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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/5/31

 ここのところ、丸石自転車の放漫経営がニュースになっています。何でも、失踪した前社長が架空増資を繰り返したとか何とか…。まあそんな話はどうでもよいのですが、TVのニュースで丸石自転車の本社ビルが写っていたのを見たら、実に立派な佇まいの建物でした。このビルは別に丸石創業時から使っているビルではないようですが、丸石自転車は本社ビルの立派な佇まいに負けない、歴史ある企業です。かつて、オートバイの歴史に関する本の監修をお手伝いしたことがあるのですが、そのときに丸石自転車の名前が出てきたことを思い出しました。
 丸石自転車は、明治27年に横浜で創業した石川商会が前身です。日本で最初に自転車を輸入した会社として知られています。さらに、現在の丸石自転車のホームページには記載されていませんが、私が好きなバイクの発展史の中で、この石川商会は歴史的に特筆される役割を果たしています。
 明治時代の中期頃に、自動車の一分野として「自動自転車」が脚光を浴びた時期があります。明治36年、国産初のガソリンエンジン付自動車「吉田式自動車」を製作した双輪商会の吉田眞太郎はよく知られており、彼はその後四輪自動車生産も試みて失敗しています。この自動自転車の歴史の中で、登場するのが石川商会です。「明治36年、米国製乾電池装置付ミッチェル・オートバイが2台輸入され、これが自転車商丸石商会の前身である石川商会から販売された」という記録が残っています。石川商会は、自転車のみならず日本のバイクや自動車の歴史の中でも大きな位置を占める会社なのです(こちらの章こちらの章を参照)。
 ともかく、こちらは非常に面白い文献なので、自動車好き、バイク好きの方はぜひ一度お読み下さい。

 丸石自転車に限らず日本の老舗自転車メーカーは、その多くがモーターサイクルの開発・生産事業を行っていました。戦前から「アサヒ号」や「ミヤペット号」を量産したことで知られる宮田製作所は有名です。ブリヂストン自転車(現ブリヂストンサイクル株式会社)は、1960年代はじめ頃には原動機付二輪車「ブリヂストンチャンピオン」などを製造、1970年に撤退するまで様々なバイクを生産していました。。中でもモトクロスの王者と呼ばれた「BS90」は誰もが認める名車です(私は知人が持っていた古いBS90に乗ったことがあります)。山口自轉車販売から発展して昭和40年代後半にスポーツ自転車で一世を風靡した丸紅山口自転車も、1958年に「オートペット」というモペットを発売しています。これはスタイルが良かったのでかなり売れたそうですが、山口自転車がバイクの生産をやめた後、その技術者はブリジストンに移ったそうです。もっと古い話ですが、かつて東京福生にあった大手自転車メーカーで、その後倒産した片倉自転車工業も「シルク号」、「カタクラオート号」なんて二輪車を生産していました。
 ところで、「電動アシスト自転車」は1993年にヤマハ発動機が「PAS」を国内で初めて認可させたわけですが、実は1970年代の日本で市販と認可を試みたメーカーがあります。当時の運輸省や警察とかなりモメた挙句に発売できませんでした。この話は、別の機会に書きます。
2004/5/28

 「MyNewsJapan」というニュースサイトがスタートしました。「読者も記事を投稿できるニュースサイト」という触れ込みで、元日経記者の渡邉正裕氏が設立した「株式会社MyNewsJapan」が発刊するものです。「団塊ジュニア以降の20代30代の若手世代を主なターゲット顧客として、ジャーナリズムとコマーシャリズムの両立を目指す」としていますが、ビジネスモデルとしては「購読料(月額1980円)収入+広告」ということになりそうですね。
 ビジネスモデルとして成功するかどうかはわかりませんが、「読者参加(投稿)型のネット新聞」という発想自体は、特に目新しいものではありません。例えば、市民が記者になってニュースを送るNPO型インターネット新聞「JANJAN」のような市民運動型メディア(くだらねぇ)としては従前からあちこちで試みらていますし、「ネット新聞」だけでなく、似たような読者投稿型コンセプトを持つ商用のネット雑誌やマルマガなども、かなりの発行例があります。

 さて、「MyNewsJapan」の発刊趣旨によると、「個人起点のオンラインジャーナリズムを目指す」そうで、「本サイトでは、様々な出来事の現場にいる個人が発信する事実(="My News")こそが本来伝えられるべきニュースと捉え、そうした事実(="My News")を誰もが発信・アクセスできる場を設け、個人起点の新たな情報の流れを作ることをねらいとしています。また、マスコミがスポンサーとの関係で書けないエリアについて、プロフェッショナル記者が企画記事を提供して参ります…」と謳っています。
 「サイトの特徴」として、@誰もが情報発信者となることができる:誰でも記者登録でき、誰でも記事を投稿することが可能です。書き手にとっては「多くの人に自分の情報を知らせることができる」場となりますA編集部が事実確認や編集を行う:記事の掲載に当たっては、新聞社・雑誌社の記者・編集者経験者を中心とするMyNewsJapan編集部が最低限の信憑性の確認や編集を行い、記事内容の一定のクオリティを確保します。読者にとっては、「信頼に値する情報をウェブ上で得ることができる」場となりますBマスコミが扱いにくい領域に特化する:マスコミ自身の問題、大企業の問題、身近過ぎてマスコミが追いきれない問題を追及します…の3点を挙げています。
 要するに「個人によるニュース発信をプロがスクリーニング・編集する」ことで、記事内容に一定のクオリティを確保する…というのが、ポイントのようです。しかし私は、こうしたコンセプトのネットメディアは、はっきり言って面白くもなんともないし、存在意味もなければ、むろん自分が読む気もしません

 私は「個人情報を発信可能なネット上のメディア」…という存在自体に矛盾を感じます。もともと「インターネット」自体が誰でも個人情報を発信できるメディアであり、その上に今回の「MyNewsJapan」のような「形式としてのメディア」を積み上げても、「屋上屋を重ねる」ようなもので、まったく無意味だと思うわけです。情報の発信者になりたけりゃ、「誰かが用意したインフラ」を使う必要がない…ところがインターネットの最大のメリットなわけです。ネット上で個人が情報を発信したければ、WebでもBlogでも、そして2chのような大規模掲示板にでも、好きなように発信すればよいのであって、誰かに与えられたメディアに発信する必要なんてありません。ましてやそれが「プロが検閲する」ものであるのなら、余計なお世話もいいところです。この手の「個人によるニュース発信をプロがスクリーニング・編集する」メディアというと、私は西和彦氏が手掛けた「1ch.tv」の失敗を想起します。これについては、かつて「1ch.tvの、お笑い顛末」という文を書きましたが、今回の「MyNewsJapan」に対する感想も同じようなものです。「マクルーハンを読み直せ」と言いたいですね。
 さて、「無秩序なネット上の情報」と、「新聞」のような「プロが発信するメディア」との違いについては、「ネットは新聞を殺すのか」(NTT出版 青木日照、湯川鶴章共著)という本に関する議論の中で、さんざん論じられました。この「ネットは新聞を殺すのか」という本で、「殺す」という結論に近い論述がなされていましたが、それに対して既存のメディア側、特に新聞というメディアに席を置く人から様々な反論が出されました。そうした既存メディア側からの反論の多くは「MyNewsJapan」と同じく「プロ・ジャーナリズムの価値」を訴えるものでしたが、この「プロ・ジャーナリズム」の本質については、宇佐美保氏のサイトに、優れた論考が掲載されていました。ぜひお読み下さい。私も、現状の「プロ・ジャーナリズム」について、宇佐美保氏と同じように考える次第です。

 最後にもう一度書いておきます。「個人によるニュース発信をプロがスクリーニング・編集する」、「MyNewsJapan」のようなネットメディアは、面白くもなんともないし、存在意味もありません。

2004/5/27

 自然と野生動物の宝庫といわれているオーストラリアのカンガルー島で、コアラ2万匹を殺さなくてはいけないという事態になっている…というニュースは、たしか先週、NHKでも流していました。で、このニュースの中で生物学者が「コアラが増え、結果として木が枯れ果てるので、コアラ自身のためにもコアラを殺すことが最も人道的な方法だ」と断言していますが、これって「人間」に当てはめると怖い話です。コアラを生存させるために「間引き」をしなくてはならないのなら、人間だって生存のための「間引き」が必要かもしれないのです。実際に「…先進国が人道的立場(安っぽいセンチメンタリズム)から食糧や医療を援助した。その結果、ますます難民が増加し、餓死者を増やした。余計なことをするから飢餓はいつまでたっても解決しない…」などといったとんでもない意見が、公然と書かれたりしています。
 さて、あらためてマルサス「人口の原理」を読み返すまでもなく、「人類の生存」にとって最大の問題は、間違いなく「人口問題」です。21世紀に入った人類は、戦争、民族、宗教、エネルギー、環境など様々な問題を抱えていますが、人口問題に勝る危機はありません。しかし、問題の大きさの割に、なぜか話題になることが少ないのはなぜでしょう。
 私が知りたいのは、「正確な世界人口の増加予測」と「地球がいったいどれくらいの人口を持続的に養えるか?という問いに対する正確な答」です。
 ところがネット上で資料を漁っても、この2つの問題に関する情報は、驚くほど少ないのが現状です。「人口問題は重要」とはあちこちに書いてあっても、「正確な人口増加予測」と「地球がいったいどれくらいの人口を持続的に養えるか?という問いに対する正確な答」が書いてあるサイトはほとんどありません。また私が知り得る限り、大学などで「人口問題」を専門的に扱う学部や学科はほとんどないし、経済学部あたりでも「人口問題」はかなり副次的に取り扱われています。「人類にとって人口問題はタブー」なのではないか…と思えるほどの扱いです。

