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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/10/30

 朝から見ているニュースによれば、イラクで誘拐された香田証生君は、まだ最終的に確定されないながらも、どうも殺害されたようです。ご家族の心痛は察するに余りあるし、心無いイヤガラセ電話などをする人間を憎みます。
 若い頃から海外旅行が好きで海外旅行歴も比較的豊富な人間の1人としてまず思うのは、あまりにもリスクを考えない行き当たりばったりの旅行プランが、今回の事態を招いた…ということです。
 私自身も若い頃にやったバックパッカースタイルの旅行では、アメリカやアジアでかなり無茶をしました。「旅行者は足を踏み入れない方がいい」と言われている、都市部で治安が悪く危険な場所を、深夜1人で歩いたりするのはかなり当たり前の行動でした。また、紛争の気配がある国境地帯で長距離バスに乗ったりもしました。むろん当時の自分として「最大限の用心」はしたつもりでしたが、今になって考えると非常に危険な行動であったことはよくわかります。私はこうして現在生きていますが、もしどこかで殺されていても文句を言えた筋合いではありません。
 また旅行先では、私よりも無茶な行動をする人にもたくさん出会いました。ジャーナリストではない「ただの旅行者」にも関わらず、「準紛争地域」に興味本位で足を踏み入れる人もたくさん見ています。1980年代の紛争終了後のカンボジアや軍事政権に変わる前後のミャンマー、そしてインドとパキスタンの国境地帯であるカシミール地方などに、平然と出かけるバックパッカーはたくさんいました。
 「若い」ということは、そういった「ある程度危険な旅行」が認められるべきだと思うし、ジャーナリスト志望などではなくても、「何でも見てやろう」という強い興味を背景にさまざまな海外体験をしてみたくなるものです。そして、そういう志向を持つ人間を、私は基本的に好きです。パック旅行ではない奔放で自由な海外旅行は、その後の人生に、時として「大きなもの」を与えてくれます。若い時代の興味本位の無軌道な海外旅行がきっかけで、本物のジャーナリストや旅行作家になった人は、世の中にたくさんいます。  だから私は、「単なる旅行」「興味本位」でイラクに入国した香田証生君を、頭ごなしに非難することをしたくはありません。
 しかし、現在のイラクの状況は、おそらくそのあたりの「リスク承知の旅行」の範囲を超えているほど危険なものです。要するにイラクは、「軍事紛争地帯の真っ只中」で「戦場」です。ここら辺の状況は、普段ニュースを見て、ネットでも情報を収集し、さらに入国直前のヨルダンあたりで現地情報を収集すれば、かなり正確に判断・認知できるはずです。その判断を誤った、またはそうした海外旅行時の常識とも言える情報収集を怠った香田証生君には、ある意味で「殺されても文句は言えない」…というレベルでの指摘があってもやむをえないでしょう。前回の人質事件以降やたらに使われる「自己責任」という言葉は好きではありませんが、それでもなお今回のケースでは「自己責任」がゼロと言うわけではありません。
 しかし忘れてはならないのは、もし今回の誘拐犯が巷間伝えられているように原理主義集団のザルカウィ一派だとすれば、彼らは誘拐した外国人の人質を全て殺しているわけではありません。例外的にスパイ行為を指摘されたエジプト人以外は、イスラム同盟国の人質などを解放しています。もし日本が、「アメリカのイラク侵攻に一貫して反対する姿勢を堅持し、なおかつ自衛隊を派遣しなかった」…とすれば、日本人である香田証生君は誘拐されなかったかもしれないし、また殺害されずに開放されたかもしれない…という点です。
 私は、だからと言って「今回の誘拐事件は日本政府が悪い」などと言いたいのではありません。現実に日本政府はブッシュ率いるアメリカのイラク侵攻を支持し占領に協力しているわけですから、香田証生君のイラク入国はそうした「現実」をベースに判断されるべきであったとは思います。
 ただ、「日本がアメリカのイラク侵攻に一貫して反対する姿勢を堅持し、なおかつ自衛隊を派遣しなかったとすれば」という仮定…が存在することだけは、忘れたくはありません。貴重な何かを得るために世界中を旅行する若者、いや若者だけでなく海外へ出る全ての日本人に対して「優しい政策を採る政府」であって欲しいと思うからです。

 最後に付け加えたいことがあります。先に「パック旅行ではない奔放で自由な海外旅行は、その後の人生に時として大きなものを与えてくれる」…と書きましたが、最初から「なにも得ようとしない」海外旅行をする若者もまた多い、という現実があります。若い時代のモラトリアムをある程度認めるにしても、許される限度を超えた人間が多いのです。バンコクのカオサンやカトマズのタメル、そしてカルカッタのサダルストリートなどへ行けば、何もしないで怠惰に、ただ時間が過ぎていくのを待つ20代後半から30台前半の日本人の青年がたくさんいます。彼らの中には、非合法な仕事で小金を稼ぎながら、こうした地で3年、5年と過ごしているうちに、勤労意欲をなくしていく若者がたくさんいます。さらに、売春目的でアジア各地に出没する若者もたくさん見ています。

 何だかこの国は、政府も、そして後世の社会を担うべき若者も、どちらも救いがたい絶望的な道を歩んでいるような気がします。

2004/10/29

 昨日開催された園遊会で、今上天皇を前にして、いきなり肩肘張った大声で「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」…とのたまった東京都教育委員の米長邦雄…。それに対して「やはり…、強制になるというものでないからね…」と、にこやかにはぐらかされた今上天皇。そこで米長邦雄が、「もちろんそうです。素晴らしいお言葉ありがとうございます」…と冷や汗をかきながら答える…。いや、なかなか面白いやり取りでした。
 東京都教委が「日の丸・君が代」の扱いに絡んで、職務命令に従わない教職員を大量に処分した件があったため、この発言の真意を巡ってはあちこちで大騒ぎになっており、宮内庁は「これまでの政府の見解とも一致しており、常識の範囲の話であり、特定の施策について見解を表明されたものではない」と慌ててコメント。次いで南野法相が「一人ひとりの価値観(の問題)だから、自主性に任せていいと思う」と都教委の対応に疑問を呈する発言を。さらに今度は、文科相が「教師は職務命令に従う義務がある」と発言して、都教委の方針を支持するなど、各方面のドタバタぶりはなかなか愉快です。

 でも私は、今回問題となった園遊会でのやり取りをニュースで見ながら、全く別のことを考えていました。
 今上天皇にとって園遊会なる公務に出席することが楽しいことかどうかはわかりません。ただ、公務とは言え、菊のカーテンの内側の日常から離れて様々な民間人と会える数少ない機会です。そんな機会に、各方面で活躍する招待者とホンの一言か二言の言葉を交わすのであれば、自分の知らない世界を教えてくれる言葉を聞きたいであろうし、気の利いた洒脱な会話を楽しみたいと思われるのが当然でしょう。そこへ、いきなり「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」…なんて微妙な政治問題を孕んだ言葉を、肩肘張った大声で言われたら、「オマエ、バカか」とは絶対に言えない立場の今上天皇は、皮肉のひとつも言ってやりたくなったに違いありません。要するに、米長邦雄って男は「無粋」なバカなんです。おそらく天皇は、「こいつ、いったい何を言い出すんだ?」と、カチッと来たに相違ありません。そこで、「やはり…、強制になるというものでないからね…」ヘコませちゃったんでしょうね。
 いや、今上天皇は世情によく通じていらっしゃるとのだと思います。おそらく、「日の丸・君が代」の扱いに絡んだ都教委による教師の大量処分の経緯も、それに関して政府や世論がどのように反応しているのか…なども、全てをよく理解しているのだと思います。僭越・失礼ながら、頭の良い方だと感心しました。

 もう1つ、今回の天皇発言で思ったことがあります。それは「サヨクは困っただろうな」ということ。いや、「何が何でも日の丸・君が代」という米長邦雄やら石原慎太郎のようなファナティックな人達が天皇発言で困ろうと喜ぼうと、別に知ったことではありません。それよりも、「天皇制反対→日の丸・君が代反対」という硬直した思考の旧来型のサヨクの人々が、今回の天皇発言でさぞや困っただろうと思うと、なんとなく愉快です。だって、「日の丸・君が代反対」の根底に「天皇制反対」がある人たち(例えばガチガチの日共系組合教師等)にとって、「天皇の言葉」に依存して、「そらみろ、やっぱり処分は間違っている」…とは言えないでしょうから。ホント、今回の園遊会の一幕は面白い出来事でした。

 …あ、私は「学校で日の丸を掲げ国歌を斉唱することの是非」についても、「教育現場で日の丸・君が代を強制することが正しいかどうか」についても、「都教委による教師処分の是非」についても、ここでコメントを述べるつもりはありません。
 ともかく、今回の園遊会での今上天皇の発言を、私のように右でも左でもない人間が見ると、こんな感じで受け止めるのです。

2004/10/27

 「…すみませんでした。また日本に戻りたい」…と弱々しく語る青年は、「福岡出身の香田証生」なる人物とのことです。「NGO関係者でも、ジャーナリストでもない個人旅行者」という彼のイラク入国経緯については、こちらにかなり信頼できる記述があります。
 彼の入国経緯や入国の動機についてはまだまだ情報不足ですが、またしても「自己責任」の声が嵐のように浴びせられそうな状況です。確かに、言われているように「純粋な個人旅行」で、しかも反対を押し切って現在のイラクに入国したとすれば、さすがに「リスクを考えない無軌道な行動」として非難されるべき部分は多いでしょう。だからといって「何もせずに放っておけ」…とは到底思いませんが、ジャーナリストでもないのに「戦場を見に行こう」とは、常人には理解できない行動に出る人がいるもんだ…と、つくづく思います。基本的にはイラクへの自衛隊派遣に反対の立場である私ですら、彼が人質になった事態と自衛隊派遣の是非の問題との間には、多少の距離があるように感じます。とは言え、私などは、大量破壊兵器もない、従ってイラク侵攻の大義もないという状況、さらには各国の駐留部隊が来年春までに続々と撤退しようとしている状況、あのイギリスですら撤兵論が高まっている状況…の中で、今回の事件は「イラクからいち抜けた」という行動のためのよい機会だとも思います。国際世論の風向きが変わる中で、このままネジが切れたブッシュと心中するのも何ですし…。アメリカは不況に向かってまっしぐらで、そうなるとアメリカは不況の日本にますます経済負担を求めてくるしょうから。で、今回の香田証生氏ではちょっと役不足ではありますが、それでも政府主導で逆に「同情論」を高め、「世論に押されて」という形で撤兵するのもよいのでは…などと真面目に思う次第です。

