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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/9/30

 中堅リフォーム業者(?)「株式会社 幸輝」の中国慰安旅行が、「買春ツアー」だったということで、マスコミで話題になっています。中国のマスコミでは、さらに大きな問題となっています。この会社や旅行会社(JTB)は「最初から買春目的の旅行ではない」と否定していますが、「個人では買春した人間もいるかもしれない」と会社側もコメントしています。さらにTV報道によれば、旅行に参加した社員の一部は、「ホテルには女を買いにいった」と証言しているそうです。まあ、本当のところはわかりませんし、興味もありません。でも、社員の数と同数、またはそれを上回る数のコンパニオンを呼んでいたことは事実ですから、「非常に下品なツアー」であることに代わりはありません。
 私は、ここでは個人で行う買春という行為について、法律やモラルの面からコメントすることはしません。まあ、やりたい人はやればいい。だけど「集団で女と遊ぶ」という行為は、もう虫唾が走るほど嫌いです。買春までいかなくとも、大量のコンパニオンを侍らせて遊ぶ…なんて慰安旅行をセッティングする企業を「まとも」だとは思えません。第一、「男性天国・珠海」を慰安旅行先に選んでいる時点で、かなりDQNな企業だと推察されます。

 慰安旅行などではなくても、よく男同士が連れ立って東南アジアなどへ買春に行くケースを見聞きします。知り合いのいる出版社でも、バンコクへの社員旅行を実施し、自由時間には男性社員同士が連れ立って女を買いに出掛けた…と、実際に参加した人間から話を聞きました。さらに私は、実際にかつての香港や台北、マニラ、そして現在のバンコクなどで5〜10人くらいで連れ立って買春目的のクラブに出入りする日本人の集団をよく見ます。確かにアジアでは欧米の人間もかなり買春をしていますが、「多人数で連れ立って」買春している欧米人はまず見ません。バンコクなどでは、この「多人数で連れ立って」買春目的のクラブなどに入っていくのは、日本人が最も多く、他には韓国人や台湾人などアジア人ばかりです。「アジア人は集団で女を買う」…不思議な話です。いずれにしても、羞恥心のカケラもないクソヤローたちです。
 こういうことをやる大人がたくさんいる状況で、女子中高生に対して「援助交際をするな」…と説教しても、それは無理というものです。パンツを売る小学生の女の子が登場しても、別に不思議なことではありません。

 そんなことよりも、この記事を読んでつくづく思ったのは、「慰安旅行」なるものをやっている企業がまだまだたくさんある…という不思議です。慰安旅行なるものには、いったいどんな意味があるのか、さっぱりわかりません。いや、企業側がおかしいだけではなく、「慰安旅行に行きたい」と思う人間がいる方が不思議です。「幸輝」という会社も求職用のパンフレットに海外慰安旅行の写真を大きく掲載して、それをセールスポイントの1つにしてしていたようです。同社の求人案内サイトには、福利厚生の項目に「社員旅行(過去実績:ハワイ・香港・韓国・グアム)」などとわざわざ書いてあります。この会社に入ると海外へ慰安旅行に行ける…なんてことを理由に就職を決める人が、ホントにいるのでしょうか?
 私は大企業に勤めた経験もありますが、幸いなことに大規模な慰安旅行などというものはありませんでした。部課単位で親睦旅行を企画していたセクションに配属されたこともありますが、これはあっさり「パス」しました。
 どう考えても、毎日職場で顔を突き合せている人間と旅行になんか行きたくないし、サラリーマンにとって「仕事をしなくてもいい休日」は何よりも貴重です。自分が普段やりたいと思っていることをやるための、大切な時間のはずです。仕事時間外の職場のコミュニケーションを全て否定するわけではありません。たまにみんなでカラオケへ行く…なんてのはわかります。でも、大人数の集団で温泉旅行や、ましてや海外旅行になんか行ったって、面白くないと思うのですが…。旅行に行きたければ個人的に行きたい場所に行けばいいし、1人で行きたくなければ恋人とでも夫婦ででも、友人とでも、はたまた不倫相手の部下の女の子とでも行った方が楽しいでしょう。

 今回のリフォーム会社のツアー、社員はみな喜んで参加したのでしょうか? でもこれだけ世間の話題なった現在、針の筵に座らされている心境でしょうね。何とも、物悲しい話です。

2003/9/29

 「…北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)は28日、東京都内で幹事会を開き、次期衆院総選挙に向け、立候補予定者全員に拉致問題でアンケートをすると決めた。回答を集計した結果を、公示日前に発表する予定。アンケートでは(1)北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか(2)拉致問題解決の手段として経済制裁をするための外国為替法改正や特定船舶入港制限新法制定に賛成か…を問う」…というニュースがありました。
 要するに「踏み絵」ですね。いや、別に悪いことだとは思いません。国政選挙の立候補者に対して明確なスタンスを求める…という作業は、拉致問題だけではなく、あらゆる分野でやってしかるべきだと思います。
 ただ、(1)の質問、つまり「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか?」という問い掛け方は、私には納得できない部分があります。何故なら、私なら冷静に考えて回答を保留するし、公的な立場にある人間が私と同じように「保留」と回答したら、一斉に世論で叩かれるだろうと思うからです。

 「北朝鮮による日本人拉致」は、議論の余地がないほど「悪いこと」です。人間を拉致する…ということは、まず単純に言えば「誘拐」「人さらい」であって、それを実行した人間や命じた人間は、無条件で裁きを受けるべきです。…なんて話以前に、理不尽な誘拐を実行するなんてヤツはブチ殺しても構わない…と思います。こうした点では、私もごく一般的な意見の持ち主です。そしてもし、それを命じたのが「国家の意思」であれば、拉致事件は「国家的犯罪」以外の何ものでもありません。日本国民に対して国家的犯罪がなされたのであれば、日本という国家は「それなりに対応」する必要があります。質問(2)で問うている「拉致問題解決の手段として経済制裁をするための外国為替法改正や特定船舶入港制限新法制定」なんて話では、生温いかもしれません。その点だけをとってみれば、私は石原慎太郎氏とたいして変わらない意見の持ち主かもしれません。
 だから「北朝鮮による日本人拉致を国家的犯罪と認識するか?」という質問ならば、「国家が命じたという証拠があれば国家的犯罪。個人が行ったのであれば個人的犯罪」…と誰もが簡単・明快に答えることができます。
 しかし、質問が「日本人拉致をテロと認識するか?」となると、私を含めて「ハイ」と答えることを躊躇う人は多いはずです。

 あらためてここに書くまでもなく、「対テロが目的ならば、何をやってもよい」…ブッシュ政権の基本方針です。また、日本を含むアメリカに追随する多くの国の政府の基本方針にもなっています。しかし、こうした状況の中で「何がテロか」という「テロの定義」については、どの政府からもついぞ明確な答えを聞いたことはありません。
 私は、インティファーダなどのパレスチナ独立のための住民運動や武装闘争を「テロ」と断定し、過激派掃討を目的としてパレスチナ群衆の中にミサイルを撃ち込むイスラエルの行動は「テロではなく正当な防衛行為」とする…という価値観には、残念ながらついていけません。チベット独立運動やウイグル独立運動を「テロ」として弾圧する中国政府の行動は納得できません。チェチェンの独立運動を「テロ」として弾圧するロシアの行動にも賛同しかねます。クルド陣の独立運動を「テロ」とするトルコ政府の立場にも、アチェ州の独立運動を「テロ」とするインドネシア政府の立場にも納得していません。
 現在「テロ」という言葉は、「正確に定義」されていません。政治的な目的で、気に食わない国や団体を恣意的に「テロ国家」「テロ集団」と断定する…ことが行われています。
 過去の歴史を見ればわかる通り、歴史上起こった国家や民族の独立運動は、その大半が「小人数の武装蜂起」からスタートしています。小数が多数に対して戦うために、「ゲリラ戦」や「テロ」を戦術として採用することが多いのは当然です。現在、独立を願うパレスチナの行動を「テロ」と批判するアメリカ自身の独立もまた、ある種の「テロ」から始まりました。アメリカ独立戦争で非正規軍の「散兵戦法」は、ゲリラ戦の最初のものと言われています。イギリス軍に対して少人数の不正規兵がヒットエンドラン戦術で挑んだものです。

   私は無条件平和主義者ではありません。誤解を恐れずに言えば「時と場合によっては暴力を肯定する」という考え方に近いものを持っています。その私ですら、「国家的暴力に対して国家的暴力で対応するときには、明確な論理的・倫理的な理由や歴史的判断が必要」…だと考えます。もし「テロ」が、無条件で暴力的な報復が可能なほど悪いこと…であるならば、「テロとは何か」を、誰もが理解できる言葉で定義する必要があります。

 現在、公的な立場にある人が、「救う会」の行動や政治的スタンスに対して何らかの「異論」を述べることは、かなり勇気が必要な状況です。「無条件で従う」ことに徹しなければ、「大衆からの脅迫」が待っています。
 あえて言います。私は、「テロ」を正確に定義しないままで「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか?」という質問によって国会議員に対する踏み絵を実施する「救う会」のスタンスを、少なからず不快に感じています。「テロと認識している」と答えなかった人間は、「売国の輩」などといったステッカーを貼られそうな雰囲気があります。これは、拉致問題に対するスタンスの問題ではあろません。私は別にごたいそうな政治的信条など持ち合わせていませんが、「物言えば唇寒し…」という世の中は嫌いです。

2003/9/27

 今日は、自宅近くの小学校の「運動会」です。体調が優れないので遅くまで寝ていようと思ったのですが、早朝からマーチの音が鳴り響き、うるさくて寝ていられません。しょうがないから起きて、ベランダから見ていたら、最初にクラスごとに旗を持って入場行進、次いでいきなり低学年の集団ダンスを始めるんだもんなぁ…。くだらない!

