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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/6/30

 「アダルトビデオに浸かるのと官能小説に浸かる」のとでは、どちらの方が精神衛生上危険を孕んでいるのでしょうか?  以前、誰か文学者が、「ミステリー小説が好きな人は創造力を使って小説を読んでいるので、実際に殺人事件を起こす人はいない」と言っていました。逆にワイドショーなどで事件の様子を再現映像として見ると、脳が事実として鮮明に記憶して人格や精神に影響を及ぼす…という話もあります。こうした考えに基けば、アダルトビデオにどっぷり浸かる人は、性犯罪を起こしやすい…という話になります。
 むろん、私はそんなことは思っていません。私の友人にもアダルトビデオが大好きな「紳士」がいます。彼は、アダルトビデオの収集を趣味にしていますが、浮気一つせず妻や家族を大切にする、いい男です。若いOLにもモテますが、トラブルを起こしたことはありません。私とは大違いです(笑)
 ところで、私自身はアダルトビデオは好きではありません。官能小説を読む方がはるかに好きです。アダルトビデオを見る機会があると、「他人がやっているのを見るよりも自分で生身の人間と同じことをやった方が楽しい」と思っちゃいます。しかし官能小説は、あれこれ想像して、けっこう楽しめますね。不思議なものです。
 で、そのうち、このサイト内でオリジナルの「自伝的官能小説」の連載をスタートする予定です。場合によっては、挿絵代わりの「画像付き」を考えています。乞うご期待!…って、誰も期待なんかしないですよね。

 「…警視庁は30日、順天堂大(東京都文京区)に侵入し実験用動物を盗んだとして、窃盗と建造物侵入の疑いで、英国の動物愛護団体「ストップ・ハンティンドン・アニマル・クルエルティ(SHAC)」の女性活動家、ドーン・ハースト容疑者(31)=英国籍、建造物侵入罪などで公判中=と、関係する日本の団体のメンバー数人の逮捕状を取った…」というニュースがありました。
 熱心な「動物愛護団体」に属する人のメンタリティ…が、イマイチ理解できません。世界のニュースを見ていると、戦争や内戦、飢餓や病気などで、ともかく人が次々と死んで行きます。しかし、こうして毎日死んでいく数百、数千人の人々、特に子供たちは、ほんのちょっとした援助でその命を助けることができます。動物の命を助けるのも重要ですが、やはり人間の命を救う活動の方がプライオリティは高いはず。国際的に、そこまでの手間と労力をかけて動物の命を助けるのであれば、それ以前にもっとやることがあるだろう…と、突っ込みたくなります。

 昨日、視覚障害者をエスコートしていた人を酒気帯び運転の車がはねて死亡させる…という事件が起こりました。さらにここ数日、飲酒運転による死亡事故が相次いでニュースになっています。それだけではありません。先日は、飲酒したあげく道路に寝そべってふざけていた4人組が、注意した人をリンチのように殺してしまいました。
 交通事故に限っても、「交通事故総合分析センター」によれば、1955〜2000年に起きた死亡事故の加害者5万344人のうち飲酒していたのは15.3%…に上るそうです。むろん、ひき逃げ事件の逃避動機の1位は「飲酒運転」です。また、飲酒運転違反者の再犯率は高く、再犯者のアルコール依存症罹患(りかん)率も高い…という統計があります。また、対人傷害を伴う事件の約30%近くは、犯人が飲酒している…という推計もあります。
 飲酒と犯罪(飲酒運転も大きな犯罪です)がこれだけ高い頻度で発生しているにも関わらず、「酒を禁止する」という声が上がらないのが不思議でなりません。毎日ニュースを見ていると、ほぼ確実に毎日1件以上は、飲酒が原因または遠因で人が傷つけられたり死んだりしています。アルコール依存症患者は、潜在的なものを含めると国内だけで1000万人に達するそうです。
 煙草やマリファナを規制・禁止する前に、まずは何らかの形で飲酒に規制を加えるべきだと考えます。

 今日の画像は、新宿中央公園内の「新宿白糸の滝」です(D505iで撮影)。
 新宿中央公園は、なんだか「怪しい」公園です。広いし、それなりに整備もされているのですが、「健全さ」を感じません。
 ホームレスが多いとか、夜はアベックが多いとか、そんなのは都内のどこの公園でも同じですが、とりわけ新宿中央公園は「不健全」で「猥雑」な雰囲気を漂わせています。昼なお暗い木立の陰に、何をやっているのかわからない人がたくさん、マターリ過ごしている…、妙な感じです。マンハッタンにあるセントラルパークの北半分と雰囲気が似ています。
 不健全で猥雑なものが好きな私は、新宿中央公園が好きです。

2003/6/27

 私は普段TVはほとんど見ません。いや、夜10時過ぎから深夜まで、本を読んだり仕事をしたりしながら、ニュース番組を流し続けている…というのが実情です。ニュース以外の番組は、まず見ません。そんな私ですが、たまたま見ているチャンネルでバラエティ番組が始まったりすると、チラチラと見ていることはあります。
 そんな私が、最近TVを見ていて感じていることを適当に書きます。
  • 「ゲッツ!」という芸人、どこが面白いのかわからない。"クスリ"とも笑えない。ついでにちょっと古いけど「何でだろう〜」ってのも、何も面白くなかった。
  • SMAPは、どのメンバーもバラエティ番組に出ている限りは、どうでもいい存在。でもあまりに下手過ぎるので、歌は歌わない方がいい。
  • ついでに「世界に一つだけの花」という曲は、非常に不愉快な歌詞だ。
  • 浜崎あゆみは、美人だとも思わないし、かわいくもない。歌も下手だし頭も悪そう。なぜ人気があるのかわからない。
  • 上戸彩はかわいい。「あずみ」が小山ゆうの原作だとは知らなかった。久しぶりにコミックを読んでみようかと思っている。
  • 「アミノ式」のCMソング、「燃焼系〜、燃焼系〜」と言ってる部分が最近まで聞き取れなかった。「エンショウケイ〜」と聞こえていたので、意味がわからなかった。
  • アイフルのCMに出ているチワワは、全然可愛くない。やっぱり犬は雑種に限る。
  • タマちゃんがニュースに出なくなってよかった。ウザかった。
  • 「ラジオ体操第一」をするチンパンジーにはメチャ笑った。ピンクレディの「UFO」の出だし部分のフリは、もっと面白かった。
  • スポーツ番組の「今日のプロ野球の結果」で、最後にやるのが阪神戦になっている。以前は、最後に巨人戦をやっていた。巨人の凋落は、思ったよりも激しい。
  • 試合後に毎日コメントしているヤンキースの松井が、だんだん「バカ面」に見えてきた。毎日、日本人記者に対して同じようなコメントするのをやめればいいのに。
  • NHKの天気予報で使われているCGがヘン。低気圧マークとか高気圧マークとか、雲とか雪とか、全部ヘンだ。
  • 久米宏も筑紫哲也も、コメントがワンパターン。ニュースに対してどんなリアクションをするか予想できるのでつまらない。
  • 徳光一夫と福留功男は、コメントの全てが実に不愉快。
  • リチャード・クー、植草一秀、中谷巌は、揃って頭が悪そう。結局はケインジアンだ。日本経済の現状がここまで悪化したのは、本質的に政府の政策の是非とは無関係。金融政策レベルで何をやっても無駄。
 これはもう、キリがないですね…

