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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/4/30

 デジカメの普及は著しく、カメラ付き携帯電話と合わせれば、いまや一家に一台を超えたと言っても過言ではありません。ここまでデジカメが普及すると、予想もしなかったような利用法が出てきます。私なんかは、初期の頃からデジカメを使っている方だし、こんなサイトを運営していることもあって、デジカメの利用形態についてはけっこう詳しい方だと思っていましたが、先日ちょっと驚いたことがありました。
 知人に大学病院に勤務して外来診療を受け持っている医師がいるのですが、その人の話によると、最近「自分でデジカメで患部の写真を撮って持ってくる患者」が、かなりたくさんいるそうです。例えば、何週間に1回などと定期的に通院している患者が、前回受診時から今回受診時までの患部の変化をデジカメで撮影してプリントし、医師に見せたりするのだそうです。「先生、先週は足がすごく腫れたので写真に撮っておきました。ホラ、こんなふうです…」って感じですね。で、こうした「患部の写真」は鮮明な画像の場合には病院側でも治療や診断に非常に参考になることが多く、時には患者が持ってきた写真をカルテに貼ったりもするそうです。確かに、皮膚科の病気とか、体表部に顕著な変化をもたらす内科的な病気、ケガの治癒過程など、時系列で変化の状況を撮影した写真があれば、診断には役立ちそうですね。
 驚いたのは、何か虫に刺されたてすごく腫れて痛い時とか、大きなケガをした時など、とりあえずデジカメで写真を撮って、病院に来てから「虫刺さされの直後にはこんなに腫れたんです」とか、「ケガの直後はこんなふうでした」…といって写真を見せる人もいるそうです。医者に掛かるほど「痛い」ケガの時に、まず自分でデジカメで患部の写真を撮る人…ってすごいですよね。さらに、子供のケガや病気の時に、デジカメやカメラ付きケータイで写真を撮ってそれを医者に見せる若い母親なんかも、けっこういるそうです。
 いや、こんなデジカメの使い方をする人が多いなんて、ちょっと驚きました。そのうち、「自分で撮影できる胃カメラ用ファイバースコープキット」とか「大腸ガン診断用ファイバーカメラ」なんて製品が発売されるかもしれません(この手の製品はやはりオリンパスに期待したいところです)。むろん、使用は「自己責任」ということで…

 この話を聞いて思い出したのが、損害保険会社に勤務する知人の話です。数年前から、自動車同士の物損事故などの場合、その場で事故の状況の写真を撮る人が非常に増えたということです。事故を起こしたらカメラ付き携帯電話で撮影するなんてのは、もう当たり前の行動なんだそうです。で、こうして撮った写真があることで、保険会社の方では、かえって査定が面倒になるケースもあるとのこと。写真というのは撮影する位置や角度によって、必ずしも状況を正確に表現するとは限りません。保険会社によれば、事故直後の写真は「ないよりはあった方がいい」けれど、裁判などで争うケースで当事者が撮影した写真が法的な証拠として採用されることはまずない…とのことです。基本的には、示談のケースでのみ有効…なのだそうです。
 そういえば、今日で4月は終わり。「私的画像日記」などと言いながら、今月は写真が1枚もありませんでした。来月は、写真をアップするように心掛けます。

2004/4/28

 以前も取り上げたことがありますが、産経新聞の「正論」はなかなか面白い文章を掲載します。あ、ここで言う「面白い」は、「interesting」ではなく「funny」の意で使っていますので、誤解なきよう…
 で、「日本文化では通用しない〈無償の愛〉、損得ばかり…この不毛な年金論議」という加地伸行氏の文章を読んで、かなり笑いました。
 加地氏は言います。「社会保険の制度は、実は助け合いという道徳の精神がなくてはならないのである」…と。しかし、「日本人ひいては東北アジアの人間には、掛け捨てでなくて、必ず元金は取りかえすぞ、という感覚があるので、社会保険システムはぜったいにうまくいかない。どのように計算しても、日本の社会保険は永遠に赤字」…と言い切ります。
 「では、どうすればよいのか」、という問いの続きが実に面白い(funny)ですね。まずは「なによりも保険の道徳性を学校で教育することである」と提言します。そしてすぐに「しかし、そういう教育は必ず失敗する。日本にはまずキリスト教文化はほとんどないし、学校では自分の権利の主張ばかり教育され、かつ掛けた金銭は必ず取りかえすぞと小さいころから身についた〈有償の愛〉感覚はそう簡単に変わるものではない」と断定します。
 コロコロと変わる話の結論はどうなるのかと思ったら…
 「…とすれば、その〈有償の愛〉を逆手に取ることだ。たとえば、国民年金を十年掛けると約百五十万円。その時点で、二倍の三百万円を無利子で国家から借りられるようにするとか、あるいは健康保険をきちんと十年納めると、病院の待ち時間を少なくするとか。そういう〈得になる話〉をいろいろと政府は作るべきである。そうしたアイデアは国民から募集し、グッドアイデアを出した人々には国民栄誉賞を与えよう、いや一生の社会保険料を免除。というふうな東北アジアの文化に沿った立案をしないかぎり、どうあがいても社会保険の赤字はなくならない。」…。
 この結論を読んで「えっ」と思わず絶句しました。
 要するに、「年金は道徳的価値感に基づいた互助制度なので、経済的な損得で考えるな」と言い、続いて「年金を損得勘定で運用しても絶対に赤字になる」と言い切った挙句に、「損得の得になる話で加入者を釣って、うまく運用しよう」という結論に至るわけです。
 もう、笑い話にもならない、あまりにもバカバカしい話の展開で、とてもじゃないけど新聞の社説に掲載するレベルの話じゃありません。

 この無茶苦茶の論理展開を読む限り、加地伸行という人はどうみても「アホ」です。でも、肩書きは「同志社大学フェロー、大阪大学名誉教授」とあります。調べてみると、儒教研究の第一人者らしいですね。加えて、「生き方のモデルを教える他律文化」…なる、これまた幼稚な文章を読むと、どうもこの人は「道徳教育」がお好きらしい。こんな知的レベルの人間が大学で教えているというのは、実に悲しい話です。

2004/4/27

 昨日の日記で中公新書の新刊、「イラク建国」をベタ褒めしましたが、昨今の新書ブームはすごいですね。書店の新書コーナーは拡大する一方です。カバンに何冊も入れて持ち歩ける文庫や新書が好きな私にとって新書が増えるのはうれしいんですが、内容のない、くだらない本が多いのも困ったものです。
 で、その新書の新刊と言えば何といっても話題になっているのは空前のベストセラー「バカの壁」に続く養老孟司の「死の壁」です。早速私も読んでみましたが、「バカの壁」以上に内容のない、どうでもいいような本でした。読んでみた…とは言っても、書店の店頭で15分ほど立ち読みしただけですが、中身が無いので15分も読めば内容はほぼ完全に理解できるレベル。間違っても、お金を出して買うような本ではないと思います。養老先生は、「バカの壁」が売れて以降、ニュース番組などのコメンテーターとしてもひっぱりだこのようで、たまにTVで見かけると、あまりにも常識的で惚けた発言をしていらっしゃいますが、もうあの顔見るのは飽きました。
 同じ新潮新書の新刊なら、「死の壁」なんかよりも、谷沢永一「聖徳太子はいなかった」の方が、うんと面白かったですね。こちらの方は、立ち読みではなくちゃんと購入しました。もともと「聖徳太子は架空の人物」…というのは歴史家や主要な学会ではほぼ定説になっているのですが、それを「書誌学」という側面からわかりやすく検証しているのが面白いのです。
 その「聖徳太子架空説」ですが、私が知る限り大きく3つの説があります。1つは「モデルすら存在しない、まったく架空の人物」という説。次に「聖徳太子という名の人物は実在したが、後世知られている業績を行った人物ではない」という説。そして3つめは「用明天皇と穴穂部問人皇后の間に生まれた子供は実在したが、後世聖徳太子の業績として知られているようなことを行った人物ではないし、そもそも聖徳太子という"名前"が架空」という説です。私は、昔いろんな本を読んで、なんとなく3番目の説が正しいのではないかと思ったのですが、真実はわかりません。まあ聖徳太子は、山田長政や楠正成などと同じで、少なからず戦前の国家主義教育の中で意図的に虚像を作り上げられてきた人物です。本書が問題提起しているような「誰がこのフィクションを必要としたのか。その背景には何があったのか」については、想像するのは簡単です。昨今は、「新しい歴史教科書を作る会」などが聖徳太子実在説を唱えていますが、読んでみたらはなはだ説得力のない説でした。