 さて、「救出する必要なし」だの「自己責任」だのといった、この手の世論を代表する声を絶え間なく発しているのはこちらhttp://www.diary.ne.jp/user/31174/?の方ですね。彼の「イラク生残記」を読みましたが、見るべきところは見ている…とは思います。しかし、今日のBlogの一節にあるように、「…そもそもザルカウィ一派はイラク人ですらなくイラクの心ある人々にとっては憎むべきテロリストなのである。今回もまたテロリストではなくレジスタンスだと言う馬鹿が出てくると思うので予めここに書いておく。劣化ウラン坊やたちの時のいわば愚連隊と異なり彼らは国際的ネットワークを持ち情報収集もおそらく日本国政府より優秀だ…」…といったあたりの感覚には、はっきり言って納得しかねます。彼はステレオタイプに「イラクの国民」を「無辜の常民(彼が好きな言葉)と宗教的テロリスト」に分けちゃいます。しかし、一般のイラク国民は平和を望み、一部の狂信者やテロリストが社会の混乱を狙っている…と言うほど、単純な話ではないような気がします。
 私は、確実に「平和を望む一般のイラク国民」がゲリラ活動をやっていると考えており、そうしたゲリラの中には「占領軍及び協力者を殺害する」ことを目的として活動している人間が多数いると思うからです。
 イラクで実際に何が起こっているかは、まずもって「現地のイラク人がその体験を語る言葉」で判断すべきでしょう。これは、いかなる優秀なジャーナリストの言葉より信憑性が高いはずです。例えば、依然として現在もなお米軍主体の包囲攻撃が続くファルージャ。ファルージャという都市で現在起こっていることについては、まずは「ファルージャ 2004年4月」に詳細な証言があります。併せてこちらのBlogを読めば、その後の経緯についてもわかります。これを読んだ私は、米軍による一連のファルージャ攻撃で虐殺されているのは、「ザルカウィ派」だけではないことを明確に知りました。女性や子供が虐殺されている状況について生々しい証言が数多くなされており、これはまさにパレスチナの「ガザ」で起こっていること同じです。
 私は、「人質を取って戦う」と言う行為が「レジスタンスの一形態」かどうかの判断は別にしても、「復讐」という動機でならばその行動はよく理解できます。「9.11で自国民が殺された報復」としてイラクに侵攻したアメリカの行動を心情的に認める人であれば、そのアメリカの侵攻で虐殺されるファルージャの人々が復讐の念に燃えることもまた理解できりはずです。ザルカウィ派がどんな組織か…以前の問題として、イラク人が国籍を問わず占領軍及びその協力者に対して殺意を持つことは、容易に想像がつく話です。逆にイラク人の復讐を否定するならば、アメリカによる9.11後の行動も否定されなければなりません。
 むろん、こんなことを書いたからといって、人質を取って首を切り落とす行為が正当化されるわけではありません。また、塗炭の苦しみを味わうイラクという国、そしてその国民に対して何もできない私ですが、様々なソースから「事実を知ろうと努力すること」だけは出来ると考えています。

2004/10/26

懺悔


 今日のお昼頃、仕事帰りの私は地下鉄大江戸線に乗っていました。電車に乗り込んで見渡すと社内はガラガラで、車両全体を見回しても乗っているのは20人程度です。むろん立っている人もなく、私はドアから入ってすぐの手近な優先席に座りました。何も考えずに座りました。4人掛けの優先席の一番ドアに近いところに座ったのです。同じ優先席の連結部側にはオジイサンが1人座っていました。
 私は座ると同時に、おもむろにポケットから「京ポン」を取り出し、メールの確認を始めました。ところが、京ポンでメールの確認を始めるとすぐ、同じ優先席の端に座っていたオジイサンに「オイ」と怒鳴られたのです。「アンタ、ここは優先席だぞ。そこに『優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい』と書いてあるだろうが。すぐに切れ!」…とすごい剣幕です。彼は続けて、「心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人がいたらどうするんだ! 死ぬかもしれないんだぞ!」と怒鳴ります。いきなり怒鳴られて一瞬驚きましたが、私はちょっと考えて次のように答えました。「携帯の電源を切らなきゃならないことぐらいわかってますよ。でもこれは携帯じゃありません」と答えました。オジイサンは「なに言ってるんだ、どうみても携帯だろう」と怒鳴ります。私は「いえ、これはPHSで携帯じゃありません。そこには『携帯電話の電源をお切り下さい』とは書いてありますが、PHSの電源を切れとは書いてありません。PHSは携帯より電磁波の影響がうんと少ないので、病院内でも使われていますよ」と答えると、オジサンは「そんなことは知らん!」と怒鳴りながらも、声が少し小さくなってきました。私が知らん顔でPHSを使い続けていると、今度はオジイサンは「アンタ、ここは年寄り向けの優先席だぞ、アンタが座るところじゃないだろ!」と怒鳴ります。そこで私は、「私は足が悪く、身障者です」…というと、一人で何か口の中でブツブツ言ってましたが、最後にとうとう黙り込んでしまいました。

 いや、正義感に溢れるオジイイサンに対して、私はホントに悪いことをしました。確かにPHSが携帯よりはるかに電磁波が少ないことは事実です。一部の病院では許可されているのも事実ですし、構内連絡用システムとしても使用例があります。しかし、ペースメーカーなどに対する電磁波の影響がゼロというわけではありません。ましてや優先席近くでは、PHSであっても電源を切るのは常識でしょう。また、私は一応身障者ですが、電車ぐらいは立っていても問題はありません。ましてや空いた車両の中で優先席に座る理由は、ほとんどありません。いきなり怒鳴られたので、ちょっと意地悪な気持ちになり、オジイサンをやり込めてしまったのです。
 まったく人間というヤツは、誰もが心の中に「小さな悪意」を持っています。こういう場面で、罪もないオジイサンをやり込めるのは、「悪意の発露」以外のなにものでもありません。

 今日の出来事を思い出すと、自分の嫌なところが鼻について、もうため息が出ちゃいます。オジイサン、ごめんなさい。本当に反省してます。もう二度としません。

2004/10/22

 シブヤセンター街「マンバ系」進化事情…という「シブヤ経済新聞」の記事を読んで、複雑な気持ちになりました。以前、[渋谷でマンバ復活」という記事があったことはここでも紹介しましたが、今回はその復活したマンバが分化して「セレンバ、ココンバ、ロマンバ?!新種のマンバ続々登場」という内容のルポです。
 「セレブ」+「マンバ」の意味で、一説によるとマンバよりも高級ブランドアイテムを持っている率が高いという「セレンバ」、ロマンチック、ロリータなどの傾向がある「ロマンバ」、ギャル御用達の109ブランド「ココルル」で全身を固めている「ココンバ」…などと言われても、ほとんど理解できない世界。別に私が「オジサン」だから理解できないというわけでもなさそうです。オフィスのバイトの女子大生に聞いても、こんな話は知らなかったようですから。
 さらに、今年の秋冬は「着ぐるみん」が増殖の予感?!…という話に至っては、いやもう何とも感想がありません。ドンキあたりで着ぐるみが売れているとか、最近では渋谷だけでなく水戸などの地方都市の駅前にも着ぐるみ族はが徘徊している…といった記事は何度も読みましたし、私も一度車の窓から着ぐるみを着た女の子を見たことがありますが、現実にこれが「流行の1つ」だと言われると、感嘆するしかありません。
 とのかう、「マンバ」と言い、「着ぐるみん」と言い、この手のファッションを好む若い子は、いったい何を考えているのだろうと不思議になります。

 確かに、ファッションなどというものは本質的に個人の自由だし、「ファッション」というカテゴリーには様々な格好が含まれます。そして、どの時代でも、ファションに関する世代間の断絶はありました。私なども、高校生から大学入学時の一時期は、トラッドではなく、長髪にM65を着た汚い格好で歩き回り、明らかに大人達が眉を顰める格好をしていました。サイケデリックなんてライフスタイルが流行った頃には、とんでもない格好をした連中がいましたし、最近ではパンクの連中が七色の髪をおっ立てて耳に安全ピンを刺して歩いてたりしました。
 現在のわが身を振り返っても、あまり他人のことは言えません。同年代のビジネスマンの大半がスーツ姿で歩いている中、チノパンにワークシャツ、マウンテンパーカという姿で日常を過ごしている私は、巷の中高年の中では明らかに「異端」です。毎朝の出勤時にマンションのエレベーターで出会う近所の方から、「あの人はいったい何をやっている人なんだろう」という眼で見られているかもしれません。

 しかし、「マンバ」も「着ぐるみん」も、過去に存在した「世代間の断絶」や「ファッションによる自己主張」なんてものとは、質的な違いを感じます。まずもって、ここまで奇抜な格好をするにも関わらず、やってる本人達に「確たる自己主張」「確たるライフスタイル」がなさそうなことが不思議です。過去のサイケデリックブームには、「反体制」というお題目がありましたし、マリファナなどの問題を含めてライフスタイル全般に関連するファションでした。パンクも同じです。パンクはライフスタイル全般を規定しました。でも、「マンバ」も「着ぐるみん」も、単なる「奇抜な格好」以上でも以下でもないように感じます。一般家庭で暮らし、高校に通っているごく普通の女の子が、渋谷へ出かける…という理由だけで、ここまで奇抜な格好をする「必然性」が読めないから、なんとなく苛立つのです。

 …と、ここまで書いてきて、強く思ったことがあります。ホント、私達の世代は嫌ですね。いや、「私達の世代」と一括りにするのは間違いかもしれません。ともかく「私」は嫌な思考をします。要するに、物事には「理由がないと不快」なんです。その理由に対して賛同できるかできないかは、次善の問題です。「理由がない」ことこそが、私には最も理解できないことなんです。だから、サイケもパンクも理解できるのに、「マンバ」や「着ぐるみん」は理解できないんです。こういう自分って、すごく嫌です。
 物事は本来、「あるがままに受け入れるべき」なんでしょう。おそらく、「マンバ」も「着ぐるみん」も、面倒な理由なんてなくて、「仲間と楽しくやりたい」とか「日常の中でホンの一瞬だけでも特別に目立ちたい」…程度のことなんでしょう。「なぜそんな格好をするのか」なんて、周囲の人間が考えることじゃないのでしょうね。

 そこまで考えた上でなおかつ、もし自分に年頃の娘がいて、その娘が日常的に「パンダの着ぐるみ」を着て「損保ジャパンの広告に出てくる娘」のような格好で外出していたら、やっぱり徹底的に反対しますね。

