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ロック遺産   〜サンフランシスコ編

 ロックには「聖地」があります。「聖地」という言い方はよくないですね、何か盲目的にロックを信仰しているみたいで…。言い換えましょう。ロックには背景となるサブカルチャーが隆盛を見たいくつかの記念碑的な場所があります。「ロック遺産」とも言うべき土地です。例えば、メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、サンフランシスコ、シアトル、フィラデルフィア…そしてロンドンなどです。
 私はロックが好きなので、アメリカを訪れたときにこうしたロック遺産を訪ねることがあります。どの街もただの「遺産」ではなく、当時のサブカルチャーの雰囲気をよく残した街であるばかりか、現在でもサブカルチャーの中心地であるところが多いですね。  それらの場所の中で今回は、私の好きな街の1つであるサンフランシスコについて、ロック遺産を中心にその印象を語ってみましょう。


サブカルチャーの街

 御存知の通り、サンフランシスコは西海岸の穏やかな港湾都市です。またアメリカ有数の観光都市なので、フィッシャーマンズ・ワーフやゴールデンゲート・ブリッジなどを訪れた方は多いと思います。  古くから移民の街であり、アメリカのトラディショナルな伝統にとらわれない自由な雰囲気を持っていました。60年代には、このサンフランシスコを中心に「ヒッピー・ムーブメント」が起こり、「ラブ&ピース」を歌うサイケデリックサウンドとともに世界を動かすサブカルチャーとして広がっていきました。
 また、サンフランシスコの近郊にあるバークレーには、西海岸における学生運動やベトナム反戦運動の中心地となったUCLAバークレイ校があります。そしてサンフランシスコ湾に沿って南下すると、1970年代以降のコンピュータ文化の発祥の地となったサンノゼの街があります。現代のサブカルチャーとしてその地位を確立した、パソコンやインターネットが媒介するニューエイジのコミュニケーション文化は、このサンノゼにあったゼロックス社のパロアルト研究所やスタンフォード大学で生まれました。そして、今もここには世界のコンピュータ文化の中心地であるシリコンバレーが存在します。  このサンフランシスコには、3つの大きな「ロック遺産」があります。

ヘイト・アシュベリー

 まずは、ヒッピー・ムーブメントの聖地として知られるヘイト・アシュベリー(Haight Ashbury)地区です。ゴールデンゲート・パークにもほど近いヘイト・アシュベリーは、現在でもヒッピームーブメントの残滓を遺した街です。
 Haight通りとAshbury通りの交差点近くにはグレートフル・デッドが住んだビクトリア・ハウスがそのまま残っています。ニルヴァーナが訪れた診療所(漂白という曲のきっかけになった)なんかもあります。
 私は、夕暮れ時にヘイト・アシュベリーを散歩するのが大好きです。

フィルモア・ウェスト

 次は、フィルモア通り(Fillmore St)です。ユニオンスクエアからバスで15分ほど行った「ジャパンタウン」の近くです。ここには、かつて「フィルモア・ウェスト」というライブハウスがありました。60年代のアメリカのサブカルチャーを担ったライブハウスとしては、ニューヨークにあったフィルモア・イーストと並んで有名な場所です。ビル・グレアムが始めたこのライブハウスは、71年に幕を閉じるまで幾多のロックシンガーによるライブが行われましたが、中でも名高いのは「フィルモア最後のコンサート」でしょう。
フィルモア・ラストコンサートというアルバムは、フィルモア・ウェストのクロージング・ライブの模様と、伝説のプロデューサーであるビル・グレアムの記録を収めたもの。出演したのはグレイトフル・デッド、ボズ・スキャッグス、サンタナ、ジェファーソン・エアプレインなど、そうそうたるメンバーです。
 同じフィルモア・ウェストでは、1969年にレッドツェッペリンの伝説的なコンサートも行われました。「ZEPPELIN EDIFACE」というライブアルバムは、彼らの最高傑作の1つです。

ウィンターランド・ボールルーム

 そしてもう1つは、ウィンターランド・ボールルームです。ザ・バンドの解散コンサート「ラストワルツ」は、1976年にこのウィンターランド・ボールルームで行われました。コンサートの開始にあたって彼らは「始まりの終わりの始まり」と言ったのは、まさにロックの時代の…と言いたかったのでしょう。  サ・バンドのラストコンサートに駆けつけたゲスト・ミュージシャンはボブ・ディランをはじめ、ウッドストックの女神であるジョニ・ミッチェル、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ニール・ダイアモンドブルースの王様マディ・ウォーターズやヴァン・モリソン、Dr・ジョン、ロニー・ホーキンスまでが登場。さらに、ビートルズのリンゴ・スター、ストーンズのロン・ウッド、カントリーのエミルー・ハリスなども出演しています。ソウル、ブルース、ジャズ、フォーク・A様々な音楽形態が渾然一体となった「ロック」という音楽の本質がここにあります。
 また、ウィンターランド・ボールルームでは、セックスピストルズの伝説のラストコンサートやジミ・ヘンドリックスとエクスペリエンス、ジャニス・ジョプリンのライブなども行われました。

ロック遺産  〜ニューヨーク  CBGB編

 NYパンク発祥の地として名高い「CBGB OMFUG」は、ニューヨークに行く機会があれば必ず立ち寄るクラブです。最初に訪れたのは1970年代の後半頃で、まだ「ニューヨークパンクの聖地」の名残があった時代です。
 次に訪れた1980年代の半ばには、70年代のニューヨークの文化を語る場所の1つとして、一種の観光地化しつつありました。それでもまだ周囲の街の雰囲気は、ニューヨークがサブカルチャーの拠点であった時代の雰囲気を残していました。
 現在は、ただの「うらぶれ、観光地化したクラブ」に過ぎません。でも、70年代からこのクラブに足を運んでいる私は、つい足が向いてしまうのです。
 さて、CBGBで事実上のデビューを果たしたのは、パティ・スミス(先日のフジロックで元気なところを見せてくれました)、テレヴィジョンなど伝説のパンクバンド達で、70年代の初めにはトーキング・ヘッズなんかも出演していました。