2004/4/26

 イラク建国の経緯について書かれた、とんでもなく面白い本に出会いました。中公新書「イラク建国」(阿部重夫)です。侵攻したアメリカによる統治が行き詰る現在のイラク情勢を解題するためには、まさに「必読の書」と言えるでしょう。そして、内容の面白さは折り紙つきです。
 例えば、私が持つイラク建国からフセイン時代至る歴史についての知識としては、2003年1月3日の日記で書いたように、「第一次世界大戦によって、オスマントルコ帝国が崩壊。それまでオスマントルコによって支配されていたイラクは、トルコの崩壊とともに独立できず、代わってイギリスの支配を受けるに至った。第一次大戦直後の1921年、イラクはイギリスの委任統治領としてハーシム家のファイサル首長が国王となって中途半端な独立をした。その後、1932年にイラクは完全な独立を達成した。さらに1958年、イラクではファイサル2世に対する不満が高まり、カセム准将らによるクーデターが成功して、共和国となった。その時、現政権党であるバース党も革命政権の一部となった」…と、まあこの程度のものです。サイクスピコ協定や第一大戦後のイラクに関する多少の知識は持っていたつもりでした。T.E.ローレンスの「知恵の七柱」なども読んだことがあります。
 ところが、この「イラク建国」という本には、こんな上っ面で生半可な知識など霞んでしまうような、第一次大戦前後の知られざるペルシャとメソポタミアの姿、中東に取り憑かれた奇怪な登場人物たち、そしてすさまじいばかりの欧州列強の利権争いが描かれています。

 この本が描く時代は20世紀前半、舞台はペルシャとメソポタミア、そして物語の登場人物は絢爛です。
 イギリスからは、大英帝国植民地政策の最後の輝きを彩る面々。まずは説明するまでもないT.E.ローレンス、そして植民地相であった若き日のチャーチル、「アラビアのロレンス」になり損ねたウィリアム・シェークスピア大尉、そしてあの世紀のスパイ、キム・フィルビーの父親であるジャック・フィルビーも登場します。
 ドイツからは、アフガニスタンに使者と武器を送り、英領インドに対立・侵攻させようという「ツィンマーマン計画」の発案者、外務省のツィンマーマン、そしてヴィルヘルム・ヴァッスムスとオスカー・フォン・ニーダーマイヤーなど。現在のサウジアラビアからはサウード家やハシム家の面々。トルコからは、あのケマル・パシャやクルディスタンの英雄バルザーニ等々が登場します。
 第一次大戦前夜、英軍と、ロシアコザック兵に追われながら灼熱の砂漠を越えてアフガニスタンを目指すドイツ人ヴァッスムスとニーダーマイヤー、目的を達成できないまま帰路につき、ペルシャの地に残って長くイギリスを攪乱するヴァッスムス、そしてニーダーマイヤーがタクラマカン砂漠を越えてカシュガル、中国へと脱出するくだりなどは、まさに冒険小説そのままで、息を飲む面白さです。対トルコの謀略を実行したアラビアのロレンスの物語は広く知られていますが、ヴァッスムスらの活躍の面白さはそれ以上ですし、加えて「ベルリン-ビザンチウム−バグダッド鉄道」建設の経緯などについては、私は本書を読むまでは知りませんでした。
 しかしこの本の持つ本当の魅力は、知られざる中東現代史の面白さや、登場人物個々のエピソードの面白さ等の部分にあるのではありません。実はこの「イラク建国」という本は、ガートルード・ロージアン・ベルという1人のイギリス女性の、波乱に富んだ生涯を辿る物語なのです。
 イギリスの裕福な貴族の家に生まれたガートルード・ベルは、名門オクスフォードを卒業後、中東探検家としてメソポタミア、ペルシャの各地を巡ります。その過程で彼女は、蓄積した比類ない中東の地勢学的知識を買われ、いつしかイギリスの中東政策決定に重要な位置を占めるようになります。イギリスの中東政策を次々に決定していく彼女の手腕は、恐ろしくも美しい。1921年のカイロ会議でハシム家のファイサルを傀儡政権の長とすることを決め、ほぼ独断でイラクの国境線を定めたベルは、その時から「イラク建国の母」となります。後世に禍根を残すことを案じてクルディスタンの分離を主張するT.E.ローレンスに対して、ベルが「この青二才!」と啖呵を切るシーンには息を呑みました。
 本書の最後では、いくつもの恋に破れて孤独の中で自死するガートルード・ベルと、奇矯な行動を繰り返したあげく二輪車の事故で死亡するT.E.ローレンスの姿が、重なり合っています。

 これ以上詳しい話は、本書をお読み下さい。それにしてもイラクは、まさにイギリスによって「無理やり作られた国家」です。クルド人問題、トランスヨルダンの問題、パレスチナ問題、シーア派、スンニー派の対立…など、その全ての源流が、第一次大戦後のイギリスの統治政策にあります。聖廟都市ナジャフの歴史とイギリスの関与などにも詳しく触れられており、現在のアメリカの統治下で起きている、全ての問題を解題することができる本書の内容は、もう見事と言うしかありません。
 それにしても、近代国家へと変身したトルコによるクルド人弾圧を指して「均質化の抑圧」とし、それを「近代国家の宿痾(しゅくあ)」と表現する著者の考え方には、強い共鳴を覚えました。均質化こそが近代国家の本質であるならば、中東のイスラム社会、部族社会に近代国家はそぐわない…ということでしょう。先日のイラク人質事件で、人質へのバッシングの中に「日本人の極端な均質性」を見た私にとって、「均質化の抑圧」という言葉は新鮮でした。また「近代国家とは何か」についても、あらためて考えさせられました。

 繰り返しますが、これほど面白い「歴史書」には久しぶりに巡り会いました。しかも本書が安価な「新書」であることにも驚きます。著者の文章は歯切れよく、文体も表現も鮮やかです。もう絶賛するしかありません。出来る限り多くの方に読んで頂きたいと心から願う次第です。

 ところで、元「選択」の編集長である著者、阿部重夫の名は知っていましたが、不思議な感を覚えました。「選択」は「財界」と並んで月刊情報誌の老舗などと呼ばれていますが、その実は胡散臭い会員制月刊誌です。おまけにこの「選択」なる雑誌は、内紛でも知られています。阿部重夫は、編集方針をめぐるこの内紛の一方の当事者であり、解任されたはずです。元日経新聞の記者でもある彼が、こんな本を書いたということに驚きます。そういえば、ネット上でこんな文も見つけました。

