は伸びません。逆に言えば、全体の学力が下がったのではなくて、上位の子供の学力が下がったことが問題だと思うのです。日本のだ学生の学力が落ちたことが問題なのであれば、大学へ行くレベルの子供に、ちゃんとした高等教育を施すことを考えればよいだけです。「学習意欲さえあれば誰も行ける」ところが大学ではありません。

 「…本来、このように『学力』の本質に唯一の正解はない。それは『体力』という言葉と同様、いくらでも解釈が可能だからだ。100メートル走を勝ち抜く体力と42.195キロを走り抜く体力は違う。砲丸投げに必要とされる体力と水泳選手のそれが違うのと同じこと。基礎体力に限定した場合でも、大事なのは瞬発力なのか持続力なのか、背筋力なのか握力なのか、見解はそれぞれに異なる。だから自治体あるいは学校ごとに、自分のところは『学力』をどう解釈するか、説明することが必要になり、実際にその流れで公表が進んでいる。保護者は表面的なことだけでなく、よく吟味してほしいと思う…」
 これは、ますます意味不明の例え話です。体力にはいろいろとあることは確かですが、「学力」は「テストの結果」で全て明快に判断できます。この校長先生は、いったい何をわけのわからないことを言っているのでしょう。

 「…『杉並の子どもたちに育てたい力』として、倫理観と正義感、コミュニケーション能力、自己肯定感といったキーワードも並んでいる。『論理性や創造性』の例で『四コマ漫画を見てストーリーを説明できる力や四コマ漫画を作り出す力』が挙がっているのはユニークだ。ただし忍耐力や包容力、勘の良さなどはどうするんだなどと、いくらでもすき間を指摘することはできる…」
 確かに、「論理性や創造性」「忍耐力や包容力、勘の良さ」…は必要でしょう。
 さらに「…つまり、狭義の『学力』としてテストで計測できるものは、人間が生きるうえで必要な力のうち、かなり限定的な一部分…」と書かれていますが、このパラグラフも正しい。間違いなく正しいと思います。人間が生きていくのに必要な力は、学力だけではありません。しかし、今問題になっているのは「学力」なのであって、「論理性や創造性」「忍耐力や包容力、勘の良さ」を養いさえすれば、学力なんて必要ない…という話ではないはずです。
 この校長先生は、まともなロジックでモノを考えていません。

 このヘンな理屈を捏ね回しているコラムのタイトルは「学力テストがはらむ分かりやすさの魔力」ですが、私は「物事を難しく解釈することの魔力」を感じてしまいます。

2004/6/25

 ここのところ新聞記事やTVニュースで「長野県知事田中康夫の住民登録問題」がよく話題に上っています。まあ、どっちでもいい話だけれど、強いて感想を述べると、なんとしても田中知事の泰阜村への住民登録を阻止しようとして必死になってる長野市は、くだらない。「知事が住民票を移したのは、泰阜村の在宅福祉を取り上げたテレビ番組を見た両親がこの村に住民税を納められれば―と知事に話したことが直接のきっかけだった。もともと自治体間競争を促したいとの思いもあった…」(信濃毎日新聞)とのことであれば、細かいことをグチャグチャ言うことはないのに、と思ってしまいます。政治家としての田中康夫という人物は好きでも嫌いでもない(容貌・風体は嫌いかも…笑)けど、こんなことで税金を使って争っている役人達を見ていると、「こいつらバカか」と思う次第です。
 それにしても、先に引用した信濃毎日と言えば、「反田中派」であることを自他共に認めており、どうもマスコミらしからぬ姑息で政治的な動きを見せます。
 長野といえば「長野五輪の焼却帳簿が発見された」という週刊朝日のスクープは実に面白いのですが、この重大事については信濃毎日は一言も触れようとしません(この件は、かの民族派・勝谷誠彦氏も日記で触れていました)。まったくもって、妙な新聞社です。
 信濃毎日で思い出したのですが、同紙は昭和59年から昭和60年にかけて、隔週日曜日に、あの「谷川雁」の詩を掲載していました。この連載が後に「海としての信濃」(深夜叢書社刊)という詩集になって刊行されるわけですが、その内容は新聞の日曜版に連載するようなシロモノではありません。この点だけは、信濃毎日に敬意を表さなければ…(笑)
 さて、「海としての信濃」に収められた詩は、昭和35年にいったん詩作を中断した谷川雁が25年ぶりに書いたものです。昭和29年の第一詩集「大地の商人」、昭和31年の第二詩集「天山」に収録された詩群と比べて、彼自身があとがきで書いているように「廃兵のスケルツオ」であることは確かですが、暗い水面に引き込まれるような味わいがある詩が多い。私は、深夜時々、1人で声を出して読みたくなります。

敗王へ一献

谷川雁

暗い鍋の水面につきでた小鴨の脚へ
つぐないは何かと責めて雪ふりはじめる
からまつ谷の幾筋を風の櫛でかきあげ
水の蛇の郡最後の王が目をさましたのだ

はしれ ふぶきの声する差別を鞍につけ
天狼を指して地のいただきが沈むまで
王よ あなたとまばゆい白を競おう
どこまでも垂直をこばむ語法をなびかせて

なぜ前方なのか ぜひもない後円なのか
半島と湾のだきあうかぶとなどとは
毛焼きのあと切断された首の模写にすぎぬ

したたりおちる液汁は灰に吸わせよう
今夜かつての奴(やっこ)の肩を抱いて盃をほしたまえ
さげすみの力学もちょうど煮えてきた


2004/6/24

 一昨夜、昨夜と、あまり寝ていません。私は寝つきのよいのが特技で、ベッドに入って目を瞑れば概ね3分以内で睡眠状態に落ちる。どんなに悩みがあっても考え事があっても、「眠れない」…という状況に陥ることはまずありません。その私が、仕事で忙しいからではなく、「考え事」をしていて眠れない…という状況が2日間も続いています。

 WBCのダブル世界戦が28日に横浜アリーナで行われますが、ミニマム級王座の初防衛戦に臨むイーグル京和の話が、けっこう面白いですね。彼はタイ人で、以前はイーグル赤倉というリングネームだったのを、スポンサー名に合わせてイーグル京和に変えたんでそうです。で、ちょっと前のスポーツ新聞の記事ですが「28日のWSCミニマム級戦は貧乏バトル」という話を読むと、このミニマム級のチャンピオンと挑戦者は、2人とも貧乏なんだそうです。特にイーグル京和については、「幼少時代、船賃を払えず川幅200メートルの大河メナム川を泳いで通学した。お寺でもらった食べ物を右手で持ち帰るため、帰りは左手だけで泳いだ」と書いてあります。メナム川って、あの「チャオプラヤ川」ですよね(「メ・ナム」はタイ語で「川」の意)。ここに出てくる「川幅200メートル」となると、川幅が500メートルはあるバンコクよりはかなり上流でしょうか…、アユタヤあたりかもしれません。アユタヤあたりだって、かなり流れが速いし水量も多いので、食べ物を濡れないように持って片手で泳ぐのは、難しいんじゃいかと…。私は泳ぎが得意ですが、チャオプラヤ川を泳いで渡ろうなんて気にはなりません。彼は泳ぎの達人なんでしょう…
 …ああ、ここまでは、前フリのようなものです(笑)。饒舌ならぬ饒筆なので、話は支離滅裂に飛びます。いや、今日書こうと思ったのは「ハングリー精神」って言葉からちょっと連想した話。

 私は、「ハングリー精神」を持つ人…ってのが、ちょっとうらやましい。ハングリー精神というか、「上昇志向」「金を儲けたい」という気持ちを強く持つ人がうらやましいのです。自分には全くといっていいほど、その手の欲求がありませんでした。私のこれまでの人生は、正直言って「そこそこの金持ちになるチャンスが何度もありながら、自らそのチャンスを放棄した」といった感じ。むろん、あくまで「そこそこ」ですけど…(笑)。最近になって、もっと真剣にお金儲けをすればよかった…と、つくづく思うのです。お金はたくさん持ってた方が楽しい…という、誰でも知ってるごく当たり前の真実が、この年になってやっとわかりかけてきたんです。あー、気がつくのが遅かった。
 それともう1つ、人生って「虚飾を捨て去って清貧になってわかること」ってのもあるかもしれませんが、逆に「金持ちになってみてわかること」ってのもあると思います。私は、「金持ちになってはじめて見える世界」を見てみたいんです。私、なんか、おかしなこと書いてます?

 むろん、今からでもお金儲けができない…ってことはないでしょう。でも、体力も気力もますます衰えてきており、何よりも人生そのものが面倒…って感じになってます。なぜ、自分は「お金持ちになりたい」とは思わなかったのでしょう。セコく「ある程度の生活を維持しよう」とは思ってきましたが、必要以上のお金を得るために頑張る…のは面倒だったというのがあります。まあ私は、ほどほどに生活に困らない暮らしができる、ある種恵まれた人間なのかもしれませんし、ハングリー精神なんてものは、その手の人間には存在しなくて当然なのかもしれません。でも、ITベンチャーの社長の談話なんかを読んでいると、強烈な上昇志向、成功意欲、金儲け意欲に満ちた人って、けっこう多いじゃないですか。実は私は、そんな人間だったらよかったのに…と、今更ながらに思っているのです。
 これまで、上昇志向や金儲け意欲がなかったからといって、勘違いしないで頂きたいのは、私が精神性を重んじてきたからじゃないんです。私は、精神性なんてものはどうでもいい人間です。

 私はごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、私の父は高度経済成長とともに給料が増える…という幸せなサラリーマン生活をまっとうした人間です。そんな私でも、小学校の低学年ぐらいまでは、昨今の平均的な給与所得者の家庭の生活水準と比べてかなり貧乏でした。まあ、昭和30年代から40年代前半頃までは、日本中の中産階級が「つつましい生活」を送った…ということです。小学生のころは、服なんてめったに買ってもらえなかったし、靴は穴があくまで履かされました。おもちゃなんてほとんど買ってもらえなかったけど、そんな生活は、どこの家庭でも同じだったと思います。
 …だから何だ、って話じゃないんですけど…、今の生活って、けっこう豊かに感じます。そうした心理が「必要以上に金儲けなんかしなくても十分」という、誤った価値観(?)に支えれた人生を歩ませる原因になったのかもしれません。

