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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/4/26

 数日前に「横浜の高3が父親絞殺…起床遅いと注意され逆上」…という衝撃的な事件がありました。その後のニュースでは死因は「心筋梗塞」とのこととで、どうやら争っている最中に心臓に負荷がかかって急死に至った…ということらしくて、現時点で真相は不明です。昨日以降は人権への配慮でしょうか、マスコミでの事件の続報はなくなりました。
 ところでで、この加害者報道をされた高校生が「中高一貫の進学校に通っていた真面目な生徒」であった…とのことで、事件発生直後には予想通りのマスコミの反応がありました。
 インターネット放送「WEB RADIO」の中の「荒川強啓デイ・キャッチ」という番組で、今回の事件についてコメンテーターの映画監督・井筒和幸は、「…高校生は偏差値教育の中でストレスが溜まっている。このストレスが今回のような事件を起こす原因。従って偏差値教育をやめなければならない…」と主張しています(http://www.tbs.co.jp/radio/stream/asx/954.asx )。

 またか…って感じです。
 いったいどうして、「注意した父親に対する暴力」が「偏差値教育」と関係あるのでしょうか。今も昔も「より高いレベルの教育」を受けるためには、他者と勉学の部分で競争しなければならなかったことに変わりはありません。何度も言っているように「偏差値」はただの数字に過ぎず、学歴重視…というか「勉強した人間が出世する」なんて社会制度は、時代や洋の東西を問わず、科挙の時代の中国や中世のヨーロッパ、江戸時代の日本にだってありました。
 高校生が気象時間が遅いと注意された親に、カッとなって暴力を振るったのだととすれば、それは子供の人格形成に関わった家庭教育の問題であり、さらに言えば、当事者である父親と子供の人間関係の問題です。受験や偏差値教育のストレスが原因…というのも、バカバカしい話です。受験や学校生活だけでなく、その後の企業社会も含めて人生はあらゆる部分でストレスに晒されながら生きていくものであり、それをストレスと感じるかどうか、またストレスを自分自身で内部処理できるかどうかは、基本的に個人の内部に帰結する問題でしょう。
 また、どうでもよい話ではありますが、中高一貫進学校と称される学校の多くは非常に校則が緩やかですし、トップレベルの学校になると受験教育を全く行わないところも多いです。進学校に通っている生徒だからと言って、誰もが普通以上の受験ストレスに晒されている…と考えるのも至って短絡的です。
 幼年期、少年期、青年期などに、ストレスをかけないように…優しく過保護に育てていったのでは、ストレス耐性のない人間が出来てしまいます。その方が恐ろしい感じがします。あえて言いますが、たかが「受験」ぐらいで他人に暴力を振るいたくなるほどのストレスを感じる人間がいるとすれば、それは「受験」が悪いのではなく、本人の心のあり方の方に問題があるように思います。
 中高生による家庭内暴力、さらにはすぐに暴力に走る「キレやすい若者」…が事件を起こすたびに、その原因として真先にヤリ玉に上がるのは、お受験、知識の詰め込み、偏差値のキーワードで表される学歴偏重社会です。
 ともかく、バカの一つ覚えのように、中高生が起こす社会問題の全ての要因を偏差値教育に求める人たちがいます。こういうステレオタイプのくだらない論評は聞く価値もありません。

 ところで最近、この日記の中で「教育」の問題に触れることが多いような気がします。別に他意はないし、特に教育問題に関心が深いわけではありません(女性問題の方が関心は深いです…笑)。でも、最近のニュースを見ていると、個人の問題を「社会が悪い」「教育が悪い」と結論付ける論調が多く見られます。
 例えば「失業者の増加」は政府の政策が悪いせい…とする論調です。しかしバブル崩壊以降、全般的に企業活動が衰えた理由の全てが、政府の経済政策が悪かった…というわけではないでしょう。例えば倒産する中小企業の多くでは、経営者の能力がなかった…とか、保守的な考えゆえに業態転換ができなかった…なんて理由もあるはず。ロクに経営努力もしない企業が倒産することを、全て国の政策のせいにするのも納得できません。
 いずれにしても、この国では「個人の能力」や「個人の責任」といった言葉が、非常に曖昧にされたままです。今後もずっと、こういう国であり続けるのでしょうか…

2003/4/25

 「外来語の言い換え提案」というニュースを読みました。次のようなものです。

 「国立国語研究所は、和製英語を含む分かりにくい外来語の日本語による言い換え提案で、第1回分として63語の用例を公表した。旧文部省の審議会答申に沿い、同研究所が昨年8月、有識者による外来語検討委員会を設け、12月に中間発表し、一般からも意見を募っていた。国が行政白書に使いながら、十分に定着していないカタカナ言葉を選び、「アウトソーシング」を「外部委託」などと、原則として1語につき言い換え1例を示した。同研究所は今後も年2回、言い換えの工夫を提案する。」

 外来語が理解しにくいかどうか…なんてことは、個人差があるし、言葉なんてものは自然に定着するものは定着する。外来語は自然な時間の流れの中で淘汰されるべきものですし、実際にそのように進んできたはずです。古くから中国語や韓国語が数多く流れ込んで日本語の一部となってきました。また、戦国時代以降にはポルトガル語やオランダ語の一部も日本語になりました。そして明治の開国以後はドイツ語や英語が日本語の一部に組み込まれてきました。第二次大戦中に「適性言語」として規制された例を除けば、外来語の定着の有無は「自然淘汰」を基本としたはずです。いずれにしてもわざわざ国が予算を使って、「外来語がわかりにくいかどうかを判断して言い換え提案を行う」必要は全くないと思います。

 しかも、今回の国立国語研究所の「言い換え提案」の内容はひどいものです。
 「デリバリー=配達」、「アウトソーシング=外部委託」、「アクションプログラム=実行計画」…あたりは、まあOKだと思います。
 「アセスメント=影響評価」となると、これは意味がわかりにくい言い換え語ですね。
 「インタラクティブ=双方向的」、オンデマンド=注文対応」「コンテンツ=情報内容」「サーベイランス=調査監視」「ノンステップバス=無段差バス」「ライフサイクル=生涯過程」「ライフライン=生活線」…あたりにとなると、いずれも元の言葉よりもかえってわかりにくく、"意味不明"に近い言い換え語もあります。
 「調査監視」なんて言葉は、「調査・監視する」ことなのか「調査を監視する」ことなのかよくわからない。「ライフサイクル=生涯過程」や「ライフライン=生活線」「バリアフリー=障壁なし」になると、はっきり言って全く意味不明。「生涯の過程」って何ですか?「生活の線」って何ですか? 「障壁なし」って何の障壁がないことなんでしょう? 元の「ライフサイクル」や「ライフライン」や「バリアフリー」の方が、現時点でのそれらの言葉の普及度から見て、まだしも理解されやすいと思います。