2003/6/25

 モノを捨ててシンプルな生活がいちばん!…なんて意見の方も多いようですが、私は全く逆です。買ったモノはまず捨てないし、モノに囲まれて生活するのが好き。その結果、居住空間が狭くなろうといっこうに構いません。極論すれば、モノのないガランとした部屋で過ごすよりも、モノがいっぱいで座る場所もない部屋にいる方がはるかによい気分です。また、部屋は都会になければダメだし、あらゆるメディアに囲まれていないと落ち着きません。

 今日はちょっと、私生活を公開しましょう(誰も興味はないでしょうけど…笑)。
 私がプライベートな日常を過ごしている部屋は、マンションの1室で約14畳ほどのLDKです。部屋の真ん中には縦1.8m、横0.9mという約一畳分の大きな一枚板のテーブルと周辺に椅子が3つ。さらにTVの脇には「TVを見ながら本を読む」ための、座り心地のよい1人掛けのソファが1つ置いてあります。このソファが、私の定位置です。読書用のライトも設置してあります。
 部屋の一方の壁(ソファの正面)にはCATVとベランダの衛星アンテナに接続された32型と28型のTVが2台並んでいます。TVの脇にはラックがあり、AVアンプやらCDプレヤーやらビデオデッキやらで埋まっています。壁2面分は全て本棚で(天井まである特注品)で、大量の本で埋め尽くされています。さらに、1人掛けのソファに座って手の届く範囲には、床にも山のように本や雑誌が積み上げられています。ちなみに、部屋の中央にある大きなテーブルの下には、ガラクタ収納用のボックスを置き、さらにテーブル下の床にも本や雑誌が山積みになっています。
 14畳ある部屋の床は合計して二畳分ほどしか空きスペースがなく、本や雑誌の他にも様々なガラクタ類で埋め尽くされ、足の踏み場もありません。掃除機はその空いているスペースにかけるだけ。
 大きなテーブルの上も、面積の約2/3がモノで埋まっています。無線LANで接続されたノートPCが1台置いてある他、本や小物が散らかっており、隙間を見つけてメシを食ったりコーヒーを飲んだりしてます。

 普段の私はソファの方に座って、5〜6個のリモコンを使ってTVを見たりCDを聞いたりしながら、周りに散らかった雑誌や本を読んでいます。たまにテーブルの方の椅子に座って、ノートPCでネットに接続したり仕事をしたりしています。
 右の写真は、そのソファの横の壁をD505iで撮影したもの。壁面は本とCDで埋まっています。

 なんか自分でもちょっとクレイジーなライフスタイルだと思っていますが、こうした環境が落ち着くのですから、仕方ありません。「シンプルライフなんて、クソクラエ!」です。

2003/6/24

 最近、あらためて「魚肉ソーセージは旨い」と思います。子供の頃から嫌いじゃなかったのですが、ここのところ食べる頻度が高くなっています。焼きソバに肉代わりに入れたり、モヤシと一緒に炒めたり…、いろいろと使っています。
 中でもいちばん好きな食べ方は、そのまま「生」でスライスして、ソース(ウスターソース)をちょっぴり付けて食べる…という方法。ビールのツマミにも、ゴハンのオカズにも絶品です。
 魚肉ソーセージにもいろいろありますが、私は「マルハ・フィッシュソーセージ95g3束+1本増量」…というのが好きです。

 ところで、魚肉ソーセージのファンが作った「魚肉館」というサイトがありました。このランキングでは、マルハ・フィッシュソーセージの評価はあまり高くありません。人の味覚はいろいろですね…

2003/6/23

 めまいに悩まされている私は、「めまい」という病気についてネットで調べまくっています。むろん、病気としてのめまいについて調べているわけですが、「めまい」「眩暈」という言葉で検索すると、病気以外にもいろいろな情報が出てきます。

 めまいは「幻想」や「非日常感覚」を想像させる言葉の1つであり、幻想文学や映画、音楽の世界では「めまい」とか「眩暈」といったタイトルの作品が非常に多いですね。
 私なんかは、「めまい」という言葉から真っ先に連想するのは、音楽では「ピンク・フロイド」や「キング・クリムゾン」であったり、絵画では「ダリ」や「ボス(ヒエロニムス・ボッシュ)」であったりするのですが、ピンク・フロイドのアルバムや曲のタイトルを探しても「めまい」「眩暈」という作品はありません。「テンペスト」という70年代のブリティッシュロックグループ(私は知りませんでした)のアルバムで「眩暈」という邦題がついたものがありました。絵画では、「眩暈」というタイトルの有名な作品はないようです。
 
 ヒッチコックの映画「めまい」は、あまりにも有名です。辺見マリの歌にも「めまい」というのがありましたね(記憶が定かではありませんが…)
 文学では、「めまい」というタイトルの作品は非常に多いようです。直木賞作家の唯川恵(ゆいかわけい)の作品に「めまい」という小説がありますが、これも私は知りませんでした。作品どころか、「唯川恵」という作家を知らない。それもそのはず、コバルト・ノベル大賞を取った作家ということですから、私が読むわけはありません。
 その他、ノーベル文学賞を受賞したエリアス・カネッティという作家の作品に「眩暈」という作品がありますし、官能小説作家である川上宗薫の作品にも「眩暈」というエロ作品がありますが、いずれも知りませんでした。
 音楽と言えば、鬼束ちひろのファーストアルバム「INSOMNIA」に収録されている歌の中に「眩暈」という曲がありますが、やっぱりこの曲も知りませんでした。