 日本では、どうも物質的な欲求よりも精神的な欲求の方を「上」と見る風潮がありますが、けっしてそんなことはないでしょ。むろん、世界人口の20%以上を占めるという「生死の境を彷徨うほどの貧困」状態にある人々にとっては、「金が欲しい」は「生きたい」と同義です。そこまでの貧困ではなくても、社会の底辺を這いずって生きる人々にとっても、「金が欲しい」は「人間らしい楽しみを持ちたい」という崇高な欲求でしょう。そして、生活に困らない、ある程度の楽しみには不自由しないという先進国の中産階級にとっての「金持ち」は、「際限のない物質的な欲望を満たすことができる状態」…と考えることができます。でもそれ以外に、「物を持たないことによって生じるあらゆる疎外感から開放される」…という崇高な意味があると思うわけです。私は、この「疎外感から解放される状況」に、かなり憧れているわけです。本当に開放されるのか、それとも新たな別の疎外感が生まれるのか…それはわかりません。ああ、金持ちの生活を体験したい。

 今日は(も?)、精神状態がヘンだ。

2004/6/23

 ここのところ、日露戦争100年とかで「あのころの強かった日本を見直そう」「日本の近代化を問い直す」といった論調のコラムが新聞・雑誌などにたくさん書かれています。昨日も書店に行ったら「日露戦争関連書籍コーナー」があって、「くだらねぇ」と思いながらちょっと覗いてみました。すると、相変わらず「坂の上の雲」なんて司馬遼太郎の本も山積みにされていました。司馬遼太郎の著作に限らず他の日露戦争関係本でも、「坂の上の雲」で書かれている秋山好古、秋山真之兄弟を始め、東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎、小村寿太郎など、「人物」に焦点を当てて書いた書籍が多いようです。
 私が司馬遼太郎嫌い(嫌いというより、バカとちゃうかと思ってる)…ってのは、何度も書いている通りですが、司馬に限らず「特定の人間を通して見る歴史観」「特定の人間の業績・功績を重要視する歴史観」というのは、ほとんど興味が持てません。  「特定の人間を主体として見る歴史観」は、確かに物語性があって面白いものかもしれませんが、私は「1人の人間の能力や判断が歴史を変えた」…的な見方は、あまり好きではないのです。例えば明治維新期について書かれた著作によくあるような、歴史の変革の中に無理矢理「人の意思の介在」を見てそれを強調する手法は非常に安易に感じるし、底が浅いものに感じてしまいます。TVの安易な歴史番組にも多い切り口ですね。
 明治維新だって、坂本竜馬や高杉晋作なんて人物がいてもいなくても、「江戸時代に醸成された工業生産力や経済資本、社会資本」と「欧米列強のアジア進出」、そして「17世紀後半の、世界の文化・科学の水準」という経済的背景、時代背景等を考えると、結局は同じようなプロセスで起こったはずです。まあ、かといって逆に「日本における近代の始まりはどこか」とか「明治維新は市民革命か」なんてことを真剣に論争しているのも虚しい感じがしますけど…

 歴史なんてものは(…とえらそうに書けるほどの知識はありませんが…笑)、短期的な個々の局面では重なる「偶然性」に左右され、長いスパンで見れば「社会発展」や「科学知識の発展」といった背景から来る「必然性」に左右されるものだ…と、勝手に思っています。
 短期的に起こった変革の結果を見て、あとから「理屈」や「蓋然性」を主張することは容易ですが、その多くはあくまで「結果論」であり、実際に起こった短期的な変化の原因は、あくまで「偶然の積み重ね」であることが多いように思います。
 逆に、長期的な変革を見ると、これはもう「必然性」が左右している部分が多く、個人の存在なんて、例えそれがどんなにすぐれた資質を持つ個人であっても、非常に影響力は小さいように感じます。例えば、人類の歴史上もっとも大きな役割を果たした人間…が誰かは知りません。しかし、イエス・キリスト、始皇帝、孔子、アレキサンダー大王、カール大帝、クリストファー・コロンブス、ジンギスカン、カール・マルクス、アドルフ・ヒトラー、毛沢東、ニュートン、アインシュタインなど著名な宗教家、政治的指導者、科学者など適当に名前を挙げてみたとき、それらの誰かがこの世に生まれなかったと仮定しても、現在の世界の国家的な枠組み、産業のレベル、政治や主教の状況、社会の枠組みなど、現状とたいして違いはなかった…と思うからです。
 歴史の中で「傑出した人物」というのは存在するし、そうした傑出した人間が歴史に与えた影響というものを無視するわけにはいきません。そりゃ確かに、キリスト教が誕生しなければユダヤ教がもっと発展していた…かもしれないし、アレクサンダーがいなければヘレニズム文化はなかったかもしれない。現在のアフリカが経済的先進地域で、ヨーロッパが後進地域になっていたかもしれない。でもそうしたレベルの違いは、たいしたことではないと思うのです。結局、コロンブスがいようといまいと、いずれ南北アメリカ大陸はヨーロッパに蹂躙されたろうし、バスコ・ダ・ガマがいようといまいと、たいして変わらない時期に喜望峰回りの航路は発見されたはずです。オッペンンハイマーがいなくても核兵器はできたであろうし、レーニンがいなくてもロシアの帝政は崩壊したでしょう。そうした「必然の積み重ね」で、現在の地球の姿があるような気がしています。
 人類の社会進化も科学技術の発展も、「人類が本来持っている資質・能力」と「地球という惑星の自然的条件」がもたらす必然的な変化プロセスに準じているだけだ…、なんて考えている私です。

 …運命論者の戯言でした(笑)

2004/6/22

 佐野眞一「誰が本を殺したのか」(通称「本コロ」:新潮文庫)を読了しました。とは言っても、この本は既にハードカバーで出版されたときに購入して読んでいます。今回あらためて文庫化された本コロを読んだのは、ハードカバーの内容を「捜査編」とし、新たに「検視編」なる部分が書き加えらたからです。この「検死編」を読みたくて、文庫版を購入しました。
 以前読んだ「本コロ」の「捜査編」で佐野眞一が多くの関係者にインタビューしながら検証した出版会を取り巻く現状についての記述は、もう全て納得できるし、各所に書かれている著者の感想も、「コアな本好き」としてまったく共感できるものばかりでした。そして、こうした感想は「検死編」を読んでも変わらないものでした。昨年来のエポックメイキングなベストセラーである山本義隆「磁力と重力の発見」と養老孟司「バカの壁」についての感想も、著者と同じです。加えて、池袋西口の芳林堂書店の閉鎖をめぐる噂も面白かった。というわけで、捜査編と同様にとても面白く読み終わりました。
 ただ、この検死編で著者は、本と読書が復権する「予兆」をいくつか挙げていますが、私はもう「本の復権はない」と感じています。
 その理由はまさに、本書の検視編の中の小見出しにもなっていた「人はコンテンツに金を払うのか?」という問いに対して、私は「本来、人はコンテンツにお金を払わないもの」…というような気がするからです。
 本書にも取り上げられていた黒崎政男「デジタルを哲学する」(PHP新書)には、「人は音楽や写真、映像といったコンテンツに対してではなく、むしろそれを収納するためのオブジェ(例えばCDやDVDパッケージとか、本の体裁とか)に、価値を見出してきたのではないか? 人はオブジェを抜きにしたコンテンツそのものに金を払うのか?」という、妙に納得できる仮説が書かれています。でも私は、人がコンテンツにお金を払わない理由としては、ちょっと違う…という気がします。かといって、レッシグの「クリエイティブ・コモンズ」で言われるような、ネット社会の「無償のわかちあい」精神が浸透しつつあるから…というのでもありません。

 私は、そんなご大層な理由ではなく、もっと原始的な理由で、もともと「コンテンツ」なんてものに高額の対価を払う人間は、昔からほとんどいなかったのではないか…と最近思うのです。
 人が、本やCD、そして映画などの「コンテンツ」に対価を払う理由の多くは、突き詰めて考えると「楽しむため」です。人間は「楽しさ」「楽しい時間」にお金を払ってきたのです。私が本にお金を遣うのは本を読む時間が楽しいからだし、かつてレコードやCDをたくさん購入したのは、音楽を聴く時間が楽しいからでした。そういたコンテンツに高額の対価を払ってきたのは、他に「対価を払ってまで楽しむもの」が少なかったからでもあります。
 現在は、その「楽しみ」方が多様化しています。コンテンツに支払うお金で、実にいろいろな「モノ」や「時間」が買えます。TVゲームはむろん、携帯電話の通話料を遣って友人とおしゃべりに興じたり、コンピュータでネットサーフィンをしたり、チャットをしたり…。いずれも、私が高校生ぐらいまでは存在しなかった「楽しみ方」です。私が高校生ぐらいまでは、「本」「レコード」「TV」などごく限られたメディアしか、「楽しみ」が存在しませんでした。だから、しかたなくこれらのコンテンツに対価を払ってきたのでしょう。
 コンテンツへの対価を「面白さ」で測るとき、しょせん本なんてものは、ディズニーランドで遊ぶことには勝てないのでしょう。TVゲームにだって、刺激的な街をぶらつくことにだって、なかなか勝てません。映画館へ行くためにお金を払わなくとも、家庭には大型のTVといつでも見られるビデオがあります。昔の白黒TVしかなかった時代には、映画は魅力的なメディアでしたが、現在は自宅で無料の地上波でだって迫力ある映画を見ることができます。
 結局、本が売れなくなったのは、「本コロ」で検証されているような難しい理由があってのことじゃないような気がします。いや、「本コロ」の内容には間違いがなくとも、それ以前にもっと原始的な理由が存在するのでしょう。これまでにもいろいろな人が主張してきた実につまらない結論ですが、結局のところ「時間の使い方」「楽しみ方」が多様化する中、他のさまざまな「楽しい時間」との比較で「本にお金を払うだけの魅力がなくなった」…、そうした理由がもっとも真実に近いのかもしれないと思います。

2004/6/21

 ドンキホーテの採用基準問題の記事の中に偏差値表を掲載したフライデー誌について、 神奈川県に続いて東京都及び東京私立中学高等学校協会が「配慮を欠き、偏見を助長する恐れがある」と講談社に抗議をしたそうです
 確かに「偏差値41から46は条件付き採用、現金・レジを扱う、レジ、対面、電気、経理には配属不可」…というのは、「穏当」ではありませんし、抗議をする必要があるのもわかります。しかし、現実問題としてこのドンキホーテの採用基準やフライデー誌への偏差値表掲載について、それほど非常識だという感は受けません。企業が学力、すなわち出身校の偏差値で採用者のスクリーニングを行うことは従来から常識に近いことだし、偏差値表なんて受験時には誰もが目にするものです。学力問題に加えて「治安」という言葉も問題視されていますが、中学、高校、大学を問わず「学校の偏差値と生徒・学生の素行」の間に、何の相関関係もない…などと考えている人は、当事者である教育関係者も含めて、誰もいないはずです。これは「差別」というよりも、「事実に基づく判断」と言い換えても構わないと思います。