CBGBで過ごす夜

 CBGBは、Boweryに面して、CanalとHoustonの中間にあります。地域的にはSOHOの東、イーストビレッジとチャイナタウンの中間あたりになるでしょうか。一番近い地下鉄の駅はspringだったと思います。CBGBの周辺は、1980年代の半ばまでは殺伐とした場所でした。Boweryは「酔っ払いの街」と言われ、歩道には割れた酒瓶が散乱し、夜になるとドラッグの売人が至るところに立っていたものです。最近は、Boweryのかなり北のほうまでチャイナタウンが侵食しつつあり、夜SOHOあたりから歩いてきても、それほど怖い思いをすることはありません。
 CBGBにはいつも、まだガラガラの7〜8時頃に訪れます。出演するバンドによってチャージは変わりますが、まあウィークデイなら5〜7ドルぐらい。適当な場所に座って、ビールを飲みながらボンヤリと時間を過ごします。この時間帯は無名のバンドが演奏していることが多いので、気に入れば耳を傾けましょう。
 夜も9時頃になるとお腹が空いてきます。そうしたら、いったん店を出てBoweryを渡りイーストSOHOで腹ごしらえです。CBGBの食べ物は不味いので、外に出て食べた方が無難です。
 食事が済んだら、またCBGBに戻ってきます。CBGBは、入るときに手の甲にスタンプを押してくれるので、入り口でそれを見せれば、何度出入りしてもOKなのです。
 夜も更けてくると、少しづつ混んできます。隅のテーブル席に陣取ってビールを飲みながら、パンクバンドを聞くのは至福の一時です。目を瞑ると、舞台では若い頃のパティ・スミスが歌っているような幻想に襲われます。ここは、70年のニューヨーク…

ロック史上に特筆すべき70年代

 70年代は、異議申し立て運動の余波が続く中、「その発展史に基づく文化的な純粋さ」を継続しながら、ロック史に残る高い完成度のアルバムが多くのバンドからリリースされました。またロックの文化的な背景を全く持たない「産業ロック」が登場したことでも、特筆すべき年代です。
 60年代末までのロックには、文化的、音楽的な必然性がありました。70年代に入るとともに、そうした60年代のピュアなロックスピリッツを継承したバンド以外に、音楽面で独創的な試みを追及するバンドが多数登場したのです。中には「これがロック?」と首を傾げるようなスタイルと楽曲を特徴とするバンドも登場しました。
いずれにしても、音楽産業全体の中におけるロックの位置に明確な変化が現われました。「ロックは金になる」ということに多くの人々が気付いたのです。そしてこの事実を、ミュージシャン側よりも音楽を送り出す側がより強く意識し始めたのが、「産業ロック」登場の要因となりました。
 しかし、こうした音楽産業全般の動きとは裏腹に、サブカルチャーを背景とする純粋なロックもまた、発展していったのです。70年代はまさに、ロックの2面性が顕著に現われた年代でした。

70年代のニューヨーク

 70年代初頭においてはベトナム反戦運動が依然として高まりを見せていました。主にウェストコーストでは、反戦・平和を表現するためのロックが、60年代末期からの隆盛を続けていました。
 こうした状況の中、「物質から精神へ」という文化が最初にロックの形で表現された始めたのは70年代の初めです。それが「ニューヨーク・パンク」の登場でした。60年代末から70年代初めにニューヨークのイーストビレッジに登場した「パンク」は、詩人のアレンギンズバークや、小説家のケルアック、アートのアンディ・ウォホールらによるビートニクス・ムーブメントを背景にした、極めてスピリチュアルなロックです。ビートニクスこそは、現代に通じるスピリチュアルな人間探求の試みでした。また、アートからファッションまで、ライフスタイルへのメッセージを含んでいた点において、非常に「ロック」の本質に相通じるのを持っていました。ニュージャンルの音楽として商業的に成功したかという点はさておいて、多くの人に影響を与えたサブカルチャーそのものであった点では、まさしく「ロック」でした。

ロンドンパンクとの比較

 ところで、この「NYパンク」と対比される存在に、セックスピストルズに代表される「ロンドンパンク」があります。
 「セックス・ピストルズ」の結成とパティ・スミスのデビューはほぼ同時期ですが、例えばNYパンクの代表的な存在であるパティ・スミスとピストルズを同じ「パンク」という枠でくくるには違い過ぎると思います。ピストルズは最初から一過性であり、音楽的ではありませんでした。パティ・スミスに代表されるNYパンクは、もっと内省的で、音楽的で、詩的です。彼女は若い頃からドアーズ、ベルヴェット・アンダーグラウンドが好きだったというのも納得できます。で、最初は詩を書いて朗読のライヴをしていましたが、ある時ギターをつけて朗読したのが後のバンド結成のきっかけとなりました。彼女はいまも活動し、アルバムもマイペースで出しています。ドラッグの行き過ぎで死んだシド・ヴィシャスを「あれこそパンクだ」と神格化するファンもいますが、セックスピストルズにはなんら文化的・精神的な背景が存在しませんでした。事実セックス・ピストルズは、NYパンクの「スタイル」だけを意図的に模倣した部分があります。
 1960年代後半のニューヨークにおいて、アート・シーンと密接な関係をもっていたルー・リードとジョン・ケールが中心となって「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が結成されました。彼らのサウンドはウェスト・コーストのサイケデリックとはなり、ヘロインの影響が大きく、退廃的・自虐的であり、人間社会のタブーを丸裸に描いたものでした。このアートと音楽との融合のカルチャーは商業的には成功はしませんでしたが、後の音楽シーンを含めたカルチャーに多大なる影響を与えました。元ヴェルヴェットのジョールのプロデュースによってニューヨーク・ドールズが生まれました。そして、元テレヴィジョンだったリチャード・ヘルのファッションがセックス・ピストルズに真似されたのです。
 ただ、ピストルズの後にはストラングラーズ、クラッシュ、エルヴィス・コステロなどが登場しました。彼等がイギリスの若者に支持された背景には、当時のイギリスは大変な不況下で、失業して社会、政治に不満をもった若者が見えない明日に不安と怒りをもっていた…という状況があります。彼らの怒りは70年代の後半に商業主義化が進んだ既存のロックに「ノー」という言葉を叩き付けたのです。こうした社会背景を持ったサブカルチャー・ムーブメントであった点において、NYパンクとは質的に異なるものの、「ロック」と呼んでもよいものだったかもしれません。

