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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/10/31

 新聞に掲載されていた衆院選候補者の公約などをパラパラと見ていると、意味不明のものが多いですね。中でも教育問題について触れている候補者は非常に多いのですが、その多くは言いたいことがよくわかりません。
 教育問題に関する候補者の主張でよく見かけるのは、「国際化に対応するために英語教育の早期化を」とか「日本の心を大切にする教育の必要性」…あたりでしょうか。それにしても、どちらもよく判らない主張です。

 まず「国際性を高めるために英語教育の充実を…」なんて言っても、いくら英語ができても、それ以前に日本語で何かを主張できるだけの背景知識がなければ無意味です。国際性とか国際化(これらの言葉自体が意味不明瞭です)のベースとなるのは、とりあえず世界情勢や各国の歴史や文化に対する正しい知識と認識でしょう。これを、きちんと教育することの方が先決です。最近は若い世代に著しくこうした知識やセンスが欠如しているだけでなく、某知事の発言を見るまでもなく大人ですらアジアの周辺国に関するまともな歴史知識がなく文化背景も知らない。ともかく、「国際性」なんてことをマジメに考えるのなら、英語教育の早期化以前に教育現場でやるべきことは多いはずです。英語で主張できる人間を育てる…より、とりあえずは日本語できちんと主張できる人間を育てよ…ですね。
 考えてみれば、一部の大学だって「国際関係学科」なんて名称の学部をやたらと新設し、授業目的はといえばと言えば、「TOEICやTOEFLで○○点を目指す」…といったレベルのケースが多いですよね。アホらしい。
 また、私の個人的な体験によれば、英会話…なんてのは小学生のうちからやるなんてほとんど無意味。10代の終わり頃にほんの半年ほど真剣に学ぶか、英語環境に身を置けば、誰でも一通り会話できるようになります。

 日本の心を大切にする…という曖昧な文脈の意味もよく判りません。「日本の心」って、具体的にどんな心を指すんでしょうか。「愛国心」を指すのなら、それは日本に限らず、たいていの国の国民が持っているものです。「日本の文化への深い理解」を指すのならば、「日本の文化」に対する定義が必要です。私には「日本の文化」の定義がイマイチよくわかりません。私は日本食が大好きで愛していますが(ピーマンとニンジンは嫌いです)、それでよいのでしょうか。誰か具体的に教えてください。

2003/10/30

 書籍の全文検索サービスについて、先にamazonが実施を発表し、昨日googleも実施を発表しました。「インターネット上で書籍の全文検索ができる」…、私にとっては待ちに待ったサービスです。
 それにしてもこうした世の中にあって、ずいぶん古くから議論されているわが国の電子図書館構想が遅々として進まないのは、頂けません。少なくとも、国会図書館だけでも、ただちに既存の書籍・雑誌データの全文データベース化とネット検索サービスを早急に開始すべきです。国会図書館を利用した経験がある方ならおわかりだと思いますが、あそこで資料を探して読むまでにかかる手間といったら、もう頭にくるくらい面倒です。国民が共有可能な知的財産としての国会図書館は、「誰でも簡単に利用できる」ものでなくては、意味がありません。
 電子図書館構想の話の中では、電子図書館用の新しい構造化言語を開発する、検索可能な画像フォーマットとテキストの共存…など、様々な試みがなされていますが、とりあえずそんな議論はどうでもよろしい…、っていうか、こうした体系化は重要ですが、後からゆっくりとやって下さい。
 現時点で、DTPシステム普及期以降の出版物は、全て版元にデジタルデータとして存在するはず。ビジュアルデータだって、とりあえずはJPEGでもPNGでもTIFFでも何でもよろしい。とりあえず、雑誌・単行本を含めて既にデジタルデータ化されているものだけをデータベース化するのに、何をグチャグチャ議論する必要があるのでしょうか? コンピュータの能力もデータベース技術や検索技術も、現行のもので十分です。国会図書館は、今日からでもすぐに全収蔵図書・雑誌・資料のデータベース化と公開へ向けての作業を始めて頂きたいものです。
 むろん、活版、写植時代の出版物を全てデジタルデータ化するには、膨大な手間と時間が掛かります。また、後述するように文字コードで表記しきれない文字がたくさん存在します。PDFのようなデータ形式は使いにくいし、この辺りの問題はとりあえず先送りしましょう。そんなことより、DTPシステムが広く普及し始めたのは、1980年代終わり頃です。少なくとも20年分に近い出版物がデータとして存在するわけです。少なくとも、こうしたデータとして存在する出版物は、即データベースにできるはずです。これだけでもゆうに数百万点にはなるはずで、それを先に公開すればよいのです。新たにデータ化しなければならない図書や資料は、ゆっくりとデータ化作業をやって下さい。

 電子図書館構想には、巷間言われるもう1つの大きな問題があります。現在、コンピュータのコードとして用意されている範囲では過去から現在までの全ての日本語を表示すためには、文字が足りないのです。これをもって、現行の文字コードでの電子図書館構想は文化の破壊…などと主張する人もいます。まあ、確かに現行の文字コードが日本の文字文化を表現するのに適していないことは確かですが、それにしても作家やライターがワープロ専用機やワープロソフトを使い始めてもう20年以上になります。少なくとも、自ら「文字コード」の範囲で書くことを選択した作家やライターの作品だけでも、公開すればよろしい。それに「青空文庫」レベルのデータ化なら、文字コード外の表記が使われている文学作品だって、その大半はデータ化することに問題ありません。
 たかが文字コードの問題ぐらいで「日本文化の滅亡」などと大騒ぎをする人間も見かけますが、文化なんて様々な要因で変化していくものです。例えば万葉仮名で書かれた作品は歴史的な資料としては重要ですが、21世紀になって誰もがその表記法を知っている必要はないものです。文字コード上の著しい問題がある古典作品などは、とりあえず「スキャンして画像データにして公開する」…こんな処理でいいんじゃないでしょうか…

2003/10/29

 毎日忙しく仕事をやりながら、年に数回は海外旅行に出掛け、たまに空いた週末にはクルマで日帰り旅行などをし、時には女の子と遊び、時には友人と飲み、日々本を読み、好きな音楽を聴き、デジカメを始めとするデジタルガジェットをたくさん購入して…、という具合に、退屈することのない毎日が過ぎて行きます。
 人並みに人間関係の悩みや仕事上のトラブルなどもありますが、過ぎてしまえばパッと忘れるし、先のことをクヨクヨと思い悩んでも仕方が無い…という能天気な性格も幸いして、概ね大きな悩みは無し。将来のことを考えて貯金をするわけでもなく、移動の自由を確保したいがために自宅も賃貸マンションのまま。でも、先のことなんか心配してはいません。ここのところ体調がちょっと優れない点を除けば、大きな不満も不安も無い、ある意味で満足すべき人生を過ごしています。
 かつて結婚して子供が出来た時には、「子供の人生をコントロールして遊ぼう」なんて不届きなことを考えたりもしましたが、その子供も今春大学に入学し、しかも親の意に反して(一度も子供の進路に口を出したことはないですが…)国立大学の医学部なんて道を選んだ時点で、もうクソ面白くない感じ。医学部なんて一種の職業訓練学校、将来の選択肢が少ないのでつまらないと思ってました。もう、子供は完全に赤の他人です。

 こんな風に過ぎ行く人生に、漠然とした「つまらなさ」を感じ始めているのは事実。若い頃から外的要因で自分の人生が変化することを極力拒否して、他人の迷惑を顧みずに好きな人生を送ってきたにもかかわらず、ここのところ「外部から何かが変化が起きる」ことを密かに願っている自分を発見し、かなりショックです。これは一種の「男の更年期障害」かもしれません。それとも、「ヤキが回った」のかも。
 ある日突然、オフィスの窓から見える東京タワーにモスラがとまっているとか、南極大陸からペギラが飛んできて東京が氷河期になるとか(古い!)…、そんな夢みたいなことが起きるのを期待したりもします。むろん、人間がたくさん命を落とすような災害などは無い方がいいに決まっているけれど、それでも「富士山から水蒸気、噴火する予兆か?…」なんていうニュースを聞くと、ちょっとワクワクする自分がいます。
 そして、最近心の底で願っているのが「自分が大きなトラブルを起こすこと」。何だか、そのうちに自分の行動に歯止めが利かなくなるような感じがして、危険な領域に入りつつあります。

 さて、衆院選が公示されたとたん、選挙カーがうるさくて仕事になりません。その上、オフィスの入っているビルの真向かいに候補者の事務所が開設され、歩道で頻繁に街頭演説をやっている。うるさ過ぎます。バカやろう!
 ともかく選挙カーが不愉快。公道をクルマで走りながら大音量のスピーカーでガナリたてるんだから、これはもう右翼の街宣車と全く同じ。第一、走行しながらじゃマトモな演説なんかできるわけがない。大半が無意味な候補者名や政党名の連呼です。もう絶対に、大音量のスピーカーで叫びながら車で走る…というバカげた選挙運動を法律で禁止すべき。街頭演説に関しては所定場所のみとし、あとは政見放送とマニフェスト配布、新聞折込、Webサイト…そんなところで十分でしょ。

 暴走族グループから抜けようとした少年を暴行して死なせたとして傷害致死罪に問われた3少年に対して「犬のうんこでも肥料として使われる。暴走族はリサイクルもできない産業廃棄物以下だ」と話した水戸家裁下妻支部裁判官、案の定、非難する声よりも「よく言った、その通り!」の声の方が多いですね。しかし、平然とリンチ殺人をする少年を「人間以下」だと思ったとしても、裁判官が口にする言葉じゃないことは確か。それを言っちゃあ、2ちゃんねるの書き込みと同じです。裁判官までがひどいレベル低下で、この国はもうどうなることやら…

