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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2004/3/30

 読書好き…というよりも読書狂の私は、「電子ブック」なるものには非常に抵抗があります。私もそうですが、「読書好き」の多くは「本好き」でもあり、本を読むという行為そのものを楽しむ傾向があります。電子ブックでは、本を読むという感触を楽しむことができません。加えて、本を読む時にはページを戻ったり先に進んだり、登場人物一覧を見たり…と、「視点を飛ばす」作業を繰り返すわけで、電子ブックはそうした読み方には向きません。その上、これまでに発表された電子ブックリーダーの大半は、視認性も操作性も、そしてサイズもひどいシロモノでした。
 そんな私ですが、今回たまたま広告代理店関係の仕事で、ソニーが近日中に発売予定の電子ブックリーダー「LIBRIe(リブリエ) EBR-1000EP」の実物に触れる機会がありました。
 「E Ink方式電子ペーパーを採用した6インチの反射式ディスプレイ(SVGA)による紙の本のようにきれいな文字表示と厚さ約13mm・重量約190gと左手で持ってもまったく疲れを感じないほどの薄型・軽量化を実現した読書専用端末」とのことですが、実際にE Ink方式のディスプレイ表示は、コントラストなどかなり「印刷活字」の感覚に近く、読みやすさに驚きました。文庫本と大差のない重量・サイズとあいまって、かなり魅力的です。毎日カバンに文庫本を2〜3冊入れて歩いている私としては、これ1冊に数十冊分の書籍データを持ち歩けるのなら、一度使ってみたいと思ったりしています。
 問題はコンテンツです。パブリッシングリンクがリブリエの発売に先行して4月1日午前10時から、ポータルサイト「Timebook Town」においてネットワーク配信による電子書籍コンテンツの会員制レンタルサービスを開始する…となっていますが、やはりコンテンツが絶対的に少ないですね。既刊書をカバーしろとは言いませんが、最低でも「大手出版社の文庫新刊全部」程度を網羅してくれないと、私の日常の読書行動には対応できません。今後コンテンツが増えるようなら、LIBRIeをぜひ購入してみようと思っています。

 話は変わって、ちょっと前にこのサイトのトップページからこっそりリンクしておいたので、訪れた方もおられるかもしれませんが、2〜3週間前から「カシログ」という妙なBlogサイトをやってます。どんなサイトにするのか、まだ最終的に決めたわけではないしデザインも半端な段階ですが、「ひたすらお菓子を食べる日常」…がテーマです。むろん、私はそんなにお菓子を食べませんので、友人の「お菓子大好き」女性にWebマスターを依頼し、私はあくまで協力者です。
 時事問題に対するコメント中心のymmr portalも細々と続けています。こちらも今後どうするか決めていません。ただ、「WS30の世界」を更新しない時でも、こちらにはちょっと書き込んだりしています。要するに私は、「Blogで何ができるか」を手探りしている状態。ともかく面白いので、ヒマを見つけていろいろやってみるつもりです。

 明日から海外出張の予定、しばらくサイトの更新はできないと思います。もしかすると、Blogサイトの方に何か書き込むかもしれません。

2004/3/26

 昨日の話の続きは書きませんでしたが、「1万円台デジカメの実力 〜リコー「Caprio G4」試用レポート」…というコンテンツを作りました。昨今の格安デジカメは、実によく写ります。

2004/3/25

 先週号の週刊文春の出版差し止め事件に続いて、今週号の週刊新潮までが長嶋正興氏の弁護士から出版禁止の仮処分を求める可能性を通告されるなど、異常な事態が続いています。ライターを生業の一端としている私としては、この問題に対する個人的な見解を書いておこうと思います。
 先に結論を言えば、「出版差し止めは、出版の自由を侵すもので、誤った司法判断」、「プラバシー侵害問題よりも出版の自由を守る方が重要」…というのが私の率直な意見です。ただし、この結論にはいくつかの付帯条件が付きます。
 さて私の意見の主旨は、その問題になっている週刊新潮の今週号で、たまたま評論家の福田和也が「週刊文春問題」について述べている意見とほぼ同じです。
 彼は「プライバシーが侵害されたか、政治家の子弟は私人かなんて、枝葉末節でしかない。雑誌の販売が公権力により事前に止められた、それだけが事の本質…」と明快に言い切ります。さらに、「出版の自由を保障することで読者の読む権利、知る権利、判断する権利を守り、プライバシーの侵害や名誉毀損に対しては、事後的に損害を賠償するか刑事罰を与えることで対応する」というのが民主主義のあるべき姿だと言います。
 私も同様に思います。知る権利を保障する出版の自由は、思想信条の自由、言論の自由と同様に「自由な国家」の最上位におくべき概念です。むろん、個人が「プライバシーの侵害」や「名誉毀損」を受けないことも、同等に重要な個人の権利です。しかし、相反することが起こる可能性があるこの2つの権利を両立させる手段としては、まず「出版の自由」を保障し、その上でその結果個人の権利が侵された場合、侵したメディアを厳しく罰する…、という順序で2つの権利を守るしかないように思います。
 「今回の記事がプライバシーの侵害にあたるかどうかも、読者である国民大衆が判断するべき」その上で、「プライバシーを侵害するようなメディアは読者自身が淘汰していけばよい」…とする福田和也の意見は、きわめて正しいものです。
 …で、そうは思うのですが、福田和也が「…一度公表されてしまえばプライバシーの損害は回復しない…という東京地裁の主張は一見まともに見えます。この主張に従えば読者の判断に委ねること自体が侵害だということになる。けれどもその程度の侵害は許容するということを前提にしなければ、言論の自由は、読者の権利は守れません。侵害よりも、国民大衆の権利を優先するところに、デモクラシーの基本はあるのです」…と言っているくだりには、少しひっかかりを覚えるのです。「…その程度の侵害は許容するということを前提にしなければ、言論の自由は、読者の権利は守れません」という部分です。
 これは、「言論の自由や読者の権利という崇高な民主主義の理念を守るためには、個人のプライバシーが侵されるリスクも許容しなければならない」と言っているわけですよね。
 私は、「国家あっての個人」ではなく「個人あっての国家」だと考えているため、例え「民主主義を守るため」であっても、「理念のためには個人が一定の犠牲を払うべき」という考え方には、どうしても拒絶反応を起こすのです。どんな崇高な目的であれ「個人を犠牲にしない」のが、近代国家のあるべき姿だというのが、私の原則的な考え方です。
 では、どうすればよいのでしょうか。出版する側に「常に正しい判断を求める」というのでは解決策になりません。またプライバシーを侵害した場合の罰則をあまり強化するのもまずいでしょう。これでは出版側の「過度の自主規制」を招き、結果「ある種の出版規制」を生みかねません。
 私は、「出版の自由」と「プライバシー侵害を防ぐ」ことを両立するための最大の解決策は、「社会の成熟を進める」ことと「高次元の個人主義の確立」だと思います。「大人の社会の確立」と言い換えてもよいでしょう。福田和也が言うところの「国民大衆」が、みな大人になればよいのです。