 ところで、運動会って何のためにやるのでしょうか? 私は、教育現場に運動会なんて必要ないと思います。ちなみに、私の知り得る限り、アメリカの学校では運動会や学芸会なんてものはありません(アメリカの学校には「Field Day」と呼ばれるものがありますが自由参加です)。イギリスやカナダの一部の学校には、「Sports Day」なるものがありますが、これまた自由参加です。
 こんな本があります。日本の運動会は、近代化プロセスにおける「国民的な運動奨励」の流れの中で生まれたものでした。「日本国民の身体を調教するため」に、1870年代に始まったそうです。戦前までは非常に軍事演習的な性格だったものが、戦後は祭礼化・見せ物化が進んだ経緯があるそうです。まあ、想像通りですね。いずれにしても戦前は、ナチスによる「全体主義な健康増進運動」に近い形の動機付けがあったようです。

 いや誤解しないで頂きたいのですが、運動会の歴史がそうだからといって、私はどこかのサヨク団体のように「反軍国主義」の視点で運動会は不要…と言いたいのではありません。もっと単純に考えて、現在のような「見世物的運動会」を教育現場でやる意味がわからないのです。
 小学校あたりで実施する典型的な運動会は、「準備万端整えられた会場で大勢の観客に見守られる中、生徒全員による入場行進、整列の後は開会式が行われ、引き続き全校生徒による準備体操を行う。その後には、集団ダンスやマスゲーム、綱引き、徒競走、リレーなどの種目が続く…」というものです。目的はどうあれ、長時間練習した集団ダンスやマスゲームなどをイベントのような形で父兄に披露することに、いったい何の意味があるのでしょうか。
 だって、例の拉致事件公表後のTVニュースで溢れる北朝鮮報道の中で、あのマスゲームをどれだけ多くの日本人が笑い物にしているのでしょう。また、韓国で行われたユニバーシアードにおける北朝鮮美女軍団の一糸乱れぬ応援風景を不気味に感じた人は多いはずです。なぜ、小学校の運動会で、"北朝鮮ライクな"マスゲームや集団ダンスをやらなくちゃいけないのでしょうか。またそれを、大挙して父兄が見に行ってビデオに撮って喜ばなきゃならないのでしょうか。

 実際に、学習指導要領によると、運動会のような体育的行事は「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての理解を深め、安全な行動や規律ある集団行動の体得、運動に親しむ態度の育成、責任感や連帯感の涵養、体力の向上などに資するような活動を行うこと」を目的とする…と書かれているそうです。しかし、心身の健全な発達や健康増進の重要性は、別に日常的な他一句の授業で十分に教えることができます。責任感や連帯感の涵養なんて、集団でマスゲームやダンスをやらなくても達成できると思います。
 それと、最近の小学校の運動会は、準備や後片付けのためにPTAなど父兄が総動員されるそうです。これまた、バカバカしい話です。

 いや、今日は寝ているところを、近所の小学校の運動会の騒音で起こされたので、運動会に八つ当たりです。

2003/9/26

 またしても、「めまい」に悩まされています。昨日は、とうとう歩行することも困難なほどのめまいに見舞われ、仕事を休んで半日ほど寝込むはめになりました。
 2001年4月に前庭神経炎による猛烈なめまいで日大板橋病院に入院、2週間ほどで快癒して以降は、めまいとは無縁の生活を送ってきました。ところが、今年6月にまたしてもめまいに襲われました。ただ、前回のめまいがグルグル目が回る「回転系」のめまいであったのに対し、今回襲われためまいは、フラフラする「平衡感失調系」のめまいなのです。早速日大板橋病院へ出かけて耳鼻科の診察を受けたところ、耳鼻科系の異常はないとのことで、神経内科を紹介されました。たまたまその時には指先の痺れ感もあったため、神経内科では軽度の脳梗塞の疑いがあるということでMRIを撮影し、その結果、脳梗塞はなかったのですが頸部の神経と血管が圧迫されているのが原因との結論になり、薬を処方してもらいました。
 この6月に起こっためまいは、その後2週間ほどで快癒し、何事もなく日常生活を送っていた訳です。
 ところが、先週の前半頃から、この6月に起こったものと同様のフラフラする「平衡感失調系」のめまいが再発し、ガマンしながら仕事に通っていました。昨日そのめまいが急激に悪化、私は非常に不安になりました。
 私は、前回の日大板橋病院の神経内科の診断結果を、なんとなく疑っていたこともあり、今回は別の病院で診察を受けることにしました。そこでめまいの症例に対して治癒実績が多く、しかも知人の紹介を受けられる、文京区の日本医科大学附属病院で受診することにしました。
 今日は、朝から日本医科大学病院で検査を行ってきました。耳関係の検査ととともに、循環器系の病気を疑っての血液検査、さらにはまたしても頭部CTスキャンを撮影、そして頸部を中心に何枚もレントゲンを撮られました。今日の診断では、耳には異常なし、頭部にもCTで見る範囲での異常はないとのことでした。

 しかし、現実に私「めまい」に悩まされています。めまいというのは非常にやっかいで、胃が痛いとか、手足の関節が痛い…などの病気と較べて、非常に健康に対する「不安感」が増幅される感じがします。私は、特に健康体でなくとも構わないし、ガンなどで早く死んでも構いませんが、「原因不明」の病気を抱えて生きるのは嫌です。例えば、現在の症状を抱えたままでは、とてもじゃないけど、海外旅行になんか行く気がしません。私は、なんとしても自分のめまいの原因を突き止めるつもりです。こうなったら、原因がはっきりするまで、あらゆるツテを辿って病院を回ってやろうと思っています。原因さえわかれば、症状が改善しなくとも、それなりに納得はできると思います。

 ほんの気まぐれですが、掲示板のCGIを変更しました。新しいBBSは携帯端末からも書き込み可能なタイプです。従来どおり、何を書き込んで頂いても構いません。内容さえ面白ければ、「落書き」にお使い頂いても結構です。本当はスレッド型にしようと思ったのですが、まあ「活発な議論」や「活発な質疑応答」なんてものは全く期待していないので、適当なBBS用CGIでお茶を濁しておきました。むろん旧掲示板の過去ログは完全に保存し、閲覧可能な状態にしておきます。
 私はこのサイトを開設して約2年半になりますが、サイト訪問者の方々とあまり積極的にコミュニケーションをとってきませんでした。「運営方針」なんて大げさなことは考えたことがありませんが、基本的には「テキストの一方的垂れ流しサイト」を運営しているつもりです。縁があって閲覧されている方の中には、こうした方針を甚だ面白くないものと思う方もおられるかもしれませんが、何卒ご容赦を。

2003/9/22

 昨今、まともな日本語を書く人が減ってきました。若者だけの話ではなく、年長者でも文章の下手な人が多い。加えて、漢字を読めない、…というよりも「読みたくない」若者が増えています。漫画ばっかり読んでるんだもん…。
 こうした状況の中で、「意味の通る文」「わかりやすい文」を増やしていくことは日本語社会では急務であり、そのためにも日本語には欧文のような「分かち書き」を導入すべきです。
 タイ語は「分かち書き」もなければ句読点もありません。さらに、複数の母音を重ねて文中に入れるので、「単語の区切り」というヤツがさっぱりわからない。全く、「ナメンナヨ」って感じの表記です。しかし、考えて見れば日本語だって、至ってわかりにくい表記です。これもつまりは、日本語が「分かち書き」されていないからに他なりません。日本語は漢字混じりで書くから、分かち書きしなくてもなんとか意味が通るのであって、ひらがなやカタカナだけで文を書いたら、もう分かち書きしなければ、非常に意味がわかりにくい文になってしまいます。そういえば、「点字」は分かち書き基本としますが、当然ですよね。
 分かち書きを取り入れることには、もう1つ大きなメリットがあります。コンピュータによる自然言語処理が容易になる点です。全文検索エンジンや機械翻訳などのプログラムを扱ったことがある方はよくご存知でしょうが、ともかく分かち書きからスタートしなければ、コンピュータに文章を認識させることはできません。
 分かち書きを導入することで、おそらく多くの人が日本語についてより深く考えるようになるはず。「…のほうです」なんで、意味不明の「ほう」を多用する表現も減ると思いますよ。

