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2011年11月03日

●スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (3)

iPhoneのオリジナリティとiOSの将来性

 ところで、先に挙げた2011年7月のOS別シェアには、実は続きがあります。Windows。MacOSに次ぐのは以下のOSです。iOS 3.00%、Java ME 1.11%、Linux 0.91%、Android 0.81%という順です。iOSの伸長が目立ちます。
 近年のAppleの快進撃は、ジョブスがApple社に戻って以降のiOS搭載機器、すなわちiPod、iPhone、iPadの爆発的な売れ行きによるものです。そのiOS搭載機器はここ数年爆発的にシェアを伸ばしてきました。しかし、これはおそらく過渡期的な姿でしょう。今後も過去数年のようにiOS搭載機器が市場で伸びていくという保証はまったくありません。
 いずれにしても、2001年のiPod classic発売以降、とりわけ2007年のiPhone発売以降のビジネス展開については、「おみごと」と言うしかありません。しかし、iPhone発売から5年が経ち、iOSのビジネスモデルが持つ優位性は失われつつあります。

 まずはiPhoneの先駆となったiPodです。DAP(デジタルオーディオプレヤー)としてのiPodは、もともと目新しいガジェットではありません。市場で先行したのは言うまでもなくSONYのWALKMANであり、韓国メーカーの多彩な製品群でした。iTuneとの組み合わせによるビジネスモデルが当たりましたが、現在は1年ほど前からは好調な売り上げが復活したWalkmanと熾烈なシェア争いを繰り広げています。今後もiPodがDAPのデファクトスタンダードである保障はどこにもありません。

 現在、ジョブズの最大の功績として語られるiPhoneも同じです。今後は徐々に、市場における優位なポジションを失っていくでしょう。
 独自の操作性とアプリストアとの連携でNokiaやBlackBerryからスマートフォン市場でのシェアを奪ったiPhoneですが、1人勝ち状態の全盛期は終焉を迎えようとしています。既に現在はAndroidの方がシェアは大きく、しかも伸び率も高い状況です。米市場では2011年8月の全スマートフォン保有者のうち、Android搭載機の利用者が43%で、iPhoneは28%と2倍近い差がついています。AndoroidというOSの集合体で販売台数を比較するのではなく単一メーカー同士で比較しても、2011年の第三四半期にAppleはとうとうSAMUSUNGに販売台数で抜かれました。今後どこまでiPhoneが現在のシェアを維持できるかわからないし、Androidがさらにシェアを拡大してiPhoneのシェアは小さくなるというのが大方の予想です。

 ところで、スマートフォンの市場を先駆的に切り拓いてきた功績は、やはりNokiaやRIM(Blackberry)に帰するべきものです。そして、手のひらに乗る情報端末の小さな画面上にアイコンを並べるタッチパネル方式のUIは、PDA「Palm」あたりがずっと先駆です。私は初代iPhoneが登場する6年も前の2001年に「Palm m505」を使っていましたが、電話回線によるネット接続を除けば基本的にはUIも機能もiPhoneと同じでした。Palm以外にも似たようなUIを持つPDAはたくさんありました。携帯電話回線を装備したスマホでiPhoneとよく似たUIと言えば、タッチパネルを採用したMotorola製のFOMA「M1000」や「HTc Z」なども記憶に新しいところです。記憶に間違いがなければ、いずれの機種のiPhoneより古い時期に発売されています。
 これら先行製品に較べてiPhoneが格段に洗練された機能を備えていることは確かですが、CPU、メモリ、液晶、タッチパネル、CMOSカメラなど、PDAやスマートフォンを構成するキーデバイスの技術・性能や実装技術などが格段に進歩している状況で製品化された後発機器ですから、高機能を実現できて当たり前です。携帯電話機能部分の基本デバイスである、ベースバンドチップやアプリケーションチップなども1チップ化が進み、ここ数年格段に高機能化しています。
 そして、携帯電話回線上にパケット網を築いてアプリを提供するビジネスモデルなら、1999年にスタートしたiモードの方がかなり先行しています。

 タッチパネルを採用した先駆的なPDAといえば、1993年に発売されたAppleの「Newton」があります。手書き文字認識を採用するなどNewtonプロジェクトの先進性はあらためて言うまでもないことですが、このプロジェクトはジョブス追放後のスカリー社長時代に企画され、発売された端末です。Newtonは売れず、事業としては完全に失敗しましたが、PDAの将来性に注目した結果生まれたNewtonプロジェクトについては、これを強引に推し進めたスカリーの先見性が高く評価されるべきです。そしてNewtonプロジェクトは、後のiPod、iPhoneの母体となったものでもあります。後に、Appleがニュートンの発売を中止した後にNewtonプロジェクトを引き継いだニュートン社を、Appleに復帰したジョブスが吸収しました。さらに、iPodのOSを作成したPixo社にこのニュートンの開発メンバーがいたことは有名な話です。Newtonプロジェクトとも多少関連がありますが、1996年に発売されたPalm Pilotを見ていると、いまさらですがPalm OSの先進性とiOSとの類似性がよくわかります。

 さて、こうした事実をもって「iPhoneに独自技術がない」とか「iPhoneはパクリ」とか非難したいのではありません。そんなことは、実はどうでもいい話です。「ジョブズは何も発明しなかった」という言い方で、ジョブズの資質を貶める人がいますが、それもまた間違っています。

 iPhoneに限らず、この手の情報機器はすべてが多かれ少なかれ過去の技術資産とアイデアの蓄積の上に、「新製品」が生み出されてきました。トータルに技術が発展し、構成部品が高機能化する後発製品の方が先行製品よりも高機能、多機能なのは当然であり、また必然的に小型化が可能になるためデザインの自由度も高くなります。後発機器の方が高機能でデザイン性に優れているからと言って、別に特別なことではありません。そういう視点で見たとき、iPhoneが特に画期的な製品だとは思えないのです。
 余談ですが、同じことはノートPCでも言えます。Macファンは薄型・軽量のMacBook Airを絶賛しますが、例えば三菱電機が1997年に発売した超薄型・軽量のノートパソコン「Pedion」は、当時の技術水準では世界最高の製品でした。私は欲しかったけれど、高いのでパスしました。マグネシウム・ダイキャスト筐体を採用し、約15年前に当時のA4サイズノートパソコンで世界で最薄の18mm、最軽量の1.45kgを実現したPedionの製品コンセプト自体は、MacBook Airと全く同じであったと思います。あれから10年以上も経って構成部品の大幅な機能向上が実現したからこそMacBook Airという製品が実現したのです。

