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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/12/30

 ちょっと古いニュースですが、「首都大学東京」がベルリッツに英語授業を委託する…という話には、私も驚きました。
 いや、大手語学事業会社に授業を丸投げすることの是非を問題にしたいのではありません。英会話学習に関しては、ベルリッツのような経験と実績がある外国語会話教室運営企業の方が、下手な大学の授業よりも高度なノウハウを持っているでしょう。この問題に関して多くの識者が、「英会話会社が大学の授業を請負う」ことを問題視していますが、そなんなことはどうでもいい話です。
 むしろ問題にすべきは、旧都立大学、都立科学技術大学大学等を統合し、その教育理念に「高度な知的社会の構築」を謳うハイレベルな大学が、「英会話」の授業を行い、しかもそれを「売り物」にする…ということでしょう。
 以前から何度も書いているように、「英会話」なんて大学で教えることではありません。会話だけでなく「英語」も基礎的なレベルでは教える必要はないでしょう。「英文の参考書やネット上の英文資料が読める程度の基礎的な英語力」は、大学で学ぶためには必須であるはずだし、それを大学に入って教える…というのは、話が違います。それができる人間だけを大学に入学させるべきです。
 しかもこの首都大学東京では、「…実践的な英語を身に付けさせようと、TOEFLは500点以上を卒業条件に」…とあります。TOEFLの500点はTOEICなら600 点台ぐらい、英検なら2級〜準1級程度に該当しますよね。これって「大学卒業条件」にしてはあまりに低レベルな条件でしょう。TOEFL500点、TOEIC 600点ちょっとなら、ハイレベルの進学校か英語の得意な生徒なら、高校3年生で十分にクリアできるはずです。高校の教育目標ならともかく、本来が「高度な教養、または高度な専門教育」の場である大学の卒業条件にすべきレベルではありません。
 英会話を売り物にするなんてのは、基本的には「Fランク大学」あたりがやることだと思っていました。首都大学東京クラスの公立大学でこんなバカバカしい話が出てくるのは、文部省の「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」…のようなバカげた話も背景にありそうです。
 私は、若い世代の「英語力を高める」こと自体に反対なのではありません。また「日本文化を教える方が先だろう」という…昨今流行の右寄り文化人のようなスタンスで英会話教育に反対してるのでもありません。「大学とは何か」「大学で教えるべきことは何か」…を考えれば、英会話を教えることのバカバカしさを説明するのに多言は不要でしょう。
 「英会話」というのは語学学校的な教育をしても、本質的な「英語コミュニケーション力」が高まるわけではありません。いまさらあらためて主張するような話でもありませんが、「会話はコミュニケーション」であり、「日本語でコミュニケーションできない人間は英語でもコミュニケーションできない」…という、旧来からの主張こそ正論だと思っています。

 そんなことを考えていたら、面白い文章を見つけました。武蔵中高の英語教育が「英会話」を実施しない理由…というテキストです。ちょっと意図が読み取りにくいにくい文章ですが、この武蔵中高の英語教育に対する考え方は「卓見」だと思います。

 さて、今年の日記も今日で終わり。年の瀬に起きた津波によるアジアの大災害も含めて、今年は暗い年でした。今年いちばん印象に残っている言葉は、多くの人と同じように「自己批判」です。…あの日本中に溢れた「自己批判」の声は、本当に嫌だった…。
 そして来年は、今年よりもさらに暗い世界が訪れるような気がします。

2004/12/28

 それにしても今回のスマトラ島沖地震で発生した津波による、インド洋、アンダマン海沿岸諸国への被害は戦慄すべき状況です。この日記を書いている時点では2万3千人以上の死者が確認されていますが、他にも膨大な行方不明者の正確な数すらわからない状況もあり、またスマトラ島北部など未だ通信が途絶した地域も多いとなると、最終的な犠牲者の数は、予測すらできません。最新のニュースでは「インドネシアのカラ副大統領は同国内の死者が2万1000〜2万5000人に達するとの見通しを明らかにした。また、インド領のアンダマン、ニコバル諸島では少なくとも5つの村が津波に押し流され、計約3万人が行方不明になっているとの情報もある」とありますから、、最終的な犠牲者数が5万人を上回るどころか、10万人に近づく、あるいはそれを超えるような空恐ろしい数字となる可能性もあります。

 いずれにしても、スマトラ島沖地震による津波がこれほど大きな人的被害をもたらした最大の理由を考えると、その津波の規模もさることながら、今回津波に襲われた地方の「貧困」の問題に行き着いてしまいます。インドネシア、スリランカ、インドなど多大な被害を受けた国々は、いずれも「貧困との戦い」の最前線にある国です。朝日新聞の社説に「…いずれも台所は苦しく、インドネシアやスリランカは紛争まで抱えている。いつ来るか分からない地震に資金を投じるゆとりはない。建物の耐震基準どころか、対策と呼べるものすらない国もある」…という現実があります。貧困をなくすための経済政策が優先されるのは当然で、地震対策、津波対策に割く予算などない…というのが実情です。今回の被害国の中では多少経済的にゆとりがあるマレーシアやタイですら、国内に多くの貧困層を抱えています。
 例えば、海外からの援助によって「地震発生と同時に速やかに津波警報」を出すシステムを計画しようにも、電気がない、TVやラジオを持たない、または日常的に視聴しない家庭が多い貧しい地域では、津波警報の公知・連絡手段すらありません。耐震構造を持つ家や、津波に耐える建築物を普及させるなど、夢のまた夢です。
 例えば同じ朝日新聞の社説で「…一段落したなら『地震とは何か』『津波にどう対処するか』といった基本的なことを住民に知ってもらうため、途上国援助などを通じて手を差し伸べることはできないものか…」と書かれ、また産経新聞の社説でも「日本や米国などの環太平洋地域では津波情報を共有するシステムが確立している。これを世界的に拡大し、津波被害を最小限にすることだ」…と書かれていますが、現実にこうした政策を「援助」によって実現しようとすれば、「そんなものよりも日々の食料や仕事、そして医療施設などを援助して欲しい」…というの声が、地域の住民から挙がることは確実でしょう。
 まったくもって、欧米諸国や日本などの先進国が、「テロとの戦い」を名目にこの地域の国々の国家予算を上回るような膨大なお金を、イラクやアフガニスタンにおける「戦争」に注ぎ込んでいる中で、アジアの辺境地域の多数の住民が経済発展から取り残されている現実は、やるせなくなるような話です。

 それにしても、今回の被災地の中で最も心配される場所の1つは、震源地に近いインドネシア・スマトラ島北端のナングロアチェ州でしょう。「震源地に近いインドネシアのバンダアチェの町では、遺体の列が数百メートルにわたって続く」などの報道がなされていますが、通信が途絶えている集落も多いとのことで、詳細はわかりません。アチェ州だけで現時点で最大の犠牲者を出しているスリランカをはるかに上回る可能性も高いように思います。
 そして何よりも、この地域は1970年代から長い間続くアチェ独立闘争の中で、インドネシア政府が外国人ジャーナリストを徹底して排除してきた、非常に閉鎖的な地域です。それによって、余計に情報が伝わらない可能性もあります。朝日新聞の社説で「国内紛争を抱えている」と書かれていますが、今現在アチェで起こっていることは、「紛争」などという生易しいものではなく、住民に対してインドネシア軍が行っている組織的な「弾圧と虐殺」です。アチェの住民が置かれている悲惨な現実は、世界から見捨てられつつあるようです。  ここで私が「アチェ独立闘争」に関する詳しい経緯を書くまでもなく、この紛争の原因と経過については、ネット上にも数え切れないほど多くのソースがあります。既にご存知の方も多いでしょう。
 むしろ私が気になるのは、この紛争が全く解決の兆しを見せていないこと、そして最近になってインドネシア政府の対応がますますひどく(より残虐に)なりつつあることです。そして、アチェの状況が悲惨な方向へと向かいつつある最大の要因こそが、例の「9.11テロ事件」とその後のブッシュ政権の政策でした。