 私なんか、いまだに「こっれぽち」の「ぽち」とか、「うそっぱち」の「ぱち」とかを口にするたびに、「ぽち」や「ぱち」はいったいどんな品詞なのか考えちゃってます。

 今日のテキストって、いったい何? 日本語? ふふ…

2003/9/20

 名古屋の「軽急便事務所人質爆破事件」では、加害者への同情が集まっています。まあ当然といえば当然で、「軽急便」のビジネスモデルは、かなり契約ドライバーに不利な形になっているようです。
 ここでは、名誉毀損の問題があるので「軽急便」のシステムを詳しく分析することなく非難することはできません。しかし一般論として、「独立開業型の軽貨物便」というのは悪徳商法としてはかなり有名で、契約者から苦情がたくさん寄せられている商法です。どれも、まず比較的高額な業者指定の配達用トラックをリースなどで購入させ、さらにフランチャイズ料金を徴収し、顧客を紹介する…というシステムであり、基本的にはフランチャイズ側は絶対に損をしない仕組みになっています。
 類似商法として、高額のパソコンを買わせて在宅ワークを紹介する…というシステムがあります。あまり仕事を紹介してもらえないので収入は伸びず、結果としてパソコンのローンだけが残る…というシステムです。資格商法も同じです。「○○○という資格を取得すれば、月収○○万円以上は確実」などと宣伝し、資格を取るためにバカ高いお金を取る…というヤツです。
 スポーツ新聞の求人欄などに「軽貨物配送自営ドライバー募集 月商30万円〜60万円」とか、「独立開業 月収50万円」「SOHO開業 在宅ワークで高収入」などと書いてあるのは、かなりの確率で詐欺的商法でしょうね。そういえば、問題の「軽急便」もホームページで「独立開業月収30万〜50万円」などと書いていました。
 いずれにしても、リストラされた失業者や中高年、主婦などを食い物にして、なけ無しのお金を搾り取る…という商法は、後を断ちません。

 でも、やっぱり理解できないのは、こういう広告に騙される人達の方です。独立開業なんて簡単にできるものじゃないし、簡単に月に数十万円の収入が得られるわけはないじゃないですか。第一、基本的には「独立開業」というのは、「自分で仕事を取ってくる」ところから始まるわけです。お金を払ったら誰かが仕事をくれる…っていうのは、本来の意味での独立開業ではありません。ましてやSOHOでもありません。だから、「フランチャイズ・システム」ってやつの大半は、本当の独立開業とは全く意味が違います。
 私は、長い間自営の仕事をやっているので、仕事を取ってくることの厳しさについては、身をもって理解しています。ともかく、自分の力で仕事を取る…ところから独立は始まるし、それがまた一番難しいことです。どんな分野にせよ、誰かが簡単に仕事をくれる…なんてことあるわけがない。そんな楽に独立できるビジネスで儲かるわけがない。なぜ、こんな当たり前の現実がわからないのでしょう。
 大企業にしか勤めた経験のない人や十分な社会経験を積んでいない主婦…といった人達は、どうもここらへんの社会常識が全くない人が多い。大手企業のサラリーマンが、「脱サラ」と称して数ヶ月の研修でフランチャイズのチェーン系ラーメン店を開業して、客が入らず失敗し、高額な加盟料を支払った分だけ損をした…なんて話は、ゴロゴロあります。知り合いでフランチャイズで大手コンビニチェーン店を開業して失敗し、数千万円損をした人もいます。サラリーマンの退職金なんて、フランチャイズ企業から見ればいいカモです。ともかく「自分の力で仕事を確保する」ことの大変さについては、もっと現実的な知識を身に付けて欲しいものです。

 同じように「資格商法」なんてのに引っ掛かる人間も、よく理解できません。簡単に取れる資格で収入を得られる…なんて話を、なぜ信じるのでしょう。昨今、資格をとるだけですぐに収入に結びつくなんて、そんな資格は医師、歯科医師、看護士、弁護士、公認会計士、税理士、司法書士…ぐらいでしょうか。「簿記」などはむろん、「宅建」や「旅行取扱い主任」あたりでも、取得しただけですぐにお金になるわけではありませんし、就職にさほど役立つわけではありません。美容師なんかも、完全に過剰気味。私が関連してる業界の例で言えば、パソコン関係や情報処理関連の資格の大半は、社内での給与アップに繋がる例はあっても、一般的には就職や求職には無意味です。DTPエキスパートなんて資格も、取得しても仕事の確保とはほとんど結びつきません。
 それどころか昨今では、かなり取得が難しい資格である司法書士や行政書士だって、何のコネもない取得者にはまともに仕事がない状態です。最難関資格のひとつである税理士ですら、顧客を獲得しての新規独立が難しい世の中です。私は、「資格はあっても食えない税理士」をたくさん知っています。歯科医も、都市部での新規開業はほぼ不可能で、東京都区部あたりでは開業医の倒産・夜逃げも増えています。保険点数による歩合制の病院勤めで月収20万円前後…なんて歯科医の例もザラにあります。ケアマネージャーや介護福祉士などの福祉関係の資格なんて、大半がまともな収入には結びつかないものばかり。
 どっちにしても、主婦やサラリーマンが片手間に数ヶ月から1年程度の期間を勉強して取れる資格なんてのは、まず絶対と言っていいほど収入には結びつきません。世の中、そんな簡単にビジネスができるわけがないでしょう。
 こういう「たいていの資格は収入に結びつかない」…という社会の現状は、ちょっと調べるか、誰かその資格を持っている人に聞いてみれば、すぐわかることです。

 フランチャイズ商法や資格商法などで失敗する人を見ていて、「単純な詐欺に引っ掛かる方が悪い」とは、さすがに言いません。引っ掛ける方が悪いのは自明ですから。しかし個人的には、やはり心のどこかに「単純な詐欺に引っ掛かる方にも責任はある」…と、考えたくなる部分があります。

 …今日は、ちょっと真っ当なことを書いてみようと思ったんですが、読み直してみると、こういうテキストって面白くも何ともないですね…

2003/9/19

 スポーツについて書いてる個人サイトって多いですね。みんな勝手なこと書いてて、面白い。で、私もサッカーについて書いてみよう。むろんサッカーなんて高校の体育の授業以外に競技経験はないので、いわゆる長屋談義の類です。

 サッカーの日本代表、U-22代表が負け続けています。たまたま先日の日本代表のセネガル戦や一昨日のU-22代表の対韓国戦を部分的に見る機会がありましたが、見ていて全く勝てる気がしないです。セネガルの選手や韓国の選手とは躍動感が違うというか、技術が違うというか、身体能力が違うというか…、もう何もかも全然違う。特に差を感じるのが、プレーのクリエイティビティです。強いチームの選手は試合中に「ハッ」と思うような動き、プレーをしますが、日本の選手は次にどこにボールを出すか、どう動くか…が、なんとなく予測できます。動きに独創性がないですね。ともかく日本代表は弱い!って感じ。次のワールドカップは、ほぼ間違いなく予選敗退でしょうね。
 で、笑っちゃうのは、スポーツニュースなどを読んでいると、日本代表の問題点として「決定力不足が課題」という言葉がやたらと出てくること。
 サッカーっていうのは、「点をたくさん取った方が勝ち」というスポーツじゃないですか。「決定力不足が最大の課題」っていうことは、要するに「点が取れないのが課題」ってことですよね。点が取れなきゃ全くダメってことじゃないですか。課題もクソもないでしょう。
 …いや、わかっています。得点の直前まではいい形で行く…ってことでしょ。でも、それってよく考えるとヘンな話。点を取ることが目的のスポーツで、最終的なシュートの直前までどんないい形で持っていこうと、点が取れなきゃ何の意味もありません。逆に考えてみましょう。サッカーってのは、シュート直前までの攻撃がどんな悪い形でも「点さえ取れれば勝ち」なわけですよね。で、点を取るチームがよいチームだし、結果的に点を取れた戦術こそが「よい戦術」ということになります。だから「戦術や技術は問題ないが、点が取れないことだけが問題」…という考え方は、矛盾していると思います。

 あ、そうそう、中田英寿は喋らない方がいいですね。たまにインタビューに答えているのを聞くと、声がキンキンと高いし、喋る内容もすごくバカっぽい。公式サイトも一度見たことありますが、本人が書いてるって内容もバカっぽいですね。私は、彼は本当に頭が悪いと睨んでますが…(違ったらゴメンンサイ)。あと、サッカーの有名選手ってインタビューを受けたとき「…でね、…でね、…でね…」と、やたらと「…でね」を多用して、句点の無い長い文を喋りますよね。高原とか小野なんかも、「…でね、…でね…」って同じような喋り方をします。あれって、昔よくインタビューを受けてた三浦知良とか前園とかの話し方が広まったんじゃないかと思うのですが…。あれ、アタマ悪そうに感じる話し方ですね。句点無しで接続詞を多用して延々と区切りの無い文章を喋る…っていうのは、考えてみれば長嶋茂雄もそうですねぇ…

 私は、三顧の礼でトルシエに戻ってきてもらうのが一番だと思います。要するに世界の一流選手と較べると、日本の選手は相対的に「下手」なんでしょう。個人ベースで身体能力や技術が劣る日本サッカーは、「組織」と「戦術」で戦えばよい…というのは素人でもわかる話。
 トルシエはよかったですね。日本人と日本のサッカーを、完全にバカにしてましたから。一段高みに立って見てたから、有無を言わせず戦術を教えられましたから。そこがよかったんです。
 ジーコのような「選手の自立を促す」ってのは、クリエイティビティのない選手が多い日本のスポーツには合わないんですよ。やっぱり「根性」「スパルタ」と「浪花節」をうまく使い分けないと、日本のスポーツ選手の多くは育たないんですね。殴ったり、頭撫でたりしてる阪神の星野監督も、結局そうじゃないですか。
 もっとも、サッカーの日本代表がワールドカップに出ようと出まいと、そんなことはどっちでもいいです。それより、トルシエとダバディのコンビをもう一度見てみたいです。