 さて、人口問題に関するわかりやすいネット上のリソースとして見つけたのが、昨日の日記でも紹介したJAICAの調査研究資料の中の、「第二次人口と開発援助研究 報告書−日本の経験を活かした人口援助の新たな展開−」という論文です。
 この論文の中の「21 世紀の人口問題」という項の中に「世界人口の推移と見直し」及び「扶養可能な世界人口の各種推計値」という資料があります。詳しい内容は省きますが、これによると2050年の人口推計は約100億人で、現在の地球が養うことが可能な人口は「食料と水」という2つの視点から見ると、「100億人程度までは技術的に可能」となっています。
 で、仮にこの話が正しいとしても、2050年以降人口が100億人以上に増えたら、地球は何らかの形で「人間の間引き」をしなくてはならない…という話になります。また「食料と水だけなら100億人程度までは技術的に可能」とは言っても、人間は「食料と水」だけでは生きられません。果たして100億人という人口の下で、全員が文化的生活を営めるのかどうか…という点については正確な情報がありません。
 現在の世界を見る限り、60億人強の現在の人口でも、その全員が「先進国なみにエネルギー消費をする生活」を営むことは不可能…なのはほぼ確実です。そうなると、今後わずか数十年の間に人間は、「間引きをするか」さもなくば「生活や文化のレベルを引き下げるか」…という究極の選択を迫られることになります。

 …北朝鮮拉致事件の解決も重要です。イラク占領問題も何とかしなくてはなりません。皇室の跡継ぎをどうするかも重要でしょう。しかし、もしかすると人類には、そんな問題を考えるために費やす時間は残されていないのかもしれません。

2004/5/26

 いまさら書くまでもない話ですが、昨年来の北朝鮮拉致問題の急速な進展をきっかけに、さらにイラクへの自衛隊派遣問題やイラク人質問題へのリアクションなども加わって、現在の日本にはある種の「ナショナリズムの高揚」状況が見られます。「日本」という国、「日本人」であることの意味が、問い直されている…と言い換えてもよいかもしれません。まあ、ナショナリズムの高揚なんて言っても、鼓舞する側の声が大きいので、世の中の大勢がそうであるように見えるだけかもしれません。実は、渋谷の街で日がな一日ボンヤリしている若者たちや不景気の中で日々の仕事に追われる勤労者の多くは、「国家の威信」だの「日本人としての誇り」だのには、ほとんど関心などないのかもしれません。それはともかく、表面的には小泉首相の靖国神社参拝問題や、東京都教委による君が代・日の丸強制問題、領土問題、石原慎太郎知事の発言など、日本人であることを過剰に意識させ、ナショナリズムを高揚させるような議論が、昨年以降連日メディアを賑わしています。まあ、小泉首相をはじめとする一部国会議員や都知事のナショナリズム高揚発言の背景には、「信条」はともかく、多分に政治的効果などを狙った部分が含まれていると思われるので、あまり議論にしたくはありません。

 こうした風潮の中で私が気になるのは、政治家やアジテーターの言葉はむろん、ネット上などで見られるナショナリズム高揚系発言の中に、「人種」や「民族」という言葉が多用されている点です。それ以前に、「日本人」という言葉が使われるたびに、「日本人とは何か」を考えさせられてきました。海外出かける機会が多い私は、自分が日本人だと意識させられる場面によく出会います。そんな私にとって、日本人であるということは、「日本に国籍を有している」ことと完全に同義です。しかし、ある種の人にとってはそうではないようです。同じ日本に住んでいて、日本語をしゃべり、日本国籍を有していても、「朝鮮人」や「中国人」、そして「欧米人」を区別したがる人がいます。こうした人が「日本人」を考えるとき、おそらく「人種」とか「民族」といった概念が加わっているのでしょう。そして、ナショナリズム高揚を声高に叫ぶ人の多くが、「日本人」という言葉に「人種」や「民族」の概念を込めます。つまり、「日本人」の定義を「日本民族(大和民族)」に求めたりします。
 例えば、金正日を「金豚」と呼び、北朝鮮や中国は「外道国家」、そして「私は義が通る国家を作るために闘う」と宣言して最近では一種の国家主義アジテーターと化している勝谷誠彦氏のサイトなどを読んでいると、その意見の是非はともかく、「民族」や「人種」という言葉がかなりの頻度で登場します。例えば、彼の文章の中には「民族としての生存と大義」「日本民族にとって特別な日」といった「民族」を使うフレーズがたくさん登場します。また、「…審陽の総領事館駆け込み事件での腰抜けぶりを見ていると対中華人種に強気に出ようと決意してのことではあるまい」「…アホで間抜けなアメリカ白人からいくばくかの金を巻き上げるためにかの国の最下層の有色人種たちが戦場へ行っているのだから…」など、「人種」を使うフレーズもけっこう出てきます。
 また、2chあたりでは、「朝鮮人」を差別する言葉が飛び交う中で、「民族」と「人種」という2つの言葉が頻繁に出てきます。

 ともかく、「日本人論」や「ナショナリズム論」の背景には必ず「人種」と「民族」という2つの概念が登場し、自らが属する「人種」や「民族」にアイデンティティを見出そう…という形でアジテーションが行われます。
 しかし私は、「人種」という言葉にも「民族」という言葉にも、特に体や頭が反応しません。自分が「日本国籍を有する日本人」であることは認識していますが、自分が「日本民族」なのかどうかは、よくわかりません。人種の区分なんて全くどうでもいいし、「自分がどんな民族に属しているか」についてもほとんど興味も関心も沸きません。そして実際に、「人種」も「民族」も、科学的に見ると曖昧でいいかげんな概念です。

 まず、「人種」という概念について見てみましょう。「人種」という概念は科学的ではない…というのが世界の学者の定説です。熊本大学文学部地域科学科助教授の池田光穂氏の解説あたりがわかりやすいと思います。人種について、次のように書かれています。「…科学的に証明することが絶対にできない人間を区分する分類概念。人種は、(1)科学的にもはや有効とは言えない概念であり、(2)社会思想的には常に否定的な意味で想起される必要のある用語である…」。そして、京都大学人文科学研究所助教授で文化人類学者の竹沢泰子氏の説明も、さらにわかりやすいものです。「人種概念は社会的に創られたものである」「最近話題になっているヒトゲノム解読からも、遺伝子構成が不連続だ−つまり、それぞれの集団毎で遺伝子構成がセットになって、他の集団とは互いに異なる−という人種概念の前提は破綻している」…と明確に述べられています。
 要するに「人種差別」がよいか悪いか以前に、「人種」なんてものは存在しないわけです。人間には個体差があり、特定集団に一定の共通点を見出すこともできますが、それは「人種」なんて言葉で単純には括れないものです。最近では、朝鮮半島に住む人々や中国大陸に住む人々を「三国人」なんて発言したバカな某知事がいましたが、こんな資料を見ると、「中国人」「朝鮮人」「日本人」なんて区分が、いかに無意味かがよくわかるでしょう。

 さて「民族」という概念になると、話はより複雑になります。基本的には、学会での通説としての「民族の定義」なるものは存在しません。例えばJAICAの報告書「民族、開発、紛争予防−不平等と差別の是正にむけて」を見ると、「民族の成立条件として、自らの意識や自己利益に基づいて主観的に規定されるとする主観的アプローチと、言語、宗教、文化や慣習などの特徴によって客観的に規定されるとする客観的アプローチ」があり、「主観的アプローチ、客観的アプローチともにそれ単独では、民族の特性を十分に説明できない…」となっています。つまり、民族は「自分たちが自己の利益を考えて自分で名乗る」ことで「民族」となってしまう…という側面があり、それはとりもなおさず「民族と主張する集団についての科学的な説明ができない」…ということになるのです。
 とはいいながらも、同資料では次のように一般論を続けています。「…一般的に民族(ethnicity)を特徴づけるものとして次の要素を挙げることができる。@独自の社会的、文化的、経済的、政治的慣習・制度を一定程度保持していること。A同化されるのを望まず、独自の社会的、文化的、経済的、政治的慣習・制度を保持していきたいと希望し、その意思を示していること。B集団の構成員が同じ集団に所属しているという「われわれ意識」を持つこと。Cある一定の領域内において、数世代にわたって、まとまって集団を形成していること、または、その地域に愛着を有していること…」と、「民族の定義」として4点を挙げています。
 この中では、Aは民族自身の主観的な判断だし、BCはユダヤ人や中国人など世界中に分かれて住んでいる「民族」が多いことを考えると、やはり@が重要なポイントとなります。要するに「同一民族」であることは、「社会的、文化的、経済的、政治的慣習・制度」に共通点を持つ…ことを意味し、特に「文化的基盤」や「社会習慣」を同一にすることが、同一民族の条件となる…ということです。この「文化的基盤や社会習慣の共通性」を「とりあえずの民族の定義」に挙げる学者は多く、現時点では唯一ある程度のコンセンサスを持つ「民族の定義」となっています。
 その「文化的基盤や社会習慣の共通性」について、前述の資料では「共通の神話や歴史、言語、宗教、音楽、住居、服装」といったものを挙げています。こうした「文化的基盤や社会習慣の共通性」が「同一民族」であることの判断基準であるなら、私は「国家の枠」なんてほとんど無意味だと考えます。日本人である自分にこの定義を適用してみると、ますますわからなくなります。私がもし「日本民族(大和民族)」だとすれば、私はこの国に住む人と多くの点で「文化的基盤や社会習慣の共通性」を持っていなくてはなりません。どうも、そのようには思えないし、日本という国自体、「文化的基盤や社会習慣の共通性」を持つ人で構成されているとも思えません。同じ日本に住んでいても、文化的基盤にまったく共通性がない人はたくさんいるし、逆に外国人でも共通の文化的基盤を持つ人はたくさんいます。
 例えば「宗教」なんて、全く日本では文化的共通性の尺度にはなりません。はっきり言わせてもらえば「アレフ」や「創価学会」の信者と私とでは、共通の文化的基盤なんてこれっぽちもありません。彼らと同じ「民族」として括られるのは、こちらから拒絶したいと思います。
 まあ、唯一「言語」の部分で、共通性があるくらいです。ただ、最近の若い世代のやたらと語尾を上げて質問型にする妙な話し方は不愉快だし、私の発声する日本語とは明らかに異なります。加えて、ボキャブラリーが貧困で礼儀を知らない若い世代の話していると、しっかりとした日本語を話すピーター・バラカンやデーブ・スペクターといった人たちの方が、はるかに自分との言語文化的共通性を感じます。「日本語で書かれた本を全く読まない」人が多いようですが、そういった人達と言語面での共通性は薄いと感じます。
 「音楽」「住居」「服装」に関しては、日本に文化的共通性が存在しないことは、いちいち例証を挙げるまでもありません。私には、パラパラを踊る若者や、よさこい踊りを集団で踊る人達のメンタリティは理解できませんし、理解しようとも思いません。いくら流行っていても、つまらないJ-POPを聴こうとは思いません。服装については、日本もアメリカもヨーロッパもその多様性は変わりません。
 行動様式や文化を同じくするのが「同一民族」の証なのであれば、渋谷の街角に一日中座り込んでぺちゃくちゃ話している若者や、私のオフィスがあるマンションにも出入りしている暴力団の構成員などと、行動様式面での共通性はありません。深夜に子連れで居酒屋に集まっておしゃべりする若い主婦や、子供を車の中に置いたまパチンコに興じるDQN夫婦のような人達とも、文化や行動様式を共有していません。私は文化や行動様式が全く異なる人々と、一括りにされたくはありません。

