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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2005/2/25



 このビール
の4種セット、ネットで見つけたキャンペーンで当たりました。ちょっと、うれしい。「ビール工場ご見学記念品引換券」もついてました。ビールが当たるのは、過去3ヶ月で3度目。最初は某社の新発泡酒の500ml缶の24缶セット(なんと2ダース!)、次に別の会社の新製品ビールの2缶セット、そして今回がこの4つの水系モルツの4缶セットです。
 どれもYahoo!のトップページのバナーから、気まぐれに応募したもの。かなり確率が高いですね。

2005/2/24

 最近の調剤薬局って、かなり不愉快です。最近では院外処方が主流なので、病院で検査や治療を受けた後、薬を処方されると、ほとんどの場合院外の調剤薬局で薬を受け取ります。大学病院などは門前薬局がいっぱいあります。
 で、院外の薬局で医者が出した処方箋を持って調剤薬局で薬を受け取る時、いちいち症状を聞かれます。それに加えて初めて訪れる調剤薬局だと、所定の用紙に体調やアレルギーなどいろいろなことを記入しなくてはいけません。これが面倒なんです。「なんで処方箋持った患者に、薬剤師があらためて症状を聞くの?」って感じ。調剤薬局へ来る前に病院で症状を訴え、様々な検査をし、薬を処方する際にはアレルギーなどについても詳しく聞かれ、その上で医者は薬を処方するわけです。なんで調剤薬局でまた同じこと聞かれなきゃなんないのか、理解できません。薬の飲み方についての簡単な説明は必要かもしれません。しかし、あらためて薬の内容について説明してくれなくとも、それは医者にちゃんと聞いているわけです。
 確かに、患者が医師にアレルギーについて言い忘れた場合の「ダブルチェック」の意味はあるのかもしれません。でも、例えば東京の大学病院では珍しく院内処方をしている慶応病院の場合、薬の受け渡し時にいちいち症状などを訴える必要はありません。それで十分に機能しているのだから問題はないと思うのですが…
 ともかく、調剤薬局では黙って処方箋通りの薬を出してくれれば、それでいいと思うわけです。
 そうえいば、不景気による就職難も影響しているのでしょうが、薬剤師という資格の人気が高まっています。薬学部の新設も相次いでいます。少子化で経営難の私立大学にとっては、黙っていても学生が集まり、一般の理工系を上回る高い授業料を設定できる薬学部は、おいしいのかもしれません。
 薬剤師に限らず、確実な就職が見込める医師薬、看護・保健系の学部は人気が高いようです。医師薬看護に限らず、「コメディカル」と呼ばれる医療の現場で医師とチームを組んで仕事をする検査、カウンセリング、運動療法、栄養などの医療技術者を養成する専門学校の人気も非常に高いようです。

 ある医療関係者に聞いた話ですが…。看護と言えば、誰でも知っているように一般的な看護師資格以外に准看護師と呼ばれる資格があり、これは中学卒業で実務3年で得ることが出来る資格です。それで各地にある准看護師の養成学校は中学卒業という受験資格で入学が可能です。この准看護師の養成学校は各地の医師会や病院などが経営している例も多く、午前中働いて午後学校へ行くとか、夜間の高校へ通学できるとか、働きながら学校へ行けてしかも資格も就職できるというシステムを採用しているところが多いようです。ところが昨今の看護系進学者の急増に伴って、看護系の大学だけでなく専門学校の倍率や偏差値が上がり、高卒で看護系学校への進学を志望してもなかなか入学できない…というケースが増えてきました。こんな状況の中で、中学卒業を受験資格とする准看護師の養成学校にも高卒で受験する人間が増え、その結果中卒者が弾き出される…という結果になっているそうです。学校によっては、中卒資格で受験可能にも関わらず入学者の半分以上が高卒以上の学歴で占められているそうです。これはまずいですよね。そりゃ、高卒者と同じ土俵で学力テストをやったら、中卒者は絶対に不利になります。現在、中学卒業で就職するというのは、新規卒業者ベースでは既に全国で1万数千人というレベルにまで下がってはいますが、彼(彼女)達がきちんとしたスキルをつけて社会に出られる仕組みは絶対に必要です。それに、中卒の新規卒業者の就職者が減っているとは言え、最近では高校中退者のフリーターが急増しています。義務教育をまっとうした中学卒業者が、真っ当に仕事を覚えられて働ける環境は、後述する理由で絶対に必要だと考えます。
 こうした事例は、公務員試験でも見られます。国家公務員採用試験は、試験の程度を、T種=大学卒業程度、U種=短大卒業程度、U種=高校卒業程度に分けて試験を行っていますが、このU種、V種には大卒者が殺到しており、高卒者には著しく不利な状況になってきています。また各地で、学校の給食調理員に、大卒の男子が大量に応募してきて実際に採用されているそうです。いや、給食調理員をどんな学歴の人間がやろうと構いませんし、「学歴による職種の棲み分け」なんてものもない方がよいに決まっています。しかし、学歴による職種の棲み分けについては、「学歴が低いものが学歴が高いものの領域を侵犯することは是、学歴が高いものが学歴が低いものの領域を侵犯することは非」…という形でなら、存在すべきだと考えます。様々な家庭の事情があって高学歴を手に出来なかった人間は、あきらかに社会的ハンディがあります。こうした社会的ハンディを補う社会の仕組みは、公的なコンセンサスを得た上で、ある程度必要だと考えます。
 そういえば、先日青森市で、高卒以下でないと受けられない市営バスの運転手試験で、大卒・短大卒を隠して合格、要件を欠いたまま勤務したとして大卒の43歳と短大卒の35歳の男性運転手2人を懲戒免職処分とした…というニュースがありました。特にコメントする気もありませんが、なんとなく物悲しいニュースだと思いました。
 それにしても、昨日書いた「イラクの位置」の話ではありませんが、大学生が大学生として身に付けるべき教養を身に付けていないせいで、こんなことになった…という見方はできます。やはり、半分以上の大学を潰して、まともな大学卒業者を増やす必要がありそうです。

2005/2/23

 昨日Blogの方でも触れましたが、「大学生の44%がイラクの位置を知らない」という日本地理学会の調査結果、昨夜のTVでも、今朝のワイドショーでもこの件に関するニュースをやっていました。
 まあ、私がアメリカに住んでいた頃、日本の位置を正確に答えられるアメリカ人はほとんどいなかったわけです。また、おそらくヨーロッパに住む人の大半はアジアやアフリカの諸国について正確な位置を知らないでしょう。その意味では、「大学生の44%がイラクの位置を知らない」からと言って、それを「日本国民の地理感覚の低さ」…と一般論として問題にするのはお門違いです。しかし「大学生」に限定するとなると、さすがにイラクの位置を答えられない大学生は少ないでしょう。日本の大学生の教養の低さは世界各国の大学生の中でも最下等に位置するかもしれません。なんとも悲しい話です。