 今日は(今日も)、実につまらない日記を書きました。

2003/10/27

 私は外食に関しては非常に保守的…って話は以前もかいたことがあると思います。保守的っていうのはつまり、「初めての店に1人で入れない」ってことです。美味しいのか不味いのかわからない店には、入ってみる気がしない。理由の一つには、もし不味かったら「一食分がもったいない」という気持ちがあるのです。短い人生の中の1食、できれば1食たりとも無駄にしたくないわけで、そうなるとあらかじめ「過去に食べたことがあって美味しいとわかっている店」に行った方が無難です。それともう一つ、システムがわからない店には行きたくない…というのもあります。最近はファーストフード系の店やセルフサービス系の店も多く、先に食券を買うのかどうか…とか、トッピングはカウンターで注文するのか…など、どうやってオーダーしてどこで食べていいのか、初めてだとわからないことが多い。それが嫌なんです。テーブルに就くと誰かがオーダーをとりにくる…という、古典的なスタイルの店は安心なんですが、自分で何かをする…というのが何となく苦手で面倒です。
 古い話になりますが、25年ほど前に吉野家が出来た時も、食べたいのにずっと食べられなくて、私が初めて吉野家で牛丼を食べたのは、都内のあちこちに吉野家が出来てから10年以上経ってからでした。そういえば、回転寿司が初めて出来た時にも、ずっと後になって友人に連れて行ってもらうまでは食べられませんでした。立ち食い蕎麦だって、学生時代には入ったことがありません。食べ方がわからなかったのです。サンドイッチ屋のサブウェイは、たまたまアメリカで先に入ったことがあったからよかったんですが、それでも注文の仕方が複雑で嫌ですね。

 そんな私にとって、最近の池袋西口のランチ事情は厳しいものになりつつあります。つまり、古くからのお店がつぶれて、次々と新しいスタイルのお店が開店しているのです。それも、なんとなく入りにくいお店ばかり。今年の春以降を見ても、西口の丸井の1Fにはオシャレなアメリカンスタイルのデリが開店したし、その向かいには、グレートインディアっていうガラス張りのカウンターだけのカレー屋もできました。立教通りには、海鮮丼物系のファーストフードが出来たと思ったらすぐにツブれて、その後にはイタトマのカフェが開店しました。その隣は、1年半ほど前に回転した「メシ屋丼」なるファーストフード店だし、その向かい側は、やたらメニューの種類が多いカウンター形式のおしゃれなパスタ屋です。オフィスから要町方面に歩くと、1年ほど前に居酒屋がつぶれた跡に安い定食屋が開店し、一度も行かないうちに先月にはピザ屋になりました。むろん行ってません。
 ラーメン屋に至っては、毎月のように新しいお店が開店します。先週も、近所に「ぶぅラーメン」なるお店が開店しました。ラーメン屋って、どの店も食べ方や注文の仕方のシステムが微妙に違いますね。まあ初めてのお店に入ったら、そのお店のシステムがわからないのが当たり前なので、客の側が遠慮することはないのは承知しています。しかし、と私はシステムがわからないことが原因で、お店とトラブルを起こすことが時々あります。
 例えば、以前ある有名ラーメン店に入って、食券を売る券売機に気が付かずに壁のメニューを見てラーメンを注文したら、聴こえているはずの店員が何も答えないんです。もう一度はっきりと注文したら、「うちは食券です」…と無愛想な声でボソボソと答えるので、私はアタマに来ました。最初に注文した時に、丁寧に「券売機で食券をお買い求め下さい」と言えば済むところを、「うちのシステムを知らないオマエが悪い」…という態度で接されたのです。私はその店員に「アホか」とつぶやいて、お店を出てきちゃいました。

 そんわけで、私は新しくできるお店が嫌いです。最近は、ランチタイムに悩むことが多いのです。
 なんとも見苦しい、オジサンの繰言でした。

2003/10/23

 教師の不祥事が相次いでいます。エロ教師やら暴力教師やらが次々に現れ、あげくに「アメリカ人の血が混ざっている」という理由で児童をリンチにかける狂人としか言いようのない教師や、自分の学校の児童をレイプしようとした小学校教師までもが登場しました。こうした教師の多くが刑務所にも行かずクビにもならず、公務員特有の「かばい合い」で身分保障されている…という現状は、もう末期的です。
 文科省側も「ゆとり教育」の結果子供の学力が落ちている…となったとたんに、今度は詰め込み教育を再開するなど、方針が大きくブレています。しかし、どんなよい教科書を作ろうと、どんな素晴らしいカリキュラムを作ろうと、教師の質が低ければ無意味です。教師を教育する仕組み、そして適切に淘汰する仕組みを早急に作る必要がありますね。

 私は教育改革なんて難しいことは、よくわかりません。また、どうしたらこの国の教育水準が上がるのかもわかりません。ただ一つだけ言いたいのは、教育分野には膨大な国家予算が投入されており、税金を使ってアホな教師が食っている現状、学ぶ意思の無いアホな生徒や学生が無駄な教育を受けている現状は、1人の納税者として非常に不愉快です。

 現在のわが国の教育は、専門学校や各種学校を除くと、大きく小学校・中学校の義務教育と高校・大学の高等教育に分かれます。教育権と就学義務については諸説がありますが、基本的には日本国民は憲法で規定された「誰もが教育を受ける権利」に基づく義務教育の機会が「義務教育期間」として与えられています。この義務教育の現状に関しては不満も多いですが、とりあえず現行の枠組みをベースに改善していけばよいことでしょう。
 しかし、高等教育は社会発展のための最大のインフラである「人材」を育てることが目的でもあり、そのために国家は高等教育にも膨大な税金を投入しています。義務教育段階で全ての国民に一定レベルの教育を施すことは国家にとって重要なことではありますが、高等教育は「優秀な(勉強に向いた知能と意欲を持つ)人間」に対してのみ、行うべきものです。この高等教育の場に、「学ぶ意欲と能力のない生徒や学生」が多数存在すること自体がヘンであり、そういった連中に税金を注ぎ込むことは即刻やめればよいだけです。  やり方は実に簡単です。あくまで便宜上「偏差値」という言葉を使って言えば、例えば国公立・私立を問わず偏差値が60以下の高校・大学は、国公立は全て無くし(概ね上位10%を残せば十分だと考えます)、私立学校への補助金は完全に撤廃するのです。残った1割程度の高校・大学に対して現在の全高校・大学に与えられている補助金の全てを注ぎ込み、学費無料で高等教育を行えばよいのです。条件として、AO入試だの推薦入試だのを全てやめて、厳しい選考試験を通った人間だけが入学できるシステムにすればよいのです。学力だけで選抜することに対する異論もあるでしょうが、バカげた話です。一定の学力水準を満たすことを前提に、人間性も選抜基準にすればよいだけです。心配しなくとも高校・大学の数が現在の1/10程度になれば、学力が高くて人間性も優れている…という生徒だけを選ぶことは、十分に可能でしょう。そして入学後も、勉強をしない人間は退学処分にするだけの話です。
 上位10%の学校を残す…というのは、妥当なところだと思います。高等教育はそれを理解できる人間が受ければよいわけです。おそらくかなりの幅で差がある人間の学習能力、記憶力、判断能力などの資質において、上位10%程度が懸命に勉強して理解可能な水準が、「高等教育」と呼んでも差し支えない範囲だと思います。

 誰でも教育を受ける権利はありますが、それを具現化したのが義務教育です。それよりも上の段階の教育は「優秀な(勉強に向いた知能と意欲を持つ)人間」に限定しても、別に「教育の機会」を奪うことにはなりません。高等教育を受けたい人は誰でも頑張って勉強すればよいだけのことですから…。
 「勉強が出来ない子供が勉強の出来る子供に劣等感や疎外感を抱く」という危惧も不要です、「勉強には向き不向きがあるし、持って生まれた能力の差もある。学力が無いということは劣等感を抱くようなことではない」…という、当たり前の「平等」を教えるのが、教育現場の、そして社会全体の役割であるはず。勉強の優秀さだけが人間の優劣を決めるのではない…というごく当然の真理を、社会全体のコンセンサスにすればよいだけのことですから。

2003/10/23

 ここ数日、米ブッシュ政権の中枢を担うネオコン連中のトンデモ発言が、アメリカのマスコミを賑わしています。ボイキン国防副次官(陸軍中将)が「神がブッシュ大統領を任命した」などと、イスラム教との宗教対立をあおるかのような発言をした…という問題で、野党・民主党やイスラム系団体が強く反発し、ラムズフェルド国防長官は21日の記者会見で、ボイキン国防副次官の発言について国防総省内で調査する方針を明らかにしました。
 まあ、発言内容自体は「またか…」という感じだし、基本的に同じ考えであろうラムズフェルドが調査すると言ったって、どうなる問題でもないと思います。ただ、たまたま一緒にこのニュースを見ていた同居人が、「キリスト教やイスラム教は戦闘的だけれど、日本は仏教と神道の国だから平和的だよね…」という主旨の感想を話していたことの方が気になりました。

 十字軍の例を見るまでもなくキリスト教が戦闘的・征服的な宗教である点は、誰もが知るところです。イスラム教は、キリスト教と比較すると異教徒や異文化に対する受容性がはるかに高い宗教ではありますが、マホメットが戦いの連続の中でイスラム教を広めていった歴史的経緯は事実です。ちなみに「左手にコーラン、右手に剣」と言う言葉は、後世にアラブを恐れた欧州人が作ったものです。
 さて、いずれにしてもキリスト教やユダヤ教、そしてイスラム教などに較べて、「仏教=平和的」というイメージは、かなり多くの人が持っていることでしょう。しかし私は、仏教はけっして平和的な宗教ではない…と思います。