 私が「民族」という言葉に反応しないのは、こうした理由です。私は間違いなく日本人ですが、それは「人種」や「民族」といった共通性で括られているからではありません。私は風土や食べ物などの点で、日本という国が嫌いではありません。しかし私は、「人種」や「民族」という言葉を前面に出して、「日本人」のアイデンティティを問われても、答えることができません。

2004/5/25

 相変わらずノドの調子が悪く、テンションが下がっています。いろいろなニュースにも、スポーツの結果にも、日々の天気(?)にも、いまひとつ興味が沸きません。特に、あらゆるメディアを埋め尽くしての連日の「拉致事件関連報道」、これにはもううんざりしています。これは、拉致された方々やその家族の気持ちに対して思いを馳せていない…ということではなく、「質的に変化のない情報をひたすら繰り返して与えられ、見せられている」ことに対して、脳が拒否反応を起こしているのです。TVのニュースやワイドショーに出てきてコメントする人間もそのコメント内容も、まったく変わりがありません。登場する政治家のコメントもいつも同じように程度の低いもの。もう、ニュース番組も新聞も、視聴者や読者を愚弄しているとしか思えません。

 さて、数日前のニュースですが、「渋滞に巻き込まれてしまった際に思いめぐらせる項目…のアンケート結果で、最も多かったのは『セックス』で30%に達した」…という話を読みました。私は、この話を読んで以降、通勤電車の中ですました顔で立っているオジサンや、すまして道を歩いているオネーサンの顔を見るたびに、「この人はきっとセックスのことを考えているに違いない」と思ってしまうのです。

 いや、このアンケート結果はかなり信じられます。満員電車、退屈な授業中、退屈な会議中、病院の待ち時間、道を歩きながら…など、どんな場面についてでも「思いめぐらせる内容」のアンケートを取れば、一番多いのは「セックス」になるはずです。その比率も同じようなものでしょう。また、きっとこれは、世界中どの国でも同じでしょう。今回のアンケート結果はドイツの話ですが、日本でも、アメリカでも、中国でも、インドでも、イスラム諸国でも同じでしょう。要するに人間は、暇になるとセックスのことを考えているわけです。もしかすると、神父や牧師、僧侶などの聖職者も、ヒマなときには30%ぐらいがセックスのことを考えているかもしれません。
 …ってことは、何かを夢中になってやっている人や何かについて深刻に悩んでいる人以外、つまり、「特に真剣に何かを考える必要のない状態」の人のうち約30%は、セックスについて考えているわけです。考えてみれば、これはすごいことです。プロ野球の試合中でも、打球がぜんぜん飛んでこない外野手なんかは、3人に1人はセックスについて妄想しているのでしょう。交番の前に立っているおまわりさんも、3人に1人はボンヤリとセックスのことを考えているわけです。朝夕の通勤時の満員電車の中で、車両に乗っている人の30%がセックスのことを考えているなんて恐ろしいですね。都会の繁華街などはいつもたくさんの人が道を歩いています。新宿駅の構内なんて、いつも数千人、数万人の人が歩いています。その中のやはり30%ぐらいの人が、セックスのことを考えているってことです。よくよく考えてみれば、これは凄いことです。
 モノを考えると、脳はエネルギーを使います。さらに、モノを考えるとエネルギーが出る…という説もありますし、思念自体がエネルギーだという説もあります(気とか念力ってヤツですね)。そうなると、世界中でいつもたくさんの人がセックスについて考えているわけですから、人の集まるところには「エロパワー」が満ち溢れているということになります。

 …このバカ話には、何もオチがありません(笑)「…人間はこうして集団でエロパワーを発散し、どんどんエロくなっていけばいいのです。みんながエロくなれば、争いごとや戦争はもっと減るでしょう」なんて書けば、ちょっとエッセイ風にはなるかもしれませんけど、そんな恥ずかしいことは書けません。

2004/5/24

 唐突ですが、私が洞窟が好きです。まあ「穴好き」と言ってもよいでしょう。「穴に入りたい」…という欲求は、なんとなく人間の根源的な部分に関係していると思います。「山に登りたい」と同じでしょう。なぜ穴に入るかと言えば、やはり「そこに穴があるから」です。
 別に「ケービング」なんて大それた経験はないのですが、昔から人間が入れる大きさの穴があると、必ず入ってみたくなりました。小学生の頃、家の近くにあった立ち入り禁止の洞窟(防空壕跡)に入って学校から大目玉を食ったり、中学生の頃には自宅の近所の川に流れ込む下水道(暗渠)に入ったりしてました。
 もうちょっとまともな洞窟探検となると、原体験になったのは北鈴鹿の鍾乳洞です。高校時代によく鈴鹿の山に登っていたので、北鈴鹿一帯にある小さな鍾乳洞をいくつも訪れました。ご存知の通り鍾乳洞は石灰岩のある場所にできますが、石灰岩地帯である鈴鹿山脈の北部には大小の鍾乳洞がたくさんあります。例えばよく登った霊仙山ろく付近なら「河内風穴」が大きくて有名だし、醒ヶ井へ降りる途中にある「こうもり穴」という小さな鍾乳洞も面白い。こうした小さい洞窟は、鈴鹿にはたくさんあります。そういえば御池岳には山頂付近にカルスト地形もあります。あと、これはけっこう自慢なんですが、北鈴鹿の藤原町にある天然記念物「篠立の風穴」にも入ったことがあります。今はどうなっているのか知りませんが、昔ここは立ち入り禁止になっていて、友人とこっそり探検しちゃいました。
 社会人になってからはあまり洞窟や鍾乳洞に行く機会がなかったので、好きなわりに洞窟を訪れた経験は、たいしたことありません。覚えている範囲では、鍾乳洞の定番である山口県の秋芳洞、景清洞、大正洞、関が原の鍾乳洞、郡上八幡の大滝鍾乳洞あたりに行ったことがある他、関東では福島県のあぶくま洞と入水鍾乳洞、東北は岩泉町の龍泉洞と安家洞(撮影禁止だとかで、カメラを持っていないかどうか身体検査をされたので喧嘩になりました)あたりには入りました。そういえば奥多摩の日原鍾乳洞と養沢鍾乳洞(閉鎖したとのこと)、秩父の橋立鍾乳洞、それから富士山ろくにある鳴沢氷穴にも行きましたね。佐久のあたりでもいくつか洞窟に入ったことがあります。だいたいが、バイクツーリングの途中に行ったものです。

 今後機会があれば、海外の大きな洞窟にも行って見ようと思っています。NHKスペシャルで放映されたメキシコのヴィラ・ルース洞窟(硫化水素を食べて硫酸を作り出す細菌がいる)や、ボルネオ島のディア・ケイブ(世界最大の洞窟内空間)などは非常に興味深いし(TVで洞窟探検番組があると必ず録画します)、世界の観光洞窟の定番であるレバノンのジェイタ洞窟、イタリアのフラサッシの洞窟、スロベニアのポストイナ鍾乳洞、そしてアメリカ、ニューメキシコ州のカールスバット洞窟あたりには、近々ぜひ行ってみたいものです。

2004/5/22

 体罰は懲戒免も…教師の処分上限を引き上げへ…という東京都教育庁の方針、いまひとつ納得できない部分があります。
「体罰については上限を停職から免職に引き上げる」…これは当然でしょう。でも、「教え子の女子高生と関係が深まり、ホテルに入った事例では、合意があっても、生徒と性的関係を結べば教壇に立てなくなることを認識させる」…、これはなんとなく納得できません。
 むろん、相手が小中学生なら問題外でしょう。でも、教師の側が独身で、生徒の側がが18歳でもダメなんですか? 教師と生徒は恋愛してはダメなんですか? なぜですか?

