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2010年08月24日

●メディアの「危機耐性」

 Twitterではつまらない本だと感想を書いた光文社新書「街場のメディア論」(内田樹)を読んでいたら、ラジオというメディアが優れているのは「危機耐性」が高いから…と書いてありました。「送受信共に大掛かりな設備がいらない」という点がその理由ですが、これには私もまったく賛成です。中でも、小出力でも長距離伝播特性に優れた「中波放送」は、特に危機耐性が高いメディアと言えます。
 実際に、太平洋戦争中の日本で連合国側のラジオ放送を聴いて大本営発表のウソを知っていた日本人は多いし、今の北朝鮮の人民がこっそりと西側の情報を知ろうと思ったら、少ない部品で組みたてられる中波ラジオで知ることが出来るし…等々、ともかく、非常に安価で簡単な構造の受信機で「情報を受ける」ことが出来る点は、危機管理メディアとしては大きなメリットになります。TV放送などは、ラジオに較べれば送受信のシステムが複雑ですし、高コストであり、危機耐性が高いとは言えません。
 一見、様々な局面で使えそうな携帯電話システムなんかは、非常に危機耐性が低いメディアと言えます。携帯電話なんてものは、ちょっと停電になっで基地局への給電が止まったら使えなくなるし、それ以前にテロなどで基幹インフラシステムが破壊されたら、簡単に再興することは不可能です。無線なら、アマチュア無線の方がはるかに危機耐性が高いのは言うまでもありません。

 で、その中波ラジオ放送ですが、受信の方はコイルとダイオードとバリコンだけのゲルマニウムラジオで受信できるほど簡単ですが、実は送信システムの方も非常にシンプルです。
 私は、小学校の高学年になった頃、親に買ってもらった「子供の科学」に掲載されていたμ同調コイルを使ったゲルマニウムラジオを自作したのが始まりで、中学生の頃にはラジオ製作に没頭しました。今は廃刊になった誠文堂新光社「初歩のラジオ」やラジオ技術社「ラジオの製作」などを見ながら、1石ラジオ、単球ラジオ、3球スーパーなどを次々と作りましたが、そんなラジオ工作の中に「単球AMワイヤレスマイク」がありました(こちらの記事のようなヤツ)。要するに「中波送信機」です。こうした単球AMワイヤレスマイクを何台か作ったことがありますが、部品数も少なくごく簡単に作れるのに、前述した記事中にあるようにコイルとバリコンで同調を取りきちんとしたアンテナを繋ぐと、これがけっこう飛ぶんです。確実に電波法違反です。要するに中波の放送局なんてものは、こんな簡単に作れるものです。
 むろん、現時点で中波ワイヤレスマイクを作るのなら増幅には真空管ではなくICを使えばいいし、発信部分は中波のラジオに使う局部発振回路用のコイルなどを流用して、非常に少ない部品と簡単な回路で出来てしまいます。

 仮に、地球上にエイリアンが攻撃してきて、地球上のあちこちの辺境地域に少数の人類が残された…といった状況を想定します。あらゆるインフラが破壊され先端的な通信手段が何も使えない状態、さらに電子部品のような物資がほとんどない状態で、互いに連絡を取り合うため、また地域内に生き残った住民に連絡するためには、おそらく中波放送を利用するのがベストでしょう。

 中波送信機とは無関係ですが、こんな工作記事も、非常に興味深いですね。

2010年08月17日

●トヨタ電子制御に欠陥なし…?

