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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2004/1/30

 ハヤカワNVに「月は誰のもの」という小説があります(あったはずです)。高校1年の頃に読んだので(当時は「ローズマリーの赤ちゃん」などハヤカワNVをやたらと読んでました)、細かい内容についての記憶はありませんが、要するに「アポロは実際には月面には行っていない、あれはハリウッドで撮影された映画」…というストーリーでした。
 高校時代にこの本を読んで以来、宇宙からの映像はむろん深海探査船の映像などを見るたびに、「もしかすると、よく出来た映画かも…」などと思ってしまうわけです。
 火星探査機「スピリット」と「オポチュニティ」からの映像は実にリアルで凄いのですが、本当に実写映像が送られてきているのかどうかを確かめる手段がありません。それなりの設備さえあれば、火星探査機から送信されてくるデータを民間で受信できるものなのでしょうか? 民間でも受信可能であれば、ごまかすことは不可能ですが、そうしたことすらわかりません。宇宙探査船から送られてくるデータ通信の方式がわかれば、民間でも受信可能かどうか調べられると思ったのですが、この手の情報が書かれた資料がほとんどありません。
 …で、ちょっと調べてみたところ…
 宇宙通信とは言っても大容量データ伝送を行う通信衛星レベルで使われているのは、マイクロウェーブであり、基本的に地上における無線通信技術の応用です。
 一方、惑星探査レベルの深宇宙との通信では通常のデータ通信と言うよりも、ミッションデータやテレメトリ/コマンド信号を送受信する形となります。現在、遠方にある観測船との通信には、2/8/32GHz帯などのマイクロ波が使われているそうです(近距離ではSバンド、Kaバンドも使われているとのこと)。変調方式はSS(スペクトラム拡散)で、これは現行の無線LAN等と同じですね。
 信号レベルが非常に低いため、通常の受信システムでの信号受信は困難でしょう。電波望遠鏡を持つ天文台などの天体観測施設は「VLBI(Very Long Baseline Interferometry:超長基線電波干渉計)」と呼ばれる、深宇宙にある電波星から放射される電波を2ヶ所以上のアンテナで同時に受信してその到達時刻の差を精密に計測する技術…を持っており、この技術を使えば深宇宙を飛ぶ宇宙船からのテレメトリ/コマンド信号を受信できそうですが、詳しいことはわかりません。いずれにしても、宇宙からのこんな微細な信号を受信可能な施設は、世界中を探しても限られているようなので、こうした施設の全部と組んでの陰謀を巡らせれば、インチキ画像の公開はできそうです。
 他にこんな方法もありそうです。「スピリット」と「オポチュニティ」などの内部に、あらかじめハリウッドで制作した映像データを収録しておき、それを地球へ向けて送信すればよいのです。この場合、火星の近くまでは行く必要はありますが、難しい制御を行って火星に軟着陸する必要はありません。これだけでも、技術的にはずいぶんと簡単な話になるでしょう。この方法なら、実際にカメラで撮影された映像なのか、あらかじめ地上で撮影されたデータなのか、確認する術は誰にもありません。

2004/1/29

 近頃大きな書店へ行くと、どこにも「新撰組コーナー」があります。まあNHKの大河ドラマが決定・スタートする時期には、書店に関連書籍のコーナーが出来るのは恒例ですが、今年の「新撰組関連書籍ブーム」は近年になく規模が大きいようです。

 私自身はもともと、「西欧に100年近く遅れた中途半端な市民革命」である「明治維新」という出来事・時代にあまり興味がないのですが、中でも「新撰組」なる集団には、全く興味がわきません。
 童門冬二の本のコピーのように「最後まで攘夷思想を保ち続けながら、誠の一念で剣の道を貫いた新撰組…」なんてことを、本気で思っている人が世の中に多いのが不思議でなりません。現在残っている歴史的な資料とわかる範囲の史実からは、そんな新撰組の姿は浮かんできません。
 例えば、司馬遼太郎や池波正太郎が書いた新撰組小説を読むと、「…そのとき、土方歳三は○○○と考えた…」とか「…近藤勇は○○○と思った…」…なんてシーンが出てくるわけですが、それは小説家の想像の産物です。当たり前の話ですが、「作り話」は実態を知る手掛かりにはなりません。
 実際に新撰組が何をどう考えて行動したかという資料は、驚くほど少ないようです。新撰組の隊士の行動理由や思想を明らかにする資料など、後世にはほとんど残っていません。一次資料として現存するのは家族に宛てた他愛のない手紙程度に過ぎず、あとは伝聞証言ばかりです。むろん、著書を残した隊士もいません。
 そうなると、新撰組に対する評価は、自ずと「わかっている行動」「行動の結果」から推定するほかないわけです。歴史上知られている「事実」を見る限り、「最後まで攘夷思想を保ち続けながら、誠の一念で剣の道を貫いた新撰組…」といった評価は、出てくるはずがありません。新撰組なんて歴史上どうでもいいような存在であり、「金と出世目当ての、実力はないけど凶暴な武力集団」…に過ぎません。

 私が思う新撰組とは、次のようなものです。
  • 田舎の農民上がりの郷士集団が、幕末のドサクサに紛れて一旗上げようと考えた。たまたまうまく行って、会津藩から金が出た。
  • とりあえず「自分たちを買ってくれる側」についただけで、「確固たる思想信条」なんてものを持っていた人間は誰もいない。
  • 全メンバーの半分以上が切腹など内部の粛清で死んでいる。半分以上のメンバーを自ら殺してしまう集団が「まとも」であるわけがない。思想性がないゆえに、陰湿な権力闘争を繰り広げた集団である。
  • 全数百名の隊士の中で、実際に戦闘で戦って死んだ隊士は10名にも満たず、驚くほど少ない。戦術・戦略面では稚拙で、戦闘に関しては素人武力集団である。
  • 新撰組がいてもいなくても、明治維新はほとんど同じ経過で進んだはず。歴史上において何の役割も果たしていない。さらに、何の思想性もない集団であったため、後世に残るような「イデオロギー的な成果」も残していない。
 …というわけで私は、行きつけの書店の一等地に陣取る新撰組関連書籍コーナーが早く消えて、もっと中身のある書籍が並ぶ日を待っています。

2004/1/28

 島田荘司「ロシア幽霊軍艦事件」は、はっきり言って期待外れでした。(…以下にはプロットが含まれるので未読の方は読まないで下さい) まずもって「ドルニエ飛行艇」を登場させるのが、いかにも安易。私は、芦ノ湖のシーンを読んでいる時にすぐに「飛行船」を思い浮かべました。正直言って「飛行艇」とは思わなかったけれど、似たようなものです。
 ロシア革命期の混乱を背景にして「アナスタシアが生きている」…という話を題材にしたミステリーはたくさんあります。例えば、アンソニー・ハイド(?)の「レッドフォックス消ゆ」(文春文庫)などは、絶品のミステリーでした。カナダの毛皮商人の失踪事件に始まり、革命直後、ソヴィエト黎明期のボルシェヴィキと西側の資本家の密かな関係など知られざる歴史を背景に、ロマノフ家のアナスタシアを絡めたストーリーには、思わず拍手を送りたくなるような面白さがありました(記憶だけで書いているので一部間違ってるかもしれません)。
 それに較べて「ロシア幽霊軍艦事件」は、同じ「アナスタシア」を題材にしながらも、非常に底が浅いストーリーです。雑誌連載の中編に加筆したという事情もあるのでしょうが、それにしても「歴史の裏」を材材にした小説としては、面白くもなんともない展開です。
 島田荘司といえば、昨年発売された「ハリウッド・サーティフィケイト」も、イマイチだったと思います。科学・倫理の両面で重要なテーマを扱っていることを賞賛するような書評もありましたが、私は単に「今風」のテーマを無理やりストーリー展開したように感じただけです。

