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画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言


2002/8/30

 八月上旬の暑さが戻ってきました。ジリジリと照り付ける日差しと、高い湿度。このクソ暑い中を1日中オフィスで仕事…、仕事の段取りもうまくいってない感じ。なんとなくイライラしています。せめて帰りがけに冷たいビールを1杯、茶豆も一緒です。

 行きつけの餃子店「味居」の金さんが、北京の実家で「Bed&Breakfast(民宿)」を始めました。北京市内にある部屋を、1泊2000円で提供するそうです。朝食付きで、お粥など軽い食事が提供されるとのこと。北京へお出かけの際は、是非利用しましょう。予約はこちらです。

2002/8/30

 TVのニュースや新聞記事は「チリ人妻のアニータ嬢」の話ばかり。、うっとおしいなぁ…。豪邸が売却されただの、資産は日本へ返還すべきだの、ワイドショーならともかくNHKや全国紙までが、大きなニュースとして取り扱っています。
公社にお金を弁済しなければならないのは、横領した本人と、巨額の横領を監査できなかった上司及び公社の職員であって、アニータ嬢の責任なんてごくわずかなもの。バカ男にお金を貢いでもらったアニータ嬢には、同情の余地はあっても、全ての責任を取る理由なんかないはず。
 アニータ嬢の話が盛り上がるほど、逆に本質的な責任問題がうやむやになっていくような気がします。横領した金額と送金した金額が合わないそうですが、アニータ嬢が隠しているのではなく、他にも横領した公社の職員がいるんじゃないか…と思ってしまう。ま、いずれにしても税金で穴埋めするのではなく、こうした巨額の横領事件を引き起こした公社全体の組織的な責任ということで、公社職員全員に応分に責任を分担して弁財させればいいことです。

 話は変わって、最近購入したパソコン周辺機器の中で、YAMAHAのCD-R/RWドライブ「CRW-F1」は、まさに絶品です。ご存知の方も多いと思いますが、「CRW-F1」はCD-Rディスクに通常のデータ記録を行った後、未使用部分を使用して、ディスク記録内容のメモや日付、ロゴやイラストの描画等を印刷することができる「DiscT@2」…という機能を持っています。

 CD-Rの記録面って、書き込んだ部分だけ色が変わりますよね。あの原理を使って字や絵を描くわけです。これがもう面白いのなんのって…、ともかく精緻な絵が描けるのだからたまりません。デジカメで撮った写真だって、けっこう鮮明に描けちゃうんですね。描画用ソフトも使いやすく、字を書いたり、画像を貼ったりして簡単にCD-R面のレイアウトができる。データ他を記録したCD-Rだと、描画可能領域がちゃんと表示されるので、実に簡単に記録面のデザインをすることができます。
 実に面白いんだけど、1つだけ問題があります。他人に渡すCD-Rに絵を書き込んでおいても、書き込んであることを言わなきゃ誰も気が付かないんです。そうですよね。普通はもらったCD-Rの記録面なんかをじっと見ないですよね。
 それにしても、ホントにYAMAHAは面白いCD-Rドライブを考えたものです。感心しました。
 この「CRW-F1」は、「DiscT@2」機能だけではなく、CDの原盤並の高音質音楽CDを制作できる高音質記録モード「Advanced AudioMASTER」を持っているし、フルCAVで高品質の書き込みもできるので、ちょっと値段は高めだけれど絶対オススメのCD-Rドライブです。

2002/8/29

 深夜パソコンに向かって仕事をしていると、気分転換にネットで買い物をしちゃいます。
普通はランダムにショッピングサイトを巡るわけではなく、お気に入りのオンラインショップがいくつかブックマークしてあり、そこを巡回します。ファッション関係とかカバン屋さんとか、小物のショップとか…。この前はハワイのショップからビンテージもののアロハシャツを買ったし、昨夜は格安のスウォッチを1個買いました。
 食料品を買うこともあります。先日Yahoo!のトップページにリンクしてあったショッピングページで、「メンチカツ」を買っちゃいました。大阪で有名なお店のメンチカツだそうですが、むろん冷凍です。6個入りを買ってまだ食べるヒマがなくて冷凍室に入ったままです。蟹を買ったこともありますが、あれは失敗でした。あまり身が詰まってなかった。あと、よく買うのはビールです。世界中の変わったビールをネットで買っては飲んでます。

 買い物でストレスを解消するのは女性的…なんて言われそうですが、多忙な私にとって深夜のネットショッピングはストレス解消以外の何物でもありません。普段お店では絶対に買わないようなくだらないものを買うのも好きです。それにネットショッピングは現物が手元に送られて来るまで、ドキドキするのもいいですね。だから、おもいっきり怪しげなお店でも買っちゃいます。海外のサイトで面白い通販グッズを見つけると、まずは「International Delivery」をやっているかどうかを確かめます。
 よくネットショッピングでセキュリティの問題に神経質になる人がいますが、私はもう「なるようになれ!」って感じ。以前にクレジットカードの番号をハッキングされて妙な請求が来たことがありますが、まあ愛嬌です。こんなこともあるから面白い…ぐらいに思って、SSLを使っていない海外サイトでも平気でクレジットカードの番号を打ち込んだりしてます。

 「ネット上のセキュリティ」なんて話は、あちこちで注意を促す記事がいっぱいありますが、今さらあまり気にしてもしょうがない…とも思ったりします。住基ネットでも確かにセキュリティ上の問題はありますが、そんなこと以前に個人のプライバシーなんて既にズタズタに流出してるはず。クッキーからだってデータは取れるし、日常生活でクレジットカードを使っていれば、もう至るところに個人データが流出しているんだろうなぁ。

2002/8/28

 友人の両親が埼玉県の田舎に住んでいます。2週間ほど前から、1匹の雑種の犬が家の回りをうろうろするようになったそうです。1週間ぐらいは遠く離れて、その家を見ていたそうですが、だんだん家に近寄ってきて、ある晩玄関の前に座り込んだそうです。家人が近づいても鳴きません。よく見ると首輪を外した跡があり、毛並みもいいので、どうも誰かに捨てられた飼い犬のようです。
 で、家の前に座り込んでいられても困るので、友人の母親が箒の柄で軽く叩いて、どこかへ去るように促しました。なんといっても老人の2人暮らしで、犬など飼ったこともないんだそうです。でもその犬は、叩かれても友人の母親をじっと見上げて、悲しそうにするだけで、動こうとしません。そこで、根負けして残飯をやったら、きれいに食べて、玄関の前で眠ったそうです。次の日にも玄関の前にいるので、やっぱり犬を買うわけにはいかないと、友人の父親が車に乗せて10Kmほど離れたところに置いてきたそうです。  そしたら。どこをどう歩いて来たのか、翌日にはまた家の玄関の前でじっとうずくまっていたわけです。
 結局、友人の両親夫婦は、その犬を飼うことにしました。「クマ」という名前をつけました。現在、飼いはじめて10日ぐらいですが、普段はほとんど鳴かないし、犬小屋を購入してつないだら、小屋の周りでは絶対に排泄をしないなど、よくしつけられているそうです。
 昨夜友人が帰省して、携帯電話で撮影したクマの画像を送ってきました。日本犬の雑種ということですが、なかなか凛々しい顔をしています。私の友人にもすぐに慣れて、すごくかわいいそうです。

 友人の実家は、東京の都心からクルマで2時間ぐらいかかる埼玉県の山間部なのですが、東京の人がよく犬を捨てていくそうです。地元の人は、東京ナンバーの車が犬を捨てるところを、よく見るそうです。一度地元の老人が注意したら、怒鳴られたそうです。

 近頃は富士山麓の別荘地にも捨てられた飼い犬の集団が出没するそうです。犬を簡単に捨てる…ひどいですね。

 でも、友人の実家で飼われることになったクマは幸せです。

2002/8/27

 子供の学力低下に注目が集まっています。文部科学省は学習指導要綱の内容を二転三転させるし、現場の教師は右往左往してるし、教えられる子供の方はたまったものじゃありません。こうなった原因は、教育現場において「子供を無理やり平等に扱おうとした」ことに尽きます。
 私は、「平等」という言葉も嫌いだし、それ以上に「人はみな平等である」という言葉が嫌いです。人は、生まれた環境も、持って生まれた能力も不平等です。「平等」という言葉を辞書で引くと「差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること」…などと書かれています。こうした理念の是非はともかく、現実に世の中に生まれてきた時点で、人はまったく平等ではありません。
 環境の例で言えば、たまたま生まれ育った家に資産があるかないかで、既に人生の様相はかなり変わったものになるでしょう。たまたま生まれた国が、日本なのかアフガニスタンなのかで、その子供の人生は大きく変わります。能力の例で言えば、たまたま高度な知能を持って生まれてきたかどうかで、人生の様相はずいぶん変わるでしょう。
 「人は平等でなくてはならない」と言われても、最初から平等じゃないのだからどうしようもありません。

 アジアの最貧地域を旅行していたりすると、社会資本の偏在を無くすることには強い必要性を感じます。現在ヨハネスブルグで開催されている環境・開発サミットの閣僚級会合で、最貧国の輸出産品に対する関税の無税化と輸入数量枠の撤廃(無税・無枠化)で、先進国と途上国が合意する見通しが立った…とのニュースがありました。こうした試みについては、無条件で賛成します。むろん、世界中の全ての国と地域、そしてそこに住む人々が、アメリカ社会を世界標準とするグローバリズムに巻き込まれることには反対ですが…。