 「トヨタ電子制御に欠陥なし」 それでも「シロ」と言わない米メディア
…というニュースがありました。確かに調査結果ではトヨタに非がなかったようですし、アメリカの官民挙げてのトヨタ叩きもひどいものです。ただし、だからといってETCS誤動作問題が本当に「完全にシロ」かどうかは、個人的には怪しいものだと思っています。

 私は、トヨタのETCSに限らず「エンジンの電子制御」を根本的に信頼していません。当たり前の話ですが、コンピュータは「誤動作」をゼロにすることはできません。ソフトウェアのバグもゼロにすることはできません。むろん、限りなくゼロに近づけることは可能だし、適切なフェイルセーフ機能を搭載すれば、誤動作による「暴走」のような事態は理論上は防げるわけですが、あくまで「理論上」であり、それでもなおかつ「100%安全」はあり得ないと思っています。

 私は、クルマのエンジンの電子制御の歴史についてはあまり詳しくはないのですが、長い間バイクには乗ってきたので、点火システムがポイントから電子制御に変わる、ちょうど変わり目の時期を知っています。エンジンの電子制御は、点火タイミングのフルトランジスタ化、そして一種の電子点火制御システムであるCDI(PEI)から始まったと理解しています。
 昔は一般的だったポイント点火の原理は、概ね次のようなものです。まず、エンジンの回転カムが回転して、ポイントの電極を開けたり閉じたりします。この開閉によりバッテリーからコイルの一次側に12V(バイクの場合6Vもあります)の電圧が掛かります。これを昇圧して2次コイル高圧電流を発生させ、ローターによって各気筒に切り替えて各気筒のプラグに流れて点火する…というものです。
 この方式ではカムの機械的動作が点火タイミングを制御しているため、エンジンの回転数が高速になると点火タイミングにズレが生じやすくなります。また、ポイントの電極の劣化(磨耗)によっても点火タイミングにズレが生じます。
 このポイント点火が、マグネットとセンサを使って点火タイミングを制御するCDIシステムへと代わっていったのは、バイクの場合は、確か1960年代の後半あたりから…と記憶しています(記憶だけ書いているので正確ではありませんが…)。1970年頃のカワサキ「マッハⅢ(H1)」はCDI点火だったので、このあたりがバイクへのCDI点火採用のハシリでしょう。個人的には、初めて電子点火を採用したバイクを自分で買ったのは、1975~6年頃に購入した1972年型のスズキ「ハスラー250」で、このオフロードバイクがPEI点火だったのを覚えています。
 私は、この電子点火への移行を、当時不安に感じました。ポイント点火の場合、ポイントを磨く、カムを調整する…ということは目で見ながら自分やれたのに、CDIになったら点火システムはブラックボックスになってしまったからです。バイクなんてものは、エンジンを含めていったん全ての部品をバラバラにしてまた組み立てられるぐらい「単純」で「冗長性」がある乗り物だからこそ、安心して乗れた…のだと思います。それが、CDIが普及し始めた頃から、なんとなく「素人には手が出せない」部分が増えていき、それが逆に不安につながったように思います。
 さてその後、バイクにも大型車の一部に電子制御式燃料噴射装置が採用され始めた頃、確かカワサキの大型バイクだったと思いますが、交差点にある信号機の制御システムからの漏れ電波で電子制御式燃料噴射装置が誤動作する…という問題が騒がれたことがあります。停止中のバイクが突然エンジンの回転数が上がったとか、走り出そうとしたら暴走したとか…そんな事件がありました。

 さて、クルマのエンジン電子制御ですが、過去数十年間で「ブレーキとアクセルの踏み間違い」とされてきた事故のうち、何パーセントかは、おそらくAT車ならオートマの暴走、さらには電子制御の誤動作等が原因ではなかったかと、私は疑っています。
 自動車メーカーにとっては、電子制御の誤動作の存在を認めることは死活問題です。おそらく世界中の自動車メーカーは、多大な努力を払ってエンジン電子制御の問題点を隠そうとしてきたでしょう。まあ、それはそれでよいとしても、最初の話に戻りますが、コンピュータを含めて「電子回路」なるものは、一定の頻度で誤動作を起こすものだと考える方が自然です。ましてや、けっこう複雑なソフトウェアで制御されている昨今の自動車は、長年ソフト会社をやってきた私から見て、ソフト部分で何も問題が起こらない方が不自然だと感じてしまいます。