 私は、以前も書いたように「新本格派」諸氏のミステリーは概ね好きではないのですが、島田荘司だけは何となく新刊を購入してきました。それは初期の作品、特に「吉敷竹史シリーズ」の各作品などがそれぞれテーマとして持つ、独特の社会問題へのアプローチが嫌いではなかったからです。例えば「奇想、天を動かす」などは、「ロシア幽霊軍艦事件」と同じような突拍子もない現象を扱い、同じようにあまり納得できる「謎解き」ではないにせよ、ストーリーの背景を流れている「重さ」がなんとも心地よかったのです。その「重さ」は、単なるミステリーを「骨太の物語」として読ませる力になっていたような気がします。
 「ハリウッド・サーティフィケイト」も「ロシア幽霊軍艦事件」も、そうした「骨太感」を感じません。これが最近の島田荘司の傾向なのであれば、今後はもう彼の作品を読むことはないでしょう。

2004/1/27

 学歴詐称疑惑の古賀某が議員に居座るそうですが、まあ辞職によって復権する可能性が高いヤマタク某と比較すると、どっちもどっちです。それにしても、どうでもいいような国会議員が次々に誕生し、またそうした議員を選出する選挙民がいるのが不思議です。議会制民主主義なんてものは、とてもじゃないけど「成熟した制度」とは思えません。
 イラクでは、多数派のシーア派を中心に「民主的選挙」を求める声が高まっています。それに対してアメリカを中心とした暫定統治機構が「時期尚早」と主張しています。確かに、現在のイラクで「民主選挙」を実施したら、小数派であるスンニー派や小数民族であるクルド人は、著しい社会的不利益を蒙る可能性があります。そうした「民主主義が生み出す不平等」が、内戦や国家分裂の引き金になる可能性すらあるでしょう。別にフセインを褒めるわけではありませんが、民族や宗教が複雑に入り乱れるイラクという国家がかろうじてまとまっていられたのは、フセインによる独裁のおかげ…と言ってもよかったのかもしれません。
 アフリカ、アジア、アラブ諸国などの一部では、20世紀まで続いた欧米の植民地政策の結果、民族・部族・宗教・文化など「地域の実情」を無視した独立国家が多数生まれました。植民地政策の下では、もともと住んでいる人には意味のない理由で国境線が引かれ、部族単位、宗教単位の「地域社会」が壊されました。そうした状況のままで独立した国家の多くは、今なお続く国内の民族対立、部族対立、宗教対立に悩んでいます。こうした国家への単純な民主主義導入は、多数決の原理によって敗れた小数派が政治的、社会的弾圧を受ける例が多いのは、誰もが知るところです。また、アフガニスタンのような部族社会においては、逆に「部族対立」が激化する例もあります。
 アメリカは、「アメリカ的価値観・正義感」であるところの「民主主義」を世界にあまねく広めようとしています。しかし、「地域の実情にあった政体」が、必ずしも欧米型民主主義とは限りません。イラクやアフガニスタンでは、そうした「欧米型民主主義の限界」がはっきりと見えています。
 それどころか、時々思うのですが「悪しき民主主義」と「良き独裁政治」と比較して、どちらがよいのかすら、実はさだかではないように思います。世界の歴史の中で、君主政治や独裁政治がことごとく「ダメな政治体制」であった…というわけではありません。逆に「民主主義」の名の下に、ひどい政治が行われた例もたくさんあります。ヒトラーは、ワイマール体制という最良の民主主義政治の下で、民衆に選ばれた指導者であったのです。
 北朝鮮は「悪しき独裁国家」だと誰もが思っているはずです。社会主義の是非はともかくとして、「独裁国家」…個人の独裁でも一党独裁でも…というのは、本当に悪しき国家形態なのでしょうか。北朝鮮の経済が崩壊し、人民が飢えているのは、独裁政治だからではなく、「独裁者がバカだから」かもしれません。
 経済問題だって同じです。社会主義経済が次々に破綻していったのは、計画経済の持つh本質的限界だと思っている人が多いかもしれません。計画主義経済の下では、「社会変化」や「消費者ニーズ」に対応することは困難であり、効率的な生産・流通体制を築くことが難しいからです。しかし、逆に言えば、電通や博報堂のようなアンテナをフルに利用して「かしこい計画経済」を進めたらどうなるか…という実験は、誰も試みたことがないのです。市場経済は万能ではありません。かつての大恐慌の例を出すまでもなく破綻することもあるわけです。現在の北朝鮮のような「一党(個人)独裁」で、しかも「計画経済」で、なおかつ素晴らしい国が作れないとは誰も断言できないと思います。

 要するに、社会をうまく運営していくのは、「頭脳」と「モラル」の問題です。個人または少数の頭脳・モラルに期待するべきか、多数の頭脳・モラルに期待すべきか…、民主主義政治と独裁政治の違いなど、たったこれだけの違いに過ぎないようです。

 …昼下がりのコーヒーを飲みながらそんなことを考えていたら、独裁国家というやつを、自分でやってみたくなりました。もしかすると、某都知事あたりも同じようなことを考えているのかもしれません。

2004/1/24

 こちらで「MovableType」導入をテスト中。逐次経過をご報告するつもりです。

2004/1/23

 原宿「瑞穂」の豆大福を食べました。豆大福には珍しい「こし餡」と、お餅にたっぷり入ったえんどう豆が美味しい!
 今日の画像は、クリックすると拡大します(笑)

  