 まず、日本の近世における仏教と戦争の関わりについては、寺内大吉著「化城の昭和史 上・下」という本に面白い事実が示されています。この本は「昭和ファシズムと日蓮思想」の関連を掘り下げた本です。石原莞爾はよく知られる熱烈な日蓮主義者でした。石原は田中智学の国柱会に接近するなかでしだいに法華信仰を持ったのです。前大蔵大臣の井上準之助や団琢磨が襲われた血盟団事件、その首謀者である井上日召も激烈な日蓮主義者でした。北一輝もまた、熱烈に法華経を信奉していたことが知られています。いずれにしても、日蓮主義、法華経思想は、大東亜共栄圏構想の理論的な支柱となった部分があります。
 代表的な禅宗の宗派である曹洞宗も、明治以降、幾多の戦争に協力してきた宗派です。曹洞宗は日露戦争時に僧侶による従軍布教を行って以来、戦争に協力というよりも、戦争の先頭に立ってきました。まず、太平洋戦争開戦前に「曹洞宗報国会」を結成し、戦時教団体制を確立しました。戦局の悪化に伴って活動を活発化させ、昭和18年7月には僧侶による勤労奉仕動員組織として勤労報国隊の常時組織を結成、さらに昭和19年には曹洞宗尼僧護国団を結成します。これは、軍事援護事業や銃後の家庭教化を主たる任務とする尼僧の戦時動員専門組織です。昭和20年1月には、曹洞宗戦時報国常会となりました。そのスローガンには「興聖護国」「尽忠報国」「生死一如」「戦力増強」が挙げられ、細則には「禅ノ精神力」「無我特攻精神」まで登場します。これはもう宗教が説く言葉とは思えず、軍部のスローガンと全く同じです。
 日本国内では屈指の大教団である浄土真宗も、明確な戦争協力を行いました。昭和16年、太平洋戦争に突入するにあたり、「本願寺新報」(本願寺の機関誌)では、教団挙げて臨戦態勢の強化を強調する記事を掲載。仏具供出、戦時布教、戦時教学、その後兵器献納、日曜学校における献金運動、宗教戦士として各地に出兵しました。「皇国の宗教としての浄土真宗」と自ら名乗り、聖戦の名のもと、国家の戦争遂行に積極的に協力したのです。昭和17年に出された「佛教讀本」では、大東亜共栄圏内の仏教流伝の跡や、大東亜戦下に於ける日本仏教徒の使命を強調しています。
 太平洋戦争の遂行に協力した仏教宗派は、これらだけではありません。まあ、不受不施派の流れを汲む「死なう団」などが戦争に反対した特殊なケースが散見されるだけで、仏教宗派の大半はこぞって戦争に協力しています。
 また、こうした現代史にとどまらず、戦国時代の一向一揆の例や石山本願寺の軍事的独立、根来寺の鉄砲軍団などの例を見るまでもなく、わが国では古くから軍事プレゼンスを実行した仏教集団がたくさんあります。

 洋の東西を分けた時、東洋的思想=和の思想、西洋的思想=戦いの思想…という分け方をする人もいます。この東洋的思想なる言葉の裏側には、仏教的な考え方の存在をイメージすることが多いようです。しかし、仏教徒=平和的ではない点は、日本だけではなくアジアの他の仏教国の歴史を見ても明らかですし、ましてや「西洋が好戦的で東洋が平和的」なんて与太話は、アジア内部における各国の戦争と侵略の歴史を見れば明らかに誤ったものです。

 宗教の大半は、普段は「平和」を説いているにも関わらず、いざ戦時になると戦争に協力するばかりか、戦争の先頭に立つことも多い。さらには、宗教の名の下に戦争を命じることもあるのだから、非常に恐ろしいことです。平和を説く宗教なんてのは、胡散臭くて信用できません。
 それにしても宗教が戦争に協力する…に留まらず、時として「教義としての戦争」「教義としての殺人」を説く事があるというのは、恐ろしいことです。要するに「神の名による殺人命令・戦争命令」が下されることがあります。今回の米国のボイキン国防副次官の発言は、まさにそれを言っているのに近いですね。そんなことを考えていたら、こんなページを見つけました。同じようなことを考えている方はいるものです。

 筆者に断わりなく勝手に引用させて頂きますが、筆者は宗教殺人の本質について、次のように言っています。
 「…信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の人間的浅はかな判断やおのれの小賢しい知恵を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると言えます…」
 いや、まったくもってその通りです。宗教は、時として「人間の持つ理性」を狂わせます。だから私は、やっぱり宗教は嫌いです。例え何教であろうとも…

2003/10/21

 サントリー角瓶のコマーシャルで、ザ・バンドの名曲「The Weight」が流れています。部屋で何かをしている時にTVから突然この曲が流れてくると、ハッとしてTVを見ちゃいます。それほど私は、The Weightという曲が好きです。でも、CM自体は全然つまらない。のっぺりした布袋寅泰の顔は、The Weightと言う曲には全く合わない…ですね。
 1976年、伝説のコンサート「The Last Waltz」を最後に、ザ・バンドはロビー・ロバートソン以外のメンバーにとっては不本意な解散をしました。1983年にはロビー・ロバートソン抜きで再結成されたものの、1986年にはリチャード・マニュエルが43歳で自殺、その後再度活動しましたが1999年にはリック・ダンコが56歳で死去し、名実ともにザ・バンドは終わりを告げました。思えば最初にザ・バンドの名前を知ったのはディランのアルバムです。Bob Dylan & The Band「Planet Waves」は、最高でした。このアルバムでバンドのサウンドを知ってすぐに、アルバム「Music From Big Pink」を購入し、以後は熱烈なファンというわけではないけれど、ずっと気にしてきたバンドです。そういえば「Planet Waves」に入っている名曲「Forever Young」は、The Last Waltzでディランが歌っていましたね。ずっとLDで見ていたThe Last Waltzを最近DVDで買い直し、またしてもちょくちょく見る機会が増えています。

 The Weightは、言うまでもなくロビー・ロバートソンが作詩・作曲した曲です。私がバイク好きになったきっかけの1つでもある映画「イージーライダー」では、メインテーマに使われたステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」があまりにも有名ですが、効果的に挿入されていたThe Weightは、より印象に残っています。その後念願叶ってアメリカをバイクで走る機会があった時には、思わずThe Weightを口ずさんだものです。

 思わぬ時にふとTVから聴こえてくるThe Weightという曲が思い起こさせるものは、私にとっては「青春」そのものです。映画イージーライダーなどアメリカン・ニューシネマにあこがれた時代でもあり、自身にいろいろなことがあった不思議な1970年代でもあります。考えてみれば、Last Waltzというコンサート が行われた1976年は、よく知られる通りイーグルスのホテル・カリフォルニアが発売された年でもあり、よき時代のロックが消えていき、代わって産業ロック全盛へのきっかけになった年です。この時代を境に、私の人生は思わぬ方向に流されていきました。

 青春なんて言葉は、本音を言えば嫌いで口にしたくはありません。私は20代の頃と較べて、「年をとった現在はつまらない」などとは一度も思ったことはありませんが、それでも頭で考える前に行動に走ることができるだけの体力があった…という1点において、現在とは全く異なる時代です。こうした時代を表現するのに、「青春」以外に適当な言葉を思いつかないのも事実です。そういえば、よく「生涯青春」などとアホなことを言う年寄りがいますが、そんな「気持ちだけ青春」なんて話は絶対にウソです。やはり10代の終わりから20代中ごろまでの、あの輝かしくもバカバカしい時代はもう絶対に帰って来ません。

2003/10/20

 話題の新刊書籍「健康帝国ナチス」(ロバート・N・プロクター 著 草思社)を読了しました。実に面白い本です。各所に書評が掲載されているのでここであらためて詳しい内容には触れませんが、ファシズム国家ナチスがユダヤ人やロマに対する絶滅政策を実行する一方で、自国のゲルマン民族に限った病的なまでの「健康国家」を目指したことは、よく知られています。先日逝去した映像作家レニ・リーフェンシュタールが撮ったベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」には、「健康な人間の肉体美」がこれでもかとばかりに描かれています。
 ヒトラー率いるナチス政府は、全国民を対象にした集団検診制度を作り、ガン研究のための研究所が設立され、タバコと肺ガンの疫学的関係も研究されました。現代の先進国で行われている公害対策、環境研究、健康維持などの政策が、ゲンダイの先進国以上の徹底さで行われました。その結果、アスベストを排除し、徹底的な禁煙運動を推進し、予防医学のための患者登録制度も行われることになったのです。
 このナチスの病的とも言える「健康志向」に、アメリカや日本などの現代の国家と市民の姿を重ね合わせて見る人は、少なくないはず。とりわけ、日米や西欧諸国の市民の一部に顕著に見られる健康原理主義や環境原理主義との類似性は、かなりのものです。
 昨今の禁煙・嫌煙運動などはその最たるものであり、数学者のピーター・フランクルが、「自分は喫煙者ではないが、国家の制度として禁煙を進め、喫煙者狩りを行う日本は気持ちが悪い」というように、私も自治体による禁煙条例の拡大には、生理的な嫌悪感、不安感を感じます。むろん、ナチスが熱心な禁煙運動を進めていたからといって「禁煙運動=ファシズム」なんて短絡的に考えているわけではないので、誤解のないよう…
 しかし、「他人に迷惑をかけるから」とか「子供健康と将来のために」なんて言葉は、反論を許さない絶対的な響きを持っていて、ある意味で「怖い言葉」でもあります。他人に迷惑をかけるもの、子供の将来によくないものはすべて社会から排除する…という考え方自体、私の趣味には合いません。加えて、「自分が健康であり続けたいかどうか…」を決めることは、個人の絶対的な権利でもあります。人間には「不健康に生きる自由」もある…などと、あらためて思う今日この頃です。