My Favorite Rock Mujic

 「ロックは理屈じゃない!」というフレーズは文句なしに正しいと思います。ただし「ロックは…」と言う部分を、「ラップは…」に替えても、「ヒップホップは…」に替えても、「ソウルは…」に替えても、「ジャズは」に替えても、「演歌は…」に替えても、その後に「…理屈じゃない!」と続くのは同じです。要するに「音楽は…全て理屈じゃない」と思います。自分が好きな音楽、自分が何かを感じる音楽を聞けばよい…それだけです。でも私は、ジャズよりも演歌よりもロックに何かを感じるし、ロックが大好きです。
 …となると、自分が好きな音楽である「ロック」とは何を指すのか、明確にしたいと考えてしまいます。
 さてロックは、4つの面から定義することができると思います。「音楽様式」、「文化」、「演奏技術」、そして「自分との関わり」です。


1.ロックの精神性

 ロックについて語るとき、よく「ロック固有の精神性さえあれば、どんな音楽でもロックだ」…と力説する人がいます。よく言われるのが「ロック魂」なんて言葉です。
 私は、ロックという音楽の定義に「単純な精神性」を持ち込むことは、誤った考え方だと思います。なぜなら、「ロックに固有の精神性」なんてものは、定義のしようがないからです。
 ロックにとって「スピリチュアルな部分」は、必要条件ではあることは確かです。しかし、「スピリチュアルなものは全てロック」ではありません。要するに、多くの人がロックの必要条件として挙げる精神性は、ロック以外の音楽ジャンルでも発露され得るものだからです。
 さて、その必要条件であるところのロックの精神性とはいったいどのようなものでしょうか? 私があまり好きではないカリスマ的ロック評論家の渋谷陽一は「ロックとは自らと周りの世界との摩擦係数のようなものだ…」と言っています。この言葉の是非はともかく、まあ誰に聞いても、だいたい似たような答えが返ってきます。「ロックは自己と社会との矛盾が表出したもの」…といった類の解答です。要するにロックの精神とは、「自由」とか「反逆」とか「純粋な自己表現」とか「情念の吐露」とか…、必ずそれに近い言葉で表されます。で、それ自体を正しいとしても、逆にこういった「自由」「反逆」という言葉に精神性を持った音楽がロックとは限りません。自己と社会の矛盾を「ロック以外のジャンルの音楽」にぶつけるミュージシャンもたくさんいます。ラップミュージックなどは、まさにその代表でしょう。
 むしろ、世界中の大衆音楽は全て似たような精神性を持っていると言ってもよいでしょう。特にプリミティブな民俗音楽などは、その民族の生き方や世界観に根ざした、深い精神性を持っている例がほとんどです。従って、「ロックは高い精神性を持っている」ことは事実でも、「高い精神性を持っていれば全てがロック」ではありません。
 では、「自らの追求する音楽に対する高い志」を持って地道なライブ活動を続ける現代日本のインディーズのグループは、ロックの精神性を持っているのでしょうか? 確かにロックの「一要素」は満たしています。しかし、高い志を持って地道なライブ活動を続けているのは、ロックバンドだけではありません。ジャズや演歌の分野でも同じような活動を続けるミュージシャンはたくさんいます。となると、こうした「精神性」の部分でもロックをあらためて定義する必要がありそうです。

2.音楽様式的な定義

 ロックの音楽様式的な定義は比較的簡単です。「ブルース(4拍子の2拍目と4拍目にインパクトがある)から派生したオフビート音楽」というものです。エイトビートが典型的なロックビートですが、変形のビートを持つロックも存在します。
 ただ、この音楽様式的な定義については、非常に明快ではあっても、かなり幅が広いことは確かです。極端な話、現代のポップスや歌謡曲において「オフビート音楽」は1つの主流です。それどころか、エイトビートの歌謡曲もたくさんあります。最近のヒット曲を聴いていると、演歌を除くヒットポップスの大半はエイトビートって感じですね。従って、音楽様式面での定義は、「ロックとは何か?」を決定する要素にはまったくなり得ません。
 余談ですが、日本人は伝統的にオフビート音楽に馴染んでいません。日本の伝統的な音楽はオンビートだからです。逆にアフリカの民俗音楽なんかは、たいていオフビート。こんなところにも、「ロック向きの民族」っていうのがあるのかもしれません。

3.文化的な定義

 ロックを定義するにあたって「音楽様式」は、単なる必要条件に過ぎません。音楽様式や演奏形態で判断すると、ジャニーズ事務所のTOKIOは「ロックバンド」になってしまいます。しかも、ファンの高い支持を得たロックバンドってことになります。
 前述した理由から、「精神性」を持ち込むことも間違いです。これまた単なる必要条件に過ぎません。またロックの定義に「商業性」を持ち込むのも曖昧です。「感性」は個人によって相違があります。「活動形態」もまた定義にはなり得ません。ましてや「ファンの支持」や「観客との一体感」などはロックの定義とは無関係です。演歌でもジャズでもクラシックでも、優れた演奏はごく自然に観客との一体感を作り出します。例えば渋谷のライブハウス「ジァンジァン」で永年続いた高橋竹山の津軽三味線のコンサートなどは、陶酔する観客に支えられたものでした。人気演歌歌手のコンサートで陶酔して聴き入る中年女性の姿だって、よく見かけます。
 では、いったい何が「ロック」と「他のポピュラー音楽」を区分し、定義するのでしょうか?

 ロックという音楽には、「サブカルチャーまたはオルタナティブカルチャーを表現する音楽」という定義が加えられるべき…というのが私の考えです。ロックという音楽がその発生から現在までに歩んできたプロセスは、こうした文化的な定義でかなり明確に説明することが可能です。むろんこうした文化的な定義に加えて、音楽様式や精神性についての必要条件を満たしたものをロックと定義するのは言うまでもありません。

 この文化的な定義は、ロックという音楽の特徴を考える上で最も重要な問題の1つだと考えます。
 ロックは「個人の精神」ではなく「時代の精神」が生み出した音楽でした。つまり、誕生に必然性があったわけです。また、ロックという音楽が大衆に支持されるに至った背景には、ある時代の文化が育んだ社会現象が存在したと考えられます。
 そしてもう1つ重要なロックの定義に「普遍性」があります。時代を超えた普遍性を持つものだけが「ロック」というジャンルに加えられます。従って、ロックという音楽には「時代区分による良し悪し」は存在しません。つまり、「70年代のロックがよかった」といった言い方はあり得ません。ある時代が生み出したサブカルチャーの表現としてのロックは、そのサブカルチャーの内容によって異なったメッセージ性を持つと思うからです。だから、「70年代のロックが最高」、「いや60年代のロックこそが最高」…というのはバカげた主張です。80年代にも、90年代も、そして21世紀に入った現在でもロックは存在します。ただし、ロックが存在するのは「既成の文化に対するカウンターカルチャー」が存在する場所に限られます。