 さらに、「マンバ系進化事情」という記事の中で、どうしても気に入らないのは、そのマンバが「バッグはヴィトンのカバメゾやカバピアノ」を持ってるって部分。どちらも10万円はするバッグじゃないですか? なぜ高校生が10万円もするバッグ持ってるのか?…と不快になりますね。

 とは言え、これだって考えて見れば「お金を使う対象の違い」に過ぎないのかもしれません。私の高校時代にも、せっせとバイトをやってバイク買ったり、ギター買ったりする奴は結構いましたから。まあ、女子高生がバイトやって10万円のバッグ買っても、文句言えた筋合いじゃないのかもしれません。でも、これまた、もし自分に年頃の娘がいて「ヴィトンのカバメゾ」持ってたら怒るでしょうけど…

 …ああ、オジサンになるっていうのはこういうことなんですね。

2004/10/21

 ここのところ、TVや新聞の海外ニュースで「ミャンマー軍政、首相を解任し軟禁」…というニュースが、連日取り上げられています。どのニュースでも、「ビルマ民主化遅滞への懸念」ばかりを唱えていますが、ビルマの問題は、それほど単純ではありません。そんなことを思っていたら、「ミャンマー、カレン族の停戦交渉団に外出禁止措置」というニュースが目に留まりました。

 ところで私は、「ミャンマー」と言う国を「ビルマ」と呼びます。私は単純に「小学校から高校までの地図帳がビルマとなっていた」「ビルマとミャンマーは基本的に同じ意味」…という理由でビルマと呼称しているのですが、もっと深い意味を込めてビルマと呼ぶ向きも多いようです。

 さて、そのビルマについてですが、現在週刊新潮に「変見自在」というコラムを書いている帝京大学教授の高山正之が、先日(確か9月頃)そのコラムでミャンマーの民主化問題に触れて、面白い視点で論説を書いていたのを記憶しています。ひとことで言えば、「ビルマの独立は日本のおかげ」ということが書きたかったようなんですが、その中で、「アウンサン・スーチーはイギリスの手先、『スーチー女史=民主化のヒーロー、軍事政権=悪の権化』という図式は単純に過ぎる」…と書いていました。この高山正之という元産経新聞論説委員のテキストは巷の低次元ウヨクと同レベルのトンデモ話も多いのですが、こと「…『スーチー女史=民主化のヒーロー、軍事政権=悪の権化』という図式は単純に過ぎる」…という部分にだけは、まったく「その通り」と思った次第です(むろん、「ビルマの独立は日本のおかげ」というのはトンデモ話です)。ちょっと古いソースですが、その高山正之が産経新聞に「異見自在」というコラムを連載しており、2001年01月20日のコラムで「ミャンマーの悲劇 どこかの国が『いい子』のせいで…」という話を書いていますが、週刊新潮に掲載されたテキストもこれに近い論旨のものでした。
 ともかく、第二次大戦中にビルマに進駐した日本の行動の是非はともかく、それ以前にイギリスのやった植民地政策は「民族対立を煽ることで支配を強化する」というあまりにひどいものでした(日本も同じようなことをやりましたが…)。今回注目したカレン族関係のニュースは、このあたりの歴史的経緯を想起させるのです。
 カレン族は、イギリスの後ろ盾でビルマ族と戦わされ、戦後はビルマ族側についたイギリスに用済みにされて独立の約束を保護にされました。このあたりの経緯は、こちらのテキストに簡単にまとめられています。
 現在のカレン族の置かれた立場については、先にビルマの呼称問題でリンクしたサイトですが、カメラマンの宇田有三が非常に優れたルポルタージュを書いているので、読んでみてください。

 そんなわけで、もともとが多民族国家であるビルマ国内の民族紛争の現状は、「民主化運動さえ進めればいい」…などという単純なものではありません。これまたちょっと古いソースですが、ビルマ国内の民族組織というのは、こちらの資料にある通り、とんでもなくたくさんあるのです。シャン州の問題ぐらいは知っていますが、聞いたこともない民族組織が多数活動しています。もう、これは外部の人間が少ない情報で分析して理解できるようなものではありません。少なくとも本日付の朝日新聞の社説「ミャンマー―民主化がさらに遠のく」のように、「ともかく民主化を!」という単純な論理だけで判断する問題ではないように思います。日本では欧米と同じく、とかくアウンサン・スーチー女史絡みの民主化問題にばかり眼が行きがちですが、「ビルマという国が置かれた現実」に立ち返って、複雑な民族問題を解決する方策を探す方が先決でしょう。

 いや、「アジアの混沌」は、「コロニアリズム」と「民族問題」を抜きにしては語れません。

2004/10/19

 海外出張に出かけた時など、乱気流で飛行機が揺れると「ああ、ここで死ぬかもしれない。遺書を書いておけばよかった」なんて思うことがあります。遺書と言っても、財産の処分…のようなことではなく、私物やパソコンに残ったファイルをどのように処分するか…といったことです。
 そろそろ日本もテロの標的にされそうだし、交通事故で死ぬ可能性も高い。もう年だから、突然脳梗塞になるかもしれない。ともかく、いつ突然死を迎えるかわからないので、ここに簡単な遺書を残しておきます。
 以下の指示は、かなり真面目なものです。

■葬儀
 事情が許せば、葬儀はやらなくてけっこうです。これマジです。
 でも、残された遺族が世間体のために、形だけでも葬儀をやらなくちゃならないかもしれません。その時には、公共の斎場で一番安いプランで、無宗教で行ってください。それくらいのお金は通帳に残っていると思います。葬儀中は、BGMとしてThe Bandの「When I Paint My Masterpiece」や「Weight」あたりの曲を流しておいて下さい。グレイトフル・デッドかニール・ヤングの適当なアルバムでも結構です。
■遺体
 そこらへんにこっそり埋めてもらっても構わないのですが、法律で禁じられているようです。小さく切り分けて少しづつ生ゴミに出してもらっても構いませんが、きっとこれもダメですね。第一、そんな気色の悪いこと誰もやってくれないでしょう。しょうがない、多少お金が掛かるけど火葬にして下さい。
■遺骨
 遺体を焼いたら、遺骨が残ります。遺骨はかさ張らないので、ゴミの日に出して下さい。
■墓
 作る必要はありません。下手に墓に入って、遺族がお盆やお彼岸に面倒な墓参りをしなくちゃならないのは気の毒です。
■戒名と位牌
 どちらも不要です。
■財産
 間違いなく何もないので、特別な指示はありません。こっそり隠しているヘソクリもありません。万一何かの間違いで資産が残った場合、法に則って法定相続者のところへ。
■借金
 借金は残る可能性があります。財産よりも借金の方が多ければ、相続放棄をすればOKのようです。
■書籍
 数万冊の書籍が残るでしょう。欲しい人にはタダで持っていってもらい、引き取り手のない本はブックオフか古本屋にでも売ってください。
■CD
 大量のCDが残るでしょう。捨てるなり売るなり好きなように処分してください。
■パソコンのファイル
 オフィスの私のパソコンのハードディスクのEドライブ、そして自宅にある個人所有のデスクトップPC、ノートPCの全てのハードディスクのファイルを消去、フォーマットして下さい。死後、他人にはあまり見られたくないテキストや画像がかなり入っていますので、消去前に内容を確認するのはやめて頂きたい。ちなみに、バックアップ用のCD-ROM類には個人データは一切入っておらず、全てが仕事関係のデータですので、捨てるには及びません。また、メーラー中の個人アドレスの受信箱の中に保存されているメール、及びサーバー側に残ったメールは、やはり内容を確認せず全て削除するか、メーラーのフォルダごと削除してください。これは本当にお願いします。
■携帯電話
 アドレス帳データ、及び保存されているメールは全て削除してから解約して下さい。
■オフィスの私物
 オフィスの私物は、私の机の、上から2番目の引き出しに入っている契約書類を除いて、全ての引き出しの中のモノを絶対に内容を見ずに捨ててください。
■自宅に残ったガラクタ
 全部捨ててください。衣類やバッグ類の一部はアウトドア系のブランド品の未使用のものなど、中古ショップに売れるものもあるかもしれません。大量にあるラジオや無線機類は、欲しい人が使ってください。
■ホームページ及びBlog  このサイトも含めて、全てを削除して下さい。オフラインのバックアップも削除してください。
■経営しているSOHO企業
 清算するなり続けるなり、残ったスタッフで好きなようにして下さい。清算する場合、私の友人でもある専任の税理士が相談に乗ってくれるはずです。
■大量のデジカメ、銀塩カメラ
 欲しい人に差し上げます。欲しい人が複数になった場合、ジャンケンで所有者を決めてください。
■愛車のスーパーカブ
 エンジンの調子はいいので、捨てるには惜しいかも。乗りたい人に差し上げます。乗りたい人が複数になった場合、ジャンケンで所有者を決めてください。
■死後明らかになる女性関係、隠し子等
 残された方々で善処してください。

2004/10/18

 例えばリージョンフリーのDVDプレヤーとか、スクランブルデコーダー付きのCATVチューナー、アルインコから発売されている輸出仕様のデジタル無線トランシーバーとか、これらは全て実際に所有しているのですが、なんとなくレビューを書きづらい雰囲気があります。いや別に所有していることが違法ってわけではないのですが、そこはまあ、アレです(笑
 ともかく「怪しい」商品というヤツは何でも片っ端から欲しくなる悪い癖。しかもそれが使い方によって「違法」っぽくなると、余計に欲しくなります。むろん、CATVのタダ見なんかしないし、海外性のアダルDVDを見る趣味もない。アンカバーでデジタル無線機を運用することもないので、実際には違法行為に手を染めているわけではありません。この手の商品は「所有している」ことに意味があるわけです。
 で、ここまで怪しいものじゃないけど、最近購入して気にってる「ちょっと怪しめの商品」は、こちらです。これはこのサイトで紹介されてるのを見た時から欲しかったのですが、1万円以上出費する気がしませんでした。でも「あきばおー」で5000円で買えるということがわかったので、早速購入した次第です。使い勝手の方は、先述したサイトに書いてある通り。至って便利なシロモノです。私的には、けっこうお勧め商品ですね。