 この実にくだらない「言い換え提案」に関わった有識者、つまり外来語研究員会のメンバーってどんな人たちなんだろう…と思って、独立行政法人国立国語研究所のサイトを調べたら、メンバーの名前が掲載されていました。こんな人たちです。

2003/4/24

 今日はダラダラと、「イラク戦争後」について思うところを…

 アメリカは戦争後のイラクと周辺地域に、形式的には欧米型の民主主義を標榜する親米政権を樹立したいようです。しかし、TVニュースを見ていると、既にシーア派による反米デモが相次いで行われているようです。フセイン政権という重石を排除して、イラク人の60%が属するシーア派を事実上「解放」したことで、逆に反西欧物質主義に対する反発するイスラム教徒の声も、同時に解放してしまったようです。欧米型の民主主義かどうかは別にしても、強権的に民衆を押さえつける政権を倒したことは、えってアメリカには不都合な状況を作り出すかもしれません。

 さて私は、アメリカを中心とした欧米型の価値観を持つイラク暫定政権による統治が、イスラム教徒からの反撥にあってうまく進まなくなることを願っています。別に「欧米型民主主義vsイスラム国家」という対立軸で考えてイスラム国家を支持しているわけではありません。私は、「多様性」を持つ世界に惹かれるからです。
 イラクは、歴史的に見ても文化的に見てもイスラム国家であった方が自然です。あらゆる宗教原理主義は嫌いですが、「欧米型民主主義の原理主義」ってヤツも同じくらい嫌いです。国民の意思が反映されるシステムでありさえすれば、そして国民の意思がイスラム国家の樹立にあるのでなら、イスラム法を基本とする国家体系が存在してもいっこうに構いませんし、そうあるべきだと思います。

 イラク戦争は事実上終結しましたが、むろん、中東を巡る様々な問題は何一つ解決したわけではありません。特に、中東地域におけるあらゆる問題の根源とも言えるパレスチナ問題は、イラク戦争間も続いたイスラエルの自治区侵攻もあって、さらに複雑な様相を呈してきました。アメリカがイスラエル占領地を抱えるシリアに対する圧力を強めることで、パレスチナ問題はさらに深い泥沼へと進みそうです。シリアにしてみれば、自国領土の一部を占領し核兵器を所有するイスラエルに対抗する必要上、化学兵器禁止条約を批准していません。従って、仮にシリアが化学兵器を所有していたとしても、それは「国際法」に反しているわけではないのです。アメリカがシリアを非難する理由である「大量破壊兵器疑惑」は、同時にイスラエルの所有する核兵器や化学兵器に対しても向けられなければ、世界は誰も納得しないでしょう。

 そういえば、アメリカがイラクを攻撃した理由であったはずの「大量破壊兵器」なるものは、いまだに見つからず、代わって「非民主的な独裁政権を倒してイラクの民衆を解放した」というアピールを強めています。イラクが大量破壊兵器を所有していたのかどうかは、今後の捜索活動に委ねられるわけですが、「独裁政権から民主主義を取り戻したアメリカ」というアピールは完全に茶番です。
 イラクのフセイン政権が非民主的な政権だったというのなら、中東諸国の多くはおしなべてイラク以上に非民主的な政権であり、サウジアラビアやクウェートなど、まともに選挙制度や議会が機能していないことはよく知られています。中近東に長い駐在経験がある私の知人の商社マンの話では、サウジアラビアでは裁判すらまともに機能にしていないとのことで、とても法治国家と言える状況ではないそうです。支配的地位にある部族出身の王族が好き勝手に国を私物化している政治状況は、酷いものだそうです。議会制民主主義がどの程度機能しているかを基準にすれば、アメリカが支持するサウジアラビアよりも、敵対視するイランの方がよほどまともな国家と言えます。
 アメリカがフセイン政権に攻撃を仕掛けたことを正当化するために、繰り返し主張する「非民主的な独裁政権の打倒」といったお題目など、アジアやアフリカを中心に世界中に数十ヶ国はあるはずの非民主政権を見れば、実にバカバカしいものです。

 ところで現在、放送・活字を問わずいろいろなメディアで様々な「知識人」が今回のイラク戦争を取り上げてその意味について論評していますが、イラク戦争に批判的な論者の多くは、やはり中世の「十字軍」を今回のアメリカの行動と比較対照として挙げているようです。
 「キリスト教徒vsイスラム教徒」という構図は確かに十字軍と同じであり、また「実態は経済戦争」という点も、聖地奪還を大義名分にしながら実は強い領土欲、物欲からイスラムに攻め込んだ中世ヨーロッパ封建領主のスタンスと全く同じではあります。
 まあ、古来から他国の領土を攻撃・侵略する理由は、基本的には全て根底には経済的な利害関係があることは歴史的に証明されています。
 ブッシュ政権を支える政治的・宗教的基盤となっているアメリカのカトリック保守層の多くが、その伝統的な異教徒に対するスタンスから、今回のイラク攻撃を「異教徒に対する攻撃」と捉えていることは確実です。その意味では、ブッシュやカトリック保守層が、今回のイラク攻撃に十字軍的な精神的背景を持っていることに不思議はありません。

 しかし、資本家の経済的利益を求めて行われた今回のイラク戦争の実態は、動機も目的も、十字軍と言うよりも19世紀以降の欧米列強による帝国主義的侵略に非常に近いものと考えられます。とは言え、1つだけ不思議なことがありました。
 欧米各国の植民地政策の軋轢が第一次世界大戦、第二次世界大戦という破滅的な結果をもたらして以降、第二次大戦後には、もうちょっとスマートに経済的な侵略を行う手法が一般化したはずです。特に第二大戦後に多くの旧植民地が社会主義理念のもとに独立した苦い経験を受けて、グローバルな資本は「武力によらない経済的収奪」のシステムを確立しつつあったように思います。ここ20年ほどは、グローバルな資本は旧ソ連の崩壊や旧植民地から社会主義国家へ移行した中国やベトナムの資本主義への緩やかな移行を誘導し、「武力によらない経済的簒奪」の有効性に自信をつけてきたはずなのです。
 今回のアメリカによるイラク侵攻は、いかに経済的利益を目的としたものであれ、こうしたここ20年間ほどの世界の流れの中では余りに唐突なやり方のように感じました。

 今になってあらためて考えて見ると、この「アメリカの唐突な行動」の背景には、2つの理由があったように思います。

 まず1つは、アメリカの実体経済が「なりふりを構っていられないほど」危機的な状況にある…、ということでしょう。特に、表には出ない住宅バブルの崩壊などがダメージとなり、「スマートな手段」では建て直しが効かないほど悪化していた…と考えるべきかもしれません。
 もう1つの理由は、「スマートな経済的支配」を実行するのが難しいほどに、アラブ全体の民族意識が高まっている…ということがあるのかもしれません。特に、連日のようにパレスチナ自治区に侵攻して虐殺を繰り返すイスラエルの蛮行を見せられているアラブの民衆の多くは、沸点に近いところまでイスラム同胞意識を高めており、例えサダム・フセインのような独裁者にすらアラブの命運を託すべき…と考え始めていたのかもしれません。アメリカやイスラエルは、こうした状況を押さえるためには「軍事力しかない」と判断したのだろうと思います。