2004/4/23

 垣間見た「一旗揚げたい」の思い…という安田純平氏に関するこの記事は、「人質の自己責任」を声高に主張する産経新聞のことですから、おそらく安田氏を貶める意図があって掲載されたものでしょう。しかし私はこの記事を読んだときに、あのベトナム戦争の報道でピューリッツァ賞を受賞した日本人カメラマン、沢田教一のことを思い出しました。
 青木富貴子さんが書いた「ライカでグッドバイ」は、私が報道カメラマン「沢田教一」に関心を持つきっかけとなった本です。沢田をよく知る周辺の人物に綿密な取材をして書かれたこの本の中に描かれていた沢田像は、「強烈な上昇志向を持ち、何が何でも有名なカメラマンになりたい、そのためになら何でもする」という人物でした。とは言え、寡黙で信義や友情を重んじる沢田は、その上昇志向のために他人を踏みつけにする…ということは決してしなかった人間です。三沢基地のアメリカ人から、アメリカの大学に進学させてやるから養子になって欲しいとの申し出を受けたこともある沢田は、同じ基地に勤めるサタ夫人と結婚し、お金も、なんのバックボーンもなく東京にでてきました。その後の報道カメラマンとしての沢田が歩んだ軌跡は、ある意味で「無茶」や「無謀」の連続でした。
 以前、本サイト内で沢田教一の写真集「泥まみれの死」について書いた時に、沢田教一夫人の沢田サタさんとお会いした経緯を書いたことがあります。その部分をここに再度掲載すると、次のような経緯です。
 「…あれは1986〜7年頃だったと思います。故沢田教一の夫人である沢田サタさんが、故郷の青森県弘前市郊外の自宅で『グルメさわだ』というレストランをひっそりと開店していると聞きました。当時ちょくちょく東北にバイクツーリングに出かけていたのですが、たまたま友人の女性とツーリング中に弘前を通りがかった折に、そのレストランのことを思い出しました。弘前の交番や駅の観光案内所などで場所を聞いたのですが誰も知りません。そうなるとどうしても行ってみたくなり、東京の雑誌社に勤める知人に電話をかけて調べてもらいました。やっと沢田サタさんの電話番号がわかって電話をして、食事ができますか?と聞くと、『本当は今日は営業しないつもりだったんだけど、わざわざ東京から来たのならどうぞ』と言って頂きました。それでその夜、沢田サタさんのレストランに彼女と出かけたわけです。訪れてみると、『グルメさわだ』は普通の一軒家でした。レストランっぽい外観は全くありません。案内されたのは、ごく普通の家の普通のダイニングルームでした。そこでサタ夫人と姪御さんによって、手作りの料理をいただくことになりました。サタさんが沢田教一とともに住んだアジア各地で覚えた料理とのことで、大変美味しくいただいたのを記憶しています。食事後には、沢田教一の写真集を見ながら、ベトナム戦争当時のいろいろな思い出や報道写真家という仕事について何時間も語って頂き、深夜に辞したのでした…」。
 その折にサタ夫人が、夫の教一について「写真家として名を挙げることを全てに優先した人」と、穏やかな目でおっしゃっていたのは印象に残っています。

 産経新聞に掲載された安田氏の言動は、どこまで本当のことかわかりませんが、「ファルージャに入れなかったのは痛恨なんです」という言葉は、フリーランスのジャーナリストの本音をよく表していて、私には好ましく思えました。
 聞くところによると安田氏は、信濃毎日の記者という経歴をお持ちのようですから、他の人質の方とは異なり、ジャーナリストとしての基本は身につけていると思います。まあ、「人間の盾」になった経験について論評するのはやめておきますが、「有名になりたい」「一旗揚げたい」という気持ちは、けっして非難されるべきことではありません。がんばって、立派なジャーナリストになって下さい。

 話は飛びますが、現在は米国に在住し、本人もジャーナリストとなっている青木富貴子さんが、世に出るきかけとなったのが「ライカでグッドバイ」でした。当時はまだプロのライターですらなかった青木氏が、沢田に興味を持ち、沢田の郷里から始まって周辺の人物を取材し、ニューヨークにあるタイム社まで訪れる経緯は、「ライカでグッドバイ」のあとがきにありましたが、こちらも非常に興味深いものでした。まだ若かった青木氏が、素人ながら熱意だけを頼りに懸命に取材を進めていったプロセスには、教えられることも多いです。この本をきっかけに青木氏自身もジャーナリストとなり、その後アメリカに渡って当代一流のコラムニストであるピート・ハミル氏と結婚する青木氏の人生の経緯は、これまた非常に面白いものです。

 …ああ、もうやめようと思っていたのに、また「人質問題」について書いてしまいました。

2004/4/22

 生きていくことが面倒…とまでは言いませんが、繰り返される日々の営みは時として面倒になります。例えば食事。まず箸でおかずを取って口に入れ、次いでまだおかずが口の中に残っているうちにご飯を口に入れ、合わせてもぐもぐと咀嚼をする。一回の食事の間に、こんな動作を何十回、何百回と繰り返します。もぐもぐと咀嚼している時に「なぜ自分は何十年間も同じ動作を繰り返しているんだろう?」と疑問を感じ、次いで「もう面倒くさい」と捨て鉢な気分になります。セックスだって同じ。気持ちがいいとか、そういうことよりも、ことの際中に「自分はなぜこんな虚しいことをしているのだろう?」という気持ちになった経験は、誰もがあるでしょう。歯を磨いているときに、せっせと歯ブラシを動かしている自分を鏡で見て、「なんだかバカみたい」と思ったりします。自転車に乗っているときに足を動かすのが面倒になったり、歩いているときに交互に足を前に出すのが虚しくなったり、ともかく人生は飽きるもののようです。
 そんな私の日常の中で、いまだ面倒にならないこと、飽きないことが3つあります。「寝ること」と「本を読むこと」、そして「人と話すこと」です。寝ているときには意識が無いので、面倒と感じないのは当然です。「本を読むこと」は、非日常の世界に入っていくことと同義ですから、これまた飽きないのは当然です。
 しかし「人と話すこと」に飽きないのは、あえて分析をすれば、私という人間の才能であり美徳でもあると、勝手に思う次第です。なぜか私は、人と話している時間が好きだし、よほど特殊な状況じゃない限り、話すことを面倒だと感じることもありません。
 メシを食うためにやっている日々の仕事なんて、とっくの昔に飽きているのですが、「話すことが好き」ゆえに仕事を続けていられます。第一、人と会うこと話すことに飽きていたら、他にはたいして面白いこともないし、とっくに首を吊っているかもしれません。

 今夜は、なんか旨いものでも食おうと思います…

2004/4/21

 軽量・コンパクトなデジカメを賛美して止まない私ですが、ここ1週間ほど3万円で買った高倍率ズーム機「C-755」にハマっています。特に200〜300oあたりの望遠域の描写が面白く、街中でいろんな被写体を撮っています。スナップ撮影にズームは不要、単焦点カメラが使いやすい、望遠よりは広角レンズが好き…などとサイト内で何度も公言してきた私が、あたかも「宗旨変え」をしたかのようです。まあ、朝令暮改は日常茶飯事、節操がないのは美徳と考えている私ですから、宗旨変えは別に珍しい話ではありません。
 冗談はさておき、やはりスナップは広角系の単焦点に限るという持論に変化はありませんが、けっして望遠レンズが嫌い…というわけでもありません。特に中望遠レンズのボケ味はけっこう愛しています。かつてPENTAX「MX」を持ってアメリカを大陸横断をしながらを写真を撮りまっくった時には、コンパクトな135o F3.5はよく使いました。また、タムロン90mmマクロ(最近デジタル一眼レフ対応版も登場したので購入しようと思っています)なんてのも好きなレンズで、マクロというよりも取材用のポートレート撮影なんかにも使っていました。ただ、銀塩時代のスナップ広角レンズや標準レンズを多用したのは、やはり広角レンズの暗さと手ブレ対策が面倒であった…ということが大きな理由です。つまり、スナップとは言え望遠域で撮影するとなると、手ブレやピント合わせ(マニュアル専門でしたから)に留意せざるを得ず、それなりに被写体を切り取るために時間を要するのが面倒なわけです。また、望遠域は広角域のスナップよりも失敗写真の可能性が高く、撮影直後に画像を確認する術のない銀塩カメラの時代にはリスクを伴いました。旅先などでの貴重な画像であればあるほど、広角側の写真の方がリスクが少なかったわけです。加えて、フィルム代や現像代もバカにならなかった時代です。
 ところが、デジカメの場合は望遠域での撮影が、銀塩カメラに比べて圧倒的に楽になりました。以前も書いたように、撮像素子の面積が小さいゆえに光学系を小さくできるメリットがあるのはむろん、望遠側の撮影でも失敗を恐れずにバンバン撮れるわけです。撮影画像もすぐにモニタで確認できるし、そんなことしなくても大事な画像なら5〜6カットぐらいは一気に撮っちゃえばいいわけですよね。こんなことから、銀塩カメラ時代にはあまり考えられなかった、200〜300oあたりの画角を多用しての街角スナップ…なんて遊びができるのです。…といわけで、宗旨変えってわけではないのですが、飽きるまでは高倍率ズーム機で遊ぶつもりです。