 話は脈絡なく飛びますが、私は本を読んでいる時でも仕事をしている時でも、常に「音」がないと落ち着かない。ここ数年、私は自宅での仕事中のBGMとしていつもインターネットラジオを聞いていました。そして会社ではFM放送(J-WAVE)を掛けっ放しです。ところが…です。そんな私は、最近ふとした気まぐれで、深夜自宅でAMラジオを聴くようになりました。
 AM放送を聴くきっかけというのが、ONKYO「MA-700U」という機能を説明しにくい周辺機器を買ったこと。これ、ちょっと古い製品とは言え、今でも実売価格が25,000円はします。これが、なんと某ネットショップで9,800円という価格で売られていたのです。発売された時にはかなり欲しかった製品なので、もう即購入しました。で、この「MA-700U」を何に使うか特に決めちゃいなかったのですが(使い途を考えずに買うところが自分らしい)、とりあえずパソコンに接続しました。そこで気が付いたのが、この「MA-700U」にはAMチューナーが搭載されているってことです。
 いや、単に「AM放送を聴く」というのなら、そのほとんどの番組をインターネットラジオで聴くことができます。でも、それじゃ気分が出ない。深夜AMラジオから流れる雑音混じりの音だからこそ気分が出るのです。最近よく聞いているのはTBSラジオの「Junk 伊集院光・深夜の馬鹿力」って番組。これインターネットラジオでも聴けますが、やはりAMラジオの「そこはかとなく侘しい音」で聴くところに味があります。で、こんな番組をオジサンが聴いてて面白いか…と問われると、別に面白くもなんともない。でも私の世代ってのは、「深夜放送で育った世代」なんです。「Junk 伊集院光・深夜の馬鹿力」なんて聴いてると、雰囲気的になんとなく昔が懐かしくなります。
 思えば中学生の頃は毎日午前2時頃までは深夜放送を聴いていたし、テストの前なんかは午前5時頃までラジオを聞いてました。恥ずかしい話ですが、深夜放送に「リクエスト葉書」なんてのを送ったこともあります。こちらの「中波〜深夜放送と遠距離受信」というテキストで当時のことが簡単にまとめられていますが、私にとっても一時期は「音楽メディア=深夜放送」でした。ロックもフォークも歌謡曲も、新しい音楽は全て深夜放送で覚えたものです。そういえば、ここには関東と関西の深夜放送に関する記述がありますが、「中部地方」がありません。名古屋に住んでいた私が小学校高学年から中学生の頃にいちばん聴いていたのは「ミッドナイト東海」という番組で、あの森本レオがパーソナリティやってましたね。そういえば、30年以上前にもやっていた「走れ歌謡曲」という番組、今でもやってるんですね。最近知りました。東京では文化放送でやってるんですね。
 ところで、遠方のAM放送を楽しむためには、やはりアンテナが必須です。お勧めのアンテナは「ALA-10II」で、これはOnkyoの通販サイトで買えますが、実際に作っているのは確か「アツデン」という無線機を作っている会社です。

2004/10/15

 もう今さら何の興味もないですが、TVニュースでやってた日本プロ野球組織(NPB)の審査小委員会…ってのは、もう「茶番」以外の何物でもないですね。だいたい、今時「査問」って言葉が笑えます。経営失敗した球団の社長も入ってるし、赤字球団経営してる無能経営者が「査問する側」にいること自体が茶番。こんなつまらない話にここでコメントなんかしたくないけど、スポーツ紙や一般紙でもやたら大きく取り上げるのが気に入らない。いっそ、メディアは無視すりゃいいと思うんですが。
 何でも昨日の委員会では、ライブドアがアダルトサイトへのアクセスとアダルトゲームの制作・販売でケチを付けられたとか。まあ、前にも書いたように適当にネットトレンドに合致したビジネスを後追い展開して大きくなってきたライブドアなんてどうでもいい企業ですし、堀江社長ってのも著書を5分ほど立ち読みしたらあまりも内容が幼稚で酷いんで呆れました。ライブドアが球団経営をしようがしまいがどうでもいいけど、あの社長がTVに出てしゃべってるのを見るのはもううんざり。
 かといって、「出来レース」で登場したらしい楽天の三木谷社長ってのも、実に鼻持ちならない。こちらを読むと、楽天・三木谷社長は「楽天本体としてはそのようなもの、準ずるものも一切、取り扱いさせない。(リンクしているサイトについても)クレジットカード認証で青少年が見られないしくみになっている」…って、何言ってんでしょう。アダルトサイトへのアクセスって、楽天が運営する「インフォシーク」からだっていくらでも行けます。無修正サイトに普通に行けることは誰もが知っていることです。それに「楽天」では、ショッピングモールのいくつかの店でAVソフトやアダルトグッズが買えるし、楽天ブックスではエロ本も買える。楽天広場を使った無料ホームページには、エロサイトもあります。
 それとTVを見ていたら、楽天の三木谷社長が、「楽天市場は9275店舗のテナントがあり、世界一のショッピングモール。利益率は創業以来40%を続けている」はいいとしても、「オリジナリティの高いビジネス」…と言い切ったのには驚きました。だって、ネット上のショッピングモールの試みとしては、楽天はむしろ後発組です。「楽天市場」の開店は確か1997年ですが、私は1995年にN総合研究所が立ち上げた、ネット上の大規模ショッピングモール「電活クラブ」のプロジェクトに参加してましたから。楽天のビジネスの、いったいどこに「オリジナリティ」があるんだろう。
 ともかく既存球団の経営側って、「品格」とか「青少年への影響」なんてえらそうなこというほど立派な企業じゃないでしょう。日本ハムのような「BSE事件で輸入牛肉混入して不正に国費を不正に搾取したバカ会社」とか、ダイエーのように「借りた金を返すという基本的な商道徳を反故にするクソ会社」とか、「有力選手スカウトにアホみたいな裏金を払っているバカ新聞社」とか、そんな連中がいったい新規参入企業の何を査問するのか、考えれば考えるほどアホらしい話です。

2004/10/14

 ここのところしばらく(半年ぐらい)デジカメを買ってません。私にしては珍しいことです。「これはどうしても欲しい」と思うような製品が登場しないこともありますが、なんか20台以上のデジカメが自宅やオフィスの机の引き出しにゴロゴロしてて、収拾がつかなくなっている…って状況もあります。特にわけがわからなくなってるのが、ACアダプターやマニュアル、スペアの充電池などで、いまやどのアダプターがどのデジカメのものなんだかさっぱりわからない。私は一度買ったものを「売る」のが嫌いなので、オークションに出して台数を減らすということもまずやらない。周囲の人にはいらないいデジカメを差し上げたりしてますが、譲りたくてもACアダプターがなかったりして、もうどうしようもない状況です。基本的に毎日カバンの中にはデジカメを1台以上入れてますが、ここのところ1年ぐらいは「U30」か「EX-S20」の2台ばかりを持ち歩いてました。先週、ふと思い立って久しぶりに「F402」を使ってやろうと思ったら、256MBのxDピクチャーカードが行方不明。結局、いろいろとデジカメの種類を変えて使ってみたくても、使えない状態です。
 カバンの中身もひどい。先日、ここ半年ほど毎日持ってたManhattan PortageのメッセンジャーバッグをTimbuk2pee weeに変えて気分転換しようと思って、中身の入れ替えをしたら、カバンの中にはわけのわからないものがどっさり(Timbuk2の方がはるかに頑丈ですね)。どうりで重いはずです。まあ、文庫本が数冊に読み終わった雑誌、書類やら筆記用具やらが大量に入っているのは当然として、MP3プレヤーが2台、サングラス、スウォッチ、のど飴…。さらには、小型のLED懐中電灯やら小型ナイフやらデジカメのスペアバッテリーやら、ガラクタが大量に入ってました。それに、道で配ってるのを受け取ったポケットティッシュや各種割引券、ペットボトル飲料のオマケなんかも、カバンの中に溜まってました。おそらく5Kgぐらいの重量はあるはず。メッセンジャーバッグの悪いところは、内部の仕切りが少なく、底の面積が広いので、これらのガラクタがバッグの底にゴチャゴチャと固まっちゃうこと。MP3プレヤーのイヤホンなんて絡んじゃってて解けなくなるし(これは耳に入れる部分を2本まとめて軽く結んでおけば防げるんですが面倒くさい)…。
 さらに、デジカメ以上にわからなくなっているのが撮影した画像。パソコンの中に適当にフォルダを作っては入れているので、もう何がなんだかわからない。オフィスの自分のパソコンにも数十GB分の画像が入ってますが、任意の昔の画像を取り出すことは不可能に近いです。
 要するに「整理整頓」に関しては全く無頓着な性格は直りません。…というよりも、こうしてゴチャゴチャとたくさんのモノを持っている自分、それらたくさんのモノを周囲に積み上げている自分が「けっこう好き」なんだから、もうどうしようもない。このまま現在の環境で仕事をして生活している限り、きっと死ぬまで直りません。

 そうそう、それでそのうちこのサイトで「デジカメプレゼント」ってのをやろうと真剣に思ってます。ただ「欲しい」と言う人にあげる…ってのは芸がないし、抽選なんてやりたくないので、クイズでも出そうかと思ってます。中には「ACアダプター無し」なんてデジカメもありますけど…

 そういえば、久しぶりに本気で「欲しい」と思う銀塩カメラシステムが登場しました。それは、フジ写真フィルム「ナチュラルフォト(NP)システム」です。具体的には、超高感度35mm銀塩フィルム「NATURA1600」と、24oの超ワイドでF1.9という明るいレンズ、自動的に最適な露光量に制御する独自のプログラムを搭載したコンパクトカメラ「NATURA S」の組み合わせ…ということになります。
 ISO1600という感度がもたらすダイナミックレンズと、24oという画角が本当に「人間の眼の機能に近い」かどうかは別にして、従来の銀塩システムから見ればかなり特殊な条件の画像が、日常的に使えるコンパクトカメラで得られるとなれば、これは非常に興味深いものです。これはもう、間違いなく買っちゃいそうな予感です。

2004/10/13

 お遍路さんで有名な四国八十八箇所霊場巡りが、どうも異様な状況になっているようです。昨日のワイドショーで、全国から四国に続々とホームレスが集結している…という話題を放映していました。なんでも、お遍路さんの格好さえしていればどこでもお布施をもらえるし、無料の宿泊所や無料の食事なんかも利用できる…ということで、ホームレスには天国なんだそうです。地元のスーパーの出口近くで托鉢をすると、買い物帰りのおばあちゃんなんかが食料品を分けてくれたりするので、1日分の食材なんてすぐに入手できるそうです。霊場近くの川原や空き地にテントを張って、何年も滞在しているホームレスがたくさんいるとのことでした。そうしたホームレスの1人にインタビューしたところ、「居心地がいいのでもう10年もいる、ここなら働かなくても食べていける」というようなことを答えていました。
 そう言えば、昨年でしたか、NHK四国が制作・放映したホームレスのお遍路さんのドキュメンタリー「草遍路−終わりなき旅」が世間に大反響を起こし、反響の大きさからそのホームレスが指名手配犯だったことがバレて逮捕される…という事件がありました。  で、その番組ではこうした徳に信仰心のないホームレスが「食べるため」に押し寄せてくる状況を、基本的に「困ったこと」として捉えており、地元の人間が戸惑う状況を放映していました。