 この件についての新聞記事を読むと、「…89年の旧学習指導要領改訂以来、高校生は世界史だけが必修で、ほかの科目は選択になっている。地理を履修する生徒は減っており、現在は全体の約半数だという。調査結果では、高校で地理を選択しなかった大学生は、10カ国すべてで履修者の正答率を下回った。調査にあたった日本地理学会の地理教育専門委員会委員長の滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は『ほとんどの主要国で地理は必修だ。正しい世界認識を育み、国際感覚を身につけるためには最低限の地理的素養が必要で、高校での地理学習を拡充してほしい』と話している。」…と言うコメントが書かれています。また、この問題は取り上げていた朝のワイドショーでは、「大学生がこんなにバカになったのは、ゆとり教育の弊害」なんて発言をするコメンテーターがいました。
 しかし、この件に関しては「地理教育の重要性」を説く新聞のコメントも「ゆとり教育云々」という視点も、およそピント外れだと思います。多くの学生が白地図上で重要な国家の位置がわからない…という現状は、「高校時代に地理を履修したかどうか」という話とは無縁の問題だと思います。そして、「自衛隊が派遣されているイラクという国の位置ぐらい知っておくべきだ」という意見も、この問題とは無関係です。

 人は何のために生きているのか、そしてどう生きるべきか…、誰もがこんなことを考えなきゃならないとは思いません。しかし、「大学生」という身分であれば、自分の生き方や将来の自分の姿、そして現在の自分の社会的な位置、社会と自己の関わり方…等々について、何かしら思いを巡らせるのは当然のことだと思います。専門的な学問を学ぶのが大学へ進学する主要な目的ではありますが、卒業後に社会に出る立場であればこそ、自分と社会との関わりについて思索するのも大学生に必要とされる重要な時間のはずです。例えば医師を目指して医学部に進学した医大生は、医学だけを学べばよいわけではないでしょう。人の命とは何か、生きることとはどういうことか、生命倫理とは何か、患者とはどのように関るべきか、どんな医師になりたいか…など、医大生はこうした思索をすべきであり、ただ医学だけを学んだ医学生では、おそらく良い医師にはなれません。
 さて、過去の人類の営為、過去の文化、そして文化の発展史などを知ることは、自分自身の立脚点を探るための重要な手掛かりとなるはずです。歴史や文化は、一国単独で発展するものではありません。過去に人間がどのような営みを繰り広げ、どんな社会を作り、どのような文明・文化を築き、文学や思想や学問や芸術などの文化遺産を残してきたか…を知り、それを学ぶことは重要です。
 例えば、日本の文明や文化について知るためには、メソポタミアに始まる人類の文明史を知らなければなりません。日本の文化は単独で発達したものではなく、古代中国や古代朝鮮の文明から多大な影響を受け、さらにはその古代中国や古代朝鮮を経由して、遠くペルシャやインドの文明も取り入れて発展してきました。イラクという国は、古代メソポタミア文明の版図に重なります。チグリス、ユーフラテスという2つの大河に育まれたメソポタミアの地は、まさに人類の文明を揺籃した場所です。メソポタミア文明の成り立ちを「最低の教養」として知ることなく、日本の文化について語ることはできません。
 昨今、各所で「日本の文化を誇れ」という声が高まっています。チグリス、ユーフラテス川が流れるイラクが世界のどこにあるかを知らない人間には、日本の文化について語るのは無理でしょう。

 さらに、もっと悲しい話があります。白地図上でアメリカの位置がわからなかった大学生がニュースに登場し、こんなことを言っていました。「この地図は普段見ている地図と違うからわからなかった」。そうです、このイラクやアメリカの位置を問う問題で使われた白地図は、日本の教科書や地図帳でよく見る「日本を世界の中心とする地図」ではなく、ロンドンの旧グリニッジ天文台を通る「本初子午線」を中心とする世界地図だったのです。
 確かにヨーロッパ中心の世界観、文明史観には、反吐が出ます。16世紀以降のヨーロッパの帝国主義的侵略の歴史は、人類の汚点の1つかもしれません。偏見に満ちたキリスト教的世界観や、教会に支配される思想なんてクソくらえです。しかし、それもまた、アジアに住む私達が知っておくべき歴史です。
 考えて見れば、地理上の発見以降の世界史・文化史は、また世界各地に残るコロニアリズムがもたらした文化は、旧グリニッジ天文台を中心にした地図で見からこそよく理解できるのです。バスコ・ダ・ガマやコロンブスがインドを目指した理由、そしてその結果「発見」されたアメリカ大陸や香料諸島、アフリカとアメリカを結んだ奴隷貿易の歴史、アヘン戦争以降の極東の植民地化の歴史…等々については、やはり旧グリニッジ天文台を中心にした地図を目の前にしてこそ、深く理解できます。「日本が中心の世界地図でアメリカの位置を覚えていたから、イギリスが中心となっている世界地図を見ると国の位置がよくわからない」という言葉は、地理と歴史や文化史を切り離した人間の言葉です。こんなものが「地理教育」であるのなら、「地理」なんて学問は不要です。

 いずれにしても、「大学生の44%がイラクの位置を知らない」という現実も悲しく思うし、「高校生に地理の履修さえ義務付ければ解決する」と考える教育関係者や識者がいることも、また悲しく思う次第です。

2005/2/22

 2週間ほど前だと思いますが、夜、家でボンヤリとNHKのBS放送を見ていたら、「永遠のフォークソング名曲集」なる番組をやっていました。途中から見たので、誰が出演しているのかよくわからなかったのですが、南こうせつ、伊勢正三、イルカ、トワ・エ・モワなどが出演していました。多少の懐かしさも感じて1時間近く見ていましたが、まあ「こんな時代もあったんだ」という程度の感慨を残しただけの番組でした。
 ひとつには、当時の映像を放映したのであればもっと懐かしかったのかもしれませんが、年をとって声が出なくなったフォークシンガーが今歌っていても、大いに違和感があります。そしてもう1つは出演者の人選にもあるでしょう。フォークというジャンルで、私が「時代性」を感じる唄は、例えば岡林信康とか五つの赤い風船、そして60年代終わり頃の関西フォークです。南こうせつ、伊勢正三、イルカ、トワ・エ・モワ、そして番組には出てはいなかったようですが吉田拓郎あたりになると、もうフォークというよりも「歌謡曲」という感じがします。
 さらに私は、どうも和製フォークソングを聴いても、あまり「懐かしい」という気持ちにはなれません。当時のポップスを聴くと非常に懐かしい気分になることがあるのですが、フォークソングについては、そこまでの懐かしさがないのです。おそらく、私よりちょっと上の全共闘世代であれば、新宿西口フォークゲリラなどの事件もあったりして、「時代と共にあったフォーク」という感じなのでしょうけど、私が高校生になった頃のフォークはもう歌謡曲化が進んでいて、後の時代に残るようなインパクトや同時代性がなかったような気がします。まあ、音楽の好みや感じ方なんてものは人それぞれですから、私が「歌謡曲」と感じるようなフォークを聴いて、懐かしく愛着を感じる人もたくさんいるのでしょうね。
 20代以降はロックばかり聴いていますが、ウディ・ガスリー、アーロ・ガスリー、そしてピート・シーガーなどのアメリカンフォークソングは現在でも時々聞きます。デヴィッド・キャラダインが主演した、ウディ・ガスリーの生涯を描いた映画「わが心のふるさと」なんかは大好きです。でも和製フォークなんて、何十年もまともに聴いたことがありませんでした。

 とは言え、なんと言っても私の年齢ですから、10代の頃に「フォークソング」なるものの洗礼は受けています。つまり、「フォークソング」に何かしらの影響を受けた世代です。中学校に入って聴き始めたラジオの深夜放送では、まずは洋楽ベストテンにハマったので、ポップス中心の音楽ライフがスタートしました。しかし、当時は和製フォークソングの全盛時代でもあり、嫌でも耳に入ってきたし、その中の何曲かは、中学校に入って買ってもらったばかりのギターを弾きながら唄った記憶があります。今で言うところのアコギですが、当時はフォークギターでした。「アルペジオ」なんて奏法を覚えて喜んでいたのも、この頃です。