 …長くなりそうなので、続きは明日でも書きます。

2004/3/24

 オフィス内にライブカメラを設置。今回はCPU&サーバー機能内蔵型カメラです。
 設置の顛末を、「本格的なネットワークカメラで遊ぼう」に書きました。
 こちらを見ると、時々私が登場するかもしれません(笑)

2004/3/22

 「イスラム原理主義組織ハマスの精神的指導者ヤシン師が22日、ガザ地区で行われたイスラエル軍の空爆で暗殺された。パレスチナ国家樹立への道筋を描いたロードマップを軸とする中東和平の見通しは、重大な危機に直面」「アフガニスタンのサディク航空観光相が21日、西部ヘラートで何者かに殺害された。ヘラートの支配権をめぐるカーン知事の勢力と中央政府の激しい対立が原因」「ネパール政府軍は21日、非合法武装勢力・ネパール共産党毛沢東主義派との12時間に及ぶ戦闘で、約500人の武装勢力メンバーが死亡したと発表した」「セルビア・モンテネグロのコソボ自治州で起きたセルビア人とアルバニア系住民の衝突による死者数は、2日間で計31人に達した。負傷者は500人に上っている」「フランスの統一地方選挙の第1回投票が21日行われ、与党が後退、社会党が復調し、極右政党の国民戦線も台頭」「台湾総統選で民進党の陳水扁総統に敗れた連戦・国民党主席の陣営は21日未明、選挙結果の無効などを求める訴訟を台湾高等裁判所に起こした。連氏の支持者らによる抗議行動は台湾各地に広がり、中部の台中市や南部の高雄市では暴動状態で警察との小競り合いが起きた」「エルサルバドルの大統領選で、与党右派サカ氏が勝利。しかし、富は特権層や企業家に集中し、国民の半数以上を占める貧困層の実質購買力が低下。右派への批判が高まり、サカ氏は左派の突き上げに遭っている」…

 こうして昨日から今日にかけての国際ニュースを羅列してみると、世界の平和が「いかに崖っぷちに立っているか」がよくわかります。簡単にまとめれば「パレスチナの和平は絶望、アフガニスタンは泥沼で新政権の支配力はほとんどゼロ、ネパールの内戦は一向に終結せず悪化の一途、欧州や米国があれだけ介入したコソボの和平は風前の灯、フランスでの不気味な右翼台頭にみられるように欧州では人種問題が燻り、台湾総選挙の結果で中国との軋轢と緊張が高まる、エルサドバドルやハイチなど中米の政治情勢は火薬庫と同じ」…ということですね。もう、世界はいつどこで大規模な暴動や戦争が起きてもおかしくない状況です。
 特にイスラエルによるハマスのヤシン氏暗殺は、もう中東和平が絶対不可能…に近い状況を創出しそうです。シャロンはバカなことをしたものです。ハマス(イスラム抵抗運動)は、けっして「テロリスト集団」ではありません。ハマスの母体は70年代の社会福祉運動に始まったものであり、現在も様々な福祉活動を続けることでパレスチナ民衆の高い支持を得ています。彼らの行動力はパレスチナ自治政府を凌ぐほどです。ヤシン師を殺されたハマスメンバーはむろん、一般パレスチナ人の怒りが簡単に収まることはないでしょう。

 こんな中で、日本では「ハルウララに武豊騎手が騎乗」と大騒ぎ。井上陽水の「傘がない」を思い出します。なんだか、とても厭世的な気分になります。世界が破滅に向かうのなら、私という個人が一足先に破滅に向かうのも悪くありません。
 今夜は、なんか旨いものでも食って女の子と遊ぼう…

 ところで先週の土曜日、タイ大使館で開催された「タイ・ヌードル・デイ」に行ってきました。雨の中、盛況でかなりの入場者です。「パッタイ」と「豚モツ入り麺」を食べて、プーケットビールを買ってきました(写真はEX-S20で撮影)。


2004/3/19

 「湯枯れの温泉、大半は掘削深すぎ…パイプの目詰まりも」…というニュースがありました。それにしても、なぜ日本中でやたらと温泉を掘りまくっているのか理解できません。いや、温泉が観光資源だから…というのはわかりますが、日本人がこれほど「温泉好き」というのが、どうも理解できないのです。みなさん温泉に行って、いいたい何をやっているのでしょう。…、ああ「温泉に浸かっている」に決まってますね。
 私は、かなり徹底した「温泉嫌い」です。正確には、温泉自体はどうでもいいのですが「温泉地が嫌い」「温泉施設が嫌い」…です。別に自宅の風呂が温泉になっているのなら構いません。旅行先でたまたま泊まったホテルに温泉があれば、入るかもしれません。でも、わざわざ遠くまで「温泉に入りにいく」ということは、まずありません。
 温泉嫌いには、2つの理由があります。1つは「長湯が嫌い」ということです。湯船に長時間浸かる…ことが、楽しくもなんともないのです。湯船は退屈です。本も読めないし、TVも見られない、音楽も聴けません。「ただボンヤリとしているしかない」状況には、耐えられません。
 「温泉地や温泉施設が嫌い」な理由も、似たようなものです。ほとんどの温泉地には「何もない」からです。国内外を問わず見知らぬ土地を旅するのは大好きですが、「温泉地」ほど退屈な場所はありません。土産物屋や鄙びたスナックのような飲食店しかないのが普通で、そんなところを歩いていてもまったく面白くないわけです。温泉旅館ってヤツも、だいたい構造が同じで、退屈極まる館内です。メシを食って温泉に浸かったら、あとはやることがありません。
 何もないところで温泉に浸かってゆっくりとくつろぐ…などと言いますが、私は基本的に「何もないところ」ではくつろげません。逆にイライラします。たくさんの本やいろんなメディアに囲まれている時が、いちばんくつろげます。本を読みたくなったら好きな本を読み、ネットをやりたくなればネットに接続し、TVを見たくなればTVを見る…ということが、いつでも自由にできる環境にいてこそ、のんびりとくつろげます。むろん日常生活の中でボンヤリしていることもありますが、それはあくまで自由意志でボンヤリしているのであって、「ボンヤリする以外に何もない」「半ば強制的にボンヤリさせられる」状態は苦痛です。
 海外旅行などに出かけると、確かに1日中ボンヤリしていることはあります。その多くは「都市の喧騒」に身を置いている状態で過ごしています。異文化を肌で感じている状態ならば、本やメディアがなくてもいっこうに構いません。得られる情報がなくなるまでなら、1週間でも1ヶ月でもボンヤリしていられます。何もしていなくても、五感から情報が入ってくるからです。温泉地のように「文化がない」場所では、何もしていない状態=何の情報も入ってこない状態…であり、そんな時間は「入院している」状態と変わりません。  ツーリングや登山ではキャンプ地で、ボンヤリしていることもあります。しかし、「温泉地が持つ独特の俗」が感じられない場所では、文化に代わる「ピュアな自然」「研ぎ澄まされた自分の感覚」を感じることができます。これまた、温泉地のように「文化がない」場所でボンヤリしているのとは、質的に異なる行為です。
 ともかく私は、「長湯も嫌い」「温泉地も嫌い」です。温泉には、行きません。