 ところで、誰がどう見てもAndoroidはiPhoneをかなりの部分で真似たことは確かです。しかし、それをもってジョブズが「AndoroidはiPhoneのアイデアを盗んだ」と激怒するのは、PDAやスマートフォンの製品化の歴史から見て非常に傲慢な態度であり、お門違いです。iPhoneも同じく、誰がどう見ても確実にPalmデバイスを真似ていますし、NokiaやRIMからもよいところをたくさん真似ています。iTuneのビジネスモデルも先行した数多くのビジネスを参考にしています。今回iPhone4SでスタートしたiCloudに至っては、Googleが始めたビジネスモデルをそっくり真似したものでしょう。でも私は、製品進化のため、ユーザの利益のためには、それはそれでよいと考えています。真似る、参考にする…ことの許容限度を決めるルールとして、不完全なルールながらも「特許」が一応存在することにも意味があります。

 iPadもまた、iPodやiPhoneと同じく製品形態や機能アイデア自体は特に目新しいものではありません。タッチパネルを採用した同形状のWindowsのストレートPCなら1990年代から存在しましたし、2000年代入ってからはNECや富士通なども、主に業務用途を想定して普通にWindows機ラインアップとして普通に販売していました。当時はまだ、CPUやメモリの基本性能が低く、タッチパネルのポイント検出技術も未熟、加えて高解像度液晶は高価で、高性能化すればバカ高い価格にならざるを得ませんでした。さらに、高速のネット接続はコストが高く、3GでのMbpsレベルのネット接続はまだ実現していませんでした。だからこそ、業務用途以外では売れなかったのです。iPadは、CPUやメモリなど基本部品や構成デバイスの高機能化、低価格化が進んだ時期とうまく重なって商品化されました。そして何よりも、3GやWi-Fiによる高速ネット接続が低コストで実現する時期に商品化されたことで、コンテンツ配信が可能になり、タブレットPCにビジネス用途以外の使い途ができたのです。
 iPadもiPhoneと同じくアプリマーケットとの相乗効果で販売台数を伸ばしてきました。しかし今後は、iPadもiPhoneと同じく続々と登場しつつある高性能・低価格のAndroidタブレットとの競争の中で、iPhoneと同じく当面は徐々にシェアを下げていくでしょう。
 タブレット市場は2011年の上半期まではiPadの一人勝ちとなっていますが、下半期に入ってAndroidタブレットの販売が急伸しています。2011年第3四半期のタブレット市場シェアはApple iOSが1,110万台の出荷でシェア66.6%と依然として圧倒的にダントツ。Androidは450万台の出荷台数でシェア26.9%に留まっています。しかしAndroidタブレットは、前年同期の2.3%から十倍以上にシェア伸ばしています。2012年以降は、既にネットブックを利用しているライトユーザーの多くがタブレットへの買い替えを進めると見られています。タブレット市場は今後数年の内に大きく変化し、市場は何倍もの規模へと拡大していくでしょう。その今後拡大する市場の中で、iPadの優位性は徐々に薄れ、低価格のAndroidタブレットが大きなシェアを獲得していくはずです。
 そういえば先日Amazonが発表したAndroidタブレット「Kindle Fire」は199ドルという価格で、Android標準機能の他に、Amazonが持つ豊富なコンテンツが簡単に利用できることから、アメリカ国内に限定すれば単一機種でiPadを上回る販売数を予想する関係者も多いようです。レノボも2万円を切るAndroidタブレットを発売しました。iPadビジネスは、iPhoneビジネスと同様に、現在確実に曲がり角に来ています。
 アプリマーケットを含むビジネスモデルとしてのiOS機器は、確かにここ数年間、著しい成功を収めましたが、これが今後も持続するかどうかは全くわかりません。今後ともiPhoneやiPadがデザイン、操作性、ビジネスモデル等で市場に大きな影響力を与えていくことは確実ですが、シェアは落としていくでしょう。そして、それはかつてAppleのパソコンが辿った道と重なります。

 さらに、今後AndoroidがiOSに比して確実に市場シェアを高めていくと予想される理由があります。先日、こんな製品発表がありました。「カシオ計算機は20日、OSとしてAndroid2.2を採用し、アプリによって顧客/売上/予約管理などの機能を拡張できる店舗支援端末『VX-100』を発表した。同社製アプリのほか、対応アプリを開発できるソフトウェア開発キットも用意する…」(マイコミジャーナル 2011/10/20)
 こうした業務用機器へのOS搭載は、現時点ではiOSではあり得ない方向性です。iPadに専用アプリを入れて業務に活用する…といった使い方はすでに始まっていますが、あくまでiPadというAppleが用意したプラットフォームを使うことが前提です。iOSを搭載した業務用機器…は現在のAppleのビジネスモデルでは絶対にあり得ません。一方で、Andoroidは広範囲に搭載製品市場が拡大する可能性を秘めています。

ジョブズの「理念」について思うこと

 ジョブスは「世の中を変える、人々の生活スタイルを変える」という理念を持って製品作りをしてきた…のだそうです。しかし、MacやiPhone、iPadのビジネスモデルを見ていると、人々の生活スタイルを本気で変えようとしたとは、到底思えません。
 世の中を変えるためには、「誰もが、安く、製品やサービスを甘受できる」ようにしなければなりません。そのためには「競争原理が働くこと」が絶対に必要です。しかし、ジョブスがiPhone、iPadのビジネスモデルで目指していたのは、「競争原理を排除すること」でした。Apple社は、特許、しかも製品機能の本質とは無関係の特許までを振りかざして競争相手を威嚇・排除し、自社が唯一のサプライヤーとなることで、利益を確保しようとしています。

 現在のiOS機器とAndoroid搭載機器の関係は、1980年代のMacintoshとIBM-PCの関係と、非常によく似ています。
 「スマートフォンが世界を変える」「タブレットPCが世界を変える」ためには、発展途上の貧しい国の人々も含めて世界中の誰もが製品を購入でき、サービスを受けられる方向で普及する必要があります。例えそれが先のことであっても、少なくともそうした方向性を持ち続けるべきです。イメージや本質的機能とはあまり関係のない付加価値で高値で販売して利益を確保するiPhone、iPadのビジネスモデルでは、それができるとは思いません。おそらくその役割を担うのは、現時点ですら100ドル以下のスマホ、100ドル以下のタブレットを量産することが可能なAndroidのビジネスモデルです。
 iPhone、iPadをビジネスの中核に据えるAppleがいちばん恐れているのは、機能面で差がない製品を量産し始めたAndroid陣営と「価格競争」を強いられることです。だから、iPhoneとiPadは「価格以外の付加価値」を強力にアピールする以外にありません。iPhoneとiPadは、「値下げできない」製品です。例え量産によって値下げが可能になったとしても、値下げしてしまえばAndroid機との差別化をアピールできなくなるからです。Apple製品は「Cool」であるために、高い価格を維持せざるを得ません。

 「iPadがコンピュータを誰でも簡単に使えるものにした」と言っている人は、自分の所得、または、先進国の経済水準を基準に考えているような気がします。「誰でも」の中に、「本当に貧しい世界の人々」のことは入っていません。おそらくジョブズもそういう考えを持つ人だったのでしょう。だからこそ、製品からサービスまでを自社で完結し、あらゆる形で莫大な利益を吸い上げる「iOSビジネス」の仕組みを推進したのです。
 私はコンピュータが好きです。コンピュータには未来を変える力があると思っています。だからこそ、アフリカやインドの貧しい子供たちにも、等しくコンピュータが普及して欲しいと願っています。