 まずはこちらの古い記事や、こちらやこちらの解説と書くリンク先などを読むと、アチェ独立闘争の経緯と背景、現在の状況が簡単に理解できます。次に、やはりちょっと古い記事ですがこちらをお読み下さい。アチェの紛争が単なる「独立闘争」というだけでなく、その背景にあるインドネシア政府と国軍のとんでもない行動がよく理解できます。そしてこれまた古いニュースですが、こちらを読むと、「9.11テロ事件」とその後のブッシュ政権の政策が、当事のメガワティ政権にどんな影響を与えたか、よくわかるでしょう。そして、こちらの記事にある次の部分を読むと、「9.11テロ事件」を「天恵」と喜ぶインドネシア政府の姿が浮き彫りにされます。
 「…インドネシア大統領メガワティ・スカルノプトリも、同じメモを手にした。彼女は、インドネシアの恐ろしく腐敗し残虐な軍を浄化し、手に負えない国内状態に平和をもたらすと約束して政権の座に就いた。全く逆に、彼女は自由アチェ運動との交渉を拒否し、5月、豊富な石油を産出するこのアチェに侵攻した。1975年、東チモールを侵略して以来の、インドネシア軍最大の軍事作戦である。インドネシア政府が、東チモールからインドネシア軍を撤退させた国際社会の声があった後であるにもかかわらず、このアチェ侵略をやりおおせると考えた理由は何だろうか?簡単である。2001年9月11日世界貿易センタービル他が攻撃されて以来、インドネシア政府はアチェの民族解放運動を「テロリスト」として描き出してきたのである。それにより人権問題など憂慮に値しないとしてきた。メガワティの上級アドバイザであるリザル・マララングンは、これを「9月11日の天恵」と呼んでいる…」
 まったくもって、世界中の独立運動弾圧にお墨付きを与えるブッシュ政権の政策は、このアチェに限らず、パレスチナ、チェチェン、フィリピンなど、世界中に災厄をばら撒く結果となりました。このブッシュが再選された2004年は、後世多くの人から「暗い時代」として記憶されることになりそうです。

 さて、こうしたインドネシア政府の軍事行動の結果、アチェでは独立への住民投票を求める集会に向かう人々の列に軍隊が発砲し、多数の犠牲者を出したり、集会所で住民が寝ているところを突然、襲撃し焼き払ったり、無差別攻撃が続いています。そして住民には、こういう残虐な事態が多出しているのです。多数の住民が日常的に拷問・虐殺にあっている中で、援助団体のメンバーやボランティアですら失踪しています。そしてアチェでは、こうした状況を伝えようとする外国人のジャーナリストを放逐しています。

 ともかく、今回の地震と津波の被害者を悼み、被害に遭いながらも生きている人たちへの惜しみない援助を希望し、加えて今回の被害報道を機会に世界の人々の目がアチェに向くことによって、インドネシア政府による「国家的蛮行」に何らかの歯止めを掛けるような状況が出来することを、心から望んでいます。

2004/12/27

 通勤時の音楽リスニング用に、ここのところ1.5GBのHDDを搭載したMP3プレヤー「Rio Eigan」を愛用してたのですが、今回新たに「Creative MuVo Micro N200」を購入しました。
 しかも今回購入した「MuVo Micro N200」はメモリが256MBで、HDD搭載型との比較だけでなく、今どきのメモリプレヤーの標準から見ても実に少ないメモリ容量です。でも、これでいいんです。256MBあればアルバムで4〜5枚、50曲程度は入るし、1.5GBの「Rio Eigan」だって、実際によく聴く曲は40〜50曲程度。要するにその時々に聴きたいアルバム2〜3枚分を入れ替えて使う…という利用形態の方が、自分には合っています。いちばん使う通勤の時間だって、往復で片道30分ですから。というわけで、「Rio Eigan」よりも軽くて小さいプレヤーを購入しようと思った次第。
 自宅でのBGM用には、依然として20GBのHDDを搭載した「Creative NOMAD Jukebox」の旧タイプを愛用しています。同じCreativeの2chアクティブスピーカー「Inspire Monitor M85-D」と接続して、デスクトップミュージックシステムとして使っているわけです。ちゃんとしたコンポ…知人に作ってもらった真空管アンプとデノンのCDプレヤー、そしてロジャースのスピーカー…もあるんですが、ほとんど使わなくなりました。
 MP3ソースの方は、手持ちのCDやLPのうちのお気に入りのアルバムを150枚分以上はエンコードしてあるので、いや本当にもう日常音楽を聴くのはMP3一辺倒になってしまいました。

   

 この「MuVo Micro N200」は全8色のカラーバリエーションがあり、私が購入したのは黒。ボディはアルミ製で、意外とチャチな感じはしません。電池ボックスの開閉部もしっかりしています。手のひらで握れば完全に隠れるほど小さく、重量も約22gと超軽量。 ここまで小さい製品なのに、一通りの機能を搭載しています。まずは、私には必須のFMチューナー、これはワールドワイド対応のFMチューナーで海外旅行時にもOK。ボイスレコーディングやFMラジオの録音ができ、さらにCDプレヤーやMDプレヤーと直接接続して、ライン録音による直接エンコーディングが可能です。ま、直接エンコーディングは使わないでしょうけど。
 バッテリーは、単4電池1本で動作します。この単四電池タイプ…というのも、この機種を選んだ理由。「Rio Eigan」のようなリチウム電池タイプは意外に不便。出先でバッテリーがなくなった時、充電できません。単四タイプの方がどこでも買えて安心です。特に海外利用時は電池タイプに限ります。
 付属のヘッドホンはダメ。デザインも音も嫌い。これなら、「Rio Eigan」に付属しているSENNHEISERのインナーホンの方がよっぽどマシ。本当は本格的な密閉型オーディオヘッドホンを使いたいのですが、若者と違ってオジサンが電車の中で使っていると妙に目立ちます。そこで、最近の私のお気に入りは密閉型のインナーホン。ふだん使っているのはパイオニア「SE-CL30」で、これは耳当たりがよくて長時間装着していても耳が痛くなったり疲れたりしません。安いインナーホンですから、音については特筆するところはなし。まあ疲れない音ですね。で、この「SE-CL30」を接続して「MuVo Micro N200」を早速試聴してみました。
 試聴のために転送したのは、GREATFUL DEADの傑作アルバム「American Beauty」、そしてThe Band の定番アルバム「Music from Big Pink」の2枚です。
 解像感はあまり感じませんが、ドンシャリ系の派手さはなく落ち着いた音。イコライザーはデフォルトの「Normal」に設定しています。「American Beauty」あたりをマターリと聴くにはちょうどいいですね。私の好きな曲「Ripple」なんかは、このプレヤーの音が合ってます。
 いずれにしても、もう少し使い込んでから詳しいインプレッションを書くかもしれません。

2004/12/24

 昨日、「山口村越県合併、延長県会本会議で可決」…というニュースがありました。この越県合併問題は、合併に反対する長野県知事田中康夫と県議会の対立の構図の中で注目を集め、さらに一部の文化人が合併反対の意見広告を出すなど、各方面で大きな話題となっています。
 確かに山口村は、意見広告にもあるように「島崎藤村を生んだ地」であり、あの「夜明け前」の舞台でもあります。しかし、だからといって「信州人の宝」とか、「山口村を失うことは長野県を失うこと」などと大げさなフレーズで越県合併に反対する人たちのメンタリティは、少し理解できない部分があります。意見広告の背景には、「田中康夫支持」という政治的な理由がかなり大きな部分を占めているのかもしれません。

 まず個人的な話をすれば、「木曽路」「木曽地方」は非常に好きな土地です。私は木曽に近い名古屋で生まれ育ち、登山やツーリングが好きだったこともあって、実際に木曽には数え切れないほど足を運んでいます。
 「夜明け前」で知られる馬篭、妻籠も好きですし、奈良井には醸造元関係者の知人がいます。木曽路の旧道は、贄川から南をほぼ全部踏破しています。木曽福島の有名な蕎麦店「くるまや」にも何度も訪れています。また御岳山の山麓に広がる開田高原も好きな場所で、幾度も遊びに行きました。木曽福島から地蔵峠を越える道(国道361号線)は、御岳を正面に眺め、バイクで走ると実に気持ちのよい道です。むろん御岳山に登ったこともありますし、木曽福島から木曽駒ケ岳にも登りました。ちなみに、「寝覚ノ床」は実に陳腐な観光地ですから、行かない方がよいと思いますが…
 そして、木曽南部の山口村周辺と言えば、私はなんと言っても恵那山が大好きです。木曽の名山である恵那山は、その雄大な山容にも関わらず、訪れる人が少なく落ち着いた山歩きを楽しめる山です。さらに恵那山から北へ神坂峠、清内路峠、大平峠を越えれば兀岳・夏焼山、そして摺古木山や安平路山など中央アルプス南部の山岳地帯に至ります。この山域にあるのは、地元の人かよほどの登山愛好者以外にはほとんど知られていない山ばかりですが、いずれも登山者の少ない気持ちのいい山ばかりです。
 さらには伊那と木曽を結ぶ清内路峠や大平峠などは、バイクでツーリングすると非常に気持ちのよい道です。木曽には、たくさんの思い出があります。今回の越県合併に反対する田中知事よりも、「木曽は信州人の宝」なんて意見広告を出した文化人たちよりも、はるかに私のほうが木曽へ行った回数は多いでしょうし、木曽の隅々まで歩いたという自負があります。しかし木曽が好きだからといって、木曽の一部が、そして山口村が長野県に属していようが岐阜県に属していようが、そんな行政区分に興味はありません。

