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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/3/28

 巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」については各所からの批判がありますが、私は好きです。個人的には、「ネット上の最大の情報源」だと思ってます。さから、ヒマがあるとけっこうあちこち読んでいます。
 まずは何といっても「ニュース速報」。そこに書かれている個別のレスの意見が読みたいのではなく、各レスの中で関連情報へのリンクが豊富なので、興味があるニュースについてはたいてい関連スレを読んでいます。
 何かモノを購入する時には必ず2ちゃんねるで評判を調べます。よく読むのはパソコンやデジカメのようなモノではなくて、家電製品を購入する時ですね。冷蔵庫はどこの製品がよいとか、電子レンジはどのメーカーが評判がいいといか…。
 むろん仕事絡みでは、パソコンのマザーボードやビデオカードなどに関するユーザー評価はいつも気にしてます。
 「生活板」は、どれも面白いですね。「1日500円の食費」みたいなスレは大好きです。
 「学歴板」も面白い。どこまでが本気でどこまでがジョークなのかわからないけど、ありとあらゆる大学に序列をつける議論が熱く戦わされており、ランク付けが好きな人間の「業」のようなものを感じます。
 「野生生物板」も好きです。「学名総合スレッド」なんか面白いし、「ホオジロザメとシャチはどっちが強い」なんてスレはタイトル見ただけで読んじゃいます。
 学術系の板も面白い。中でも「言語学板」あたりは興味津々で、「名古屋弁」なんてスレを見つけて喜んでますね。
 「食文化」も必読です。私は「グルメ・外食板」の「池袋西口スレッド」なんかはけっこう目を通してます。
 「海外旅行」も必読でしょう。リアルタイムの生情報に近いものも多く、海外出張の直前には必ず行き先のスレッドを読みます。  エロ系だって読みますよ。「大人の時間」のなかで特に好きなのは、やっぱり「フェチ板」です。ここを眺めていると、人間には想像を絶するほどいろんなフェチ志向があるもんだと関心します。

 評論家や自称知識人あたりで、2ちゃんねるを批判する人は多いですね。自分が批判されるとすぐに、「2ちゃんねるは無法地帯」、「プライバシー侵害が多いから規制すべき」だとか言い始めます。でも、2ちゃんねるに書かれている事は、例え書かれなくても世間で誰かが話してることです。そう思えば、実はあまりカリカリしてもしょうがないと思うのですが…。私も2ちゃんねるで自分の著書を名指しでボロクソに批判されたことがありますが、「こういう意見もあるんだ」と思って、妙に納得しちゃいました。  むろん、匿名掲示板の最大の問題は「他人を貶めることを目的にした事実無根の中傷」を内容とするカキコでしょう。これは、書き込み者を特定可能な状況を作り出すしか、防ぐ方法はありません。ただし、どんな事態が起こったときに書き込み者を特定するか…というルールを作っておき、それ以外の時には絶対に特定機能を使わない…ことで、現状を維持可能だと考えます。
 2ちゃんねるについてはいろいろと批判はありますが、私は大げさではなく、「日本に残された最後の言論の砦」に近いものを感じています。現代の世相や社会の動き、自分以外の人々の考え方や感じ方を、マクロでもミクロでも知ることができ、まさにこれほど生々しい情報源はないと思います。それと、殺伐としているように見えて、実はかなり濃密なコミュニケーションが成立しているスレが多いこと。「無職・ダメ」とか「大学受験」など殺伐としがちな板に「良スレ」と呼ばれるものも多く、良スレの底流に流れるホノボノとしたやりとりを読むとかなり心暖まるものがあります。
 私は、自分の高校・大学時代に2ちゃんねるがあったら、けっこうハマっていたかもしれないと思ってます。

 今日も、なんかダラダラとどうでもいいこと書いてますね(笑)
 まだ多忙な日が続いています。あと少し、あと少しで時間が出来るので、仕事ヤルっきゃないですね。

2003/3/26

 あまりに忙し過ぎて、この日記を書く時間すらとれません。年度末締め切りの仕事を多数抱えているので、精神的な余裕がないのです。でもこの3月を乗り切れば多少時間の余裕ができるはず…。4月半ばあたりには休暇をとって海外にでも行きたいのですが、イラク攻撃の行方が気になります。

 さて、不愉快なイラク攻撃がこの時期に始まって、唯一気分のよいことがありました。それは、高校野球の報道がほとんどないことです。私はアナウンサーがやたらと「高校生らしさ」を絶叫する高校野球の報道が生理的に嫌いです。春の選抜高校が始まった今、TVの中継放送はむろん、スポーツニュースも新聞のスポーツ欄も高校野球一色になります。ところが、TVはあらゆる時間帯でイラク攻撃の報道に時間を費やし、高校野球の中継も少なければスポーツニュースの時間も短い状態が続いています。私にとってはよいことです。

 やはりイラクは、都市ゲリラ戦術で米英軍に戦いを挑む可能性が高そうです。
 ゲリラ戦を挑む敵に対しては、膨大な兵力と近代兵器を注ぎ込んでも勝てない…という歴史的事実は、フランスがベトナムとアルジェリアで、アメリカがベトナムで、そして旧ソ連がアフガニスタンで得た教訓となっているはずです。アメリカはベトナムで、そして旧ソ連はアフガニスタンで、核兵器以外のあらゆる近代兵器を大量に投入しましたが、最終的には撤退を余儀なくされました。今回の戦争でも、イラクの全ての民衆が本気で抵抗したら、米英軍は負けるでしょう。
 もっとも、これらの戦争はいずれも民族の独立戦争であって、ゲリラ戦を挑んだ側のモチベーションの高さは、現在のイラクの兵士の比ではないかもしれません。また、いまのところ、イラクの一般民衆が武器をとって戦っているわけではありません。しかし、フセインがいくら無法な独裁者でも、イラクの市民にとっては米英軍はただの侵略者に過ぎません。どうやらこの戦争は、イラク民衆が後押しする形でフセイン政権に対するクーデターが起きるか、または政権が内部崩壊しない限り、早期に終結する見込みがほとんどなくなってきたように感じます。