 話は変わって、暴力団員に歯を7本ペンチで抜かれた大学生の話…、怖いですね。要するに、世界的にポピュラーな拷問ですね。麻酔無しで歯を7本抜かれる痛さもさることながら、女子高校生が「お金が取れる」って暴力団に依頼するところがもっと怖いです。先日の埼玉で起こった殺人事件でも、16歳の女の子が暴力団員と付き合ってました。どうして、女子高校生が暴力団と知り合いなんでしょう。それと、このニュースに出てくる「指定暴力団」…って、実にヘンな言葉です。「指定された暴力団」って何? 何を指定しているのか知りませんが、暴力団の存在を認めているわけですよね。調べてみたら、都道府県公安委員会が指定するんだそうです。指定された暴力団の構成員が、「一定の行為」を行うことを禁止しているんだそうです(こちらを参照)。さっぱりわかりません。暴力団を「指定」するなんてヒマなことやってないで、「暴力団」という存在そのものを違法にして構成員を全部捕まえりゃいい…って考えてるのは私だけじゃないと思います。
 歯を7本抜かれた学生の方も、あんまり可哀相に感じないです。どんな形にせよ女性と付き合うときは、ちゃんと相手を見なくちゃ。歯の修復は、やっぱりインプラントですか。高くつきます。それに医療事故も多いんですよ。

 この日記、書いてる内容が、だんだん壊れてきてます(笑)。読んでて不愉快になる人、多いでしょうね。むろん、苦情は一切受け付けません。

 今日は、画像付けときます。サイゼリアの380円のモーニングです(D505iで撮影)。
 パンはフォカッチャかトーストを選べるんですが、トーストを選ぶと写真のような細長い小さなパンが2本ついてきます。食感は食パンに近いですが、不思議な形状で見たことのないパンなんですよ。
 池袋西口のサイゼリアの朝って、雰囲気いいですね。夜勤明けの水商売関係の方がいっぱいいて、ビールなんか飲んでます。いかにもキャバクラ勤め(根拠なし)って感じの女性がテーブルに突っ伏して爆睡してたりまします。なんか、すごく「都会っぽい」光景です。

2003/9/18

 いやぁ、もうダメかも。年をとったせいか、「生きる力」ってヤツが希薄になってきました。相変わらず頭痛というか、頭のふらつきが治らないし…。仕事やってても、イマイチ集中力に欠けるし…。アタマも悪くなってきたし…。けっこう毒いっぱいの人間だったはずなのに、その毒も抜けてきたし…。ついでに、デジカメなんてつまらんし…。何だか、人生そのものもつまらない。
 何かムチャたりたい。仕事を放り出して原チャリで日本一周するとか、半年ぐらいかけて目的の無い海外貧乏旅行に行くとか…、いや、その程度の安易なことやっても「生きる力」は戻ってこないかも。
 有り金全部を、適当なキャバクラのオネーチャンに貢いでその挙句に捨てられる…ってのはどうだろう。いや、キャバクラってところに行った事が無いので、どんな女の子がいるのか見当がつきません。貢いでも捨てられても面白くないような女性しかいなかったら、つまらない。区議会議員か都議会議員あたりに立候補する…ってのはどうだろう。何か人生が変わるかもしれません。しかし、万一当選でもしたら面倒。議員なんて仕事は3日もやったら飽きそうです。第一、政治や宗教や、はたまた特定の主義主張には絶対に熱中できないのは、自分自身がいちばんよくわかっています。自分のアタマが紡ぎ出すこと以外に、信じるものなんて何もありません。

 私は、もしかするとけっこう平凡で、幸せで、つまらない人生を送っているのかもしれません。だって、子供の頃から現在に至るまで致命的な挫折経験は無いし、事故で大怪我しても治ったし、仕事だって別に大きなトラブルを経験したことはないし…。離婚したり、女性とトラブル起こしたりしても、別にその後で刺されたり、家に火をつけられたりしたことはないし…。貧乏したことはあっても、日々の生活に困ったことはないし。第一、他人から見ると「挫折」や「失敗」や「不幸」に見える状況にあっても、自分自身がそう感じない性格だから、ダメージを受けないのです。

 …と、こんなことを考えながら、結局普段と同じように仕事を続ける私です。今夜あたりは、ネット通販でムチャクチャに買い物をするかもしれません。まあ、その程度のヤツってことで…

2003/9/17

 それにしても最近は、「小型・軽量デジカメ」がますます増えてきました。それも、本体重量が100g前後の製品が次々に発売されます。小型デジカメ大好き人間の私としては、まったくもってうれしい状況です。
 「WS30の世界」はデジカメサイト…と各方面から思われているらしいので(ホントは違います!)、一応最近発売された小型デジカメを中心に、個人的な論評を書いてみましょう。むろん、どれも使ってみたことはないので、スペックを読んだだけの単なる「何の参考にもならない、いいかげんな感想」に過ぎません。

●CANON「IXY DIGITAL L」
 本体のみで100gってことは撮影時重量は120〜130gぐらいでしょうか。最近CANONのデジカメのデザインは昔よりもシンプルになったと思ってましたが、この「IXY DIGITAL L」はデザインもカラーもあざとい…、っていうか女性狙いが見え過ぎです。東芝の「sora T30」を思い出しちゃいました。400万画素はいらない。400万画素で同程度のサイズ・重量の製品なら「DSC-F77A」の方が面白い。私はパスです。
●京セラ「Finecam SL300R」
 相手にカメラを向けていることを意識させずに撮影できるスイバルは魅力。サイズも小さくニコン「SQ」あたりよりはよっぽどいい。…とは言え、総重量は150gぐらいは行きそうだし、サイズも今ひとつ中途半端。単焦点でもっと小型化すれば面白いんですが…。やはりズームへのニーズは高いんでしょうね。
●SONY「DSC-U50」
 超小型でスイバル、実は確実に購入しようとを決めていました。ところが…、某所で実際に手に触れてみて、少し気が変わりました。速写性があまりよくない感じがするのです。片手でパッっと撮れないというか、レンズキャップを外す…という作業が必要です。それと、メモリースティックDUOというのも、ちょっと萎えます。新たに大容量のDUOを買うのは、全く余分な出費になります。第一、DUOを使うのなら、もう少し小さくして欲しかった。当面は、U30でいこうかと考えています。
 最近はむしろ、クレードル添付をやめて3万円台の低価格になった「DSC-F77A」を買った方が面白いんじゃないかと…
●Panasonic「D-Snap」シリーズ
 初代D-Snapを使ってみて、「こりゃ売れるわけない」とは思いましたが、その後ここまで動画デジカメのコンセプトを煮詰めてきた松下さんはたいしたものです。一応目玉ともいえるのが「SV-AS10」でしょうが、これはいくら200万画素のCCDを搭載したからと言えども、MPEG-4カメラじゃないので魅力なし。「SV-AV30」の後継機「AV-35」もなんとなく、デザイン的に面白くない。そうなるとやはり、「SV-AV50」に強く興味を惹かれます。これはもしかすると購入する可能性アリ…ですね。
 MPEG-2ムービーカメラ「SV-AV100」は、ちょっと興味アリ。画質を見てから判断します。

 さて、小型デジカメ以外で最近気になったのは、次の3機種でしょうか…

●リコー「Caplio G4wide」
 広角側の28oは確かに魅力、さらに1cmマクロも面白い。写りだって悪くない。サイズ・重量もそこそこです。でもなぜか、どうしても欲しい…と感じるような魅力はありません。デザインの問題でしょうか。「デジタルGR-1」を望むユーザーは非常に多いのですから、もう少し質感を高めて光学系にもお金を掛け、値段を上げたら売れる…と思うのは私だけではないでしょう。
●富士写真フィルム「FinePix F700」
 スーパーCCDハニカムIV「SR」による高ダイナミックレンジ化は、確かに魅力。高画質カメラにしては小型だし、ホールドしやすそうなオーソドックスなデザインも悪くない。実は、これも買おうと思っていました。しかし、最近あちこちにアップされているサンプル画像を見ると、イマイチ「普通」って感じで、あまり魅力を感じません。迷っちゃいますね。発表から発売まで待たされ過ぎた…せいかもしれません。
●SONY「DSC-F828」
 800万画素って…凄いですね。4色カラーフィルターを採用した「4 color Super HAD CCD」もなんだか良さそうだし…。でも、いまのところは全く欲しくありません。こんなデカいカメラは、どう考えても使い途がないのです。旅行なんかにはもって行かないし、仕事用には一眼レフタイプの方が使いやすいですし…。でも、女の子の写真を撮る時には、けっこうハッタリかませるかも。まあ、欲しくはないですが一度使ってみたいです。

2003/9/16

 9月も中旬だというのに、真夏と同じような暑い日が続きます。阪神が優勝して日本中が騒然となっています。そんな中で、いつもながら変人が考える誤字脱字だらけの「文意不明瞭」の戯言が続きます。別に深い意味や訴えたい内容を持つテキストではありません。

 さて、第46回江戸川乱歩賞受賞作で講談社から文庫化された「脳男」(首藤瓜於)を読みながら、精神と脳の働きについて、愚にもつかないことをいろいろと考えてしまいました。人間の脳の働きを考えると、「異常」と「病気」の境界は曖昧です。そんなことを考える中で頭に浮かんだ、唐突な話を書きます。

 例えば、「毎日のように夢の中に宇宙人が現れて、その宇宙人からお告げがある」と断言する人がいたとします。その人は、日常生活を宇宙人のお告げに従って行動しているとします。こういう人は、果たして「精神異常者」でしょうか? 精神異常者という表現は微妙ですね。言い換えましょう。「夢に出てくる宇宙人のお告げに従って行動している」…という人は何かの精神病なのでしょうか? 治療した方がよいのでしょうか?

