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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/11/28

 埼玉県岩槻市立川通中学校で昨年12月、当時2年生だった不登校の女子生徒(14)の母親(41)を菅野俊一校長と担任教諭が訪ね、現金80万円を渡していたことが27日、分かった。母親は不登校の原因が担任にあると主張し、学校側に公の場での謝罪と賠償金などを求めていた…

 こんなニュースがありました。最近は、不登校児童・生徒が急激に増えているそうです。「引きこもり」の増加とともに社会問題になっていますが、私にはその理由はよくわかりません。
 この不登校児童・生徒の増加に対して、最近「フリースクール」なるものが増えています。不登校児向けのあるフリースクールの案内をネット上で見かけたのですが、その代表者の言葉に驚きました。曰く…
 「…本来学校は人間性を、人間の長所、特技・特徴を見つけ、磨くところです。これもダメ、あれもダメ、では人間が畏縮してしまいます。自信の持てない、夢のない、展望の持てない人間になってしまいます…」

 オマエ、何言ってんだ?…って感じです。この人は、根本的に勘違いをしています。学校というところは、「人間性を、人間の長所、特技・特徴を見つけ、磨くところ」ではありません。「勉強をするところ」です。それ以上でも以下でもありません。集団で学問を学ぶ中の副次的な効用として、人間性が磨かれる…ということはあるでしょう。しかし、基本的には学校は勉強をするところです。学校が勉強をする場所である以上、学校側は児童・生徒に勉強を「強制」すればよいだけです。「強制」という言葉には悪いイメージがありますが、難しく考える必要はありません。別に、生徒1人1人の個性を伸ばす…なんてことは、家庭なり社会なりの役割だと割り切って欲しいものです。いじめを放置した…などの明確な理由があるのならともかく、不登校になった児童に学校が謝罪する必要なんてありません。

 昨今は何だか、親や学校が子供に対して「熱心に勉強をさせること」が、「悪いこと」のようになってしまいました。なぜ社会が「公教育」を必要とするのか、国や社会が発展するためには、なぜ「個々の人間が高い教養を身に付ける必要があるのか」、もう一度原点に立ち返って考え直すべきです。江戸時代、寺子屋に通わせて読み書きを覚えさせられるのは、裕福な町人だけでした。貧しい庶民の中でも、子供に教養を身に付けさせたい人だけが、無理をして子供を寺子屋に通わせました。そして現在の世界には、学校に通いたくても通えない子供が多数います。

2003/11/27

 この「WS30の世界」というサイトは、他のニュースサイトやメーカーのプレスリリースのページなどに対してリンクを貼っています。先日メールで、「もし無断リンクをしているなら著作権法違反ではないか」という強い指摘を頂きましたので、私の見解を説明しておきます。
 私は「無断リンク」を著作権法違反とは判断していません。メールを頂いた方には、逆に「リンクを張ると、著作権法のどの部分に違反するのか」を指摘して頂きたい…と返事をしました。
 むろん、この「WS30の世界」というサイトは、リンクフリーです。…というよりも、ネットで情報を公開するにあたって、「リンクフリー」以外の選択肢はない…というのが私の判断です。
 リンクの問題に関しては、「読売新聞」対「デジタルアライアンス」「産経新聞」対「連邦」等の問題が記憶に新しいところです。  サイトの読者の方からメールを頂いたことを機会に、こうしたリンクの問題について、私の考えを記載しておきます。

 「リンクは自由」という判断は、基本的には「社団法人著作権情報センター」の見解に沿ったものです。「マルチメディアと著作権」というページには、次のように記載されています。ちょっと長いですが、引用します。

―――――――――――――――――――――――――――――
 リンクを張ることは、単に別のホームページに行けること、そしてそのホームページの中にある情報にたどり着けることを指示するに止まり、その情報をみずから複製したり送信したりするわけではないので、著作権侵害とはならないというべきでしょう。
 「リンクを張る際には当方に申し出てください」とか、「リンクを張るには当方の許諾が必要です」などの文言が付されている場合がありますが、このような文言は道義的にはともかく法律的には意味のないものと考えて差し支えありません。ホームページに情報を載せるということは、その情報がネットワークによって世界中に伝達されることを意味しており、そのことはホームページの作成者自身覚悟しているとみるべきだからです。
 ホームページに情報を載せるということは、その情報がネットワークによって世界中に伝達されることを意味しており、そのことはホームページの作成者自身覚悟しているとみるべきだからです。リンクを張られて困るような情報ははじめからホームページには載せるべきではなく、また載せる場合であっても、ある特定の人に対してのみ知らせようと考えているときは、ロック装置を施してパスワードを入力しなければ見られないようにしておけばよいだけのことではないでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――

 私は、「リンクしないで下さい」という記載がある一部のサイトについても、リンクをすることがあります。それは「リンク禁止」という表示には有効性がない…と判断しているからです。要するに私は「無断リンク」を行うことがあります。
 「無断リンク」について著作権法との関係で考えると、問題となるのは「複製権」と「公衆送信権」です。この点に関しては、「Cyber Law Japan」というサイトの中のこちらのページから引用しておきます。

―――――――――――――――――――――――――――――
 リンクを張る行為は、閲覧者が自分でリンク先のURLをキーボードで打ち込む手間を省き、自動的に打ち込んだのと同様にリンク先に飛べるようにしているだけであり、リンク元はリンク先のコンテンツを自分のサイトにコピーしているわけでもなければ、リンク元が一度自分でコピーしてから、閲覧者に対し当該コピーを送信しているわけでもありません。したがって、複製権侵害には該当しません。
 また、リンク先の公衆送信権を侵害しているわけでもありません。リンク先のウェブが閲覧者の端末へのコンテンツの送信を許可しているからこそ、閲覧者リンク元のリンクをクリックすることにより受信ができるのです。
 リンク先が特定の閲覧者にのみ閲覧ができるという形にしたければ、例えばIDとパスワードを要求すれば済むはずです。このような措置を講ずることができるにもかかわらず、これを講ずることなく、単に無断でリンクを張ったと言うだけで違法視するのは、実質的に見ても不当であるというべきでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――

 なお、この問題に関しては、やさしく説明しているこちらのページなども参考になるでしょう。

 さらに、「転載」と「引用」が異なる点も明示しておきます。「転載」は基本的に著作権を侵害します。しかし、「引用元を明示した引用」は、著作権には触れません。
 最後に、各所で問題になっている「新聞の見出しには著作権がはあるか」…という問題については、いくつかの判例によって「著作権はない」と判断します。

 …以上が私の判断の概略です。ちなみに私は、こうしたネット上のソースだけから判断して、無断リンクを行っているわけではありません。たまたま私はネット関係の仕事、著作権に関わる仕事をしてることもあって、実際に弁護士に話も聞きましたし、関連する文献も読みました。こうした点を総合的に判断した上で、部分的に「無断リンク」を行っています。むろん、このサイトが商業目的ではない「完全な個人サイト」である点も、あらためて確認しておきます。

 実のところ、私はこうした法律論よりも「インターネットの精神」を大事にしたいと思っています。表現の自由なんてご大層なことを言い出す気はありませんが、「どんな弱い立場の人間でも自分の意見を自由に発言でき、それを読んだ人間がまた自由に反論できる」…、こうした状況を創出することこそが「インターネットを利用する意味」だと私は考えています。とりわけ商業目的ではない場合、人権に配慮し、他者の意見を批評する際のマナーを守る限りにおいては、「リンクは自由であるべき」と信じています。

 見解を明示しましたので、今後この件に関してのメールにはお返事を差し上げません。

2003/11/26

 大学祭、学園祭もたけなわのシーズンです(主なところは終わってる?)。で、学園祭と言えば相変わらず必ず実施されているのが「ミスター&ミス・コンテスト」…です。そんな中でも、東大だの慶應だの早稲田だの、いわゆる高偏差値の大学のコンテストは「相対的に美談美女が多い」と評判です。例えば、ここ数年のミス東大、ミスター東大の水準は非常に高い…と言う話が、ある雑誌に書かれていました。友人の塾講師の話によると、東大に入学してくる昨今の学生を見ていると、「ガリ勉」(死語!)というイメージからは程遠い、のびのびと育ったお坊ちゃんやお嬢ちゃんが多い…、と言っていました。彼の弁によると、一般的に見て大学の偏差値が上がれば上がるほど、合格圏内にいる子供は「楽しく勉強し、楽しく遊ぶ」ことが上手な子が多くなるそうです。受験勉強をしながらも異性とは旨く付き合い、適当に遊びながら、さほど苦も無く一流大学に入学する子供が増えているそうです。この「さほど苦も無く」というのは、猛烈な勉強をしても、それを苦労と考えない子供が多い…ということなのだそうです。ゲーム感覚というと語弊があるでしょうが、「偏差値を上げるプロセスを楽しむ」ことができる一群の子供がいるのだそうです。
 さて、ある雑誌の記事によれば「美男美女の数と、大学の偏差値の間には高い相関関係がある」と言います。要するに、最近では高偏差値の大学(大学に限らず中高一貫校などもそうらしいですが)の方が、低偏差値の大学と較べて美男美女が多いのだそうです。
 こんな話を聞くと、世界中の金持ちの話を思い出します。世界の富豪の一族には相対的に美談美女が多いのは確かで、これはもう当然でしょう。金持ちは自分の家系に、知能だけでなく外観も優れた「嫁or婿」を入れていくので、代が進むほどに、遺伝的に「知能」と「外観」がアップする…というのは、理解できる話です。富豪に限らず、「金持ち=高等教育を受ける機会向上=高偏差値」という図式と、さらには「高偏差値大学を卒業=収入増加=子供に対する高等教育」という「ポジティブな循環」が成り立つ可能性が高いことは、まあ現実問題として納得できる話です。

