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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/9/30

 中年になったとは言え、ファッションに対する興味を失ったら確かに終わりだとは思います。でも、先日「不良中年」を特集している雑誌を立ち読みしていたら、「中年のおしゃれ」について指南する記事があり、そこには私自身はどうにも受け入れられないファンションスタイルが並んでいました。
 私は、強いて毎日おしゃれをしようなどとは思っていませんし、普段は安価なアウトドア系のカジュアルウェア一辺倒ですが、ある程度まともな服装をする必要があるときには、仕事でも遊びでも冠婚葬祭でも、アメリカントラッドに決めています。  その、私がこよなく愛する「アメリカントラッド」ですが、本格的なアメリカントラッドの服は本当に減ってきたし、今の若い人たちからはアメリカントラッドに関する知識も消えつつあるように思います。そこで、アメリカントラッドの基本について、ちょっと書いておきます。

●スーツ
 上着のスタイルは、細めのラペルの「3つボタン段返り」で、ウェストの絞りはなし。センターベントです。これを、「中一つ掛け」で着るのが基本です。段返りというのは、1つ目のボタンと2つ目のボタンの間に襟が折れている形です。最近、「紳士服の○○」とか、デパートのビジネスマン向けスーツ売り場にも3つボタンのスーツが並んでいますが、アメリカントラッドのスーツとは、基本的なシルエットが異なります。最近流行っている3つボタンスーツは、フロントダーツでウェストを絞っているし、着丈も短めです。中にはサイドベンツになっているスーツもあります。あれは、トラッドとは無縁のスタイルです。
 パンツはノータックが基本。間違ってもタック入りのパンツは穿きません。パイプドステムという細身のシルエットで、本格的なものになるとウオッチポケットを備えています。裾はダブルが基本で、ダブルの折幅は3.5〜4p。靴の甲に当たった裾が少し折れるぐらいの長さにしましょう。
●ブレザー
 ネイビーまたはキャメル色が基本で、秋冬物なら生地はフラノです。むろんナチュラルショルダーでウェストも絞りません。シングルブレストは、3つボタン段返りで中1つ掛けです。胸はパッチポケット、脇もパッチ&フラップポケット、そして、ラペルにはウェルトシーム(ダブルステッチ)、フック(鉤型)ベントです。ボタンはメタルボタンです。胸にエンブレムを付けてもいいですね。
 ダブルは6つボタンと4つボタンがあり、私がよく着る4つボタン2つ掛けのブレザーを「ニューポート・モデル」と呼びます。これはサイドベンツが基本です。
●スラックス
 ブレザーに合わせるスラックスも、スタイルはスーツと同じ。パイプドステムという細身のシルエットで裾はダブルです。ネイビーのブレザーに最も合うのは、チャコールグレーの無地、またはグレンチェックでしょう。秋冬物ならフラノが基本です。
 夏は、フォーマルにはウーステッド地のスラックスを穿きますが、カジュアルにはチノパン。私はちょっとした仕事の時でも、ネイビーブレザーとキャメルのチノパン、ローファーという組み合わせで出かけちゃいます。
●カジュアルジャケット
 冬のカジュアルは、ツイード(ハリスツイードなら申し分なし)素材のジャケットです。ヘリンボーン(杉綾織)が基本。むろん3ボタンでアウターパッチポケット、革のくるみボタン付きです。ガンパッチやエルボーパッチを持つハンティングジャケットスタイルもいいですね。渋めのタータンチェックのフラノのスラックスなんかを穿くと、ぐっとカジュアルな雰囲気が出ます。
 夏のカジュアルはコットンジャケットです。チノ生地のジャケットに同色のチノパンと合わせて、セットアップスーツっぽく着こなしてもいいし、シアサッカーの綿ジャケットにバーミューダショーツを組み合わせてもクラシックな雰囲気ですね。
●コート
 ごくシンプルなステンカラーが基本です。ウェストベルト付きは絶対ダメ。トレンチコートも、何となくアメリカントラッドらしくないですね。ステンカラーコートの生地はコットンギャバジンです。カラーは、オフホワイトかベージュ。ウールのライナーは無地か、品のよいチェック柄を選んでください。
●シャツ
 オックスフォードのボタンダウンが基本。背中にはセンターにボックスプリーツ、ハンガーループが必要です。ステッチ入りの前立ても必須。ボタンは貝ボタンのものを選びます。これは半袖でも長袖でも同じです。
 細めの綿糸(ブロード等)を使った柄物のシャツもOKです。織柄が基本で、間違ってもプリント柄はありません。ピンストライプかタッターソール・チェック、ハウンドツース(千鳥格子)あたりの上品な織柄を選びましょう。
●ネクタイ
 織りのレジメンタルが基本、あとはペーズリーと小紋柄ぐらい。色の組み合わせでバリエーションを作ります。プリント柄のネクタイは絶対NGです。私は必ずブレーンノットで締めますが、セミウィンザーノットを好む人もいます。
 ツイードのジャケットを着たときには、アスコットタイを合わせるのもいいですね。
●靴
 プレーントゥ、ウィングチップ、タッセル・スリッポン、コインローファー(ペニーローファー)ぐらいを揃えておきましょう。後はカジュアルスタイル用に、サドルシューズとデザートブーツ、夏のカジュアルにはインディアンモカシンとデッキシューズかな。今でもコールハーンのデッキシューズと、クラークスのデザートブーツは、履き潰しては買い換える愛用品です。

…それにしても、こんなこと書いて何になるんだろう(笑

2004/9/28

 昨日ノートPCの話を書きましたが、私はかつてはノートPCが大好きで、90年代半ば以降はモバイル可能な小型ノートを中心に年に2〜3台ぐらいのペースでいろいろと購入してきました。それが、ここ数年はあまり最新マシンを購入していません。魅力あるマシンが少なくなったのです。
 ちょっと前のニュースですが、「285グラムでPDA並みのサイズのWindowsXPマシンを量産」という記事がありました。デジカメに限らず、「小さいデジタルガジェット」が大好きな私には十分に興味あるマシンなのですが、イマイチ「どうしても欲しい」というほどの魅力を感じません。これは「VAIO-U」あたりも同じ。面白そうなんだけど、なんとなく「買おう」とまでは気合が入りません。
 このあたりのマシンに比べれば、WindowsCE機の「sigmarionV」やLinux機の「SL-C700/750/760」あたりの方が、まだ面白いと思うのですが、それらのマシンだって飛びつきたくなるような魅力はありません。
 要するに、どれもみな「完成度が高過ぎる」のです。基本的にお仕着せの使い方しか出来ないのが面白くないわけです。まあ勝手なことを言ってるとは思いますが…
 「日常持ち歩くガジェットとしての小型PC」というのは、やはり「ある種の怪しさ」が魅力になる場合が多い。そんな「怪しいマシン」で思い出すのが、あれは95年頃でしたか、「ウルトラマンPC」ことIBM「PC110」です。i486-33MHzという今となっては非力なCPUでしたが、当時としては十分な性能を持ち、BIOSを書き換えることで主記憶は24MBに、そしてType3HDDカードでwin95も動作しました。かなり夢中になったマシンです。話は横に逸れますが、IBMと言えば今も私の机の引き出しに入っているChipCard「TC100」も面白かった。
 続いて面白かったのは、やはり東芝「libretto」でしょう。私はlibretto50でしたが、クロックアップで120MHzに、そしてHDDは6.4GBに換装しました。触っていて楽しいマシンでしたね。これは、シアトルやニューヨークに持っていってネットに繋いだりしてました。
 話は前後しますが、1990年代後半の「サブノート」ってタイプは片っ端から購入しました。記憶に残っているのはCOMPAQ「CONTURA AERO433」。あれは486SX 25MHzでWindows3.1でしたっけ。HDD換装しましたね。それから富士通のサブノート「BIBLO NC」もよかったですね。最初がVGAタイプで、次にPentium133MHzでSVGAになったのも買いました。これもアメリカ出張に持って行きました。この時代のサブノートパソコンは、なんとなく「未完成」というか、手を入れて使いこなす楽しみがあったような気がします。クロックアップしたり、HDD換装したり、そしてLinuxをインストールしたり…
 この時代のマシンに比べると、昨今の美しくて高性能のサブノートはどうも面白くないですね。そこそこの性能があれば、もうどこのメーカーの製品でも同じです。
 古きよき時代のサブノートの香りを残している(?)マシンとして、私はいまだにThinkPad240を現役で愛用してます。以前も書きましたがHDDを30GBに換装し、メモリを320MBまで増設したので、SVGAのCeleron400MHz機とはいえ、WindowsME+Office2000が十分に使えます。自宅では、無線LANカードを挿して、キッチンテーブルで使える「メール+ネット端末」となっています。
 いや、オジサンはホントに嫌ですね(笑)。こういう、わけのわからない昔話しますから。そういえば、大昔ですが「文豪mini5いRAMを増設してCP/Mを起動する」なんてのもやりました。そのうち、MSXをはじめとする8ビット機で遊んでた頃の話も詳しく書きましょう。

2004/9/27

 昨晩、知人(40代男性)からノートPC購入の相談を受けました。携帯可能な軽量B5ノートでCD-ROM内臓の2スピンドルタイプ…という条件だったのですが、相談内容というのが「ソニーかNECの製品が欲しいのだけれど、安く買うにはどこで購入すればよいのか?」…というものだったので、「価格com」を教えておきました。購入しようとしている機種は両メーカーの製品ともに20万円前後するそうで、予算は15万円程度で押さえたい…という希望です。そこまで聞いて私は、「ソニー、NECに拘らなければ、同等機能の安価な製品がある。セイコーエプソンやエイサーの他、ショップブランドもある」…という話をしたら、彼は「そんな無名の製品や台湾メーカー製品は信頼ができない。やはりNECやソニーがいい」というのです。そこで、「ソニーもNECも大半の機種は中身は台湾メーカー製」と教えたら、「信じられない」と言います。間違いないと断言したところ、「でも日本メーカーで設計してコストの安価な台湾で作らせているんだろ?」と…。
 …いや、そこで説明はやめることにしました。ノートPCを設計・製造する技術は、ソニーやNECよりも台湾メーカーの方がはるかに上だと言っても、とても信じてもらえそうにありませんでした。
 「IT分野においては、台湾、韓国よりも日本の方が技術的には上」と思っている人は、まだまだ多いようです。例えば、ノートPC分野を例に厳密に言えば「個別技術では日本が上回っている分野もあるが、総合力では台湾の方がかなり上」…というのが正確なところでしょう。
 今更おさらいするほどのことでもありませんが、ノートPCも含めてパソコンの設計・製造技術において台湾メーカーが日本メーカーを凌駕したのは、もうずいぶん昔のことです。多層基板や高密度実装などで日本がアドバンテージを持っていたため、超小型ノートPC分野だけでは日本が凌駕していた時期もありますが、それも過去のこと。1kg以下の超小型ノート分野でも、既に台湾メーカーにアドバンテージがあります。だから、別に「労賃が安いから」という理由で台湾に生産委託しているわけではありません。「日本メーカーには技術がないから」台湾に生産委託している…のです。ちなみに、労賃の問題を言うのなら、こうした台湾メーカーの多くは、こちらの記事にあるように、中国に拠点を設けて生産しています。
 こちらを見ればわかるように、既に日本の大手メーカーで自社生産だけでノートPCを調達しているところはありません。全てのメーカーが台湾のメーカーへ生産を委託しており、世界のノートPCの70%が台湾メーカーによって生産されています。中でも大手の広達電脳(Quanta)と仁宝電脳工業(Compal)の2社で、世界のノート型パソコンの約40%を生産しています。
 しかも、「委託生産」とは言っても、企画段階から台湾メーカーの手を借りていることが多く、心臓部であるマザーボードの設計などは基本的に台湾メーカーの手によるケースが大半です。日本メーカーは、デザインのみ自社で行い基本機能に関する要望を伝えて「生産してもらっている」わけです。むろん、デザインも含めてほぼ丸投げのOEM生産に近い例も多く、また台湾メーカーかえあの新製品提案に乗る例も多いそうです。いまや日本メーカーはノートPCを自社で企画する例は稀なようです。
 日本のパソコンメーカーは台湾にパソコン調達の拠点を設けています。例えばNECは台湾の現地法人で広達電脳や大衆電脳との共同開発を行っており、東芝は台湾東芝を通じて仁宝電脳工業と広達電脳にノートPCの生産を委託しています。
 昨年の話ですが、日本の某大手PCメーカーの企画担当者と話をする機会がありました。彼に「日本メーカーのノートPCの設計技術は台湾よりも下なのか?」と聞いたところ、「いや同等、もしくはそれ以上の技術を持ってはいる。しかし、設計に要する時間とコストは台湾の2倍以上、いや3〜4倍掛かる。だから台湾メーカーに委託している」…と答えてくれました。いや、同じものを設計する時間が1/3という台湾メーカーと比べれば、技術面で大きく遅れをとっている…ということですね。かつて、全盛期の東芝の青梅工場(ノートPCの一環生産ライン)を見学したことがある私としては、一抹の寂しさを感じます。