2004/5/21

 一昨日の夜、東京12chのWBS(ワールドビジネスサテライト)を見ていたら、「嵩(kさ)高紙」の話が取り上げられていました。最近のベストセラーである、女性作家の芥川賞作品2作や「世界の中心で愛を…」など最近のベストセラー書には共通点があり、それは「嵩高紙」を使っていることだ…という話題です。そして、「嵩高紙」を使ったことが書籍の売れ行きのアップに大きな役割を果たした…というのです。
 こちらを読んで頂くとよくわかると思いますが、「嵩高紙」とは「軽くて嵩高の高光沢上質コート紙」のことであり、書籍用紙に嵩高紙を使うことで「同ページ数の本が、2割ほど蒿高になる」わけです。要するに、本の束(厚み)が増すのです。
 最初私は、「同じページ数で本の厚みが増す」と、なぜ売り上げがアップするのか?…という理由が、さっぱりわかりませんでした。番組の中の説明によると、次のような理由だそうです。
 …最近の若い世代は本を読む習慣がない。だから長い小説は読めない。しかし、どうせ読むなら「本格的な小説を一冊読み終えた」という満足感は得たい。そこで、ページ数(文字数)に比べて厚みがある本にすると、「厚い本を読んだ」という満足感が得られる。女性作家の芥川賞作品2作も「世界の中心で愛を…」も、厚み(ボリューム感)を出すことで読者の満足度を高めた…

 いや、説明を聞いて愕然としました。私は「版面いっぱいに、みっしりと活字が詰まった本」が好きです。極論すると、文字数が多い本の方が「お得」な感じを受けます(笑) ハードカバーなら断然2段組を支持します。会話文などをやたら改行し、ページが白紙部分だらけの本は、絶対に読みません。活字が大き過ぎる本も嫌いです。第一、通勤途中などで読了して読む本がなくなるのが怖くて、毎日本を何冊も持ち歩いているので、無意味に厚みがある本なんて、バカバカしくて買えません。
 そんな私にとって、「意味なく厚い本が売れる」という話は、およそ理解に苦しむわけです。

 今日のお昼休みに、書店に行く用事があったので、平積みになっているベストセラー書籍のコーナーを見てみました。もう、若い世代をターゲットしているだろうと思われる本の多くが、もう「スカスカ」です。束が厚いわりに活字が少ない本ばかりです。本文の文字組みを見ると、改行だらけです。…ああ、嫌だ。内容以前に、こんな本は読みたくありません。

 自分が本が好きだからと言って、本を読まない人を非難するつもりはありません。ただ、読書は、もっとも安く手軽に「別の世界に入る」手段です。そして、もっとも安く手軽に「人生を楽しむための知識」を与えてくれます。活字を読まない人を見ると私は、「もったいない人生を送っているなぁ」と思ってしまいます。

2004/5/20

 Blog絡みの話題としては、もうとっくに旬を過ぎて(約1ヶ月遅れ)いますが…
 こちらのスレが提起している問題は、実はかなり深刻です。この問題に関しては「殿下執務室」で「ネットの最大の敵はオーディナリー・マジョリティ」という見解が出され、「人工事実」でも同じ問題が取り上げられていました。いまや、「ネットの最大の敵はオーディナリー・マジョリティ」…で検索すると、この話題を取り上げているBlogが数十件はヒットします(笑)
 最近はサーチエンジンがRSS検索機能を持っているためにBlogが検索エンジンに掛かり易い上、Blogはトラックバックで結ばれていること、Blogで取り上げられる話題に共通性が高いことなどから、Blogが検索上位に来やすい傾向が明らかです。さらに前述の2chのスレの中で「…結局ネタ元というか、流通する情報のスパイラルを一定の範囲で収束させてしまうんじゃないでしょうか」…と書かれていましたが、実際に「Blogで取り上げられる話題」と言うヤツは、かなり似通ったものになりつつあります。

 「ネットの最大の敵はオーディナリー・マジョリティ」…とまで言い切ってよいかどうかわかりませんが、確かにBlogブームの中で「どうでもいい個人的日常」を書くサイトが増えたことは確かです。こうしたサイトからの検索結果が増えれば、相対的に「有益な情報」が埋もれていくような感じを受ける人が増えるかもしれません。
 ただ、ネットを情報を求めて日夜彷徨っている人は、「ネット世界の住人」としてのキャリアが長ければ長いほど、「とんがった情報」を求める傾向にあります。「とんがった情報」というのは、「有益な情報」というのとは質的に異なり、「ある種の内輪受けする情報」であったりするわけです。「ネット世界でどんなコンテンツや主張が受けるか」というのは、2chあたりを継続的にワッチしていれば、割と容易に把握できます。そこで、「変わったこと」を意図的にやる…、要するに「受け狙い」サイトが増えるのも、ネットをつまらなくする要因です。例えば、有名サイト「Webやぎの目」の作者である林雄司氏へのインタビューを読んでいたら、「…『ガスタンク2001』は正直最初狙ったんです。確かにガスタンク自体好きなんですけど、ガスタンクの写 真ばっか載せてるHPがあったらキチガイっぽく見られて面白いだろうなというか(笑)、照れないでそんなヘンな写 真ばっか集めてたらそういうヘンなもん好き系の人達からの注目も集めるだろうなぁみたいな感じがあったんです…」と答えているのを見て、「ああやっぱり」と思いました。

 「オーディナリー・マジョリティ」の話に戻りますが、私はこのサイトの中の「つまんねぇ写真ばっかり撮ってんじゃねぇよ」fool.htmlという駄文の中で、「家族旅行の写真とか子供の運動会の写真とか、そういうつまんない半端な自己満足型のプライバシー写真を公開するな」…みたいなことを書きました。Blogサイトについても、ある意味では同じように感じてはいます。日常を日記の形で書いたものを公開するな…とまで思っているわけではないのですが、「どうせWebサイトを公開するのなら、少しでも気が利いたコンテンツを」…と、他人にも望んでしまう自分がいます。

 じゃあ、自分のサイトはどうなのか…と問われると、確かに厳しい。けっして面白くはないでしょう。それはわかっています。しかし面白くないなりに、他のサイトではあまりやらないことを考えてはいます。
 私はこのサイトを運営していくにあたって、ともかく「テキストの物量」で圧倒しようと、バカなことをマジで考えています(笑) ニュースサイトやBlogサイトが、「気の利いた短いコメント」を狙っているものが多いので、私は逆に「ダラダラと、とてつもなく長いテキストを書く」ことで、差別化を図っているのです。だって、長いテキスト書くのって、普通の人は面倒だし時間もかかりますよね。私がこの日記を書くときに目安としてる文字数は、概ね「最低でも2000字以上、できれば3000字以上」です。私は、2000字を15分以内で書くことを目標に、日記を更新しています。
 そして、できる限り「ニュースサイトで取り上げるような話題を書かない」ことを心掛けてきました。しかし、これは最近崩れつつあります。どうも時事問題的な話題を取り上げることが多くなったようで、気になっていました。そんなこともあって、別にBlogを立ち上げたわけです。

 …今日の内容は、自分自身のために「指摘画像日記」を解題してみただけです(バカバカしい…)。人様に読んで頂くような内容にはなっていません。そろそろ、この日記の更新にも飽きてきました。近日中にやめるかもしれないし、他の形も含めて考え直そうと思っています。

2004/5/19

 私は立ち食いそばが大好きで、いわゆる「駅そば」も昔はかなり頻繁に食べていました。「昔は」と書いたのは、最近は街中の立ち食いそば屋には入りますが、駅そばはあまり食べなくったからです。駅そばを食べる機会が減ったのは、ひとえに「あじさい」が増殖したからです。
 関東地方にお住まいの方はよくご存知でしょうが、ここ数年で首都圏の主要な駅のそば屋は、構内にある店もホームにある店も、そのほとんどが「あじさい」という同じ店になってしまいました。どの店も、メニューも同じなら味も基本的に同じです。はっきり言って、おいしくないのです。別に駅そばに「美味しさ」を求めるわけではないのですが、それにしても「あじさい」は、平均的な街中の立ち食いそば屋の水準を下回っています。麺にはまったくコシがないし、つゆの味も安っぽいのです。そして、なにより面白くないのは、どの駅でも同じ味のそば、同じ種類のトッピングしか食べられない…という点です。昔は、駅そばは不味いなら不味いなりに、駅によって味やトッピングのてんぷらに個性がありました。どこへ行っても同じ「あじさい」では、風情も楽しみもありません。
 正確にいつ頃から「あじさい」化が進んだのか記憶にありませんが、10年ほど前までは、駅そば店はもっとバラエティに富んでいたような気がします。
 「あじさい」という店はNRE(株式会社日本レストランエンタプライズ、旧日本食堂)が経営しています。基本的には関東だけのチェーンのようで、これはNREがJR東日本の子会社ですから当然ですね。
 ではJR東海やJR西日本のエリアはどうなっているのか、ちょっと調べてみました。JR東海の場合は、「JR東海フードサービス」という会社があり、ここがNREと同じように駅そば店を運営しているようです。サイトで直営店舗一覧を見ると、「みたて」という立ち食いそば店(こちらにコメントがありますが、本格的な手打ちでとてもおいしいそうです)や、名古屋を拠点とするJR東海らしく「きしめん店」などがあります。
 JR西日本の場合は「ジェイアール西日本フードサービスネット」という長い名前の会社があり、いろいろなうどん・そば店を営業しています。こちらのサイトで直営店舗一覧をみると、「あじさい」というそば店(京橋駅)があります。これは、NREとの提携をしているかもしれません。