 冒頭で紹介したBlogに「…Macintosh互換機は当時こそ選択肢が増えてありがたいという気持ちが強かったのですが、これはあるまじき姿であったと言わざるを得ません。Appleの哲学と美学はまさにハードとソフトの融合から生まれていた」…と書かれています。確かにMacは互換機戦略を失敗したし、近年のiOSの快進撃はクローズドな環境にこだわったから実現しました。しかし、これは「哲学」や「美学」などといったきれいごとからそうなったのではではないでしょう。きっちりと「利益」を確保するための、必然的な結論であったのだと思います。それはかつて、PC互換機のように、絶対的な出荷台数を確保できなかったMacintoshがとらざるを得なかったプロセスで、Apple社が身をもって学んだ販売方法であったはずです。iOS搭載機器は、かつてのMacintoshとは異なり、高価であるにも関わらず絶対的な出荷台数とシェアを獲得しました。その結果が、近年のApple社のすざまじい利益と時価総額の高騰を生んでいます。

 ubuntuを始めとするフリーLinuxの愛用者でもある私は、以前から「GNU」の理念が拡大することに大きな期待を掛けています。オープンソース=無償とは限りませんが、やはり低コストでOSやアプリを供給できるし、それ以上に多くの開発者とユーザが力をあわせて「よりよいもの」を作っていく姿勢とプロセスは貴重です。OSもアプリも使い方を限定すれば、極限の高機能を追う必要はありません。むしろ安価でそこそこの機能を持つ端末を広範囲に普及させる…方が、社会変革に役立つ場面が多いはずです。
 余談ですが、OS Ⅹ以降のMacOS、そしてiOSのベースに使われたオープンソースOS「Darwin」は、ずっと遡れば部分的にはFree BSDがベースとなっています。DarwinもFree BSDもフリーソフトウェアとしてソースコードと共に無償で公開されており、全世界のボランティアのプログラマの手によって開発が進められているものです。意地の悪い言い方をすれば、Apple社は、開発理念から言えば金儲けからもっとも遠いところにあったはずのオープンソースOSを金儲けに利用した…という見方だって出来なくはありません(カーネルのかなりの部分にLinuxを利用しているAndroidも似たようなものですが…)。こうした経緯を見ていると、リーナス・トーバルズが、いかに高い理念と理想をもっていたかが想起されます。そう、ジョブズと較べても…

 ところで、近年の、ジョブズ成功の要因は何でしょうか? パソコン分野で失敗したはずのAppleが、ジョブス復帰後に、こうまで大きな利益を上げることができたのは何故でしょうか? そこにこそ、ジョブズの真髄、経営者のとしてのジョブスの才能、そして本当のジョブズの理念があるように思います。
 一言で言えば、ジョブズ復帰後のApple社の方針、すなわちジョブスの方針は「信者を増やす」ことにあったのだと思います。「信者」という言葉にひっかかるものがあるのなら、「盲目的なAppleファンを増やす」と言い換えてもよいかもしれません。そのためにジョブズは、「カリスマ」を演じました。「演じる」という言い方は間違いかもしれません。エキセントリックで自我が肥大し、他人の目を意識しないジョブズには、もともと「カリスマ」になる素質があったし、Apple社はそうしたジョブズの存在の「広告塔」としての価値をよく心得ていたはずです。
 Apple社は、同社の全てのプロダクツ、とりわけMac、そしてiPod、iPhone、iPadについて、デザイン、機能、サービスをひっくるめて「Cool」と、無条件で受け入れて賛美するユーザ、「コアユーザ」を作り出すためのイメージ戦略に全力を挙げました。そしてそれは、間違いなく成功しました。
 特にこのイメージ戦略に見事に乗ったのは、iPodやiPhoneからApple社のプロダクツを使い始めた層です。
 例えば68000系Macの時代からのユーザであれば、Macを礼賛するにしても、たいていは私のようにMac以外のパソコンを使った経験を持っているはずです。だから、他社のパソコンと比較する術を持っています。iPhoneについても同じで、iPhone登場以前からPDAやスマートフォンを使っているユーザであれば、冷静にiPhoneの機能について判断できます。しかし、iPodとiPhoneのヒット以降、DAPはiPod、スマホはiPhone、タブレットデバイスはiPad、PCはMacbook Air…しか使ったことがないというユーザが増えました。こうしたコアユーザは、確実にApple社のプロダクツを買い支え続け、同社が提供するサービスにお金を遣い続けます。こうしたユーザ層を確実に増やし続けたことこそが、ここ数年のApple社の莫大な利益を生み出しました。いや、見事なものです。

 アップルは、マスコミも味方につけました。「アップル番記者の罪と罰」…という記事を読めば、アップルのイメージ戦略の片棒を担いだマスコミの実態がよくわかります。

 ジョブズが亡くなった日、TVのニュース番組を見ていたら、まだ大学生ぐらいの若い男性が、ジョブズの死を悲しんで本当にTVカメラの前で涙を流して泣いていました。その男性は「iPhoneとiPadで人生が変わった、ジョブズが自分の人生を変えてくれた、憧れの人だった…」と話しながら泣いていました。私は非常に違和感を持ったのですが、そんな不思議なユーザを産み出したことこそが、ジョブズの才能であったのだと思います。

 私は別にAppleのプロダクツが嫌いというわけではありません。iPhoneもiPodも使っていますし、仕事場にはMacもあります。しかし機能が同じであれば、どちらが面白いかと言えば、いろいろといじって楽しめないiPhoneよりも、USBやHDMI等の汎用I/Fを備え、簡単にrootを取って自由にカスタマイズできるAndroid機の方が絶対に楽しいというタイプです。「整然」としたiPhoneの世界よりも、「混沌」としたAndroidの世界が好きです。これは、「与えられる」よりも「自分の手で何かをやる」方が楽しい…という感覚に通じるものがあります。iPhoneの世界は、Appleに全てを与えられる世界…という感覚があります。

 ところで、私の会社では現在、受託でも自社でもiPhone用アプリの開発・販売を行っています。自社でアプリを販売しているとよくわかるのですが、同じアプリをiPhone向けとAndroid向けに販売すると、確実にiPhone向けが売れます。Androidの方が普及台数が増えつつあるにもかかわらず、iPhone向けアプリの方が市場が大きいのが実感できます。しかも、かなり差があります。要するに、iPhoneユーザの方が「確実にアプリ、コンテンツにお金を遣う」のです。
 さらにiPhone向けアプリの方が、「何が売れるか」「どうすれば売れるか」を、コンセプトしやすい。Androidのユーザ層は、あまりに雑然としていて、嗜好や消費傾向が掴みにくいのと較べ、iPhoneユーザの嗜好や消費傾向は、とてもわかりやすい。経験値として実感しています。