 とは言え私は、「美男美女と偏差値には高い相関関係」がある…と言う話は、あまり根拠のある説だとは思っていません。実際に世界を旅していると、高等教育など受けていなくてもカッコイイ男性、美しい女性はいくらでも見かけます。昨日の日記にも書いたインドなどは、特に北部には非常に美女が多い…と感じました(男性はあまり見ていなかったおでわかりません)。中国でも、学歴など関係なく美女がたくさんいます。
 私が経験的に思うのは、「美談美女」と「自立した意思」の間には、高い相関関係がある…ということです。顔の良し悪し、表情の良し悪しについては、学歴やら職業種による差異よりも、モノを考える人間と考えない人間の差異の方が大きいと思います。人間の顔の美醜なんてものは、やはりその顔に表れる「意思の力」によるところが大きいのでしょう。自分にプライドを持って働く女性の顔がハッとするほど美しく感じるのは、そういうことだと思います。
 これもまた知人の精神科医に聞いた話ですが、最近の若い世代には、一見してごく普通の外見にも関わらず「容姿コンプレックス」を持つ子供が非常に多い…ということです。彼の分析によると、おそらく「自分自身の生き方」や「アイデンティティ」に関連があるのでは…ということです。つまり、容姿にコンプレックスを持つ若者が増えている…ということは、自分に自信のない若者が増えている…ということなのだそうです。
 こうなると、実際のところはわかりませんが、高偏差値の大学(大学に限らず中高一貫校などもそうらしいですが)の方が低偏差値の大学と較べて美男美女が多い…と言う話も、高偏差値大学の方が自分の知力やライフスタイルに自信を持っている学生が多く、その結果「自信に溢れた生き生きとした表情」の学生が多くなり、それが外観を美しく見せている…ということになるのかもしれません。

 まあ何にしても、ここ10年ほどは、資本主義の摂理に従って社会の階層化がますます進んでいるようです。一方には「生活にも不自由しない自身に満ちたライフタイルを送る人々」、もう一方には「生活や将来に不安を抱え、自信のない人生を送る人々」…と言う感じで分かれてきたとすれば、それは何とも悲しいことです。

2003/11/25

 昨夜は、西荻窪のスタジオで開催された「インド音楽」のコンサートに行ってきました。 中村仁という、著名なシタールとイスラジ奏者のライブコンサートです。ちなみに私は、特にインド音楽を聴く趣味はありません。だから、インドの古典音楽を真剣に聴いたことは一度もありません。たまたま知人のK氏(やさしくて、とてもよい方です)に勧められたので、行って見ようと思い立ったのです。  インドの音楽に全く馴染みがないわけではありません。最近はインド映画もちょっとしたブームですし、私自身もかつて1ヶ月ほどインドを放浪して、街角でさんざん音楽を聴きました。ただ、いずれもインドの「流行歌」を聞いただけであり、古典音楽ではありませんでした。
 で、そのインド古典音楽のコンサートを聴いた感想ですが、一言で言えば、特に感銘を受けるものではありませんでした。4人編成で行うサウンドの基本は、主旋律をシタールかイスラジ(擦弦楽器)で演奏し、あとはタブラーと呼ばれるパーカッションによるリズムセッションがあるだけです。主旋律なるものは基本的にアドリブであり、よく似たフレーズが延々と繰り返されます。演奏技術面で見ても、特に「高度」という感じは受けませんでした。まあインド料理店のBGMならよいかも…とは思いますが、じっと椅子に座って2時間近く聴いているのは退屈でした。ちなみにコンサート開始後30分ほどは、半分眠っていました。
 楽器と演奏法には興味を惹かれました。ビートルズで有名になったシタールはよく知っていましたが、胡弓やバイオリンにも似た「イスラジ」は、倍音を多く含む音色に魅力があります。

 ところで、楽器や音楽の内容以上に興味があったのは、いったいどんな人がこうしたインド音楽のコンサートを聴きにくるのだろうか…ということです。
 ホームページで「インド音楽」のファンサイトを回って見ると、インドの古典音楽に魅せられた方がたくさんの意見を寄せています。その多くは、インド音楽の持つ「深い精神性」に魅力を見出しているようでした。例えば、あるサイトにはこんな主旨のことが書かれていました。

 「…インド音楽の魅力を一言でいえば、そうした観察の蓄積から生れる深い精神性である。もちろん、高度の技術や、主奏者と打楽器奏者とのリズムの応酬やかけひきには、スリリングな興奮もある。しかし、ゆっくりとしたパートから次第にテンポを加速し、最高速の頂点で終了するインド古典音楽の演奏全体を支配するのは、シャンティと呼ばれる平安な感情である。そこには、インド人演奏家がいう"日常の喜怒哀楽を超越した純粋な美と、ナーダ・ブラフマー(音魂)"がある。インド音楽が世界中の多くの聴衆を魅了するのは、民族を越えて共有しうるこうした音楽観にあると思う…」

 要するに、インド音楽は西洋音楽と較べて精神性の深い音楽で、聴く人に対して根源的な深い安らぎを与えてくれる…というのが、インド音楽ファンの共通の認識のようです。

 あえて、意地の悪い見方をするつもりはありませんが、「インド音楽=精神性=癒し」というお決まりの図式は、どうもステレオタイプに感じてしまいます。
 音楽が深い精神性を持つ存在である…と言う点は、別に西洋音楽も東洋音楽も変わりはありません。インド音楽が世界各地の音楽の中で特に深い精神性を備えている…と断定する理由など「全くない」と思っています。
 まあ、世界を「西欧的なものと東洋的なものの対立」図式で捉え、「物質と精神」に色分けする見方はよく聞く話です。「インド音楽=深い精神性」なる捉え方も、こうした考えと根っこは同じでしょう。でも、西欧文明が物質的なものを基盤とし、東洋文明が精神的なものを基盤に置いている…というステレオタイプな考えを、なぜ多くの人が抱くようになったのか、全く理解できないところです。ごく普通に歴史を見れば判ることですが、古代から地中海世界やヨーロッパが戦争と収奪の歴史であったのと同じく、インドでも中国でも、そして日本でも同じように、多くの民族や国家によって戦争と収奪の歴史が繰り返されてきました。別に、世界の他の地域と較べてインドや中国で特別に精神世界への深い考察が育まれた…なんてことはないはずです。
 インドについては、実際に訪れた上で、その複雑な宗教事情や細分化された社会階層を見て、なんらかの精神性を感じる人が多いようです。しかし私自身は、インドを旅して、「深い精神性」なんてものは全く感じることがありませんでした。以前こちらに書いた通り、インドへ旅行する多くの人がその魅力を口にする「東洋的、宗教的な魅力」を感じる前に、広大なスラム街の現実や、幼い子供が過酷な労働を余儀なくされる国の現実の方に圧倒されたものでした。使者の町ベナレスでは、多数の人が沐浴するガンガーの「水の汚さ」だけが印象に残っています。私は「カースト制度」「貧困」「幼児労働」などの言葉とともに、こうした形でヒンズーという宗教に人生の全てを捧げることで、「諦め」を余儀なくされる人々の悲しみのようなものを強く感じてしまいました。ヒンズー教などクソクラエと思いました。私にとってインドの安宿で過ごした日々は、異なる文化への驚きや尊敬などよりも、現実に見る人々の貧しい暮らしに対する複雑な感情を強く感じた日々でした。

 さて、ごく普通に考えれば、ある音楽に「癒し」や「安らぎ」を感じるとすれば、それはやはり過去に聞いたことがある「好きな音楽」…が第一でしょう。私なんかは、好きなロックを長時間大音量で聴いていると安らぎを感じ、徐々に眠くなってくる…と言う始末で、かつてはバワリーのCBGBに入り浸って、下手なパンクグループのライブを聞きながら居眠りなんかをしていたものです。
 人間は本能的に、過去の生活環境にないものを五感で感じた時には、まず「頭で検証する」という作業をやってしまいます。頭のどこかで、「これは何だろう」…と考える方が自然です。ある音楽を無条件で受け入れて、心地よい…なんて感覚になるためには、やはり類似の音楽を過去に聞いた経験が必要だと思います。今回私が聞いたインドの古典音楽は、東南アジアへの渡航経験が豊富な私ですら、さほど馴染みのない音楽であり、別に安らぎなんてものを感じる音楽ではありませんでした。これに安らぎを感じるとすれば、それはインド音楽の視聴体験が極めて豊富か、さもなくば実際に長期間インドの古典音楽の演奏体験を持つ人でしょう。
 さらに思ったのは、もしあまり視聴経験が無いにも関わらず、こうしたインドの古典音楽に安らぎを見出す人がいるとすれば、それはもう意図的に「安らぎを見出したい」という潜在意識が作用しているような気がするのです。ちょっとステレオタイプに色分けしちゃえば、インド音楽なんかにハマる人には、あらかじめ「精神世界」への憧れ…のようなものが持っているような気がするのです。
 私はけっして、インド音楽の悪口やインド音楽ファンへの誹謗などを書きたかったのではありません。アーリア人がドラヴィダ人を南部に追いやって以降のインド亜大陸における長期に渡る諸国の興亡の歴史と、バラモン教、仏教、ヒンズー教など複数の宗教をバックボーンとするその複雑な文化に培われた、「歴史を持つ音楽」に対する敬意は十分に持っているつもりです。
 その上でなお、実際に聞いたインド古典音楽は意外に単純で精神性など全く感じられなかったことを報告するとともに、なぜこうした音楽に惹かれる人がたくさんいるのか…と言う点で逆にいろいろと考えてしまったことを報告しておきます。まあ、面白い体験でした。