 …そんなわけで、和製フォークにあまり懐かしさを感じない私ですが、フォークと言うと、何故か今でも歌詞が鮮明に浮かんでくる曲があります。加川良の「下宿屋」と言う唄です。1970年代初め頃の曲だと思います。なんでこの曲だけが鮮明に浮かんでくるのか、よくわかりません。「好き」なのかどうかも、よくわかりません。でも、先日出張で京都の町を歩いていた時にも、この歌詞が頭に浮かんできました。


「下宿屋」 加川良

京都の秋の夕暮れは コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は いつも震えていました
僕はだれかのの笑い顔が 見られることより
うつむきかげんの 彼を見つけたかったんです
ひもじい気持ちも あまりに寒いせいか
感じなかったようです
ただ 畳の上で 寝転びたかったんです
優し過ぎる 話の上手すぎる 彼らの中にいるより
薄汚いカーテンの向こうの
裸電球の下に 座りたかったんです
彼はいつも誰かと そしてなにか 待っていた様子で
ガラス戸がふるえるだけでも「ハイ」って答えてました
その歯切れのいい言葉は あの部屋の中に
いつまでも残っていたし
暗闇で 何かを待ち続けていた姿に 彼の唄を見たんです
湯飲み茶碗に お湯をいっぱい入れてくれて
「そこの角砂糖でもかじったら」って言ってくれました
その時「ありがとう」と答えて うつむいたのは
胸が痛み出したことと 僕自身の後ろめたさと
乾ききったギターの音が 彼の生活で そして
湿気の中に ただひとつ ラーメンの香ばしさが
唄ってたみたいです
無精髭の中から ため息が少し聞こえたんですが
僕にはそれが唄のように 聞こえたんです

一杯飲み屋を 出てゆくあんたに
虚しい気持ちが わかるなら
汚れた手のひら 返してみたって 仕方ないことさ
あせって走ることはないよ 待ち疲れて みることさ
ため息ついても 聞こえはしないよ それが唄なんだ

新しいお湯がしゅんしゅん鳴った時 ラーメンを作ってくれて
そしてウッディやジャックを聴かせてくれたんです
それから 僕が岩井さんやシバ君に会えたのも
すべてこの部屋だったし
すべて僕には 唄だったんです

なにがいいとか悪いとか そんなことじゃないんです
たぶん僕は 死ぬまで彼になりきれないでしょうから
ただそのはがゆさの中で 僕は信じるんです
唄わないことが一番いいんだと言える彼を

一杯飲み屋を 出てゆくあんたに
虚しい気持ちが わかるなら
汚れた手のひら 返してみたって 仕方ないことさ
あせって走ることはないよ 待ち疲れて みることさ
ため息ついても 聞こえはしないよ それが唄なんだ


2005/2/18

 またしてもホリエモンの話題です。このいつも薄ら笑いを浮かべている男、特に好きでも嫌いでもありませんが、メディアへの露出がやたら多い上、連日のトレンディレストラン通いと有名人との交流を自慢する彼のBlogを読むと判るとおり、あまりにも絵に描いたような「俗物」であることなどが、逆になんとなく興味を惹くのかもしれません。
 そのライブドア株が下落を続けています。また、ここへ来て、「リーマン社、ライブドア株売却」というニュースも入ってきました。
 ただ、「強引な手法に対する批判が政財界要人から相次ぐ」という報道に対しては、反発も覚えます。別に商法に違反しているわけではないし、政治家が「日本の教育の成果」云々などと妙なモラルを持ち出してコメントするような問題ではありません。  いずれにしても、今回ばかりはライブドアという「IT商社」の本質、そして「ITを知らない人間」ホリエモンの胡散臭さを、一般国民や市場が十分に嗅ぎ分けているのでしょう。
 株価の下落とリーマン社による株売却がライブドアにどのような影響を与えるか、ニッポン放送株取得の行く末がどうなるのか、現時点ではまだ予測ができません。それにどうなろうと知ったことではありません。
 しかしホリエモンが、ITを知らない人間ではあっても、企業経営者として見れば「機を見るに敏」であることは間違いありません。「共同歩調に疑いなし ライブドア堀江と村上ファンド」というこちらの記事を読むと面白いと思います。この記事はライブドアの行動には合理性があると書かれていますが、その根拠は、現在の既存メディアの経営の非合理性です。確かに許認可制度や規制、政界との密接な関係に守られた既存のTV局やラジオ局、そして大手新聞社、大手通信社など、それはそれで胡散臭い存在です。大手新聞社は全て政府から払い下げられた土地に本社ビルを建てているし、妙な「権威」を振り回している記者や社員が多いことは事実です。直接関連のない話ですが、今回のライブドアによる買収騒動で、「買収怖い…文化放送が上場延期も」と報道されているラジオ局・文化放送が、もともとは「宗教団体」であった…というのはよく知られていますが、面白い話です。現在でも、文化放送の最大株主は「聖パウロ修道会」ですね。
 こうした既存メディアの「不合理な経営」の一面は、確かにバカバカしいほどの給与の高さに見ることができます。前述の記事の中で、「ニッポン放送は年功序列型賃金・終身雇用なので、ろくに働かない中高年の高給取りが沢山いる。彼らをリストラすれば簡単に利益が出る。他にもネットとのシナジーは見込めるし、規制に守られた無能経営陣がやらなかったことをやるだけで利益は生まれる」と書かれていますが、TV局や大手新聞社の給与は、驚くほど高い。私の友人もTV局(在京のキー局)に勤務していますが、制作部門ではない一般管理部門であるにも関わらず、その給与たるやたいへん高額です。マスコミ各社は全般的に給料はよいのですが、その中でもTV局は大手新聞社などと並んで非常に人件費が高いでしょうね。あの国営放送「NHK」も例外ではありません。そして渦中のフジサンケイグループの中核である産経新聞社も、こちらの記事に書かれているように「管理はルーズで自由度は高い」そうです。
 ホリエモンvs既存メディア、この喧嘩の先行きは、どちらが勝っても面白いことになりそうです。既得権の上に胡坐をかく既存メディアが叩き潰されるも面白いし、俗物ホリエモンが尻尾を巻くのも面白い。まあ、俗物振りではナベツネに代表される既存メディアの経営者の方も負けていません。