 「夢に出てくる宇宙人のお告げに従って毎日行動している」という人に対して、素人目ながら精神に何らかの異常がある可能性を感じるのは、おそらく次のような理由です。

   ・毎日のように同じ宇宙人が夢に現れることの異常性
   ・宇宙人がお告げをすることの異常性
   ・そのお告げに従って行動することの異常性

 宇宙人というのは、科学的に見てその存在は証明されていません。ほぼ確実に言えることは、宇宙人が存在していたとしても、宇宙人が地球に来ている可能性はゼロに近く、ましてや宇宙人が人間とコミュニケーションを取っている可能性は、さらに限りなくゼロに近い…ということです。「お告げ」のような形で夢に出てきて、人間が理解することばを喋る…ということは、まあ100%に近くあり得ません。本当に毎晩夢の中で宇宙人と話をしている…人がいるとすれば、夢の中で話している相手が宇宙人であるはずはなく、何か本人の脳が生み出した幻影である可能性はあるでしょう。いずれにしても、私自身が毎晩夢の中に同じ宇宙人が出てきて喋ったとしたら、即、精神科か神経内科で診療してもらいます。

 一般的に見て、もっとも異常だと思われるのは、宇宙人の有無の問題ではなく、3番目の「自らの行動規範を宇宙人のお告げに頼っている」点でしょう。普通の人間は、日常生活における行動規範を、自ら行う善悪の判断とか合理性の有無の判断、さらには社会規範との整合性の判断…等に頼って律するものであり、けっして「宇宙人のお告げ」には依存しません。

 さて、「夢に出てくる宇宙人のお告げに従って毎日行動している」人を異常と感じる…というここまでの話は、それほどムチャなものではないでしょう。しかし、世の中にはこうした常識的な判断の延長では判らないことがあります。
 「宇宙人のお告げを行動規範とすること」をあきらかに異常と感じる人は多いはずですが、これが「神様のお告げを行動規範とすること」となると、あまり世間一般から異常視されないのはなぜでしょうか?

 例えば、「聖母マリアが夢に出てきた」とか「弘法大師のお告げ」とか…この手の話は、歴史の中では山ほどあります。で、こうした「お告げ」を聞いた人が「お告げに従って行動する」…というケースも数限りなくあります。だいたい歴史上偉大な宗教家の多くは「お告げ」を聞いています。そしてそのお告げに従って行動するだけでなく、お告げの内容を他人に広めようとさえしています。
 むろん、心理学的に見れば「自分の願望がそのまま夢の中に出てきた」…というケースも多いでしょうし、さらには別に夢になんか出てこないにもかかわらず「布教面での戦略的な理由」や「権威付け」のために、「お告げがあった」とウソを言う宗教家も多いでしょう。この際、実際にお告げがあったかどうかはどちらでも構いません。私が不思議なのは、「宇宙人のお告げを行動規範にする人」に対しては、「精神に異常がある」と考える人がけっこう多いのに、「神のお告げを行動規範とする人」は、周囲の人間のほとんど誰もが精神に異常があるとは考えない…という現実です。

 私は、「神のお告げ」が聞こえる人も、「宇宙人のお告げ」が聞こえる人も、大差ないというか、全く同じだと考えちゃいます。成文化された経典を持つキリスト教やイスラム教や仏教が「宇宙人のお告げ」と同じ代物だとはさすがに思いませんが、それでもこうした世界宗教の宗派の中には、「宇宙人のお告げ」と大差の無いイカレタ教義を持つ宗派が山のようにあります。ましてや、例の白装束集団とか某地下鉄大量殺人教団のような意味不明の宗教集団の教義を信じる人間たちに対して、何故「精神鑑定」をしないのか、誰も「治療」を試みないのか、不思議といえば不思議です。

 前述したように、私は、人間は日常生活における行動規範を自ら行う善悪の判断とか合理性の有無の判断、さらには社会規範との整合性の判断等に頼って律すべき…と考えています。そんな視点で見ると、宗教が「文化」だなどとは、とても思えません。宗教が自律的判断の支えになるとは、どうしても思えません。多くの場合、宗教は人間の自律的判断の「ジャマ」になる存在です。たとえどんな立派な教義であろうとも、その「教義に従う」ことを絶対とすることは、「自らの判断」を不要にすることと同義です。私にとっては、「ある人が宗教を信じている」という状態は、その人が自ら考えることを放棄している…状態を意味します。また、民主的(?)手続きで内容を変更できない…宗教の「教義」のような存在は、時代や社会の価値観の変化に対して全く対応できません。世界の全ての宗教の教義を、燃やして灰にしてしまった方がまともな世の中になるのでは…と考えることは、けっこうあります。

 今日の写真は、池袋西口ロサ会館の北側入り口付近に半年ほど前に開店した小さなエスニックレストランです(D100iで撮影)。
 「トルコ・シリア・エジプト料理」と書いてあり、数人座れる椅子とテーブルがありますが、基本はテイクアウトのようです。この店、目立たない場所にありながら独特の雰囲気があり、開店した時からずっと気になっています。何か食べてみたいのですが、どんな味なのか不安で、まだ未体験です。近々チャレンジして結果をご報告します。
 そういえば、池袋西口で私が最も愛したラーメン店「ぶしょうや」が閉店したようです。ちょっと寂しいですね。

2003/9/12

 今日は、極めつきの「戯言」を書きます。

 世の中がおかしくなった…と言う話が各所で話題になっています。巷で起こる犯罪を見ていても、意味のない殺人やら、原因のよく判らない傷害事件、子供が起こす凶悪事件などがやたらと増え、ちょっと怖い感じがすることは確かです。
 世の中が変わってきた(本当に昔と較べて変わったのかどうか知りませんが…)原因については、教育者やら評論家やら政治家やら、ありとあらゆる立場の人が、めいめい勝手に様々な理由を挙げています。学校教育に原因があるという人もいれば、子供に対する親の躾を原因に挙げる人もいます。広範囲に普及したTVゲームが悪いという人もいれば、食生活の変化が原因という人もいます。コンピュータ社会がもたらす疎外感を原因とする人もいます。挙句には、地球環境の悪化に原因を求める人もいて、まさに百家争鳴の状況です。

 私は、最近の妙な世情を見ていて、別のことを感じています。一口で言うと、最近の日本は「論理性が欠如した社会」になりつつある…ということです。子供から大人まで、家庭内の会話からビジネス現場の会議で交わされる議論まで、そしてテレビのバラエティ番組中のタレントの会話から、政治家や官僚の談話に至るまで…、世の中で交わされる会話や議論、そして主張の何もかもが、論理性の無い話ばかりになっているような気がするのです。
 この「社会のあらゆる場面での論理性の欠如」が、現代日本の不可解で危険な社会を作り出している大きな要因の一つ…と、考え始めています。つまり、「論理性のない思考が合理性のない行動を産んでいる」のだと思うのです。

 私は「論理性がない話」が嫌いです(このサイト内のテキストの論理性の無さを挙げて反論しないで下さい…笑)。私は、誰かが何かを主張する時、その主張に含まれる論理が正しいか正しくないか?…については、ほとんどこだわりません。どんな突拍子も無い意見だって、反社会的な主張だって、たいていはじっと耳を傾けることができます。しかし、話の内容に矛盾があると…、言い換えれば、論理性のない話を聞いているとだんだんイライラしてきます。論理は高度でも幼稚でも構いません。要するに矛盾さえなければよいのです。こうして、論理性のない話にイラつている私は、どこかヘンなのでしょうか?