 いずれにしても「めまい」「眩暈」という言葉は、作品のタイトルとして使いやすいらしいということがよくわかります。小説の場合、純文学にも恋愛小説にもエロ小説にも使える…ってところがいいですね。
 私もせっかくめまいになったのだから、幻想文学でも書いてみようかと思ってます。LSDもハッパも無しでめくるめく「めまい」の世界を体験できる…ってことは、考えようによってはアートするには非常によい環境かもしれません(笑) こんなバカなことでも考えてなきゃ、毎日がつらくてやってられません。

 今日の画像は、デパ地下でランチ用に買ったテイクアウトの味噌カツ丼です(D505iで撮影)。はっきり言って不味かったですね。
 画像掲示板の方へもメガピクセルカメラ付きケータイ各機種の画像を投稿して頂いていますが、あらためて「日常撮影にデジカメは不要」な時代が到来しつつあることを実感しています。
 写真は「撮影という行動自体」を楽しむという部分で楽しんでいらっしゃる方が多いのでしょうが、やはり「記録」という目的も高いウェイトを持ちます。画像をデジカメで「記録」するにあたってどの程度「画質」を求めるかは、記録の目的によって異なります。でも、こうしてランチのお弁当の画像なんかを撮つために使うのなら、カメラ付きケータイはホントに最高です。

2003/6/21

 引き続き「めまい」に苦しんでます。
 だんだんひどくなるようで、今日はほとんど寝てます。
 あ〜、誰かなんとかして欲しい…

2003/6/20

 いやもう、絶不調です。体調不良で仕事になりません。サイトの更新作業をする気力もありません。
 週明けから、めまいがひどく、加えて右手の指先が痺れ始めました。めまいと言っても、昨年突如襲われた前庭神経炎の時のようなグルグル回るめまいではなく、フワフワとした浮遊感、平衡失調感です。
 で、昨年受診した大学病院の耳鼻科へと行きました。耳鼻科ではCTも撮影し、一通りの検査をした後、特に耳には異常なしとのこと。耳鼻科の先生からは、続いて神経内科へ行くように指示されました。神経内科の先生には、めまいと痺れ…となると脳梗塞の疑いがあると言われ、さんざん知覚検査をした後で、MRIの撮影を指示されました。何でも、通常のMRIよりも検査精度が高い「拡散MRI」の画像を調べる必要があると言うのです。脳梗塞という言葉に不安が高まります。最近は30代の脳梗塞も増えてきているとのこと、自分の年齢を考えれば、脳梗塞は現実的な病気です。
 不安を抱きながら2日間にわたる精密検査を受け、結果的には脳梗塞ではなく、脊髄周辺の神経と血管が圧迫されているとの診断で、薬を処方されて帰ってきました。とりあえずは一安心です。
 しかし、30代まではバイクを乗り回してツーリングでは1日700Kmを平気で走り、八ヶ岳の赤岳に夜行日帰りで登山する…といった具合で、体力には自信があっただけに、最近の体力低下と病気多発には、悲しいものがあります。
 こんな状態では無理な海外旅行も危険です。私もそろそろ、根本的にライフスタイルを変える年齢になってきたのかもしれません。

 話は変わって、美人局に集団レイプと、早稲田大学学生の相次ぐ不祥事が報道され、早稲田の副総長など大学幹部がTVカメラの前で謝罪しているニュースを見ました。何で、学生がレイプしたら大学が謝罪しなくちゃいけないのか、わからないですよね。大学で「レイプするな」なんて教育をやる義務なんてあるわけないし、大学に限らず学校教育の問題じゃない。そんな学生、とっとと退学処分にするだけでいいはずです。「再発防止策を徹底する」…って、「レイプや美人局は悪いこと」って授業で教えるんでしょうか? バカバカしいなぁ。
 そういえば、私の知人に高校教師がいるのですが、以前自分の学校の生徒がコンビニ強盗をやってマスコミや父兄から叩かれて弱った…と言ってました。生徒がコンビニ強盗やったって、別に航行に責任なんかなにもないですよ。「強盗をやってはいけない」というのは、強いて言えば家庭もしくは社会全体が教育すべき事柄で、学校教育とは無関係です。

 謝罪といえば、ヨルダンでクラスター爆弾の不発弾を拾って、結果的に空港職員が爆死した毎日新聞の記者も、TVでひたすら頭を下げてました。これもヘンですよね。
 もし日本で、誰も爆弾とはわからないような面白い形の金属性の爆発物が道端に落ちてたら、私だって拾うかもしれない。で、拾った爆発物を誰かに渡してそれが爆発したら、爆発物を道端に置いた人間が罪に問われるわけで、何も知らずに拾った私は別に罪に問われないはず。
 毎日新聞の記者はクラスター爆弾の不発弾だと知らなかったわけで、だからこそ、運転手と投げ合って遊んでいたわけですよね。別に、何ら罪はないと思いますが…。私だって、クラスター爆弾が、「釣鐘型の金属塊が2つ繋がった形状」だなんて、まったく知りませんでした。
 どう考えたって、悪いのは「クラスター爆弾をばら撒いたヤツ」です。ヨルダンの空港職員が死んだ原因は、要するに「米英軍がクラスター爆弾なんてものをばら撒いたから」でしょう。毎日新聞の記者も、新聞社の幹部も、「確かに不注意に拾った点で反省すべき点はあるが、ヨルダン空港職員の死は、爆発物を道端にばら撒いたヤツが悪い」…とはっきり言えばいいのに…

 体調が悪いと、TVニュースを見ていても、何だかイライラすることが多いですね。

2003/6/17

 昨日の日記に書いた、インリンの「エロテロ」という「一種の反体制スタンス」の有効性に関して、少し思うところを補足します。

 さて、2ちゃんねるを例に出すまでもなく、ネット上では誰もが自由に発言できます。確かに様々な形での「言論の封殺」もありますが、とりあえず昨日書いたインリンのサイトのように「殺人者ブッシュを殺せ」なんて公然と書いても、法的に処罰されることはありません。
 「言論の自由」の度合いをもって民度の尺度とするならば、ネット上でほぼ何でも主張可能な現在の日本は、歴史上かつてないほど自由な発言が許される社会です。
 しかし、現在ネット上で自由になされる言論なるものの実態は、どちらかというと平気で他者を傷付ける」発言が多いことも事実です。特に「社会的弱者に対する差別発言」や「誤った歴史認識に基づく暴論」は、他人の「私論」を気にしない私でも、さすがにヒドイと感じます。