 ところで、日本メーカーの生産委託先として最大の広達電脳(Quanta)は、日本ではあまり有名な企業ではありませんが、いまや一社でノートパソコン世界シェアの25%を占める世界最大のノートPCメーカーでもあります。自社ブランドでもノートPCを販売していますが、最大のOEM供給先であるHP社のパソコンとまったく同じデザインの製品群が欧米ではよく知られています。その技術力は世界的に高く評価され、先に述べたようにITメーカーとしての評価はNECなど日本の大手メーカーの比ではありません。
 これは2002年の記事ですが、「ビジネス・ウィーク」が選定する「世界100大のIT企業」として、韓国のサムスン電子がトップ、そして台湾のパソコンメーカーである広達電脳(クオンタ)と、ホンハイ精密工業会社がそれぞれ2位と3位…となっています。記事の続きには「…米デルコンピューターは5位に、日本のキャノンは24位に浮上した。反面、ソニー、松下、東芝など日本を代表する電子メーカーは100位圏入りできなかった…」とあります。「…ソニー、松下、東芝など日本を代表する電子メーカーは100位圏入りできなかった」…という部分を噛み締めて下さい。
 ちなみに、同じ「世界100大のIT企業」の2004年ののトップは韓国のLG電子で、この記事には「…LG電子の後には、アメリカ・モービル(メキシコ)、クワンタ・コンピュータ(広達電脳、台湾)、鴻海集団(Precision Ind.CO.,、台湾)、ネクステル・コミュニケーションズ(米国)…」とあります。2002年が2位、2004年が3位という広達電脳は、日本のソニーやNECなんかとは、比較にならないほど世界的に評価されている企業ということです。

 そんなわけで、ノートPCなんて実はどこのメーカーの製品を購入しても同じだと私は思うのですが、この手の話は、まだまだ「技術立国・日本」を信じる多くの日本人には受け入れられないようです。

2004/9/22

 ここのところ、核開発問題でイランが国際社会から叩かれています。韓国のウラン濃縮実験へのIAEAの生ぬるい対応を見ると、まあダブルスタンダードってとこでしょうね。イラクを滅ぼしちゃったアメリカのブッシュ政権は、政権維持に絶対必要な「次なる敵」として、イランやシリアあたりを考えているんでしょう。
 そんなことはどっちでもいいんですけど、私はイランと言う国名がニュースに登場する度に、かなり胸がトキメキます。イランフェチです。ああ、別に「ベールを被った女性を見ると興奮する」ってわけじゃありません。イランという国が、昔から好きなんです。私は学生時代からイランという国に一度は行ってみたいと思ってました。
 「イランが好き」と言っても、別にイスラム原理主義が好きなわけでも砂漠が好きなわけでもありません。私は、昔から「ペルシャ文明」が好きなんです。メソポタミア・エジプト、インダス、クレタ文明とオリエントには多数の古代国家が生まれました。紀元前5世紀にはペルシャ帝国によってオリエントが統一され、このペルシャが育くんだ文化こそが、古代オリエント文明の集大成とも言えるものです。ペルシャ文明は、美的センスから見ても、古代ギリシャ文明を凌ぐほどの優雅で洗練された文明だと、私は感じています。
 そして、イランこそは「ペルシャの末裔」であり、今なお色濃くペルシャ文明を残す国です。
 多くの人は「イスラム圏」ということで、イランやイラク、そしてサウジアラビアあたりを一緒くたにしちゃってますが、例えばイランは、イラクとは国家の成り立ちも文化も根本的に違う国です。むろん、イランはトルコやサウジアラビアとも異なります。でも、「イランやイラク」というように、イラクとイランを一緒くたにした言葉はよく使われます。まあ、地理的に隣同士の国であり気候風土も似ている。しかも両者ともイスラム国家です。さらに、両国共に「イ」で始まる3文字の国名で発音した時の語感も似ています。だから一緒くたにされるのでしょう。そして、アメリカのブッシュ政権の要人などは、イラク攻撃の前から「ならず者国家」の代表として、イラク、北朝鮮と並んでイランを挙げて、よく「イランやイラク」という言葉を使っていました。こうして、なんとなく「似たような国」をイメージされがちなイランとイラクですが、前述したように国家の成り立ちも文化も根本的に違う国なんです。
 イラクとイランは違う…というと、イラン−イラク戦争の経緯などを知っている方は「ああ、シーア派とスンニー派ね」なんて思うかもしれません。確かにイランにはスンニー派が多いし、イラクにはシーア派が多いですね。でも2つの国の根本的な違いは、宗教ではなく、民族、言語、そして文化の起源にあります。
 まずイランの主要民族はペルシャ人です。そして言語はペルシャ語です。対するイラクの主要民族はアラブ人で、言語はアラビア語です。ペルシャ人は古代から農耕を発展させてきましたが、アラブ人は遊牧民族でした。そして、ペルシャ語とアラビア語はまったく別の言葉です。アラビア語はヘブライ語などと同じ代表的なセム語ですが、ペルシャ語は西欧で広く使われているインド・ヨーロッパ語属で、基本的には英語やフランス語と同じ系統の言語です。ちなみに使う文字は、イスラムの征服によって同化したためペルシャ語とアラビア語は同じです。しかし、中国語と日本語が同じ漢字を使うように、使っている文字は同じでもペルシャ語とアラブ語は起源も文法も異なるものです。
 さて、西欧人の一般的感覚では、ペルシャ人は「きわめて異質な人種」ではありません。これは、「インド・ヨーロッパ語族」という比較言語学上の類似点だけではなく、ペルシャとヨーロッパは文化・文明といった部分で深い接点があるからです。古代ギリシャ文明がルネッサンスに大きな影響を与え、その後のヨーロッパ文明の礎になってという事実は疑う余地がありません。ペルシャ文明は、そのギリシャ文明に多大な影響を与えました。ギリシャとペルシャについては、アケネメス朝とギリシャの都市国家連合が争ったペルシャ戦争のような対立ばかりが目に付きますが、平和時にはペルシャが古代ギリシャの都市国家群に経済的援助を与えていたことは、あまり歴史の本には書かれていません。2つの文明の間には深い交流がありました。
 一般的な日本人の感覚では、西欧と日本では文化が異なる…と認識はしていても、現代における文化的類似性の部分では日本は欧米グループに入り、イランやイラクはイスラムというまったく異質な文化圏と感じる人が多いかもしれません。しかし、欧米人にとっては、日本人を含む東洋人は本質的に「異質」でも、イラン人は「異質」とまでは感じていません。あくまで「イスラム教徒」がキリスト教徒に対して異質なのであって、人種、言語に関してはイランの方が欧米にとっては古代から馴染みの深い国です。イランは、古代ヨーロッパに洗練された東方文化をもたらした人々の末裔が作る国です。
 「イランが好き」なんて言うと変人扱いされそうですが、古代オリエント文明、そしてペルシャ文明が好き…という理由なら、わかって頂けると思います。
 私は、機会があればイランへ行き、各地のバザール(語源はペルシャ語)を訪れたい。ペルセポリスも見たいけど、やはりサファヴィー朝時代に開かれたバザール「バザーレ・ワキル」へ行ってペルシャ文明の粋を凝らして作られる絨毯や工芸品を見たい。地震で大きな被害を受けてしまったバムにも行きたい。イスファハンも訪ねたい。
 私は、イランで「生きているペルシャ文明」が見たいのです。

 ところで、「比較言語学」なんて話を持ち出しましたが、私は比較言語学はなんてものは、しょせんは欧米人が考え出した「いいかげんな学問」だと思ってます。だって、日本語や朝鮮語は「ウラル・アルタイ語」に属しているとされてますが、例えばウラル語のハンガリー語やフィンランド語あたりとは、とても一括りにできるとは思えません。ウラル語族・アルタイ語族との間に若干の文法的類似はあるのかもしれませんが、言語として見ればまったく違うものでしょう。欧米人の言語学者から見ると、似たようなものなんでしょうね。

2004/9/21

 久しぶりにシンセを買いました。初めてのシンセは、言うまもなく初のFM音源搭載機「DX-7」で、これはもう感激して遊びまくった。その後NECのPC98使ってる頃にMT-32で初めてMIDI音源なるものに触れ、それ以降音源はかなりいろいろと買い込んで遊んでました。基本的には「PC+シーケンサソフト+音源」で遊んできたわけで、気が向くと夜中にGM音源で打ち込みやってた次第です。でもなんとなく飽き足らず、そのうち暇が出来たらまともなシンセ買うぞ…などと思ってました。あ、言っときますが、私は作曲や打ち込みが趣味とかいうわけじゃありません。でも、たまに音楽やりたいと思ったときにギターを弾くのはかなりエネルギーがいるけど、シーケンサで遊ぶのならパソコンで原稿書いてる延長で操作できますから、ちょくちょく夜中に遊んでたわけです。
 で、暇が出来たわけじゃありませんが、今回買ったのは「microKORG」。「何だ、チャチなもの買ったな」などと笑っちゃダメです。安いし小さいから、衝動買いしたんですから。まあ外観はほとんどオモチャで「まともなシンセ」じゃないどころか、「シンセ」とは言えないようなシロモノです。でも、場所もとらないしそれなりに遊べます。アナログシンセとボコーダーで遊べるのが決め手なんだけど、実際に使ってみると特にフィルターはなかなかで、かなりファットなサウンドが作れるのには驚きました。これで3万円程度なんだから、この手の機材は安くなったものです。DX-7なんか、20年前に確か20万円以上だったと記憶してます。CM64あたりだって10万円以上したような記憶が…。ともかく、しばらくはmicroKORGで夜中に遊べそうです。
 私は音楽は基本的にロックしか聞かないし、それも60年代後半から70年代のロックばかり…という話はサイトのあちこちで書いている通りです。あの時代背景を持つ音楽だからこそ好きなのですが、そういう私が毛色の違うジャンルのロックとして唯一聞くのが、NYパンクとプログレッシブ。パンクはともかくプログレッシブ系のサウンドは今聞いても別に感動するわけじゃないけど、中学・高校時代にキングクリムゾン、EL&P、イエス、ピンクフロイドあたりが登場してきた時の新鮮な驚きが忘れられないのかも。ピンクフロイドなんて、いまじゃ「ドライブのお供」です。眠くなるのが難点ですが。時々シンセをいじりたくなるのはそのせいでしょう。