 いや、私は全国からホームレスが集まっている状況、そのホームレス達が食うために霊場巡りをしている状況…を、実に面白いと思います。もともと四国八十八箇所霊場巡りなんてやる人の半分以上は「信仰心」なんてない人たちでしょう。だいたいが「自分自身を見つめ直すため」…みたいな「くだらない理由(本人にとっては重要な問題を抱えているのかもしれませんが…)」で霊場巡りをしているわけです。「食うため」に霊場巡りや托鉢をやっちゃいけない…ってルールもないし、どんどん喜捨や接待をしてやればいいんです。「それじゃ困る」って人がいたら、喜捨や接待をやめればいい…、ただそれだけのことです。第一、こちらあたりを読むと、「食うために托鉢する」って人は、四国八十八箇所霊場周辺には昔からいたようです。

 私は、「困ったことがあったときに宗教に縋る」という行為は、生理的に嫌いです。歩くこと、旅することで自分を見つめ直す、また思考を深める…というのは理解できるし、私にも経験があります。でも、歩く場所が「霊場」である必要はありません。動機はどうあれ、「霊場巡り」という行為を選んだ時点、しかも接待や喜捨を受けた時点で、意識の深層は「宗教」に絡め取られています。民主党の代表の座を追われた菅直人が四国八十八箇所霊場巡りをしていると聞いた時には、あまりのくだらなさに笑っちゃいました。
 全国のホームレスのみなさんはむろん、人生を働かずに食べて生きたいという人はみな、四国八十八箇所霊場巡りに出かけましょう。一般市民(?)が行う接待だの喜捨だのという行為は、もともと「宗教者を敬う」ところから来ているものです。宗教者と非宗教者を区別できないのなら、わけへだてなく喜捨すればいい。でも、「食べるために托鉢している人」には喜捨や接待をしたくないと言うのなら、信仰心の有無を区別するしかないでしょう。そんなことは無理でしょうね。私は、全国からホームレスや働きたくない人が四国八十八箇所霊場巡りに押しかけることによって、「霊場巡り」という宗教的行為の本質が明らかになると思います。そして「喜捨」や「接待」という行為の本質も明らかになるはずです。私は、宗旨・宗派を問わず「宗教者」なんて存在は、絶対に「敬う対象にすべきではない」と考えています。
 私は、少なくとも、自分を「敬わせない」ことこそが、本当の宗教者の条件のようにも思います。宗教者が他者に施しを与え、奉仕する行為は否定しません。しかし、「宗教者が施しを受ける」という行為には、限りない胡散臭さを感じます。教祖だか何だか知らないけど、働かずに食ってるやつが、偉そうなこと言うな…と言いたい。

 しかし、こういうことを書くと、「何かを信仰している人」や「霊場巡りをしたことがある人」からは、反発を買うだろうなぁ…。別に構いせんけど…(笑

2004/10/12

 映画の話が続きます。日曜日の深夜、暇にあかせて「ラスト・サムライ」という映画を見ました。封切り時には全く興味がなかったのですが、オフィスの友人がレンタルDVDを借りてきたので、それをボンヤリと見たのです。実に退屈な映画で、半分以上は早送りして見ました。当たり前の話ですが、トム・クルーズはミッション・イン・ポッシブルの方がまだカッコいいですね。
 この映画、封切り直後から社会的な立場にあるオジサン達を中心に妙な評価をされる傾向がありました。石原慎太郎は、東京都議会本会議で自衛隊のイラク派遣に関連して、「…ラスト・サムライを見た若者は泣いている。大方の日本人が忘れていたものを思い出させてくれるから。自衛隊が行って友軍が攻撃されている時に助けなかったら、それはサムライじゃない」と発言し、他国の部隊が攻撃された場合にも自衛隊は応戦すべきだと発言しましたが、さすがにこの手の引用は少数派でしょう。概ね「武士道」が現代において道徳心を喚起する役割を果たす…という主旨での発言が多く、大分県知事、広瀬勝貞が「ラスト・サムライ」に言及した文…あたりが、現代社会を憂う世の「大人」の平均的な感想なんでしょうね。ここに出てくる新渡戸稲造も、この映画とともに一時脚光を浴びたようです。
 さらに台湾の元総統、李登輝が書いた「武士道解題 〜ノーブレス・オブリージュとは」なんて本もわふだいになりましたね。
 しかし、日本の武士道は、前述の大分県知事の文の中に出てくる「義、勇、仁、名誉、克己」…などとはおよそかけ離れたものだったことは確かです。
 武士の誕生の経緯(こちら、そしてこちらあたりに書かれている通り)からわかるように、もともとは単なる「傭兵」に過ぎません。誕生後は、平安時代末期から下克上の時代、江戸幕府の成立までの歴史を見ればわかるとおり、主君を裏切り、保身のために寝返り、ありとあらゆる謀略を行ったのが「武士の戦い方」であったことは、誰もが知っていることです。いちいち鎌倉時代以降の武将の名と、有名な戦いの経緯を挙げるまでもないでしょう。「一騎打ち」を好んだ武士がいたのは、単に「恩賞」と「出世」が目的であったことは言うまでもありませんさらに「切腹」なんて、実際に腹を切って死んだ例などごくわずかであり、介錯人がクビを切ってくれるのを待つケースが大半だったというのも、よく知られていることです。この「武士道」を「道徳」に美化したのは、むろん新渡戸稲造です。彼は「武士道」の中で、「武士の生き様から派生する道徳心が万民に浸透し、日本国民の国民性にまで至った」と書いていますが、よくこんな与太話を思いついたと思います。農民や町人にとって武士が、尊敬する対象ではなかったことだけは確かですね。農民は、武士の勢力争いのための戦いよって長い年月にわたって多大な犠牲を払ってきました。江戸時代に発達した商業資本を体現する町人は、武士階級に金を貸し、内心は軽蔑していたことでしょう。普通に考えれば、「「武士の生き様から派生する道徳心が万民に浸透」することなど、あるわけがない。日本の武士が「ノーブレス・オブリージュ」の精神を発揮したなんて話は、史実としてはほとんど聞いたことがありません。
 この「美化された武士道」という話をきちんと体系的に書いているのが、佐伯真一「戦場の精神史 武士道という幻影」(NHKブックス)です。この本には、古代から近世に至るまで、武士が「だまし討ち」や「謀略」を正当化する倫理を持っていたことを明らかにし、それが江戸時代以降に入ったの儒教思想から批判を受け、さらにはその儒教思想を元に「士道」と混ざって「架空の武士道」として体系化された経緯が書かれています。さらに明治以降、西洋思想の影響が大きくなる中で日本人のアイデンティティを固めるために意図的に「西洋思想に対峙する武士道」を体系化しようという試みがなされ、その中心にいたのが新渡戸稲造であったことも書かれています。
 その新渡戸稲造の思想は、戦後の教育基本法の成立にも大きな影響を与えています。1946年に教育基本法を作った教育刷新委員会の主要メンバーには新渡戸稲造の門下生が多かったことはよく知られています。

 まあ、社員旅行の名目で堂々と売春旅行を行う企業が社会的制裁を受けず、万引きを犯罪とも思わないガキだらけ、親もそのガキを擁護する…という世の中を見れば、確かに「道徳教育」というのは必要です。それは間違いない。しかし、道徳教育なんてものは、大人が身を持って生き方で示す形で行われるべきものであり、実体のない「武士道」なんぞを持ち出す必要なんて全くないはずです。

2004/10/11

真夜中のカーボーイ(…その2)

 前回書いたように、この「真夜中のカーボーイ」という映画を「病めるアメリカの生態をリアルなタッチで描いた」…とする論評は、私にはしっくりときません。この映画で描かれたマンハッタンこそが、私が憧れ、そして20代で体験したアメリカの姿そのものであり、それを私は「病んでいる」と思ったことは一度もありません。

 私は、1970年代には現在のトライベッカ(当時はトライベッカの名称はなくただのロワーウェストサイドでした)に住み、そして1983〜4年にかけては、タイムズスクエアの近くやブルックリンに住んでいました。当時はまだ、タイムズスクエアからほど近い7〜8thAV一帯、ヘルズキッチンあたりにも、映画の中でラッツオとジョーが違法に住んでいたような、市当局によって閉鎖された廃墟のような建物がたくさんありました。むろん、ミッドマンハッタン以南のイーストヴィレッジより東側や、逆に7thAVよりも西側などは、ああした廃墟のようなビルがいくらでもありました。今はしゃれた街になった、アルファベットアベニュー一帯とかチェルシーあたりは、夜は怖くてとても歩けない街だったのです。映画の中で、ラッツオとジョーが金網を開けてビルに入っていくシーンが何度も出てきますが、あのように棲んでいる人をたくさん見かけたものです。
 さらに、彼らが住んでいたビルの窓からチラッと見える光景も懐かしいものです。当時のマンハッタンのちょっと高いビルの窓からは、それよりも低いビルの薄汚れた屋上の連なりが良く見えました。屋上はどこも汚く、ホームレスなどのねぐらになっていたところもあります。
 そして映画の中の主舞台にもなっているタイムズスクエアも、80年代初め頃まではまさにあの通りの街でした。おしゃれな店もありましたが、逆に安いコーヒーショップやジャンクフード専門のダイナーもたくさんあり、電気製品やカメラを売る怪しげな店が立ち並んでいました。
 私が1984年の夏に何ヶ月か過ごした長期滞在者用の安ホテル「Times Square Motor Hotel」は、7thAV、43stの角にありました。華やいだブロードウェイの劇場街からは、わずか2ブロック南です。現在はホテルではありませんが、タイムズスクエアから200メートルぐらいしか離れていないにも関わらず、その周辺はとても汚いところで治安も悪かった。安いドーナツショップやダイナーが何軒も並び、映画の中でジョー・バックがケチャップをこぼしたような安ダイナーで、私も何度も食事をしたものです。42ndSTなどは、ポルノショップと覗き専門店(25セントで個室から一定時間女性の裸を見る店)」、XXX専門映画館が立ち並ぶ猥雑な街でした。