 イラク邦人人質事件に関するマスコミ報道の洪水にも、人質とその家族へのバッシングにも、逆に人質事件を材料に喚きたてる反政府勢力や野党勢力にも、そして空港に出迎えて妙な抗議行動をする若者にも…、何もかもがうんざりです。だからもうイラク邦人人質事件について書くのはよそうと思っていたのですが、気になることがあるので、最後にひとこと…
 自己責任論の是非についての論争が花盛りです。そこへもって、フランスのルモンド紙が自己責任論を批判したため、論争はますます混迷しています。何度も言いますが、こんなつまらない話で、米国の占領政策に協力することの是非、自衛隊派遣の是非…といった本質的な問題がうやむやになるのは非常にまずい事態でしょう。ところでネットなどを見ていると、救出にかかった費用が数十億円なのに、1人あたり数十万円しか請求しないのはおかしい、税金を返せ…、といった意見がけっこう多いのですが、まあそれはそれととして、どうもわからないことがあります。こんな程度の話でムキになって「自己責任を取れ」「税金を返せ」と言っている人達が、もっと重要な問題、もっと高額の税金の搾取や流用事件で、当事者の「自己責任」を曖昧にしているからです。
 例えば、天下り先確保のために年金の掛け金を使って誰も利用しないリゾート施設を作り、数千億円を平然と無駄遣いした厚生官僚、同じく年金の掛け金の投資に失敗して数兆円の損失を出した厚生官僚、通行料収入だけでは永久に建設費を回収できないような橋をたくさん架けて何千億円、何兆円もの損失をもたらした建設官僚、毎年毎年公金を好き放題搾取しながら誰も責任を取らない警察官達、そういえば外務省公金詐取事件も責任を曖昧にしたままです。こうした事件で、決定にあたって責任を取るべき立場にいる人たちにこそ、まず「自己責任」の何たるかを問うべきでしょう。官僚や公務員は、まず「自己責任」を問われません。せいぜい「訓告」だの「戒告」だの意味不明の賞罰でお茶を濁すだけで、損害賠償を請求される例などごく稀です。ゆえに彼らは、非常に無責任に誤った決定を下します。
 人質への経費請求の是非はともかく、こんなことを大問題にして騒ぐのなら、税金や公金から数十億円どころか、数千億、数兆円の損害を与えた官僚・公務員に対して、誤った政策決定をした「自己責任」を厳しく問い、「私財を投げ出して損害を弁償しろ」と声高に主張する方が、より重要なことではないかと思うのですが。少なくとも、人質を空港に出迎えてプラカードを掲げて抗議する…なんてヒマなことをやっているよりは…。

2004/4/20

 私、最近、けっこう「あやや」のファンです(日本語、変?)。別に深い理由はありません。「ポッポあやや」のCM、かなり気に入ってます。ときどき、TVを見ながら一緒に踊ってます。

2004/4/19

 解放された人質3人は体調が悪いそうです。人質およびその家族に対するバッシングが止まない状況下では、弁護士の同席もPTSDの診断も、まあ当然といえば当然です。「逃げている」との非難の声が轟々ですが、まあここはそっとしておいてあげましょう。
 実は昨夜、大手新聞社の記者を務める友人、某月刊誌の編集部にいる友人と3人で話す機会がありました。今回のイラク人質事件に関して、いろいろな内輪話やマスコミ内部の噂話を聞くことができたので、書いて起きます。むろん、事件の全貌についてはいまだわからないことが多いそうですし、ここに書く話も現時点では「未確認情報」だそうです。
 まず、人質解放にあたって「実質的な身代金」が払われたことは、既にマスコミや関係者なら誰もが知っている話で、一応の緘口令が敷かれているとのこと。ただし、一部で噂になっているような「聖職者協会に数億円〜十数億円を支払った」などという安易で単純な形で支払われたのではありません。また政府が直接支払った形でもないそうです。やはり「金で解決」というのは、もっとも国際的な非難の的になりやすいですから、政府が表に出ない形を模索したのでしょう。情報料の名目で地域の部族長や一部仲介者に数千万円程度の金がばら撒かれた他、NGO経由などで援助名目の資金を約束するなど、かなり複雑なルートで数億円程度が払われるとのこと。この「実質的な身代金」についてさらに詳しい話も聞いたのですが、「とりあえず書かないで欲しい」とクギを刺されました。
 また日本政府は、人質解放までという時間を限定した上で、外交ルートを通じてファルージャでの停戦や軍事活動の縮小を米国に働きかけたことも事実のようです。ただし、同じ人質事件を抱えるイタリアをはじめ、戦火の拡大を懸念する欧州諸国やアラブ諸国なども同様の働きかけを行っており、日本の働きかけがどこまで意味を持ったかは疑問。アメリカがファルージャでの停戦に傾いたのは、「武装氾濫がイラク全土へ飛び火して収拾がつかなくなることを自国の問題として恐れた」からであって、日本やイタリアの働きかけに耳を傾ける余裕などなかった…とのこと。当然ですよね、自国兵がこれだけ犠牲になりつつあり、撤兵延長による増兵に対する国内からの批判も高まって、尻に火が点いているブッシュ政権にとって、日本人の人質問題なんてどうでもいい他人事でしょうから…
 いずれにしても、こうした身代金の支払いや外交努力など日本政府の活動が効果をあげて人質が解放されたのか…といえば、けっしてそうとは言い切れないそうです。政府の活動の効果が全くなかったわけでもないでしょうが、やはり、あらゆるチャンネルを通じての家族・知人や民間のNGOらのスタッフによる必死のアピール、すなわち「人質の3人は純粋にイラク人を助けるために来ている」「人質の3人は政府の自衛隊派遣に反対する立場」という訴えが、犯人側の耳に届いたから…というのが、もっとも妥当な釈放理由だと思われるそうです(自作自演ではないにせよ一種の出来レース…という説が出る理由もこのあたりにあります)。確かに、事実上のアメリカの傭兵であったイタリア人は殺害したが、反イラク戦争の立場をとるジャーナリストやNGO活動家などは釈放されています。人質の処遇を明確にすることでメッセージを送る…という、誘拐犯人とその後ろにいる人達の側の基本スタンスからみて当然でしょう。日本の人質は5人とも、「生かしてメッセンジャーに使う」のが有効と判断されたわけです。
 しかし政府は、今回の人質およびその家族、そして今回の人質問題を政治的に利用しようという層に対しては、「実は一種の身代金を払ったんだ」「これだけお金を使ったんだ」「これだけの外交努力したんだ」…という部分を、「黙らせるための切り札」として、既に使っているでしょう。特に「身代金(…らしき情報料)の支払い」は、国際的には隠したいことでも、人質および家族に対しては、反政府的言動を封じるためにきわめて有効な手段になるはずです。身代金が本当に効果があったかどうか…なんて、誰にもわかりませんから。