 そういえば日曜日の夜、後楽園ホールへキックボクシングを見に。NKBウェルター級チャンピオン、木浪シャーク利幸の試合です。相手はWMCインターコンチネンタル王者のソーレン・モンコントンで、防衛戦ではありませんでしたが、迫力のある試合でした。試合の方は残念な結果に終わりましたが、今後も木浪選手を応援します。
 写真の方は、試合中にソーレン・モンコントンのトランクスが破れ、と変えている時間を待つ木浪選手です。肖像権の問題があるので、大きな画像は掲載しません。もし問題があればすぐに削除します。ご指摘下さい。

 ああ、今日は実に日記らしい日記だ…

2004/9/17

 「自分が必要としている老後の生活レベル」…っていうのを、そろそろ厳密に考える時期に来たかもしれません。むろん、ふだんそんなことを真面目に考えたことは一度もありません。
 なぜ、突然こんなことを考えたのかと言いますと、今日のお昼休みに食事のために外出したら、会社の近くの大手タクシー会社の前で昨今珍しく労働組合が集会をやってました。組合代表らしき人の演説を聞いていたら、何でも大量の嘱託社員が雇用契約を解除されたとのこと。彼の演説によれば、自由化以降タクシー運転手の手取り賃金は下落の一途を辿っており、その会社だけで生活困窮のあまり相当数の自殺者が出ているそうです。
 そういえば、先日仕事帰りの深夜タクシーの乗っていたら、運転手さんがこんな話をしていました。「いまや勤務10年クラスでも手取り年収が300万円程度がゴロゴロいる。不況で一般企業をクビになった人間が次々業界に入ってくるから、給与が安くても乗務員の代わりはいくらでもいる」…そうです。
 ところで、今日の朝刊にボーナスを80%カットされたUFJ社員がいかに生活が苦しくなったか…という記事が掲載されていました。予想通り「住宅ローンが払えない」「私立の学校へ行っている子供の学費が払えない」などの中堅社員の談話や、「新しいコートが買えない」というOLの談話が掲載されていましたが、まあこんなもの「困っている」うちには入りません。何でもOLが「年収300万円ちょっとじゃ生活できない」と言っているそうですが、何言ってやがる…。不況業種の中小企業の中高社員の中には年主300万円程度で子供が2人いる…なんてケースは、枚挙に暇がありません。新しいコート買えないぐらいで騒ぐな、と言いたい。ましてや中堅社員の年収は、ボーナス80%カットでも、中小企業勤務のサラリーマンの2倍以上はもらっているはず。ぜいたく言ってんじゃねえよ。

 そういえば、経済学者である森永卓郎の「年収300万円時代を生き抜く経済学」…という本がベストセラーになりましたが、私は果たして、東京で年収300万円で生活できるでしょうか? とりあえず、持家がないと難しいかもしれません。賃貸なら家賃5万円以下の公営住宅への入居が絶対条件になります。
 ちょっとプライベートなことを書きますが、私の場合は、幸いなことに大学に行ってる子供の養育費は不要です。1人暮らしをしてますが、仕送りはなし。奨学金とアルバイトだけで安価な学生寮で生活しています。国立大学なので授業料は安く、小さい時から払い込んでおいた郵便局の学資保険分だけで十分に賄える状況です。

 こんな状況を鑑みて単純に考えると、月々20万円もあれば私は十分に生活できるはずですね。私は別に贅沢な食事なんかなくても構わない人間ですし、住む場所も2DKあれば十分(数万冊の本は処分しなきゃならないけど)。しかし問題があります。私は、いたってスノッブな人間なので、いくら老後の生活とはいえ、世俗の欲望についていくつか絶対に諦められないものがあります。「60歳を過ぎても死ぬまで絶対に手放せない条件」を、思いつくままに羅列すると…

  ・週に5〜10冊の本が読める(最悪の場合、図書館で借りるのも可)
  ・週に2回は800円から1000円程度の美味しいランチが食べられる(あとの日は300円)
  ・週に3回は美味しい喫茶店でコーヒーが飲める(1回450円)
  ・「みつぼ」か「かぶら屋」あたりで女性と週に3回は飲める(1回4000円程度、安!)
  ・快適に動作するパソコンとブロードバンド環境、自由に使える携帯電話(適度に買替)
  ・年に3回、各1週間〜10日、格安航空券で海外旅行に行ける(1回15〜20万円の予算、安!)
  ・数年に1回、AV機器を新しいものに買い換えられる(15万円を3年に1回)
  ・デジカメやMP3プレヤーなどのガジェットを年に1回は買える(年間10万円)
  ・自分が好きな服や靴を年に数回買える(ユニクロは嫌なので年間15万円、でも安!)
  ・日常の足に「スーパーカブ」を1台所有

 以上の望みは、自分では「非常にささやか」と思っているんですが、どうでしょうか。私は「田舎で農業」なんてやる気はまったくないし、都会じゃなきゃ生きてゆけません。そして私には、「自分なりの金銭感覚、生活感覚」はありますが、世間で言うところの「庶民感覚」なんてものは、よくわかりません。だいたい「庶民感覚」って言葉自体が、インチキ臭いと思ってますから…
 で、上記の条件をざっと電卓で計算すると、これだけで年間150〜200万円ぐらいにはなりそう。結局基礎的な生活費や雑費、各種保険料等をプラスすると、年間300万円での生活は到底無理そうです。
 ってことは、私はまだまだ働く必要があります。

 …以上、完璧な「白日夢」でした。上記の文章の後半部分は、全て冗談です。
 間違っても、「この日記の作者はこんなことを考えている」…なんて思わないで下さい(笑)。現実には、私はこんなことを考えたこともないし、今後も考えずに浮き草のように生きていくつもりです。そして、実は自分が絶対に長生きしないことには自信があります。

2004/9/16

 私がかねてより不思議に思っていたことの1つに、全国の自治体で行われている「都市宣言」なるものがあります。「交通安全都市宣言」・「平和都市宣言」・「非核都市宣言」・「男女平等参画都市宣言」・「暴力追放都市宣言」・「防犯都市宣言」・「スポーツ都市宣言」・「健康都市宣言」…なんてヤツで、クルマで地方国道なんかを走っていると、日本中の市や町や村に大きな立て看板が立っています。この「宣言」というのはいったい何なのでしょう。
 こちらに「埼玉県内自治体の非核・平和宣言と2002年度関係予算」という一覧がありますが、どうも自治体の議会が「宣言」を可決すると、何がしかの予算が付くらしいですね。例えば加須市の場合には、非核平和都市宣言をしたことで、1300万円というかなり大きな予算が取られています。こうした予算で、あちこちにポスターが貼られたり、看板が立ったりするわけですね。
 さて、どなたか自治体関係の法令に詳しい方にお尋ねしたいのですが、「宣言」っていったい何ですか? 法的な裏付けがある制度としては「条例」がありますが、「宣言」というものにはどんな意味や法的な根拠があるのかイマイチよくわからない。
 そこでWeb上でこの「都市宣言」を調べていたら、「市民憲章に関する基礎知識」という資料を見つけました。その中の「市民憲章と都市宣言」というところには、次のように書いてありました。ちょっと長いですが、引用します。
 「…市民憲章も都市宣言も、都市のシンボルのように扱われたり、都市の基本的な計画の理念的基盤とされたりする点では似ているかもしれませんが、市民憲章は『制定後の推進運動を通して市民参加のまちづくりの総合的な根拠になり続ける』ものであるのに対し、都市宣言は『その時々の社会状況を反映した特定の思想や姿勢を都市の内外に表明する』ものであるため、少なくとも次の4点において決定的に異なると考えられます。すなわち、第一は『制定主旨の継続性』です。市民憲章は後続する運動を喚起するという意味において寧ろ制定してから大きな意味を持ち続けますが、都市宣言はその時に宣言してそれで終わりということになりがちです。第二は『包括理念の総合性』です。市民憲章は何箇条かで表現されることが多く努力目標が多面的に示されますが、都市宣言は限られた単一の関心事項に対する見解が中心になっています。第三は『意義の有効期間』です。市民憲章は制定された時点から半永久的に市民の行動規範になることを原則としていますが、都市宣言は社会情勢や世論の変化に伴い急速にその意義の薄れることが少なくありません。第四は『意識されている受け手』です。市民憲章は例外なくその都市の市民だけを情報の受け手として意識していますが、都市宣言にはしばしばその都市を超えた国や世界を意識しているとしか思えないものがあります。このように、市民憲章と都市宣言は質の異なるものですから、制定すべき目的と内容によってどちらの形式が採択されるべきかが決まると考えられます…」
 この説明を読んで、「宣言」の意味がわかりましたか? 私は逆に分からなくなりました。要するに都市宣言というのは、「その時々の社会状況を反映した特定の思想や姿勢を都市の内外に表明する」ものらしく、法的な拘束力や裏付けはなにもない…ということらしい。だとすれば、「都市宣言」なんてことをすることに、そして税金を遣って大量のポスターや立て看板を作ることに、いったい何の意味があるのだろうか…ということです。
 いや、なぜ「自治体が特定の思想や姿勢を都市の内外に表明する」ことの意味を疑問視しているかというと、あまりにもくだらない「都市宣言」が多いからです。こちらに「全国の都市宣言一覧」なる資料がありますが、読むとけっこう面白いですよ。
 よくある「非核・平和都市」や「健康都市」「スポーツ振興都市」「男女共同参画宣言都市」あたりは、無意味とは思いながらも、まあスローガンとしてはなんとなくわからないでもありません。宣言することによって、市民の平和への意識や健康への意識が高まれば、それなりにいいことのような気もします。でも、全国で非常に多い「 生涯学習宣言」(こちらに市町村一覧があります)になると、かなり無意味度が高まるような気がします。
 さらに、これもよくある「清く明るく正しい選挙都市」「公明選挙都市」あたりは、こんなこと宣言したらちょっとマズイんじゃないか…と思いますね。「公明に選挙をする」なんてことは当たり前であって、あんたの町はそんなことを宣言しなきゃならんほど選挙違反まみれなのか…と突っ込みを入れたくなります。「青色申告と諸税完納の都市」なんてのも同じで、国民・住民が税金を納めるのは当たり前。こんな宣言をしなきゃならんほど脱税が多い都市なんでしょうか。
 で、都市宣言にはもっとくだらないものがいっぱいあります。
 ふれあい都市(久留米市)、明朗都市(宿毛市)…あたりになると、もう何のことやらわからなくなってきます。何で「明朗」なんてことを宣言しなきゃならんのでしょうか。青少年とともにあゆむ都市(昭島市)、風格あるゆたかな都市(池田市)…あたりも意味不明ですね。何のための宣言なのか、宣言すことで何をしたいのかよくわかりません。
 そして、明るい家庭都市(鎌ヶ谷市)、すこやかなこどもを育てる都市(柏原市)…あたりになると、もう家庭のことなんだから「余計なお世話」です。そして究極のバカバカしい都市宣言は、ものを大切にする都市(真岡市)、親切都市(八王子市)、そして親孝行都市(厚木市)あたりでしょう。「親切」とか「物を大切にする」とか「親孝行」とか、何でこんなことを自治体が「宣言」をしなきゃならないんでしょう。
 「明朗都市」なんて意味不明の宣言をして、税金を遣って広報活動をすることに何の意味があるのか、さっぱり理解できません。こんな宣言を可決する議会っていったいなんだろう。「市民は毎日笑ってろ」ってことでしょうか…