 こうした「真夜中のカーボーイ」に描かれているとおりのニューヨークでしたが、何とも言えない「活気」を感じていました。アルファベットアベニューあたりに先端的なクラブが開店するという小さな告知広告をヴィレッジボイスで見て行ってみると、映画の中でラッツオとジョーが紛れ込んだような怪しげなパーティが繰り広げられており、夜が更けるに連れて、集まったアーティストやミュージシャンたち、そしてマスコミ人たちがマリファナを回しながら様々な議論をしていました。気だるく下手なパンクグループの演奏の中で、朝までウロウロしていたことを思い出します。芯まで冷える冬の夜、「タクシードライバー」に何度も出てくるように、道路のあちこちのマンホールから湯気が上がる幻想的な夜景の中、クラブからクラブへと彷徨い歩いた時間を私は忘れられません。当時私が回ったウェストヴィレッジやイーストヴィレッジの名もない小さなクラブは、ベトナム戦争後の閉塞された社会の中で、新しい時代のアートや音楽を作り、捜し求める人たちの熱気で溢れ返っていました。街全体が危険で猥雑だったマンハッタンは、危険で猥雑ゆえの活気に満ちていたと思います。

 冒頭に「真夜中のカーボーイという映画の中で描かれたマンハッタンこそが、私が憧れ、そして20代で体験したアメリカの姿そのものであり、それを私は "病んでいる"と思ったことは一度もない」と書きましたが、私はきれいになった現在のニューヨーク、そして現在のアメリカの方が、よほど病んでいるように感じられます。あれは1983年頃でしたか、「I Love NewYork」の観光キャンペーンが始まり、レーガン政権下でニューヨークの治安向上と美化が推進されて以降、逆にニューヨークは活力と魅力を失い、結果として「病が進んでいった」ような気がします。

 新しい文化は、「混沌」から生まれるものです。そして文化を揺籃する「都市の混沌」とは、「危険、猥雑」を抜きに語ることはできません。高校生の時に見た「真夜中のカーボーイ」という映画は、穏やかな地方都市で育った私に「危険で猥雑な大都市」の姿を見せてくれました。それは、当時衰退しかかっていた全共闘運動なんかよりも、もっと魅力的で甘美なもので、「自分の中に何かを生み出しくれる基盤」となりそうな予感がしたのです。

 そういえば、アメリカで初めて長距離バスに乗ったのは、ニューヨークの8thAVにある「ポート・オーソリティ・バスターミナル」からです。あそこは、夜になると周囲はゲイの街娼だらけでした。私は、99ドルで一週間乗り放題のグレイハウンドバスのチケット買いました。ジョーとラッツオのように南へ行こうと思ったのです。でも、乗ったバスは何故かマイアミ行きではなく、ニューオリンズ行きでした。バスターミナルの地下の乗り場から発車したバスが、33時間後に到着する予定のニューオリンズへ向けて、夕暮れのマンハッタンを後に南へ向かって走り出した時のことは、今でも鮮明に覚えています。

 私にとって「真夜中のカーボーイ」という映画は、本当の意味で「青春映画」でした。

2004/10/8

真夜中のカーボーイ(…その1)


 仕事の帰りに池袋の地下道を歩いていたら、石丸電気の出店がDVDのワゴンセールをやってました。人だかりがしてたんだけど、「DVD 1枚 1000円」というポップに惹かれてワゴンを覗いてみたら、ふと目に付いたのが「真夜中のカーボーイ」のタイトルです。税込み1000円を払って買ってきました。もう何度も見た映画だし、LDだって持ってるけど、まだDVDを持っていないことを思いつき、買ってしまいました。その日の深夜、早速見ました。見るのはもう7回目だか8回目だか記憶にありませんが、それでも数年振りに見る真夜中のカーボーイは、すれっからしの中年になった私に、久しぶりに少し涙を流させてくれました。

 この「真夜中のカーボーイ」という映画は、私にとってはいろんな意味で人生に大きな影響を与えた、忘れらない映画です。1969年の映画ですが、初めて見たのは封切りされてから何年か経った、高校2年の時でした。朝日新聞主催の「江藤淳 講演会」ってヤツに申し込んだのですが講演会終了後に「真夜中のカーボーイ」の上映が行われる…というのも申し込んだ理由の1つでした。講演会に行った私は、江藤淳の講演をほとんど寝て過ごし、その後で見た「真夜中のカーボーイ」には衝撃を受けて帰宅したのを今でも鮮明に記憶しています。

 この映画、主演の2人がアカデミー主演男優賞にノミネートされただけでなく、作品自体も数々の映画賞を受賞しており、映画の内容についての評価はほぼ固まっています。また、実際に見た多くの人が、数々のアメリカンニューシネマの中でもベストに近い評価をしています。イギリス人の監督ジョン・シュレシンジャーの第3作目でしたっけ(定かじゃない)、ともかくシュレシンジャーの出世作でもあります。

 有名なストーリーについては、わざわざ書くまでもありません。都会で金持ちの女の相手をすれば食べていけると信じて、テキサスから長距離バスでニューヨークへやって来た主人公のジョー・バック(ジョン・ボイド)と、都会の片隅でドブ鼠のように生きる片足が不自由で病んだ小男ラッツォ(ダスティン・ホフマン)の、不思議な友情の物語です。背景は一貫して、当時のニューヨークという大都会の風俗であり、公民権運動やベトナム反戦運動の高揚が去った後のアメリカの、多少気だるく退廃的な雰囲気がする時代の姿です。
 この映画を評価するとき、「60年代末期のアメリカ、そしてニューヨークの混迷した雰囲気を活写した」とか、「病めるアメリカの生態をリアルなタッチで描いた」など、一定のスタイルが出来ているようです。そして「ジョーとラッツォの切ない友情に感動した」という素直な評価も多いでしょう。あのラスト・シーン、バスの窓から見えるマイアミの景色を背景に死んでいくラッツォと、泣きそうなジョン・バックの姿は、誰もが印象的な新として記憶していると思います。

 でも、実は私は、この映画で初めて「アメリカという国」を知り、「ニューヨークという街」に憧れたのです。映画のストーリーや、時代背景、主人公2人の友情などに感動したというよりは、「初めて見るアメリカの光景」に感動しました。むろん、それまでにもTV番組や他の映画、そして写真などでアメリカの風景は何度も見ていました。高校時代ですから、ニューヨークを舞台にした小説も読んでいましたし、当時好きだったアレン・ギンズバーグの詩やジャック・ケルアックの小説、そしてボブ・ディランの歌などからもアメリカという国を知ってはいました。しかし、この映画を見た時、そんな「知識としてのアメリカ」ではなく、もう「実体験」に近い状態でアメリカの姿が眼に焼きついたのです。
 主題歌「噂の男」はジョン・バリーの作曲、ニルソンが歌ってます。冒頭の短いテキサスの街のシーンから、ジョン・バリーの音楽と共に長距離バスの座席に座るバックカーボーイ姿のバック。そして、モーテルの看板が並ぶ南部の国道をバスが走るシーン、バスの窓から流れる夜の街のレストランやモーテルのネオンサイン、ニューヨークに近づいて、ラジオにニューヨークの局が入ってくるシーン、そしてニュージャージーから見えるマンハッタンの摩天楼、そこには、1970年着工のワールド・トレードセンターの姿はまだありません。初めて「真夜中のカーボーイ」を見たとき、もうこのあたりからスクリーンに眼が釘付けになっていたことを思い出します。

 私は、高校時代にこの映画を見たおかげでアメリカに憧れ、そして結果的には20代の何年かをアメリカ、ニューヨークで過ごすことになりました。1970年代の終わり頃にグレイハウンドバスに乗ってアメリカ大陸を放浪した時、バスの座席でいつも頭に浮かんでいたのは「真夜中のカーボーイ」という映画の中でバスが走るシーンであり、冒頭のシーンだけでなくマイアミへと向かうバスの姿でした。自分がジョン・ボイドが演じたジョーになったような気持ちで乗っていました。


 …さて、「真夜中のカーボーイ」については、書きたいことがたくさんあります。映画に出てくるニューヨークの街の光景や風俗に関する話を中心に、1976年の映画「タクシードライバー」の話なども絡めて、後日続きを書きます。

2004/10/7

 少し前から、六本木工学研究所に興味深々です。言わずと知れた、話題の「台湾製スピーカー」を販売している会社。フォステクスやテクニクスなど限られたメーカーの限られた製品しかなかった自作用スピーカーの世界に、安価な「台湾ブランド」が参入して、市場に活気がでてきました。最近では、老舗のコイズミ無線あたりでも売ってます(全然関係ないけど、これいいですね)。
 私は特にオーディオマニアではありませんが、8p〜10pの小径フルレンジのスピーカーはいくつか自作してきました。昔からコンパクトなアンプ、CDプレヤー、小型フルレンジスピーカー…という組み合わせでデスクトップオーディオシステムを組んで楽しんできました。この手のシステムに掛ける予算は上限で10万円程度と考えてきたのですから、確かにオーディオマニアとは程遠い存在です。現在は、昔この日記で書いたように、知人に作ってもらった5W+5Wの真空管アンプがあるので、これには少しまともなスピーカー(…と言ってもセットで7万円程度のモニタースピーカー)を組み合わせて、CDを聞いています。一方で、MP3プレヤーとアンプ内蔵スピーカーが仕事場の机に乗っており、最近はこちらで音楽を聴く方が多いかも。アンプ内蔵スピーカーは、クリエイティブの「M-85D」を使っているのですが、BGMでロック聴くには十分な音質です。

 …で、六本木工学研究所の話ですが、欲しいのはTangBand の「W2-800SF」というアルミコーンの5pフルレンジユニット。5pってサイズがいいですね。これでPC用のスピーカーを作ってみたいと思ってるわけです。むろんボックス内に小型のアンプを入れてアクティブスピーカーにしようと考えています。
 今日、通販で購入を申し込みました。次はボックスをどうするか…って問題がありますが、昨夜メールで問い合わせたら知人が設計してくれるとのことです。楽しみ…