 繰り返しますが、私は現在のイラクの状況を見て、心情的には「反アメリカ」を叫ぶイスラム教徒に肩入れをしています。つまり、今後アメリカや欧米、そして日本などが望むイラク戦後スキームが崩れ、現在のイランのようなイスラム国家ができることをかなり期待しているのです。

 ただし、私がそう望む理由を「世界の多様性」に求めるとすれば、ベネチアサミット以降世界中に野火のように拡がった「反グローバリズム」の流れに私が賛同している…ととられるかもしれません。しかし私は、現在各地で声をあげている「反グローバリズム運動」については、素直に賛同する気にはなれません。この理由については、長くなるのでここでは書きません。少なくとも、私の望む「世界の多様性」は、最近トレンドとなっている「反グローバリズム運動」とは一線を画すものです。

 さて、今日のニュースを読むと、アメリカはイラク攻撃に反対したフランスに対する報復案を検討しているとのことです。まさにアメリカは、西欧諸国さえ怯えるような強大な軍事力で、世界を思うままに操ろうとしています。
 軍事力で世界を支配する…、フビライ・ハンのモンゴル、ナポレオンのフランス、ヒトラーのドイツなどはむろん、17世紀以降に植民地政策を推し進めたイギリスやフランスも試みたことです。しかし、全ての試みは頓挫しました。

 この際ですから、ブッシュ政権にはやりたいようにやらせればいい。中東支配でも世界支配でもどうぞお好きに…という感じです。「スマートな経済支配」「ODAに名を借りた経済的簒奪」などが横行するよりも、ブッシュ政権が推し進める軍事力を背景にした強行政策の方が、現在の世界における国家間の経済や文化の軋轢・矛盾が表面化しやすいと思うのです。その結果、より適正な国際社会が形成されるような方向へ進む可能性だって、あるように思います。ただし、こうした形で噴出する矛盾が、さらなる戦火の拡大を意味するのであれば、多くの人が死んでいくことに対する「心の痛み」を感じないわけにはいきません。しかし、グローバルな資本が第三世界に対して目に見えない経済的簒奪を行うことによって、発展途上国で信じられないほど多くの人間が餓死したり内戦で死んでいった過去20年間よりも、短期間で全ての状況が改善される…ことをも期待しているのです。

2003/4/21

 先日訪問した取引先の広告代理店の部長が、「ところで貴方の血液型は何型?」って聞くんです。で、適当に実際の血液型とは違う型を答えておいたら、「やっぱり!」としたり顔でのたまった挙句、滔々と「血液型の違いによる職種ごとの向き不向き」について語り始めました。しかもなお、自分は部下の血液型による性格の差を人事管理に応用して上手くやっている…ということを自慢するのです。いまどき、こんな人間がいるのかと思って唖然としました。
 ところで、血液型と性格や行動傾向の間に相関関係はない…というのは自明のことですが、「血液型と性格」の話なると、逆にムキになって「そんなものは科学的に無関係」と言い放つヤツも、それはそれでちょっとイタい感じがします。私は、飲み会の席の与太話として話題に上る分には、別に血液型だの性格だのと言う話で盛り上がっても構いません。自分も適当に参加したりします。
 こんな一見おおらかなことを言いいながら、先の部長のようにビジネスの席でマジメに血液型について語られると、「この人は人間の性格や行動様式を4種類の分類でしか考えられない根っからのバカなのかもしれない…」と真剣に思いますし、時にはそれを口に出すこともあります(笑)

 話は全く変わりますが、2003年春の各社デジカメ新製品は、まさに「小型・軽量モデル」のオンパレードです。最近は「小型・軽量ではないデジカメ」の方が少ないくらいで、実際のところ400万画素以下の機種で本体重量が200gを超える製品なんて、ほとんどありません。
 で、このささやかなサイトで「デジカメは小型・軽量でなくちゃダメ」と主張し続けてきた私が、小型・軽量化が一気に進んだ現在のデジカメ製品状況に満足しているか…というと、必ずしもそうでもないところが複雑な心境なのです。

 私が仕事でデジカメに本格的に関わりだした1997年頃は、まだやっとメガピクセル機が登場し始めた頃で、当時は「高性能機=デカい」と相場が決まっており、コンパクト銀塩カメラ並みの高性能機が欲しい…と真剣に願っていました。そして、このサイトを立ち上げた2001年の初め頃は、WS30のように100gを切るデジカメなんてのは、画質はともかくそれだけで貴重な存在であり、私は画質よりも「小型・軽量」であることを本音で礼賛しました。
 ところが、最近のデジカメは小型・軽量機の方が普通です。それどころか、、カメラ付き携帯電話に100万画素のCCDが搭載される時代です。505シリーズは、おそらく私も購入することになると思います。特にハニカムCCDを搭載したD505iのサンプル画像を見た時には、「日常撮影用にはこれで十分で、デジカメを持ち歩くことは不要」と、はっきり感じたほどです。海外旅行などにはそれなりに写りの良いデジカメを持っていくでしょうが、もう日常生活を撮るためのデジカメはカメラ付き携帯電話で十分です。100万画素携帯電話を使い始めたら、はっきり言って私は、デジカメを持ち歩かなくなる可能性が高いですね。

 さて小型軽量デジカメやカメラ付き携帯電話が普及した現時点で、私がもし初めてデジカメサイトを立ち上げたとしたら、もしかすると「デジカメはデカい方が面白い」というサイトを作っていたかもしれません。いやそれどころか、中高生までもが高性能カメラ付き携帯電話を持ち歩く現状を見て、「デジカメはつまらないから銀塩カメラで写真を撮ろう」…という主旨のサイトを立ち上げていたかもしれません(笑)
 要するに、このサイトの中で「デジカメは小さければ小さいほど面白い」「デジカメは撮ってナンボ、だから毎日持ち歩ける小型・軽量デジカメを使うべき」「デジカメの画質なんかたいして重要じゃない、デカくて高画質のデジカメはつまらない」…などと主張してきた私は、「本当に小型・軽量でしかも高画質」という製品が増えてきた最近の状況が、少し面白くないのです(笑)

 私は、ある事象に対して対立する見方や立場があると、まず「どちらの立場に立った方が面白いか」ということを考えてしまいます。自分が面白いかどうか…というのではなく、自分がどのようなポジションに付けば対立関係の構図が面白くなるか…と考えるのです。対立関係がない時には、対立する意見を無理やり作ってみたりします。「WS30の世界」というサイトを立ち上げた時点はともかく、その後にコンテンツを増やしていく過程で、こうした「ひねくれた意図」がなかったかどうか…、それは本人にも定かではありません。
 結局私は、おもいっきりひねくれた「イタいやつ」なのです。
 こうした自分の「イタさ」は、もう高校時代から全く変わってない部分で、こういう「イタい自分自身」を、それほど嫌いではない自分がまたまたイタいところです(笑)