 朝鮮半島問題については、既に各所で議論されているのでいまさら取り上げることはしません。しかし、ネット上での歴史認識に欠ける問題発言は朝鮮半島の話に留まりません。例えば2ちゃんねるの「イスラム情勢」板を読むと、「イスラム教徒は世界の癌だ」「イラク人抹殺して統治しよう」などのスレタイが並び、各スレの中では「狂信・残忍なイスラム教徒を根絶やしにしろ」などという、想像を絶するようなトンデモ発言が繰り返されています。
 「教祖自らが剣をふるって侵略活動にいそしんだ宗教はイスラムだけ」とか、「キリストや釈迦は静かに教えを説いただけだがイスラムは狂ってる」…などの発言を読むと、「歴史認識」以前の問題として、こんなことを書き込むヤツのオツムの構造を疑ってしまうわけです。本気でこんなことを考えているとすれば恐い話だし、半ば冗談で煽っているとすれば、それは間違いなく「犯罪」です。

 ところで、ネット上で連日多くの人によって発信されているこうした「暴論」に対して、同じくネット上で論理的に対抗していこうという試みもたくさんあります。
 例えば、「対抗言論のページ」というサイトがあります(特に意図的にサイトを例に挙げるわけではなく、類似の主旨を持つ多くのサイトの中でたまたま目にとまっただけです)。このサイトの開設主旨を読むと、「ネットニュース上での暴論は一向に減らないばかりか、むしろますますレベルが低くなりつつあるようにさえ見えます。…また現実社会でも、経済大国ニッポンのメッキが剥がれ出した閉塞感からか、あの「自由主義」史観に代表されるような粗暴な開き直り史観が横行し始めています。…貧しい言論状況に対抗し、まともな理性と倫理感に基づく言論(これを私は対抗言論と呼んでいます)を構築することを目的として開設しました…」…とあります。
 この「対抗言論のページ」は、朝鮮民族関連の差別主義的な発言、石原東京都知事の数々の差別発言、「自由主義」史観に基く南京虐殺の否定やナチスによるユダヤ人虐殺の否定…などに対して、「まともな理性と倫理観」で論理的批判を試みようとしています。
 さて私は、「対抗言論のページ」というサイトの内容や運営者を批判したいのではありませんし、内容に対して何らかの評価をするつもりもありません。私は、サイト内の全ての論理展開に賛同するわけではありませんが、このサイトの運営者のような姿勢は、ネット社会で必要なものだとは思います。しかし、このサイトの運営者のような姿勢、またはサイトのあり方がネット上での暴論の嵐に対して「有効な対抗手段」足り得るとは思いません。

 前述した2ちゃんねるの「イスラム情勢」板などに見られるような、ムチャクチャな差別発言やデタラメの歴史観に基づく暴論発言は、「理論」や「理性」で反論しても、おそらく何の有効性もありません。情緒的、感覚的な発言に対して「論理的発言」をぶつけても、ほとんど対抗する力を持たないと考えます。

 最近ベストセラーになった、養老孟司「バカの壁」(新潮新書)という本があります。「…人生でぶつかる諸問題について、共同体、無意識、身体、個性、脳など、多様な角度から考えるためのヒントを提示する…」などと大層なことを言っている割には、軽薄な内容の本で、科学的に見てあまり読むべきところはありません。しかし、「"話せばわかる"なんて大嘘、いくら話してもわかってもらえない」という状況は「バカの壁」によるものだ…という話には、多少頷けるものがあります。ここで言う「バカの壁」とは、自分自身が心(脳)の中に作る「理解したくない、認識したくない」という「壁」です。
 前述した「イスラム情勢」板に見られるような、「情緒的な差別発言」や「デタラメの歴史観に基づく暴論発言」は、情緒的であるがゆえに、自らの心の奥深いところから発せられています。多くは若い世代の発言でしょうが、それらを「軽薄な発言」と考えるのはおそらく誤りです。発言の背景には、昨今の社会状況がもたらした「はけ口のない閉塞感」や「深い疎外感や絶望感」などの個人的状況がある…と考えるべきです。こうした背景がある以上、論理的な反論には耳を塞ぐような「心の壁」が、確実に存在すると考えた方がよいでしょう。

 情緒的発言に有効に対抗できるのは、やはり情緒的発言です。情緒的な行動には情緒的な行動で対抗すべきです。例え、「理論や理性」に基づく反論であっても、情緒的発言をする相手に対しては、対抗発言からも「理論や理性」を隠して情緒的に見せかけるべきです。

 インリンの「エロテロ」は、一見して「非理性的」であり、バカバカしくもあります。それゆえに、病んだ現代、病んだ発言をする人々に対しては、かなりの有効性を持つ…と考えます。

 まあ私自身は、現在の状況…すなわち、ネット上で「平気で他者を傷付ける発言」や「社会的弱者に対する差別発言」そして「誤った歴史認識に基づく暴論」などが繰り返される現状を、不愉快だとは感じますが、それほど「憂いている」わけではありません。
 割と能天気に「人間の理性」のようなものを信じている…とでも言いましょうか、いずれは下火になると考えています。
 さらに、個人的にも「論理的であろう」とするスタンスをやめてしまってから、もうずいぶん長い時間が経ちました。私は、「自分は情緒的であろう、情緒的でありたい」と願って生きている人間なので、ごく自然に「情緒には情緒で対抗すること」ができます。くだらない差別発言は、「ウザイ!」で終わりです(笑)
 …
今日の内容も、情緒的かつ非論理的ですね。自分がいいかげんなことを書いていると思うと、怖くて読み直せません(苦笑)

2003/6/16

 今日はお昼休みに女性のセクシーグラビア画像をネット上で拾って集めてました。で、集めたけっこう際どい画像をグラフィックソフトを使って熱心に眺めているところを、通り掛かったオフィスの女性スタッフに見つかり、軽蔑の眼差しで一瞥されてしまいました。まあ、女の子の視線なんか、何とも思っちゃいませんが…(笑)

 眺めていたのは「インリン・オブ・ジョイトイ」…、インリンのグラビアです。
 ご存知の通り彼女は、自分の公式サイト上で「エロテロ宣言!」をしています。サイトではブッシュを公然と「死ね!」と罵倒し、「…『新しい歴史教科書』」に代表される軍国主義的偏向・虚偽に満ちた出版、報道等に強い嫌悪と敵意を感じる…」として、フジサンケイ・グループの仕事はしないとのスタンスを明確にしてます。また、「個人情報保護法」=「言論弾圧」反対!、「住基ネット」=「国民管理制度」反対!、「有事法制」=「軍事優先国家化」反対!…を主張し、そしてこれが一番気に入っているのですが「国家を捨て、個人の為に生きよう」とアピールしてます。

