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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言

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2003/2/28

 まだ体調が悪いにもかかわらず、昨夜は知人(友人?)と深夜1時過ぎまで、小料理屋の小上がりで飲みながら話し込んでいました。
 この日記で「夕べは飲んだ…」みたいな話をよく書くので、このサイトの管理者は「飲んべえ」だと想像していらっしゃる方もおられるかもしれませんが、実は飲酒はそれほど好きではありません。というか、ビールを数杯程度は美味しく飲めますが、酒を飲んで酔っ払いたいと思ったことは一度もありません。酔う…ことが楽しいとは思わないのです。そんな私が、昨夜はけっこう楽しく飲んで話をしてしまいました。
 で、昨夜の話題は、「ロクデナシ人生自慢」です(笑)。
 離婚歴、離婚理由から始まって、離婚後の妻子に対する対応等、いかに自分がロクでもない人生を送ってきたかについて語り合いました(主に聞き役だったのですが…)。
 実のところ、何が「まっとうな人生」なのか…という点については、この年になってもよくわかりません。しかし他者から見れば、確実にお互いに「ロクデナシ」と言われる人生を送ってきたことで同意しました。
 自分がどのような人生を送ってきたかについて、こんな場所で具体的に公開するつもりは毛頭ありませんが(誰も聞きたくないでしょう)、私には、「社会常識」というヤツが確実に欠如している部分があります。これは、例えば「人に暴力を振るってはいけない」という類の社会常識が欠如している…というわけではありません。言ってみれば「家庭」とか「親子関係」とか「恋愛」とか「社会全般との調和」…などの部分で、世の中の大勢とは異なる価値観やモラルを持っているので、それが一般的な第三者から見て「社会常識の欠如」と見られることを自覚しています。そして、そのように見られることを特に恥じてもいないし、他人が自分をどう見るかについては全く気になりません。でも、昨夜は珍しく楽しく飲んだことで、自分も社会の小数派の例に漏れず、心の奥底の部分で価値観を同じくする人間との交流を求めている部分がある…ということをあらためて自覚しました。要するに、たまに「類友」の人間と巡りあうと、何となく楽しくなる自分を発見したわけです(大げさな…)。
 他人の目を気にせずに生きてきた自分にとっては、「自分の中にある類友を求める気持ち」に気がついたのは、けっこう新鮮な発見でした。

2003/2/26

 開戦間近のイラク国内に、世界中から300人もの人が「人間の盾」になるために滞在を続けています。現時点で日本人も16人加わっており、大使館員の説得にも応じることなく、開戦後もイラクに残るという意思を表明しているそうです。
 さて、「反戦」「開戦阻止」を目的とした行動として、「人間の盾」という運動方法を選択することには、私はかなり違和感があります。この際「何も行動しないよりも尊い」…という論理は、少し脇へ置いておきます。

 違和感を持つ理由としては(あくまで私見ですが)、まずはそれがほとんど効果が無いであろう…と推測されること、そして「目的に対してネガティブな戦術」であること…の2つです。
 仮に今回のイラク攻撃が「アメリカ政府」という国家権力機構の意思であり、その国家権力の意思(方針)が誤っているので攻撃を止めたいとしましょう。その場合、戦術的には合法・非合法を問わずアメリカ政府に対する直接行動を行うべきであって、人間の盾としてイラクに滞在する…という手法には合理性がありません。歴史的に見て、国家の意思に基づくありとあらゆる侵略や暴力に対する抵抗は、その国家権力に向けた直接的な行動以外に成功した例がありません。「人間の盾」という行動は、おそらく「人の良心に訴える」という発想から来ているものです。しかし、「国益」を求める国家権力の行動方針の決定にあたっては、「個々の人間の良心」が這い入る余地がほとんどないと考えられます。こうした傾向は、国家の意思形成過程が近代的、…言い方を変えれば民主的であるほど強いはずです。専制君主の「良心」の動向で簡単に国家の方針が決まるのであれば、事は簡単です。しかし、アメリカという国が専制・独裁国家ではなく民主国家であるからこそ、「個々の人間の良心」が意思決定プロセスに反映されにくいと考えます。議会制民主主義は、大衆の中の個々の人間の意思が短時間では反映されないようなシステムとなっており、また、それだからこそ社会秩序が保たれる…という良い面も持っています。

 私は、宗教的なバックボーンを持つ人々などが権力に対する意思表示としてよく行う「無抵抗という抵抗」などの、「個々の人間の良心」に訴えるタイプの行動様式が嫌いです。それは多くの場合「自己満足」に終わるケースが多いからです。また、その有効性が至って疑問視されるからです。歴史を見る限り、国家に対する大衆の意思表示は、「暴力として国家」に対抗するだけの「暴力」を持ち得た場合に有効性を発揮するケースが多いと考えます。これは、古今東西のあまたの政変や革命の事例を見れば明らかです(失敗例もまた多いですが…)。
 ここで言う「暴力」は、物理的な力の行使として暴力を指すだけのものではなく、ゼネストのような非暴力行動をも意味するものです。つまり、国家のシステムに影響を与える…という意味での暴力です。むろん、武器を取って戦う…という選択肢もあります。

 さて、今回のようにアメリカが「イラク攻撃」という不合理な行動(私はそう思っています)を企図し、それを止めさせたい場合はどうすればよいのでしょうか…
 この話の続きは、明日にでも書きます。

2003/2/25

 「NTTドコモがiモードの出会い系サイト対策で、保護者の判断により未成年が公式サイト以外を一切閲覧できなくする仕組みを今夏に導入することについて、携帯コンテンツ(情報内容)2団体は24日、『携帯ビジネスに悪影響を与える』と慎重な対応を求める陳情書を総務省に共同提出した…」…というニュースがありました。
 そういえば、以前も「大阪府では青少年健全育成条例の改正案を公表。改正案では『ネットを利用出来る学校や図書館、パソコン教室やネットカフェなどの管理者にフィルタリングソフト導入の努力義務』を盛り込む…」…というニュースもありました。
 むろん、私はこの手の規制には絶対反対の立場を表明します。一言でいえば「青少年を対象とした法によるネット規制は社会教育の放棄」であり、ここでいう教育とは狭義の学校教育や家庭教育の問題ではなく、社会全体の世代間教育の問題だと思っています。  この手の問題の賛否を語るとき、よく「表現の自由」など大上段に構えた論理を展開する人もいますが、そんな話以前の問題だと思います。出会い系サイトの危険性や援助交際の是非などについては、学校や家庭で教えるまでもなく、普通に社会生活を営む上で培われるべきことであり、それが釣り変われない社会だとすれば、社会のあり方そのものがオカシイのでしょう。
 中高生の万引きの問題もそうです。先日万引きをした中学生が通報で駆けつけた警察官から逃げようとして電車に轢かれて死亡する…という事件があって以降、中高生の万引きについての議論が百出しています。いろいろな論説や意見を聞いていると、「万引きはいけないことだともっと学校教育の中で教えるべき」という話が多くて、笑っちゃいました。「人のモノを盗んではいけない」…というのは、その主義や形態を問わず人間が社会生活を営む上での基本的なルールです。これを教えるのは学校教育の現場ではありません。強いて言えば「家庭教育」ということになるのでしょうが、それ以前に「社会全体」が教えるべきことです。
 出会い系サイトによる援助交際の問題も同じです。未成年の売春、または未成年を買春することが持つ意味を、いちいち法律やら教育やらで教えなくてはならないとすれば、それはもうまっとうな社会ではありません。
 要するに、こうした問題全ては、社会を構成する人間全員に「まっとうな社会」を作る意思があるかどうか…というレベルの話だと考える次第です。