 私は、2004/8/30の日記で、次のようなことを書きました。この文を自分の日記に引用するのは2回目です。でも、あえてここで繰り返します。



 …Macユーザの第一の特徴が「インテリで所得が高め」だってのはよく知られているところ。アメリカのマーケット調査会社によって「Macユーザは Windowsユーザと比べて高所得で高学歴」という調査結果がしっかりと提示されています。でMacユーザは、この「インテリで高所得」に加えて「心情的反体制または自称オルタナティブ」であり、さらに「『文化』という言葉に弱い」という特徴を持つことは確実です。「Windowsのような体制派とは違う」という点にアイデンティティを見い出し、さらに「新しい文化の担い手」なんて言葉を聞くと、もう無条件で喜ぶタイプ。これって、マーケティングを考える立場からすると、「もっとも乗せやすい」ユーザ層ということになります。単純なミーハー層は流行に対する好みがどう転ぶかわからないし、ガチガチの保守派は逆に複雑なマーケティング手法を応用する余地が少ない。自らを革新的と考え、自分は流行に左右されないと自認している層こそが、実はもっとも「マーケティング手法を使って恣意的に流行を与えやすい」層であると言えます…

 まあ最近では、iPod、iPhoneがあまりに普及したので、さすがにiOS関連プロダクツのユーザ層には多様性が出はじめています。わけもわからず単にかっこいいからといってiPadを購入し、何に使っていいのかわからない…なんてユーザもいるようです。しかし確信犯的なiOSプロダクツユーザ層の基本的な消費傾向は、未だに大きく変わってはいません。
 ジョブズ復帰以降のApple社は、意識してこうした確信犯ユーザ層を作り出し、なおかつ自ら作り出したユーザ層に対して、効果的にたマーケティングを行うことで、莫大な利益を得てきたわけです。こんなやり方を成功させるなど、驚嘆すべきことです。ジョブズが、天才的な経営者であったと感心する所以です。


この項、終わり…

●スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (2)

Apple社の失敗

 ジョブスというよりも、彼が設立したApple社は、コンピュータの世界に、どんな「大きな変革」を起こしたのでしょうか。

 1980年代半ばまで、天才ウォズニアックが作り出したAppleⅡは、パーソナルコンピュータの代名詞でした。当時のパソコンシェアの正確な統計が手許にないのですが、1970年代の後半から1980年代初頭、パーソナルコンピュータのシェアでAppleは世界を大きくリードしていたことは確かです。この時点では、間違いなくApple社は、コンピュータ世界の変革者でした。Apple Ⅱは当初はオープンアーキテクチャであり、互換機も数多く登場しました。私の記憶にある1980年の時点の全米パソコン市場では、まだシェアトップはAppleです。ちなみに当時のシェア2位はコモドール、3位がタンディ・ラジオシャックだったはずです。
 しかし、1981年にIBMがオープンアーキテクチャを採用したIBM PCを世に出します。このIBM PC用に開発されたOS、MS-DOSを搭載し、インテルのCPUが採用されていました。このIBM PCは、発売とほぼ同時にいきなりパソコン市場でトップシェアを獲得します(1983年頃に500ドルで買える「コモドール64」が爆発的に売れてシェアを獲得した時期がありましたが…)。この時期に、まずはAppleⅡが売り上げを大きく落とし始めました。
 このあたりから、ジョブスが率いるAppleは迷走し始めます。AppleⅡの次機種AppleⅢで失敗したAppleは、IBM PCとコンパックなどの互換機に対抗するために満を持してLisaを投入、これがAppleⅢに続いて失敗に終わります。次いで1984年にマッキントッシュを投入してIBM PCに対抗しますが、結果的にAppleはPC互換機群に敗退してパソコン業界でのシェアをさらに大きく減らしました。
 当初MS-DOSを搭載したIBM PC(PC互換機)には、やがてWindowsというOSが載せられ、特にWindows95以降は、互換機が爆発的に普及しました。一方で、販売方針で迷走したあげく事実上パソコン市場でのシェア争いを放棄したマッキントッシュとMacOSは、その後さらにWindowsに水を空けられ、シェアの差は現在に至るまで詰まっていません。
 参考までに、2011年7月のOS別シェアは、Windows 87.60%、Mac 5.61%です。この数字を見れば「MacはWindows陣営の敵ですらない」というのが現実です。現在のシェアを、1970年代後半から1980年代初頭に至るパソコン市場でAppleが勝ち取っていたトップシェアと、現在の悲惨なシェア状況を比較すれば、Apple社はOSを含むパソコンビジネスを失敗した…と言う結論が自然に出てきます。Appleとマイクロソフトの両社は、ジョブス死後の現在でもよく比較されますが、パソコンビジネスにおける勝者、それも圧倒的な勝者は、客観的に見れば間違いなくマイクロソフトの方です。

 ご存知の通り、ジョブズはAppleの創業者ではありますが、群を抜いた技術者ではありません。AppleⅡもマッキントッシュも、そのシステムの全てをほぼ1人で開発したのは天才ウォズニアックです。そして、ガレージメーカーであった初期のAppleに投資して法人化し「企業」として船出させたのはマイク・マークラでした。むろん、AppleⅡ及びマッキントッシュの設計思想と販売方針にジョブスのアイデアが色濃く反映されたのは間違いありませんし、特にAppleⅡの開発・販売に絶大なる貢献をしたジョブスの功績は、讃えられるべきものです。
 しかし、AppleⅡが失速した1980年以降、AppleⅢ、Lisa、そしてMacintoshへと移行する過程においてもジョブズは大きな役割を果たしました。この時期ジョブスのApple社における影響力を大きいものと考えれば考えるほど、現在のWindows圧倒的優位の状況を見れば、AppleⅡ失速後のジョブズの経営方針が「間違っていた」という話になります。ジョブスはMacintoshとLisaの開発部門であるスーパーマイクロ部門の責任者であり、マッキントッシュプロジェクトもスタート直後からジョブスが前面に立って製造・販売の指揮をとりました。追放以前のジョブスが立てたマッキントッシュの販売計画は、学生や教育機関向けの大幅割引販売で一定の販売実績を上げた他は、基本的に無残な結果に終わっています。
 さらにジョブズは、Apple退社後に立ち上げたNeXT Computerでも、主力製品であるワークステーションのコストパフォーマンスの低さから、販売実績を上げることは出来ませんでした。ただ、NeXT Computer時代に開発したOPENSTEPについては、その後MacOS Xとなって現在のMacに引き継がれています。
 こうした事実を見れば、ジョブスに「時代の変化を見抜く目がなかった」、またジョブスが「パソコン市場の基本的な方向性を予測できなかった」…という評価を与えざるを得ません。