4.音楽的完成度と普遍性

 音楽としての普遍性(完成度)は重要な問題です。そして、音楽が時間を超えた普遍性を持つためには、演奏技術が大きな意味を持ってきます。つまり、「高い音楽的完成度とそれを支える演奏技術を持つ作品だけが普遍性を獲得し得る」のです。
 音楽的な完成度は、曲、詩、演奏技術という3つの要素によって決まります。稚拙な楽曲(曲や詩)が、長く人に愛され続けることはありません。完成度の低い楽曲では、普遍性を持ち得ないのです。
 「演奏技術」とはテクニックのことですが、感動を呼ぶためには「最低限の水準」があります。別にこれはロックに限ったことではなく、全ての音楽分野に共通する話です。いくら鋭い音楽的感性を持っていようと、技術的に下手な音楽は論評の対象から除外されます。むろん、いくら高度な演奏テクニックを持っていても、ダメなものはダメですが…。ただし、「ロックにおけるテクニック」は、クラシックやジャズなどと較べてかなり敷居が低いことは確かです。
 また最近はスタジオ録音技術やミキシング技術、デジタル音声処理技術が非常に進んでいるので、演奏が下手かどうかは、CDを聴いただけではわからないケースも増えてきました。とは言うものの、素人が聞いてもわかる程度の稚拙なギターの演奏技術で「プロ」と称しているバンドが存在することも確かです。また、オフビート音楽であるロックに関しては、リズムセクションとベースの重要性は非常に高いはずです。たまにライブなどを聴きに行くと、ビートを完全に「ハズしている」バンドを時々見かけます。少なくとも、こうしたレベルの音楽をロックと呼ぶことはできません。

5.商業性とポピュリズムの問題

 さて、ロックの定義を語るとき、「商業性の有無」も話題になります。まあ、プロミュージシャンとして食べていくためには商業性を無視できませんから、商業性の有無で判断するわけではないでしょう。それにしても、過剰な商業主義はロックの精神性を汚すと考えるロックファンは多いようです。  要するに「売れる音楽を志向する」のか、「自ら信じる音楽を売る」のかの違いでしょう。これは大衆に迎合するかどうか、すなわち「悪しきポピュリズム」に陥るかどうかという問題です。
 現代はマーケティングの時代です。どのような音楽が売れるのか…については、綿密なマーケティングによって、かなり正確に掴むことができます。要するに「売れる音楽」を意図して創り出すことが可能です。少なくともこうして創り出された音楽は、例え様式面でロックに近い音楽ではあっても、ロックとは言えないかもしれません。
 しかし、この商業性の判断は極めて難しいものです。商業性とロックの問題を語るとき、必ず話題に上るのはビートルズです。ビートルズは、他に類をみない商業的な成功を収めたが故に「ロックの精神を失った大衆迎合型のポップス」と罵倒されることすらあります。確かにビートルズは、「大衆が要求する音楽」をよく知っていたようです。「自らが追求する音楽」だけを続けていたら、ここまでの商業的な成功を収められなかったかもしれません。しかし、ポップス史、ロック史にビートルズが果たした影響については、少なくとも「音楽様式」面では極めて大きなものです。なおかつビートルズを「ロックバンド」と呼ぶべきかどうかは、非常にデリケートな問題です。
 ところで「産業ロック」という言葉を造語したのは、確か渋谷陽一でした。この「産業ロック」はおそらく1970年代に始まります。

6.ロックの歴史

 さて、ロックは「サブカルチャーを表現する音楽」という定義を証明するためには、簡単にロックの歴史を辿る必要があります。個人的に知っている範囲で、ロックとその背景となる文化の関連を、年代ごとにまとめてみました。

(1)序章

 実は「ロック」という言葉の起源については、かなり明確にわかっています。音楽業界で初めて「ロック」という言葉が使われたのは、1951年にオハイオ州のDJであるアラン・フリードがR&Bなどの黒人音楽を「ロックンロール」と個人的に名付けたことに始まります。…ということは、そもそも「ロック」という言葉は「リズム&ブルース」そのものを意味する言葉として生まれました。
 また、音楽様式としてのロックの誕生経緯も明確です。ロックが生まれたのはアメリカ南部の街、テネシー州の州都メンフィスです。ロックの直接の母体となった音楽はブルースです。ブルースの父と呼ばれたW.C.ハンディ(1873-1958)は地元メンフィスで最も愛されたアーティストの一人でした。
 南北戦争後に生まれた黒人の音楽、しかも強いて言えば「黒人のダンスミュージック」に近い存在であったブルースが、第二次大戦後の公民権運動と黒人の自己確立運動の高まりのなかで、音楽に主張を込めたソウル・ミュージック、すなわちリズム&ブルース(R&B)へと発展し、そのR&Bがさらにオフビート音楽としての洗練性を加えて現在のロックへと変質してきました。具体的には1960年代前半のことです。
 チャック・ベリー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノやボー・ディドリといった黒人達によって演奏されたR&Bが人気を集め、更に映画『暴力教室』に使われたビル・ヘーリー(1925-77)の「Rock Around the Clock」が世界的なヒットとなり、新しい音楽としてロックという言葉が浸透していきました。そしてロカビリーとしてロックを広めていったエルビス・プレスリーによって、ロックは広く白人の間にも受け入れられていきました。