2003/11/21

 どうもデジカメ購入の意欲が減退してきました、…とこんな話は半年に1回ぐらいは書いてます。でも今回は、ホントに7月以来、もう5ヶ月間近くも新しいデジカメを購入していません。常識ある市井の方々と比較されても困りますが、少なくとも非常識な私に関して言えば、5ヶ月間も新しいデジカメを購入していない…というのは過去3〜4年ぐらいの間を見ると、なかったことです。
 デジタル・ガジェットが嫌いになったわけではなく、この間、MP3プレヤーの新製品や電子辞書、GPS端末など物欲に負けて様々な製品を次々と購入してきているのですが、なぜかデジカメの購入頻度は減りつつあります。確かに「それなりに魅力的な新製品」は発売されるのですが、どれも20台以上ある手持ちのデジカメを著しく凌駕するほど個性的な製品ではありません。ここ半年間を見るならば、Fuji「F700」やKONICA-MINOLTA「KD-500Z」など、購入寸前まで考えた小型機も何機種かありましたが、いずれも購入までには至りませんでした。
 やはりデジカメは、完全に「成熟期に入った」ことは間違いありません。私の用途の範囲では、銀塩カメラと比較しても全く遜色のないデジカメが、たくさん登場してきました。かつて旅行用の小型・コンパクトカメラとして愛用したKONICA「BIG-MINI」やFUJI「カルディアミニ TIARA」などに相当する使い勝手のデジカメを、いくらでも挙げることができますし、一時期大好きだった「ライツミノルタCL」代わりに「DSC-V1」を持って歩いても、心理的抵抗はありません。仕事で使う銀塩一眼レフなんか、もう何年も埃を被ったままで、代わりにNikon「D-100」が活躍しています。一部の雑誌に使う商品写真などは、いまだにCASIO「QV-3500」を使って撮影しているぐらいで、大半の用途ではこれ以上の性能は不要です。
 むろん、より高画質・高性能の製品や、特徴的な機能を持つ製品が出てくれば、製品ジャンルを問わず今後も購入するでしょうが、購入のための選択基準は確実に高くなってきています。
 特に私の好きな「小型・コンパクト」分野では、各社から多様なコンセプトの新製品が投入され、さすがに「もう十分…」って感じです。
 考えてみれば、ホンの数年前までは、掌に入るぐらい小さくて、バッテリーが長寿命、起動と記録が速く、できれば広角系レンズで、画質がそこそこきれい…なんてデジカメを海外旅行に持っていけたらいいなぁ…などと、夢想レベルで考えていました。ところが、例えば最近愛用している「DSC-U30」なんて、当時の感覚から見れば、まさに夢の海外旅行用デジカメです。全ての条件をクリアした上、256MBのメモリースティック1本で450枚以上も撮影できるというタフさで、もうポケットにこれさえあれば他にデジカメはいらない…と言っても過言ではありません。200万画素で画質も万全ではありませんが、これくらい(圧縮サムネイルなのでメチャ重いです)撮れれば、個人的には海外旅行のスナップ写真用途には十分です。「これが28oレンズだったら…」と思うぐらいが、唯一の不満点ですね。

 加えて、携帯電話搭載カメラが200万画素レベルに入ってきました。AF機構も搭載され始めました。私の所有している「D-505i」の画質ですら十分なのに、これが200万画素でAF付きになったら、日常スナップ用途ではホントに単体のデジカメが必要か…という状況です。

 さて、こんな当たり前のことを書いたのは、このサイトもそろそろ、「デジカメ関連のサイト」という仮面を全面的に取っ払う時期に来た…ということを実感してるからです。以前一度、「もっとブログサイト色を強める」…と宣言したことがありますが、その方向性に変わりはありません。しかし、いざ模様替えをしようと思うと、あれこれ思い悩みます。「猫を被って発言する」…ことには、そろそろ飽きてきました。私が普段考えていることは、これまで書いてきたようなヤワな内容とは似ても似つかない「非常識」なものです。
 今後もWebで本音を語る気など毛頭ありませんが、どうせWebサイトなんて役にも立たないものを運営しているのなら、もっと社会に「毒」を撒き散らしたい…それが願いです。

2003/11/20

 「熊本県南小国町の『アイレディース宮殿黒川温泉ホテル』がハンセン病元患者の宿泊を拒否した問題で、同ホテルの前田篤子総支配人らは20日、国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(同県合志町)を訪ね、入所者に謝罪する…」
 …というニュース、TVで謝罪する女性支配人を姿を、非常に複雑な気持ちで眺めていました。ハンセン病患者の宿泊を拒否したこのホテルと支配人に対しては、元患者のみならず、市民団体、一般市民、そして自治体や政府関係者までが声を揃えて、「何を考えているんだ」「人権侵害という言葉をしらないのか」…等々、非難の大合唱です。いや全くその通りです。このホテルを擁護する余地は全くありません。宿泊拒否はとんでもないことです。長期に渡って国の政策の元で隔離され、社会や家族から忌避され、不妊手術まで受けさせられたハンセン病患者の皆さんの気持ちを考えれば、もう言語道断の話です。十分に理解できます。

 …しかし、ハンセン氏病に関する世間一般の認識はどうでしょうか。ハンセン病は、治癒患者でもその外観に特徴を持ちます。これを生理的に「身持ち悪い」と考える人は、依然として国民の多数を占めると思います。その病因、遺伝的側面、伝染性の問題など、ハンセン病に関する正しい知識を、国民のいったい何割が持っているのでしょう。ハンセン病の正しい治癒者からは絶対に感染しない…、理屈ではわかっていても、同じ温泉には入りたくない…と考える人は、全国民の中でおそらく相当のウェイトを占めるでしょう。特に、年配の人は、ハンセン病は恐ろしい伝染病…と認識させられた人が多いはず。1943年にアメリカで画期的な「治らい薬」として「プロミン」が開発され、ハンセン病は不治の病ではなくなりました。しかしその後もハンセン病に対する誤解と、患者に対する謂れのない不当な差別は続きました。そうした政策は、国家や医療従事者によって行われたのです(こちらを参照)。現在40〜50代以上の人は、おそらく学校教育でも家庭教育でも「ハンセン病に関する正しい知識」を受けることなく育ったし、逆に差別意識を植え付けられて育った人も多いはずです。
 こうした社会の状況を考え、経営面を考慮して「拒否する」とした支配人の判断は、表層的には差別発言ではありながら、ある意味で差別とは別次元のものです。ハンセン氏病患者が、この温泉ホテルに対して「経営のことだけを考え、患者の気持ちを顧みない非道な判断…」というようなコメントを発していましたが、それは確かにその通りです。しかし、過程の話ですが、ハンセン病患者を受け入れた結果としてこの温泉ホテルの客数が減り、経営に困難をきたした場合、誰も保証はしてくれません。その結果、ホテルの従業員が失業したとすれば、その人達の人権はどうなるのでしょうか。

 繰り返しますが、宿泊拒否は著しい人権侵害です。アイレディース宮殿黒川温泉ホテルが患者に謝罪するのは当然です。しかし、私はTVニュースで何度も謝罪シーンを放映され、全国に晒される女性支配人を見て、複雑な心境になりました。経営者としての判断を下さざるを得なかったこの女性をTVで晒し者にしたって、ハンセン病患者差別の問題は何も解決しません。いや、こういう形で問題が喚起されたことで、彼女は差別問題の解決に寄与したのかもしれません。だとすれば、彼女もまた、国家による長いハンセン氏病患者差別の歴史の犠牲者の1人かもしれません…