 ところで、アメリカの政府は、イラク兵が私服を着て戦うゲリラ戦を「国際戦争法違反」と非難していますが、バカじゃないか…って感じですね。
 第二次大戦後も植民地政策を維持するために無謀な戦争に突入し、ベトナムのディエンビエンフーで敗退し、アルジェリアでも敗退したフランスが「戦争反対」を叫んでいるのも、かなり笑えますけど。

 さてこういう「戦争長期化」状況になると、世界経済は未曾有の混乱と不況に陥る可能性があります。アメリカは戦費調達のために9兆円の補正予算を組んだとのニュースがありました。アメリカの財政赤字の増加は、アメリカの景気後退と株価低迷、そして個人消費の落ち込みを招くでしょう。それは世界に波及します。それだけではなく、戦争が長引くほど戦後のイラク復興と民主化のためのコストが掛かり、下手をすると戦費を上回るコストが掛かるかもしれません。これを負担するのは日本も含めた世界の国々です。日本はむろん、欧州諸国もまた経済的に不安定な状況にあり、こうした復興コストの負担にどこまで耐えられるのか予想はつきません。
 先行きの見通しがつかなくなった世界経済…、今後の自分自身の身の処し方にも関わってくるかもしれません。

 ところで、人間の盾となってイラクに滞在している人たちが帰国を決めたそうです。何でも近くに爆弾が落ちるようになったので、危険を感じて退去することに決めたとのこと。それで、日本政府に安全な退去を保証するように求めている…というのですが、これって何かおかしいと思います。もっとも、こんなことを書くと「何も行動しない人に批判されたくない」と言われそうです(笑)

 さて、今日は怪しい画像ですが…、これはフェレットの頭です(F402で撮影)。
 筒状のハンモックのような寝床にうつ伏せで入っているフェレット(?)の頭部です。この動物がフェレットだという点について、確信はありません(笑) 夜のペットショップの店先で見かけたので、ISO800の高感度モードで撮ってみました。フェレットがこんな風に寝るんだとは、知りませんでした。
 そういえば以前、真夏の海水浴場にフェレットを連れてきている家族連れがいましたが、すごく熱い焼けた砂の上を歩かされているフェレットはとても迷惑そうでした。
 ところで、フェレットってネズミの仲間なのでしょうか?人間に懐くのでしょうか?

2003/3/22

 仕事をやりながらも、ちょっと時間を作ってはTVニュースを見てしまいます。イラク攻撃の行方は、やはり気になります。

 先ほどCNNを見ていたら、アメリカ政府の関係者が次のようなことを言っていました。
 「昨日、海兵隊が、ある南部の都市を制圧した。その時海兵隊の兵士が建物の上に星条旗を掲げようとしたが、上官はそれを止めてイラクの国旗を掲げさせた。我々は征服者ではなく解放者であり、イラクの国民には敬意を表している。独裁者である定フセインは倒すが、それはイラク国民のためである」
 しかし、イラク軍が本気で市街地で抵抗したら、市民の犠牲なく戦争を終わらせることは、無理でしょう。

 さて、既にバグダッドは3方向から進撃する米英地上軍によって事実上の包囲状態に近づきつつあるようです。前衛部隊はあと1日、主力部隊があと2〜3日でバグダッドに到達する…そうです。しかし、市内にいつどうやって突入するか…というアナウンスはありません。軍事評論家の江畑健介氏は、NHK TVの解説で、「バグダッド市内には道路にバリケードすら作られていない。フセインの精鋭部隊である数万人の大統領警護隊はどのように戦うつもりなのか?」と疑問を呈していました。

 さて、私がフセインの立場であれば、当然ながら全ての兵士の軍服を脱がせて市民と同じ装いにし、市街地の全てを使ったゲリラ戦を展開します。バグダッド市内は、ほとんど誰も避難していない状態ですから、約700万人の市民がいます。全ての建物や建物の影に潜む数万人の兵士がゲリラ戦を展開したら…、しかも一般市民と区別できないゲリラとの戦いになったら…、もう目も当てられないほどの大惨事が出現します。
 全ての建物や地下室、地下道などを完全に破壊するつもりでなければ、戦えません。そうなれば、多数の市民に犠牲が出ます。市民の犠牲なくゲリラを掃討することなど、絶対に不可能です。下手をすると、百万人単位の一般市民が命を落とすことになるでしょう。

 アメリカは、当然こうした状況を想定しているでしょう。しかし、「イラクの国民を解放する」と世界に宣言しているアメリカが、市民と同じ恰好をしたゲリラとどのように戦うつもりなのでしょうか? 市街地を取り囲んだ状態で、政権の崩壊を待つのでしょうか?