 …あーあ、「だからどうした!」って話でした。

2004/3/18

 ちょっとわけあって、電動自転車を購入しようと調べてみました。わが国では「フル電動」、いわゆる「漕がないでも走行する自転車」を公道で使用することは認められていません。にもかかわらず、ネット上では堂々と「フル電動」と称する電動自転車が多種販売されており、小さく「この自転車は公道ではフル電動で走行することはできません」…などと書かれています。さらに面白いのは、「電動自転車を漕がなくても走るように改造するキット」なるものが売られていることです。いやあ、電動自転車って、不思議な世界です。
 要するに電動自転車には、「電動アシスト自転車」と「フル電動自転車」があり、ナンバー無しで公道を走れるのは「電動アシスト自転車」だけのようです。しかも道交法によって電動アシスト自転車の原動機に係る要件が定められており、原動機による補助が「最大でも人力と同じ力まで」しか認められていないわけです。これは、道路交通法第2条第11号の2における「人の力を補うため」…という条項に準拠しているものです。で、その「最大でも人力と同じ力まで」という数値目安として「モーターの出力が200W以下」という基準があるそうです。それを超えるものは「原付バイク」とみなされ、法定の保安設備と免許証が必要になります。
 そんなわけで、YAMAHAやHONDA、松下電器、三洋電機、各自転車メーカーなど、日本の有名大手メーカーが販売している電動自転車は、全てがモーターの出力を定格内に抑えた「電動アシスト自転車」です。値段も、かなり高いものが多いですね。
 では、ネット販売やホームセンターなどで安売りされている電動自転車の中には、「フル電動自転車」がたくさんあります。これはいったいどこのメーカーが作っているのかと思ったら、ほぼ全てが中国製です。私は、日本国内で安価に販売するために、輸出用に中国メーカーが作っているのかと思いました。
 ところが、事実は違いました。中国は、とんでもない「電動自転車大国」だったのです。こちらの記事によると、2003年には推計300万台も生産されておろ、都市部を中心に主に通勤用の足として広範囲に普及しつつあるのようです。中国での販売価格は、最も安いもので千元(1万3千円)を切っており、売れ筋は2千元前後とのことです。しかも、これら中国普及する電動自転車の大半は「フル電動自転車」とのことです。日本と同じように出力に制限はあるようですが(最高時速20km/h、重量40kg以下、モーター効率240W以下)、フル電動か否かについての制限は曖昧です。
 その中国では、こちらに書かれているように、「電動自転車規制派」と「電動自転車普及推進派」に別れて論争が起きています。規制派は「電動自転車は発展させるべきではない」として、「バイクや車に取って代わるものならよいが、そうではなく、かえって自転車の路上権を侵害している」「電池の汚染の問題が解決するまでは発展させるべきではない。我が国ではまだ有効な回収・処理体制ができていない」「電動自転車のように低効率な交通手段は規制されるべき」…との意見を述べています。一方で推進派は、「電動自転車の発展は、内需拡大、輸出振興、国内の技術促進のために不可欠」「廃バッテリの環境汚染は、バッテリ自身に問題があるわけではなく、その管理の問題」「バッテリのほとんどは鉛電池であり、ニカド電池は電動自転車には使用していない。さらにCO2排出抑制の観点からも、環境負荷の少ないクリーンな交通手段と言える」「交通へ圧力を与える問題は、国家標準を厳守し、最高速度20km/h以下に押さえ、必要な措置をとれば、解決できない問題ではない。さらに、国際的に禁止している国は他にない」…との意見を述べています。
 この論争の中で、もっとも興味を惹いたのは「電動自転車は環境に優しいか否か」という部分です。まあ、自動車が増えることから見れば環境に優しいことは確かです。都市内における個人的な移動場面は、多数の人間が同時に移動したり、大きな荷物を運んだりということは比較的少ないため、自家用車の多くは「無駄な乗り物」です。
 私は、この論争を聞いて「EV(電気自動車)」を思い出しました。「日本EVクラブ」なんて妙な団体があり、「環境に優しい乗り物」としてのEV普及を推進しているようですが、私はEVのようなエネルギー効率が悪い乗り物の、どこが環境に優しいのかさっぱりわかりません。1トン近くある自動車をモーターで駆動しようなんて、実にバカげた考え方です。こんなものを普及させるくらいなら、日本でもフル電動自転車でも普及させた方がよっぽどマシだと思います。個人が短・中距離を移動することが多い都市部で利用するには、EVよりはよほど効率的な乗り物です。

2004/3/17

 17日発売の「週刊文春」(3月25日号)は、田中真紀子衆院議員の長女のプライバシーに関する記事について、長女が発行元の文芸春秋に出版禁止を求めた仮処分を申し立てた結果、東京地裁が「記事を削除しなければ出版・販売してはならない」と決定をしました。  そして、東京都内では、駅の売店などが同誌の販売を自粛する一方、この問題が新聞やテレビで大きく報道されるにつれ、品切れとなる書店が続出した…とのことです。
 文春が買えたので、その「田中真紀子長女 わずか1年で離婚」という記事を読みましたが、別にどうということのない記事でした。要するに見出しの通りの内容で「日経新聞同期の男性と結婚してロスで生活していたが、わずか1年で離婚した」…という話が書いてあるだけです。何でも、結婚時には「家柄が違う」と真紀子女史が大反対したとのことですから、今頃は溜飲を下げているかもしれません。
 微妙な話ですが、確かに「田中真紀子の長女」が私人であることは事実です。プライバシーを書き立てられた本人は愉快ではないでしょう。有り得ない話ですが、仮に私がこうしたことを雑誌などに書かれたら、思い切り腹を立てて出版禁止を求めるかもしれません。とはいえ、松本サリン事件の時の河野義行氏の例を出すまでもなく、特に力のない個人がいくらプライバシーを侵害されても、裁判所はおそらく今回のような決定は出さないでしょう。今回の件は、「田中真紀子」の名前が裁判所に大きな影響を与えたことは確実です。今回の事件は、マスコミのプライバシー侵害に歯止めをかける意味も大きいとは思いますが、それ以上に「有名人や政治家のい圧力」が裁判所の判断に影響を与えると思うと、ちょっと恐くなります。

 ところで17日発売の「週刊文春」には、こんなくだらない話ではなく、もっと恐ろしい記事がありました。それは「NY郊外でついに狂牛病が発症か」という記事です。これはニュジャージー州チェリーヒル地区では、1995年〜2004年までの10年間に、孤発型クロイツフェルトヤコブ病患者が10人も発生し、いずれも死亡している…という内容の記事です。アメリカ農務省は、巨大な食肉加工業者の圧力によってこうした事実を隠蔽している…とのことです。大統領選挙を控えたアメリカでは、このあたりの話はタブーになっているのでしょう。ホントに、たかが牛丼が消えたというだけで「米国産牛肉の早期輸入再開」を望む声もありますが、考え直した方がよさそうです。