 話は変わって、今回の日記で引用した「MyNewsJapan」というサイト、私はけっこう読んでます。中でも「ココで働け取材班」の記事は、企業の内情がよくわかって非常に面白いのですが、その中の「NTTドコモ」を読んでいたら、終わりの方に次のような記事がありました。
「…日経新聞(2003/10/20夕刊)にいたっては、『元リクルートの松永真理さんを起用し、iモード事業を成功させたNTTドコモ。関連事業担当者は{女性特有の発想は新たなビジネスを生み、経営の多角化につながる}と期待する』というおまけ解説付きであった。この記者には『ためタン』が有望なビジネスに見えるようだ…」
 この日経の記事、「女ing」としてWebに掲載されています。これを読むと、あまりにも陳腐な日経の視点、そしてドコモの腐った経営感覚が浮き彫りにされます。
 まず第一に、今どきこの手の女性経営者を持ち上げる感覚が古い。まあ、松永真里は「iモード事件」を書いて有名になりましたが、あの内容は事実とはかなりかけ離れています。以前も書きましたが、iモードは開発時点ではイントラネットを含む業務用端末としての普及を想定していたものであり、松永真里も含めて当時のドコモは現在のような「iモードカルチャー」の普及を全く想定できていませんでした。その松永真里を持ち上げたドコモや日経が、いまだにこの程度の感覚を持っているのは、不思議じゃありませんけど。そして、こんなクソのような業務内容(食べ歩きが好きな女性社員たちと本社周辺のランチ情報を社内報でまとめたのがきっかけ。今はまだ、契約した企業の社内ネット向けに、周辺のレストランや病院、郵便局などの地域情報を流す程度だが、将来は出張先の宿泊・飲食店情報まで手がけ、情報網を全国に広げる)の企業を「ベンチャー」だと思っている、ドコモも日経もおかしい。
 ドコモ・ためタン株式会社というのはドコモが導入した社内ベンチャー制度の第1号として設立された企業です。同社のサイトを見ると、その業務内容は「株式会社ドコモ・ためタンでは、企業の従業員を対象に会社生活の満足度向上を促すため、企業周辺のエリア情報の提供ならびに従業員向け特別販売を行うポー タルサイトの運営や、業務効率を高める情報サービスの提供を行うことにより、賢く豊かな会社生活を支援しております。(1)企業毎、エリア毎にセグメントされた周辺情報の提供、従業員向け特別 売など、会社生活の満足度を向上させるコンテンツの企画・運営(2)出張手配情報の提供等、企業従業員の業務効率を高める情報サービスの提供(3)企業のイントラネットコンテンツの企画・製作請負」…とあります。
 こんなもの、ベンチャーでも何でもありません。まず、ドコモの社員を商売のターゲットとしようという発想がつまらない。加えて、コンテンツビジネスの内容たるや「周辺のレストランや病院、郵便局などの地域情報」なんだから、シロートのホームページと同じです。これが「ITベンチャー」だとしたら、バカバカしくてやってられません。
 それにしても、ライブドアもそうですが、数日前に書いたように、現在著名な「ITベンチャー」の大半が、「ホームページ作成」からスタートしています。いまだに「起業」というと「ホームページ作成」はもっとも事例が多い。受託業務としてやるケースと、コンテンツの斬新さを売り物にするケースとがありますが、いずれにしても「Webサイトで情報発信」程度のビジネスが、あまりも高い社会的価値・経済的価値を認められているのは、実にヘンな世の中です。

2005/2/15

 昨日も触れた話題ですが、ホリエモンのライブドアのニッポン放送株取得問題が、混迷の度を深めつつあります。
 マスコミはホリエモンの意図…なるものを探ろうと、あれこれ憶測を巡らせていますが、私は「たいした意図など無い」と思っています。単に「うまくフジテレビを支配できればメディアを支配することで自分を大物に(大物っぽく)見せられる、うまく行かなければ株を買い戻させて金が儲かればいい、それがダメでも宣伝費分は回収できる」…程度の話だろうと思います。ともかく、この男の発言は面白くもなんともありません。独創性を感じません。今回の株式買収に関するホリエモンも発言をTVニュースで聞いたり関連する新聞記事を眼にするたびに、「この男はインターネットを知らない、ネット技術に本質的に興味が無いのでは…」と、思ってしまうのです。
 「多メディアに野望抱く 堀江ライブドア社長」…なんて記事を読んで、コイツは「ネットの本質」についての哲学を持っていない…と強く感じます。「既存メディアを支配する」なんてことを夢想するのは、本質的に「インターネットに夢と可能性を見ようとする人間」のセリフではありません。インターネットの本質は、それ自体の力で既存メディアと相対するものであり、既存メディアと半端な形で「融合」させても、面白くも何ともありません。典型的な例が、TV番組と連携するWebサイトなどを使った「双方向放送」なるシロモノで、こんな無意味で面白くないものが普及するわけがありません。
 ライブドアが最初に株を取得した時の「ITと放送の融合目指す」…という記事を読むと、ホリエモンはこんなことを言っています。
 「…同社は、ラジオのリスナーと、インターネットユーザーは相関関係が高いとみて、ニッポン放送のサイトをポータルにすることにより、物販など電子商取引、金融といった事業に活用していくことを目指している。堀江社長は『ラジオ局のサイトは、ほぼ放送している番組の情報しか掲載していない。これは機会損失といえる。インターネットでいうリーチ(一定期間内に、ひとつのWebサイトが、どれほど閲覧されたかを示す指標、ネットユーザー全体に占める割合であらわす)でいえば、テレビなら7-8割ではないか、たとえば、都内で1カ月フジテレビを1度も視ない層がどれだけいるか。ラジオもリーチは2-3割くらいある だろう』と指摘、多様な情報やサービスを追加すれば、テレビも含め放送局のサイトは幅広い活用ができ、新たな収益を創出できるとの考えだ…」
 「…DVDレコーダーの中身はパソコンと同様であり、そのテクノロジーはインターネットが育んできた。パソコンでも、テレビ全局の1週間分の番組を録画でき るような機種がある。これは、テレビの根幹を揺るがすような事態だ。いまはまだ価格が高いが、安くなれば、みんな買うだろう。そうなれば、テレビの現状のビジネスモデルの前提は崩れる…」
 「…テレビは現在ナンバーワンのメディアであり、広告収入が多く入ってくるが、この先、広告が減ることになれば、新しい収益源が必要になる。映画、さまざま な権利ビジネス、キャラクター商品などがあるが、インターネットを利用すれば、ユーザーと直接やり取りできるようになり、電子商取引などに活用できる…」

 どの意見も実に陳腐であり、結局のところ、これは「放送とインターネットの融合」なんて話ではなく、「複数のメディアを相互利用して電子商取引の機会を増やしたい」…という話に過ぎません。

 インターネット技術に夢を見ることが出来る人間は、インターネット技術によって既存メディアをぶち壊すことを考えるのではないか…と思います。既存のTV放送やラジオ放送、そしてマスコミは、メディア企業が同時にコンテンツをも作っていました。インターネットというメディアの最大の特長は、既存メディアでは実現不可能であった「メディアとコンテンツが別々に存在しうる」点であり、それゆえに大きな可能性を秘めているように思います。

 例えば既存のラジオ放送局を支配下に収めるのならば、ラジオ局のWebサイトを利用するなんてことを考えるのではなく、他にいくらでも面白いことができるはずです。例えば、「Blogが出版ジャーナリズムにもたらしたのと同じことを、ラジオビジネスにもたらす可能性を持っている」と評価されている「ポッドキャスティング」あたりを利用した新ビジネスなど考えて欲しいものです。これは既存のラジオ放送など一瞬のうちに瓦解させるる可能性を持っています。こうした技術こそが「ネット屋の発想」だと思います。さらに衛星ラジオ放送もスタートしています。またデジタルラジオ技術「HD Radio」なんてものも実用化段階に入っています。  高度なインターネット技術を持つ企業ならば、ラジオ局を買収して電子商取引なんてつまらないものでビジネスモデルを確立するのではなく、もっと本質的な「ラジオ放送の変革」を試みて欲しいものです。
 そしてTV放送の世界へと眼を移せば、デジタル化、インターネット技術との融合は、着々と進んでいます。まずは、地デジの1セグ放送やモバイル放送を商用化する動きが急速に進んでいます。スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(スカパー!)の子会社であるオプティキャストは、光ファイバー網を利用した映像配信事業「ピカパー」をスタート、サービス提供が可能になる世帯数を2006年度中に1350万世帯へ拡大していくことを表明しました。アットネットホームの自主制作番組送受信伝送システム「DV伝送ベースシステム」は、IPマルチキャストに対応し、複数の局で同時に映像受信が可能です。
 そして、「インターネット放送の未来は、放送の未来だ」と、リアルネットワークス社のロブ・グレイザーCEOは宣言しています。全米放送協会(NAB)は毎年「ハリウェブ(HollyWeb)99」(ハリウッドとウェブをかけたもの)を開催し、ここには世界中のテレビ局関係者が集まるようになりました。米Verizon Communicationsは、Microsoftのソフトウェア「Microsoft TV」を利用して光ファイバー経由のテレビ放送サービスを行うことを明らかにしました。こんな時代に「DVDレコーダーによって既存TV局のビジネスモデルが崩れる」だの「TV局には、映画、さまざまな権利ビジネス、キャラクター商品などがあるが、インターネットを利用すれば、ユーザーと直接やり取りできるようになり、電子商取引などに活用できる」…なんてピントがずれたことを言っているホリエモンは、IT技術とは無縁の人間のようです。