 ゲリラを掃討するための市街戦で大量の犠牲者が出る…、そんな状況にならないことを、祈りたいものです。

 こんなことを考えながら、TVのチャンネルを地上波に廻したら、「ローザンヌ国際バレーコンクール」の録画番組をやっていました。片や世界を破滅に導くかもしれない戦場からの中継、片や優雅なバレーコンクールの様子…。私は、バレーを見ている方がいいですね。  それにしてもローザンヌ、出場者に中国人が多いですね…

 …なんだか、今日も与太話を書いてるなぁ…。日本中で、TVの前でこんな会話がされているんでしょうね(笑)。
 つまんないこと書いてないで、もう仕事に戻ることにします。

2003/3/20

 今日は、Webで日記を書いている人の70%ぐらいが、「アメリカのイラク攻撃が始まりました…」という書き出しで始まる日記を書くのではないかと思います。
 かくいう私は、アメリカのイラク攻撃よりも、今夜予定されている「会議」の方が気になります。その会議とは、「ハルピン水餃子設立事務局」の方々との話し合いであり、はっきり言って仕事とは無関係の会議です。つまり、「みんなで池袋に餃子屋を作ろう!」という会議なのです。
 そもそもの始まりは、行きつけの餃子屋「味居」が昨年末に"閉店"したことにあります。いや、厳密に言うと閉店したわけではありません。現在でも「味居」という名前のお店はあります。でも、その味居で昨年まで餃子を作っていたハルピン出身の金さんが、事情があって昨年末でその味居を辞めたのです。みんなのアイドルだった金さんがいない味居は、もう味居ではありません(なんのこっちゃ?)。
 で、金さんを愛する常連の皆さんが集まって、「もう一度金さんに餃子屋をやってもらおう!」という話になりました。その中心メンバーのMさんとNさんが設立したのが「ハルピン水餃子設立事務局」です。
 金さんが、新たに池袋でお店を開くためには、2つの問題があります。それは「資金」と「店舗」です。今年に入ってから何店もの空き店舗をまわり、MさんとNさんの尽力でやっとお店が決まりかけたところ。残る問題は資金ですがこれも常連の皆さんのカンパなどで、ほぼメドがつきかけたところ。でも、まだいくつかの問題が残っており、今夜その問題解決に向けて重要な会議が行われます。
 私にとって、金さんのお店が再開されるかどうか…というのは、差し当たっての重要な話です。…そうです。イラク問題よりも重要です。

 ホントの話、アメリカがイラクを攻めようが、世界中がテロの嵐になろが、そんなもの知ったことじゃありません。理不尽な戦争が始まったからこそ、自分のライフスタイルにこだわろう…なんて珍しく真面目に考えちゃいました。

 太宰治の作品に、太平洋戦争の開戦の日のことを書いた「十二月八日」という作品があります。「きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう…」という書き出しで始まるこの作品は、家庭の主婦になりきって書かれたもので、太宰が、この戦争が「何かが変わるきっかけになるかもしれない」と少し期待を抱いた心情を、主婦の言葉を借りて書いています。

 「…十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ)(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹(いぶ)きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ…」

 太平洋戦争前の暗い世相のなかを生きた太宰が、何かが変わることを戦争に期待する…、こうした心情になることは、なんとなくわからないでもありません。でもこの「十二月八日」という作品には、それだけではない不思議な雰囲気があります。戦争とは無縁の「日常」を描くことで、戦争を他人事のように見るある種の倦怠感も感じますし、戦争とは関係なく人間は生きていかなければならない…という、ごく当たり前ではあるけどとても大事な真実を訴えているようでもあります。

 でも、太宰治には、同じく太平洋戦争の開戦の日の心境を綴った「新郎」という小説があります。やはり、開戦で気持ちが新しくなったことを書いていますが、その一節に、次のようなフレーズがありました。

 「…一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮らしたい。青空もこのごろは、ばかに綺麗だ。舟を浮かべたいくらい綺麗だ。山茶花の花びらは、桜貝、音たてて散っている。こんなに綺麗な花びらだったかと、ことしはじめて驚いている。何もかも、なつかしいのだ。煙草一本吸うのにも、泣いてみたいくらいの感謝の念で吸っている。まさか、本当には泣かない。思わず微笑しているという程の意味である…」

 なんとなく悲しく、そして美しいですね。戦争が始まった日に、太宰治の作品なんか思い出す私は、すごくヘンです(笑)

2003/3/18

 「パラサイト・シングル」だの「DQN(ドキュン)」だのと、もう使い古された言葉ながら、依然として半ば差別意識丸出しで扱うマスコミが一般的です。
 世間一般のイメージで言えば、高学歴で結婚をせず親に寄生して生活するのが「パラサイト・シングル」、片やDQNの方は、低学歴で社会の底辺に位置しながら生命力は旺盛…という人々を指しているようです(あくまで周囲の人が抱いているイメージであって、私自身がそう思っているわけではありません)。
 この2種類の層のうち、「DQN」の方は自分の周囲にもたくさんいますし、友人として付き合っている人間も結構います。しかし、自分の周囲に誰もいないので未だに実感として理解できないのが「パラサイト・シングル」です。
 1970年代に高校生活を送った私の世代は、おそらく、戦後世代の中ではもっとも速い時期に「ライフスタイルの多様化」を実践した世代です。私のより少し世代が上の人は、例えば「海外の大学に進学する」とか「海外に職場を求める」なんてことがかなり難しかったはずです。また1970年頃までは、高度成長期とは言え、やはりまだ勤労者の平均所得は現在よりも大幅に低く、家庭の経済的な事情から大学進学など「進みたい道をあきらめた」人も多かったように思います。しかし私の世代になると、一応社会全体に多少のゆとりも出来て、普通のサラリーマンの家庭からでも、遠隔地の私立大学への進学はむろん、海外へ出るなどという選択肢を含めて「自分の意思でかなり広範囲なライフスタイルを選択できる」ようになり、多くの人間がそれを実践しました。
 さらに、70年安保の世代よりはだいぶ後の世代とは言え、まだまだ社会全般に70年代の「異議申し立て運動」の余燼が燻っており、一応の進学校であった私の中学・高校の友人の中には、自らの意思で進学を放棄して様々な職業に就いた人もたくさんいます。要するに、私の友人は実に多様なライフスタイルを選択しています。その後社会に出て知り合った友人を含めれば、それこそ国会議員や医者、教師、大学教授のようなタイプの職業から、長距離トラックの運転手、大工(工務店経営)、レストランの自営から宗教家に至るまで、社会のありとあらゆる職業の友人が国内外におり、中には40代になったとたんに会社を辞めて自宅で「ひこきもり」をしながら株式のネットトレードで食べているヤツもいます。むろんサラリーマンは非常に多く、あらゆる業種で多くの友人が中間管理職として働いているわけです。
 しかし、多くの友人がこれほど多様な道へ進んでいながら、考えて見ると「パラサイト・シングル」という人生を選択した人間は周囲に誰もいません。第一、私自身も含めて周囲の人間はみな「イかに早く親元を離れて自立するか」を競ったものです。私は、高校生の頃、どうやって家を出て自分で好きに生活するか…と、それだけを考えていました。

