WS30の世界はオルタナティブ・デジカメサイト。デジカメ、MPEG-4動画、PCの話題、サブカル系の駄文コンテンツをどうぞ…
title baner
画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

日記過去ログはこちら

2004/2/27

 数日前のニュースですが、「通販で買ったそっくりの制服着て電車に 警官マニア逮捕」…という、ちょっと愉快な話がありました。「別に犯罪に利用したわけじゃないのだから、逮捕まですることはないだろう」と思ったのですが、まあ、誰もが警察官の服装をしてもよい…となると3億円事件のような犯罪に使われる可能性もあるので、警察としては看過するわけにいかないのは当然でしょう。
 基本的には、「制服」というのは、社会にとって不要なものです。制服を着ることで簡単に「何かになりすます」ことができるとすれば、社会制度の中に「制服」という概念を持ち込む社会のあり方自体が間違っているし、制服で人間の属性を判断する個人の認識のあり方も間違っていると思います。
 例えば、警察官が制服を着ていることには身分証明という面での一定の合理性があるように感じるし、大病院で患者や見舞い客とスタッフの区別をつけるために医師や看護師が白衣を着ていることにも一定の合理性があるように感じます。しかし、考えてみれば、警察官が制服を着ているからこそ警察官を装う犯罪が世界中で多発しているわけだし、誰も提示された警察手帳をちゃんと確認しないわけです。警察官が制服を着ていなければ、誰もが警察手帳なり身分証明書なりで確認を求め、その方が警察官は規律を保てるはずです。制服が身分証明代わり…と言っても警察官の制服を細部まで覚えている人間などまずいません。制服を着た警察官が街中の各所にいることによる犯罪抑止効果だって、怪しいものです。もし警察官が制服を着ていなければ、街中のどこに警察官がいるのかわからないわけで、その方が犯罪抑止効果は高いかもしれません。
 病院も同じ。白衣を着ているのは病院関係者…という先入観があるからこそ、白衣を着た病院泥棒が増えるのです。
 ましてや児童・生徒・学生が制服を着る必要など、どこにもありませんし、企業が制服を採用することにも合理的な理由はありません。医者や看護師が白衣を着ている必要などありません。

 ともかく私は、制服なる存在は社会にとって不要なものだと思うし、個人的には制服という存在そのものが嫌いです。しかし、不要であろうと嫌いであろうと、世の中の大多数の人間が「制服で属性を判断する」という現状にあっては、制服を着ることによって「何かになりすます」ことを面白く感じる人間がいることは理解できます。いまやコスプレは、趣味として完全に定着したようです。さらに、最近の高校生は「制服を着たがる」そうですね。コスプレに「本来の自分とは異なる属性を身にまとうことの快感」があるとすれば、自分の属する集団に対して制服を求めるのは、「属性を固定する安心感」を求める心理とでも言えるかもしれません。

 この「制服を着たい」という心理について、面白い論考がありました。「制服の記号論」…という富山商船高専教授が書いたエッセイの中で引用されていたものです。引用の引用…になりますが、その部分を収録しておきます。

   …鷲田清一は『ちぐはぐな身体〜ファッションって何?』(筑摩書房)で「僕らは制服を着ることでも、いかがわしい存在になることができる。制服のなかに隠れることができるからだ」といい、次のように理由を述べている。「制服を着ると、ひとの存在がその(社会的な)《属性》に還元されてしまう。そうすることで、ひとは『だれ』として現れなくてすむ。人格としての固有性をゆるめることのできる服とは、そのなかに隠れることができる服である。そう考えると、現在の制服も、人びとによって、人間の拘束とか画一化といった視点からではなく、むしろ制服こそが"自然体"という感覚で受けとめられだしているのかもしれない。

 結局のところ、制服を着ることは「隠れる」ことだ…と言っています。「個」を前面に出して生きるのではなく「集団」に隠れて生きる方が楽…という考え方、最近の若者がそんなふうに考えるのはわかるような気がします。

2004/2/25

 今日から国立大学の二次試験がスタートしたようです。私が受験生の頃は、国立大学は一期校、二期校に分かれていた時代なので、最近の入試制度はよくわかりません。まあ、受験生の皆さんは頑張って欲しいと思います。
 いや、受験になんて関心はないのですが、新聞にセンター試験の問題が掲載されると、適当にいくつかの問題を選んで解いてみたりもします。国語、社会あたりはまあなんとかわかる問題が多いですが、数学や英語になると出来る分野と出来ない分野がはっきり分かれます。そしてさっぱりわからないのが理科系です。物理や化学そして生物など、ほとんど点が取れません。今、予備校で1年間必死で勉強したら、どの程度の大学に入れるのか、非常に興味があります。むろん、試す気はありませんが…

 ところで、深夜2chを見ていたら、こんなスレを見つけ、面白く読んでしまいました。中でも気に入ったのは、今年の慶応大学総合政策の数学で出された次の問題です。

(1)天使は常に真実を述べ、悪魔は常にうそをつく。
    A、Bは天使か悪魔であることはわかっているがどちらがはっきりしない。
    Aがこう言った。「私が天使ならば、Bも天使です」
    二人の正体を答えよ。

(2)3人の女神が口論している。最も美しい女神はただ一人であるとする。
    アテナ「最も美しいのはアフロディテでない」
    アフロディテ「最も美しいのはヘラでない」
    ヘラ「私がもっとも美しい」
    最も美しい女神だけが真実を述べているとすると、その女神は?

 …私は、なかなかいい問題だと思いました。論理的に考えればすぐにわかる問題ですが、入試という独特の雰囲気の中で、しかも多数の問題を解かなければならない時間的制約の中で、パッと答えを出すのはけっこう難しいと思います。短時間で論理的に判断する資質が問われますね。

 この問題を作ったのが誰だかはわかりませんが、大学の入試問題を作るのって非常に難しい作業だろうとは思います。よく知られているように、数年前から大学の入試問題作成受託ビジネスに予備校が参入しています。今年の入試の作成委託状況は不明ですが、相当数の大学が予備校に作成を委託していると推定されます。入試ミスが年々増加している中で、記事にもあるように、ある私大教授は「問題作成は時間と神経を使い、ミスがあれば責められる。負担感は強い…」とコメントしています。それにしても、入試問題作成外部委託の理由が、大学教官の「心身ともに負担が大きい」から…というのであれば、ふざけた話です。文部科学省が言うような「機密性、公平性に懸念がある」というレベルの問題ではありません。教える側が「疲れたり批判をされたりすることはやらない」という態度ならば、学生が労を惜しまず真面目に勉学に励むわけがありません。教育現場の崩壊は、こうしたところからも始まっているようです。

 今日は、ささやかな新コンテンツを追加しておきました。

2004/2/24

 地球温暖化で国際紛争多発 米国防総省、対策求める…【ワシントン23日共同】地球温暖化が進むことで近い将来、大規模な気象災害が多発、難民の大量発生や食糧・水資源の争奪をめぐる国家間の緊張を招き、米国の安全保障にも影響を与える可能性が高いとの内部報告書を、米国防総省の研究チームがまとめていたことが23日、明らかになった。

 …こんなニュースを読んでいると、憂鬱になります。温暖化の予測は難しいので素人の私にはなんともいえませんが、温暖化以前の問題として、地球上の人口の爆発的な増加が、国家間における食糧や水、そしてエネルギーや鉱物資源の争奪問題を引き起こしている現実を見ると、人類の将来は限りなく暗いと感じます。
 世界レベルでの富の偏在と社会の階層化は、ますます進んでいます。絶対的に食糧が不足している中で、先進国は飽食を堪能しています。水不足も深刻ですが、先進国の国民が水洗トイレや洗車のために飲用に使える貴重な淡水を浪費している一方で、その日飲む水を井戸から汲むために、何キロも歩かなければならない人たちが、何億人も存在します。
 富の偏在とは言っても、持てる者と持たざる者が、余剰食糧や余剰生産物の所有権で争いっているうちはたいした問題ではないでしょう。持てる者だけが生存でき、持たざるものは生存すら許されない…こうした社会が到来したのだと、つくづく感じる次第です。
 まあ、だからといって現在の自分のライフスタイルを変えるつもりはまったくありませんけど。

 ところで、このニュースを読んで思い出したのですが、先日、文庫化されたばかりの斎藤貴男「機会不平等」(文春文庫)を再読しました。「ゆとり教育」「派遣労働者」「老人介護市場」等の現場を取材して、日本において社会階層化が進んでいる現状と、それが優生学をベースとする社会ダーウィニズムの復権に結びつく危険性に対して強い危惧を訴える内容のルポです。確かに優れたルポールタージュではありますが、評価が難しい本です。ハードカバーで刊行された時にも、この本に対する評価は完全に2つに分かれました。「構造改革の裏に潜む弱者切捨ての現実を鮮やかに抉り出した」「弱者の視点に立った優れた問題提起」…などの評価を受けた反面、逆に「程度の低い国家陰謀説」「反体制・左翼的で偏向的な内容」…という批判も受けました。私個人は、非常によい本だと思っています。
 日本という国の中で社会階層化が進んでいること、この社会階層化をさらに進めようとしている人達が数多く存在すること…、これは本書で指摘されるまでもなく、間違いのない現実です。政治家、教育者、科学者、経済界の指導層などの一部に、優生学に基づく社会ダーウィニズムを肯定する動きがあることも、また事実でしょう。しかし私は、本書中で何度も語られるような「優れた遺伝子を持つエリート階級が支配する近未来社会」…が到来する可能性はないと思います。根拠はないのですが、「人間はそこまで愚かではない」という漠然たる期待があります。
 私は、社会階層化の進展がよいことだとは思いません。ましてやナチズムを想起するような、優生学、遺伝学に基づく社会階層が形成される社会なんて、おぞましい限りです。しかし、かといって社会階層化に反対するあまり、根拠のない平等主義を唱える人間、個人の能力差を認めない人間が増えることにも、危惧を持っています。「機会不平等」のような本を読んで納得してしまうと、「全ての人間は平等だ」という理想の中の「平等」という部分を勘違いする人間が出てくるかもしれません。実際に教育現場で、「いちばん学習進度の遅い子供に合わせて授業を進め、落ちこぼれを作らないようにしよう」なんて意見が出てきているのですから…。学習能力の差を認めないことは、けっして平等ではありません。学習能力の差は人間としての本質的優劣とは無関係…と教えることこそが、平等な教育だと思っています。
 私は「能力に応じた社会階層分けをすべきだ」などとは思っていませんが、これまでに何度も書いたように「知識や教養、考える能力等の部分も含めて、人間の持つ能力の個体差を認めるべき」とは思っています。さまざまな分野で人間の能力の個体差を認めるからこそ、はじめて「能力差がある人間が集まって形作する理想の社会」のあり方を真剣に考えられる…と思います。「能力のない人間は切捨てろ」ではなく、ましてや「能力のある人間が能力のない人間を管理する」のでもありません。ハンディを持つ人間も含めて、「著しく能力にバラツキがある人間同士が、対等かつ合理的に社会を運営していくシステム」を考えればよいのだと思います。