 そしてTV放送とインターネット技術を考える時、ちょっと古い記事ですが、池田信夫のドット・コミュニズムの中の「第21回 戦艦大和の最期」というエッセイを思い浮かべます。
 このエッセイの中で、池田信夫は次のような面白い話を書いています。ちょっと長いですが引用してみます。
 「…802.11aは、デジタル放送と同じOFDM(直交波周波数分割多重)方式だが、テレビの中継局が1基1億円もするのに対して、802.11aの基地局は5万円である。もちろん一定の帯域を保証するものではないが、今後5GHz帯は日本でも数百MHz使えるようになるので、一方向で送出するマルチキャスト方式なら数百チャンネルの『デジタル放送』も可能である。電波の届く距離は数十メートルと短いが、その代わり同じ周波数をくり返し使えるので、基地局を増やせば帯域はいくらでも増やせる。全国をカバーするのに30万台の基地局が必要だとしても、アナアナ変換の費用の1割で十分だ。さらに既存の無線局の電波を検知して周波数を自動的に変更し、電波の『すきま』をオーバーレイ(多重)利用する技術の開発も進んでいる。これは一部の802.11a機器には搭載されて欧州では認可され、FCCもこの秋に技術基準を出す予定だ。オーバーレイが実用化すれば、実効的には90%以上空いている電波を有効利用でき、ブロードバンド・アクセスの主力は、光ファイバーではなく無線になるだろう。そのときには電波はもはや利権でもなければ稀少資源でもなく、空気のように誰でも無制限に使えるようになるかもしれない。テレビ局の経営者が既得権益だと信じている電波の価値は、急速にゼロに近づいている…」
 インターネット技術を使えば、既存のTV放送メディアを、こんな形でひっくり返すことも可能です。現在なら、802.11aよりも広帯域でスループットで100Mbpsを実現する 802.11nもあります。これまた直交波周波数分割多重(OFDM)、前方誤り訂正(FEC)符号化、インターリービング、直交振幅変調(QAM)マッピングなどの既存テクノロジを再利用しているので、放送メディアとしては使いやすいものとなるはずです。

 そういえば、既存の携帯電話事業への参入を目指して800MHz帯を新規事業者にも寄越せ…と主張し続けたソフトバンクの孫正義もホリエモンと同じです。ここには、「新しいビジネスの仕組みを作り出そう」という意気込みや理念が全く感じられません。儲かる既存ビジネスに参入させろ…と言っているだけです。
 こうした「IT長者」や「IT商社」が持て囃される日本では、革新的なメディア技術なんか当面生まれないような気がします。

2005/2/14

 「蒼い言葉の絆」世話人、「殿下」こと安田隆之氏のBlogを読んでいると、その主張の是非は別にして、なんとも不思議な気分になります(いや、こう見えても私、けっこう継続的に読んでるんです)。
 拉致問題の事実と発覚後の経緯を見ている限り、北朝鮮が「まともな国家ではない」ことは十分に理解できます。「北朝鮮とも仲良くしよう」と書く知識人や一部マスコミのことを「サヨク」呼ばわりするのも、一つの意見としてはいいでしょう。確かに旧社会党あたりにはおかしな代議士がたくさんいたし、一部のイカれた年寄りサヨク知識人が未だに「社会主義国家」を賛美していることも確かです。でも、このBlogの各所で見られる「口を極めて北朝鮮や中国を罵るような文脈」を読んでいると、私は時々「我々は他国の悪口を言えるほど立派な国に住んでいるのか」…という気持ちになります。これは、日本だって大陸を侵略しただろうとか、日本だって強制連行を行ったり従軍慰安婦を組織したりしたじゃないか…なんて話でもって反論したいのではありません。そんな議論をここでする気はありません。私は、過去の話ではなく、現在の日本という国を見ていて、とうてい「まともな国家」だとは思えないのです。  まあ、今さらこんな話を書いてもしょうがないんですけど…
 日本の財政赤字については700兆円、日本の国・地方の債務残高の対GDB比は150%…なんて数字が言われていますが、これは実態からはかなりかけ離れた数字です。詳しい話は省略しますが「隠れ借金」をきちんと計算すると既に1000兆円の大台を突破していることは確実。対GDP比も200%に限りなく近いのが実態のようです。先進国の借金は、イタリアのように多いところでも対GDP比100%以下、日本はまさに世界史上類をみない借金国家です。おまけに、年金の積立金147兆円と郵貯・簡保350兆円の合計約500兆円に上る「庶民の財産」のうち、70%の約350兆円が財政投融資として特殊法人につぎ込まれ、そのうち50%以上が不良債権となって焦げついている…となると、ほとんど絶望的にメチャクチャな国です。政府の税調による税制改革案が話題になっていますが、はっきり言って現実から逃避しているようなバカバカしい改革案ばかりを俎上に議論をしています。現在の国の借金をまともに返していこうというのなら、直接税を50%近くまで、間接税も30%前後にまで引き上げなければ返済は不可能で、これでは国家は成り立ちません。まあ、要するに日本という国は「破綻に向かってまっしぐらに進んでいる」のではなく「とっくの昔に破綻している」と言った方が適切であり、10年後にこの国がどうなっているかなんて、いまや誰にもわかりません。
 こうした日本経済の現実については、いまさら「なぜこんなことになった」と過去を反省しても遅いですし、「これからこうすればまともな国になる」という処方箋もない状況です。別に政治家だけが悪かったわけじゃないし、まあ強いて言えば国民全てがバカだったんでしょう。地元に公共事業を持ってくる政治家に期待していまだにせっせと投票し続ける選挙民は多いし、大阪市の例を挙げるまでもなく、公務員や官僚は税金を食い物にすることしか考えちゃいない。多くの学生は勉強を放棄しているし、親の脛を齧ることしか考えていない若者も多い。要するに国民の多くが、まじめに考え、学び、働くことをやめてしまった国家の成れの果て…こそが現在の日本の姿です。
 いや、この日本の財政破綻の話と、北朝鮮問題と何の関係があるのか…と言われると、確かに直接は関係などないかもしれません。しかし私は、現在の日本の財政破綻の現実と国民挙げてのモラルの低下は、「民度の低さ」という言葉で表すのにふさわしい状況ではないかと思うのです。
 ホント、私達の子供の世代が気の毒です。第二次大戦後営々と築き上げてきた経済的繁栄をほんの15年ほどで、全てぶち壊してしまった日本の大人たち。その落とし前をつけなきゃならんのは、彼らですから。