 さて、当然ながら今後のデジカメの小型軽量化はさらに進みます。そのうちに、デジタル一眼レフや一部の特殊機能製品を除くと、全てが小型・軽量のコンパクトデジカメになるでしょう。「Cheez SPYZ」 程度のサイズで200万画素…なんて機種もまもなく登場するでしょうし、それ以前に200万画素でAF機能付きのカメラを搭載した携帯電話も登場しそうです。そうなった時に自分は、このサイトでデジカメについていったい何を主張するんでしょうねぇ…

2003/4/18

 今日の話は「オジサンの繰言」です。

 大卒の30%程度が就職できない…という社会状況は悲惨の一語に尽きますが、方や多くの大学生の方にも「根気よく自分に合った仕事を探す」という意欲が感じられません。「仕事が楽な公務員になりたい」…なんていう話を聞くと、「自分の20代の頃とは違うなぁ」とつくづく思っちゃいます。また最近の大学生からは、「会社勤めはイヤだからフリーで仕事をしたい」…なんて話もよく聞きます。
 先日私は、バイトの学生から、そんな内容の話で相談を受けました。わずらわしい人間関係があるから会社勤めは嫌とか、自分は内気だから営業なんてできないとか…、まあ私の世代から見ると甘えているようにしか見えない話を聞いたのですが、本人は大真面目に「自分は会社勤めには向いていない、やりたくない」と思い込んでいるようです。

 ところで、ゆとり教育を謳う文科省は、学校教育課程で「生きる力」を身につけさせることの必要性を訴えています。文科省がどういう意味で「生きる力」という言葉を使っているのかは興味がないのでよく知りませんが、本来の意味での「生きる力」とは、つまり社会で働いて生計を立て、それなりの意味を持った毎日を過ごしていくこと…でしょう。要するに「経済的にも思想的にも自立する」ことです。「思想的な自立」なんて話はちょっと大げさですが、要するにこれは、経済的な自立の前提となるものであり、経済的に自立している人間は、大げさなことを言わなくても何らかの思想的な自立を果たしている…と考えてもよいと思います。

 経済的な自立…それは、働くことから始まります。働いて生きていく…ためには、多少の能力が必要です。そしてその「働いて生きていくための能力」の本質とは、社会との「コミュニケーション能力」に尽きる…と思っています。むろん、学力やら一般常識やらもあった方がいいし、個別の仕事の能力も絶対必要です。でも、仕事の能力が多少低くても、学力矢一般常識のレベルが多少低くても、何となくうまくやっていく人…には、何かしらのコミュニケーション能力が備わっています。
 大学生に限らず、最近の若者は、大企業を中心とする一般のビジネス社会で必要とされるコミュニケーション能力、例えば周囲の人間とうまくやっていく能力や嫌いな同僚や上司と折り合いを付けていく能力、そして営業能力…等については、明らかに欠如している人が多いですよね。また、本人もそれを自覚しているからこそ、就職はしたくない…なんて言い出だすのでしょう。この「コミュニケーション能力の不足」を自覚している状態というのは、かなりつらいことだと思います。

 でも、私は「大企業中心の企業社会で上手くやっていけない」…ことにそれほど絶望する必要はないのでは…とも思うのです。シビアなコミュニケーション能力はなくても、もう少し「のほほんとしたコミュニケーション能力」があるだけでも、けっこう食べていけるものです。

 私の周囲にはフリーで働いている人間がたくさんいます。まあ、業界の関係で、フリーのプログラマー、フリーライター、フリーの編集者、フリーのWebデザイナー、フリーのDTPオペレーター…なんて人が多いようです。
 でも、考えてみると、どの職業も一見花形っぽいけど内情は「斜陽」職ばかり。完全に、人余りの業界ですよね。コンピュータのソフトウェア業界は官公庁関連の受注以外は大幅に減ってきているし、出版業界の凋落振りについては言わずもがなです。
 流行のIT関連ネット関連業界も酷い状況ですね。
 Webデザインなんて、もうダメポって感じの業界。昨今、HTMLベースの「ホームページ制作」なんてのは主婦や高校生でも出来るのが普通。優秀なホームページ作成ソフトもあるし、商用レベルのホームページ素材もその辺に転がっている。第一、ホームページを作っても別に意味は無い…って業種も多いですよね。というか、猫も杓子もホームページ作成に走った時代が終わり、ホームページの制作効果…ってヤツが正当に見直され始めています。オンラインショップだって儲かっているのは、ホンの一握り。いまや簡単な商品紹介やら業務紹介など、中小企業向けや個人商店向けのホームページ作成…といった仕事は、ほとんどまともな料金は付かなくなりました。
 大企業向けのホームページを高額で受注している大手政策会社や大手広告代理店あたりから仕事を受託してる制作プロダクションなどには、かなり単価の高い仕事が回ってきます。また、データベースを駆使する複雑な機能を持つサイト作成なんかも、依然としてニーズはあります。でも、こうした仕事は、一部の制作プロダクションにがっちり押えられており、小規模な制作会社やフリーデザイナーには回ってきません。あるのは、単価の安い下請け仕事ばかりです。
 むろん、データベースはバリバリ、PHPもバリバリ、ちょっと複雑なプログラムはCでゴリゴリ、XMLもOK、加えてサーバー構築もお手の物…なんてスキルを持ってる人なら、仕事はいくらでもあります。こういうスキルを持つ人材が欲しいという制作会社も多い。
 でも、世の中で「Webデザイナー」なんて自称している人の大半は、HTMLはともかく、あとはちょっとFlashかじって、簡単なCGIが書けて…なんて程度。要するにアマチュアのレベルとほとんど変わらないような人が多いですよね。こんな程度のスキルでは、就職先も無いし、個人でやってもまともなギャラが取れる仕事はまったくありません。
 DTPオペレーターも同じです。出版不況の昨今は、単行本のデザイン料はページ単価1000円以下が当たり前。これがプロダクション経由でフリーの外注に回ってくるとページ単価が300〜500円になるのは普通のことです。1週間かけて200ページの本を組んでもギャラは5〜10万円なんて話はよく聞きます。フリーでやるとなると、仕事を受注可能な一通りの作業環境を整えるためにMacはむろん、ソフトやフォントなどの出費で100万円以上は軽く飛んじゃいます。これじゃフリーでDTP制作で食って行こうなんて、ほとんど不可能に近い話。
 DTP関係の専門学校卒業しても、人余りの最近はまず制作会社への正社員採用は無理。せいぜい時給1000円のバイトが見つかる程度です。「花形DTPデザイナーになろう!」なんてキャッチコピーで高卒生徒を集めている専門学校は詐欺みたいなものです。

