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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/12/29

 今日もオフィスで仕事です。池袋西口にあるオフィスの周辺も、めっきり人の姿が減りました。もうお正月休みに入っているお店も多く、先週までは師走の喧騒に包まれていた路上は静かです。午後も3時を過ぎると、冬至頃の低い位置からの日差しが歩道に長い影を作ります。柔らかい日差しと、穏やかに流れる時間…、こんな冬の街の雰囲気は悪くありません。

 ずいぶん長い間、池袋西口にオフィスを構えてきましたが、この年末には悲しいニュースがありました。池袋西口にある芳林堂書店が、今年いっぱいで閉店するのです。芳林堂書店と言ってもご存じない方も多いと思いますが、高田馬場駅前を始めとして一応首都圏で10店舗ほどを展開する、チェーン系の大型書店です。私は、日常購入する本の半分以上を、この芳林堂書店池袋店で購入していたので、今回の閉店は非常に残念でした。
 書店なんてものは、目的の本さえあればどこでもいい…かというと、けっしてそんなことはありません。居心地のよい書店とそうではない書店の差は大きいのです。また私は、明確な購入目的を持って書店を訪れることはほとんどありません。どんなに時間がない時でも平積みになっている本など新刊書を中心に一通り見てから、面白そうな本を購入する…というパターンなので、書店内の本の配置や分類法など、「自分の購入法や巡回法に合った書店」でなくては嫌なのです。
 例えば池袋には、東口に西武系のLIBROとジュンク堂という床面積で全国でも1、2を競う大型書店がありますが、いずれの書店も私にとっては「探しにくい、買いにくい」書店です。西口には東武百貨店の8Fに大型の旭屋書店がありますが、ここもまたけっして買いやすい書店ではありません。
 その点、芳林堂書店池袋店は、これらの書店ほど規模は大きくないものの、非常に使いやすい書店でした。書籍の配置もいいし、新刊書籍もジャンル別にパッと見られます。7Fまである各フロアへのジャンル配置もよく、蔵書規模も手頃な書店でした。特に3階の文庫本フロアは、文庫新刊書のジャンル分けが非常に良く、また各社文庫ごとに平積みにしている本の選択がうまいので、「面白そうな本」を非常に探しやすかったのです。私は、このフロアのディスプレイ担当者の「どんな本が面白いか」という視点が、私のそれと合致するのだろうと思っていました。また5Fの技術書フロアも、とてもよく考えられた書籍配置であったし、限られたフロアにおける仕入れ選択も良かったと思います。
 この芳林堂書店がなくなると、今後しばらくは「どこで本を買ったらよいのか」で非常に悩みそうです。ああ、なんてことでしょう。人生に占める「読書」の位置が極端に大きい私にとって、よい書店が消える…ことに勝るほど悲しい出来事は、なかなかありません。

 今日は、非常にローカルかつ個人的な話でした。

2003/12/26

 2003年は、デジタル一眼レフが市場を立ち上げた年でもありましたが、各社から小型・軽量デジカメが大量に商品化された非常にうれしい年でもありました。コンパクトデジカメが大好きな私にとって、2年前には「電池込みで200g以下のデジカメが欲しい」というのは切実な要求でしたが、いまや200g以下という基準ならあらゆるタイプの製品が選択できるようになりました。また、起動速度、撮影感覚の高速化も目を見張るものがあり、どのメーカーの製品でも軽快に撮影できます。
 ところが、メーカーを問わず大半のコンパクトデジカメが判で押したように「光学3倍ズーム」を搭載しているのは、どうしても納得できません。「光学3倍ズームの横並び」には、いったいどんな意味があるのかよくわかりません。むろん、初心者からある程度のヘビーユーザーまで、「光学ズーム」に高いニーズがあるのは理解しています。また、35o換算で40〜120ミリあたりの3倍ズームが、小型化と画質を共存させる設計がしやすい点もわかります。しかし、だからと言ってコンパクト機がどれもこれも光学3倍ズームを搭載している現状は、何とも芸がないですよね。
 高倍率ズーム機も面白いのでしょうが、やはりもっと「単焦点」に目を向けて欲しい…というのが、「コンパクトデジカメ大好き」な私の切なる願いです。
 昔、銀塩カメラのベテランは「よい写真を撮ろうと思ったらズームに頼るな」という言葉をよく使いました。これは、「ベストな撮影ポジションは足で確保しろ」という意味だったと思うのですが、こんな時代を経験しているカメラのベテランは光学ズームを嫌います。しかし、私が光学ズームをあまり使わない理由は、こんな大げさな話ではありません。沈胴式ズームの出し入れなど余計なメカニズムの搭載による大型化、起動時間の長時間化、トラブル可能性増加などが嫌いなだけでなく、「撮りたい時に一瞬でスナップする」場合に、ズームの画角操作なんて考えたくないからです。ズームボタンなんてない方が、撮るときに迷いもなく手っ取り早くていい…と思っています。また、レンズ設計上も、ズームよりも単焦点の方が明るくて高画質のレンズを設計できるはずです。同じサイズのデジカメなら、単焦点にした方が明るくて高画質になると思うのですが…。だいたい、2〜3倍のズームなんて、大半の人は両端の画角しか使いません。
 ところで、現行機種で単焦点の小型デジカメとして思い浮かぶのは、SONYのDSC-UシリーズとF77、富士写真フィルムのF402 、もう旧機種となった東芝のsora T15、松下のD-snap SV-AS10、そしてカシオのEX-S/Mシリーズぐらいですか…。うち、DSC-Uシリーズ、F402、T15、SV-AS10、及びEX-S/Mシリーズの大半の機種は200万画素機であり、EX-S3は300万画素ながらマクロなしの固定焦点機です。どれも画質優先ではなく、「スナップ用」に割り切った設計です。400万画素以上の単焦点高画質機となると、SONY「F77」だけという寂しい状況になります。ただし、SONY「F77」も回転レンズと言うギミックを売りにしている部分があり、純粋な「単焦点・高画質機」じゃないところが残念ですね。
 確かに、日常スナップ中心という個人的な主用途では200万画素でも十分です。しかし、こういう私でも、時々は「仕事以外でも高画質で撮りたい」というケースもあります。こうした場合、手持ちのデジカメならば「DSC-V1」あたりを使うわけですが、やはり重くて大きいというのが実感です。もうちょっと高画質の単焦点コンパクトデジカメが欲しい…と思う所以です。
 以前からあちこちで言われていることですが、銀塩カメラにある「高画質コンパクト」という製品ジャンルがデジカメには存在しません。デジカメ市場が成熟に向かいつつある現在、リコー「GRシリーズ」やミノルタの「TC-1」のようなコンセプトのデジカメは一定のマーケットはあると思うのですが…。ただ私の場合は、10万円前後もする「高級コンパクト」デジカメが欲しいわけではありません。できれば実売価格3〜4万円程度で、120g前後で300〜400万画素あたりの単焦点デジカメが欲しいですね。私は写真マニアじゃないので、高度なマニュアル撮影機能も不要で、オート前提のデジカメでも構いません。「小型軽量で安価だけれど、かなり高画質」(かなり…というところがミソです)というシンプルな単焦点デジカメ…、どこかのメーカーで商品化してくれないなかぁ。

2003/12/25

 Yahoo!の社会ニュースのヘッドラインに「…『死刑!』『八丈島のきょん!』などのギャグで70年代、一世を風靡した山上たつひこさんのマンガ『がきデカ』が23年ぶりに復活する。『ビッグコミック』(小学館)新年1、2号に前後編『中春 こまわり君』が掲載される…」というニュースが掲載されていました。
 このニュースを読んで思い出したのが、1週間ほど前に同じようにYahoo!ニュースのヘッドラインになっていた、「…第30回大仏次郎賞(朝日新聞社主催)は山本義隆氏の『磁力と重力の発見(みすず書房)』に決まった。山本さんは元東大全共闘代表で現在は予備校講師。第57回毎日出版文化賞に続いてのダブル受賞となった…」というニュースです。

 妙な感想ですが、「山上たつひこによる『がきデカ』の再連載」、「山本義隆の大仏次郎賞の受賞」という2つのニュースは、ともにYahoo!のヘッドラインになるようなニュースじゃないように思います。どちらの名前も、30代以下の人なら知っている方が少ないでしょう。でも、「山上たつひこ」と「山本義隆」が大きなニュースになっちゃうのは、この2つの名前が、ある世代の人にとってはとてつもない「ビッグネーム」だからです。しかも、「山上たつひこ」「山本義隆」は対極的な存在ながら、どちらもインテリ好みの顔ぶれであることは確かです。こんなニュースが大々的に報じられると、現在40代後半から50代にかけての人達が持つ懐古趣味と社会的パワーを強く感じてしまい、中年の私は、多少なりとも気恥ずかしい思いがします。

 ところで2ちゃんねるでも話題になっていますが、山本義隆の大仏次郎賞受賞に対して、「バカの壁」で一躍時の人となった養老猛司が何とも妙なコメントをしました。朝日新聞の12月18日朝刊に掲載された養老孟司の選評内容は次のようなものでした。

 「…山本氏のこの著作は、すでに毎日出版文化賞を受賞されている。それにさらに朝日新聞社から大佛次郎賞が授与される。そのことから見ても、本書自体の価値がわかると思う。評者自身、両賞の選考委員を兼ねている。西欧科学の歴史を語るとき、日本からの視点はきわめて貴重である。どのような文化もそれ自体の盲点を持ち、西欧も例外ではない。著者の目はそこをみごとに見渡す。次に個人的な意見を付け加える。私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない。それは右の価値評価とは別である。強く表現するなら、選評を拒否する。私自身は、山本氏と同じく60年代末に、演じた役割の軽重はあれ、同じ東大闘争に巻き込まれた。その結果、私は自分の考え方、さらにその後の研究者としての生涯に多大の影響を受けた。私はそう思っている。その結果としての私の思想からすれば、まったく別な論評も可能である。しかしそれは、かならずしも書物自体の論評ではないという性格のものになるはずである。そうしたことを熟慮した結果、背景を含めた選評は拒否するしかないという結論に至った。それ以上の説明はいまは不可能だし、そもそも紙面も不足である。読者のご了解を乞う…」