 ホリエモンのライブドアがニッポン放送株を30%以上も取得したことから、ニュースやワイドショーでは、またまたライブドアの話題が盛り上がっています。「IT技術と放送の融合」なんhて、堀江が言うと、実に胡散臭い話に聴こえます。それにしても、ライブドアや楽天、ソフトバンクなど企業を「ITベンチャー」と呼ぶのは、いい加減にやめてもらいたいですね。私は、これらの会社のどこが「IT企業」なのか、実のところよくわからないのです。IT(Information Technology)を辞書で引くと、「コンピュータやデータ通信に関する技術を総称的に表す語」とあります。しかし、ライブドアや楽天、ソフトバンクは、本質的に「IT技術」を持つ企業ではありません。
 例えばアメリカには、グーグル、オラクル、シスコ・システムズ、マイクロソフト、アップル、ヒューレットパッカード、デル、ヤフー、アマゾンなど数々の錚々たる「ITベンチャー」が存在します。しかし彼らには、グーグルの検索技術、オラクルのデータベース技術、シスコのネットワーク技術、インテル、AMD、トランスメタ等の半導体技術、MicrosoftのOS技術…などは、明らかに産業史上に輝く革新的な技術であり、いずれの会社もこうした技術をもとに「実業」としての事業を営む企業です。しかも、アメリカのITベンチャーには製造業が多い(デルやamazonなどの例外もありますが…)のも特徴です。
 ソフトバンクやライブドア、楽天など日本の「IT企業」の多くは、独創的な技術を基盤に持つアメリカのIT企業とは異なり、むろん製造業でもありません。言ってみれば「IT企業のインキュベーター」…であり、お金を調達してはIT関連企業を買収・提携したり適当な子会社を設立したりする、「持株会社」か「商社」に過ぎません。そしてその多くが「BtoCビジネス」を手掛けており、技術企業とは言えないものばかりです。光、無線通信、半導体、ソフトウェアなど技術分野のベンチャー企業は、高度な専門知識を持つ経営陣と優秀な技術者がいなければ設立・運営はできません。しかしBtoCビジネスは、ビジネス経験などほとんどなく技術的な背景を持たない人間でも、「ビジネスモデル」だけで会社を興すことが可能です。アメリカで既に成功したアイデアを借りただけであったり、お手軽なネットサービスであったりしても、これらを「うまくやる」ことで成功することが可能なビジネス形態です。
 以前も書いたことですが、例えばライブドアなんて会社はオン・ザ・エッジ時代から、何か他社に先駆けた「新しいこと」をやっていたことなんて一度もない。ホームページ作成会社から始まり、かつてソフトバンクと並ぶITベンチャーとして騒がれたインチキ携帯電話販売会社「光通信」の傘下(微妙な話ですが)だった時代から、オリジナリティなどない「二番煎じビジネス」だけを手掛けてきました。オン・ザ・エッジもそうですけど、日本のITベンチャーって素性を辿ると、ホームページ作成とサーバーハウジングの2つの事業をルーツにしているところが多い。どちらも特別な技術が不要で目端の利く人間が簡単に立ち上げられるビジネスです。楽天だって似たようなもの。設立当時既に国内でも二番煎じ三番煎じだった「オンライン・ショッピングモール」をうまくやった…ただそれだけです。
 むろん二番煎じであろうと三番煎じであろうと、それを大きな企業として育て上げる手腕には十分に敬意を表するべきでしょうが、確固たる技術基盤を持つアメリカのIT企業とは質的に異なる企業群であることは確かです。まあ「IT商社」とでも呼ぶのが、いいところでしょう。
 ともかく、この日米の「IT企業」の実態の差が、日本の「国力の無さ」を如実に表していることは確かです。そして、こうした「IT商社」群を「IT企業」「ITベンチャー」と平然と呼ぶ日本のマスコミや知識人の皆さんは、ITのなんたるかを少し勉強した方がよいかもしれません。

2005/2/10

 昨日はまた日帰り出張で神戸・京都へ。最近京都への出張が多いのですが、知人の京都好きの女性からは「仕事で京都へ行けていいなぁ」なんて言われます。でも、基本的には京都駅と取引先企業とを往復するだけなので、観光する時間も美味しいものを食べる時間もありません。それに私、京都という街は、どうも好きになれません。例え時間があっても京都を観光したいとはあまり思いません。若い頃に半年ほど京都に住んだことがありますが、別に好きにはなりませんでした。
 まずもって私は、寺社仏閣に基本的に興味がない。仏像なんかを見る趣味もない。むろん京都という街が持つ歴史、そして寺社仏閣を巡る「歴史」に対する興味がないわけではないですが、さほどの思い入れはありません。
 そして何よりも、京都は「街の雰囲気」が実に侘しい。まずは、侘しくて安っぽい観光地だらけ。清水寺でも銀閣でも大原でも嵐山でも鞍馬でも、その周囲に安っぽい土産物屋と高くて不味い食堂が立ち並んでいるのが哀れ。京都のイメージって、本当に安っぽい。観光地だけでなく、繁華街も侘しい。新京極周辺なんて最悪。寂れた地方都市の風情です。そういえば、まともな百貨店もない。例えば、四条川原町にある阪急百貨店なんて、いつ行っても人がいないし、売り物の品揃えも少なくて寂しい感じ。本当、京都の商店街ってどこも活気がないですね。
 普通の街並にも侘しさが漂っています。祇園だの八坂あたりだの、まあ昔からの町屋が並んでいるところや観光地化しているところはまだいいですけど、例えば川原町通りやら堀川通り、そして七条通りや五条通りなど、市内の主要な幹線道路沿いの街並ってすごく寂しいですよね。寂れた商店と空き部屋が目立つビル、そして空き地が多くて、歩道を歩いている人も少なく、これが本当に政令指定都市なのか疑いたくなるような寂れっぷりです。
 オムロンや村田製作所、京セラ、日本電産、ローム、ニチコン(日本コンデンサ工業)などそれなりに名門企業はありますが、人口規模からすれば経済活動は沈滞していると言ってもよく、産業部門にはあまり活気がありません。しょせんは「観光の街」であり、大阪のベッドタウンです。
 美味しいものが多い…というのはほとんどウソ。確かに高くて美味しいものはありますが、安くて美味しいものは少ない。基本的には東京の方が食事でももお菓子でも美味しいものははるかに多い。わざわざ京都で食べたいものなんてほとんどありません。京都まで行かなくても東京で味わえるレベルの店が大半です。
 昔京都に住んでた時、「ヨソさん」に冷たい京都…というのは思い知りましたが、最近では逆にそうしたヨソモノに対する冷たさをあまり感じなくなりました。結局、京都という街に幻想を抱いてやってくる「ヨソさん」が落としてくれるお金で食べてる街ですから、気取っていてもしょうがないことがわかってきたんでしょう。

 …ああ、別に京都という街の悪口を書きたかったわけじゃありません。ただ、あの侘しくて安っぽい街並、なんとかならんものでしょうかねぇ。行政にも責任あるように思いますけど…


