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2011年11月03日

●スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (1)

 Apple創業者のスティーブ・ジョブズが死去して、1ヶ月近く経ちました。依然として、リアル社会でもネット上でも、ジョブズの死を惜しみ、嘆き、業績を称える声が溢れています。自伝ははつばいされるやいなやベストセラーとなり、書店には自伝以外にも「ジョブスの言葉」「ジョブズの教え」的な書籍が山積みになっています。
 米カリフォルニア州は、10月16日を「スティーブ・ジョブズの日」とすることに決めたそうです。パロアルトでクリントン元米大統領ら著名人が多数出席してスティーブ・ジョブズ氏を偲ぶ追悼式典が行われた…とのニュースもありました。

 CNET Japanブログで「スティーブ・ジョブズからの贈り物」という一文を見つけたので、その一部を引用させて頂きます。
「…AppleはSteve Jobsの類い希な情熱と信念によって導かれてきました。それは決して儲けるためではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行われたことです」
「…Jobsの思想と業績は、あらゆる所に影響を及ぼしています。もし彼がいなかったら、Androidやタブレットは今の形にはならず、音楽配信システムはどれも鳴かず飛ばずだったでしょう。もちろんMacも無いのだから、PCがどのように進化していたのか想像すらつきません」

 現在のApple社の利益と株式の時価総額を見る限り、復帰後のスティ-ブ・ジョブズが「図抜けて優秀な経営者」であったことは疑いようがありません。しかしそのジョブズは、「金儲けではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行なった人」なのでしょうか? ジョブズがいなければ「Androidやタブレットは今の形にはならなかった」のでしょうか? 「MacはPCの進化に大きな影響を与えた」のでしょうか?
 さらには、彼の生前・死後を問わず多くの人が口を揃えて言うように、ジョブズは「IT業界のイノベーター」だったのでしょうか? ジョブズにはIT技術と人間の関わり方について本当に「未来が見えていた」のでしょううか? ジョブズは常に製品に対する「明確なビジョン」を持っていたのでしょうか? ジョブズは我々に「コンピュータの本質」を教えてくれたのでしょうか? そしてジョブスは「世界を変えた天才」だったのでしょうか?

 知っている範囲での、コンピュータ業界におけるジョブズの軌跡、創立以降のApple社の発展経緯を見る限り、私はけっしてそうは思えません。

 むろん、ガレージメーカーからスタートしたApple社創立の経緯は、夢のある素晴らしい物語でした。そこで生み出され70年代末にアメリカのパソコン市場を席巻したたAppleⅡ、この物語の中でジョブスが果たした役割は、まさにパーソナルコンピュータ史上に輝くものでした。
 そして1997年のApple復帰後に限定すれば、ジョブズが優秀な会社経営者であったことは事実です。「晩年のジョブス」が、カリスマ的な経営手腕を見せたことは間違いありません。
 一方で、AppleⅡの販売が失速し始めた1980年頃から、Appleを離れるまでの1990年代半ばまでの彼の企業経営はかなり行き当たりばったりであったように思うし、彼の影響下でAppleという会社が作り出したプロダクトと企業の発展経緯を見る限り、ジョブスはもともとコンピュータの将来に対して夢は持っていても、「確固たる見通し」なんてものは持っていなかったように感じています。

 今、世の中には様々な「ジョブズ語録」が公開されています。「公認」の自伝も出版されました。ジョブスが言葉で語ったとされる「夢」や「理想」「理念」、それはそれで立派なものかもしれません。しかし、ジョブズが興したAppleという会社がコンピュータの発展の中で果たした役割、AppleⅡから昨今のiOS搭載製品に至るまでのApple社のプロダクツとビジネスモデルを見ると、私にはジョブスの語る言葉がずいぶんと色褪せて聞こえてしまうのです。