(2)60年代のロック

 60年代は「音楽様式としてのロック」が確立した年代であり、またロックという音楽が誕生するために必要であった「サブカルチャー」が世界的な隆盛を見せた年代でもあります。
 サブカルチャーの背景には、60年代に世界的に高揚した「異議申し立て運動」がありました。60年代は、あらゆる面で「ロック」という音楽にとって最も重要な年代でしょう。
 1960年代は、アメリカを中心に既成の権力構造に対する意義申し立て運動が高まりを見せました。黒人解放・公民権運動、女性解放運動、同性愛者解放運動など、差別や抑圧のない新しい文化への夢が膨らんだ時代です。さらに泥沼化するベトナム戦争に対して反戦運動が加わりました。これらの異議申し立て運動は、政治権力を奪取するための闘争である以上に、新しい主体を獲得し、主流文化にとって変わる新しい文化を作るための闘争であった点に注目すべきです。新しい主体と新しい文化を求める声は、音楽分野において「ロック」という表現方法で表出したのです。
 ところで、私は1960年代の半ばあたりを洗練された音楽様式としてのロックの確立期だと思います。この時代に、R&Bそのものであったロックが普遍性を持つ音楽様式として確立するのに大きな役割を担ったのは、本家アメリカのミュージシャンよりも、イギリスのミュージシャン達でした。イギリスのミュージシャンは、ロックに「音楽的洗練」を加えました。
 当時のイギリスにおいても、意義申し立て運動が吹き荒れていました。その中で64年から66年の間に「ブリティッシュ・インヴェージョン」と呼ばれ、アメリカのチャートを席巻したのがローリング・ストーンズやザ・アニマルズ、ゼム、ザ・ヤードバーズらです。彼らは、マディ・ウォータースやジョン・リー・フッカー、ハウリン・ウルフといった本家アメリカのR&Bミュージシャンのスタイルを注意深く模倣し、そこに自分たちのオリジナリティを加えながら、全米でもポジションを獲得することに成功したミュージシャンたちです。
 65年にジェフ・ベックがヤードバーズに参加し、66年にはエリック・クランプトンによってクリームが結成されました。さらに、1968年にはレッド・ツェッペリンが結成されました。現在聞いても全く古さを感じさせない、「洗練されたロック」が誕生したのです。ここでは、多くのロックファンが絶賛するZEPについてあまり多くを語りません。しかし、ジェフ・ベックやZEPが「完成されたロックの1つの形」を提示したことは間違いないでしょう。
 このブリティッシュ・インヴェージョン・ムーヴメントが本家アメリカのR&Bミュージシャン達にも影響を与えました。その本家アメリカで誕生したのが、「ブルース&ブギー・ロック」と俗称されるジャンルです。代表的なミュージシャンとしては、ジミ・ヘンドリックス、キャンド・ヒート、ジャニス・ジョップリンなどを挙げることができます。中でもジミ・ヘンドリックスはギターとアンプのフィードバック奏法によって、新しい表現の可能性を提示しました。
 この「ブルース&ブギー・ロック」は、その後サンフランシスコを中心とした「ラブ&ピース」を掲げたヒッピー達によるサイケデリック・ムーブメントの中で、広く受け入れらていきました。
 もう1つ、「フォーク・ロック」の登場にも触れておかなければなりません。1965年のニューポート・フォークフェスティバルにおいて、ボブ・ディランがストラトキャスターを抱えて登場し、聴衆の罵声を浴びたことはよく知られています。この時代には、数多くのアコースティック・ミュージシャンが、ロックへと傾倒していったのです。
 60年代後半になって、世界はさらに激しく動きました。1968年、学生による大規模なコンテスタシオン(異議申し立て)運動がパリのソルボンヌ大学から始まりました。パリの「五月革命」として名高いこの運動では、広範囲な労働者の参加もあって、ド・ゴールの退陣にまで発展することになります。折りしもアメリカでは、公民権運動そしてベトナム戦争反対の市民運動が最盛期を迎え、反戦と民主主義を叫ぶ学生で大学のキャンパスは騒然となりました。同年、ソ連の戦車は民主化を目指すチェコの「プラハの春」を踏みにじり、世界中から非難を浴びました。中国では文化大革命の余波が続いていました。
 「世界的な反戦・平和運動」の高まりの中で、ウェストコーストのロックは発展していきました。ヒッピームーブメントの中心地であったサンフランシスコのヘイト・アシュベリーからは、グレートフル・デッドやジェファーソン・エアプレインなどのウェストコースト・ロックが誕生しました。マリファナやLSDによる陶酔感、昂揚感を肯定する彼らは、ロックを「サブカルチャーのメッセージジソング」へと高めようとしたのです。
 こんな60年代の最後を飾るロックシーンとして、1969年の「フィルモア・イースト」や「ウッドストック」について語ることを忘れることはできません。ウッドストックには、ジミ・ヘンドリックスを始め、フォークロックに近いCSN&Yやラテンミュージックの色が濃いサンタナなども登場しました。1つの文化、1つの価値観でロックを感じた40万人の観客が酔ったのです。
 さて、これまでに触れなかった60年代を代表する2つのロックグループがあります。ビートルズとローリング・ストーンズです。なぜロック史を語る上でビートルズに触れないのか…難しい問題です。私はビートルズが嫌いです。ロックとは精神性が異なる、メロウなメロディラインやバラード、果ては東洋音楽まで取り入れたビートルズの「マーケティング力」は、前述したように非常にデリケートな判断を要求されます。例えば、スローバラードであるヘイ・ジュードの歌詞は「ロックの歌詞」ではありません。またビートルズは、多様なオフビート音楽を追求するあまり、「様式面でロック的ではない」楽曲を多数発表しています。
 ローリング・ストーンズに対しても、同様に複雑な感情を持ちます。ビートルズとは異なるアプローチながら、やはりストーンズもマーケティングに成功したバンドでした。ビートルズとストーンズ、この2つのビッグバンドには、やはり70年代以降に隆盛を迎える「産業ロック」の萌芽を見てしまいます。
 話は前後しますが、1967年にピンクフロイドが結成されたこと、1969年にオールマンブラザーズバンドが結成されたことなども特筆すべきです。前者は「プログレッシブ・ロック」という新しいジャンルを、後者は「サザン・ロック」の雄として、その後のロックシーンに大きな影響を与えます。この時代にロックの多様化が始まった状況をもよく表しています。

(3)70年代のロック

 70年代は、異議申し立て運動の余波が続く中、「その発展史に基づく文化的な純粋さ」を継続しながら、ロック史に残る高い完成度のアルバムが多くのバンドからリリースされました。またロックの文化的な背景を全く持たない「産業ロック」が登場したことでも、特筆すべき年代です。
 60年代末までのロックには、文化的、音楽的な必然性がありました。70年代に入るとともに、そうした60年代のピュアなロックスピリッツを継承したバンド以外に、音楽面で独創的な試みを追及するバンドが多数登場したのです。中には「これがロック?」と首を傾げるようなスタイルと楽曲を特徴とするバンドも登場しました。
 いずれにしても、音楽産業全体の中におけるロックの位置に明確な変化が現われました。「ロックは金になる」ということに多くの人々が気付いたのです。そしてこの事実を、ミュージシャン側よりも音楽を送り出す側がより強く意識し始めたのが、「産業ロック」登場の要因となりました。
 しかし、こうした音楽産業全般の動きとは裏腹に、サブカルチャーを背景とする純粋なロックもまた、発展していったのです。70年代はまさに、ロックの2面性が顕著に現われた年代でした。