高瀬川

六波羅蜜寺


2005/2/8

よい写真とは? …その6


 私はこのサイト内で、デジカメの画質判断を論じる当たって、よく「人間の眼の機能」という言葉を使います。デジカメにしろ銀塩カメラにしろ、撮影した画質の是非、色再現性などを判断するのは、人間の眼です。チャートなんてものによる画質の機械的数値化は、一定の判断の目安にはなるにせよ、所詮は実際に見る人間の眼でどう見えるか…の方が本質的に重要であることは言うまでもありません。でも、人間の眼には個人差がありますし、デジカメで撮影される画像なんてものは、ある意味で人間の眼(脳)が認識対象としている現実の光景(視覚情報)とは似ても似つかないものです。あまり、真剣に画質を論じること自体が、ある種バカバカしい部分すらあります。
 「デジカメで撮影される画像なんてものは、ある意味で人間の眼(脳)が認識対象としている現実の光景(視覚情報)とは似ても似つかないもの」という話は、「アナログ量のデジタル化」によって生じる、無理・矛盾を指します。いうまでもなく「画像情報」は、自然界ではアナログ量として存在します。そのアナログデータであるところの「画像」は、「デジタル化」された時点でしょせんは「別物」であり「虚構」…と言い切っても過言ではありません。

 さて、まずは音楽の話からです。画像・映像よりも一足先に(1980年のコンパクトディスクの実用化以降)徹底したデジタル化への道を進んできた音楽の世界でも、デジカメの世界で起きているのと同じような話、すなわち「アナログかデジタルか」「デジタル化による音質劣化」の問題が根強く話題になり続けています。そしてこの問題は、昨今のMP3フォーマットの急激な普及によって再燃しつつあります。オーディオマニアの多くは、「MP3の音はオーディオレベルとは程遠い音質」と非難しているわけです。
 MP3は、ご存知の通り「MPEG1 Audio Layer V」のこと。元の音楽データをいわゆる「IDCT(逆コサイン変換)」なる方法で圧縮し、さらに冗長情報をカットしている…というもので、「人間の耳で聞き取れない部分をカットし、その空いた間隙にデータを押込んで…」いるわけです。CDやDATもデジタル化した音ですが、「冗長情報をカットする」ところまでは行われていません。とりあえずは、アナログ量として存在する音楽データを「標本化」、「量子化」することで、基本的には元データを丸ごとデジタル化しています。MP3のように、余分なデータが間引かれている…わけではありません。
 とはいえMP3では、「人間の耳で聞き取れない部分をカット」しているのですから、原理的に聴感上の音質低下はないはず。しかし「本来存在する音をカットしている」となると、「人間には可聴範囲外の音も認識する能力がある」とする人々は、納得しません。それ以上に「本来含まれているはずの成分がカットされている」というだけで、「インチキ」のように感じ、許し難いことになるのでしょう。
 MP3フォーマットで圧縮された音楽が「ホンモノかニセモノか」という話は別にしても、実際に自分で聴いて比較してみると、160bitでエンコードしたMP3でも、CDをそのまま試聴した音と比較すると明らかに「音の広がり」に差は出ます。もともとデジタルで制作した打ち込み系の音などはMP3で聴いても特別な違和感がありませんが、アナログの特徴が出やすい女性ボーカルやバイオリンの音などは、明確な差が出るようです。でも、だからといって私はMP3で音楽を鑑賞することをやめるつもりは全くありません。当たり前ですが、音楽にも「用途・目的」があり、それに合致した許容範囲にある限り、音質問題は二の次です。だって、電車の中でヘッドホンで聴くために、SACDのような高音質フォーマットはどう考えても不要ですから。

 デジタル画像キャプチャーツールであるところのデジカメの画質を語るとなると、この音楽と同じく、「記録フォーマット」の問題にも触れざるを得ません。
 デジカメの標準記録フォーマットとして広く採用されている「JPEG」も、またインチキですね。離散コサイン変換(DCT)を採用しているJPEGもやはり、冗長情報をカットすることで圧縮率を上げています(こちらを参照)。上下左右の色と明るさ変化を圧縮、その際人間の目の特性を利用(人間の目をだます)して画質の劣化を認識させないようなアルゴリズムが使われています。特に、色データについては結果的に間引かれることが多くなります。JPEG画像ファイル化は不可逆、MP3は一応可逆という違いはありますが、「データの欠損」という面でみれば、JPEG画像はMP3音楽と同様の「欠陥品」であり、デジカメ画像の画質にうるさい人ならば、本来こうした欠陥画像を許容する方がおかしいのです。
 デジカメの画質については、ともかくあらゆる立場の人がいろいろな主張をしていますが、JPEG画像の話になると、ブロックノイズの問題などはよく話題になるものの、「本質的に情報が間引かれている」「データに欠損がある」という点については、不思議とあまり大きな話題にはなりません。RAWやTIFFの方が優れているのは言うまでもありませんが、雑誌やサイトにおけるデジカメの画質比較記事の大半は、JPEG画像の比較に終始しています。特にコンパクトデジカメなんかの場合、TIFFモードを持っていても、それで画質云々を論考する例は、あまりみかけません。JPEG2000も、ライセンス問題はありますが、思ったほど普及しません。所詮大半のユーザは、欠陥データであるところのJPEGを平然と受け入れています。

 ※ …この話はさらに続きます。

2005/2/4

 一昨日の日記で「中学受験生がんばれ」などと書きましたが、今朝もまた通勤途中に、塾のバッグを背負って中学受験に向かう小学生の一団を見かけました。
 私は、中学受験に限らず、高校・大学受験も含めて、若者の受験勉強を徹底的に肯定する人間です。受験勉強自体が人生に必要な教養を身に付けるために有意義だと、これまでにも何度も書いてきました。そして受験勉強の必要性を肯定するだけでなく、実は一所懸命受験勉強をしている若者の姿はけっこう好きです。だからこの季節、街中で数多くの受験生を見かけると、なんとなく微笑ましい気持ちになります。
 むろん、「受験をしない人生」を否定するものではないし、ましてや「学歴社会」を是としているわけではありません。受験なんてもの以外にも人生には大事なことがたくさんあります。それを十分にわかった上で、なおかつ正当な競争に則って学力を競う「受験」という壁に挑む子供や若者を、なんとなく応援したくなるのです。
 ところが、「若い時期に何かに夢中になる」ことを高く評価する…という一般論において、その夢中になるべき「何か」とは、たいていの場合「スポーツ」であったり、「音楽」であったり、最近では「ボランティア」であったりするわけです。むろん、「受験勉強」が入らないわけではないのですが、不思議なことに「受験勉強」だけは「夢中になるべき対象」としては一段低く見られがちです。例えば、高校球児が「野球に青春をかける姿」は、誰からも好印象で迎えられます。しかし、大学入試を目指して勉強している高校生などは、ある種「当たり前」と思われたり、例えその努力を感心されても、「甲子園を目指している球児」ほどには、他者に感銘を与えません。だから世間一般においては、「受験生がんばれ」という声はあるにはあっても、自分の子供のことでもない限り、さほど真剣な声にはなりません。
 妙な話ですが、「偏差値が高く勉強ばかりしている学生は心が貧しい」「勉強ばかりしていると心が病んでくる」…的な、何の根拠もないバカバカしい思い込みは、依然として広く浸透しています。加えて、「偏差値教育の弊害」だの「受験戦争が生みだす子供の心の歪み」だの…といった意見は、これまた根強く人口に膾炙しています。まあ、そこらへんの話の是非について今回話題にするつもりはありませんが、こうした風潮の中で、特に風当たりが強いのが、冒頭からの話題である「中学受験」です。
 高校受験、大学受験あたりは素直に認め、応援する人でも、中学受験に対しては「子供がかわいそう」とか「そんな小さい子供に受験勉強をやらせる必要はない」と明確に否定する人が多かったりします。実は私も以前はそうでした。私の世代で中学受験なんてほとんどなかったし、ましてや地方都市だったので、近所の中学へ進学するのが当たり前の時代でした。そんな私にとって、中学受験なんてものはバカバカしいことでもあり、まったくピンとこなかったわけです。
 しかし、自分の子供や周囲の友人・知人の子弟の多くの中学受験の実状を見、その渦中で勉強する子供の実状を見るにつけ、中学受験に対する偏見のようなものは次第に払拭されていきました。
 まず、世間一般で言われるような「子供らしい日常生活や遊びを含めて何もかもを犠牲にしての受験勉強」…なんてものをやらせた家庭が、私の周囲には全くなかったこと。実際に子供たちも、いくつかの悩みを持ちながらも明るく楽しく勉強を続けていたこと。受験に成功した子供も失敗した子供も、その後も伸びやかに人生を歩んでいること…など、世間で言われるような「中学受験の弊害」なんてものは、幸いなことに一度も見ることはありませんでした。むろんこれは私の周囲の狭い世界だけのことかもしれませんが、それでも過去10年間で数十例以上の中学受験をする家庭を見てきたし、それはけっして少ない実例ではないと思います。
 いずれにしても私は、一般論としての「中学受験の是非」を問題にしたいのではありません。そんなものは家庭の事情の差、子供の意識や資質の差、環境の差などによって、個々に事情が変わるものだと思っています。要するに、「中学受験の是非」なんてどっちでもいい話なんです。
 そんなことよりも、目的の中学を目指して一所懸命勉強し、小さな胸いっぱいに不安と希望を抱いて受験の日を迎える12歳の子供たちが、難解な試験に立ち向かう姿を、とても凛々しく感じるのです。たとえ失敗しても、人生の一時期に懸命に勉強したことが無駄になろうはずはありません。誰もが「勉強」しなくなりつつある昨今、勉強をする子供や若者に対しては、もっと素直に褒めてやりたいものです。