 現状の社会を見れば、確かにある時期よりも若者に厳しい部分もあるかもしれません。大学を出ても就職できずにフリーターになる人間が、新卒者の30%に達するとなると、パラサイト化の進展は止むを得ないのかもしれません。でも、大学進学率が40%に達する中、いわゆるFランク大学が大量に存在し、マトモな文章も書けず中学校で習うレベルの漢字や地名が読めない大学生が大量に存在する現実と、逆に不法滞在外国人が社会の中で大量に働いている現実とを併せて考えれば、進学などせず適当な時期に「働く」「自立する」ことを考えさえすれば、若い世代がこれほどに親の世代に依存しなくとも、働く場はかなり広がるはずです。
 やはりどこかで、「高度な教育を与えるべき人間を選択する」ことを考えるべきですし、大学などというところは「偏差値60以下は全て廃校(これは例えであって偏差値以外にもっと適切な判断基準を設けるべきですが…)」、といった措置をとって然るべきだと思います。むろん、こうした年齢が低い段階での一定の将来選択…を実施するためには、「学歴」なんぞというものが人間を判断する基準にはならない…という価値観が徹底される社会になることが前提です。
 私は、いつも書いているように、人間の考えやライフスタイルの多様性を全面的に認める立場ですが、それにしても「パラサイト」というライフスタイルだけは、本質的な部分で理解できません。ごく単純に、「自分の力で生きた方が面白い」と思うのですが…


 ところで、私もたまには猫の画像を…(F402で撮影)。オフィスの近くの商店街で日向ぼっこをしてました。近づいても逃げなかったのでパチリと…。ノラのようですが、なかなか毛並みもよく、思わず連れて帰ろうかと思った次第です。

2003/3/17

 「踏んだり蹴ったりのヒドイ目にあった…」という言葉は、かなり良く使われる慣用句ですが、たいていの人はなぜ「踏まれたり蹴られたり」ではないのか?…を疑問に思うでしょう。私もそうです。自分がひどい目にあったことを表す言葉なのに、受動形でないのは、どう考えてもヘンですね。語源がどうなっているのか探したら、こんなページを見つけました。うーん、この考察は正しいのでしょうか…。
 それにしても、このページに出てくる「大日本國語辭典(冨山房)」って渋いですね。この「冨山房」って出版社は、知る人ぞ知る神田神保町に本社がある老舗の出版社で、「大言海」「大日本地名辞書」「詳解漢和大字典」など渋い辞書をたくさん刊行しています。辞書好きや辞書マニア(私です)にとって、絶対に外せない版元ですね。

 タマちゃん騒動が続いています。先日、某動物保護団体がタマちゃんを保護するために網を使って捕まえようとして失敗しました。その動物保護団体の記者会見の様子をTVニュースで見ていたら、雉子川の周辺住民がつくる「タマちゃんを守る会」のメンバーが、その保護団体に向かって「タマちゃんにストレスがかかるようなことをするな」と怒り、その上で「タマちゃんに謝れ!」って何度も叫んでました。
 「タマちゃんに謝れ!」って本気で叫ぶ、あまりのアホらしさにおもいっきり笑いました。その後、件の動物保護団体がタマちゃんの餌と称して川にホタテを撒いて物議を醸したりもしました。そういえば昨年末でしたっけ、タマちゃんに住民票を交付した…ってバカな話もありました。もうホントに、タマちゃんタマちゃんって、バカじゃないかって感じです。もうタマちゃんのニュースはうんざりです。

 今朝のTVニュースでもやってましたし、ネットのニュースでもありましたが、「明治期の著作者消息、国会図書館がネット調査」という次のようなニュースに興味を持ちました。
 「明治時代の図書をデジタル画像化して保存公開する「近代デジタルライブラリー」事業を進めている国立国会図書館が17日から、インターネット上のホームページを通じ、消息が分からなくなっている著作者の公開調査を実施する。国会図書館所蔵の明治期の図書は約16万9000冊。インターネット上で利用できるようにするためには著作権者の許可が必要で、著作権の保護期間(没後50年)が経過した約3万冊は既に公開、約1万5000冊についても来年度中に公開を予定している。ところが、保護期間中の図書などを除く約10万冊余、約5万人の著作者の消息や没年などが不明という。不明著作者の中には、明治初期に刊行された新聞、雑誌200点余りを紹介した「日本全国新聞雑誌細見」の編者松村新太郎のほか、夏目漱石の著書をもじった「吾輩(わがはい)ハ小猫デアル」の著者花の山芳霧、「吾輩は猫被りである」の著者山田孤帆などがいる。…」

 さて、「我輩は猫である」は、刊行された明治38年(1905)にどの程度のベストセラーになったのか知りませんが、明治時代に「吾輩(わがはい)ハ小猫デアル」とか「吾輩は猫被りである」なんて書名のパロディ書が刊行されていたのには驚きました。  SF作家である横田順彌の「探書記」中には、「我輩ハ小猫デアル」「我輩は猫被りである」以外にも、「我輩は電気である」(まじめな科学書らしい)、「我輩の見たる亜米利加」(漱石の猫が蘇生してアメリカにわたり、アメリカ社会を見学して歩くものらしい)を始め、「我輩の初旅」(主人公は五十銭銅貨)…といった古書が紹介されています。
 その他に、私が知っている「我輩は猫である」パロディ書は、「『我輩は猫である』殺人事件」(奥泉光)というミステリーがありますし、人気ミステリー作家の島田荘司には「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」という本があります。19世紀のロンドンを舞台に、ロンドン留学時代の若き夏目漱石が探偵役になって事件を解決するこの本は、けっこう面白かったですね。