2004/1/22

 「身に覚えのない通話料・パケット料が請求された」…というユーザーの訴えが発端となり、「クローン携帯」の存在の有無が問題になっています。この問題が起こってから、既にかなりの時間が経過しますが、いまだにはっきりとした結論は出ていません。クローン携帯というのは一言でいえば「同じsubscriber IDを持つ端末」であり、理論的にはも技術的にも出来るはずです(こんなページあたりを読むと…)。キャリア各社は躍起になって否定していますが、まあ「クローン携帯は存在する」というのが妥当な結論(以前も書きました…)でしょう。端末制作技術については問題なく「可」で、あとは現行の携帯電話交換システムの中で複数の「同じsubscriber IDを持つ端末」が共存できるかどうか…だけが問題なのですが、私もこれも「共存可能」だと思います。現在は何らかの対応をしている可能性はありますが、少なくともクローン携帯問題が起こった時点では共存可能な状態であった可能性が高いと内心思っています。
 むろん今後も、よほどの証拠が提示されない限り、キャリアはクローン端末の存在を認めようとしないでしょうし、例えクローン携帯の存在が明らかになったとしても、それを使った人間を非難するだけで、システム上の欠陥がもたらした自らの責任に言及することは絶対にないでしょう。
 現在のクローン携帯問題に対するキャリアの対応を見ていると、やはりiモードの普及初期の頃を思い出します。1999年の2月にスタートしたiモードが爆発的に普及し始めた同年末から翌2000年春頃にかけて、iモードシステムはまさに「トラブルだらけ」の状況でした。まずは、Phone to機能を使って自動的に110番へ電話をかけさせる「110番事件」に始まり、その後は「強制メールタグ」「強制ダイヤルタグ」などによる混乱が相次ぎました。この時のマスコミの論調は「強制メールタグや強制ダイヤルタグは、Phone to機能を使った110番事件と同じ、質の悪いいたずら…」というものでしたが、事実は全く異なりました。「強制メールタグ」「強制ダイヤルタグ」は、マニュアルにも記載された「Phone to機能」とは違い、いわゆる「システム関連タグ」であってユーザーに公開された機能ではなかったのです。NTTドコモはこうしたシステムタグの流出を防げなかったばかりか、正確な事実関係を公開することを終始拒み続け、被害が拡大した経緯があります。さらには、特定の文字列を含んだメールを受け取ると端末がフリーズしてしまう「フリーズタグ」なんてものも登場しましたが、これについてもNTTドコモは「悪質なウィルス」扱いすることで逃げました。事実は「悪質なウィルス」なんかではなく、ただの「ブラウザソフトのバグ」以外の何物でもありませんでした。iモード用に開発されたブラウザ「Compact NetFront」は当時かなりの「バグ」があり、またメンテナンス用のシステムコマンドなども広く漏洩している…といった状況だった…と、当時の開発関係者が証言しています。加えて1999年末から数ヶ月間システムダウンを繰り返したiモードサーバーシステムの問題もあって、全く未完成なシステムをユーザーに提供していたのが初期の「iモード」でした。
 私は、このiモードの例では、別に未完成のシステムを実用レベルで投入したことを非難するつもりはありません。WindowsだってMacintoshだって欠陥だらけ、バグだらけなのですから…。しかし、当時「情報を公開せずに事実を隠し続けた」NTTドコモの姿勢については、なぜ多くのユーザーが問題にしなかったのかが不思議なのです。
 そしてそうしたキャリアの姿勢は現在も変わらず続き、それがクローン携帯に対する各キャリアの「木で鼻を括ったようなコメント」に現れていると思っています。各キャリアは一様に「クローン携帯は技術的に不可能なのであり得ない」とし、さらに「なぜ不可能なのかという技術的な情報は、手の内を明かすようなものなのでセキュリティ上公開できない」などと納得できないコメントを発表しています。
 クローン携帯が「技術的に不可能」というのであれば、キャリア各社はその理由を明確にユーザーに対して説明すべきでしょう。

2004/1/21

 民主党の古賀潤一郎衆院議員(福岡2区)が米ペパーダイン大卒の学歴を詐称した疑惑が問題となる中、民主党は「卒業の定義などで日米で異なる面があり、古賀氏に学歴を偽る意図はなかった」との見解を発表しました。
 別に古賀氏を弁護するつもりは毛頭ないのですが、大学における「学位取得」と「卒業」の関係は確かに曖昧です。例えば、日本の大学の場合「卒業」は、「大学設置基準」(文部省令第28号)の第32条で規定されており、それによれば「卒業の要件は、大学に4年以上在学し、124単位以上を修得することとする」と、特に学位に触れていません。また、ドイツなどでは、ホワイトカラーの大半…いわゆる「高等教育」を必要とする職業への就業に際して、学位を求めない方が一般的です。ホワイトカラーには大学で何年間か学んだ人が多いのは事実ですが、学位をとっていない人もたくさんいるそうです。その分、多くの職業には「国家資格」が必要となっているようです。
 もっともアメリカの大学の場合、「学位」と「卒業」はほぼイコールであり、古賀氏ガそのことを知らなかったとは思えないので、まあ意図的に「ごまかした」ことは確実でしょう。それを「卒業の定義などで日米で異なる面があり、古賀氏に学歴を偽る意図はなかった」などと擁護する民主党もバカみたいですね。
 学歴詐称なんて実にバカバカしいことですが、それでも新間正次から野村沙知代に至るまで「学的詐称」事件が後を断たないのは、やはり日本の社会において「学歴」が重要な意味を持っている(特に職業選択時に)からに他なりません。また、多くの人が「高学歴=優秀」と考えていることも事実でしょう。そういった意味では、日本はやはり「学歴社会」です。そしてこの「学歴社会」は、各方面から非難の対象となっています。
 現代の日本を「学歴社会」と非難する人の論拠は、大きく分けると概ね次の2点に集約されるようです。「学歴による社会的な身分の固定化は間違っている」「学歴では人間の全てを判断できない」…の2つです。
 前者は全くその通りです。学歴による社会的身分の固定化が進んでいるとすれば、それは絶対に廃さなければなりません。しかし、現在の日本において、学歴が「身分」や「社会的階級」にまで直結しているとは思えません。確かに「一流大卒」と「中卒」が「一定の職能区分」に結びついていることを否定はしませんが、高等教育が必要な職能分野というのが存在する以上、これをもって「身分差」とまでは言えません。
 次に「学歴では人間の全てを判断できない」という論理ですが、これまた間違いではありません。学歴で測れない才能なんてものは多々あるし、学歴と人間性もほとんど関係はないでしょう。しかし、「学力=知識量」や「高い学力をえるために努力する姿勢」…を測る「効率的な指標」となっていることは否定できません。そして、企業が人材を求める際の条件にこれらがあるため、人材選択時の効率的なふるいわけに利用できるわけです。つまり、「高学力の人」または「高学力を得るために努力をした人」を抽出するためには、「学歴」による判断は完全な合理性を持ちます。
 雇用する側にとって「高学歴の人が必ずしも優れた人間とは限らない」…という事実は、重要ではありません。別に「優れた人間」を抽出したいと思っていなければ、抽出する側にとって特に問題はないからです。また雇用する側が「高学力で優れた人格を持つ人を抽出したい」と言うケースにおいても、学歴は一定の指標となります。なぜなら、高学歴の人が必ずしも優れた人格を持っているとは限らなくても、「高学歴の人の中に優れた人格を持っている人がいない」…わけではないからです。まず学歴でふるいにかけ、その後人格でふるいにかければよいだけのことです。
 もう1つ、学歴社会に反対する人の多くが「高学歴を得るためには高い所得が必要」「高学歴を得るための機会が均等ではない」…という意見を述べます。確かにそういった側面はありますが、これについては1月15日に書いた通り、「現代日本の入試制度」に「奨学金制度」あたりを加味すれば、高学歴を得る機会はそれほど不均等ではない…と考えています。
 私は、別に「一流大学卒業者がえらい」…なんてこれっぽちも考えていないし、「一流大学卒のバカ」もたくさん知っていますが、それでも自分が「特定の条件に適った人材」を選びたいと思ったときには、「学歴」を参考にすえうケースはあります。こうした選別方は特に差別的なものでもないし、間違っているとも思いません。私のような人間は多いと思うので、学歴社会はなくならないでしょう。
 古代から続いた中国の「科挙」を見るまでもなく、理念としての学歴社会は、身分・出身・民族・信仰などに関係なく、勉強した者が出世できる…という、いたって公平な社会システムであったはずです。