 さて、今日は「『小学生殺す』と2ちゃんねるで殺害予告した中学生、書類送検」…というニュースがありました。このニュースによって、また「匿名掲示板」に対する社会的な非難が上がると思うと、非常にやりきれません。前述したiモードの出会い系サイトの話に限らず、政治家や評論家の間では、ネット規制の話になると必ず槍玉に挙げられるのが、2ちゃんねるです。政治家や評論家だけではありません。「とくダネ!」の司会者の小倉智昭は、「以前、2ちゃんねるでデマを流されたことがある」と言って騒いで、掲示板の匿名性は卑怯だ、みたいなことを番組で訴えていたことがありました。
 ネット問題に詳しい識者や関係者の一部でも、2ちゃんねるに対する批判派根強いものがあります。以前さる会合で、日本のインターネット・コミュニケーションの発展に大きな影響力を与えてきた公文俊平氏にお会いして雑談する機会があった時、ちょうど彼がご贔屓の西和彦氏がプロデュースした有料掲示板「1ch」が、2ちゃんねるユーザーに荒らされてつぶれかけている時期だったので、「2ちゃんねるについてどう思うか?」と聞いたところ、「あれは卑怯だ。あんなのはメディアじゃない」と断言しておられたことを思い出しました。
 私は、2ちゃんねるのような大規模匿名掲示板のメディアとしての有効性を全面的に認め、支持しています。匿名掲示板で他人を誹謗・中傷してはいけない…という問題は、法的に規制するかどうかの問題ではなく、社会参加にあたっての個人のモラルの問題です。社会モラルの問題という意味では、前述した青少年を対象にしたネット規制の問題と、根は同じです。モラルは社会で育み守るものであって、法で規制するものではありません。
 こうした原則論で2ちゃんねるを擁護すると「自分が批判されても擁護するのか」「自分に対する風評が流布されても擁護するのか」…という論法で、立場を問われることがあります。これは、街角の監視カメラ設置に反対すると「自分や自分の親兄弟が理不尽な暴力にあっても監視カメラ設置に反対するのか」と聞かれるのと、基本的に同じ論法です。

 私は、社会モラルで解決すべき全ての「法的規制」に関して反対します。この…に関しては、徹底的な原則論者でありたいと思っています。
 こんな話を書くと、様々な問題に対する「具体的な解決策を書け…」と言われるでしょう。解決先については、機を新たにして思うところを書いてみるつもりです。

2003/2/24

 他人が口に出すと「それって何?」と思っちゃう言葉がいくつかあります。まあ、言ってみれば嫌いな言葉なんですが、言葉自体が嫌いと言うよりも、そういう言葉を口に出す人間を安っぽく感じてしまう…という言葉です。

 で、その安っぽい言葉というのは…、まずは「ロマン」です。ロマンを使う言葉の中で、まず第一に槍玉に挙げたい(笑)のが、「男のロマン」です。
 はっきり言って「男のロマン」という言葉の正確な意味は、今もってよくわかりません。大辞林で「ロマン」を引くと「小説のように変化に富んだ大冒険や一大事業」…なんて書いてありますが、「旅は男のロマンだ」「海釣りは男のロマンだ」…みたいに使われると何がロマンなのかよくわからないのです。ちょっとした「秘境の旅ツァー」か何かに行って、「どうしてそんなところに行くの?」と訊かれ、「いやぁ、男のロマンを求めて旅をしたんだよね」なんて真面目に答えられたら、アホかって思っちゃいますよね。車やバイクなどのありきたりな趣味の世界でも「男のロマン」を連発するヤツがいるし、「料理は男のロマン」だとか「蕎麦打ちは男のロマンだ」とか、真面目に口走る人もいますね。そういえば、仕事でちょっと大きなプロジェクトに参加しただけで、やたらと「男のロマン」を口走る、「プロジェクトX病」みたいなビジネスマンもけっこういます。
 この前もボンヤリTVを見ていたら、売れないTVタレントが、ヨットを持ってるのが自慢らしくて、何故ヨットに乗るのかって聞かれたら「海は男のロマン」なんて言ってました。恥ずかしいというか、すごくバカっぽいですね。
 「男はロマンが無きゃダメだ」なんて、真面目くさって言う人もいます。これも笑っちゃいます。こういうセリフ吐くヤツに限って、「お前、ロマンよりも知性や教養の方に関心を持った方がいいんじゃいないの」と言いたくなる場合が多いです。
 そういえば、なぜ「女のロマン」という言葉はあまり使われないのか…、これもよくわかりません。人生に「ロマン」なるものがあったとしても、別に男の専売特許って訳じゃないでしょう。

 あと「男のロマン」とは無関係ですが、「歴史のロマン」というヤツも、やたらと安っぽく使われますね。明治維新関係がやたらと好きな人とか、古代史好きな人なんかに多いです。そういえば、司馬遼太郎ファンなんかも、「歴史のロマン」って言葉が好きそうですね。司馬遼太郎の歴史モノってのは、「洞察力の産物」ではなく作者の「勝手な想像力とデッチアゲの産物」ですから、やたら「歴史のロマン」と言いたがる頭の悪い歴史ファンには受けるんでしょう。

 ロマンといえば、「浪漫」という漢字表記もすごく嫌いですね。「浪漫」をやたら使う人間や、「浪漫」という表記を好む人間をバカっぽく感じます。売れないTVタレントなんかに適当に旅をさせて、臭いセリフを散りばめたような安っぽいTV紀行番組のタイトルに「アジア浪漫紀行」とかよく使われます。「浪漫」という言葉を使いたがるコピーライターは間違いなく三流以下です、

 男のロマンの話が出たついでに、「漢」と書いて「オトコ」と読ませる表記、これはもう生理的に嫌いです。書いてあるだけで嫌いだし、やたら使う人間をアホかと思っちゃいます。
 「漢」という字を使った熟語が嫌いなわけではありません。小説中などに、「熱血漢」「硬骨漢」「好漢」などと性格を現すために使われている分には問題ありません。嫌いなのは、別に「男」と書けば済むところに、わざわざ「漢」という字をやたらに使いたがる人間です。「あいつには漢を感じる」とか、「漢と漢の付き合い」とか書かれると、「それがどうした!」って感じになります。「男」は単にジェンダーを表す表記ですが、「漢」になるとそこに「安っぽい思い込み」が加わって、すごく貧相なイメージになります。「漢」なんて言い方が好きな人間は、何か自我のどこかの部分に欠陥があって自分自身の拠り所が見つからないんでしょうね。

 その他にも、安っぽく感じる言葉はいっぱいあります。例えば「感性を磨く」なんて言葉をやたらと口にするのは、バカっぽい感じがします。「人と人との触れ合い」とか「心の触れ合い」などという言葉も、たいていの場合は安っぽく感じますね。

 …ここら辺でやめときましょう。この手の悪態をつきだすとキリがないですから。たまたまこの文を読んだ方で「男のロマン」とか「歴史のロマン」って言葉が好きな人がいたら、謝っときます。全部ジョークですから…、って今さらフォローしても遅いですよね(笑)

