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2010年05月25日

●ハングルの誕生 ~音から文字を創る

 野間秀樹「ハングルの誕生 音から文字を創る」(平凡社新書)を読了しました。読み終わって、少し興奮しています。いや、こんなに面白い本を読んだのは、久しぶりです。年に数百冊の本を買い、うち3冊に1冊は面白くないと途中で読み捨ててしまう、筋金入りのすれっからしの本読みである私が、「面白い」と絶賛するのです。過去10年間に読んだ本の中でも、5本の指に入るか、それ以上の面白さです。この感触を、誰かに伝えたくてたまりません。

 内容は…といえば、タイトルの通りです。ハングルという文字体系(訓民正音)が、いかにして15世紀の朝鮮王朝で創られたか…という、ただそれだけのシンプルな話ですが、上質のミステリーを読むように、ページをめくるのが待ちきれないようなスリリングな興奮を掻き立ててくれる物語になっています。
 ハングルがカタカナ、ひらがなと同じような表音文字であり、李氏朝鮮の第4代国王世宗によって創られたことは、むろん知っていました。独特の形は、子音と母音の字母を組み合わせたもので、非常に合理的かつコンセプチュアルに創られたことも知ってはいました。また、本書の序章で紹介されているように、インドネシアの少数民族がハングルを文字として採用した話も知っていました。しかし本書を読んで、そんな知識のレベルでは到底わからなかった「ハングル」という文字体系が持つ本質的なオリジナリティを知ることになりました。先に「ハングルがカタカナ、ひらがなと同じような表音文字」と書きましたが、「カタカナと同じ」という理解の仕方自体が間違っていることを知りました。

 第2章で、同じ漢字文化圏である日本語との対比でハングルが語られます。ハングル以前に存在した「口訣」は、万葉仮名のように漢字を借りた表記方法です。さらに「吏読」などは、高校の漢文の授業で返り点をつけて漢詩を読まされたわれわれには、非常に理解しやすい話です。言語が異なる他の国の文字に、自国の固有の発音体系をなんとか重ねようとする(著者は「レイヤー」と呼びます)手法は、アプローチの方法としては韓国も日本も同じです。「訓読」とは何か…が、あらためて理解できました。
 こうして、第1章、第2章までに語られるハングル誕生の背景は、第3章以降の具体的なハングルの創造プロセスへの言及部分に大きな期待を抱かせます。

 第3章以降の内容については、ここでは詳しく書きません。本書のもっとも面白い部分であり、これから読む人の興を削いでしまうからです。
 ともかく、「言語学」さらには「音声学」「音韻論」などというものが体系化されていなかった時代に、「音素」といった考え方がまだ知られていなかった時代に、どのようにして多様な「音」を体系化し、「文字」に置き換えていったのか、そこにどんな「合理」があったのか…、そのワクワクドキドキするようなプロセスは読んでいると興奮します。また「訓民正音」を創った世宗とそれを助ける若き秀才官僚たちの驚嘆すべき知的営為には、ただただ頭が下がります。これは、白紙の状態から「新しい文化」を創りだす試みと同時に、当時絶対視されていた中華世界からの文化的自立の試みでもありました。同時代の日本の知識人の動向、今も残る幾多の思想書や文学作品を見れば、これがいかに大変なことであったか、よくわかります。
 さらに、第6章 正音─ゲシュタルト(かたち)の変革…まで読むと、なぜ韓国で独自の金属活字印刷技術が発展したのかがよくわかります。また、短い最終章では、コンピュータによる言語処理とハングルが高い親和性を持つ理由がよく理解できます。

 この本には、「言語」そして「文字」の本質が散りばめられています。序で著者が断っているように、本書を読むにあたって言語学の知識などは不要でしょうが、私のように興味本位でもソシュールやヴィトゲンシュタイン、ロラン・バルトなどを読んだり、記号論の本を読んだり、吉本隆明「言語にとって美とは何か」、三浦つとむ「日本語はどういう言語か」なんて本を読んだことがある人間なら、さらに本書内容への興が増すかもしれません。また私は、たまたまコンピュータの全文検索システム関係の仕事に携わったことがあったので「分かち書き」や「形態素解析」といったことに馴染みがありました。パソコンの創世記にDTPシステムや文字フォントの開発に関わった経験があったことも、本書への興味を深くした原因かもしれません。しかし、そうした知識や経験の有無に関わらず、本書の面白さは変わらないはずです。わからない部分があれば、読み飛ばしても構いません。多少読み飛ばすぐらいでは、本書の面白さが損なわれることはないと思います。

 また、著者は非常に文章が上手いと思います。軽妙な語り口で、読みやすく、多少難しい内容をもうまく平易に説明しています。歴史、文化から言語学、記号論、音声学など多岐に渡る内容をうまくまとめ、飽きさせずに引っ張っていきます。また本全体の構成も含めて、著者だけでなく、優秀な編集者がいてこそ出来た本でしょう。編集者が膨大な作業と努力をした結果できた書物であることがよくわかります。
 これだけの内容の本を、誰でも読める安価な新書版で刊行したことにも、大きな意味を感じます。

 野間秀樹「ハングルの誕生 音から文字を創る」は、素晴らしい本です。面白い本です。言葉や文字に対して少しでも興味を持つ人には、絶対にお薦めできる本です。

 最後に、この本の紹介をするにあたって、ひとつだけ気になることを書いておきます。こういった紹介文を書くと、「ハングルを礼賛している」としてわけのわからない批判をする人が出てくる可能性があります。言いたいことはおわかりでしょうが、この本の面白さは「ネトウヨ」らの批判とは無関係です。他意のない単なる読後感想に、こんなくだらないことを書き添えなければならいことに、悲しみを覚えます。

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