2003/3/13

 先日、長野県知事の田中康夫氏が、「北朝鮮拉致被害者の『家族会』そして『救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)』が、北朝鮮拉致被害者である横田めぐみさんの両親が訪朝したいという意思を抑えている…」という主旨で、家族会に対する不快感を表明するような発言をしました。次のような話です。
 「……全員一致で今は一糸乱れてはいけないというのは、それこそがどこかの国のマスゲームのような一糸乱れてはいけないという話しになるわけでございまして、私はとても不思議なわけでございます。『救う会』と『家族会』が厳密には違うというようなところがあるのかもしれませんが、ただ蓮池さんのお兄様というような方は『新しい歴史教科書を考える会』ですか、『つくる会』ですか、そうした主要のメンバーでもいらっしゃるわけでございまして、いずれにしても、私はやはりそれぞれの自立した方々がある北朝鮮の国家的犯罪というものを許すまじと。またその真相を解明すべしと。私はこのことも議場で繰り返し申し上げているわけでありまして、こうした一点において連帯をすることが望ましいわけでございまして、やはりその構成なさってる方々の個々のですね、思いや行動というものまでをもですね、なんの根拠をもって束縛するのであろうかというふうに、私は大変いぶかしく改めて思うところであります……」

 この発言に対して、「救う会」「家族会」側からは、田中氏の発言を「事実誤認」とする強い調子の反論…というより、田中氏に対する批判が上がった他、巷でもあちこちから田中氏に対する批判が相次いだようです。
 私は、田中康夫氏という人物については、その発言や話し方など生理的に合わない部分が多いのですが、今回の発言については、私個人と「かなり感覚が近い」と思いました。

 国を超えて個人を拉致した北朝鮮というの不当性については、疑いの余地もありません。まったくもって「論外」の行動です。それに対する日本政府のこれまでの対応も、話にならない状況です。さらに、拉致された人とその家族が味わった苦しみについては、象増を絶するものがあります。「救う会」や「家族会」の主張は、いちいちもっともであり、彼らの北朝鮮批判も、日本の外交に対する批判も、ほとんど反論の余地はありません。世の中には、これほどに正当なことを主張する人々もいない…と言えるほど、正当な言論活動をしているとは思います。
 しかし、「救う会」や「家族会」の発言がマスメディアで取り上げられればられるほど、その目的や活動の「絶対的な正当性」の前に、彼らの発言や行動に対するあらゆる批判が封じられてしまう…ような、「微妙な不快感」を感じます。いまや、「救う会」や「家族会」に対する批判はタブーとなりつつあります。
 私は最近、TVのニュースでこの「救う会」や「家族会」が登場すると、他局にチャンネルを回してしまいます。何となく、見たくないし聞きたくないのです。これは、彼らの主張や行動に対して表立った批判があるわけでもないし、むろん北朝鮮の行動を擁護したいからでもありません。しかし、拉致被害者の家族のメディア露出度が上がり、胸にブルーのリボンを付けている人が増え、北朝鮮批判とそれに対応した国家主義的な発言があちこちで聞かれる状況を見ていると、何となくノドに棘が刺さったような、微妙な不快感が込み上げてきます。「家族会」や「救う会」の"一糸乱れぬ発言"に対する怖さは、日本という国が、同じ方向の世論で走り始めることに対する怖さに繋がるものがあります。田中氏の発言の中の「…全員一致で今は一糸乱れてはいけないというのは、それこそがどこかの国のマスゲームのような一糸乱れてはいけないという話しになるわけでございまして、私はとても不思議なわけでございます…」という部分は、こうした微妙な不快感を表現しているのでしょう。
 横田めぐみさんの両親は、確かに一時期TVで「孫娘に会いに北朝鮮に行きたい」と何度も述べていたことは事実です。しかし、いつのまにか「家族会の総意」によって、そうした発言はなくなりました。田中氏ならずとも、「何故だろう?」と疑問に思う人は多いはずです。
 また、「新しい教科書を作る会のメンバーがいる」…というのは蓮池透氏を指しての発言でしょうが、この部分については蓮池透氏は新しい教科書を作る会のメンバーではない…という反論がありました。しかし、蓮池透氏が横田早紀江氏とともに「新しい教科書を作る会」のシンポジウムに出席して発言していることは事実であり、こうした関係について気にする田中氏の心情についても、私に近い部分があります。

 田中氏が生理的に好きではないが、社会的な緒事象に対して時々私の感覚に近い捉え方をする…という話は、以前も書いたことがあります。要するに、田中氏を鼻持ちならないヤツと感じることも多い反面、しごくまっとうな部分も感じます。彼の発言は、計算され尽くされたものも多いし、肥大した自我の強さが鼻につく部分もありますが、時にはその自我ゆえに世論に迎合することのない発言を平然とします。この部分だけは、認めざるを得ません。
 私は、多数の人間が一つの方向に集約される意見に対しては、例えそれがどんなに正当な意見であっても「とりあえず疑う」…というポジショニングは、実はこうした世の中にあって「正しいスタンス」だと思っています。

 こんな発言をすると、このサイトの掲示板に「売国奴」「非国民」などと書かれるかもしれません(笑)。「お前は拉致被害者家族の心の痛みがわからないのか」という的外れの批判もあるかもしれません。さえらに、これまでにもあったように右翼団体からのメールが来るかもしれません。でも、私が感じる「家族会」や「救う会」を取り巻く状況に対する微妙な不快感、そして田中氏の発言を擁護する理由は、まさにこの「売国奴」の一言で発言を封じるこうした風潮に対する恐れのようなものから来ているのです。