2004/1/20

 円高に対応するため、今年初めから政府・日本銀行が実施しているの為替介入の累計が6兆円を超え、1か月間の為替介入の過去最高額を更新したそうです。円売り・ドル買い…って、要するに償還の見込みがない米国の債権を買っているわけですね。それにしても1ヶ月に6兆円はむちゃくちゃです。政府は円高阻止のために昨年1年間で20兆円を注ぎ込み、そこへ持って財務省は今年度の介入資金調達枠を、従来の79兆円から100兆円に増枠し、更に4月以降の分を140兆円に拡大する方針だそうですから、もう青天井に近いですね。現在、日本が保有する米国債は60兆円に達しています。既に外国為替特別会計の為替評価損は膨大な額に達していますが、もしここで介入を止めたらドルは間違いなく暴落するでしょう…。結局のところ、「アメリカにお金をくれてやっている」わけです。「外貨準備高」に相当するお金は、輸出企業への補助金と言ってもよく、さらにアメリカに流れ込んだ資金はアメリカの資本、富裕層に還流し、日本企業の株が買われたりしているってことになります…
 19世紀以降に西欧諸国が推し進めた植民地政策では、他国の富を武力で吸い上げましたが、現在起こっている日本→アメリカという莫大な富の流れは、いったいどのように説明をつければよいのでしょう。過去の世界の歴史の中でも、主権国家がこうも露骨に富を吸い上げられている例はないかもしれません。日本は、バブルの崩壊によって膨大な富を欧米諸国に吸い上げられましたが、まだまだ戦後蓄積した1千兆円以上と言われる個人資産を持っています。結果的に米国は、このお金を狙っているのでしょうね。まあ、なんとも複雑な気持ちです。
 …で、このアメリカへの金の流れを止めるためにはどうすりゃいいんだ?と聞かれても、何の意見もありません(笑)。強いて言うならば、準鎖国状態にして「内需をベースにした経済規模」への縮小を図ることでしょうか。現行の経済規模の縮小というわけで、むろん生活水準は大幅に落とさざるを得ないでしょうね。
 鎖国といえば、金融鎖国論は最近あちこちで見かけるようになりました。実際に「金融鎖国」ってのは例がありますよね。IMFに叛旗を翻したマレーシアのマハティールの政策です。でも金融鎖国だけでは、やっぱり富の還流を止めることはできないでしょう。内需をベースにした経済…といっても、まあ実体経済としての貿易を完全に止めることは難しいはず。しかし、本気で鎖国をやるのなら、国民の生活水準を現在の半分以下に落とすぐらいの状況を覚悟の上で、貿易の規模も大幅に縮小するべきでしょう。
 悲観的な見方をすれば、鎖国なんてしなくても、どうせ現在の経済システムは終焉に近づいてきているような気もします。日本がいくら金を注ぎ込もうと、アメリカの経済はそろそろ行き詰ってきてます。ウォール街で大暴落が起こり、世界恐慌に近い状況に陥る可能性はかなり高いでしょう。そうなれば、日本は一蓮托生です。そうなれば放っておいても、わが国の国民の生活水準は現在の半分以下に落ちるでしょう。
 この年まで好きなことをやって生きてきた私は、もう別にどうなっても構いません。経済が崩壊したら、現在の仕事が続けられなくなるのは自明。茨城県の最北部にいる知り合いに頼んで、棄てられた農地でも入手して耕して暮らしましょう。ああ、女の子を連れて東南アジアの適当な国に引越すのもいいですね。確か、机の引き出しの奥に1オンスのクルーガーランド金貨を2〜30枚隠してあったはず。10年ほど前に株で少し儲かった時に買っておいたもの。あれを持ち出せば、小さな屋台ぐらいは始められるでしょう。
 今日は…、支離滅裂な白日夢を見ています。

 今日の画像は、池袋駅北口から徒歩5分、平和通りにある中華料理店「永利」の店内です(EX-S20で撮影)。
 「中国家郷料理餃子房」…とあるように、主に中国東北地方の料理を出す、安くて旨い店です。お客さんは、時間帯によっては圧倒的に中国人のほうが多いですね。店内は広いですけど、いつも混みあっています。
 料理は感動的なほどボリュームたっぷりで、鉄鍋餃子なんて巨大な餃子が5個乗っているので、2人では持て余しちゃいます。4人ぐらいで行くと楽しいと思います。メニューは豊富で、それ以外にその日のお勧め料理が壁に書いてありますが、読みにくいのが難点です。ランチもありますよ。

2004/1/17

<仏内相>「相撲は知的スポーツでない」 大統領意識し日本批判……【パリ福島良典】「相撲は知的スポーツではない」――。仏誌パリ・マッチによると、野心家で知られるフランスのサルコジ内相が今月上旬の中国訪問で日本通の相撲愛好家、シラク大統領をあてこすり、相撲や日本をけなす暴言を吐いた。最新号のパリ・マッチによると、サルコジ氏は今月9日、香港での食事会の席上、「率直に言って、日本よりも中国の方が好きだ」と発言。「香港は魅惑的な都市だが、東京は違う。東京は息が詰まる。京都も何が人々の感嘆を呼ぶのか理解できない。御所もうらぶれているように映る」と日本の都市をこきおろした。

…相撲は知的スポーツでない、東京は息が詰まる。京都も何が人々の感嘆を呼ぶのか理解できない。御所もうらぶれている…って、その通りじゃん…

 どこが問題発言なんでしょう…

2004/1/16

 先日、仕事で麻布十番に行く用事があったので、ついでに有名なタイ焼き店「浪花屋」に寄りました。自分で買いに行くのは2〜3年ぶりです。前に来たときはけっこう行列が出来ていたのですが、ちょうど誰も並んでいません。シメシメと思い「タイ焼き4つ」と言ったら、「1時間ほどかかります」…という答えが返ってきました。誰も並んでいないのになぜ?と思ったら、予約しておいてあとから取りに来る仕組みになったらしいんです。そんなことは、店の前には何も書いてありません。おまけに親父はチンタラチンタラ焼いているし、ふざけた店です。以前も、並んでいる場所がわからなくて、いきなりひどいことを言われたことがあるんですが、今回も態度が悪いこと甚だしい。ここのタイ焼き、嫌いじゃないんですが、もう2度と買いに行かない…と決めました。バカヤロー!