 70年代初頭においてはベトナム反戦運動が依然として高まりを見せていました。主にウェストコーストでは、反戦・平和を表現するためのロックが、60年代末期からの隆盛を続けていました。
 こうした状況の中、「物質から精神へ」という文化が最初にロックの形で表現された始めたのは70年代の初めです。それが「ニューヨーク・パンク」の登場でした。60年代末から70年代初めにニューヨークのイーストビレッジに登場したパンクは、詩人のアレンギンズバークや、小説家のケルアック、アートのアンディ・ウォホールらによるビートニクス・ムーブメントを背景にした、極めてスピリチュアルなロックです。ビートニクスこそは、現代に通じるスピリチュアルな人間探求の試みでした。また、アートからファッションまで、ライフスタイルへのメッセージを含んでいた点において、非常に「ロック」の本質に近いものを持っていました。ニュージャンルの音楽として商業的に成功したかという点はさておいて、多くの人に影響を与えたサブカルチャーそのものであった点では、まさしく「ロック」でした。
 ところで、この「NYパンク」と対比される存在に、セックスピストルズに代表される「ロンドンパンク」があります。
 「セックス・ピストルズ」の結成とパティ・スミスのデビューはほぼ同時期ですが、例えばNYパンクの代表的な存在であるパティ・スミスとピストルズを同じ「パンク」という枠でくくるには違い過ぎると思う。ピストルズは最初から一過性であり、音楽的ではありませんでした。パティ・スミスに代表されるNYパンクは、もっと内省的で、音楽的で、詩的です。彼女は若い頃からドアーズ、ベルヴェット・アンダー・グラウンドが好きだったというのも納得できる。で、最初は詩を書いて朗読のライヴをしていたが、ある時ギターをつけて朗読したのが後のバンド結成のきっかけとなった。彼女はいまも活動しアルバムもマイ・ペースで出している。ドラッグの行き過ぎで死んだシド・ヴィシャスを「あれこそパンクだ」と神格化するファンもいますが、セックスピストルズにはなんら文化的・精神的な背景が存在しませんでした。
 事実セックス・ピストルズは、NYパンクの「スタイル」だけを模倣した部分があります。
1960年代後半、ニューヨークにおいて、アート・シーンと密接な関係をもっていた、ルー・リードとジョン・ケールが中心となって「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が結成されました。彼らのサウンドは、ウェスト・コーストのサイケデリック感とはなり、ヘロインによってもたらされたもので、退廃的・自虐的・平和なんて関係ない人間社会のタブーを丸裸に描いたものでした。このアートと音楽との融合のカルチャーは商業的には成功はしなかったが、後の音楽シーンを含めたカルチャーに多大なる影響を与えました。元ヴェルヴェットのジョールのプロデュースによってニューヨーク・ドールズが生まれました。そして、元テレヴィジョンだったリチャード・ヘルのファッションがセックス・ピストルズに真似されたのです。
 ただ、ピストルズの後にはストラングラーズ、クラッシュ、エルヴィス・コステロなどが登場しました。彼等がイギリスの若者に支持された背景には当時のイギリスが不況下で失業し、社会、政治に不満をもった若者が見えない明日に不安と怒りをもっていたという状況がありました。彼らの怒りは70年代の後半に商業主義化が進んだ既存のロックに「ノー」という言葉を叩き付けたのです。こうした社会背景を持ったサブカルチャー・ムーブメントであった点において、NYパンクとは質的に異なるものの、「ロック」と呼んでもよいものだったかもしれません。

 70年代の初めは、ブリティッシュロックのスター達も全盛期を迎えていました。レッド・ツエッペリンやクリームなどが、次々と歴史に残る名アルバムを発表したのです。
 本家アメリカでは、サザンロック(アメリカン・ルーツ・ロック)も台頭しました。サザン・ロックとは、ロックン・ロールの故郷のアメリカ南部で生まれ育ったロックを指します。 また、南部ルイジアナ一帯に点在する湿地帯をさす言葉をとって、「スワンプ・ロック」とも称されることもあります。ブルースだけでなくカントリーミュージックの影響も大きく受けていた点が注目されます。
 1970年前後に、レオン・ハッセルやデラニー&ボニーら南部出身ミュージシャンらがLAを舞台に南部志向のサウンドを提示しはじめました。 デラニー&ボニーが1969年におこなったヨーロッパツアーに参加したエリック・クラプトンが、彼らのサウンドに深く興味を持ち、デレク・アンド・ドミノスを結成し、アルバム「いとしのレイラ」が大ヒット。USAだけでなくUKをも巻き込んだ、「GO SOUTH!」ブームが巻き起こったのです。 そのサウンドは、ブルース、R&B、カントリーなどのルーツ・ミュージックを下敷きに、骨太で土臭くファンキーなものです。前述したオールマン・ブラザーズ・バンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)、そしてアメリカン・ルーツ・ロックの頂点とも言えるザ・バンドなどが活躍しました。
 CCRの名曲「Have You Ever Seen a Rain」がベトナム戦争における北爆の空から降り注ぐナパーム弾を歌い、またカナダのロックバンドであるザ・バンドがボブ・ディランのツアーへの同行からスタートして、後に映画「イージーライダー」で使われた名曲「ザ・ウェイト」を歌うのも、彼らがサブカルチャーとは切っても切れない存在であったことの証しです。

 他に70年代には、個人的にはほとんど興味はないのですが、T・レックスに代表されるグラムロックやパンクの流れを模倣したニューウェイブなども登場しました。

 黒人音楽は70年代、どうなっていたのでしょうか? 70年代のリアルなブラック・ミュージックの主流はファンクでした。マイルス・デイビスの「ビッチェズ・ブリュー」からハービー・ハンコックの「ヘッド・ハンターズ」そして「ロック・イット」とジャズ・サイドからのファンク。そして元祖、JBがブーツィ・コリンズなど新しいメンバーによって作り上げた70年の「Sex Machine」71年「Soul Power」などの70年代のニュー・ファンク、そして60年代後期から強烈なメッセージをのせ、しかもJB風ではないロックの要素も含んだ創始者スライ・ストーンの全く新しいファンクなどが隆盛を極めていました。