2004/3/16

 毎日、仕事をしながら飲むために、500mlのペットボトルに入ったお茶を2本買います。昨年、「めまい」がひどくなって病院に行って脳梗塞を疑われた時に、「脳梗塞の予防は水分を摂ることが一番」と言われたので、お茶を飲むようにしているのです。本当は、ちゃんと急須で淹れたお茶がいいけど、コンピュータの前で茶碗でお茶を飲んでいて茶碗をひっくり返して惨事になったことが何度もあるので、ペットボトルにしてます。
 さて、飲むお茶の銘柄は、時々の気分で変わります。基本的には伊藤園の「おーいお茶」か、「お〜いお茶 深蒸し緑茶」、コカコーラの「まろ茶」あたりが定番です。ここのところ気にいっているのが伊藤園の「おーいお茶 ふかみ」。ただし、これは同じ値段で350mlボトルなので、ちょっと高級ですね。でも広口ボトルで飲みやすいし美味しい。サントリーの新製品「伊右衛門」は、今日はじめて飲みましたが、わりと好きです。そういえば同じサントリーの「まんてん畑」(西郷輝彦が「お茶なん〜だけど〜♪」と歌いながら畑から出てくるヤツ)という野菜味のお茶は吐きそうになりました。「カテキン式」もまずい。キリンビバレッジの「生茶」も、苦手です。ウーロン茶系では、一頃「聞茶」に凝ったのですが、最近は飲まなくなりました。

 こんな話、どうでもいっかぁ…、ああ、今日は仕事が忙しい…

2004/3/15

 「八丈小島の野生ヤギ200頭、射殺へ」というニュースの中に「全国ヤギネットワーク」なる団体が出てきたので興味を持ちました。私、実はヤギって動物、好きなんです。この団体は「本会は山羊を愛し、日本の山羊振興を図ることを目的として」設立されたものらしいですが、「山羊振興」って言葉、なんとなく笑えますね。サイトはかなり面白いです。「山羊の起源」では「家畜山羊の祖先種は西アジアの山岳地帯に現存する野生のベゾアール山羊であり、10,000〜12,000年前に家畜化された」とか、「山羊の種類」では「山羊の品種は約216種」とか、いままで知らなかった知識が満載です。
 以前どこかで書いたことがあると思うのですが、私には「母乳が足りなくてヤギの乳で育てられた」という知人がいます。珍しいヤツだと思っていたのですが、サイト内に「…かつて山羊が多く飼われていた戦後の日本では、牛乳が容易に入手出来なかったため、その代用として山羊乳が消費されていました。1940年代生まれの方々の中には、河川敷や家の近くで山羊が飼われていて山羊乳を飲んだことがある、母が栄養不足で母乳が十分得られなかったので山羊乳で育てられたなどの経験を持っている人がいるはずです。実は、山羊乳には単なる牛乳の代用ではなく、母乳に近い成分を有しているという特長があるのです…」とありますので、ヤギの乳で育った人というのはそんなに珍しくないんですね。知りませんでした。
 私はヤギの乳は飲んだことがありませんが、「ヤギの乳から作ったチーズ」なら食べたことがあります。また、沖縄で「ヤギ料理(…といってもヤギ肉の刺身ですが)」を食べたこともあります。「ヤギ刺し」は独特の臭いがあって特に美味しいというものではありませんでしたが、地元に人からは「精力がつく」といって勧められました。地元でもスタミナ料理として食べられているそうです。
 そういえば、ヤギを飼ってみたいですね。ヤギの飼い方を詳しく説明した、こんなサイトがありました。

 …いや、今日は実に他愛のない話でした。

 これは、今日検査のために訪れた信濃町の慶應大学病院です。いつも思うのですが、信濃町って、慶應病院と某宗教団体以外に何もない街ですね。
 他人の病気の話など興味はないでしょうが、ここ2年ほど病気のデパート状態にある私は、このたび「ポリープ様声帯」という病気であるとの診断を受けました。ここのところ喉の調子が悪かったので、ちょっと見てもらったらこの始末。良性のものですが、将来のことを考えるとちゃんと処置しておいた方がよい…とのことでした。いや、可愛い女医先生です。これはセクハラ的な意味ではなく、ホントに可愛い先生なんです。
 で、どうやら来月あたり声帯の手術をすることになりそうです。何でも、手術は30分ほどで終わる簡単なものらしいのですが、手術後1週間は「声を出してはいけない」のだそうです。それはつらい、つら過ぎ!

2004/3/12

 Intelが「モデルナンバー」導入を検討、AMDに続きクロック表示廃止へ…というニュースを読んで、ちょっと複雑な心境になりました。いや、別に賛成とか反対とかの意見はありません。

 パソコンユーザにとって、クロック周波数は、ある意味で絶対的な性能の指標です。AMDがモデルナンバーを導入している現在でも、AMDのモデルナンバーがintelのクロック周波数をベースにしている以上、やはりほぼ全てのユーザがAMDのモデルナンバーの数値をクロック数に置き換え、intel製CPUのクロック周波数に換算して、その演算性能を推し量っています。むろん、私もそうです。
 当たり前の話ですが、パソコンの処理性能はCPUのクロック周波数で決まるわけではありません。ビデオカードの性能やメモリの性能、HDDの性能など、総合的な要素で決まります。また、パソコンの性能は「数値演算」の能力だけを意味するものではなく、アプリケーションによって求められる性能の種類は変わります。例えば、画像処理に対応する性能、特定フォーマットの音楽データや画像データのデコードやエンコードの性能、3Dゲームに対応する性能…など、要求される「性能」は同じではありません。さらにはCPUのアーキテクチャによって、得意な処理、不得意な処理があるので、クロック周波数なんて、パソコンの性能を測る上でいまやほとんど意味のない指標なのかもしれません。
 これだけ自明の前提があってもなお、各社のCPUが全てモデルナンバー表示となって、「クロック周波数がわからない、推定できない」状況になったら、やはりなんとなく「不安」な感じを受けるでしょう。
 もし今後intelが、この記事にあるように、「ハイエンドは7xxシリーズ、メインストリームは5xxシリーズ、バリューは3xxシリーズ」などの表記を採用して、クロック周波数表示を全面撤廃したらどうなるでしょう。そしてAMDやVIA(Cylix)もクロック周波数を想起できる数値表示をやめたらどうなるしょう。私を始めとする多くのパソコンユーザは、非常に「言葉に言い表せない不安」な心理状態になるに違いありません。実にバカバカしいことだとはわかっていますが…

 思えば、私が最初にパソコンの自作を始めたのは、Intelの486DX2/DX4あたりの時代からです。その後Pentiumが登場し、Pentium133MHz、166MHzあたりの時代が、パソコン自作が最も楽しかった頃でした。PentiumUやSeleronなどが登場した頃には、オーバークロックに熱中したものです。この時代には、「クロック周波数」という数値は、輝いて見えたものです。あー、あの栄光の時代は、遠い記憶の彼方へと去っていくわけです(泣)