 今回発売された自伝の中で、ジョブズは「私は、Androidを叩き潰すつもりだ。Androidは(AppleのiOSから技術を)盗んだ製品だからだ。そのためなら核戦争だっていとわない。この不正を正すのに必要であるなら、人生最後の日々をすべて使っても、銀行にあるAppleの400億ドルをすべてつぎ込んでもかまわない」…と語っていたそうですが、こうなるともう「傲慢」としか感じられません。
 また同じ自伝の中で、「ビル(ゲイツ)は基本的に想像力がなく、何も発明してこなかった。だから、テクノロジーより慈善活動をやっている今の方が心地良いのだと思う」と発言。さらに、「彼は臆面もなく、他人のアイデアを盗み取った」とこき下ろした…とのことです。私は、ジョブスが、ビル・ゲイツと比較してそれほど優れたビジネスリーダーであったとも思えません。また、ジョブズはいったい何を「発明」したのか、今ひとつわかりません。

 さて、別にスティーブ・ジョブズという人物の悪口を書きたいわけではありません。むしろ、ジョブスというほぼ同時代に生きた人間の死に、自分というちっぽけな人間の生きてきた道を重ねて、ある種の感慨、共感の気持ちを強く持っています。多少なりともコンピュータや通信の世界に関わってきた人間として、ジョブズの功績は高く評価しています。ジョブズ賛辞が溢れる中で、ジョブズ追悼の意を込めて、ここは私とAppleとの個人的な関わりについて、そして私にとってのジョブズ、または私の中でのAppleという企業の位置づけを確認するためにも、少し長い話を書いてみたいと思います。
 こんなひどい文章、誰かに読んでもらいたから書くのではありません。だから、考えをまとめずに思いつくままに書きます。ちょっと長いし、とりとめもない文になるでしょう。また、記憶だけに頼って書いていくので、事実関係や年代表記、前後関係、商品名表記等にいくつもの誤りがあるでしょう。気が向けば、読み直してきちんとした文章に直すかもしれないし、このまま放っておくかもしれません…

1970~80年代頃のこと

 アマチュア無線が好きだった私は、1970年代の初め頃からから「コンピュータ」「マイコン」という存在に魅了されてきました。むろん技術者としてではなく、あくまで「ただのユーザ」としてです。高校の3年の頃、よく読んでいたアマチュア無線雑誌に掲載されるマイコン関連の記事に強い興味を覚えましたが、当時は値段も高く、マイコン関連製品には手が出ませんでした(大学時代に発売されたTK-80ですら8万円以上だった…)。実際にパソコンを買ったのは、自分である程度お金を稼げるようになってからです。最初は1979年に発売されたPC8001(15~6万円?)を購入、その後1980年代前半までは国内外の様々な8ビット機をいろいろと買い込んでは遊びました。当時私は20代の半ば頃ですから、遅れてきたパソコン少年(?)だったわけです。もっとも「PC8001」を買った年にはバイク(ヤマハ「SR400」)も買ったので、ローンで首が回らなくなった記憶があります。
 遊び以外の用途では、PC8801とプリンタ、そして外付けの8インチFDDを購入して、ワープロソフト「JET-8801A」で、自宅で仕事の原稿書きに活用していた時期もありました。ニューヨークと東京を行ったりきたりしていた頃ですから、1982~3年でしょう。

 一方で1984年に独立して現在の会社を設立してからは、あらゆる業務にNECのPC9800シリーズを導入して使い始めました。1984年から約10年間で、9800シリーズとその互換機を何十台購入したのか記憶に無いほどです。Windowsは2.0から使いましたが、その後Windows3.0から仕事でDOS/V機(PC-AT互換機)を本格的に使い始めました。TCP/IPが実装されたWindows95以降は9800シリーズから完全に離れてDOS/V機を大量に導入してきました。また、80年代に入って最初はP2Pでのパソコン間通信、その後80年代半ばからパソコン通信ネット、90年代に入ってすぐの頃からインターネットをフルに活用してきました。ここまでは、私の世代の人間としてはごく普通の体験だと思います。

 そんな私は、1980年代の後半から90年代の半ば頃にかけて、仕事でAppleという会社、そしてMacintoshというPCとかなり深い関わりを持った時期があります。それのみならず、「マック・エバンジェリスト」として、またパソコンDTPの普及のために、Macintoshの素晴らしさ、Apple社の企業文化の素晴らしさを各所で伝道師のように説いて回ったものでした。