 でも不思議なもので、こんな「人材供給過多の業種」でも、フリーで上手くやっている若い人がけっこういます。しかも、専門学校を卒業したばかりで最先端の技術スキルも無いのに、ちゃんとフリーで食べている人がいるのです。話を聞くと、どうせまともな就職なんかないのでいきなりふりーでやることにした…なんて安易なことを言ってたりします。でも、ちゃんと仕事をやってたりします。こういう「何となく食べていく人」に共通しているのは、真面目に仕事をこなすのはむろん、不思議なコミュニケーション能力を持っている点です。

 私はこういう能力を「のほほんコミュニケーション能力」と名付けて(勝手にですが…)います。これは、「巧みな話術でバリバリと営業をこなす」というレベルのコミュニケーション能力とはちょっと違います。口下手でも人付き合いが下手でも、相手の心にうまく入っていける能力で、押し付けがましさを感じない人が持っている能力です。こうした「のほほんコミュニケーション能力」を持っている人は、何となくいろんな場所に顔を出して知り合いを作り、多くの人に好かれて、そしてどこからともなく仕事をもらう…という感じで仕事こなしています。無口なのにどことなく人懐っこい部分があるとか、要するに憎めないヤツ…と、他人に感じさせる能力を持っています。

 仕事に必要なコミュニケーション能力…なんて言うと、上述した「ビジネス現場で役立つ高度なコミュニケーション能力」を考える人が多いようです。だから、就職への不安を抱く大学生なんかは、「自分はサークル活動なんかも不得手だし、友人も少ないので社会に出てうまくやっていけるわけがない」…と考えてしまうようです。
 でも、シビアなコミュニケーションが苦手な最近の若い世代が、逆にけっこう持っているのが「のほほんコミュニケーション能力」で、これは企業社会の先端でバリバリやっている人が多い私の世代にはない特質だと思ってます。

 冒頭の話に戻りますが、私は「就職したくない」という大学生に相談を受け、「のんびりやってみろよ」と言って励ましてしまいました。私は、「他人を励ます」というのことは、まずやったことがなかったのですが、その大学生が、こうしたのほほんコミュニケーション能力を持っている…と感じたからです。
 あまり急がない、「何となく行きていく人生」も悪くありません。でも、これもまた、誰にでも出来るものではないようです。

2003/4/15

 前回の日記で「偏差値教育は悪くない」…って話を書いたら、早速「偏差値で優劣を感じさせるような現状の教育はよくない。もっと子供の本質的な能力を伸ばすべきだ…」と言う主旨のメールを頂きました。
 よく読んで頂きたいのですが、私は「偏差値だけで人を判断するべき」とは一言も言ってないし、「学力以外の人間教育は不要」などとも言ってません。ましてや、「学力以外の能力」の重要性も十部分に認めています。その上で「偏差値は学力を判断する基準となる数値としの意味を持つし、その学力は人間の能力を判断する基準の1つ。ゆえに偏差値は人間の能力を判断する基準になる」…と言っているだけです。学力だけで人間を判断するのは論外ですか、学力を人間の能力の判断基準の1つに加えることは、これまた当然です。

 やはり「人間の学力の優劣をはっきりさせる」こと自体に反対…という人は多いのでしょう。もうこの話は何度も書いてますが、私は駆けっこの速さも、絵のうまい下手も、そして学力の有無も…何でも優劣をつけて構わないと思います。人間の能力に優劣をつけなければ、オリンピックを含むあらゆるスポーツ競技も、将棋のトーナメントなどのゲーム競技も成立しません。問題は、こうした個々の能力の優劣を「人間の優劣」の基準として見なければよい…と言うだけの話です。

 話は変わりますが「学歴社会は悪い」っていう人も多いですよね。確かに、私も学歴なんてものは、全くどうでもいいいものだと思います。極論すると、「学歴」は「偏差値」よりも不要なものです。私は「学校教育の成果としての学力の有無」は自社スタッフ雇用時の判断基準の1つとして重視しますが、それが学歴に反映されている必要は全くありません。例えば私のオフィスの場合、スタッフは別にどんな大学を出ていようと構わないし、むろん大学なんて出ていなくても構いません。プログラムの開発スタッフはプログラムが開発できさえすれば、小学校しか卒業していなくても構いません。むろん資格も必要ありません。また、Webデザインをやるスタッフはよいデザインさえしてくれれば、別に学歴も職歴も、そして資格なんてのも無関係です。
 ただし、クライアントとのコミュニケーションを円滑に行うために、専門領域での能力以外に「対人コミュニケーション能力」や「社会常識」は必要です。また、開発やデザイン作業には多様なクライアント企業の業務内容を理解するための「一般知識」も必要です。この「一般知識」は、普通は学校教育で醸成されるものですから、「学力」はこうした一般知識の有無を測る1つの判断基準になります。

 で、学歴なんてものははどうでもよいのですが、「学歴社会」というのは、悪い面ばかりではありません。逆説的ではありますが、「能力のあまりない人」にとっては、学歴で人の能力を判断する学歴社会は、非常に楽な社会システムであり、あまり能力のない多くの人が救済されるシステムでもあると思います。就職時に学歴を問うことを全て廃し、学歴は全く無関係の「完全実力社会」になったら、多くの人にとっては非常に厳しいものになるでしょう。資本主義が続く限り、学歴社会が無くなって困るのは、おそらく「社会で生産活動に従事する能力があまりない人たち」ではないかと思います。
 大企業であろうが、中小企業であろうが、利益を追求する企業としては、「有能な人を採用したい」というのが本音でしょう。しかし、「有能な人」を選択するのはかなり大変なわけです。非常に緻密なテストと面談を繰り返さなければ、短時間で人間の能力や人格を判断することはできません。学力や一般知識ですら、たった1回のテストで推し量るのは、かなり難しいことになります。特定の人間が持つ学力や専門能力を性格に測るのは非常に難しい。…というよりも面倒な作業です。
 そこで企業は、短時間で人間の能力を測ることのリスクを出来る限り避けるため、「学歴」を利用します。「高い偏差値の大学を卒業した人間は学力が高く一般教養や知識も豊富」と断定するのではなく、「高い偏差値の大学を卒業した人間には学力が高く一般教養や知識も豊富な人間が多い」…と、確率の高さを利用するのです。そして、あらかじめ学歴で選んだ分、選考試験を簡単に済ませることもできるわけです。
 これは、「高偏差値の人間を選ぶ」と言うよりも「統計的に見て高偏差値の人間に多い属性」を選んでいるわけですよね。
 …で、就職に限らずこうした「学歴」を一定の基準にする社会では、「学歴が高い」というだけで、あたかも「全般的に優秀な能力を持っている」という幻想が出来ていくわけです。