 仮定の話ですが、人類の英知を結集して(?)世界中の人々が経済的に豊かな暮らしを送ることが出来るようになったとしましょう。でも、人間の容姿や知能には差がある状況は変わりません。やはり美男美女はもてるでしょうし、頭のよい人間は選択肢の多い豊かな人生を送るでしょう。経済的な平等が実現したって、容姿や知能が劣る人間は「疎外感」を感じることは間違いありません。疎外感なんてものは、絶対に埋めようのない容姿や能力差からくるものがもっとも多いのだと感じます。
 私は常々考えます。結局のところ、個体差を認めなければなにも始まりません。「人間は平等ではない」という事実をしっかりと認識するところから、全ては始まります。

 当たり前の話ですが、私は容姿や知能で人を差別すべきだと言っているのではありません。「人間は平等ではない」という事実を認識することと、差別の問題は無関係です。逆に差別を無くすためにこそ、個体差を認めるべきだと強く思います。
 それにしても、本来等しいはずの「人間としての価値」っていったい何でしょうね? 最近、こうしたことを考えると、よく分からなくなってきました。

 今日の画像は、渋谷にある「SMAP」の自販機がずらっと並んでいるところです(U-10で撮影)。
 SMAPはキリンビバレッジから3ヶ月間の限定で発売されている炭酸飲料ですが、私は飲んだことがありません。っていうか、SMAPというグループ、どこがいいのかよくわかりません。これは私がオジサンだからでしょうか?(笑) バラエティタレントとしては別にどうということもないのですが、特によく分からないのが、すごく歌が下手なのに人前で歌っていること。不思議だなぁ。なぜあんなに下手なのに歌手なんだろう…

2002/8/24

 「スターバックスの大規模ワイヤレス接続サービス」に疑問の声…という記事を面白く読みました。

 前から私が注目している「ホットスポットを無償で提供しあう」運動を進めているアメリカのユーザーグループは、ホットスポットをビジネスとする商業的な通信事業者と、それに乗ったスターバックスに対して強い反感を抱いているようです。

 サンフランシスコを中心とするベイエリア、そしてシアトル近辺やボストン近辺などにおいては、「カフェの文化」は、商業主義とは相容れないものです。うまく説明できないのですが、アメリカにおいては「古典的なカフェ」(といっても1960年代に始まったものですが)でくつろぎ、おしゃべりする文化は、「持たざるもの」の文化でした。ニューヨークのグリニッジビレッジなんかもそうですが、街角のあちこちのカフェでは学生や芸術家が議論する風景が見られたものでした。
 アメリカのコンピュータ文化は、ゼロックスのパロアルト研究所で「アルト」が誕生して以降、現代文明や資本主義社会に対する、ある種の「反骨精神」が流れていました。反骨精神という言葉は適切ではないかもしれません。むしろ視点を変えて文明批評をする眼があった…ということでしょう。こうした精神を持った人々がAppleやAmiga、atari、そしてMicrosoftなどを産む原動力となりました。そして、こうしたコンピュータが商業主義の流れに乗った時、彼らはLinux、つまりオープンソースへと向かったのです。

 この1960年代以降のコンピュータ文化は、学生や芸術家が議論を戦わせた同じ60年代以降の「カフェの文化」と合い通じる部分があり、だからこそスターバックスは、同じカフェでもこうしたカフェ文化を継承するものではない…と見なされているような気がします。
 今回のホットスポットの件がなくともスタバに対して反感を持っている人は多いようで、記事の最後には「この辺りには、芸術家や貧しい労働者階級の人々が大勢いる。一方スターバックスは、商業主義や発展、変化を象徴している」と語るマレクさんの言葉が載せられています。
 この言葉は、私自身の感覚と非常に近い部分があります。スタバは、商業主義の象徴であるとともに、客層を歴然とクラス分けすることで成功したカフェです。アメリカも日本でも、そしてその他スタバが店舗を展開しているアジアやヨーロッパ諸国においても、スタバの客層は「アッパーミドル」です。いや、実際にアッパーミドルには限らないにせよ、そのあたりを志向する人間がおおいことは確かです。
 「発展と変化を象徴している…」という部分は微妙です。私は、スタバに象徴される「発展と変化」というのは、無国籍化、グローバリズムといった部分での発展と変化であり、コンピュータの世界で言えば、MicrosoftとWindowsに象徴される変化です。これは、「歓迎されざる変化」でもありますね。
 私はスタバが嫌いなのではなく、強いて言えばスタバを好きだという人種が嫌いです…、という話は以前にもこの日記で書いたことがあります。
 今回の記事を読んで、スタバの本場であるアメリカでも同じように感じる人がいるということを知り、なんとなく楽しくなりました。

 今日の画像は、DSC-U10で撮影した「花火」です。
 これは豊島園の花火大会を写したもの。ただストロボOFFにして手持ちでシャッターを切っただけですが、このカメラにしてはよく写っている方じゃないしょうか。こんな広角レンズのカメラでも、距離が近ければそこそこに花火も撮影できます。

 U10は相変わらず、飽きません。ポケットやカバンの隅に放り込んでおくだけで、いつでも取り出して写真が撮れる…、やっぱり面白いカメラです。

2002/8/23

 「個」と「公」の関係については、時々考えることがあります。「公」を「国家」と置き換えると、昨今喧しく議論がなされている、「靖国参拝問題」「竹島領有問題」そして「ゴー宣」などに対するスタンスが問われるところです。
 私は「『公』あっての『個』」という考え方には全くついていけないので、あくまでも「『個』あっての『公』」というスタンスで通してきました。私にとって公とは、個が集まった結果として自然に生まれたものに過ぎませんし、公と個の意思が対立するのなら、個は公から離脱すればよいだけです。
 私は、「いつも個人の生活よりも公のことを考えている」…なんて人間がいることを信じていません。第一、人は飢えている時に公のことなど考えないはずです。例えば、長年勤めた会社をリストラされて生活が立ち行かなくなり自殺に追い込まれる中年サラリーマンは、リストラされて自ら命を断つまでの間に一度たりとも公のことなど考えないはずです。人間にとっては個を大切にすることの方が自然であり、個を大切にする人は結果的に他人の個も尊重するはずです。
 「公に対して個が何をなし得るか…」などといった問題は、正直言って考えたこともありません。私は公に対して、「納税」以上の何もする気はありません。逆に「公が個に対して何をしてくれるべきか…」という視点もありません。
 「お前は国や民族を愛する気持ちがないのか?」と問われれば、躊躇することなく「ない」と答えますし、別にそれを恥じる気持ちも全くありません。むろん胸を張って「国を愛さない」というわけでもなく、要するに「どっちでもいい」のです。
 日本が外国から攻められたらどうするのか?…といった仮定に立った質問は全く無意味です。誰が何のために戦争行為を仕掛けてくるのか…によって、スタンスや行動は変わります。自分の価値観は現実の状況に対して表現されるべきものですから、仮定の質問には誰も答えられません。

 さて、先ほど「納税以上のことをする気はない」と書きました。確かに私は、法人税、所得税、住民税など納税はきちんとしています。公の仕組みから恩恵を受けているから納税する…という意識からではなく、個が生活しやすくなるためには公の仕組みがあった方がよく、そのために納税しているのです。
 ところが最近、その納税をする気が失せてきました。道路公団に関する論議などを例にだすまでもなく、税金は納税者の目の届かないところで湯水のように無駄に遣われています。こうした状況を「許せない」というよりも、つくづく「アホらしい」と感じるようになりました。
 別に面倒な「納税拒否運動」を起こそうというのではありません。納税しなくてもよいような生活へと、ライフスタイルを変換していこうと思うのです。「自給自足+物々交換」が理想ですが、現在の生活を急激に変換することは諸事情があって不可能です。

 そこで私が考えているのは、「バーチャル国家」の設立です。
 ネット上の商取引が増えるにつれて、課税の網がかけにくくなる…、ここ数年問題視されていることです。全ての物とサービスに対して交換レートを設定し、非課税の国にサーバーを置いた「バーチャル国家」を作って、物やサービスの交換経済の仕組みを作ってしまえば、誰も課税できなくなるわけです。
 実際に、「ネット上の物々交換ビジネス」を推進する試みはあちこちでなされており、「物やサービスの交換経済の仕組みだけを持つバーチャル国家」の運営は、特に夢物語ではなくなってきました。地域通貨の試みと組み合わせた、かなり現実的なバータービジネスの仕組みを提案しているグループもあります。こうした世界の動きを少し真剣に調べて、自分の意見に近いものがあれば参画してみようと思います。もしなければ自分で仕組みを作って、ネット上で参加者を募る方向もあります。

 ネットワーク社会は、わたしがかつて学んだ経済学の範疇を、とうに壊してしまいました。鋭く資本主義社会の将来を予想したケインズも、資本主義の終焉を予言したマルクスも、そして現代経済学の父祖サミュエルソンも予想しなかった、社会が訪れようとしているわけです。