 意味深長なコメントですが、まあ深読みするまでもなく「…本の内容は評価するが山本義隆という人物は気に入らない。彼が歩んできた道を考えるとこの本の内容にもケチをつけたくなる」…と、あからさまに養老孟司は言っているわけですね。
 2ちゃんねるのスレでも同じような感想がありましたが、これは実に「痛い」発言です。文学賞の選評なんだから、内容についてきちんと論じるべきなのは言うまでもありませんが、選評対象作品の著者に対して言いたいことがあれば、堂々と発言すればいい。東大闘争、ひいては日本の左翼闘争史において山本義隆が果たした役割と、同時代の養老孟司自身の関わり方を比較しての「屈託」を感じます。養老孟司が当時「大学」についてどう考えていたのかは知りませんが、もしかすると「学問の場であるべき東京大学をメチャメチャにした」という思いがあるのかもしれないし、「山本義隆のアプローチは問題解決法として誤っていた」と言いたいのかもしれません。何にせよ、選評としてはヘンだし、屈折した感情を強く感じます。
 かつて、彼の初期の著作である「知性の叛乱」を読んだことがありますが、大学、しかも日本では最高学府と呼ばれる大学を「解体」することで「知」を問い直そうとした山本義隆は、長い時間をかけて個人の頭の中で「知」を再構築する作業を続けていたようです。私は世代も違うし、特に全共闘シンパでもありません。しかし、彼が個人で長い時間をかけて行った「知の再構築」作業のプロセスは「主体性の確立」のプロセスそのものであり、何かそこには「ここ20年間ほどの間に教育現場から失われたもの」を取り返すためのヒントがあるように感じます。

 冒頭のニュースに戻りますが、ビッグコミックの新年号はぜひとも買わなければなりません。「小学生だったこまわり君も38歳のサラリーマンになっている。妻と小学2年の一人息子がいて、平穏な家庭生活ではあるが、妻には理解されず、酒の席では昔のギャグの栄光を蒸し返される…」とのことです。「悩みを抱え、哀愁ただよう中年ならぬ中春こまわり君」を、早く見たいものです。

2003/12/24

 TVのビジネスニュース番組を見ていたら、オリコンの調査による2003年に最も売れた音楽というのはSMAPの「世界に一つだけの花」だそうです。で、2003年を象徴するキーワードは、「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」…だそうです。
 「No.1よりもOnly One」というのは、教育現場でずいぶん受けたらしく、昨今はこれをスローガンにする公立の小、中、高等学校(こちらこちらこちらなど)がやたらと増えています。いや、教育現場にいる人間と言うのは、実に陳腐で安易な人間が多いとつくづく思いました。
 今、学校教育現場では「偏差値に代わる価値観」の創出にやっきになっており、他者と競争することを放棄した児童・生徒の増加に悩まされています。そうした児童・生徒に「生きて行く上での何らかの価値観」を教えるためには、「No.1よりもOnly One」というのは安易で便利な言葉でしょう。教育現場における「Only One宣言」の多くは、「個性を伸ばそう」という言葉とほぼ同義で安易に使われています。
 実際に「No.1よりもOnly One」というフレーズによって、「より高いところを目指す」ことをあきらめた人間、または高いところを目指す能力のない人間が、たくさん「救われた」はずです。

 考えてみると「No.1よりもOnly One」とういう言葉は、なんとも「胡散臭い」「インチキな」スローガンです。というのも、実は「One of Them」に過ぎない人間に対する慰めにしか過ぎない部分を、強く感じるからです。
 「No.1よりもOnly One」は、文意で見れば基本的に間違いではありません。私も賛同する部分はあります。しかし、現実の社会において他者や社会から「Only One」と見られている人間の多くは、No.1の人間、またはNo.1を目指した人間であるはずです。学問、スポーツ、芸術など、どんな分野においても、「Only One」と見られるためには、他人がやらない分野でNo.1になるための壮絶な努力が必要なことは自明でしょう。
 確かにNo.1になるのは、誰にでも出来ることではありません。しかし、No.1を目指して、No.1がダメならNo.2やNo.3を目指して…、より高いところへ自分を引き上げていく努力を放棄すれば、そうした人間の多くが、結局は「Only One」ではなく「One of Them」になっていく…という現実を明確に認識する必要があります。
 教育現場に限らず、「No.1よりもOnly One」を社会のあちこちで安易に使うことで、実は「One of Them」に過ぎない人間が自己満足を得られる環境を作っている…これが今の日本の状況のように感じます。
 本当の個性は、高い能力や高い教養の裏付けがあってこそ、初めて周囲から認められるものだと思います。
 もう一度繰り返しておきます。自分は「Only One」だと思っている人間の多くが、実は「One of Them」に過ぎないのが現実です。

2003/12/22

 山際素男「不可触民と現代インド」(光文社新書)を読みました。現代インド研究家でもありジャーナリストでもある山際素男という著者については、以前(7月4日の日記)で「カーリー女神の戦士」という奇書の紹介を書いたことがあります。
 「不可触民と現代インド」という本には、ダリットを中心とするインドの「非差別階層」がインド全人口の85%に達し、数億人の人々が依然として先進国においては想像できないような非人間的な生活を強いられている現状と、カースト最上層であるブーラミンがヒンズー教という「支配の道具」をいかに旨く使っているか、また既得権益を手放さないために様々な手段を講じているか…が、明快に書かれています。さらに、昨今のヒンズー原理主義の台頭とグローバリズムの進展によって、こうした差別の現状がますます悪化しつつある状況についても解説されています。また、非暴力運動で英雄視されている「ガンジー」の思想の後進性と欺瞞についても、あらためて認識を深めることができます。
 私はかつてインドを訪れた折に、インドの被支配層のあまりにも悲惨な生活状況を見て、インドへ旅行する多くの人がその魅力を口にする「東洋的、宗教的な魅力」「深い精神世界」なんてクソクラエと感じた経験があります。
 実際にこの本を読めば、インドのヒンズー教の教えに基づく精神世界なんてのは「ウソッパチ」以外の何物でもなく、ヒンズー教が単なる民族支配(アーリア人によるドラヴィダ系住民の支配)の道具に過ぎないことがよく判ります。

 「不可触民と現代インド」と、ほぼ同時に読了したのが佐々木穣「武揚伝」(中公文庫)。今日ちょうど第4巻が発売されたので、朝購入してお昼休みに読了しちゃいました。私は高杉晋作やら土方歳三やらを主人公にした「幕末物」「維新物」というジャンルは基本的に嫌いで、まず読まないのですが、この本に関しては佐々木穣という作家が好きだったので文庫本になったのを機に読んでみました。
 維新から明治にかけての著名な人物としてはあまり作家が取り上げない榎本武揚という人物を題材にしている点、かなり抑制された文章、淡々とした文体で書かれている点、あのアホな司馬遼太郎のように独善的な歴史観を押し付けない点…など、なかなかに面白い本でした。坂本竜馬と勝海舟の評価が徹底的に低い点も面白いですね。坂本竜馬の「船中八策」はパクリであり、坂本竜馬も勝海舟も軽薄で世渡りがうまい人物に描かれています。
 まあこんな本よりも、佐々木穣には「エトロフ発緊急電」「ベルリン飛行指令」「ストックホルムの密使」の3部作を上回る、ミステリーの大作を期待したいものです。

 新刊書が出ない年末・年始は、私のようにほぼ毎日書店で文庫本の新刊を漁っている文庫本マニアには、実につまらない時期です。早く年が明けて、世の中のリズムが普通の生活に戻って欲しいと願っています。

2003/12/19

 「建国義勇軍」などを名乗る銃撃事件で、「刀剣友の会」なる妙な右翼モドキの集団の主催者が逮捕されました。まあ「ヘンな人」「アブナイ人」はどこにでもいるので特に感想はないのですが、この右翼的(右翼とは言えないほど幼稚)な人物が民主党の西村信吾議員に献金をしており、さらには議員が前回選挙の当選御礼の文で「刀剣友の会」を賛辞していた…というニュースが流れています。
 西村信吾議員は右寄りの人にたいそう人気のある人ですが、これまでは特に興味がなかったので、その存在を気にもしていませんでした。しかし今回のような形で名前が挙がったことに興味を持ち、彼のホームページを見てみることにしました。
 西村議員のサイトの「政策」のページを見ると「憲法(国家基本法)」という項があり、彼の憲法改正に対する考え方が書いてあります。それによると、「… 1.意味の通る日本語にする。 2.我が国家の伝統的な成り立ち(国体ないしは国柄)を明確にする。 3.国防の基本を明示する。 4.国民の権利を実態に即したものとするとともに義務も明示する。 5.憲法裁判所の設置 6.憲法改正規定の改正…」など、かなり面白い改正案が書いてあります。
 まあ、かなり「ウヨ厨」あたりが喜びそうな主張だとは思います。しかし私は、別に「ウヨク」でもなければ「サヨク」でもないですから、彼の政策の根底にある考え方について特に興味はありません。強いて言えば、「2. 我が国家の伝統的な成り立ち(国体ないしは国柄)を明確にする。 3. 国防の基本を明示する。 4. 国民の権利を実態に即したものとするとともに義務も明示する…」の3つの点については、はっきり言って賛同しかねます。
 しかし、「憲法の条文が曖昧だからもっと意味の通る文にしろ」と言う1の主張、さらには「5.憲法裁判所の設置」や「6.憲法改正規定の改正」あたりの彼の主張には、基本的に賛成します。

 私は常々、あらゆる場面で憲法論争の不明快さが気になっていました。憲法9条のどこをどう読むと「武器を持った自衛隊(軍隊)を海外の戦場に派遣してもよい」…と解釈できるのかはわかりませんが、「何通りにも解釈可能」な文章と言うのは、それだけで間違っています。政府も、自衛隊を海外派兵したければ妙な屁理屈なんか捏ね回してないで、堂々と「憲法9条を改正」と言えばいいのに…と思うわけです。
 一方で「護憲」「護憲」とバカの一つ覚えのように言っている社民党なども滑稽です。以前から言っているように「護憲」とは「憲法を守ること」で、その憲法に「改正規定」が存在するのですから、憲法を厳格に守ることは憲法改正をも許容することです。共産党も矛盾しています。長らく党の綱領では自衛隊を否定し、天皇制も否定してきました。にも関わらずこうした論議を「棚上げ」してしまった現在の路線は、自己矛盾以外の何物でもありません。