 しかし、先に書いたように既に世界レベルでの富の偏在と社会の階層化は、どうしようもないところまで進んでいます。旅に出てアジアのスラム街などを見る度に、またニュースで悲惨なアフリカの難民の現状を見るたびに、人間の無力を思い知らされます。こうした世界の現実を合理的に解決する方法は、われわれ人間は今後も見つけられないかもしれません。「能力にバラツキがある人間同士が、対等かつ合理的に社会を運営していく」可能性について希望を失ってはいませんが、楽観もできません。
 ただ、少なくとも「神の下の平等」なんていう戯言だけは、絶対に口に出さないで生きてゆきたいものです。

2004/2/23

 既にいろいろなメディアで紹介され、各所で話題なっている古いニュースですが、このデジカメには、私のような「コンパクトデジカメファン」でも、やはり多少の興味をかき立てられます。
 「ベッサ」シリーズをヒットさせたコシナとセイコーエプソンの共同開発ですが、マーケット的に見れば狙いどころは悪くありません。ただし、この記事の見出しにあるように「温故知新の新感覚モデル」とまで言うのは、大げさです。エプソン−コシナ連合が商品化しなくても、ここ1年以内ぐらいで必ずどこかデジカメメーカー、特に銀塩カメラのノウハウを持つメーカーが市場に投入したはずの、「誰もが予見していた」製品コンセプトですから。唯一意外だったのは、これを最初に市場に投入したのが、ニコンやコニカミノルタあたりではなく、あまりデジカメ分野での実績がない「エプソン−コシナ」という長野県企業同士の組み合わせだったことでしょう。コシナの「ベッサ」での実績を知らなければ、「あざといコンセプト」と腹を立てたかもしれません。
 先日発売が決まったばかりのパナソニックの「DMC-LC1」やもそうですが、おそらくここ数年間は、全てのカメラメーカーが「よりマニア層の心を掴む、銀塩ライクな高級コンパクト」のコンセプトを練っていたでしょう。既に市場にあった京セラの「CONTAX Tvs DIGITAL」なんかは、いまいちコンセプトが弱かったですから…。むろんこれは、根強い銀塩カメラファン、中でも購買力のある中高年層を対象にしたデジカメ…と言う意味であり、こうしたユーザー層に受けるのが「LマウントまたはMマウントへの対応」と「レンジアインダー」あたりだってことは、カメラ関係者なら誰もが考えるところです。次に、類似コンセプト機市場に参入してくるのは、3年前に「S3 2000年記念モデル」を限定発売したニコンあたりでしょうか。それとも、ライツミノルタCLやCLEで実績を持つミノルタ(コニカミノルタ)あたりでしょうか。
 ただ、依然としてデジカメには、「CCDの面積が銀塩フィルムより小さいため、銀塩用レンズを利用すると焦点距離が変わるし、撮影イメージも大きく変わる」…という問題があるわけです。しかし、ここ数年で広範囲な中高年銀塩マニア層がデジタルへと移行し(またはデジタルを併用し)、銀塩とデジタルの特性の違いを受け入れるようになってきました。要するに、昨今のデジカメの技術、普及度、市場の成熟度などを考えて、この手のカメラを市場に投入する「機が熟した」ということです。もとより、銀塩と比較したデジタルの画質面での問題はほとんどありません。こうなれば、こうした層を狙ったデジカメが市場に投入されるのは当然です。今後は、様々なコンセプトの「高級コンパクト市場」に、各社が次々と製品を投入するでしょう。なんたって、現在の日本で最もお金を持っている消費者達ですから…
 ところでこのデジカメ、お金持ちの中高年マニア層を狙うのもけっこうですが、個人的にはこの記事にあるように「APS-Cサイズの600万画素あたりを使って30万円前後の価格」…なんて高価な製品ではなく、多少安価な2/3インチ、500万画素あたりを使って15万円以下の実売価格で商品化して欲しいところです。そしてできれば、専用レンズの開発を前提として、かつてのCLEのような、もう少し小型のレンズ交換可能なレンジファインダー・デジカメを、標準レンズ付きで実売10万円以下で発売して欲しいと思います。どうせなら、フォーカルプレーンシャッターがいいですね。安くする代わりに、撮像素子は高価な大面積タイプじゃなくても、1/1.8インチ、500万画素で構いません。用意するレンズは、CLEと同じように28o、40o、90oの3種だけでいいですから…

2004/2/21

 このサービスは、実に興味深いものです。
 携帯電話端末(ブラウザフォン)と複合化することに最も親和性が高い機能は「GPSを含む位置情報取得」であることは、疑う余地もありません。ある意味でデジカメ機能よりも親和性が高く、ラジオやTVの試聴機能なんて携帯端末との親和性の点では足許にも及びません。
 携帯電話キャリア各社は、ブラウザフォンサービス初期の段階から、GPS搭載アプリケーションを模索してきました。むろん、アメリカの911通報で位置情報取得が義務化された頃から、緊急時通報、子供の安全確保などは必須アプリケーションとして実用化が模索されてきましたし、流通分野、営業分野などのビジネスアプリケーションの実用かも早い段階から開発されてきました。さらに「位置情報付き広告」「歩行ガイド付き広告」等が、バナー広告だけでなく「ユーザー通知型広告」も含めて、最大の位置情報関連市場として認知されてきました。
 こうした中、「携帯端末+位置情報」を利用した「遊び」系のアプリケーションについては、「観光ガイド」「出会い」「カメラ画像への位置情報貼付」など、誰でも思い付くありきたりのアイデアに留まっていたのが現状です。
 そこへ来て、この「ウェブログとの連携」です。ウェブログは、個人の情報発信手段、表現手段としてきわめて優れたものですが、携帯端末での閲覧は、見易さや表示容量の問題から、パソコンを利用するネットユーザー対象への情報発信と較べて、実用性が落ちるものでもありました。
 ウェブログに位置情報を添付できるならば、わざわざ携帯電話向けのウェブログを公開することに「絶対的な意味」が出てきます。携帯から見ているからこそ、特定場所に簡単に辿りつくことができるからです。
 私は、自律型測位が可能な端末の早期販売を望むとともに、このサービスが世界レベルで展開される(例えばGPS付きのGSM端末向けに海外のスポットをガイドするウェブログを作る…など)こと願っています。

2004/2/20

 なんだこりゃ?…と突っ込みたくなるような文章を、大新聞の紙上(Webサイト)に見つけたので、ちょっと感想を書いてみます。その文章とは、サンケイ新聞の「正論」に書かれた「正論通らぬ社会の疲弊を憂える 取り戻そう、日本伝来の良き規律 〜深刻な『恥の文化』の喪失」という文章で、拓殖大学教授の肩書きがある「森本敏」という人によって書かれたものです。
 なお、お断りしておきますが、私がこの文を書くにあたって、政治的な発言をしたり、政治的な自分の立場を明確にする意図などは、まったくありません。また、この文を書いた森本氏の政治面での主張を批判する意図もありません。森本氏の文中にある「社会生活を営む上では一定の規律と礼儀が必要」とか「社会全体の弊害が一握りの人の原因によるものなどということはありえない。我々全員の責任である」…などの主張には賛同する部分が大きいし、防衛問題に関しても私は基本的に社民党のような「何が何でも護憲」という主張には反対する立場です。
 問題だと思ったのは、論理性のカケラもなく、あまりに幼稚で論旨がメチャクチャ(論旨がない)な文章です。これで大学教授だというのだから、おもわず突っ込みを入れたくなっただけです。私もこのWebサイトで「論理性のカケラもない文」を大量に書いていますが、あくまで「私的なWebサイト内での遊び」として、意図してメチャクチャな文を掲載しているものです。しかし、この「正論通らぬ社会の疲弊を憂える」という文章は、公共性が高い、しかも社会への影響力が大きい「大新聞」に掲載されたものです。まったく比較はできません。

 なお、反論(突っ込み)の論旨を明確にするため、文章全体を(1)〜(9)の9つのパラグラフに分けてあり、パラグラフごとに感想を入れてあります。著作権の問題が面倒なので、全文の引用はしませんので、原文と照らし合わせながらお読み下さい。むろん、「出典と範囲を明記した引用や転載は、盗作、翻案、剽窃には当たらない」…との学説、及び過去の判例に基づいて判断しています。
 また、産経新聞は著名Webサイト「連邦」と著作権問題を起こしました。産経新聞は、自社記事へのリンクすらも問題視しています。しかし、この点は当サイトの著作権ポリシーに従って対応します。
 …あ、いつもながら誤字脱字、変換ミスはご容赦のほどを。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
パラグラフ(1)
 深刻な「恥の文化」の喪失 「正論」とは何か。わたくし的に言えば… (以下略)