 古来、木曾や伊那、特に木曽地方は信濃中央部、北部とは異なる文化圏に属しているように思います。意見広告で「山口村は信州人の宝」などと言っていますが、信濃中央部や北信濃に住む「信州人」にとって、木曽は「遠いところ」だったはずです。現在の長野や上田、佐久、そして塩尻、松本にかけての一帯などは山間部とは言え比較的豊かな土地柄で、古くから群雄が割拠して領土を争ってきたところです。例えば戦国時代の北信濃ではまず高梨氏、村上氏らが勢力を誇り、その後武田信玄と上杉謙信の勢力争いに巻き込まれ戦乱の時代が続きました。いったん信濃の大部分が信玄の支配下に入った後、信長、秀吉の傘下の武将が支配、その後江戸時代になって小大名による分割統治の時代に入った経緯があります。こうした信濃の北部や中央部と比べて、耕作地の少ない木曾や伊那は、戦乱に巻き込まれることが少なかったように思います。それでも伊那は戦国時代には群雄が勢力を争った歴史が散見されますが、木曾地方は比較的落ち着いた土地でした。

 実は、木曽(木曾、木祖)地方は歴史的に見て信濃よりは美濃地方との関係が深い地域です。山口村のホームページにも書かれているように「中世までは美濃の国に属していた」ことは間違いありません。また同サイトに書かれているように、「山口村は、地形的に岐阜県に向かって開けており、古くから中津川市・坂下町との交流が深く、経済的にも両市町とのかかわりが強くありました」…というのも事実でしょう。岐阜県中津川市との越県合併は、少なくとも地勢的・文化的に理に適った部分があることを否定はできません。
 歴史の中で「木曽」の名称が初めて登場するのは「続日本紀」で、そこには「大宝2年(702年)、初めて美濃の国岐蘇(きそ)山道を開く」と書かれています。さらに、別の書物には「和銅6年(713年)吉蘇(きそ)路を通した」ともあります。いずれにしても、奈良時代に美濃の一部として木曽路が開かれたことは間違いがないようです。
 平安時代も、現在の木曽地域はその多くの部分がが美濃国に含まれていました。公領や牧は無く、荘園として、大吉祖荘(信濃国:現在の木祖村、日義村、木曽福島町)、小木曽荘(美濃国:上松町、大桑村)、遠山荘(美濃国:南木曽町、山口村)があり、現在の上松町から南は美濃国でした。荘園といっても、農産物ではなく森林資源を主たる生産物とする荘園です。木曽五木、中でもヒノキは既に平安時代から高価な材料とされていました。
 平安時代後期以降、木曽氏、千村氏などの有力な豪族が木曽を支配下に置きましたが、この地方の権力者としては何といっても木曾義仲が知られています。ただ、彼は確かに木曽の中原兼遠のもとで養育された人物ですが、以仁王の令旨を受けて反平氏の挙兵をして以降は、木曾というよりは北陸や北信濃で勢力を拡大して力を蓄えました。土地が狭く農業生産力が低い木曽地方では、大きな勢力が育ちにくかったことは確かなようです。
 こうして、森林資源に恵まれた木曽は、美濃の一部として歴史が始まり、江戸に幕府が開かれた後は徳川家の蔵入地となり、その後最終的にかなりの部分が尾張藩領となりました。その尾張藩の厳しい山林保護によって、木曽の自然林は今日まで守られてきた…という経緯があります。

 こうした木曽地方の歴史を見る限り、別に山口村が中津川市と越県合併することは、さほど不自然なことではありません。ただし、これはあくまで「住民が望めば」という前提での話です。こちらのサイトなどを見ると、この合併協議を巡る状況にはかなり不透明な部分もあり、田中知事と県議会との関係も相変わらずドロドロしています。この問題は一度白紙に戻して、周囲の政治的な思惑を徹底的に排した上で、再度当事者である山口村住民の意思を確認すべきかもしれません。

2004/12/23

 定期的にアップするバイク話です。
 そっくり商標は「不可」−ホンダ、中国で勝訴…というニュースがありました。まあ、「世界のホンダ」なんだからこれくらいのことは見逃してやれよ…というのが、私の偽らざる感想です。
 これは以前何度も書いたことですが、日本のバイク産業は草創期に海外の製品をフルコピーすることで現在の繁栄の礎を築いてきました。コピーなんて生易しいものではなく、海外メーカー製バイクを輸入してエンジンから駆動系までバラバラに分解して構成パーツを取り出し、それをコピーするという完全な「リバース・エンジニアリング」によって、市販バイクを開発してきたのです。
 …「赤トンボ」の名称で知られ、浅間レースで大活躍したYAMAHA「YA-1」は、ドイツの二輪車メーカーであるDKWのバイクをフルコピーしたもの、大東精機「DSK A-25」というBMWのフルコピー車もありました。ホンダの名車「ドリーム」は、ドイツのNSUのコピーでした…という話は、2002年6月7日の日記にも書きました。YAMAHAはその後も、YA-1に続くYC-1でDKWのRT-175というモデルをコピーし、かなり長期に渡って海外製バイクのコピーし続けたものです。
 ところで、冒頭の「HONGDA」という商標の話題に戻りますが、昭和20〜30年代の日メーカーは海外製バイクを機能やデザイン面でコピーするだけでなく、名称もかなりパクった形跡があります。まず、DSK、RSW、TMC、OMC、FMC(いずれも実際に存在した車種です)なんてアルファベット3文字の車種名は、その多くが欧州メーカーをイメージしたものです。例えば、岩田産業というメーカーが出したバイクはBMWのフルコピー車でしたが、その名称は「BIM」でした。これなんかは明らかに「BMW」の語感を意識したもので、まあ今回問題になっている中国メーカーの「HONGDA」という商標と大差のない話です。
 だからというわけじゃないんですが、「HONGDA」なんてかわいいもんじゃないですか。中国のバイク工業の発展を願って、放っておいてやりましょう。

2004/12/22

 一昨日の日記で「デジカメは成熟期に入った」と書いたら、早速抗議(?)のメールが来ました。内容は「バカなことを言ってるんじゃない。デジカメの画像はまだ画質面で銀塩に大きく遅れをとっている。CCDも画像処理も現行製品はまだまだ未熟。デジカメは典型的な発展途上にある製品だ」…という主旨のメールです。
 ああ…、そんなことわかってるから、いちいちメールしてこなくても…
 確かにキヤノンの岩下知徳取締役のコメントでも、「…デジカメの画質や性能を決めるのに大事なのが、レンズとそれを察知する画像センサー、画像処理回路の三つ。各機能をバランス良く高めることが、良いデジカメ作りに欠かせない。これらの機能向上で、たとえば、今よりもはるかにコンパクトで、美しい写真を撮ることができるカメラを作れるはず…」とあります。いやその通り。CCDや画像処理回路、CCDの光学特性に合ったレンズなどデジカメの主要パーツも、そしてそれらを組み合わせたトータル性能も、機能向上の余地は非常に大きい…とは思います。
 何よりも、銀塩カメラのとの比較ではなく、「デジカメならではの機能」(例えばリアルタイムヒストグラムのような…)部分で、面白いことがいっぱいできると思うし、銀塩にはないCCDの特性を生かした赤外線域の感光や、画像合成によるダイナミックレンジ拡大、画像処理機能を利用した数々の遊び…など、デジカメならではの機能はいくらでもフィーチャすることが可能です。画質だって将来的には銀塩を上回ることも十分に可能でしょう。そうした意味では、デジカメは間違いなく「発展途上」の製品です。
 でも、だからといって私は「デジカメは銀塩に大きく遅れをとっている」…とも思っていません。例えば画質面では、まず階調表現については、CCDという素子の持つ特性の問題もあってデジカメはまだまだ銀塩フィルムに劣る部分が大きいと思います。特に中判以上の銀塩フィルムには、例えAPSサイズのCCDを使ったデジタル一眼でも、画像の滑らかさやノイズなどの面で敵いません。ラチチュードでも、まだCCDが負けてますね。しかし、こうした「デジカメの発展途上部分」については、「市井の一般ユーザによる、ごく一般的なカメラ利用場面」では、ほとんど問題にならないレベル…だと思うからです。
 私はこの「一般的な使い方」という部分にこだわります。
 一般的な使い方…というのは、「子供の成長記録を撮る」「旅行先で記念写真を撮る」「日常生活で気になる被写体をスナップ撮影する」…といった使い方です。むろん、こうした使い方であっても「きれいに撮りたい」というニーズは当然あるでしょう。しかし、こうした利用形態、利用場面で比較対象となるのは、銀塩カメラユースの範囲で言えば、「ネガフィルムを使って撮影し、最大キャビネ版ぐらいまでに引き伸ばしたプリントで鑑賞する」…というものです。ネガフィルムを使って撮影し、最大キャビネ版ぐらいまでに引き伸ばしたプリントで鑑賞する…ユーザが、銀塩カメラをデジカメに持ち替えたからといって、写真の鑑賞形態が大幅に変わるわけがありません。
 さて、こうした一般ユーザによる「ごく普通の使い方」の範囲で見て、現行デジカメに機能面、画質面での不備なんてあるのでしょうか。
 画素数に関しては、「L2版にプリントする」「標準的な解像度のPCモニター上でスクロールせずに見られるサイズで表示する」…などといった一般的な使い方の範囲では、300万画素以上あれば十分です。ダイナミックレンジやノイズ、色再現性の問題についても同じ。国内の主要メーカーが作る現行の量産タイプの300〜500万画素CCD搭載デジカメは、どれも基本的に画質面での大きな問題はないと考えています。むろん、ここで言う「大きな問題がない」ということの意味は、L2版にプリントする」「標準的な解像度のPCモニター上でスクロールせずに見られるサイズで表示する」などといった一般的な使い方の範囲で…の話です。別にプロの写真家が見て問題がない…と言っているのではないし、A4雑誌のグラビア印刷用の原稿として問題がない…と言っているわけじゃありません。あくまで「普通の人が普通にカメラを使う」範囲での話です。
 加えて、前述した「リアルタイムヒストグラム」のようなデジカメならではの機能については、その大半が「記念写真を撮る一般ユーザ」には全く不要なものです。