 つまらない戯言でした…

2002/8/22

 時計(ウォッチ)にこだわる人、多いですね。…っていうか、ここ数年のロレックスブームのように、まだ10代から20代前半の若い男がロレックスのような何十万円もする時計を使っていたりしますが、何となく理解に苦しむところです。ウォッチの本(ムック)が、すごくたくさん発刊されていているし、若い者向けのファッション誌にもウォッチ特集を見ない号はありません。
 若い女性は女性で、20歳そこそこの女の子がブルガリの時計なんかをしてたりする。これもよく見る光景です。
 欧米では、時計と社会的階層の関係が明確で、月給が20万円の人間が30万円の時計をしているなんてことはまずありません。また、ファッションのTPOと時計の関係も比較的明確なので、カジュアル(お金持ちのカジュアルじゃないですよ)な格好でロレックスしてる人間なんてまず見ません。
 ところが、渋谷あたりのクラブなんかに行くと、ジーンズはいてクラブ遊びしている大学生がロレックスやブルガリのウォッチをつけてたりします。それを見て「渋い」なんて評価してる周囲の人間がいるようです。若くてお金もない人間がロレックスつけてるのって、私は不自然だと思うけどなぁ…

 時計といえば、バンコクで現地の人から面白い話を聞きました。カオサンなんかで遊んでる日本人の学生、若い世代の90%以上がGショックつけてるのは異様に見えるそうです。若いアジア人で日本人かどうか見分けるのは、Gショックをつけてるかどうかを見ればいいんだそうです。タイ→カジュアルな旅行→Gショック…と、ステレオタイプに時計の種類が決まるのでしょうね。

 実は、私も時計はけっこうたくさん持ってます。といっても別に趣味じゃなく、なんとなく増えて20〜30個になった…って感じです。基本的には安いウォッチばかりで、ロレックスなんて買う趣味はありません。って言うか、スピードマスターのようなバカでかい時計は重くてつけてられません。まずスウォッチがたくさんあります。これは、その日の気分でいろいろと楽しめるし、自分で電池を換えられるところも気にいってます。アウトドア系の時計はやっぱりGショックやプロトレックなど数種。あと普段海外旅行に行く時などは、なるべう安っぽくて目立たないのがいいと思い、TIMEXを3〜4個持ってます。スーツを着てのお仕事の時だけは、セイコーのちょっと高級な自動巻き時計を使うことが多いかなぁ。

 時計と言えば、最近は時計が売れなくなったとか…。最大の理由は携帯電話の普及だそうで、そういえば携帯電話には時計がついてますよね。

 自宅に正確な時計があるといいと思って、電波時計を1つかってきました。でそれを見ながら思ったのですが、「インターネット・ウォッチ」があってもいいんじゃないかと…。スタンドアロン型のインターネットラジオってありますよね。あれと同じです。ハブにLANケーブルでつないでおくと、一定時間ごとに自動的にタイムサーバーへ行って時間を修正する時計です。無駄な商品かもしれませんが、パソコンはいつもつけてるわけじゃないし、ADSLモデムに接続してあるハブのポートもたくさん空いてますから。値段次第では結構使えるんじゃないかと(笑)

 ロレックスと言えば、アメリカで一時期「ロレックス強盗」が流行りましたね。ロレックスしてる人を見つけると、手首を切り落として手首ごと時計を持っていく強盗です。おー怖い…

 今日の画像は、最近池袋の北口駅前近くに開店した「中国食材専門店」です(CP2500で撮影)。駅前こういう店があったりするから、池袋って街が好きです。
 まだ中に入ったことはないのですが、いつも賑わっています。池袋は中国人の居住者が多いですからね。ゴミ捨て場の表示も中国語で書いてあるし、区報なんかも中国語バージョンがあります。行って来た人に聞いたら「狗肉」なんかも冷凍で売ってるそうですよ。夕方になると、道を歩いてる日本人に向かって盛大に呼び込みやってますから、そのうち何か買ってみようと思ってます。

2002/8/21

 探偵小説で「男女のペア」が活躍する…というシリーズはたくさんありますが、その中にあって、若い中国人の女性探偵リディア・チンと、白人の中年探偵のビル・スミスが活躍するS.J.ローザンのシリーズは、まさに出色です。
 このシリーズは現在、創元推理文庫から4冊刊行れています。第1作の「チャイナタウン」に始まり「ピアノソナタ」「新生の街」と続き、先だって6月末に第4作の「どこよりも冷たいところ」が発刊されました。1作ごとにリディア・チンとビル・スミスが交互に主役をつとめるので、この第4作の主役はビル・スミスです。発刊から2ヶ月遅れで、この「どこよりも冷たいところ」を読了し、あらためてこのシリーズに深い魅力を感じました。

 主役の2人には、その考え方やライフスタイルに大きな差がつけられています。まずは、人種の違いです。リディア・チンは中国人です。彼女の母は、リディアが例え仕事のパートナーと言えども白人男性と付き合うのを嫌っています。リディアは親と同居し、「中国人らしい「家族を大切にする」「中国人コミュニティとの付き合いを大切にする」という東洋的な価値観を持っています。一方のスミスは、一切の係累にわずらわされない生活を送っています。
 次に世代の差です。2階の離婚を経験している中年男のビル・スミスは、若いリディア・チンに恋心を抱いていますが、年齢差を強く意識しています。
 そして3つめの違いが、男女の価値観の差です。スミスは典型的なアメリカの白人男性としての価値観「男は女性を庇護する」というマッチョ的な考え方を捨てられません。一方のリディアは、徹底して「自立した女性」でありたいと願い、仕事上のスミスとの関係を対等のものにしたいと考えています。デカいビルとチビのリディアという設定が、こうした考え方の違いを、さらに際立たせています。
 こうした主役2人のポジションは、周辺の人物を含めて実によく造詣されています。
特に私が傑作だと思う第3作の「新生の街」では、ニューヨークおける中国人のポジション、チャイナタウンのポジションが描かれていて、実に興味深いものでした。チャイナタウンにある搾取工場(不法移民を低賃金で長時間労働に従事させる)の状況や、白人のアッパークラス階層の中国人に対する差別意識などが描きこまれ、非常によくできたストーリーだと思った次第です。
 私がこのシリーズに魅力を感じる理由はもう1つあります。舞台がマンハッタンで、しかもロワーマンハッタンであるところです。リディア・チンはキャナルストリートに面したところに小さな事務所を構えています。一方のビル・スミスは、私がかつて住んでいたトライベッカのアパートに住んでいます。小説の中で登場する通りや公園、そしてお店などは、私がよく知っているところが多いし、私が大好きなエリアでもあります。
 ビルとリディアはお互いを大切に思い、お互いに好きだという感情を持っています。でも、背景にある文化や価値観の違いから、お互いの関係が深まることによって軋轢が生じすることを恐れています。
 私は時々スミスに自分を置き換えて、読んでいることがあります。スミスは1人の時にピアノを弾きます。私は、そんなスミスにけっこう肩入れしながら読んでいます。

 今日は、なんか出来の悪い「巻末書評」のようなものを書いてしまいました(笑)。

 今日の画像は、ネパールの「合法ドラッグ」です(CP2500で撮影)。
 何でも、ネパールやインドの一部では普通に売っているものだそうで、口に含むと、とても刺激的な味と香りがするそうです。台湾や南太平洋で一般的な「ビンロウ」のようなものらしいです。袋には、ヒンドゥー語やベンガル語、ウルドゥー語、ネパール語、サンスクリット語など5〜6ヶ国語で名前と効能が印刷されています。
 私は怖くて(笑)、まだ口に入れていません。ドラッグは別に嫌いじゃないですが、さすがに、あまりヘンな味のものは口に入れたくありません。だってビンロウを噛んでヒドイ目にあいましたから…

2002/8/20

 今日はクライントの某社で会議があったために、久々にスーツを着て外出してました。まあ、ひと頃よりは涼しくなったからいいようなものの、それでもこの時期にネクタイ締めて上着を着てるのはけっこうツライものがあります。まあ、そんなことを言ったら営業職など普通のビジネスマンに、「スーツがツライとは何事だ」と怒られそうですね。
 私は一応個人事業主なので、オフィスでどんな格好をしていようと、誰にも文句を言われません。でも普段は、とりあえずは「カジュアルでもみっともなくない」格好を心掛けています。ところが年をとるにつれて、この「カジュアルでもそれなりにカッコイイ」という服装が難しくなりました。ジーンズなんかは嫌いじゃないのですが、現実には着用する機会は減ってきています。夏なんかは、コットンパンツにポロシャツとか、コットンパンツにボタンダウンシャツ…なんてワンパターンの格好ばかりになります。ファッションにあまり気を遣わなくなってきた自分が、何となく悲しい感じです。

 掲示板でも書いたように、トップページに試験的に全文検索窓を付けました。本サイトはいまだにレンタルサーバーのままなので、Perlで動作するpnamazuを使ってみました。pnamazuは、形態素解析プログラムがショボいので時々妙な検索結果を出力します。しかし、デジカメの製品名を入れて検索する…といった用途にはとりあえず十分ですね。いずれサーバーを移したら、Namazuにグレードアップします。まあ必要性の問題じゃなく、お遊びですが…
 それにしても「形態素解析」って、自然言語の特性から見て、完全に近い形で文章を分けることは絶対不可能ですよね。このあたりを追求していくと、「意味」にまで踏み込まざるを得ません。自然言語処理における「形態解析」とは「言語の単語とか品詞とかについてその語形変化や並び方などを解析する」ものですが、現実的には「構文解析」や「意味解析」などと切り離すことは不可能です。
 それと、こうした全文検索レベルでの自然言語処理で難しいと思うのは、究極のところで「言葉の持つ意味」や「言葉に対応する概念」が、個人によって異なる点です。まあキリがないのでやめますが、こんなことを考えていると、たかが「サイト内全文検索」も難しい話になっちゃいますね。