■「正論とは何か?」という問いほど、答えるのが難しい問題はないと思います。国、文化、宗教によっても常識は異なるし、世代や育った環境によっても常識は異なります。例えば「飲酒」の是非について、日本人とイスラム教徒が議論したらどうなるのでしょう。「カースト制度」についてホンドゥー教徒と議論する気はしません。むろん、この文章の中で後述しているように、「伊東市の成人式における若者の狼藉」の是非について「議論の余地はない」でしょうが、世の中には「無条件で是非を判断できる」ことの方が少ないと思います。例えば、女子高生が髪を染める…ことは私は反対しませんが、きっとこの文章の筆者は反対するでしょう。ましてや「イラクへの自衛隊派遣」についての「正論」とは何だか、私自身もよくわかりません。
 「正論とは何か」…と自分で問いかけて、その答えが「わたくし的に言えば正論とは至極、当然で筋の通った所論のことである」と自分で回答していますが、あのさぁ…その「至極、当然で筋の通った所論」というのが何だかわからないんだよ…と突っ込みを入れたくなります。この筆者は「自分の主張が正論」としか、考えていないのでしょう。森本氏は大学教授らしいですが、ならばもっと論理的に答えて欲しいものです。床屋談義じゃあるまいし、大新聞の社説に掲載するような内容じゃありません。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(2)
 何故、「正論」が世に通らないのか。それは問題意識が薄いか、あるいは…(以下略)

■百歩譲って、仮に「正論」の定義づけ、またはコンセンサスができたとします。そうした条件を設定しても、「何故、正論が世に通らないのか?」という問いを自分で発し、それに対して「それは問題意識が薄いか、あるいは問題に気が付いても実行しない人が多いからである」と答えるのは、バカにした話です。人が育った文化や環境の違いを無視して、「問題意識」の問題だけに原因を求めるのはバカげています。「お互いに強く問題意識を持っている人同士の意見が食い違う」という事実にこそ、「正論とは何か」を問う意味があるはずです。  また「日本人の思考基準」なんてものは、本当に存在するのでしょうか。森本氏は「多様な思考形態」「多様な価値基準」を認めたくないのでしょうか。そんな人が大学教育の現場にいるのは恐ろしいことです。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(3)
 「イラクは危険だから自衛隊を行かせるべきでない…(以下略)

■私は「サヨク」ではありませんが、戦地に自衛隊を派遣するのは、あきらかな憲法違反だと思います。「陸海空軍はこれを保持しない、国の交戦権はこれを認めない」…と書いてある憲法第9条のどこをどう読んでも、軍隊を持ってそれを海外に派遣してもよいと解釈することはできないからです。
 ただし、私は社民党のように金科玉条のように「護憲」を唱えるつもりはありません。自衛隊の是非、軍隊を持つことの是非については、きちんと議論すべきだと考えています。その上で、憲法が間違っている、または時代にそぐわないというのなら、手続きを踏んで改正すればよいだけです。明確に「日本国は自衛のための軍隊を持つ」「自衛のための軍隊は、目的が自衛である限り海外にも派遣することができる」…と、明確に「軍隊を持つ」「海外に派遣する」と条文を書き換えればよいのです。
 森本氏が「軍隊を派遣して国を守ることが必要」と考えているのならば、「憲法9条は間違っている」と主張すべきなのです。それが「正論」かどうかは別にして、少なくとも「議論に望むフェアな態度」です。「戦地に自衛隊を派遣するのは憲法違反という議論は思考基準がずれているとしか言いようがない」…という書き方は論理的ではないし、フェアでもありません。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(4)
 いずれにしてもこの「恥の文化」の喪失は深刻…(以下略)

■唐突に、これまでの文章の論旨とは無関係の展開になります。「正論」の話と、「恥の文化」の話は、全くベクトルが違います。「イラクへの自衛隊派遣」の話と、「伊東市の成人式における若者の狼藉」の話は、問題点が違うのです。森本氏の頭の中では、「正論が通じない人間」=「狼藉を働く若者」という論理展開があるのでしょうが、「いずれにしても」という接続詞で繋げて展開する話ではありません。非論理的な展開で、とても大学教授が書いたとは思えません。再度「論理的思考」を身に付け直した方がよいと思います。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(5)
 日本社会はどうしてこんな状態になったのか。その原因は何か…(以下略)

■この部分だけを読めば、その通りです。これは「正論」です。私も「我々全員の責任」だと思っています。そして社会生活を営む上では一定の「規律と礼儀」は必要だと思います。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(6)
 成人前の奉仕活動も一案 例えば、大学には最近、授業評価という制度があり…(以下略)

■板書が下手な学生が、教員の板書が下手だと批判するのは腹が立つ…と言ってますが、信じられないようなバカバカしい主張です。学生が読みやすい板書をする…というのは、ある種教員の義務です。それは仕事のうちです。一方学生は、板書が下手で当たり前です。同列に並べて論じる問題ではないでしょう。講義の語り口について評価するのも、抗議を受ける側の学生の当然の権利です。自分の立場もわきまえず、こんなくだらないことで腹を立てているとなると、「講義する先生への関心も薄い」との言葉も、森本氏の講義がつまらないから…だと思っちゃいますね。「人をなんだと思ってる」…と、いまどきの学生と対等に腹を立てているこの人は幼稚ですね。そんなに講義が嫌なら教員を辞めれば…、としか言いようがありません。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(7)
 今日、日本社会を良くする手立ては… (以下略)

■「年配者に問うと徴兵制の復活を口にする」…と、あたかも普遍的な意見のように書いていますが、いまの日本で「徴兵制の復活」を口にする年配者なんて、まずいないでしょう。いても非常に小数でしょう。ちなみに私も年配者ですが、若者のしつけを徴兵制で…なんてことは考えたこともありません。私の親の世代、要するに実際に戦地に行った人の大半は「戦争はこりごり」と考えています。多くの世論調査で「改憲」すら半数以上の人が反対しているのに、徴兵制導入を望む人が一般的であるわけがありません。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(8)
 国家資格制の導入検討を 厳しい訓練・奉仕と共に…(以下略)

■日本の法律・政治・経済・社会・文化などについて、さらに規律・礼儀・挨拶・容儀・服装・作法について「国家試験」を導入しろと言ってるんですか? 「女性のスカートの長さ」とか、服装を国家がチェックするんでしょうか? おまけに、厳しい訓練と奉仕をベースにした基本教育…って、この学力低下で国家の存亡が問われている時に、何を言ってるのか理解できません。
-----------------------------------------------------------------------
パラグラフ(9)
 もっとも、これを徴兵制の復活と反対する人が多かろう…(以下略)

■要するに、森本氏は間接的ながら「徴兵制、もしくは徴兵制に準じる制度を実施しろ」と言っているわけですね。パラグラフ(7)で、徴兵制について「これには賛成できない」と明確に主張しておきながら…。矛盾しています。
 しかも、反対者が多くても「企業が争ってこのコースを出た若者を採用したり、このコースを出ることを採用条件にする企業が増えれば問題は解決する」…って、企業の行動任せにするあたりも無責任です。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
 さて、私はイデオロギー面では右でも左でもありませんが、この「論旨不明」で「幼稚」な文章にはあきれるばかりです。
 基本的には、「今の日本では正論が通らない」ことを憂いているようですが、それと「日本人が恥の文化を忘れた」こととの関連はよくわかりません。その後唐突に「日本の若者には日本文化を知り、規律を覚えることが必要」と主張し、「そのためには徴兵制のもとに軍隊へ生かせるべきだ」…と説いています。論理展開はムチャクチャです。

 おそらく森本氏がいちばん言いたかったのは、「若者に常識を身に付けさせるためには徴兵制のもとで一定期間軍隊で鍛えさせるべき」…ということでしょう。もし考えるのならば、軍隊というところが「常識を身に付けるのに役立つ」ことを「証明」ないしは「説明」しなくてならないはずです。私の祖父から聞いた話、そして多くの戦中兵士の証言によれば、少なくとも戦前の軍隊は「古参兵の理不尽ないじめや暴力に耐える場」であったし、東南アジアや中国各所で略奪を繰り返したモラルの低い集団でもありました。また、インパール作戦のような補給を無視した作戦をたてて、多くの兵士を無駄に死地に赴かせるというムチャクチャな作戦を立てた高級将校は、外地の料亭で女を抱いて贅沢な生活をしている…という、上層部のモラルはまったくない集団でした。
 現在の自衛隊がこうした旧日本軍と違うことは認めます。しかし、旧日本軍の特性や行動に対する分析や総括もなしで、簡単に「しつけのために若者を軍隊へ」と主張するのは、まったくいいかげんな話です。
 ともかく、突込みどころ満載のあまりにも幼稚な文章で、びっくりしました。

2004/2/19

 私は以前、斎藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本に対して、異論を唱えたことがあります。この「声に出して読みたい日本語」について、ちょっと古い出典ですが「日本語ブームとナショナリズム」という小森陽一の論考があります。この「日本語ブームは、じり貧のアイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓…」という指摘は非常に的確であり、私もそう思います。さらに、ここにも書かれているように、香山リカの「ぷちナショナリズム症候群」(中公新書)は、こうした状況を実にうまく分析しています。
 それにしても、この「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」は、最近ますます強引になってきているように感じます。  2002年ワールドカップの狂乱以降も、私がこの日記の中で何度も揶揄したように、官民挙げての「No1よりオンリーワン」の大合唱、依然として沈静しない「司馬遼太郎ブーム」、NHKドラマの「新撰組」に触発された明治維新ブームの最燃焼、そして映画「ラスト・サムライ」のヒット、「日露戦争100周年」関連ブーム…など、全ては「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」の結果でしょう。さらに、こうした市場として最も象徴的なのが、昨今の新興宗教の隆盛です。私は現代の宗教の大半は「宗教ビジネス」だと思っていますし、アイデンティティ・クライシスが顕著な現代は、宗教ビジネスやセミナー商法には、最適な時期なのかもしれません。
 まあ、「仕事」にしかアイデンティティを持てなかったサラリーマンがリストラされたり、モラトリアムを求める就職できない若者が増えたり、学校教育から落ちこぼれる子供が増えたりする中、「アイデンティティを与えてくれる」メディアやビジネスが流行るのは、非常に納得できる話です。
 以前も書きましたが、「No1よりオンリーワン」なんて、何も出来ない人間、何もしたくない人間にとっての便利な言い訳の言葉になっているし、明治維新で結果的に何の役にも立たなかった新撰組に対して「社会の役に立たない人間」が共感したくなるのは、よくわかります。