 それに較べると、どらやきで有名な阿佐ヶ谷の「うさぎや」は、狭くていつも混んでいますが、気持ちのいいお店です。並んでいると、「どら焼きだけの方いますか…」なんて声を掛けてくれるので、すぐに買うことが出来ます。

 そういえば、「PC買ったら中はジャガイモ―苦情か詐欺か」…という、愉快なニュースを読みました。
 「…ドイツ西部カイザースラウテルンの警察は12日、『パソコンを買ったら中にジャガイモが入っていた』と店に苦情を繰り返した男性を、言いがかりの詐欺容疑で調べていると発表した。警察によるとこの男性は、パソコンを買ったばかりの店に引き返し、中には部品ではなく小さなジャガイモが詰まっていたと苦情を訴えた。店側は最初は男性のクレームに応じて別のパソコンと交換した。しかしこの男性がまたしばらくして店に戻り、もうジャガイモ入りのパソコンをもう1台返品しようとしたため、不審に思い警察に届けたという」…話です。
 「パソコンの中身がジャガイモだった」という信じられないようなクレームに対応して、一度目には交換したという店主がいいじゃないですか。何ともドイツらしい、心温まるクレーム話です。今度私も、「ノートパソコンを買ったら、中身がイクラだった」…とかクレームをつけてみようかなぁ。

 今日はもう1つ「…16日午前10時10分ごろ、千葉県酒々井町東酒々井、「大友鮮魚店」店舗兼住宅の脱衣所で、50歳くらいの男性が死んでいるのを近所の人が見つけ、110番通報した。男性は足をひも状のもので縛られ、毛布や衣類がかけられており、県警捜査1課と佐倉署は殺人事件とみて捜査を始めた。同店は店主の井田真一さん(48)が1人暮らし。県警は、男性は井田さんとみて身元や死因を調べている」…というニュースがありました。
 このニュースを聞いたとき、私はすぐに「ピン」ときました。魚屋殺しの犯人は、「魚」に違いありません。きっと彼は、魚を虐待したので復讐されたんでしょう。「ギョッ」とする話です。おお〜怖…

 …書いている内容がくだらないのは、重々わかってます。今日は疲れてるんです。

2004/1/15

 「…共産党は13日午後、静岡県熱海市の党施設で第23回党大会を続行、不破哲三議長が綱領改定案について報告した。不破氏は、天皇制と自衛隊の事実上の容認を打ち出したことについて『(綱領で)天皇制は民主主義と人間の平等の原則と両立しないと明確にし、自衛隊は憲法九条違反という認識もはっきり書かれている』と指摘。その上で『現状をどのようにして変革するか方法を明示してこそ責任ある綱領になる。2つとも現在の国民の多数意見は存在を肯定する方向にある』と理解を求めた…」
 …こんなニュースがありました。
 まあ、日本共産党がどのように綱領を変えようと知ったことではないし、共産主義と天皇制が相容れる…なんてバカバカしい話をまともに聞く気にはなれません。しかしながら、この話の中で、ちょっと興味を惹いた言葉がありました。それは、「人間の平等の原則」…という言葉です。日本国憲法にも、「平等」という言葉が使われており、もっともよく知られているのは第14条の「すべて国民は、法の下に平等であつて…」という部分です。日本は「平等」について、どのように考えているのでしょう。そこで、生まれて初めて日本共産党の「綱領」なるものを党のホームページで読んでみました。
 綱領中には、何ヶ所も平等という言葉が出てきますが、いずれも「何をもって平等とするか」については、具体的に記述されていません。総論となっている「第七章 真に平等で自由な人間社会へ―社会主義、共産主義と人類史の展望」というところでは、「…共産主義社会の高い段階では、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容がうちたてられ、社会は、「能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる」状態に到達する。組織的かつ系統的な暴力、一般に人間にたいするあらゆる暴力は廃絶される。原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる共産主義社会、真に平等で自由な人間関係の社会が生まれる…」と書かれていますが、ここに書かれている「真に平等で自由な人間関係」…が具体的にどんな状態を指すのかは、今ひとつよくわかりません。

 考えてみると、人間が社会生活を営む上で「平等」ほど難しい概念はありません。フランス革命やパリコミューン、そしてロシア革命などが目指した「平等な社会」は、沿いの時代に特権的階級が存在したために、実に明確にわかる概念です。しかし、現在の日本では、明確な特権階級は存在しません(天皇家を別にして…)。現在の日本に「平等な社会」なる言葉を当てはめると、「何に対する平等なのか」という点が、非常に曖昧なものになります。

 単純な話ですが、「お金持ち」と「貧乏人」が存在するのは、不平等な社会だからでしょうか。ここで問題になるのは、よく言われる「機会の平等」と「結果の平等」の話です。
 人間には「能力差」があります。能力や努力が報われないのは、「不平等」ということになります。資本主義経済の基本概念ですね。能力を生かしてせいいっぱい努力した結果得られる成果が、努力もせずに手を抜いた人と同じ成果しか得られないのなら、それは非常に不平等な話ということになります。つまり「機会が平等」であればいい…という考え方です。
 一方で、人間の能力差や努力の差などを無視して、「同じ人間に生まれながら何故、成果が異なるのか」…という議論になれば、「誰しも平等に成果を得る権利がある」という主張も出てきます。つまり、「結果が平等」であるべきだ…という考え方です。年功序列型の賃金制度などは、こうした考え方をベースにするものです。

 私は、資本主義経済の理念であろうとなかろうと、「機会が平等であればいい」というのが基本スタンスです。この「機会均等」と言い換えられる概念について、もっともシンプルに考察できるケースとして、「受験」があります。

 ある人が、こんな話を書いていました。
 「…受験による競争は万人に開かれているという点で『機会均等』ですけれども、生まれ育った家庭に書物がたくさんあって文化的な雰囲気が満ちていたり、両親が知的な働きかけを行なうような環境で育った人は、そうでない家庭で育った人よりも、受験で要求される『能力』を身につけることにおいて有利でしょう。どのような家庭に育つかは本人の努力と無関係です。つまり、受験において測定されている『能力』『実力』といったものは、少なからず本人の努力以外の要素が含まれていると考えられます…」
 つまり、「金持ち・インテリ」の家庭に育った子供が、あらかじめ優位にある…ということですよね。

 …うーん、そうでしょうか。確かに自分や周囲の友人の子供の教育プロセスを見ていても、「高度な受験教育」に一定のお金が必要なことは事実です。また、大学の偏差値が高いほど、入学者の親の所得が上がることも事実です。その意味では、金持ち・インテリ」の家庭に育った子供が、あらかじめ優位にある…のは間違いないでしょう。しかし私が問題にしたいのは、(おそらく)相対的に金持ちの家庭の方が遺伝的に知能が高い(能力が高い)…可能性があることです。
 世間一般に「最高レベル」と呼ばれる大学…、例えば「東大、旧帝大、国立医学部、早・慶・上智」あたりへ入学するために必要な教育レベルは、そんな簡単に「お金で左右される」とも思えません。私は東京の区部に在住していますが、確かに近辺の公立中・高は荒れているところが多く、進学実績も低いものです。しかし、そうしたところに子供を通わせていても、その子供に一定の知能・能力があって、子供・親ともに目的意識を持ち、中学3年生の1年間の通塾、高校3年時の1年間の予備校通い…程度の費用をかければ、上記の大学ぐらいには問題なく入れます。
 異論もあるでしょうが、私がこう断言するのは、自分自身の子供や友人・知人の家庭の子供を実例にしているからです。
 ここで問題になるのは「子供に一定の知能・能力があって」…という部分でしょう。つまり私は、教育のプロセスにおいては、確かにお金も一定の効果をもたらしますが、それよりも「持って生まれた能力」の差の方が大きい…と思っています。上述した「中学3年生の1年間の通塾、高校3年時の1年間の予備校通い…程度の費用」ならば、総務庁の統計を見る限り、日本国民の90%近くが実行可能な教育費用です。
 逆に言えば、この程度の教育環境で最終進学実績を上げられない子供は、「もともとその程度の能力しかない」…という気がします。そういう能力の子供に、無理に家庭教師をつけたり、小さい頃から通塾させるのは、何か間違っています。もって生まれた能力差が、素直に人生に反映される…こうした社会が自然であり、そんな社会における「平等」を考えることが重要…、そんな気がします。