 ところで、ジョブズに対する評価のひとつとして、彼がコンピュータを「ビジネスの道具」から「創造するための道具」に変えた…という言説もよく見られます。しかし、少なくとも初期のAppleⅡは、趣味やゲームのユーザ以外は、あくまでビジネスや科学計算の道具として売れました。特に大学や研究機関によく売れたのです。第一、70年代のAppleⅡのCPU能力、画像処理能力では、クリエイターが仕事で使うにはちょっと無理がありました。初期のAppleⅡには、ワープロやプレゼン資料作成用途すらありませんでした。かろうじて表計算ソフトが一般の人でも利用していたぐらいです(80年頃には「AppleWorks」というオフィスソフトがありました)。
 ジョブズがAppleⅡをコンセプトした時点、またはlisa、Macintoshをコンセプトした時点で、「創造するためのパソコン」をイメージしていたわけではありません。むしろジョブスが在職していた当時、Macの初期の販売戦略は、当初はビジネス分野で普及し始めたIBM PCをライバルに想定したものです。また、落ち込んだMacの販売をてこ入れするために、マイクロソフトのビル・ゲイツに「Microsoft Office」のMac対応版の販売を依頼したのは他ならぬジョブス自身です。
 MacintoshがDTPやデザインのプラットフォームとしてクリエーターの間に普及したのは、パソコンの最大の市場であるビジネス用途分野をIBM PCとMS-DOS/Windowsに奪われ、結果的には苦し紛れにニッチな分野での普及を図った経緯によるものです。加えて、クリエイターというユーザカテゴリーが、Appleのイメージ戦略のターゲットになりやすかったためでもあります。そして、マッキントッシュがDTPやデザインのプラットフォームとして普及していった時期は、ジョブズがAppleを退職していたスカリー社長時代であり、このあたりの販売戦略には事実上ジョブスは関わっていません。

パーソナルコンピュータ普及の功績

 誰かがジョブス追悼文の中で書いていたように、「コンピュータは20世紀最大の発明のひとつ」だと、私も思います。特に「パーソナルコンピュータ」は、社会の仕組みや個人の生活のあり方まで変えてしまう、そんな存在だと感じていました。パーソナルコンピュータの製品化の歴史、普及の歴史において、特に70年代にAppleが果たした役割は非常に大きいことは、紛れもない事実です。AppleⅡは、「パーソナルコンピュータのあるべき姿」を私たちに提示し、日常生活の中に普通にパーソナルコンピュータが存在する未来を予感させてくれた製品のひとつでした。
 しかし、残念なことに70年代におけるパーソナルコンピュータは、まだまだ「社会を劇的に変える」ほどには普及をしていませんでした。そしてその絶対的機能も不足していました。AppleⅡがパソコン市場でトップシェアであった70年代は、パーソナルコンピュータがいずれ社会を変革する原動力になるだろうと、ジョブスを始めとする多くの人が確信してはいましたが、現実には誰でも買えるほど安価な製品ではなかったし、ビジネス現場で実務に使えるようなアプリケーションもほとんど存在していませんでした。
 こうして見ると、パーソナルコンピュータが「社会の発展」や「社会の仕組みの変化」に大きな役割を果たし始めたのは、一気に普及が進んだ80年代です。

 パーソナルコンピュータがこれほど身近になった21世紀の現在だからこそあらためて思うのですが、パーソナルコンピュータの存在と機能が世界を変えたのだとしたら、それは「世界中に広く普及した」からです。
 そして歴史的に見れば、「パーソナルコンピュータを世界に広く普及させた功績」は、Apple社よりも、パーソナルコンピュータを一気に安価なものにするきっかけを作った「IBM PC」という製品とその開発チームの方がずっと大きいと思います。パーソナルコンピュータを安価に提供して「個人でも低所得の新興国ユーザでも使えるようにした」ことが、本当のイノベーションです。事実、「パーソナルコンピュータ」という言葉は、IBM PC互換機そのものを意味する言葉として社会に広まりました。
 1981年に発売されたIBM PCは、早期参入実現のために市場で入手可能な部品だけで構成され、周辺機器の普及のためにオープンアーキテクチャとして回路図やBIOSのソースコードを各社に公開しました。さらに、主力のオペレーティングシステムであるPC DOSを「MS-DOS」の名称でマイクロソフトから各社にOEM供給する事を認めたため、誰もが簡単にパソコン製造・販売ビジネスに参入することを可能にしました。このビジネスモデルこそが、パソコンを一気に低価格化する原動力となりました。今日、台湾や中国のメーカーが低価格PCを量産し、それが発展途上国も含めて世界中に普及しているのは、やはりIBM-PCの優れたオープンアーキテクチャ設計思想のおかげです。

 翻って、1980年代半ば以降のApple社はこのIBM PCとは全く逆の道、すなわちクローズドなアーキテクチャのMacを「ブランド力とイメージ」で高く売る…という道をひた走りました。現在のiOS機器と同じです。一時期、苦し紛れに互換機戦略をとったものの成功せず、販売戦略は迷走を続けました。
 1990年代から2000年代前半にかけては、MacintoshはWindows機と比較してバカ高い価格設定でした。本体価格だけでなくメモリなど内部の増設・交換用パーツから周辺機器に至るまで、非常に高価でした。高価なものを売るために、とりわけイメージ戦略を重要視しました。その結果「利益の確保」という面では「一定の成功」は収めましたが、実際の普及ベースでは、Windows95以降はWindows陣営に大きく水をあけられることになったのです。

 そして、こうした考え方の延長線で見れば、今後タブレットデバイスも含めて安価なコンピュータの普及により大きな役割を果たすのは、特注部品、特殊なI/Fやコネクタを多用するiOS搭載製品ではなく、汎用部品と汎用I/Fで構成されるAndoroid搭載製品である…という結論が容易に見えてきます。

 Macを礼賛する人の多くは、Macの独特なユーザインタフェースと操作性を絶賛し、一度Macを使ったら絶対にWindowsの世界には戻れない…などと言います。UIは感覚的な問題が大きく良否判断は個人差がありますので、どう感じるのも自由です。ただ私は、Windows登場以前に長い間「無機質なMS-DOSのUI」と「遊び心があるMacのアイコンベースのUI」を併用してきました。そして、DOSがWindowsに変わってからも、MacintoshとWindows機を併用して毎日の仕事をこなしてきました。しかし、どの時代でも別にどちらのUIが優れているかなどと特に考えることもなく、必要に応じて普通に両者を併用してきました。
 実際にMacの独自のUIと操作性が、本当にそこまで万人にとって優れたもの、とりわけDOSに対する優越性があったのなら、少なくともMS-DOSの時代に、MacintoshはIBM PCとその互換機を圧倒していたはずです。日本市場で見ても、PC9800シリーズは完全にMacにとって代わられていたでしょう。しかしそうはならなかった…、どころか結果は逆だった、というのが事実です。ましてやアイコンベースのUIを採用したWindwsの登場以降は、MacintoshはWindowsに全く太刀打ちできませんでした。それが、現在のOS別シェア、すなわち「Windows 87.60%、Mac 5.61%」などという数字につながっています。厳然たる事実として、Macintoshは売れていないのです。過去にも、Windows機と拮抗するほど売れた時期は一度もありませんでした。
 だいたいUIなんてものは、慣れの問題が大きく、実際はどれも大差がありません。MacもWindowsも大差ないばかりか、最近はLinuxだって似たようなものです。私は現在、Ubuntu11.04を使っていますが、これも非常によくできたUIです。初期のLinuxのX Windowとは比較になりません。結局、キータッチベースのUIだろうと、アイコンとマウス操作をベースとしたUIだろうと、マウスが1ボタンだろうと2ボタンだろうと、画面タッチ型のUIだろうと、慣れれば何でも同じです。そして言うまでもないことですが、アイコンとマウスで操作するUIも画面タッチ型のUIも、Apple社が最初に開発したというわけではありません。

スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (3)へ続く…

●スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (1)

 Apple創業者のスティーブ・ジョブズが死去して、1ヶ月近く経ちました。依然として、リアル社会でもネット上でも、ジョブズの死を惜しみ、嘆き、業績を称える声が溢れています。自伝ははつばいされるやいなやベストセラーとなり、書店には自伝以外にも「ジョブスの言葉」「ジョブズの教え」的な書籍が山積みになっています。
 米カリフォルニア州は、10月16日を「スティーブ・ジョブズの日」とすることに決めたそうです。パロアルトでクリントン元米大統領ら著名人が多数出席してスティーブ・ジョブズ氏を偲ぶ追悼式典が行われた…とのニュースもありました。

 CNET Japanブログで「スティーブ・ジョブズからの贈り物」という一文を見つけたので、その一部を引用させて頂きます。
「…AppleはSteve Jobsの類い希な情熱と信念によって導かれてきました。それは決して儲けるためではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行われたことです」
「…Jobsの思想と業績は、あらゆる所に影響を及ぼしています。もし彼がいなかったら、Androidやタブレットは今の形にはならず、音楽配信システムはどれも鳴かず飛ばずだったでしょう。もちろんMacも無いのだから、PCがどのように進化していたのか想像すらつきません」

 現在のApple社の利益と株式の時価総額を見る限り、復帰後のスティ-ブ・ジョブズが「図抜けて優秀な経営者」であったことは疑いようがありません。しかしそのジョブズは、「金儲けではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行なった人」なのでしょうか? ジョブズがいなければ「Androidやタブレットは今の形にはならなかった」のでしょうか? 「MacはPCの進化に大きな影響を与えた」のでしょうか?
 さらには、彼の生前・死後を問わず多くの人が口を揃えて言うように、ジョブズは「IT業界のイノベーター」だったのでしょうか? ジョブズにはIT技術と人間の関わり方について本当に「未来が見えていた」のでしょううか? ジョブズは常に製品に対する「明確なビジョン」を持っていたのでしょうか? ジョブズは我々に「コンピュータの本質」を教えてくれたのでしょうか? そしてジョブスは「世界を変えた天才」だったのでしょうか?

 知っている範囲での、コンピュータ業界におけるジョブズの軌跡、創立以降のApple社の発展経緯を見る限り、私はけっしてそうは思えません。

 むろん、ガレージメーカーからスタートしたApple社創立の経緯は、夢のある素晴らしい物語でした。そこで生み出され70年代末にアメリカのパソコン市場を席巻したたAppleⅡ、この物語の中でジョブスが果たした役割は、まさにパーソナルコンピュータ史上に輝くものでした。
 そして1997年のApple復帰後に限定すれば、ジョブズが優秀な会社経営者であったことは事実です。「晩年のジョブス」が、カリスマ的な経営手腕を見せたことは間違いありません。
 一方で、AppleⅡの販売が失速し始めた1980年頃から、Appleを離れるまでの1990年代半ばまでの彼の企業経営はかなり行き当たりばったりであったように思うし、彼の影響下でAppleという会社が作り出したプロダクトと企業の発展経緯を見る限り、ジョブスはもともとコンピュータの将来に対して夢は持っていても、「確固たる見通し」なんてものは持っていなかったように感じています。

 今、世の中には様々な「ジョブズ語録」が公開されています。「公認」の自伝も出版されました。ジョブスが言葉で語ったとされる「夢」や「理想」「理念」、それはそれで立派なものかもしれません。しかし、ジョブズが興したAppleという会社がコンピュータの発展の中で果たした役割、AppleⅡから昨今のiOS搭載製品に至るまでのApple社のプロダクツとビジネスモデルを見ると、私にはジョブスの語る言葉がずいぶんと色褪せて聞こえてしまうのです。

 今回発売された自伝の中で、ジョブズは「私は、Androidを叩き潰すつもりだ。Androidは(AppleのiOSから技術を)盗んだ製品だからだ。そのためなら核戦争だっていとわない。この不正を正すのに必要であるなら、人生最後の日々をすべて使っても、銀行にあるAppleの400億ドルをすべてつぎ込んでもかまわない」…と語っていたそうですが、こうなるともう「傲慢」としか感じられません。
 また同じ自伝の中で、「ビル(ゲイツ)は基本的に想像力がなく、何も発明してこなかった。だから、テクノロジーより慈善活動をやっている今の方が心地良いのだと思う」と発言。さらに、「彼は臆面もなく、他人のアイデアを盗み取った」とこき下ろした…とのことです。私は、ジョブスが、ビル・ゲイツと比較してそれほど優れたビジネスリーダーであったとも思えません。また、ジョブズはいったい何を「発明」したのか、今ひとつわかりません。

 さて、別にスティーブ・ジョブズという人物の悪口を書きたいわけではありません。むしろ、ジョブスというほぼ同時代に生きた人間の死に、自分というちっぽけな人間の生きてきた道を重ねて、ある種の感慨、共感の気持ちを強く持っています。多少なりともコンピュータや通信の世界に関わってきた人間として、ジョブズの功績は高く評価しています。ジョブズ賛辞が溢れる中で、ジョブズ追悼の意を込めて、ここは私とAppleとの個人的な関わりについて、そして私にとってのジョブズ、または私の中でのAppleという企業の位置づけを確認するためにも、少し長い話を書いてみたいと思います。
 こんなひどい文章、誰かに読んでもらいたから書くのではありません。だから、考えをまとめずに思いつくままに書きます。ちょっと長いし、とりとめもない文になるでしょう。また、記憶だけに頼って書いていくので、事実関係や年代表記、前後関係、商品名表記等にいくつもの誤りがあるでしょう。気が向けば、読み直してきちんとした文章に直すかもしれないし、このまま放っておくかもしれません…