2003/2/21

 今日は無意味な話をダラダラと…

 発表されたばかりのFinepix「F700」、欲しいなぁ…。久しぶりに、スペックを見ただけで発売前に予約したい…という製品に出会いました。高ダイナミックレンジでRAW出力が出来て…しかも撮影時質量は200g以下。きちんとホールドできる横型デザインと光軸上の液晶モニタもOK。かなり理想に近づきつつあるデジタル・コンパクトです。海外サイトで公開されている画像サンプルも悪くないし…。これで単焦点にして、さらに若干小型化してくれれば、なお魅力的なんだけど…。でもこの製品、私の嫌いな「デジカメヲタ」「画質ヲタ」にも受けそうですね。いや、このデジカメのスペックを見て欲しくなる…というだけで、私も十分に「画質ヲタ」の素質があるかもしれません(笑)

 ここのところ、日記を書かない日が少し増えています。画像日記と称しながら画像の無い日が続いてもいます。これには理由があります。
 まず、ここ数年一度もなかったほど体調が悪いのです。仕事ができないとか寝込むとか言うほど悪くはないのですが、かつて体験したことの無いほどのひどい頭痛に悩まされている上、風邪もひいてしまい、ノドが痛かったりお腹が痛かったりという症状が日替わりで続いています。加えて、ここ数ヶ月先まで近年稀に見るほど仕事をたくさん抱えています。体調が悪いというのに休むことができないばかりか、休日や睡眠時間もロクに取れないほど多忙です。ここ1〜2週間はデジカメで写真を撮る余裕がないばかりか、サイトのメンテナンスをするヒマもありません。自分のサイトを1日1回見れれば良い方で、コンテンツを増やす時間は全くありません。

 あ、ひどい頭痛が続くので頭部のCTスキャンを撮影しましたが、結果は「異常無し」でした。頭蓋骨の中身が輪切りにされたようなCTの画像を見ながら医師が説明してくれたのですが、頭痛の原因は不明だそうです。私は納得できません。実際に痛いものは痛いし、原因がわからないのであれば高い検査を受けて医者に見てもらう意味がありません。
 それよりも、頭蓋骨の輪切り画像が並んだCTの画像を見ながら、「この画像が欲しい」と真剣に思いました。自分の頭部CT画像をバックライトで照らしながら部屋の壁に飾っておく…、これはなかなかよいインテリアになりそうです。「欲しい」と言ったら、くれるものなのでしょうか?

 さて、こんなところで体調が悪い悪いと愚痴を書いても仕方がありませんが、それはそれとして、最近は「年齢による体力・気力の衰え」というヤツがかなり深刻になってきました。
 そんな鬱々とした日々を過ごす中、私は最近「世の中の役に立つ仕事」をやりたくなってきました。…とは言っても、ボランティア活動なんてものがやりたいわけじゃありません。ボランティアというのは、生理的に嫌いです。
 要するに「まっとうな生産活動」に従事したくなったわけです。考えてみれば、個人的な職歴も現在のオフィスの仕事も、「非生産的」な分野ばかりです。システムソリューションだの、コンテンツ開発だの、ソフトウェア開発だの、ライターだの…って、まあ言ってみれば世の中にたいして不要なしごとばかり。先日なんか、ストリーミングサーバーを使って携帯端末向けの動画配信をやりたいとう某大企業の担当者連中と会議をやっていましたが、その手の仕事がなんとなく虚しい今日この頃なのです。特にネット絡みのニュービジネスについては、分野を問わずもう飽きました。

 私が考える「世の中の役に立つ仕事」というのは、要するに人間の日常生活に不可欠な「衣・食・住」に直結した仕事のこと。「美味しい食事を安く食べさせるお店を開く」とか、「安くて機能的でデザインのよい服を売る」とか、「役立つ日用品の輸出入業務を行う」とか…。つまり、時代や社会体制、そして国や民族や経済状況を問わずに、「人の役に立っていることを実感できる仕事」のことです。
 食べ物屋をやるにしても、何かお店をやるにしても、この時代にあっては簡単ではないことは百も承知です。特に、現在の日本の経済状況の中で新しいビジネスを立ち上げるのは、極めて成功の確率が低い仕事になりそうです。ただ、私は20代の後半以降、どんな組織にも属さず個人で仕事をやってきましたから、なんとかすることはできそうだという「自信」のようなものもあります。また、ビジネスの対象を日本国内に限るつもりもありません。お店を開くにしても、日本以外の国でやってもよいわけです。

 しかし、不良中年道をまっしぐらに突き進んできた自分が、ちょっと体調が悪いからといって、「世の中に役立つ仕事したい」などと言い出すのも、考えてみれば笑止千万。でも、この手の話は、深刻に考えると何も出来ません。他人から見たら「なんて適当なヤツだ」と思われるぐらいの進め方の方が、かえってうまく行くことが多い…ということもあります。
 こんな場所で宣言するようなことではありませんが(笑)、本気で近々新しい仕事を始めるつもりです。




 今日の画像は「豊島区立 池袋の森」です(CP2500で撮影)。
 池袋駅の北口を出て平和通を川越街道方面に向かって歩くこと約5分。古い商店街の真ん中に「池袋の森」があります。入り口は目立たず、見過ごしてしまう人も多いでしょう。東武東上線の線路の近くです。
 雑踏の池袋駅からこんなに近いところに「森」があることを知っている人は少ないはずです。「森」といっても1500平方メートルしかないので、ちょっとした「林」といったところ。井戸水を利用した池があり、ビオトープとしてトンボや蝶などの昆虫や水生植物などが生育されています。集会室としても使えるログハウス風の観察室もあります。池袋へお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみて下さい。

2003/2/18

 体調が悪い、年度末でメチャ忙しい…となると、ストレスが溜まってきます。こんな時、ストレス解消には「お買い物」が一番。深夜になると必ず30分ほどパソコンで通販サイトを巡回しています。ここ2週間ほどの間にも、時計とか服とかパソコンパーツとか、ちょこちょこと買い物をしています。そんな中で、今とりあえず真剣に購入を考えているモノのリストは以下の通りです。いずれも、そこそこの値段のお買い物になるので、まあ少し考えてから購入に踏み切ることになるでしょう。

カノープス「MTV3000W」(\64,800)
http://www.canopus.co.jp/catalog/mtv3000/mtv3000w_study.htm
「Wチューナー」搭載、ハードウェアMPEG2エンコーダ機能搭載TVチューナーボード。

シャープ「PC-MM1-H3S」(約\160,000)
http://www.sharp.co.jp/products/pcmm1h3w/index.html
超薄型ノートPC、スペックは全く物足らないけど出張/海外旅行専用マシンに1台。

NVIDIA「Quadro FX 2000」搭載ビデオカード(約\180,000)
http://www.zdnet.co.jp/products/elsa/qfx2000128ar.html
18万円のビデオカード! 特に使い途はないけど、自慢できること間違いなし。

ゲームボーイアドバンスSP(\12,500)
http://www.nintendo.co.jp/n08/index.html
2つ折りになってカッコよくなった。何となくホスイ。