 「環境原理運動」なんて言葉で思い出しましたが、私の友人の細君で「絶対に有機農法で作られた無農薬野菜しか食べない」という女性がいます。彼女が言うには、「自分の健康だけでなく、子供の将来のためにも土壌を汚染する農薬の使用は絶対やめるべきだ」とのことです。
 しかし、農薬の問題はそれほど単純ではありません。まず第一に「有機農法」は化学肥料とは別の土壌汚染を引き起こします。最近、大規模な有機農法を行っている畑の近くで硝酸性・亜硝酸性窒素による地下水汚染が頻発しています。環境省によると01年度の調査では、環境基準を超過した全国の井戸2330件のうち、硝酸性・亜硝酸性窒素の事例が865件あり、その原因として分かった事例のうち最も多かったのは有機肥料だそうです。有機農法は、環境汚染の原因でもあるわけです。
 さらに、世界的に人口が増大する中、農薬無しでは全人類の生命を維持するだけの食料を収穫することはできません。現在、地球の人口は約60億人で、毎年8千万人ずつ増えています。現在のペースで人口増加が進めば、2017年の人口は80億人になることが予想されている。一方、病害虫や雑草などにより、現実には農作物はどれだけの率で損失しているのか、世界のスケールで金額で推定した例を見ると、地域(大陸)によって多少の違いがありますがが、世界の平均損失率は33.8%となっています。日本でも、「無農薬区」と農薬を使う「防除区」を、他は同じ条件で設定して作物を栽培、収穫し、品質まで比較した大規模な試験が行われました。1991〜1992年にわたって社団法人日本植物防疫協会が中心となり、全国22都道府県、69ヶ所の関係機関(試験場や農業大学校など)の協力で行った調査によれば、対象作物は12種類の平均で「無農薬区」の収穫量は「防除区」の平均50%以下に留まりました。
 要するに、限られた耕地面積しかないこの地球上で、先進国の一部が非効率な「無農薬農法」「有機農法」を進めて行けば、それだけ第三世界で餓死者が増える…という寸法です。だからと言って、全ての農業は農薬を使え…とか、遺伝子組み換え作物に大賛成…などと言っているわけではありませんが、よくある有機野菜や無農薬野菜を無条件で絶賛する主婦中心の市民団体などは、そうした世界最貧国の現状や世界的な食糧収穫の動向などにも正しく目を向けて、多面的に判断して欲しいものです。

 まあ確かに健康は大切ですが、どんなに正しいと思われる考え方でも、原理主義に陥るのは考えものです。

2003/10/18

 しばらく休んでいたので話題が少し古くなりますが、中国が有人人工衛星「神舟」の打ち上げ・回収に成功しました。私は、この有人人工衛星の成功は、中国が実に高度な工業生産技術を持っていることを示した思っています。既に商業衛星打ち上げでは、日本よりもはるかに高い国際評価を受けている中国が、さらに日本との技術力の差を見せつけた出来事でした。それにしても「神舟」というネーミングには、本質的に神の存在を否定するはずの共産主義国家らしからぬものを感じ、ちょっと笑えます。
 この中国の衛星技術に対して「ロシア技術のコピー」とか、「国内の社会インフラの整備を無視してのプロジェクト」などの意見で否定的に評価する向きもあります。しかし、そうした見方は誤りです。衛星打ち上げ技術は、大規模工業プロジェクトをこなす「システム技術、システム工学」の問題…と言うのはよく知られた話ですが、要するに、膨大な数の個別技術を集積し、長い経験の積み重ねや管理ノウハウの蓄積に裏付けられた総合的な工業力の問題です。中国が持つ、このシステム工学の力は高く評価する必要があります。コピーだとか、ハイテクかローテクだとか、そんなことではなく、総合的な工業力やプロジェクト実施力の部分で日本が中国にはるかに遅れをとっていることは確かです。
 また、ソ連の宇宙開発技術のコピーなどと簡単に言いますが、衛星打ち上げほどの高度で大規模な技術は、コピーすることすら難しい…ということを理解する必要があります。
 以前取材した日本の某大手機械メーカーのエンジニアによれば「独自技術で作れるだけ技術水準になければ、何かを完全にコピーして製造することはできない」…と言っていたことを思い出します。先端技術分野では、同じ設計図があって同じ原材料と同じ製造設備があっても、コピーできないもの方が多い…ということです。特に有人衛星の打ち上げのような大規模システム構築技術を必要とする工業プロジェクトは、「コピー」できれば、それだけで十分に高い評価を受けるべきでしょう。

 技術の取得は、多くの場合はコピーから始まります。しかし、その「コピーする」というのは、非常に難しいことだというのは、日本の工業製品、エレクトロニクス製品製造の歴史が証明しています。
 考えてみれば、現在は一時は日本が世界の最先端を走っていた半導体製造もそうでした。中川靖三「日本の半導体開発−超LSIへの道を拓いた男たち」(講談社学術文庫)…という本には日本の半導体開発の初期の労苦が詳しく書かれていますが、日本は通産省の主導の下で電総研を中心に、ほぼ全ての半導体製造技術を米国から吸収した上で、全く同じものを作ろうと長い間辛苦しました。日本は米国の半導体製造技術を文献レベルで取得し、さらには米国に行って半導体メーカーの製造現場を何度も見学し、技術者が製造現場で詳細なメモをとっては帰国して製造に挑みました。当時の米国半導体メーカーは非常におおらかで、工場内の全ての場所を自由に見学させて、日本の技術者からのあらゆる質問に丁寧に答え、さらには自由にメモや写真を撮らせてくれたそうです。こうまでしても、米国と同じレベルの半導体を作る(コピーする)ためには膨大な年月を要しました。
 カメラのような光学機器、そして自動車やオートバイなどの工業製品も同じです。カメラもオートバイも、そして自動車も、海外の製品を入手して「リバースエンジニアリング」することから開発がスタートしています。海外の工業製品をバラバラに分解して同じ物を作ろうとした日本メーカーの歴史は、あらゆる分野に渡っています。

 中国の衛星打ち上げを「ソ連の宇宙技術の模倣」などと非難することは容易です。しかしながら、日本がNASAの技術を完全にコピーしても、有人人工衛星の打ち上げまでには膨大な時間がかかるでしょう。第一、原発の圧力抑制プールに作業靴やビデオテープを置き忘れて平然としているような今の日本が、有人衛星打ち上げなどを実行したら確実に失敗するでしょう。日本という国は、高度なシステム工学に基づくプロジェクトを実施する能力・知力が、世界的に見ても著しく衰退しているようです。
 こうした現状をもって「教育の問題」とする有識者が多いようですが、私は教育だけが問題とも思えません。この国に住む人の多くから、何かを成し遂げるための「気力」のようなものがなくなりつつあります。「プロジェクトX」のような実にくだらない番組で、過去の日本産業の成功の歴史の一端を見せられて喜んでいる人が多かったり、司馬遼太郎の本などで「過去の日本人はこんなに凄い」と鼓舞され癒されている人が多かったりする中で、多くの日本人が「具体的な将来」を見なくなってきているのかもしれません。
 かつて歴史上の幾多の文明が理由もなく滅んだように、この日本と言う国は滅びつつあるのでしょうか。ふと、そんなことを考えました。
 別に、それはそれで構いません。私は、残された人生を不健康に、そして楽しく生きてゆきたいと思っています。スミマセン。
 しばらく仕事を休んだら、ますます厭世的な気分になりました(笑)

2003/10/10

 今朝オフィスへ行く前にNHKのTVニュースを見ていたら、ずいぶんお年を召したテレシコワさんのインタビューをやっていました(何のニュースか、よく聞いていなかったのですが…)。
 テレシコワさんと言っても、若い方はご存知ないでしょう。1963年に人類史上初めての女性飛行士として、旧ソビエト連邦が打ち上げた人工衛星ボストーク6号で有人飛行した方です。そのテレシコワさんが宇宙から送ってきた通信の最初に言葉「私はカモメ」と言うコールサインは、当時世界中で流行語になりました。
 私は、オフィスへ出掛ける準備をしながら、TV画面で年をとったテレシコワさんの顔を見ているうちに、日本のSFテレビ番組の草分け、かの「ウルトラQ」の第10話「地底超特急西へ」を思い出しました。ゴリラのような人工生命MI号が宇宙まで飛ばされ、衛星軌道を周回しながら「私はカモメ」とつぶやくラストシーンです。
 「宇宙飛行士のテレシコワさんの顔を見てM1号を思い出す」…、こんな話を書いても、大半の人は何のことだかさっぱりわからないでしょう。こういう自分を、ずいぶん年をとった…と感じます。
 あ、ネットで拾った「M1号」の画像を掲載しておきます(コピーマークのない画像を掲載していますが、著作権上の問題があるのですぐに削除します)。