 で、斎藤孝の「声に出して読みたい日本語」の話から書き始めたのは、この斎藤孝が新刊を出したからです。その名も「CDブック 声に出して読みたい方言」(草思社)です。
 さて、その内容はというと、古今東西の有名な文学作品を、様々な方言に言い換えて朗読する…というものです。本書の宣伝コピーによれば「あの『人間失格』が広島弁!? 〜いまとなっちゃあ、自分ゃあ、完全に人間じゃ無うなってしもうた。 えっ!あの『雪国』が名古屋弁!? 〜国境の長あトンネルくぐるとよー、まあひゃあそこが雪国だったでかんわ。」…って感じです。
 もうムチャクチャです。名作「人間失格」をなぜ広島弁にする必要ガあるのか、しかもなぜそれを朗読する必要があるのか、まったくわかりません。
 以前こちらでも書いたように、文学作品は、内容とともに「文字面の美しさ」をも追求したものであり、声に出すことを想定して書かれていません。「文字で書かれた芸術・文化」である文学作品を、朗読すること自体に私は反対なんですが、さらにここでは「方言で言い換える」という暴挙までやっています。

 「方言には、その土地の風土が色濃く染み込んでいる。人間が五官で感じる感覚が言葉に込められている。においや手触り、からだの躍動感や空気。長い年月をかけて、その土地の風土でつくり上げられてきた身体の感覚が、言葉の中にしっかりと刻み込まれているのだ。これは大変な文化遺産だ(はじめにより)」…こう前書きに書いてある内容自体は、誤りではありません。方言が「文化」だってことに異議はありません。私も地方出身者ですから、今でも地元の方言が出ることはありますし、それを別に「誇り」には思っていませんが、「ごく自然なこと」だと思っています。だから、「もともと方言で書かれた文学作品」や「方言で歌われる歌」が存在することは、立派な文化として認めるべきでしょう。
 しかし、方言が文化であることと、「完成された文学作品を方言に言い換え、聴いたり朗読したりする」ということには、何の関連もありません。むしろ、ある種の暴挙、作品に対する冒涜でしょう。こんなバカなことをやって、「方言文化」が理解できるはずもありません。
 結局これは、「地方出身であることにアイデンティティを持て」という「アイデンティティ・クライシスに寄生した市場開拓」の1つであり、「国家単位から地方単位へとエリアを狭くしたプチ・ナショナリズムを喚起する」ことも目的の1つでしょうね。
 「声に出して読みたい方言」…、出版ビジネスの世界とはいえ、まあよくもこんなにくだらないことを思いつくものです。

2004/2/18

 ある時代に流行った楽曲を聴くと、その時代の自分を思い出す…、というのは世代を問わず誰でも同じでしょう。私のような中年男にとって、中学・高校時代に聴いた洋楽は「夢の世界」を切り拓いてくれるものでした。洋楽に興味を持ったのは、中学校に入った直後から聴きはじめたラジオの深夜放送によるもので、深夜に「洋楽ベストテン」なんかを聴いて熱中してました。高校時代のある時期以降、私の音楽の好みはブルースとブルース系のハードロック一辺倒になったわけですが、それでもジャンルや曲の好き嫌いに関係なく、仕事中に聴いているラジオから昔のヒット曲が流れてくると「胸キュン状態」になることがあるわけです。思い出すままに、曲の好き嫌いも年代も無視してランダムに並べれば…、喜びの世界(スリー・ドッグ・ナイト)、ミー・アンド・ボビー・マギー(ジャニス・ジョプリン)、やさしく歌って(ロバータ・フラック)、悲しき初恋(パートリッジ・ファミリー)、ホワイト・ルーム(クリーム)、雨にぬれても(B.J.トーマス)、アクエリアス(フィフス・ディメンション)、マサチューセッツ、ワーズ(ビージーズ)、サウンド・オブ・サイレンス、ミセス・ロビンソン(S&G)、ゲット・バック、レット・イット・ビー(ビートルズ)、ヴィーナス(ショッキング・ブルー)、雨を見たかい(CCR)、ローズ・ガーデン(リン・アンダーソン)、ノックは3回(ドーン)、アローン・アゲイン(ギルバート・オサリバン)、カリフォルニアの青い空(アルバート・ハモンド)、迷信(スティービー・ワンダー)、アメリカンバンド(グランド・ファンク・レイルロード)、グッバイ・イエローブリックロード(エルトン・ジョン)…といった当時の様々なヒット曲(ミュージシャンの名前が違ってるかも…)が、私の「胸キュン曲」というわけです。
 いや、今回は音楽の話を書こうと思ったわけではありません。実は食べ物の話が書きたかったわけで、ここまでは長いけれども単なる「前フリ」です。

 「聴くと胸キュンになる音楽」があるとすれば、「食べると胸キュンになる食べ物」もあります。私にとって、そうした胸キュンな食べ物の代表は、「豚肉のしょうが焼き」…です。
 もともと外食なんて全くしない家庭に育ったので、高校時代にはたまに友人と食べる喫茶店のトーストやスパゲティ以外に、外食経験がありませんでした。それが、18才の時に大学入学のために上京して一人暮らしを始めたら、キッチンのないアパートで毎日が外食…という生活になりました。とは言え、当時は非常に貧乏で、3畳1間の風呂なしアパートに住んでおり、外食の食費も極力切り詰める生活。今思えば、毎日ひどいものばかり食べていました。
 そんな生活の中で、いつも「美味しい」と感動して食べていたのが、「しょうが焼き定食」です。生協の食堂のメニューにもあったし、街の喫茶店のランチにもありました。アパート近くの行きつけの小さな中華料理店にも、濃い味付けのしょうが焼き定食がありました。  豚肉のしょうが焼きは、それまで自宅の食卓に出たことがなく、外食するようになって初めて食べる料理でした。私の母は料理好きでレパートリーも豊富でしたが、「豚肉のしょうが焼き」というメニューは自宅では一度も出たことがありません。同世代の友人に聞いても、子供の頃に自宅でしょうが焼きを食べたことがある…という人間はほとんど聞いたことがないので、少なくとも昭和30年代、40年代あたりにはポピュラーな家庭料理ではなかったのでしょう。私は、1人暮らしになって初めて食べるしょうが焼きにハマり、週に3〜4回は食べていました。  その後いろ
いろと生活環境や食事の嗜好に変化があって、20代から30代にかけてはほとんどしょうが焼き定食を食べなくなっていたのですが、ここへ来てまた「しょうが焼き定食が食べたい…モード」に入っています。年をとったせいでしょうか、しょうが焼き定食を食べている自分…が、なんとなく懐かしいんです。しょうが焼きを食べると、上京して初めて食べるしょうが焼き定食に感動していた、18才の頃の自分を思い出します。その頃の孤独なアパート生活や、その頃歩いていた街並を思い出します。
 そんなわけで最近は、だいたい週に1回は、オフィス近くのレストランのランチでしょうが焼き定食を食べてます。
 でも、「豚肉のしょうが焼き」って家庭で作って食べてもイマイチですね。外食で食べる方が美味しい。それもレストランや高級洋食店ではなく(そんなところにはメニューにありませんが)、大学の食堂とか場末の喫茶店のランチ、学生街にある大衆的な食堂で出る「しょうが焼き定食」の味がいいですね。多少肉が固くても、ジューシーさに欠けても、ジャンキーな感じの安っぽいしょうが焼きが好きです。そして、しょうが焼きは夕食のおかずに食べるよりも、ランチの定食で食べた方が美味しいように思います。

 食べ物の話のついで…というわけではありませんが、今日の画像は南池袋にあるトルコ料理レストラン「カッパドキア」です(EX-S20で撮影)。
 店頭にはためくトルコの半月旗が、いいですね。池袋駅東口から明治通りを新宿方面に坂を下っていくと、明治通り沿いのあまり目立たない場所にあります。
 トルコ料理の定番、「ケバブ」関連のメニューが充実している他、豆を使った料理などもあります。私は「本格的なトルコ料理」がどんなものか知らないので、この店の料理の優劣は判断できません。ただ、日本人向けにアレンジしてあるようで、食べやすい料理ばかりです。まあ、いきなり本格的な夕食に訪れるというよりも、安いランチでも食べてみてください。

2004/2/17

 愛知万博デザイン、ロックウェル作品と「そっくり」…というニュースですが、実にトホホな話です。こちらに、問題のデザインを使った愛知万博協会のパンフレット、パクったと言われているノーマン・ロックウェルの「春・ハイキングする二人」の両者の画像がありますが、これはもう問答無用の完全なパクリです。議論の余地はありません。ポーズのどこが違っているとか、人数が違うとかそういった問題ではありません。「絵のコンセプト」…をパクっています。要するに、万博PRデザインの原画は、「ロックウェルの絵を下敷き」にして描かれたものです。パクったことは、デザインした当人が一番よく知っているはずだし、電通の担当者も十分にわかっていると思います。
 さて、不思議なのはこのノーマン・ロックウェルの「春・ハイキングする二人」というのは非常に有名な絵だということです。愛知万博の担当者はともかく、電通の社内でクリエイティブに携わっている人間がなら、絶対に知らない絵ではありません。
 昨今の大手広告代理店は、バブルの頃にもっともおいしい儲けが出ていた「博覧会」の開催が減って困っているはず。久しぶりの儲け話である愛知万博関連のプロジェクトであれば、電通社内でもかなりの数の人間が携わっているでしょう。全員がこの絵の存在を知らなかったとは、考えられません。となると、「ロックウェルの作品を下敷きにした絵とわかっていて使った」…としか考えられないわけです。「この程度なら構わない」と考えたのか、逆に「ロックウェルの絵を下敷きに使ったことが面白い」と考えたのか…、採用に至るまでの電通担当者の思考プロセスが想像できません。不思議な話です。以前、マルチメディアコンテンツ関連で電通の人間と一緒に仕事をした時には、神経質なほど著作権問題を気にかけ、オリジナルイラストをベースにしたアイコンのデザインと、某有名アニメキャラのデザインとの類似性を気にしていました。私の知ってる電通って、著作権の話にはやたらとうるさい人間が多いのですが…
 この「模倣ではないか」という指摘に対して協会と電通は、「類似したものとは考えない。法的に問題はない」とコメントしていますが、法的にどうこうという話ではありません。こういう著名な絵を下敷きにしたデザインを世に出した…という事実を、クリエーターとして心から恥じるべきなのです。