 雑誌に掲載されるインタビュー記事や対談記事、ホームページでの発言などを読んで、彼女の主張の全てに共感するわけでもありません。また「メディア戦略」をまったく考えない純粋な発言だけというわけでもないでしょうが、「エロテロ」、「国家を捨て、個人の為に生きよう」の2点については全面的に共感します。
 実際に彼女がやっているところの「エロテロ」なる行動は、反体制の意思表示をするための方法論としては極めて妥当であり、少なくともネット上でサイトに特定のシンボル画像を貼ったり、道端で鶴を折って平和を祈願したり…というバカバカしい運動や、したり顔で発言する評論的言辞や文章なんかよりも、はるかに「反体制の本質」に近づいているように思います。国家権力に対するエロテロの有効性は、政党や政治団体、市民団体などの旧態依然としたサヨク運動など足許にも及びません。
 また「国家を捨て、個人の為に生きよう」というのは、やたらと「連帯」を訴える左翼系、労働運動系、そして市民運動系の団体が唱える「お決まりの言葉」よりも、個人的にははるかに納得できるアジテーションです。「エロ」こそは、「統制」や「支配」に対するアンチテーゼとして最もストレートな存在だし、究極の個人主義の象徴でもあります。
 私も「エロテロ」をやっちゃおうかなぁ…(?)
 で、お気に入りのインリンのグラビアを集めて、それをじっくり眺め、どう思ったかなんですが…、ダメですね。下半身にグッと来るものがありません。どれもポーズやファッションがわざとらし過ぎて、あんまり「エロ」を感じませんね。「フェティッシュ」なイメージも受けません。私は、まだしも小倉優子の水着グラビアの方が、セクシーさを感じます。あ、別に「炉」ではありませんけど…(笑)

 週末に、仕事半分、私用半分で名古屋に行ってきました。久しぶりにお気に入りの「うな東」の櫃まぶしを食べてきましたが、あらためて「旨いっ!」と感動しました。

2003/6/12

 …あまりにも有名な話ですが、やっぱり面白いので、もしかしてまだご存知ない方のために掲載しておきます。


一酸化二水素(Dihydrogen Monoxide:DHMO)の規制を!

 DHMOは無色、無臭、無味であるが、毎年無数の人々を死に至らしめている。殆どの死亡例は偶然DHMOを吸い込んだことによるが、危険はそれだけではない。DHMOの固体型に長期間さらされると身体組織の激しい損傷を来たす。DHMOを吸入すると多量の発汗、多尿、腹部膨満感、嘔気、嘔吐、電解質異常が出現する可能性がある。DHMO依存症者にとって、禁断症状はすなわち死を意味する。
 DHMOは水酸の一種で、酸性雨の主要成分である。地球温暖化の原因となる「温室効果」にも関係している。また重度の熱傷の原因ともなり、地表の侵蝕の原因でもある。多くの金属を腐食させ、自動車の電気系統の異常やブレーキ機能低下を来す。また切除された末期癌組織には必ずこの物質が含まれている。
 汚染は生態系に及んでいる。多量のDHMOが米国内の多くの河川、湖沼、貯水池で発見されている。汚染は全地球的で、南極の氷の中にも発見されており、中西部とカリフォルニアだけでも数百万ドルに上る被害をもたらしている。
 この危険にも関わらず、DHMOは溶解や冷却の目的で企業利用されており、原子力施設や化学物資製造、消火剤、動物実験に使われている。農薬散布にも使われ、汚染は洗浄後も残る。また、ある種の「ジャンクフード」にも大量に含まれている。
 企業は使用済みのDHMOを大量に河川、海洋に投棄しており、それはまだ違法ともされていない。自然生物への影響は限りないが、我々は今のところ何も出来ないで居る。
 アメリカ政府はこの物質の製造、頒布に関する規制を「経済的理由から」拒んでいる。海軍などの軍機関はDHMOにかんする研究を巨額の費用を投じて実施している。目的は軍事行動時にDHMOを効果的に利用するためである。多くの軍事施設には、地下に近代的な施設が造られ、後の使用に備えて大量のDHMOが備蓄されている。


 …「DHMO」とは、むろん「水」のことです。
2003/6/11

 「一枚の写真は万語の文よりも多くを語る」…と、どこかのエライ人が言ったかどうか知りませんが、「写真」の持つ情報量や真実性については、どちらかというと過大に評価されていることは確かです。

 「写真が多くを語る」…ということを、実は私は信じていません。写真が多くを語るのではなく、写真を見た人が「勝手にたくさんのことを解釈する」だけです。そして、写真を見た人の解釈は、被写体が持つ「事実」とは、実はかけ離れているかもしれません。
 「公園のベンチでヨレヨレの格好をした中年男がだらしなく寝ている写真」があったとしましょう。ここに、「不況で増加するホームレス」というキャプションを付ければ、誰もが最近の世相を反映したホームレスの写真だと思います。しかし、実は単に徹夜明けのサラリーマンが昼休みに公園で寝ている写真かもしれません。写真だけでは、真実はわからないのです。
 戦争報道などでは、この「写真の真実性」を逆手に取ったプロバガンダが行われます。中でもアメリカのアフガニスタン攻撃やイラク攻撃で多く見られたような、戦場からの報道写真などは、必ずしも真実を伝えているとは限りません。
 具体例を挙げましょう。最近撮られた「戦闘で廃墟と化したカブールの街に飢えた少年が物乞いをしている写真」があったとしましょう。その写真を見た多くの人は、米軍によるアフガニスタン攻撃後のカブールが荒廃し、飢えた子供がたくさんいる…と感じるに違いありません。しかしその写真が、「たまたま数少ない物乞いをしている子供を見つけて意図的に撮影した」のではない…と、どうして言いきれるのでしょうか?
 さらには、南京大虐殺の有無や、果てはナチスによるユダヤ人の虐殺の有無までが、曖昧な写真を頼りに議論されたりします。  一枚の写真が持つ「情報量」はけっして多くはありません。さらに、写真はウソをつきます。

 さて、「写真」というメディアが持つ本質は、「記号としての写真」と「写真を見て認識する主体」との関係性…の中にあります。

 人でもモノでもいい、何かを写した写真があったとします。その被写体が本来存在する場所には「風土」や「文化」、「歴史」、そして「被写体固有の状況」などがあります。しかし、撮られた写真は、そうした被写体が持つ一切の背景や属性を無視した「記号」としてしか存在し得ません。従って、その写真を見た人間は、被写体について「自由に解釈」することができます。こうして見ると、「写真が語るもの」とは、「写真を見た自分が語ること」と同義です。