2003/11/18

 「外来種のカメ繁殖、追いつめられる在来種」…というニュース、今朝のNHKニュースでもやっていました。要するに、ミドリガメとしてペット用に大量に輸入され放流されたミシシッピアカミミガメが全国いたるところで繁殖し、日本在来種のニホンイシガメやクサガメの生存を脅かしている…という話です。まあ、特に目新しいニュースではありません。
 いや、確かに固有種が消えるのはマズイと思います。でも、よく考えると「そんなにマズイことなの?」…と疑問に思う部分がないでもありません。だって、たかだか「カメ」に外来種が増えようと、固有者が絶滅しようと、別に我々の日常生活にたいした問題が生じるわけではありません。カミツキガメのような凶暴で危険な外来種は駆逐するべきでしょうが、ミシシッピアカミミガメは別に危険な生物ではないようです。ニホンイシガメやクサガメが全滅することで問題になるのは、主に「学術的な問題」に過ぎないような気がします。
 最近はカメに限らず、アライグマが繁殖しているとか、ハリネズミは繁殖しているとか、インコが野生化しているとか…そんな話題が絶えません。こうしたニュースのたびに、日本固有種の危機…が叫ばれます。でも、危険な動植物や有害な動植物が繁殖するのでなければ外来種が住み着いたっていっこうに構わないし、別に日本固有の野生動物が絶滅したって、どうってことないじゃないですか。例えば、トキが絶滅すると、いったい誰が困るのでしょう。
 いや、こんな乱暴な話を書くと自然保護を第一とする良識ある人たちからは、「生態系のバランスが崩れると、いずれはそれが人類の生存に関わってくる」とか、「地球上の自然は至高の存在で、人間は生態系に手を加えることは倫理的にも絶対に許されない」…等々の反論が山のように寄せられそうです。
 しかし、考えてみれば、有史以来の人類の社会的発展、経済的発展の歴史は、そのまま生態系破壊、自然破壊の歴史でした。有史以降、人間はいったいどれだけ多くの固有種を絶滅に追い込んできたのか、数えることすらできません。いまさら、1種類や2種類絶滅したからといって、とりたてて騒ぐことなのでしょうか。
 私は、自然を破壊しながら経済利益を追求していく人類の姿を見ていると、「これもまた自然の理」という気がしないでもありません。地球上に人間が誕生する前だって、様々な理由でたくさんの生物が絶滅し、新しい種が誕生してきました。別に人間が殺したわけではありませんが、三葉虫も恐竜も現在の地球には存在しません。長い地球の歴史の中で、他の生物種を次々と絶滅に追い込む「人間」という種が登場したこと自体、もしかすると「自然の摂理」だと考えることもできそうです。
 人間は、自然破壊、生態破壊と引き換えに「豊かな暮らし」や「社会進歩」を獲得してきました。アメリカ大陸を発見した(?)コロンブスは、新大陸の動植物を大量に持ち帰りました。逆にメイフラワー号の住民は、ヨーロッパの穀物品種をアメリカ大陸に持ち込みました。そしてイギリスの産業革命は、膨大な自然破壊と公害を生み出す端緒となった出来事です。
 もし、自然保護とか生態系の維持を絶対の価値として捉えるならば、「地理上の発見は間違っていた…」「産業革命などなくてもよかった」…という話になります。
 こういう論法に対しては、「過去のことを言っても意味がない、科学技術の発達した現代では知恵を尽くして開発と自然保護のバランスを図るべきだ」などという言葉で、反論を受けそうです。しかし、誰がなんと言っても、自然破壊を伴う開発を止めることは不可能です。何故なら、世界の人口の約1/3が「飢えに直面している」からです。
 貧しい農民によるアマゾンの開発しかり、ボルネオの森林伐採しかり、電力不足に悩む中国の山峡ダム建設しかり、アフリカの戦争を逃れた大量の難民による木材伐採しかり…です。経済的繁栄を甘受する先進国が、これらの開発行為を「自然破壊」と批判することなど、許されるはずがありません。発展途上国に経済的犠牲と引き換えの自然保護を求めるのなら、先進国はその損失を自らの富で埋め合わせる必要があるはずです。豊かな生活を当然のように甘受する先進国の国民が。自らの生活レベルを大幅に落としてまで、後進国に富を分け与えるわけがないからです。そうである以上、発展途上国は先進国がやってきた通りの道を進む権利があるでしょう。しかも、ここで言う権利は「生きる権利」とほとんど同義語です。

 それにしても、たかが「ニホンイシガメやクサガメの危機」で騒ぐこの日本は、平和で豊かな国です。世界中のスラム地域に住む飢えた数十億人の人々には、この「カメの危機」は、ほとんど理解できない話、どうでもよい話でしょう。
 ところで、冒頭のニュースに出てくる「日本カメ自然誌研究会」って団体、知りませんでした。この団体は、通称「カメ研」とよばれており、年に1度「カメ会議」を開催しているそうです。

2003/11/17

 土曜日(15日)の夜、武道館でニール・ヤングの来日公演を見てきました。Greendaleツアーでもある今回のライブは、途中PAが落ちたりするトラブルなどもありましたが、概ね満足すべきものでした。ノリはイマイチだったけど「Hurricane」も聞けたし、なんたって3時間近くに渡って、彼の健在ぶりをこの目で見ることができたのですから…
 第一幕は、新アルバム「Greendale」を、ほとんど「ミュージカル仕立て」にした舞台です。Greendaleという小さな街に住む「グリーン一家」に起こる出来事が歌われています。このGreendale物語の詳しい内容については公式サイトをお読み下さい(OUT OF TGE BLUEというサイトに日本語訳もあります)。愛、家族、戦争、そして環境問題まで含んだかなりにメッセージ性の強い内容ですが、ニール・ヤングが、なぜ今という時期・時代にこうしたメッセージを発したのかはわかりません。おそらくは9.11以降のテロ事件以降の世界を見ていた彼なりのメッセージだと思うのですが、あまり詮索しても意味が無いように思います。このアルバム、欧米での評判は賛否両論というか、必ずしも好評ではありません。サウンドはこれまでのニール・ヤングサウンドの集大成にちかいものですが、私は嫌いではありません。
 第二幕後半、特にアンコール部分では、クレージーホースとともに「グランジ爆発」です。「オッサンやるなぁ」…という感嘆の気持ちと共に、「こういうシンプルなギターサウンドをロックと呼ぶのなら、世の中のロックの大半はロックじゃない」…なんて埒も無いこと考えながら聞いていました。

 さて今回のライブでは、Greendaleというアルバムの内容が内容なだけに、ニールは昂然と立ち、歌い、「evangelist(伝道者)」のような顔を見せていました。
 しかし、ニール・ヤングというミュージシャンに対して私が抱くイメージは、「時代に対してメッセージを発する人」とは、ちょっと違います。彼はもっと、「わが道を行く人」という感じがするのです。
 ボブ・ディランなんかは逆かもしれませんが、ジョン・レノンやポールマッカートニー、U2なんかが、反戦だの平和だの環境だの、徐々にメッセージ性を強くしていったプロセスを見ていると、何か「たかがミュージシャンの分際で、説教を垂れるなよ」と言いたくなる私です。しかし、私が同時代を過ごしてきたCSN&Y以降(さすがにバッファロー・スプリングフィールド時代のニールヤングは知りません)のニールヤングは、時代と共に好きなサウンド、好きな歌を歌ってきただけ…という感じしかありません。古くはCSN&Y時代やウッドストックも含めて反戦や環境問題に対するメッセージなども確かに発してはいますが、彼の場合、それが全て…という感じは全くありません。アコースティックでもクレージーホースとの演奏でも、いつも実に自然体の歌とサウンドです。好きな歌を作って歌い、クレージーホースとともにやんちゃなガキのような演奏をする…、そんなニール・ヤングを、私は高校生の頃からずっと好きでした。

 それにしても、ニール・ヤングは何を歌っても、どんな演奏をしても、やっぱりニール・ヤングです。独特のよく通る声は、50台後半になった今も、30年前と変わりません。「be the rain」を聞いているとき、ちょっと涙が出そうになった…ことを白状しておきます。

2003/11/14

 人形町の「魚久」の粕漬けは、もうメチャメチャに旨い。大好物です。私は、自分で食べるだけでなく、お世話になった方へのお歳暮やプレゼントにもよく利用します。美味しいのはよいのですが、値段も高い。オフィスの近くでは西武百貨店池袋店の地下で買えるのですが、食べたい時には毎日夕方に販売される安い「切り落とし」を買います。500円で4〜5切れ入っていて、鮭、銀鱈、イカゲソなどが入っています。実は、切り落としの方が美味しいんですよ。
 この「魚久」の味を再現しようと…というわけではありませんが、最近粕漬け作りに挑戦中です。酒粕は知人の醸造元から送ってもらいますが、スーパーで売っている安い酒粕のパックでもOKです。作り方は実に簡単。基本的には、適量の酒、みりんで酒粕を溶いて粘度の高い粕床を作ります。塩と砂糖を適量加え、私は醤油を少し加えますし、砂糖を多めに入れます。また、醤油の代わりに白味噌を溶いて混ぜても美味しいですね。作り方は、各自で工夫してみて下さい。こうして出来た粕床を大きめのタッパーなどに敷き、そこに魚の切り身を並べて行きます。上からも酒粕を入れて切り身を挟んで、そのまま冷蔵庫に置けば、美味しい粕漬けができます。1日漬けただけでも食べられますが、私は2日目ぐらいが好きです。
 スーパーで100円前後売っている安い切り身って、すごく不味いじゃないですか。あの安い生鮭の切り身が、この粕床に漬けるだけで、すごく美味しい粕漬けに変わります。粕床は2回ぐらいは使えます。
 魚の切り身以外に、野菜などいろんなものを漬けても美味しいのですが、最近、「これは!」と思っているのが豚肉の粕漬けです。適当な厚みのソテー用の豚肉を買ってきて、この粕床に漬けると、それはもう、とても美味しい豚肉の粕漬けが出来上がります。焼いて食べれば最高です。ご飯のおかずにもビールのおつまみにもなります。簡単なので、是非お試し下さい。