 SONY「DSC-U10」ですが、一部のユーザーから画総数アップやズーム搭載、液晶の大型化…等の要望が上がっているようです。でも、私は速写性を損なうズームなんか絶対不要だと思うし、画素数アップもラチチュードが狭くなるなら反対、また画像の記録サイズも500KByte以上にして欲しくありません。液晶なんて、フレーミングを確認するだけなら現行スペックで十分です。むしろ改善点としては、「発色のチューニング」、「マクロ時にストロボ光量を撮影距離と連動する」…あたりを望みます。余計なシーンモードや画像エフェクト機能は外して下さい。
 次機種が出るとしても、小型スナップカメラとしての基本コンセプトを損なわないで欲しいなぁ…

2002/8/19

 今年は海に行く暇がなくて、非常に寂しいですね。私は山も好きですが、海はもっと好きです。
 6〜7年前まで、友人がヨット(33ftのレース艇)を所有していて葉山マリーナに繋留していたので、いつも逗子・葉山あたりに遊びに行ってました。忙しい時でも、仕事が終わった夜10時頃からクルマかバイクで葉山に行き、明け方まで夜の海で遊んで翌日の昼前に東京に戻って来る…なんて無謀なこともやってました。
 あと、一時期凝ったのがゴムボート。ゴムボートと言ってもアキレスやオカモトの8人乗りくらいのヤツ。40HPぐらいの船外機をつけてやると、これはもうマリンジェットより面白いです。フロントアップして、海の上をすっ飛んでいきます。
 ゴムボートで一色から長者ケ崎あたりをクルーズしながら、海水浴場から外れたところで泳いでいる女の子を拾って(?)、あまり人気のない海岸でバーベキューやったりして遊んでました(いい年して何やってたんだか…)。

 で、その頃、海で写真を撮るために「NIKONOS(ニコノス)」を買ったんです。残念ながら2001年に生産終了になりましたが、やっぱりいいカメラです。私が持ってたのは、「NIKONOS V」ですが、水中カメラとはいえ、陸上で撮影してもしっかりと写るカメラでした。AFはなく目測ですが、馴れると非常に使いやすいのです。現在は友人が使ってますが、このニコノスのような「高画質・ヘビーデューティ」なデジカメってあまりないですね。私はNIKONOS VにUWニッコール35mmF3.5を常用していたので、感覚的に一番近いのは28ミリレンズを搭載した富士写真フィルムの「BIGJOB DS-270HD」あたりだと思うのですが、この機種はイマイチ「欲しい!」ってところまでは行きません。
 そういえば、ニコノスで撮り貯めた女の子の水着写真集…って、無断でサイトで公開したらヤバイですね(笑)。

 バカなことやってたと言えば、バイクの話もあります。私は20代の終わり頃に何か急に「戦闘的」な気分になったことがありまして…。まあ、私は何でもすぐ言葉に出すから人と争いごとが絶えないくせに、「物理的な喧嘩には弱い」わけです。別に武道とかやってたわけじゃないし、やせっぽちだし…。まあアウトドアが好きで体力には自信がある割に、昔から軟弱なヤツってことです。
 そんな私がバイクにハマッたのは、一種の「マッチョ願望」があったのかもしれません。とはいえ集団で走るのは嫌いだし、女の子乗っけて、タンデムでツーリングに行ったりしてました。硬派のバイク乗りから見れば、それはそれは軟弱なライダーでした。ただ、長時間走るのが好きで、1人でツーリングに出かけると「1人耐久レース」をやっちゃうんです。1日に1000Km走り続けるとか、給油以外に休まず24時間以上連続走行するとか…。その「徹底的にバイクで走りたい」という欲求が、ある時期に「徹底的に速く走りたい」に変わったわけです。
 「バイクで速く走る」という願望は、バイク乗りなら誰にでもあるはずですよね。一頃、125ccで「プロダクションレース(今はないですが…)」で走ったりしてた私は、それなりに速く走ることに自信はありましたが(完全に自己満足レベルです)、何故か「公道を飛ばす」という気分にはあまりならかったものでした。以前は、免許の点数がいつもギリギリ状態だった…、ってのもあります(今はゴールド免許…笑)。
 それが20代後半の頃の一時期に、ブチ切れたことがあります。ともかく速いバイクに乗りたい…という欲求が高じて購入したのは、YAMAHA「RZV500」(51X)です。あれは1985〜6年頃だったかなぁ…。水冷2サイクル、V型4気筒500CC…、こう聞くとやっぱりケニー・ロバーツを思い出す人が多いでしょうね(笑)。前の2気筒がクランクケースリードバルブでしたね。
 当時一部の区間が開通したばかりの常磐自動車道(まだ舗装の状態がよかった)へ週末の夜ごとに持ち込んで、ひたすら「全開」で走るのです。私は、首都高あたりじゃ怖くて全開に出来なかったものですから(根性もないし)…。むろん1、2速なんて絶対にフロントはつきません。輸出仕様のメーターを付けて、メーター読みで200km/hオーバーをやってました(実はすごく怖かった)。
 でも51Xはツーリングには向かなかったですね。飛ばすと7〜8Km/リッターでしたから、タンク容量が15リッターぐらいじゃ怖くてツーリングに行けません(笑)。高速道路のスタンドの一部が日曜休みだった時期もあって、街乗りと「夜の1人暴走」専用でした。
 「RZV500」は、ともかく速かったって印象がありますが、今考えると国内仕様は64〜5馬力だったはず。たいしたことないんですね。その後、油冷の「GSX750」買って、やっぱりメチャクチャに飛ばして…、そんな時期が数年続いて「速く走りたい願望」は収まりました。

 他人が読んでも何も面白くない「1人昔話」でした…(笑)

2002/8/16

 お盆休みのピークで、ネットサーフィンなどをやっている人も少ないはず。
 こんな与太話ばかりの日記を読む人は誰もいないだろう…ということで、デジカメサイトらしからぬ"白昼夢のようなたわごと"を続けます(笑)。

 昨日の日記で「脳内世界で外部の世界と対峙する」というアホな戯言を書きました。この「脳内世界で権力と対峙する…」と言う戯言で真っ先に思い出すのは、「想像力が権力を奪う」という言葉です。
 この言葉、1969年に発刊された小さな写真集、「壁は語る」(J.ブザンソン編/竹内書店)に書かれていたものです。「壁は語る」は、1968〜1969年にパリのカルチェラタンから発生してフランス全土に拡大した「パリ5月革命」の写真集で、「想像力が権力を奪う」というフレーズは、確かパリのカルチェラタンの路上に残された落書きの文句だったと記憶しています。
この言葉は村上龍の「69」と言う小説の中にも出てくるそうですが(私は読んでいません)、いずれにしてもパリ5月革命を起点に世界に拡大した異議申し立て運動の中で、一種の世界的な流行となった言葉です。アメリカの公民権運動やベトナム反戦闘争、日本の全共闘運動の中でも繰り返し使われました。世界で最も有名な「落書きのフレーズ」の1つでしょう。
 パリの5月革命と言えば、ダニエル・コーンバンディ、ジャック・ソヴァジョ、アラン・ジェスマルという3人のアジテーターの名を思い出しますが、彼らもあまり言葉を残していない人たちです。いずれにしても、落書きのフレーズが一番記憶に残っている…というところが、いかにもパリ5月革命の本質を現している…と思ったりします。

 実際のところ「想像力が権力を奪う」という言葉ほど、1人の人間が持ち得るイメージの大きさや強さを正確に表現した言葉はないし、それが真実ゆえに、いつの時代でも権力者は市民・大衆の「想像力を奪う」ことを心がけてきました。
 現在の私自身に、どれだけの「想像力」が残されているのかわかりませんが、少なくとも「狂気」は持っていると自己分析をしています。「狂気」と「想像力」は、極めて近い関係にあります。個人的には、狂気こそは想像力の源の1つだと思っており、その意味では、あまりに世の中が不快に感じるようになったらいずれ権力を奪ってやろう…などとと不埒なことを思ったりします(笑)
 もっとも、現在の私にとって世の中は概ね快適であり、このまま行けば別に「権力を奪う」必要性は生じないと思いますが…

 この「壁は語る」を読んだのは高校時代のことですが、むろんパリ5月革命とは同時代ではありません。私の高校時代は、「個人と社会の関わり方」を見つけようとした時代であり、そんな中で読んだ本は「壁は語る」に限らず今でも記憶に残っています。ミッシェル・フーコー「性の歴史」「言葉と物」、L.アルチュセール「詩本論を読む」、ジョージ・オウェル「カタロニア賛歌」、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」、フランツ・ファノン「地に呪われたる者」、高橋和巳「邪宗門」、植谷雄高「死霊」、吉本隆明「言語にとって美とは何か」…などの本は、今となってはもう読むこともないのですが、それでも一語一句覚えている部分などもあり、こうした時代に読んだ本の影響の大きさを思い知らされます。

 こんな本を読みながら、実際の異議申し立て運動には参加することもなく、バイクを乗り回し、山に登り、女の子と遊んでいた高校時代でした。

 そういえば、今日は私の誕生日です…

2002/8/15

 この日記に「都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言」なんて名付けてますが、実は私はけっこう「ノイジー・マイノリティ」かもしれません。だって、ささやかながらもこんなところで好きなこと書いているし、実生活でも言いたいことを何でも口にする…という、いたってストレスの少ない生活を送っていますから。