 私はJRと、そのホームや構内で営業する駅そば店との関係について詳しくないのですが、昔はきっと、地域や駅ごとに個別の業者がJRと契約して入っていたのでしょう。現在でも地方へ行くと駅そばはバラエティに富んでおり、その土地で有名なそば店が駅構内で営業していたりします。例えば松本清張の小説「砂の器」の舞台となったことで知られる、出雲の木次線亀嵩駅内にある手打出雲そば店…なんてのはTVなんかでもよく紹介されています。また首都圏の国電の駅各所、そして山手線の駅などでも、構内やホームにあじさい以外のそば店が入っている例もたくさんあります。例えば、秋葉原駅のホームのそば店は「あじさい」ではなく、わりと美味しいですよね。いったい、「あじさい」のようなJR系のチェーン店がどのような基準で出店・増殖しているのか、誰か教えて頂けると有難いのですが。
 そういえば、首都圏の「あじさい」でも微妙に味が違うとの指摘もありました。先にも紹介しましたが、首都圏の駅そばを食べ歩いているこちらのサイトは、面白いですね。ここに出てくる「小竹林」も以前は多かったそば店ですが、これもどうやらJR東日本系のお店のようです。

 いずれにしても、「あじさい」の増殖が、首都圏の駅そばの面白みと食べる楽しみを一気に奪ってしまったのは、確かでしょう。駅そばファンの私としては、「アンチあじさい同盟」…でも作りたい心境です。もっと、都内の駅そばの多様化を!

2004/5/18

 中世のヨーロッパは残酷な時代でした。残酷さの中心にあったのは、封建領主ではなく、ローマ教会です。国王を頂点とする封建領主の中にも、領民に対して苛酷であった例は枚挙に暇がありませんでしたが、封建領主の残酷さには限度がありました。それは実に単純な理由で、「領民を殺してしまっては自らの権力が無意味になる」からです。中世のヨーロッパでもっとも残虐だったのは、ローマ教皇を中心とするカトリック教会であり、彼らは異端者を平然と殺し続けました。その残酷さが頂点に達したのは、「宗教改革」です。宗教改革は、反宗教改革を産み、ローマ教会の影響下にある地域には無数の異端審問裁判所が設置され、プロテスタントを見つけては片っ端から火炙りにする…というとんでもない時代が長く続きました。むろん、十字軍の蛮行にも見られるように、キリスト教はもともと異教徒に対して残虐でしたが、その残虐さは「キリスト教徒同士の争い」で、より発揮されたようです。要するに近親憎悪の感情が働いたのでしょう。ともかく、異端者に対する対応の基本は「生きながら火炙りにする」であり、残虐な拷問の末に、多くの人間が火刑に処せられました。
 異端に対して残虐であったのはプロテスタント側も同じです。宗教改革の旗手であるカルヴァンが、三位一体説を否定したスペインの神学者ミゲル・セルヴェトゥス(セルベート)を火炙りにした話は、歴史上よく知られています。
 余談ですが、"ファンタジー作家"佐藤亜紀の作品「鏡の影」(芥川賞パクリ騒動で有名になりました)は、この「ミゲル・セルヴェトゥスの火刑」という史実をモチーフとしています。

 当時、異端者を拷問にかけたり火炙りにしたりするにあたって、刑を命じる人も刑を執行する人も、おそらく眉一つ動かさずに平然と行ったであろうと思います。それは、多くの場合、拷問や火炙りが「正義感」「倫理感」に基づいた行為であったからです。「自由」や「博愛」のような概念が存在しなかった当時、宗教はそれ自体が唯一無二の「倫理感の裏づけ」でした。人間は、倫理観や正義感に基づく行動をしていると自ら確信している限り、いくらでも残酷になれるし、またそれを残酷だなどとは認識しないものです。

 1618年ボヘミアに始まった30年戦争によって、カトリックとプロテスタントが全面的にぶつかり、その結果ヨーロッパ全土で2千万人以上が死んだ…とされています。いくら長期に渡った多国籍戦争とは言え、当時のヨーロッパの人口、そして大量殺戮兵器が存在しなかった当時の兵器事情から見れば、数千万人というのは極端に多い数字でしょう。対人口比で見る死者数は、300年後に行われた第一次、第二次大戦の比ではありません。30年戦争は、全面的に「宗教戦争」と見るわけにはいきません。国家間の利害が複雑に絡んでいた側面もあります。しかし、この歴史上類を見ないほど極端な殺戮合戦が、「宗教的情熱」のもとに行われたことは事実です。お互いが、宗教的正当性、ひいては「倫理的正当性」を確信していたゆえに、いくらでも残酷になれたし、いくらでも相手を殺すことができたのだと思います。

 何かの本に「イデオロギーに囚われた"信念の人"は、どんな犯罪者よりも残酷になり得る」…という言葉が書いてありましたが、これは何も中世ヨーロッパだけのことではありません。近代史、現代史においても同様の例はありました。ロシア革命後の内戦、スペイン市民戦争、文化大革命で紅衛兵が見せた残虐な行動、ポルポトによる都市住民の大量殺戮…、これらは「正義感に溢れた人間」によって行われた残虐性が発揮された殺戮の例です。もっと身近な例で言えば、冷徹に殺人を続けたオウムもそうだし、同じように冷徹に大量の仲間を殺害した連合赤軍事件も同じです。

 さて、いきなり中世ヨーロッパの話を書いたのは、21世紀になったばかりの現代にあって、宗教戦争時代と同様の「独善的な正義、倫理的正当性」が世界の各所で声高に叫ばれるようになったからです。それは「民主主義とテロとの戦い」という言葉に代表される、「民主主義」という「正義」です。
 「民主主義」、しかも「西欧型民主主義」というのは、果たして「正義」なのでしょうか。「民主主義」の名の下になら、他国を侵略することも、人を殺すことも、大量破壊兵器を使用することも、全てが認められるのでしょうか。
 私は、「民主主義」を守るために行われたアフガニスタンへの侵攻、イラク侵攻、そして侵攻後の統治の失敗を見ていると、今後の世界の行方が恐ろしく感じられます。イラク統治の失敗は、既に和平へのロードマップが崩壊したパレスチナ情勢と合わせて、そのまま中東全域を巻き込む多国籍戦争へと向かうのではないか…と思えるのです。そして、その戦争は、17世紀にヨーロッパで戦われた「30年戦争」に近いものになるような気がします。
 「西欧型民主主義」を本気で信じる人々と、そうではない人々(例えばイスラム的部族社会を是とする人々)との戦いは、凄惨なものになるかもしれません。西欧型民主主義なるものの中に、キリスト教の「神」の概念が存在することも、紛れもない事実です。  戦争によい戦争も悪い戦争もありませんが、「国益」、つまり「経済的利益」を争う戦争は、和平への道筋」をつけやすいことは事実です。それに比べて、イデオロギーがもたらす戦争は、より残虐で手のつけられないものになるでしょう。
 民主主義って何ですか? 民主主義って、そんなによいものですか? 民主主義なんて、誰も定義ができない曖昧な「主義」を錦の御旗にするのは、恐ろしいことのような気がします。

2004/5/17

 最近TVに出てくるタレントやレポーターなどがよく使う言葉で、「元気をもらう」…というのがあります。この「元気をもらう」という、安っぽくて、バカっぽい言い回しが、生理的に嫌いです。嫌いというのを通り越して、「不愉快」な言葉です。「…元気をもらいました」というコメントを聞くと「ボキャブラリーが貧困だな」と思うし、「こういう言葉を使うやつは、きっと頭が悪くて感受性が鈍いんだろうな」って思います。
 なぜ「元気をもらう」が、安っぽくて、バカっぽい言い回しなのか…、今日は面倒なので書きません。今日は、喉の調子がすごく悪いんです。ほとんど、まともに声が出ません。ああ、これはもう手術でしょう。憂鬱だ…

2004/5/14

 えーと、皆さんは「秘密」をどのようにしていますか?
 私は最近、「秘密」の処理で少し悩んでいます。私のように長く生きていると、それなりに身辺に「秘密」が溜まります。「身近なAという人物は知っているが、もっと身近なBという人物は知らない事象」…なんてのは数え切れないぐらいあるし、そうしたことを裏付ける「証拠」もたくさんあります。そう、例えば「昔付き合っていた女の子と遊びに行った時の写真」とか「不倫相手からのメール」、「裸の彼女を撮ったデジカメ画像」…のようなものです(…あくまで「例え」ですよ…笑)。こうした秘密は、パソコンの中にある「デジタルデータ」と、手紙や紙焼き写真のような「アナログデータ」に分かれますが、どちらも始末が悪いもの。アナログデータは、オフィスや自宅の仕事用デスクの引き出しなんかに無造作に放り込んであります。デジタルデータの方も、ごく普通にパソコンの中に散らばっていますが、どうしたらよいのかわかりません。
 困ったことに、私は最近体調がすぐれないわけで、極端な話いつ病気で入院するかわからない状態だし、そうじゃなくても交通事故なんかでいつ死ぬかだってわかったもんじゃない。そんな状況で、こうした「秘密」をどうしたらよいのか、けっこう迷っています。
 デジタルデータの方は、パスワードをかけたフォルダにでもまとめておけばよいかも…なんて思うのですが、そんなことをしたら私の死後に誰かがかえって興味を持って中を見ようとするかもしれません。アナログデータの方は「捨てる」のが最善の策かと思うのですが、セコい私は、モノによってはもったいなくて捨てられません(笑)
 まあ、自分が死んだ後のことは知ったこっちゃ無ない…と言う気持ちが半分と、「発つ鳥跡を濁さず」で身辺をキレイにしていこう…という気持ちが半分ってところ。
 さあ、どうしよう。