 さて、「出身校の偏差値で人格を判断する」…これは明らかに間違いです。しかし「出身校の偏差値で職業適性を判断する」…これは明らかに根拠があります。出身校の偏差値は、ある種の「学力区分」と言ってもよいでしょう。学力は、職業適性を判断する重要な指標です。職業の種類、そしてホワイトカラー/ブルーカラーを問わず、「優秀な職能者」となるためには幅広い知識が必要ですし、幅広い知識の有無は、ある程度「学力」で測ることができます。さらに、世の中には「高度な専門知識」を必要とする職業もたくさんあるし、高度な専門知識を身につけるためには、やはり学力が必要なケースが多いですね。営利追求を目的とする私企業が、採用にあたって自社の職務に適した人間をスクリーニングするのは当然です。職務に対する適性の1つに、「知識」または「学力」があるのなら、出身校の偏差値でスクリーニングすることには、十分な合理性があります。だからこそ、大卒者の事実上の「指定校制度」が、多くの企業でいまなお存在するわけです。学校名ではなく個人レベルでスクリーニングするのが最も正しい方法なのでしょうが、そんなことはどの企業の採用担当者も十分に理解しているはずです。ただ、採用に掛かる費用や時間を考えると、「応募者全員の個人の能力の審査」には、とてつもなく時間と費用が掛かります。従って、まずは学校名でスクリーニングすることで採用の効率化を図りたい企業の立場は、ある意味で当然です。
 偏差値の高い学校を雇用したい…という企業の、加えて、偏差値の高い学校に入学した人間…は、相対的に「努力した(する)人間」…という見方もできます。加えて、「治安」という不穏当な言葉は使いませんが、社会人に必要な「礼節」についても、確率的には高偏差値の学校の方が、それを持つ人間が多いと思います。となると、高偏差値の学校からの採用者を増やしたいと考える企業が多いのは当然です。
 ここで、話を間違えないで下さい。何も、高偏差値の学校に所属する人間は努力をし、低偏差値の学校に所属する人間は努力しない…とか、高偏差値の学校に所属する人間は礼節を持ち、低偏差値の学校に所属する人間は礼節を持たない…などと、バカなことを言っているのではありません。要するに、相対的に人数が多いか少ないか、そうした人間がいる確率が高いか低いか…ということを言っているだけです。

 いや、出身学校の偏差値で職業選択の自由が狭められる「学歴社会」が間違っている…という点は、言うまでもありません。私もそう思います。人間には個々で異なる能力があり、建前で言えば個々の人間の可能性は無限です。学歴社会は職業選択に関して「機会均等」の原則を踏みにじる…という側面があることは認めざるを得ません。
 この「学歴社会」については、かつてNHK「人間講座」の「学歴社会という神話 〜戦後教育を読み解く」の中で、苅谷剛彦氏が次のような面白い分析をしていました。
 「…日本においては長らく、最も大きな教育問題は『学歴社会』だと考えられてきた。この『学歴社会』が『過渡の受験競争』を生み、その結果教育現場に能力主義がはびこり、それが原因で様々な問題(いじめ、学校嫌い、校内暴力など)が生じる…とされてきた。しかし現実には、学歴問題というのは、それほど『諸悪の根源』とは思われない。まず、日本での学歴の影響力は欧米に比べて小さい。そして、受験戦争は当事者である生徒にそれほど歪んだ生活をもたらしてはいない。さらに日本の実際の教育現場は能力主義的傾向よりも平等主義的傾向が強い…」というものです。
 苅谷剛彦氏の分析がどの程度の根拠に基づいたものかはわかりませんが、私は@日本での学歴の影響力は欧米に比べて小さいA受験戦争は当事者である生徒にそれほど歪んだ生活をもたらしてはいないB日本の実際の教育現場は能力主義的傾向よりも平等主義的傾向が強い…という3つの点については、ある程度その通りだと思います。欧米のように家柄や出自で将来が決まる…という例は日本では少ないし、学歴の持つ意味も欧米の方がはるかに重いのは事実です。
 ある人は、こんなことを書いていました。「…『学歴社会』は優しい。『学歴社会』以前は、身分とか家柄というどうしようもない事で決まっていたことが、試験という一応は公平な手段で選別されるのは素晴らしい…」
 いや、さすがに私は、ここまで手放しで学歴社会を賛美する気はありません。学歴社会に反対する多くの人が言うように、今の日本の学歴社会には「機会が均等ではない」という側面が確かにあります。それは、大学生の親の所得と、所属する大学の偏差値は明らかに比例する…、という歴然たる事実があるからです。とはいえ、本人の努力や奨学金の存在など、教育水準の決定要因は所得が全てではない公平性も、一方ではあります。
 ところで、学力社会に対する反意語は、おそらく2つあります。1つは「実力社会」、もう1つは「くじ引き社会」です。「くじ引き社会」というのはあくまで比喩ですが、要するに学力や適性に関係なく、誰もが就きたい職業にくじ引きで就ける…という究極の「機会均等社会」のことです。しかし、これが正しいという人は誰もいないでしょう。少なくとも、職業選択の現場(企業、官公庁を問わず)では、何らかの形で「能力を選別」する必要があります。高度な専門知識や能力を必要とする職業は、厳然と存在します。くじ引きでなった医者に診てもらいたい人はいないでしょうし、くじ引きでなった設計者が作った自動車には乗りたくありません。世の中には、人命や経済・社会の根幹に関わる仕事がたくさんあり、そうした仕事に就くには、能力をきちんと見るべきなのです。「くじ引き」で職業選択を行うわけにはいかない…のは、あまりにも当然でしょう。
 そうなると、「学歴社会」の合理性を、ある程度認めないわけにはいきません。学歴社会というのは「学力」を物差しとする社会の一種です。学力は、人間の能力の中のごく一部に過ぎませんが、「ビジネス社会への適性」を判断する一つの指標であることは絶対に否定できません。

 結論としては、「機会均等」「結果平等」を考えるとき、現在の日本の学歴社会は、ベストではないが、「最悪」というほどでもない…と思っています。
 まず、日本の「半端な学歴社会」は、より社会階層が明確な欧米社会あたりと比べると「相対的には機会均等性が高い」とも言えます。加えて、チャンスが多いのも特徴です。高校や大学は、同じ年に複数校を受けることができます。高校でも大学でも、浪人して何度も受験することができる他、一度社会に出てから再度高校や大学を受験することもできます。これほどチャンスが多く、しかもやり直しの機会が多いのであれば、「努力」が報われる率はかなり高いと言えます。  そして、個人の能力を徹底して測る「実力社会」に比べると、「学歴社会」がかなり「ヌルい」のも、ある意味でよい点です。一応学校名さえあればよい企業に入れる、もしくは入りやすくなる…というのいうのは、「本当はビジネス能力がなくてもよい職業に就ける」チャンスが多い…ということでもあります。徹底して個人の能力を測る完全な実力社会は、ちょっと息苦し過ぎる…と思います。

2004/6/18

 「東シナ海の日中境界で新たな施設 中国、天然ガス開発を増強」…というニュース、民族派の人達は「許せない」って息巻いてますが、だからどうする…って話になると、心もとないというか、解決方法がないのが現状です。
 私は、とりあえず日本が主張する排他的経済水域(EEZ)の境界よりも中国寄りなんだから、放っておけばいいと思うのですが。まあ、確かに日本側の海底にも資源は埋まっているかもしれないでしょうが、細かいことゴチャゴチャ言わんでもいいんじゃないの…と思うわけです。だって、中国は人口が10億人以上もいるし、それなりに日本よりも多くのエネルギー資源が必要でしょう。まあ、細かいこと言わずにくれてやってもいいんじゃないですか…
 いや、こんなことを書くと民族派の方々から、「売国奴」なんていわれるかもしれませんね。でもさぁ、いま中国と戦争やったら、確実に負けますよね。腹を立てても、どうしようもないじゃないですか。

 国際社会で断固たる主張をする…と言っても、国連を含む国際社会の世論なんて、極東のちっぽけな資源争いになんて、何の興味も示さないでしょう。だいたい、ヨーロッパやアメリカの人間にとって、中国人と日本人の違いなんて、ほとんど認識されてません。それに、「国家主権」なんてものがいかに無意味で、国連なんて組織がなんの役にも立たないか…という現実は、今回の米英軍によるイラク侵攻や、アフガニスタン侵攻、そしてボスニアの空爆などを見ればわかるはず。「主権国家」なる存在は、軍事力を持つ大国の胸先三寸で、あっさりと主権を踏みにじられて地上から消え去ります。まあ「軍事的に強い国」は「軍事的に弱い国」をどうとでもできる…という、地球上に「国家」が誕生して以降の歴史的経緯が、あらためて確認されただけの話です。

 じゃあ、最大の軍事力を持つアメリカに仲裁を依頼する、まやは中国への制裁をチラつかせてもらう…というのでしょうか。そりゃ無理です。アメリカにとっては、経済的に見ても政治的に見ても、いまや日本との関係よりは中国との関係の方がはるかに重要。日本の味方なんて、絶対にしてくれません。これは欧州諸国も同じです。現在、国際社会での重要度は、日本より中国の方がはるかに高いのが現実です。

 じゃあ、日本は自力で中国と戦いますか? そりゃ無理です。あっさり負けます。まずは、先方が大量のICBMを保有していて日本が核を保有していない現状じゃ、勝負になりません。それに、例え日本が核を保有しても、国土がべらぼうに広い中国と核戦争をやったら、中国では多くの地域が生き延びるのに比べて、日本の生産力は、経済的中心地である大都市部へのほんの10発程度の核投下で、あっさりと全滅します。