 「写真を撮る」という行為についても、「被写体と、撮影する自分との関係性」が問題となります。
 写真を撮るという行為は、多くの場合「対象物(被写体)を本来存在する場所から切り離し、自分の世界に取り込む」という作業です。撮影者は、自分が被写体を見て感じたもの…を印画紙(メモリ)に焼き付けようとします。そして多くの場合、写真を撮ることは、意図的に現実を無視することを意味します。カメラのレンズの背後に隠れて、現実と関わることを拒むのです。

 例えば海外旅行に行ったとしましょう。アジアの大都市で、貧困と病気が溢れる凄絶なスラム街に踏み込んだとします。あまりの悲惨な光景の中で「写真を撮った」とすると、「写真を撮る」という関わり方を選択した時点で、既に「対象と本格的に関係性を持つこと」を拒絶している…とも言えます。現実の光景を写真に切り取ることで、現実を、後から自分がいかようにも解釈可能な「記号」へと変貌させることができるからです。結局のところ「写真を撮る」という行為は、「独りよがりな行為」に過ぎません。

 「写真を撮る」なんて、実は「どうでもいい行為」です。たかが写真、たかがカメラです。そういえばシュールレアリズムにおいては、写真を「無意味で空虚な記号」と定義してましたね。誰が言ったんでしたっけ…

 はぁ〜、今日は究極のヨタ話を書いてます(笑) 頭の中は支離滅裂です。ちょっと疲れ気味なんです…

2003/6/10

 今日は短信で…

・行きつけのベトナム料理店「ミュン」のランチが、450円から500円に値上がり。でも、スープ、食後のドリンク付きに加えて、今度は「生春巻き」も付いてます。5〜6種類ありますが、「焼き豚のせゴハン」はメッチャウマイ。
クランプラー(CRUMPLER)のPCバッグ「McBain's Baby-L」を買いました。カメラバッグとメッセンジャーバッグは時々街で見かけますが、まだPCバッグを持ってる人は少ないようです。
・「洗えるキーボード発売」…という記事がありましたが、私は普通のキーボード、汚れると水道の流水で洗ってます。ちゃんと乾かすとまた使えます。
・昨夜は「ハルピン水餃子」で、半年ぶりにトラさんと会いました。バンコクの彼のお店はどうなったのか…、怖くて聞けませんでした。
コレ、マジで欲しい。38万円か〜、本当に買っちゃいそうな自分が怖いですね。余計なアクセサリ全部無しで、本体のみで12万円ぐらいのバージョンを出して欲しい。
・某PC雑誌から、新しい連載の仕事がきました。そういえば、単行本の企画も依頼されていますが、多忙で放ったまま。真面目に仕事をやらなくては…

2003/6/7

 北海道の札幌で「YOSAKOIソーラン祭」というイベントをやっているのを、TVニュースで見ました。私は、この集団で「よさこい」という踊りを踊っているのを見るのが大嫌いです。
 多人数が「一糸乱れぬ」同じ動きをしており、動きは一見ダイナミックですが動作自体は比較的単純で、何となく「パラパラ」に近い感覚もあります。何よりも、「多人数が一糸乱れぬ動きを披露する」というのが、北朝鮮で行われるマスゲームを見ているようで、非常に不気味です。
 この「よさこい」という踊り、全国各地でやってますよね。東京の池袋でも「ブクロ祭り」というアホみたいなお祭りがあるのですが、確かここでも多数のチームが「よさこい」を踊るのが目玉イベントになっていました。時々見たりするのですが、気持ち悪く感じていました。

 ところで、「よさこい」というのは高知県に始まったお祭りの形態らしいのですが、調べてみると、次のように定義されるものらしいです。

 「…『衣装』を着て、『鳴子』を持った踊り子さんたちが『よさこい節』にあわせて『競演場』を踊りながら練り歩くお祭り。衣装は伝統的なはっぴや着物以外に、現代的なデザインの物もあり、各チームによって様々。音楽は正調の『よさこい節』が主流だったが、最近ではサンバ調のものや和調でも少しアップテンポの感じの音楽など、各チームで自由に作曲・アレンジした音楽が主流となっている…」

 北朝鮮のマスゲームは、占領時代に日本が持ち込んだ文化だと聞きましたが、真偽のほどはわかりません。ただ、日本では、今もって幼稚園や小学校の運動会で、飽きもせずにマスゲームをやっていることは確かです。日本人はどうも「みんなで一糸乱れず踊る」という行為が非常に好きなようです。リオのカーニバルを始め、ヨーロッパのお祭りなどでも「多人数で踊り歩く」という形態をよく見ますが、各人がそれぞれが勝手に踊っているものが多く、「一糸乱れぬ踊り」というのはほとんど例を見ません。
 「よさこい」は、「みんなで一糸乱れず踊ることが好き」という、日本人固有の文化の延長にあるものだと感じます。

2003/6/6

 オフィスのアルバイトの大学生の話を聞くと、大学生の就職活動はなかなか大変なようです。特に女性は厳しいとのこと。彼女は世間で言われるところの「超有名一流私大」の学生なのですが、文学部でしかも女性ということもあって苦戦していました。聞くところによると、マスコミ志望の彼女は出版社や通信社、広告代理店を中心に2月頃から数十社もエントリー、片っ端から会社回りをしましたが最終面接等で次々に落ち、4月になっても決まらずあせっていました。5月になってやっと中小出版社に決まったとのことで、喜ばしい限りです。しかし、彼女の友人はまだ決まっていない人も多く、その大学の文学部の就職率は、女子に限れば実質50%前後だろうということです。
 ともかく、3年次の2月頃からはずっとリクルートスーツを着て企業を廻る日々が続くとのことですが、これでは肝心の「学業」に差し支えます。企業側も、大学でちゃんと勉強していない学生を採用することになるわけで、何とも妙な事態です。

 こうした厳しい就職状況を反映して、フリーターは増加し続けています。不況下で正社員よりもフリーターという労働形態を要求する労働市場の構造的要因もあります。しかしこうした問題とは関係なく、前述の彼女の話によれば、あまりに厳しい就職活動に嫌気がさしてフリーターを選択する大学生も多いとのこと。入社試験に何社も何社も落ちているうちに、自分の能力や人間性まで否定されているような気になって、落ち込んだままで就職活動をあきらめる学生が多数いるとのことです。