 もっとも、「ノイジー・マイノリティ」という言葉で思い浮かべるのは、「徒党を組んで声を上げる」少数派の集団ですね。世の中には「声を上げる少数派」というのはけこうたくさんいます。特に、人権や環境、そして政治的主張に関わる部分では、非常に声高に主張する集団が多いようです。こうした分野になると、マジョリティよりもマイノリティの方がうるさいくらいです。
 いや、「小数派が集団を作って大きな声を上げる」というのは戦略的に見れば正しい方法です。特に人権に関わる問題や差別撤廃などの主張を社会に反映させていくためには、絶対に小数派が集団を作って闘うべきでしょう。
 それは十分にわかった上で、なおかつ「徒党を組む」という行動が生理的に大嫌いです。これに関しては環境保護運動をやってるNPOも暴走族(珍走団?)も私にとっては同じです(環境保護や人権保護、そして社会的弱者救済等を目的に真剣に活動している人には申し訳ない言い方ですが…)。
 社会に対して集団で働きかけをするという行動を否定しているのではありません。あくまで「生理的に合わない」と言っているのです。
 私は「ノイジー。マイノリティ」ですが、あくまで徒党を組まず、1人で声を上げ続けようと思っています。

 別にカッコつけてるわけじゃありませんが、私はどうも「個人で社会と対峙する」という方が趣味に合ってます。あ、別にわざわざ「社会と対峙したい」というわけではありません。基本的に小心者ですから(笑)。たまたま自分の常識が社会の常識と合わないことが多いので、結果往々にして「社会の趨勢」と対峙することがあるというだけです。
 もう少し正確に言うと、「個人で社会に対峙する」のはなく「個人の作り出すイメージで社会と対峙する」というのが近いかもしれません。
 人間の脳内には宇宙があります。どんな規模が大きいものもイメージとして形作ることができるわけです。だから、相手がいくら大きくても、相手が「社会」とか「国家」とかいう代物であっても余裕を持って対峙できるわけです。「妄想」や「狂気」に勝るものはありませんから…

 こんな話を書いていて思い出すのが、作家の永井荷風のことです。彼は太平洋戦争と軍部の傲慢を忌み嫌っていました。しかし、彼は獄中で過ごした共産党員のように「戦争に反対」などとは、一言も言ったことがありません。彼は、戦争中も女性とひょうひょうと遊び歩いていました。多少は名の知られた作家であることを逆手にとって、戦時中でも許されるギリギリのところで遊び回っていました。おそらくそうした態度を執り続けることが、彼にとって「嫌な社会と対峙する」ことだったのでしょう。私は彼が「逃げていた」とは思いません。彼のような闘い方は、あの軍国主義の時代にあって、それなりの強い意志(「勇気」とは異質でしょうが…)を必要としたはずです。

 私はやっぱり「サイレント・マイノリティ」であり続けます。しかも「小心者」の…

2002/8/14

 お盆ということで、街はいたって静かです。都心のクルマが減ったためでしょう、空気が若干きれいです。夏の青空が澄み渡っていて、ちょっといい気分。連日オフィスで仕事を続けていますが、遊びたいとも思わなくなってきました。もうあきらめの心境です。唯一の問題は、行きつけのレストランバーや小料理屋がお盆休みに入っているので、仕事帰りに軽く飲んでいく場所に不自由していることぐらいでしょうか。

 人気の少ない街を颯爽と歩いているのは、女性です。男は、若者もサラリーマンも老人も、みんな暑さに負けてしょぼくれているようです。
 私は夏らしいファッションの薄着の女性って好きですよ。体の線が出ている女性を見ているのは、純粋に好きです。こういうのを「エッチ」というのかどうかは知りません。私は、道行く女性をまじまじと見つめたりしませんし、ましてや女性をイヤラシイ目で見ているつもりはありません。だって、薄着の女性を見るのは好きだけど、別に性的な衝動は全く感じませんから…
 このあたりの感覚はうまく説明できません。私はセックスが好きですが、だからと言って不特定の相手とセックスをしたいと思ったことはないのです。好きな女性が相手ならセックスしたいって気持ちになりますが、知らない人に対してその手の衝動はまったく起きません。
 私が体の線が出ている夏らしい女性のファッションが好きだと言うのは、なんとなく「人間が本来持ってる生命感、躍動感」みたいなものを感じるからです。女性が女性であることをアピールし、男性が男性であることをアピールする…という社会のあり方は、非常に健全なものだと思います。イスラム教で女性の体の線を隠すことを教えとしたり、古い日本の道徳観で女性の肌の露出を「はしたない」としたりするのは、やっぱり男性固有の価値観によるところが大きいのでしょうね。妻に対してを要求する男性も、寝室では妻の裸を求めるわけですから…。結局のところ、男性が女性を所有する…って感覚が抜けないのしょう。

 ところで、人が少なくなった街はやっぱりなんとなく寂しいですね。私は人込みとか雑踏とかが大好きです。人気のない温泉なんか大嫌いだし、静かな田舎暮らしなんて絶対に嫌。いつもざわざわしていて何となく人の動きがある場所にいる方が、かえって落ち着きます。
 静かな温泉に旅行…なんてしないし、海外旅行に行くときでも、都市、それも出来る限り大都市を選びます。国を問わず、都会の喧騒の中にいるのが好きです。
 私は「孤独を愛さない」男です(笑)。1人は嫌いです。バーのカウンターで1人、物思いに耽りながらグラスを傾ける…などという妙な趣味は全くありません。飲んだり食べたりするのなら、友人や親しい女性と一緒がいい。むろん1人暮らしも嫌いです。20代の半ば以降は、基本的には誰かと一緒に暮らしてきました。私はこれから年をとって、孤独になるのは嫌ですね。家族でも友人でもいろんな人に囲まれて、死ぬまでワイワイと賑やかに暮らしていくつもりです。

 なんかとりとめのない、くだらないことを書いてますね、今日も…(笑)

2002/8/12

 池袋西口は「食のワンダーランド」です。またラーメン通にも知られたエリアで、キラ星のごとく有名店が並びます。そんな池袋のラーメン店の中でも、知られざる異色の名店をご紹介します。
 お店の名前は「寶樹ほうじゅ)」です。
 西口を出たら丸井本店の方へ進み、丸井本店のある交差点を右折し、そのまま広い道を川越街道に向かって進んでください。池袋西教会と池袋第五小学校の間の道を左折し、3分ほど歩いた住宅地の中にあります。
 ラーメン専門店ではありません。池袋西口の繁華街と川越街道に挟まれた住宅地にひっそりと暖簾を出す、中国料理店です。従って、ラーメンというよりも「中国料理のそば」で、あっさりした塩味のスープに細い麺が特色です。

 あっさりした麺なので、一杯飲んだ後に食べるのも美味しいですね。夜は12時まで営業しているので、西口でゆっくり飲んだ後に行ってもOKです。
 先夜も、西口で飲んだ後に11時過ぎに「寶樹」に向かいました。トキワ通りを越えて、暗い裏道を歩いていきます。

  
 途中にある韓国家庭料理の店「ちょろんい」の看板です。

    
 これが「寶樹」の店構えです、何の変哲もない小さな中華料理屋です。

  
 店内の様子です。カウンターの上一面にメニューが貼り出してあります。店内は狭く、小上がりにテープルが3つ、カウンターは6〜7人でいっぱいというお店。人の好いオバチャンと、調理はオニイサンが1人で切り盛りしています。

  
 一番のオススメは「とり肉そば」です。あっさりしたスープではありますが、何ともいえないコクと旨みがあります。

  
 「ニラ肉そば」もオススメです。しょうゆ味のスープにニラと豚肉を炒めた具が乗っています。

 皆さんもぜひ一度、「寶樹」へお出かけ下さい。

    ※「寶樹」:豊島区池袋4-5-5 Tel 03-3988-7487 11:30〜14:00 18:00〜24:00 第1、3土曜休み
    ※画像は「DSC-U10」で撮影しました。