 むろん、都市宣言の中には「重い」ものもあります。長野県の長野市、更埴市による「部落開放宣言都市」は、地域の事情を勘案した上で、こうした宣言による住民啓蒙の必要性があったのではないかと推察できます。またカリフォルニア州のバークレー市議会による「無防備都市宣言」は米国内でイラク戦争に反対した都市の宣言として、世界中で話題になりました。

 まあ、全ての「都市宣言」がくだらないとは言いませんが、少なくとも「明朗都市」やら「親孝行都市」なんて宣言に税金を遣うのは、はっきり言って無駄だと思う次第です。

2004/9/15

 Yahoo!のトップ画面を見ていたら、下の方に「Yahoo! JAPANはアテネパラリンピック日本代表選手団を応援します」と書いてあり、こんなサイトが作られていました。また「アテネパラリンピック番組表」などを見ると、各TV局はアテネパラリンピックの競技中継や特別番組、関連ドキュメンタリー番組等に、相当な放映時間を費やすようです。
 さて、既に始まっている、そして今後予想されるマスコミによる「パラリンピック」への熱狂には、私はある種の違和感を持っています。これはうまく口には出来ませんが、頭の片隅に「なぜ障害者が身体能力を競う必要があるのか?」「そしてその障害者が身体能力を競っている姿を、TVなどで大々的に放映しなくてはならないのか?」といった疑問があることは否めません。むろん、これは障害者がスポーツをやることに対する偏見などではないことを、あらかじめ強くお断りしておきます。さらに、私自身が右足に障害を持つ身障者であることも明示しておきます。

 まず、パラリンピックというのは矛盾の塊のような競技大会です。身体障害者というのは、一括りで定義することすら難しいほどその様態は多様です。健常者と身障者の区別は、医師ですら難しいのが現状です。こうした矛盾が露呈したのが、パラリンピックへの知的障害者の参加問題です。シドニーパラリンピックのバスケットボール競技において「健常者替え玉事件」が起こったのは記憶に新しいところ。知的障害者と健常者を厳密に区分することなど不可能です。
 そして、私自身が足に障害を持つゆえに思うのですが、隻脚(片足がない)…という状況1つとっても、完全に付け根部分から足がない場合と例え数センチでも大腿部が残っている場合とでは、体のバランスはまったく違います。つまり「競技」の大前提であるところの「身体条件」を同一にすることは、これまた事実上不可能ではないかと思えます。
 次に、パラリンピックは「道具」に依存する部分が大きく、しかもよい道具を得るには多大なお金がかかる…という問題です。例えば車椅子マラソンや陸上競技に使われるレース用の車椅子は、安いものでも30万円台、高価なオーダー品では100万円を超えるケースもあります。他の競技用の高性能車椅子の値段も似たようなもの。こんな高価な道具を買えない貧しい身障者は、世界的に見ればむろん、わが国にもたくさんいます。参加条件が公平だとはとても思えません。

 さて、これらの矛盾を全て勘案した上で、なおかつパラリンピック出場を目指してスポーツに打ち込む障害者たちの生きがいや喜びはかけがえのないもの…でしょう。その点は十分に理解しています。それゆえに、パラリンピックを廃止しろ…なんて主張をする気はまったくありません。
 しかし、もっと大きな問題として指摘したいことがあります。パラリンピックは、オリンピックと同じように世界中の国から参加して競技が行われます。しかし、身障者のスポーツ振興に関しては、国家の富裕度の影響を受け過ぎる…という点が気になるのです。こうした「所得による環境の差異」は、むろん一般スポーツにおいてもありますが、障害者のスポーツ環境における国家間の差異は一般スポーツの比ではないほど大きなものです。発展途上国の大半では、高価なレース用車椅子を購入するどころか、障害者に最低限の生活を保障する最低限レベルでの社会福祉環境すらありません。ましてや障害者がスポーツを出来る施設や環境を国が与える…なんてことは、まったく不可能な貧しい国家がたくさんあります。国家そのものの貧困ゆえに「ボランティア」なんてものが「存在できない」国は、いくらでもあるのです。アジアやアフリカの最貧国においては、障害者は物乞いをするか見世物になる以外に生きる術すらないところが多い…というのが現実です。私は、自分自身が旅したインドやバングラデシュ、タイやミャンマーなどで、こうした身障者をいやというほど見ました。考えて見れば、パラリンピックの陸上競技で使われる高価なレース用車椅子を1台購入するお金で、最貧国の身障者は一生楽に生きてゆけるのです。
 これほど大きな環境の差がある中で、パラリンピックという「障害者による世界最高峰の競技大会」「もう一つのオリンピック」をやることに、どんな意味があるのでしょうか。今回アテネで開催されるパラリンピックに、160人以上も代表選手団を送り込める日本という国は、世界の中でも「例外」に近い豊かな国なのです。

 そして最後に、パラリンピックを見る人全てが、パラリンピックに参加するどころか「スポーツなどまったくできない重度の身障者」が世界中に数多く存在する…という現実を想起しなけれならないでしょう。重度の筋ジストロフィー患者や重度の脳性マヒ患者. 脊髄損傷者など、パラリンピックなんて無縁の障害者はたくさんいます。

 「身障者がスポーツで競うことの感動」も「そうした競技を見ることで受ける感動」も味わえない重度の身障者の方々の存在、さらにはアジアやアフリカの路上で物乞いをする何百、何千万人もの(中国だけで6千万人の身障者がいます)貧しい身障者たちの存在、こうした現実に思いを馳せてこそ、ある意味で「恵まれた身障者」の競技大会であるパラリンピックに熱狂する意味があるのかもしれません。

2004/9/14

 「準常任理事国」反対文書、日本など4国が共同発表へ…という記事。「準」があってもなくても、どうでもいい話だなぁ。ざっくばらんに言えば、なぜそうまでして国連の常任理事国になりたいのか、政府は何を必死になって常任理事国になるための運動しているのか理解できない。国連の常任理事国になったところで、いったいどういうメリットがあるのでしょう。今回のイラク戦争開戦の経緯を見ても、国連なんて何の意味も力も持たない機関。むろん、何十年間も国連決議を無視するイスラエルに対して何もできないなんて、「正義」とも無縁。っていうか、いまどき誰も「国連=正義」だなんて、本気で考えちゃいまいでしょう。それに、国際連合という機関は、第二次世界大戦の戦後処理を模索するアメリカが中心となって欧米戦勝国を機軸とする国際秩序を打ち立てるために設立されたもの。事実上はヤルタ会談で国連設立が最終決定され、1945年6月に国際連合憲章調印されてます、これって太平洋戦争の終戦前の話で、もともと日本なんて国を参加させる気はなかった組織。戦後の経済復興で「経済大国」と呼ばれるようになったところで、世界秩序を維持する側に日本を参加させようなんて、欧米諸国が本気で考えているわけがないです。
 日本も常任理事国になるべき…なんて本気で思っている人、国連という組織に夢のような幻想を抱いている人間か、さもなくば「国際貢献」を声高に叫んでいい顔したい政治家ぐらい。まあ、「拠出金がもったいない」という意見は、正しい。国連組織のあまりにもひどい腐敗は、誰もが知るところです。
 それに、本気で日本が世界秩序を担う一員になりたいのなら、力を行使すべき場は国連ではありません。いまや世界の秩序を作り、それを維持するという意味では、WTOやIMFの方が、はるかに重要な役割を果たしていることは周知の事実。私は社会主義は嫌いですが、「政治や社会の全てを決定するのは下部構造である経済」…というマルクスの言葉は正しい(そんなこと言ってましたっけ?)。まあ、WTOの目指すグローバリズムなるものも、日本の身の丈には合わないような気がしますけど。それに、ここまで経済力が落ちちゃ、もう何を言ってもだめかも。
 まったく無意味な話を饒舌に書きましたが、実は国連やらWTOやら、そんなことはどうでもよい話で、この新聞記事を読んで思い出したのは、ニューヨークにある国連ビルのこと。
 あのイーストリバー沿いで、キラキラと光を反射している薄っぺらなビル。あのビルの形やイメージは、誰もが小さい頃から嫌というほど教科書の写真やTVや映画の中で見ています。もう、国連ビルの形を知らないって人は、日本にはいないでしょう。でもあのビルは、ニューヨークのシンボルでもあると同時に、実はニューヨークの有名な建築物の中では「いちばんつまらない建物」でもあります。そりゃかっこいいクライスラービルやグランドセントラルステーション、セント・パトリック聖堂や市立図書館なんかを見てるのは楽しいけど、国連ビルはどう見ても面白くない。なぜあんなにつまらない建築物になったのかって話は、こちらのサイトに書いてあります。もともとは、あの天才建築家のル・コルビュジェが原案を作ったアヴァンギャルドな建築物であったものを、よってたかってつまらない建築物に設計し直した…ってことらしいですね。
 何にしても私は、1970年代にニューヨークに住んでいた頃、一度も国連ビルには行きませんでした。まあ、国連ビルはもともと殺風景な1st Aveにあるし、入り口は確か45 stです。今でもそうだけど、あのあたりって貧乏学生が行っても何もないところ。近くにルーズベルト島へ渡るトラムがあるので、あれに乗ってみるために近くに行って国連ビルを眺めた記憶はあります。
 そんなこんなで、その国連ビルに初めて足を踏み入れたのは、数年前に友人と一緒にマンハッタンに滞在した時です。マンハッタン自体が初めてという友人を案内して、国連ビルに行きました。ついでにガイド付きの見学コースなんかに参加したりして。キレイなオネーサンが10人ぐらいのグループを案内してくれましたが、会議場とか見ても別に何とも面白くない。英語はわかりやすかったですけど。そういえば、国連の拠出金の話をしている時に、日本からの拠出金が大きいと言いながら、我々の方を見ていました。内心では、「こいつら金だけ出してるバカ」とでも思ってたのかも。
 いやいや、さらに饒舌に意味のない話を書いてますが、話の続きはまだまだまこれから。
 で、「国連ビルの地下には核爆弾が埋まっている」という話、知ってますか? 実は私、この話を10年以上前に聞いたか読んだかしたことがあります(何で読んだかは記憶にありません)。さっき「国連・核爆弾」で検索したら、あの有名サイト「阿修羅」に「国連ビルの地下に核爆弾が仕掛けられている!?」という記事があり、内容は「フリーメーソンの陰謀」という笑っちゃう話でした。いかにも「阿修羅」らしくて、いい話。でも、私が聞いていたのはこんな話じゃなかったような気がします。まあどっちでもいいけど、この「国連ビルの地下には核爆弾が埋まっている」という話を聞いて、それはずっと頭の片隅に記憶されていたのです。
 話は飛びますが、「桜の木の下には死体が埋まっている」…って話がありますよね。これは、確か「桜の樹の下には屍体が埋まっている…」で始まる梶井基次郎の小説が元になった話だったと記憶していますが、どう続くのかはまったく覚えていない(笑)。でも私は勝手に、「死体が埋まっているからこそ美しい」…と理解してました。死体の血を吸って花は美しく咲くのです。
 この話がどう国連ビルの話に繋がるのかというと…
 その数年前に友人と国連ビルに行った時、雪が散らつく冬空に聳え立つ国連ビルを見上げて、「この下に核爆弾が埋まっている」という話を思い出した瞬間、私はそれまで何十回も眺めて何の感銘も受けなかったあの国連ビルを、初めて「美しい」と思ったのです。ビルの下に核爆弾が埋まっている、だからビルが美しい…と思った感覚は、桜の木下の死体の話につながるのです。
 いや、冗談ではなく国連ビルの下には死体だって埋まっているかもしれません。少なくとも象徴的な意味では…。「国連決議」の名の下に侵攻を受けたり、圧殺された民族主義政府なんていっぱいありますから。少なくとも現在の多くのイラク人にとっての国連、厳しい経済封鎖や査察をおこなったアメリカの手先…といった程度のものでしょう。イラク戦争で死んだイラク市民の怨念も、国連ビルの地下には溜まってるかもしれません。映画「ゴーストバスターズ2」に出てきた、ニューヨークの地下を流れるスライムの川みたいなものでしょうか。