 ああ、「平等」について他意のない与太話を書こうと思ったら、思わぬ教育の話になって脱線してしまいました(笑)
 もともと人間は「均質」でもなければ「均一」でもありません。個体差があるものを「平等」に扱おうというのは、非常に難しいことです。結論ですが、「人間社会における平等」って何だか、私にはよくわかりません。

2004/1/14

 知人の子供(女性)が今年3月に大学を卒業するのですが、この時期になってまだ就職先が決まらずとても焦っています。彼女が在学しているのは、そこそこ有名な中堅の私大ですが、昨年の2月に就職活動を始めて、100社以上にエントリーシートを出し、40社ほど面接して、選考では全て落とされたそうです。もう、正社員になれるのならどんな小さい企業でもいい、フリーターだけは避けたいということで、親のツテを辿って私のところに相談に来たのですが、残念ながら私は力にはなれませんでした。  彼女と話していると、就職活動がうまく行かないことへの苛立ちだけでなく、不公平・不公正な選考過程に対する怒りが非常に強いようでした。何でも、コネのある子はまともな就職活動をすることなく早々と決まるのが不愉快なのだそうです。また、上位私大や国立大学生には開かれている門戸が、中堅私大には開かれていない…と、明らかに「高偏差値大学」優先の採用プロセスを感じたのだそうです。まあ、確かにその通りでしょう。

 しかし私は、上位の「高偏差値大学」卒業者を優先採用する企業の姿勢を別に不公正だとは思いませんし、縁故採用についても不公正だとは全く思いません。
 難易度の高い大学の卒業生の方が優秀とは限りませんが、「優秀な人材が多い確立が高い」ことはまあ確かです。面接や試験の手間を軽減するために求職者の母数となる人材の出所を限定するのは、ある意味で合理的な手法です。「学歴差別」なんて言葉もありますが、これは差別ではなく、明らかに「区別」であり、しかも根拠のある区別です。
 縁故採用に至っては、私は「企業は全て縁故採用」が1つの理想だと考えているくらいです。例えばうちのような小さなオフィスで考えればわかることですが、入社試験や面接試験などで人材を見極めるのは困難です。信頼のおける人間からの紹介の方がはるかに確実です。さすがに何百人、何千人も縁故採用することは不可能だし、縁故以外に優秀な人間を探すために、大企業は「縁故の枠に加えて、一般から社員を募る」のです。
 さらに縁故採用には、企業にとっての「経営戦略的な意味」もあります。例えば私がかつていた広告業界などでは、縁故採用は1つの営業手段でもありました。有力者の師弟を入れることで、企業とのコネクションを強固にし、広告扱い量を増やしていこうという戦略です。そういえば「電通」については、戦時中は軍部と結びついていましたが、戦後は満洲や上海からの引き揚げ者を引き受け、戦後の支配層にも広範囲な地縁を持っている軍人や満鉄関係者を大量に採用して、広告業界での地位を高めていった経緯がよく知られています。まさに、採用者の「縁故」をフルに利用しての事業拡大を行いました。

 ところで私は、「ええとこのボンボン」には実際に優秀な人間が多い…ということを、社会に出てから知りました。世の中には偏見があって、「努力していい大学を卒業した人間は優秀だが、何の苦労もなく育った金持ちの師弟にはバカが多い」と思っている人は結構多いものです。しかし、私が社会に出てから知った「何の苦労もなく育った金持ちの師弟」は、男女を問わず概して優秀な人間の方が多かったですね。むろん箸にも棒にもかからないヤツもいましたが、親の所得や家柄(そんなものあるんか?)で見た場合、庶民の子供と金持ちの子供では、金持ちの子供の方が「優秀で使えるヤツが多い」というのは、実体験に基づく事実です。

 話は最初に戻りますが、就職活動段階では、「学歴差別」や「縁故採用」に不公正感を感じる学生は多いのでしょう。相談を受けた彼女の憤りもなんとなく理解できます。しかし、こうした現実は社会矛盾ですらありません。怒る理由はないんですよね。まあ厳しい社会ですが、学生諸君は就職活動を頑張って欲しいものです。
 そういえば、まもなくセンター試験ですね。実家から出たいがために、がむしゃらに受験勉強をした高校3年の頃を思い出すと、ちょっと懐かしい気持ちがあります。受験勉強は、その後の社会生活の中で絶対に役立ちます。だから受験生諸君は頑張って欲しい…と、これは素直に思います。

2004/1/13

 マイナー本専門読者の私にしては珍しく、ベストセラー本を読みました。ギャヴィン・メンジーズ「1421−中国が新大陸を発見した年」(ソニー・マガジンズ)です。「…中国、明の時代。永楽帝の命を受けた鄭和がコロンブスより70年も早くアメリカ大陸を発見していた! 現存する1492年以前に描かれていた大陸の古地図、植物分布の謎、DNAの類似…あらゆる証拠が示す新大陸発見の真実…」という帯のコピーにつられて購入しちゃったわけです。
 「コロンブスの前に誰かがアメリカ大陸を"発見"していた」という話は、特に感銘を受けるものではありません。また、本書の中で著者が挙げる「証拠」なるものは、少し弱い感じもします。まあ新大陸の発見者がコロンブスなどではないこと(少なくともバイキングが先)は既に周知の事実ですし、当時のヨーロッパよりも優れた文化・科学を持っていたイスラム教徒や中国人が発見していても、特に不思議なことではありません。
 …にもかかわらず、我々がバーソロミュー・ディアス、バスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼランなどの名を世界史の授業で教えられるのは、西欧文明を基にする歴史観が一般化したからに他なりません。こんな当たり前のことはわざわざコメントするほどのことでもありませんが、古今東西の「歴史書」は概ね「科学」ではないものの方が多いし、特に現代の世界において主流となっている「世界史」は、古代ギリシャの歴史観を下敷きにしてキリスト教徒・西欧文明の価値観によって作られたもの…です。
 私がメルマガを購読している優れたジャーナリスト、田中宇氏も、この本の内容について触れ、次のように書いています。「…『地理上の発見』とか『大航海』」といったような概念は、15世紀まで西欧からほとんど出たことがなかったヨーロッパの人々にとって『発見』であり『大』航海だった、というだけのことだ。その後、西欧文明が世界と『世界史』を支配するようになったから、『人類初の世界一周はマゼラン』ということが『常識』になったのだと思われる…」