 さて、こうした状況にあってなお、「事の本質を見誤ってはいけない」と思います。
 まず、はっきりとさせておきたいのは、被害者および家族に対する「自己責任」大合唱は間違いだということ。私は、自己責任という言葉を安易に使って「国の責任」を曖昧にしてはいけないと思っています。被害者達に自己責任がないと言っているのでもないし、国は国民に対してどんな義務を負うか…と言う意味での国側の責任を問うているのでもありません。ここで言う「国の責任」とは、もとより「理由も無くイラクを侵略し、統治しようとしたアメリカの政策に追随した責任」と「人道援助と言いながら"軍隊"を派遣した責任」です。政府要人がこぞって被害者の自己責任問題を言い始めたのは、「本質的問題」から遠ざけることが目的であったのですから、それに乗ってはマズイでしょう。
 米国のイラク侵略が誤っていたことについては、今さらわざわざ理由を挙げて説明する必要すら感じません。人道援助に軍隊派遣は誤り…という点については若干の説明を要します。昨今は、危険地帯の活動のノウハウを持つ民間団体がたくさんあるし、欧米ではNGOに国家の政策の一部を負担させるのは常識です。確かに自衛隊が「自給自足・自己完結型の軍隊」であるからこそ災害救助や今回のような援助に有効…という理由は一理あります。しかし、他国の領土に軍隊を踏み込ませる…ことの意味は、やはりそれ以上に大きい。占領されている側からすれば、「軍隊を派遣される」ことは、とてつもなく大きな意味を持つことです。今回、もし日本が人イラクで道援助をやりたいのであれば、アフガニスタンで一定の実績を持つジャパン・プラットフォーム(JPF)の枠組みを発展させるなど、「軍隊派遣」以外の方法が適切だった…と考えます。

 さて、ここからは微妙な話に入ります。私は自分が自己責任の大合唱に加わることを戒めてきたし、「国の政策に反対するヤツなんて助けなくてもいい」という馬鹿野郎達の主張は強く批判してきました。「国を想う気持ち」が、「国の政策に何でも賛同すること」と同義ではないのは自明です。さらに、「共産党一家」だの「金持ちの不良娘のなれの果て」だの、あることないこと書きまくった低次元のマスコミにも呆れます。さらに、世論の名を借りて「特定の人間をバッシング」するたくさんの無名の市民の見苦しい姿にも、少なからず戦慄を覚えました。
 しかし私は、今回の人質およびその家族の言動や対応行動は、「政府のイラク問題責任追及」を行う上で逆効果となり、実にまずかったと思います。そして、誤解を恐れずに言わせてもらえば、人質になった人達の「質的な低レベル」が、話を面倒にしたと思っています。今回の人質(特に最初の3人)は、実に「突っ込まれやすい人達」であり、これは彼らの人間的な資質によっている部分が大きい…と考えています。
 今回の人質3人について一言で感想を言えば、自己満足を第一に考える「モラトリアム型人間」、さらには「ピーターパン・シンドローム」的な雰囲気が濃厚です(後で誘拐された2人については別に書くつもりです)。こうした印象を受けたのは、私だけではないはずです。
 18歳の今井紀明少年は、NGO関連サイトで過去の発言などを丁寧に読んでみましたが、「劣化ウラン弾の被害を訴える」に至った経緯と必然性はかなり安易です。そして、「絵本を作る」という方法論は非常に安易です。志は別に悪いことではありませんが、方法論は幼稚だし、発言内容も行動内容は頭でっかち。18歳ならもっと勉強すべきこと、自分の立場を固め、スキルをアップするための活動が選択できるはずです。周辺の人達の意見にも首を傾げるものが多いのが、さらに気になります。34歳の高遠菜穂子氏の「イラクのストリートチルドレンを個人の活動で救う」…、これまた立派な志ながら、運動の持続性と有効性を考えての行動とは思えません。高遠菜穂子氏による、他国でのこれまでの活動も似たり寄ったりです。JVCのイラクにおける持続的で献身的な活動などと比較すれば分るとおり、足が地に付いた援助活動とはこんなものはないはず。また、実績があり人材を求めている国際NGO組織なども多数ありますから、こうした組織に参加する方向でも有効な活動はできたはず。こうした活動との比較が、彼女のボランティア行動に「中途半端な自己満足」の感を持たざるを得ない理由です。フォトグラファーという32歳の郡山総一郎氏は、まだまだ「自称ジャーナリスト」の域を抜けてはいません。半端な年齢とキャリアで、職業としてジャーナリストを選択したのなら、もう少し足が地に付いた次元の高い行動を志して欲しいですね。
 私は、けっして彼らの「志」そのものを非難するわけではありません。しかし彼らの中途半端な活動への現実的な評価となると、なんとなく「一歩引いて」判断してしまいます。そして、彼らの「安直な自己満足に酔う姿」、そして彼らを取り巻く人間の「ボランティア=善」なる単純な思い込みの胡散臭さ等が国民の多くに見抜かれていた故の冷たい視線…が、今回のバッシングの中に含まれていたことは確かでしょう。
 比較するもの失礼ですが、同じように「個人でボランティア」を志したケースとして記憶に新しいのが、先日松本市長となった元信州大学医学部助教授の菅谷医師。彼が政治家になった現状に一抹の不満はあるものの、社会的地位を投げうって自分にしかできない専門知識と技術を持って放射能で汚染されたベラルーシへ向かい、ミンスクの国立甲状線ガンセンターで数多くの甲状腺ガンの手術を行って子供たちの命を救い、さらには現地医師に手術法を教えて人材まで育てた菅谷医師の活動とその後の援助発展経緯などを見るとき、「ボランティアの質」や「個人の資質」なる言葉を口にしたくなるのです。
 今回の人質になった彼らも、せっかくの「人の命を助ける」という尊い志を「持続的で有効な形」で実現するために、「大人の考え方」を身につけて欲しいと考える次第です。

 とりあえず5人の人質問題は無事解決しましたが、「内戦化が進むイラクの現状」も「対米追随政策で泥沼に嵌りつつある日本の現状」も含めて、本質的な問題は何も解決していません。

2004/4/16

 「米ポルノ映画業界、男優のHIV感染で打撃」…というニュース、ちょっと驚きです。「ポルノ男優や女優が撮影に参加するにはHIV検査での陰性反応が義務付けられているが、避妊具を使用する出演者は全体の約17%にとどまっている…」とあります。アメリカのポルノ映画の多くは、コンドームなしで撮影してたんですね。恐ろしいことです。

 「高校生の性 都市と差なし 高岡郡などの中高生」…というニュース、なんのためにこんな調査をやっているのか、よく理解できません。調査結果も、調査をやるまでもなく当然予想される通りです。いまどき、老若男女を問わず、その性行動に都会も田舎もありません。高校3年女子は48.3%(東京45.6%)と半数近くが「経験あり」と回答した…とありますが、私の高校時代よりはちょっと高いかもしれませんね。ちなみに、私自身はいつも女の子と遊んでいた割に奥手で、高校3年生の終わり頃、もう卒業近くなってやっと「性交渉(笑)」なるものを経験しました。高校卒業直後、大学に入る直前の春休みには、実にいろいろなことを体験して新鮮だった記憶があります(こんなこと告白してどうするんだろ…)。

 漫画家の横山光輝さんが亡くなりました。残念です。彼の作品「伊賀の影丸」は非常に印象に残っています。なんなって、小学校低学年の頃に手裏剣投げるまねをしながら「伊賀の影丸ごっこ」をやった記憶があります。他に、昭和30年代の終わり頃の漫画で今でも印象に残っているのは、小沢さとるの「サブマリン707」、ちばてつやの「紫電改のタカ」、石森章太郎の「ミュータント・サブ」や「サイボーグ009」あたりですね。中でも「サブマリン707」は大好きでした。
 昭和40年代になると、大人の雰囲気がする漫画にあこがれました。石森章太郎の「佐武と市捕物帳」、さいとうたかをの「無用之介」、モンキーパンチの「ルパン三世」、永島慎二の「フーテン」あたりでしょうか。…あれっ、なんか年代が混ざってはっきりしません。
 高校時代には、薄暗い「ロック喫茶」(昔はそんなものがあったんですよ)の片隅で、ピンクフロイドとかツェッペリン聞きながら「ガロ」読んでました…