 デジカメについて語る時、「立ち位置」が問題になります。私は、あくまで「普通の人」という立ち位置を変えるつもりはありません。「カメラマニア」や「写真マニア」の視点でモノを言いたくないのです。なぜなら、趣味としての「カメラマニア」や「写真マニア」は、「写真」や「カメラ」に求めるものに個人差が大きく、求めるものが違えば議論が噛み合わなくなるからです。
 私は、渋谷のハチ公前でもいいし、新宿のアルタの前でもいい。ランダムに選んだ道行く人の90%が「きれいな写真」と言えば、それで十分だと思うわけです。
 一昨日の日記で書いたように、私が「デジカメは成熟期に入った」と判断するのは、機能発展の余地の有無から見ているのではありません。むろん、普及台数から見ているのでもありません。「カメラとしてごく普通の使い方をするユーザにとっての機能と価格のバランス」です。一昨日の日記でも書いたように、「過不足のない機能と日常ユースに十分な画質を持った600万画素の新製品デジカメが2万円台で買える」…という状況から判断すれば、もうデジカメは完全に成熟期に入ったと言ってもよいと思うわけです。「子供の成長記録を撮る」「旅行先で記念写真を撮る」「日常生活で気になる被写体をスナップ撮影する」…といった利用場面で、この2万円台のカメラで撮影した画像は、ほとんど誰も文句がない水準だと考える次第です。
 個人的には、デジカメにはまだまだ多様な製品形態への展開を期待しています。「奇抜な」商品はいくらでも開発可能でしょう。そして動画撮影機能に関しては、いくらでも発展の余地があります。そして「マニア向け」の商品も開発可能です。例えば、「広角単焦点レンズを搭載した超高画質コンパクト」みたいな製品です。でも、いずれも、「子供の成長記録を撮る」「旅行先で記念写真を撮る」「日常生活で気になる被写体をスナップ撮影する」…というユーザには、縁遠い商品になりそうです」。それこそが、デジカメが面白くなくなりつつある所以です。

 ところで、児童文学作家の今西祐行さんが逝去されました。今西さんの代表作の「肥後の石工」を、小学生の頃に読まれたことがある方も多いと思います。今西さんと同じ早稲田童話会出身の児童文学作家、鈴木隆さんの自宅に寄宿していた十代の頃の私は、今西さんにも気安く声を掛けて頂きました。いつも笑顔で、その温和なお人柄が記憶に残っています。心からご冥福を祈ります。

2004/12/20

 自宅で仕事に使っているデスクトップPCが、突然CD-Rドライブを認識しなくなりました。BIOSでは認識しているのですが、Windowsではダメ。Windowsを再インストールすれば直るかおしれないけど、もう面倒くさい。3年前の815マザーにCeleron1.1GHzを搭載したマシンなので、そろそろ新しくした方がいいのかもしれません。自作も面倒なので、とりあえずネット通販でこれを発注しました。OS無しモデルなので約4万円。この値段で、CPUはCeleron D 325、160GBのHDDに512MBメモリ、DVD-Rも搭載してるんだから、もう文句はありません。MCJのPCはオフィスでも使ってますから、2台目ってことになります。
 そういえば、「パソコンの性能」に興味をなくしてから、もうずいぶん経ちます。個人的には、CPUで言うとDX4の最後あたりからPentiumU、Celeron300〜500MHz、K6 300〜400MHzぐらいまでの時期が一番面白く、毎週のように秋葉原に通い詰めて個人ユースからオフィスで使うものまでパソコンは全て自作し、オーバークロックなどにも熱中した時代です。最新のビデオカードとかすぐに飛びついたし、いつも最新パーツの情報を気にしていました。当時はまだISAバスが残っていて、ビデオカードやLANカードなどのパーツに「相性問題」が多発していたし、ドライバなんかも問題が多かった時代だからこそ、自作が面白かったのかもしれません。昨今のパーツはWindowsなら何を選んでもほぼ間違いなく動作するし、ドライバも大半はWindowsが持ってます。もうパソコン自作は、よほど特殊なパーツを搭載しない限り、プラモデル作るよりも簡単になりました。
 ともかく最近では、パソコンは「実用的に使えればいい」…ということ以外に、選択基準がなくなりました。必要以上の高性能なんていらないし、ましてやデザインとかメーカーとか、もうどうでもいい。「使えりゃ何でもいい」という状態なのです。
 で、どの程度の性能のPCが自分にとって「使える」のかというと、これまたささやかなもの。WindowsXP上でOfficeソフトやPhotoShopなどをほどほど快適に使おうと思ったら、まあ2GHz台のCPUと512MB以上のメモリがあれば十分です。3Dゲームやなんかをやらないのなら、ビデオだってマザーボード搭載チップで十分。となると、昨今の3〜4万円台程度のショップブランドのPCは、概ねCeleronかAthlon、Sempronの2〜3GHz程度のCPUに256MBのメモリを搭載しており、さらに80GBくらいのHDDとCD-Rを搭載してますから、もう十分な性能です。メモリを512MBに増設、オフィスの隅に転がっている古いHDDでも増設してやれば、たいていの日常作業をストレスなく処理できるマシンになります。こうなるともう、価格の面から見ても手間をかけた自作なんてバカバカしいですね。ソフトだって、私が仕事で使うのはブラウザとメール以外にOfficeとPaintShopPro、数種のフリーウェアぐらいです。
 自宅ではあまりヘビーな仕事はしないので、PCに必要なスペックはもっと下がります。自宅のPCは、ネットに接続できてメールソフトが使えて、あとはたまにエディターかWordで原稿を書くだけなので、800MHz前後のCPUと256MBのメモリ、40GBのHDDがあれば十分過ぎるぐらい。もっと性能が低い古いPCだって使います。事実、Celeron400MHzでSVGA表示のノートPC「ThinkPad240」を、キッチンテーブルに置いてメールとWeb、サイトメンテナンス用に使っている次第。

 パソコンは言うまでもなく、まだまだ発展途上にある製品。確かにCPUもビデオカードもHDDも日々高性能化しています。しかし、自分の用途…というか、一般的なオフィスワークで使うたいていの人にとってはもうこれ以上の性能は不要…に近い水準にまで完成度が高まっています。私は、日常的な利用で「満足すべき性能」「納得できる価格」に達すると、とたんに「ガジェットとしての興味」を失います。パソコンは、日常ユースの性能(コストパフォーマンス)に不満があった2年前くらいまでは興味ある購買対象ガジェットでしたが、いまや急速に関心を失いつつあります。
 日常的な利用で「満足すべき性能」「納得できる価格」に達した…といえば、デジカメも同じです。先日、友人が600万画素の「QV-R61」を2万円台半ば購入しました。半日ほど借りて撮影しましたが、撮影画質はむろん、レスポンスも速いし、電池の持ちもいい、操作性にも機能にも特に文句を付けるようなところはありません。強いて言えば、ズーム広角側の画角が狭いのが気になるくらいで、あとは機能面の不満は何もなし。日常ユースに十分な新製品の600万画素デジカメが2万円台で買えるとなると、これはもう何か「興醒め」しちゃいます。確かにデジ一眼の普及はこれからでしょうし、デジカメ全般にまだまだ機能面での不満もあります。しかし、これから先の高性能化はプロのニーズ、はたまたカメラマニアのニーズの領域に近くなりつつあります。「日常使う道具としてのカメラ」という切り口を前提にすると、デジカメはほぼ成熟した商品になりつつあります。そろそろ、デジカメに関する話は書くことをやめる時期にきたのかもしれません。
 もっとも、「極小画素批判」に熱中するあまり、600万画素のデジカメで撮った画像を等倍表示して見てるバカライターあたりには、まだまだデジカメの性能について言いたいことがたくさんあるかもしれませんが…