 そのファンクをポップス領域へと展開したのが「フィリー・サウンド」、すなわち「フィラデルフィア・サウンド」です。フィラデルフィアは、60年代の「ツイスト」のブームの発祥の地です。この地にはギャンブル&ハフとして有名なソング・ライター・コンビ、ケニー・ギャンブルとリオン・ハフがいることはブラックミュージック・フリークならよく知っているはずです。彼らは60年代からヒットを送りだしていましたが、70年代になり「フィラデルフィア・サウンド」として爆発的な流行を見せました。フィリーサウンドの代表と言えば、ビリー・ポールが歌ったバラード「Me&Mrs.Jones」です。リリースされたのは72年で、同年のグラミー受賞曲です。フィリーサウンドは表面的には非常に洗練されていますが、よく聞くと歌にはファンク、ソウルのスピリットが溢れています。

(4)80年代のロック

 80年代は「ロックムーブメント退潮期」と言えます。皮肉な話ですが、世界が経済的、政治的にある種の安定を保っていたことがロック退潮の大きな要因です。つまり、この時代は世界的に見てサブカルチャーが衰退していたのです。「物質的なものから精神的なものへ」という60年代、70年代を通して強く流れていたムーブメントが、一時的に衰退した時代でした。
 80年代のビルボード・シングルトップ10には、ブロンディ、ピンク・フロイド、オリヴィア・ニュートン・ジョン、マイケル・ジャクソン、キャプテン&テニール、クィーン、ポール・マッカートニー、リップス、ビリー・ジョエル、ベッド・ミドラー、ブルース・スプリングティーンなどという「ロック系」の顔ぶれが並んでいます。ジャンルはもちろん、UK、USAという傾向もなく、グループ、ソロ、男性、女性と様々なアーティストのヒット曲がチャート・インしています。
 アメリカ、ヨーロッパのミュージック・シーンでのヒット曲は、FM&AMのラジオ媒体が主体で、次いでMTVなどのテレビ・メディアが影響を持ち始めました。現在もアメリカではMTVよりも全州に張り巡らされたラジオ・ネットワークの力は強く、日本の様にテレビが主体でないヒット・チャートが存在していますが、このラジオ媒体による影響が最盛期であった時代です。
 さて、80年代のヒットを見ていると、音楽的には質の高いバンドがたくさん現われたことは間違いありません。ラジオというメディアの性格と時代の音楽ということで、ヒット曲の要素としては「メロディーラインを大切にした大衆性のある楽曲」という傾向が浮かび上がります。90年代に普及したDTMシステムがまだ広く使われていない段階で、オーソドックスな楽曲構成手法による音楽が隆盛を極めました。  というわけで、80年代を一言で言えば、「ポピュラリティの追求と、それに伴う徹底したロックの産業化」の年代です。別の言い方をすれば、「ロックではなくポップスがピークに達した年代」とも言えます。
 この時代、個人的にはロキシー・ミュージックやスティングなど好きなロック・ミュージシャンはいるのですが、ロック史の上では特筆すべきものの少ない年代でした。むろん、70年代から引き続いて活躍するバンドや、オルタナティブ分野で活躍した幾多のロックバンドの存在を忘れているわけではありません。ただ、それらのバンドはあくまで60、70年代のスピリッツを継承したバンドであり、80年代固有のカルチャーを背景に登場したバンドが少なかったと言っているのです。

 余談ですが、80年代にはブラック・ミュージックも大きな転機を迎えました。70年代はファンクの隆盛時期でしたがそのファンクのダンサブルな要素に目をつけたミュージシャンやプロデューサーが70年代中ごろからのファンクの匂いをとって、水で薄めたダンス・ミュージックをつくりはじめたのです。かろうじて「フィリー・サウンド」まではそこにソウルを注入することができたが、テクノロジーを進歩によって開発されたコンピューターによるリズム・マシーンにドラムがとって代わられました。つまり「ユーロ・ビート」の蔓延によってダンス・ミュージックにはメッセージ性が全くなくなってしまいました。もちろんファンクのかけらもなくなったのです。80年代は、ロックだけでなく、そのルーツとなったソウルミュージックにとっても、「受難の年代」だったのです。
 ところで、「ユーロ・ビート」をロックの1ジャンルと考えている人もいるようですが、およそロックやソウルとはかけ離れた音楽です。

(5)90年代以降のロック

 90年代は、混沌の時代です。90年代は社会主義が崩壊し、環境問題や人口問題、民族紛争など80年代とはうって代わって、世界の多くの人々に危機感が芽生えた時代です。実際に、新たな世界の秩序を打ち立てるべく、政治的な動きが活発化した年代でもあります。
 なかでも、「環境」というキーワードによる異議申し立て運動は広範囲に拡大し、サブカルチャーへの動きを見せ始めました。
 こうした90年代のロックを語るにあたっては、まずは「グランジ」について触れる必要があるでしょう。80年代のロックムーブメントの退潮を吹き飛ばすようにな、鮮烈な登場でした。
 このグランジというロックシーンの先鞭を付けたのはニルヴァーナです。グランジは「パンクの精神とヘヴィネス・サウンドの融合」といった表現をされますが、90年代固有の社会性を背景にしていた点で、まさしく正統派のロックでした。音楽様式的に見れば、NWOBHM後の音楽的に整ったヘヴィメタルよりは、初期のへヴィメタルの感覚により近いものです。80年代末のアメリカロックにおけるクロスオーバー・ミクスチャーと呼ばれるジャンルの代替(オルタナティブ)として登場したと言えるでしょう。シアトルのインディー・レーベル、サブ・ポップに身を寄せていたニルヴァーナやサウンドガーデンなどが、ファッションやスタイルも含めて「学生バンド」的な存在からスタートし、音楽的には自由な精神を素に新しいスタイルを作り出していきました。そしてニルヴァーナのブレイクにより一大ブームとなりました。ニルヴァーナ以降も、テキサス出身である「パンテラ」や「パール・ジャム」などは商業性とは一線を画したスピリットを持っていました。反面、大量のコピーバンドを生むなど、グランジは商業的に消費され、カート・コバーンの自殺により急速にピュアなグランジは退潮します。その後、グランジの精神はもっと穏やかな「オルタナティブ・ミュージック」へと継承されていきます。

 さて、90年代後半のロックシーンについては、あえて具体的なバンド名を挙げて解説することはしません。しかし、商業性を追求した産業ロックの隆盛の中、人間のあり方を追求し社会矛盾に対してメッセージを送る非常に多くのオルタナティブ・バンドが世界中で活動しています。また、70年代に活躍していたバンドの再結成や継続活動の中での音楽的成果も産み出しています。
 90年代半ば以降の現在期におけるロックシーンが、60年代、70年代と較べて劣っているとは思いません。ただ、価値観の多様化によって、1つの文化的側面からだけでロックを語りにくくなったことは事実です。
 個人的には、いくつか興味のあるバンドがあります。例えばアメリカの「RADIOHEAD」や「リンプ・ビズキット」、ニルヴァーナの元ドラム、デイブ・グロール率いる「Foo Fighters」などのバンドが、「新しい文化」を背景にしつつあるロックムーブメントいう感じを受けます。最近の日本のバンドでは「絶対無」が非常に面白いと思います。いずれにしても、現在進行形のバンドについては、評価も定まっていないのであえて論評はしません。

7.日本にロックは存在するか?