2003/11/13

 タモリ倶楽部の「ソラミミアワー」は確固たるファンを持っているようですが、同じように歌を題材にした言葉遊びでも、私は嘉門達夫の「替え歌」に時々感心することがあります。クリスマスの時期になると思い出すのは、彼が作った山下達郎の「クリスマス・イブ」の替え歌です。「きっとあなたは関西人 間違いなく関西人 さいでんなあ ほうでんなあ」ってヤツで、「silent night holy night」の部分を「さいでんなあ ほうでんなあ」…としたところの語呂が、実にいい感じ。
 その嘉門達夫が、10年ほど前に週刊SPA誌上で替え歌の投書コーナーをやっていた時、読者からの投書で、傑作な替え歌がありました。これは、南こうせつ(大嫌いですが…)の「神田川」の替え歌で、「あなたは、も〜う、忘れたかしら…♪」の部分を「カナダは、も〜う、チェコスロバキア…♪」って歌うんです。これが実際に声に出して歌ってみると、実にいい。歌詞が、あまりにも無意味なところもいいんです。私は、南こうせつのみならず、神田川って歌も嫌いなんですが、山手線に乗っていて高田馬場あたりで窓から神田川をみかけると、つい「カナダは、も〜う、チェコスロバキア…♪」って口ずさんでしまうのです。
 この神田川の話、きっと自分以外、誰にもウケない話でしょう(笑) でも、ぜひ一度、声に出して歌ってみることをお勧めしたいです。

 話は変わって、韓国で、フジテレビの人気バラエティー番組「トリビアの泉」盗作騒動が持ち上がっている…というニュースがありました。KBS第2テレビで10月からスタートしたバラエティー番組「スポンジ」という番組は、視聴者から寄せられた雑学を紹介し、点数をつけていくなど「トリビアの泉」と類似点が多いとのことで、フジテレビがKBSに対して法的手段も検討している…と報じられています。

 しかし、日本のTV局が番組の企画を「パクられた」と文句をつけるのは、もう全くの筋違いです。「行列のできる法律相談所」や「大食い選手権」を見るまでもなく、日本のTV局は、お互いにヒット企画の「パクり合い」をやってきたのは、誰もが知るところ。それに1970年代から80年代にかけて、日本のTV局が主にアメリカのTV番組のパクリを繰り返した事実も、また誰もが知るところでしょう。
 1980年第前半にアメリカに住んでいる時、TVを見ていて一番驚いたのは「クイズ100人に聞きました」です。あの番組はアメリカで1970年代から続いている「ファミリー・フュード」という番組の完全なパクリで、関口宏が馴れ馴れしい態度で肘をついて話すところは、ファミリー・フュードの司会者とポーズまでそっくり。あまりに似ているので驚きました。「クイズ・グランプリ」もアメリカの「ジェパリー」というクイズ番組のパクリです。そういえば、「ウルトラQ」は完全に「トワイライト・ゾーン」のパクリですね。「どっきりカメラ」も、アメリカの「Candid Camera」という番組をパクったモノだってことはよく知られています。

 最近では、逆に日本のTV局が企画した番組がたくさん海外で放映されています。「料理の鉄人」なんかは有名だし、日本アニメは既にパクられる側に回っています。
 その海外で放映されている日本のTV番組の中で、私が一番好きなのは東映の「戦隊シリーズ」です。これは、ずいぶん前から配役をアメリカ人に替えたバージョン(「パワーレンジャー」シリーズ)がアメリカで放映されています。アメリカ版の場合、主役の5人の男女の人種構成が、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系…と、意図的に配分されているのがいかにもアメリカらしいですね。このアメリカ版は、タイでもタイ語吹き替えバージョンを放映しています。日本でも、ケーブルTVやスカイパーフェクTVの「CSN1ムービーチャンネル」で見ることができます。戦隊シリーズファンの私は、ときどき見ています(笑)

2003/11/12

 市町村合併が進む中で、依然として合併後の地名で揉めている自治体が多いようです。以前も書きましたが、私は地名なんてものには全くこだわりません。確かに地名からは歴史や文化を知ることが出来ますから、「無くしてしまえ」なんて乱暴なことは言いません。しかし、ビジネス文書や官公庁文書を含む「実用上の住所表示」は、緯度・経度をベースにした方が合理的です。企業の住所表記や名刺の住所表記には、今後は旧来の地名と同時に、緯度・経度表記を併記する形を普及させればよいと思います。
 緯度・経度表示なんてGPS端末を所有していないと使えないじゃないか…という反論もあるかもしれませんが、そんなことはありません。既に多くの方がご存知だと思いますが、パソコン・携帯電話端末から利用可能なインターネットで提供される地図情報サービスを利用することで、GPSなしでも特定の場所の緯度・経度を簡単に知ることができます。
 Yahoo! Mapsの場合、都市部での最大詳細表示(1/3000または1/8000)にすると、だいたいは個々のビルまで識別できます。そして、詳細表示の状態でのURLは、地図上のカーソルがある位置の緯度・経度が含まれたものになります。まあ、1/3000は表示できない場所も多いし、実用上の問題もあるのでとりあえず1/8000で表示しましょう。
 例えば、1/8000表示の地図上で私のオフィスがある場所にカーソルをもってくると、そのURLは次のようになります。
 http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.43.47.518&el=139.42.24.434&la=1&fi=1&sc=3
 このURL内に含まれる前半の数字35.43.47.518はN35°43' 47.33"の意味であり、後半の数字139.42.24.434は、E139°42' 24.434"を意味します。要するに、GPS端末なんか所有していなくとも、知りたい場所の緯度と経度が簡単にわかるわけです。
 これは、逆の使い方もできます。このYahoo! MapsのURLの緯度・経度の数字部分だけを入れ替えれば、希望する場所の地図が表示されます。だから、訪問したい場所の緯度・経度がわかっていれば、地図上の場所を知ることができる…というわけです。

 さらに、GPSの普及も今後は急速に進むでしょう。数年後には、ほぼ全ての携帯電話端末にGPS機能が搭載されることは、ほぼ確実です。詳細は省きますが、携帯電話端末はGPS以外にも、接続基地局、複数基地局からの電界強度の検出による三角法計算…など、様々な方法の位置検出システムが確立されています。しかし、やはり自律測位が可能なGPSの利便性には敵いません。既にGPSを搭載して始めたauはむろん、NTTドコモは数年前からGPS搭載端末の開発と位置情報を利用したビジネスモデルの研究を進めており、来年早々にもGPS搭載端末を投入します。
 また、現状利用可能な唯一の衛星測位システムであるGPSが米国が優先的使用権を持つ軍事システムであることによる問題も、EU諸国の計画に中国、インドなども参画し、GPSよりも高精度の「ガリレオ計画」が動き出したことによって、予備システムが用意される可能性が高くなってきました。ガリレオ計画には、ぜひ日本も参加してもらいたいものです。
 衛星測位システムの低コスト化と回路の小型・低電力化は、極限にまで進もうとしています。いまや、全ての人間がGPS端末を持ち歩く…状況になるのは時間の問題です。

2003/11/10

 TV番組を見て感動するなんてことはあまりないのですが、11月08日の深夜(翌 0時45分〜翌 1時30分)にNHKで放映された「にんげんドキュメント ただ一撃にかける」(再放送)は、見た後に深い余韻と感動を残す素敵なドキュメントでした。
 これは、今年の7月6日にイギリス・グラスゴーで行われた「第12回世界剣道選手権大会」の男子団体競技に日本チームの主将として出場した剣士、栄花直輝選手の戦いぶりを追った映像です。この大会の決勝戦で日本は韓国と対戦しました。ここ数年、日本と韓国の剣道の実力は全く拮抗しており、昨年に続いて今年も大将戦で決着をつけることになりました。
 さて、日本と韓国の決勝戦は、先鋒から4人目までは全く互角、同点で大将戦となります。映画選手の相手はまだ日本選手に一度も負けたことがないという金景男(キム・キョンナム)選手です。栄花選手の身長は170センチ、対する金景男選手は180センチを超える巨漢です。その金選手と栄花選手との大将戦は、双方が死力を振り絞って対戦したにもかかわらず既定の試合時間5分間で決着がつかず、無制限一本勝負の代表戦に持ち込まれることになります。
 代表戦が始まると、なんと10分以上に渡って、双方が間合いを計りながら一足一刀の状態が続きました。息を呑むような緊迫した状態が続いたのです。そして15分が経った時、金選手が栄花選手の竹刀を上から叩き、同時に金景男選手の竹刀も下がりました。その一瞬、懐に飛び込んだ栄花選手の竹刀が金選手の喉を突きました。まさに、一瞬の出来事でした。
 会場は静まり返ったままです。突きを受けた金選手も凍ったように動作が止まっています。とても美しい瞬間でした。この突きはけっして考えて出せる技ではなく、鍛えぬいた体による一瞬の反応だったと思います。私は「人が人を殺す瞬間」だ…と感じました。