2005/2/2

 日曜日の午前中、既に体調に異変を感じていました。ちょっと寒気がしたのです。その後休日出勤でオフィスに出ましたが、夕方には明らかに発熱していました。家に戻って夜、体温を測ったら、この時点で38.5度。風邪薬を飲んで急いで寝ましたが、翌朝に体温は39度を超えていました。これはインフルエンザに罹った可能性が高い…と判断し、寒気を堪えてすぐに近所の病院へ。最近は、鼻水を綿棒の先で採り、検査キットを使うと10分ちょっとでインフルエンザかどうか判定できるとのこと。案の定、インフルエンザに感染していました。ただ、インフルエンザと判れば、それが発症後48時間以内であれば、特効薬があるとのこと。その特効薬の1つがタミフルで、早速処方してくれました。このタミフル、ウイルスが新たに増殖するのを阻害する薬剤であって、既に増殖したウイルスを殺す効果があるわけではない…とのことですが、私の場合には効果があったようです。
 鎮痛・解熱剤(ポンタール)も処方され、その日の夜には38度台に体温は落ち、これならなんとか明日から仕事ができると思って、夜9時には眠りにつきました。しかし、さすがに1日で治るほどインフルエンザは甘くはありませんでした。翌火曜日の朝には体温が39.6度とぶり返し、もうたいへんなことに。さすがにこの体温になると、仕事どころか意識は朦朧で、ベッドから起き上がるのもつらい状態です。パソコンの画面など眺めようものなら、めまいがする始末。で、ひたすら水分を摂って薬を飲み、汗を流しながら昼過ぎまで眠り続けたら、夕方には38度台に下がり、夜には38度を切るところまで下がりました。ここで思い切って体力をつけようと、食欲などないのにポークの生姜焼きで食事をして、焼酎の水割りを1杯飲み、ついでに入浴もしました。で、夜10時に就寝。夜中に汗をかいて、何度も着替えました。そして今朝、やっと体温は37.5度まで下がっていました。午前中は様子を見ていましたが、これ以上熱が上がる気配もないので、とりあえずお昼頃オフィスに出てきました。いや体中の関節が痛いのなんのって、歩くのがつらかったです。日曜日の午後に発熱してからほぼ丸3日が経過し、なんとか仕事に復帰できたようです。まだ予断を許さない状況ではあるのでしょうけど、多忙な折、これ以上仕事の遅滞は許されません。

 それにしても、2日半の闘病生活(大げさな…笑)を経験して、いやインフルエンザをバカにしてはいけない…と、つくづく思った次第です。
 インフルエンザは、以前は伝染病予防法でマラリア、つつがむし病などと同じ届出伝染病に指定されていました、現在は「感染症予防新法」によって「四類感染症」としてエイズやウィルス性肝炎、狂犬病などと同じところに分類されています。何でも、人類の死因を調べると、世界的に見ればその1/3が「感染症」ということで、先進国の死因の上位に来るガンだの卒中なんて病気は、およそ人類の普遍的な死因ではないわけですね。時代は今、「感染症の時代」なのです。そして、人類がいまだ克服できていない幾多の感染症の中でも、インフルエンザの危険性はかなり上位に位置するようです。
 むろん世界中で2千万人以上が死亡したと言われる1918年に流行したスペイン風邪の例を出すまでもなく、インフルエンザが恐ろしい病気であることは、誰もがよく知っています。また、鳥インフルエンザの恐怖もまだ終わった話ではありません。しかし、そんなことよりも、この現在の日本でインフルエンザによる死者がいかに多いか…については、あまり多くの人が認識しているとは思えません。
 厚生労働省の統計によると、日本に限っても平成7年には1200人以上が、また、平成11年には 1400人近くがインフルエンザで死亡しています。この統計は、インフルエンザが原因で発祥した合併症によるものを含んでいないので、実際にはインフルエンザを原因とする死者数はこの数倍に達すると考えた方がよいのだそうです。実際アメリカでは毎年数百万人がインフルエンザにかかり、2万人近くが死亡している…とのことです。人口比で日本を見た場合、年間1万人近くがインフルエンザで死んでいても不思議ではないわけです。

 そんなわけで私は、39度以上の発熱が続いた2日間、「死線を彷徨った」わけです。なんともおおげさな話ではありますが、インフルエンザで死ぬ人がこれほど多いことを知ると、あまり笑う気にはなれません。発熱が39.6度を越えたあたりで意識が朦朧としている時、「あの世」でも垣間見ることができていたら、今頃ここで「臨死体験」でも書いていたかもしれません。

 ところで、今日2日ぶりにオフィスに出るために西武線に乗っていたら、椎名町の駅に白地に黒々と「がんばれ 中学受験生」とだけ書かれた、でかいポスターが貼ってありました。隅の方に小さく日能研のマークがありましたが、私はちょっと微笑ましくなりました。そういえば2月1日から4日まであたりが、中学受験の本番ですね。
 中学受験の是非、特に小学生に苛烈な受験教育を行うことの是非については様々な意見があることは承知しています。ただ、私がここ10年間ほどの間に出会った友人・知人の衣など幾多の中学受験生は、誰もが12歳という年齢の中でせいいっぱい自分の将来のことを考えている、心優しい少年少女たちでした。小学生に「東大・京大・早稲田・慶応」と有名大学を並べて唄わせるZ会のTVCMは実に不愉快ですが、「がんばれ 中学受験生」という言葉なら、私もぜひ声を掛けてやりたい気持ちと同じです。

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