 ノーマン・ロックウェルといえば、以前も私が「よい番組」と評価したテレビ東京の番組「美の巨人たち」で、昨年12月に2回シリーズでノーマン・ロックウェル「アメリカの肖像」を放映していました。
 私はロックウェルが特別好きなわけではりませんが、この番組を見て、アメリカ人にとってロックウェルがどれほど偉大な存在かを理解しました。これを知ったら、たかがくだらない万博ごときのPRデザインに神聖なロックウェルをパクるなんて、アメリカ人が怒るでしょう。
 それにしても、あのロックウェルの絵(イラスト)、彼はまずモデルを決め、邸宅内のスタジオできちんと衣装を着せてポーズをとらせて写真を撮り、それを下敷きに書いていたのですね。あの有名な「家出少年」のモデルになった少年がまだ生きていて、ロックウェルについて語っていたのにも驚きました。

 ところで、こちらで、「美の巨人たち」のDVDが購入できるのですが、私の好きなマグリット「光の帝国」、オキーフ「牡羊の頭、白いタチアオイ、丘」、ホッパー「ナイト・ホークス」…などの放映分は、まだDVD化されていません。早くDVD化されることを願っています。

2004/2/16

 「日本の若者 20%が無職状態」…という昨日の話の続きです。無職者やフリーターの急増に対して、「大企業は若者を雇用する責任を果たせ」とか「企業は便利な雇用調整手段としてフリーターを使うのをやめろ」…とか、まあ共産党、社民党系の意見も多いようですが、一方で政府に対して対策を求める声も多いですね。そんな声に押されてか、政府は2004年度からフリーターらに職業訓練をするための予算を確保しました。国が税金を使って若者に就職支援をするわけです。さらに、ちょっと古い話になりますが、昨年9月の自民党総裁選では、小泉首相は公約としてフリーター対策を強くアピールしていました。いずれにしても、無職対策やフリーター対策と称して、若者の就職支援にけっこうな税金を注ぎ込むわけです。
 私は、障害者や高齢者など「社会的弱者」に対して税金を遣うことに異存はありません。予算が許すのであれば、まあ積極的にやって頂きたいと思います。しかし、昨今のフリーターや無職者のうちの多くが、弱者なんかではなく、単に「努力を放棄した人間」であることも、また確かです。国立大学の医学部や看護学部などを目指して死に物狂いで勉強する若者、また将来の独立開業を目指して高卒で厳しいシェフ修行やパティシエ修行の道を歩む若者…など、社会で這い上がり、上を目指すために必死で努力する若者に対しては、ほとんど支援の手は差し伸べられません。こうした「自分で努力する若者」達は、あくまで自分自身の力で何とかせざるを得ないのが現実です。一方で、中学・高校と勉強もせずに面白おかしく遊び、または漫然と怠惰な日常を送ってきた若者が、その結果フリーターになる…という例は非常に多いでしょう(むろん全てのフリーターがそうだと言っているわけではありません)。こうした人間に税金が注ぎ込まれるのは、なんとなく釈然としない部分があります。少なくとも、弱者の救済ではありません。
 世の中は、「一所懸命勉強する若者」に対する、ある種の「逆差別」があるように思います。「偏差値教育の弊害」という言葉は、ある種「勉強ばかりしている若者」を揶揄する意味でも使われます。
 私の仲のよい友人の子供は、家がごく普通のサラリーマンゆえに、大学は自宅通学、しかも国公立大学しか行かせてもらえませんでした。むろん高校も都立高校ですし、浪人するにしても高いお金を出して予備校には行かせられないと言われました。東京都内の国公立大学は、昨今どこもかなり偏差値が高い状況です。そんな状況の中で彼は、高校3年間を必死で勉強し、昨年春に現役で念願の国立大に進学しました。進学した彼は、奨学金とアルバイトだけで授業料を含む全ての費用を捻出し、大学に通っています。私は、フリーターの就職支援なんかに税金を遣うよりも、こういう向上心のある若者に、まず税金を遣って援助をすべきだと思います。
 前から主張しているように、一定の水準にある大学にだけ手厚い補助金を出して、授業料を無料にすべきです。全大学の半分以上を占める全入レベルの大学については補助金を撤廃すればよろしい。その結果、大学がつぶれようと授業料が3倍になろうと知ったことではありません。今の日本で残すべき大学なんて、せいぜい1/4程度でしょう。
 さらに、大学生に対する支援だけでなく、高校生でも成績がよいものには惜しみなく奨学金を与えるべきです。むろん、レストランや料亭などで安月給で辛い修行をしているような、働く若者に対しても支援をすべきでしょう。
 自分の人生に対して自分で責任を取るべきフリーターを支援するより先に、「社会の将来を担おうとする意欲があり、また意欲に見合うだけの努力をしている若者」に対して、国家は手厚く報いてやりたいものです。

2004/2/15

 「日本の若者 20%が無職状態 …国の労働力調査によりますと、去年1年間の平均の完全失業率は、5.3%で13年ぶりに前の年を下回り、雇用情勢は全体としては改善の兆しをみせています。しかし、15歳から24歳までの若者のうち、いまも仕事を希望している失業者は68万人で、失業率は前の年を0.2ポイント上回る10.1%となりました。同じ年齢層の若者のなかには、仕事を探すことを自らやめてしまった人たちが69万人います。このため失業者の数とあわせると、あわせて137万人、15歳から24歳の若者のほぼ5人に1人が学校に行かず、仕事もしていない無職の状態にあることがわかりました…」

 この「日本の若者の5人に1人が無職」というニュースに対して、連合の笹森会長が「戦りつすべき数字で放置すれば日本は崩壊する。経営側には利潤追求のあまり入口を閉ざす体質を改めるよう求めるとともに、労働者側も現役世代とのワークシェアリングを取り入れるなど、総力で対策に取り組む必要がある」とコメントしています。何言ってんだ…と思いました。
 私は、日本の若者の5人に1人が無職である理由は、連合の笹森氏が言うように「経営側が利潤追求のあまり入口を閉ざす体質」だからではない…と思います。こうした「昔の左翼」的な発想では、問題は解決しません。というよりも、企業は利潤追求をするのがあたりまえ。ワークシェアリングなんて効率の悪いことをする必要もないと思います。
 むしろ問題の多くは、無職の若者の側にある…と感じています。周囲を見渡しても、私のオフィスでアルバイトの面接をしても、5人に1人以上の確率で、社会常識の面でも教養の面でも、とてもじゃないけどまともに社会で働けないような若者がいます。これじゃ、5人に1人が無職で当然です。
 これは、「教育」の問題だと思いますが、教育とは言っても、学校教育というよりも社会教育、または家庭教育の問題でしょう。
 付加価値の高い仕事ができるだけの高度な知識や教養を持つ人間が増えることも必要でしょうが、そうした仕事だけで社会が成り立っているわけではありません。日本国内で仕事がないなら海外で働く…、アジア諸国ではあたりまえの、こんな発想と意欲を持つ若い世代を社会全体で育てたいものです。親に寄生する生活を当然のように甘受する人間が増えたのが、なんともやりきれません。

2004/2/14

風防、ハンドルカバー、前カゴ…と、ここまでは配達車仕様。
しかし後部座席には、リヤシートと背もたれつきのでかいリヤボックス、
極めつけは、泥除けカバーはそのままで、しっかり取り付けられたゴリラのタンク…
なんとなく、タンデムでロングツーリングができそうな…
不思議なセンスだけど、妙に惹かれるスーパーカブ90です。



2004/2/13

 牛丼フィーバーにチクリ 「単純な国民だ」 …BSE(牛海綿状脳症)の影響で、吉野家のほとんどの店で11日に牛丼販売が休止され、直前に客が「食べおさめ」の行列をつくったことについて、日本経団連の奥田碩会長は12日、東海地方経済懇談会後の記者会見で「テレビは一部の人の動きを面白おかしく報じていたようだが、(牛丼がなくても)死ぬわけでない。日本人は右から左へ早くふれやすい、単純な国民だと感じた」と、牛丼フィーバーをチクリ。懇談会でも奥田会長は牛丼を教育上の問題点の例に挙げ、「日本人はどうしたのだろうか。やはり教育に力を入れなければならないと感じた」と語った…

 これはかなり微妙な発言で、面白いですね。こういう発言をする奥田碩氏もまた「単純」だと思う…ってのもあるし、別に牛丼がなくなるので多くの人が単純な行動に出たとしても、教育の問題にまでどう関連するのかよくわからない部分もあります。さらに、マスコミは騒いでいますが、実際にあわてて牛丼を食べに行った人なんてごくわずかでしょう。吉野家が混雑したのは、せいぜい普段の2〜3倍程度の人間が押しかけたに過ぎず、もともと牛丼を常食している人なんて少ないので、現実にはたいした人数ではないはず。事実、私のオフィスでは、今回の騒ぎで牛丼を食べに行った人なんて誰もいません。

 確かに、日本人は他人のフリを見て「右向け右」という人が多いと思いますが、これは特に日本だけのことではないでしょう。アメリカ人でも、イラク戦争の例を挙げるまでもなく単純に一つの方向へ向くことはあります。
 ただ、今回の牛丼のように食べ物の話であれば、アメリカではここまで単純な行動には出ないかもしれません。それはおそらく、アメリカが多民族・多宗教国家だからです。ヨーロッパ諸国も同じ、ネオナチの問題なんか見てて危ない部分も感じますが、それでも個人主義が浸透しているヨーロッパでは、国民全部が同じ方向を向くという極端な事例は少ないと思います。フランスやドイツなんかだと、禁煙問題ですら世論がまとまらないですから。
 結局のところ、多様な文化と多様な価値観が混在し、なおかつ個人主義が発達している国でなくては、「国民の多様な行動」という形にはならないし、それは日本では難しいと思います。