 この「憲法が曖昧だ」という話の例としては、「政教分離」問題あたりがふさわしいかもしれません。
 実は私は、憲法20条第一項後段において明確に政教分離が謳われていると思っていました。しかし憲法20条第一項後段の条文というのは、実は「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」…という、何ともよく意味がわからないシロモノなのです。この条文は、公明党の政権参加が憲法違反かどうかが問題になる時に必ず引き合いに出されます。詳しい話は省きますが、ともかくこの条文だけでは公明党が政権参加することがよいのか悪いのか、どちらにでも解釈が可能です。
 この憲法20条の解釈が問題となった裁判として、「大嘗祭訴訟」があります。まず、1990年に行われた「即位の礼」「大嘗祭」に鹿児島県知事が出席したことに対して、「知事が公費をつかって大嘗祭に参列したのは違憲・違法ではないか」という住民訴訟が起こされました。この裁判で、大嘗祭への国の関与についての鹿児島地裁判決は「政教分離原則に違反するかどうかにつき判断する必要はない」…と、明確な答えを避けました。大分県でも同様に、「大嘗祭」で使う新米を収穫する「斎田抜穂の儀」に大分県知事らが公費で出席したことが、憲法の政教分離原則に反するかどうかを争う住民訴訟が起こされました。この上告審で最高裁第三小法廷は、全員一致で「政教分離には反しない」として住民側敗訴の判決を言い渡しました。 とは言え、ここでも「大嘗祭が宗教儀式かどうか」についての明確な判断はされませんでした。
 天皇家が「大嘗祭」「新嘗祭」という皇室神道に基づく重要な宗教的祭祀によって連綿と続いてきた事実には疑いの余地はありません。そうなると天皇家は「日本の象徴」以前に、「皇室神道を司る宗教集団」であるわけです。私は、そうした天皇家を日本国民が敬うことには全く異を唱えるものではありませんが、憲法20条第一項後段を明確に政教分離を謳ったものと解釈すれば「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない」以上、天皇家の存在は難しいものになります。

 どちらにしても、西村信吾議員の言うように、憲法20条をもっと明確で意味が通る条文に書き直すべきでしょう。

 ところで私は、西村信吾議員の言うような「日本を天皇を長とする立憲君主制に移行する」ことを望みません。しかし当然ながら、日本共産党の綱領にあるような「天皇制廃止」論にも賛同しません。
 日本が天皇制を維持すべきかどうかについて、政治的な色を一切出さずに感想を述べるならば、私は、天皇制は「文化遺産」として、永久に国家によって保護・継続を図るべき…と思っています。これは「皇室神道」という日本固有の特異で重要な宗教を、その伝統的な祭祀ともども将来に渡って保全すべきだと考えるからです。
 私は、以前から「皇室神道」に非常に興味を持っています。一般に広まった神社神道とは異なり、独特の祭祀を中心にして非常に少ない人間にだけに伝承されてきました。しかも、神社神道が広範囲に拡大する中でいろいろな時代の政治・文化の影響を受けながら大きく変質してきたのに対し、上代の原始的な神道の面影を強く残す皇室神道は、日本という国の成り立ちを知る上でも、上代の文化を知る上でも極めて貴重な存在です。
 大嘗祭、新嘗祭の正確な内容は、誰もわかりません。大嘗祭で「悠紀殿」「主基殿」の内部でどんな祭祀が行われるのか、誰も知ることはできません。しかし、大嘗祭、新嘗祭に関する折口信夫の論考は非常に興味深く読みました。彼が「悠紀殿」「主基殿」内部の儀式について言うところの、「沐浴後の聖婚、前天皇の遺体との共寝…」という内容は、なんともミステリアスであり、エロチックなものです。
 ついでに、言わせてもらえば、現在、雅子妃に男子の跡継ぎが生まれない可能性があることをもって「女帝容認論」なるものが出ています。私は「天皇家の跡継ぎは男子のみ」と明確に規定すべきだと思います。これは大嘗祭、新嘗祭ともに「女性と褥を共にする」という重要な儀式があるはずだからであり、女帝では儀式をまっとうできないため、儀式自体が成立しないからです。文化遺産としての皇室神道の継続を考えるならば、男子のみが天皇家の跡を継ぐべきです。宗教的祭祀の文化的重要性を語っているのですから、「男女同権の時代」なんて話はピントがずれているし、「過去に女帝がいた」という話は特殊な例外のみです。
 さらに、天皇家は現在の東京にある皇居に住むべきではありません。天皇家は京都に住むべきです(ついでに遷都するかどうかは判断しかねます)。日本の天皇制の歴史を考えた時(面倒なので細かい理由は書きませんが)、皇室神道が規定する様々な祭祀と、京都という街は、切っても切り離せない関係にあります。皇室神道の文化的、民俗学的価値を評価するなら、天皇は京都に住むべきです。皇室神道は、明治の維新政府によって大きく捻じ曲げられました。ここら辺で一度、皇室神道を正当な形で構築し直すべきでしょう。白川伯王家の役割も、何らかの形で復活させるべきだと思います。

 …ああ、こんな与太話を書くと「右寄りの方」から「天皇家に対する尊敬の念がない」と抗議のメールが来そうです。「左寄りの方」からも「天皇制を賛美している」と抗議のメールが来そうです。どちらもお断りします(笑)
 それにしても、年末になって、書いている内容がますます支離滅裂になってきています…
2003/12/18

 繁華街の外れにある我がオフィスでは、夜になると窓の外から、風に乗ってかすかにジングルベルの歌声が聞こえてきます。12月も半ばを過ぎ、今年もまた1年が終わろうとしています。
 今日、NTTドコモから第二世代の3G端末であるFOMA900シリーズが発表されました。しかし、世界の人口の1/4が飢餓に瀕し、多くの地域に住む人々が軍事紛争による生命の危機に晒されている状況の中で、携帯電話に搭載されているデジカメが200万画素になったとか、携帯にドラクエがプリインストールされた…なんて話題は、どことなく虚しく響きます。

 思えば今年1年間、自分の身辺に大きな変化はありませんでしたが、世界ではいろいろな出来事がありました。何と言っても、ブッシュ政権によるイラク攻撃がいちばん印象に残っています。2001年に起こった9.11テロ事件に端を発する世界の政治的、軍事的、経済的な混迷は、米国のイラク攻撃によってさらに深まることになりました。現在、世界の至るところで起こっている民族や宗教の対立、そして国家間の経済的利害の対立は、もう救い難い状況のようにも見え、暗い気持ちになります。
 こうした世界の混迷に加えて、地球規模の人口問題、食糧問題、そして環境問題は、これもまた救い難い状況にまで悪化しつつあります。一方で先進国においては、科学技術の進展やエレクトロニクス産業の発展、さらには交通機関の高度化などが進み、我々の生活はいっそう利便性を高めつつあります。とりわけ先進国においては、「豊かな生活」を求める人間の飽くなき欲望が、化石燃料や鉱物資源、そして水や食料などの限られた地峡上の資源の国家的収奪を正当化し、経済における「無制限の成長モデル」が描かれつつあります。
 しかし、「地球上の限りある資源」「地球が持つ限りある環境復元力」などを前提にした場合、「無制限の成長モデル」なんて絵空事です。これは、科学技術の発展によって解決できる問題ではありません。こうしたごく自明の前提から、地球経済の「持続可能な成長モデル」への転換を呼びかける人たちもいます。一部の反グローバリズム運動や環境市民運動などを見ていると、成長モデルの転換を目指して果敢に挑んでいるようにも見えます。しかし、既に地球は「持続可能な成長モデル」なるものを描けない段階に来ているような気がしてなりません。

 年の瀬に、こんな埒もないことを白昼夢のように考えているのは、おそらくここ1週間ほどの生活が、あまりにも多忙だからに違いありません(笑)

 さて先日、「水戦争の世紀」(集英社新書)という、今後の地球を考えるにあたって非常に示唆に富む内容を持つ本を読了しました。この本には次のようなことが書いてあります。
 「…地球上の淡水資源は限られたものであり、既に資源の枯渇が始まっていること、既に地球上の水は商品として流通していること、水を商品化したのは多国籍企業と結託した先進国政府及びWTOや世銀の意向であること、水の価格が原油の価格を上回っている地域があること、水は一部の国と地域に偏在しており、持てる国と持たざる国の格差が大きいこと、水資源の分配が原因で世界中で紛争が多発していること、世界の人口の中で1/3以上の人々が生きていくために必要な最低限の水を得るために苦労していること、北米人は1人あたり毎年1280立方メートルの水を消費するがアフリカ人は平均して186立方メートルしか使っていないこと…」
 それにしても、多国籍企業の手によって水資源が管理されはじめ、各国の公共事業とすての水道事業が民営化されつつある現状には驚きました。世銀は発展途上国への融資の条件として「公共サービスの民営化」を要求し、その一貫として発展途上国の都市部の上水道サービスが民営化される例が非常に増えています。しかも、上水道サービスの民営企業への譲渡にあたっては、企業の利益を保証する例が多く、結果として水道料が値上がりし、貧困層が上水道を利用できなくなっているということです。

 ところで私は、現在の地球上の水資源の現状を憂いている故に、「水戦争の世紀」という本の内容を紹介したのではありません。むろんこの本の著者は、「反グローバリズム」の立場に立つ人ですから、こうした現状に警告を発するとともに、「生きる権利」と密接に結びつく水資源の商品化に強く反対し、水の管理を生活者の手に取り戻すべきだと主張しています。
 しかし私がこの本を読んで考えてしまったのは、そんなことではありません。大げさな話ですが、「自由経済の功罪」という問題について考えてしまいました。