 ああ、今日の饒舌な文章は、きっとひどい。走り書きしましたが、何が書きたかったのか自分でもわかりません。むろん、読み直さずアップします(笑

2004/9/13

 「アイドル」って、いったい何でしょうね。最近は大学で現代文化論の一環として「アイドル論」なるものが講義されるほどですから、きっと一言で定義するのは難しいんでしょう。
 私はこの「アイドル」という言葉の現代的な定義がどんなものかは知りませんが、少なくとも1970年代から80年代前半くらいまでは、「中高生が憧れる異性の歌手」…といった定義づけでほぼ正しかったような気がします。女性アイドルで見ると、アグネス・チャンとか山口百恵とか小泉今日子、西田ひかる、柏原芳恵あたりまでは、この手の歌手アイドルが中心。あとは秋吉久美子のようなアイドルっぽい女優も若干いましたね。ただ女優は昨今のアイドルとはちょっと雰囲気が違ったような気もします。まあ、今でもジャニーズ系の男性アイドルは、こうした「中高生が憧れる異性の歌手」という基本定義通りの正統派アイドルです。でも昨今、女性アイドルの方は極端に多様化しているようです。むろん、モー娘のような70年代のそれに近い歌手系アイドルもいますけど、歌手でもなければ女優でもない「正体不明のアイドル」が多くなったのは確か。わけがわからなくなったのはオニャン子あたりからかなぁ…。ともかく、最近のTVのバラエティ番組でお飾りのように出ているだけのタレントとか、水着がメインのグラビアアイドル、そして女子アナなんてアイドル達は、その存在をいったいどのように定義付ければよいのか見当もつきません。例えば小倉優子のようなアイドルは、私には非常に不思議な存在です。まあ、男性アイドルだって「お笑い系タレント」がこれほどまでにアイドル化するとは、夢にも思いませんでした。

 さて、女性アイドルについてですが、最近のアイドルの多くが「セックス」を売りものにするようになったことに、なんとなく「アイドル」という言葉とは相容れない違和感を感じます。セックスを売り物にする…と言っても、直接的に体を売ってるという意味ではありません。アイドルってのは本来「手の届かない存在」であったはずなのに、最近のアイドルは、アイコラではないけど、「妄想」よりもさらに直接的な性の対象扱いされるのが当たり前になったような気がするのです。これって、いつ頃からなんでしょう。70年代には、一般のアイドルとセックスアピールを売り物にするタレントは明らかに別物でした。例えば日活ロマンポルノに出演しているようなタレントは、絶対に「アイドル」にはなれませんでした(そういえば田中真理がちょっとアイドルっぽい位置にいたかも)。ところが、グラビアアイドルとかレースクイーンなどに代表される昨今のアイドル達の多くは、自らが性的な妄想の対象であることを承知しているタレントが多いと思う。これはある意味、モー娘だって例外じゃないかもしれません。水着になるどころか、アイドルの「コスプレ写真集」なんてのが巷間に大量に出回っている。こうなると昨今のアイドルってのは、ある面で「AVタレント」と大差ありません。

 さて、個人的に思い返すと、私は中学・高校時代にはアイドルにはまったく興味を持ちませんでした。部屋の壁にアイドル歌手のポスターを貼る…なんて趣味はまったくありませんでした。当時だって女性が好きなのは現在と同じでしたが、私が夢中になるのは常に「生身の女性」。手の届かない女性なんてのには、興味の持ちようがない…というのが、その後の人生を含めての本音でした。おかげで、女性関係ではけっこういろんなことありました(冗談半分です)
 ところが…です。そんな人生を送ってきた私は、中年になってから、「女性アイドル」なるものに俄然興味が出てきたのです。…っていうか、最近はTVのバラエティ番組などに登場するアイドルを、思わず「かわいいなぁ」という気持ちでじっと眺めてしまうわけです。こういう自分がいるということ自体、信じられない。でも、ある意味ではアイドルに目を細めている自分をかわいい…と思います。例えばあややが好きなことは、もう普段から公言している通り。何でしたっけ、あの午後の紅茶のCMでのエプロン姿。ミニスカートの後姿が実にいいですね…。CMを見ながら、思わず「いいなぁ」…と口に出している自分がいて、何だか可笑しくなっちゃいます。
 で、あやや以外に誰が好きかって、いっぱいいますよ、好きなアイドル。田中麗奈 とか内山理名 とか…、いちいち名前を挙げていくとキリがないくらい(笑)。いまや私は、立派な「アイドル好き中年」であり、「アオドルウォッチャー」でもあります。そういえば乙葉なんて巨乳売り物にして出てきたけど、けっこう頭がいいですよね。
 ホント、年をとると趣味嗜好ってのは大きく変わる部分があるんですね。


2004/9/11

 多くの人がBlogやweb日記で、私と同じことを書いているでしょう。

 昨夜のプロ野球選手会と経営者側との労使交渉後の記者会見席上において、選手関係委員長のロッテ瀬戸山代表が求めた握手を古田が拒んだシーン、…実に印象的でした。
 交渉術の面からも、近鉄選手会への配慮という面から見ても、見事で鮮やかな態度です。

 古田という男が、「野球選手」というまとまりにくい技能者集団を率い、実際に球団がなくなる当事者ゆえに強硬な態度をとる近鉄選手会に配慮しながらも、ギリギリの状況下で少しでも妥協可能な条件を探る困難な交渉を続けたことに、あらためて感じ入りました。マスコミの前では、けっして感情的にならずに、たんたんと「理」を説く姿も見事です。
 海千山千の経営者側ですが、野球選手の中に、これだけの能力を持つ人材がいたということは、確実に想定外のことだったでしょう。困難な交渉を続け、体力を消耗しながらも、一方本業のグラウンドでは首位打者を争う古田の姿は、実に美しい。傑出した人間…というのはいるものです。

 笑顔で握手を求める手を差し出す、瀬戸山代表の心の中には何があったのでしょう。
 今回のニュース映像を見ながら、1993年9月13日、アメリカ・ホワイトハウスで、PLOのアラファト議長とイスラエルの故ラビン氏が握手した瞬間を思い出しました。
 私は、どちらかといえば心情的に「反イスラエル」かもしれません。
 にもかかわらず、あの瞬間、満面の笑みで自ら手を差し出したアラファトには何か「微妙な卑小さ」を感じ、逆に強張った表情で握手を躊躇ったラビンの方に、なぜか誠実さ、正直さを感じたものです。
 その後のラビン暗殺は、世界にとって悲しい出来事でした。

2004/9/10

 私は仕事や休暇で年に数回は海外旅行に出かけますが、持って行くバッグは20年前と比べてずいぶん変わりました。1980年代の半ばから1990年代の半ば頃までは、1週間程度のビジネス目的の出張が多く、バッグはサムソナイトのハードなスーツケースが中心。アルミ製の大小2つのサイズを持っていて、旅行先国や目的、季節によって異なる荷物の要領に応じて使い分けていました。当時はまだ、軽量で小型のソフトタイプのピギーバッグがほとんど出回っておらず、たまに遊びで海外へ旅行する時には、中型のダッフルバッグなんかを肩に掛けていったものです。長期のバックパッカー型の旅行をする時には、登山用の大型アタックザックを使いました。
 1990年代の半ばを過ぎてからは、キャリーバッグの時代になりました。ビジネス目的の旅でジャケットやスーツを持っていく時も、1週間以内の旅行ならソフトタイプのキャリーバッグ、しかもギリギリで機内持ち込み可能なタイプです。あの、スチュワーデスが持っているやつよりちょっと大き目のタイプ。
 現在愛用しているのは、数年前にバンコクのスクンビットのカバン屋で購入したバッグで、なんと850バーツ(約2500円)でした。厚手のバリスティックナイロンを使用しており、値段の割にデザインも良くしっかりしたもので、アメリカ製です。全然「安物」って感じはしない。知人が持っている国産の2万円前後のキャリーバッグと比べてもまったく遜色のないもの。メーカーの保証書も入ってました。ファスナーによって内容積の増量が可能です。秋のヨーロッパを10日間旅行するのに、着替えのフォーマルジャケットとノートPCまで詰めても大丈夫でした。薄くした状態では、ギリギリで機内に持ち込めるサイズにしては、かなりの荷物が収納できます。もう10回以上使っているのですがまったく壊れる気配もなく、使いやすいし、実にお買い得なバッグでした。
 目的が遊びで1週間以内、しかもあまり着替えを必要としない東南アジアや中国あたりに出かけるときは、もうManhattan Portageの大型メッセンジャーバッグ1個で十分です。ただし、荷物にノートPCが加わると強度的に厳しい。そんな時は、ノースフェースのインナーフレーム型の3wayバッグの出番です。確か容量は45リットル。ただし、これはキャリー機能がないため、いつも担ぐか肩に掛けてなくちゃいけません。そこで最近使い始めたのが、40リットル入る大型のデイパックタイプにキャリー機能が付いたもの。機内持ち込みして座席上の棚に簡単に入るサイズです。背中に背負ったり、取っ手を出して引っ張ったり、いろいろ便利に使えます。

