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朗読・音読ブームへの警鐘    2003/2/12

 ちょっと前ですが、「声に出して読みたい日本語」という本がベストセラーとなりました。著者である斎藤孝氏のHPを読むと、暗誦、朗誦を「日本語文化の重要な柱」だと考えているようです。暗誦は「心を養うために必要」…と述べています。教育学者でもある氏は「斎藤メソッド」なるものを唱え、子供に暗誦・朗誦をさせることによって基本的な日本語力と論理的な思考力が身につく…と説いています。
 いずれにしても、「声に出して日本語を読む」ことで「日本語の魅力を再発見でき、また日本語の持つリズムやテンポのよさが身体に染み込んでくる。そして身体に活力を与える…」という斎藤孝氏の著作に触発されて、ちょっとした音読ブームが起こっています。声に出して読みたい般若心経」「音読して楽しむ名作英文」…なんて本が相次いで出版され、さらには日本文学の名作を朗読したCD集などもたくさん発売され始めました。そして、「朗読紀行・にっぽんの名作」…などというTV番組も人気を呼んでいます。むろん、小説や詩を朗読したテープというのは、昔から発売されています。新潮「日本文学朗読選集」などはよく知られていますし、図書館などにも置いてあります。こうした文学作品の「朗読テープ/朗読CD」が存在する理由の1つは視覚障害者向けであり、その必要性については言うまでもありません。しかし、音読ブームも手伝ってか、最近では「文学作品を朗読で味わう」ことを目的に、こうした「朗読版名作文学CD」を購入する人が増えているそうです。小学校だけでなく、中学校や高校の学校教育の現場に「音読」を取り入れる学校もあるそうです。

 音読の効果を否定はしません。特に幼児に対して母親が音読してやったり、また読書に慣れていない小学校低学年程度の年齢層が、音読によって内容への理解を深める…といったことはあるでしょう。
 しかし私は、健常者…要するに視覚を使って読書をする能力を持った人で、なおかつ一定の年齢(少なくとも中学生以上)に達して理解力が高まった人が、活字化された文学作品を、朗読を聞く形で味わう…というのは、非常に不自然だと考えます。私は、暗誦や朗誦のメリットを強調するあまり、多くの人が「眼で本を読む」のではなく、誰かによって朗読された文章を聞く…ことを選ぶようになったら、それは「読書力の衰退」を招く非常にまずいことだと考えます。

 また私は、斎藤孝氏が唱えるように「最近の若者が日本語文化を理解しておらず、ひいてはそれが基本的な理解力の衰退にも繋がっている。音読をすることで日本語に対する理解力が高まり、物事全般に対する理解力も高まる…」という考え方には全く賛同できません。特に若者の間で理解力が衰退しているとすれば、それは読書をしなくなったことと深い関係があるとは思います。しかし私は、音読することでは読書力は身につかないと思うし、高度な理解力も身につかないと思います。
 私は、読書力や文章の理解力を培うためには、音読ではなく、むしろ「高度な視覚作業としての読書訓練」が必要だと考えます。私がこのように考える理由は、自分の経験上、「読書」というのは「非常に複雑な視覚作業」であるからです。
 若者が本を読まなくなったのは、「読書」という一定の訓練を必要とする知的作業が「技術的に出来なくなった」からだとも考えています。

 活字化された小説などの文学作品、または活字化されたドキュメンタリーや論文等があったとします。それらの内容を理解したり楽しんだりする場合、「朗読されたものを耳で聴く…」ことと、「自分の眼で文章を読む…」こととは、同じ理解のためのアプローチでも根本的に違いがあります。脳が行う情報認識作業として見た場合、「見る」と「聴く」は、異なる作業です。