 …にも関わらず私がこの「1421」という本を面白いと思ったのは、内容もさることながら、こうした西欧中心の歴史観を覆すような本が、西欧人であるギャヴィン・メンジーズ(元イギリス海軍の士官)という人によって書かれ、欧米で大きな話題になっているからです。
 実は「アンチ西欧主義」の歴史観に基づく歴史書は、西欧以外の国では、かなり一般的なものです。しかしこれらのアンチ西欧型歴史書の多くは、日本のくだらない「新しい歴史教科書をつくる会」や「司馬遼太郎」などを見ればわかるように、「自国の文化の優位性」を主張するためにきわめて政治的な意図をもって喧伝されるのが一般的です。ところがこの「1421」という本は、先にイギリスで発売され(バンタム・プレスから出版、Amazon.co.ukの読者レビューの平均点は五つ星)て大きな論争を巻き起こしました。「1421 - Gavin Menzies」というWebサイトが公開され、鄭和論争が世界中の人を魅了しています。
 そして、鄭和という人間、彼の大航海についての興味も尽きません。中学・高校の歴史の教科書で「鄭和の大航海」について知っていたに過ぎなかった私が、鄭和に関する興味をかき立てられたのは、鄭和の航海を題材にした伴野朗「大航海」という非常に面白い小説によるところが大きいですね。こちらは基本的にフィクションなんですが、日本の村上水軍なんかも登場するエンターテイメント大作です。こちらの方も、ぜひ一読をお勧めします。

2004/1/9

 野菜が自らの"素性"を消費者に語る…という、「RFIDタグ付き野菜の流通実験」の試みが話題になっています。この実験を伝える毎日新聞の記事には、「…ダイコンを購入した同区の主婦、外川真由美さん(49)は『とても使いやすく、農薬の情報がオープンで安心できた。収穫した日がわかるので、新鮮さが実感できていい。他の食品にも広がってほしい』と話した…」と、消費者の声が掲載され、野菜へのICタグ添付によって、あたかも「野菜の安全性が高まった」ような論調になっています。TVのニュース番組でも扱われていましたが、キャスターの隣に座ったコメンテーターが、「食品の安全性が高まっていいですね」などとコメントしていました。
 RFIDタグの添付によって「消費者はその野菜を買う際に、貼り付けられたRFIDタグを介して生産履歴などを知ることができる」とされています。情報のトレーサビリティが高まるのは事実でしょうし、前述したこちらの記事にもあるように、「生産者情報を容易に添付できたり、生産管理に利用できるなど農家の利益になる」…ということもあるかもしれません。
 しかしこのシステムは、こちらの仕組みを見ればわかる通り、しょせんは「簡単にウソの履歴を作ることができる」システムでもあります。例えば生産者が消費者にこっそりと有害な農薬を使用したり、流通過程で有害な薬品処理がされた場合でも、そうした情報をRFIDタグに書き込まなければよいだけなのです。要するに、安全性…という面では、従来の「ラベル」と全く同じです。RFIDタグを貼付したからといって、野菜の安全性が高まるわけではけっしてありません。
 別に、生産者情報のトレーサビリティ向上に反対しているわけでも、RFIDタグが無意味だと主張しているのではありません。また、リサイクルシステムなどを確実に運用するためにはRFIDタグが有効な場面も多いでしょう。しかし、今回の実験で試みられたような「野菜の詳細な生産情報のトレーサビリティ」なんてものを有難がるのは、都市部に在住する一部の「頭でっかちな消費者や市民団体」と「無農薬や有機農法を売り物にして、都市部の消費者に媚びる一部の農家」だけだろう…という気がしないでもありません。また、こうしたシステムは農村に安定的に電気が供給されていないような発展途上国では使えないし、そうした国から農産物が輸入されている実態もあります。
 さらにもう1つ、RFIDタグにはプライバシー侵害の問題もあります。DFIDタグによって個人の「所有物」「購入物」の情報がわかってしまう可能性があります。このあたりの問題については、「トレーサビリティと個人情報保護」、「RFIDタグのプライバシー侵害問題、アルミホイル1枚で解決?」…あたりの記事をお読み下さい。
 私は、スーパーマーケットたコンビニで売られているあらゆる商品にRFIDタグが貼付される社会になったら、いつも「アルミホイル」を持ち歩くつもりです。

 坂村健氏や村井純氏などが各所でアジテーションをしている「夢のICタグ社会の実現」について、私はかなり冷ややかな目で見ています。

2004/1/8

 デジカメは「写真を撮る道具」です。別に何を撮影してもよいはずですが、変わった被写体の写真を撮っている人間、または変わった被写体を撮る行為そのものが、「異常」とみなされることがあります。
 典型的な話として、女性の裸を撮ることを趣味とする人は、得てして社会から「ヘンなヤツ」と見られがちです。もし死体写真を撮影するのが好き…なんて人がいたら(現実には葬儀屋でもない限り撮影機会がないでしょうが…)、ほぼ完全に変態扱いされそうです。
 また、セックス中の女性の画像を撮影するのは「アブノーマル」な行為でしょうか? むろん私は、撮影したことがあります。eggyで動画を撮影してみたこともあります。別にそうした写真を他人に見せるわけではありませんが、何でも記録してみたい私にとっては、当然の行動です。でも、こうした私を「異常」…と判断する人もいるかもしれません。

 「写真を撮る」という行為の中の「異常と正常」について、もう少し考えてみましょう。
 例えば私は、日常生活の中でケガをすると、必ずケガの部分の写真を撮ります。仕事中のちょっとした指の切り傷や、捻挫して腫れ上がった足…等々、マクロでしっかりと撮影しておくのです。切り傷なんて、うんと寄って撮るとけっこう生々しい写真になります。治癒過程も撮影することがあり、切り傷がカサブタに変化していく過程なんて、なかなか面白いものです。自分がケガをした時だけなく、周囲の人がケガをした時にも撮影することがありますが、「撮らせてくれ」と言うと、嫌がられることも多いですね(当然か…笑)。ケガ写真を撮る目的は、特にありません。こうして撮影したケガ写真のコレクションは、公開するわけにもいかず、パソコンの中の「wound」というフォルダに貯まっています。
 こんな私は、異常なのでしょうか(笑)
 怖い話ですが、もし私が医者で、それも外科医であったなら、手術中の写真を撮りたくなるかもしれません。これは実際にそういう立場になったわけではないので、撮りたくなるかならないか、想像できません。心臓、肺、胃の写真を集める…いや想像しただけで不気味です。医学目的ではない内蔵の画像など、「グロ写真」に分類されるべきでしょう。むろん現在の私は、内蔵の写真がたくさん掲載されている医学書なんて見たくもありません。でも、自分が外科医であったら撮るかもしれない…と考えるのは、要するに「自分の周囲のことを記録したい」という欲求の問題だからです。私が人の内臓の写真を撮らないのは「撮れない」からであり、「撮れる」立場にいたら撮るかもしれない…ということなのです。もし私が個人で開業している外科医で、内蔵の撮影を趣味としていたとしたら、それは異常なことなのでしょうか?