 ところで、海外旅行用バッグと言えば、20年くらい前まではパック旅行に申し込んだり、正規に近い値段で航空券を買うと、必ず航空会社のロゴが入ったショルダーバッグをオマケにくれました(航空会社によっては最近もくれることがあるらしい)。昔はあれって「オッサンの団体旅行」みたいでカッコ悪い…と思ってたんですが、最近オークションで結構高値で売ってたりします。Yahooオークションに出品されていた「JALのショルダーバッグ」なんて、残り1日あるのに25件も入札があり、既に4000円以上の値が付いてました。びっくりです。赤地に白い鶴のマークの懐かしいバッグですよ。マニアの方が買うんでしょうか。私も家の押入れを探せば、1つぐらいは持ってるかもしれません。探してオークションに出そうかなぁ。
 もっとも、こうした航空会社のロゴ入りショルダーバッグは、マニアのコレクションとしてだけでなく、数年前から若者の間で実際に使うのが流行っているらしい。先日渋谷の街を歩いていたらキャセイパシフィック航空のロゴ入りショルダーを肩に掛けて歩いている女子高生がいました。まったく、何が流行るかわかんない世の中です。

2004/9/9

 新潮社から文庫化されて刊行が続いている塩野七生「ローマ人の物語」、この手の歴史本にしては圧倒的なベストセラーとなっています。しかも、あらゆる階層に及ぶ読者からは、その内容についてもう絶賛の嵐です。私は、この本を文庫化される前に全巻通読しました。ローマ通史として、またローマを彩った数々の人物史として面白いことは確かですが、一方で大きな違和感を感じたことも確かです。

 塩野七生という作家を知ったのは、1981年のこと。その年に上下巻が完結した中央公論社「海の都の物語」。もうこの本を読んだ時は「感動」しました。ヴェネツィアという都市国家の誕生から滅亡までをまさに「物語」として読ませてくれたのですが、私はこれほど面白い歴史書に出会ったのは初めてではないか…と思うほどでした。サントリー学芸賞などを受賞したことをきっかけに読んだこの本は、単に面白かっただけではなく、装丁も含めて非常に美しい本でした。使用されている本文書体からノンブルの書体、字詰め、版面のサイズと上下左右の空白のバランス…など、実によくできた本だと思い、それもまたうれしかったのを思い出します。
 その後、塩野七生の著作はほぼ全てを読んでいるのですが、一番のお気に入りは、ヴェネツィアの貴族として生まれたマルコ・ダンドロを主人公とした「緋色のヴェネツィア」「銀色のフィレンツェ」「黄金のローマ」のミステリー3部作でしょうか。時代背景と主人公の人格造形が見事でした。

 最初の話に戻りますが、「ローマ人の物語」を読んだ時に感じた違和感とは、あまりも各所で「教訓めいたフレーズ」がたくさん出てくることです。それはローマの政体の変化や法律、政変時における指導者の対応などについて書かれている場所では、もう必ずと言っていいほど、「現代日本(または他国)の政体や政治家と、古代ローマのそれとの比較」や「現代の政治や社会に対する指導者のあり方や民衆のスタンスと、古代ローマのそれとの比較」…がなされているのです。あからさまな比較がされていないケースでも、「現代との比較を暗示する文」が頻繁に登場します。正直言って、これが鬱陶しくてしょうがない。余計なお世話です。何だか、「古代ローマの歴史や政治、社会構造、指導者の態度」などを語ることで、「現代の政治はどうあるべきか」を教訓として語りたいがための著作…という感じです。いや、実際に彼女はそうした意図を持って「ローマ人の物語」を書いたのでしょう。
 塩野七生という作家は、1990年頃から、明らかに変質しました。最近は政治的な発言も多いですし、ヨーロッパ史を題材に現代社会への教訓を語ることも多くなりました。この「ローマ人の物語」は、何だかそうした変質、「教訓路線」の集大成…といった感じの本です。でも、あの「海の都の物語」には、余計な教訓なんか書かれてはいなかった。実に良い本でした。

 しかし、私が「ローマ人の物語」に感じたこうした違和感や鬱陶しさは、世間の読者と比較すると、あまり一般的ではないようです。ネット上などの書評を読むと、「政治体制や人類が持つべき政体への鋭い洞察力」とか「現代日本にも何かを訴えかけている」…といった「教訓部分」を、逆に高く評価している人が多い。
 私は、世の中の人は「教訓」が好きなんだなぁ…と思った次第です。あからさまな「教訓」や「お説教」が嫌いな私は、今後はもう、塩野七生という作家の本を読むことはないでしょう。

2004/9/8

 防衛庁・自衛隊の50周年記念式典で、石破防衛長官が「…自衛隊は『いかにすれば戦争を回避できるか』を目標とする集団だが、日本と戦っても勝利は得られないと相手に認識させないと実効がない…」…と発言したそうですが、さすがに「?」を感じます。この石破という軍事オタクの頭の中はどうなっているのでしょう。
 こういっちゃ何ですが、「正面きっての戦争」を想定するなら、際限なく軍備を増強していけば、「ほぼ確実に勝てる軍隊」を作ることはある程度可能でしょう。でも、日本が戦争に巻き込まれるケースを考えると、正規戦になる可能性は限りなく低い。仮想敵国をどこにするかにもよりますが、まずはアジアの某国や某国あたりを想定しているはず。自分がそのアジアの某国の指導者で、日本を攻めようと思ったら、間違っても日本に向けてミサイルなんか飛ばさない。闇に紛れて日本各地に上陸し、都市部でテロ攻撃をしたり、海岸部にある原発や化学コンビナートを狙ったりします。そんなことは常識でしょう。
 だいたい、島国である日本の海岸線の総延長は約32,500kmととてつもなく長い。これを全て、上陸不可能なレベルで防備することはどう考えても不可能です。24時間の人的監視は絶対不可能だし、センサーを駆使すると考えても、地形の複雑さから見てまず無理。加えて、アジアの某国や某国あたりの人間となると、都市部に紛れ込めば日本人と見分けはつかない。続々とゲリラ兵が上陸してくるに決まっています。
 そんなこと以前に、わざわざ上陸などしなくとも、既に某国のゲリラは日本に潜んでいる可能性の方が高い。何十年も前から日本に住みつき、日本国籍も取得している場合、公安警察の総力を挙げても摘発することはまず不可能でしょう。
 有象無象でごった返す週末の夜の新宿や渋谷の真ん中で爆弾が破裂するとか、ラッシュアワーの山手線で毒ガス撒かれるとか、そんなことが2〜3回あれば、死傷者はあっという間に万単位。それも、死ぬのは自衛隊員ではなく一般市民です。東海道新幹線や東名・名神高速道路、そして基幹となる通信回線の一部でも破壊されれば、一瞬で経済活動はストップ。もう日本は確実に白旗を上げます。原発や化学コンビナートのある工業地帯も手軽な攻撃目標ですが、全国に散らばるこれら全てを防備することも、絶対に不可能です。
 そんなことより、前世紀のベトナム戦争、アフガニスタン侵攻において、それぞれアメリカとソ連は、ほぼ持てる軍事力の総力を挙げて核以外のあらゆる近代兵器を駆使して戦ったにも関わらず「勝てなかった」という教訓は、まったく活かされていないようです。その後、イラクやアフガニスタンを攻撃したアメリカは、未だに「勝って」はいません。
 いつも言っているように私は右でも左でもありませんが、「自衛隊を増強して国を防衛する」なんて話は、もう完全に現実離れしています。だから、何が何でも周辺国と外交的にうまくやっていくべき…といった結論が正しいのかどうかは知りません。ただ、もし本気で「戦争状態の想定」や「国の防衛」を考えるのなら、自衛隊の軍事力増強なんてほとんど無意味。こんなことは、どんな素人にだってわかる話。税金の無駄遣いどころか、結局アメリカの軍事産業が潤うだけ…って、あ、そうか。ポチの石破も小泉もそれが目的か…。
 ともかく、もうちょっとまともな話をして欲しいですね。ああ、くだらない。

2004/9/7

 北オセチア共和国で起こった、おそらくはチェチェン独立派によるものと思われる学校占拠事件事件の顛末には、その犠牲者の数もさることながら、子供が犠牲になったこと、そしてあまりにも複雑な事件の背景を考えると、さすがに言葉を失います。
 今回の事件について書かれた新聞の社説などを読むと、論調は大きく2つに別れ、テロの残虐さを避難した上で、「テロを生み出した背景にもっと目を向けるべきだ」というものか、「テロ対策を強化しろ」のいずれか、もしくはその2つの意見を並列して述べているだけで、こんなレベルの意見なら、「TVニュースを見ながらの夫婦の会話」と同じです。「床屋談義」を活字にしているに過ぎません。TVのワイドショーやニュース番組に出てくる「キャスター」「ニュース解説委員」「政治評論家」「自称ジャーナリスト」達の話も、大半がこうしたレベルのコメントに終始しています。
 そんな中で、いつも読んでいる「極東ブログ」ではさすがに、「…この事件をどう見るべきか。すでにいくつか典型的な視点がある。いわく、テログループたちとのねばり強い対話が必要だった、背景にあるチェチェン問題を解決することがこうしたテロを防ぐことになる、ロシアの強権的な秘密主義は許せない、治安部隊の突入は失敗だった…といったものだ。しかし、実態を知るにつれ、そうしたいかにも正義じみた主張は虚しくなってくる…」という、単純ではない感想を述べています。また「チェチェン総合情報」なるサイトでは、チェチェンの現状に関するかなり優れたソースを提供してくれているとともに、もっと多様な視点を提示しようと努力しています。
 私は今回の事件発生の直後から、手持ちの資料やネット上の大量の情報を漁って、18世紀に遡ってのチェチェンの歴史から、ロシアの南下政策の経緯、スターリン時代のチェチェン民族浄化政策、カスピ海油田からのパイプライン建設状況、アルメニアやアゼルバイジャンを含むカフカス(コーカサス)地方の民族史、そしてまた古代スキタイの子孫である「オセット人」の国であるオセチアの歴史…などを片っ端から調べて見ましたが、それによってわかったことは、「この地域の全ての国や民族の利害を満足させる」ことを前提に話を進めると、どうにも解決策がない…、というあまりにも混迷した状況を追認しただけでした。

 いずれにせよ、今回の学校占拠事件事件について背景も含めて突っ込んで考えると、「テロを生み出した背景にもっと目を向けるべきだ」とか「テロ対策を強化しろ」などという新聞の社説のような単純で陳腐な結論には絶対になりません。私も、極東Blogと同じように、「もっとテロ対策を強化しろ」はむろん、「テログループたちとのねばり強い対話が必要」「背景にあるチェチェン問題を解決すべき」「ロシアの強権的な秘密主義は許せない」「治安部隊の突入は失敗」などの意見は、どれもピンと来ないのです。
 「じゃあオマエは何か具体的な解決策でも提示できるのか」と言われても、もとより私にカフカス地方の紛争の解決策などが提示できるわけではありません。しかし、今回の事件に限定せずより大きく「地球上に住む人類全体の状況」を見れば、国家間における「あまりにも歴然とした不公平な富の配分」や「絶望的なほどの貧富の差」、そしてそうした「富の配分の不公平を生み出した侵略や戦争などの歴史的経緯」…が存在する限り、今後とも紛争をなくすことは絶対に不可能でしょう。であれば、現実的かどうかは別にして、地球上に住む人類全体が「国家や民族という共同体を、全ての人の意識の中で解体する」…しか、世界中で起こる紛争に対する根本的な解決策はないのではないか…という、夢のようなことを、真剣に考えてしまったわけです。