 昨今日本でも、膨大な赤字を持つ道路公団の民営化が大きな問題になっています。効率化のために民営化と経済原理の導入を主張する改革論者に対して、「道路というインフラ整備の問題には経済効率論は馴染まない」とする守旧派・抵抗勢力が強く反対しています。世論の大勢は「民営化」「効率化」にあることは確かで、これはやはり「統制経済」が持つ非効率性を、多くの人が身に染みてわかっているからでしょう。20世紀の社会主義国の大半は経済の非効率性ゆえに崩壊しましたし、自由主義経済下でも規制や統制を担う役所や役人は効率に背を向けて腐敗します。やはり、経済原理に基づく自由主義経済、しかも可能な限り「規制のない社会」というのは、もっともコストがかからない、優れた社会のあり方なのだ…と多くの人が考えています。
 しかし、「水戦争の世紀」という本で著者が述べているような、「水」「空気」そして「食べ物」など、人が生きるために最低限必要なものは、基本的人権に関わる存在として自由経済に任せない、企業に管理させない…という考え方には、一理があります。管理すべきものは国民の預託を受けた公的機関が管理する…という考え方です。
 ただ、一口に「水」「空気」「食べ物」と言っても、これを管理することは非常に困難です。例えば「空気」を管理することは大気汚染を管理することに繋がり、これはあらゆる産業の規制に繋がります。「食糧」は既に、世界の貿易品の中でも最大規模の存在であり、同時に最大の「産業」ともなっています。国益が先鋭にぶつかり合う食糧問題を「地球上に生きる全ての人間の問題」という視点で管理することは、社会主義経済以外の方法では、ほとんど不可能に近い話でしょう。こうなると、「何を経済原理に任せて何を統制下に置くか」というのは、実に難しい問題です。
 こうして考えてみると、戦後一時期の日本という国は、ある意味で非常にうまくやってきたのかもしれません。政府が民間経済活動のあらゆる部分に関与し、あたかも社会主義国のように産業界の隅々にまで規制の目を張り巡らせてきました。官僚の権限拡大、役人の堕落、官僚と結託した政治化の腐敗…などという悪しき副産物は生んだものの、社会主義的な統制経済化で経済成長を遂げてきました。
 現在の世界では、自由主義経済、貨幣経済が産んだグローバリズムという化け物によって、多くの人が生存の危機に瀕しているわけです。これに較べて、一定の経済統制下でも成長が可能という戦後日本の姿を見ていると、マルクスが言うところの「共産主義へのプロセスとしての社会主義」ではなく、「人類が生存するための社会主義的統制経済」…という考え方は現実的なようにも思えてしまいます。むろん、これは現在の共産党や社会党とも全く違うものですし、過激な反グローバリズム論者の主張とも質的に異なるものを想定しています。
 私のように、アダムスミスからマーシャル、そしてケインズと古典経済学や近代経済学を齧り、そしてさらにはマルクス/エンゲルスやレーニンも読んだ人間からすると、経済の本質は比較的単純なものに感じるのです。
 確かに私は、ポストケインズ諸学派やマネタリズムを標榜するシカゴ学派が主流となって以降の現代経済学は、もう入門書や新書レベルの知識しかありません。ただ、マネーサプライ(通貨供給量)を経済変動の最大要因と考え、通貨調整を通じて景気をコントロールしようというアプローチは、素朴な感想を言わせてもらえば、どこか不自然な感じがします。ましてや、レオンチェフに始まる計量経済学やゲーム理論なんて分野は、はっきり言ってよくわかりません。…というのも、やはり人間社会の経済活動は「生産と消費」が基本にある…というごく単純な事実を前提におくべきだと考えるからです。
 「生産と消費」を経済活動の基本に置く限り、地球規模で考える「大多数の幸福」とは、「可能な限り公平な富の分配」を意味します。

 ただ、何をどのように考えようとも、大多数の幸福を実現するための「最善の策」なんてものはは、この愚鈍な頭では思い浮かびません。
 現在、世界の消費財の90%近くが、50カ国にも満たない国によって使われています。人口で見れば、地球上のわずか10%強の人間が、80%の消費財を占有しているのです。こんな状況の中で、反グローバリズムと地球環境の浄化を標榜する市民運動家の限界は、彼らの主張の多くが、既に富を得ている人々の「文化的生活の後退」を前提としており、そんなことは不可能…ではないかと思われる点にあります。確かに、無節操な成長モデルに歯止めをかけることは重要でしょう。しかし、既に現時点でここまで偏在してしまった地球上の富と、それに伴う先進国と発展途上国間の極端な生活レベルの差を是正することはおそらく不可能です。望むものが何でも手に入り、飽食はむろん健康的で文化的、そして清潔で豊かな生活に慣れた先進国の市民が、現在の生活水準を大幅に後退させることはできません。例えば、先進国が平均して購入する消費財を半分に落としたとしても、それはとてつもない「文明の後退」に感じるでしょう。絶対に受けいれるはずがありません。
 それに対して、経済的な後進性ゆえに飢餓や病死に怯える発展途上国の国民は、先進国が資源の収奪と独占的利用をしている現状が変わらない限り、変化を求めることができません。
 「現状を変えたくない先進国の人々」と「先進国が現状を交代させない限り自分たちがゆたかになれない発展途上国の人々」の利害は、永久にぶつかり続けるに違いありません。
 こうして、地球は滅亡に向かう…というのが、私が憂鬱になる理由です。

 …この長い与太話、結論は何もありません。多忙ゆえのストレスから書き散らかしただけの意味のない文です。「世界はこんなに混迷しているのに、FOMA900シリーズがナンボのもんじゃ!」と、意味もなく腹が立って、こんな話を書いてしまいました。
 でも私はきっと、FOMA900シリーズが発売されたらすぐに購入します。世界の人口問題も食糧問題も、そして水資源の枯渇についても、きっと30分後には忘れています。

2003/12/16

 既に数日前からネット上で大きな話題になっていますが、うーん、またか…と言う記事ですね。
 この際、けったくそ悪い買春の話は置いておきますが、それにしてもこの「議員の視察旅行」なるものの予算には、いつもながら呆れます。6人でバンコクまで8泊9日、総額530万円…となると、1人当たり90万近い予算でよね。バンコクまでは、11月ならばビジネスクラスでも往復20万円あれば十分。シェラトン、オリエンタルクラスのホテルでも1泊250〜300ドル、ヒルトンクラスなら1泊150ドルあればいつでも泊まれます。8泊で20万円なら贅沢過ぎるぐらいでしょう。毎日3食と移動費用を加えても、1人50万円でも高過ぎるぐらいです。
 だいたい税金を使って視察旅行をするんだから、可能な限り費用を切り詰めるべきなのは当然で、本来はエコノミークラスで十分です。たかが議員の視察で、バンコク9日間で1人90万円なんて、勘違いもいいところです。この埼玉の例はマシな方で、議員視察ってヤツは国会議員から地方議員までどこでも議員の特典・特権として定着しています。当選回数が多いと多くの予算を使って遠くまで遊びに行ける…という仕組みが一般的だからふざけた話です。
 予算をメチャクチャに使うのは議員視察だけではなく、公務員の出張も同じです。お役所の海外出張の話になると、私は自分の海外出張の経費清算を思い出します。…というのも、私は自分で小さな会社をやっているのですが、海外出張時にはできるだけ費用を切り詰めるのは言うまでもありません。例えばアメリカに1週間出張するとなると、航空券が往復で10万円以下、ホテル代が5泊で5〜6万円、その他移動費用やら食費の一部などを入れても、1週間で実費で20万円も使えば、かなり贅沢な出張です。で、昔これくらいの出張経費を落としたところ、担当の税理士に、もっとたくさん経費を落とせ…と言われました。実際にはエコノミーであっても、ビジネスクラスの正規航空運賃分を経費で落としても、税務署は絶対に文句を言わないそうです。その中で笑ったのが、海外出張には毎回「支度費」とか「準備費」を数万円〜10万円前後は計上できる…という話です。いまどき何をバカな…と思ったら、役人は海外出張のたびにこうした費用を計上しているから、一般企業が計上しても問題ない…とのことでした。要するに、役人がやっているのと同等の経費の使い方をしても問題ない…というわけです。
 それにしても、役人や議員にこういうバカげた経費を遣わせない方法というのはないものでしょうか。むろん、それ以前に、議員の視察なんて地方議員から国会議員にいたるまで全廃すべきだし、どうしても必要な場合には、徹底して経費を切り詰めさせるのは当然です。

 あーあ、我ながら陳腐な話を書いてます。活字メディア関係の仕事が年末進行に入って目が回るような忙しさの毎日が続き、何か、仕事のこと以外に頭の中に何も浮かばない状態です。
 実のところは、役人の税金無駄遣いなんか全く気にならない…というのが本音の本音。そりゃ役人による税金の無駄遣いは腹が立つし、官僚の天下りにだって腹が立つ時はあります。でも、これをどうにかしなきゃ…なんて真面目に考えたことは、最近では一度もありません。国がどうなろうと、どうでもいいんです。日本という国がどうなってもいい…という意味ではなく、もっと大きな意味で「国家」なんてあってもなくてもいい。地球上の人類が全員幸せに暮らす…なんて理想を実現するのは、もう完全に手遅れ。20〜30年後の地球上の人口の自然増に対しては、食糧も水もまず対応できません。そこで、発展途上国は切り捨てても日本という国だけが繁栄すればいい…って考え方で、国家に対して「正しい政策」を求めていく方向はあるのかもしれないけど、それなら「自分と周囲の人間だけがいかに幸せになるか」を考えるのと大差ない話。
 自衛隊のイラク派遣だって、私は絶対反対です。でも、現在の国会は派遣を阻止できない。デモも署名も派遣を阻止できない。間違いなく派遣計画は進むでしょう。だったら、せめて自衛隊員個人の命を守るために、最高の武器と装備を持たせて送り出してあげましょう。また、隊員の判断でいつでも自由に武器を使用できるように、憲法でも法律でも何でも改正しちゃいましょう。
 1人の人間であるところの自衛隊員個人の幸せ、その家族の幸せは、抽象的な概念であるところの「国家の幸せ」よりもはるかに大切なことです。