 ところで、小・中学校、高等学校から大学に至るまでの学校教育現場から、「最近の子供は論理的に考える力が無くなった」という声が挙がっているそうです。
 「背理法とは何かを20字以上100字以内で説明せよ―」という問題が、昨年の東京理科大の数学の入試問題で出題されて、大きな話題になりました。背理法とは、「ある事が成り立たないと仮定すると矛盾が生ずる。従ってその命題は成り立つはず」とする、「結論を否定して矛盾を導く」という論法で、これは高校の教科書に必ず載っている簡単な定理です。この簡単な入試問題の正答率は、わずか5%前後と極端に低かったそうです。不正解の多くが、「説明が日本語の文章になっていなかった」のだそうです。座標や行列の値を求めたりする問題には正答率8、9割のものもあったにも関わらず…です(この話は朝日新聞の記事からの引用です)。
 正答率が低かったのは、なんとなくわかるような気がします。学校教育の現場で論理的思考を身に付けさせることをしないばかりか、論理的な日本語の文章を書く訓練が、社会全体で不足しているからだと思います。むろん、子育ての中で、論理的に子供に話しかけない親も増えているのでしょう。
 さらに、こうした論理性のない若い世代が増えたことは、学校教育や家庭環境だけに責任があるわけでもないと思います。考えてみれば、テレビのニュースで流される小泉某だの石原某だのの発言を聞いていると、およそ論理性の対極にある支離滅裂な発言ばかりです。こういう大人ばかりが作る社会環境の中では、論理性なんてものは絶対に身に付きません。

 私は。小さい子供のうちから「論理的思考」を、もっと教えるべきだと思います。子供の周囲の親や教師は、子供に対して常に論理的に話し掛けなければなりません。学校教育の中でも、論理性を高める教育をすることは出来そうです。ノーベル賞を受賞した福井謙一博士は、教育審議会で 「論理的な思考を養うには、平面幾何の問題を多く考えるのが一番いい。 学校でもっと図形の論証問題をやったらどうか」との意見を述べました。これには反対が多かったそうですが、私は賛成です。図形の論証問題は、明らかに論理的思考を養うためには役立ちます。
 さらに、「ディスカッション」を繰り返すことも必要です。それぞれが異なる立場に立って議論し、相手の主張の論理矛盾を突いて論破する…というゲームは、論理的思考を育むための非常によい訓練になります。
 ともかく、「高度な論理」である必要はありません。幼稚な論理でも構わないから、とりあえず「論理的に物事を考え、合理的に行動する」という習慣を、子供のうちから身に付けさせる必要があるように思います。

 そして論理性について考えていくと、「日本語」という言語体系についても考えてしまいます。日本語における曖昧性が認識論や論理性を育む土壌を阻害した…という話は、日本で近代において言語学や構造主義の論客が育たなかった理由としてよく言われることですが、確かに日本語は「論理性」に欠ける部分もあります。こうした日本語の持つ曖昧さを、「日本的、東洋的な和の思想」を産んだ理由として賛美する向きも多いようですが、私はそうは思いません。東洋的思想、和の思想…なんてものは、本当にあるのかどうか怪しいものだと思っています(この話は別の機会に書きます)。
 私は、論理的な社会を取り戻すために、日本における公用語を日本語から他の言語に変更しろ…なんて過激なことは言いません。しかし、国語審議会あたりで日本語の論理性をもっと高める工夫…をしてもよいのではないかと思います。これは品詞、文法、表記法などを多岐に渡って検討し、日本語の完成度を高める作業と位置づけることができるでしょう。

 そして最後に思うのは、論理的に考える力というのは後天的に身に付くものなのでしょうか? 根拠のある話ではなく漠然とした思いなのですが、論理的思考力は「知能に近い位置にある先天的な能力」に負う部分が大きいのではないか…という気もしないではありません。特に「高度な論理」を考え、駆使するためは、やはりある程度の「持って生まれた才能」が必要のようです。

 まあ、何はともあれ、わけのわからない犯罪が多発する社会に対する恐怖は、私自身も強く感じています。何らかの手を打たないと、怖くてオチオチと外を歩けない社会…がひどくなりそうです。

2003/9/10

 私が嫌いな文芸評論家で大学助教授の福田和也が、「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」と言う本を上梓しています。その福田和也に習うわけではありませんが、私も「ひと月50冊の本を読む方法」という駄文を書いてみました。
 何度も書いていますが、私は「活字中毒」とも言えるような常軌を逸した本好きです。そんな私の読書法など、誰の参考にもならないとは思いますが、とりあえず気が向いたらお読み下さい。

2003/9/9

 昨日書店の旅行書コーナーを見てて気が付いたのですが、世界のトップホテルのサービスやアメニティ、様々な施設を紹介し、それらを利用して「ホテルライフを楽しもう」という主旨の本やムックがたくさん発売されています。ホテルのサービスや施設を徹底して利用しつくそう…という人は、けっこう多いらしく、同好の士が集まるサイトなんかもあるようです。
 私は、仕事、プライベートを問わず国内外を旅行する機会が多いので、ホテルはよく利用する方だと思いますが、「ホテルライフを楽しもう」というスタンスでホテルを選ぶことはありません。ホテル内の施設だってほとんど利用しないし、アメニティにもほとんど興味がありません。理由の一つに、私には「リゾート」という概念が無い…ということもあるでしょう。国内外共に「街歩き」「都市生活」が好きな私は、リゾート地で何もせずに過ごす…という滞在が嫌いです。同じ「何もしない」のであれば、都市生活を楽しみます。ホテル内のアスレチック施設やらプールやらを利用するよりは街を歩いている方が楽しいし、ホテル内の飲食施設を利用するよりも街のレストランやバーで食事をします。だから私は、ホテル自体の快適性よりも、周辺環境の快適性の方を重視します。それゆえに、ホテル選択にあたって最も大切なのは、「ロケーション」ということになります。

 とは言え、寝る場所でもあり、夜の一時をくつろぐ場所でもあるホテルの選択基準に、「快適性」があることは言うまでもありません。従来の私は「100%ロケーション重視」の姿勢を崩さなかったのですが、最近年をとってからは、ある程度の快適性を求めるようになりました。

 国内は主に仕事で出張することが多いのですが、基本的にはビジネスホテルを利用します。ただ、最近はネット予約などシティホテルに安価に宿泊できるプランがいろいろと利用できるようになったので、シティホテルの利用頻度が高くなってきました。要するに、「コストパフォーマンス」を考えると、ビジネスホテルに泊まるよりも格安プランでシティホテルに泊まった方がお得…ということです。
 例えば、大阪は最も出張の頻度が高い場所ですが、ここ10年ほど私の大阪の常宿は新梅田のウェスティン大阪です。先日、経営不振から産業再生法が適用されたのは残念ですが、私にとっては非常に快適なホテルです。15年ほど前までは、三井アーバンが常宿だったのですが、このクラスのビジネスホテルでも宿泊料は1万円前後です。ウェスティンあたりでも、割引プランを使えば、シングルで1.5万円程度、エグゼクティブフロアのダブル・ツインでも2万円前後で泊まれます。しかも、ウェスティンの部屋の広さとサービスは、かなり満足できる水準にあります。エグゼクティブフロアなら、フロントに降りなくても清算できるし、上の階で食べる朝食も旨い。そういえば、以前お正月明けに仕事で泊まった時に半日時間が空いたので、コンシュルジュに電話して「京都で旨い昼飯を食いたい」と言ったら、なかなか予約がとりにくい老舗の料亭の離れの部屋の予約を取ってくれたりしました。その次に泊まった時には、コンシュルジュの方から、「京都でお食事の予定は?」なんて電話があり、夕食の段取りを依頼したら、なかなか予約が取りにくい「鳥居本」を予約してくれました。ホテルのサービスとしては、かなり行き届いたものです。
 名古屋も仕事でよく行くのですが、実家があっても泊まる事はほとんどなく、仕事の時にはたいていホテルを取ります。常宿は、珍しくも「名古屋観光ホテル」です。最近の名古屋はヒルトンやマリオット、東急などたくさんのホテルができましたが、「名古屋観光ホテル」は「名古屋キャッスル」と並ぶ老舗ですが、キャッスルがまだまだステイタスを保っているのに較べて、名古屋観光ホテルの方は凋落著しいと言えます。いまや、寂れた老舗です。でもビジネスホテル並みの価格で、老舗のホテルらしい落ち着きがあって肌理細やかなサービスを受けられるし、ツインなどを予約すると部屋も広くていいですね。シングルなら、ビジネスホテル並みの価格で泊まれます。
 以前名古屋には、駅の近くにこじんまりしたセンチュリーハイアットがあって、実は非常に気にいっていました。東京のハイアットとは異なり、客室数が50室ぐらいしかない小さなホテルなんですが、居心地がよかったんです。でもここは、数年前に廃業してしまいました。

 海外でのホテル選択となると、さらにロケーションの重要性は増します。基本的には、ロケーションがよくてほどほど快適なホテル…を探すわけです。それに加えて、ここ数年は「快適なネット接続が可能かどうか」が重要になってきました。
 値段も重要な問題です。最近では、若い頃のように、欧米のB&Bやアジアのゲストハウスのような安宿に泊まることはありません。かといって高級ホテルに泊まることもありません。欧米では1泊100ドル以下でロケーションがよいホテル…が基本です。アジアでも物価の安い中国やタイあたりなら、1泊50ドル前後が1つの基準になります。しかし、とりわけホテルが高い地域、例えばニューヨークなどでは150ドル程度まではやむを得ないでしょう。あと、ヒルトンやホリディインなど大規模チェーン系のホテルは出来る限り泊まらないようにします。あまり面白くないからです。
 1箇所の滞在が1週間以上に渡る時、また同行者がいる時には、サービス・アパートメントを利用することもあります。ニューヨークならEAST SOHOにあるOFF SOHO SUITES、シカゴのResidence Inn、バンコクならスクビットのソイ13にあるロイヤル・プレジデントなど、値段も手頃なキッチン付きの広い部屋を選べます。