 AppleⅡの時代には、あくまで個人で使う「お遊びパソコンの1つ」に過ぎなかったのですが、確か1985~6年頃に、たまたま仕事上の必要から当時のAppleの総代理店であったキヤノン販売がMacintosh 512Kに日本語ROMを搭載して売り出した「DynaMac」を会社で購入したのが、Apple社のコンピュータとのビジネス現場での出会いです。その後、コンサルの仕事をきっかけに、日本の某システム開発会社が有名なMac用DTPソフトの日本語化を進めるプロジェクトに関係し、さらに大手電機メーカーのMacintosh用アミューズメントソフトの開発プロジェクトに関わりました。Macintoshとレーザーディスクを組み合わせたインタラクティブソフトの開発にも関わりました。
 そんな経緯から1988年の1月、サンフランシスコで開催されたMACWORLD Expoを初めて訪れました。以後、Macintoshの世界にどっぷりと嵌りました。Plus、SE、SE30、Ⅱ、Ⅱfx、Cx、Ciあたりまでの時期は、受託の仕事だけでなく、社内にソフトウェア開発部門を立ち上げ、Macintosh用ソフトの開発に自社で直接携わり、Apple社のオフィシャル・デベロッパーとして周辺機器のドライバの開発なども行ないました。1988年以降、1990年代半ばまで毎年のように8月のボストン、1月にサンフランシスコで行なわれるMACWORLD Expoに出張し、Appleの本社を訪れたりしたのも、今となっては懐かしい思い出です。
 ちなみに、Macintosh以外にも68000系のビジュアルシェルPCは個人的な趣味で購入し、1980年代後半には、Atari「520ST」、AMIGA「1000/2000」、シャープ「X68000」などを購入したことを思い出します。

 なぜ私は、一時期とは言え、これほどMacintoshに夢中になったのか? Macintoshの伝道師まで務めたのか? 答えは簡単です。そして、おそらく同世代の他の人と同じです。MacintoshやAtariなど1980年代半ば頃までの68000系のビジュアルシェルPCには、「オルタナティブな匂い」があったからです。
 Appleが創業した1970年代前半は、「パーソナルコンピュータ」それ自体がオルタナティブな存在でした。よく言われることですが、ジョブス、ウォズらがAppleという会社を作った背景には、もともと西海岸のカウンターカルチャーが存在したように私も感じていました。世界で最初にグラフィックUIとマウスオペレーションを実現した「Alt」で知られるパロアルト研究所の運営形態や一時期ジョブスが勤めていたAtari創業の背景にも、根っこには同じカルチャーがあったのしょう。遡れば、1968年を前後して世界的に高揚した「異議申し立て運動」、すなわちアメリカの公民権運動、ベトナム反戦運動、パリ5月革命、文化大革命、世界中で連動した学生運動…に始まり、そこから派生して西海岸で生まれたたヒッピーカルチャー、アシッド・カルチャー(ドラッグ文化)…、それらの残滓、残り香のようなものです。ジョブス自身が、そうした文化に影響されていたことは、自身の口から語られています。
 70年代に生まれたApple2だけでなく、80年代のMacintoshにも、まだそうした「カウンターカルチャーの香り」が残っていたからこそ、「マックを売りまくった『フリーセックス』ヒッピー・コミューンの歴史」…、こんな話も出てきたのでしょう。そして私もまた同じでした。
 Macintoshというパソコンには、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーの雰囲気、サンフランシスコを舞台に活躍したグレイトフル・デッドやジェファ-ソン・エアプレイン、アルバート・キング、ジョニ・ミッチェルらのサウンド、フィルモア・ウェスト(オーディトリアム)やウィンターランド・ボールルームの歴史に共通する「懐かしい匂い」が残っているように思いました。

