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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2004/11/29

 「完成しないパズル--携帯電話新規参入巡る論争はいっそう複雑化」…というニュースは、ここのところ大きな話題になっています。ソフトバンクの主張は「公正な競争の促進」という面では確かに理に適ったものですが、逆に参入時期が早い事業者が先行者利益と有利な立場を得る…というのもある意味で当然です。なぜなら、マーケットが固まっていない段階での先行参入者はそれなりに大きなリスクと投資を背負うわけで、投資額も下がり確実に儲かることがわかった段階で参入する後発事業者が「先行者だけが有利な立場を得ているのはけしからん」というのは、ちょっと納得しがたい部分もあります。実際に、携帯電話ビジネスがスタートした時期には、ソフトバンクなんてこんな業界に入る意思を表明していなかったどころか、ただの「パッケージソフト問屋」だったわけですから。
 ただし、携帯電話事業に関しては「先行者利益」を当然のものと主張するようなマーケットではなかったことも、また確か。初期にはある面で国策事業的な部分があり、電波行政の中で手厚く保護された企業のみが参入を許された経緯がありました。従って、今回の争いは、「新規参入事業者も既存事業者も、どちらも勝手なこと言ってるなぁ」…というのが、正直な感想ですね。

 有限の資源である「電波」の既得権を問題にするのなら、実は携帯電話よりも大きな問題がたくさんあります。特に、伝播特性面などから最も使いやすいVHF帯からUHF帯にかけては、古くから放送事業者だけでなく、消防や地方自治体の防災、救急をはじめ、そして列車、トラック、タクシーなどの各種運輸事業者、新聞社、電力会社やガス会社など、既存の業界に「業務用無線」帯域として割り当てられています。これらの事業者は、こうした電波利用に関する既得権を絶対に手放しません。ちょっと古いテキストですが、「ユビキタス時代の周波数割り当て」という記事などを読むと、こうした事情はよくわかります。
 UHF以下のさらに低い周波数帯でも放送事業者を中心に、もうガチガチに電波が割り当てられており、使用権利を持つ誰もが絶対にその権利を手放そうとしません。数百キロ、数千キロと届く短波や中波の帯域となると、先進国の持つ周波数の記録件が近隣の発展途上国との間に摩擦を起こす例すらあります。
 例えばある新聞が、この携帯電話の周波数割り当て問題に関して、ソフトバンクなど新規参入事業者に好意的な論調の記事を書いていましたが、まあ「自分のことは棚に上げている」という感じを受けます。実のところ、新聞社や通信社は大手新聞社を中心に古くから、かなりよい条件の業務連絡用の無線周波数を割り当てられており、これを手放すことはけっしてないでしょう。ともかく、電波の既得権と言うヤツは、一度手にすると誰も手放さないのが現実です。

 「電波の既得権」と言えば、アマチュア無線もひどいものです。アマチュア無線なんて、その会員数から見れば、かなり好条件で電波の割り当てを受けており、私などは本当に必要かどうかを一度精査した方がよいと思っています。JARL(社団法人日本アマチュア無線連盟) なんて団体も、「既得権を主張するオッサンの集団」に過ぎず、最近はくだらない揉め事ばかり起こしてます。
 そういえば、最近このアマチュア無線がブロードバンド絡みの話題になったことがあります。それは、ADSLへのアマチュア無線の干渉問題です。「本当に大丈夫? ADSLとアマチュア無線の干渉問題(1)」、「同(2)」という2つの記事あたりを読んで頂ければわかりますが、1.8MHz、2.4MHzのアマチュア無線周波数がADSLに干渉を起こすのです。しかし、いまどき1.8MHzや2.4MHzなんて波長のバンドは、ごく限られたアマ無線家が電波を出しているだけでしょう。1.8MHzだと波長は160mですから、半波長ダイポールアンテナなら80mが必要となりす。ノイズも多いし、都市での運用はまず不可能でしょう。こんな周波数帯域でも、JARLは規制に強く反対しています。
 私はアマチュア無線の免許も持っていますが、もう「アマチュア無線の既得権」なんてどっちでもいい話。もし、隣近所で1.8MHz帯を運用しているアマ無線家がいて、自分の家のADSLに影響が出たら、即「やめてくれ」と言いにいくでしょうね。

2004/11/26

 どんな状況にあっても、夜眠れない…ということが久しくなかった私ですが、最近になって「眠れない夜」を経験するようになりました。相変わらず寝付きはよいのですが、深夜ふと目覚めるとベッドの中であれやこれやと考え始めてしまい、挙句にゴソゴソと起き出して、結局朝まで起きている…というような日が、週に1〜2度あります。起き出すのは、たいてい午前3時〜4時くらいが多いので、これは夜中に起きるというのではなく、早起きするようになった…と言った方がよいのかもしれません。こうした状況が、ここ半年ぐらい続いています。
 なぜ深夜・早朝に考え込むかと言えば、要するに「思い悩む」ことが増えたわけです。夜中に目覚めたベッドの中で考え込む内容というのは、仕事のことであったり、人間関係の問題であったり、健康の問題であったり、いろいろです。いや、最近になって個人生活や仕事の上で特に大きな問題が生じている…というわけではありません。基本的な生活パターンにも、自分の周囲を取り巻く状況にも大きな変化はありません。つまり、昔なら全く悩まなかったような小さな問題を、クヨクヨと考えるようになったのです。
 なぜこんな妙な事態になったのか、実は自分でもよくわかりません。唯一思い当たる理由が、「自分は年をとった」ということです。
 私は若い頃から、「将来の展望なき生活」を続けていることを、ある種誇りに思ってきました。「誇り」なんていうと大げさかもしれませんが、少なくとも、行き当たりばったりの人生を送ることは、自分の運命のようなものだと思っていました。20代の頃に、「家や土地を買わない、必要以上に財産を持たない、貯金をしない」ことこそが「シンプルな人生」と思い定め、事実その通り生きてきたわけで、それについては何ら悔いはありません。加えて、「必要以上に健康に気を遣う」ことも、意図的に避けてきたと言えます。長寿や健康に拘る生き方が嫌いでした。
 ともかくシンプルに生きてきたつもりだし、これからも同じようにシンプルに生きていくでしょう。それこそが「悩みのない人生」を送るコツだと思っていました。ところが、こうして実際に中高年になってみると、仕事や人間関係など自分を取り巻く状況は、むしろ複雑になってきています。妙な話ですが、シンプルに生きているつもりなのは自分だけで、その自分に関わっている周囲の人間は、いろいろな問題・悩みを抱えて生きています。例えば、私の年齢になれば、年老いた親を介護している人がいたり、子供の進学・就職問題で悩んでいたり、勤め先の会社からリストラされそうだったり、深刻な悩みを抱えている友人・知人が増えてきます。
 幸いなことに私自身には、親の介護の問題や子供の進学・就職の問題はないし、自営業なので会社の経営が傾こうとどうなろうと、もともと覚悟の上の生活です。こうして、自分だけは「シンプル」だと思っているうちに、周囲はどんどん複雑になってきて、そうした周囲の状況が自分自身に還って来始めた…ということのようです。
 いや、考えて見ると、若い頃は周囲の人間だって概ね皆がシンプルだったわけです。だから、自分もシンプルで居られた。しかし、自分1人がいつまでも若い頃と変わらない生活を送っているうちに、どうも自分だけが取り残されたようです。
 いや、本当に私は年をとった…と実感しています。