サン電子「Talk Master」(\24,800)
http://www.mb.nma.ne.jp/~lensmate/talkmaster/index.html
かねてより欲しかったタイマー付きラジオレコーダー。既に予約済み。

サン電子「BiBio」(約\30,000)
http://www.sun-denshi.co.jp/scc/bb/
以前から購入を迷っているブロードバンドラジオ。

TUMI「メッセンジャーバッグ」(約\25,000)
http://www.tumi.com/products/index.cfm?ModelID=12053&bb_id=c11027&sub_site_id=3&TMI_PL_3_Link=Details
この型は、意外と日本では見つからない。通勤に使いたいですね。

ヤマハサイレントRギター『SLG-100S』(\67,000)
http://www.yamaha.co.jp/news/2002/02111201.html
いまさら「フォークギター」を買うならコレ。

スズキ「K50」(\179,000)
http://www1.suzuki.co.jp/motor/K50/index.html
「スーパーモレ」と並ぶ新車で購入可能な国内最後の2サイクル車。これまた、かなり前から購入を迷ってます。


 話は変わって、池袋西口にあるBAR「FREE FLOW RANCH」、ここは出色のお店です。池袋西口交番の前を立教大学方面に向かって100mほど、地下1階の目立たない場所にあります。木のドアを入ると、そこはアメリカです。ウッディなインテリアと言っても、昨今のおしゃれな店のそれではなく、いたって質素な雰囲気。音楽は、ひたすらアメリカン・ミュージックです。グレートフル・デッド、ザ・バンド、CCR、ニール・ヤング、ライ・クーダー…など。週に2回ライブもあります。テックスメックス風の簡単な食事もできます。チャージを取らないので、リーズナブル。
 …と言っても、このあたりの音楽に興味のない人はつまらないかもしれませんね。

2003/2/17

 Web日記を表す言葉として「ブロッグ(blog)」という単語があることは、つい最近まで知りませんでした。これは、Webログ(Weblog)の短縮形とのことです。いずれにしても、Webで日記を公開する…人は、世界的に増えているようです(こちらこちらこちらを参照して下さい)。
 さて、人は何故日記を公開したくなるのでしょうか。以前も少し書いたことがあるのですが、人が何かを表現してそれを公開する…というのは、大変なことです。インターネットの普及とWebサイト公開の簡便化が進むにつれて、「Web上で何かを表現し公開する」ということは誰にでも可能になりました。しかしインターネットが、いくら誰でも簡単に公開できるメディアだと言っても、普通の人は「公開するようなコンテンツ」を持っていません。絵や小説を書ける人なんてホンの一握りしかいないし、他人に公開できるような主義主張や趣味の成果を持っている人も少ないはずです。また自分の考えを文章にまとめることだって、それほど易しいことではありません。そんな中で「日記」と「写真」は、もっとも簡単に作成でき、公開可能なコンテンツです。日記サイトが増えるのも当然です。では、人は何のために日記を公開するのでしょうか?

 ある日記サイトに、こんな主旨の話が書いてありました。「自分がせっせと文章をアップするのは、自分の考えに対する他人の共感を得たいからである。なぜ他人の共感を得たい方といえば、それは自分が孤独だからだ。孤独ゆえに他人とのつながりを持ちたい。そのために、日記という形で他人に話しかけている。要するに人に愛されたいゆえに日記を公開するのだ…」

 「人に愛されたいから日記を公開する」…、確かにかなり良いポイントを突いていると思います。自分で意識しているかどうかは別にして、何かを主張したい…のではなく、自分の考え方に共感してもらいたい…という根源的な欲求から日記を公開する人は多いのではないかと推察します。

 さて、多くの日記が「共感」」を求めて公開されているとすれば、私の日記は違います。私は「人に愛されたい」とも思いませんし、自己主張をしたいとう欲求もありません。むしろ、感覚的には「ケンカを売りたい」に近い部分があります(笑)。個人の趣味嗜好と社会の大勢の趣味嗜好にズレがある場合に、意識してそのズレの部分をクローズアップさせる…ということを楽しんでいます。とは言え、現時点では何かに対して本気で「ケンカを売る」には至っていません。2年近く画像日記を書いてきましたが、やはり「言葉の遊び」の域からは抜けていません。これは、こうした場での表現に自己規制をかけている部分もありますし、「本気で何かにケンカを売るのはスマートじゃない」というある種の「照れ」や「美意識」もあります。

 しかし、2年近く細々と画像日記なるものを公開してきた結果、自分の中のこうした「意識した抑制」の部分に少しづつ変化が起きつつあります。

 話は飛びますが、私は10代の後半から引越しを繰り返しています。引越しの度に膨大な書籍を段ボール箱に詰めて、引越しが終わって新居に落ち着いてからも段ボール箱に詰めた本の一部をそのままにすることが多く、結果として我が家には「何だかわからない書籍の入った段ボール」というヤツが数十箱はあります。
 昨夜たまたまクロゼットの中をモノ探しをしていて、そんな「正体不明の段ボール箱」を見つけました。開けてみたところ、1970〜80年代の雑誌が詰まっていました。「現代詩手帖」「ユリイカ」「キネマ旬報」「美術手帳」「ガロ」「思想の科学」「朝日ジャーナル」「新評」「みずえ」「試行」…等々、雑誌の名前はむろん、「現代思想」特集・反文明の思想は可能か…とか、「ユリイカ」特集・ボブ・ディラン…とか、特集のタイトルを見ただけでも時代の空気が色濃く感じられ、何とも言えない青臭い代物です。10代の頃に買った雑誌もあり、ちょっと懐かしく、はたまた気恥ずかしい想いでパラパラとページをめくって、またそのまま段ボール箱を閉じてしまいました。
 20代の後半から30台の終わり頃までは、自分の過去の趣味・志向については完全な沈黙を守っていました。要するに、こうした「自分がモノを考えていた時代」については、封印してしまいたい…という意識が強く、そうした意識がここ10年ぐらいの自分の行動規範となっていた部分があります。

 ところが、先に述べた「自分の中で少しづつ起きている変化」という面で言えば、この画像日記を書き始めてから、徐々に「自分の本来持つセンス」を小出しにし始めていることに気が付きました。
 例えば「10代の頃にAllen Ginsbergが好きだった」とか、「20代の前半頃にはNYパンクを聴いていた」とか…、最近は平気で他人にも話すし、このサイト内でも何度か書いています。
 現在、この画像日記に少しづつ反映され始めた自己表現顕在化のプロセスは、「自分が本質的に考えていることを完全に解放する」…というより確固たるスタンスへの道筋になるかもしれません。

 ここ数日のニュースを見ていると、世界中でイラク攻撃に反対する反戦デモが繰り広げられています。サンフランシスコでは全市民の1/3にあたる25万人がデモに参加しました。「デモ」という行動が政治的・社会的にどんな意味を持つか、さすがに私の世代は身をもって知っている部分があります。個人的には「デモ」という政治行動の有効性について疑問を持っており、反戦デモに参加する気なんて全くありません。しかし、こうして「本気で社会に対して何かを主張する」ことは、やはり大切なことでしょう。

 こうした心境になっているからと言って、今後サイト内で社会的な発言、政治的な発言が増える…という短絡的なものでもありませんが、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」という発言は、確実に増えそうな気がします。