 で、ここから先は床屋談義以下の完全な「与太話」になるので、読まないで下さい(笑

 「国家」でも「民族」でも「居住地域」や「宗教団体」でも構いませんが、地球上に住む人のほぼ全ては、何らかの形で「共同体」に属し、それも複数の共同体属して、自分が属した共同体の恩恵を受けています。そうした共同体のもっとも眼に見える形は、やはり「国家」です。そして、現代の世界の紛争は、多くがこの「国家」間の利益をめぐるものだということは確かです。
 その「国家」は、あらためて言うまでもなく「個人の集まり」…に過ぎません。そりゃ当然です。これはウヨクであろうとサヨクであろうと、人類の文明発展史においてはもともと「国家」などの共同体が先に存在していたわけではない点は、誰もが明確に認めるところでしょう。そして、この「集団=共同体」が複数できたために、共同体間で利害争いが起きた…、まあ国家間の紛争なんて煎じ詰めればこうした話でしょう。
 まあ、国家という共同体は、共同体に属する個人間での利益の対立、または個人の利益と集団の利益の対立を防止しするために、「共同規範」として法律が必要となります。加えて、各個人の共同体への帰属意識を高めるための教育が必要になる…と施政者は考えるわけです。その結果が「愛国教育」であり、これは多かれ少なかれどこの国家でもやっています。
 私は、国家を解体したり、国家の歴史を壊したり…ということを言っているのではありません。この際ですが、「愛国教育」に対して反対したり、個人主義を奨励したりしているのでもありません。ただ、世界の紛争のほぼ全てが「共同体間の利害の対立」が原因で起こり、そしてそれがカフカス地方のように「利害の調整」レベルではもつれた糸を解きほぐすことができないのなら、いっそのこと「国際紛争を解決する手段として」、一度「共同体から個人へ」という形での、「概念の上での大規模な逆行」をしてもいいいんじゃないか…と思います。
 まあ私は、「地球市民」みたいな言葉が大嫌い。「地球上の人類は1つ」といった考え方は、どうも気持ちが悪い。そこで、こうした面倒な概念抜きに、「まずは人類は個人の集まり。お互いに自分を大切に、そして相手も大切に」…という形で、「国家間の利害で争う以前にもっと大切な問題がある」ことを広く認識させればよいのでは。小さい頃からの「教育」段階で、国家の共同規範を叩き込むのではなく、「個人はどうあるべきか」「人間の尊厳」を教育するのです。その根拠は、「国家や民族といった共同体は、しょせんすべて個人の集まり」という、ごく逆にいえば、いかなる理由があろうとも「共同体への帰属意識を高める教育をしない」…ことを世界中のコンセンサスとすればいいわけです。
 それにしても、こんなことを書くと「サヨク的」な考えと思われるかしら?
 まあ私はもともと、集団で何かをやることが嫌いですから。左翼団体は嫌いだし、むろん右翼団体も嫌い、宗教団体も嫌い、集団で走る暴走族も嫌いならハーレーで集団で走るオジサンのツーリング団体も嫌い、小学校の頃は、朝の校庭でみんなでやる体操の時間が大嫌いでした。

 いや、カフカス地方の紛争の歴史的背景を読んでいたら、つまらんことを考えました。

2004/9/6

 昨夜は、夜中にパソコンに向かっていたら何か買い物をしたくてたまらなくなり、ネットで服やカバンなどいろいろと買ってしまいました。まずは、毎日仕事に持っていくPOTERのショルダーバッグが壊れてきたので、久しぶりにTUMIのメッセンジャーバッグを買うことにしました。約30,000円です。これは実物を見て、前から欲しいと思っていたバッグです。
 次に買ったのは服。秋にはちょっと海外へ出かけるつもりだし、日常のお散歩用にも使える軽いジャケットを探そうと、いつものREIのサイトへ。で買ったのは、まずはコロンビアのトラベル用カーゴパンツで、これは$48.00でした。そしてアウターは軽そうなトラベルジャケット、Alf Micro Suede Barn Jacketを選択。「polyester microfleece on the inside」とありますから、肌寒くなった季節にもいいでしょう。$125.00です。他にワークシャツを1枚を買ったので、送料込みで総額250ドル近くの買い物になってしまいました。
 買い物は、まだまだ続きました。次は時計です。いつも格安でSWTCH購入する加藤時計店で、SWTCHのアルミクロノをゲット。こちらは7,980円と安かったですね。
 最後にいつも利用している紀伊国屋のネット書店で本を5冊ほどオーダーして、しめて9000円ほど、そしてアマゾンで映画のDVDを3枚買って約7000円、以上全部で8万円ほどのお買い物をしてしまいました。

 昨日買ったDVDのタイトルはちょっと明かせませんが(勿体つけてるわけじゃなくて恥ずかしい)、最近DVDをちょくちょく購入します。以前はLDを大量に購入してました(大量のLDをどうしよう?)。映画を見るのは大好きです。しかし、ここ10年ほどは映画館にはあまり見に行かない。むろん、「時間がない」とか「大画面TV+DVD(LD)+サラウンド」で家庭でも十分に迫力ある映像を楽しめるようになった」などの理由もありますが、私が映画館に行かない最大の理由は、かなりの確率で「寝てしまう」という問題があるからなんです。
 映画が面白くないから寝るのではなく、実は私、映画が面白くても寝ちゃうことが多いんです(面白くない映画は寝る前に出てきちゃいます)。「暗い」「座り心地がいい」「しゃべれない」という3つの条件が揃う映画館では、ともかく寝ちゃうんです。「ああ面白い」「ああ終わりまで見たい」と切に願いながらも眠くなってしまう。もう、これはどうにもなりません。昔は映画館でデートの最中に何度も寝てしまって、かなり相手からの印象を悪くしました。
 あと、今まで映画を見に行った経験によると、約1/3は全く面白くない。私は面白くない映画を無理に見ることはしません。結局は席を立って出てきてしまう。そうなると1,800円だかの入場料はもったいないですね。これは本と同じ。私は購入した本の1/3は、面白くないという理由で途中で読むのをやめますから。で、映画館で見るべき映画も、DVDが出るまで待ってDVDで見てから、後で再上映やってる映画館で見たりします。本末転倒ってやつですね(…あれっ? 「本末転倒」って言葉の使い方間違ってますね)。

 今日は久しぶりに写真アップしときます。最近(今年の8月)にタイで発売された「馬ビール(ビア・アーチャ)」の画像です。
 バンコクのコンビニエンスストアあたりでは、やっと並び始めました。製造元はビア・チャン(象ビール)を作っているThai Beverages Plc 社。実は、まだ飲んでいません。ビア・チャンは好きですけど、この馬ビールの評判はいまのところあまりよくないようです。
 タイのビールは、ビア・シン(シンハー)の虎、そしてビア・チャンの象、このビア・アーチャの馬…以外にも、クロスターがライオンで、他に豹のラベル(ビヤ・リオー)もあります。他にも動物ラベルがあったような…、まるで動物園です。

2004/9/3

 五感を持って生まれてきた人間(個体差があります)は、日々記憶を積み重ねて生きています。記憶力の大小はあるかもしれませんが、誰もが一生のうちに膨大な記憶を脳に刻み込んで死んでいきます。人間の記憶は、残念ながら遺伝しません。したがって、口伝で代々伝えていくか、さもなくば文字や記号、絵で記録しない限り、記憶は後世に伝わらないのです。
 人間には、「自らの記憶を後世に伝えたい」さらには「他者に伝えたい」という普遍的な欲求があることは確かです。人類がまだ文字を持たなかった先史時代にすら、人間はラスコーの洞窟画のような形で「絵や記号」の形で自らの記憶を記録してきました。そして「文字」が発明されて以降は、洋の東西を問わず、そして作者の有名・無名を問わず、膨大な数の人間が自らが見聞きしたことを「日記」や「紀行文」の形で記録として残してきました。
 日本に限って見ても、平安時代あたりからは多数の日記が書かれています。「土佐日記」はあまりにも有名ですが、他に「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」「成尋阿闍梨母集」「讃岐典侍日記」など、著名な日記が多数残されています。これが中世になると、「高倉院厳島御幸記」「高倉院升遐記」「海道記」「東関紀行」「うたたね」「十六夜日記」「中務内侍日記」「竹むきが記」「都のつと」「小島のくちずさみ」「藤河の記」「筑紫道記」「北国紀行」「宗祇終焉記」「佐野のわたり」など、残された日記の数はさらに膨大なものとなります。
 うち「海道記」という作者不詳の日記は、1223年(貞応元)、京に住む「出家した男」がこの年4月に京を立ち、鎌倉に赴いて滞在し、その後帰京するまでの紀行文です。道中の東海道を中心に記されています。こうした無名の人が書いた日記が残っているおかげで、後世の我々が、過去の時代の社会や風俗を詳しく知ることが出来るのです。人間の記憶が詰まった日記こそは、多大な価値を持つ「情報」でもあるのです。

 繰り返しますが、日記とは、「個人の記憶」の記録…です。「自分の記憶を後世に伝えたい」という本能だけでなく、「自分の記憶を同時代に生きる他者に伝えたい」という本能で、人類が書き残すものです。そしてこうした日記は、人類が「インターネット」というシステムと「Webサイト」という公開方法を得た現代では、「Web日記」や「Blog」になりました。
 さて、インターネットというシステム、そしてWebサイトという情報公開の仕組みは、日記の持つ「情報としての価値」を飛躍的に高めたのです。日記、Blogは、その全てが「検索」の対象となりました。これは、人類の歴史にとって信じられないほど画期的なことです。
 考えて見ると、世界中の市井の片隅に生きる無数の人によって書かれた日記やBlogは、それ自体は「他愛のない情報」の集まりに過ぎないかもしれません。しかし、「無数の人が日常生活で蓄積する記憶」は、それら全てを合わせると天文学的な情報量になり、それが検索できるとなれば、情報としての価値は計り知れないものとなります。私たち人類は、とうとう、他人の眼や耳に入ってくる情報をも、自らの記憶とすることができるようになったわけです。ある人が、通りすがりのラーメン店で食べたラーメンの味と値段を日記に書きます。それ自体は、たいして価値のない情報かもしれません。しかし、その店に行きたいと思っていた人にとっては、かけがえのない貴重な情報です。

 こうして、世界中の市井の片隅に生きる無数の人の「記憶の記録」である日記やBlogが「検索」可能な言葉の状態で公開されることで、価値ある情報言となりましたが、人間の記憶の中でも最も情報量が多い「視覚的記憶」は、文字の形では正確には伝わりません。  しかし人間は、「視覚的記憶」を完璧に記録し、公開するための道具として、「デジカメ」という非常に便利なツールを手に入れました。しかも、世界中で数十億台の普及が予想される携帯電話端末にも、デジカメ機能が搭載されつつあります。無数の「視覚的記憶」が、「デジカメ撮影画像」の形で記録され、公開され始めているのです。「写真を撮る」という行為の持つ大きな意味の1つは、この「記録」です。
 しかし、ここに大きな問題があります。文字は検索できますが、画像はいまだ有効な検索手段がありません。ファイル名で検索するのではなく、「○○という場所を写した画像」とか「○○という建物を写した画像」「○○という人物を写した画像」を、コンピュータが識別・抽出できるようになれば、問題は解決します。
 タイトルで検索するのではなく、イメージの種類を自動的に識別して検索する機能については、研究は進んでいますし、プロトタイプはいくつも開発例があります。しかし、いずれも中途半端なものに過ぎません。限られた条件の中で有効な機能としてしか実現できていません。未だにコンピュータは、人間並みの正確さと速度で、異なる条件で撮影された無数の写真画像の中から、正確に「特定の建物」や「特定の人物」などが写っている画像を識別・抽出することはできません。
 ここで、最も必要とされる技術は「画像パターン認識」です。写真に「何が写っているか」を識別・抽出する機能です。看板に描かれた文字など、写真中に「文字」があれば自動的に切り出して認識する「文字認識」機能も必要です。人間の脳が持つ機能の中で、コンピュータによる代替が最も難しいものの1つが、未だにこの「パターン認識」です。