 ところで、だいたい私が夜眠りに就くのは12時半頃というケースが多いので、深夜・早朝に起き出すと睡眠時間が大幅に減ることになります。それは困るのですが、ここ1ヶ月ほどは「深夜・早朝に起き出して静かな時間を過ごす」…という状況を、少しづつ楽しむようになりました。ひとしきり考え込んだ後、夜明けまでの時間を読書をしたり、ケーブルTVで昔の映画を見たりして、ゆっくりと過ごすのです。時に1杯の日本酒や焼酎とともに過ごす深夜・早朝の時間は、意外と楽しい時間だと感じはじめました。
 空が白み、玄関のドアの郵便受けに新聞が差し込まれる音が微かに聞こえる頃、再びベッドに入る時もあります。そこで短い惰眠が得られると、ちょっと幸せな気分になります。

2004/11/24

 最近、日記を書かない日が増えています。多忙な上、非常に体調が悪い。ともかくつらいです。もうアップアップの毎日です。

「日本語力」低下 4年制私大、国立さえ「留学生以下」お寒い大学生…「憂える」=「喜ぶ」!?/短大生35%中学生レベル、…という今日の産経新聞の一面記事の話、出勤前に見ていた朝のワイドショーで取り上げられ、コメンテーターの勝谷誠彦がバカ学生が学ぶ大学に補助金なんかを出すなと怒ってましたね。同じ話を自分のBlogにも書いてます。まあ、補助金の件は私も同感です。でも、誰でも入れるFランク大が半分近いという状況や、バーベキュー入試をやる大学が存在する現実を思えば、「憂う」の意味がわからない大学生がたくさんいることぐらいは、不思議でもなんでもない。中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年制私立大で20%、短大では35%…という数字は、思ったよりも低いぐらいです。私は大学生の50%が「憂う」の意味がわからない…と言われても、別に驚きません。それよりも、この産経新聞の記事の中でもっとアホらしいと思ったのは、次の部分です。「…小野教授は『学生はダメだといわれているが、実際に(対策を)やってみると案外、伸びるという結果』とし、大学側が積極的に学生の日本語訓練に乗り出す時期にきていると指摘している」…って、何だ。大学で「日本語訓練」をやれというバカ教授がいることの方が驚きです。当たり前の話ですが、中学生レベルの国語力でも入れる大学が存在する…こと自体が間違っているのであって、そんな大学を全部無くせばいいだけのこと。
 いや、ここまでの話は前フリです。実は、この「日本語のレベル」について、今朝、自分自身が妙な体験をした…ということが書きたかったのです。

 今朝新聞を読んでいて、なんとなく真ん中あたりのページの片隅にあった求人欄を見ました。ある出版社の募集広告の中に、「フリーライター募集(細面)」と書いてあったのです。「ん?」と考えました。「なぜ、細面(ほそおもて)のフリーライターを募集しているんだろう。顔が太ったライターはダメなんだろうか?」…と。
 むろん、こう考えた直後に気がつきました。「細面」とは「委細面談」の略だってことに。いや、シャレにもならない話です。自分で気がついたとは言え、求人広告に書いてある「細面」を、例え一瞬でも「ほそおもて」と思った私は常識がないヤツ…なのかもしれません。でも「委細面談」を「細面」と書くことは、求人欄を全く見る必要がない私のような人間にとっても常識なんでしょうか? 私、求人欄なんて20代の頃以降、何十年も見たことがなかったし、職安(今はハローワーク?)にも行ったことがない。「委細面談」を「細面」と書くなんて、本当に知らなかったのです。自分で気がついたんだからエライもんだ、と思うんですけど…

 …ちなみに私は、本当に「細面のフリーライター」です(笑

2004/11/18

 「おやじシリーズ」って、何だコレ! こんなもの買うオヤジがいるんだろうか? これはある意味、「女性向け」と称してパステルカラーの文具シリーズを発売するのと同じです。ここまでステレオタイプに「おやじ」の趣味やライフスタイルを定義されると、アホらしくなります。むろん、私自身は囲碁も将棋も麻雀もゴルフも釣りも趣味じゃないし、歴史クイズなんかに興味はない。タイピング練習ソフトに美人講師が登場してくれなくてもいい。ましてや、ソフトの使い方をわざわざ「オヤジ向け」に解説してくれなくてもいい。ともかく、オヤジなるものの生態はもっと「多様」であると、私だけでなく私の周囲のオヤジ連中の名誉のためにも声を大にして言っておきます。ロック好きのオヤジも、パソコンを自作するオヤジも、そりゃもういっぱいいますから…
 オヤジ(中高年)の趣味の平均値がどうあれ、「オヤジならではの趣味」の極致となると、そりゃ絶対に囲碁、将棋、麻雀、ゴルフ、釣り…なんかじゃありせん。ましてや、ワインや温泉旅館や車やカメラや時計なんかでもありません。オヤジの究極の趣味は、やっぱり「女性」でしょう。
 男女を問わず中高年が趣味として嗜むと最も楽しいもの、それはやはり「異性と遊ぶ」ことでしょう。オヤジ(男性の場合)なら、すばり「女性」です。なぜなら、若い頃には異性との交際は「趣味」にはなり得ないからです。いろんな意味で、ついつい人生をかけちゃいますから…。中高年になると、「人生をかけることなく」、趣味として女性とのお付き合いを楽しめるようになりますね。
 私は最近やっと、「女性が趣味」と言い切れるようになりました。女性と話すのが大好きだし、女性と飲むのもいい、アウトドアで遊ぶのもいい。むろん気分を出してデートするのも好きだし、一緒に旅をするのも好きです。服を着た女性も好きだし、裸の女性も好き。女性の下着も好きだし、女性の匂いも好き。女性といっしょに寝るのも好きだし、セックスするのも好き。若い女性もいいし、熟女もいい、人妻もいい。美人もいいし、ブサイクな女性もそれなりに好き。賢い女性は好きだし、賢くない女性もそれなりに好き。愛嬌がある女性も好きだし、ツンと澄ました女性も好き。痩せてる女性もいいし、ぽっちゃりしてる女性も好き。要するに、許容範囲が広いんです(笑)。ただし、高校生以下はお断り。これは女性じゃなくて「お子さま」です。やっぱり趣味の対象は、大人の女性でなくちゃ。そして限度を超えて頭の悪い女性もダメかも。だって、遊びに行っても何も話すことがないと困ります。
 …あ、「男性と遊ぶ」というオヤジ、それもまたよしです。