 一方で、私が現在の会社を興した1980年代半ばから1990年代半ばにかけての10年間は、日本ではPC9800シリーズが絶対のシェアをとっていました。PC-9801F3が発売ざれた1984年のNECの国内パソコン市場シェアは約50%、1985年にはNECのシェアは約90%ぐらいはあったと思います。そのPC9800は、誰もが知る通り非常にクローズドなパソコンでした。バスなどの規格も固有のもので、周辺機器も増設機器もほぼすべてが98専用の製品を必要とした、ある意味で面白くもなんともないPCでした。PC9800に席巻された日本のパソコン市場は、新しいコンセプトのパソコンが生まれない、閉塞の時代を迎えていました。

 そのPC9800と較べて、初期の68000系Macは新鮮でした。例えばゲーム。Macのゲームで私が今も思い出すのは、「puppylove」です。これは1985~6年頃のパッケージだったと思いますが、犬に芸を教えながら育ててコンクールに出す…という内容で、一種の「育てゲー」です。当時の日本には存在しない雰囲気を持つゲームでした。「Vintage Mac Museum」というサイトに画面キャプチャーがありますが、モノクロモニタに映るpuppyloveの画面が非常に懐かしく思い出されます。当初、犬小屋の形をしたパッケージで売られていました。また、同じサイトにキャプチャーがありましたが、「ALICE CATCHR」も個人的には懐かしいソフトです。当時のゲームパッケージ、今も大事にとってあります。
 ゲームではありませんが、ビデオメディアと組み合わせたインタラクティブソフトにも面白いものがたくさんありました。「ミミ号の冒険」なんかは、今でも記憶に残っています。

 私自身、1980年代の後半頃からは、仕事で毎年のようにサンフランシスコを訪れていました。80年代の終わり頃からは、前述したようなMacの仕事に関わった関係で毎年1月にサンフランシスコで開催されるMacWorldExpoにも行くようになりました。当時のMACWORLD Expoの会場は、珍しい周辺機器を展示していたり、ユーザが中古のパーツや周辺機器を売っていたり、お祭り騒ぎのようで楽しかった。会場では、あのSE30を専用のショルダーバックに入れて肩に掛けて歩いている人をよく見かけました。アメリカ人は体力があるなぁ…と感心したものです。当時、サンフランシスコの中心部、ポストストリートがマーケットストリートにぶつかるあたりに、ソフト・ショップのEgghead(今は実店舗がなくなった全米チェーン店)があって、そこでよくEDUCORPのMacintosh用フリーソフト(今で言うシェアウェア)の入ったフロッピーを大量に買ってきました。そういえばEggheadでは、当時でも発売後ずいぶん経つコモドール64のゲームソフトなんかもまだ売ってました。またサンフランシスコ出張時に、Amiga 500やtandy「TRS-80 Model 100」など日本で入手しにくいパソコン本体をソフトとともに購入して、手荷物で日本に持ち込んだりもしました。
 余談ですが、1月にサンフランシスコを訪れると、ちょうど冬物のバーゲンシーズンにあたります。BARTに乗ってシスコ郊外のバークレーに出掛け、駅を降りてUNIVERSITY.AveをUCLAの反対側、サンフランシスコ湾の方へ下っていくと、右側にTHE NORTH FACEの巨大なファクトリー・アウトレットが、次いでさらに海に近いところにSierra Designsのファクトリー・アウトレットがありました。毎年、大量に買い物をしたのも懐かしい思い出です。Sierra Designsの定番の60/40マウンテンパーカが、ちょっと傷ありで100ドル前後で買えたのですから…

 取引先企業の研究所があったパロアルトやサニーベイルに、カルトレインに乗ってのんびりと行ったこともあります。また、シカゴなど東海岸からサンフランシスコへ移動中の飛行機が、サンフランシスコ湾に向かって高度を下げていく時、Appleの本社の上空を飛びます。そのとき、Apple本社の屋上に大きなリンゴの絵、初期のカラフルなAppleのロゴが見えると、わくわくしたものです。
 ともかく、当時のMacを始めとする68000系のビジュアルシェルPCとそのアプリケーション群には、日本で主流であったPC9800にはない、新鮮な雰囲気と自由な発想があったように思います。

 さらに私がMacに強く惹かれた理由のひとつに、DTPシステムの存在があります。MacがもたらしたパソコンDTPは、まさに「出版民主主義の実現」という言葉がふさわしいものでした。莫大な手間と機械とコストを必要とした組版をPC上で実現できたのですから…