 話は変わって…
 先日餃子屋で、ビールのトマトジュース割りを飲みながら女子バレー世界最終予選(おそらく対プエルトリコ戦)をボンヤリ見ていました。するとセットとセットの間に、赤い服を着たバカそうなジャリタレ(周囲の人に聞いたら、何でもジャニーズ事務所のNewSなるアイドルグループとのこと)が出てきて、観客席に向かって絶叫を始めました。「ニーッポン!ニーッポン!ニーッポン!…」と。それに合わせて観客が「ニーッポン!ニーッポン!ニーッポン!…」と叫ぶのです。もう完全に狂ってる…感じ。相手チームにも失礼のような気がするし、何よりもあまりにも品のない応援風景です。
 アテネオリンピックの中継も、「タレント総動員」をしてこんな感じになるんでしょうね。あーヤダ…

2004/5/13

 普段は皇室の動向になどまったく興味はないのですが、海外のマスコミにまで取り上げられた、今回の皇太子(ちなみに「皇太子さま」というのは誤った用法で、「皇太子」のみで必要十分な敬語になっています)の「問題発言」を聞いて、いろいろと考えてしまいました。
 それは、「正統な天皇制は終わった」ということです。

 私は、天皇制に反対でも賛成でもありません。しかし私は、以前この日記(2003/12/19)で天皇制について次のように書きました。「…日本が天皇制を維持すべきかどうかについて、政治的な色を一切出さずに感想を述べるならば、私は、天皇制は『文化遺産』として永久に国家によって保護・継続を図るべき…と思っています。これは『皇室神道』という日本固有の特異で重要な宗教を、その伝統的な祭祀ともども将来に渡って保全すべきだと考えるからです。私は、以前から『皇室神道』に非常に興味を持っています。一般に広まった神社神道とは異なり、独特の祭祀を中心にして非常に少ない人間にだけに伝承されてきました。しかも、神社神道が広範囲に拡大する中でいろいろな時代の政治・文化の影響を受けながら大きく変質してきたのに対し、上代の原始的な神道の面影を強く残す皇室神道は、日本という国の成り立ちを知る上でも、上代の文化を知る上でも極めて貴重な存在です…」。
 さらに、「…『女性と褥を共にする』という儀式があるはずの大嘗祭、新嘗祭など宗教的祭祀の文化的重要性を考えれば天皇は男子でなければならず、『男女同権』なんて話はピントがずれている。『天皇家の跡継ぎは男子のみ』と明確に規定すべきだと思います…」とも書きました。

 今回の「皇太子の造反」は、現在の日本の国家体制の中で、文化の継承…としての「皇室神道」を第一義に考えるのか、「象徴としての天皇制」でよいのか、半端な状態にしているがゆえに起こったものです。

 要するに、「現」皇太子妃である「元」小和田雅子は、あまりにも普通に「現代女性としての合理性」を持ち続けていた…というそれだけの話のようです。彼女の不幸(?)は、おそらく現皇太子に「本気で惚れられた」ところに始まります。後に公表された周囲の人々の様々な証言によれば、現皇太子の当時の小和田雅子嬢に対する執心ぶりは半端ではなく、彼女を皇太子妃にするために、小和田家とその周囲に対してあらゆるアプローチがなされたそうです。当初は現皇太子とまったく結婚する気がなかった彼女は、絶対に逃げられないように外堀を埋められる形で、結婚に至りました。しかしなお、「自らの能力とキャリア」に対して十分な自負を持っていた彼女は、「皇室に入っても自分のキャリアを活かして働くことができる」…という点に救いを見出して、皇室に嫁いだに相違ありません。
 しかし、天皇家に、しかも将来の天皇である皇太子に嫁に行った時点で、本当は「現世の輝かしいキャリア」とともに「小和田雅子」なる人格をも捨てざるを得なかったのです。本来の天皇制の元では、天皇は「神」であり、人格はありません。そこに嫁に行く時点で「人格」なんてものが認められるわけがないことを、先に納得すべきだったのです。天皇の嫁の仕事は、「世継ぎを産むこと」ですし、それを第一として考え、「皇室外交官」的な働きを望まなかった皇室周囲の人々のあり方は、「本来の天皇制」を維持する上では正しい考え方でもあります。
 そうした背景の中、同様に「合理的かつ現代的な思考と教養」を身につけて育った皇太子が、「本来の天皇制」の中での皇太子妃の役割(男子を産むこと)を十分に承知しながらも、なお「惚れた女房」のために、確信犯的に雅子妃の人間的な感情を支持し、雅子妃に人格を与えようとしている姿が、痛々しくさえ見えます。

 妙な話ですが、今回の皇太子の発言を聴いて、私は「天皇制は終わった」ということを直感的に感じました。
 皇太子も雅子妃も、「人格」を持った主張をしています。そこのところから、既におかしいのです。考えてみれば江戸期まで続いた本来の天皇制の元では、天皇に人格はありません。明治維新によって皇室神道はその重要な部分をかなり壊されたとは言え、大日本帝国憲法の第一章・第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、明確に天皇を神格化しました。天皇は「神」であり、「神」に「人格」はないのです。「開かれた天皇制」なんて言葉は矛盾しています。天皇制は絶対的な「身分制度」であり、天皇は一般の人が憲法で保障される「人格」や「人権」とは無関係の存在であるはずです。大日本帝国憲法の告文(こうもん)では、「皇室典範」は憲法より上位に位置づけられています。これが、天皇制を維持するための、最低限のやり方です。
 将来の天皇である皇太子が、今回のような発言するようでは、もう本来の「皇室神道」に基づく「正しい天皇制」が復活する可能性はありません。しかも、現天皇・皇后夫妻も、皇太子のこうした「人間感覚」を支持しているようです。「皇太子が、妻を愛するゆえに天皇制の復権にとどめを刺す」…、なんとなく歴史の皮肉を感じさせます。天皇制に反対する「サヨク」の方々は、安心していいようです。

 普段「大日本帝国憲法を復活させよ」「日本を立憲君主国家にせよ」と主張するウヨクの方々が、今回の件で黙っているのが不思議です。正統な皇室神道のもとに天皇制を復活させるためには、皇太子妃は男子を産むまで外遊なんぞにいかせるわけにはいかないはずです。天皇制の復権、国体の護持を第一に考えるのなら、今回の皇太子の発言に対して「バカなことを言うな」と、一斉に声を上げるのが筋ではありませんか?
 逆に、現行憲法の「象徴天皇制」にすら反対する「サヨク」もしくは「進歩的文化人」の方々は、もっと大きな矛盾に直面するでしょう、ここで皇太子の発言に共感し雅子妃の立場に同情すれば、それは「開かれた皇室」という形での天皇制を認めることになってしまうからです。
 ちなみに、天皇制、そしてその本質である「皇室神道」というのは、歴史的、民俗学的に見て、世界に類を見ないほど面白い存在です。天皇制に対して反対する人(例えばサヨクの人々)は、天皇制を「支配するシステム」「抑圧するシステム」などと単純に位置づけますが、天皇制は古代からの形成過程において「民衆が一緒になって育ててきた」ということもまた事実です。

 …今日は、なんだか妙な話を書きました。…与太ですから無視してください。

2004/5/12

 私は、「Winnyは極めて優秀なP2Pソフトであり、P2P技術分野では世界に誇るべき成果である」と認識し、また当然ながら「Winnyは違法ソフトではない」と認識しているので、今回のWinny開発者(…というよりも、もう金子勇氏でよいでしょう)の逮捕事件については、その後の経緯やマスコミでの取り上げ方などを注視しています。
 それにしても、大手新聞社やTV局など大手マスコミの報道内容は、あまりにもひど過ぎます。例えば、ZAKZAKに掲載されたこの記事では「ドン・キホーテを気取り、著作権に真っ向勝負して敗北した天才技術者。その素顔は、とってもオタクな独身男だった…」などと、ひどいものです。加えて、読売新聞の記事のようにWinnyを「違法ソフト」と書くに至っては、何をかいわんやです。
 こうしたデタラメ記事や金子氏に対する誹謗・中傷の類は許せませんが、それよりも何がひどいかといって「Winnyとはどういうソフトか」について、きちんと解説している大手マスコミが1つもないのです。大新聞の記事や社説を読んだり、TVニュースを見ている限り、ネットワークに詳しくない一般の人は、「Winnyは著作権法で保護されている映像や音楽やパソコンソフトなどを、勝手に交換・配布するためのソフト」…としか理解できないでしょう。大手マスコミは、どうして「Winnyというソフトの機能とP2Pネットワークの本質」についてまともに取り上げないでしょうか。
 …ということで、「Winny」とはいったいどういうソフトなのか、大手マスコミに代わって、私が「パソコンやネットワークに詳しくない一般の人」向けの解説を試みます(笑)
 題して「Winnyとはどういうソフトか?」…という一文です。
 既にWinnyやWinMX利用した経験を持つ人やP2Pネットワークに詳しい人にとっては、あらためて読むような話ではありません。また、記述に誤りがあればぜひご指摘下さい。