2004/11/17

 ここ数日のワイドショーは、紀宮内親王のご結婚のニュースばかりです。
 私などは、今回の結婚は「婿入り」の形を取ってもよかったのではないか…と思ったりもします。紀宮内親王が皇籍を離れるのではなく、黒田慶樹を皇室に迎えてはいかがなものだろうか…という話です。いや、内親王が婿養子を取ることで男児でも生まれれば、男子の跡継ぎが誕生する可能性が高まる…なんてつまらない話を書きたいわけではありません。もっと単純な感想なのですが、紀宮内親王が一般人の生活をする…と言っても、近所からはたいへんな好奇の目に晒されるだろうし、ショッピングなどちょっとした外出も不便でしょう。夫婦でディズニーランドで無邪気に遊ぶ…と言ってもやりにくかろう…などと老婆心から推察するからです。むろん、この話は内親王ご自身の考えを無視したものなので、ご自身が一般人の生活をすることを望まれている場合には、まったく余計なお世話ですが…。

 それにしても普段は、至って軽くしか考えない「結婚(婚姻)」なる行為の本質について、天皇家の結婚話のたびに「社会的な問題」として考えさせられから不思議です(私だけかも…)。私などは離婚歴もありますし、結婚なんてものはまあ「人生の成り行きの結果」程度にしか考えていません。しかし天皇家の婚姻ともなると、「婚姻とは何か」についてあらためて考えさせられてしまいます。
 皇室の婚姻と社会論という話となると、私が真っ先に思い浮かべるのは「近親婚」の話です。言えば、中大兄皇子と間人皇女との例を出すまでもなく、古事記、日本書紀に記される天照大神の時代から近親婚に関する記述がたくさんあります。この「近親婚」は、古来から人間社会の形成に深く関わってきた問題です。

 そして「近親婚と社会論」…で、まず思い浮かぶのはレヴィ・ストロースでしょう。レヴィ・ストロースは、未開社会におけるインセスト(近親相姦)タブーの考察から始まって、「婚姻」という行為を「女性の交換・循環」と位置づけ、その婚姻を社会構成の基本的な要素と考えました。このあたりの話はご存知の方が多いでしょうが、例えば「社会的インセストとしての婚姻」と題されたこのテキストあたりにも詳しく書かれています。

 ところで、「永井俊哉ドットコム」なるかなり怪しいサイトに、「交換構造の社会システム論的分析」というレヴィ・ストロースの婚姻論に触れた記述があり、その中に次のような興味深いテキストがあります。
 「…近親婚に徹した社会は、かえって優生学的に安定した社会なのである。今、実験的にある夫婦(遺伝子型:Aa)の集団を取り出し、その子孫に近親婚をさせ続けたとしてみよう。まずその夫婦が産む子供の遺伝子型別の可能的比率は、AA:Aa:aa=1:2:1となる。さらに社会保障制度が発達していない多くの未開社会においてそうであるように、劣性遺伝子(a)の同形接合の結果である劣弱な子供(aa)は、成人して子供を作る前に死亡するかあるいは一生子供を作らないと仮定する(優性遺伝病もあることはあるが、症状の軽いものが多い)。すると孫の可能的比率は、残りの子供が相互に等しい確率で交雑するとして、AA:Aa:aa=4:4:1となり、劣性遺伝子が遺伝子プールに占める割合は、第二世代から第三世代にかけて大きく減少する。それゆえこの内婚社会は、最初のうちこそ動揺するものの、やがて劣性遺伝子を淘汰し、優性遺伝子の同形接合のみが生じる安定した遺伝を繰り返すだけとなる(突然変異によって有害遺伝子が発生した場合も同じプロセスを反復する)。このように徹底した近親婚はかえって遺伝形質の安定をもたらす…」
 いや近親婚の遺伝的な弊害を強調する話はよく聞きますが、「近親婚が遺伝形質の安定をもたらす」というのは、あまり聞いたことのない話です。この著者はけっこう怪しい話を書く人なので、あまり信頼できないと思いながらもちょっと調べてみました。  そうしたら、遺伝学の専門家が書いた「集団遺伝学講座」というテキストの中に、「…劣性の有害遺伝子が集団から除かれた後では、環境が変化せず近親婚が続くことで比較的高い適応度を維持することができることを意味する。自家受精を行う植物の種で繁茂している例は少なくない…」などと書かれていました。いちいち参考文献は挙げませんが、他にも同様の論旨の専門文献が多数見つかりました。
 ということは、「近親婚は巷間言われているほど大きな遺伝的悪影響をもたらさない」…というのが、学問的なコンセンサスのようです。

 とはいえ、こちらのテキストに書いてあるように、日本においては「…民法では婚姻の要件として『直系血族または三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない』(734条第1項)『直系姻族の間では、結婚をすることができない』(735条)とされ、近親婚が禁止されている」…という状況です。諸外国の近親婚規制の状況は、こちらの「インセスト・タブーの謎」というテキストに詳しく書かれていますが、国ごとにその規制の範囲はかなり差があります。
 多少の差はあるにしても、現代の国家で近親婚を禁止していない国はないでしょう。しかし、こうした「法による近親婚の禁止」が「遺伝疾患への影響」を理由にしていないとすれば、実は法律による「近親婚の禁止」には、もっと別な理由がありそうです。

 それは、同じ前述のテキストの中にある、以下の文に集約されています。
 「…これは『人間の尊厳』に近い概念から導出されていると考えられる。民法学では近親婚の禁止を、近親婚による遺伝疾患の防止など優生学的理由の他に、『道義人情に反する』『社会倫理的配慮』などのためとしている。広くは、公序良俗の概念の中に含まれると考えられ、上記の公的秩序により結婚という自己決定権が制限されている例と見ることができる…」
 要するに近親婚の禁止は、「遺伝的悪影響」が主たる理由なのではなく、「人間の尊厳」や「道義的・社会倫理的配慮」のため…ということのようです。
 そういえばこれも前述の「社会的インセストとしての婚姻」というテキストの後半に、次のような一文がありました。
 「…全ての婚姻はインセストであるというときのレヴィ=ストロースが、インセスト=自然、婚姻=インセストの禁止・否定=文化という単純で楽観的な二元論を想定していたのではない…」
 確かにそうです。