 古館伊知郎は、ニュース番組(報道ステーション)の司会は、かなり厳しいですね。前のニュースステーションも、そして久米宏という司会者も特に好きではなかったので、以前から自宅ではほとんど見ていませんでした。でも、たまに家人が見ている時など一緒に見ていると、久米宏の司会はコメントのつまらなさはともかく、それなりに安心して見ていられました。
 新番組の報道ステーションは、行きつけのお店のTVでかかっていたのを見ましたが、妙な「力の入り具合」が伝わってくるので、見ていて(聞いていて)息苦しくなります。とてもじゃないけど、長時間見る気はしません。最悪だったのは誘拐事件発生の翌日に人質の家族が登場した時ですよね。あれ、飲み屋(ハルピン水餃子)のTVでボンヤリ見てましたが、妙にリキんでてひどかったですね。報道ステーションは、もう長くない感じです。
 それにしても、その報道ステーションで人質の家族が出演していたとき、森山直太朗の「さくら」をかけてた演出はひどかったですね。私、森山直太朗の歌は嫌いです。新曲の「生きとし生ける物へ」は特にひどい。感動を強制されているような歌い方と、やすっぽい歌詞は不愉快です。

2004/4/15

 グレッグ・パラスト「金で買えるアメリカ民主主義」(角川文庫)は、今回の文庫化を機会に、とりあえず読んでおいても損はない本でしょう。アフガニスタンを爆撃し、イラクを攻撃・占領し、今日またイスラエルによるヨルダン川西岸の一部ユダヤ人入植地の存続を公式に容認したアメリカが、自らの行動の規範としてお題目のように唱え続けた「民主主義」なる言葉の実態が、これほど明確に書かれた本も少ないでしょう。
 アメリカという国は、なんとしても「アメリカ的価値観」や「アメリカ的情報システム」「アメリカ的資本市場優位性」などを、世界標準として広めたいようです。アフガニスタン、イラクと続く現在の狂気のような軍事力行使は、テロとの戦いの必要性、大量破壊兵器の拡散防止の必要性などといった話以前に、アメリカ的価値観を認めない国を地教上から無くしたい…という強い欲求の現れに相違ありません。現在の軍事力行使は、「グローバリゼーション」を進めるアメリカの姿です。
 グレッグ・パラストは本書の中で、その「グローバリゼーション」なるものの実態をも明らかにしています。中でも、「資格要件、資格の審査に係る手続、技術上の基準及び免許要件に関連する措置がサービス貿易に対する不必要な障害とならない」と規定する、GATS第6条(国内規制)、第4項の持つ意味を鋭く批判している部分は、もっとも面白く読み応えがあります。

 そういえば、ヨルダン川西岸の一部ユダヤ人入植地の存続容認に対して、ハマスは「パレスチナ人に残された道は武力による抵抗しかないことを証明するものだ」との見解を示しました。パレスチナの和平は、もう絶望的な段階に入りつつあるようです。世界は、さらに混迷の度を増そうとしています。イラクで誘拐の被害者となった日本人と家族の方々についてはお気の毒ですし、無事に開放されることを祈りますが、イラクのファルージャやパレスチナでは、現在進行形で、桁が違う数の非戦闘員が殺されつつあります。今回のイラクにおける邦人誘拐は、日本人にとっては「痛い事件」ですが、これが多くの日本人が中東をはじめとする世界情勢に目を向けるきっかけとなっったとすれば、いくばくかの救いを見出すことができます。

2004/4/14

消えたメダカの謎


 15年ほど前からベランダでメダカ(緋メダカ)を飼っていました。春になると大量に卵を産むので、水草ごと別の水槽に移してやり、育ったメダカは石神井公園の池に放す…ということを繰り返して、水槽のメダカの数を10匹程度に維持してきたのです。
 ところが、数年前ぐらいから生まれたメダカがすぐに死ぬようになりました。これは、最初に買った数匹のメダカを元に毎年近親交配を繰り返してきたので、弱くなったのでしょう。昨年秋には、とうとう1匹もいなくなってしまいました。で、少しだけ水が入ったままの水槽が、そのままベランダに放置してありました。
 1ヶ月ほど前、糸のような藻がびっしりと繁殖した汚い水槽を放っておくのはよくないので、掃除しようとしたところ、繁殖した藻の隙間にかすかに動くものを見つけました。なんと、3センチぐらいしかない汚い水の中、しかもクモの巣のようにびっしりと繁殖した藻に囲まれてほとんど身動きできない状態の中で、1匹のメダカが生きていたのです。
 驚いた私は、早速バケツにいっぱいのひなた水を作り、その生き延びたメダカを移しました。メダカは元気に泳ぎ始めました。

 さて、メダカが1匹ではなんとなく寂しい…と思った私は、この前の日曜日に、近所のペットショップで4匹のメダカを買ってきました。しかも、初めて「白メダカ」なる品種を買ってきました。1匹200円もしました。
 一緒にカナダ藻も購入し、水槽に洗った小石を敷き詰めて、藻を入れて、4匹の白メダカと、劣悪な環境で生き延びた1匹の緋メダカを放しました。なぜか、白メダカは水槽の底の方、緋メダカは水面に近いところ…と分かれて、5匹のメダカは元気に泳いでいました。この状態を確認したのが今週の月曜日、一昨日のことです。

 今朝、仕事に出る前にベランダのメダカの様子を見てみました。すると、どう勘定しても全部で4匹しかいないのです。緋メダカはいますが、4匹いるはずの白メダカが3匹しかいません。共食い?…、私が知っている限り親メダカ同士ではそんなことはしません(孵化したてのメダカは食べちゃいますが…)。ペット禁止のマンションの6階のベランダですから、猫が来て食べた…ってこともないでしょう。カラスにでも捕られたのでしょうか。ともかく不思議です。白メダカ1匹は、いったいどこに消えたのでしょうか。

2004/4/13

 今日は新コンテンツを掲載しました。実売価格3万円の高倍率ズーム機 オリンパス「C-755」…です。
 格安価格の高倍率ズーム機のインプレッションですので、興味のある方はどうぞ。

2004/4/12

 今日は、まったくとりとめのない話を…

 オフィスで仕事で使っている自分のマシンを交換しました。3GHzのCPUが当たり前というこの時代に私は、なんとCeleron850MHzというプアーなマシンを使い続けていたのです。それも、Celeron450+HDD 20GBというスペックで3年前に自作したWindows2000マシンを、CPU、メモリ、HDD、CD-Rなどを増設しながら使ってきたもので、CPUはマザーボードの制約でこれ以上アップできなかったのです。その愛着あるマシンを、とうとう交換することにしました。で、いつもなら自作するところですが、今回は多忙で自作するのも面倒。オフィスのマシンとしてはここ6〜7年間で初めて市販マシンを購入することにしました。
 で、購入したマシンがこちらで、マウスコンピュータ「Lm-i300」というシロモノ。Celeron2.6GHz、メモリ256MB、HDD 80GB、CD-RW/DVDコンボドライブで39,800円でした。自作と大差ない値段です。FDDは無しですが、代わりに前面に6種のメモリカードに対応するリーダーを搭載しています。このマシンをベースに、メモリを512MBに増設し、HDも増設(依然使っていたマシンのCドライブをスレーブに増設)して使い始めました。あとは機会を見て、適当なビデオカードを入れるつもりですが、今のところはオンチップのProSavageで十分です。私は、個人的なマシンとしては、2GHzを上回るCPUを使うのは初めてなので、実に快適に動作しています。それにしても、パソコン雑誌にモノを書いたり、ソフトハウスを自営していたりするのに、Celeron2.6GHzマシンを使って喜んでいる自分がカワイイですね。