 ところで、この「CPUのクロック表示廃止」という話を聞いて「デジカメ」を想起したのは私だけではないはずです。デジカメ市場では、いまだ「画素数」が性能(画質)を表す絶対指標の1つとなっています。デジカメにおけるCCDの画素数は、まさにパソコンにおけるCPUのクロック周波数に似た存在です。むろん、「画素数=画質」ではないことなど、いまや初心者だって知っています。しかし、仮にデジカメメーカーが示し合わせて「画素数表記を廃する」と決定し、画素数の公開をやめてしまったらどうなるでしょう。高画質から低画質までをA〜Jの10段階で表記し、「このデジカメはDクラス」とか「このデジカメはFクラス」とか言われても、ユーザはきっと「不安」になるでしょう。

 人間というのは、モノの性能を比較するためには「数値」が必要な生き物なのかもしれません。クルマやオートバイの「馬力」「トルク」、TVの「画面サイズ」など、数字がなくなったら、不安になるに違いありません。

 「人間は本来、数値による比較を好む」……、ははっ、昨日の日記で書いた「人間は本来…」という話になってしまいました(笑)
 ちなみに、昨日の日記の結論は単なる言葉の遊びです。私は、実は「病気になったら自然治癒力を高めるのがいちばんいい」と信じています。

2004/3/11

 「人間は本来…」という言葉から始まる主張には、なぜか胡散臭いものが多いですね。まずはgoogleで、「人間は本来」という言葉で検索してみましょう。すると、検索結果として、次のようなフレーズが出てきます。

  人間は本来、穀菜食動物である
  人間は本来、仏である
  人間は本来野生動物
  人間は本来弱い生き物
  人間は本来太陽が昇ると共に活動を始め太陽が沈むと共に活動を終える
  人間は、本来が、知恵ある人
  人間は、本来永遠の命を持つように創られていた
  人間は本来、神の最高の自己顕現
  人間は本来アナログ的存在
  人間は本来、問題を解決する能力、社会的自律性を持っている
  人間は本来苦しむもの 耐えて強くなる
  人間は本来25時間周期で生活するようにできている
  人間は本来自然の中の一員である
  人間は本来素晴らしい存在
  人間は本来 草と木と動物達と共に生きてきた
  人間は本来草食動物である
  人間は本来自然な環境を好むように遺伝的に進化してきた
  人間は本来幸せになるために生まれてきた
  人間は本来、限りなく草食に近い雑食である
  人間は本来、主体的でなければならない
  人間は本来一夫一婦制をとる動物ではない
  人間は本来落ち着いているのが当たり前
  人間は、本来、人間を嫌う傾向にある
        :
        :

 …作為なしで、検索結果を上位から並べただけのものです。「全2760件」もあるので、ほんの一部だけですが、いやもう矛盾した言葉だらけで、実に面白いフレーズが並んでいます。誰も彼もが、勝手なことを言ってます。

 「人間は本来…」から始まる言葉には、宗教、健康に関する主張が多いのが特徴です。例えば、

 「…古代人を見ればわかるように人間は本来草食中心の生活だった。だから、現代においても菜食中心の生活をすれば健康になれる…」
 「人間は本来、薬など使わずに自己治癒力で病気を治してきた。だから薬を飲まずに気を高めることで病気を治癒することができる」

…など。

 こういう、一見もっともらしいフレーズにコロッと騙される人って多いみたいですね。でも、大概はインチキです。例えば、「薬を使わずに自己治癒力を高めるべき」なんて話は、「気」や「整体」などを重視する健康法のなかでは必ず出てくる言葉ですし、宗教家などもよく口にします。でも、昔の人間が自然治癒力に頼ったのは、「適切な薬が入手できなかったから」…以外に理由はありません。昔の人間は、自然治癒力に依存することで健康的に暮らしていたわけではありません。500年前の人間の平均寿命は、現代人の半分以下です。例えば中世ヨーロッパででは、ペストの流行で人口の1/3が死にましたが、もし適当な抗菌薬があればほとんど死者はなかったでしょう。ペストは、ストレプトマイシンやテトラサイクリンなどの抗菌薬が非常によく効くし、ワクチンがあるので、現代ではさほど恐ろしい病気ではありません。
 まあ、病気になっても薬を使わず「気」で治すべき…なんてヨタ話を説教している宗教家や気功師なんかには、ペスト菌でも注射してやって、自己治癒力で治して見せて欲しいものです。

2004/3/10

 いつもながら、他愛のない話です。
 最近の反体制運動、団体の多くが、「反グローバリズム」というカテゴリーに集約されつつあります。「グローバル化反対」は、「反体制」のお題目としてはかつてなく「強力」で、なおかつ広範囲な要素を含むものです。しかし、その内容となると「曖昧」さを拭えません。各地の河口堰建設やダム建設に反対する環境関連の団体から、無農薬野菜を栽培する農家、スローフード推進団体、資源リサイクルを謳う主婦中心の市民団体、自然保護団体、稀少生物保護を謳う動物愛護団体、地域通貨推進団体、食糧問題を研究する人達、人口問題を研究する人達…など、いやもうありとあらゆる団体が、「反グローバリズム」を唱えて現行の政治や社会制度の基本的な枠組みに異議を唱えています。そして、最近では「NGO」や「NPO」がやたらと多いのも特徴です。
 私は、1970年代に東大駒場で開催されていた宇井純の「公害原論」講座を手伝っていたことがあるのですが、その頃に流行った環境問題や食の安全問題などを対象とする「市民運動」はそれ以前の左翼運動とかなり密接に結びついていました。その後も1980年代を通して盛り上がりを見せたさまざまな市民運動には、反日共系の「元新左翼」がたくさん関与していたことは周知の事実です。例えば無農薬野菜などを販売している団体が、実はブントの某セクトが母体であったり、公共工事による自然破壊に反対している団体に70年代の新左翼運動家がたくさん参加していたり…というのは、誰もが知るところでした。
 この70年代の左翼運動衰退に始まって80年代以降に数多く生まれた「元新左翼」が関与する市民運動の多くは、ある意味で「地味」で、まさに市民運動そのものという形態のものが多かったと思います。中には区議や都議を増やして政治団体化、政治運動化するものもありましたが、概ね「市民運動」の範疇に収まっていたように思います。まあ、2chあたりでプチ右翼から「プロ市民」と蔑称される「元新左翼活動家」が実際に多く含まれていたように思います。