 …というわけで、多忙な私は、自分のことを考えるだけでせいっぱいです。

2003/12/12

 もう半年以上前ですが、「帝都東京 隠された地下網の秘密」(秋庭俊 洋泉社)という本を読みました。2chにもスレが立つくらい、「ある種の人」の注目を集めた本です。いや、私も面白く読みました。市ヶ谷の自衛隊本部(旧大本営)やら国会議事堂周辺やらは、戦前から網の目のように地下道が繋がっている…なんて話は、昔からよく聞いたことがあるので、興味津々で読了しました。読後には道路地図を見ながら、あれこれと秘密の地下道や交通網の可能性を考えてみたぐらいです。
 まあ、この手の本は「話半分」どころか、「ほとんどが著者の妄想」ぐらいに思って読めば、あまりツッコミを入れずに楽しんで読むことができるわけです。
 とは言え、私のオフィスがある池袋西口から有楽町線の要町を通って小竹向原まで、日本軍が掘ったトンネルがあった…なんて話は、かなり興味を惹かれました。実際に東京の地下には、いろいろな理由で掘られた地下通路がたくさんあることは確かなようです。
 そういえば私がかつて在籍した横浜の大学では、キャンパスの下に全長5キロ以上になるという広大な地下壕(旧海軍連合艦隊の司令部)があるという話を聞き、入学直後に入り口までは行ってみたのですが、結局は入れずじまいでしたね。最近では時々見学ツァーが開催されているそうです。ちなみに、この地下壕の建設には2000人以上の労働者が徴用され、その中には数多くの朝鮮人労働者が含まれていたそうです。

 「隠された地下都市」とか、「隠された地下道」…なんて話には、ついつい引き込まれてしまいます。古今東西の、いろいろな小説、映画などの題材にもなっています。
 ウルトラマンシリーズでもあったじゃないですか。富士山麓かどこかにあるMATの基地から東京まで地下道が繋がっていて、♪ワンダバダ、ワンダバダ♪の音楽とともにMATのクルマが疾走しているシーン(何か話がゴッチャになっているかも)が、あったじゃないですか…

 地下モノといえば、まず思い出すのが、ニューヨークの地下を描いた「レリック」「レリック2 地底大戦」(ダグラス・プレストン&リンカーン・チャイルド 扶桑社ミステリー文庫)はいいですよね。私は見ていませんが、映画にもなりました。あれを読むと、グランドセントラルステーションの地下には、使われなくなったホームが地下何層にもわたって網の目のように張り巡らされているとか、第二次大戦前に大金持ちのアスターが自分専用に作った地下鉄のホームがあるとか、ニューヨークの隠れた地下都市が描かれています。あの本を読んだ後でニューヨークの34丁目のペンステーションに行った時には、秘密の地下通路がたくさんあるかも…なんてキョロキョロしちゃいました。
 シアトルにも地下都市があります。これは実在する広大な地下廃墟で、この地下都市を探検する有名な「アンダーグラウンド・ツアー」は、何年か前に私も参加しました。確かお土産に、ネズミの絵のマウスパッドを買ったと記憶しています。  シアトルの現在の地上はかつての建物の2階に当たる部分で、その昔のシアトルは1階分低い世界だったのです。しかし、1889年の大火災からの復興を機に下水問題も解決しようと最終的には3メートル地上を上げることになりました。そのおかげで、シアトルには広大な地下都市ができました。アンダーグラウンドツアーのスタート地点はパイオニア・プレイス横の「Doc Maynard's」というレストランですから、一度行ってみて下さい。
 ところで、このシアトルの地下都市を舞台にした、「アンダードッグス」(ロブ・ライアン 文春文庫)というミステリーがあります。シアトルの地下都市に逃げ込んだ誘拐犯を、ベトナム戦争時のトンネル戦士(ベトコンの掘ったトンネルで戦った米兵)の警察官が追う…というストーリーですね。
 そういえば、この本に出て来る「ベトナムの地下トンネル」も有名ですね。行かれた方も多いと思います。ベトナム戦争中、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)は、米軍の爆撃を避けて地中にトンネルを掘りまくって、戦い抜きました。現在観光で見ることができるベトコンの地下トンネルとして有名なのが、ホーチミン市の北西60キロにある「クチの地下トンネル」です。約150平方キロの地面の下に、地下3階にわたり、何と総延長200キロものトンネルが広がっています。会議室や住居だけでなく、病院や学校まで作っていたとのことですから、これはまさに地下都市です。

 …話は冒頭の「帝都東京 隠された地下網の秘密」戻りますが、突然今頃になってこんな本の読後感想を書いたのは、昨夜ネットサーフィンをしていたら、この本に関するかなり面白い書評(?)を見つけたからです。あの本を地図を見ながら読んだ人なら、もう絶対に笑えます。

2003/12/11

 未曾有の就職難の中、昨今の大学入試においては、理工系など「実学系」の学部や、医師薬・看護など「資格系」の学部に志望者が集まっているそうです。文化系学部の人気が落ちてきたのは、相対的な就職率の悪さが影響しているのでしょう。文化系学部でも、経・商・法学部あたりはまだいい方ですが、これが文学部とか教養学部あたりになると、もう世の中からは完全に「無駄な学問を学ぶところ」と見なされ始めています。企業側も、こうした学部出身者の採用を避ける傾向にあるようで、これってちょっとマズい感じがしますね。企業が、そして社会全体が「ゆとりをなくした」状態にあるわけで、こんなことでは逆に社会の本質的な部分での発展が望めないような気がします。
 しかしながら、哲学、歴史学、言語学、文化人類学…なんてのは、深く学んでも実社会では直接的に役に立たないことが多いのは事実。しかし、「教養」という視点から見れば、こうした「無駄な知識」こそが、人間が人間らしく生きるための原点にあるはず。私は、「無駄な知識」が大好きです。

 無駄な知識といえば、話題の「トリビアの泉」。私は、深夜に放映されている頃に数回見ましたが、面白くもなんともない番組です。「トリビアの泉」の宣伝コピーにアイザック・アシモフの言葉が引用されており、曰く「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である」…というもの。この言葉にまったく異議はないのですが、トリビアの泉に出てくる知識が、アシモフの言うところの「無駄な知識」だとは到底思えません。あの番組に出てくるのは「知識」というよりも、「小噺」のレベル。私は、あんなくだらないトリビアの泉を1時間見るぐらいなら、適当な新書でも一冊読んで「本当に無駄な知識」を身につける方を選びます。

 さて、昨今は出版の世界でも「エンターテイメント」と「実学」が幅を利かせており、「真の無駄な知識」を身に付けさせてくれるような本は、あまり刊行されなくなりました。そんな中で、無駄な知識を効率よく付けていくためには、ターゲットを絞らなくてはなりません。私が無駄な知識を得たいときには、ただ漫然と書店の中を回るのではなく、特定の「書籍シリーズ」のコーナーを回ることにしています。私が勧める無駄な知識の宝庫を、いくつか挙げておきます。

 まずオススメが法政大学出版局の「叢書・ウニベルシタス」です。コピーをそのまま拝借すれば「人間とその世界,思想・歴史・芸術・科学等々の分野でより根源的な問題を洞察する書物群を,古典・新刊問わず広く世界に求める翻訳叢書としては,わが国有数のコレクション…」というもの。メルロ・ポンティ「知覚の現象学」やJ. デリダ「他者の言語」などシブイ本が並んでいます。「叢書・ウニベルシタス」は、無駄な知識の宝庫という点では、私の中ではトップクラスに位置します。
 白水社の「文庫クセジュ」も、無駄な、いい本が揃っていますね。ポール・フールキエ「実存主義」とかフランソワ・グレゴワール「道徳思想史」なんて、タイトルを見ただけで「無駄な知識」ってのがひしひしと伝わってくる本ばかりです。
 紀伊国屋書店が自社で出版している「紀伊国屋新書」も、無駄な知識を得られる本が多いし、安いのでオススメです。牧野佐二郎「人類の染色体」とか、三嶋唯義「人格主義の思想」なんて本が並んでいます。
 以前も紹介しましたが、平凡社の「東洋文庫」もいいですね。マルコ・ポーロの「東方見聞録」をはじめ、ヘルマン「楼蘭」、玄奘「大唐西域記」、ラジミール・アルセーニエフ「デルスウ・ウザーラ」、イッポリット・デシデリ「チベットの報告」、イブン・バットゥータ「大旅行記」、T.H.ローレンス「知恵の七柱」…なんて書籍群は、あまりの無駄さかげんに、もうワクワクものです。
 こんなマイナーなシリーズ本ばかり探さなくても、「理科系の無駄な知識」が効率的に得られる講談社の「ブルーバックス」や、同じ講談社の「学術文庫」などにも、素敵な「無駄な知識本」がたくさんあります。むろん、老舗の岩波文庫あたりも外せません。
 ただ、最近になって新シリーズとして発刊された新書あたりには、圧倒的に実学系の内容が多いので注意しましょう。

 もっと、無駄な知識を! 社会の隅々にまで、「真の無駄な知識」が行き渡ることを祈ります。

2003/12/10

 「冒険家の風間深志さん(53)が10日、自動車ラリーのテレフォニカ・ダカール2004(通称パリ・ダカ)参加を東京都内で発表した。風間さんは、82年ゴールのパリ・ダカで二輪部門の6位に入賞。今回は22年ぶりの出場となる」…というニュースがありました。

 風間深志とは懐かしい名前を聞きました。私がバイクに乗り始めた10代の頃、風間深志は「オートバイ」の編集者で、その後東京の練馬に住み始めた1980年頃、家の近くでオフロードバイクショップをやっていたので、時々ウェアなんかを買いに出掛けて話をした記憶があります。後に、バイクでエベレストに登ったり北極点に行ったりしたニュースを見た記憶はありますが、そんなことに特に興味のない私は、彼の名前を忘れていました。

 今回のニュースを見て、ちょっと懐かしくなり、この人は今何をやっているんだろう…と思い、Webで検索してみたら、こんなことをやっていました。

 それにしても、「地球元気村」っていうネーミングもクサイし、講師陣紹介というページに並んでいる舐めもクサイけど、それ以上にこのページに書かれているメッセージが笑わせてくれます。