 いや、近親婚の禁止が「道義的・社会倫理的配慮」のためなんて当たり前の話じゃないか…、と言われる方も多いでしょうが、私としては「遺伝的悪影響」こそを理由と考えていたので、あらためて「じゃぁなぜ、近親婚が道義的にだめなのか?」と考えてしまった次第です。
 ちなみに私の両親は「従兄妹同士」です。むろん従兄妹は四親等で「三親等内の傍系血族」ではないので、私の両親の結婚に法的な問題はありません。しかし、天皇家の婚姻話から近親婚の問題へと連想が飛んだのは、こうした自分自身の遺伝的背景もあるのかもしれません。

 なんか、今日もバカな話を書いてます。

2004/11/15

 週刊現代に連載されている「スーパー外科医 平岩正樹 読む抗ガン剤」というエッセイは、時々気が向くと読んでいますが、今週号には面白い話が書いてありました。それは、新千円札の顔となった「野口英世」の話です。
 要するに野口英世というのは、医師から見ると「なぜお札の顔に選ばれたかよくわからない人間」だという話です。平岩正樹氏によれば、野口英世という医学者は医学上の業績をほとんど挙げていない…のだそうです。現在の医学の教科書には、野口英世の名前はほとんど登場しないとのことです。ロックフェラー研究所の研究員として一時期脚光を浴びたことは確かですが、死後の見直しによってその業績のほとんどが「無価値」とされたそうです。そればかりか、海外では「イカサマ学者」とする説もあるのだそうです。
 こんな形で野口英世を高く評価する向きもありますが、これはあくまで「医学者としての姿勢」の話であり、医学的な業績への評価ではありません。
 こうした医学面での話は詳しくはわかりませんが、私はたまたま歯科医師とのお付き合いが多く、以前東京歯科大学の関係者から、野口英世に関するエピソードを聞いたことがあります。…というのも、東京歯科大学の創始者である血脇守之助が野口英世の恩師であり、アメリカ留学の費用を出発前に使い果たしてしまった野口にお金を用意するなど、物心両面の支えになった人物であった…からで、その血脇守之助の資料の中には、野口英世に関する様々な逸話が書かれているとのことでした。こうした資料に見る野口英世という人物の実像は、金銭問題や名誉欲の部分で毀誉褒貶の激しい人物…ということになるそうです。特にお金にルーズだった点、そして周囲の人間に多大な迷惑をかけた自分勝手な人物として、多くの人の記憶に残っているそうです。医学者との姿勢はともかく、人間としての野口英世は、非常に欠陥の多い人間であったということは確かでしょう。

 それにしても、ある意味でこんな「怪しげな人物」が堂々とお札の顔になるとは、やはり日本という国全体が「道徳教育」を強化する方向に向かっているから…かもと、妙に勘ぐりたくもなります。
 そういえば、先ごろの毎日新聞に「左手の写った野口英世の写真見つかる」と言う記事がありましたが、要するに私以上の世代なら誰もが知っている「1歳半の時に囲炉裏に落ち、左手にやけどを負った話」…が、お札の顔を選定する人間たちの頭に焼きついていたのでしょう。ともかく野口英世は、「東北の極貧農家に生まれ、幼い頃の大やけどのハンディを乗り越えて世界的な医学者となり、しかもその人生をアフリカの名もない人々の為に捧げた人物」…という、道徳的な話を好む伝記作家が泣いて喜びそうな人物として、多くの日本人の脳裏に刻み込まれています。少なくともお札の顔に野口英世を選定した人たちは、「野口英世は高邁な人物であり、多くの日本人が見習うべき」と考えているのでしょう。
 ま、どっちでもいい話ですけど…

2004/11/11

 ここ数日情報が錯綜していましたが、どうやらアラファト議長が死去したようです。考えて見ると、アラファトというのは不思議な人物です。アラファトが権力を握っていく過程についての最も簡単な説明がこちらにありますが、そもそもパレスチナにおいては傍流組織であったファタハの指導者アラファトが、PLO代表として絶大な権力を握るに至った過程は、「予測できない歴史の流れ」や「運」をも感じるものです。ましてやノーベル平和賞を受賞して世界に認められるに至っては、かなり運の強い男だったのでしょう。
 そのアラファトに関するニュースで、驚いたものがあります。「アラファト廟」建設に着手?=議長府内にブルドーザーなど続々−パレスチナ…というニュースですが、世襲王朝ではあるまいし、死後に立派な廟を作る…というのはあまりにも馬鹿げた話です。アラファトを死して「パレスチナ解放の象徴」に祀り上げたい意図を持つ人物が周辺にいるのでしょうが、何よりも「民主的プロセス」が重要であろうパレスチナ解放運動に馴染まないことこの上ありません。そして、もしかするとアラファト自身も死後に「立派な廟」を作られることを喜ぶタイプの俗臭漂う人間だったのかもしれません。
 パレスチナの現状から見ると不相応な豪邸を持っていたアラファトという男が、かなり「俗世の権力」に執着していたことは確かなようですが、これを「カリスマ的な影響力を意図的に身につけることで混迷する中東情勢を導いていきたい」というしたたかな計算に基づいたものと見るか、「単なる金と権力の亡者」い過ぎなかったのかは、私などの知るところではありません。
 そんなことを考えていたら、今朝の朝日新聞に「公金10億ドル、どこへ アラファト氏、個人口座で管理」という、興味深い記事が掲載されていました。アラファトは、1人で膨大な額のパレスチナ自治区予算を牛耳っていたという話です。パレスチナ自治区予算の個人管理…という手法は、現在の混迷するパレスチナ自治政府の状況から見て、ある程度の妥当性も民衆の了解もあったのかもしれません。しかし、その記事によるとアラファトの側近や親類縁者などがみなその予算のおこぼれに預かって豪奢な生活をしている…とのことで、こうなるとどうも「パレスチナ解放の理念」なるものも怪しくなってきます。しかもアラファト死後の処理で自治政府と対立するソウハ夫人が、この公金から財産分与を求めているところなど、さらに話を怪しくしています。
 私は、以前この日記で、プロ野球選手会と経営者側との労使交渉後の記者会見の様子に触れて「…笑顔で握手を求める手を差し出す、瀬戸山代表の心の中には何があったのでしょう。今回のニュース映像を見ながら、1993年9月13日、アメリカ・ホワイトハウスで、PLOのアラファト議長とイスラエルの故ラビン氏が握手した瞬間を思い出しました。私は、どちらかといえば心情的に反イスラエルかもしれません。にもかかわらず、あの瞬間、満面の笑みで自ら手を差し出したアラファトには何か『微妙な卑小さ』を感じ、逆に強張った表情で握手を躊躇ったラビンの方に、なぜか誠実さ、正直さを感じたものです…」と書きました。思えばあの時のアラファトに感じた卑小さは、アラファトという男が本質的に持つ「俗っぽさ」を反映した可能性はあります。
 まあ、こんなことを書くとまた「オマエはサヨクか」と罵られそうですが、個人的には「パレスチナ解放」は歴史的に見て筋が通った要求だと考えていますし、イスラエルの過剰な被害者意識と領土拡張欲には歯止めを掛ける必要はあると考えています。しかし、そのイスラエルと硬軟対応を使い分けて交渉すべきパレスチナ自治政府側は、アラファトの死後、権力闘争が激化しそうです。加えて、ブッシュ再選によって抜き差しならなくなりつつあるイラク情勢を含め、中東全域は今後いっそうの政治的混迷の度を深めそうです。そして中東地域の政治的混迷が深まれば、遥か1万キロ以上離れた極東の地に住む我々の日常生活にも大きな影響があることを、あらためて考えてしまう今日この頃です。