 ところが1990年代の終わり頃から「反グローバリズム」を唱えて雨後の筍のように登場した政治団体や市民団体は、こうした70年代、80年代から続く市民団体の系譜とはまったく質的に異なるものでした。そして、それらの団体の多くは「NGO」「NPO」として社会から認知されていきました。私は、こうした団体に関心をもって詳しくウオッチしていたわけではないのですが、一応「反体制」でありながら、妙に大企業や既成政党との結びつきが強かったり、官公庁や官僚、権威ある学会など既成の学術組織と連携していたりします。
 もっと端的に言うと、昨今の「反グローバリズム団体」は、エリートの集団というイメージが強いのです。たいした話ではありませんが、常々そんな感じを持っていたら、こんな文章にぶつかりました。この文は、私が昨今の反体制運動について「なんとなく感じていたこと」を、かなり明快に分析しています。
 この文の中では「旧左翼」「新新左翼」などの言葉が使われていますが、要するに、70年代の政党系左翼と学生運動系新左翼を全部含めて「旧左翼」として扱い、現代の「反グローバリズム運動」に関与する層を「新新左翼」としています。そしてその「新新左翼」が「世界中で政治や社会の実験を奪うことを目的にしている」と述べています。
 いや、私は「プロ市民」的な旧左翼の残党の運動も嫌いですが、この昨今の「エリート反体制家」たちもあまり好きではありません。

 ところで、田中宇氏の世界情勢分析は、私もこの日記の中などで時々引用します。要するに、「一応読んでいる」わけです。彼の分析を全て信じているわけではありませんが、時々面白い視点があります。

2004/3/9

 昨今の世の中には、「手作り」が溢れています。「手作りのチーズケーキ」から「手作りコロッケ」などお菓子やレストランのメニューに始まり、「手作りの食器」、「手作りの木のおもちゃ」、「手作りのアクセサリー」、「手作りの家具」など、そして「手作りの結婚式をプロデュース」とか「手作りの旅行」「手作りの教育」なんてものまで、もう「手作りだらけ」です。
 私は、モノやサービスのキャッチコピーに「手作り」という単語が入っていると、生理的に不愉快になり、選択の対象から外します。
 「手作り」という単語と「温かみ」「ぬくもり」などの単語は、ほとんど対のように使われます。しかし、「手作り」の製品には、なぜ「温かみ」「ぬくもり」があるのか、誰も説明しません。「手作り」の反意語は、普通は「量産品」です。「手作り」の反意語として「量産品」という単語が使われるときには「味気ない」とか「人間性がない」などのイメージで語られます。しかし、「量産品」はなぜ「味気ない」のか、やはり説明はなされません。
 おそらく多くの人にとって、量産品には「冷たい資本主義の産物」というイメージがあり、手作り品には「心がこもっている」とか「スローで人間的な存在」というイメージがあるのでしょう。モノを売る側がそうしたイメージを利用したいがために、世の中には「手作り」品が溢れるようになったわけです。
 しかし、モノやサービスが手作りであろうと量産品、規格品であろうと、実はそんなことは「モノを購入時に検討すべき属性」とは無関係です。むろん、「量産ができない」ものは仕方がないけれど、量産が可能な商品、しかも同じ形と機能のものをたくさん作るために、わざわざ手作りにする理由は、まったくありません。私は「モノ」や「道具」は、手作りよりも量産品の方が基本的に高品質である…と、当然の理解をしています。

 私にとって「手作り」という言葉は、「あざとさの象徴」です。「手作り」というキャッチコピーを見ると逆に拒絶反応を起こす私のような人間もいることを、「モノを売る側」「サービスを提供する側」は覚えておいた方がよいと思います。

2004/3/8

 昨夜放映されたNHKスペシャル、「フリーター417万人の衝撃」を見た方は多いと思います。フリーターが増えることが社会にとって損失なのかどうか、難しい話です。人件費を抑制することで企業が活性化するのも事実ですし、逆にフリーター対策をしないと社会が活力を失うという意見もわかります。ここらへんの話は、簡単に結論はでないでしょう。
 ただ、いかなる経済システムであろうと「個々の能力に応じた労働」が存在することは確か。そんな中で、低賃金の単純労働者と高賃金の頭脳労働者に分かれるのは、ある意味で妥当な話です。問題は、その「差」がどの程度なら適当か…という話でしょう。低賃金の単純労働者を法的に保護し、賃金格差を減らすことは一向に構わないのですが、それは社会に余裕があっての話。また、努力した人間が報われない社会…というのも逆差別につながります。ただ、高卒でフリーターになりそのまま60歳まで過ごした場合の生涯賃金が六千万円…というのは、かなり厳しい。これでは、都会に住んで家庭を持って自立するのは不可能です。まともに子育ても出来ないでしょう。こんな社会階層が増えたら、人口はさらに減り続けるでしょうね。
 番組を見ていて、いちばんイタいと感じたのは、番組内で実名で登場した都立高校の3年生男子生徒。だらしない制服の着こなしといい、幼稚な話し方といい、私がイメージする「高校卒業」レベル、つまり高等教育レベルの知性をまったく感じません。進路指導の教師と一緒に求人先のプレスメーカーを訪問して、社長の話に対して返事もせずにふてくされて聞く様子が放送されていましたが、その態度にもかなり呆れた次第。正直言って、こんな人間は実際に会って面接するまでもなく、私なら絶対に雇用しません。もし、これが現在の高校生の平均的な水準だとすれば、高卒者の3割がフリーターになるのも当然です。これは社会システムや経済システムの問題ではなく、教育の問題でしょう。だって、一方では高度な教養を身につけるために、必死で努力する高校生もいるわけですから。まったく自分を高める努力をしない、したくない高卒者を雇用したいと思う企業の方が少ないはずです。
 子供を自立させない親が増加していることも実にまずい。子供が18歳になったら家から追い出して自立させる…、これが当たり前でしょう。私は自分自身もそうだったし、自分の子供に対してもそうしました。

2004/3/6

 「追突された車のトランク内の男性死亡」というニュース、なかなかミステリアスですね。「車のトランクに死体」というのは古今東西のミステリーで、基本的なシチュエーションとして人気があります。いくつか挙げてみましょう。
 まず、太田忠司「ミステリなふたり」という短編集の中に、「トランク殺人事件」という作品があり、これは、追突された車のトランクに男の死体が隠されていた…という話です。次いで、宮部みゆき「模倣犯」の中にも、崖から転落、炎上した車のトランクの中に死体が発見される…というシーンがあります。東野圭吾「依頼人の娘」の中に「偽装の夜」という作品があり、自殺した遺体を車のトランクに入れて運ぶ話が出てきます。深谷忠記「安曇野・箱根殺人ライン」には安曇野の畠に脱輪した車のトランクから女性の惨殺死体が発見されるシーンが出てきます。山口香「京都洛中殺人事件」では、新宿のマンション駐車場の車のトランクから死体が出てきます。