2002/8/11

 ちょっと前に愛用するノートPC「ThinkPad240」のHDDが壊れました。壊れたと言ってもシステムが壊れただけで、再インストールすれば動きそうでした。その後NEC「LJ300」を購入したので、ThinkPad240は壊れたままで放ってあったのです。
 とは言え、ThinkPad240には愛着があります。海外旅行には最も多くの回数を持って行きました。ThinkPad240は堅牢で、持ち歩いても安心感があります。着替えの衣類で包んでソフトタイプのスーツケースに放り込み、そのまま預けたこともありますし、リュックに放り込んで何日も持ち歩いたこともあります。それでも大きなトラブルはありませんでした。スペック的に見ても、Celeron400MHzですから、私がワープロとネット端末用途で使う分には別に何の問題もありません。キータッチもよく、Windows2000をインストールして快適に使用していました。
 先日、仕事の合間を見て再インストールしようと思い、リカバリーディスクなどを探し出して準備を始めたところ、問題が発生しました。添付の外付けFDDが見付からないのです。あちこち探したけれど見付かりません。どうやらオフィス内のどこかに埋もれてしまったようです。うちのオフィスは全体が乱雑な物置きのような有様で、一度物が無くなると出てきた例がありません。
 ThinkPad240はフロッピーブートが基本なので、FDD無しでリカバリーするとなるとメチャクチャ面倒です。BIOSでネットワークを認識させれられるので、ネットワークインストールは可能ですが、configを書き換えたり、すごく手間がかかりそう。かといって、メーカーに修理に出すとけっこうお金がかかりそうだし、どうしようかと思っていました。
 そこで、ちょっと乱暴な方法を取ることを思いつきました。2.5インチのHDDを買ってきて、2.5インチ→3.5インチ変換アダプタを使ってデスクトップPCに接続してOSをインストールし、その後インストール済みのHDDをThinkPad240に接続して、ドライバを拾わせようというわけです。
 私のThinkPad240は「43J」という型番で、2000年に発売されたもの。12GBのHDDを搭載しています。HDDの容量が不足気味と思っていたところなので、ちょうどいい機会でもあります。
 で、今日秋葉原へ行く用事があったので、東芝の30GBの2.5インチHDD(9.5o)と2.5インチ→3.5インチ変換アダプタを買ってきました。東芝の30GBの2.5インチHDDは11,000円ちょっとでしたから安くなったものです。
 オフィスへ戻ってくると、この2.5インチHDDをデスクトップPCに接続し、とりあえずWindowsMeをインストールしました。WindowsMeはわりと豊富にノート用のデバイスドライバを持っているし、Windowsのシステムイメージも自動でインストールしてくれるので、こういう時には便利なOSです。



 で、デスクトップPCを利用したWindowsMeのインストールは無事終了しました。今度はThinkPad240のHDDとの換装です。ThinkPad240は、裏蓋の左下部分にHDDが格納されており、ネジを3つ外すだけで内蔵HDDにアクセスできます。  あとはHDDを止めてあるネジ4つとコネクタ部のネジ2つを外せば、内臓HDDを取り外すことができます。
 ここにWindowsMeをインストールした30GBのHDDを取り付けます。取り外し作業と逆の順序でコネクタを付けてネジを留めていけば、簡単にHDDの換装は終了です。



 さて、換装が終わったのでThinkPad240の電源を入れます。43Jは購入した当時にはWindows98SEの時代だったので、すぐにWindows2000を入れましたが、WindowsMeはインストールしたことがありません。だから、ちょっと心配です。果たしてデスクトップPCでインストールしたWindowsMeがThinkPad240のノート固有のデバイスをちゃんと認識できるのでしょうか?
 電源を入れると、WindowsMeが起動しました。次々とThinkPad240のデバイスを拾っています。Neomagicのディスプレイドライバも自動インストールしてくれました。
 で、4〜5回再起動しては新しいデバイスのインストールを繰り返したあげく、無事WindowsMeのインストールが完了したのです。乱暴なやり方でしたが、換装とともにリカバリーにも成功しました。予算は1万円強でした。
 ThinkPad240のHDDは12GBから30GBにアップし、快適な環境でよみがえりました。USBタイプのCD-ROMドライブを接続して必要なソフトをインストールし、LAN経由で自分のデスクトップ環境を移行しました。
 あとはXPを入れるかどうかですが、ThinkPad240は最大192MBしかメモリを搭載できないので、XPは荷が重そうです。当面はMeで行くことにしました。
 愛着のあるThinkPad240、もうしばらくは大切に使ってやります。

2002/8/9

 NTT DoCoMo「FOMA SH2101V」(シャープ製)は、実に妙な…というか、意欲的(?)な機能を持った端末です。
 通話用ハンドセットと、320×240ドットで26万色表示のフルカラーTFT液晶画面とキーボードを搭載するPDA風本体との、コンポーネント型の製品形態もユニークです。ハンドセットと本体間はBluetoothで通信、他のBluetooth機器とのデータ交換も可能、SDメモリカードスロットを搭載、MP3再生機能を備えるなど、もう「これでもかっ!」って感じで、トレンディな機能をフル装備しています。  本体にはPIMアプリケーションソフトを搭載し、電話帳、スケジュール管理、スタイラスペンを使った手書きメモ、文字入力によるテキストメモ、本体のマイクで音声を録音できるボイスメモまで装備しています。
 極め付けは、ASF形式のMPEG-4動画の撮影・再生機能を持っている点です。内蔵カメラで動画・静止画の撮影が可能なばかりか、M-stage visual対応ということで eggyやVN-EZ5等で撮影したASF動画やCE-VR1で録画したASF動画の再生もOKです。SDメモリカードスロットと併せれば、なんか面白い使い方ができそう…。
 11万8千円という定価は、「たかが電話機」として見ると「バカ高い」という評価になりそうですが、よくよく全機能を考えると、特に高いものではないかもしれません。「Bluetooth 装備のWindowsCE機+FOMA端末」を購入したって10万円近くはいっちゃうし、個々の機能に値段をつけて合計すると何だか「安い」って感じもしますね。
 私はPDAは使わないしFOMAもいらないので、個人的には何の使い途もないのですが、この手の意味不明な端末はけっして嫌いじゃありません。まあ一種の「携帯電話端末の歴史上に燦然と輝く珍品」として、お金に余裕があったら1台欲しいところです。こんなの持ってたら、けっこう自慢できるかも(笑)。でも、11万8千円も出せば、安いノートPCが1台買えちゃうしなぁ…

 もう1つニュースネタですが、「女子中学生たちの夏休み――自作するのはThinkPad!!」…これはいいですね。いや女子中学生にノートPCを組み立てさせるのが教育上いいことだ…ってわけじゃありません。そんなものどうでもよろしい。参加者是認に配布されたこの「IBM EXITE Camp 2002」 のリュックがいいですねぇ。私はプレミアム商品が大好きですから…。むろんこんなもの貰ったって絶対に使いませんけど、でも欲しいですね(笑)。

 今日の画像は、U-10で地下鉄のエスカレーターで撮影したもの。別にこの女性の後ろ姿を撮るつもりはなかったのですが、たまたま撮れちゃった「盗撮風(笑)」の画像です。顔は写ってないので、無許可で掲載させて頂きます。
 何度も書きますが、本当にU-10は面白いデジカメです。胸のポケットに入れておくと、毎日数十カットは撮っちゃいます。意味不明の画像ばかりですけど…。相変わらず女の子の画像や周囲の人間の画像が多いんですが、最近はよく食べ物を撮ります。ランチでもディナーでも居酒屋のツマミでも、もう何でも撮影してします。

2002/8/8

 ここのところ気温は高くてもうす曇り…という日が続いていましたが、今日は久しぶりに「抜けるような夏の青空」でした。で、その輝く夏空をU-10で1枚撮ってみました。池袋西口のオフィス街の光景です。

 それにしても、海に行きたいですね。葉山の森戸神社の崖下あたりでバーベキューでもやりながら、ボンヤリ1日を過ごしたい。気が向いたら海で泳いで、後は昼寝…。


 話は変わって、日ハムの牛肉偽装事件が拡大しています。まあ、「日ハムよ、お前もか!」ってところですね。それにしても、日ハムに対する非難の大合唱はすごいですね。
 日ハムへの非難の声を上げる人々の心の中には、いろんな感情が混ざっているのでしょう。むろん、日ハムのしたことは間違ってます。でも「社会正義」を振りかざすいい機会…とばかりに、必要以上に声高に社会モラルの欠如を非難する人々もいるでしょうね。
「もう日ハムの製品は買わない」と主張する人も多いですね。掲示板なんか見てると、もう「不買運動をやれ」とか「こんな会社潰せ」の大合唱です。実際に株価はストップ安ですし、マスコミの論調なんか見てても、「雪印の二の舞」となる可能性を指摘する記事も多いようです。実際のところ、「日ハム倒産」に対する世間の期待は高まっている…って感じです。
 不況で大企業が倒産した時なんかもそうです。単なる経営不振による倒産はともかく、それが何か「社会的不祥事」を起こしての倒産となると、もう世間は晒しものにしちゃいます。
 自分が大企業に勤めていない人たちは、「大企業だって倒産することがある」と、ある種の溜飲を下げるのかもしれません。「他人の身に降りかかった不幸を、興味津々と眺める大衆…」、という図式が成立しますね。TVや新聞などマスコミだって、こうした雰囲気を敏感に察知して煽ります。尊大な口調で会見に応じる経営者…なんてのは、マスコミにとっちゃ、視聴者の怒りを煽る格好のネタでしょう。それも相手が、社会的に恵まれていた大企業の社員となると、なおのことです。雪印が倒産したときなど、TVのニュースでは「失業した社員のその後」なんて特集を、散々放映しましたよね。

 前に北海道拓殖銀行や大和證券などが倒産したときも、誰もが「失業した社員が気の毒」とか言いながら、どこか「他人の不幸を喜んでいる」雰囲気を漂わせていたような気がします。都市銀行や大手建設会社なんかが倒産すると、企業社会におけるエリートが落ちぶれる様を想像して、ある種の溜飲を下げる人もいるのでしょうね。
 そうです、「他人の不幸」こそが、資本主義社会における最大のエンターテイメントなのです。血なまぐさい事件の犠牲者だって、ワイドショーでは好きなように大衆の興味の対象に料理しています。そんな風潮を苦々しく思っている人でも、「企業倒産によってエリートが落ちぶれる」というシチュエーションなら、あまり自分の良心に呵責を覚えることなく、他人の不幸を楽しめるのかもしれません。