2004/12/16

 北海道の知人から、お歳暮で新巻鮭を頂きました。「めじか」と呼ばれる高級新巻で、しかもかなり大振りの鮭です。「めじか」とは、何でも「その年に成熟するシロザケで、トキシラズが春から夏にかけて漁獲されるのに対して、メジカは秋から初冬にアキアジと一緒に漁獲される」…とのこと。こちらに詳しい説明があります。
 しかも今回頂いた新巻は、既に切り身になっています。知らなかったのですが、最近はこうして切ってある新巻があるんですね。世間知らずなのかもしれませんが、デパートのお歳暮売り場や年末のアメ横とかに行ったことがなかったのです。同居人に聞いたら、最近は、お歳暮用にはこうして切ってある新巻の方が多いそうです。
 さて、新巻の名称の由来はこちらに書いてあるとおりで、荒筵(むしろ)に巻いて甘塩に作ったものが「荒筵巻=荒巻=アラマキ=新巻」となった…のだそうです。これまた私は漠然と、「新しい鮭」の意味で「新巻」だと思ってました。あまりの非常識ぶり、重ねて恥ずかしい話です。
 さて、新巻というヤツは、こうして大振りのものを1本もらっても困ることがありません。まず私は、全体の2/3ほどをそのまま冷凍することにしました。残りの1/3は、塩抜きをして粕漬けにします。お水にお酒を混ぜて軽く塩抜きをして、酒粕に漬けてしまいました。ちょうど、粕漬けをつくるために新潟の醸造元から通販で購入した今年採れたばかりの酒粕があるのです。で、粕漬けにした切り身のうち、さらに半分以上を粕漬け状態で冷凍庫に入れました。これで、いつでも解凍するだけで鮭の粕漬けが食べられます。 頭の部分(アラ)は、今夜にでもそのまま焼いて食べようかと思っています。

2004/12/15

 携帯電話端末にも、とうとうフルブラウザ搭載機種が登場しました。3G携帯への移行も含めて、携帯電話シスムと端末の高機能化が急速に進んでいます。今後の端末は「…CPUは数百MHz、メモリは50Mバイト以上、そして各社が共通のOSを採用。PCのようなスペックアップとプラットフォームの共通化が携帯でも起きようとしている」…と、こちらの記事にもあるようにパソコン、PDAに近い機能を備える方向に進むことは間違いないでしょう。さらに、こちらの記事にもあるように、既存の情報機器との親和性が高い汎用インタフェース(BluetoothやUSB)、汎用OS(Windows Mobile)等を装備した機種も登場しています。  ところで、こうして高機能化が進む携帯電話端末を、実際に多くの携帯電話ユーザは使い切ることができるのでしょうか。というのも、依然として携帯電話のユーザの大半が、キャリアやコンテンツプロバイダにとっての「コンテンツ消費者」に留められている点が気になります。古くからのパソコンユーザやネット経験者にとっては、汎用インタフェースや汎用OSを搭載した機種は様々な用途で使うことを思いつきます。将来的に、プログラムのロードが可能なユーザメモリエリアが備われば、既存の携帯電話サービスの枠に捉われない、ユーザ独自の利用形態を作り出していくことも可能です。しかし、「携帯電話で初めてネットを体験した」「携帯電話しか持っていない」…というケータイ世代にとっては、どれほど端末機能が高度化しようと、「消費者」の立場を抜け出ることは難しいと思います。結局は「マルチメディアコンテンツ」「3Dゲーム」などの言葉に乗せられて、高いパケット料や通話料を支払うことになるだけかもしれません。
 他にも心配されることがあります。日常生活における携帯電話への依存度が高いヘビーユーザのさらなる増加と、依存度や利用時間の長さに比して情報リテラシーが低いネットユーザの増加…は、最近いろいろな人が指摘しているように、「管理されたコミュニケーション」しかできない社会階層をさらに拡大する可能性があります。
 携帯電話のネットワークは、3G、4Gとさらに高機能化し伝送速度の高速化も進みます。しかし、システムとして携帯電話ネットワークの方は、無線基地局が作り出すゾーン内の端末間を交換局を通して中央でシステム制御することで音声通話やデータ通信を可能にしているPDC網やIMT2000網の基本的な構成、トポロジーについては、今後も大きな変化がないと予想されます。つまり、携帯電話というシステムは、通話もメールも必ず中央のサーバーを通り(というほど単純ではありませんが)、また網全体を一括して制御するシステムが存在する…という点で、ある種の「中央集権型ネットワーク」です。今後携帯電話サービスはますます高度化し、「お財布ケータイ」「GPSケータイ」なんてものが普及すれば、さらに日常生活における携帯電話への依存度は高まります。そういった状況の中で、この「誰か」が容易に管理することが可能な中央集権型の通信ネットワークを無自覚に使うユーザが増え続ける…という現実を見ると、やはり私達の世代は薄ら寒いものを感じます。

 こうしたある種の「管理される恐怖」が高まる中で、「個々のユーザが選んだ相手と自由にコミュニケーションできる道具」としての携帯電話システムを模索する動きもあります。
 例えば、現実感は薄くとも、こんな提案をする人がいたりします。そして私が、「ユーザによるユーザのための携帯電話システム」として現在最も期待しているのが、例えば「Skype」です。こうした技術を使えば、汎用的な無線データ通信デバイスにVoIPソフトを搭載しただけで、そのまま「携帯」になるわけです。こうした端末を利用した電話システムは、基地局を利用したゾーン制御と交換局を中央で制御する既存の形態電話ネットワークの仕組みを使わなくても、有線インターネット網と無線LANを組み合わせることで、都市部においては簡単に携帯電話システムを構築することが可能です。現在でも無線LANを利用した携帯電話システムのサービス提供事例もありますが、まだまだサービスエリアが狭くて実用にはほど遠いものです。しかし、どこかの侵攻通信事業者が本気で「携帯電話サービス」向けに無線LANネットワークを整備すれば、かなり広域エリアをカバーする実用的なシステムを容易に構築できるはずです。構内用のIPセントリックスの普及を見ても、技術的な問題はほとんどないでしょう。ビジネスモデルによっては、サービス事業として採算をとることも十分に可能でしょう。

 自分の手の届かないところにある「システム」が自らの行動を規定し、しかもそれを何も疑うことなく受け入れる世代の増加…、これは実に恐ろしいことです。そろそろ、われわれネットワークユーザの手で、現行の携帯電話ネットワークのように中央集権的ではない、ユーザ自身でコントロール可能な携帯電話ネットワークを作る…ことを真剣に考えてもよい時期かもしれません。

2004/12/13

 「walkingtour」というFlash作品が、ネットのあちこちで話題になっています。そして、この「walkingtour」という作品に対しては「感動した」…という声があちこちから上がっています。
 しかし私は、この「walkingtour」というFlash作品が嫌いですし、見終わってなんとなく不快なものを感じました。
 不快になった理由は2つあります。
 まずは、「walkingtour」というFlashの基調となっている。「前を向いて歩け」というシンプルで単純なアピールが気になります。私は、「前向きに物事を考えろ」とか「前を向いて歩け」とか、こうした「ポジティブ・シンキング」を必要以上に強調することが、基本的に好きではありません。むろん「人生は前を向いて歩くべき」という点は基本的には正しいと思いますが、かと言って「前を向いて歩く」ことだけが人生だとも思っていません。「生きる」ということに対するスタンス、ひいては「生き方」については、非常に個人差が大きいものだと思っています。生き方なんてものは複雑かつ多様であるべきで、単純化して教えることは危険だと考えます。例えば、「死にたくなる」ほどつらいことがあったときに、その「つらいこと」をじっくり消化せずに「前向きに生きよう、死ぬのはよそう」と考えたのでは、「つらいことの本質」をきちんと克服できないと考えます。最終的に「前を向いて生きよう」という結論に達するのは悪いことではありませんが、そこに至るプロセスを省略すべきではないのです。
 確かに、安易に自死を選んでしまう人間、特に簡単に自殺する若者がやたらに増えた昨今では、「前を向いて歩け」という単純な主張が、一定の効果、影響力を持つことは認めます。しかし、物事を単純化し過ぎることには、マイナスの側面があります。トラブルをきちんと受け止め、時間をかけて消化していくこと…が軽視される可能性があります。後ろ向きでもがきながらでもともかく生きていくこと、前向きではなく世の中に対して蓮っ葉に構えて生きていくこと…、そうした人生のあり方も重要です。生と死を単純に考えることは、人間にとってもっとも重要な「考えて生きる」ことを、スポイルしてしまう可能性があります。
 次に「本当はいなくなった人なんていない、ずっと見守ってくれている」…という部分が気になります。私は「人が死ぬ」ということは、「存在しなくなる」ということ以外の何物でもない…と思っています。オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」にあるように、「人は死んだら土に還る」のです。「死者がどこかで見守ってくれている」と思い込むことは個人の自由ですが、より重要なのは「存在しないという現実」をしっかりと受け止めること…だと思います。仏教的死生観とは合致しないかもしれませんが、人は死んだら物理的に「何もなくなる」のであって、死んだ人間は生きている人間を「見守る」ことなんてできません。死者に「精神的に依存する」ことは、不健全だと考えます。
 私もこの年ですから、身内の死や友人の死に何度も立ち会ってきました。中でも、自分の分身のように共に中年までの人生を歩んでくれたある友人の死は、親兄弟の死に勝るような大きな喪失感をもたらしました。しかし私は、その友人が死んだ後「見守ってくれている」と考えたことは一度もありません。死んだ友人は記憶の中だけに残り、そして風化していきます。「死」を受け入れること、「喪失」を受け入れること、そして「記憶の風化」という現実をも受け入れること…、それこそが喪失感を克服する唯一の道でした。
 繰り返しますが、私は「前を向いて歩くこと」だけが人生だとは思わないし、「死者が見守ってくれている」とも思いません。「生と死」については、誰もがもっと突っ込んで考えるべきと思う次第です。
2004/12/11