2010年08月05日

●大学生の半分が本を読まない…

 ちょっと前の中日新聞のコラムに「もったいない」…という記事がありました。2chで「学生の約半分が、まったく本を読まない。 もう完全に日本終わってるな…」というスレが盛り上がっていたので、ドアブロ(vol.011)によって今日になって知った次第です。
 このコラムのデータは金沢大の学生相手の調査結果だそうですが、金沢大と言えば、国立大学の中でも「難関」と言ってもよい大学。要するに、かなり入学偏差値の高い大学です、ここで「偏差値」という指標を出すのも批判の対象になるかもしれませんが、まあぶっちゃけた話、「偏差値の高い大学の学生ほど本を読む」と言い切っても大きな間違いではないでしょう。そうなると、日本の大学生の中で、金沢大学よりも偏差値の低い大学に通う学生が、少なく見積もって70%以上でしょうから、実際には「大学生の半分以上は、まったく本を読まない」と言っても間違いなさそうです。
 あまりにもヒドイ話で、悲しくなりますが、だいたい本を読まなくても大学生としてやっていける…というのが間違っています。ここでは、リベラル・アーツ教育の重要性なんて話を書くつもりはないのですが、少なくとも「教養がない大学生」という言葉は、矛盾の塊でしょう。大学生こそは、高い教養を身に着けているべきですし、教養のない人間が大学生でいられるべきではありません。

 そこで、これもかなり前のネタですが、「米・コロンビア大学の1~2年生必修コアカリキュラムは『西洋古典常識』徹底履修 毎週古典文学・思想の課題図書を読み、議論し、レポートを書く」…という「天漢日乗」さんの書かれた記事を思い出しました。

 まずは、以下のリンク先をお読み下さい。

コロンビア大学のコア・カリキュラム(1)
コロンビア大学のコア・カリキュラム(2)
コロンビア大学のコア・カリキュラム(3)

 ちょっと長いけれど、以下に「天漢日乗」さんの書かれた記事を引用させてもらいま



 …まず、コロンビア大学の1年生が文系・理系問わず履修する必修の文学を読むコースの課題作品。2コマぶっ続けの授業で、これは前期第七週までの分。
 ホメロス『イリアス』『オデッセイ』、サッフォーの詩編、デメテル讃歌、『ギルガメッシュ叙事詩』、ヘロドトス『歴史』(抜粋)、アイスキュロス『オレステイア』、ソフォクレス『オイディプス』、エウリピデス『メディア』、トゥキュディデス『戦史』…とここで中間試験。この後はアリストファネス『女の平和』、プラトン『饗宴』、旧約聖書「創世記」「ヨブ記」、新約聖書「ルカによる福音書」「ヤコブによる福音書」…、このあと、評論を行って、前期末試験。
後期はウェルギリウス『アエイネス』から始まって、最後はヴァージニア・ウルフの『燈台へ』で終わる。試験が中間と期末の2回あり、当然「すべての課題図書を読了」してないとダメなのであり、なおかつ試験とは別に8~10枚のレポート提出が半期で3回あるということなので、授業を受ける方も大変だが、これを22人クラスで開講しているという。adawhoさんによれば45人の教員がコアカリキュラム1科目にかかりっきりになる計算である。なおかつコアカリキュラムを担当すると、教員やPDにはボーナスが与えられるシステムなので、コアカリキュラム担当教員になりたいヒトは多いんだとか。全学共通科目だから自分の担当したクラスの平均点という数字で講義や指導がちゃんと出来ているかどうかが客観的に出てきてしまうわけで、教員にとっても気が抜けない。
 思想コースは2年間、全員必修で、いま見た文学以上の密度で授業が進む。こちらは週2回授業がある。扱う思想書は、プラトン『国家』、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、旧約聖書「出エジプト記」「イザヤ書」「コヘレトの言葉」、新約聖書「マタイによる福音書」「ローマ人への手紙」「ガラテヤ人への手紙」、コーラン、トマス・アキナス(抜粋)、ガザーリー『迷いから救うもの』…、で最初の中間試験。この後はマキャベリ『君主論』から前期の後半授業が始まる、といった具合。