2004/5/11

 Winnyの開発者逮捕に関しては、主にこちらのサイトでその経緯をウォッチしてきました。ここでは、「…WinnyのようなP2Pソフトの是非を考える上で、『著作権』は、あくまで副次的な問題。私の認識では、『P2Pソフトを使って保護されるべき著作物をやりとりする』という行為をする人間が存在することと、『P2Pソフトがネットコミュニケーションの発展の中でどのような意味を持つか』…ということは、まったく別の問題です」と述べ、その上で「Winnyというのは非常に優秀なネットコミュニケーション機能を持つP2Pソフトであり、Winnyの是非は『ネットコミュニケーションにおけるWinnyの有効性』という視点からのみ評価されるべきだ…」とコメントしました。
 では、この「デジタルコンテンツ時代にあって、著作権はどうあるべきか…」についての私の考えは、この日記で簡単にコメントします。なお、私自身も活字やパソコンソフト分野で「著作権」によって収入を得ている人間ですので、そうした立場を踏まえての発言です。

 著作権というのは、本来の理念からすれば「コンテンツを創り出す主体(人間)に与えられるべき権利」であり、よいコンテンツを作り出す環境…、すなわち「コンテンツを創り出す人間の収入」を確保するためには必須の権利です。ところが現在、「著作権」を声高に主張しているのは、コンテンツを産み出している人ではなく、音楽産業や出版社など、ある意味で「コンテンツの流通業者」です。彼らは、基本的には自ら著作物を創り出すのではなく、コンテンツを創った人間から「権利を買って」、それを流通させて儲けている営利企業です。例えば音楽産業がファイル交換ソフトを非難する時には、あたかもミュージシャンの味方のような顔をして「音楽家たちがよい音楽を作り出す環境を守るため」…などと言います。しかし、一番儲けているのは彼ら音楽産業だし、また音楽産業側の恣意的な意思によって、「売り出す音楽」と「売り出さない音楽」が決められている実態があります。要するに、視聴者不在の側面が非常に強いと感じています。私は、こうして「著作権」を錦の御旗とする「コンテンツ流通業者」には、かなりの苛立ちを覚えています。
 著作権は重要な権利ですが、少なくとも「はじめに権利ありき」ではありません。例えば音楽でも文学でも絵画やイラストでも、それを視聴する側に認められて、初めて価値を生み出すものです。「作者が生み出すコンテンツに対価を払う」ことを納得した視聴者によってお金が支払われ、それがコンテンツ制作者の収入が生じるわけです。逆に言えば、誰も見向きもしない作品にとって、「著作権」は無意味な権利です。コンテンツの価値はそれを視聴する側が決めるのです。
 現在のコンテンツ流通産業は、分野を問わず、かならずしもこうした「視聴する側がコンテンツの価値を正当に判断できる仕組み」をい作り出していません。よい作品は世に埋もれ、逆に彼らが「売りたい作品」にだけ膨大な宣伝費や販促費が遣われて世の中に出て行く…という例が非常に多いように思います。くだらない音楽や映画、TVドラマが世の中に溢れています。書籍のベストセラーなんて、宗教家が書いた本やタレント本などのおぞましい本ばかりが並んでいます。私は、現在の各分野のコンテンツ流通事業者が「文化的な仕事」をしているとは到底思えません。
 こうした状況下では、WinMXやWinnyのようなP2P(ファイル交換)ソフトは、「視聴する側がコンテンツの価値を正当に判断できる仕組み」を作る上で、非常に有効です。P2P(ファイル交換)ソフトを利用することで、逆に、こうした「コンテンツ流通産業」が無視することで世に埋もれてしまうソフトを「世の中に出す」こと可能です。実際に、ファイル交換システムに積極的に楽曲を提供している数多くのミュージシャンの存在は、ナップスター裁判で明らかになりました。

 とはいえ、音楽産業や映画産業などコンテンツ流通業者の「資本力が創作者を育てている現実」を完全に否定するわけではありません。その結果、「コンテンツの対価の一部を搾取して儲ける」ことは、資本主義下の正当な活動の一部として認められるべきだとも思います。ただし、それには条件があります。コンテンツの対価から中間マージンを取る営利活動を目的にするのなら、コンテンツをコピーされない仕組みを作る義務は、コンテンツ流通業者側にあります。デジタル化されたコンテンツを無理なく流通させるテクノロジーに投資し、それを確立してからビジネスを始めるべきです。WinMXやWinnyという優れた機能を持つP2Pソフトに対して、本来「コンテンツを創り出す人間のためにある法律」を楯に謂れのない非難を浴びせる現状には納得できません。
 繰り返しますが、「著作権」は本来、コンテンツを創った人間から「権利を買って」それを流通させて儲けている営利企業のためにある…のではないのです。こうした営利事業者が「著作権」を利用して儲けたいのなら、まずは「デジタルコピーに対応し得る新しいコンテンツ流通の仕組み」を作り出すべきなのです。さらに、「視聴する側がコンテンツの価値を正当に判断できる、より合理的な仕組み」を考えるとともに、視聴者がより安価にコンテンツを楽しめる「文化的な環境」を作る努力をするべきです。

2004/5/10

 昨日は、代々木公園で行われた「タイ・フード・フェスティバル」に顔を出してきました。今年で5回目とのことですが、私は初めての体験です。たくさんのタイレストランやアジアングッズのショップが並んで、確かに楽しい。人出はたいへんなもので、花見のように地面にビニールシートを敷いて飲食を楽しんでいる集団も多く、まさに「お祭り」状態でした。

 正直なところ、タイ料理は別に好きではありません。特にコリアンダーとレモングラスの匂いがまったくダメなので、一部のタイ料理はまったく食べられません。カレー類などあまり辛いものもダメだし、まあ食べられるのは「パッタイ」「カオパット」系と「カオマンガイ」系ぐらい。で、今回のフードフェスでの私のお目当ては、竹筒に入ったアズキご飯「カオラム」でした。これは以前、バンコクから車で1時間ほどのナコンパトムに行った時に、カオラム名人のオークライさんが作った美味しいカオラムを食べて好物になったからです。で、今回のフードフェスで売っていたカオラムは、結果的には全然ダメな代物でした。風情のない妙な竹筒に入っていたし、味もよくなかったと思います。



 そういえば私は、3月にタイ大使館で開催された「タイ・ヌードル・デイ」にも行きました。いや、別に「タイが大好き」というわけではありません。両イベントともに、たまたま誘われたから行っただけです。とはいえ、タイが嫌いというわけでもなく、特に仕事で出かける機会が増えた最近は、けっこう気にいっています。私は1970年代の終わりに一度タイを訪問して、その時はアジア旅行の途中でしたが、インドやミャンマーなどの印象が強くて、タイについては特に強く印象に残った部分がありません。長い間、他のアジア諸国と同様のイメージを持っていただけです。その後10年以上のブランクを経て2000年にタイを訪れ、近代都市化が進んだバンコクのあまりの変貌ぶりに驚き、それとともに前回訪問した時よりも「居心地のよさ」を感じました。私は「アジア的なもの」に対する憧憬や、アジアの精神性を賛美するような意識…がまったくありません。バックパックを担いだ長期旅行をしなくなった最近は、発展途上国の田舎の不便さを意識的に楽しむということもありません。だから短期滞在のケースなら、適度な快適性と適度なエキゾチシズムが混ざり合った土地が好きなのです。その点タイは、バンコク市内に限れば「西欧社会の近代性が同居しているゆえの快適さ…」というヤツが確実にあります。

 そういえば、タイという国は、おそらくもっとも多くの日本人が「女性を買う」ことを目的に訪れる国の1つです。私には「女性を買う」という行為や「平然と女性を買う男性」に対する強い生理的な嫌悪感がありますが、反面「猥雑な雰囲気」も好きです。バンコクの夜には、深夜のバーや路上で現地女性と交渉したり、若いタイ女性を連れて歩くファランの姿が溢れており、そうした「猥雑さ」はけっこう楽しむことができます。1970年代のマンハッタンの42nd STから8th Av一帯なんて売春婦だらけで、似たような雰囲気でした。ナナプラザ界隈やソイカーボーイあたりで、その手の女性がいっぱいたむろしているのを見ながら歩くのも嫌いじゃありません。私は、オープンバーのカウンターでビアシンを飲みながら、言い寄ってくる女性と適当に話して帰ってくるだけですけど…

2004/5/7

 他愛のない話ですが、久しぶりにPCを自作しようと考えています。いわゆる「HDD/DVD録画専用マシン」です。
 いや、実は私はまだ流行のHDDレコーダーを購入していません。というのも、ここ数年、TV番組を録画する…ということをほとんどしなくなったからです。かつてはAV機器を狂ったように購入していた時代があって、ビデオレコーダーなんてEDベータや初期のS-VHS上級機などを片っ端から購入していましたし、AVアンプやドルビーシステムなどにもかなり凝りました。TVも48型のリアプロジェクターを愛用していましたし、なんかメチャクチャにお金を遣っていた時代があります。で、現在はたまにレンタルDVDを32型のCRT・TVで見るぐらいで、プラズマTVにもHDDレコーダーにも興味が沸かなかったのです。また、ニュース番組などを録画したいときには、TVチューナーを装備したPCに録画をしてはいましたが、あまり画質などを気にすることはありませんでした。
 ところが、ふと思い立ってHDDレコーダーを購入しようと決めました。ソニー、松下、パイオニアの製品を比較しましたが、どれも一長一短で決められません。そこで、いっそのことコンシューマ向けのHDD/DVDレコーダーに匹敵する機能の「HDD/DVD録画専用PC」を組んでしまおうと思ったわけです。
 チューナーカードはiEPG対応でゴーストリデューサと3次元YC分離を搭載しているものがいいですね。まあ、オーソドックスにNECの「SmartVisionHG2/R」あたりを使う予定です。ビデオカードはFX5200程度でいいでしょう。CPUはPentium4の3GHz以上を考えていますが、コストパフォーマンスを考えてAthlonにするかもしれません。チップセットがKT880あたりのSocketAマザーで安いヤツなら、1万円以下で買えます。それともnForce2 Ultra400にしてビデオカードを節約する手もありますね。高ビットレートで長時間録画できるように大容量HDDが必要ですが、とりあえずはコストパフォーマンスの高い160GBを2台にして320GBを搭載するつもりです。あとは8倍速で記録できる適当な価格のDVD±Rドライブと512MBのDDRメモリを搭載して、予算は10万円。…ちょっときついかな。HDDを1台にしても12万円ぐらいかかりそうですね。ビデオカードとチューナーカードの2枚、それにHDD2台となるとキューブ型ケースに組むのは無理ですね。何か、安くてかっこいいケースを探さなくては…。こういうのって、パーツ構成を考えている時がいちばん楽しいんですよね。
 ともかく、週末に秋葉原へ行ってきます。完成したマシンの使い心地は、また報告させてもらいます。他人のマシンなんて誰も興味ないでしょうけど…