 第一、日本が軍備を増強すると言っても、まずは戦闘員が足りません。徴兵制を敷こうにも、日本の国会で徴兵制がまともに議論されるようになるまでにはまだ相当の時間が掛かるでしょうし、実際に「徴兵制」が争点になる総選挙が行われたら、間違いなく「徴兵反対」議員が多数派を占めるはず。それに仮に徴兵制ができた何年後かに戦争をすると言ったって、中国のような国にはまず勝てないでしょう。これは軍備の問題じゃありません。日本の自衛隊にせよ、いくら連度が高くても、実際に戦争やって勝てるとは思いません。理由は簡単、日本人は失うものが多過ぎるからです。日本国民の平均的な生活水準ってヤツは、おそらく世界の上位10%に入ります。豊かで楽な生活を失いたくない人間は、本気で戦うことができません。それに比べて、中国の農村部なんて、メシもまともに食えない人間が何億人もいる。こうした人間で構成される軍隊は強いと思いますよ。
 豊かな市民社会を持つ国、民主的な国は本気で戦争ができない…という現実は、アメリカを見ればよくわかります。TVゲームのように遠方からトマホーク撃ったり、スマート爆弾を落としているうちは国民はヤンヤと喜んでいるのですが、自国兵に犠牲が増え出すと、あっという間に「反戦・非戦」に傾くのがアメリカ世論です。クリントン政権時代に、世論によってソマリアからの撤退を余儀なくされたのは記憶に新しいですけど、あれは米兵の死体が引きずり回される場面が全米にTV放映されたから。今回のイラク戦争だって、米兵の犠牲が増えるにつれて、米国の世論には厭戦気分が蔓延し始めています。

 今の日本で、いったい誰が本気で「国のために命を投げ出す」というのでしょう。竹島あたりに上陸して騒いでいる「右翼」諸氏が先頭に立って志願兵として戦ってくれるのでしょうか。2チャンネルで匿名で勇ましい発言をしている和解プチウヨク諸君が、真っ先に戦争に志願してくれるのでしょうか。…とてもそうは思えません。

 で、結論です。EEZの境界あたりで、天然ガス掘ってる中国は、放っておくしかないでしょう。まあ、先方は「悔しかったら宣戦布告でもしてみな」って感じだろうし、日本が国際社会のどこで何を発言しようと、知ったことではないでしょう。何を言ってもしょせん「ゴマメの歯軋り」になりますから、もう太っ腹に、天然ガスを掘らせてあげましょう。

2004/6/16

 「青春」というのは、なんとなく嫌な言葉です。誰かとの会話の中で「青春」という言葉を使われると、基本的には背筋がゾクっとしちゃいます。ともかく、「使われ方」や「使う人」によっては、「青春」は非常におぞましい言葉となります。
 例えば、最近は流行らなくなりましたが、ひと頃は「…私はサミュエル・ウルマンが書いた『青春の詩』の一節、『青春とは人生のある時期をいうのではなく心のもち方である』を座右の銘としている」…なんてことを得々と話す中高年がたくさんいました。この手の「自称青春・中高年」は、もう吐き気がするほど気色悪いですね。ひらたく言えば「年はとっているが気持ちは若い」ということを言いたいのでしょうが、これは「ボケじじいの戯言」以外のなにものでもありません。青春とは、読んで字のごとく「青い春」という「性欲に満ちていながら経験が伴わない」というシチュエーションをも意味する時代であり、チンポもまともに立たない中高年が精神性をこじつけて自らを「青春」などとのたまうのは、なんともみっともない話ですね。

 いやはや、つまらないことを書きましたが、今日書きたかったのは「青春小説」(?)の話です。小説のジャンルとして「青春小説」というのが存在するのかどうかは知りませんが、「無軌道な行動を繰り返す若者が、いろいろな出来事を体験し、社会の荒波に揉まれて大人になっていく」…というストーリーを持つ小説を、基本的に青春小説と呼んでも差し支えないと思います。この手のストーリーは、だいたいが「安っぽくなる」か「理屈っぽくなる」のどちらかのパターンでつまらない小説になるケースが多いんですけど(例えば「青春の門」みたいに…)、上質で押し付けがましくない「青春小説」を、実は私は大好きなんです(笑)

 世の中には、爽やかな読後感と、読後にある種の感動をもたらしてくれる「極上の青春小説」というヤツがあります。私が好きな極上の青春小説をいくつか挙げてみましょう。

 まずは、ジョージ・P・ペレケーノスが書いた、ワシントンを舞台にした連作ミステリーです。具体的には、「硝煙に消える」「友と別れた冬」「俺たちの日」「愚か者の誇り」「明日への契り」の5作品。これら5作品の舞台は、3つの年代に分かれます。「硝煙に消える」と「友と別れた冬」の主人公は、ニック・ステファノス。ピート・カラスが主人公となる「俺たちの日」は、時代が遡ってニックス・ステファノスの祖父であるビッグ・ニックの時代。そして「愚か者の誇り」と「明日への契り」は、ピート・カラスの息子であるディミトリ・カラスと相棒クレイが主人公です。
 どの作品も「世代間の考え方の違い」が大きなテーマとなっていますが、中でももっとも青春小説の色が濃いのは「明日への契り」でしょう。男の友情、時代に取り残されていく男のやるせない思い、これから時代に立ち向かう若者の無軌道な行動が、なんともうまく書かれています。ディミトリ・カラスの生き方に強い共感を覚え、しかも背景として描かれる70年代のアメリカンカルチャーへのシンクロニシティもあって、私には面白くも感動的な小説でした。もうミステリーとかノワールといったジャンルではなく、何度も読み返したくなる「上質の青春小説」です。

 次いで挙げたいのは、佐藤賢一の「カルチェ・ラタン」です。16世紀のパリ、カルチェ・ラタンを舞台にしたこの一見難解な小説のストーリーを説明するのは面倒なので、どなたかの書かれた上手な書評を引用させて頂くと「…物語は、宗教改革期の神学論争(主知主義対主意主義、カトリック対プロテスタント)を背景に、『人間の時代の新しい神』による陰謀をめぐって、『聖トマス・アクィナスの再来』と謳われる美貌巨躯の学僧マギステル・ミシェル、その教え子にして紅顔無垢の新米夜警隊長ドニ・クルバン、愛らしくも豊満な若き未亡人マルトや妖気漂う伯爵夫人アンリエット、さらにはプロテスタントの旗手カルヴァンにイエズス会の創設者ロヨラ、ザビエルといった実在の人物が入り乱れての大捜査戦が繰り広げられる。軽妙にして深甚な神学ミステリー」…というものです。
 「偽回想録」という非常に凝った様式で書かれ、各所に時代を髣髴とさせるギミックが用意されていますが、要するにこの本の内容は「パリの夜警隊長ドニ・クルバン」を主人公とした青春小説以外の何物でもありません。私は、若者らしく性欲も知識欲も旺盛なドニ・クルバンが、周囲の個性的な人物と交流しながら成長していく物語として、楽しく読了しました。読後の清涼感は際立っており、特に作者によって書かれた巻末の「解説」(実はこれも小説の一部)を読むことで、この清涼な読後感は一気に増幅されます。
 それにしても、佐藤賢一という作家は、その知識といい仕掛けといい、まったくもって「余人を持って為し得ない」小説を書く作家です。感嘆するしかありません。

 まだまだ紹介したい「上質の青春小説」はたくさんありますが、長くなるので、今日はこの辺でやめておきます。恥ずかしくも私が「青春小説好き」だということを告白するのは、実は今回が初めてです(笑)
2004/6/15

 昨日の日記でも書いたように、フリーターが増えたことなどもあって、一般に「若者はお金を持っていない」というのが定説となりつつあります。そうなると当然、企業の目は生活にゆとりがあって購買力もある中高年層に向くわけで、ここ数年は各分野で中高年向けのマーケットが注目を浴びています。出版分野でも同じであり、「サライ」のヒット以降、「一個人」」「大人の隠れ家」「オブラ」などの類似誌がいずれもそれなりのな部数を誇っています。友人の編集者によれば、「遊び」に自己実現を発見した中高年が、大きなマーケットを構築しつつある…のだそうです。
 それにしても、こうした中高年向け雑誌の内容たるや、どれも同じで、温泉、和食、隠れ家、クラシックカメラなどの趣味、こだわりの家具、高級文具、上質の酒、歴史を辿る旅、老舗の魅力、田舎暮らし…など、まあ実にステレオタイプに「おじさんの趣味」を定義してくれています。なんともうんざりするような内容ばかりで、「中年をバカにするな」と言いたくなります。
 まあ、ひたすら会社人間として働き続けて特に趣味もなく中高年を迎えた男性などは、「何かを趣味にしたいが、どうすればいいのかわからない」という人もいるでしょうから、そうした人向けには、こうした「趣味のレクチャー」を兼ねた雑誌がそれなりに役立つのかもしれません。
 しかし、私の周囲の中年仲間には、こうした雑誌で特集されるような趣味を持っている人がほとんどいません。それ以前に、「趣味を教えてもらう」ような中年なんて見当たりません。彼らの大半が「自分なりのライフスタイル」を確立していて、それぞれ好きなことをやっています。仕事に熱中している人もいますが、それはそれで「仕事が趣味」と割り切ってやっています。趣味を持っている友人達の「趣味」は多用で、温泉だの歴史を辿る旅だの、そんな陳腐なものではありません。オフロードバイクに夢中だったり、ロックバンドを作ってたり、パソコン自作とベンチマークテスト結果の公表に夢中だったり、中には「酒場で若い子をナンパする」のが趣味…なんてヤツもいます。ひどい知人の例では、少林寺拳法の達人で、いかにも風采の上がらないサラリーマンの格好をしながら、「若者に売られた喧嘩うを買う」ことを趣味にしているバカもいます。さらに、別に「島耕作」のようなスーパー中年じゃなくとも、泥臭く「女の子の尻を追っかけ回す」のが大好きという、私のような人間もいます。
 中高年向けの雑誌などには、よく「くつろぎの海外老舗ホテル」なんて特集もありますが、私なんかは、バックパッカーとまではいかなくても、安宿に泊まる海外旅行が大好きで「老舗の高級ホテルの行き届いたサービス」なんて、何の興味もありません。

 だからどうだって話ではありませんが、私が言いたいのは「ひたすら会社人間として働き続けて特に趣味もなく中高年を迎えた男性」なんてのは、現在ではけっして多数派でもなければ、中年の平均値でもない…ということです。仮に40代〜50代の男性の半分が「ステラオタイプな無趣味中年」だったとしても、残り半分は違う…というのが昨今の私の実感です。バカ女子高生やストリートで屯するガキに「貧相な臭オジサン」と一括りにされ、時にはオヤジ狩りの対象になる中高年ですが、彼、彼女たちがイメージするよりも、実はずっと多様性に富んでいます。私なんかが思うのは、最近は若い世代の方がずっとステレオタイプです。周囲を見渡しても、仕事も勉強も嫌いな生粋のバカガキか、さもなくば幼少の頃から進学塾に通い続けた妙に小賢しく打算的な優等生の、どちらかのタイプしかいません。