2004/11/9

 ファルージャ攻撃に関するBBCのレポートは、日本の通信社が配信する記事大手新聞の記事や大手放送局のニュース等と比べると、その内容には大きな差があります。BBCのサイトは頻繁に内容が書き換えられていくので、私も注目しながら読んでいます。「イスラムから批判続出、宗教戦争の危険」という記事がありましたが、私も危うさを感じています。それにしても、こんな状況の中で「サマワは非戦闘地域変わらず」と言い続ける首相ってのも、なんだかなぁ…
 私は、宗教戦争はむろんイスラムに対する偏見助長に危惧を抱いていますが、この手のニュースを読むと暗い気持ちになります。貧困が要因での未就学児童の存在は、解消努力を続けていくしかありません。しかし、宗教的な理由は困ります。文化としての「女性の社会ポジションの差」が存在してもよいと思うのですが、教育となると話は別です。全ての人が等しく最低限の教育を受けられる社会…は、単に「理想」に留めるのではなく、断固実現するための国際的なコンセンサスが必要です。
 昨夜のニュースステーションに出演した石原慎太郎、古館伊知郎との対論を、たまたま行きつけの飲み屋のカウンターでサワー飲みながら見てました。内容はもう聞くに堪えないもので、とてもじゃないけど素面だったら絶対にチャンネルを回してます。突っ込む古館は支離滅裂、石原慎太郎は相変わらず内容のない倣岸な主張を繰り返す…ばかり。適当に聞いていたあげくの感想はといえば、2ちゃんねるのこちらのスレの皆さんと同じです。こんな愚にもつかないニュースショーをやってるこの国は、つくづくつまんない国だなぁ…と思った次第です。

2004/11/8

 昨日は日曜日にも関わらず午前中は広告関係の仕事、雑誌広告の最終校正に立ち会うことに。正午頃に仕事を終えて、午後は武蔵大学の朝霞グランドへ。ラグビーの関東大学対抗戦Bリーグの公式戦、武蔵大学 vs成城大学を見に行きました。成城大学ラグビー部といえば、今年の4月からあの松尾雄治が監督に就任して話題になったチーム。私の方は一応、武蔵大チームの応援です。なぜ武蔵大の応援かといえば、たまたま武蔵大ラグビー部のFWコーチを務める橋詰さんとお付き合いがあって…という理由。まあ、うちの息子が大学と同じ江古田のキャンパス内にある中高に通っていたので、武蔵には縁があると言えばあります。
 初めて訪れる武蔵大の朝霞グラウンドは、川越街道沿いのちょっと不便な場所にあります。東武東上線の朝霞駅からバスかタクシーに10分ほど乗らなければなりません。とは言え私は家が練馬区なので、東上線に乗り入れている有楽町線に乗れば、15分ほどで行ける場所。まあ、車で行っても駐車場があるかどうかどうかわかりませんから、とりあえず電車で行きました。
 朝霞駅に降り立つと、何やら駅前に人が多くざわざわとしています。タクシーの運転手に聞いたら、何でも昨日は自衛隊の朝霞訓練場で小泉首相や民主党岡田代表らも出席する観閲式が行われたとのこと。で、武蔵大グラウンドはその朝霞訓練場の隣です。グラウンドに着くと、既に観閲式は終わった後でしたが、訓練場内を移動する戦車は見えるし、上空をたくさんのヘリが飛んでいるし、何だかものものしい雰囲気でした。
 ラグビーの試合の方は、そんな周囲の騒然とした状況など関係なく、行われていました。まあ、大学ラグビーと言っても、秩父宮ラグビー場で華やかなスポットライトを浴びる早、慶、明、関東学院など一部リーグの試合とは異なり、それはもうのどかな雰囲気です。小さなスタンドには、両チーム共にOBや選手の友人、父兄などの関係者が数十人ほど見に来ているだけ。それでも、みんなで声を枯らして応援です。アットホームな雰囲気がまたいい。
 土埃が舞うグラウンドですが、もうホントに間近でラグビーの試合を見られるのが実に楽しい。目の前でスクラムが組まれる時など、選手の息遣いまでが聞こえてきます。力の限り走り、ボールを追い、タックルする選手たちを見ていると、時間の経つのを忘れます。
 試合の方は、武蔵大の快勝でした。試合終了近くになって成城のトライで追い上げられましたが、終了間際に挙げた鮮やかなトライで引き離し、見事な勝利です。前回成蹊大との試合を成蹊大グラウンドへ見に行った時には、ひどく負けたので今回も心配をしていましたが、快勝で何よりです。終了後に、応援した私達の前に並んで挨拶する選手たちの表情は眩しいほど輝いていました。
 それにしても、爽やかに晴れた晩秋の日曜日、午後のひと時の過ごし方としては、「2部リーグのラグビー観戦」はかなり上質な時間を得ることができます。この時期、午後3時を過ぎればもう太陽はかなり傾いてきます。その太陽に照らされてオレンジ色に輝く砂埃の向こう側を走る選手、プレーが止まった瞬間のグラウンドに長く延びる選手の影…、なんだかスポーツ雑誌のグラビア写真のような光景に酔うことができました。

 今日の日記、柄にもないフレーズを散りばめて、「爽やか系エッセイ風」を狙いました(笑

 ところで、昨日の試合には10倍ズームのC-755を持って行きました。高倍率ズームはスポーツ撮影向けですが、シャッターのタイムラグがあり過ぎて、「一瞬を切り撮る」のはかなり難しい。スポーツ撮影には、やはりタイムラグが最も短く連射も可能なデジ一眼じゃなくちゃ難しい…と感じました。
 撮影した画像を少し載せておきます(クリックすると拡大表示されます)。