2003/3/11

 私のノートPC歴はエプソン(当時は信州精機)の「HC-20」あたりまで遡るほど長いのですが、本格的に出張や海外旅行で活用し始めたのは1990年代に入ってからです。1990年代の前半は東芝、後半はIBMのノートをよく使いました。
 ところがここ数年メーカーには全くこだわらなくなり、東芝やIBMだけでなく、DOS時代やWindowsの初期時代にはあれほど嫌いだった富士通やNECの製品も購入するようになりました(VAIOだけはどうしても嫌いですが…笑)。
 まあ、ノートPCの使い途といえば、ほぼ出張と海外旅行、そして日常的にはプレゼン用途に限られます。デスクトップ代わりの日常ユース…というのは全くありません。そんなことから、ともかく小型軽量のB5ノートでシンプルなヤツ…と決めています。
 ここ1年は、チューンしたThincPad240(Celeron400/30GB/320MB)安く買ったNEC「Lavie LJ300」(Celeron650MHz/20GB/384MB)を使い込んできました。特に「Lavie LJ300」は海外でも使って特に不便はなかったのですが、どうもデザインが気に入りません。プラスティッキーな外観と女性っぽいロゴ部分など、なんとなく愛着が沸かないデザインだとおもっていました。
 で、先月末に突然ノートPCを換えようと思いたち、新しいノートPCの購入に踏み切りました。ノートPCのCPU性能なんかそこそこでよいので、基本的にはデザイン優先です。まず候補に上ったのは、「ThinkPad X30」「DynaBook SS S6」の2機種。しかし、X30はちょっと重過ぎるし値段も高め。「DynaBook SS S6」は性能的には文句はないのですが、開いた時に液晶部とキーボード部の間に隙間が出来るのがイマイチ気に入らない(妙な理由ですが…)。
 で、目に付いたのが2003年春モデルのNEC「Lavie J」です。現在所有しているLJ300の後継機ですね。外装がマグネシウム合金になって、色もデザインもシンプルで悪くないと思いました。内蔵モデムが正式に海外対応になったのもうれしいことです。HDDが1.8インチという点だけが気に入らないのですが(自分で交換できない…)、そのうちバルク製品が市販されるでしょう。…ってことで、決めました。それにしても、かつて98時代に忌み嫌ったNECのパソコンを2代に渡って続けて購入するとは、私としては前代未聞の椿事です。

 でも、ショップ販売版の「LJ500/700」は不要なアプリケーションがバンドルされているし、外付けのマルチドライブも付いています。シンプルに本体だけでOKという私は、市販の「LJ700」と同型の「LG93JJ/D」をNECのネットショップ「121ware」でカスタムで購入することにしました。
 一番シンプルなモデルから、CPUは超低電圧版PentiumV 933MHzを選択、HDDは30GBに、IEEE802.11a/bの無線LAN内蔵を指定、そしてOSはWindowsXP proをチョイスしました。むろん、外付けCD-ROMやOfficeは無しです。しめて16万円ちょっとですから、安いものでした。
 購入後にまずやったのは、メモリの増設。手許にあった256MBのSO-DIMMを入れました。そして次は、リカバリー用のCD作成とHDDからリカバリー領域を削除して30GB一括でフォーマットすることです。
 そこで使おうと考えたのが、LJ300用のリカバリー用に格安で購入したUSB外付けドライブのPanasonic「KXL-RW32AN」です。旧型のLJ300がこれでリカバリーできたということは、新モデルのLavie J「LG93JJ/D」でもリカバリーできると予想しました。とは言え、新Lavie Jに関しては、純正ドライブ以外でのリカバリー報告はありません。で、「LG93JJ/D」に「KXL-RW32AN」を接続してリカバリーディスクを作成してみたところ、難なく成功。次いでCドライブの再フォーマットにも成功しました。
 現在は、好みのアプリケーションをインストールして、チューニング中です。デザインも従来のNECのノートPCの中では最もマトモな方だと思いますし、性能は申し分ありません。

2003/3/10

 医科の自衛官(要するに自衛隊に勤務する医者ですね)に聞いた話ですが…

 千葉県の習志野に空挺部隊があるのは、よく知られていることです。空挺部隊ですから、毎日のように落下傘降下の訓練をやっているわけです。
 この落下傘降下の訓練は、強風下では危険なので中止になります。特に地表に近い部分の風が強いと、着地時に非常に危険なのだそうです。そこで、空挺隊員が訓練機で降下地点の上空に到達するのとタイミングを合わせて地上部隊が風速計を使って風速を計測し、上空の飛行機に知らせて、降下するかどうかを決めるのだそうです。
 地上では、空挺部隊とは異なる舞台に属する陸上自衛隊の部隊(習志野空挺部隊も陸自)が風速を計測するのですが、風速が強くて降下訓練が中止になるといろいろな予定が狂って面倒なので、現場で風速を計測して中止になるほど風が強い場合は、トラックの陰など風の弱いところで再度計測して「OK」を出しちゃうんだそうです。
 強風下の「OK」で降下する空挺部隊はたまりません。着地の速度が速くなるので非常に危険な上、足を捻挫する隊員も多く、ひどい時には骨折者もかなりいるそうです。しかし、「風」というのは微妙な時間差や局地的な条件に急に強くなったりするものなので、計測した隊員に計測時の数値を証拠として見せられると文句を言えません。地上部隊の方は、強風下で危険な降下をする空挺部隊員を、面白おかしく眺めているのだそうです。
 聞くところによると、空挺部隊と風速を計測する地上部隊との間には、いつも険悪な雰囲気が流れているそうです。空挺部隊はエリートが多いので、一般自衛官とは何かと反目するらしい。そんなことなら、同じ空挺部隊員が風速を計測すればよいと思うのですが、実戦の時には、地上部隊と空挺部隊の連携を図らなければならないので、現在のやり方は変えないのだそうです。
 まあ、組織なんてものは、学校でも企業でも軍隊でも、どこでも一緒です。でも自衛隊がこんなことをやっていたのでは、本当に戦争になった時にはどうなるのでしょう…
 ということで、私の知人である自衛隊に勤務する医師は、風が強いと忙しくなるのだそうです…