 いずれ人類は、人間と同等、またはそれ以上のコンピュータによるパターン認識機能を手に入れるでしょう。そうなった頃には、デジカメやカメラ付き携帯電話は今以上に普及しているでしょう。その時人類は、ネット上の画像検索機能を使うことで、「他者の視覚的記憶」を、本当の意味で自分のものにできます。
 私が生きているうちに、こんな時代は来るのでしょうか。

2004/9/2

 毎度突っ込みどころが多い某新聞の「正論」ですが、先日発生した関西電力美浜原子力発電所の蒸気漏れ事故について書かれたこの論説はひどい。言葉を弄んでいる…とはまさにこのこと。「作家」の肩書きを持っている人が書いた文章とは思えません。
 この際、エネルギー問題や環境問題などの視点から見た原発推進・反対論議については、脇へ置いておきましょう。上坂冬子なる作家の政治的立場も、どうでもよろしい。
 さて、上坂冬子が「事故」と「トラブル」の2つの言葉の違いにこだわるのは、要するに、「事故とトラブルとを区別し、今回の件が原子力発電の本質にかかわるものでないことを私たちは承知しておきたい」…という最後の一言にあるように、今回の美浜原子力発電所の蒸気漏れ事故は、「国の原発推進政策に水を差すような『事故』ではなく、ささいな『トラブル』に過ぎない」…ということを強調したいためです。その根拠として「原子力発電所での事故は放射能漏れを主体とする国際基準があって、事故の大きさにより七ランクに分類されている」と言っています。これは「原子力施設におけるトラブルの国際評価尺度」というやつですね。こちらにあります。これによると、 国際原子力事象評価尺度(INES:International Nuclear Event Scale)では、トラブルの大きさをレベル0から7までの8段階に分類していて、数値が大きいほど大きなトラブルを表す…ということです。で、上坂冬子の言う「事故」と「トラブル」の違いとは、このINESの区分では、第4段階から第7段階までを「事故(ACCIDENT)」と呼び、それ以下の段階は「異常事態(INCIDENT)」などと呼ぶということなので、それを言っているわけですね。原子力推進派にとっては、「事故」と「トラブル」の言葉の違いは重要なことなのでしょう。
 私が思うのは、いくら原発推進派とは言え、今回の美浜原子力発電所の蒸気漏れ事故が「原子力発電の本質にかかわるものでない」とはよく言うよ…ということです。むしろ物事の「本質」を論じるならば、逆に「放射能漏れに関わらない部分すらまともに管理できないのに、より複雑で高度な放射能漏れの危険性がある原発本体部分を管理できるわけがない」…という点をこそ問題にすべきなのです。あらかじめ内部の磨耗が明確に予測されている高圧蒸気配管すらまともに点検できない体制、加えて下請け企業任せのいいかげんな管理状況などの事故原因を見れば、とてもじゃないけど「原発」というきわめて大規模で複雑な構造のプラント全体を関西電力がまともに管理できるわけがない…と考える方が自然です。
 「事故」ではなく「トラブル」といえば、確かに耳障りはいい。しかし、人が4人も死に、7人が重軽傷を負う事故の、どこが「トラブル」なのか…という単純な疑問から見ても、上坂冬子の「事故かトラブルか」という論議が虚しいことは言うまでもありません。しかし何よりも、「原発という大規模プラントの安全管理」ろいう「本質」から見た場合、今回の事故を「原子力発電の本質には関係のないトラブル」と言い切る作家の無神経さは、たまりません。
 いや、今日の日記で書きたかったことは、実はこんな「無神経な作家」の話ではないのです。こんな話は、他の雑誌・新聞でも指摘されていること。実は、先日の関西電力美浜原子力発電所の蒸気漏れ事故の発生以降、「もし東京に近いところで稼動する原発が放射能漏れを伴う大規模な事故を起こしたらどう行動すればよいのか」ということが気になっている…という話です。
 政府のやることなどあまり信用していない私は、「公の発表」なるものも100%信じてはいません。例えば、東京に近い福島県あたりの原発がチェルノブイリ並みの大事故を起こし、首都圏の住民に深刻な放射能被害が及ぶことが確実になった時、果たして政府は即刻真実を公表するでしょうか? 東京で逃げ惑う1千万の住民がパニックを起こすことを勘案して、避難体制が整うまでは実際の事故の状況を意図的に伏せる可能性があります。
 そんなことを考えている私は、以前から公式発表以外の情報入手ルート、政府の統制が及ばない情報ルートを確保しておくことは、「個人のサバイバル」にとって非常に重要だと考えてきました。国家の非常時となれば一般電話や携帯電話だって、システム的に利用を規制され兼ねません。そこで独自の情報ルート確保のための手段として、まずは複数の帯域をカバーするアマチュア無線のトランシーバーをいつもスタンバイ状態にしており、加えてあらゆる業務用無線の傍受や海外の放送が受信可能なワイドバンドレシーバーをいつでも利用できるようにしています。ベランダには、かなり高性能のアンテナを立てています。
 そして私は、事故発生のニュースがあれば、おそらくすぐさま2ちゃんねるの「ニュース速報」板を見ます。人の口に戸は立てられない…という面では、2ちゃんねるはかなり強力な「緊急時の情報ソース」です。ただし、大事故発生時のサーバーダウンの可能性とプロバイダが規制される可能性を考えると、ネット情報源は万全ではありません。
 ところで、原発事故発生時の行動については、こちらこちらのマニュアルあたりが参考になるかもしれません。ともかく皆さん、政府の発表を信じずに生き延びましょう。

2004/9/1

 もう終わったのに、そしてたいして興味もないのに…、またまたつまらないオリンピックネタです。オリンピックは、「壮大なセクシーショー」であり、個々の選手にとっては「世界へのセックスアピールの場」ではないか…という、「誰もがそう思っているだろう話」です。

 今回のアテネオリンピック、たまに深夜の中継番組を見ながらいつも思っていたのは、これを「性的興味の対象」として見ている人、特に男性は非常に多いんじゃないか…という推測。私も男性として、競技によっては「女性の肉体美の鑑賞」という視点でも見ていました。スポーツとしての勝負を真剣に見ている人だって、どこか心の片隅で、躍動する選手の肉体美の中にセクシャルな感情を重ねて見ている部分があるケースが多いと思います。
 私は男性なので男性の立場で話を進めますが、競技に登場する女性をセクシャルな眼で見ていた自分について、「やましい」気持ちはまったくありません。スポーツをしている異性を見てセックスアピールを感じるのは、別に不思議でも何でもないと思うからです。スポーツは記録を争うものですが、同時に「体で何かを表現する」ものでもあります。他者に見せるために体を使って表現する、強い異性を美しく感じ、強い異性に惹かれるのは、男女を問わず動物の根源的な本能であり、オリンピックに登場するような「究極のアスリート達」を見て何も感じなかったら、そちらの方がおかしいように思います。

 そして、最近のユニフォームはセクシーさを強調するものが多くなってきました。競泳やシンクロなど水着になる競技、体操や新体操などレオタードなど体の線が出るユニフォームを着用しますが、これは競技の内容から見て当然でしょう。競泳は速さを求める必然から、体に密着したユニフォームになります。体操、新体操、シンクロなどは、動きやすさに加えて競技の性格上「体のライン」を意図的に見せる必要がありますから、これまたあのカッコウには必然性があるのでしょう。さらには陸上競技などでも最近のユニフォームはセパレート水着のようなスタイルになっていますが、これも「究極の動きやすさ」を求めた結果でしょう。
 しかし、わざわざこんなカッコウをしなくてもよいのに…と思う競技もあります。たまたま見つけたこちらを読んでいたら、「なぜテニスはなぜミニスカートで競技するの?フィギアスケートなんかスカートにもなっていないのについている意味があるのだろうか?スポーツなら動きやすい服装が一番と思うと無駄のように思える」…という意見がありましたが、一部の競技については確かにそうした部分を感じます。テニスなんて、女性選手は意図的に「女性らしさを強調する」ような服装をしているとしか思えません。スコートなんて、どう考えても無意味です。女子ホッケー選手がスカートをはいて協議しているのも違和感を感じます。ビキニを着用してのビーチバレーなど、「海岸でやるスポーツだからから」という必然性はあるのでしょうが、それにしてもビキニでなくともよいと思います。結局は、スポーツには「見せる要素」、しかも体や動きの美しさを見せる要素…があるってことですね。
 こうした「意図して女性らしさを強調する」服装をしている競技や、前述したシンクロ、新体操のように「女性の体のラインの美しさを競う競技」などを見る時、選手の女性らしさを楽しむ、ひいては「セクシャルな感情を楽しむ」ことは、当然のように思います。 女性美を楽しむなという方がおかしい。そして競技者の方も楽しんでいる部分があるのでしょうか?
 …そんなことを考えながら競技中継を見ていたのですが、実にオリンピックとは「壮大なセクシーショー」でもあると思いました。  ちなみに、身近な女性に聞いてみたところ、鍛え上げられた肉体を持つ男性選手に対しては、かなり多くの女性がセックスアピールを感じるだろう…という答えでした。そして、オリンピックの競技をセクシャルな感情を持って鑑賞するケースは、女性にもあるとのことです。

 ところで、ちょっと興味があって検索してみたら、「スポーツ関連のフェチサイト、エロサイト」は、もう数え切れないくらいたくさんあります。むろん、ほぼ全てが男性向けサイトです。例えば競泳水着系サイトでは、今回オリンピック代表となった女子選手のキャプチャー画像を並べて、その体について論評していました。この手のサイトでは「セクシャルな感情」程度のものでなく、モロにスポーツ選手を性的欲求の対象として見ています。でも、「非日常的なカッコウだから、より性的欲求を感じる」というのは、男性としてかなり理解できる部分があります。普通の週刊誌のグラビアページで、「新体操選手のヌード」とか「外国の体操選手のヌード」などが話題を呼ぶことがあります。ここらあたりが、「スポーツとセックスに関する妄想の実現」の最たるものでしょう。
 今回のアテネオリンピック、深夜の中継を見ながら「エロい妄想」に苛まれている男性がたくさんいるだろうな…と想像して、なんとなく愉快になりました。
 最後に、私自身が「女性」として美しいと思ったのは、陸上、水球などギリシャの選手が多かったです。水面に顔が出るたびに無理矢理「ニッ」と笑いながら演技するシンクロ競技は、なんとなく気色悪くてセクシャルな感情は沸きませんでした。それと日本人選手、女性も男性もまだまだ「体の美しさ」では欧米やアフリカ代表の足元にも及びません。もっとも、「美の基準」は人によって違いますから、あくまで個人的な感想です。

 さて今日は、「ウィニー事件初公判 被告側、罪状を否認」という記事がありました。今後の裁判の経過に注目していきましょう。


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