2004/10/6

 「グリーン購入普及」へ初の世界会議というニュースがありました。どうやら、環境に優しい商品を買おう…という運動らしいですが、この手の話を聞くと「何かヘンだ」と思ってしまいます(グリーン購入に関する説明はこちら)。
 確かに、どうせ商品を買うなら「環境に優しい商品」の方がよいでしょう。ここで言う環境に優しい商品というのを、「製造にあたってエネルギーや資源を消費しない」「製造・使用プロセスで有害物質を出さない」「廃棄後に有害な廃棄物が出ない…無限に近いリサイクルが可能」…とした場合です。
 でも、本当に環境に優しい行動とは「工業生産品の消費量を減らす」…ことのはずです。
問題は、環境に良い商品を使っているかどうか…ではないはず。環境によい商品でも「大量消費」すれば環境に負荷がかかります。だから、環境に優しい社旗の実現のためには、基本的には「モノを消費しない」ライフスタイルを実現する方向でキャンペーンを行うべきです。
 こうした話は、自動車の例で見るとよくわかります。政府は環境に優しい社会の実現のために、高燃費車に対する優遇税制を行っています。でもこれって、よく考えるとおかしな話です。
 例えば自動車の例で見ると、燃費の良いハイブリッドカーで年に5万キロ走行する人と、燃費が半分程度の一般車で年に1万キロしか走行しない人を比較すれば、後者の方が「環境に優しい」はずです。同じ走行距離を走るのなら、排気量3000ccのエンジンを搭載した自動車に乗っている人よりも、軽乗用車に乗っている人のほうが「環境に優しい」はずです。
 であれば、商用車以外の自家用自動車について、「ガソリン税を累進課税にする」ことで、公平な「グリーン税制」になるでしょう。しかも、相当に高い累進率にしてもよいと思います。「自動車で走れば走るほど税金が高くなる」という制度にすれば、自動車の使用率は大幅に減り、環境に優しい社会に近づくはずです。
 しかし、こうした「環境への優しさの本質」に近づく議論は、まず絶対になされません。出来る限り車には乗らない、やむを得ず車に乗る場合には軽乗用車に乗る…もし皆がこうした方向で環境問題を考え始めると、自動車産業は衰退していきます。そうなると、関連産業全てが衰退し雇用は大幅に減るでしょう。また、皆が私用で自動車に乗らなくなれば、観光産業なども衰退するでしょう。経済へのマイナス影響は計り知れません。むろん税収が減る国も困ります。だから、ハイブリッドカーや燃料電池車を開発することで、「自動車の販売台数は下げない、自動車の総使用時間も減らさない」…という前提での「環境に対する優しさ」を追及しているわけです。
 環境への優しさの最大の指標は、まずは「社会全体でエネルギー消費を減らす」ことです。しかし、「エネルギーを大量に消費することこそが経済を活性化する」…という厳然たる事実がある以上、「モノを消費しない社会」という方向で環境問題が議論されることはありません。私は以前も、スポーツカーを生産している自動車メーカーが、広告で「環境に優しいメーカーです」なんて言ってるのは笑止…と書きました。現在議論されている「環境問題」の本質が、こうしたメーカーの姿勢に現れています。「環境に優しい商品」を使おう…とおうのは、結局のところは「ある種の欺瞞」に過ぎません。あくまで大量消費社会は維持したい、その上での「環境問題を考える」という姿勢です。しかし、おそらく地球環境問題はこんな「小手先の議論」ではもうどうにもならないところに来ています。特に先進国については、エネルギー消費やライフスタイルを、「数十年ぐらい過去に戻す」というレベルでの「省エネ」を考える必要があるはずです。
 ところで、私はこの日記で環境問題に言及することが多いですね。でも、環境問題を真剣に考えているわけでは全くありません。本音で言えば、地球がゴミだらけになろうと、温暖化が進もうと、それはそれで仕方がないこと…と考えています。おそらく、人間という生物は、自らの生存を脅かす方向へと地球環境を破壊し、緩慢な自滅への道を歩んでいる…、と考えるのが自然です。地球上では、「たまたま偶然が重なって生物が誕生し、その進化の過程で偶然が重なって人間という種が生まれ、文明を発展させて」きたに過ぎません。この地球上に偶然生まれた人間という生物は、過去数十年〜今後数十年あたりまでが繁栄の絶頂期であり、あとは滅亡に向かうという運命にあるのでしょう。それを無理やり延命する必要はないし、私という個人が無理に何かをする必要もない…と考えている次第です。

2004/10/5

 ソフトバンクBBとヤフー、光ファイバーによるインターネット総合サービス「Yahoo! BB 光」を発表…というニュースがありました。まあ、Yahoo!がFTTHに参入しようとしまいと、別にどうでもいい話です。でも、「Yahoo! BB 光」がそれほどソフトバンクの収益に貢献するとはとても思えません。日本最大のブロードバンドユーザ数を抱えるYahoo!BBって、確かまだ赤字でしたよね。いやYahoo!BBに限らず、ブロードバンド事業ってのはその大半が赤字か、きわめて小幅の黒字程度。設備投資や顧客獲得経費が一段落した後は黒字幅が拡大するでしょうけど、それでも大手製造業のような大きな利益が得られるビジネスになるまでにはまだまだ時間がかかりそう。そして、こうしたネット企業がもっとも期待するコンテンツ販売分野もパッとしません。ネットワークでコンテンツを販売している企業も大半は赤字です。
 確かに、家庭や小規模オフィスへのブロードバンドアクセスラインの普及は、劇的に仕事や生活の利便性を高めました。私自身の例で言えば、個人生活でも仕事でもブロードバンド回線の多大な恩恵を受けています。現在オフィスに引いている回線はスループットで50M/秒が出る光回線ですが、これによって毎日ストレス無く数百通(SPAMを含めてですが…)のメールを受信でき、ネット経由で数百Mbyte単位のプログラムを送受信し、数十〜数百Mbyteになる大量の取材画像データを出版社に送り、GByte単位になる版下データだって印刷会社にネット経由で送ることが出来ます。自宅はADSLですが、それでもネットを頻繁に使って調べ物をしたりショッピングをしたりするので、もう昔のISDNの帯域にはとても戻れません。
 しかしながら冷静になって考えてみると、日本の標準的な「一般家庭」を例にとった場合、私のようにネットを使う人なんて、あくまで少数派です。むろん、高校生から家庭の主婦までメールやネットサーフィンやオークション参加にネットを使う現状では、下りで数Mbit/s程度のADSL回線ぐらいはあった方が便利でしょうが、下りで数十Mbit/sなんていうFTTHが本当にに必要とされているのでしょうか?
 結局のところ、パソコンマニアでもWinnyを使いまくるネット中毒者でもない「ごく普通のネット利用者」や「ごく普通の家庭」にとって、「FTTHレベルのブロードバンドの意義・効用」ってのはいったい何なのでしょう?

 相も変わらず「ブロードバンドコンテンツ」の必要性が声高に叫ばれていますが、現実にはネットで映画を購入して視聴している人なんて、ほとんどいません。日本のブロードバンドコンテンツ販売事業者で「コンテンツの有料販売」だけで黒字経営になっているところは、事実上ゼロ…という状況は、依然として続いています。
 そりゃそうです。民放の地上波TV放送、AM/FMラジオ放送に代表されるように、「コンテンツはタダ」というビジネスモデルが、一般の人にはもう根っから染み付いています。そして「ツタヤ」へ行けば、200円程度で最新映画のDVDやビデオが借りられます。確かにブラウザフォンの普及によって「有料ネットコンテンツ」の市場は立ち上がりましたが、これが「一般家庭で映画やドラマを見る」と言うレベルに拡大するには、何らかのブレークスルーが必要でしょう。
 家電製品の技術革新といえば、DVD/HDレコーダーは普及しましたが、これとても「AVコンテンツの入手・視聴スタイルを変える」というものではありません。記録メディアが変わっただけです。また、「パソコンとお茶の間のTVをつなぐもの」として「ネットワークメディアプレヤー」なんて製品があります。こうした機器を使えばネットワーク経由でダウンロードした動画コンテンツ等を家庭用TVで視聴することが可能です。しかし、この手の商品は一部のパソコンユーザには受けても、「一般家庭」に普及するツールだとは到底思えません。
 やっぱり、「普通の家庭」では、無料のTV放送をDVDレコーダーで録画して見るか、ツタヤでレンタルビデオ/DVDを借りてくる…というスタイルを当面は堅持し続けるでしょう。私は、実のところ3年後でも、コンテンツ視聴に関する現在のスタイルは基本的に変わらないと予想しています。
 まあ、ブロードバンド、ブロードバンドと官民挙げての大騒ぎは今後も続くでしょう。しかし、産業振興の目的で「無理矢理」ブロードバンドを普及させる必要があるとは思えません。それに、5年後にはバックボーンがパンクする…なんて危機感を煽る向きもありますが、それも当面心配はないでしょう。最も逼迫しているというメトロエリアのファイバー網だって、まだまだDWDMやCWDMによる多重化の余地はあり過ぎるほどです。

2004/10/4

 新聞の国際面は、暗いニュースばかりです。
 イラク駐留米軍は、今月1日からサマラで大規模な武装勢力掃討作戦を展開しており、無差別爆撃を行っって民間人の女性や子供を含む100人以上を殺害しました。この戦闘…というよりも「米軍によるイラク民衆の虐殺」は、現在もなお続いています。
 イラク情勢よりもさらに心配なのが、より長期に渡って紛争が続いているパレスチナです。現在ガザで起こっていること、これはもう「一方的な虐殺」以外の言葉では表現しようがありません。アラビアのロレンスが活躍した第一次世界大戦後の中東情勢の歴史的経緯を見る限り、領土的野心をむき出しにしたイスラエルがパレスチナ民衆に対してこのような虐殺行為を行う、いかなる権利も正当性も認められません。そしてパレスチナ側にとっては、国土の侵略や一方的に仕掛けられた戦争行為、圧政に対して戦うことは、「テロ」ではありません。国連も認める「抑圧からの解放を目指すためにの正当な権利」以外のなにものでもないはずです(1987年12月7日 国連総会決議42/159:国際テロリズムを予防する手段、テロリズムの背景にある政治経済的要因の研究、テロリズムを定義し、それを民族解放闘争と区別するための会議の開催)。

 こんな話を書き出すと、ついその内容に触れたくなるのが、ノーム・チョムスキー「覇権か生存か」(集英社新書)です。この本については既に多くの人がコメントを書いているし、内容にもあまり新鮮味はありません。現代史に少しでも興味を持ち、日常的に新聞やニュース、ネット情報を気に掛けてきた人なら、あまりも「当たり前の事実」しか書かれてはいないからです。唯一ちょっと感銘を受けるのは、ここまで米国の政策を批判する彼がアメリカ国内で著名な学者として活動し、しかもこの本がブッシュ政権下で出版されている…という事実ぐらいです。