1970~80年代頃のこと

 アマチュア無線が好きだった私は、1970年代の初め頃からから「コンピュータ」「マイコン」という存在に魅了されてきました。むろん技術者としてではなく、あくまで「ただのユーザ」としてです。高校の3年の頃、よく読んでいたアマチュア無線雑誌に掲載されるマイコン関連の記事に強い興味を覚えましたが、当時は値段も高く、マイコン関連製品には手が出ませんでした(大学時代に発売されたTK-80ですら8万円以上だった…)。実際にパソコンを買ったのは、自分である程度お金を稼げるようになってからです。最初は1979年に発売されたPC8001(15~6万円?)を購入、その後1980年代前半までは国内外の様々な8ビット機をいろいろと買い込んでは遊びました。当時私は20代の半ば頃ですから、遅れてきたパソコン少年(?)だったわけです。もっとも「PC8001」を買った年にはバイク(ヤマハ「SR400」)も買ったので、ローンで首が回らなくなった記憶があります。
 遊び以外の用途では、PC8801とプリンタ、そして外付けの8インチFDDを購入して、ワープロソフト「JET-8801A」で、自宅で仕事の原稿書きに活用していた時期もありました。ニューヨークと東京を行ったりきたりしていた頃ですから、1982~3年でしょう。

 一方で1984年に独立して現在の会社を設立してからは、あらゆる業務にNECのPC9800シリーズを導入して使い始めました。1984年から約10年間で、9800シリーズとその互換機を何十台購入したのか記憶に無いほどです。Windowsは2.0から使いましたが、その後Windows3.0から仕事でDOS/V機(PC-AT互換機)を本格的に使い始めました。TCP/IPが実装されたWindows95以降は9800シリーズから完全に離れてDOS/V機を大量に導入してきました。また、80年代に入って最初はP2Pでのパソコン間通信、その後80年代半ばからパソコン通信ネット、90年代に入ってすぐの頃からインターネットをフルに活用してきました。ここまでは、私の世代の人間としてはごく普通の体験だと思います。

 そんな私は、1980年代の後半から90年代の半ば頃にかけて、仕事でAppleという会社、そしてMacintoshというPCとかなり深い関わりを持った時期があります。それのみならず、「マック・エバンジェリスト」として、またパソコンDTPの普及のために、Macintoshの素晴らしさ、Apple社の企業文化の素晴らしさを各所で伝道師のように説いて回ったものでした。

 AppleⅡの時代には、あくまで個人で使う「お遊びパソコンの1つ」に過ぎなかったのですが、確か1985~6年頃に、たまたま仕事上の必要から当時のAppleの総代理店であったキヤノン販売がMacintosh 512Kに日本語ROMを搭載して売り出した「DynaMac」を会社で購入したのが、Apple社のコンピュータとのビジネス現場での出会いです。その後、コンサルの仕事をきっかけに、日本の某システム開発会社が有名なMac用DTPソフトの日本語化を進めるプロジェクトに関係し、さらに大手電機メーカーのMacintosh用アミューズメントソフトの開発プロジェクトに関わりました。Macintoshとレーザーディスクを組み合わせたインタラクティブソフトの開発にも関わりました。
 そんな経緯から1988年の1月、サンフランシスコで開催されたMACWORLD Expoを初めて訪れました。以後、Macintoshの世界にどっぷりと嵌りました。Plus、SE、SE30、Ⅱ、Ⅱfx、Cx、Ciあたりまでの時期は、受託の仕事だけでなく、社内にソフトウェア開発部門を立ち上げ、Macintosh用ソフトの開発に自社で直接携わり、Apple社のオフィシャル・デベロッパーとして周辺機器のドライバの開発なども行ないました。1988年以降、1990年代半ばまで毎年のように8月のボストン、1月にサンフランシスコで行なわれるMACWORLD Expoに出張し、Appleの本社を訪れたりしたのも、今となっては懐かしい思い出です。
 ちなみに、Macintosh以外にも68000系のビジュアルシェルPCは個人的な趣味で購入し、1980年代後半には、Atari「520ST」、AMIGA「1000/2000」、シャープ「X68000」などを購入したことを思い出します。

 なぜ私は、一時期とは言え、これほどMacintoshに夢中になったのか? Macintoshの伝道師まで務めたのか? 答えは簡単です。そして、おそらく同世代の他の人と同じです。MacintoshやAtariなど1980年代半ば頃までの68000系のビジュアルシェルPCには、「オルタナティブな匂い」があったからです。
 Appleが創業した1970年代前半は、「パーソナルコンピュータ」それ自体がオルタナティブな存在でした。よく言われることですが、ジョブス、ウォズらがAppleという会社を作った背景には、もともと西海岸のカウンターカルチャーが存在したように私も感じていました。世界で最初にグラフィックUIとマウスオペレーションを実現した「Alt」で知られるパロアルト研究所の運営形態や一時期ジョブスが勤めていたAtari創業の背景にも、根っこには同じカルチャーがあったのしょう。遡れば、1968年を前後して世界的に高揚した「異議申し立て運動」、すなわちアメリカの公民権運動、ベトナム反戦運動、パリ5月革命、文化大革命、世界中で連動した学生運動…に始まり、そこから派生して西海岸で生まれたたヒッピーカルチャー、アシッド・カルチャー(ドラッグ文化)…、それらの残滓、残り香のようなものです。ジョブス自身が、そうした文化に影響されていたことは、自身の口から語られています。
 70年代に生まれたApple2だけでなく、80年代のMacintoshにも、まだそうした「カウンターカルチャーの香り」が残っていたからこそ、「マックを売りまくった『フリーセックス』ヒッピー・コミューンの歴史」…、こんな話も出てきたのでしょう。そして私もまた同じでした。
 Macintoshというパソコンには、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーの雰囲気、サンフランシスコを舞台に活躍したグレイトフル・デッドやジェファ-ソン・エアプレイン、アルバート・キング、ジョニ・ミッチェルらのサウンド、フィルモア・ウェスト(オーディトリアム)やウィンターランド・ボールルームの歴史に共通する「懐かしい匂い」が残っているように思いました。

 一方で、私が現在の会社を興した1980年代半ばから1990年代半ばにかけての10年間は、日本ではPC9800シリーズが絶対のシェアをとっていました。PC-9801F3が発売ざれた1984年のNECの国内パソコン市場シェアは約50%、1985年にはNECのシェアは約90%ぐらいはあったと思います。そのPC9800は、誰もが知る通り非常にクローズドなパソコンでした。バスなどの規格も固有のもので、周辺機器も増設機器もほぼすべてが98専用の製品を必要とした、ある意味で面白くもなんともないPCでした。PC9800に席巻された日本のパソコン市場は、新しいコンセプトのパソコンが生まれない、閉塞の時代を迎えていました。

 そのPC9800と較べて、初期の68000系Macは新鮮でした。例えばゲーム。Macのゲームで私が今も思い出すのは、「puppylove」です。これは1985~6年頃のパッケージだったと思いますが、犬に芸を教えながら育ててコンクールに出す…という内容で、一種の「育てゲー」です。当時の日本には存在しない雰囲気を持つゲームでした。「Vintage Mac Museum」というサイトに画面キャプチャーがありますが、モノクロモニタに映るpuppyloveの画面が非常に懐かしく思い出されます。当初、犬小屋の形をしたパッケージで売られていました。また、同じサイトにキャプチャーがありましたが、「ALICE CATCHR」も個人的には懐かしいソフトです。当時のゲームパッケージ、今も大事にとってあります。
 ゲームではありませんが、ビデオメディアと組み合わせたインタラクティブソフトにも面白いものがたくさんありました。「ミミ号の冒険」なんかは、今でも記憶に残っています。