 なぜバーのBGMはジャズなの?…で始まる「ロック、あの頃、そして今」と題するエッセイには、少なからず共感するところがあります。まあ、音楽に詳しい人間で「ジャズはロックよりも洗練された大人の音楽」なんて本気で思っている人もいないでしょうけど、確かに「ジャズ=大人」「ロック=ガキ」という固定的なイメージを抱いている人は、世間には結構多いのかもしれません。でもなければ、このBlogに書かれているようにバーや蕎麦屋など「大人の憩う場」を標榜する飲食店で、かくも広範囲にBGMとしてジャズが使われてるのか、説明がつきません。
 ロックという音楽は、その出自と普及経緯から見て、どうしても60年代後半から世界的に広まった若者による「異議申し立て運動」を背景とする部分があります(こちらを参照)。その後も、「オルタナティブな音楽」であることこそが、ロックの本質であったように思います。ジャズは、日本の高度成長期を支えた団塊世代の一部を含む、戦前・戦中・戦後初期に青春時代を送った人たちにとっての「モダン」であり、それはとりもなおさず「戦後の多くの時期を既に大人として過ごした人たち」の音楽でした。「戦後の大人」にとって、ジャズは「オーセンティックなモダン」であったのかもしれません。
 しかし、このエッセイの中に取り上げられている「ジャズエイジ」という言葉の意味を辿れば、やはりジャズもある時代には「若者の音楽」として栄えたものです。厳密な意味でのジャズエイジとは、Scott Fitzgeraldに象徴される1920年代のアメリカを指す言葉です。 こちらのサイトにあるように、1920年代の好景気に浮かれていたアメリカの若者がジャズやパーティにうつつを抜かしていた時代を指すのですから、まあ別にジャズが「大人の音楽」というイメージはありません。しかし、同じサイトに「ニッポン・ジャズエイジ」という言葉の説明がありますが、なぜかほぼ同じ時代に栄えた日本のジャズは、どうも「大人の遊び」と密接に関わっていたようです。
 日本のロックエイジはといえば、最初はビートルズに熱狂した団塊の世代ということになるのでしょうか。この世代は部分的にジャズ好きな世代と重なるようです。その直後、クリームやツェッペリン、GFRなどに熱狂したり、ウッドストックの記録フィルムで共同コミュニティ幻想に浸った人間たちが、いわゆる「オルタナティブな音楽としてのロック」に目覚めた人たちなんでしょうね。  大人のBARや蕎麦屋などで、BGMとしてロックをかける店が増えてもいい…という点では、このエッセイの主旨には賛同できる部分があります。でも私は、ここに書かれているように、「そっと静かに染み入ってくるようなロック」なら大人の憩いの場にも似合う…なんて、軟弱なことは言いません。60、70年代のロックでもいいし、パンクでもグランジでもいいけど、もっとハードなロックをガンガン流す「大人の店」が増えて欲しいのです。
 BARだけではありません。「大人の私」としては、グランド・ファンク・レイルロード(GFR)の「ハート・ブレイカー」を聞きながら美味しい手打ち蕎麦を食べられる店…、そんな粋な蕎麦屋などがあれば行ってみたいと思っています。

2004/12/10

 けっして、2日間日記をサボっていたわけではありません。一昨日、昨日と関西方面に出張に出掛けてました。一昨日は大阪から福知山線に乗って新三田というところまで。旧知の先生からの依頼があったので、某大学でメディア情報学科の学生相手に話をしてきました。福知山線で宝塚よりも先に行くのは初めてだったのですが、山の中の渓流沿いを走る電車の車窓風景は、とてもじゃないけど大都市近郊の風情ではありません。いや、あらためてハイキングにでも来たくなりました。夜は三ノ宮へ。神戸の某大学の教授をやってる高校時代の友人と旧交を温めながら深夜まで飲むことに。JRの終電で大阪まで戻って、梅田のホテルに一泊。深夜の大阪駅でホテルまで歩くのが面倒で、客待ちしているタクシーに乗ろうとしたら、2台続けて近距離を理由に乗車拒否をされてすごくメゲました。翌日は早朝から、京都の取引先企業へ。海外のスタッフもTV会議で参加しながら、あるプロジェクトの今後の進め方について細部を詰める作業です。京都駅から取引先企業までタクシーで往復しただけなので、せっかくの晩秋の京都を楽しむ時間も余裕もまったくありませんでした。もったいない…
 たまには「画像日記」らしく、早朝の大阪・梅田駅前と、京都の烏丸通り沿いの東本願寺の写真を掲載しておきます(つまらない写真!)。

  

 さて、あくまで個人的な感想ですが、読んですごく面白かった小説などが映画やTVドラマ化されて、活字の原作よりも面白かった…という例は、まずありません。映画として見ればそれなりに面白い…と評価できる作品はあっても、原作の面白さを超えることは不可能です。中には原作の小説よりも映画化された作品の方がずっと面白い…という例もありますが、その場合はほぼ100%原作の小説の方は面白くもなんともない…というものばかりです。表現メディアが変わることで「面白さの質が変わってしまう」わけで、私はこの「表現メディアを変える」という手法が基本的には好きではありません。そういえば、高村薫「レディ・ジョーカー」が映画化されたけど、あの重層的なプロットと細かい心理描写のまともな映画化無理でしょう。以前映画化された同じ高村薫の「マークスの山」も、見に行ってがっくり来ましたから。名取裕子(確かじゃない記憶ですが…)のセックスシーンだけが印象に残る映画でした。
 それで驚いたのが、ネット掲載の"実話"が朗読劇に…純愛「電車男」…というニュースです。
 私は「電車男」が本になったというだけで十分に驚きました。実際に書店に平積みになっている本をパラパラと読んでみましたが、あの実際のスレで読んでいた時の臨場感が全く感じられず、実につまらないものに。これをさらに朗読劇なんかにして、いったい何をどう表現しようというのでしょうか。くだらねぇ…。売れた話に便乗してこの手の企画をする人たちって、程度低いよなぁ。

 「電車男」については、ネットウォッチャーから社会学者まであらゆる人がコメントしており、今さら私が書くような話でもありませんが、ともかくWinny作者逮捕と並んで今年ネット上で起こった最大の話題の1つですから、まあ誰もが一言言いたくなるのは無理もありません。ネット上の事件、特に2ちゃんねる絡みの話題の大半が、やれ脅迫やら集団自殺やらネガティブな話ばかり…という中で、稀に見るポジティブな話ですから、余計「分析」したくなる人が多いのでしょう。2ちゃんねるの現行スレ、【電車男】2ちゃんねる発「純愛物語」に動揺しまくる人々…あたりも、読んでるとけっこう面白いですよね。
 でもまあよく考えて見ると、2ちゃんねるって実は結構ポジティブなスレ多いですよね。中でも「OFF板」なんかは、以前からすごいと思ってました。「奢り奢られオフ」なんてものが、ちゃんと成立しているところがすごい。「要らないものあげます」とか「泊めて下さい」とか、ある種「初対面の相手を絶対的に信頼することを前提とするOFF」が、大きなトラブルもなく成立したりするところがすごい。この「巨大匿名掲示板におけるポジティブなネットコミュニケーション」については、意外に言及されることが少ないような気がします。
 「電車男」事件の分析として、「PC世代」と「ネット世代」を分け、その違いを「ネットの向こう側の不特定多数を信頼するかどうか…の違い」とする意見は、かなりの説得力を持ちます。ネット世代の多くが、匿名掲示板の不特定多数の発言の中から、タイミングやニュアンス、場の雰囲気などを見ながら「真実を嗅ぎ出す」ノウハウを身に付けつつある状況は、まさに「コミュニケーション技術の進化」を感じさせます。…そういえば、某大学の講義でも、少しこんな話をしてきました。