 さて、私は明日から1週間ほどサイトの更新をお休みします。まあ、体調不良による「休息」ということです。BBSには時々現れるかもしれません。

2003/10/9

 フランシーヌ・マシューズ「王は闇に眠る 上・下」(新潮文庫)を読了しました。戦後アジアの大きな謎と言われる、「タイシルク王 ジム・トンプソンの失踪」を主題にしたミステリー小説です。ジム・トンプソンの失踪を主題にしたドキュメントや小説は多いのですが、わが国では松本清張の「熱い絹」がよく知られています。第二次大戦直後、そして1960年代の過去の出来事と、現代の出来事が交互に語られる構成もリズム感があり、ストーリーの展開も新鮮です。最終的には、ジム・トンプソンの失踪の謎に全く新しい解釈が示され、非常に面白い本でした。
 しかし、この本の面白さは、ストーリー自体よりもむしろ、その背景にある戦後タイの歴史と現代タイ社会の描写にあります。アメリカ(西欧)人の目で見たアジア…が描かれていると言う点で見て、非常に面白い本でした。
 合理主義的な西欧人から見るとつかみどころがないアジア社会。一見合理的な制度の下で、その実は地縁・血縁や身分による複雑な人間関係が支配する社会。また、多くの局面で明確な意思表示を拒みながらも、実は強い意思を持つタイの人々。オリエンタルのようなコロニアル様式のホテルで、欧米の観光客にかしずくようなサービスを提供しながらも、けっして本質的な部分で余所者を受けれようとしないタイの人々。こうした「不条理なタイの社会」に苛立ちながらも、そうした社会に徐々に魅せられていく西欧人…が描かれています。タイへ行くと、こうした「タイにハマッった西欧人」をよく見かけます。カオサンにハマる若い西欧人バックパッカーではなく、スクンビットのバーで日がなボンヤリしている年老いた西欧人たちです。
 歴史的、政治的な背景も面白かったですね。第二次大戦後…というよりも太平洋戦争で敗退した日本軍が去って以降の混沌とした東南アジア情勢と、タイ民主化のプロセスが詳しく描かれ、さらに1960年代の米ソ冷戦を背景とした混沌とした東南アジア情勢が手に取るようにわかります。60年代のベトナム戦争、さらにはラオスの共産主義勢力であるパテト・ラオやカンボジアのクメール・ルージュなども登場し、冷戦時代の東南アジアの政治的沸騰を活写しています。1960年代、ベトナム戦争時代のタイは、ベトナム以外にカンボジアやラオスなどが戦火に見舞われる中、東南アジアでは唯一といってもよい「政治的中立性を保った国」でした。ご存知の通り、現在のパタヤやバンコクのソイ・カーボーイなどの歓楽街は、このベトナム戦争に出征した米兵慰安のために生まれたものですが、こうした歓楽街の様子も描かれています。
 …というわけで、楽しく読了したオススメの一冊でした。

 この「王は闇に眠る」と交互に読みながら、ほぼ同時に読了したのが、広瀬隆「アメリカの保守本流」(集英社新書)です。「赤い盾」以来の広瀬隆マニアの私は、彼の描く「系図の世界」の面白さにけっこう魅せられています。史実の掘り起こし方にはいろいろな手法がありますが、「系図」「人間関係」を重視する彼の手法は、その有効性や真実度はともかく、きわめて新鮮に感じるのです。
 「アメリカの保守本流」とは、現在のブッシュ政権とそれを支える人々です。まあ、内容はともかく、「イラク攻撃は石油が目的ではない…」という視点は非常に面白いものです。
 この本を読んで初めて知ったことがあります。それは、アメリカにとっては「石油は考えられているほど重要なエネルギーではない」という事実です。
 アメリカは、世界一の図抜けた電気消費大国です。アメリカの1人あたりの発電量は日本やヨーロッパなど先進国平均の2倍に達し、中国と比較すれば十数倍に達します。しかし、そのアメリカでは、石油は全発電のたった3%にしか使われていません。原子力とガスタービン共に全発電量の20%にも達しないのです。アメリカでは全発電量の60%程度が石炭発電…という、この事実には驚きました(ちなみにドイツも50%以上が石炭発電だそうです)。私は父親が電力会社で(既に退職)燃料の専門家でしたので、小さいころから石炭、石油についてはいろいろと詳しい話を聞いていましたが、水力→石炭→石油→原子力と日本の発電用燃料が変遷する中で、先進国アメリカにおける発電量の約60%が石炭を燃料とするものだとは、恥ずかしながら全く知りませんでした。
 そのアメリカの石炭は埋蔵量は世界一で、確認埋蔵量だけでも2500億トンに達し、現在のペースで使い続けても250年以上持つとのことです。アメリカにはほぼ無尽蔵の石炭、そしてオイリシェールがあります。この話を出発点にするアメリカの保守本流の分析は、なかなか面白いものでした。詳しくは、本書をお読み下さい。

2003/10/8

 ここは「私的画像日記」と称しながら、最近は画像無しのテキストオンリーの日が続いています。今回は、本格的な(?)画像日記にしてみました。一応手間をかけてサムネイルを作ったので、全ての画像はクリックで拡大します。

 私が最近通っている日本医科大学附属病院は、文京区の千駄木にあります。東京の著名なタウン誌「谷中 根津 千駄木」(通称:谷根千=やねせん)で知られるこのあたりは、根津神社を始め、「夏目漱石の家」や「鴎外記念本郷図書館」など明治の文豪ゆかりの名所や、江戸時代からの由緒あるお寺などがたくさんある、歴史の散歩道です。
 病院で診察を受けた帰りに、DSC-U30とD505iで写真を撮りながら、本郷通り沿いに駒込駅まで歩いて見ました。

まずは、本郷の東大赤門です。


日本医科大学附属病院の向かいにある根津神社


タイの寺院のような仏塔を持つお寺です。


巨大な布袋様(?)の像があるお寺です。


「駒込土物店跡」…説明は案内板をお読みください。


本郷通りの歩道に埋め込まれた案内プレート、高島秋帆の墓がある大円寺は曹洞宗のお寺。


「目赤不動」なんてのもあります。目黒、目白は有名ですが、目赤、目黄、目青の各不動様は知らない人が多いかも。
こちらを参照して下さい。


駒込駅が近くなる六義園が見えてきます。


駒込駅に到着です。


2003/10/7

 政治、特に日本の政治には全く興味のない私ですが、珍しく政治絡みの与太話を…

 道路公団総裁が、解雇に抵抗してゴネてます。無理やり解雇すれば地位保全の法的措置を取る可能性もあり泥沼化が予想されるとか…。まあ総選挙向けのパフォーマンスでこの時期に解任したんだろうけど、藤井さんには、もっとゴネて欲しいものです。そうすりゃ、総裁解任と言うショーの裏で民営化推進委員会の勧告を骨抜きにしようとしている小泉氏の魂胆が表面に出てきて、とてもよいと思うのですが…。藤井さん、がんばって下さい。

 民主党がマニフェスト、マニフェストと騒いでいます。私は、「マニフェスト」と言うとマルクスの「共産党宣言」を思い出しますが、こういう人って多いと思います。「一個の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が…」という書き出しの「共産党宣言」(1848年)は、その「宣言」と言う部分が「マニフェスト」ということで、共産党宣言という本自体を「マニフェスト」と呼び習わしていました。
 ところで、「政府は7日午前の閣議で、マニフェスト(政権公約)を選挙運動を目的にインターネットのホームページで公開することは、現行の公職選挙法に違反するとした答弁書を決定した」…って何だ?

 恥知らずにも息子を二世議員にしようとしている管直人は、最近顕著に政治家面、悪人面になってきました。それに比べて、小沢一郎は、内心は苛立っているのかもしれませんが、ますますニコニコゆっくり喋るようになり、政権奪取のラストチャンスにかける意気込みが感じられます。彼に主義主張に興味はないですけど、最近は何となく必死っぽいところが可愛いじゃん…と思っています。

 二世議員と言えば、今度は三男が立候補する石原家も凄いです。確か石原慎太郎は以前「二世議員批判」をやっていたとおもうのですが…。
 その石原都知事が自民党総裁選の応援演説で、日朝交渉を主導した某外務官僚を「売国奴」呼ばわりし続けたのは記憶に新しいところです。彼は9月25日の都議会で曽我ひとみさんの母について「殺されたんでしょ、その場で」などと述べ、翌日の議会で「配慮に欠けた」と謝罪したばかりです。その彼は10月5日にも、埼玉県の陸上自衛隊朝霞訓練場であった観閲式の祝辞で北朝鮮による拉致事件に触れ、「150人近い同胞が拉致され、殺害されたんでしょう」と述べ、「解決のために今の政府が必死で動いているとは思えない」などと、またしても政府批判を展開しました。政府批判も外務省批判も好きにやればよいのですが…
 石原慎太郎は、ありとあらゆる機会を捉えて拉致問題に対する政府や外務官僚の姿勢を罵っています。確かに、1980年代前半から拉致問題の存在を認めながら、何もしてこなかった政府や外務省の姿勢は論外ですが、それに関しては石原慎太郎も全く同罪でしょう。ついでに言えば、拉致問題をウリにする安倍晋三も、1993年初出馬の衆議院議員総選挙でトップ当選をして以降ずっと国会議員です。その間、タカ派議員として鳴らしてきましたが、小泉訪朝以前に拉致問題について積極的に活動したという話は(1997年の衆院外務委員会での質問以外)寡聞にして聞きません。