 さて、新鮮味がない内容ながら、ノームチョムスキーの言葉には単純な真理が多く含まれていることを認めざるを得ません。
 同署の「テロと正義」の中に「…『テロ』という言葉に『普遍性の原理』、すなわち他者への適用基準を自分に対しても適用する…」という重要な視点が書かれていました。アメリカやイスラエルの行動にどうしても納得できない理由は、私にとっては「政治的な立場」以前の問題です。彼らの武力行使の論理・理屈は、「他者への適用基準を自分に対しても適用する」…という、シンプルな普遍性がないからです。
 9.11テロ事件で被害を受けたアメリカは、基本的には「テロの被害国は、テロを支援する国家とその住民に対してはどんな報復をしてもいい」というごく単純な理屈です。百歩譲って、この論理を認めたとしましょう。そうなると、特に冷戦時代以降アメリカが世界中で行ってきたテロ行為について、どのように考えたらいいのかまったく理解できなくなります。チョムスキーが指摘するまでもなく、アメリカは長い間「対抗テロ」の名目で世界中で人を攫い(特にCIA)、気に入らない国や政権に軍隊を派遣して一般民衆に対する虐殺を行ってきました。チョムスキーの指摘通り、レーガン政権下のアメリカにおいては、特に中南米でCIAはありとあらゆる「テロ」に手を染めました。クリントンは、不完全な情報で平然とスーダンの製薬工場にミサイル攻撃を加えて多数の民間人死傷者を出しました。そういえばクリントンは、イラクも大量のトマホークで攻撃していますね。
 米CIAはピノチェトを使って、アジェンデ政権打倒のためのテロを繰り返し、クーデターによってアジェンデ政権が倒れた後のピノチェト政権はアメリカやイギリスの隠然たる支持のもとに、アジェンデ派の一般民衆を大量に逮捕し、拷問にかけ、虐殺しました。世界中が認めるピノチェトの犯罪を見る限り、もしアメリカによるイラク攻撃の理論的な根拠となっている「テロの被害国は、テロを支援する国家とその住民に対してはどんな報復をしてもいい」という論理を持ち込んだら、チリの民衆は住民虐殺を支援したアメリカに対してどんな報復を加えてもよい…という理屈になります。アメリカにミサイルを撃ち込んでも、論理的・倫理的に許されるということになります。
 同じことは、チリだけでなく、コントラ事件でアメリカの介入が世界的に暴露されたニカラグア、そしてアメリカ自身が育てたノリエガを倒すために米軍が軍事侵攻をして大量の民間人が犠牲にされたパナマなどにも言えることです。ニカラグアやパナマの住民は、自分たちに対してテロ行為を行ったアメリカに対して、アメリカがイラクやアフガニスタンで行ったような大規模な報復テロを行う権利を有するのでしょうか。
 私がアメリカやイスラエルの行動に納得できない理由は、、まさにチョムスキーも指摘する通り、こうした「他者への適用基準を自分に対しても適用する」…という、シンプルな普遍性がないからです。これは、サヨクかウヨクか…などという、政治的な立場とは無関係の話です。

 さて、日本の安全保障を考える時、「アメリカ嫌い」の民族派でも、当面のアメリカとの同盟強化を支持するケースが多いのは、厳然たる事実です。そりゃ、日本の周辺国家を考えた時、北朝鮮や中国、または混迷するロシアと同盟を結ぶよりも、アメリカと同盟を結んだ方がマシ…というのは、一見してごく真っ当な考えのようにも見えます。
 しかし私は、「北朝鮮よりもアメリカの方がまし」だなんて思えない部分もあります。確かに北朝鮮はクソのようなどうしようもない独裁者の国家であり、拉致事件が示している通り、隣国の海岸から平然と住民を攫っていく国です。しかし、長い間「対抗テロ」の名目で世界中で人を攫い、気に入らない国や政権には軍隊を派遣して一般民衆に対する虐殺を行ってきたアメリカという国は、やっていることのレベルは北朝鮮と同じです。いや、どちらもやっていることは同じでも、北朝鮮の建国時期以降で比較すると、アメリカの方がより多くの「テロ」を行い、より多くの他国の人間を殺しているとも思われます。こうした現実を見る限り、日本の安全保障をどう考えるかは、非常に難しい判断が要求される問題でしょう。

 しかし、このような戯言を書いていると不思議な気分になります。ネット上では政治的な立場を単純に「右」「左」で分ける人が多いですね。で、一般的には「右」の人は中東問題においてはパレスチナを支持しません。政治的にはイスラエルやアメリカの立場を支持します。さらには、日本の安全保障の問題でも「アメリカ支持」が多い。反面、「右」の人は民族派の立場や「押し付け憲法論」に代表されるように「心情的アメリカ嫌い」が多い。
 私なんかは、パレスチナ問題も含めて国際政治の場でのアメリカやイスラエルの方向性はまったく支持できません。しかし、こうしてアメリカはひどい国だと書きながらも、実は民族派とは反対の「心情的アメリカ好き」です。若いときからTVドラマで見るアメリカの文化やファッションに憧れて育ち、実際にアメリカに住んで「平気で他国を侵略するクソのような国ではあるけど、それを批判する自由もまたある国」…だということを実感してきました。70年代、80年代のいアメリカで自らひどい人種差別を体験しながらも、一方で公民権運動の歴史には経緯を払ってきました。なんたって、ビリー・ホリディが「奇妙な果実」を歌う国です。このブッシュ政権下にあっても、「アメリカ自身もテロ国家」と書くチョムスキーの著作が刊行されているアメリカは、やはり北朝鮮よりはマシな国のようです。

2004/10/1

 ここ数日で目に付いたニュースをいくつか…  まずは、「国際教養大、開学から半年 中嶋嶺雄学長に聞く−−英語力は驚異の伸び」…という記事。  こういう記事を読むと、いつもながら「日本の大学」というものに対して、ほとんど絶望的な気分になります。大学が「学生のTOEFLの平均点が上がった」ことを誇り、それを教育の成果として公表するなど、まったくもって信じられません。いつから大学は「英語教室」になったのか知りませんが、バカバカしいことです。
 「英語が理解できる」ことは、確かに「教養を高めるためのスキルの一部」ではありますが、けっして「教養そのもの」ではありません。「知力を高め教養を身につける」ことを大学の目的とするならば、英語教育に力を入れるなど本末転倒もいいところ。「英語の読み書き・会話はできるが、ジャック・デリダやレヴィ・ストロースは読んだことがない」…といった大学生を作ることに、何か意味があるのでしょうか?
 そして「県教委、公立中3年1学期の成績分布をあすにもHPで公表」…というニュース。まあ、もっともな話です。「これでいいのか絶対評価!?」、「絶対評価の学校間格差」、「受験生に渦巻く不満−『15の春』の傷心」)…あたりを読むと、絶対評価が抱える矛盾はよくわかります。
 とは言え、相変わらず日教組などは「文部省によって長年押しつけられてきた相対評価は、受験制度とかかわって、『競争の教育』の支柱であり、日本の教育と子どもたちの成長に重大な歪みをもたらしてきたて」…として相対評価に反対し、絶対評価を支持する姿勢を堅持しています。
 何度も書いたことなので繰り返しませんが、私は「もともと差がある『人間の能力』をごく普通に評価する」にあたって、なぜ「差別」という言葉を使った妙な理屈をつけて反対しなければならないのか理解できません。だから今回の神奈川県教委の動きが、絶対評価の矛盾点を浮き彫りにし、教育現場の方針を再考する方向への一助になるのなら、それはそれで意味のあることだと思っています。

 さて、ここまでは前フリ。絶対評価がいいとか悪いとかそんな話が書きたかったわけじゃない。
 もう教育や学校のあり方について論じていると、100人から100様の意見が出ます。ともかく教育については一家言のある人は多いですね。しかし、「教育」「小学校から大学までの学校のあり方」に関しては、もっとシンプルに考えるべきだと思うのです。  それは「知性・知識は人格の一部」「知の深さは、人間性の構成にあたって重要な要素」…という、ごく単純な真理を前提とする考え方です。
 「人格」という言葉を辞書でひくと、次のような意味が書いてあります。

    (1)人柄。品性。
    (2)〔心〕
    (ア)個人のもつ一貫した行動傾向・心理的特性。
        「性格」と同義に用いることもあるが、知能をも含めたより広義の概念。
        パーソナリティー。
    (イ)自我として自己の心理的作用を統合するはたらき。
    (3)〔倫〕道徳的行為において、自由意志のもとに権利・義務・責任を担う主体。

 …こうした「人格の定義」見ても、「知性・知識は人格の一部」というのは、けっして不自然な考え方ではありません。

 「教育」を「人格教育」と「知識教育」に分ける人って多いじゃないですか。例えば、現在話題になっている教育基本法の改正案でも、「モラル(道徳)」を教える方向に重点を置くように改正しようという意見が主流です。確かに学校教育には、「情操を育む」「モラルを教える」…といった役割もあります。しかし、私は「人格教育」と「知識教育」を分けて考えるべきではないと思います。学校教育の現場で最も優先すべきは「知識や教養を身に付けさせる」ことであり、それが相対的に「豊かな人格形成」にも繋がると思うからです。
 確かに、知識のある高偏差値大学の学生がスーフリ事件のような犯罪を起こしたり、知識偏重の教育の過程で歪んだ人格が形成される例なども多々あります。だからと言って「知識は人格と無縁」「知識とモラルは無縁」かと言えば、けっしてそうとは思いません。むしろ「ある人間が持つ知識の質と量」は、人格や品性を決める大きな要因になっているはずです。知識偏重の教育の過程で歪んだ人格が形成される例を「例外」とまで言う気はありませんが、相対的に見れば「豊かな知識を有している人間の方が、豊かな人格を持つ例が多い」…ということは統計的に言えるはずです。だって、ものごとの「理解」には、まずは知識が前提となります。そしてコミュニケーションの深さを支えるのも知識です。知識は、豊かな人格を育むベースになるもの…と確信しています。
 さらに、現在の「日本の衰退」は、そして現在の「戦争や環境問題などの地球と人類が直面している危機」なんてものは、結局のところ、「知的営為」によってしか解決できない問題ばかりです。これは、「科学の発展が人類を救う」などという単純な話ではありません。「現在身の回りで起こっている事象に対する深い理解」が作る「人格」こそが、対立する考え方を融和に導き、困難な問題を解決する糸口を作る…からです。そのためには、より多くの人が、「豊かな知識」を身につける必要があるはずです。

 ともかく、「知性・知識は人格の一部」「知の深さは、人間性の構成にあたって重要な要素」…という考え方を前提とすれば、教育現場でまずやるべきことは、当然見えてくると愚考します。そんなわけで、「道徳教育よりも学力や教養を!」と切に願う次第です。

 ところで、こんな話を書くと、書いている私が多少はまともなことを考えているように見えるかもしれません。しかし、私自身は最近「知識を有効に活用する術」を失いつつあります。私は最近、年を重ねるにつれて「身の回りで起こっている事象に対する論理的な理解」を拒絶することが増えました。感情的になった…というわけではないのですが、「納得できないことを無理に論理的解決に導かない」…という思考回路が定着しつつあります。何だか、いろんなことを考えるのが面倒になってきています。
 これは、世の中に「納得は出来るけれど、心情的に受け入れがたい論理」が蔓延しつつあるからかもしれません。

 …月が変わったそうそう、意味不明の与太話を書いてます。今年もあと3ヶ月…、時間が経つのは早いなぁ…。

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