 「…幸せっていったい何なんでしょう。 高級車やでっかい家、お金がいっぱいあること? 偉い人、もしくは有名人? いえいえ、そんなものではありません。 幸せって、モノの量や上下の関係じゃなく、 他との比較でもなく、 自分が勝手気ままに "あぁ、幸せだな〜(加山雄三風)" と思ったり感じたりする、 単に心の持ち方の問題のようです。 ですから、いつだってどこだって、 誰だって簡単に幸せは手に入るものなんです…」

 ギャグにしてもつまらない文章。何を幸せに思うか…なんて人の勝手でしょ。勝手に決め付けんなよ。でっかい家に住むことやお金をいっぱい持つことが幸せだと感じては、なぜいけないんだろう。はっきり言って私は、お金がたくさんあることも幸せの1つです。心の持ち方で誰でも幸せになれる…なんて、アップ系のドラッグでもやらない限り、あり得ません。
 その後に続くフレーズも笑えるね。

 「…大自然は、 人の心を解放し、 人に勇気を与えてくれる不思議な力があります。 難しい顔をした大人も、 ちょっとひねた子供たちも、 動物でさえも、 自然の中ではみんながひとつの次元(価値観) に結ばれます…」

 私はアウトドアで遊ぶことが大好きですが、別に「心を開放」するためにアウトドアで遊ぶのではありません。私はいまだに「ひねた子」ですが、自然の中でもひねたままだし、大自然の中でも嫌いなヤツは嫌いです。価値観の違う人間とは、どんな環境の中でも絶対に同じ価値観で結ばれたりしません。

 久しぶりに、「こういう文章書くヤツって○○○悪そう…」って、マジで思いました。まあ、私が「地球元気村」に行くことは絶対にないでしょうから、関係ないですけど…

2003/12/9

 「週刊現代」がイラクで殺害された日本人外交官遺体写真を掲載したことに対して、川口順子外相が発行元の講談社に対し厳重に抗議するとともに、雑誌の回収を申し入れると発表しまた。加えて、法務省と外務省はネット掲示板の管理者にネット上の画像(主にロイターの画像)の削除を要請しました。
 今回の「外交官遺体写真」は、報道写真です。しかも、「イラクという戦場」でどんな悲惨なことが起こっているかを報道した、貴重な戦場の写真です。私は週刊現代の記事を読みましたが、決して興味本位ではなく、現在のイラクの状況の問題点、日本の政治判断の問題点等を十分に掘り下げ、訴える内容でした。
 今回の写真に限らず、「遺体の写真」は、報道写真、特に戦場の報道写真には絶対に欠かせません。戦場の報道写真から遺体の写真を排除したら、戦争の悲惨さを訴えることはできません。ピューリツァ賞を受賞した写真の中には、遺体の写真がたくさんあります。例えばベトナム戦争では、内外の著名な報道写真家によって多くの遺体の写真が撮影され、新聞紙上に掲載されました。ソンミ村の虐殺事件などは、大量の死体が重なり合って転がっている写真が世界中に報道されています。多くの方はベトナムに従軍した日本人カメラマンの作品を見ていると思いますが、沢田(澤田)教一、岡村昭彦、石川文洋などが撮る写真の多くには、「遺体」が写っていました。
 そういえば私は、石川文洋の「妻が撃たれた」という写真を記憶しています。戦場の近くで流れ弾に当たったベトナム人女性が横たわる後ろで、その夫が呆然としている写真です。ベトナム戦争の悲惨さを訴える写真の中では、有名なものだと記憶しています。
 今回の週刊現代による日本人外交官の遺体写真の報道に対して、強硬に抗議した川口順子外相は「言語道断だ。人権問題だと思っている」と述べ、中川昭一経済産業相は「情報があるから流せばいい、『売らんかな』ということ(姿勢)には、遺族・親族はもとよりと思うが、自分も憤りと大変な軽べつを覚える」とコメントしました。福田官房長官は「本当に良くない。遺族の気持ちを考えると、そこまで報道すべきかどうか考えるべきだ」と発言しています。
 …であれば、この妻が撃たれたベトナム人男性の気持ちを考えたら、こんな写真を報道するなんて言語道断のはずです。報道写真で掲載されるすべての遺体の1つ1つに、悲しみ、嘆く遺族がいるのです。もし、「遺族の悲しみを考えたら絶対に報道してはいけないこと」…だとすれば、遺体が写っている戦場の写真は報道してはいけない…ということになります。
 それとも、イラクという戦場で亡くなった日本人外交官の遺族の気持ちには配慮するが、1人のベトコンの遺族の気持ちなんかどうでもいい…とでもいうのでしょうか? そんなバカな…。人間の生命の尊厳については、先進国の外交官もベトナムの農民も差はありません。市井の片隅で生きる人の生命の尊厳こそが、守られる世の中になって欲しいと思っています。

 私は、イラクで殺害された外交官お二人の遺族の方々に対して、心からお悔やみを申し上げます。しかし、報道写真の持つ意味や役割についても、いろいろと考えるところがあります。

2003/12/8

 1インチ、1.5GBHDDを搭載した、MP3/WMA対応デジタルオーディオプレヤー「Rio Eigan(アイガン)」を購入しました。
簡単なインプレッション「iPODは嫌いだ!  〜Rio Eigan 購入記」を掲載します。

2003/12/6

 イラクでの殺害された2人の日本人外交官の合同葬が行われ、小泉首相が涙ながらに「…2人は日本国、日本国民の誇りでもある。熱い思いと功績を決して忘れない。日本政府は遺志を受け継ぎ、国際社会と協力してイラク復興に取り組んでいく…」と、「哀悼の意」を読み上げた…というニュースがありました。
 外交官2人が「生命を賭けて誠実に職務を全うした」という点はまさにその通りであり、派遣を命じた国家(政府)が2人の貢献に対して最大限に報いるべきだ…という点に異論はありません。また私も、生命を賭して働いたお2人には慎んで哀悼の意を捧げたい…と思います。
 こうした素直な感情とは裏腹に、ここ数日間の2人のメディアでの取り上げられ方、政治家諸氏の言動を見ていると、ここへ来て2人の死は「政治的に利用されつつあるのではないか…」という感覚を否めないことも、またはっきりと書いておかなければならないでしょう。おそらく、多くの人が同じような思いを抱いているでしょうから…

 先日も少し書いたように、両氏は当初ORHA(米国防総省の復興人道支援室)に派遣されたのでした。米国の軍事占領機関の一員であったわけで、全ての関係者の間で、危険はあらかじめ予知されていました。首相自らが各方面からの疑問を振り切って決定したORHAへの文民派遣によって犠牲が出た…点に対して、何の説明責任もないのは頂けません。弔辞を読んで涙を流すのは結構ですが、私は釈然としない思いを抱いています。
 国が命じるならば死地に赴く…これは国民の絶対の使命なのでしょうか。こんなことを書くと、2chあたりの「ウヨ厨」からまたしても叩かれそうですが…、国の命に従って死地に赴くのであれば、その命令自体が「正しい」かどうかが重要な問題になります。また国の「命令」が、基本的に民意とイコールであるかどうかも重要な問題になるはずです。

 こんな話を書き出すと、太平洋戦争の数ある戦闘の中でも、最も愚劣な作戦計画のせいで膨大な将兵が悲惨な結末を迎えたインパール作戦を思い出します。まともな補給もなく、何万人もの兵士が餓死・病死していく中、インパール作戦を立案・指導した牟田口廉也中将や大本営参謀など軍指導部の面々は、戦場の後方に設けた「料亭」で贅沢に飽食し、時には「芸者遊び」までしていました。
 いつの時代でも、「戦いに行け」と命令するものの多くは、自らを安全な立場に置いている例が多いのです。洋の東西を問わず、近世の政治家は「戦争を政治の道具」に使います。愛国心を強要し、戦争、戦争と士気を鼓舞をする人間は、多くの場合、自らを絶対安全な立場に置いて命令を発しています。最も「死」から遠く、安全な立場に身を置いている人人間の言葉だからこそ、「まずは疑ってみる」ことも重要でしょう。

 …ああ、何だか青臭い、つまらない話を書いてしまいました。私のような「右でも左でもなく、斜に構えた」人間でも、こんなことを考える時があるのです。この文、明日までには消えているかもしれません。

2003/12/5

 ちょっと古いニュースですが…。国立国語研究所「外来語」委員会による、「外来語」言い換え提案…については、あらためて私がコメントするまでもなく、あちこちで話題にされ、キツイ突っ込みを入れられています。でも、私も一言…
 まあ、今回の言い換え案は、戦時中に外来語を無理に日本語化したような感じのものが多く、「何もここまで無理して言い換えなくても」というものが多いですね。こうした感想は、多くの方と同様です。でも、あえて「外来語の言い換え」を試みる背景には、日本語の中への外来語の侵食をこころよく思わない人が多いからでしょう。つまりは「日本文化の礎である日本語をもっと大切に」…ということだと思います。でも、外来語を使い過ぎることが、日本語の文化的な変容に繋がるとは思えません。
 実は、私は「外来語多用賛成派」です。言葉というのは「特定の文化を背景に生まれる…」ものです。日本とは異なる文化背景をベースに生まれた言葉は、全て外来語のままで使ってもいっこうに差し支えない…と思います。極論すれば、日本語が外来語だらけになっても一向に構わないということです。第一、日本語自体が「外来語」起源の言葉なわけですから…
 著名な評論家が「外来語の多様は、美しい日本語の崩壊にもつながる」…なんて書いていましたが、そうは思いません。それ以前に私は、「日本語は美しい」という言葉を、あまり信じていません。日本語は「きめ細やかな感情表現ができる」…などとよく聞きますが、では「日本語以外の言語は、日本語ほど細やかな感情表現ができない」…という、具体的かつ論理的な根拠を示されたことがないのです。「日本語が美しくない」とは言いませんが、本当に「アラビア語よりも日本語が美しい」のかどうか、誰も教えてくれません。ましてや「日本語は世界でもっとも美しい言葉」…なんてシャアシャアと書いているヤツを見ると、「お前はホントに世界中の言語と比較した上で書いているのか」…と突っ込みを入れたくなります。