 自分が若い頃には、「保守的な中高年とは価値観が異なる」と思っていましたし、事実そうでした。しかし最近思うのは、「保守的な若い世代」「体制に順応する若い世代」であって、一部の中高年と若い世代間では、保守とラジカルが逆転しています。  先般のイラク人質事件で、「政府の渡航規制を無視したのだから自己責任」という保守的なスタンスをもっとも声高に主張したのは、ネット上の若者でした。小泉訪朝の結果に対して家族会の一部が首相の姿勢を批判した時も、「総理大臣を批判するなんて何様だ」と言う体制べったりの声を上げたのは、やはり若い世代でした。
 なぜ日本の若い世代はここまで保守的になり、しかも「お上の言うことに素直」になったのか…、不思議です。中高年よりも若い世代のほうが保守的で体制的…という国は、おそらく世界的に見ても歴史的に見ても、非常に珍しいと思います。
 若者の一部はことあるごとに「自分は親の世代のような会社人間にはなりたくない」…という言い方で「自由」を標榜しますが、そうした若者の多くが「自由と称するプータロー生活」の結果、親の世代に食べさせてもらっています。私たちが若い時には、「束縛のない自由な生活」とは「自分で食べていくこと」と同義でした。つまり、「束縛のない自由な生活」を送るためには、それなりの覚悟が必要だったわけです。ところが、最近の若い世代にとっての「束縛のない自由な生活」は、多くの場合「家族や他人に依存する」ことを前提にしています。こんなやつらのネット上の発言なんて、無視すればいいんです。もう、保守的で体制的な若い世代にはうんざりです。

 ラジカルな中高年は、もう少し声高に社会に対して主張すべき時期なのかもしれません。それとともに、バカガキどもに対して、社会の何たるか、人生の面白さの何たるかを教えてやるべきなのかもしれません。
 いや、どうでもいいか。自分たちが楽しけりゃ…

 …以上は、昨夜、女好きのバカ中年が3人集まって、酔っ払って騒いでいた話です。真面目でまともな若い世代の方は、無視してください(笑)

2004/6/14

 200万人を超えて増え続けるフリーターへの対策として、厚生労働省は合宿方式の「若者自立塾」を設置する方針を決めた…というニュースがありましたが、今回の方針に限らず、ここのところ国も自治体もフリーター対策に躍起です。まあ、低年収のフリーターが増えればGDPは下がるし、税収も下がり、年金制度も崩壊、国の経済基盤はことごとく危うくなるのですから、フリーター対策に躍起になるのは当然です。
 フリーターの数については、400万人以上という算出例もあり、ともかく非常に多くの若者が定職に就いていない現状があります。「自分に向いた職業を探したい」とか「夢や生きがいを追いたい」など、フリーターを志望する若者自身は小賢しい理屈をつけていますが、この記事の中に「…経済同友会のアンケートでは、若者に不足しているものとして『忍耐力』をあげた企業が7割…」とあるように、「きつい仕事はやりたくない」「企業倫理で規制されたくない」と考える若者が増えていることは間違いありません。フリーターの現状を分析したNHK特集を見ていた時も、せっかく学校で紹介してくれたよい条件の職場を蹴って、「楽しそう」という理由でフリーターを志望する高校生がたくさん登場していました。別に3K職場ではなくとも、正社員になれば毎日定時に出社し、上司に叱られながら厳しいジョブトレーニングに明け暮れる…という日常が待っています。若者の多くが、こうした「当たり前の勤労者の日常」には耐えられない…ということでしょう。「あくせく働くのは嫌だ、楽をして生きたい」と、多くの若者が考えているのです。
 むろんフリーターの中には、一所懸命勉強もし、就職したいという強い意思も持っているのに不況などの理由で就職できない…という、同情すべき若者もいます。そうした若者に対して救いの手を差し伸べることは必要かもしれません。
 しかし、好きでフリーターをやっている若者に対して、わざわざ税金を使って「フリーター対策」なんてものをする必要はありません。彼らは「気楽な低賃金労働」が好きなのですから、無理やり正社員として働かせる必要はないと思います。安価な労働力ってのは、企業にとっても社会にとっても、無駄なものではありません。彼らの将来など、自分自身で決めさせればいい。
 とはいえ、低年収のフリーターばかりが増えては、社会は崩壊します。高い労働意欲とインテリジェンスを必要とする仕事を誰かがこなさなければならないし、税金をたくさんの納める高収入の動労者を増やす必要もあります。

 教育現場が崩壊し、社会全体のモラルが著しく下がっている日本の現状を見ていると、こうした「社会を実質的に動かす階層」を今の日本が自前で育成するのは困難のようです。そこで、国の将来を担う高いインテリジェンスを必要とする若者については、海外、特に東南アジア諸国からの移民で補ったらどうでしょうか。アジアの一部の国々には、高い勤労意欲を持ち、また高度な教育を受けていても仕事のない若者がたくさんいます。また、高い教育を受ける機会はなくとも、「労働は楽ではない」「労働することは当たり前」と考える「勤労モラル」を持つ若者は、ごく普通です。まずは、高い教育を受けているアジアの若者を積極的に移民として受け入れましょう。次に、勤労意欲があっても教育機会に恵まれないアジアの若者を大量に受け入れ、教育の機会を与えましょう。
 こうした政策によって、人口減少の問題も解決するし、勤労意欲の高い知的労働者も大量に育成できます。また、アジアの若者の多くは、子供をたくさん産むことを是とする価値観を持っているので、人口増の効果もさらに期待できます。加えて、異文化が混入することで、社会と文明に活力がもたらされます。まさに、一石数鳥の効果が期待できます。
 こうしたアジアからの優秀な移民の若者と、いまや少数派になりつつある「勉強する意欲も勤労意欲もある日本の若者」とが、協力しあって次の世代を担っていけばよいと思います。

 で、勉強もしたくない勤労意欲のない、最近のフリーター志望の日本の若者は、現状のまま低賃金労働に就いてもらいましょう。勉強が嫌いなら、高校を中退しようと、Fランク大学へ行こうと自由です。好きなだけ親の脛を齧っていればいいし、渋谷あたりで遊んでいればいい。援助交際をして遊んでいる女子高生は、そのまま売春を仕事にしていても構いません。
 「勉強は嫌い」「仕事もやりたくない」…、そんな若者は好きにさせておき、「安定・成熟した移民社会」を国づくりの根幹とするのが、今の日本にはいちばんいいように思います。

2004/6/10

 世の中には、誰もが「ウソ」とわかっているのにまことしやかに、信じられているものがたくさんありますよね。 例えば、健康法やダイエットの話によく出てくる「宿便」ってヤツ。私の知人の消化器系の内科医に聞いたら、「そんなものはない」と明確に答えてくれました。彼は、大腸や直腸の検診で腸の中をファイバースコープでしょっちゅう見ていますが、いまだかつて「宿便」なんてものをを見たことがないそうです。何でも、腸の粘膜の構造上、便は付着しないのだそうです。Web上にも「宿便はウソ」という解説はいっぱいあるのに、なぜ「宿便を取る」なんて健康法やら健康食品やらがこんなに売られているのかわかりません。この人なんかも「断食によって血液中の老廃物や汚れが分泌、排泄されていく」なんて、「宿便が排泄された」とはっきり書いてますね。存在しないものがなぜ排泄されたと思うのか、実に不思議です。

 「宿便」は明らかなウソですが、やっかいなのは「マイナスイオン」です。松下電器や東芝や日立なんていう大手家電メーカーが堂々と「マイナスイオンの効果」を謳った家電製品を市場に出している上、測定器まで存在します(笑)
 で、「マイナスイオンの効果」ってのは私はインチキだと思ってるのですが、どうでしょう。私のように、マイナスイオンに関する様々な記述を読んで調べていらっしゃる方もいます。まあ、こちらの特集の中のこちらの文こちらの文あたりを読む限りは、非常にインチキ臭いとしか言いようがありません。マイナスイオンを商売にしている企業のこんなサイトに書かれている程度の「マイナスイオンの効用」については簡単に反証しています。この論争なんて、実に面白い。
 結論としては、マイナスイオンの「定義」自体がはっきりしていない…ということです。「マイナスインとは何か」すらはっきりしないのですから、「なぜ健康によいか」という話がはっきりするわけはありません。

2004/6/9

 昨夜、行きつけのお店でボンヤリとテレビを見ていたら、「ゴールデン・マッスル」という番組を放映しており、その中で「マッスル・ミュージカル」なる舞台が紹介されていました。このミュージカルの存在は以前から知ってはいたのですが、初めてTVでその内容を見て、また参加しているスタッフの様子なども見て、あらためて興味を持ちました。舞台に立っている方も、見ている観客も、けっこう興奮しているのが面白かったのです。
 これは、言うまでもなく、TBSのテレビ番組「筋肉番付」「ケイン・ザ・マッスル」などが母体となって企画された舞台です。こちらを見るといろいろなコンセプトが書いてありますが、要は、昔からある「鍛えられた肉体画もつ躍動美をショー化」したものですね。サーカスやアイスショーなどを含めて、運動能力や肉体美を見世物にする舞台イベントの実施例は古今東西たくさんあり、古くは古代ローマのコロセウムで行われたグラディエーター(剣闘士)による見世物も同じコンセプトのショーでしょう。
 で、この番組を見ながら私は、レニ・リーフェンシュタールの手になる「民族の祭典」や「美の祭典」など、ナチスのプロバガンダ映画を思い出していました。レニ・リーフェンシュタールを思い出したからと言って、「肉体賛美はファシズムにつながる」なんて短絡的な話を書くつもりはありません。むしろ私が思ったのは「鍛えられた肉体の動きが観客の感動を呼ぶとしたら、その効果を熟知した上で『民族の祭典』を撮影したレニ・リーフェンシュタールも、プロバガンダ映画としてそれを撮らせたナチス宣伝相のゲッペルスも、ひいてはナチスという組織もなかなかにすごいなぁ」…という、妙な感想でした。それとともに、「今このTV番組を見ながらレニ・リーフェンシュタールの映画を連想している人間は、どのくらいいるのだろうか」なんてつまんないことも考えていました。