 奥田碩氏は「個性を伸ばす教育」…みたいな話をしたいのかもしれませんが、そりゃ違います。昨今文部省が、「学力優先」から「個性を伸ばすゆとり教育」に路線を変更したら、ますます子供に個性がなくなった感じですから。私の小・中学校時代なんて、詰め込み教育、50人学級の時代でしたが、今の子供よりは個性的だったと思います。結局、本当の個性というのは「No.1よりオンリーワン」なんてくだらないお題目を挙げてもダメで、勉強もせずに渋谷の路上に座り込んでるガキを増やすだけ。個性は、ある程度の「知識」と「教養」が前提になってはじめて生まれるものでしょう。

2004/2/12

 「約27万人が飢餓直面も ハイチ暴動【ニューヨーク11日共同】 世界食糧計画(WFP)当局者は11日、反政府暴動の続くカリブ海のハイチで、道路封鎖などにより人道支援の食糧が輸送できない状態に陥り、1週間以内に援助活動を再開しなければ、住民約26万8000人が飢餓に直面するとの懸念を表明した。しかし、ハイチのアリスティド大統領は同日の記者会見で2006年2月までの任期を全うする考えを表明。退陣を求める反大統領派との対決姿勢を鮮明にしており、事態打開の見通しは立っていない。AP通信によると、暴動による死者は11日までに少なくとも47人に達した。武装集団は西部と北部の8都市を支配下に置いている。当局者によると、WFPはハイチの北部と北西部地域で食糧援助の準備をしているが、独裁色を強めるアリスティド大統領と反政府派との衝突が拡大。特に反政府武装集団と警察との銃撃戦が起きた今月5日以降、幹線道路が封鎖されている。(共同通信)」

 今日付けで、ハイチの惨状を示すこんなニュースが流れましたが、連日イラクやアフガニスタンのニュースがメディアを賑わす中、ハイチというカリブ海の小国家についてのニュースなど、気に留める人もいないでしょう。しかし私は、ここ数年のハイチの政情に多大な関心を払っています。特にイラク戦争以降は、イラクとハイチの政治状況の類似性が気に掛かります。

 1804年に独立したハイチは、南北アメリカ大陸にあって、米国の次に早く独立した国家です。15世紀にスペイン人に「発見」されて以降のハイチの歴史は、とても簡単に要約することはできません(こちらを参照)。
 いずれにしても、原住民が死に絶え、その後フランスの植民地となってアフリカから取れてこられた多数の奴隷がサトウキビ栽培のプランテーションで働かされていた国です。現在の国民は、大多数の黒人奴隷の子孫と週数のムラート(混血)で構成されています。  あらゆる意味で辛酸を舐めた黒人奴隷の子孫たちが、実は本当の苦難の道を歩み始めたのは第二次世界大戦後でした。  1957年から30年弱に及んだ、親子二代にわたるデュバリエ独裁体制については、既によく知られているところです。反対派弾圧のために組織された「トントン・マクート」という秘密警察(やくざ)が、虐殺と拷問で支配したデュバリエ体制は、まさに背筋の寒くなるような暗黒社会でした。いったいどれだけの国民が殺されたのか、今もってわかりません。
 しかし、1985年に民衆蜂起によってデュバリエ体制が倒れた後に、左派よりの民主政権ができることを恐れて介入したのは、やはりアメリカです。アメリカは、地主階層の利権、そしてアメリカ資本の投資利権を守るために、デュバリエの腹心の部下であった軍部のナンフィを援助して政権につけました。アメリカをバックにつけたナフィンは、結局、デュバリエと同じような腐敗した独裁政権と化したのです。
 その地主階級の利益を守るために残虐な独裁政権を続けた軍部に対して、民衆は立ち上がりました。そしてその民衆のリーダーであったのが、当時神父であり、現在の大統領であるアリスティドです。
 民主派はいったん政治の実権を握りますが、民主化を嫌うアメリカが介入します。CIAはクーデターを起こし、ナフィンの後釜にアブリルを擁立します。そして90年に、明ッ主か運動の中でアブリル政権も倒れました。同年12月に国連とOASの監視の下で選挙が実施されました。アメリカは資本家と地主階級の代表でバザンを支援しましたが、選挙は左派のアリスティドの圧勝でした。
 さらに米国は介入を続けます。アリスティド政権を倒すために、またしても軍部を支援してクーデターを起こさせます。その結果、また軍政が誕生しました。この軍政は、左派・反対派・民主派に対してすさまじい弾圧・虐殺を始めます。その結果、国土は荒廃し、国を棄てる亡命者が増加しました。政権に対する国際的な非難が集中します。こうした収拾がつかない政治状況の中、94年にガリ総長の判断による国連軍の派遣が決定し、米海兵隊を中心とする2万人がポルトー・プランスに上陸しました。軍部の独裁政権を退場させるためです。
 結局、あまりにも非人道的であった軍事政権を自ら倒したアメリカは、アリスティドの政権復帰を認めました。しかし、荒廃した国土、混沌とする政治状況は、その後も続いたのです。

 イラクにおけるアメリカ資本、そして西欧資本の利権を守るために、フセイン軍事政権を育てたアメリカ、そしてフセイン独裁政権がコントロールできなくなり国際社会の非難を浴びると、軍事的に介入して自ら育てた政権を倒したアメリカ…、これは1990年代後半にハイチで起きたことと同じです。アメリカは、イラクもアフガニスタンもハイチも、全く同じことを繰り返しているのです。

 私が、イラク情勢ばかりに注目せず、中南米の美しい国ハイチの状況にも目を向けているのは、こんな理由からです。

2004/2/11

 さて、ここは「画像日記」と称しているにも関わらず、最近は全く画像をアップしていません。デジカメで撮影していないわけではないのですが…。そこで今日は、新しい画像コンテンツを増やしました。「F402」「DSC-U30」「EX-S20」という3種の、いずれも超軽量の単焦点スナップデジカメだけで撮影した旅の画像集、「北京  〜2つの宇宙を見る」です。
 安価な200万画素の超コンパクト・デジカメだからこそ、多忙な仕事の合間を縫ってのスナップ撮影を気楽に楽しむことができます。画像サンプルとしてもお役立て下さい。

2004/2/10

 帚木蓬生「薔薇窓(上・下)」(新潮文庫)を読了しましたが、非常に面白く、しかも読後感は清涼でした。「面白い小説」というのはけっこう多いのですが、「清涼な読後感を持つ小説」というのは、そうそうあるものではありません。こういう小説を読むと、作家にだけでなく、安いコストで面白い本が読める現在の日本に生きていること自体に、感謝したくなります。いや、けっして大げさな話ではありません。

 かなり多作の作家である帚木蓬生の作品は、けっこう読んでいますが、その中には書評で高い評価を得ている作品もたくさんあります。しかし、個人的には「閉鎖病棟」や「臓器農場」「安楽病棟」などの医学モノなんかは、それほど面白くはありませんでした。うまい作家だとは思いますが、「差別」「医療」「倫理」「戦争」など、小説の素材に凝りすぎるところがあります。なんだか、無理やり重い社会問題の方に振られると、反撥を感じる時もあるのです。そんな彼の作品の中で、私は映画にもなった「三たびの海峡」、そして「逃亡」や「アフリカの蹄」あたりの、「人間の尊厳」を描いた系列の作品はまあ好きな方です。そうですね、この「薔薇窓」は、「アフリカの蹄」によく似た小説だと思います。
 基本的なストーリーはミステリー仕立てになっていますが、内容は「異国で暮らす女性の自立へのプロセス」と「20世紀初頭の欧州と日本の文化の対比」…がテーマになっています。
 舞台は、1900年(明治33年)のパリで、「パリ万国博」が開幕中です。20世紀の始まりを告げる一大イベントとなったこの博覧会によって、パリ市民は祝祭的な気分に満たされていました。会場の動力にはすべて電力が用いられ、「動く歩道」も登場、また会場はアール・ヌーボー様式の建築物で埋まりました。
 この万博開催中のパリの街を背景に、主人公である警察に勤務する精神科の監査医と、日本から来た旅芸人一座に異国パリで棄てられた(売られた)娘の心の交流が描かれています。

 1900年という年、世界はまさにその後迎える「戦乱の20世紀」の幕開けにふさわしい、混沌とした情勢でした。
 ヨーロッパではボーア戦争が続き、イギリスはアフリカのトランスバール併合を宣言しました。レーニンがスイスに亡命した年でもあります。
 当時の日本は、どんな状況だったのでしょう。本書にも何度か出てくる通り、中国民衆による外国人排外運動となった義和団事変に対して、連合軍の一員として日本が大軍を出兵したのが1900年です。日本は、欧米に伍して帝国主義、植民地主義国家としての道を本格的に歩み始めました。日清戦争に勝利を収めた日本は、極東アジアの覇権を求めてロシアと利権が対立、日露戦争に向かって突き進んでいました。明治政府が急激に産業や社会システムの近代化を進める一方で、多くの社会矛盾が露呈し始めました。あの足尾銅山鉱毒被害民の直訴があったり、安倍磯雄、幸徳秋水らによって社会主義協会が結成されたのもこの年です。社会や産業の近代化によって、都市と農村、資本家と労働者など社会階層の分化が進み、まだ維新前の封建社会の残滓が燻る中で、貧富の差が極端に激しくなった時代でもあります。
 「薔薇窓」の主人公である日本女性「音奴」が、明治33年という年にパリに流れてきた旅芸人一座の一員であった…と言う設定も不自然ではありません。実際にこの年には、東京・新橋の料理屋が芸妓ら16人をパリ万博に派遣していますし、欧州巡業中の川上音二郎一座がロンドン公演の成功でイギリスの宮殿に招待されたという記録も残っています。明治中期には、かなりの数の日本人旅芸人が欧州を巡業していたようです。また当時のヨーロッパで、「日本文化」が一種の流行となっていたのも事実です。