 話は変わって、ここ1週間ほど、信じられないほど多忙で、日記を書く時間もサイトのメンテナンスも全く出来ませんでした。ここ3日間ほどは、このサイトを見ていません。年度末ということで仕事が集中しているのですが、今年に限っては仕事の量が半端じゃありません。加えてあいかわらず体調も悪く、つらい日々が続いています。この忙しさは、4月上旬まで続きそうです。


 こんな多忙な日々の中で、昨日信じられないことが起きました。日曜日だというのに当然出勤で朝9時半頃にオフィスにやってきました。ところが、オフィスのドアを開けたとたん目にした光景は…、天井からシャワーのように水が降っているのです。
 床はカーペット一面、ぐっしょりと水を吸って、もうタイヘン。一瞬、何をどうしてよいかわからなくなりました。
 どうも上階との天井部分にある水道管から、すごい勢いで漏水しているようなのです。
 とりあえず、ビルの管理会社に緊急連絡し、上階の水道の元栓を締めてもらって、漏水は止まりましたが、オフィスの一角が一面水浸しです。
 幸いなことに発見が早かったので、メインで使っているコンピュータ群やネットワーク関係の機材は無事でしたが、ファクシミリやパソコン、プリンタなど、何台もの機材が水を被ってオシャカになりました。その後出勤してきたスタッフとともに、水浸しになった機材を運び出したり、カーペットの上に古新聞や雑誌を並べて水を吸ったり…、1日中後始末に忙殺されました。
 …ああ、なんて不幸な日々が続くんだろう…
 で、今日の画像はその水漏れしていたオフィスの天井部分です(F402で撮影)。後で保険会社に損害を請求するために、大量の画像を撮影しておきました。とんだところで、デジカメが役立ちました。

2003/3/4

 学園都市として知られる国立市は「都市景観」に配慮する街として知られています。国立市都市景観形成条例を定めている他、住民と明和地所が争った「国立マンション訴訟」も耳目に新しいですね。国立市住民は、特に大学通りを中心に景観保全に力を注ぎ、様々な活動を行っています。
 都市の景観の問題は、その景観を形成する建物や樹木の多くが個人または企業の財産であることが多く、景観権と私有財産の関係については多くの難しい問題を内包しており、素人の私が、ここで景観権の是非について語るつもりは全くありません。
 国立市の場合、行政当局が景観維持に熱心だというよりも、住民の「住環境を守る」という意識が非常に強いエリアです。一橋大学などがある学園都市というだけでなく、中央線沿線の地価が高い住宅地だけあって、比較的所得が高く、子供の教育にも熱心で、環境問題などに対して敏感な住民の方々が多い…ということでしょう(多少の皮肉も入ってます)。マンション訴訟に熱心な住民や住民団体のホームページを見ていると、こんな団体なんかもあります。確か、かの山口百恵さんも国立にお住まいだったと思います。
 大学通りに高層マンションを建てた明和地所が敗訴し、明和地所に対して高さ20メートルを超す部分(7階以上に相当)の撤去と損害賠償を求めた「国立マンション訴訟」の判決文には、「住民が長期にわたり土地利用の自己規制を続けた結果、社会通念上も良好な景観と認められ、土地に特定の付加価値を生みだしている場合、維持を求める景観利益があり法的保護に値する」…と書かれているところを見ると、国立市住民が長期に渡って都市景観や住環境の問題に意を尽くしてきた経緯を見て取ることができます。なんだか、すごいエネルギーですね。

 しかし、私は実際に何度も国立の駅前から大学通りを歩きましたし、問題となっている明和地所のマンションも見ましたが、「裁判をやってまで守るほどの景観」…だとは、どうしても思えないのです。都市に高層マンションがある風景の、どこがそんなに悪いのか、イマイチよくわかりません。

 ところで、先日たまたま国立市を訪れる機会があったのですが、その時大学通りで住民団体からの告知を書いた立て看板があり、そこには次のようなことが書いてありました。

 「大学通りからベランダが見えるマンションに住んでいる住民は洗濯物を干さないようにしよう」

 ……私は、これを読んでちょっと怖い感覚、異常な感じを受けました。景観を守りたいのはわかります。高層マンションを排除するのもいいとしましょう。しかし、「景観を守るためにベランダに洗濯物を干すな」とは、異常です。いったい、「景観」とは何でしょうか。洗濯物や布団が干されているのは、「人間が生活している証」です(少なくとも洗濯物を屋外に干す習慣がある日本では…)。マンションのベランダにま干してある洗濯物が「景観を損なう」と見る感覚は、私は到底理解できません。生活感のない都市…それはテーマパークです。生活感がない街は、「生きた街」ではありません。そんな街は「ハウステンボス」と同じです。  国立市の住民は、国立という街をハウステンボスのようにしたいのでしょうか?