2003/2/16

 シャープ「J-SH09」の画像です。同じ30万画素CCD搭載ケータイでも、「A-5301T」の画像と比較すると、若干ながら解像度感の高い画像が得られます。
 今回は、とりあえず写メールサイズ(120×128dot)の画像サンプルを見てください。今回はオリジナル画像ままですが、少し小さめにリサイズすると、さらに解像度感は高くなります。

 まずは、室内の蛍光灯(暖色系ランプ)の下で撮影した「豆源の塩豆」です。



 次に、同じ室内の蛍光灯(白色系ランプ)下で撮影した「キンピラごぼう」です。



 マクロは4pまでOK。マニュアルを撮影してみると、10ポイントぐらいの活字がけっこう読めます。



 屋外の風景です。ホワイトバランスもいいし、そこそこに解像度感もあります。



 いずれにしても、この程度の画像が撮れると十分にデジカメ代わりになりますね。
 ちなみに「J-SH09」は、市販のPDCケーブルで撮影画像を読み出すことができます。データ転送ソフトはシャープのWebサイトからダウンロードできます。

 ところで、ここ数日非常に体調が悪く、ひどい頭痛に悩まされています。左眼の奥も痛いし、何かヤバイ病気になったのではと不安です。そろそろ、夜毎遊び歩く不良中年ライフに別れを告げる時期が近いのかもしれません(笑)
 明日は、早朝から大学病院にでも行く予定。この多忙な時期に、体調を崩した自分が情けないです…

2003/2/14

 さて、昨日の「活字と視力」の話の続きです。
 欧米では、「活字のポイント数=視力表示」であるという話を書きました。しかし、縦横がどのくらいの大きさが読めるかで視力が決まる…という考え方は、実は文字の種類によって異なります。
 欧米で使われるアルファベット文字は、非常に単純な記号です。しかし日本や中国で使われている漢字は平均的にアルファベットよりも画数が多く、同じサイズの活字でも「より多くの線」で構成されています。そこで「視力」の本来の意味である「分解能」が大きな問題となってくるわけです。
 どれくらい離れた2本の線の分離状態を認識できるか…というのが「視力」であり、「分解能」です。画数の多い漢字の場合、文字のサイズが大きくても漢字を構成する線と線を認識できなければ読むことができません。例えば、「日」「目」「田」「山」なんて漢字は、ほぼアルファベット並の「線密度」ですが、「簒奪」とか「憂鬱」なんて画数が多く複雑な字は「線密度」が高く、アルファベットならギリギリで識別できるポイント数では読めないケースが出てくるわけです。
 そこで苦労しているのが、フォントデザイナー。フォントの線を太くすると画数の多い文字は線間が狭くなる。線を細くすると線間が拡がり線と線の分離を認識しやすくなるが、フォント全体としては弱く、また線自体が細いので認識しにくくなる。こうした相反する要素を考えてフォントをデザインしていくわけです。
 ここでよく使われるテクニックが、ご存知「線の省略」です。「簒奪」とか「憂鬱」なんて字を拡大すると、漢字を構成する線が省略されていることは、もう誰でも知っていることですね。
 さらに装飾フォントのデザインとなると話はもっと難しくなります。例えばWindowsに標準で搭載されている「HG系」のゴシックフォントは、やたらと線が太いために、ポイント数が小さい活字で使用すると、画数の多い漢字をまともに表示できません。従って、フォントの種類によっては、さまざまな線の省略がなされるわけです。
 でもいくらうまく線を省略してデザインしても、太字のフォントでは小さい活字で認識できる画数に限度があります。

 …というわけで、「このデジカメのマクロ機能は優秀で、最短距離で接写すると7ポイントの活字が読める」…という場合、厳密には「どの書体の7ポイントの文字が読めるのか…」ということを書かなければならないってことですね。

 …今日の話は、何となく主旨がはっきりしない、まとまりの悪い文章になりました。そのうちちゃんと書き直します。

2003/2/13

 以前、デジカメの解像度と人間の視力の関係について書いた時に、オフセット印刷の解像度は平均的な人間の視力を元に決められている…、という話を書きました(こちらを参照)。オフセット印刷の解像度は175線、すなわち約350dpiです。これは、視力1.0の人の分解能(30cm離れた印刷物の約300dpiを分解)で美しく見えるように定められたものなのです。
 印刷関係では、このオフセット印刷の解像度以外にも、人間の視力をベースに決められている規格があります。それは「活字」です。

 人間の視力には、「通常視力」と「近方視力」があります。免許証の更新時に行う「視力検査」が「通常視力」であり、これは5m先の静止したものを見る視力のことです。それに対して「近方視力」は、30cm離れたところのものを見る視力です。そうです、前述した「分解能」で使われる視力です。
 日本では、この「近方視力」の単位も「通常視力」と同じように「1.5」とか「1.2」などと表しますが、小数点以下の位で視力を表すことから、この単位で表す視力計測法を「小数視力」と呼びます。
 ところが欧米では、「近方視力」の単位として、「3」とか「4」という整数が使われています。この欧米の「近方視力」の単位は、そのまま「活字のポイント数」を意味しています。欧米では「30cm離れた距離から4ポイントの活字を読み取ることができる視力」が「4」で、「5ポイントの活字を読み取ることができる視力が5」なのです。小数視力とは逆に、数字が少ないほど視力が良い…ということになります。
 むろん、日本で使われている「小数視力」と欧米の視力には相関関係があり、日本の視力0.7は欧米の「5」、0.9は欧米の「4」、視力1.2は欧米の「3」…であり、きちんと比例した関係となっています。

2003/2/12

 新しい駄文を公開しました。朗読・音読ブームへの警鐘」…、気が向いたらお読み下さい。


2003/2/10

 それにしても、日常生活を画像でメモするのに「カメラ付き携帯電話」ほど優れたツールはない…と、真剣に思い始めています。
 というのも、カフェや居酒屋、そして人が集まる場所などでちょっと撮影をしたい場合、例えどんなにさりげなくノンストロボで撮影したとしても、「デジカメを構える」…というだけで、周囲の人の注目を集めてしまいます。CP2500やF77のような回転レンズ型のデジカメならまだしも、顔の前でカメラを構えるのは躊躇われるケースが多いのです。これは、U10のような小さなカメラでも同じです。
 それに較べてカメラ付き携帯電話なら、取り出して構えること自体、周囲の注目を集めません。携帯電話の画面を覗いているスタイルと写真撮影のために構えるスタイルはほとんど同じですし、例え写真を撮っているとわかったところで、あまり気にされません。
むろん、これは「コソーリ」と写真を撮る…という意味ではありません。ちょっとしたレストランに1人入って、自分が食べているものの写真を撮ろうと思った時なんか、わざわざデジカメを取り出すのは気がひける場合が多いのです。しかし、カメラ付き携帯電話なら、比較的違和感無く撮影できます。
 しかし、「カメラ付き携帯電話」とは言っても、メールで添付するしかPCにデータを移行できない機種は問題外です。めーる送信するたびにパケット料金が掛ってはたまらないし、めーるでは大量に撮影してそのデータをPCに移行することは不可能です。
 こうなると、「メモリカードを搭載している」か「ケーブルを使ってPCにデータ転送できる」…のどちらかの機能がないと、話になりません。
 こうした条件を充たす機種というのはまだまだ少なく、メモリカードを搭載している機種は、JフォンがSH52、auではA5301T、NTTドコモではD251i…あたり。市販のPDCケーブルで画像を読み出せるのは、JフォンがSH09、T08、NTTドコモがSH251i…といいたところです(他にもあるかもしれませんが、今思い付いた機種だけを並べました)。
 その上、高感度のCCDを搭載していること、できればVGAの画像が撮れること…となると、機種は非常に限られます。  カメラ付き携帯電話自体が、携帯電話キャリアにとって「課金アップ」を目的に商品化されている以上、PCへの直接データ移行が可能な端末…というのは、キャリアにとってメリットが少ないのが現状です。今後この手の端末が爆発的に増える可能性は少ないと思いますが、伝送帯域幅が狭い現行方式端末でデータ量の大きい高画質画像を撮影するとなると、メール添付は不可能です。カメラ部の画素数が上がれば、PCとのデータリンクは不可欠です。メーカーが対応しなくとも、市販の携帯電話用データ移行ソフト側で対応していく例が増加することは確実でしょう。
 また、通話機能がない「携帯電話型デジカメ」があってもよいとも思います。どこかのメーカーが、「どう見ても携帯電話端末にしか見えない200万画素デジカメ」…なんてデジカメを作ったら、私は買っちゃうかもしれません。