 普通、本や雑誌など活字を読むとき(縦組みの場合)、右から左へ1行ずつ、そして上から下へと1文字ずつ活字を眼で追って行きます。しかし、ある瞬間に視野に入る文字はけっして1文字だけではありません。人間は一瞬でまとまった数文字の単語や熟語全体を読んで(画像情報として)認識したりするので、素早く文意を掴むことができます。
 また、読み進んでいる行の次の行や、さらにその次の行なども視野に入ります。そこで、ある部分を読みながら同時に文章の先読みをして、読んでいる部分の文意に関する最適な判断を下していきます。さらに、例えば見開きの左ページを読み進んでいるときに、ちょっと前の文章の内容を確認したければ、一瞬視線を右ページに戻して既に読んだ場所を再読したりもします。つまり読書という作業は、けっして「1文字づつ認識していく」作業ではなく、視線をあちこちに飛ばしながら総合的に情報を読み取っていく作業です。
 人間の目の働きとそこから得られる視覚情報をフルに活用して理解を深めていくのが、「読書」という作業です。従って、狭義の文字認識だけではなく、広い意味での画像認識も伴う作業です。視覚的に馴染みのある単語は、「読む」のではなく「文字面を見る」ことで、記号のように理解することができます。こうした視覚認識作業は、声に出しながら逐語読みしていく作業とは、根本的に頭の使い方が違います。また、他人が朗読した作品を耳で聞いて理解する…というプロセスでは、短い時間の間に「前へ進んだり後ろへ戻ったり」することができません(テープを戻さない限り…)。また、視野に入ってくる様々な場所の活字を同時に記憶に焼き付ける…といったこともできません。常に「聞こえている場所」の部分に含まれる情報しか入ってきません。結果的に、文章に対する理解度は確実に浅くなります。
 さらに、朗読を聞くことによって得られる「時間当たりの情報量」(これは自分で朗読しながら得られる時間当たりの情報量と同じ)は、決定的に少な過ぎるものです。例えば文庫本で200ページ程度のちょっとした小説や論文程度なら、眼で読めば最短で30分〜1時間で読了して隅々まで理解できますが、朗読を聴くか自分で朗読をすれば、その何倍もの時間を要します。
 さらに、後で触れますが、音読では「文字面の美しさ」や「余韻」を楽しむことができません。

 「多面的に視覚情報を活用する読書技術」を身に付けるためには、「眼で広範囲の活字を追いながら、素早く文章の内容を理解する」という訓練が必要です。特に「単時間で文章の内容を正確に理解する」ためには、相当の訓練(読書経験)が必要となります。
 ここでいう「訓練」とは、視覚作業としての「読書をする」行為自体を指し、要するに「たくさん本を読む」ことが訓練です。そしてそれは、「音読」をしたり「音読されたものを聞いたり」することは無関係です。

 教育現場(小学校低学年あたり)で日本語を朗読することの有効性については、ある程度納得できる部分もあります。しかし、朗読と「読書力の養成」とは別のものだと考えるべきです。朗読をすることは、必ずしも読書力や理解力のアップに繋がらないだけでなく、逆に高度な理解を阻害する要因にもなりかねない…と考えます。私は、声に出して読むことに注意を払うと「眼で広範囲な活字を追う」という高度な視覚作業に対する集中力が、逆に損なわれると思います。

 そして、「朗読で日本語の美しさを知る…」という話の展開にも大きな疑問があります。
 「日本語の美しさ」というものがあるとすれば(私は必ずしも日本語が他の言語より美しいとは思っていませんが…)、そこには「音の美しさ」と「文字面の美しさ」の両者があるはずです。「音の美しさ」は、本来「話し言葉」や「日本語の歌を歌う」などの日常生活の中で味わい、培われるべきで、「文学作品を朗読して味わう」ものではありません。小説や詩などの文学作品は、内容とともに「文字面の美しさ」を追求したものであり、声に出すことを想定して書かれていない作品が大半です(意図的に読むことを目的にかかれた作品もありますが…)。「文字面の美しさ」は、音読ではわからないばかりか、逆に音読することで楽しめなくなる…ものでもあります。
くだらない! 「声に出して読みたい方言」    2004/2/19

 私は以前、斎藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本に対して、異論を唱えたことがあります。この「声に出して読みたい日本語」について、ちょっと古い出典ですが「日本語ブームとナショナリズム」という小森陽一の論考があります。この「日本語ブームは、じり貧のアイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓…」という指摘は非常に的確であり、私もそう思います。さらに、ここにも書かれているように、香山リカの「ぷちナショナリズム症候群」(中公新書)は、こうした状況をうまく分析しています。