 拉致問題の歴史を簡単に振り返ると、北朝鮮による日本人拉致が本格的に始まったのは1970年代後半です。1977〜78年には、警察が認定しているだけでも9人が拉致されています。1980年1月7日には、産経新聞の一面トップ記事として「アベック三組ナゾの蒸発」という阿部雅美記者のスクープが掲載され、1978年の夏に福井、新潟、鹿児島で発生したカップル三組の連続失踪と富山で起きた拉致未遂事件を、北朝鮮の犯行と示唆しました。
 1982年2月には、よど号ハイジャック犯人による「もう1つの拉致事件」が明るみに出ています。最近明らかになった警察庁の資料には、八尾恵が海外旅行中の1982年2月、デンマークのコペンハーゲンで、当時ユーゴスラビアのザグレブにあった北朝鮮領事館副領事のキム・ユーチョルと接触していた「事実」や、不審な複数の日本人女性との接触、東欧、東ベルリンなどへの出入国記録などが含まれていました。
 有本さんと同時期に欧州で消息を絶ち、やはり北朝鮮に拉致された疑いが持たれている日本人男性2人のうち、札幌市出身のIさんの実家には、88年9月、3人の安否を伝える手紙が届いています。こうした事実は、警察も政府も掴んでいました。
 週刊文春は91年に、こうしたヨーロッパにおける日本人失踪・拉致事件によど号グループが関わった疑いについて報じました。98年にはジャーナリストの高沢皓司氏が優れたドキュメンタリーである「宿命『よど号』亡命者たちの秘密工作」(新潮社刊)という著書で詳細にレポートしているのは、もう誰もが知っていることです。私もこの本で、北朝鮮による日本人旅行者拉致を知りました。
 そして何よりも、1988年3月には、政府が「拉致事件」の存在を正式に認めています。参院予算委員会で共産党の橋本敦議員の質問に対し、当時の梶山国家公安委員長が「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚…」と答弁しています。その時点で警察は公安事件として11年間に渡って一連の事件を捜査していましたが、その事実を政府はこの段階で初めて明らかにしたわけです。
 1991年5月、日朝国交正常化交渉第3回会談において、日本側は北朝鮮側に対して李恩恵問題を提起しました。北朝鮮側は「共和国に対する侮辱であり、会談の破壊行為である」と反発しました。その後も国交正常化交渉の機会に李恩恵問題に関する実務者協議を続けましたが、1992年11月の第8回本会談の際の実務者協議で北朝鮮側が一方的に退席し、日朝国交正常化交渉自体が中断しました。
 さて、こんなにも以前から明確にわかっていた拉致問題に関して、「今さら」のような現在の騒ぎは何なのでしょう。
 政府・外務省が弱腰外交を続けてきたのは事実ですが、その間政権の中枢にいた国会議員の石原慎太郎も、拉致問題に関しては一切発言していません。石原慎太郎は、1968年の初当選以降、1995年に辞職するまで27年間もの長きに渡って国会議員をやり、その間、環境庁長官や運輸大臣を歴任しています。
 最近、万景峰(マンギョンボン)号に対して、国土交通省がさまざまな検査を試みて茶番劇のような入港の妨害をしましたが、万景峰号の就航は1959年に遡ります。以後、年20回以上往復をしています。石原慎太郎は、国土交通省の前進である運輸省の大臣に1987年に就任しています。この時点で、政府は拉致事件が存在することを正式に認めているにも関わらず、石原慎太郎は運輸大臣として万景峰号の寄港に対して何1つ手をうちませんでした。むろん、長い国会議員生活の間に拉致問題で質問したこともないし、この間に出した著書の中で真剣に拉致問題の解決を訴えたことも、一度もありません。
 つまり石原慎太郎は、国会議員として、また政府要人として少なくとも1980年代前半からは拉致事件の存在を知り、十分に対応が出来る立場にもいながら、何も発言せず何もしなかった人間の1人です。そんな人間が、自分の過去を棚に上げて外務官僚や政府を批判するのは、全く茶番以外の何物でもありません。
 少なくとも石原慎太郎が口を極めて罵る外務官僚の田中某は、客観的に見て、1980年代以降政府関係者や国会議員の誰もが拉致問題を知りながら口をつぐんできた中で、初めて拉致問題を表立って取り上げ、北朝鮮政府と交渉して5人の被害者が帰国する道筋を付けた…というだけで、少なくとも何もしなかった石原慎太郎よりは評価すべきだと思うのは私だけでしょうか?
※年代や事実関係などに多少誤りがある可能性がありますが、深い意味のない与太話なのでご容赦を…

2003/10/6

 昨日、新しい電子辞書を購入しました。
 電子辞書は、3〜4年前に購入したSONYの「データディスクマン」を使っていましたが、起動から検索までに掛かる時間が遅いなど、使い勝手が悪いので最新機種を1台購入することにしました。
 とは言え、SONYの「データディスクマン」だって、使用頻度はせいぜい週1〜2回。やはり毎日パソコンに向かっていると、ついパソコンの辞書や翻訳ソフトを使う機会が多くなります。原稿書きだって、最近は辞書を引くことがめっきり減りました。以前は類語辞典をよく使ったのですが、最近はあまり語彙を必要としないPC関係の雑誌原稿が多いので、さほど辞書を使わなくなっています。さらに私は、製本された辞書を使った方が検索が早く、関連語などの情報を得やすいので好きなんです。結局電子辞書が欲しい…というのは、「最新のオモチャが欲しい」…というのが本質的な動機です。

 …で、この電子辞書の買い替えを思い立ったのは8月の話です。で、それ以降の約2ヶ月間、何を買うかで迷っていました。
 いや、迷ったといっても「小型・軽量」「搭載辞書種」「操作性」を考えて、2機種までは簡単に絞り込んだのです。それはCASIO「XD-R970SHARP「PW-S7100」でした。
携帯性、搭載辞書のバランスやバッテリー持続時間を考えると文句なしに「XD-R970」がよいのですが、「PW-S7100」の液晶は画面サイズが手頃で視認性は非常によく、また表示フォントがとても見やすいのです。対する「XD-R970」の表示フォントは汚くて見にくい。しかし、「PW-S7100」はパスポートサイズとは言え、サイズがかなり大きく、最も気に入らないのがバッテリー持続時間が短い点でした。「XD-R970」は単4電池1本で約150時間、「PW-S7100」は単4電池1本で65時間です。
 携帯性、辞書、バッテリー持続時間に優れた「XD-R970」を買うか、液晶表示とフォントが美しく操作性がよい「PW-S7100」を買うか…、これはかなりの難問であり、結局2ヶ月近く悩んでいました。たかだか電子辞書の購入でこんなに悩むというのは、「欲しい電子ガジェットは即購入」をモットーにしている私にしては、非常に珍しいケースです。
 まあ、こんなに長く悩んだということは、「ホントはそれほど欲しいモノではなかった」ということでもあるのですが…。

 こうした状況ではありましたが、一度買おうと思ったものを買わないのも気分が悪い。8月以降、週に2〜3回、3〜5分間は電子辞書について考えたとすると、この2ヶ月間で合計して1時間以上は電子辞書について考えたことになります。こんなに考えた挙句に買わないのは、その「電子辞書について考えた合計1時間」に対する冒?です(笑)。

 ということで、昨日は昼間からランチに合わせてビールを飲んだ勢いで、家電量販店へ電子辞書を買いに出掛けました。購入しようと決めたのは「PW-S7100」です。この際、バッテリー持続時間と携帯性の問題には目をつぶって、表示の見易さを取ることにしたのです。やはり表示の見易さはなにものにも換えがたいと考えました。

 で、電子辞書売り場に行ってSHARP「PW-S7100」を手にとってみたところ、その隣に並んでいる同じSHARP「PW-M800」が目に付きました。サイズは「PW-S7100」よりも小さく、ほぼCASIO「XD-R970」と同程度、ただし液晶表示は「PW-S7100」よりはだいぶ落ちますが、フォントは「XD-R970」よりもかなり見やすいようです。表示画面サイズは小さくても、表示容量は320×120dotとかなり多い(「XD-R970」は240×120dot)のです。バッテリー持続時間が80時間と、「PW-S7100」より若干長いです。搭載辞書もまあまあ。言ってみれば「PW-S7100」と「XD-R970」の中間のような製品です。
 で、CASIO「XD-R970」とSHARP「PW-S7100」のスペックを検討し、どちらにするかで2ヶ月間悩んだ挙句、そのどちらでもないSHARP「PW-M800」を購入しました。
 結局、私は自分自身でどんな電子辞書が欲しいのか、よくわかっていなかったようです。

 で、最新の電子辞書SHARP「PW-M800」を購入して使ってみた感想はどうだったかという話ですが…、別にどうということもありません。30分ぐらいいじり回したけど、すぐに飽きました。これまで通り、あまり使うことはないでしょいう。

 悩んだ挙句に、たいして欲しくもないものを衝動買いする…、相変わらずバカな消費生活を続けています。ハハ…

2003/10/3

 「古新聞73円分の窃盗で逮捕 価格上がり被害相次ぐ……京都府警桂署は3日までに、小学校のPTAが集めた古新聞8束(時価73円相当)を盗んだとして、窃盗の疑いで京都市西京区の古紙回収業の男(62)を逮捕した。中国などへの輸出が増え、古紙の価格が上がり同種の事件が頻発している。被害額は少ないが、取り押さえた際に住所があいまいだったため、同署は証拠隠滅の恐れもあるとして、異例の逮捕に踏み切った。調べでは、男は1日午前7時20分ごろ、京都市西京区大枝西新林町の公園で、近くの小学校のPTAが回収し、契約業者に渡すために置いていた古新聞を盗んだ疑い。契約業者が男を見つけて取り押さえ、桂署に引き渡した。同公園では数カ月前から無断持ち去りが続き、PTAが同署に相談していたという。