 私の学生時代も就職期はまだバブルのはるか前で、けっして学生の就職状況がよいという時代ではありませんでした。しかし、私も含め、多くの学生が「モラトリアム」を求めて、ストレートな就職をしなかったように思います。若者のモラトリアムは、度が過ぎれば社会性を失う結果となりますが、人生に対する「志」や「夢」を醸成する効果もあります。さらにモラトリアム期間は、「夢」と「現実」に折り合いを付ける時間でもあります。折り合いを付けることで、長期に渡る円滑な社会生活を営む基盤ができるのです。私は、自分の経験に照らし合わせて、度が過ぎない限り、「若い世代のモラトリアム」は社会全体が許容すべきだと思っています。
 しかし、現実には、第二新卒もそうですが、既卒者の就職活動は非常に厳しい状況にあります。早慶などの上位大学を出ても、新卒時に就職しないとかなり制限された就職活動をしなくてはならず、その結果フリーターが大量に発生しています。短期間でも一度フリーターになると、まともな企業に就職することは非常に困難です。モラトリアムが許されないどころか、下手なモラトリアムを選択するとその後の人生に悲惨な結果を招きかねません。加えて日本では、転職市場も活性化していません。  ともかく日本では、「就職機会が大学新卒に集中している」…というよりも、「大学新卒以外の就職機会がまったくない」…という点が問題なのです。

 政府は、フリーターを減らし、若者の労働意欲を高めるために様々な政策を行おうとしています。また、リストラされた労働者の再就職市場の活性化にも、力を入れ始めました。
 政策の要点は、「労働市場の流動性を高める」「労働者の職業能力を評価するシステムを作る」「雇用側と日雇用側への的確な情報提供によって求人と求職のミスマッチを減らす」…といったところでしょうか。

 確かに、企業が「大学新卒にしか就職機会を与えない」「転職者を受け入れない」要因には、「労働者の職業能力を適切に評価するシステムがない」ことがあるようにも見えます。
 しかし、企業の人材採用が「大学新卒」に集中する理由も、転職者を受け入れない理由も、けっして「職業能力を評価するシステムがない」からではありません。実は、労働能力の評価…なんてものは、雇用する側から見れば実に容易です。

 企業が、大学新卒を唯一最大の雇用機会としているのは、その段階の労働者には「ロイヤリティを刷り込む」ことが容易だからです。
 企業は、その能力の有無に関わらず転職を繰り返すような、「スレッカラシの労働者」を嫌うわけです。転職を経験している労働者ほど、自分が所属する企業に対する「帰属意識が希薄」です。その結果、「雇用する側を評価」しようとします。企業は、雇用している人間を評価する…ことは当然行いますが、雇用している人間から評価される…ことは、非常に嫌なわけです。
 森永乳業事件を見ても、日本ハム事件を見ても、企業は利益を追求するために平気でモラルを無視します。というよりも、「会社のためなら社会モラルを無視することを厭わない人間」を欲しいのです。そして、そのためには「労働者ヴァージンである大学新卒」を採用し、企業カラーに染めて行きたいのです。企業に対する帰属意識、そして社員同士の仲間意識を高めて行きたいのです。  こうした考えは、大企業を中心に依然として強く残っています。しかし、これは企業の雇用スタンスの問題というよりも、「集団への帰属意識」にアイデンティティを見出す人が多いという、「日本人に固有の精神風土」に原因があると思います。
 かつては、「労働vs資本」が対立した時代がありましたが、結局のところ、労働者の側も帰属意識を求めている日本では、現在のような「帰属意識」中心の雇用関係の方が労働者側も居心地がよい…ということは確実です。

 奇しくも今日、政府は「02年度の科学技術白書」で「バイオなどの科学技術の国際競争が激しさを増す中、日本は技術面で諸外国との競争に負けて生き残れなくなってきている。企業は博士号を取得した高度な専門知識を持つ人材を活用し、大学は創造性を育む教育の充実させ。また、若手や女性研究者の待遇改善も必要」と報告しました。異論はないのですが、こうした技術力低下による沈没以前の問題として、「モラルに対する企業の甘い認識」や「労働者に対して盲目的な高いロイヤリティを求める企業」…といった日本人の精神風土を改善しなくては、どうにもならないような気がします。

2003/6/5

 久々に新デジカメのインプレッションを掲載しました。SONY「Cyber-shot DSC-V1」で撮る  その1と、その2…です。

2003/6/3

 「AMラジオのプログラム録音」という、ありそうでないコンセプトのレシーバーを探していたところで見つけたサン電子の「トークマスター」。購入して約1ヶ月になりますが、便利に使っています。この製品が登場する前は、同じ機能を持つ製品としてはソフィアシステムズの「ラジオサーバー RS12」という88,000円もするデカいヤツしかなかったのですから、もう画期的です。
 このトークマスターはMP3プレヤーとしても、外部ストレージとしても利用できるのですが、今のところはACアダプターを接続して、ラジオの録音一筋に使っています。10件の予約録音ができるスグレモノ。64MBのSDカードを増設しているので、最大12時間の録音が可能です。お目当てのラジオ講座お録音にはバッチリです。
 で、この「トークマスター」はサン電子のサイトから24,800円で予約購入したのですが、まあよい買い物だったと思ってます。ところが、先日ひょんなことから海外のサイトで、トークマスターと同じ製品を安く売っているのを見つけました。「Radio YourWay」という商品名ですが、外観もスペックもサン電子の「トークマスター」と同じものです。OEM元が同じということですね。で、「Radio YourWay」の価格はSDカード無しで149ドルと、トークマスターよりかなり安いのです(私は初期予約特典でACアダプターとソフトケースがついてましたが…)。同じ製品を安く売ってるのって、何となくクヤシイ感じですね。

 それはともかく、「トークマスター」っていいですよ。ラジオ講座の録音用には絶対オススメです。

 ところで、コニカのティザー広告は、「デジタル版の高級コンパクトカメラ」の登場かとさんざん期待を持たせましたが、「KD-510Z」でした。

2003/6/2

 昨夜はNHKスペシャルの「"よど号"と拉致(後編)」を見ましたが、この番組はかつてこの日記でも書いた高沢皓司「宿命ー「よど号」亡命者たちの秘密工作」(新潮文庫)の内容をそのまま映像で検証したものです。最初に読んだ時には、まさに「驚嘆のルポルータジュ」と思いましたが、映像化されることで再度現場となった場所やメンバーの行動をリアルに感じることが出来、非常に面白かったですね。「宿命」は、発刊した1998年当時には「よど号メンバーによる日本人拉致工作」という事実をほぼ完全にマスコミに無視された曰く付きの本でもあり、その意味でも今回のNHKの映像は感慨深いものがあります。