 笹本稜平「時の渚」(文春文庫)を読了しました。ある老人の過去を探る探偵と、その老人の過去が自分の過去と交錯していくプロセス…が、なかなか面白かったですね。笹本稜平といえば、私も読んだ「ビッグブラザーを撃て!」(光文社文庫)や「天空への回廊」など、国際的な背景を持つアクション小説などで知られていますが、第18回サントリーミステリー大賞を受賞した事実上のデビュー作がこんな渋い作品だったとは知りませんでした。こっちの方がズっといいですね。今後もこの路線の作品を書いて欲しいものです。
 ところで先日、同じ文春文庫の新刊ミステリーで、デイヴィッド・ローゼンフェルト「弁護士は奇策で勝負する」も読みましたが、この作品も意外な収穫でした。この作家の作品は初めて読みましたが、面白かったです。この作品もやはり、「過去を探る」がテーマになっています。ジョン・グリシャムの作品を訳している白石朗が本作品も訳しているのですが、これはちょっと饒舌っぽさが鼻につく感じ。いやこれは訳のせいではなく、もともとの作者の文体が饒舌なんでしょうね。1人称の作品にはありがちです。この点だけが、ちょっとひっかかりました。

 両作品に共通する「知られざる過去が徐々に明らかになっていく」…という話の展開、私は基本的な好きです。この手のストーリーで思い出すのは、トマス・H・クックの「過去をなくした女」。ニューヨークを舞台に、成功したユダヤ人の女性が貧困から這い上がる過去を主人公が暴いていきます。クックの作品の中ではベストとはとても言えませんし、中南米を舞台にしたちょっと荒唐無稽なプロットも登場しますが、それでも魅力的で好きな作品です。

 CBSソニー出版「CBGB伝説 ニューヨーク・パンク・ヒストリー」なる本、私にとっては貴重な本でした。ところが以前購入して、ある事情で他人に貸したらそのまま帰ってこなくなり、そのうち本自体が絶版になって入手をあきらめていたのです。まあ初版が1990年ですし、あまり売れるタイプの本じゃないでしょうから、絶版も無理ないかもしれません。で、この本、古書検索サーチエンジン「スーパー源氏」で見つけました。「湘南股旅堂」なる珍妙な名前の古書店ですが、音楽関係の本の在庫が豊富で、注文後の対応も丁寧で迅速でした。ほとんど傷みのない程度のよい古書を入手できました。

 それにしても、このニュースにはちょっと驚きました。野村総研時代からスマートで知的なイメージを売り物にTVに出まくり、早大大学院の公共経営研究科教授の座をゲットした今をときめく経済評論家です。女性には不自由しなかったと思うのですが、こんな趣味があったとは…。あっさり人生を棒に振りましたね。

2004/4/9

 2輪車のAT限定免許が実施導入されそうです。まあ、私のようなバイク好きにとっては、スクーターがどんなに高性能になってもスクーターとバイクは異なる乗り物であり、2輪のAT限定免許は合理的な話だと思います。

 ところで、昨今ブームの高性能大型スクーターの「AT」は、基本的に4輪車で使われるCVTと同等の機構を備えていますが、バイクのAT、すなわち自動変速機構には、様々な方式が試みられてきました。
 昔から一番馴染みがあるのが、長い間小型スクーターで使われてきた、「ベルト無段変速機」などと呼ばれる機構です。Vベルトを使用したオートマチックトランスミッションで、これはプーリーとウエイトローラーを内蔵するスライディングシーブ、そしてドライブベルトから成り立っています。前後のプーリーがドライブベルトによって連結され、その対になっているプーリーの幅で、変速比を変化させているものです。1976〜7年頃から、各社のスクーターに採用され始め、ポピュラーな無断変速機能となりました。
 その他、スーパーカブなどの実用車に古くから使われている「遠心クラッチ」も、一種の自動変速機構と言えます。カブなどでは、足踏み式のシーソー式変速機と組み合わせて「クラッチレス機構」として使われていますが、現代の大型スクーターの変速機構の一部にも遠心クラッチが使われています。

 さて、日本のバイクの歴史を見てみると、これらポピュラーな2輪車用AT機構とは異なる、もっとユニークな自動変速機構を採用したAT 2輪車が市販されたことがあります。
 まず思い出すのが、1977年にホンダが発売した「CB750 EARA(エアラ)」です。空冷4スト、SOHC、インライン4というエンジンレイアウトのCB750 EARAは、流体トルクコンバーターを使いった「ホンダマチック」という自動変速機を2輪車として初めて導入した市販車でした。このホンダマチックは、4輪車のCIVICやACCORDで実績がある☆(スター)レンジ式の変速機です。その後このホンダマチックは中型2輪免許ユーザ向けに、「Hawk CB400AT」(1978)に採用されましたが、全く売れませんでした。当時、たまに公道を走っているのを見ましたが、ちょっとアメリカンっぽいポジションの妙なカッコ悪いバイクだったという記憶があります。  そして、もっと古い時代、おそらく日本で始めて本格的なトルクコンバーターを搭載した2輪車が、ホンダ「ジュノオ」です。
 まず1954年に発売された「ジュノオK型」が、ホンダ初のスクーターでした。強制空冷4ストのOHVシングル、189ccというスペックでした。この初代ジュノオは短命に終わりましたが、1960年代に入ると、当時売れに売れていた富士重工のスクーター「ラビット」に対抗するため、ホンダは1962年に2代目ジュノオ、「ジュノオ M80/M85」を市場に投入しました。この「ジュノオ M80/M85」こそが、イタリアの企業からライセンスを受けた油圧の「パダリーニ流体自動変速機」なるものを採用していたのです。
 ジュノオM80/M85のエンジンは空冷4ストのOHVボクサーツインで、排気量はM80が125cc、M85が170ccでした。M85は12psで最高速度は100km/h近く出たそうです。
 この「パダリーニ流体自動変速機」は重量が重く、しかもパテント料が高いので車両価格も高くなってしまいました。さらにメカニズムが複雑過ぎて整備が難しかったことなどから、ジュノオM80/M85はあまり売れずに発売後1年ほどで生産中止になりました。まさに「時代を先取りし過ぎた」スクーターでした。
 私がバイクに乗り始めた1970年代には、富士重工のラビットは、かなり街で見かけることがありました。しかし、ホンダのジュノオは実際に走っているのを見たことがありませんでした。
 面白いのは、このジュノオM85のエンジンレイアウトがボクサー、すなわち「水平対向」で、ライバル車のラビットが2サイクルエンジンを採用していたことです。現在は、ボクサーといえば、富士重工を代表するエンジンレイアウトですから、不思議なものです。そういえば、三菱自動車工業も終戦直後から「シルバーピジョン」というスクーターを作っていました。シルバーピジョンは変速機構としてVベルト式自動無段変速機を採用していましたから、日本のスクーターのVベルト式無段変速のルーツはこのあたりでしょうか。