 私は、オリンピックやサッカー・ワールドカップに代表される「スポーツイベント」には、かなり複雑な感情を抱いています。基本的にはスポーツイベントに熱狂できない人間ですし、かといって「面白くない」わけでもありません。
 スポーツイベント関連のメディア報道の中で、何がいちばん引っかかるかというと「人間賛歌」的な要素です。
 まず、「スポーツやスポーツイベントは無条件ですばらしい」という前提に立った取り上げ方が多いのが気に入らない。そして個々のスポーツ選手をメディアが取り上げるとき、やたらと胡散臭いヒューマニズムが振り回されたりするのも生理的に嫌いです。例えば、やたらと個々の選手の生い立ちやら家庭環境やらを語る箱根駅伝の中継なんか、鬱陶しいことこの上ありません。現在、アテネオリンピックの開催日が近づくとともに、各メディアでスポーツ関連の報道が活気を帯びていますが、やはりオリンピックは「讃うべき平和の祭典」であり、そこに参加する選手は「自己を実現した素晴らしい人」…という部分だけがやたらと強調されます。
 いや、スポーツにもお金など汚い部分はあり、スポーツ選手だって醜い部分はある…なんて当たり前の話で、「スポーツへの無条件礼賛」に批判的になっているのではありません。もっと本質的な部分で「スポーツの本質ってなんだろう」という疑念があるのです。

 こんなとりとめもないことを考えていたら、Web上で岡崎勝氏という方の書かれた「身体への知」というエッセイ群を見つけました。その中に「2002年コリアジャパン・ワールドカップの背後霊 競争ゲームのグーローバリズム」 という一文があり、「スポーツを愛する者」の世俗的欲望とエセヒューマニズム…というタイトルで、私が考えていることと同じような話が書いてありました。ちょっと長いですけど、引用させて頂きます。
 「…今回のワールドカップでも、オリンピックでも、はたまた国体でもそうだが、スポーツを批判するときの立場は、そのほとんどが『素晴らしいはずのスポーツがゆがめられた』という言説である。新聞の社説でも、やたらスポーツの素晴らしさと選手のひたむきさが讚えられていた。『よくやったありがとう』(朝日)『よくやった、みんなで拍手を』(毎日)『日本チームが元気をくれた』(読売)などで、日本チームの健闘を讚えている。『日韓のきずなは深まる』という論調がほとんどである。つまり、ここにあるのは『人間賛歌』である。すばらしい選手たちが、まったくなんの問題もなく頑張っているように『信じたい』という気持ちがひしひしと伝わってくる。ある放送記者が『開催中は批判ができないのですよ。でも、終ったら書くことができます』と本音を言うとき、困ったものだなあと想った。まるで、第二次世界戦争の時と同じではないか?負けたときには「軍国主義者が悪者」と書けるが、戦中は書けない……それと全く同じだ。ワールドカップの最中に、冷水を浴びせるような批判ができてこそマスコミではないか?しかし、それはないものねだりの感もある。このようなご都合主義的保身の習性は、スポーツをする当事者とその支持者にほとんど共通するものでもある。どんなあくどいことが裏で行われていても、『選手は悪くない』と言ったり、それでも、分が悪くなると、『スポーツはそういうものサ!』と居直りはじめる…」。
 同じ彼のエッセイには「身体への知」とか、「健全な身体に健全な精神が宿るか?」など、他にも面白いものがあります。

 確かに、八百長とかドーピングなどの問題が表面化したときは、必ず「素晴らしいはずのスポーツが歪められた」というロジックが登場します。この手のロジックを聞くと、「本当にスポーツってのは無条件で素晴らしいものなの?」という強い疑問が沸くとともに、もっとほかの切り口はないのか…、もっと本質的な議論はなされないのか…と、いつも思う次第です。

 さて、スポーツイベントやスポーツを取り巻く世界をいまひとつ好きになれない理由の1つに、「観戦者の非寛容性」をも挙げることができます。私は、この非寛容性で何度も嫌な思いをしました。よくあるのがプロ野球の贔屓球団の話ですが、それだけではありません。以前、飲み屋でシドニーオリンピックの録画番組を見ているとき、日本人が出ている競技で他の国の選手を応援していたら、見ず知らずの人から「なぜ日本の選手を応援しない」と強く非難され、ケンカになりかけました。私はたまたまその外国人選手が好きだったので応援しただけですが、日本が参加する国際スポーツイベントでは、絶対に他の国を応援してはいけない…というのは何とも狭量な世界です。今回は「スポーツは非常に安易な形でナショナリズムと結びつく」という話を書くつもりはありませんが、スポーツの応援にまつわるこうした非寛容性と一元的なスタンスは、逆に純粋なスポーツファン、競技ファンを遠ざける原因になると思います。

 スポーツ振興、体育振興には、国、自治体を併せると1兆円近い税金が注ぎ込まれています(こちらの資料を参照)。スポーツの世界に、これだけの税金を注ぎ込む意味は何なのでしょう。持ち回りで優勝県を決める国体とか、各県を転々と移籍するセミプロスポーツ選手の存在については既に各所で批判されています。そして、スポーツ振興資金を食い物にする文部官僚の存在や、スポーツ施設建設というハコモノ行政に群がる土建業者…など、スポーツを取り巻く問題はたくさんあります。

 ところで、知性を武器に肉体派を批判する…という「インテリのスタンス」も、私は不愉快です。私は「体育会系」ではありませんが、体育会系の人をけっして嫌いではありません。徹頭徹尾体育会系の人と出会いたい…と、いつも憧れてきました。作家の島田雅彦が書いたこちらのエッセイは、わけのわからない話しながら、少し頷く部分があります。

 いや、今日の日記は読み返すのも嫌なほど、支離滅裂な話を書いています。気の向くままに15分で書き飛ばした文なので、誤字脱字や脈絡のなさにはご容赦を…

2004/6/8

 それにしても、年をとりました。快・不快、好き・嫌いなどを決める価値観は、昔から変わりませんし、仕事や趣味を含めた日常生活の基本も変わりません。来ている服も、音楽の好みも、食べ物の好みも変わりません。でも、ああ年をとったなぁ…と実感する時が増えました。例えば、次のような部分です。
  • 食事時になっても、何を食べるか決めるのが面倒になったこと。何かを食べたい…とあまり思わなくなりました。
  • 人にも、本にも、仕事にも、何でも飽きっぽくなったこと。本はつまらないとすぐに途中で投げるし、つまらない映画は見るのを止めます。
  • わからないことを、やたらと素直に人に聞くようになったこと。以前は、自分で調べていたことも、人に聞くようになりました。
  • 流行に流されることを、気にしなくなったこと。「流行りもの」に興味を示さない時期が長かったのですが、最近は何が流行っているのか気になります。
  • 人と話すのが好きになったこと。昔から人と話すことは好きだったのですが、1人でいる時間とのバランスをとっていました。最近は、日常生活の中で1人でいることがほとんどなくなりました。
  • 急がなくなったこと。歩く速度が遅くなりました。また、余裕を持ったスケジュールで物事を進めるようになりました。
  • 人間関係をうまくやっていこう…という意欲がなくなってきたこと。人と会う機会、話す機会が増えた反面、うまくいかないなと思った瞬間、付き合うのを止めます。
  • TVのニュースを見ながら、声に出してブツブツと文句を言うようになったこと。1人でTVを見ていて、気が付くと声に出して画面の中の人物としゃべってたりします。これは悲しい。
  • 服を買っているときなど、デパートの店員の女の子に、やたら気軽に声をかけちゃうこと。ともかく、気軽に女の子に声を掛けるようになりましたが、年のせいであまり警戒心を抱かせず、「話し好きのオジサン」と見てくれることが多いようです。ついでに食事に誘ったりもしてます。オヤジになってよかった…と思える時です。
  • 男女を問わず、交際相手に対する許容範囲が広くなったこと。こういうタイプじゃなきゃイヤだ…というのがなくなりました。特に女性なんか、どんなタイプでもとりあえずOKです。
  • 行きつけの飲み屋が満員のとき、誰かが席を譲ってくれたりすること。いつの間にか、クリエーター仲間や遊び仲間の間で、最年長になりつつあります。周囲が気を遣ってくれます。
  • 社会の様々な問題に対して、腹を立てなくなってきたこと。腹の立つことがすくなくなりました。たいていのことは「どうでもいい」ですね。
  • セックスがますます好きになってきたのに、実際にセックスする回数が減ったこと。これは、全くその通りです。その分「フェチ的傾向」が強くなりました。もうじき、「変態」になりそうです。
  • 「中高年の生き方」に関するノウハウ本をTV番組を見ると腹立たしく思うこと。そうなんです、自分が他の一般的な中高年と同じであることを、認めたくない気持ちがあるのでしょう。それこそが、中高年の証です。
  • やたら服を買うようになり、ファッションに遣うお金が増えたこと。もともと服を買うのは好きだったのですが、若い頃よりもお金に不自由しなくなった…ってことでしょうか。いや、貧乏なりに…ですが。
  • TVを見る時間が増えたこと。20代の頃は、家にTVを持っていませんでした。TVなんてくだらないものを見る時間が、惜しかったのです。今はけっこうTV好きです。あややのCMなんかも喜んで見てます。完全にオヤジです。
  • これはお笑いですが、「左翼的教養主義」への憧れや高い評価が、やっとなくなりました。いや、ホントです。行動としての左翼はもともと肌が合わなかったのですが、教養主義への憧憬は長く続きました。最近やっと、どうでもよくなりました。
…こうして並べてみると、なんとなく共通点があるように思います。一言でいうと「人生や社会関係に対して投げやりになってきた」ということです。よく言えば、「枯れてきた」ということなのでしょうが、自分ではけっして「枯れたい」と思っているわけでもありません。ともかく、いろんな分野で「こだわり」が無くなってきました。特に「人間関係」については、まったくこだわりがなくなり、誰とでも仲良くなるようになってきました。今じゃ完全に、「能天気なオナジ」です。
 若い頃からの私は、一見社交的で誰とでも気軽に話すように見えて、実はかなり「狷介」な部分があったと思います。他人とニコニコと話しながら、腹の中では「こいつ、バカじゃねえの」なんて思っていることがよくあったのです。付き合う相手を、かなり選んでいました。ところが40代に入った頃からは、何だか他人の良い部分、面白い部分の方を見るようになり、その結果付き合う人間の範囲が広がったと思います。パソコン通信時代、ニフティサーブのフォーラムなんかをやっていた頃から、「ネット上の知り合いにオフで会う」というのは、面倒でした。ここ数年は、わりと気軽に「オフ会」に出席したりしてます。