 …こんなニュースがありました。

 「PTAによる組織的な古新聞集め」がリサイクルシステムを壊した…という話は、10年ほど前から大きな問題になっていました。各地でPTAや町内会が組織的に大量の古新聞を集めるようになったおかげで古新聞の相場は暴落して、回収業者が生活できなくなりましたた。また、リサイクル紙の実際の需要をはるかに上回る古新聞が集まってしまい、製紙会社の倉庫には使いきれない古新聞や古雑誌が積み上げられている…という状況になっているという話が、数年間にありました。その後、古紙の輸出需要のせいでやっと古紙市場が回復して業者が一息ついたと思ったら、さらに熱心に古新聞を集めるPTAやら自治体が出始め、契約業者だけが利益を得て、結局零細な古紙回収業者の一部は生活に困っているようです。
 さらに、自治体が主導して分別収集の形で古紙集めをやっているところでは、異物混入に悩まされているそうです。沖縄の那覇市では、このリサイクル用古紙への異物混入問題で、新聞社と自治体がもめていました。
 いずれにしても、対価があってビジネスとして成立しているからこそ、リサイクルはスムーズに進む…という部分があります。経済システムとして成り立っているリサイクル構造を、善意のPTAが壊したとすれば、罪な話です。そういえば、ブラジルでも自治体が分別収集の形で空き缶を集めだしたら、空き缶を集めて食べていた失業者が食べていけなくなった…という話を聞きました。何でもお上がやればいい…ってものでもないでしょう。また「善意」や「ボランティア」も行き過ぎると、それで食べている人の生活を脅かします。

 それよりも、古紙再生はエコロジーでも何でもない…という意見にも耳を傾けなければなりません。
 有名な「リサイクルしてはいけない」(青春出版社)を書いた芝浦工業大学材料工学科教授の武田 邦彦氏は、次のように主張しています。

 …紙をリサイクルするときは、古紙をトラックで回収し、分別後、脱墨して漂白という過程を経るわけですが、このプロセスで石油などの「枯渇性資源」を大量に使います。私たちが使っている資源やエネルギーには2種類あります。ひとつは、石油や石炭、鉄鉱石などの、地球が何億年もかけて蓄えた「遺産組」。もうひとつは太陽光で育つ木や水力発電などの「持続性資源」である「月給組」。 「月給組」をリサイクルするために、貴重な遺産を食いつぶしているわけです。よく熱帯雨林の保護のために紙をリサイクルなければならないといいますが、現在製紙に使用されているのは先進国の森林で、この15年で3%ほど増加しています。 森林破壊が深刻なのは発展途上国ですが、この原因は、現地で薪として使ったり焼き畑農業によるもの。紙はそのまま燃やしてしまった方が、はるかに「持続的」なのです…

 昨日の「燃料電池」の話の続きのようになりましたが、リサイクルというのは、非常に難しい問題のようです。

2003/10/2

燃料電池車への疑問


 私がバイク好きという話は、既に何度も書いてきました。そして古くからのバイク好きの多くは、「エンジン好き」です。1970年代以前のバイクは、安定した性能を引き出して乗り続けるためには、点火系や駆動系を含むエンジン回りの日常的な整備が必須でした。だから古いバイクが好きな私も、いつもエンジンをいじってました。これも以前から書いていることですが、自分で整備する…ことを前提に考えるとシンプルなエンジンがベストであり、だからこそ2サイクルエンジンが好きなんです。
 さて、昨日からスタートした東京都によるディーゼル車の排ガス規制を見てもわかる通り、自動車用内燃機関に対する環境面からの逆風は強くなるばかりです。こうした状況を受けて、世界中の大手自動車メーカーは高らかにハイブリッドエンジン車や燃料電池車への早期移行を打ち出し、「エコ企業」をアピールし始めています。先進国政府も、ガソリン内燃機関に替わる「環境に優しい動力源」の開発を全面的に支援する方向を表明しています。
 しかし、ガソリン内燃機関というのは、本当に環境保全技術の全てが投入され尽くしたのでしょうか。拙速にハイブリッドエンジン車や燃料電池車の開発に資本を投入する必要があるのでしょうか? また、ハイブリッドエンジン車や燃料電池車は、本当に「エコロジー」なのでしょうか?
 以前私は、この日記で「ハイブリッドエンジン車のエネルギー効率がガソリン内燃機関よりも優れているとは思えない。ハイブリッドエンジン車はクリーンな自動車ではないのではないか」と言う主旨の話を書いたことがあります。しかし、燃料電池に関しては、ほとんど疑問の声があがっていません。今回は、燃料電池車に対する疑問を書いてみます。

 ともかく「究極のクリーンエネルギー」として燃料電池の実用化へ向けての開発が急速進んでいます。自動車はむろん、パソコンや携帯電話用の燃料電池までもが、実用化段階に入りつつあります。ここでは自動車用動力源に限定して話を進めると、自動車用燃料電池車については、既にバカ高い価格で市販が開始され、月額100万円を超えるリース料で政府が公用車として導入をしています。
 「水素を燃料とし、酸素と化学反応させて電気と水を取り出す」、これが燃料電池の基本原理です(水野電気分解の逆)。エネルギー効率も40%以上ときわめて高く、しかも無公害…となると、非の打ち所のない自動車用動力源のように見えます。しかし、これは果たして無条件で信じてもよい話なのでしょうか?

 考えてみれば、「車体と乗客合わせて1トンの重量の自動車を時速100Kmで走行させるためのエネルギー」を数値化し、そのエネルギーを得るためには、ガソリン内燃機関と燃料電池のどちらが効率がよいか…という比較について、正確なレポートをまだ読んだことがありません。
 確かに燃料電池は、エネルギー効率が非常に高く無公害です。「自動車」というクローズドなシステムの動力源として考えれば、ガソリン内燃機関を代替する能力を持っているかもしれません。しかし、「燃料の生成や運搬・保存に関わるエネルギーも含めた総合的なエネルギー効率」という視点で見た場合、本当に燃料電池車はガソリンエンジン車よりも高効率なのでしょうか? 本当にエコロジーで無公害なのでしょうか?
 総合的なエネルギー効率を比較するのですから、自動車動力源(ガソリン内燃機関 or「燃料電池+モーター」)のエネルギー収支は、自動車動力源がその寿命期間中に生み出すエネルギー(電力/馬力)と自動車動力源の製造、保守、燃料の採掘・加工・輸送等のために投入されるエネルギーとの比(エネルギー収支比=産出エネルギー÷投入エネルギー)で表し、この値が大きいほどエネルギー収支は優れていることになります。これは、原子力発電所と火力発電所のエネルギー効率を比較する場合などに、よく用いられる手法です。
 ガソリン内燃機関の場合は、内燃機関自身のエネルギー効率の他に、ガソリン内燃機関の製造・保守に必要なエネルギー、さらには原油採掘からガソリン生成までに必要なエネルギーなどを正確に算出する必要があります。
 一方、燃料電池の場合には、燃料電池システムや電気モーターの製造から保守までに必要なエネルギーはむろん、最も重要な点として、燃料である「水素」を取り出すために必要なエネルギー(水増税増設備の保守も含む)を算出する必要があります。加えて「高圧水素」を生成・維持するためのエネルギーも必要です。

 こうした疑問に対する答えを出すために資料を探していたら、こんなテキストを見つけました。このテキストによれば、石油については次のように書かれています。

 「…石油は圧倒的に優れたエネルギー資源である。100単位のエネルギーに相当する原油を採掘するために投入する石油はわずか1単位程度である(産出比=100)。その後、タンカーによる輸送、原油精製などを行った最終段階でも産出比は10程度である…」

 では水素はどうでしょうか? 同サイトには、次のように書かれています。

 「…水素の供給は、水の電気分解あるいは、LNG・ガソリンなどの炭化水素燃料(構想としてはバイオマスからの生産という馬鹿げたアイディアまで存在する)から工業的に生産することが考えられている。まず問題は、この水素の製造というプロセスが非常にエネルギーコストの高い工業過程だということである。また、常温で気体である水素はその体積の大きさが大きな問題である。その解決策として、高圧容器への充填が考えられている。自動車用では350気圧程度に圧縮する。この圧縮工程におけるエネルギー損失が非常に大きいことも知られている。このように、圧縮水素「燃料」の製造工程そのものが多段階の工業過程であり、全体としてのエネルギー損失は莫大なものになる。LNGやガソリンという優れた燃料を使ってまで、敢えて水素を製造する必然性はまったくない。圧縮水素燃料の製造過程は、投入された石油エネルギーに対するエネルギー産出比が1を大きく下回ることは明らかであり、石油資源の膨大な浪費を招来することになる…」

 さて、こちらのサイト内に書かれていることが、どこまで裏付けがある内容なのかは、まだ検証していません。だから、サイト内の記述を鵜呑みにするつもりはありません。ただ、私は燃料電池車に対する絶賛記事を読むたびに「燃料となる水素はどうやって作るのだろう? 水素スタンドの仕組みはどうなっているのでだろう?」といった疑問を抑えることができませんでした。さらに、「ガソリンエンジン好き」の私としては、冒頭で書いたように「ガソリンエンジンの可能性の追及」がまだまだ半端だと感じています。
 それに加えて、スポーツ性や居住性をある程度犠牲にして、社会における実用レベルでの動力性能の実現だけを目的とした場合、乗用車や輸送用車両向けのガソリンエンジンの排気量は、平均して現在の半分以下で済むはず。これなら大幅に石油消費を抑え、さらには排出ガスを減らせる可能性があります。加えて、大都市部を中心に不急不要な自家用車の使用を制限することで、自動車の使用自体を減らすことも可能です。しかし、そうした方向性での自動車市場の検討が本気でなされていない…という点は、注目すべき事実だと思っています。要するに、自動車メーカーもそしてユーザーも、「ガソリンエンジン車による省エネ」を真剣に考えていません。家庭用自動車の排気量制限、安全で使いやすい小型コミューターの開発、公共交通機関が完備した都市部への乗り入れ禁止…など、打つ手はいくらでもあるはずです。
 「むやみに燃料電池への移行をアピールする」状況の背景には、エコロジーな小排気量ガソリンエンジン車が中心の自動車社会になったり、自動車の利用背現場面が増加したりすれば、現行の自動車メーカーの収益性は大幅に落ち、その結果多くの国で国家を支える基幹産業である自動車産業が壊滅的な打撃を受ける…という事情があると思います。各国政府も自動車メーカーも、燃費は悪いが収益性の高い高付加価値のガソリンエンジン車を製造し続け、適当なところでやはり付加価値の高い燃料電池車へ移行することで自動車産業を守る…というシナリオを描いていることは確実です。
 国を挙げての燃料電池への取り組みは、「意図的に新しい産業を生み出す」「斜陽に向かう可能性がある自動車メーカーやエレクトロニクス企業、そして周辺企業を救済する」…と言うエコロジーとは無縁の意図が隠されているかもしれません。