 さて、このカリキュラムをどう評価してよいのかわかりませんし、ここで選択されている古典の種類に異論のある向きもあるかもしれませんが、ともかく「大学生には教養が必要」…という大学側の強い意思が伝わってくることだけは確かです。

 先日行われた参院選では、「日本再生」を唱える政党や政治家が、やたらと多かったように記憶しています。私個人は、日本の将来はかなり暗いと、とっくに諦めているのですが、もし日本にもまだ「再生」の余地が残っているとすれば、「若年層の教育レベルを上げる」以外に効果的な方法はないはず(優秀な外国人移民を受け入れる…というのもありますが)。
 経済や文化の「再生」は、「人」「人材」があってこそ実現するのです。現在のように、「大学」たるものが何も本を読まなくても卒業できる状況では、人材の育成など夢のまた夢。さらに大学に限らず、中学、高校も含めて「バカを量産する教育」をやっていては、この国の将来に「没落」しかないのは自明です。

2010年08月02日

●電子書籍に期待すること

 「熱を帯びる電子書籍の配信プラットフォーム競争―日本独自の規格は正しい選択か?」…、この記事を読むと、日本の電子書籍業界も、その動向を記事にするマスコミ関係者も、相変わらず「iPADの呪縛」から逃れていない…ということを強く感じます。
 「日本独自の規格よりも、国際標準ないしはそれに近い規格を採用し、その上に日本側の配信プラットフォームを構築するのが、本来進むべき道だろう。」…という記事の結論自体に異議はありません。そして、それがHTML5なのかAZWなのかePubなのかは、ユーザにとってどうでもよい問題です。第一、複数の電子書籍フォーマットを表示できる端末…さえあれば、当面は規格を統一する必要すらありません。
 ただ、今ひとつ納得できないのは、この記事が日本でも採用すべき規格として推すHTML5にしても、シャープのXMDFという独自規格にしてもマルチメディアに対応している点ばかりが強調され、またマルチメディア化しなければ電子書籍ではない…と言わんばかりの論調です。しかし私は、電子書籍だからといって、なぜ「マルチメディア対応」の話ばかりが声高に議論されるのか…、そこが理解できません。
 電子書籍の市場を考える時、本来ならば、まずは「書籍」…要するに「主にテキストだけで表現されるコンテンツ」を、どのように流通させるか…を考えるべきでしょう。確かに、グラフィックを多用する雑誌や、ガイドブックや動植物図鑑、各種教科書、事典・辞書など実用書の一部等はマルチメディア化することで情報量が大幅に増え、インタラクティブ化することで読者の理解を助けることgくぁでき、加えて検索機能が高度化し、さらに他メディアとの連携ができるなど確実に利便性も高まるでしょう。また、マンガ本などは電子書籍向きでしょうし、現代文学や現代詩の一部がマルチメディア化によって新しい表現方法を生み出す可能性もあるでしょう。
 しかし、現実に「書籍」市場のなかでもっとも大きな部分を占めるのは、小説、詩、評論、ノンフィクションなど、「テキスト」です。いわゆる「活字コンテンツ」です。これは絶対になくならないし、今後とも書籍の主流を占め続けることは間違いありません。
 だからこそ、電子書籍を今後どのように普及させるか…を考えるのならば、まずは、「テキストが読めるフォーマット」が統一されればよく、そして「テキストが読みやすい端末」をこそ、第一に考えるべきです。そして、こういった意味ではAmazonがKindleを使って成功したビジネスモデルは、端末もフォーマットも非常に優れたものであったと思うのです。
 電子出版に期待する世の中の多くの読書家は、iPADのようなカラー端末でマルチメディア化された雑誌コンテンツを読みたいわけではありません。「本が読みたい」のです。「本が好きで本が読みたい人」にきちんと応える電子出版の仕組みを作ること、そして長時間読書可能な反射型ディスプレイを使った「読みやすい端末」を普及させること…、それをこそ、まずは実現させるべきです。