 私は現在、カメラとしてA5301Tを使っていますが、私はもう少し高画質のカメラ付き携帯電話が、本気で欲しくなってきました。メガピクセルとは言いませんが、50〜80万画素で、しかも小径でも収差の少ない光学レンズを搭載した携帯電話端末が欲しいですね。まあ、半年も待っていればこうしたカメラを搭載した端末は、必ず何機種か商品化されると思います。おりしもソニーが「メガピクセルクラスのカメラを搭載した携帯電話端末を2003年までに出荷する…」と、発表しました。ソニー製品を含めて各社端末が出揃うまで、気長に待つことにしましょう。

 ところで、ここのところデジカメの新製品発表が続いていますが、私の好きな「小型・軽量」機種が相次いで発表されたのは、うれしい限りです。OptioS、EZ-3、Coolpix SQなど、いずれも高画質化よりも小型化を優先してコンセプトされたカメラです。中でもCoolpix SQが面白そうで、実機に触れるのが楽しみです。

 相変わらず「画像の無い画像日記」が続いています(笑)

2003/2/8

 私は、小型軽量デジカメが好きです。ノートPCやPDAも小さい製品に目がありません。バイクやクルマも、サイズや排気量が小さい方が好きです。本も、ハードカバーよりも小さい文庫本が好きです。ちなみに「女の子」は、特にサイズの大小を問わず大好きですが…

 小型デジカメもたくさん集めちゃいましたが、デジカメ以上に収集したのが「小型バイク」です。個人的には80〜90ccの原付2種が好きなのですが、50ccの原付きにもずいぶんと乗りました。1970年代の終わり頃から同居していた女性が原付免許を取得したのがきっかけで、友人、知人が乗らなくなったり動かなくなったりした原付バイクを安く譲る…という話を聞くと、もう片っ端から貰ってきて整備するのです。乗ったり所有していたりしていた原付バイクを全て記憶しているわけではありませんが、カブやスクーターを除いても、K50(スズキ)、GA50(スズキ)、GT50(ヤマハ)、GR50(ヤマハ)、CB50(ホンダ)、TS50(スズキ)、RD50(ヤマハ)、MR50(ヤマハ)、TY50(ヤマハ)、MT50(ホンダ)、DT50(ヤマハ)、RG50(スズキ)、AR50(カワサキ)…等々です。お気付きの通り、CB50を除けば2サイクルばかりです。
 原付バイクというのは、非力ではあってもバイクとの一体感があり、完全にコントロールできるという安心感もあります。その上、メカがシンプルなのでいじりやすく修理しやすいというメリットもあります。さらに原付バイクでのツーリングは、少ない荷物や装備でシンプルに行かざるをえない点も、自分のライフスタイルに合っています。
 20代の頃は、日曜日などに奥多摩方面や丹沢方面、群馬方面などに彼女と原付バイクで日帰りツーリングによく行きました。小さいバイクで高速を使えない時は、だいたい1日に200〜300kmぐらいを走るのですが、そんな程度の距離でもかなり疲れたのを覚えています。
 あまた乗った原付バイクの中で、最も印象に残っているのはGT50(ミニトレ)です。GT50は1970年代後半のミニバイクブームの立役者となったバイクです。GT50は、FX50のエンジンを小さなフレームに載せ変えて誕生したFT50の後継モデルになります。1972年に兄貴分のGT80とともに誕生しました。1977年に5速ミッションになり、1979年にはモノクロスサスペンションになりました。私はミニトレを2台買っており、最初は1977年か78年型のGT50で、2台目はおそらく最後期に近い1979年か80型で、これは80ccのGT80でした。2台目のミニトレはモノクロスサスでしたから。GT80は、初期型は73ccでしたが後期型ではフルサイズの79ccにボアアップされていました。私はそのGT80にノグチの6速ミッションキットと大口径キャブを組み込んで、走り回ってました。
 「ノグチ」というのは「野口モータース」のことで(現在は「YSP横浜旭」になっているらしい…)、SRSスガヤと並んで、ミニバイクレース用のカスタムパーツを作っていました。今は無き「所沢サーキット」で毎週行われていたミニバイクレースのスペシャルクラスには、ノグチやスガヤのキットでカスタム化したバイクが、関東一円から集まっていたものです。そのミニバイクレースでも、GT50/80は人気車種でした。80年代に入った直後にヤマハのラインアップから消えましたが、小さな車体でパンチの効いた走りのミニトレは、いつまでも記憶に残るバイクです。
 原付バイクは、1980年代の半ばから「リミッター」を搭載して最高速度が制限されるようになり(むろん簡単にリミッターを外すことができましたが…)、その頃からつまらなくなったような気がします。
 ホンダがDAXを復活させ、スズキがVANVANを復活させたように、ヤマハも最新技術でリファインしたミニトレを復活させてくれないでしょうか?

 小さいバイクで長時間走る…というのは、体力が無くなった現在では難しいかもしれません。でも、前にも書いたように、年をとって60歳を過ぎたぐらいになってもまだ元気だったら、50ccのバイクにでも乗ってゆっくりと日本一周旅行をしてみたいものです。

 …それにしても体調が悪い。昨夜は10時間以上寝ましたが、いっこうに回復しません。インフルエンザではないらしいのですが、37度台の微熱が続いています。腹痛も相変わらずで、仕事をする気がしません。