 でも、こういうわけのわからない「学歴幻想」は、例えつまらないものであっても、利用し尽くせばよいとも思うのです。考えてみれば、あらゆる場所で「きちんと能力をテストされる」なんてのは、非常に厳しい。でも、学歴があるというだけでいろいろな場面で選考が適当になるのであれば、それを利用しない手はありません。
 考えてみれば、高い学歴へのチャレンジは、非常に許されるチャンスが多い。まあ中学受験なんてものをやるかどうかは別にしても、高校受験、大学受験、大学受験で失敗すれば浪人して再度のチャンスがあります。それでもダメなら、学士入学というチャンスでチャレンジすればいいし、大学院で「学歴ロンダリング」をするチャンスもあります。しかもそれぞれの段階で複数の学校を受験することができます。つまり、高学歴を得るためには何度もチャンスがあり、5回も10回もやり直しが可能な非常に甘い世界なわけです。
 個人的な経験も含めて考えれば、世間で「一流大学」と呼ばれる程度の大学に入ることは、別に難しいことではないように思います。小学校からちゃんと義務教育を受けていて、その過程で真面目に勉強し、その上で高校生ぐらいになったら受験のテクニックを教えてくれる塾か予備校にでもちょっと通えば、ほぼ誰でも確実に入学することができます。まあ、私なんかは「毎日真面目に勉強する」なんてことはやらなかったので、高校3年生の1年間は、バカみたいに必死に受験勉強しましたが…
 個人的な話はさておき、学歴社会は気にいらない…と言う人間は、2つの選択肢を採ることができます。1つは、学歴なんか無関係の実力を身につけることですが、これはけっこう厳しいとおもいますよ。それよりも学歴を身につけちゃった方が人生楽になるのなら、うまく利用すればよいとも思いますけど…。
 まあ、社会に出てからつくづく思ったのですが、働らくことはある意味で非常につらいことですが、それに較べて受験勉強なんて非常に楽なものです。

 今日もまた、何が言いたいのかわからなくなりました。久しぶりにこの日記を書く時間がとれたので、無意味に饒舌になっているのかもしれません。まあ、学生の皆さんは勉強しましょう…ってことですか(笑)

 話は全く変わりますが、鈴鹿で開催された二輪の世界ロードレース選手権の日本GP決勝で転倒した加藤大治郎選手の容体は、依然として意識不明で予断を許さない状態にあるとのこと。鈴鹿の草レースで何度か走った私としては、ぜひ回復してもらいたいと心から願っています。加藤選手、がんばって下さい。

2003/4/9

 自宅で使っているPCがそろそろスペック不足を感じてきました。少しづつ時間がとれるようになったので、週末にでもアキバへ行ってパーツを購入して組み立てようと考えています。とは言え、私はしばらくパソコンを作ってません。多忙なのでPC系雑誌の仕事も断わっているし、秋葉原でゆっくりとパーツを見て回るヒマもありません。パーツの価格もよくわからない有様。それでちょっとWebで調べてみました。
 Athlon XP-2000もCeleron-2.0GHzも1万円を切っています。メモリはPC2700の256MBが3000円を切っており、これはなんとPC133よりも安いという有様です。昨年後半からしばらく下げ止まっていたHDDもここへ来て一団と安価になり、ATA133の80GBが1万円以下で買える状況。120GBでも1万円ちょっと。ビデオカードもGeForce4 Ti 4200搭載カードが1万円ってところ。×4書き込みのDVD-RWは2万円ちょっと。高性能パーツが、確実に安くなってますね。
 …ってことは、120GBのHDDと512MBのメモリを搭載した2GHzマシンにDVR-RWを搭載して7万円程度で出来ることになります。これに安価なチューナー/キャプチャーカードを挿してもプラス1万円。
 ここのところDiVXでのエンコード/編集が面白いので、適当なパーツを組み合わせてTV録画マシンを作ろうか…なんて考えています。完成したらまた報告します。

 ジャイアンツの松井が満塁ホームランを打った…というニュースをしきりにやっています。私は大リーグの試合をボールパークで見るのは好きですが、特に松井のファンではない…というよりも日本人選手のファンというわけではありません。でも、Yahoo!のニュース記事を見ていたら、松井のホームランについて各界の有名人がコメントしており、それを読んでちょっと考え込んでしまいました。
 曰く…
 G党の民主党前代表、鳩山由紀夫は「ファンの期待通りに打ってしまうところが、どこかの口先首相とはまったく違う。日本は経済低迷やイラク戦争で暗いムードが漂っているが、松井の本塁打は国民に『日本も捨てたものじゃない』と勇気を与えてくれる…」
 G党の明治大学教授、高木勝氏は「閉塞感の漂う現在の日本で、松井の活躍だけが明るい材料。日本再生の起爆剤となってほしい」

 よくわからないコメントだなぁ…。なぜ松井のホームランが「日本再生の起爆剤」になるのでしょう。なぜ松井がホームランを打つと「日本も捨てたものじゃない」と考えるのでしょう…。私にはさっぱり理解できません。スポーツはあくまで「個人」の身体能力が発揮されるもので、その結果に「日本人」という属性は無関係です。

 やはりWebのニュースを読んでいたら、青森県の公立大学の学長が「偏差値教育の弊害を避けるための入試問題」について語っていました。
 この「偏差値教育の弊害」…という言葉もあちこちで使われていますが、何となくわからない話です。教育における「偏差値」とは、学力を測る単なる指標に過ぎません。ある人間のテストの結果を集団の平均値からどの程度隔たっているかを数値で示したものであり、相対的な学力を知る指標としては便利なものです。別に偏差値と人間性は無関係ですから、偏差値という便利な数値は、教育ベン場で必要ならばどんどん使えばいいと思います。
 考えてみると、よく言われる「偏差値で人を判断してはいけない」と言う言葉も、私は理解できません。これは言い換えると「学校教育の学力だけで人を判断してはいけない」ってことですよね。私は「偏差値だけで人を判断してはいけない」というのはごく当たり前のことだと思いますが、だからと言って人を判断する基準の1つに「偏差値」があってもよいと思います。しかも、「学力」というのは、かなり重要な判断基準です。

 さて、私も今年最後の桜の画像を掲載しておきます。これは日曜日に撮影した代々木公園の桜です(F402で撮影、クリックすると少し大きくなります)。
 この季節になると毎年書いてますが、桜の木の下でベロンベロンに酔っ払って騒いでいるお花見ってやつ、何とも見苦しいです。お酒を飲むのも、マリファナ吸うのも自由ですが、他人に迷惑をかけない範囲で個人で楽しんでください。
 ましてや、公衆の面前で醜態を見せているヤツは、はっきり言って人間性を疑います。