 試合後、見事な技を決めた栄花選手の回りには外国の選手たちが集まってきました。涙を流しながら握手を求める外国選手もいました。そして、たくさんの外国の子供たちもサインを求めていました。
 日本は、この栄花選手の「美しくも凄まじい戦い」によって、辛くも剣道世界一の座を死守しました。それにしても、韓国の強さもさることながら、世界の国々、特にドイツ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国の剣道に対する熱心さは、とても想像できないものです。日本からコーチを招き、巨漢たちが本気で剣道を学んでいるのです。いずれ日本は、剣道世界一の座を奪われるかもしれません。

 栄花直輝選手は、2001年に行われた第48回全日本剣道選手権大会で、平成の天才剣士と呼ばれる宮崎正裕選手を破って日本剣道の頂点を極めました。ちなみに宮崎選手は全日本2連覇を2度成し遂げており、日本剣道選手権史上、2連覇を為したのは宮崎選手ただ一人です。その宮崎選手を倒す前年の47回大会でも、二人は準決勝で対戦しました。その時栄花選手は、宮崎選手の技に対して勝つための試合前から工夫を凝らし、返し技を考え出しました。しかし、それでも宮崎選手の気迫とスピードには歯が立ちませんでした。その戦い以降、栄花選手は「勝とうという気持ち」「勝つための工夫」を棄てたのです。勝とうとすることを捨てて、身体が自然に反応して技が出るようにただひたすら鍛練することにしました。その結果、翌年の大会の宮崎選手との決勝戦で、捨て身の小手を放って彼を破ることができたのです。
 「勝とうという気持ちを捨てる」なんて言葉を聞くと、普段の私なら「カッコつけちゃって…」などと思うのですが、栄花選手が金景男選手に対して見せた一瞬の突きは、その言葉の意味を、実際に形にして見せてくれました。あまりにも美しい瞬間でした。  自分でも書いていて恥ずかしくなるぐらい陳腐な感想ですが、興行格闘技の世界には絶対にない「武道の奥深さ」を思い知らされました。

2003/11/8

 「七転八起」という四文字熟語、私は「ナナコロビヤオキ」と読んじゃいますが、Microsoft Word(FEPはMS-IME)で「ナナコロビヤオキ」と入力して変換すると「七転び八起き」と変換されます。「七転八起」と変換するためには「シチテンハッキ」と入力しなければならないので、どうやら「七転八起」は「シチテンハッキ」という読みが正しいようです。
 次に大辞林で「七転八起」の意味を検索すると、「七転び八起きと同じ意味」…と出ます。ってことは、普通は「七転び八起き」を使い、「七転八起」はあまり一般的ではないのでしょうか?
 ちなみに、「七転び八起き」の意味は、「七度転んで八度立ち上がる意、何度失敗しても屈せずに立ち上がること。七転八起(しちてんはつき)。人生において浮き沈みの多いこと。失敗したり成功したり変転の激しいこと」…とあります。まあ、これは誰でも知っている通りです。

 それにしても、多くの人が疑問を感じていると思いますが、なぜ「七転七起」ではなく「七転八起」なのでしょうか。「七度転んで八度立ち上がる」…って、七度転んだら七度しか立ち上がれないじゃないですか。八度立ち上がるためには、八度転ばなくちゃならない。「七度転んで八度立ち上がる」っていうのは、どう考えてもヘンです。最初に転んだ状態からスタートすれば計算が合いますが、そんなわけないし…

 「七転八起」という言葉について調べてみると、どうも仏教用語らしいですね。禅宗始祖である達磨大師の不屈の精神を例えて「七転八起、面壁九年…」などと言うのだそうですが、詳しいことはわかりません。そのうち調べて報告します。

2003/11/7

 昨日の日記で「水からの伝言」など江本勝の著書の内容を「カルト」と断定したら、早速「信者」の方から反論のメールを頂きました(あえて「信者」という言葉を使います)。反論メールの主旨は「…私はこの本で愛と感謝の気持ち、そして人類が環境を破壊せずに自然と共生していくことの重要性を学んだ。部分的に現代の科学で証明できないことがあるからといって『カルト』と断定するのはおかしい。自然界で起こる現象の全てが現代科学で解明されていると考えるのは、人間の傲慢な思いあがりだ。ましてや、『波動』は科学的な測定器で計測されているものだし、実際に水の結晶の形に差が出ているのも厳然たる事実…」という内容です。

 さて、「信者」の方と議論する気は全くないのですが(教育を受けたいい年をした大人が何を信じようと勝手です)、一応簡単な反論を挙げておきましょう。まず「…波動は科学的な測定器で計測されている…」と言われても、「?」としか答えようがありません。その「波動」自体が、定義のしようがない意味不明のシロモノですから…。江本勝が言うところの「波動」なるものは物理現象の波動とは無関係で、「波動測定器によって測られるもの」と以外に定義しようがないのです。しかし、その「波動測定器」自体が、何らかの科学的な根拠を持つ測定装置ではありません。既に各所で明快な論拠が挙げられているのですが、一部を紹介しておきます。
  • 江本勝が事実上主催するIHMディバイスの開発した「Hado-R」なる波動測定器は、江本勝が普及に努めてきた波動測定用MRA(共鳴磁場分析機)の原理がベースになっているとのことだが、実際には磁気を測定する回路も共鳴を測定する回路も存在しないことが確認されている。
  • 波動測定器は測定者自身(おそらく電気抵抗)を測定しているだけ。
  • 波動測定器は、さまざまな問題に対して一個の数値を出す。たとえば、ある食品は免疫力について「21」など。複雑な問題について、単位のない数値が一個だけ出されるという安直な結果を見る限り、「科学的計測」とは無縁。
 まあ、水と言う物質が「声をかける」ことで物理的に変質することはあり得ないし、百歩以上譲って、仮に「声」という物理特性を持つ音波が水の物理特性に何らかの影響を与える可能性があったとしても、ポジティブな言葉をかけるかネガティブな言葉をかけるかで物理特性が変化する…なんてことは絶対にあり得ません。ましてや、水に文字を書いた紙を浸し、その紙に書いてある文字の種類によって浸した水の物理的特性が変化する…なんてバカなことは絶対にあり得ません。こうした点は、議論の余地すらありません。

 書いていてあまりにバカバカしいのでこのへんでやめておきますが、波動がインチキだという論拠を知るために一番よいサイトとして、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科複合領域科学専攻の冨永研究室によるこちらのサイトがあります。中でも「水商売ウォッチング」というページを紹介しておきましょう。また、「市民のための環境学ガイド」なども役に立つでしょう。

 むしろ、反論メールの中で気になったのは、「…自然界で起こる現象の全てが現代科学で解明されていると考えるのは、人間の傲慢な思いあがり…」というフレーズです。これは、非科学的なロジックを信じさせようとする宗教信者や精神主義者が、金科玉条のように唱えるフレーズです。端的に言って、このフレーズは、ロジックというよりも「幼稚なレトリック」に過ぎません。
 科学者のなかには「人間の生活」より「科学の学問的成果の方が重要だ」とする考え方を持つ人間も多く、これは確かに「思い上がり」でしょう。さらに、自然界で起こる現象の全てが現代科学で解明されていると考えるのも、思いあがりかもしれません。自然や人間の営みの中には、まだまだ科学で解明されていないことはたくさんあります。しかし、「すべての科学の成果を拒絶する」ことは間違っているし、絶対に不可能です。「全てが科学的に解明されていない」から「科学的に解明されていないことを、わかっている範囲の科学的成果を無視して非科学的に説明してもよい」…わけではありません。「現時点で既知・既定のこととして認められた科学的成果」を踏まえて説明する…ことが基本であり、その上で「現時点の科学のレベルで判らないこと」があればそのまま認めることが重要です。「現代科学で解明できないことは、現代科学の成果を無視して説明しても構わない」ということではありません。
 例えば、「道端に転がっている石はどれも高度な知性と意思を持っており、いつもモノを考えている」…と主張する宗教があったとしましょう。
 しかし、我々は「石は知性を持たない。従ってこの主張は誤りだ」と断言できます。石は、その成分のいかんを問わず無機物です。石は「岩石」であり、岩石とは2つ以上の鉱物から成り立つ物質を言います。鉱物とは、天然に産する一定の化学組成と結晶構造をもった無機物のことを言います。無機物を「CおよびHの両者を含む化合物(いわゆる有機物)以外の物質」と定義し、有機物を「Cを中心とする、生物を作り働かせるための物質」と定義した場合、無機物は「生命を持たない」ことと同義となります。従って、石は生命特有の知性を持ちません。
 こうして説明できるにも関わらず、「石が知性を持っているのは現代科学ではわからないだけだ」「だから石が知性を持っていない…とは証明できない」…と、宗教者は主張するかもしれません。しかし、そんなロジックは絶対に成立しません。確かに、現代科学をもってしても判らないことはありますが、だからといって現代科学の成果を否定するためには、そのためにこそ「根拠と証明」が必要です。「石が知性を持つ」などと証明することは、非常に難しいのです。

 「波動」についても同じです。江本勝が存在するという波動なんてものは、簡単に否定できます。それに対して「波動は存在する」というのなら、それを「現代科学の成果を踏まえて説明する」必要があるし、それがなされない場合には「与太話」と否定するべきです。