 そんなMacとそれを取り巻く文化に対する期待と憧れが、次第に薄れていくのには、それほど長い時間を必要としませんでした。それはMacintoshが、あまりにもクローズドな世界へと閉じていったからです。オープンアーキテクチャの安価なDOS/V機が急速普及していく中で、いつまでたってもMacは増設パーツも周辺機器もバカ高く、IEEE1394(FireWire)とSCSIにこだわるなどI/Fまで特殊な路線が続いていました。そんなMacintoshへの関心は、徐々に失われていきました。Macは「イメージだけで売る高価なパソコン」と感じるようになってきたのです。

 実際に、Macは非常に価格が高かった記憶があります。1984年のMacintosh 512Kの本体価格が90万円、1988年に買ったMacintoshⅡの本体価格は70万円、純正モニタなど周辺機器を入れてメモリを増設したら120万円を超えました。1990年にDTP用に購入したMacintoshⅡciは、本体価格が140~150万円、Apple LaserWriter NTX-ⅡJは120万円、フォント入りHDDが20万円、純正CD-ROMドライブが20万円…と一式で300万円を超えました。今から考えるとバカバカしいほどの値段です。1990年頃のPC9800も高かったのですが、互換機(386マシン)なら上位機で平均で50~70万円程度でしたから、毎年のMacの複数台導入は経営面にも非常に負担になった記憶があります。

 80年代に入ってからオルタナティブカルチャーが衰退しアメリカの社会が変質していく過程と同じような過程を辿り、80年代半ばからAppleやAtariを含む西海岸コンピュータ文化の変質が始まりました。パーソナルコンピュータの機能面の劇的な進化に対応するように、パーソナルコンピュータとその周辺からオルタナティブなカルチャーが失われていったのです。90年代に入ると、シリコンバレーを含むベイエリアのコンピュータ産業はますます商業化、資本の集約化が進み、一方ではApple、サンマイクロ、シスコの成功に倣って一攫千金を狙うベンチャー企業が急増し始めました。文化から産業へ、夢から拝金へ…これが、パーソナルコンピュータを巡る基本的な流れとして90年代に定着しました。90年代の半ばには、ネットスケープ、Yahooが相次いで設立され、ネットビジネスの時代が始まります。
 むろんこうした見方は私の個人的な感想であり、もっと別の見方もあるでしょう。いずれしても、私がMacに対する興味を失っていったのは、まさにこの時期です。

 逆に、PC互換機陣営には圧倒的な勢いがありました。1990年にWindows3.0が登場しました。OSとしての完成度は、2.0までのWindowsをはるかに超えて、使いやすいものになっていました。1991年に試験的にIBM PC、すなわちDOS/V機を購入し、PC9800と比較併用する状況になりました。Windows3.0まではまだNEC版も使いましたが、さらにOSとしての完成度が高まった3.1の日本語(マイクロソフト版)が発売された1993年には仕事で使うDOS/V機(PC-AT互換機)を本格的に大量導入し、事実上社内でPC9800の利用をやめることにしました。安価で高性能なPCを自由に内外のメーカーから機種を選択して調達できる環境になったのです。486マシンが普及し始めたこの頃には、秋葉原には安価なショップブランドのPCを売る店、自作用のパーツショップが急激に増加し、コストパフォーマンスが高いPCをいくらでも簡単に調達できるようになっていました。
 こうした時期、つまり1990年代の半ばには、値段がバカ高い上、クローズドなMac環境にかなり嫌気が差してきており、Macintoshより安価でオープンなDOS/V機の環境でDTPを実現したいと考え、いくつかのメーカーのプロジェクトに参加もしました。

 いずれにしても、こんな感じで一時期のMacintoshに入れあげた私から見て、現在のMac、そしてMacだけでなく、iPod、iPhone、iPadを含めたApple社の全てのプロダクトは、全く魅力がありません。理由は簡単です。あまりにも「クローズドな世界」だからです。


スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (2)へ続く…

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