2003/4/7

 最近2ちゃんねるで話題のコピペで「飼っているハムスターが増え過ぎて、産まれて来るハムスターの子供を片っ端から揚げて食べている男のスレ」…というのがあり、別にどうということはない話ですが、ちょっと笑っちゃいました。
 自分でハムスターを飼ったことはありませんが、友人のオフィスで飼っているハムスターを見ていると、実にかわいい動物です。まあ、とてもじゃないけど食べる気にはなりません(当たり前)。でも、増え過ぎて困る…という話はよくわかります。私は中学生の頃、ハムスターではないですが、友人から貰ったモルモットの番(つがい)を机の引き出しに入れて飼っていたら、次から次へと子を産み、やたらと増えて困ったことがあります。親に隠れて飼っていたので、机の引き出しいっぱいにハムスターだらけになったときには、頭を抱えました。

 ところで、冒頭のコピペを見て、「ハムスターの子供を揚げて食べる」なんて、冗談にしても悪趣味…と腹を立てた動物愛護家の方もいるでしょう。ところが、ハムスターはれっきとした食肉用動物として検討されているのです。
 立花隆が以前何かの本で「宇宙ステーションの食肉自給自足のためにはゴールデンハムスターを飼うのが有望だ…」と書いていました。何でも、繁殖性や飼い易さ、食肉になる効率等を考えると、ハムスターは最高の食肉用動物になるとのことでです。
 ハムスターがどんな味でどのように調理すると美味しいのかは知りませんが、モルモットならば、現在常食している国があります。それはペルーやボリビアなどアンデス地方です。現地では「クイ」と呼ぶ食用モルモットで、これはなんでもインカ帝国の時代からインディオに食べられているそうです。ペルーの山岳地帯では普通の農家で飼っていて、内臓を抜いた腹に香草をつめて長い時間をかけて窯で丸焼きにするとのこと。食べた人の話によると非常に美味しいと聞きました。

 実はアンデスはモルモットの原産国で、16世紀にスペイン人の開拓者がヨーロッパに持ち帰り、かわいいということでペットとして愛好されるようになりました。短期間で繁殖するので、18世紀以降には実験動物としても利用されています。
 日本には「アンデス料理」を売り物にする店が少ない(というより私は聞いたことがありません)ので、実際にこの「クイの丸焼き」を食べられるかどうかは知りません。でも、食べられるお店をご存知の方がおられたら、教えてください。

2003/4/3

 マリオ・プーヅォ「ザ・ファミリー」(ソニー・マガジンズ)という本を読了しました。映画にもなった「ゴッド・ファーザー」の著者が書いた本で、15世紀のイタリア・ローマを舞台にボルジア家の歴史を綴った本です。当然主役は、法王アレッサンドロ6世(ロドリーゴ・ボルジア)とその息子チェーザレ・ボルジアです。世俗的な権力を握るために、アレッサンドロ6世とチェーザレ・ボルジアが権謀術数の限りを尽くす話で、まあ電車の中で読む文庫本としては面白かったうちに入るでしょう。
 チェーザレ・ボルジアは確かに興味深い人物であり、彼を題材にした作品には事欠きません。塩野七生も「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」なんて本を書いていて、これは私も読みました。

 塩野七生と言えば、ここのところすっかり大御所になっちゃいました。刊行が続いている「ローマ人の物語」も新刊が出るたびにハードカバーを買って読んでます。面白い読み物と言う点では相変わらず面白いんだけど、ちょっと鼻につく部分もあります。それは、やたらと社会観、政治観、経済観、人生観を振り回すようになったことです。
 「ローマ人の物語」を読んでいても、各時代ごとののローマの政体や施政者の政策を現代の日本の政治状況と比較しては、やたらと天下国家を論じる意見が書かれていて鬱陶しいことこの上ないですね。そろそろ続刊が出ても買うのをやめようかと思い始めました。
 塩野七生は、もう25年以上前にベネツィアの歴史を綴った「海の都の物語」を読んですっかり関心し、それ以降大体の作品を読んできました。新潮文庫から出ている「コンスタンティノープルの陥落」「ロ−ドス島攻防記」「レパントの海戦」の三部作、そして朝日文庫から刊行されている「銀色のフィレンツェ」「緋色のヴェネツィア」「黄金のロ−マ」というミステリー仕立ての三部作…この辺りまでは面白かったのですが、文芸誌や総合誌などで政治や国家を論じるようになってからの彼女は、どうもいただけません。
 歴史ものを書く作家が、歴史上の人物の行動や政体の盛衰を、現代社会や現代の人物に当てはめて、偉そうに評論する…というパターンは非常に多いですね。私の嫌いな故司馬遼太郎を始め、最近では井沢元彦や高橋克彦なんかも、日本史に題材をとってくだらない政治的発言を繰り返しています。

 歴史小説家が政治や国家を論じ始めたとたんに、「安っぽく」「薄っぺらに」感じてしまうのは私だけでしょうか。それにしても歴史小説家としての塩野七生は、アホな司馬遼太郎なんかよりもずっといい仕事をやっているだけに、こういった方向に向かっているのが残念でなりません。

2003/4/2



 低価格のニッケル水素電池といえば、GPブランドが有名。秋葉原では秋月電子やあきばおー、千石電商などで売ってますよね。最近その秋葉原で、これまで見たことのない新ブランドのニッケル水素電池を見かけるようになりました。それが、この「RickBery」というブランドです。同じ2000mAタイプでもGPは1,920mAhですがRickBery は2,050mAhですから、容量的にはちょっとお得。私は千石電商で購入しましたが、値段もGPと同じで1本240円です。実際に使ってみたところ、特に問題もなし。体感的にはGPの2000mAと同等でした。千石電商以外ではあきばおーでも売っています。



 次の画像は、沖縄土産の「ミニパイン」。比較するものがないので大きさがわかりにくいですが、高さは3センチぐらいしかありません。しばらく飾っておいてシワシワになってきたら、上部を切り落として培養土に挿しておけば根付いて、また同じような小さな実がなるそうです。
 写真に写っている、ミニパインが差し込んである小さな壷は、バンコク郊外のコクレットという陶器の町で購入したもの。ミニパインを飾るのにピッタリでした。



 さて、3つめの画像は名古屋土産の蓬莱軒の「櫃まぶし弁当」です。名古屋駅前の松坂屋で売ってます。ちゃんと出汁までついていて、自宅で手軽に食べられるところがよろしい。前にも書いたように櫃まぶしは蓬莱軒よりも「うな東」というお店のヤツが好きなのですが、ここはお弁当はありません。名古屋に出張に行かれたら、帰りの新幹線の中でも食べてみてください。

2003/4/1

 いつのまにか4月になりました。狂気のように多忙な日々も、どうやら一段落しそうな気配。
 先週の土曜日の午前中には3分咲き程度だった池袋近辺の桜が、ここ3日間の暖かい陽気でもう満開に近い状態です。飲んで騒ぐ「花見」が嫌いな私ですが、お昼休みに通りがかったオフィス近くの公園では、おもわず咲き誇る桜を見上げてしまいました。
(画像はF402で撮影、クリックでちょっと拡大)