 …で、この事件はいったい何だったのでしょう。

2004/3/5

 04年度予算案が衆院本会議で可決され、参院に送付されました。予算案は一般会計で82兆1100億円に上り、新規国債発行額は過去最高の36兆5900億円ということで、もうムチャクチャだなぁ…というのが実感です。こんなもの、まともな頭で考えたら「経済」じゃありません。
 そこへきて、「東大が金融センター創設へ」…というニュースです。「経済界と連携して『金融研究センター』と大学院の金融専攻コースをつくり、金融分野で世界に通用する研究に取り組むとともに、研究者や民間実務者、政策担当者の育成に乗り出す…」とのことですが、何かが違う…という気がします。「経済学」とは何か、何のための学問か…を考えたとき、日本のアカデミズムの頂点である東大で、金融センターなんてものを作る以前にやることがるあだろう、と思うわけです。
 個人的な考えを述べれば、経済学なんてものは「一国の経済を繁栄に導くため」にあるのではないはずです。そんなものは企業家と政治家・官僚たちが考えればよろしい。経済学は、社会主義的な意味ではなく、「富の偏在を正すため」に存在すべき学問だと思う次第です。もう少し誤解されにくい言葉に言い換えれば「社会矛盾を正すために」あるのだと思います。世界の多くの国で実際に動いている経済は、大きなカテゴリーで言えば資本主義経済です。資本主義経済の是非の論議は別にして、この経済体制化では「貧富の差」ができ「富の偏在」が進みます。「貧富の差」「富の偏在」は、社会を不安定にする要因です。この不安定要因を取り除くことは、非常に難しい。そこに経済学者の出番があると思う次第。
 社会主義経済の衰退とともに、マルクス主義経済学が傍流に追いやられて久しいわけですが、少なくともマルクス主義経済学には「社会正義を追及する学問」という「理念」がありました。資本主義経済を旗印とする現代の経済学者の中に、こうした「理念」を持つ人っているのでしょうか。アメリカのシカゴ学派のノーベル経済学受賞学者なんて、自分で会社やって金儲けしてるんだから、ひどいものです。
 金子某とか中谷某とか、野村総研の主任研究員の某とか…、TVのニュース番組でコメンテーターをつとめている経済学者たちのコメントのくだらないことといったらありません。ニュービジネスを紹介している映像の傍らで、キャスターに「なぜこのビジネスが成功したのでしょう?」などと問われ、「市場のニーズを的確に掴んだことが成功の要因です」なんて答えている彼らを見ていると、とても経済学者とは思えません。まあ、バカでもわかることを言っているビジネス評論家ってところ。実際に、企業の社外役員なんかををやってる経済学者がいる始末です。まともな経済学者ってのは、いなくなったのでしょうか。東大は、金融センターなんてアホなもの作ってないで、ちゃんと「学問」やって下さい。莫大な税金を遣ってるんですから。
 Hot Wired Japanで連載が続いている野口旭の「ケイザイを斬る」は、全面的に賛同できる内容じゃないけれど、視点が面白いので読んでます。

2004/3/4

 私はもう、社会で起こっている様々な理不尽な事象、特に公権力の不正に対して、あまり「怒り」がわかなくなっています。結局のところ、私は「公」または「国」に対してほとんど何の期待もしていないし、逆に義務や誇りなんてものも感じていません。そんな私が、とりあえずきちんと「公」に対する義務を果たしているのは、納税でしょう。零細企業を経営する私は、なぜか「納税の義務」に関しては、20年間公明正大に果たしてきました。ところが最近、この納税の義務を果たし続けることに、疑問を感じ始めています。

 税金を好き勝手に使う公務員や官僚や国会議員に関するニュースは、連日メディアを賑わしています。全国の自治体に蔓延する退職金水増しを目的とする地方公務員の特別昇給制度、内部告発が相次ぐ警察の裏金作り、相変わらず続く国会議員の秘書給与流用など…、もうひどいものです。「合併在任特例によるマンモス市議会乱立」なんて記事を読むと、国会地方議会を問わず議員なんて立場の人間の卑しさに呆れます。先日は「年金保険料:給付以外に4兆5000億円使用」なんてふざけた話もありました。
 公権力の不正に対してあまり怒りを感じなくなった私でも、こうまでひどい状況に対しては、さすがに何らかの「リアクション」を起こすべきだと思うこともあります。そのリアクションとは「納税義務の放棄」です。

 日本では過去に、納税拒否運動が大規模に行われたことがありません。しかし欧米では、納税拒否運動は、比較的ポピュラーな「異議申し立て運動」となっています。ご存知の通り、日本国憲法第30条で「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とされ、さらに第84条で租税法律主義の原則を定めています。納税の義務を果たさない者には罰則・ペナルティが課せられます。日本では国民の納税は「一方的な義務」です。コレに対してアメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。アメリカだけでなくヨーロッパの多くの国では、憲法は「国民の権利と国家の義務を規定したもの」と捉えられています。ここらへんが、日本と欧米の市民感覚の差になって出てきているのでしょう。
 岩波新書「納税者の権利」を読んでみましたが、日本においては「納税の義務に応ずることで国家からどのような権利やメリットを得られるか」という「納税者と国家の契約関係」という概念が、根付きにくいことがわかりました。

 ところで、「アメリカの納税拒否運動」という面白い資料があります。私の大好きなビートニクス詩人であるアレン・ギンズバーグが納税拒否を唱っていることは非常に興味深いのですが、その話はともかく、この中に示されているいくつかの「納税拒否の方法」が面白いと思います。
 中でも…
(1)合法的な戦争納税拒否として、収入を減らして課税所得以下の収入で生活する。
(2)雇用者による税の天引きを減少させるか、削除する。その有効な方法の一つとして、自営の仕事に従事して、税の天引き徴収(源泉徴収)を全てなくす。
(3)報告しなければいけない収入よりも少なく報告する。
(4)あなたの収入や支出に関する情報が、他者から国税庁(IRS)に報告される機会を少なくするか無くす。銀行の口座を無くし、クレジットカードを使用しないこともそのための一つの方法となる。

 …あたりは、合法的な納税拒否として、すぐにでも実行可能なものです。そういえば、現代のアメリカの過激なリバータリアン(絶対自由主義者)の一部は、納税の義務を拒否しています。その代わり、行政によるサービスもいっさい受けません。自分たちの街の治安は自分たちで守りますし、道路や橋も自分たちで作る…と主張しています。

 さて、日本において明確な意思を持って納税拒否を行った場合、どのような罰則が科せられるか…については、明確ではありません。  中小企業などに税務調査が入る際の「義務と権利」については、法律家が書いたたくさんの資料があります。税務署の調査(質問検査)を受けるか否かは納税者の判断に任されていますが、質問検査拒否に対しては罰則が定められています。正当な理由があれば拒否罪にならないという判例はあります。しかし、こうした「税務調査時の納税者の権利」と、納税拒否運動における「意思を持った納税拒否」とはベクトルが異なります。大規模な納税拒否運動は、国家に対するダメージが最も大きい反逆的な抵抗運動であり、実行すればおそらく過酷な罰があるだろうと思います。

 日本でも個人や小規模なグループによる納税拒否運動が行われたことはあります。しかし、過去に個人レベルで行われた単発的な事例はあまり参考になりません。日本における大規模納税拒否運動の可能性について、ちょっと真剣に調べてみようかと思いました。

2004/3/3

 京都府の浅田農産船井農場が、鶏インフルエンザに感染していると知りながら生きた鶏、卵などの出荷を急いだ問題は、連日マスコミの非難を浴びていますが、私は事件発生初期に伝えられたこのニュースの方が、実は問題は大きいと思うわけです。