2004/6/7

 6月3日付けの日記で、「佐世保の小六女児殺害事件をきっかけに、ことさらに『ネットコミュニケーションは異質のもの』と捉える論調が増えている」…ことについて、納得できないと書きました。この手の話は、今回のような「ネットが関わる事件」が起きた時にあらゆるメディアで盛り上がるのですが、事件の有無に関わらず、「ネットコミュニケーションは異質」という話が好きな人は多いようです。中でも、新聞のコラムと投書欄はこの手の話の宝庫で、朝日新聞の「天声人語」などは、飽きもせずに定期的に陳腐な意見を開陳してくれます。

■04年5月27日付の天声人語
手紙文化の変容:手紙文を集めた本がたくさん出ている。作家たちが家族にあてた手紙を収集したシリーズもある。編者は、昔の女性作家の手紙を集めるのが大変だったという。家族と同居していることが多く、手紙に頼る場面が少なかった。時代を反映してもいる、と。少ない中の一つ、パリに暮らす画家の岡本太郎にあてた母かの子の手紙がある。70年前のこと、いまのように簡単には行き来できない時代である。「太郎に、じかに逢(あ)い度(た)くってもう手紙なんか書くのうんざりだ。じかに逢い度いんだよ」(『家族への手紙3』ゆまに書房)。北朝鮮に残る家族と手紙のやりとりをする曽我ひとみさんのことを思った。ひかえめな曽我さんは、かの子のように激しく直截(ちょくせつ)には語りかけないかもしれない。しかし、思いは同じだろう。じかに会えるときまで、手紙に思いを託さざるをえないつらい生活が続く。いまの日本人は、それほど手紙好きとはいえないようだ。01年の国際比較をみると、1年間の郵便物の量は米国、中国についで世界で3番目に多い。しかし、1人あたりにすると世界で18番目だ。一番多いスイスの3割以下である。一昨日発表された郵政公社の決算では、郵便物が2年連続して減少したことがわかった。電子メールの普及が、手紙文化の変容をもたらしつつあるのは確かだ。曽我さんは去年夏、子どもたちからの手紙を読んでこう語った。「久しぶりに長女の書いた字を読み、感動して熱いものが自然にこみ上げてきた」。一字一字書きつづられた手紙ならではの感動もある。

■02年7月27日付の天声人語
手紙文化はこれからどうなるのか。衰退の一途をたどるのだろうか。電話の登場と普及があって、さらに電子メールが加わった。瞬時に世界中と交信することができる便利な手紙だ。しかし、書き方は従来の手紙とは少々異なる。今後、文学者らの書簡集を読む楽しみはどうなるのだろうか。たとえば、借金を頼む石川啄木の手紙を読む。「筆につくされぬ前置は以心伝心にて*御諒察被下度候」と書き出して「現在*懐中十二円と若干なり、誠に済まぬけれど五、〇〇又々*御願申上候」と。夏目漱石が借金を断る手紙もある。「御手紙拝見 折角だけれども今借して上げる金はない。家賃なんか構やしないから放つて置き給へ。僕の親類に不幸があつてそれの葬式其他の費用を少し弁じてやつた。今はうちには何にもない。僕の*紙入にあれば上げるが夫(それ)もからだ。……」。追伸が愉快だ。「紙入を見たら一円あるから是で酒でも呑んで家主を退治玉へ」。ただしこれは啄木への返事ではない。『手紙歳時記』(TBSブリタニカ)、『心にひびく日本語の手紙』(朝日新聞社)などから引用した。こうした書簡集に必ず収録されるのが、米国滞在中の野口英世にあてた母シカの手紙だ。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」に始まり「はやくきてくたされ」と息子に帰国を懇願する不思議な魅力をたたえた手紙である。成立した郵政4法は、手紙文化の盛衰には関係なさそうだ。50年後に編集される書簡集を想像する。相変わらず啄木、漱石やシカの手紙が収録されるに違いない。

 この2つの天声人語、どちらの文章も、「だからどうした?」という中身のない内容です。
 私は「手紙」と「電子メール」の違いを、懸命に言い募る人の論拠というのが、どうもよくわからない。確かに、手紙と電子メールでは伝達媒体や送受信の手法が異なりますが、コミュニケーション手段としての機能、そしてメディアとしての本質は全く同じではないかと思うのです。どちらも「文字で意思を伝え合う」コミュニケーションであり、どちらも特に文字数の制限などありません。なぜ、「手紙と電子メールは違う」と、主張しなければならないのでしょうか。
 この手の話になると、必ず登場するのが「手紙は温かみがあって心のこもったコミュニケーションが可能だが、電子メールは必要な要件だけを伝えるので冷たく儀礼的」…みたいな話です。確かに電子メールは「簡潔に要点だけを書く」…場面で使われることが多いのですが、別に手書きの手紙に多くあるような「冗長性の高い文章」を書けないわけではないし、書いてはいけないわけでもありません。友人や知人に送る電子メールは、従来の手紙と同じように好きなように冗長性の高い文を書けばいいし、実際に私はそうしています。基本的には、手紙文をそのまま置き換えただけの文章を書けばよい…と認識し、実行しているわけです。
 逆にビジネス用に使われる電子メールは、確かに簡潔に要点だけを書きますが、もともとビジネス用手紙でもこちらにあるように、横書きで短い文章で簡潔に書くものであり、これは基本的には電子メールのルールと全く同じです。電子メールが「手紙よりも実用性と効率」を重視するコミュニケーション手段だとしている例は多いのですが、手紙だって、時と場合によっては「実用性と効率」を第一に書きます。わざわざこの手の「電子メールの作法」として「既存の手紙と違う」ことを強調する理由はありません。

 結局のところ、天声人語のように、ことさらに「電子メールと手紙とが違うもの」のような意見を述べる人のメンタリティは、かつてよくあった「ワープロの手紙は手書きの手紙のように心がこもっていない」という陳腐な意見を述べる人のメンタリティと、基本的に同じでしょう。昔ワープロが普及し始めた頃、「ワープロでは心のこもった手紙は書けない。やはり手書きの手紙がうれしい」みたいなバカバカしい意見を言う人がやたら多かった時期があります。そういうバカなことを言う人はもういなくなっただろうと思っていたら、上述した5月27日付けの天声人語には「一字一字書きつづられた手紙ならではの感動」…なる意味不明のフレーズが出てきます。全く同じ内容の手紙なら、手書きであろうとワープロで打たれていようと、便箋に書かれていようと電子メールであろうと、どう考えても同じでしょう。
 私の場合、手紙か電子メールかは全くどちらでもいいですけど、「手書き」は大嫌いです。なぜなら、下手な字は読みにくいし、上手すぎる字も読みにくい。字が読みにくいと、字を読み取ることに意識を集中させるので、内容をじっくりと味わうことができません。私は、普通誰でもそう思うと考えていたので、「手書きの文字で書かれた手紙が好き」という人の意見には、最初は逆に驚きました。もしも、普段読んでる小説が「著者の手書き原稿」であったら、かったるくて読んでられないはず。手紙だって同じです。きちんと内容を伝えたい、またはきちんと気持ちを伝えたい…のならば、読みやすい活字で伝えるべきでしょう。それが相手に対する心遣い…というものです、悪筆、または達筆で読みにくい手書きの文など、相手に送るのは失礼というものです。

 結局のところ、手書きであろうとワープロ書きであろうと、郵便、また郵便に準じる手段で届けられる「従来型の手紙」の機能というのは、「電子メールの機能の部分集合」に過ぎない…と思います。言い換えれば、電子メール上では「基本的に従来型の手紙でなし得る表現の全てを実現することが可能」だと思っています(押し花やお札は挟めませんが…笑)。…である以上、手紙と電子メールとの比較は全く無意味です。

※天声人語を全文引用しましたが、こちらの規定に従って、「…質的にも量的にも、引用先が『主』、引用部分が『従』という主従の関係…」にしてあります。

2004/6/4

 「地村さんからの抗議に週刊新潮が回答 次男に関する記事」…というニュース、正直なところ「またか」という感じを受けました。この週刊新潮の記事は私も読みました。特に悪意を感じる記事ではないように感じます。私は、「家族会」や「救う会」の活動には十分な必然性があると思うし、別に会自体の存在に異論はありません。しかし、家族会に抗議されてマスコミが謝罪する…という構図は、これまでにも何回も繰り広げられました。「家族会」や「救う会」の見解が何だか世論を背景にした「錦の御旗」になってしまう現状には、強い違和感を感じます。そういえば、「救う会」が大学入試センターの世界史の試験問題に抗議したときにも、「何かヘンだ」と思いました。肉親が拉致されたまま帰ってこない状況、そしてある程度実情を知りながら長い時間何もしなかった政府…こうした家族の気持ちを理解することと、その家族会の言動なら何でも許容することとは、話が別です。私は、家族会の気持ちは十分に理解しているつもりですが、その言動の中で納得できないこともたくさんあります。
 それにしても今回の件で、「純粋な未成年のイメージを故意的に濁らされた」…と本当に地村さんが言ったとすれば、ちょっと気持ち悪い話です。私は自分の子供について語るときに、「純粋な未成年」なんて言葉はとても使えません。

 話は変わりますが、TVの天気予報はいつから「余計なこと」をやるようになったのでしょう。どのニュース番組の中でも、お天気キャスターは「どうでもいいミニ知識」のようなものをこぞって披露します。天気予報を見るのは、あくまで天気予報が知りたいからであって、愚にもつかない雑学が知りたいからではありません。
 さらに、最近の天気予報で使われる幼稚なCGも目に余ります。特にひどいのがNHK、高気圧や低気圧などが妙に擬人化された巨大なアニメになってたりします。幼稚園向けの番組じゃあるまいし、高気圧は普通に○の中に「高」と書いてあればわかります。妙な表情がある「雪だるま」とか、幼稚なCGやアニメを使うのはやめて欲しいですね。

 ニュース番組といえば、朝のニュース内では、道路情報とか鉄道情報とかをアナウンサーではなく「道路情報センターの○○さん」とか「JRの○○さん」とかが出てきて、情報を読み上げます。アナウンスに慣れていない人も多く、聞き取りにくかったりします。素人に読み上げさせるのはまったく無意味で、情報を読み上げる役は、まだしも聞き取りやすい局アナがやればいいと思いますね。