 はてさて、日記に対する反論メールを題材にしてゴチャゴチャと「意味不明」に近い文を書きましたが、「しょせんは戯言」です。意味なんてなくてもけっこう。真面目に反論しないで下さい。私は戯言や言葉遊びが好きなんです(笑)
 さらに、カルトを擁護する人々の主張を「幼稚なレトリック」と書きましたが、実は私はこの日記の中で、いやサイト全体に散りばめた雑文・駄文の中で、さまざまな「幼稚なレトリック」を使っています。特に、デジカメに関する主張の中には、様々なレトリックが含まれています。こうして、「常識に反論」したり、「大多数が白という意見に黒といって見たりする」のは、非常に楽しいことです。
 匿名の個人サイトだからといって、誰かを根拠なしに非難・中傷することは絶対に許されませんが、かといって「正しいことを書く義務」も「わかりやすく正しい文を書く義務」もありませんよね。

2003/11/6

 週刊現代の今週号を読んでいたら、長崎県にある「超能力喫茶店」なるものに有名財界人が続々訪れている…という記事がありました。何でも、この店のマスターは能力手品を見せたり、客に「気」送ったりするそうで、ソニーの故・井深大、NECの関本忠弘、評論家の竹村健一、ホリプロの堀威夫…など、錚々たる財界人がこの店を訪れた…という記事でした。また、この「超能力喫茶店」には、カルト経営の教祖である船井幸雄もいたく興味を示しているとのことです。
 言うまでもなく企業経営者とカルトは切っても切り離せないもので、船井幸雄を「経営の神様」と崇める企業経営者はたくさんいますし、前述のソニーの井深大は「エスパー研究室」なんてのをマジメにやってました。京セラの稲盛和夫もカルト経営者の代表みたいなもので、あのスプーン曲げの清田某を呼んで社員相手に講演させてたりします。ここら辺の話は、1997年に文芸春秋社から出版された「カルト資本主義」(斎藤貴男)という本(私は「名著」だと思っています)に詳しいですね。

 まあ、「カルトと企業経営者」、さらに一歩進んで「カルトと右寄りの反共団体」等の結びつきは昔から深く、特に目新しい話ではありません。「カルト資本主義」なんて本で解説されなくても、これらが結びつく必然性はよく理解できます。「愛と共生」を説く企業人や、「気」にのめりこむ政治家など、おかしな連中は昔からたくさんいます。こんな話を書くために、本稿を書き始めたわけじゃありません。
 最近になって、この「カルトと企業経営者」、「カルトと右寄りの反共団体」…という従来型の結び付きとは異なる新しい動きがあるのが気になっているのです。
 それは、「カルトとスローライフ」「カルトと反グローバリズム」などという、全くベクトルが異なるキーワードとの結びつきです。空前の…と言っても過言ではない「癒しブーム」、さらには「自然との共生」や「自己治癒力を見直す」など自然回帰、健康至上主義、精神世界等への傾倒を強める人間の急増…が、主な要因でしょう。こうした、スローライフ、環境問題、反グローバリズム…などのキーワードと結びつきつつあるカルト、「トンデモ科学」の代表に、「EM」「波動」(物理学で使われる「波動」とは無関係)なんてのがあります。

 この「EM」や「波動」理論(理論なんて代物じゃありませんが…)については、既に各所で「トンデモ」の代表として科学的に批判されつくしていますから、わざわざ私が批判するようなことではありません。しかし、「EM」や「波動」を取り入れた健康器具や健康食品もたくさん出ていますから、懲りない人間は多いものです。食品業界では大手企業の中にも、こうしたトンデモ理論に基づく商品を出しているところがあります。めいらく(スジャータで知られる)は波動医科学総合研究所なんてものを設立して「健康によいミネラルウォーター」を商品化していますし、モスバーガーは原材料を全て「波動測定器」なるもので厳選している…とのことです。アホらしい…

 さらに恐ろしいのは、こうした「トンデモ理論」が、小中学校などの教育現場に入りつつある…と言う話を知人の教師に聞いたことです。今回聞いた話は、上述した「波動」理論を説く江本勝の著書を、小学校の授業に使っている…というものでした。

 カルト出版社であるサンマーク出版から刊行されて話題になった「水は答えを知っている」の著者である江本勝は、この「波動」という意味不明のトンデモ科学のエバンジェリストの1人です。
 「水は答えを知っている」によると、…「愛」「真実」「サンキュー」「ダンケ・シェ−ン」などという言葉を聞かせたり、言葉を書いた紙を水に鎮めたりすると、その水からはキレイな結晶ができる。「バカ」とか「死ね」とか書くと水は汚い結晶になるのだそうです(笑)。さらに、水にビートルズを聞かせるのはよいがヘヴィメタを聞かせると汚い結晶になってしまう…のだそうです(大笑)。そして一番笑ったのは、彼の著書「水からの伝言」(株式会社I.H.M.)にある「ごはんに声かけ実験」ってヤツ。この「ごはんに声かけ実験」とは、炊いたご飯を2つの同じガラス瓶に入れ一方には「ありがとう」、もう一方には「ばかやろう」と言葉にして毎日声かけを、それを1ヵ月観察するというもの。2人の小学生が行なった実験で、1ヵ月継続した結果、「ありがとう」の方は味噌のように発酵状態になり匂いも麹のような芳香で、「ばかやろう」の方は真っ黒で腐敗状態になり匂いもひどい腐敗臭となった…のだそうです。
 炊いたご飯に「ありがとう」って…、お前はアホか、勝手にやってろ…ですね。

 話が脇に逸れましたが、この「波動」実験などを小中学校の教育現場に取り入れる教師がけっこう多い…という話は、かなり怖い状況です。実例を挙げましょう。
 TOSS(Teacher's Organization of Skill Sharing:教育技術法則化運動)は、こちらを読めばわかる通り「全国の多くの教師が、授業・教育にすぐに役立つ教育技術・指導法を開発し、互いに追試・検討しあって自らの授業の技術を高め、集められた教育技術・指導法自体もよりよいものに発展させようと努力する」団体です。一応、けっこうマジメで研究熱心な教師が集まっている団体のようです。
 このTOSSが運営するTOSSランドというサイトでは、上述した江本勝の「水からの伝言」の写真を使った、朝会での話の例が掲載されています。こんな「トンデモ本」が、小学校の「道徳」の講話の題材などに取り上げられたのでは、全くたまりません。声を大にして、「子供を救え!」と言いたいですね。

 オウムについてはいまさら言うまでもありませんが、現在でも「謎の白装束団体」のような怪しげなカルト団体が多数存在し、そうした団体に人生を賭ける若い世代も増えています。小・中学校ではカルトなんて教えずに、まじめに「理科」を教えて欲しいものです。

2003/11/5

 先日、大学生のアルバイトの女の子から、「Wordなどワープロソフトの文字サイズは何故10.5ポイントという半端な数字が標準となっているのか? また10.5ポイント以外は、12とか13など整数しか選択できないのは何故か? また1ポイントは何oなのか? 」…という質問を受けました。古くから出版業界に関わっている私にとっては、10.5ポイントが標準となっているのは自明のことなのですが、若い方はご存じないかもしれません。
 まず、ポイントについてですが、言うまでもなくこれはフォントのサイズを表す単位です。しかし、もともとは活版印刷時代の活字の寸法を表す単位でした。基本的には72ポイント≒1インチですが、ヨーロッパとアメリカでは少し違い、日本はアメリカのポイントを基準にしています。現在わが国のJISで定められているのは、「1ポイント=0.3514o」です。
 さて、「なぜ10.5ポイントが標準となっているのか?」という質問に対しては、日本の印刷が活版印刷からオフセット印刷へと移行した経緯から説明しなくてはなりません。
 日本でポイントという活字の単位が用いられるようになったのは、活字が金属活字から写植文字へと移行したからです。それまでの金属活字の時代には、日本の活字の大きさの単位として「号」が用いられていました。当時は、標準的な活字サイズが「5号」であり、大きい順に初号から8号までありました。
 で、この標準である5号活字の大きさをポイントに換算したのが、「10.5ポイント」なのです。この「5号≒10.5ポイント」が、現在に至るまで日本語の文字サイズの標準となっているわけです。
 私は20代の前半に、ぎりぎりで活版印刷とオフセット印刷が混在している状況を体験しました。当時は、号数目盛りを刻んだ「活字尺(号数尺)」という金属製のスケールがあり、編集者はこれを使って、1ページに入る文字量を計算していました。しかし、編集者が厳密に文字数などを決めるというよりは、基本的には組版を行う職人の熟練技術に支えられていました。例えば、「カーニング」のような文字ピッチの処理は、活字と活字の間に薄い板を挟んでいくことで調節され、こうした職人技術とそれを知っている編集者が、大まかな打ち合わせを下に印刷物の文字組みを決めていたのです。
 それにしても、その後の「DTPシステム」の登場と普及はあまりにも劇的でした。