 さて、先日「イラク戦争に反対する若者たちがインターネットで反戦一行詩を募集したところ2日間で1200以上の詩が寄せられた」…というニュースがありました。
 これは、「千人祈 〜インターネットの住人達による言葉の千羽鶴」というサイトの企画です。サイトの趣旨は、次のようなものです。

―――――――――――――――――――――――――――――――
…私達の提案するこの企画は、
参加してくださるお一人お一人に遠いあの国で闘い、
傷ついている人達へ捧げる祈り、そして戦争を止めたいと思う気持ち、
願いを一行の詩・文というカタチで寄せていただき、
それを紡いでいって1つの詩にまとめるというものです。

この詩は言葉で綴る千羽鶴のようなものです。一人一人は名も無き存在であったとしても、
千人の声が、気持ちが集まれば大きな物となる。そんな願いを込めて、この企画を立てました。
たかが声。たかが言葉。ですが
声をあげなければ、何も起こりえません。
言葉にしなければ、何も伝わりません。
だからこそ
この企画が、「何か」に向けての
第一歩となることを願ってやみません。

ぜひ普段活動しているホームページ、ネットの枠を超え、
多くの方にこの企画にご賛同、ご参加いただければと思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――


 非難や反論を覚悟してあえて述べれば、この「千人祈」という「ネット上で戦争反対の願い込めた言葉を集めて詩をつくる…」という運動は無意味です。こんなことはやらない方がよいと思います。
 というのも、自分は次のように考えるからです。

 まず第一に、現在アメリカのイラク攻撃に反対するのであれば、「ネット上で詩を書く」などというやり方は、戦争を遂行する側の人間から無視されるだけで、現実的に見て何の効果もない…とほぼ断言できるからです。何の効果もありません。今回の反戦詩に参加する人間が10万人になろうと100万人になろうと、その程度では世論形成にも役立たないし、戦争を遂行するアメリカの政権もそれに賛同する日本の政府も、気にもしません。第一、10万人なんて数の人間が参加するとも思えないので、ほとんど何の効果もないでしょう。何の効果もない行動を行うことは、自らが自己満足するに留まる危険があるばかりか、メッセージを伝えたい相手…つまり戦争を遂行する側の人間を利することにもなりかねません。彼はこう思うでしょう。「戦争反対と言ったってこの程度のことしか出来ない人間は無視すれば問題はない」…と。

 「本来の目的に対して何の効果もない反対運動はやらない」というスタンスは「何もやらないよりもマシだ」という批判を受けるでしょう。私はそうは思いません。 私は「まずは声を上げることが大切だ」とは思いません。どのように声を上げるかを考えることこそ必要です。効果を考えない運動は、しょせんは「自分は声を上げた」ということを自分で納得するだけの運動に過ぎません。  「何の効果もない」ことをやるよりぐらいなら、「何もやらない」ことを徹底すべきです。何の効果もないことをやって「自己満足」をしてしまうことは、相手と戦うことを拒否していることと同じです。

 次に、こうした「反戦詩を書く」という行動の背景にある理念に問題を感じます。私は、この「千人祈」に寄せられた一言を全て読んでみましたが、その発言の根底に流れるものは「絶対に戦争は反対」「人が人を傷つけることは間違っている」「無辜の市民の血を流すな」…といったものでした。
 「戦争は人殺しだから、あらゆる武力行使に反対」「人が血を流すことには反対」…という意見は、理念としては非常に美しく、非のうちどころもないものです。心の中でそうした理念を持っていることについて誰も非難できませんし、むろんそうした理念を事あるごとに主張するのもよいことでしょう。
 しかし、今回の「千人祈」も含めて、「アメリカのイラク攻撃に反対する」ためのロジックとしては、「全ての戦争に反対する」というロジックは、ほとんど無力です。「アメリカのイラク攻撃」という現実の状況を前にして、そうした理念を主張しても、あまりにも現実的な適合性を欠くものとなり、そうした理念を基に非難される英米政府や日本政府は、まったく痛痒を感じないでしょう。だって、「暴力はいけない」とか「戦争はいけない」なんてことは、彼らだって「わかっていてやむなくやっている」と主張するだけでしょうから。
 私は当然ながらアメリカのイラク攻撃には反対の立場ですが、それは「人が血を流す戦争には全て反対」だからではありません。  あまり単純化してこんな書き方をしちゃうのもマズイのですが、「全ての戦争は悪い」という考え方には異論があります。戦争には「よい戦争」と「悪い戦争」があると思っています。例えば数日前にも書いたアルジェリア独立戦争やベトナム戦争は、植民地支配下で武力によって抑圧された民族・民衆が支配を脱して独立を獲得するためには、正しい手段でした。要するに、武力でもって不当に抑圧されているケースでは、武力行使、すなわち戦争以外の手段では抑圧から脱することはできません。むろん、そもそも抑圧的な支配から脱するための戦争の原因には戦争があり、その原因となる戦争を仕掛けた方が悪い、従って「争いは悪、戦争は悪」というロジックさえ守っていれば全ては解決する…という考え方もできないではありません。しかし、それでは「現実に対する解答」にはならないでしょう。しかし誰もが、あらゆる戦争は間違っている、あらゆる武力行使は間違っている…という理念に基づく行動しかしなかったとすれば、アメリカはイギリスから独立してはいなかったでしょうし、ヨーロッパはナチスの支配下にあったでしょう。ベトナムは今でもフランスの植民地のままっだったはずです。

 さて、私は「千人祈」に寄せられたたくさんの「美しい理念を持つ言葉」に反対しているのではありません。こういう言葉を集めるという「運動」に異議を申し立てているのです。「実際的な効果を狙う運動」には合理性が必要です。「自己満足」または「免罪符」になる危険性が高い行動は、「本当にイラク攻撃を止めさせるための合理的な運動法」を思考するために妨げになります。

 池袋の街角の歩道でよく「核兵器廃絶」というプラカードを立てて、道行く人に「あなたも千羽鶴を折ってください」と呼びかけている集団を見かけます。以前その前を通りがかったら、いきなり人の前を塞いで小さな紙を出し「千羽鶴を折ってください」と言われました。私が「折りたくない」と言って通り過ぎようとしたら、「あなたは平和を願っていないのですか?」と聞かれました。それを聞いた私は、一瞬頭に血が上りました。はっきり言って、不愉快でバカなヤツらです。

 「千人祈」は、誰かが善意で始めた運動でしょう。そして、今後もこうした運動形態は増える可能性があります。こうした運動に参加する人々が今後、参加しない人、そして私のように運動としての方法論を批判する人に対して「あなたは平和を願っていないのか?」と言うような独善的な運動にならないことを祈ります。


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