 また、「美しい日本語を守れ」だの「最近の若者は正しい日本語が使えない」なんて話もよく聞きますが、昨今日本語を使いこなせる人間が減った原因には、日本語固有の問題点もありそうです。つまり、「日本語は整理されていないからわかりにくい」と感じています。
 普段日本語を使っていて一番感じることは、「言葉・単語が多過ぎる」という点です。例えば、「行く」と「往く」の使い分けは、出来るにこしたことはないと思いますが、使い分けできないからと言って「教養がない」と非難されるほどのことではないと思います。「捕る」と「獲る」に至っては、基本的に同じ意味で、あまり使い分ける理由はありません。にも関わらず、こうした同義または同義に近い微妙な意味差を持つ表現が、異様に多いのが日本語です。
 私は、同じ意味の言葉、同じ状況を表現する言葉が多過ぎる場合には、基本的に「整理して減らす」方向で構わないと思います。もっと日本語をシンプルにしたい…と思うのです。
 また、微妙な違いを表現し分けるための単語がたくさんある…ことが、むしろ文章表現を下手にする可能性だってあります。「単語で表現」するより「文章で表現」する…ことの方が重要です。たくさんの単語を使い分けられるのは、何も「文章がうまい」ことと同義ではありません。よくある実例として、「色」の表現を挙げてみます。
 例えば、日本語には青系の色として「蒼色」「藍色」「群青色」「浅葱色」「瑠璃色」などがあります。赤系の色でも「緋色」や「紅色」、「茜色」などが使われます。難しいところでは「蘇芳」なんて色もあります。これらの「色」を使い分けることが「高度な日本語表現」などと言われます。「美しい日本語」の代表としても使われます。歌のタイトルにまで「蒼いうさぎ」とか「亜麻色の髪の乙女」なんて使われたりしています。
 でも、考えてみると、こうした多彩な色表現の言葉は、単に様々な中間色に無理やり名称を付けただけのものです。中間色なんて無限ににありますから、それらに片っ端から「色名称」を付けていったらキリがありません。たまたま「ある時代を代表する、誰もが知っているモノの色」を「色」の表現として定着させえても、そのモノが時代と共に廃れた時に、誰もわからなくなるのは必然です。まあ「浅黄色」なんて、例えば「明るい青緑」とでも表現すればよいだけのこと。
 「蘇芳」がどんな色で、何故「蘇芳」と名付けられたか…については、むろん「知識として」ならば、知っている方がよいに決まっているのですが、では誰でも知っていなくてはならないか…となると、そうは思いません。蘇芳とは「熱帯性豆科の木で樹皮を煎じて染料にした」とのことですが、こんな話が「一般教養」だとは思えません。ましてや「…彼女の髪は、夕日の残照を浴びて蘇芳色に輝いていた…」なんて文章があったとしても、それを「美しい日本語」だなんて思いませんね。「面倒で気取った文章を書きやがって」…と思います。

 まあ、「日本語が複雑」なんて話を傍証を挙げて書き出すとキリがありません。ともかく「日本語をシンプルに!」…、これが私の提案です。外来語も、遠慮することなくどんどん使いましょう。

2003/12/4

 1日中パソコンの前に座っていて、「手書き」を全くしない生活を続けているにも関わらず、シャープペンシルだのボールペンだの「筆記用具好き」なのは、相変わらずです。
 ちょっと大きめの文具店やデパートの文具売り場は言うに及ばず、100円ショップの文具売り場だって思わず立ち止まっていろいろろと手にとって見、あげくには必ず2〜3種類の筆記用具をレジに持っていってしまう悲しい習性は治りません。
 もっとも、筆記具好きとは言っても、高級万年筆の類には全く興味はなし。昔ワープロがなかった頃に、手書きでライターをやっていた関係で、特に好きなのは「シャープペンシル」です。かつて「ペンだこ」の痛みに悩んでいたこともあって、書きやすいシャープをさんざん探しました。太めでグリップ部にゴムがついていないとダメですね。
 シャープにも高級品はありますが、基本的には1本が1000円以上する高級品には興味なし。金属ボディも興味なし。購入するのは、軽くて太めで書きやすい500円以下のプラスチック製の安物が基本です。100〜200円のシャープはほぼ全種類を所有しているだけでなく、パイロット「Dr.Grip」とかぺんてる「エルゴノミックス」のような極太タイプの準高級品(?)や「フレフレ」タイプなども一通り揃えています。しかも持っているシャープには、どれも芯をめいっぱい補充して(これはuniの2Bと決めています)、いつでも使えるようにしてあります。
 昔は、ステッドラーのマルスなどけっこう高い製図用シャープや、製図用シャープの専用替え芯、そして各種の製図用ホルダーにまで手を出した時期もありましたが、さすがにそこまでは買わなくなりました。
 シャープの次に好きなのが、3色ボールペンの類です。「2色ボールペン+シャープ」が特に好きで、ぺんてる「ハイブリッド テクニカ」をいつも携帯してる他、各社の様々な製品を買って喜んでいます。
 そして、何か「ギミック」を採用している筆記具も好きです。最近では、三菱鉛筆「uni HARD LOCK」なんてボールペンがお気に入り。これは校正作業にも使える2色タイプの上に、ロック機構のおかげで絶対に落っことす心配がないので、海外旅行時などにも最適です(飛行機の中で入国用書類を書いたりしますから)。そんなわけで、4〜5本は持っています。修正テープが付いているボールペン、パイロット「フィード・ホワイトライン」なんかもいいですね。別に修正テープを使うわけじゃないですけど…
 そんな私が、ここ数年もっとも気に入っているシャープが、三菱鉛筆「P-jack」で、毎日持ち歩いています。1本300円と高めですが、独特のギミックを採用し、携帯時には短く、筆記時には十分に長く…という構造になっています。コピーに「筆記する時には、キャップを後軸に差すことにより、キャップ先端部の消しゴムカバーが押し出されてくるなどメカニカルな仕様になっている…」とあるように、機構そのものが面白いだけでなく、長時間の筆記に耐えるだけの書きやすさも確保しています。

 ちゃんと数えたことはありませんが、現在、合計すると100種以上のシャープと数十種のボールペンや多機能ペンが、自宅のデスクの引き出しに入っている始末です。そして、このコレクションは増え続ける一方です。しかし、これらを使う機会はほとんどありません。カバンに2〜3本入れておいて、たまにメモ書きに使う他は、時々海外旅行に持って行く程度。あとは、割と高い頻度で校正用の赤ボールペンを使うぐらいでしょうか…。まあ、実に無意味な筆記具コレクションです。

2003/12/3

 火星探査機「のぞみ」が当初予定の火星への楕円軌道に投入できなくなったことが明らかになりました。先日のH2Aの打ち上げ失敗も含めて、また1つ宇宙開発技術における日本のdisadvantageが明らかになったわけです。
 まあ、宇宙開発技術に限らず「技術立国」などという掛け声が虚しくなるほど、昨今の日本の工業技術、生産管理技術は低下している…という点については、私などが論評するまでもなく、各所で問題になっています。
 それにしても、宇宙開発技術だけを取り上げても、ほぼ確実に衛星やシャトルを打ち上げる米国と日本の差はあまりにも大きなものとなってしまいました。この日米の技術差は、工程管理、生産管理技術のレベルで見ると、先進工業国と発展途上国の差に等しいものです。
 1980年代までの日本は、生産現場におけるTQC手法をリードし、世界でも類を見ない高品質な製品を作る管理ノウハウを持っていました。しかし、こうしたノウハウがここまで大きく崩れてしまった背景にはいったい何があったのでしょうか。多くの専門家の分析とは異なる視点ですが、私には個人的に思い当たる部分があります。
 私はささやかながら「ソフトウェア開発」に携わっています。ソフトウェア開発の仕事に携わって、かれこれ15年にもなります。最近、身を持って感じていることがあるのですが、自社スタッフが開発するソフトも他社に外注するソフトも、ともかく「プログラムミスが多い」のです。これは、7〜8年前と較べても明らかに多いですね。しかも単純なミスが多いのです。こうした状況は、ソフト会社の経営または管理職をやっている何人かの友人に聞いても同じです。従って、わが社だけの話ではないようです。こんなことになった原因はどこにあるのでしょうか。
 まず第一に、ソフト開発技術者自身ガが自分が書いたプログラムをデバッグしても、自分で誤りを見つけられないことが多い。次に、「多少の誤りを放置する」といういい加減な作業の進め方が蔓延しています。そしてもっとまずい点は、開発者自身が「誤りをなくすためのシステム」を作り上げられない…という点です。ミスが繰り替えされるのなら、ミスをなくすための開発手法、手順を自分で考えればよいと思うのですが、それが出来ません。そして究極のまずい点として「誤りを、誤りとして認識できない」…という状況があります。誤りがどこにあるかわからない…のではなく、誤っていること自体が判らない…開発者が増えています。
 いったいどうしたのでしょう。「日本人は頭が悪くなった」のでしょうか。いや、そんなことはないと思います。
 あくまで私見ですが、こうした状況になったのは、最近のビジネス現場に「論理性の欠如」「言語表現の貧困」の2つが蔓延しているからだと考えています。
 最近の社会における「論理性の欠如」については、以前も書いたことがあります。教育現場や企業の商品開発現場などで「個性」や「感性」がやたらと重視される反面、地道に論理を組み立てていく…という手法は軽視されています。また、最近の首相を初めとする政治家の言葉を聞いていても、論理性のかけらもない論法で答弁がなされています。教育課程の問題というよりも、社会全体の風潮の問題のような気がします。
 「言語表現の貧困」も深刻です。人間は共同で作業するためには、作業参加者全員が共通の認識を持つ必要があります。そして共通認識を得るためには「コミュニケーション」を必要とします。人間はコミュニケーションの大半を、「言葉」に頼ります。しかし、最近では「何かを正確に言葉で表現する」ことができない人間が増えています。「マニュアル」すらまともにできない。当然、共通認識、共同作業が阻害されるわけで、まともな「モノ作り」ができるわけがありません。
 さて、「論理性」と「正確な言語表現」を育成する方法はあるのでしょうか。まず思いつくのは、「ディベート」です。小さい頃から徹底的にディベートの機会を増やすことで、論理の積み重ねと正確な言語表現の両者を学ぶことができそうです。
 次に、文章を読む・書く…訓練を徹底することが挙げられます。特に教育現場やビジネス現場で「書く」訓練を積むことは重要です。そして論理性のない文は、指導的立場にある人間によって徹底的に指摘され、直されなければなりません。
 そしてもう1つは、義務教育の過程における「数学」の重要性を見直すことです。やはり数学というのは、最もシンプルな形で論理性を要求します。
 実は、こんな話を書いている私自身、少なくとも高校時代までは「学力より感性」だと信じていました(笑)