 自動車産業は、いまや製鉄産業から半導体産業、エレクトロニクス産業、通信事業に至るまで、膨大な周辺産業を支えています。だから、自動車産業の保護が、一概に誤った政策だとは思いません。しかし、「事実が隠されている」「意図的に語られていないことがある」としたら、非常に気持ちが悪い話です。自動車産業の将来は、全ての事実を明らかにした上で議論されるべきだと考えます。また、誰にでもわかるような正確な説明をしないまま、たかだかハイブリッドエンジン車や燃料電池車の開発を進めているというだけで、「エコロジー企業」を主張し続ける自動車メーカーのスタンスにも疑問を感じます。

 「環境に優しい」という言葉は、とても耳障りのよい言葉です。私は、「誰にとっても耳障りのよい言葉」…は、まず疑ってみることにしています。

2003/10/1

 「倫理感」についてちょっと考えてしまいました。要するに、昨日の話の続きです。つまらないテキストが多い本サイト内でも稀に見るほど、実に退屈で個人的な話になりそうなので、読み始めた方はここでやめた方がよいかもしれません。

 さて、株式会社幸輝の慰安旅行はやはり買春ツアーだったようです。まず第一に、渡航先として観光地もほとんどなく会社の事業にも縁が無く、買春目的以外に行くことは考えられない「男性天国」広東省珠海市を選んだこと。第二に、女性社員もいるにも関わらず基本的に男性社員だけでツアーを敢行したこと…等々を考えれば、確実によからぬことを考えての旅行でしょう。
 さて、その中国買春ツアーを実施した企業と、その後の中国のマスコミ及び政府の対応、さらに日本政府の対応について、Web各所で議論がなされています。

 大きく分けると、次の3つの主張が見受けられます。

  (1)集団買春なんて破廉恥で国辱ものだ。日本人として恥ずかしい。
  (2)中国の官民挙げての日本叩きである。日本政府はこんなことで謝罪する必要はない。
  (3)買春ツアーは恥ずべきことだが、売春を黙認している中国政府だって褒められたものではない。騒ぐほどのことではない。

 2ちゃんねるあたりでは、圧倒的に(2)と(3)の意見が優勢です。知識人や評論家、マスコミの多くも、論調は強くはないものの本音では(3)の見解が多いようです。特に(2)の意見は、「プチウヨク」の方々の主流となっています。基本スタンスは(3)の「集団買春なんてたいしたことない」とした上で、逆に中国の官民挙げての日本叩きを批判し、さらにあることないことを挙げて「中国人のDQNぶり」をアピールする…という形が多いようです。ひどいケースでは「捏造」などという書き込みもありますね。あの勝谷誠彦氏も、「日本の買春旅行を囃すなら中国人の出稼ぎ売春婦についても書いてよ」とコメントしています。
 いずれにしても私は、この手のバカバカしい意見には全く興味がありません。自らの異常・不適切な行動は、相手の異常や不適切な行動をあげつらうことで免罪できるものではありません。さらに「集団買春の是非」という問題の本質とは、全く無縁の論理展開です。政治問題を持ち出すことも、「集団買春の是非」の問題とは無関係です。
 私が気になるのは、むしろ非常に「まともな考え方」に見える(1)の意見です。(1)の「日本人として恥ずかしい」「国辱だ」という倫理観を前面に出す考え方は、一見すると(2)(3)とは反対の「良識派」的な感じがしますが、ここで「国辱」なんて話を持ち出すのは、根本的なメンタリティとしては(2)(3)の主張と合い通じるものがあります。確かに海外での集団買春は「バカな行為」ではありますが、あくまで個人、企業の問題であり、別に「日本」という国全体、または日本人全体が恥ずかしい思いをする必要はありません。もし、海外の人間から「こういうことをする企業がある日本という国は恥ずかしい国だ」と言われたら、「日本人全体がそうではない。この企業と社員が恥ずかしいだけである。自分はそうではない」と言えばよいだけのことです。
 そういえば政府関係者のコメントもありました。山崎正昭官房副長官は「法令以前の問題」との発言でしたし、川口外相も「女性の尊厳を傷つける…」というコメントを出していました。両者共に、「倫理観」を前面に打ち出したコメントです。

 さて私は、「集団買春問題」の本質は、この手の話とはちょっと違うように感じています。

 …というわけで、ここまでは前フリです。やっと本題に入ります。本題は、「集団買春は倫理的にもとる行為だからダメなのか?」という話です。
 実は私、「買春の倫理的是非」はよくわかりません。「自ら進んで性サービス業に身を投じる女性」の存在を前提とすれば、「対価を払ってサービスを受ける」ことは、資本主義的な倫理からは外れていない…ことのような気もします。逆に川口外相の言うような「女性の尊厳」問題を視点にすれば、そもそも「買春サービス」の存在自体が倫理的に反することになります。また、現実に貧困や金銭的事情から性的サービスを強要される女性が世界で何百・何千万人もいる現状では、「先進国の資本主義的な倫理観」などは通用しません。いずれの考え方にも違和感がありますが、決定的に反対する理由もまた、見つかりません。

 私が、今回の「集団買春」事件から感じたのは、「買春は倫理的にもとる行為だからダメ」というのとは全く異なる「嫌悪感」なんです。私が集団で買春することに違和感や嫌悪感を感じるのは、「倫理観のないバカなヤツら」だと思うからではないのです。
 私は、「集団買春問題」は、「国のあり方」の問題ではないし「法律」の問題でもないし、そして「倫理観」や「モラル」の問題だとも思っていません。強いて言えば「健全な社会性確立の問題」「コミュニケーションの問題」に近い感覚で捉えています。

 何度も触れたように、私はセックスは好きですが「買春」という行為が嫌いです。しかし、倫理観・モラルの面や法律面から偉そうなことやキレイゴトを言うつもりはありません。だいたい私は、世間一般の見方では、「モラルに反すること」をたくさんしています。むろん女性だって大好きだし、これまでの人生でも散々女性問題を起こしてきた、ロクデモナイ人間です。しかし、例えば「配偶者以外の女性と関係を持った」ことはあっても、「性的なサービスをお金で買った」ことはありません。いや、出来ません。私が買春という行為に違和感を感じる大きな理由は「モラル」ではなく、「お金で買った女性とセックスして何が面白いのだろう」…と思うからです。
 そしてそれよりもさらに大きな問題を感じるのは、買春をする人間、ましてや集団で買春をする人間には「コミュニケーション」や「社会性」の部分での欠陥を感じる…という部分です。
 そういえば昨日も熊本で高3女子生徒を車に監禁、連れ回した20歳の男が逮捕されました。誰が見ても異常な行動です。女性を誘拐して監禁する事件が多発していますが、こうした事件が起こると必ず、多くの人が「うまく女性とコミュニケーションがとれない異常な男が増えた」…とコメントします。しかし、買春することを「コミュニケーションの問題」と結びつける人はあまりいません。
 私にとっては、セックスに対する欲求は、「女性と交際する」ことと一体化したものとして存在します。性欲を満たすために女性を買うということは、性欲を満たすために「女性を誘拐監禁してセックスを強要する」ことと、感覚的に似た部分を感じます。要するに、セックスしたければ、女性と交際する…と考えずに、セックスしたければ「女を買えばよい」と考えるのは、私にとっては「普通のこと」とは思えません。「異常なこと」です。私は、つきあっている女性、つまり精神面や生活面で共有できるものを持っている女性とセックスするのでなければ、セックスを楽しいもの、気持ちのいいものと感じません。セックスは重要なコミュニケーション手段であり、だからこそ楽しいのだと思っています。
 むろん、人間にとって「何が普通か」は、わかりません。ソープランドが堂々と営業しているこの社会にあっては、性欲の処理のために女性を買うことは、ごくあたりまえのことかもしれません。また、「配偶者」や「交際中の女性」がいない人は、性的なサービスを受けることが当然なのかもしれません。でも私は違います。そしてこうしたスタンスを取る理由は、私にとって「倫理観」の問題ではなく、「当たり前の人生とは何か?」という問題です。
 私は、今回の「集団買春」に深い嫌悪感を感じています。集団で買春旅行に行くヤツは「普通じゃない」と思っています。「お前らヘンだよ」と言ってやりたいぐらいです(他人事に関心はありませんが…)。

 そうした意味では、「集団買春旅行をしないように国民を教育してくれ」…という中国政府の申し入れも、甚だピントがズレています。確かに9月18日という柳条湖事件(昭和6年9月18日)の日に、バカ会社がこうした問題を起こした点については、満州事変が日中関係に及ぼした歴史的経緯を徹底教育することで、防ぐことができるかもしれません。しかし、「集団で女を買わない」というのは、「倫理的是非」なんてものを考えるまでもなく、普通の人はやらないものです。そして、こうした「普通の考え方」は、国や学校に教育してもらって会得するものではありません。

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