2004/11/5

 人の生き様…なんてのはいたって個人差が大きいもので、「世代」などと称して年齢層で括ることにはほとんど意味がないと思っています。とは言え、商品のマーケティング関連の仕事をやっていると、どうしてもこの「世代的な括り」で傾向化する必要がある場面にぶつかります。
 さて、その「世代的な括り」の中で、最近際立ってメディアで話題となることが多いのが「団塊の世代」ってヤツですね。年金問題、介護保険問題、退職金問題などが話題になるとまず間違いなく「段階の世代」の存在がクローズアップされます。当然でしょうね、団塊の世代の中核をなす1947年から1949年生まれだけで、約1000万人もいるのですから。
 そして、商品やサービスのトレンド、マーケティング話においても、最近はやたらと「団塊の世代」が登場します。まもなくというか、既に一部が退職時期を迎えつつある団塊の世代は、相対的に見ると生活にゆとりがある「富裕層」が多いわけで、不況下の日本にあってはかなり大きな購買力を持っています。ツアー旅行やホテル・旅館、ワインやグルメ、そしてAV機器や楽器などの趣味分野に至るまで、団塊の世代を無視して商品やサービスのコンセプトは成り立ちません。バブルの時代に消費を引っ張ったのは若い世代でしたが、最近の若い世代はフリーターばかりでお金がない。そこで、がぜん団塊の世代に注目が集まるわけです。
 こんな話を書き始めたのは、実は今日、某広告代理店のスタッフと某Webサービス立ち上げのための会議をやっていて、「団塊の世代の消費特性」が重要なテーマになったからです。その会議の場にたまたま団塊の世代の属している人がいなかったので、イマイチ噛み合わない議論をやってしまいました。
 で、「団塊の世代」に固有の特性、例えば趣味特性や消費特性があるのかというと、これはもう同じ中高年でも世代が違う私なぞにはよくわかりません。日本経済の転換期、そして戦後文化の転換期を生きてきた方たちだというのはわかりますが、高度経済成長やら全共闘運動やらの「同時代体験」があったとしても、それらに対する関わり方は人それぞれのはず。日経新聞の「されど団塊なんて記事を読んでもピンときません。ともかく、「政治、思想から趣味や日常生活に至るまで、何らかの信念や理念を持っている人が比較的多い世代」のようです。

 こんな話の流れでつい真剣に考えてしまったのが、「自分が属する世代」のことです。団塊世代よりも一世代下の私達の世代となると、「まとまった世代」としての傾向についての情報がほとんどありません。どうも「ポスト団塊」の世代と呼ばれるらしいのですが、はっきりとした特性や傾向がないようです。
 団塊世代が大学生あたりで体験した、世界中に吹き荒れた公民権運動も日本の全共闘運動もベトナム反戦運動も、そしてラブ&ピースのウッドストックやヒッピームーブメントなども、ポスト団塊世代である私などは小学校高学年から中学生になったばかりの頃の体験ですから、とてもじゃないけど「リアルタイムで体験した」とは言えません。だから、思考・思想的な部分で強いインパクトを受けるような社会変化には立ち会っていない世代と言えます。高度経済成長期の真っ只中と言うよりも、既に豊かになった後の日本経済の恩恵をかなり受けていますから、自活ベースでもモラトリアム時代を過ごす余裕があった人も多いかと思います。
 この、私が属する「ポスト団塊世代」について、いったいどのように分析されているのかちょっと興味を持ち、Webをあたってみました。
 まずは、私が嫌いな稲増龍夫「パンドラのメディア」(筑摩書房)によれば、「団塊の世代は理念を盾に伝統を破壊したし、ポスト団塊世代は常にトレンドを知っていたいという『先端感覚』につきまとわれてきたが、団塊ジュニアは肩の力を抜いて古いものにも価値を見いだし、快楽だけを軸に評価を下す。ともかくポスト団塊世代は、つねに流行りものに追いついていないといけないという強迫観念につきまとわれていた…」などと書いてあります。
 こちらのサイトによると、「…団塊の世代が高度成長期の真っ只中で育ったのに比べて、ポスト団塊の世代はもっと豊かな物質文明の恩恵の中で育った世代である。彼らが中学生の頃には、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器は揃い、豊かな時代を享受してきた。…団塊の世代は自信過剰で、前後の世代から疎まれる傾向がある。いい悪いは別にして、『こうすべき』『こうあるべき』という確たる信念を持っている。しかし、ポスト団塊の世代は、そうした生き方を嫌い、むしろ否定する。どちらかと言えば『楽しければいい』という感覚で生きてきた。ポスト団塊世代はそういう世代である…」と書いてありました。
 この手の世代論に共感することなどほとんどない私ですが、自分のことを考える時、上記の2つの論考は、ある程度当たっているかもしれないと思いました。サラリーマン家庭である私のうちでも、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器は小学校に上がる前から揃っており(自宅に電話がひかれたのは小学校2年の時、自家用車を購入したのは小学校4年の時でした)、今ほどではないにせよ、一定の豊かさの中で生きてきました。そして、ポスト団塊世代である私は、「流行やトレンドを追っかける」ことが嫌いではなかったし、「楽しければいい」という享楽的な人生を過ごしてきた部分が、間違いなくあります。そして私の中学時代、高校時代の友人とたまに会う度に、いつも各自の生き方の多様性、そして考え方や価値観に多様性を感じます。私の同世代には、あまり「共通した価値観」がないように思います。よく言えば多様であり、悪く言えばみんな考え方はバラバラでした。

 ところで、この私と同じように「流行やトレンドを追っかけ」「楽しければいいという享楽的な人生を送る」…今の10代ぐらいの若者たち、…渋谷の路上に昼間から座り込んでいたり、フリーターをしながらクラブ通いを続けているような、私たちの子供の世代である10代後半の若者たち…と、自分たちはどこが違うのかということです。