 イラクの日本人外交官殺害事件について連日のニュースがメディアを賑わしています。
しかし、在英日本大使館の奥克彦参事官と在イラク日本大使館の井ノ上正盛3等書記官の2人が、なぜイラクにいたか、またどんな仕事をやっていたか…については、あまり詳しい説明がなされていません。この点、マスコミの報道に大きな不満があります。
 奥克彦参事官と井ノ上正盛3等書記官の2人は、イラク戦後統治の民生部門を担当する米国防総省の復興人道支援室(ORHA)への要員派遣の第1陣として、4月にイラクに派遣されました(ORHAが暫定占領当局:CPAに衣替えした後は、バグダッドの日本人大使館とCPAの連絡調整などにあたっていました)。
 この「殺害された2人はORHAのスタッフとして派遣されていた」という点は、もっと問題になってもよい経緯だと思います。現在自衛隊派遣の是非及び時期が国を挙げての問題となっていますが、この自衛隊に先駆けて「国の命令でイラクに派遣された」スタッフが存在したわけです。しかも、米国の占領組織の一員となるべく…なのです。ORHAは国防総省の下部機関であり、ORHAへの人員派遣の是非については国会でも大きな問題となり、最終的に小泉首相の判断で派遣が決定された経緯があります。この経緯と責任の所在について、さらに詳しく報道されることを望みます。
 こうして見ると今回の事件、日本人が殺された…というよりも、米国防総省のスタッフが殺された…といった方が適切かもしれません。

 …今日も、思いつくままの脈絡のない(論理性もない…笑)与太話でした。

2003/12/2

 ちょっと古いリソースですが、こちらを読むと、人口減少、非婚化の進展は恐ろしいほどの勢いです。このまま行けば、2050年人口は低位推計なら9,203万人となり、現在「中位推計」をもとに計算されている年金改革案なんて絵空事になってしまいます。さらに恐ろしいことに、この下位推計さえ「まだ甘い」とする学者も多く、もうこの国の行く末は全く見えません。
 こうした中で、高齢化、人口減、労働人口減…という絶望的な経済破綻要因への有効な対応策として「移民受け入れ」という切り札があることは、誰もが知るところです。しかし、この移民受け入れ問題は、何故かあまり公に議論されることはありません。
 将来の労働人口の減少による経済破綻を心配する声は、経済界から強く上がっており、奥田碩日本経団連会長は「少子化・高齢化が進展するなかで社会保障を維持し経済成長を続けるなら外国人の活用も視野に入れざるを得ない」…と断言し、政府に対して外国人労働者の受け入れ促進策に関する提言を行いました。首相の諮問機関である経済審議会も、移民受け入れ促進の提言を行ったことがあるはずです。

 考えてみれば、世界中で飢えに苦しむ人が8億人…と言われる現在、世界の食糧問題は「既に解決の見通しはない」という悲惨な結末を予想する科学者が増えているます。こうした状況の中で、日本という国の人口が減少することは、世界の食糧事情から見て望ましいことです。その上で、大量の移民を受け入れるのであれば、国内問題の解決に留まらず国際問題の解決にも貢献できるというものです。

 ネット上で移民受け入れについての発言を探していると、圧倒的に反対意見が多いようです。こちらにあるように、「日本には(ほぼ)日本民族しかいません。そこに別の考えを持つ集団が来たら余計なトラブルなども増えるのではないでしょうか?」…という意見が、最も一般的です。
 同じソースの中で、逆に移民受け入れの必要性を認識した上で「日本文化の理解レベルの高い人を移民することがいいでしょう。また、特定の国から大量の移民も避けた方がいいはずです。ドイツのトルコ人のようなスタイルは止めるべきです。このためには、日本語や日本文化理解の試験を全世界に実施して、高得点者は日本国籍取得可能とすれば、いいはずです…」と言った意見もあります。

 私はむろん、移民受け入れには大賛成です。異文化との衝突を恐れる必要はありません。多民族、多様な文化に加えて、多言語であっても何ら問題はない…と考えています。また、「日本文化の理解レベルの高い人だけを受け入れる」という考えには不賛成です。それでは、異なる価値観や異なる文化が衝突することで新しいものを生み出すエネルギーが生まれる…、という状況にならないからです。世界中から優秀でバイタリティを持つ若者を受け入れましょう。そうした若者がたくさんやってくることで、必然的に無気力な日本の若者が競争に晒されます。これは、もしかすると日本再生の切り札になるかもしれません。

2003/12/1

 「地上デジタル放送」がスタートしました。ここ数日、NHKのキャスターが意味もなくはしゃいでいるのが、見苦しくてしょうがないですね。アナアナ変換に数千億円とも言われる膨大な税金を投入した上、総務庁長官が「デジタル化に伴う新サービスの拡大やデジタルテレビの普及などにより累計で約200兆円に上る多大な経済波及効果も期待できる」と期待を表明するに至っては、アホらしい…という感想しか思いつきません。
 家電業界やTV業界にとっては「神風」になるでしょうが、一般ユーザーからは「業界を儲けさせるだけ」「選択できない新メディアは不愉快」「強制的に出費を強いられる」「高機能化・高画質化のメリットを感じるのは一部の人だけ」…などと、散々な不評を買っています。
 確かに、高画質TVに対するニーズは、巷間騒がれているほど高くないようです。現行TV受像機は高画質化・大画面化の嵐が吹き荒れており、家電量販店に行けばプラズマだの液晶だの数十万円する大型TVがずらっと並んでいます。一方で、現行TVの需要のうち、大画面・高画質TVの数量ベースの出荷比率は、まだまだ「微々たるもの」に過ぎません。バカ高いデジタル対応FPD型大画面TVは、ごく一部のAVマニア、富裕者層がユーザーであることは間違いないようです。2003年1〜9月の民生用電子機器国内出荷実績によれば、CRT型TVが約515万台、うち30型以上の大型TVは約37万台弱に過ぎません。10型以上の液晶TVは約77万台ですが、30H型以上の大型TVとなると数万台の出荷に留まっています。これを見る限り、大型・高画質のTVなんて使っている人はごくわずかで、大半の人(おそらくは全国民の70%近く)は21型以下のTVを見ています。
 昨今のTV受像機の価格は、4:3タイプならば21型で2万円以下と非常に安価であり、28型のワイドTVでも国産メーカー製品が4万円以下で購入できます。大型の液晶やプラズマTVが「1万円/インチになれば売れる」などと言っても、国民の過半数はそんなものを求めていません。TVにお金を掛けない人は、たくさんいます。こうした人たちが、地上デジタル放送だけになると「セットトップボックスの購入やTVの買い替えなどの余分な出費を強いられる」と考えているのなら、その心配だけはあまりなさそうです。アナアナ変換に税金が遣われること以外では、ユーザーが直接のハードウェア投資で「無駄な出費を強いられる」ことはない…と私は予想しています。
 確かに、現行のアナログ放送は2011年で打ち切る予定ですが、考えて見れば現行受像機を使える期間はまだ8年間もあります。まあ、はっきり言ってTV受像機の寿命は10年もないわけで、特にCRT管は5〜6年目から輝度がめっきりと落ちてきます。普通は、7〜8年もすれば買い換えますよね。おそらく、「TVにお金を遣わない人」たちが、2010年頃に使っているアナログTVが壊れて買い換えようと思ったときに、おそらく「中国製の地上デジタル放送対応TV」が、その時点のアナログTVと同程度の値段で買えるはずです。  回路面で見れば面倒な調整が必要なアナログ回路を必要とする現行TVよりも、1チップOFDM復調LSIが1個あれば受信用の基本回路をフルデジタル処理で構成できるデジタルTV受像機の方が低技術力・低コストで量産できる可能性が高い。量産が進めば、ここ10年のパソコンの低価格化を上回るスピードで低価格化するはずです。日本のメーカーが値下げに消極的でも、チップを入手した中国あたりが量産するでしょう。私は低価格化についてはあまり心配していません。現行の21型のアナログTV受像機が2〜3万円で販売できるのであれば、早ければ5〜6年後に同じサイズのデジタルTVは、それよりも安いコストで生産できる…と予想されるからです。その時点で、液晶やプラズマなど大型のFPD型TVがどの程度の価格になっているかは知りませんが、まあ大画面TVが不用な人は買わなければいいだけです。

 個人的には、D4端子付きTVを使っているので、今後気が向いたら直接視聴をする可能性はあります。また、現在契約しているCATV局「J-COM」もセットトップボックスで対応するそうなので、契約条件次第では見るかもしれません。ただし、いまのところはコンテンツ面では興味なし。ましてや双方向機能なんて、全く不用です。画質面でも、現行地上波と直接アンテナで視聴しているBSに大きな不満はありません。第一、多忙でTVはほとんど見ないし、高画質映像はDVDで楽しんでいます。

 そんなことよりも、8年後のTV受像機への出費の心配をすること自体が「無意味」って感じがします(笑)。昨今のニュースを見ていると、地上デジタル放送がどうなろうと、TV受像機の値段がどうなろうと、そんなことはどうでもいいような気もします。
 歳出が歳入の2倍という馬鹿げた国家予算を組んでいる国、際限なく国家予算を注ぎ込まれても銀行すらまともに経営できない企業家、中国へ恥ずかしげもなく買春目的の社員旅行にでかける企業、若い世代に対するまともな教育を放棄した国、年金制度が破綻しているのに詐欺的な改革案でごまかそうとしている国、まともに人工衛星も打ち上げられないほど技術力が低下している国、膨大な税金をドブに棄てても誰も責任をとらないほどモラルのない人々…。将来のTV受像機の心配をするよりも、こんな国・日本が10年後に「普通の人が普通に生活できるにまともな国家」として存続しているかどうか…を心配した方がよいのでは…。

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