 そんなことより、この問題、何とかして欲しい。私は20代の頃にバイク事故で大怪我をして何度も手術を受けているのですが、手術した病院も、この「血液製剤フィブリノゲンの納入先医療機関」リストに含まれているのです。C型肝炎は潜伏期間が長いそうだし、ヤバいなぁ。

2004/12/7

「日本の高校生、読解力低下 OECDの40カ国調査」…というニュース。これによれば、「日本の高校1年生は、実施4分野のうち読解力が前回の8位から14位に、数学的応用力も1位から6位に下がった」…とのことです。しかも、文科相がその事実を認めた…ってことまでニュースになるんだから、笑っちゃいます。
 学習到達度調査(PISA)の問題ってどんなものかと思ったら、文科省のサイト問題例が載っていました。

 「日本の子供の学力低下」については、わざわざこんなテストで比較するまでもなく、ずっと前からわかっていたことですし、何年も前から多くの「教育関係者」や「識者」がくどいほど警鐘を鳴らしています。さらに、対策についてもあらゆる立場から意見が出されているし、まあ、こんな話を私が書くまでもないことかもしれません。
 そりゃ、大学生がまともに漢字を読めない国ですから、高校生の読解力が低い…なんてテストをして見るまでもないでしょう。学校教育でパソコンや英会話を教えようなんて真剣に試みているようじゃ、本来の意味での「学力」や「教養」のことなんて誰もまともに考えてないんでしょう。
 読解力低下の原因は「読書量やテレビ視聴時間、コンピューターの浸透など言語環境の影響も考えられる」…って、アホらしい。「コンピューターの浸透」と「読解力」は無関係でしょ。オマケに「朝の読書推進も含む『読解力向上プログラム』を作成するなどの対策に乗り出す」…って、そんなもので読解力が高まるわけないでしょ。読解力ってのは要するに「論理的思考力」で、学校で強制される「朝の読書」なんてもので培われるわけがありません。
 そんなことよりも、この誰が見ても明らかな子供の学力低下について、文科省が真剣に対策を考えていないという状況について、きちんと考えて見るべきでしょう。進学校で激烈な受験戦争を経験して大半が東大・京大などを卒業している文部官僚自身が、「ゆとり教育」による学力低下という結末を「わからなかった」というのも、非常におかしな話です。むしろ、以前から一部の人が指摘しているように文部官僚が「わかっていて、意図的に学力低下を図った」と考える方が自然でしょう。別に怪しげな「陰謀論」に加担しなくても、私もそう感じます。「情報を持つものと持たざるもの」の間に著しい社会的格差が生じるように、知を持つものと持たざるものの間には、著しい社会的格差、経済的格差が生じます。「ゆとり教育」の目的はやはり、日本における「階級の復活」なんでしょうね。階級と言う言葉が不自然なら、社会階層の分断を図る…ことが目的とでも言いましょうか。まあ、公立学校の現場でいくら適当な教育をやっても、一部の私学への進学や学習塾への通塾が可能な階層だけは、そんなことと無関係に高い学力を身に付ける術があります。レベルの低い公立学校に通うのは社会の多数を占める単純労働者階層の子弟が中心で、そうした階層にはさほど高度な教養・学力は不要で、その代わり「道徳心」や「愛国心」を叩き込めばいい…ぐらいに考えているんでしょう。安価な海外労働力の代りを、国内に作り出せればいいんですから。あとはこうした階層向けの多産奨励策の効果が出れば、国の将来は安泰というわけです。
 誰かが「国民を馬鹿にさせて騙しやすくする政策」なんて言ってましたが、ある意味では当たっているかもしれません。大衆のインテリジェンスのレベルが低いほど、世論を支配するのは容易です。メディア戦略にも動かされやすいですから。
 いずれにしても私は、もう今さら「どうでもいい」とことだと思います。「国家百年の計」を考えて教育を考える…なんてことをする必要はない…と考えます。「国家の礎」なんてものがあるとすれば、確かに「教育」が重要であることは自明です。でも、「国家」という枠を取り払って考えてみれば、教育なんてものはしょせん「自分のために」身に付けるものに過ぎません。結局は個人の「損得」の問題です。別に国家の将来を考えなくなたって、一定の年齢になって自分の将来を考えれば、勉強すべきかどうかなんて誰かに教えてもらわなくても普通わかるでしょう。
 私は、別に社会の階層化が進めばいい…なんて思っちゃいませんが、結果的に階層化が進むのならば、無理に止める必要もないと思います。だってよく考えて見れば、今回の学力比較の対象となったのは「高校1年生」です。高校1年と言えば、自分の将来のことを考えて当然の年齢です。高校1年にもなって「勉強するのが嫌い」なんてヤツに、あの手この手で無理に勉強させて学力をアップさせようなんて、無意味ですね。自分で勉強しようと考えないヤツに税金をかける必要はありません。高校は義務教育じゃないんですから、在籍するために一定の学力基準を設け、それに達しない人間はやめさせればいいだけです。「朝の読書推進」なんて、バカバカしい…

 ただ、勉強をしたくないヤツを放っておく…ことに問題がないわけでもありません。朝のニュースで、一方通行の道路の逆走を注意した人が、注意されて逆ギレしたガキに殺されました。そのガキのコメントが、「注意されたのでとっちめてやろうと思った」です。この手のガキが増えたのもゆとり教育の結果…だとすれば、この国は学力アップとは異なる、もっと根本的な対策が必要です。それは、道徳教育の強化なんてくだらないものじゃないことだけは確かです。

2004/12/6

 スタンプやポイントを集めると何かをくれる…って、たくさんありますよね。実は私、けっこう集める方です。いい年して集めているのは、ランチを食べに行くオフィス近くのジョナサンのスタンプ、深夜時々友人と打ち合わせするミスタードーナツのポイント、ラーメン屋のスタンプ、秋葉原のパソコンショップのポイントカード、そして新潮文庫のカバーについているポイントマーク…等々。財布の中には、これらのポイントカードがいっぱい溜まってます。
 もっとも、ジョナサンのスタンプやミスタードーナツのポイントなんかは、あまり行く機会がないので、景品に引き換える前に期間が終了してしまうことが多いですけど。でも、以前ミスタードーナツのポイントでもらったお弁当箱やリュックをフリマに出したら、すぐに売れたので驚きました(引き換えてもらう時は恥ずかしかった…)。ジョナサンのポイントでもらう食器は、オフィスで使ってます。
 新潮文庫のポイントはすごいですよ。最初に交換しようと思い立って、手近にある新潮文庫を集めてポイントマークを切ったら、全部で300枚ぐらいありました。その後も新潮文庫だけでも年間100冊以上は購入するからすぐに溜まります。ここ数年マグカップやらブックカバーやらに交換してますが、マグカップなんてもう10個以上あります。もう、欲しいものがありません。
 で私は、こうしたポイント交換系について、積極的とまではいかなくてもかなり熱心に集めるのですが、それに反してクレジットカード系や航空会社系のポイント集めには、なぜか不熱心です。
 例えばマイレージ…って一所懸命ポイントを集めてる人、多いですよね。友人なんかはクレジットカードもマイレージに交換できるものに1本化して、特定の航空会社のマイレージを貯めていますが、私はけっこう海外旅行に行くにも関わらず、集めてません。まず、手続きが「面倒」ってのがあります。マイレージは申告しなきゃだめなので、つい忘れちゃうんです。また、格安のエアチケットで行くことが多いので、マイレージの対象にならない時も多々あります。また私が普段使っているクレジットカードはマイレージのポイントにもなるのに、手続きせずに放ってあります。
 あとは、デパートなんかのポイントも集めません。例えば私はオフィス近くの西武百貨店の書店で本を買うと「クラブON」ってカードでポイントがつくのですが、これもなぜか集めてません。私の書籍購入は「衝動」によるところが大きく、街を歩いていて目に付いた書店でバラバラに購入します。これをポイントのために1箇所に集中して購入する…という行動パターンに変える気はありません。もし、年間に購入する書籍の全てにポイントを付けてたら、数万円分にはなるはずなのに…