 たまにきまぐれで高級ホテルに泊まることもあります。欧米の高級ホテルは値段が高過ぎますが、ニューヨークのプラザのような超高級ホテルでなくとも、シーズンオフに、シカゴの「パーマーハウス」やサンフランシスコの「セントフランシス」の旧館などの老舗ホテルを予約すると、とんでもなく広くて快適な部屋に案内されたりして、びっくりすることがあります。
 その点、ラッフルズとかマンダリン、スコータイ、そしてペニンシュラなどアジアの一流ホテルのコロニアル風サービスは値段も手頃で快適です。昔一度ラッフルズに泊まったことがありますが、客室には専用の執事(バトラー)がつく上、ホテルの従業員は皆「サーバント」で「ゲストにかしずく」という感じの、うやうやしいサービスを受けました。
 開業直後のバンコクのペニンシュラも快適でした。全室リバービューのこのホテルのエグゼクティブスイートに、わずか85ドルのキャンペーン価格で泊まれたのは幸運でした。

 インターネットで、「初めて行く都市で泊まるホテル」を予約する時は、期待と不安でけっこうドキドキします。でも、これまでのところ決定的なハズレはありません。私は、ホテルに関しては鼻が利く方だと思います。最近では、適当に予約したパリの2つ星ホテルがすごく快適だったりしました。

 唐突にこんな話を書いたのは、そろそろ1週間単位の長期休暇を取ろうと考えているからです。何とか仕事を片付けて、月末から来月上旬あたりには旅に出るつもりです。どこか、一度も行ったことのない国に行けたらいいなぁ。

2003/9/5

 毎日与太話ばかり書いていたので、久しぶりにデジカメに関連するコンテンツを書いてみました。
 「ダイナミックレンジの話」です。
 しかし、まだ考えがまとまっていない部分が多々あるので、後日内容を再検討して書き直すつもりです。

2003/9/4

 オフィスの近くにはたくさんの学校があり、中には女子高もあります。その女子高の生徒が集団で歩いているところに出会うと、相変わらず多くの女子高生が制服のスカートをたくし上げて、太ももも露わに歩いています。女子高生がスカートを短くするのは、「露出度を上げて性的な魅力を増したい」…という無意識の行為なのかもしれません。
 しかし、制服なるものの魅力…、もっとはっきりと書けば「制服の持つ性的な魅力」は、出来る限り露出度を抑えるところにあるのは自明の理です。そういった面では、スカートを短くして闊歩する女子高生諸君を見ると、「お前らまだ男の心を知らねぇな」と思ってしまいます。
 スチュワーデスなどは、「性的なものを感じさせない聖職者的な服」と、「その内側に存在する肉体」とのイメージの乖離が、多くの男性の心をくすぐるのでしょう。女性警察官た女性自衛官なんかも同じです。
 OLだってそうですね。某掲示板に「女子大生のリクルートスーツに萌える」なんて書き込みが多いのを見てもわかるように、固いイメージのスーツ姿の方に、より魅力を感じる…という男性諸氏は多いようです。
 そういうメンタリティを前提にすると、派手な化粧や派手な髪の色も、多くの場合は性的魅力の増加には繋がりません。

 個人的な話で恐縮ですが、私自身、露出度の多い女性を見ても、何の性的な魅力も感じないからです。極論すると、たまに海外へ行った時に女性が壇上で水着や裸で踊るバーのようなところへ入っても、別に何も感じません。ニューオリンズのバーボンストリートなど、ストリップバーが軒を並べています。片っ端から入ってみましたが、あっけらかんとした女性のバイタリティは感じても、淫靡なものは全く感じません。

 まあ、人の嗜好はぞれぞれであり、中にはアンミラの制服やら同人アニメっぽいメイド服やらに魅力を感じる…という方もおられるでしょうが…私の趣味ではありません。

 さて、制服好きは何も男性だけの専売特許ではありません。女性の友人を含む私の周囲の女性たちに話を聞いても、「制服を着た男性が好き」という人はたくさんいます。私の周囲では、中年の女性にも「制服好き」は多いですね。女性サイトを見ていても、「制服が似合う男のNo.1はキムタク」とか、「制服が似合う男に弱い」…などの発言は非常に多い。こちらを読むと、「私は断然消防士が好き!」とか「作業服っぽい制服がいい」とか、「ドクターの白衣が好き」とか、実に多様な意見が飛び交っています。下手をすると、男性よりも女性の方が制服に弱いかもしれません。差別的発言と非難されることを承知で書けば、インテリっぽい女性ほど、制服好きが多いような気がします(男性にも同様の傾向はあるかも…)。その他に、スーツをカチッっと着こなしたビジネスマンに魅力を感じる…という女性も多いようです。女性の制服好きのメンタリティが、男性のそれと同じかどうかは知りませんが、どうも大きな違いはないようです。

 …とは言え、「制度としての制服」は個人的には大嫌いです。昔から制服を着る職業にだけは絶対に就きたくなかったし、高校時代には「制服撤廃闘争」なんてのにも参加しました。制服着用を強制される…なんて状況は、私自身にとっては「おぞましい」の一言です。日本人には、上述したような意味ではなく「制度としての制服好き」が多いことは間違いないようです。
 でも、3億円事件を例に出すまでも無く、「制服を着ている人」は、「先験的なイメージで判断されやすい」という問題があります。制服を着ているだけで、コロッと騙される人は多い。私は、「規制」や「自由」云々の話しは別にして、制服姿の人間が多い社会は、なんとなくヤバい社会だと思っています。
 で、上で紹介した女性サイトを見ていて思いました。こんなに制服好きの女性が多いのなら、私もパイロットの制服あたりを着て、ホテルのロビーあたりでナンパでもしようかな…と。

 あ、今日の話には何の結論もありません。タダのバカ話です。

2003/9/3

 デジカメ、パソコン周辺機器、PDA関連など、依然としてデジタル・ガジェットに対する物欲は旺盛ですが、最近の私は「モノの購買行動」に関して顕著な変化が見られます。
 以前は「欲しい」と思ったら即購入することが多かったのに、最近は迷うことが多くなりました。欲しいと思ったものを買いに行って、店頭で現物をいじり回したあげく、買わずに帰ってくる…なんてこともしばしば。
 例えば、ここのところ新しい電子辞書の購入に際して、購入機種を決められずに迷っています。長い間愛用していたソニー「データディスクマン」の使い勝手に不満が出てきたので、最新の電子辞書を購入しようと思ったのが1ヶ月以上前の話。カタログスペックを見ながらカシオの製品とシャープの製品中心に数機種に絞り込んだのはいいのですが、その後が決まりません。店頭で現物をみたところ、操作性やバッテリー寿命など機能面ではカシオがいいと思うのですが、表示フォントの見易さはシャープが上…、結局どの機種を購入したらよいのか、未だに決まっていません。
 自宅のPCに増設しようと思っているDVD-Rドライブも同じ。候補を3機種ほどに絞ったのですが、2週間以上決められずに迷っています。
 さらに困ったことに、レストランに食事に行っても何を注文しようか迷ったり、もっとひどい話ですが、ランチに出てもどの店に行くか、何を食べるかが決まらない日が多くなりました。

 まあ、「決断力が鈍った」のか「大人になった」のか知りませんが、いずれにしても衝動買いが減ったことは確かです。
 大人になった…なんてことはあるわけがないので、つまりは「優柔不断になった」ということでしょう。私は、一種の「老化現象」に違いないと確信しており、少し落ち込んでいます。

 最近つくづく思うのですが、年をとると絶対に優柔不断になります。あれこれと思い悩むことが増えてきます。慎重になる…というのではなく、どうでもよいことに結論がつけられなくなるのです。要するに、徐々に脳細胞が死んで「バカになってくる」のです。私は昔から「優柔不断なバカが嫌い」でしたが、今自分自身がそのバカになりつつある…という自覚があります。…ってことは、これからはみんなに嫌われる人生が始まるわけです(涙)

 …ということで、いよいよ日本から逃亡する日が近づいてきました。私は、好きな女性と一緒に住み慣れた日本を離れて、海外で暮らすことにします。まあ海外生活の経験はあるので、生活自体の心配はしていません。何とか捻出可能と思われる移住費用は2千万円程度。移住後にも若干のライター仕事をやるとして、移住後5年間ぐらいは、日本からの300万円程度の年収は確保できそう。ということは、まだまだ生活の心配があります。
 そこで、移住後は現地で商売をやります。現在のオフィスで新規事業をやることにして、政府系の低利の融資を1千万円ほど受けます。で、ホントはダメなんですが、そのお金を海外での開業に注ぎ込もうと思ってます(保証は信用保証協会だけなので最悪の場合は返済不可能でも可)。現在考えているのは、「中国に移住し、北京または郊外の天津あたりで、お持ち帰り専用の小さなコロッケ屋」をやること。いろいろと調べた結果、中国にはまだ「コロッケ」を食べる習慣はほとんどないそうです。店の名前は「Tokyo Croquette」で、エスニックでハイカラなイメージを前面に出し、揚げたての大きめのコロッケを1個3〜5元で売ります。あとは8〜10元の「コロッケ弁当(コロッケ2個とザーサイと野菜とライス)」も売る予定。
 そんなわけで、来月に早々にでも北京へ行って、現地の事情を調べてこようと思っています。請う、ご期待!