 話は変わって、中国陜西省西安市で日本人留学生が西北大学の文化祭で演じた「ひわいな寸劇」によって、中国の学生が激しい半日デモを繰り広げました。これに対して「たいしたことではない」「そんなことで半日デモを行う中国の方がどうかしている」…などと論評する向きもあります。確かに、無関係な日本人留学生を襲った中国の学生の行動も行き過ぎです。しかし、日本でやってさえ「下品」なことを、わざわざ留学先の外国で、しかも舞台の上でやる…なんて、この行動にどんな必然性があるのかさっぱりわかりません。学生達の非常識さには、あきれるばかりです。バカ会社の買春旅行で日本人に対するイメージが悪化している…という状況に対する配慮も、全く無かったのでしょう。
 以前トルコの路上で下半身を露出して(肛門にでんでん太鼓を挿して逆立ちして振ったとか…)現地の人たちの激しい怒りを買い警察に逮捕されたお笑い芸人がいましたが、話としては同じです。世俗主義をとっているとはいえイスラム国家であるトルコでそんなことをやって許されると思う方がどうかしています。「相手国の文化を尊重する」などというレベルの話ですらありません。
 まあ、こうした侮蔑的な非常識行動や相手国の文化尊重問題はともかくとして、別の視点で考えて見ましょう。私は比較的海外へ渡航する機会が多いのですが、海外では「身の安全」を第一に考えます。となると、海外での言動については、「自らの安全のためにも」細大の注意を払うべきです。現地の人と摩擦や軋轢を起こすような言動は、慎むのが当然です。そして、そのためには「どんな行動が摩擦を起こすか」について、きちんと知っておくべきです。私の友人の女性は、あるイスラム国家で体の線がはっきりと出るジーンズをはいて歩いていて、地元の住民に捕まりそうになったそうです。中南米で写真を撮られることを嫌がる少数民族にカメラを向けて暴行を受けた日本人もいます。信仰の厚い国であるタイで、何気なく子供の頭を撫でたら親が怒り出して危険な状況になった(子供の頭には精霊や仏が宿っていると信じられている)…という話も聞きます。
 「相手が不愉快に思うことはやらない」→「それによって不要な摩擦を避けて自らを守る」…海外生活の基本だと思います。中国へ留学する…ということを自ら望みながら、中国での言動に気を使わない今回の留学生は、やっぱりバカですね。

 ところで、「相手が不愉快に思うこと」で思い出しましたが、相変わらず「バカチョンカメラ」と言う言葉がネットに溢れています。私は、バカチョンカメラの語源を調べた上で、こちらに「使うべきではない」と書いたのですが、「差別語ではないのなら使ってもよいはず」という意見をわざわざメールでくれた人もいます。しかし、バカチョンという言葉を使わない理由は「差別語であるかどうか」とは無関係です。相手が不愉快とおもうかどうか…その点だけが問題なのです。
 実際にバカチョンカメラという言葉について、一般の韓国人はどのように思っているかについては、こちらを読むと(OCN翻訳サービスで翻訳できます)よくわかるでしょう。はっきりと「バカでも朝鮮人でも使えるカメラ」…の意味だと考えているようです。韓国・北朝鮮の人がこう考えている以上、差別語であろうとなかろうと、わざわざ使う理由はありません。
 そういえば、昨日国連総会の本会議で4日、北朝鮮の国連代表部次席大使が日本を3回に渡って「ジャップ」呼ばわりする…という事件がありました。日本が3日の国連総会での討議で北朝鮮の正式国名である「朝鮮民主主義人民共和国」や、英語の略称である「DPRK」を使わず「北朝鮮」と呼んだことに対する「報復」だそうですが…どちらも大人気ない話です。

 今日の画像は、池袋の西口駅前近くの歩道に立つ「ふくろう」の石像です(D505iで撮影)。
 池袋では、10年ちょっと前に地下街の北口通路に「いけふくろう」というふくろうの石像が出来て以降、ふくろうを街のシンボルに…と考えているようです。以前も書いたように、「池袋」から「ふくろう」を連想させる貧困な発想は笑えますが、既に地下街のあちこちにふくろうの像が増殖し、通路の壁や天井部分など合わせて数十箇所にふくろうの像が設置されています。最近では、「あ、ここにもあった」と新しいふくろうを見つけるのが、楽しみであったりもします。
 そうした数多くのふくろうの中でこの像は新参者で、ごく最近、この場所に立っていることに気が付きました。

2003/11/4

 実は、…ってたいした話じゃないのですが、2年ほど前から私のオフィス(会社)が、契約上の問題で民事裁判で訴えられていました。ソフトウェア開発に関係することで、高額の損害賠償を請求されたのです。当社にすれば、非常に理不尽かつ不当な訴えを起こされたもので、原告の弁護士から打診された和解の申し出は当然蹴りました。その結果、数ヶ月に一度のペースで何度も予審を行って双方の主張を整理する…ということが行われ、その度にスタッフが裁判所に出向くことになりました。この予審に約2年間かかりました。結果として、つい最近、本審理に入る前に敗訴を自覚した原告が訴訟を取り下げる…という当然の形で終わりました。しかし、高額の弁護士費用の支払いが生じた上、資料作成やスタッフの出廷など非常に手間がかかり、かなりのダメージを受けました。
 それにしても裁判というのは理不尽です。お金のある大企業は、個人や小さい企業相手に高額の損害賠償訴訟等を起こすことで、簡単に相手を「脅す」ことが可能です。民事裁判における弁護士報酬は、請求額の○○%という形で決まりますから、普通の人は裁判に対応することはできません。また小企業や個人の場合、何度も出廷する時間と費用にも耐えられません。結局、お金も時間も無い人間は裁判に負ける…ことになってしまいます。民事訴訟には、国選弁護なんて制度は役に立ちません。

 ところで、何年にも渡る裁判を経験して思ったのは、「法律」というのは実に曖昧に出来ている…ということです。
 法律は、それを適用するにあたって「解釈」が大きな意味を持ちます。ある行為が違法かどうかを複数の弁護士に問い合わせると、異なる回答が返ってくることは多いですよね。でも、よくよく考えてみると、法律の条項というのは「解釈」の余地がある時点で「文章に欠陥がある」のではないか…とも思います。
 厳密に適用範囲と適用方法を決めておけば、かなりの範囲で「裁判官」などという専門家なしでも判決を下すことができます。もし「情状酌量」なんてものが必要なのであれば、それも想定されるあらゆるケースを適用事例に入れておけばよいと思います。いや、こんな法律を作ったら、「バカみたいに膨大なものになる」かもしれません。でも、それはそれで構わないと思います。全法律の条項が合わせて何百万ページ相当になろうと、現代ではテラバイト単位のデータベースを自在に検索できるだけのコンピュータが存在するじゃありませんか。

 法学部の方や法律家の方には申し訳ないのですが、私は「法学」という学問がなぜ必要なのか、本質的によく理解できない部分があります。古今東西の法律とそれが成立するに至った社会背景を研究する「法歴史学」のような学問なら、なんとなく存在意味はあるでしょう。でも、ぶっちゃけた話、法学とは概ね「解釈」の学問ですよね。しかし、「解釈の余地の無い法律」があれば、法学なんて不要なはずです。というよりも、「法律」とは本来「解釈の余地があってはいけないもの」だと思うのですが…。

 むろん、人間の営みや社会形態は時代や社会状況と共に変化します。例えば、インターネット上の犯罪や、環境問題、著作権問題など、新しい問題が次々に出てきます。判例がないケースにおいては、「解釈作業」も必要になるでしょうし、そうした「新しいもの」は永久に出続けることは確実です。だから、法律の解釈が不要になる…ということは永久になくならないかもしれません。しかし、「解釈しなければならないシチュエーションを大幅に減らす」ことは出来るはずです。六法を見ていると、各法律の条項・文言の判りにくいことったら、ありません。よくこんなバカバカしくも判りにくい文章を放っておくものだと感心する次第です。
 法律を「完璧に近づける」努力がなぜなされないのか不思議です。法律の条項・文言は、それを適用される側の人間が誰でも近い出来るようになっているべきです。国は全法律の文章をさっさと直せよ…と言いたい。さらに、時代の変遷とともに次々と内容を変えていけばよいのです。そのためにこそ、国には「立法機関」があるのですから。高い給料もらっている国会議員も法務省も、もっと働けよ!

 こうした視点でみると、「護憲vs改憲」という憲法論議は虚しいですよね。日本国憲法には、改憲の方法が明示されています。「護憲」ということは、「改憲も認める」ことと同義です。第96条によれば、各議院の総議員の2/3以上の賛成で国会がこれを発議し、国民にその案を示して国民投票で国民(有権者)の有効投票の過半数の賛成を得れば憲法を変えられる…とあるのですから、時代に合った形に変えていくのは当然でしょう。
 その意味で私は立派な改憲論者です。でも、改憲論者ではありますが、別に徴兵を制度化しろとか、大日本帝国憲法(明治憲法)を範にして軍国・愛国色の強い憲法に変えろ…と言っているわけじゃありません。

 いや、今日もなんか支離滅裂の話を書いてます…

 ところで本日、悩んでいた「めまい」について総合的な検査結果が出ました。結局めまいの原因は「過労以外に考えられない」…とのことです。この結果には、納得できません。時間を見て別の病院に行きます。何としても原因を突き止めるつもりです。
 そして、さらに災難が続きます。先週、左足首をひねって「軽い捻挫」をしました。翌日はひどく痛かったのですが、その後は徐々によくなっているように思いました。ところが、今日になってまた足首がかなり痛いのです。明日、整形外科に行った方がよいかもしれません。
 私は、完全に厄年です。

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