2004/6/3

 長崎県佐世保市で起きた小六女児殺害事件は、とても痛ましい出来事です。この事件についての報道では、またぞろ「教育評論家」やら「児童心理学者」などが、ここぞとばかりに喧しく、愚にもつかない論評を開帳しています。そして今回の事件へのマスコミの反応でもっとも気になるのは、被害者と加害者がチャットを楽しんでいたこと、そして事件の原因として「インターネット上で容姿を傷つけられるような書き込みがあった」…という発表がなされたことから、いつもながらの「ネットの功罪」について、中でも「ネットの罪や害」に関する「ステレオタイプで的外れの意見」が大量に流れていることです。
 もっとも多いのが、「ネットコミュニケーションは感情の暴走を招きやすい」…という根拠のない意見です。
 新聞の社説をいくつか拾ってみると、「パソコンの画面では相手の顔が見えないだけに、ささいな言葉の行き違いが深刻な対立を招きやすい」(毎日新聞)、「今回の事件で見逃せないのはインターネットだ。文字のやりとりだけでの"会話"であり、表情やしぐさ、肉声の抑揚などが分からない通信手段である。大人でも感情の暴走を招きやすいといわれる。加害、被害女児がチャット仲間であったことが、感情の行き違いを増幅させていった可能性が大きい」(宮崎日日新聞)、「インターネット上のやりとりも見逃せない要素だ。表情やしぐさが見えないため、大人でも感情の暴走を招きやすい」(山陰中央新報)、「暴力に関する情報のあふれるインターネットの利用が、犯行とどうかかわったかが注目される」(高地新聞)…など、どの新聞にも独創性のない同じようなフレーズが並んでいます。こうして各新聞の社説を並べて読んでみると、新聞記者や論説委員なんて人たちのレベルの低さ、独創性の無さがよくわかります。
 私は、なぜ「ネットコミュニケーションは感情の暴走を招きやすい」のか、よくわかりません。これは、何の根拠もない意見です。統計的に見て、そんな事実は絶対にないはずです。確かにネットの書き込みやメールの交換などが原因で対立した結果、傷害事件などが起きたケースがあるかもしれませんが、それよりも「実際に会っている人間同士がケンカになって傷害事件や殺人事件を起こす」ケースの方がはるかに多いはずです。毎日新聞の社説にあるように「パソコンの画面では相手の顔が見えないだけに、ささいな言葉の行き違いが深刻な対立を招きやすい」というのであれば、昔からある「手紙」だって同じはず。しかし「文通はささいな言葉の行き違いが深刻な対立を招きやすい」という意見は聞いたことがありません。人間は、逆に対面して話している方が「ささいな言葉の行き違いが深刻な対立を招きやすい」と思います。だから、飲み屋でケンカが起きたり、酔っ払い同士が道端で争っていたりするのです。最近はすぐキレて暴力を振るうヤツが多いので、私は対面コミュニケーションの方が怖いですね。
 感情をコントロールできないヤツは、対面してのコミュニケーションであろうと、ネットコミュニケーションであろうと、同じように感情をコントロールできません。今回の事件で、加害者と被害者の間に「感情の行き違い」があり、それが「殺意を覚えるほど激しいもの」だったとしても、そうした感情を引き起こした原因と、「チャット」や「掲示板」は無関係です。
 ともかく、ここ数日ありとあらゆるマスコミや「識者」のコメントの中に、今回の事件とネットの関わりを指摘する意見が吐かれ、しかもその大半はネットコミュニケーションをネガティブに捉えるものばかりです。今朝は、あるワイドショーで、「教育評論家」を名乗るバカそうな人物が「IT教育の中では、道具としてのパソコンやインターネットの使い方を教えるだけでなくネットコミュニケーションの方法も教えるべきだ」…などと、したり顔でコメントしていました。「コミュニケーションの方法」は、実生活の中で対面して行われるものも、ネット上で行われるものも、違いは無いはずです。礼儀正しくあるべき関係は、対面でもネット上でも同じだし、馴れ合う楽しい関係は、これまた対面でもネット上でも同じです。私は、原則として「ネットコミュニケーションの方法」なんて存在しないと考えてますし、事実数十年に渡るネットコミュニケーション歴の中で、「ネットコミュニケーションは特別」なんて考えたことは一度もありません。
 この手のネット絡みの事件が起こるたびに、評論家やら識者やらキャスターやら、TVタレントらが小賢しげに「ネットの功罪」を説くのを聴いていると、鬱陶しいし、バカバカしくなります。おまえら、もっと気の利いたコメント、言えんのか?

2004/6/2

 実際の話をもとに、手軽にできる金儲け話を一つ…笑)
 「日本の自然を探索し、若い世代に自然を守る気持ちを伝える中高年の会」…という、一種の「中高年のサークル活動」を主催している知人がいます。もともとは、よくある中高年の「ハイキングを楽しむ会」だったのですが、会員数が増えるにつれて「ただ野山を歩くだけでなく、貴重な日本の自然を後世に残すために、写真や文章で記録を残そう」という話になったそうです。そこで、年に数回「会報」を出して、全国の自然を歩いた会員による紀行文や写真を掲載するようにしました。その会報を出すために、会員からは1人年間3,000円の会費を徴収して、簡易製本した会報を会員に配布していました。この「自分の書いた文章や写真が会報に載る」というのが、多くの会員に受けた結果、もっと頻繁に会報を発行して欲しいとの声が高まり、毎月1,000円に会費をアップして、隔月刊で会報を発行することになりました。
 この会の存在は、口コミで広がり、会員数は増える一方。とうとう全国で3,000人強の会員を有するに至り、今なお、月に数十人のペースで会員は増え続けています。中高年のハイキング愛好者は多いのですが、この「立派な会報に自分の書いた文章や写真が載る」というのが受けたのでしょうね。
 さて、会の主催者である私の知人のところには、年間4,000万円近い会費が集まります。会報は隔月で発行しているのですが、会報の発行費用は安く、年6回、モノクロ100ページの冊子を毎号2,000部を刷って年間1,000万円程度の予算です。まあ、安い印刷屋を探して簡易DTPで作れば1冊あたりの製作単価は1,000円前後で十分でしょうから、年間経費はこんなものでしょう。あとは、郵送費が年間200万円ぐらい掛かるそうです。
 で、主催者の知人の手元には、毎年2,000万円以上のお金が余るんだそうです。余剰金額は年々増え続けているそうですが、特に会費の使い途を報告する規約もないために、この余剰金のことは会員は誰も知らないのだそうです。むしろ、「毎月1,000円程度の会費でこんな立派な会報を作ってもらっている」…と会員には感謝されているとのこと。また、既にホームページも開設し、会報に掲載しきれないレポートや写真も全て掲載することで、会員の人気も高いそうです。
 この「日本の自然を探索し、若い世代に自然を守る気持ちを伝える中高年の会」(本当の名前ではありません)は、いまなお発展を続け、私の知人の個人名義の預金通帳にはお金が溜まり続けています。今年の余剰金は3,000万円を越え、累積余剰金は7,000万円を超える…と彼は心配しており、また税務署が来るのではないかと怯えています。私は「有限責任中間法人」を設立するように、アドバイスしています。
 この知人の話を聞いて、私は小さな会社をあくせく経営しているのが嫌になりました。

2004/6/1

 iモードの登場で一気に市場が拡大し、いまだニュービジネスの中心のように見られている携帯電話向けコンテンツビジネスですが、右肩上がりの市場拡大に変化の兆しが見えはじめ、いまや確実に過渡期に入りつつあります。iモード用コンテンツが年間1千億円以上の市場規模となったNTTドコモも、従来型のコンテンツビジネスの将来性に不安を感じていることは言うまでもありません。その結果、「FeliCa」ビジネスに力を入れるなど、「脱・従来型コンテンツビジネス」へ向けての路線転換を進めています。
 携帯電話向けコンテンツビジネスが過渡期に入りつつあることを、非常にわかりやすく予感させてくれるのは、Opera搭載の京セラ製PHS端末「AH-K3001」の好調な販売と、近日中にスタートする可能性が高い「携帯電話向け地上デジタル放送」です。
 フル・インターネットアクセスが可能なOpera搭載PHS端末は、現行の携帯電話向け有料コンテンツの大半が「実は無料で使える」ことを示しています。ニュースはもとより、路線検索サービスや銀行系サービスなど、もともと無料であるべきサービスが携帯電話では有料であったことの不自然さを、多くのユーザが再認識する可能性があります。「AH-K3001」があれば、優れた電子書籍である無料の「青空文庫」だってストレス無く読めます。「AH-K3001」は、携帯電話端末とそのコンテンツのあり方は、こうあるべきだ…という姿を明確に提示してくれています。
 1セグメントの携帯電話向け地上デジタル放送は、まだフォーマットが最終決定していないながらも、既に試作された端末の完成度は高く、実施に向けての障害はほとんどありません。既存のTV局がスポンサー収入による無料放送…という現行の民放TV局のビジネスモデルのままで、アミューズメントコンテンツを放送し始めたら、既存の有料携帯電話コンテンツの多くが打撃を受けるでしょう。現在の携帯電話向けコンテンツは、その大半が「暇つぶし」レベルのものです。それに比べて、「TV放送」は多くの人が長年慣れ親しんだ娯楽の王様です。多チャンネルで無料TV番組の放映が始まったら、チャチな「占い」だの「ゲーム」だのの多くは見向きもされなくなる可能性があります。
 考えて見れば、もともと日本のコンテンツビジネスは、「書籍」「音楽」「映画」の3種以外は、基本的に「無料」が前提となってきました。特に最大のコンテンツ産業である「TV放送」が無料であったために、「アミューズメント系コンテンツにお金を払う」というのは、消費行動の上では、いまだに多くの人が馴染まないものです。
 それに、携帯電話向けコンテンツビジネスなんて、実はたいした規模の市場ではありません。こちらの記事によれば「…2003年度のモバイルコンテンツ関連市場が前年度比31%増の3941億円になった。うち着信メロディーなどのコンテンツ市場が前年度比11%増の2232億円、携帯電話を使ったEコマース市場が前年度比70%増の1709億円」…とのことです。このモバイルコンテンツ市場の「2232億円」という数字は、例えば出版物(書籍・雑誌)の市場の約2兆円という数字と比較すると、非常に小さいものです。たかだか2000億円…に過ぎないのです。そして、これが「出版物市場並みに大きく膨らむ」可能性は、非常に低いと考えます。
 考えてみれば、携帯電話はその端末の表示部の小ささゆえに、画面上で本を読むのにも、映画を見るのにも向きません。せいぜい「携帯音楽プレヤー」として、専用機と同等の機能を得られる程度です。こうした端末上で見て、遊ぶ、アミューズ・エンターテインメント型のコンテンツが、現状で2000億円以上の市場になっているという事実の方が、もしかしたらおかしいのかもしれません。
 iモードのパケット料と情報利用料に、高校生や若者世代がバカみたいにお金を注ぎ込む…、そんな不自然で異常なビジネスがいつまでも続くわけがありません。

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