 …大量死が始まったとされる前日の19日には、府南丹家畜保健衛生所の職員が実態調査に訪れていた。しかし鶏舎には入らず、事務所で現場責任者と面談し「異常なし」との回答を得て引き上げたという。府は山口県や大分県での鳥インフルエンザ発生を受け、1月から府内の養鶏業者に対し、電話や訪問による実態調査を行ってきた。しかし家畜伝染病予防法に基づく立ち入り検査と違い、鶏舎内を調べる強制力はなく、鶏舎への立ち入りは「業者の自主的な協力によるしかない」(畜産課)という。ある職員は「鶏は非常に病気に敏感。無理に鶏舎に立ち入ろうとすれば、業者との信頼関係にひびが入る』…
 …別の府幹部は「家畜防疫官は現場で鶏舎への立ち入り許可を求め、自分の目で確認しようとしたのかどうか。『信頼関係』を理由に、調査を形式的に終わらせたのではないか」と危機感の欠如を指摘する。

 要するに、府の家畜保健衛生所がちゃんと検査しなかったようです。府の家畜保健衛生所の職員と業者の間には「癒着」がある…わけですね。ましてや、浅田農産の浅田肇会長が、農水省直轄の公益法人である日本養鶏協会の理事と副会長を務めていたとあっては、なおさらまともな検査は出来なかったでしょう。余談ですが、この日本養鶏協会にはたくさんの農水省官僚が天下っているのでしょうね。
 この癒着関係、考えてみれば当然の話です。農業、水産業、畜産業などは、あらゆる名目をつけて国が保護しています。むろん、農水系議員の票田だからであり、現在の自民党政権の基盤であるからです。この「政権政党―農水畜産業界―農林水産省」という、お馴染みの政治家、業者、官僚の三角関係は、国政レベルだけではなく、都道府県政レベルでも非常に強固なようです。

 今回の鶏インフルエンザウィルスの拡大は、日本における、こうした第一次産業と政治の性懲りもない癒着関係が引き起こしたもの…と言えます。
 いろいろな名目をつけて第一次産業を保護し続ける日本政府の姿勢は、私のような「どこからも保護されない産業」に属している人間からは、到底納得できるものではりません。
 今回の浅田農産の隠蔽は、自ら感染の疑いを通報し処分するには経営上のリスクが大きい…からであったことは事実です。農水省によれば、家畜伝染病予防法では、鶏に限らず、法定の伝染病で、発生農家に対して殺処分を都道府県知事が命じた場合は、(処分した商品の)評価額の五分の四を国が手当金として支出するそうですが、感染が確定する前、疑いがある段階での自主的な殺処分にはこの手当が出ない…そうです。さらに、「鶏の移動制限に対しては、法制度上の補償制度はない」とのことです。このあたりの事情についてはこちらに詳しく書いてあります。
 しかし、こちらのニュースに「JAグループ京都は農水省に在庫となる卵と鶏肉の保管、廃棄の実施を求めたほか、府にも養鶏農家の所得保証などに取り組むよう要請した」とあるように、最終的には損害を受けた関係者には全て国が補償し誰も損をしない…ということになるのでしょう。
 BSE騒動では、食肉業者への莫大な補償が行われました。コイヘルペスとやらで霞ヶ浦の鯉養殖業者が廃業に追い込まれた時も、政府は業者に対して金銭の補償を行いました。
 こういう事件が起きる度に、私は友人のソフトハウス経営者と「パソコンのウィルスでHDDがクラッシュしても誰も補償なんかしてくれないのに…」と冗談を言ってますが、本音では「農水畜産業に対する手厚い保護はいいかげんにやめろ」と言いたいわけです。

2004/3/2

 昨日、仕事で午前中に国立(中央線の国立駅)へ行く用事がありました。駅前の大学通りを歩いて仕事先へ向かっている途中で、ちょうど都立国立高校の合格発表と出くわしました。合格発表掲示がされている校内の光景ではなく、既に発表を見た後の人たちが歩いている歩道上の光景でしたが、母親らしき女性と抱き合って喜んでいる女の子や、悔しそうに下を向いて佇む男の子など、お馴染みの合格発表風景が繰り広げられていました。そんな中で、おそらく結果が悪かったのでしょう、歩道の隅でそっと泣いている少年を見ました。
 自分自身は、試験で不合格だったからといって泣くようなタイプじゃなかったですけど、泣いていた彼はきっとナイーブな若者だったのでしょう。どうしても都立国立高校に入りたくて一所懸命勉強をしたのでしょう。チラッと見たその少年の姿がその後も忘れられず、ちょっと胸に込み上げてくるものがありました。
 いくら私が「学歴なんてどうでもいい」という考えを持っていたとしても、現実の受験生に向かって軽々しく「志望高校に落ちたぐらいたいしたことじゃない」…とは言えません。まあ、高校入試の失敗は、3年後に十分にリカバリーできます。頑張れ、少年!

2004/3/1

 「別人の住基カード取得=融資220万円引き出す−福島県警」…という、実に虚しいニュースがありました。内容は、「…他人の住民基本台帳カード(住基カード)を不正に取得した上、金融機関から融資を受けたなどとして、福島県警相馬署は1日、有印私文書偽造、同行使の疑いで同県相馬市赤木、土建業吉沢利治容疑者(59)を逮捕した。調べによると、吉沢容疑者は昨年11月21日、知人の男性(63)を装い、相馬市役所に住基カードを交付するよう申請。その後、市が本人確認のため男性に送付した照会書を持参して同市役所を訪れ、交付を受けた疑い…」というものです。
 今日、住基ネットの安全性を検証する実験を続けていた長野県が「個人情報の改ざんが可能」という最終結論を公表しました。しかし上記のニュースを読んでいると、こういう物理的な安全性の問題ではなく、それ以前の「運用の問題」「人の問題」というレベルで、住基ネットのセキュリティはゼロだってことがよくわかります。

 こんな話を読むとすぐに連想するのが、最近やたらと話題になるICタグ。今回の鶏インフルエンザ問題によって、食品の安全性が再度クローズアップされ、「食品のトレーサビリティを高めることは必須、そのためにはICタグの早期普及が必要」…なんて話ばかりです。こんなニュースもありました。

 で、話は「運用の問題」「人の問題」に戻ります。私は「ICタグでトレーサビリティが 高まる」とはまったく思えないわけです。だって、前にも書きましたが、どんなデータを書き込むのかを人間が決定できるのです。流通過程で、事実とは異なるデータを自由に書き込めるわけです。逆に「ICカードに入っているデータは真実」という幻想が1人歩きする方が、よっぽど怖いですね。結局は、システムを扱う「人」の問題に帰結します。

 それにしても、こんな記事を読むと、まったく性懲りもなく…という気がします。なんでこんなことに政府が口を出す必要があるのか、さっぱりわからない。「産学官による政策懇談会」なんてのが口を挟むと、地上波デジタルのようなバカバカしい事態になりそうです。


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