 一応ミステリーですので、未読の方もおられるでしょうから、ストーリーを詳しく書くわけにはいきません。ともかくこの「薔薇窓」は、1900年という時代設定、そして時代の希望と不安が交錯するパリという街を舞台にしたところが絶妙です。さらに、同時代の日本とヨーロッパの文化の対比も絶妙です。「個人の自由」「思想信条の自由」が単なる理念ではなく、実際の人々の生活の中で活き始めたパリと、まだ封建的な考え方が残る日本の文化の差がうまく描かれています。
 万博に賑わうパリの街の描写、当時の風俗の描写なども悪くありません。私は小説を読みながら、実際に歩いた現代のパリの街角の風景を、1つ1つ思い浮かべていました。
 日本で貧困のどん底に育ち、旅芸人一座に売られた音奴が、パリでまた流浪の身になり、そこを同じく貧しい中で力強く生きるパリ庶民達に救われる…というストーリー背景もいいし、「林」という古美術商の日本人も旨く設定されたキャラクターです。  そして何よりも、話の結末が爽やかでした。

 ともかく「薔薇窓」はとても面白く、そして読後感の充実した小説でした。

2004/2/9

 今日は、多忙にも関わらずなんとなくけだるい1日。朝から思考停止状態で、あまりモノを考えられない状況が続いています。

 関西学院大学のワンゲル部の遭難騒ぎ…、安易、軽率、遊びの山登りは自己責任、二次遭難の危険性を考えれば放っておけ…なんて厳しい意見が主流のようです。救助に自衛隊の出動まで要請するとは、確かに反撥を買うのもやむを得ないでしょう。しかしまあ、個人的に登山経験がある私としては、厳冬季にはベテランでも予期せぬ悪天候で低山で遭難するケースもあり、あまり責めるのもかわいそうです。ただ、TVのニュースでは、遭難中の学生の親が出てきて、「早く救助してくれ」だの「もっと正確な情報を」だの…勝手なことを言ってました。これはイタい。
 食糧と燃料が十分あり、雪洞を掘ってじっとしていれば、体力のある若者ならば1週間ぐらいは大丈夫でしょうが、遭難3日目で早くも食糧や燃料がなくなるとは、ワンゲル部の冬季訓練らしからぬ状況を招いている…ようにも思います。
 まあ、全員救出されてよかったです。

 カルロス・ゴーン氏がバイクと衝突事故…ってニュース。新聞記事にはバイクの2人の容態よりも先に「ゴーン氏にケガはなかった」と書いてありました。クルマとバイクじゃ、あったりまえだろ…。外苑東通りでUターンしようとして反対車線に出たところで、直進してきたバイクとぶつかったようですが、この状況なら無条件でゴーン氏の方が悪いですね。それにしても、ポルシェに乗ってったとは…

 都立大、都立科学技術大、都立保健科学大、都立短期大の4大学を統合した都立新大学の名称が「首都大学東京」…? いったい、どんな思考経路で思い付いた大学名なんでしょう。公募結果を無視して…。もっとマシな名称はなかったのでしょうか。

 昔、ちょっとしたケガをすると、下手に包帯や絆創膏をつけるよりも、そのまま空気に傷口を晒しておいた方が早く治る…と親に言われました。最近は指先などにちょっとしたケガをすると、すぐにバンドエイドを貼っちゃいます。バンドエイドって、巻いた方が早く傷が治るのでしょうか? それとも巻かないで傷口を露出させておいた方が早く傷が治るのでしょうか?

 「エイリアンvs プレデター」、これは観たい。どんなB級映画でも、見に行こうと思います。

 ついでに、同じサンスポのこのニュースですが、巨乳アイドルの初の写真集のタイトルが「乳しぼり教室」って…、スゴイです。

 朝日新聞に掲載されたこの記事、いやぁ、金魚って水道水そのままで飼ってもよかったりするんですね。私が飼った金魚でそんなに長生きしたことはありませんが、やたらと卵を産んで増えるので困ったことはあります。

2004/2/4

 先週の日曜日の午前中、友人がとんでもないものを持ち込んできました。HONDA「CBR954RR」のフルパワーバージョンです。ご存知の通り、「CBR954RR」は、国内仕様では91ps/8.9kg-mですが、輸出仕様では151ps/10.7kg-mとなっています。車重は170Kg弱(装備重量は195kg)ですから、輸出仕様のパワーウェイトレシオ(1.1125kg/ps)は、もうレーシングマシン並みです。事実、鈴鹿の8耐等で、この954RRが活躍しているわけです。
 …で、私と違って40代になってもバイクに見果てぬ夢を抱き続けるわが友人は、YAMAHAの「R1」に乗っていたのですが、すぐに飽きて、昨年発売直後のCBR954RRを購入してちょこちょこといじりまわし、輸出仕様(まあ最初から輸出仕様を買えばよかったのでしょうが、自分で改造可能と踏んだそうです)のフルパワー化に挑んでいたのです。
 現状は完全なフルパワー化には至っていないそうですが、ECUを改造(配線加工)し、インシュレーターとサンレンサー、ドリブンスプロケット等を交換してあるので、輸出仕様の80%ぐらいは出ている…とのことです。それでも100psを大幅に超えていることに変わりはありません。
 乗ってみろよ…という友人の声に押されて、ちょいと跨ってみました。足つきは悪くありません。身長170センチちょっとの私がまたがると踵まではつきませんが、足の先1/3ぐらいがつくので爪先立ちよりはずっと安定した感じです。私は基本的にカウルのあるマシンは嫌いですが、前傾ポジションとカウルは非常にしっくりとくるものです。エンジンをかけると、うるさくはないが、心地よいエキゾーストが響きます。…こうなると走らせてみたくなるのが、オジサンとは言えバイク乗りの「血」ってやつでしょう。友人に許可をもらって、ヘルメットとショートブーツ、グラブを引っ張り出して、30分ほど近くの関越道を流してみることにしました。
 で、感想はというと…、十分なトルクがあるので、ごく普通に発進して3000回転以下でシフトアップして加速していく分には、私がかつて乗っていたGSX-R750あたりよりも安定しています。練馬インターから関越道に乗って恐る恐るアクセルを開けていきました。5速で加速していくとあっという間にメーター読みで170Km/hです。ともかく5000回転あたりから先は怖くてスロットルを開けられません。国内仕様は180Km/h前にリミッターが利くそうですが、このECU改造車はリミッターがないので、どこまでスピードが出るのかわかりません。インター1つ分を10分ほどで走りきって、私は高速を降りました。正直なところ、もうたくさん…って感じでした。帰りは同じインターから乗って、120〜150Km/hぐらいで流して帰ってきました。

 私は、もうこの手の高性能バイクにはとても乗れません。もともと「大排気量車、大パワー車」はさほど好きではなかったので、実際にはあまり乗ってこなかったのです。でも10年前の私なら、趣味とは関係なく、この手のバイクにはそれなりに胸がときめいたものでした。とりえず太らない体質の私は、中年になって腹が出てきたので前傾姿勢がキツイ…ということはありません。でも、こうしたレーサーレプリカのようなバイク、そして有り余るようなパワーとスピードを持つバイクは、乗っているだけで疲れてしまう…ということがわかりました。別に胸がときめくわけでもありません。趣味の問題ではなく、体力・気力がなくなったために乗れないのです。いや、実に悲しい話です。

 考えてみると、「若い頃はバイクに乗っていた…」なんて言葉は、中年のオジサンが吐くにしては、かなり恥ずかしいセリフです。私の場合、今でも実際にスーパーカブなどに乗っていますし、適当な排気量のバイクならそこそこ走れるとは思っていますが、それでも今回の体験で、今後はあまりバイクに乗っていたなんてことは言わない方がよいかも…と真剣に思いました。ひとつ間違うと、居酒屋で酔って「若い時は全共闘運動で鳴らしたもんだ…」なんてくだらないことを言う低俗なサラリーマンと同列に見られかねません。

 先日の日記で「TOMOSが欲しい」…と書いた背景には、こうした体験があったわけです。これからは「モペットライダー」として、つつましく生きていこうと思います(笑)
 それともやっぱり、品のないアメ車でも買おうかなぁ…

2004/2/3

 珍しく、最近観たTV番組の感想です。
 1つはNHK BS-1で放映中の「BSプライムタイム スターリングラード攻防戦・60年目の証言〜孤立した30万のドイツ兵」で、これは3回シリーズの番組ですが、昨日2回目の放映が終わったところでした。戦後60年を経て、敵味方に別れて戦った過去の経緯を水に流したドイツのTV局とロシアのTV局が共同で制作した番組で、実際に戦闘に参加した両軍の将兵の生存者や、辛苦を極めて生き残ったスターリングラード市民の証言で構成されたものです。
 スターリングラードの戦いは最近「狙撃兵」を主人公とする映画がヒットしましたが、第二次世界大戦におけるドイツの敗戦へのターニングポイントとなった戦いとして、また1つの戦いで100万人以上の犠牲者を出した稀有な悲惨な戦いとして、非常によく知られたものです。しかし、包囲されたドイツ第六軍の将兵30万人の状態が実際にどのようなものだったか、人肉まで食べる極限状況の実態、同様に悲惨な状況に置かれた市民の実態、さらにはヒトラーとスターリンという2人の狂人の意地…など、生々しい証言が胸を打ちました。
 こうしたスターリングラードの戦いの実情を見ていると、同じ第二次大戦で日本軍によって行われたインパール作戦を思い出します。補給を無視した馬鹿げた戦略を立案する司令官、その結果多くの将兵が戦闘ではなく餓死や病死していったこと、数万、数十万人の将兵を兵器で見捨てる軍指導部…など、スターリングラードとインパールは瓜2つです。しかし、スターリングラードの戦いに関しては、こうして戦後60年目に総括する番組が作られています。それに較べて、インパール作戦について、ひいては旧日本軍の軍指導部の数々の異常で稚拙で非人間的な作戦指導については、きちんとした総括がなされていません。