 それにしても、この「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」は、最近ますます強引になってきているように感じます。 2002年ワールドカップの狂乱以降も、私がこの日記の中で何度も揶揄したように、官民挙げての「No1よりオンリーワン」の大合唱、依然として沈静しない「司馬遼太郎ブーム」、NHKドラマの「新撰組」に触発された明治維新ブームの最燃焼、そして映画「ラスト・サムライ」のヒット、「日露戦争100周年」関連ブーム…など、全ては「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」の結果でしょう。さらに、こうした市場として最も象徴的なのが、昨今の新興宗教の隆盛です。私は現代の宗教の大半は「宗教ビジネス」だと思っていますし、アイデンティティ・クライシスが顕著な現代は、宗教ビジネスやセミナー商法には、最適な時期なのかもしれません。
 まあ、「仕事」にしかアイデンティティを持てなかったサラリーマンがリストラされたり、モラトリアムを求める就職できない若者が増えたり、学校教育から落ちこぼれる子供が増えたりする中、「アイデンティティを与えてくれる」メディアやビジネスが流行るのは、非常に納得できる話です。
 以前も書きましたが、「No1よりオンリーワン」なんて、何も出来ない人間、何もしたくない人間にとっての便利な言い訳の言葉になっているし、明治維新で結果的に何の役にも立たなかった新撰組に対して「社会の役に立たない人間」が共感したくなるのは、よくわかります。

 で、斎藤孝の「声に出して読みたい日本語」の話から書き始めたのは、この斎藤孝が新刊を出したからです。その名も「CDブック 声に出して読みたい方言」(草思社)です。
 さて、その内容はというと、古今東西の有名な文学作品を、様々な方言に言い換えて朗読する…というものです。本書の宣伝コピーによれば「あの『人間失格』が広島弁!? 〜いまとなっちゃあ、自分ゃあ、完全に人間じゃ無うなってしもうた。 えっ!あの『雪国』が名古屋弁!? 〜国境の長あトンネルくぐるとよー、まあひゃあそこが雪国だったでかんわ。」…って感じです。
 これはもう、ムチャクチャです。名作「人間失格」をなぜ広島弁にする必要があるのか、しかもなぜそれを朗読する必要があるのか、まったくわかりません。
 以前も書いたように、文学作品は、内容とともに「文字面の美しさ」をも追求したものであり、声に出すことを想定して書かれていません。「文字で書かれた芸術・文化」である文学作品を、朗読すること自体に私は反対なんですが、さらにここでは「方言で言い換える」という暴挙までやっています。

 「方言には、その土地の風土が色濃く染み込んでいる。人間が五官で感じる感覚が言葉に込められている。においや手触り、からだの躍動感や空気。長い年月をかけて、その土地の風土でつくり上げられてきた身体の感覚が、言葉の中にしっかりと刻み込まれているのだ。これは大変な文化遺産だ(はじめにより)」…こう前書きに書いてある内容自体は、誤りではありません。方言が「文化」だってことに異議はありません。私も地方出身者ですから、今でも地元の方言が出ることはありますし、それを別に「誇り」には思っていませんが、「ごく自然なこと」だと思っています。だから、「もともと方言で書かれた文学作品」や「方言で歌われる歌」が存在することは、立派な文化として認めるべきでしょう。
 しかし、方言が文化であることと、「完成された文学作品を方言に言い換え、聴いたり朗読したりする」ということには、何の関連もありません。むしろ、ある種の暴挙、作品に対する冒涜でしょう。こんなバカなことをやって、「方言文化」が理解できるはずもありません。
 結局これは、「地方出身であることにアイデンティティを持て」という「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」の1つであり、「国家単位から地方単位へとエリアを狭くしたプチ・ナショナリズムを喚起する」ことも目的の1つでしょうね。

 「声に出して読みたい方言」…、出版ビジネスの世界とはいえ、まあよくもこんなにくだらない企画を思いつくものです。そして、この著者が大学の教授ってのも、ひどい話です。こんな人に教えられている大学生も気の毒です。

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