2003/9/2

 「祭り嫌い」の私としては、連日のニュースで全国の祭りの模様が放映される夏から秋にかけては、地獄の季節です(…何を言ってんだか…)。
 祭りが嫌いな理由は、別に「人混みが嫌い」ということではありません。例えば新宿の歌舞伎町やらバンコクのスクンビットなど、猥雑な雰囲気が溢れる街角の夜の賑やかさなんてのは大好きです。見も知らない人が集まっているのは、むしろ楽しいぐらいです。で、私の祭り嫌いは、ひとえに「地域の共同幻想に根差した感情への忌避感」から来ています。
地域住民がみんなで参加する…、といった類の祭りが大嫌いなのです。むろん、学校時代の、文化祭とか体育祭…なんてのも昔から嫌いでした。

 私は、「特定の土地や場所に生まれ育った」「特定の生活環境を共有した」…などということを理由に、同じ環境にある他者との連帯感情を共有することが好きではありません。いや、好き嫌いと言うよりも、そうした共有感情がまったくないのです。私には風土的に好きな土地、嫌いな土地はあっても、「故郷」のようなものに対する思い入れは全くありませんし、長く住んでいる場所に対する思い入れもありません。同じ学校に通った…ことに対する思い入れもありません。長く住んでいる場所の近隣の住人に対しては、「好きな人もいれば嫌いな人もいる」…というごく当たり前の様々な感情を持っていますが、「みんなまとめて大好き」ではありません。学校の同級生の場合も同じです。
 同じ町内に住んでいるから…、また、同じ学校に通っているから…などということは、別に何らかの連帯感を共有する理由にはなりません。人間は1人で生きているわけではないし、周辺の人とうまくやっていく必要があるのは当然です。だから近所の人に世話になることもありますが、反面迷惑を蒙ることもあります。世話になれば感謝しますし、迷惑を受ければ憤慨します。いつもお世話になっている人は概ね「好きな人」ですが、迷惑をかけられっ放しの人は概ね「嫌いな人」です。

 こうした状況の中で、地域のみんなで力を合わせて祭りに参加する…なんて行動の「意味」がわかりません。なぜ、一定地域に住んでいる人がみんなで何か同じことをやらなければならないのか、またお互いの趣味嗜好と無関係に一つのこと(…例えば祭り)をやる必要があるのか…、どう考えても合理的な答はないと思います。

 全ての「祭り」を、一括りにしてしまうわけにはいかない点はわかっています。農耕型社会における「祭祀」の意味は、もとより十分に承知しているつもりです。「神社」の歴史的な意味などもある程度わかっているつもりです。大嘗祭、新嘗祭は言うに及ばず、諏訪大社の御柱祭や阿蘇神社の「御田植祭」など、「意味のある祭り」はたくさんあります。しかし、現代の日本においては、意味の無い祭りが多いことも確かです。
 戦国時代の武将の誰それにちなんで…という理由で行われる、戦後誕生したくだらない祭りは、全国に山ほどあります。観光客誘致のために作られた祭りも多いです。私が育った愛知県名古屋市では、戦後いつの頃からか、毎年10月に「名古屋祭り」というものが行われるようになりました。祭りの目玉は、郷土の英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の大名行列を模した「郷土英傑行列」なる大パレードです。このパレードを、何十万人もの人が見物します。実際にマジメに見ているとヘドが出るほど、くだらない祭りです。私は、名古屋市立の小・中・高等学校出身でしたが、この名古屋祭りの日は名古屋市立の学校は全て休日になりました。実にバカバカしい祭りの典型です。こんな祭りをやる都市…というだけで、名古屋を嫌いになる立派な理由になります(笑)
 さらに私が、最も嫌いで最悪だと思うのが「高円寺の阿波踊り」の類の祭りです。なぜ、東京の高円寺で阿波踊りをやらなければならないのか、なぜそこに何万人もの人が参加して騒ぐのか、全く理解できません。高円寺に知人のオフィスがありますが、うるさいし、交通は渋滞するし、何一ついいことはないそうです。

 また、例え伝統のあるお祭りだって、好きな人も嫌いな人もいるはずです。参加を強制される(または強制に近い雰囲気になる)のはたまらないでしょう。福岡出身の友人がいますが、親子代々博多祇園山笠に参加している人間が多い中で、彼は小さい頃から荒っぽい山笠が嫌いだったのだそうです。でも、山笠が嫌いだなんてことは、とても家族や近所の人に言い出せる雰囲気ではなかったそうです。彼は、東京の大学を出てその後東京で就職してホッとした…と話していました。浅草の三社祭だって、例え浅草生まれでも参加したくない人はたくさんいるはずです。

 私の祭り嫌いは、「祭りへの参加を強制する」人を見ると、頂点に達します。祭りに参加しないと、地域社会からつまはじきにされる…、これは近親者の実家がある茨城県北部農村の某町での現在の話です。もし自分がこういう場所に住んでいたら…と、想像するだけで身震いがしますね。

2003/9/1

 私は社会人になってからは、どちらかというと「文系」的な仕事をしていますが、小中高校時代を通して理数系が嫌いだったわけではありません。数学については、ガリガリ暗記しなくても論理的にモノを考えることで解答を出せるので、好きと言うよりも、勉強をあまりしなくてもよい楽でサボれる教科でした。
 物理・化学・生物等は、大学入試時代にえらく苦労しましたが、けっして嫌い…というわけではなく、特に物理には好きな分野がたくさんありました。その物理好きを支えていたのが、小学校時代から遊んでいた「エレクトロニクス工作」ってヤツです(この話は前にも書いたことがあります)。最近復刻された学研の「科学」の付録とか、復刻版の「エレキット」などが大人に大人気ですが、そんなところから見ても、私の世代にはエレクトロニクス工作にハマッた人は非常に多いと思います。
 私の歩んだ道は、小学校高学年になって読み始めた雑誌「子供の科学」や「模型とラジオ」、そして「初歩のラジオ」、中学校に入ってからは「ラジオの製作」「CQ」へと続く「エレクトロニクス工作大好き少年」の王道です。中でもいちばん懐かしく思い出されるのが、「子供の科学」や「模型とラジオ」いう雑誌です。
 両誌とも毎号電子工作のページがあり、そこではゲルマラジオやら電子ブザーやら、様々なエレクトロニクス工作が紹介されていました。中でも夢中になったのは、ラジオ]作りです。私はラジオを作るために、少ないお小遣いを握り締めて、パーツショップへ通いました。
 私が小学生時代を過ごした名古屋には、「カトー無線」なんてパーツショップがあって(名古屋では昭和30年代から有名なアマチュア無線関係のショップでしたが、最近無くなったそうです)、そこで、抵抗やコンデンサ、バリコンやトランスなどを購入することができました。ミツミのポリバリコン、山水のトランス、アルプスのチューナーなど、懐かしいパーツメーカーを思い出します。
 「エレキット」なんてものはお金持ちの家の子しか買ってもらえなかった時代で、しがないサラリーマン家庭で育った私は、とても買ってもらえず無縁の存在でした。

 さすがに私が小学校高学年の時代は「鉱石ラジオ」というのは、もう流行らなくなっていた頃で、主流は整流回路にゲルマニウムダイオードを使ったゲルマニウムラジオでした。検波には、μ同調コイル(懐かしい!)やC同調コイルなどを使いましたね。私は、バリコンを使うC同調よりも、コンデンサーは固定でコイル内のフェライト棒をスライドさせて同調をとるμ同調方式の方が、感度もよくて好きでした。コイルの巻き数を減らすとか、コンデンサを取り外したりすると、短波放送も聴けました。そうです、短波ラジオは憧れでした。
 AM用のアンテナは、ビニール導線をACコードに巻きつけたりしました。そういえば、電灯線アンテナもよく使いました。これはACプラグの片方に100pF(ピコファラッド)くらいのコンデンサを直列に入れてアンテナ端子につなぎ、このプラグを家庭用コンセントのどちらかの穴に差し込みます。これはかなり感度のよいアンテナで、遠くのラジオ局も受信できたものです。
 ゲルマニウムラジオを卒業してからは、スピーカーが鳴る高1ラジオや、トランジスタを使う2〜6石ラジオなんてのも作りましたが、やはり3球スーパーなど真空管ラジオの製作が面白かったように思います。

 ところで、私が小学生時代に読んだ誠文堂新光社の「子供の科学」は、なんと今でも発刊されています。創刊が1924(大正13)年というのですから、たいしたもの。来年は創刊80年を迎えるそうです。「模型とラジオ」の方は科学教材社の発行でしたが、今はもう廃刊になっています。

 今日の画像は、取り付け前の信号機です(D505iで撮影、クリックで拡大)。こんな風に、道端で取り付け工事を見ることは珍しく、信号機が意外と大きいので驚きました。

 むろん、これは最新式のLED方式の信号機です。でも、先日TV番組で特集していましたが、このLED方式の信号機は色覚異常の方には非常に色の区別がつきにくいのだそうです。ブルーダイオードの実用化に伴って普及したLED信号機は「球切れ」がなく長寿妙な上、輝度も十分でよいことづくめなのですが、意外なところに欠点があるものです。


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