 私自身、1980年代の後半頃からは、仕事で毎年のようにサンフランシスコを訪れていました。80年代の終わり頃からは、前述したようなMacの仕事に関わった関係で毎年1月にサンフランシスコで開催されるMacWorldExpoにも行くようになりました。当時のMACWORLD Expoの会場は、珍しい周辺機器を展示していたり、ユーザが中古のパーツや周辺機器を売っていたり、お祭り騒ぎのようで楽しかった。会場では、あのSE30を専用のショルダーバックに入れて肩に掛けて歩いている人をよく見かけました。アメリカ人は体力があるなぁ…と感心したものです。当時、サンフランシスコの中心部、ポストストリートがマーケットストリートにぶつかるあたりに、ソフト・ショップのEgghead(今は実店舗がなくなった全米チェーン店)があって、そこでよくEDUCORPのMacintosh用フリーソフト(今で言うシェアウェア)の入ったフロッピーを大量に買ってきました。そういえばEggheadでは、当時でも発売後ずいぶん経つコモドール64のゲームソフトなんかもまだ売ってました。またサンフランシスコ出張時に、Amiga 500やtandy「TRS-80 Model 100」など日本で入手しにくいパソコン本体をソフトとともに購入して、手荷物で日本に持ち込んだりもしました。
 余談ですが、1月にサンフランシスコを訪れると、ちょうど冬物のバーゲンシーズンにあたります。BARTに乗ってシスコ郊外のバークレーに出掛け、駅を降りてUNIVERSITY.AveをUCLAの反対側、サンフランシスコ湾の方へ下っていくと、右側にTHE NORTH FACEの巨大なファクトリー・アウトレットが、次いでさらに海に近いところにSierra Designsのファクトリー・アウトレットがありました。毎年、大量に買い物をしたのも懐かしい思い出です。Sierra Designsの定番の60/40マウンテンパーカが、ちょっと傷ありで100ドル前後で買えたのですから…

 取引先企業の研究所があったパロアルトやサニーベイルに、カルトレインに乗ってのんびりと行ったこともあります。また、シカゴなど東海岸からサンフランシスコへ移動中の飛行機が、サンフランシスコ湾に向かって高度を下げていく時、Appleの本社の上空を飛びます。そのとき、Apple本社の屋上に大きなリンゴの絵、初期のカラフルなAppleのロゴが見えると、わくわくしたものです。
 ともかく、当時のMacを始めとする68000系のビジュアルシェルPCとそのアプリケーション群には、日本で主流であったPC9800にはない、新鮮な雰囲気と自由な発想があったように思います。

 さらに私がMacに強く惹かれた理由のひとつに、DTPシステムの存在があります。MacがもたらしたパソコンDTPは、まさに「出版民主主義の実現」という言葉がふさわしいものでした。莫大な手間と機械とコストを必要とした組版をPC上で実現できたのですから…

 そんなMacとそれを取り巻く文化に対する期待と憧れが、次第に薄れていくのには、それほど長い時間を必要としませんでした。それはMacintoshが、あまりにもクローズドな世界へと閉じていったからです。オープンアーキテクチャの安価なDOS/V機が急速普及していく中で、いつまでたってもMacは増設パーツも周辺機器もバカ高く、IEEE1394(FireWire)とSCSIにこだわるなどI/Fまで特殊な路線が続いていました。そんなMacintoshへの関心は、徐々に失われていきました。Macは「イメージだけで売る高価なパソコン」と感じるようになってきたのです。

 実際に、Macは非常に価格が高かった記憶があります。1984年のMacintosh 512Kの本体価格が90万円、1988年に買ったMacintoshⅡの本体価格は70万円、純正モニタなど周辺機器を入れてメモリを増設したら120万円を超えました。1990年にDTP用に購入したMacintoshⅡciは、本体価格が140~150万円、Apple LaserWriter NTX-ⅡJは120万円、フォント入りHDDが20万円、純正CD-ROMドライブが20万円…と一式で300万円を超えました。今から考えるとバカバカしいほどの値段です。1990年頃のPC9800も高かったのですが、互換機(386マシン)なら上位機で平均で50~70万円程度でしたから、毎年のMacの複数台導入は経営面にも非常に負担になった記憶があります。

 80年代に入ってからオルタナティブカルチャーが衰退しアメリカの社会が変質していく過程と同じような過程を辿り、80年代半ばからAppleやAtariを含む西海岸コンピュータ文化の変質が始まりました。パーソナルコンピュータの機能面の劇的な進化に対応するように、パーソナルコンピュータとその周辺からオルタナティブなカルチャーが失われていったのです。90年代に入ると、シリコンバレーを含むベイエリアのコンピュータ産業はますます商業化、資本の集約化が進み、一方ではApple、サンマイクロ、シスコの成功に倣って一攫千金を狙うベンチャー企業が急増し始めました。文化から産業へ、夢から拝金へ…これが、パーソナルコンピュータを巡る基本的な流れとして90年代に定着しました。90年代の半ばには、ネットスケープ、Yahooが相次いで設立され、ネットビジネスの時代が始まります。
 むろんこうした見方は私の個人的な感想であり、もっと別の見方もあるでしょう。いずれしても、私がMacに対する興味を失っていったのは、まさにこの時期です。

 逆に、PC互換機陣営には圧倒的な勢いがありました。1990年にWindows3.0が登場しました。OSとしての完成度は、2.0までのWindowsをはるかに超えて、使いやすいものになっていました。1991年に試験的にIBM PC、すなわちDOS/V機を購入し、PC9800と比較併用する状況になりました。Windows3.0まではまだNEC版も使いましたが、さらにOSとしての完成度が高まった3.1の日本語(マイクロソフト版)が発売された1993年には仕事で使うDOS/V機(PC-AT互換機)を本格的に大量導入し、事実上社内でPC9800の利用をやめることにしました。安価で高性能なPCを自由に内外のメーカーから機種を選択して調達できる環境になったのです。486マシンが普及し始めたこの頃には、秋葉原には安価なショップブランドのPCを売る店、自作用のパーツショップが急激に増加し、コストパフォーマンスが高いPCをいくらでも簡単に調達できるようになっていました。
 こうした時期、つまり1990年代の半ばには、値段がバカ高い上、クローズドなMac環境にかなり嫌気が差してきており、Macintoshより安価でオープンなDOS/V機の環境でDTPを実現したいと考え、いくつかのメーカーのプロジェクトに参加もしました。

 いずれにしても、こんな感じで一時期のMacintoshに入れあげた私から見て、現在のMac、そしてMacだけでなく、iPod、iPhone、iPadを含めたApple社の全てのプロダクトは、全く魅力がありません。理由は簡単です。あまりにも「クローズドな世界」だからです。


スティーブ・ジョブズとは何者だったのか? (2)へ続く…