 ここで思いついたのが「競争」と言うキーワードです。
 私たちの世代は、勉強でもスポーツでも、かなり苛烈な「競争」を余儀なくされ、その競争を自然に受け入れてきた人間が多い世代です。むろん住んでいた場所や環境による差異はあるでしょうが、特に「勉強」では厳しい競争を課せられた人が多いと思います。団塊の世代ほどではないにせよ、私が通っていた名古屋市内の小学校は入学者の急激な増加に晒され、校庭にプレハブ作りの臨時教室を建てていました。1クラスは55人もいて、小学校全体では1800人にも達するマンモス校で、学力アップに熱心な先生ばかりでした。同じくマンモス校であった中学校は、高校進学に熱心であり、ごく普通の公立校でありながら、中間テスト、期末テストごとに全校生徒の成績順位を公表していました。高校も同じです。テストの成績は、全校生徒の分が職員室前の廊下に貼りだされていました。むろん運動会では「順位を決める」競技が普通であり、小学校の運動会の徒競走の上位者には、賞品がくばられたことを記憶しています。
 小さい頃からこうした「競争」に晒され、日常の様々なものに順位をつけられる中で、私は、いやでも「自己と他者との差異」について考えさせられてきました。最初は「能力の違い」を考え、長じるにしたがって「考え方の違い」「生き方の違い」といったものを考えてきました。今考えると、それが「本当の個性」を育むことに役に立ったのではないか…と考えます。
 「流行やトレンドを追っかけ」「楽しければいいという享楽的な人生を送る」…今の10代ぐらいの若者たちは、そうした思考様式・行動様式自体は、私達の世代と大差はありません。しかし、「自己と他者との差異」について、根源的に考えているようには見えません。競争に晒されていない若い世代の唱える「個性」は、実はたいした差を生んでいません。「ナンバーワンでなくともオンリーワンであればいい」などとくだらない歌に影響されて思いつく「自分らしさ」や「個性」は、しょせんは「本質的な個性」に程遠いものです。競争に晒される中で自分の能力を思い知り、他者との能力の差を体で覚えた…ところから考え始める「オンリーワン」とは、質的な違いがあります。

 昨今、「ゆとり教育」へのアンチテーゼとして「競争」を見直す動きが顕著です。目的は「学力アップ」でしょう。確かに「競争」は学力アップに有効な手段ではありますが、それ以上に「本当の個性を育む」ためにこそ有効だと思うのです。個性の第1歩は、「持って生まれた能力の差」を知ることです。そしてまず「能力の差を埋める」ために何をすればよいかを考え、散々もがいたあげくに「能力の差を無理に埋めなくても、違う道を歩めばよい」と考えるところから、何かが始まるのかもしれません。
 私は「競争」って、けっこう大事だと思います。

2004/11/4

 こんな話は私なんかが書かなくても、数多の政治評論家やニュース解説者が喋ってますが…、ブッシュ再選についてのささやかな感想をひとこと。
 やはり、ブッシュには勝って欲しくなかった…というのが個人的な本音です。別にケリーが好きってわけじゃないし、民主党の方が世界はマシになるなんて思ってるわけじゃないですけど…。
 実際には、ブッシュだろうとケリーだろうと、アメリカの基本政策がたいして変わるわけじゃないでしょう。ブッシュが推進してきた「単独覇権主義」「イスラエル支持」「イスラム国家の強制民主化」などのタカ派的な政策が、ケリーになったからといって「国際協調主義」「パレスチナ和平」「イスラム国家との融和政策」といった方向に、急に舵が切られるとも思えません。ケリーだって十分にタカ派だし、例えケリーが勝って国際協調路線を打ち出したところで、共和党が多勢を占める議会の中での政策転換は難しい。そして何よりも、現在のイラクやパレスチナ、そしてアフガニスタンの状況を見る限り、既に中東においては「協調・融和路線に戻る」ことが不可能なほど混迷を深めています。世界は「後戻りできないところに来てしまった」というのが、私の考えです。どっちに転んでも、世界は「もうだめぽ」です。望みはありません。
 ブッシュとケリーの唯一の顕著な政策の違いは、「財政赤字の拡大を図るブッシュ」か「財政赤字の縮小を図るケリー」か…という部分だけのように思います。これについては、ケリーの政策の方が、短期的には明らかに日本に対するダメージが大きいのは自明。ケリーが勝っていたら、日米貿易摩擦の再燃はむろん、アメリカの世界政策におけるより大きな資金負担を日本が求められることになったでしょう。その意味では、日本国民はブッシュが勝ってとりあえずはホッとすべきなのです。
 それでも私が生理的に「反ブッシュ」であったのは、アメリカと言う国が本質的に好きだから…としか言いようがありません。私がアメリカを好きな理由は、「多様な価値観が認められる混沌とした国」であったからです。やはり「キリスト教原理主義の白人」を強固な支持基盤とするブッシュにとって、「多様な価値観」や「混沌」は絶対に認められないものです。今後のブッシュ政権下では、ゲイにも、ポルノにも、そしてアートや音楽分野での表現の自由にも、ますます厳しい規制がかかっていくでしょう。なんだか「健康帝国ナチス」のように変貌していくアメリカは、もう「かつて住んだ私の好きなアメリカ」とは違う国です。この点だけは、ケリーによって一定の歯止めがかかった可能性がありました。
 今後4年間のブッシュ政権下でアメリカはますます孤立を深め、財政赤字の拡大からくる経済の下降によって、間違いなく国力が衰退していくはずです。4年後にヒラリー・クリントンが大統領になっても、経済の建て直しに関しては手遅れになっているかもしれません。
 私は、残り少なくなった人生が終わる前に、「アメリカ」と「日本」という20世紀末を代表とする2つの経済大国の破綻と衰亡を目にすることになりそうです。


今は遠いあのころ
音楽がいかに僕に微笑みを与えてくれたか
僕は今でもはっきりと思い出すことができる
僕にその機会があれば
僕もいつか僕の音楽で人々を踊らせてあげよう
みんなきっと喜んでくれるはず
そんなことも考えてた
でもあの吹雪の凍えるような2月に
僕が配って歩いた新聞に悲しい知らせが
ドアステップで僕は凍りついた
残された彼の若き未亡人の記事を読んだ時に
僕は声を上げて泣いたのだろうか?
僕の心深くに沈んだあの思い
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

聖書を書いたのはあなたでしたか?
あなたは神の存在を信じていましたか?
聖書にそう書いてありましたか?
君はロックンロールを信じるかい?
音楽が君の魂を救うと思う?
君は僕に本当にゆっくり踊る方法を教えてくれる?
僕は君が本当に彼を愛していたことを知っている
だって君はいつも体育館で踊っていたもの
みんな裸足になって、リズムアンドブルースにのりまくった
僕は寂しきティーンエージの喘息持ち
ピックアップトラックにはピンクのカーネーション
でも結局は僕にはつきがないことを知らされた
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

あれから10年もたっちまって、俺ももう一人前
ころがる石にも苔がみっちり
こんはずじゃなかったのに
ディランがジェームスディーンから借りたコートを着て歌った時に
俺たちは驚いた
それでエルビスがよそ見しているすきに
彼が新しい王様になった
別に異議を唱える者もなかった
レノンがマルクスを読んでいたころには
シェイスタジアムの演奏は練習レベルだったし
お先真っ暗という感じだった
音楽が死んだあの日を思った