 もう1つは1月31日にNHK地上波で放映された「ドキュメント エルサレム 〜聖地での戦いは何故始まったのか(前編)」…です。「100年前にリュミエール兄弟やエジソン社等が記録した映像とエルサレムに生きるユダヤとアラブ2組の親子の証言をもとに1967年の第三次中東戦争までを振り返る…」とあるように、第一次大戦前からの貴重な実写映像で構成されたものでした。
 1897年:第一回世界シオニスト会議、1915年:フセイン・マクマホン書簡、1916年:サイクス・ピコ秘密協定、1917年:バルフォア宣言、1920年:サン・レモ会議、1929年:嘆きの壁事件、1933年:ナチス政権誕生、1939年:第二次世界大戦によるユダヤ人大量虐殺、1947年:パレスチナ分割の国連総会決議…と続く第一次中東戦争以前のイスラエル・パレスチナの歴史については、十分な知識を持っているつもりでした。しかし、1900年代前半の、まだパレスチナに居住するユダヤ人の数が少なかった頃、ユダヤ人とパレスチナ人が共存し、お互いを尊重しながらエルサレムに暮らしている時代の映像は、非常に感慨深いものでした。まさに「出口が見えない」状態にあるパレスチナ問題ですが、宗教や民族を超えて共同社会が成立していた時代があった…という事実が、何らかの解決策を示唆してくれることを、こころから願うものです。
 第二次大戦でナチスによって大量虐殺され、それ以前にも長い間ヨーロッパやロシアで迫害にあってきたユダヤ人の「自己防衛意識」は理解しますが、少なくとも第一次中東戦争以降のイスラエルは、ほぼ一方的にパレスチナ人を挑発し虐殺してきました。1982年に起こった、サブラ、シャティーラの両難民キャンプでイスラエル兵と親イスラエルのマロン派民兵が一体化して行ったパレスチナ人の大虐殺は、まさに胸が悪くなるようなものです。その後も似たようなパレスチナ人虐殺事件が相次いで起こし、最近起こったジェニンの虐殺なども含めて、イスラエルの行動は到底容認できるものではありません。

 さて、今回観た2つの番組は、いずれも「記録映像」「個人の証言」という優れた材料を元に構成され、あまり「主観」や「史観」を交えずに「事実」や「記録」だけを提示することに徹し、あとは観る人の判断に任せる…というスタンスが見事でした。
 こうした優れた番組を放映するNHKは、一方で「その時歴史が動いた」のような、主観と偏見だけで構成された実にくだらない番組も放映しています。

2004/2/2

 昨今、生きることの目的を精神世界に求める方が一般的ですが、そうは言っても現実には、霞を食べては生きていけません。結局は「生きるために働く」のが人生であり、さらに大半の人は、物理的に生命を維持する最低限以上に働くことで、なにがしかの「楽しみ」と「満足」を得ようとしています。となると、「最低限生命を維持する以上の部分」こそが「人生」…と言い切ることができます。
 …で、人生の本質とは「"生きるため"以外の部分でお金を遣うこと」と言い切っても問題はないでしょう。むろん、お金を遣うこと自体が人生の本質というわけではなく、生活したり楽しんだりするためにお金を遣うことが人生の本質だ、と言っているわけです。  意味不明の前置き(笑)ではありますが、要するに私の人生も「お金を遣う」ことで成り立ってきました。そんな私は、「生命維持に必要な衣食住」以外の、いったい何にお金を遣って生きてきたのでしょうか。そして、今後は何にお金を遣おうと思っているのでしょうか。
 私は、この年まで家も土地も購入したことがありません。子供の教育費といったものにもたいしてお金を遣っていません。ゴルフなんてやらないし、高級乗用車も買ったことがありません。医療費もさほど遣っていません。事業で莫大な赤字を出したこともありません。まあまあ人並みに稼いだお金は、全てが「たいしたことのない消費財」で消えてしまいました。
 思い起こせば、成人して以降の人生でいちばんお金を遣ったのは、おそらく「バイク」「本」「ファッション」「旅行」…の4つでしょう。その次ぐらいに「コンピュータ/デジタルガジェット」「AV/オーディオ機器」が来ます。そして「うまい食事」と「女性」…あたりでしょうか。こうして並べてみると、実に「陳腐な人生」であることがわかります。
 では、こうした消費生活への反省(別に反省してはいませんが)をもとに、今後は何にお金を遣うと楽しい余生を過ごせるのでしょうか。
 どう考えても、これまでとあまり変化はなさそうです。今後も「本」「旅行」「ファッション」「コンピュータ/デジタルガジェット」「女性」…などにお金を遣う人生が続きそうです。
 そして今、私はTOMOSを購入しようかどうか、真剣に迷っています。「Classic U」の赤を狙っています。もう明日にでも、買っちゃいそうです。

…まったく意味不明の、「私の心の声」でした。

2004/2/1

 MT(Movable Type)を導入するかどうかで、けっこう悩んでいます。といっても、「昼飯に何を食うか」程度の、どうでもいい悩みですけど…
 私がMTを導入しようと考えたのは、Webサイトで何をやりたいか…という部分に帰結するはずです。「WS30の世界」という意味不明サイトを始めて、ちょうど3年目になります。ユニークのアクセス数は不明ですが、トップページのアクセスカウンタは平均すれば毎日1000hit以上、数ヶ月前に私的画像日記のページに隠しカウンタを入れたら、日記ページだけで毎日700hit前後のアクセスがありました。こんなにささやかで、いいかげんな内容のサイトを運営しているにしては、予想外の数の訪問者がいるものだと…妙な気分です。
 私はいつも言っているように、このサイトを「デジカメサイト」として有用なものにするつもりはまったく無いし、「サイトで何か自己主張をする」…という意図も、もともとありません。「有用な情報」よりも「どうでもいい情報」がモットーです。単なる遊びであり、個人的なストレス解消、つまり「仕事ではない状況でいいかげんな文章を書く」「内容のない話を饒舌に語る」という状況を楽しんでいるだけです。だから、毎日15分以上はサイトのメンテナンスに時間をかけるつもりはないし、これ以上サイトのことが広く知られてい欲しいとも思っていません。面倒が増えるだけです。
 しかし、こうして3年間サイトの運営を続けてきた中で、1つだけ心に留めていたことがあります。それは「濃厚で粘着質のテキストを書き続ける」…ということです。
 世の中がマルチメディア一辺倒に進む中で、特にネットの世界では画像や動画への傾斜が強まってきました。そんな中で、「言葉が持つ面白さ」や「文章が持つ力」みたいな部分に踏み止まり続けようと思ったのです。
 また、特に携帯電話の普及によって、電子メール、チャットや掲示板による「コミュニケーション」は「短くて簡潔」なものが主流となりました。長々と書かれた饒舌な文章なんて、最近の若い世代にとっては、全く読む気がしないでしょう。

 一昨年ぐらいから高まってきたBlogブームは、「テキストコンテンツの復権」を予感させる意味では、私にとって好ましいものでした。しかし、既存のBlogサイトにおけるテキストの位置付けは、非常に軽いものが多いようです。情報サイトとしては見所が多い非常に優れたサイトがたくさんありますが、テキストメインのサイトとなると「面白いネタを見つけてきて、それに一発芸的な気の利いたコメントをつける」というタイプのBlogが圧倒的に多いようです。
 要するに「饒舌な長いテキスト」というのは、現代においては「流行らない」ものなんですね。まあ、そうでしょう。読書量も減っているし、掲示板コミュニケーションなどでは「長い文章は嫌われる」のが当然です。

 ところが私は「饒舌な長い文章」が好きなのです。例え流行らなくても、これを続けて行きたいと思っています。問題は、書き続ける長い文章をどうやって見やすく提供するかであり、また文書データをWeb上に保存しておくか…という点です。
 そこで、思ったのがMTのようなBlogインタフェースを使うことでした。幸いなことに、私はほぼ容量が無制限に近い自前のサーバーをいくつか利用できます。私が考えたのは、MySQLやPostgreSQLなどのデータベースにテキストを収容し、ユーザーインタフェースとしてMTを利用しよう…というものでした。MTはこうしたデータベースとの連携が可能です。さらに、RSSも魅力的でした。文章データベースには「要約」があった方がいいのは絶対です。MTなどのRSS機能は優れたものだし、RSS対応のニュース検索ツールもたくさんあります。そして、FTPを使わずに文章をアップできるのは、海外のネットカフェなどからサイトを更新するときには非常に便利です。
 そんなわけで、とりえずMTの導入を決めたのですが、1つだけ大きな問題があります。それは、本サイトのゲストブックでもご指摘がありましたが、「MTを使うと、個性がないなんとなく似たようなサイトになってしまう」可能性が高い点です。昨年半ばに一度MTを導入しようと考えた時から、いちばん気になっていたことでした。しかし、この点はスタイルシートを徹底的にいじることで、一見すると「MTを使っているとは思えない」デザインを構築できそうです。そうなれば、後は内容で独自性を出すことは可能だと思いました。

 …こんな経緯でMTの導入を決めたのですが、まだデータベースとの連携機能やサイトデザインなどが固まっていません。今回は導入を見送ることにします。いずれ私は、この「WS30の世界」というサイトから、「デジカメサイト」の仮面を完全に外すつもりです。「くだらないけど濃厚で饒舌なテキスト」で埋め尽くそうかと考えています。その時には、MTに限りませんが、適当なBlogツールだけでサイトを構成しようと思っています。

 …いや、まったくもって「どうでもいい話」でした。こんなサイトがどのように変わろうと、なくなろうと、誰も気に留めないことだけは確かです。

Email Webmaster if your incur problems.• Copyright © 2001 yama. ALL RIGHTS RESERVED. Since 2001.1.22
※ 当サイトは Internet Explorer6.0 に最適化されています。