 そこで、国立市の景観条例に関係するホームページや、住民団体のホームページ、裁判記録などをあちこち読んでみました。
 国立景観訴訟の準備書面には、次のような内容が書いてありました。

 「…ドイツを訪れ、例えばミュンヘンに降り立つ人は誰でも都市景観の素晴らしさに目を見張るであろう。とにかく完璧なまでに人間スケールで造られたヨーロッパ中世都市がそこにある。まるでおとぎ話に出てきそうな美しいまちである。しかし、そのミュンヘンの美しさと比肩しうるのが、大学通りを持つ国立市の街並みなのである…」
 「…超高層ビルは都市景観(生活空間)として似つかわしくない。自然の伐り取りに失敗し、動的日本的風景と生態系的空間をこわし、美的空間比(黄金比)に反して人間スケールを失わせ、心理的安らぎを奪った…」
 「…『人はパンのみで生きるものにあらず』という。人類は食べることは生きて行く上で絶対に必要であるが、一方で芸術を解し、美しいものを取り込む感性を与えられた。私たちは『美しい景観』を生活空間として求める動物でもあるのだ…」

 いやあ、国立市の住民の皆さんはスゴイものです。国立市の景観ををミュンヘンに並ぶ景観と自ら称え、超高層ビルは人間的スケールを失わせると断言し、美しい景観を望む気持ちは感性の賜物だ…と言い切っています。
 はっきり言って、私は国立市の学園通りの殺伐とした風景はヨーロッパの歴史的な都市とは無縁の風景だと思います。、また私は、毎日超高層ビルを眺めて生活していますが、今のところどこも壊れていません。そして美しい景観を望む気持ちは確かに感性の賜物だとおもいますが、殺風景な国立市の景観が優れた感性とどう関係あるのかわかりません。


 このへんで止めときます。国立市の住民の方が読んでいたら、何を言われるかわかりません(笑)

 昨日は青森への日帰り出張で、非常に疲れました。悪天候で往復とも飛行機が遅れるし、現地の天気も悪いし、帰宅後も深夜まで仕事があるし…、もうさんざんな1日でした。

2003/3/1

 通勤電車の中で、「言論のテロリズム」というタイトルの書籍の中吊り広告を見ました。中吊り広告のコピーを読むと、日本を代表する某宗教団体に対する批判記事を連載した大手週刊誌とその出版社を批判された宗教団体の立場から批判した本らしい…。著名雑誌が特定の団体や個人の人権を侵害したのは「言論のテロリズム」だ…と言っているわけです。
 まあ、内容を読んでいないので(読まなくても内容の想像はつきますが…)事実関係についてのコメントは控えますが、私が真っ先に思ったのは「こんなところでも安易に『テロリズム』という言葉が使われている…」という感嘆と、込み上げてくる不愉快さでした。

 ともかく、9.11以降は実に安易に「テロリズム」という言葉が使われるようになりました。
 「テロ」という言葉の定義はさておき、世界中の国家が自らの政体・政権に反対する団体を「テロリスト」と呼び、国家に対する反対運動の全てを「テロ行動」と規定し始めています。中国がチベットの独立運動やウイグルの独立運動をテロと呼び、ロシアはチェチェン独立運動をテロと呼び、インドネシアはアチェ州独立運動をテロと呼び、トルコはクルド人の独立運動をテロと呼び、言うまでもなくパレスチナ独立運動はテロ…です。これらの運動の多くは、歴史的に見ても政治的に見ても十分に正当性のあるものばかりなのですが、国家に対する反逆と言う意味で全てテロ扱いされています。まあ、こうした状況に対する危機感については、ここで私があらためて書かなくとも世界中で懸念されていることです。
 「テロリズム」を広辞林で検索すると「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義」と書かれています。ブッシュ氏に聞きたいのですが、そうなるとアメリカ独立運動のきっかけとなった「ボストン茶会事件」も、立派なテロ行為ということになりますね。でもそれは、歴史の評価と異なります。
 逆に、民主的な手続きで大統領に就任したチリのアジェンデ政権を倒すために、軍部右翼を中心としたクーデター勢力に大量に武器を供給し、事実上アジェンデを死に至らしめたのは、他ならぬアメリカ合衆国です。この事実は、歴史的にはどう評価されるのでしょうか?
 私はアメリカもテロに手を染めた…などということを言いたいのではありません。ボストン茶会事件は同じ政治的暴力でも「歴史的に評価されるべき政治的暴力」であり、アジェンデ政権に対するクーデターは「歴史的に否定されるべき政治的暴力」である…という、政治暴力に対する「正当な評価の視点」を持つべき…という話を書こうと思ったのです。政治的暴力=テロリズムであるとしても、「テロは全て悪」ではないことは、歴史を見れば自明の話です。

 …ついつい、書くつもりもない話を書いてしまいました。それに、こうした自分の考え方については、これまでにも何度も書いていると思います。

 そんな話よりも冒頭の書籍のタイトルの話です。ともかく世間一般の認知から言えば、9.11事件以降は「テロ」と言えば「極悪人または極悪行為(笑)」を指す言葉です。そのイメージを承知の上で…というよりも、そのイメージを利用して、宗教団体が自らを批判されたからといってそれを「テロリズム」とまで言うのは、さすがに馬鹿げた話です。…というよりも、宗教団体やら政治団体やらがこぞって自分たちを批判する人間をテロリストと呼ぶ…状況になったら、洒落になりません。薄ら寒い気がします。
 第一、宗教団体が電車の中に堂々とデカイ吊り広告で、「言論のテロリズム」なんて本のタイトルを宣伝する…ということ自体が、私の美意識には馴染みません。宗教団体が、自分たちに対してなされた批判に対して反論したいのだとすれば、反対者をテロリスト呼ばわりするというのは、非常にセンスがないやり方です。

 …いつものように目に付いたものを題材に適当な話を書き流していたら、これまたいつものように何が書きたいのかわからくなってきました(笑) 私は、宗教団体を批判しているのだろうか? それともテロという言葉の使い方が気にいらないのだろうか? はたまたブッシュが嫌いなのだろうか? ……自分でもよくわかりません。
 そんなわけで、今日も"尻切れトンボ"で話が終わります(笑)


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