 世界最薄の130万画素デジカメが作れる、極薄のデジカメキット…って面白いですね。こういうモノをメーカー向けじゃなくエンドユーザー向けに市販してくれないかなぁ…

2003/2/7

 国際世論がイラク攻撃容認へと傾きつつあります。まもなく戦争が始まる…、でも個人的には無力です。どうすることもできません。第一次大戦でオスマントルコの支配が終わった後、イギリスの植民地支配を受けたイラクは、考えてみれば不幸な国です。イラクに膨大な埋蔵石油がなければ、欧米は無視したかもしれません。
 産油国でもあるアメリカは、国内石油資源の枯渇に伴って、石油輸入量が年々増えています。記憶に間違いがなければ、現在アメリカの石油は、ベネズエラ、カナダ、メキシコからの輸入が多く、中東の輸入先はサウジぐらいです。しかし、今後の輸入量増加に伴って中東地域への依存が増えることは目に見えており、石油の安定供給のために中東地域の安定は必須の状況にあります。
 アメリカはイラクを制圧して親欧米政権を樹立すれば中東地域の不安定要因が除かれると考えているようですが、果たしでそうでしょうか。イラク攻撃によって、下手をすると世界中のイスラム教徒を敵に回すことになりかねません。サウジだってクウェートだって、けっして親米政権が安定しているわけではないですよね。イラク攻撃によって、サウジあたりにイスラム原理主義国家が出来る可能性は十分にあるでしょう。第一、フセインのイラクが独裁政権というのなら、サウジやクウェートもフセイン政権と大差のない、人権無視の独裁政権です。サウジなんて現王家に繋がる部族による少数支配が進んだムチャクチャな国で、クーデターがいつ起こってもおかしくないですよね。この地域では、イスラム原理主義を標榜するイランあたりの方が、まだ民主的な統治形態です。

 ともかく対イラク戦争は間違っていると思うし、狂人のようなブッシュも嫌いです。一見イラク攻撃に反対しているようなフランスだって、とどのつまりは自らがイラクに持つ利権の保護しか頭にないし、もうダメポ…ですね。

 墜落したコロンビアの搭乗員は盛大な告別の式典を営んでもらいました。むろん、遺族が経済的に困ることもないでしょう。でも、欧米の連合軍がイラクを攻めれば、多数の死者や戦争孤児、難民が出ます。アフガニスタンの現状を見るまでもなく、アメリカの爆弾で犠牲になった人間には、誰も経済的な保証なんてしてくれません。

 あ〜、今日はホントにツマラナイ、どうでもいいことを書いてるなぁ…。私は普段、イラクがどうとかアメリカの中東政策がどうとか…、そんなことは全く考えていません。はっきり言って、世界の平和が終焉しようと、もうどうでもよいのです。私はもう、十分に楽しく生きてきました。世界情勢を考えるよりも、道を歩いているかわいい女の子の横顔でもボンヤリと見てる方が好きです。こんなつまらない話を書いたのは、体調がすごく悪いせいです(笑)
 昨夜から、吐き気と悪寒がします。お腹も痛いです。いまのところ微熱なのでインフルエンザではないでしょうが、ともかく椅子に座ってパソコン画面を見ているのがつらい状況です。先ほど、オフィスのあるビルの1Fの病院へ行ってきました。大量の薬を貰ってきたので、今日は薬を飲んで早めに寝ることにしましょう。

2003/2/5

 フランスの海図目録で「日本海」と「東海」は併記されることになった…そうです。ちょっと前に、ニューヨークタイムズ紙も「日本海」との表記を使わないとの声明を出していました。朝鮮日報によれば、他にも欧米のマスコミで「日本海」の表記を使わないところが増えており、「…カナダ最大の地図製作会社であるITMBが国際旅行地図で『EAST SEA』と単独表記したことをはじめとし、フランスの日刊紙リベラシオンとフランスの月刊誌GEOは『Mer de l'Est(東海)』と、メキシコの日刊紙レフォルマは『MAR DEL ESTE(東海)』と単独表記した。さらに米国の日刊紙ワシントンタイムズとフランスの日刊紙ルフィガロ、米国マイクロソフト社の百科事典サイト、豪州の世界旅行サイトであるロンリープラネットは『East Sea(Sea of Japan)』と併記した」…とのことです。
 私は「日本海」の呼称なんてどうなろうと構いませんが、またネット上のあちこちで「嫌韓」的な発言が増えると思うと憂鬱です。

 いや、私は「地名」や「地名表記」の問題が重要ではない…と言っているわけではありません。地名とその表記からは、その地域にまつわる歴史や文化、生活などを知ることができるだけでなく、記号論的に見れば、その地名から喚起されるイメージは、地名を認知する側の社会観や世界観までを曝け出すものです。
 しかし、かくも重要な「地名」に対して、現代の日本は実にいいかげんな対応をしてきたと思います。最近では浦和市と大宮市、与野市が合併して「さいたま市」なんてどうでもいいような名前の市を作りましたが、こうした歴史的背景や文化を無視した安易な地名が日本中で増えています。「希望が丘」とか「光が丘」なんてつまらない地名は大都市近郊の新興住宅地に多いし、「中区」「北区」なんて区名は日本中の政令指定都市にあります。これは、行政がアホだからという問題ではありません。住民の方の意識の低さも似たり寄ったりです。先に挙げたさいたま市では、区制を導入するにあたって「見沼区」という歴史的な地名に対して住民が反対運動を起こしました。曰く、「沼が付く地名はイメージが悪い」「区名に沼という字が入っていると地価が下がる」…といった理由だそうです。…アホらしい。
 ここで「地名とナショナリズム」の問題に触れるつもりはありませんが、日本人は、「日本海」が「東海」に変わることぐらいでガタガタ言う前に、地名に対する自らの鈍感さを検証し直すべきでしょう。

 …で、私は「地名を大切にしろ」と言っているわけではありません。どうせ、日本の地名なんて歴史的背景も文化も無視されて変わっていくのだから、いっそのこと地名全部を判りやすい記号にしたらどうか…などと思うわけです。例えば日本中の地名を「ABCD6615222437」というようなアルファベットと数字の組み合わせにして、最初のアルファベット2文字が旧県名、次のアルファベット2文字が旧市名、次の数字2文字が旧町名…と言った具合にし、さらに最後の数字4文字で緯度・経度を表す…といった感じです。今だって、神奈川県の相模原市とか千葉県の八街市あたりには、「イの町」、「ロの町」なんて無神経にもイロハで町名を付けてる例があるぐらいですから、地名表記を全て記号化したって、特に不都合はないはず。カーナビの普及はむろん、携帯電話端末にGPSが搭載されている時代です。地名表記と絶対位置表記を一致させれば、移動や宅配などあらゆる面で合理的でしょう。
 世界の地名だって、国際機関を設置して記号化すればよいと思います。確かに歴史的地名の重要性はわかりますが、現在の日本の教育レベルでは「ブルガリアの首都とその名前の由来」を知っている人が、いったいどれだけいるのでしょう。それどころかナポレオンで有名な「ワーテルロー」がどの国にあるか知っている人だって、非常に少ないはずです。逆に欧米の人間が「浦和」とか「高崎」という地名に興味があるとも思えません。世界中の地名を記号化すれば、日本海は「DBF5143SEA」なんて名称になるわけで、「日本海か東海か」なんて問題は起こらなくなります。

 ところで、南極の地名に日本人の名前が付いているのをご存知ですか。これは高木岬(Takaki promontory)という地名で、東京慈恵会医大の創立者である医師「高木兼寛」に由来しています。幕末の薩摩藩に生まれた高木兼寛は医師として戊辰戦争に従軍し、鹿児島開成学校を経て1875年(明治8年)にイギリスに留学しました。帰国後に海軍軍医総監になり、軍隊の糧食を米ではなくパンか麦にすると脚気がなくなることを疫学的調査から発見して、てそれを実践しました。何といっても、日露戦争の死者は戦闘による死者よりも脚気による死者の方が多かった…という時代です。彼の発見が、後のビタミンB1の発見に繋がっただけでなく、世界の多くの人を脚気から救ったことで、世界中で高い評価を得ています。彼は1880年(明治13年)にイギリスのセントトーマス病院医学校を優秀な成績で卒業していることから、イギリスの南極地名委員会がまだ正式に命名されていない南極の地名を決定する際に「Takaki promontory」と命名したそうです。
 この話、吉村昭「白い航跡」(講談社文庫)という本に詳しく書かれています。なかなか面白い本でした。