 燃え始めた「ダイヤ」…三菱自動車も販売激減…というニュース。まあ当然の成り行きで、三菱自動車が倒産しようと廃業しようと知ったことではありません。幕末に土佐藩の吉田東洋が作り後藤象二郎が育てた「開成館」や「土佐商会」をルーツに持つ名門企業も、はかないものです。ただ、三菱自動車というのは、自動車メーカーとしてはなかなか面白い企業でした。1960年代の「コルト1000」は私の小さい頃に走っていて印象に残っているクルマだし、1970年に発売されたDOHCサターンエンジンを搭載する「コルトギャランGTO」、そして70年代にラリーで活躍した「ランサー1600」など、いずれも名車と呼んでいいでしょう。そういえば、我が家が最初にクルマを購入したのは1965年頃で、中古の「ブルーバード410」でした。小学生だったこの頃は、クルマに乗るのがうれしくて、道を走っているクルマの名前を全部覚えたものです。
 そういえば三菱はGDIエンジンの技術も持っています。噂のようにトヨタあたりが支援するかもしれませんね。

2004/5/6

 5月1日、EU(欧州連合)が中・東欧にまで拡大しました。TVのニュースでEU加盟を喜ぶ東欧諸国やバルト3国の民衆の姿を見て、「地理的・歴史的に見て、ヨーロッパ(欧州)とは何か」…という点について、あらためて考えてしまいました。そんなことを考えている折、書店でたまたま「新書ヨーロッパ史 中世編」(堀越孝一編 講談社新書)という本を見つけ、連休中に読了しました。
 講談社サイト内にある本書の紹介文に、前文の一部が掲載されていますが、「…1991年の『マーストリヒト協定』によって『ヨーロッパ連合』が始動した。おもしろいことに、マーストリヒトのすぐ北のマース左岸にメールセンという小さな町がある。870年、この町で、『フランク王国』の分解を決定づける協定が結ばれた。(中略)以後、ヨーロッパは『個別国家』の集合体としての歴史を歩み、一千年を経て、いまふたたび『フランク王国』へ回帰しようとしているという理解がある…」という部分は、実はTVのニュース番組で解説されるEUの広大な版図を見ながら、「ああ、これはフランク王国をちょっと広くした感じだな」と私が漠然と思ったことと同じなのです。そんなことで、がぜん内容に興味を持って、一気に本書を読了してしまいました。
 内容はと言えば、前半はほぼ高校の世界史の教科書と同じです。世界史で学んだヨーロッパ中世史を地域別に詳細に記述したものです。メロヴィング朝に始まるフランク王国がカロリング朝時代にローマ教会との結びつき強めていく過程、さらに王位と領土をめぐる争いから、ヴェルダン条約、メルセン条約を経て西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、イタリアの3国に分裂するプロセス、そして大ピピンやら小ピピン、カール大帝(シャルルマーニュ)、ローマ法王レオ3世、オットー大帝など、おなじみの人物が次々に登場する物語…と、そんなあたりまえの内容でしたが、あらためて読むとかなり新鮮です。特に、各地の地名の語源について詳しく書かれているのも面白かったですね。そして後半は、ケルト社会から近代社会に至るまでの、欧州地域の社会構成や生活環境、文化、そして民族問題などを、統括的に解説しています。各所に描かれた中世ヨーロッパの都市や文化についての記述を読んでいると、数年前に旅したベルギー北部のフランドル地方の光景なども思い出されました。
 欧州では、10世紀頃から領主と農村共同体による封建社会が確立されましたが、どうも後世イメージされているような閉鎖的なものではなく、外部との商品流通はおもいのほか活発だったようです。12世紀頃から活発になった、よく知られている地中海世界の貿易やハンザ同盟による交易以外にも、それ以前から欧州全域に広範囲な商品流通ネットワークが確立していたようです。こうした交易によって培われた経済的基盤の上に、14世紀以降のルネサンスによって生まれた科学的・合理的思考の台頭と近代科学の萌芽があり、さらに宗教改革によって生まれたピューリタニズムも加わり、これらがその後の産業革命を経て、世界を動かす「近代社会を持つヨーロッパ」を生み出していく原動力となった過程は、既によく知られている事柄です。
 で、こうしてあらためてヨーロッパ史を通して読んでみて思うのは、やはり「近代国家とは何か?」という疑問、そして「欧州が育んだ近代国家こそが、国家のあるべき姿なのか?」という疑問です。
 よく、「世界史」がヨーロッパ中心に記述されており、イスラム世界やアジア世界の歴史が軽視されていることに対して、疑問や反発を唱える人がいます。しかし、世界史がヨーロッパ史とほぼ同義であることは、別におかしなことでも何でもありません。「世界史」なる概念…、それ自体がヨーロッパの産物なのです。「世界史」を、中学や高校の教科として学ぶからといって、「歴史という学問の一分野」と理解すると誤った理解をすることになります。「世界史」は一種の論理学であり、むしろ「社会観」とか「哲学」に近いもののような気がします。それは、古代ギリシャやローマなど地中海世界で生まれた思想や哲学に始まり、そこにキリスト教的世界観が加味されて作り出された「ヨーロッパ人の、モノの考え方」のプロセスを知るためのガイドラインに過ぎないのです。
 イギリスに生まれ、欧州諸国がいち早く確立した資本主義近代国家は、アジアや中近東、そしてアフリカなど「古い共同体的秩序を規範としていた国々」を次々に侵略・解体していき、みずからの市場に組み入れていきました。こうした近代の歴史の流れは、それ自体が「正当な世界史」として、ヨーロッパの人々に認識されているのです。こうした事実を考えると、現在イラクを侵略している欧米諸国は、なんら道徳的・倫理的に矛盾を感じることは無いのでしょう。これは、「ヨーロッパの思い上がり」以外のなにものでもありません。4月26日の日記で触れた「イラク建国」なる本にあった「均質化こそが近代国家の本質であるならば、中東のイスラム社会、部族社会に近代国家はそぐわない…」という主張が、あらためて重くのしかかってくるような気がします。
 EU拡大のニュースを見ながら、「欧州的ではない近代国家のあり方」について、いろいろと考えてしまいました。

2004/5/5

 世間は連休中ですが、私の日常活動の基本は仕事。とはいえ、オフィスにいてもほとんど電話はかかってこないし、普段よりはのんびりしたペースで毎日を送っています。一応ここは「日記」ですから、この連休中の出来事をいくつか書いておきましょう。
 まずは5月2日の夜は、後楽園ホールでキックボクシングの観戦でした。小国ジムに所属するNKBウェルター級チャンピオン「木浪シャーク利幸」選手の応援です。
 木浪選手とは、以前N氏(池袋の" 顔役"の1人で、こちらの管理人です)と一緒にお会いした折に、ともかく気持ちのよい青年であったこと、加えて「今度の試合は応援にいく」と宣言したこともあって、今回の観戦と相成った次第。で、当日の試合結果はこちらの通りです。木浪シャーク利幸はメインエベントで前チャンピオンの石毛慎也と対戦し、結果はドローで初防衛は成功でした。
 笑ったのが、ラウンドガールとして水着で登場していた「Funny Stones」なる女性ユニット。「コスプレアイドル」なんだそうですが、よくわからないジャンルのタレントです。ハルピン水餃子の金さんは、ビキニ姿の彼女たちと記念写真を撮って喜んでました。
 試合後は一緒に観戦に出かけた、前述のN氏をはじめとするシャーク応援団の皆さんと深夜まで飲みました。それにしてもM大学ラグビー部コーチのH氏は、相変わらず濃いキャラでいいですね。今回も面白い話をいっぱい聞かせて頂きました。

 5月3日は、午前中はオフィスで仕事。午後は広告代理店の担当者と打ち合わせ。で、夜はいつものごとく池袋西口の餃子屋で飲んでましたが、ネット上でのお知り合い…という珍しい関係の方がおいでになったので、いつもとは趣が違う夜となりました。

 5月4日は、昼間はオフで女性と池袋の街をお散歩。池袋東口に新しくラーメン横丁が誕生しました。その名も「ラーメン名作座」ということで、古くからの飲み街だった「ひかり横丁」が生まれ変わったようです。
 午後3時頃に通りかかったら、すごい人が並んでいました。それにしても、池袋だけを見てもこの数年のラーメン屋の開店ラッシュは異常です。ラーメンはもういいや…って感じ。夕方遅い時間から夜までは、豊島園の「あけの茶屋」でゆっくりとコーヒータイムでした。

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