2002/8/7

 「高校生の4割は図書館で本借りない」…という文科省調査結果を発表したニュースがありました。

 …「図書館で本を借りたことがない」「宿題や授業でしか本は読まない」という子どもがそれぞれ2割前後いて、中学・高校教師の8割は「子どもの国語の学力が低下している」と感じている――。そんな実態が、文部科学省国立教育政策研究所の研究者が行った「読書教育に関する調査」で明らかになった。児童生徒への質問では、22%はそのために図書館で本を借りたことが全くなかった。中学生はこの数字が30%、高校生は41%にも達した。「宿題や授業でしか本は読まない」は全体で18%だが、高校生は33%。「教科書より厚い本を読んだことがない」も全体では16%だが高校では23%いた。「国語の授業で本を読むのが好き」は全体で49%と半数を割った。家にある本は「20冊から100冊」が48%で一番多かったが、「1冊から10冊」も21%いた(高校生は28%)。小学4年で習う「積んだ」が書けたのは小学生35%、中学39%、高校生54%…。

 …というニュースです。こうなった原因について、「大人や教師が本を読まなくなったから」、「教師が厳しい指導をしなくなった」、「家庭教育が厳しくなくなった」などと書いてありましたが、そんな話には特に興味はありません。最近の子供の学力低下を嘆く気にはならないし、日本の子供の学力が低下しようと、その結果国力が低下しようと、この先どうなろうと…別に知ったことではありません。

 むしろこのニュースを読んで私が不思議に思ったのは、「小中高校生が、これほどまで本を読まない」という事実です。本ってすごく面白いのに、なぜ読まないのだろうか…ってことです。私は、読書が好きというよりも「極度の活字中毒者」であり、中・高校生時代から本に夢中の生活を送ってきました。でも私は、「学力を高める」ために本を読んだわけではありません。逆に、高校・大学受験の時期など勉強もしないで本を読み耽り、学校の授業中にも机の下で文庫本を読み続け、親や教師に呆れられたものです。
 私が本を読むのは、それが「何物にも代え難いほど面白い」からです。現在でもそうですが、知識を高めるために読書をしよう…などという気持ちすら全くありません。ミステリーやアクション小説、文芸小説や歴史書、文化や芸術に関連した新書、技術書…等々、面白そうな本を片っ端から読んでいるだけです。
 私は読書によって「学力が上がる」とは思いません。ただ、読書によって「自分の世界が拡がる」とは思っています。言い換えると、「人生が楽しくなる」わけです。文部科学省や教育者が、「学力を上げるために読書をさせるべきだ」と考えるのは、ピンときません。それでは、読書の本来の目的に反すると思います。
 もっと人生を楽しくするために本を読もう…、こんな感じで読書の習慣が復活するといいですね。

 今日の画像は、豊島園付近を流れる石神井川です(U10で撮影)。
 橋から川面を見下ろすと、なぜか金魚や鯉がたくさん泳いでいます。けっこう水はきれいで、冬には美味しそうな鴨でいっぱいです。春は、美しい桜並木になります。
 このあたりに古くから住んでいる人の話を聞くと、30年前は川で泳げたし、蜆(しじみ)がたくさん採れたそうです。また河原にはタヌキが住んでいたとのこと。護岸工事で岸をコンクリートで固めてしまうと、寂しい風景になっちゃうんですね。

2002/8/6

 私には昔を懐かしむ気持ち…ってのがほとんどありません。前にも書いたように、同窓会にも出たことがなければ、中学・高校時代の友人にもめったに会いません。基本的には「今を楽しむ」タイプです。
 そんな私ですが、何かの拍子にフッと昔のことが頭に浮かんでくることがあります。今日、池袋東口にある名画専門映画館「文芸座」の前を通った時に、高校時代に通った汚い映画館をなんとなく懐かしく思い出ました。
 あれは自転車で15分ほど行った繁華街にある名画座。確か3本立て150円だったと思います。あの破れかけた安っぽい椅子と、饐えた館内の匂い。ほとんど観客がいない館内の後ろの方に席に座り煙草を吸いながら見たのは、数々のアメリカンロードムービーやニューシネマの名作でした。
 高校時代に通ったと言えば、「ロック喫茶」なんてのもありました。薄暗い喫茶店の片隅でビールを飲みながらツエッペリンやクリームを聴いていた日々、今となっては懐かしい思い出です。こうした日々が、現在の私の「音楽や映画に対する嗜好」の原点となっていることは、間違いありません。

 「懐かしい話」関連のネタをもう1つ。
 ところで私には、昔を懐かしむ気持ちもないのですが、郷土を愛する気持ち…なんてのもこれっぽちもありません。何といっても国を愛する気持ちすらないのですから…。そんな私ですが、高校を卒業するまで名古屋で育ったので、時折は名古屋の街で過ごした子供の頃の生活を思い出します。昔の生活を思い出す時、必ず浮かぶのが子供の頃に聴いたCMソングです。どれも名古屋というか東海地方限定のCMソングばかりで、東京に出てきてからは一度も聞いたことがありません。
 ローカルネタですから、東海地方出身の方以外は知らないと思いますが(当たり前か…笑)、私が思い出すCMソングは、70年代に流れていたこんな曲です。

・大須ういろ
  「ぼんぼんぼ?んと、時計がみぃっつ?、坊やおやつをたべましょお…」
・赤福
  「い〜せ〜の名物 赤福餅はえ〜じゃないか…」
・すがきや
  「尾張名古屋は城でもつ〜 スープはすがきや 味でもつ どんどん」
・名古屋地下街
  「モグラのチカちゃん言ったとさ なんなん名古屋の地下八丁 名古屋地下街ナンバーワン」
・オリエンタルカレー
  「なつかしーい なつかしーい その調べ〜、エキゾチックなその香り…」

 さてさて、実につまらない話を書きました(笑)。でも、上記のCMソングのWAVファイルかMP3ファイルを誰か持っていないでしょうか?
 最後の「オリエンタルカレー」のCMソングだけは持ってるんですが…

2002/8/5

 今日はクイズを出します。問題は「『広告付きのお札』はビジネスモデルとして成立するか?」…です(笑)。

 市中に流通している「お札」に広告を印刷する…、冗談で昔から何度も考えたことがある広告モデルです。だって、印刷媒体としてはこれほど身近で大量に発行されているものはないし、広告の効果は高いはずです。1万円札に「ローンは武富士」とか「給与振込みはみずほ銀行へ」…なんて印刷してあったら、けっこう面白いと思いませんか?

 しかし、ビジネスレベルの広告モデルを考えるとなると、これが非常に難しい。まあ、一種の「頭の体操」のような感じです(?)。

 最初に考えたのは、広告主が一定の払い戻しを行う形です。わかりやすく言うと、広告付き年賀ハガキと同じく、「広告付き千円札は千円より安く入手でき、市中では千円として使える」という仕組みです。例えば、千円札に消費者金融会社の広告を印刷したとしましょう。消費者金融会社は、千円札1枚につき1円の広告料を払うことで、広告入りの千円札を999円で入手できるようにするのです。銀行の窓口に、1千万円を持って行き「これを広告付き千円札と交換して下さい」と言うと、約1万10枚になり、約1万円分が「お得」になるというものです。
 ただし、こうして999円で両替した広告付き千円札は、市中でモノを買うのに利用することが条件になります。広告付き千円札を一度も使わずに銀行で預金する時には、999円の価値にしかなりません。そうしないと、Aという銀行で999円で両替してBという銀行で千円として預金する…ということを繰り返したら、何もしないでお金が増えていってしまいますから…
 でも、単純に「広告付き千円札は999円でしか預金できない」とすると、別の問題が生じます。広告付き千円札を使われた商店は損をする…ということになるのです。だって、広告付き千円札で千円の商品を売り、その売り上げを広告付き千円札のままで持っていっても、999円にしかならないのですから。
 こうなると、次のことを証明する必要があります。あるお札が「市中で必ず一度は使われたこと」を証明する…仕組みが必要です。こうしたお札については、銀行は広告付きお札であっても千円の価値で預金を受け付ける…というのはどうでしょうか?


 …と、ここまで読まれたヒマな方は、「どこか話がおかしい」と思われてますよね。そうです、この話はすごくヘンなのです(笑)。
 じゃあ「広告付きのお札」を流通させるビジネスモデルとして、どんな仕組みが考えられるでしょうか? それが今回の問題です。考えていると面白いですよ(…そんなわけないか…)。

 ちなみに、現在流通している紙幣の枚数ってご存知ですか? 全紙幣の半分以上を1万円札が占め、約55億枚だそうです。次いで千円札が28億枚、5千円札が3億7千万枚。そして2千円札が2億枚程度とのことです。こんなにたくさんお札が流通しているのに、なぜ私の財布の中には少ししか入っていないのでしょうか? 不思議です。

2002/8/4

 日曜日だというのに、今日も朝からオフィスで仕事。むろん土曜日の昨日も深夜まで仕事。もう何ヶ月も週末をまともに休んでいないのですが、今月に入って特に半端じゃなく忙しい。コンサルティング関係のレポート作成、手をつけていない依頼原稿のライティング、9月発刊予定の単行本の原稿…等々、既に締め切りを過ぎた仕事や締め切り間近の仕事が山のように溜まっています。こうなるともう、淡々と仕事をやり続けるだけです。夏休みなんて、絶対に取れそうにありません。
 外はムチャクチャに暑くて歩いているとグッタリするし、冷房の効いたオフィスで座り続けているのも寒くてけっこうつらい。ペットボトルの冷えたお茶ばかり飲んでいるから、お腹に力が入らない感じです。