2003/2/3

 唐突な話ですが、私は「写真」をアートとも芸術とも思っていません。写真は「風景のハードコピー」(デジタル画像データの場合は「ハード」ではありませんが…)に過ぎないと思っています。
 私は、土門拳が撮るポートレートや森山大道、東松照明の写真集を見ても、特に「芸術」だとか「芸術性が高い」などとは思いません。サンフランシスコ現代美術館でアンセル・アダムスの写真を見ても、ニューヨークのホイットニー美術館でメープルソープの写真を見ても、「いいな」とは思いますが、アートとは感じません。
 この話には「芸術」「アート」という言葉の定義の問題が関わってきますので、うかつに論じることはできません。私が「写真は芸術・アートではない…」と言う時、「写真は人間が作り出す創作物ではない」…というのが唯一の理由です。「芸術」や「アート」の定義はいろいろとありますが、私は少なくとも「人間が作り出す創作物」という前提だけは定義してもよいと考えているからです。
 はっきり言ってしまいますが、写真なんてものは被写体にレンズを向けてシャッターを押し、あとはカメラの機能に任せるだけで、誰にでも撮ることができます。写真は、確かに「色と光りを恣意的に操って撮る」こともできます(カメラの機能にもよりますが)。…というか、写真を撮る技術を持った人の多くは、自分が表現したい、光りや色を出そうという明確な意思を持って写真を撮るでしょう。しかし、そうした技術の多くは、「大量の枚数を撮影してその中からよい画像を選ぶ」…という作業で代替することが可能です。
 私は、デジカメを使うようになって、「写真はアートではない」という確信が深まりました。デジカメならば、銀塩写真以上に大量の画像をローコストで簡単に撮影することができます。例えば、「光」という点に関して言えば「非常に多段階のオートブラケット」があれば、数十種の異なる露出の画像を短時間で得ることができます。「色」という点に関して言えば、ホワイトバランスどころか、カラーイコライザーを搭載したカメラすら存在します。これらの設定をいろいろと変えながら大量の画像を撮れば、自分が表現したかった色に近い画像を、容易に得ることができます。そしてリアルタイムヒストグラム機能を使えば、光りや色を瞬時にコントロールすることもできます。
 さらに、デジカメの時代になって「レタッチ」という作業が出てきました。撮影後に簡単に画像をいじれるため、ますますシャッターを押す時点では適当に撮影することが可能になりました。

 アナログ写真を「芸術」と主張する人の中には、写真をプリントのプロセスまで含めて考えて「手焼きのオリジナルプリントがあるじゃないか?」…という人がいます。確かに手焼きのオリジナルプリントには同じものが2枚はありません。でも、これは「風景を恣意的に加工したもの」に過ぎません。何をどんなに加工しようと「写真に写っている風景(人)」の持つ、視覚的ポテンシャルを超えることはできません。第一、手焼きプリントのテクニックなんて、デジタル画像のレタッチからみたら「子供騙し」のようなものです。オリジナルが2枚とないから創作物としてのアート…というのなら、レタッチしたデジカメ画像は全部がアートです。

 ポラロイド写真を加工して、現実にはない様々な色彩感を表現する「自称アーティスト」なんて人もいます。これも「デジカメ撮影画像+レタッチ」の前には、虚しい行為です。

 また、写真は短時間で制作できます。…というか特殊な長時間露出写真などを除けば「シャッターを押した瞬間」に出来上がります。絵画や小説のように、時間を必要としません。シャッターボタンを押した一瞬で出来上がるものがアートとは思えません。

 写真は、その出来に対して撮影環境の偶然性が与える影響が大き過ぎます。被写体の一瞬の動きや表情、自然光線の一瞬の変化…などが、写真の出来上がりを大きく左右します。世の中で「優れた写真」と呼ばれている作品の中で、こうした「偶然性」によって撮れたものは少なくないはずです。これもまた、写真が「人間の恣意的な創作物ではない」と考える理由の1つです。

 誤解しないで頂きたいのは、「写真に感動してはいけない」…と言っているのではないことです。「私は○○の写真集に感動した」という人はたくさんいるでしょう。私も他人の撮った写真を見ることは好きですし、稀ですが感動すら覚えることがあります。でも、人が写真に感動するのは「写真に写っている事実」に感動するのであって、それを撮った人の「写真技術」や「カメラ機材」に感動するわけではないですよね。しょせん写真の感動の元は、「被写体が本来持つ力」に過ぎません。「写真の力」は、コピー元である「被写体の力」です。
 あえてもう1点「写真に感動する理由」を挙げるとしたら、それは写真を撮った人の生き方や、写真を撮った瞬間のシチューションに思いを馳せる場合です。でも、これらは写真の背景にある事実や、「写真を撮る」という人間の行動とその裏にある人間の意思に対する思いであり、写真自体がアートかどうか…という話とは無関係です。
 以前私は、弘前で沢田教一夫人のサタさんにお会いした話を書いたことがあります。沢田教一のような優れた報道カメラマンが撮った報道写真は、哲学的ですらあります。でも、これは「沢田教一が立っていた戦場」「写真に写っている衝撃的な事実」「沢田教一の生き様」…等に対する、見る側の想いが結実した感想です。ここでも、写真自体は「事実のハードコピー」に過ぎません。

 写真は自己表現の手段足り得るか…という点については、「自己表現の手段足り得る」と一応答えておきます。ただしこれは、「写真を撮る技術」「写真の芸術性」などとは全く無関係の話です。私が唯一写真を自己表現の手段だと認知するのは、「被写体」と「撮影行動」によってのみです。
 例えば「富士山の写真を撮り続けている人」がいるとします。私はその人が撮った膨大な数の富士山の写真を見て「この人は富士山が好きな人だ」と思うでしょう。これは、その人の写真を見ることでその人に関する情報の一部がわかる…という単純な例ですが、逆に自分が撮った大量の富士山の写真を見せることで、「こいつは見るに人間に富士山が好きなやつだ」と思わせることだってできます。これは「写真が事故表現手段足りえる」…ことの証左でもあります。
 ところで以前、TVのドキュメンタリーで「盲目の写真家」(確かユジャン・バフチャル)のドキュメンタリーを見たことがあります。眼が見えなくても撮れる「写真」が、なぜ「視覚表現の創作物」なのでしょうか。ある種のパラドックスでもあります。


 …さて、唐突に書き始め、ここまで書いてきたら、自分が何を言いたいのかわからなくなってきました(笑)。深く考えずに、10分ほどで一気に書いたので、論拠がムチャクチャかもしれません。それどころか、意味不明のフレーズもあるでしょう。このままでは、単なる支離滅裂な言葉遊びになりそうです。それにきっと、誤字・脱字だらけでしょうね。
 ここでいったん書くのをやめて、一度読み直し、書き直すか削除するかを考えます(笑)


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