 そういえば、北朝鮮による拉致工作の実態が徐々に明らかになる中で、先日拉致被害者の「家族会」と「救う会」が、外務省幹部の罷免を要求したことには少し驚きました。いや官僚の罷免を要求するのは国民の自由な権利ですが、その理由が「家族会に対して敵対している」ということで驚いたのです。拉致被害者の家族会は、自らの主張・方針と異なる意見を述べる人間を「敵対者」と見るのでしょうか? やはり少し危うい感じがします。

 日本と北朝鮮の関係が拉致問題で拗れる中で、朝鮮半島全体と日本との関係、さらには朝鮮民族と見本人の関係も危うくなりつつあります。特に10代、20代の若い世代の多くが、何ら確固たる歴史認識を持たないまま自らの立場を「嫌韓」などと主張するに及んでは、「危うい」のを通り越して、この国の先が見えない怖さを感じます。

 そういえば、自民党の麻生某が、東京大学での講演で「朝鮮半島が植民地だった時代に日本が行った朝鮮人創氏改名は、最初は当時の朝鮮人が望んだことだ」との趣旨の発言をしました。加えて「ハングルは日本人が教えた」と述べ、日本が教育制度を整えたことなどを理由にあげて、「植民地統治がハングル普及に貢献した」とも発言したとのことです。 確かに、創氏改名は「制度上は自由度の高い通達(朝鮮総督令)」として出されたものですが、調べてみると「創氏をしない家の子供は学校への入学を認めない、学校で教師が子供に嫌がらせを言う、日本への渡航許可や生業のための許認可を出さない、労務徴用の対象とする…などの有形無形の強い圧力をかけた事実が残っていますから、やはり「強制」だったのでしょう。
 麻生某の発言は、政治的な効果を狙ったパフォーマンス発言なのか、無知からくる発言なのかよくわかりませんが、どうも単なる「日本の植民地政策の正当化を目論む右寄り発言」というだけではなさそうです。拉致事件に始まった「日本vs北朝鮮」の憎悪の構図を利用する意図も含まれているかもしれません

 まあ、植民地時代に行った政策の是非はともかく、日本が中国の一部(満州)及び朝鮮半島、そして台湾島を「植民地」として経営したこと自体は歴史的な事実です。しかし、第二次世界大戦における日本の敗戦に伴って日本の植民地経営が終焉を迎えて後、日本は中国や台湾、そして朝鮮半島に対して、精神的な部分で「ポストコロニアル的な総括」を行ってこなかった点には、問題があります。この点は、多くの社会学者や文学者が思想的な面でポストコロニアル的な総括を進めた欧米とは対照的です(むろん欧米が正しく総括したかどうかは別の話です)。例えば、戦後の日本には「植民地を題材にした優れた文学」といったものが非常に少ない。戦後生まれの日本人の大半は、「植民地」という存在に対してリアリティを感じることができないでいるように思います。

 それにしても、日本とかつての日本の植民地の間には、これほどに強い憎しみが生き続けるのはなぜでしょう。支配された側からの憎しみは、生き続けて当然です。しかし、現在の状況は、「支配した側のされた側に対する理不尽な憎しみ」が醸成されているのです。これは、欧米とその植民地の間には比較的少ない感情です。

 さて、「ポストコロニアル」という言葉で思い出しましたが、ちくま学芸文庫の新刊「クレオール主義(今福龍太)」を読了しました。私にしては珍しく数日掛けて読了しました。正確には「読み直した」という状況です。実はこの本、1991年に青土社から発刊されていたもので、文庫化される以前に一度読んでいるからです。文庫本として再刊されたので、再読を試みたのです。
 「クレオール」という言葉は、文化人類学分野で広く使われています。クレオールという概念は、「ポストコロニアル」という問題意識を背景として、異なる文化の融合や生まれ育った土地が育むアイデンティティの融合といった部分を見ることで、ある特定の場所(土地)の文化や社会の状況にアプローチしていく…方法論とでも言えばよいのでしょうか。
 「クレオール」という概念にもっとも特徴的に存在するのは、「あくまで文化やアイデンティティを切り口にし、人種や民族の問題を避ける点」です。
 見方を変えれば、侵略や民族、そして人種…という生々しい問題を、「文化の問題」にシフトする…ことで、かつて植民地であった土地の現状の社会や文化について、建設的に将来を見て行く…という方向性でもあります。
 侵略や民族、そして人種といった問題を止揚してしまうところに不自然さを感じないでもありませんが、かつて高校・大学時代にレヴィ・ストロースやフランツ・ファノンの著作に傾注し、その後世界各地を旅した私にとっては、「クレオール」は非常に魅力的な概念でもあります。

 「クレオール」では、異なる文化や異なるアイデンティティが混交しながら、異質性や多様性を内包した新しい社会や文化が生成されます。当然ながら、その歴史的・地域的な背景によって、多様なクレオールが生まれます。最も典型的な事例として、「クレオール料理」で知られるカリブ海、アメリカ南部地域の文化・社会や、ハワイ・南太平洋の文化・社会がありますが、南米やアジア各地、そしてクレオールの故郷とも言うべきアフリカに関する論及も盛んです。

 ところで、韓国、中国、台湾に関しては、対日本という関係において「ポストコロニアル」についてはある程度論じられても、「クレオール」という切り口ではまず絶対に論じられません。アジアにおけるクレオールは、あくまで対欧米の文化に関して存在する概念です。
 これは結局、日本は中国、韓国との「同質」の文化・文明を持つ国であったからでしょう。もともと文化の同質性が高い場合、これは確実に「民族」や「人種」の問題が前面に出てきてしまいます。
 私は先に、「日本とかつての日本の植民地の間には、なぜこれほどに強い憎しみが生き続けるのか」と問いかけましたが、最大の要因は「基本的に同質の文化同士がアイデンティティを主張しあう」からだと思います。

 カリブ海のクレオール文化を見ればわかるように、クレオールには、民族や住んでいた土地が持つ歴史的な記憶が刻み込まれます。私は例えば日本と韓国の文化は、先祖を同じくすると言う意味で「同質」ではあっても、育まれたものは異なると思います。この2つの「異なる文化」が、東京の新大久保や大阪の猪飼野で「クレオールとして融合」することで、日本が過去に朝鮮半島で行った植民地支配のあらゆる事実を記憶として残す文化…、しかも憎しみ合うことなく融合した新しい文化、が生まれるように思うのですが…。

 ここまで一気に書いたので、いつもながら誤字脱字が多く、内容にはかなり支離滅裂な点があるかもしれませんし、主旨もはっきりしていないかもしれません(笑) 数日内に読み直して、不都合な点が見つかれば訂正または削除します。

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