 せめてお昼ご飯ぐらいしっかり食べて体力をつけようと、スタッフと中華料理を食べに行ったのが、この写真です(U-10で撮影)。オフィスの近くの中華料理店のランチなんだけど、800円(コーヒー/デザート付き)の割には美味しくなかったですね。

 で、今夜も帰宅が何時になるかさっぱりわからない。というよりも、帰宅できるのかどうかも不明。仮に帰宅したとしても、自宅でもパソコンに向かって仕事をやり続けなきゃなんない…ああ、もうイヤって感じです(笑)
 でもまあ、仕事をとったのは自分だし、受けた仕事を落とすのは本意じゃないので、やるっきゃないですね。あきらめの心境です。帰りがけにビールを一杯飲んでいくのが、最近の唯一の幸せです。

 …ああ、支離滅裂な愚痴を書いてしまいました。…どうもです。

2002/8/2

 大量発信による輻輳を起こしたワン切り業者への対応で、NTTがアタフタしています。NTT東日本と西日本は、改定約款の認可を総務省に申請しているそうです。それにしても、ワン切りぐらいで何を騒いでいるのかよくわからない部分があります。
 当たり前の話ですが、電話の発信回数に制限なんかありません。一定時間にどれだけ発信しようと電話料金を払っているのだから、別に何も悪くないわけですよね。それどころか、大量に電話を発信してくれる業者は、NTTにとっては大事な顧客ということになります。料金を払ってくれる限り、電話をたくさん掛ける顧客は規制の対象どころか、NTTの方からお中元でも持っていきたいような顧客のはず。要するにNTTは、コンピュータを使って短時間に大量発信する…という「ビジネスモデル」の登場を予想できなかっただけのことです。
 まあ、朝から晩まで電話をかけ続けているコールセンターのようなサービスもあるわけで、時間当たりの発信回数にどのように制限をかけるのか、見ものですね。

 …と、適当な話を書いていたらBBSの方で「ワン切りは料金がかからない」との鋭いご指摘を受けました(笑)。確かにそうですね。
 それで私が思い出したのは、「電話の呼び出し音の回数で家電製品を制御する」というシステムを開発した会社のことです。何年か前にこうしたシステムを発表した会社は「違法な電話の利用」ということで、NTTから訴えられたような気がします。また、プッシュホンの「ピッ、ポッ、パ」というDTMF音(二つの周波数の音を合成した音)の組み合わせで何かを制御する…というシステムもけっこうありますよね。皆さん、こういうシステムをよく考え付くものです。

 ワン切りと言えば、こんな話もありますよ。結局コールバックの料金でNTTは儲けてるんだなぁ…。輻輳さえなければ、放置した可能性もある…かもです。

 ところで、それよりもっと解らないのは「ワン切りは迷惑だ、規制しろ」と騒いでいるユーザーの方です。私の携帯電話にも毎日2〜3回のワン切りが着信していますが、別にそれで困ることなど何もありません。発信先がわからない電話に対して絶対にコールバックなんかしないし、仕事や私生活の上で重要な相手の電話番号は当然メモリに入っているので、掛かってこれば相手の名前が出ます。重要な用件の電話を相手がたまたま公衆電話から掛けてきたとすれば、何度も呼び出すはずなので、当然こちらも出ますよね。普通に考えると、ワン切りなんて無視すればいいだけで、別に迷惑でも何でもありません。

 このワン切り騒動に加えて、迷惑メールの問題も相変わらずニュースを賑わせていますね。総務省は「迷惑メール法」のような利用者保護の法案づくりの検討を始めたことを明らかにしました。
 この迷惑メールの問題も同じです。そんなに騒ぐようなことじゃないし、ましてや国が規制に乗り出すようなことじゃないですね。パソコンのメーラーだったら、別に大量の広告メールが来てもどうってことないし、事実私が使っている5〜6個のメールアドレスには、合計すると毎日数十通の広告メールが来ます。嫌なら、ソフトにフィルターかけて、適当なフォルダに放り込んでおけば問題はないと思うし、本当に重要なアドレスは連絡用だけに使うので、広告メールは来ません。
 携帯電話の場合は、メール受信に課金することがおかしいのであって、広告メールが悪いわけではありません。その上で広告メールなんて、自由に発信させるべきです。

 むしろ私が気になるのは、こうした問題が起こると、自分で技術的に問題を解決しないで、やたらと「法規制をすべき」と声高に訴える人がいることです。こういうユーザーの存在が、結果的に国家権力による「統制強化」を招き、不自由な社会を作っていくような気がします。
 何でもお上に「何とかしてくれ」という言うのは、いい加減にやめましょう。
 景気が悪いと政府のせいにするなんて、とんでもない話です。自分でビジネスやライフスタイルを工夫することが基本であり、まず国に頼るのは何かがおかしい。どうしても政府の政策がガマンできなかったら、そんな国は出て行けばいいだけのことです。

2002/8/1

 平和が戻ったはずのアフガニスタンでは、民族間の紛争が絶えません。旧ユーゴの紛争の例を挙げるまでもなく、旧コンゴ、ソマリア、スリランカなどで現在進行している紛争は、全て民族間の争いです。
 加えて宗教の違いによる国家間の軋轢も、中世の時代とたいして変わらない状況にあります。カシミールやパレスチナをはじめ、何よりもキリスト教世界とイスラム世界の軋轢は、さながら中世のようです。洋の東西間の文化的軋轢、ヨーロッパ文明と非ヨーロッパ文明の軋轢もそのままです。
 ヨーロッパにおける極右勢力の伸張や旧ユーゴのミロシェビッチの行動などを見ればわかる通り、一部の人間が権力を維持するために民族的ナショナリズムや宗教対立を煽っている…という現実についても認識すべきでしょうがが、それにしても人類は愚かです。「異文化」すなわち、異なる文化集団の習慣や風俗を認めない点において、人類は中世と同じどころか、はるか昔、樹上で生活していた動物であった頃とほとんど同じ行動をとっているようです。
 人類は本来、多様性を認める生物なのかどうかという点を考えると、悲観的にならざるを得ません。人間の本質は「多様性の拒否」にあるのかも…と考え込んでしまいます。

 さて、個人的には、文化、行動規範、生活様式、価値観などの面で「人間のあり方に多様性を認める」ことを是とする生活を送ってきましたが、現在おかれている世界の状況を見る限り、そうした考え方はむしろ少数派です。
 「多様性を認めること」と簡単に言ってしまいましたが、実はここにもやっかいな問題があります。「多様性を認める」ことと「全てを認める」ことは違うからです。つまり、多様な生活様式を認めるからと言って、現代において食人の習慣を認めるわけにはいきません。多様な宗教を認めるからといって「オウム」のような宗教の存在を認めるわけにはいきません。つまり「多様性を認める」という言葉の裏には、何らかの「原理原則」が必要だからです。
この原理原則が人によって異なるからこそ、問題や軋轢が起こります。
 例えば、「自分は多様な価値観を認めるが、『他人に対する暴力』だけは認めない」という人もいれば、「一定の条件下では暴力は認められる」という人もいます。こんなつまらない話が、教育現場における体罰論争のような形で表面化し、意見を戦わせることになります。体罰論争程度のような個人レベルでの価値観の差なら大いに議論すればよいのですが、この原理原則が国家の方針にまで拡大すると、不気味なことが起こります。
 例えば大国アメリカは、認める国家のあり方について「民主主義政体」であることを原理原則としています。そこで、「イラクは民主主義政体ではないから武力で攻撃して政権を転覆するべき」という論理を「正義」と言います。私は、民主主義なんてものはどうでもいいので、アメリカの言っていることは理解できません。
 要するに個人や集団によって、認めるものの範囲になんらかの限界があり、それがその人にとって「譲れない一線」とか「ポリシー」とか言われるものになっているのです。その違いが、また争いを生むということになります。
 さらにもうひとつ、やっかいなことがあります。「多様性を認めることを原理原則とする」あまり、多様性を認めない人に対して暴力的に振舞う…という本末転倒の行動をとる人々がいます。G8のような国際会議が行われるたびに、グローバリゼーションに反対し多様性のある世界を理想とするNPOの人たちがデモを繰り広げます。このデモは、時に暴力的なものとなって荒れ狂います。考えてみれば、「多様性を認めるか否かで争う」というのも、皮肉な話です。「多様性を認めない」というのも、ひとつの価値観なのですから…

 さて、昨日は身内に不幸があり、仕事がメチャメチャに忙しい中、こういう突発的なこともあるんだとあきらめの境地で私事をこなしてきました。関東地方の最北部まで、片道3時間半ほどの距離をクルマで往復したのですが、夜の高速道路に流れる車のテールライトを見ながら、いろいろなことを考えました。夜の高速道路で、こんな話を堂々巡りで考えているのも悪くないかもしれません。

 今日の画像は、ベランダのサボテンです(U10で撮影)。このサボテンは、自宅の近くの駐車場の隅に捨ててあったのを拾ってきたものです(笑)。アスファルトの上に小さなサボテンが数本、鉢もなく転がっていたので、なんとなく拾って植えておいたら、立派に育ちつつあります。
 サボテンというのは、日本では可愛そうな植物です。面白半分に買ってきてそのまま放っておかれ、そのうちに枯れたり捨てられたりすることが多いようですね。もっとサボテンを大事にしましょう。



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