 ところで、写真を撮る…という行為は、もしかするとそれ自体が「人間にとっての異常な行為」であるのかもしれません。
 思えば、1839年ジャック・ダゲールによって、ヨードを塗布した銀メッキ銅板を感光板とするダゲレオ・タイプの「写真」が発明されました。1980年にはアメリカのジョージ・イーストマンが写真乾板を発明、直後の1984年にはロール式フィルムを開発、1988年には携帯カメラであるコダック1号を発売しました。以後急速にカメラの低価格化が進み、広範な大衆の間にカメラが普及しました。カメラを手にした普通の人々は、様々な風景を記録し始めたのです。人類にとって写真を撮る…という行為は、この時から「普通の行為」となりました。
 しかし、本来風景というのもは、「ある瞬間」にしか存在しないものです。カメラが「過去の風景」を見ることを可能にする道具であるならば、それは時間の経過とともにしか存在できない人間の実存を脅かすものですらあります。「美しい風景」は、それが自然であっても建物であっても人物のポートレートであっても、全てが「瞬間の存在」です。空間または他のいかなる物理的実体からも独立しているところの「時間」が存在する以上、10年前と同じ風景…なんてものは絶対に有り得ません。こうしたことを考えていると、「写真を撮るという行為」は「人間が生きる」ことの本質に相反する異常な行為…とも思えるのです。

 さて、「写真を撮るという行為」が「人間が生きる」ことの本質に相反する異常な行為であるならば、「被写体」の違いによる「異常」「正常」なんて話は、議論するほどのものではないのかもしれません。

 …私はいったい何を書きたかったのか…、よくわかりません(笑)

2004/1/7

 新年早々のバカ話です。
 私の親しい知人に、某大手機械メーカーに勤める40代半ばのビジネスマンがいます。営業セクションの管理職をやっており、普段は部下と共に得意先回りをしています。頭は切れるのですが、出世コースのトップを走っているわけではなく、ごく平凡なサラリーマン生活を送っています。お金持ちでもありません。子供は高校生の女の子が1人、かなり美人の奥さんがいます。外見はいたって普通のサラリーマンです。特にいい男ではないし、普段はブランド品ではなくデパートで誂えた地味なスーツを着て、あまり目立たない男です。
 この彼は、なぜか女性にモテるのです。モテると言うよりも、40才前後以降の彼は、不思議といつも「いい女」を連れています。アフターファイブには必ず特定の女性を連れて遊んでいます。いつも女性をとっかえひっかえしているわけではなく、だいたい2〜3年の周期で連れている女性が代わります。彼は、その「奥さんではない女性」を平気で知人と一緒の席にも連れてきます。
 年末にたまたま彼と飲む機会があったのですが、やはり20代後半の素敵な女性を連れていました。女性が先に帰宅した後、彼にどんな女性なのかを聞いたら、「部下」なんだそうです。しかも、総合職で入社した飛び切り優秀な女性…とのことでした。いつも私の前で会社の話や仕事の話を全くしないので、部下と上司の関係とはわかりませんでした。で、その彼女の前の彼女もやはり部下だったんだそうです。彼が言うには、ここ10年ほどは、毎年入社した「一番優秀な女性の部下」と親しくなることにしている…のだそうです。  その後飲みながら彼の話を聞くと…。要するに、優秀でプライドの高い部下とたまたま2人になった時の雑談の中で、知的なバックボーンを必要とする話の中で意見が対立した時、議論に持ち込んで徹底的に叩いて論破し、後は無視して普通に振舞うのだそうです。そんなことを繰り返しているうちに、「何となく仲良くなっちゃう」のだと言ってました。
 何でも「仕事で凹ませる」のではダメとのこと。仕事は、長く会社にいる人間の方がよく出来て当たり前だし、本当に優秀な女性は「仕事の出来る上司に憧れたりはしない」のだそうです。
 それにしても、「プライドの高い人間にいったんダメージを与える」「こちらからはけっして声をかけない」…なんていうのは、「女性の落とし方マニュアル」としては非常に古典的で通俗的な手法ですよね。マンガじゃあるまいし、こんな話を実際に試みている人間がいるとは思いませんでした。また、こうした通俗的なナンパ手法が、いまもって効果的である点にも驚きます。ただ彼の弁によると、この手が通用するためには相手が「飛び切り優秀で自我が強い女性」でなくてはならず、また落とす方の男性には「飛び切り優秀な女性をさらに上回るインテリジェンス」が必要なんだそうです。女性は頭が良ければ良いほど、自我が強ければ強いほど簡単に「仲良くなれる」と言います。そしていったん仲良くなると、早く絆が深まるのだそうです。
 むろん「仲良くなる」ことと「寝る」ことは同義ではないので、彼がこうして仲良くなった女性と寝ているかどうかは知りません。でも私は、間違いなく寝ていると思います(笑)

 で、ここまでは前置きです(長いなぁ…)。問題は、ごく普通の中年サラリーマンである彼が、なぜそんなことをしてまで若い女の子を連れ歩いているか…ということです。
 彼は、30代後半を過ぎ、世間で「中年」と呼ばれる年になったとたん「いつも女性と一緒に行動したいと思うようになった」のだそうです。美人の奥さんがいるにも関わらず…です。中年になると確実に性欲は減衰しますが、性欲の減衰と反比例して「女性と一緒にいる時間が楽しくなった」のだそうです。今風の言葉で言えば「女性とマッタリと時間を過ごす」のが実に楽しくなったということです。

 この、「中年になったら、いつも女性と一緒に行動したいと思うようになった」…という彼の心理と行動、私は非常によく理解できます。
 私は、最近になって…というよりも、40才を過ぎた頃から非常に「女性が好き」になりました。寂しいのかもしれません。そして「女性が好き」というだけでなく、前述の彼ほどではないにせよ、比較的「モテる」ようになりました。これは自慢しているわけではありません。20代の頃の自分は、それなりに女性と遊んでいたにも関わらず、「自分が女性にモテる」などと思ったことがありませんでした。また、自分が「他人以上に女性好き」なんて思ったこともありませんでした。  ところが、セックスに関する欲求がほどほどになった30代の後半頃から、明らかに「女性好き」になりました。そして、前述の彼のような「ナンパ手法」は使いませんが、周囲の様々な女性と何となくうまく行くようになりました。きっと、ギスギスしたところが取れて、人間的に丸くなったからでしょう(?) むろん、相手やシチュエーションによってはセックスもしますが、基本的には前述の彼と同じように「女性とマッタリと時間を過ごす」ことが、私も非常に楽しいのです。

 さて、年明けには「一年間の抱負」を考えるのが、世間一般の慣わしのようです。「行き当たりばったりの人生」を送る私はそんな習慣には無縁ですが、あえて今年の抱負なるものを考えると、やはり「今年もいい女と遊ぶ」…になります。誰に宣言するわけでもありませんが、…頑張ります(笑)

 さて、今日の画像は豊島園駅前の喫茶店「あけの茶屋」です。
 以前も書いたように、ここは一昨年の夏まで池袋北口で営業していた喫茶店の名店「街角」(旧「象の仔」:戦後すぐの頃から営業していたそうです)の経営者であった箕島夫妻が開店したお店です。ともかく美味しい珈琲を飲ませてくれるので、いつも週末に訪れています。
 実はこの「あけの茶屋」、年末に私もお手伝いしてブロードバンド回線と無線LANスポットを設置しました。別に宣伝をするわけではありませんが、豊島園を訪れた際には、無線LAN機能を持つ端末さえ持っていれば、いつでもインターネットアクセスが可能です。
 屋外のテラス席が充実しているので、春暖かくなったら、ゆっくりとネットサーフィンや原稿書きができそうです。

2004/1/5

 年が明けて2004年になりましたが、特別な感慨もないし私生活に大きな変化もありません。まあ、1月3日にはオフィスで仕事をしていたこともあって、今日はいつもの「週明け」です。
 年明け早々、世の中の出来事に悪態をつくのもなんですから、今日は穏やかにデジカメのレビューでも掲載することにします。題して、究極のスナップデジカメ、CASIO「EXLIM EX-S20」…です。

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