 現在の日本には「ロック」という音楽ジャンルで活躍する「表現者」(ミュージシャン)が見当たりません。現在の日本には「サブカルチャー」が生まれる土壌がありません。これは政治的にも、経済的にも、そして文化的にも…です。第一、「サブカルチャー」や「カウンターカルチャー」が登場するためには、元になる「文化(カルチャー)」が必要です。極論すると、今の日本には「文化」そのものがないのだから、カウンターカルチャーが生まれるわけがありません。
 むろん、「個人の精神性」ではロックに近いものを持っている人たちは一定数はいると思います。それが、例え「オルタナティブ」でもカルチャーに昇華することはあり得ません。日本ではオルタナティブな存在が誕生すると、共同体意識や共同幻想によって潰されてしまいます。
 もう1つ、日本生まれの「ロック」と呼ばれる音楽には「普遍性」がありません。数十年後に語られるような「高い音楽的完成度」を持つ楽曲やバンドが少ないのです。サブカルチャーやカウンターカルチャーは「グローバル」でなくてはなりません。従って、グローバルに理解されない「日本語」を使っていることも、完成度を下げている原因の1つでしょう。
 誰かに熱狂的に支持されているからロックなのではありません。地道なライブ活動を重ねているからロックなのではありません。地道なライブ活動を重ねて、小数の熱狂的なファンに囲まれているフォークソング歌手や演歌歌手はたくさんいます。ましてや「インディーズこそロック」でもありません。日本におけるインディーズは、フォークソングの方がはるかに長い歴史があります。
 熱狂的な観衆の前で演奏することだけがロックの条件ならば、ジャニーズ事務所に所属し、エイトビートの楽曲を演奏するバンド「TOKIO」もロックバンドということになります。私は「TOKIO」がいくらたくさんのファンから支持されているとしても、彼らの音楽は絶対に「ロックではない」と確信できるのです。
 「ラルク・アン・シェル」や「グレイ」については議論され尽くした感があるので、ここでは例として取り上げることはしません。同じような日本の人気バンドで「イエモン」を見てみましょう。彼らの楽曲は、歌詞といい、オンビートの匂いのする歌謡曲的なサウンドといい、楽曲に込められる情念といい、ウェットな歌唱法といい、極めて日本的な音楽です。ある面で演歌と共通する「情念の世界観」を感じます。
 こうした「イエモン」が、大衆音楽として優れているかどうかという判断を求められれば、私は無条件で「優れている」と答えます。商業的な成功はむろん、熱狂的なファンの存在もそれを裏付けています。しかし、「ロック」とは程遠いジャンルの音楽であることは確かです。「イエモン」の送るメッセージには「サブカルチャー」が全く存在しません。  別に日本のミュージシャンが嫌いなわけではありません。また、日本には熱狂的なファンに支持されている「ロックバンド」がインディーズからメジャーまで多数存在することもよく理解しています。彼らの音楽性やファンの存在を否定するものでありません。私自身も、好きな日本のバンドがありますし、カラオケでも歌います。ただそうした音楽を「ロック」とは思わないだけです。「ロックっぽいJ-POP」とでもカテゴライズしておけば適当だと考えています。

 あとは余談になりますが、日本において、過去にサブカルチャーを背景としたロックというものが一度も現われなかったのでしょうか? 60年代末から70年代前半にかけての世界的な異議申し立て運動は日本にも波及しました。当時は日本でも学生運動の嵐が吹き荒れ、ベトナム反戦運動が高揚しました。
 日本における本格的なロック・ムーブメントは、沖縄のバンド「紫」あたりから始まります。ベースの近くに生まれた喜屋武マリーは、確かに自らの生い立ちをブルースとして歌うことができました。70年代に、金子マリはジャニス・ジョプリンを歌いました。また、70年代の私の好きな日本のバンドに「四人囃子」があります。さらに、「ウエストロード・ブルーズバンド」「ジャックス」「頭脳警察」「村八分」「はちみつぱい」「ヒカシュー」など一部のミュージシャンが試みたのは、明らかに「ロック」に近いものを背景に持った音楽でした(「はっぴいえんど」は嫌いです)。
 USAやUKでロックが退潮した80年代に入って、日本にも本格的に「産業ロック」が登場しました。80年代の日本は「音楽様式としてのロック」を追及するバンドが大量に生まれました。いわゆる「バンドブーム」の到来です。  90年代に入って多数のインディーズバンドが雨後の筍のように登場しました。しかしかつてインディレーベルから爆発したグランジのような、カルチャー・ムーブメントに変貌する要素を持つバンドは非常に少ないのが現状です。むしろ、インディーズバンドの中からはポピュリズムを基準に淘汰が進み、大衆受けするサウンドとビジュアルを持つバンドだけが次々とメジャーデビューするという、商業主義との一体化状況を生み出したと言ってもよいでしょう。
 「ロック」という言葉が音楽の「ジャンル」を表す言葉であれば、それは「文化」でなくてはならない…というのは、ロック好きな私の信念のようなものです。
 私は、自身がプロの表現者だと考えています。「モノを書く」ことでお金をもらう立場にあるので、その意味では間違いなくプロの表現者です。ただし、普段は「こういうモノを書いて欲しい」との依頼に従って書いているわけで、これを音楽家に例えれば「スタジオミュージシャン」のようなものでしょう。この私が、自分で好きなように表現しろと言われたら、やはり自分自身の寄って立つ文化的な背景を熟慮するでしょう。「売れるものを書こう」とは思いません。しかし、他人に対して何かを表現する以上、絶対に技術的な側面に配慮します。要するに、他人に対して何かの表現を伝えるためには、「書く技術」「表現する技術」が必要です。だからジャンルが異なる音楽表現分野における「普遍性」と「技術」の重要性はよくわかります。


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