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

ぐったりくるような、ヘルタースケルターの夏の惨劇
バーズは8マイルの高地の壊れゆく巣からおん出て
スンゴイ勢いで落下していった
グラスに着地するなんて反則だぜ
ディランも一枚かんでいた
休むなら休むでいいけど
サージェントの行進曲にはうんざりで
俺たちは踊りたかった
でもそのチャンスがなかった
奴等は自己主張ばっかりで
絶対行進曲をやめない
あらわになったことは結局なんだったかわかるかな?
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

みんなが同じ場所に集まった
あの世代にはほかに行くところがなかった
やり直すにも遅すぎたし
だから目鼻がきくジャガーにお願いして
すばやく蝋燭に火をつけてもらった
火は悪魔の唯一の友達だから
奴のステージを見ていると
俺の拳に怒りが満ちてきて
地獄に天使はお呼びじゃない
悪魔の呪文から逃れるすべもない
炎が最高潮に達した夜
聖なる犠牲にスポットライトがあたったというわけ
俺は悪魔が嬉しそうに笑ったのを見たよ
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

俺はブルースを歌う少女を知った
俺はジャニスの幸福を願った
しかし彼女は微笑みと共に逝った
それで教会に行った
昔はそこで音楽を聴いた
でももう音楽はやらないんだって
通りではガキどもが絶叫している
恋人たちは泣いている
詩人は夢を見ている
しかし言葉がない
教会の鐘も壊れたまま
結局俺が信じられる者は
父と子と精霊のみ
彼らも汽車に乗って彼岸の地に行ってしまった
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った「THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE」これでこの世界もおしまいだ

Don McLean's   「American Pie


2004/11/2

 先日、Amazon.comで格安のノートPCを購入しました。HP「nx5000」というCeleron M310、HDD 30GB、DVD-ROM/CD-RWコンボドライブ、IEEE802.11b無線LAN搭載のノートで、なんと実売価格は82,300円(商品券バックを含む)。バルクの256MBのSO-DIMMを4800円で買って512MBに増設したら、もうこれがサクサク動きます。14.1インチ液晶を搭載したデスクトップノートながら、比較的薄めで重量も2.5Kgと軽め。バッテリーで4時間駆動するし、無線LAN接続で家の中を移動しながら使う分には申し分のない性能です。まあ値段が値段なので外装に質感はまったくありませんが、Celeron M310はサクサク動作するし日常の使用には何の文句もありません。確かこの機種は、以前もこの日記で書いた台湾の最大手パソコンメーカー「広達電脳(Quanta)」の製品のはずです。  それにしても、これだけの機能を備えたノートPCがこんな値段で買えるとなると、パソコンメーカーってのは儲からない商売です。ノートPCも超軽量モバイルタイプを除けば、10万円以下でいくらでも買えるし、デスクトップPCに至っては、直販メーカー製なら、かなりの性能のPCが15インチの液晶モニタ付きで6〜7万円で買えます。
 だからと言うわけではないでしょうが、有名メーカー製パソコンはひたすら余計な機能を搭載して「高付加価値化」路線を走っていますね。
 デスクトップもノートPCも、儲けるための付加機能としては、「TV録画機能」「AV機能」が筆頭です。先日ちょっと欲しいものがあって新宿のヨドバシカメラ本店に寄った時に、めったに見ないメーカー製パソコンのコーナーを覗いたら、いやすごいことになってました。TVチューナーと記録型DVD搭載機ばかり並んでおり、それも裏番組を録れるダブルチューナーや地上デジタル放送用のチューナーまで搭載している機種があります。記録型DVDも2層式が主流です。液晶は、どれもみんな「クリア液晶」ばかり。そして何よりも驚いたのは、確かNECのデスクトップだったと思いますが、23型ワイド液晶を採用した製品があったことです。実物を見ると、確かに画面は巨大。でもここまで画面が広いと、かえって通常のビジネスソフトを使う作業には向いていないように思います。私なんかDTP用のマシンですら19型の液晶を使っており、それだって日常的にワープロを打つ程度の作業に使うと、画面が大き過ぎてかえって使いにくい。1600×1200ドットの解像度だって、オフィスソフトを使う程度の作業時にはかえって面倒な時もあります。個人的には、眼とモニタ画面の距離、表示フォントのサイズ、机の上に置いた時の威圧感などを考え合わせて、17型液晶モニタをSXGAで使えば十分です。日常の原稿書きなら15インチ液晶とXGA画面でも十分です。

 それで思ったのですが、こんなデカイ液晶画面といたれりつくせりのAV機能を搭載したPCって、いったい誰が買うんだろうということです。誰が買うか…よりも、どこで使うか…が、イメージできません。確かに23型液晶ってのはPCの画面としては大きいけれど、TVの画面としては半端に小さい。一般家庭のリビングでは全く物足りないサイズです。でも、書斎や勉強部屋でPCの画面として使うには、どう考えても大き過ぎます。PCとTVを兼用する…という使い方は、比較的狭い部屋に住む学生や独身者に限定されるでしょう。しかし、この手のユーザはこんなバカ高いPC(確か40万円近くしました)を買うほど購買力が高い層は少ないでしょう。逆にリビングで大型TVを見る子供もいる家庭では、あまり役立つとは思えません。お父さんの書斎用なんでしょうか。そのためにここまで豊富な録画機能、AV機能が必要でしょうか。これをHDDレコーダー代わりに使うと言う手もあるかもしれません。むろん、PCのHDDに録画したTV番組をリビングの大型TVで見る方法はいくらでもあります。最近では「ネットワークメディアプレーヤー」のような商品が各社から多種市販されています。でも、この手の商品は私たちPCユーザーにとっては簡単に使えますが、一般家庭で簡単に導入するようなものとは違います。また、HDDレコーダー代わりに使うには、40万円という価格も高過ぎます。
 私なんかは、リビングでは大画面TVと適当な機能のHDDレコーダーがあればいい。そして自室のPCはシンプルで基本機能が満足できるもので十分。自室でTVを見るのなら、そのビジネス用パソコンにTVチューナーが入っているか、または小さな液晶TVが別にある方がいい…と思います。番組録画はリビングのレコーダーですればいいだけですから…

 ともかく私は、23型液晶と高度なAV機能を搭載した40万円もするWindowsパソコンを見ながら、「こんなもの売れないだろうなぁ」「こんな機能を付けて高付加価値パソコンを作らないと商売にならないパソコンメーカーは気の毒だなぁ」…なんて考え込んでしまいました。

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