 ジュノオで失敗したホンダが、その後スクーター市場に再参入するのは1980年の「タクト」からであり、実に18年の歳月を要します。

2004/4/8

 ライターにしても、プログラマーにしても、私の周囲でパソコン関係の仕事をしている人間には、「ともかくパソコンは安く買う人」と、「値段を惜しまずともかく気に入ったスペックの製品を購入する人」に分けられます。むろん前者については、ただ安く買うというのではなく、ハイスペックの製品を安く買う…のが基本です。そして後者については「やたらハイスペックの製品を購入する」というのではなく、「自分にとって必要なスペック」にこだわった上で値段を惜しまない…というのが基本です。そして、こうしたタイプ分けが成立するのは、特にノートPCにおいてです。しかも、私が見るところ「どんな携帯用ノートPCを所有しているか」には、もっとも「業界人としてのこだわり」が反映されるようです。
 さて、前者の「ともかくパソコンは安く買う人」が購入するノートPCは、やはりDELL、HPが多いのは当然です。そして、B5携帯用ノートになるとエプソンダイレクトやAcerなどの台湾製PCを購入するのも、業界人的なこだわりを感じさせるようです。逆にSOTECあたりはいくら安くてもあまり人気はありません。ともかく安く…という人は、現時点でのB5携帯用ノートの購入予算を12〜3万円あたりにしているようです。
 後者の「値段を惜しまずともかく気に入ったスペックの製品を購入する人」が支持する「こだわりの携帯ノートPC」としては、日本IBMの製品に圧倒的な人気が集まっています。SONYのVAIOを支持する業界人もいますが、VAIOには多少シロートっぽさが漂うのに比して、日本IBMの製品はその質実剛健ぶりが好まれるようです。パソコン雑誌の編集者なども、IBMのノートを持っている人が多いように感じます。次いで最近は、松下電器の携帯用ノートPCにも業界人の支持が集まっています。その圧倒的な携帯性と、2スピンドルへのこだわりが高い評価を得ているのでしょう。その他、東芝とシャープの携帯用ノートPCを持つ業界人も比較的多いようです。東芝製ノートは一時ほどの業界人受けはないのですが、やはり信頼性の高さが支持されています。シャープ製ノートの場合は、液晶画面の見易さに対する支持でしょう。そして、業界人に不人気なのはNECや富士通の製品で、これは今も昔も変わりません。いずれにしても、スペックに妥協しない業界人が購入するB5携帯用ノートの予算は、概ね25〜30万円前後です。

 で、私はといえば、どちらのタイプでもありません。以前は携帯用ノートPCはIBMか東芝と決めていました。これは、海外で使うことが多かったため、海外でもサポートと内蔵モデムの海外での動作を保障しているこの2社がよかったのです。
 最近ではどのメーカーの製品でも海外対応に問題はないので、適当に安い製品を購入しています。先日の出張に使ったのは業界人好みからは外れるNECのB5ノートで、逆に「業界人っぽくない」ところが気に入って使っています。

 今日は、信濃町の某大学病院でノドの検査。「あ〜」なんて声を出しながら、ストロボスコープで声帯を見るわけです。何か状態が改善しているとのことで、予定していた手術はしばらく延期し、定期的に様子を見ることになりました。ホッとしました。それにしても、自分の声帯の鮮明な画像をモニタ画面で見せられるのは、けっして気持ちのよいものではありませんね。

2004/4/7

 昨日海外出張から戻ってきましたが、過密スケジュールだったのでさすがに疲れ、昨夜は死んだように8時間眠ってしまいました。私はこの日記やサイト内でほとんど自分の仕事について書いたことがないのですが、今回の仕事はちょっと面白かったのでちょっと触れてみます。
 さて今回の出張先は台北とバンコクで、仕事内容は「台湾に拠点を持つ欧米系資本の某EMSメーカーの、日本企業向け営業戦略に関するコンサルティング」…といったものです。…まあ、こんな書き方をすると何だかモノモノしい仕事のようですが、要するに日本のメーカーからの仕事を増やしたい外資系EMS企業の日本向け営業戦略立案をお手伝いする…というものです。日本向けのパンフレットや営業資料の作成を受託している某広告代理店スタッフと一緒に、台北にあるヘッドオフィスとバンコク郊外にある製造拠点に行ってきました。
 EMS(エレクトロニクス・マニュファクチャリング・サービス)といえば、ソレクトロン、スミトロニクス、シークス、フレクトロニクス、ジェイビル・サーキットなどの外資系企業が有名ですが、最近では、日本メーカーも多数参入しています。キョウデンを筆頭に、アポロ技研、ソーワコーポレーション、加賀電子、ユーエムシーエレクトロニクス、長野沖電気(他沖電気工業グループ、横河エレクトロニクス・マニファクチャリング、ソニーイーエムシーエス、NECグループ(NEC長野、NEC米沢、NEC群馬)…など、EMS事業に参入するメーカーは増える一方です。松下電器や日立製作所などは、工場・生産拠点を本体から切り離して、EMS企業として独立させつつあります。最近の大手メーカー製のエレクトロニクス製品や家電製品は、もう実際にどこが作っているのかさっぱりわからなくなってきました。
 …で、私が訪れたその台湾に拠点を持つEMS企業は、デジカメも作っていました。むろん、設計段階から参加しており、台湾、中国のスタッフだけで400〜500万画素クラスまでのコンパクトデジカメを設計・量産する能力を持っています。今回の仕事とはあまり関係がなかったのですが、個人的にデジカメに興味があったので担当者にいろいろと話を聞いてみました。すると、既に日本メーカーからもデジカメの設計・製造委託の話があるそうで、「現時点の世界デジカメ市場における日本メーカー優位は動かないものの、3年以内にはコンパクト機分野で確実に追い付くことが可能」…との自信を見せていました。実際に、完全に自社設計というアメリカ企業向けに開発中のコンパクトな400万画素機のサンプルを見せてもらいましたが、150g程度の小型ボディに収まった機能スペックや操作性、レスポンスなど、日本メーカーのデジカメとほとんど遜色のないものでした。
 そういえば昨年東芝から発売されて不評だった500万画素機が台湾メーカーからのOEM製品でしたが、そろそろ日本メーカー各社は普及価格帯デジカメの一部を、現地生産ではなく「アジアメーカーからのOEM」または「現地設計」へと移行させ始めそうです。  台湾だけではなく、韓国のデジカメも侮れません。例えば、サムスンテックウィンは昨年、実売価格300ドル程度の400万画素のコンパクト機「Digimax V4」を欧米市場でヒットさせましたが、昨年末に発売された「Digimax U-CA 3」は日本国内でも販売して欲しいほど完成度の高いコンパクト機です。メモリースティック Duoに対応する重さ119gと実に小さい300万画素機で、なんとMPEG-4動画の撮影機能を備えており、私はぜひ1台欲しいと思っています。その他、PMA 2004で発表されたコンパクト500万画素機の「Digimax V50」もMPEG-4動画撮影を備えていますし、超薄型400万画素単焦点機の「Digimax U-CA 401」も実に魅力のある製品ですね。

 むろん、台湾も韓国も、デジカメのキーパーツである高性能CCDとハイエンドレンズの製造は当面無理ですが、これは日本のデジカメメーカーだって同じです。CCDとハイエンドレンズは小数の特定メーカーから買っているわけで、特にデジカメ製造のハンディではありません。
 2003年には、世界デジカメ市場において台湾・韓国を併せると30%程度のシェアを獲得したとも言われています。既に世界デジカメ市場を地域別にみると、北米が35%を占め最大であり、欧州も急成長を遂げ30%を占めており、日本市場は25%程度で3位です。今後、中国大陸も北米に代わり世界最大の市場に急成長することが予測されています。日本のデジカメメーカーも国内市場ではなく欧米市場向けの輸出で儲けているわけであり、こういう状況下では日本メーカーの優位がいつまで続くかまったくわかりません。確かに日本国内市場では今後も日本メーカー製品がほぼ100%を占めていくでしょうが、欧米では価格次第では日本メーカーのブランド力がどこまで通じるか微妙です。ハイエンドデジカメ分野では世界市場における日本メーカーのブランド力は揺るがないでしょうが、今後400〜500万画素機で250〜300ドル前後の製品が主流になってくると、台湾メーカーや韓国メーカーが大きくシェアを伸ばす事態は十分に考えられます。加えて、日本メーカーですら台湾あたりへ、ローエンド製品からメインストリーム製品の開発・生産委託を行うとなると、世界デジカメ市場で台湾や韓国の実質シェアが、日本を上回るのはそう遠い話ではないかもしれませんね。


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