 しかし、こうした生活にもオサラバです(笑) 先日知人の女性に、私の購買行動がいかに「損をしている」かについて、滔々とお説教されました。彼女がパソコンを使って試算してくれましたが、私が年間使うクレジットカードの金額と、カードを使えるにも関わらず現金払いしている消費金額、そして年間に購入する海外の航空券…これらを効率よくマイレージに変えていけば、アジアなら年に3回、アメリカ・欧州なら年に1回はタダで行けるそうです。今後私は、マイレージポイントの獲得のために効率的にカードのポイントを集めることに決めました。
 でも、ライフスタイルが変わるような気がして、いまひとつ恥ずかしいような気もしてます。ラーメン屋のスタンプ集めるのは平気なのに、マイレージ集めたり、書籍買ってポイント集めたりするのはセコいような感じがするんです。何なのでしょうね、この変な感覚って…

2004/12/2

 フォトエッセー集やラジオ番組などで発表した詩の一部が盗作だったという、安部なつみの盗作事件、紅白出場を辞退するとかしないとか、まあどうでもいいような話です。「倒錯」事件なら面白かったのに…と、我ながらくだらないことを言ってます。小室哲哉、JUDY AND MARYやaikoなどの歌詞の一部が盗用されていたそうですが、笑ったのは相田みつをの作品まで含まれていたという話。相田みつをの詩(?)なんて、誰でも日常口にしている言葉ばかりだし、盗作もクソもないと思っちゃいますけどね。
 それはともかく、この手のタレントがフォトエッセーに自分で文を書いているとも思えない…というのが大方の感想でしょう。まあ、専門のゴーストライターを使うほどの文章でもなさそうなので、本人が書いたメモ程度の原稿と口述を元に、編集者か周囲のスタッフが適当にまとめたものでしょうね。だとすれば、周囲のスタッフがバカだったわけですね。本人を責めるのも意味のないことです。
 ゴーストライターと言えば、私にもちょっとした思い出があります。個人的にはゴーストライターというのはやったことがないのですが、編集をやっている頃には、「著者」の書いた文章をほとんど元の文章の姿を留めないほど書き換えたり、ほとんど内容のない口述筆記から起こした文をもとに1冊の本を書いたり…なんて仕事はよくやってました。まあ、ゴーストライターに近い仕事と言えなくもありません。
 受託編集の仕事の中には、スポンサー付きの出版、いわゆる自費出版に近い本の制作請負なんてのもけっこうあって、そんな仕事の中にある宗教団体から受託した仕事がありました。私が20代の頃の話です。
 宗教団体とは言っても別に怪しい団体ではなく(怪しくない宗教団体…なんて存在しないかも)、明治初期に神道事務局から独立し公認された「教派神道」の1つ…と言えば、まあある程度ピンとくるかもしれません。当事で、公称10万人以上の信者がいる大きな神道教団でした。で、その神道教団から「開祖の自伝」の編集・出版を依頼されたわけです。著者はその教団の教祖名になっていましたが、どうも教団に所属する誰かが書いたものらしくひどい文章でした。もう原文を名残を留めないほど手直ししました。まあ、その教団の開祖は歴史上わりと有名な人物でもあり、内容自体は面白かったので、特に嫌な仕事でもありませんでした。日本語とともに、英訳版の編集・制作も依頼され、確か日本語版数千部と英語版500部程度を作った記憶があります。
 で、出来上がった英語版を「世界中の日本文化研究者や日本文化研究を行っている大学、図書館等に無償で贈呈して欲しい」と依頼されました。どこに送るかの選定も任されたので、欧米の大学や研究機関を中心に適当にピックアップしてせっせと本を送った次第です。まあ、こんな本を贈られても困るだろうな…とは思いましたけど。送付作業の監修を担当していた私は、冗談で「アメリカのホワイトハウスにも送ってみたら」とスタッフに言ったところ、スタッフが本当にホワイトハウスに、しかも大統領宛に送付しちゃったのです。しばらくして、本を送付した世界中の大学や研究所、研究者から礼状が届き始めました。驚いたことに、その中にホワイトハウスからの礼状もあったのです。印刷とはいえ、大統領名付きの立派な礼状でした。で、私はそうした礼状をまとめて、依頼者である教団の事務局へ持っていたのです。それっきり、その仕事のことは忘れていました。
 数ヶ月経った頃、その教団から電話があり、東京支部まで私に来て欲しいというのです。訪れたところ、「教祖が会いたいと言っている」といわれ、立派な部屋に通されて教祖なる人物に会うことになりました。すると、いきなりその教祖に「ホワイトハウスから大統領の署名付きの礼状をもらってくれてありがとう」と言われ、びっくりしました。おそらくホワイトハウスの方では、ただ事務的に処理をしただけのことだと思います。礼状と言っても、別に感激するような代物じゃありません。しかし、教祖にとっては自分の著書がホワイトハウスに収められ、しかも大統領名の入った礼状まで来たと言うので有頂天になっていたらしいのです。
 その教祖は私に「○○君、いろいろとお世話になりました。個人的にお礼がしたい。ほんの気持ちですからこれを取っておいて下さい」と言い、渡されたのはずっしりと分厚い封筒でした。
 教団の事務局からの帰りに封筒の中を見たら、「100万円」入ってました。20年前の、まだ20代の頃の100万円ですから、当時としてはかなり遣い手があったと思います。私は、後にも先にも、他人から100万円のお小遣いをもらったのはその時だけです。税金が掛からない金だろうと思い、申告しませんでしたが、特に問題にはなりませんでした。

2004/12/1

 「重罰化」刑法成立 被害者基本法も…というニュース、併せて「犯罪被害者基本法成立」…というニュースもありました。
 昨今相次ぐ凶悪犯罪を考えるにつけ、「重罰化による犯罪抑止力の向上」という意見が出てくるのも止む無し…という気もしますが、ことの本質はそれほど単純ではないようです。昨今唱える人が多い「…加害者の人権だけを偏重し、被害者や一般人の人権や治安のことは無視してよいのか」という意見は、「人権尊重派」へのアンチテーゼとして、「強権国家」への道を開く可能性をも持っているからです。
 いずれにしても、こうした刑法重罰化への流れが固まった背景には、「凶悪犯罪が増えている」「特に少年の凶悪犯罪が増えている」という、世間一般の共通認識がありそうです。しかし、こちらに書いてあるように、実際には少年犯罪は減っているそうです。ましてや凶悪」犯罪は大幅な減少を続け、若者による殺人者率については10代の殺人者は30年前の6分の1にまで減っているということです。さらに、こうした資料を読んでいると、重罰化が本当に犯罪抑止効果があるかどうか、よくわかりません。
 少なくとも昨今の理解し難い家庭内殺人事件や幼児誘拐事件、凶暴な強盗事件やオヤジ狩りなどを行う犯罪者が、実際に犯罪を犯す段になって「量刑」を勘案するとも思えません。例えば、今回奈良で少女を誘拐し残虐な方法で殺害した犯人が、量刑なんてものを考えたでしょうか?
 量刑を勘案して悪さをするのは、暴力団やその予備軍であるプロの犯罪者、もしくはセミプロ犯罪者とも言えるイカれたガキどもであって、確かにこうした連中には重罰化が一定の効果を持つでしょうが、こうした連中を社会でのさばらせないためには、もっと別の取り組み方があるように思います。まあ、万引きなんかは重罰化が絶対に必要だとは思いますが、全ての犯罪に重罰化が必要かどうか、もっと冷静になって議論されるべきでしょう。

 強権国家云々の話はさておいても、どうも刑法の重罰化は、犯罪抑止力の向上目的と言うより、「被害者感情への配慮」と「報復」を求める殺伐とした世論に流されているような気がしないでもありません。そこで「…加害者の人権だけを偏重し、被害者や一般人の人権や治安のことは無視してよいのか」という意見に戻りますが、これは最近巷に溢れる「情緒的意見」と表裏一体になっている部分があります。つまり「被害者感情」を全面に出す「相手に反論を許さない」タイプの意見です。私は、どうもこの手の意見が嫌いです。知性を感じないし、物事の本質が曖昧になります。
 イラクへの自衛隊派遣問題でも、北朝鮮への制裁発動問題でも、この手の情緒的な意見や論法が大勢を占める勢いです。「被害者の気持ちを考えろ」というタイプの意見は、「反論しにくく」、しかも「あらかじめ反論を封じた物言い」です。同じ論法は、9.11のテロ事件後にも「テロ被害者の気持ち」を強調する形で米政府やマスコミが多用しました。私は、世論の中にこの手の「反論を許さない情緒的意見」が増えつつある現状に、危惧を抱いてます。
 でも、危惧を抱いているからと言って、別に何をするわけでもありません…

 今日はお昼に、吉野家の新メニュー「焼肉丼」を食べて見ました。特に不味いというほどのことはありませんでしたが、クドかったのでもう食べません。

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