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2010年05月29日

●iPADを使ってみました…

 昨夜、初めてiPADをじっくりとイジリ倒しました。基本機能は「でかいiPhone」そのものであり特筆する部分はありませんが、サイズと重量のバランスは思ったよりも使いやすいし、画面の視認性や、画面サイズが大きくなったことによるタッチ操作のしやすさ、縦横表示の切り替えなども含めて、見やすく、使いやすいタブレットデバイスだと思います。特にiPhoneユーザであれば、そのまま普通に移行することができるでしょう。
 また、注目したいのは、これまでiPhoneユーザではなかった、初めてタブレットデバイスを使うユーザ層です。画面サイズが大きくなったことによる表示情報量の増加とタッチ操作のしやすさを考えれば、むしろiPhoneよりも、誰にとっても使いやすいデバイスです。
 ただし、電子書籍端末としては、視認性・操作性は問題なくても、大き過ぎるし重過ぎるので、使う気にはなりません。電車の中でつり革につかまって立ち読みするのはつらいし、寝転がって手持ちで読むのもつらい。これも予想通りです。

 今年度の国内出荷予測が50万台程度と、ちょっと市場が小さいのが気になるところですが、ビジネスターゲットとしては面白いので、早速私の会社でもiPAD対応コンテンツの開発をスタートさせました。iPhone用アプリと基本的な方向性は同じですが、たまたま私の会社では医療用ソフトなども作っているので、そういった方面でもアプローチしてみたいと思っています。

 それにしても、iPADのコンセプトと機能については、先に書いたように特に目新しいものではありません。これまでにも、WindowsやlinuxなどのOSを採用したサイズ、重量、表示解像度、そして機能がiPADとほぼ同等のネットワーク対応のタブレットデバイスが何種も商品化されてきました。でも、はっきり言って過去にタブレットデバイスで市場的に成功したものはありません。その中で、iPADが初めて市場で成功を収めつつあるわけですから、面白いものです。むろん、その理由は誰もがはっきりとわかっています。そして、iPADだけが成功した理由こそが、iPAD向けのコンテンツを創りやすい理由ですし、iPADを利用したビジネスモデルをコンセプトしやすい理由でもあります。

 基本的にiPhoneユーザ、iPADユーザは、その特徴を次のように考えることができます。
 …自分自身のことを「社会の動きに高感度」「感性に優れる」「高い社会性を持つ」…などと考える層が多く、しかも比較的高所得で、消費行動が活発、高学歴かそうでないにしても自分のことを頭がよいと自覚し、「エコ」とか「環境」といった言葉に敏感な層…、といったところでしょう。こうした層は、消費行動が読みやすく非常にマーケティングしやすいわけで、それに従ってコンテンツを展開していけばよいわけです。

 まあ、これまでにも書いてきたように、個人的にはiPADを使う予定は全くありませんし、興味もありません。仕事にも日常の情報行動にも、ネットブックの方がはるかに使いやすい。でもビジネスでは、iPADに、そしてむろんiPhoneにもAndroid系スマートフォンにも、しっかりと対応していくつもりです。
 そういえば昨日のエントリーで、「iPhoneやiPAD対応の電子書籍が、当面は自己啓発系やライフハック系などロクでもないものばかりになるのが嫌だ…」といったことを書きましたが、個人的にはこの手のコンテンツに全く興味がなくとも、ビジネスとしては十分に成り立つ…と考えています。だから、会社の方ではこうした「安易な電子書籍コンテンツ」にも注力していこうと思っています。個人の好みとビジネスは別物です。割り切って、楽して稼ぐことが肝要です。

 ところで、今日のエントリーを書いていたら、前にも似たようなことを書いた気がしたので調べてみました。
 もう5年以上前ですね、2004/8/30の日記で、次のようなことを書いていました。まったく私は進歩がないですね。



 …Macユーザの第一の特徴が「インテリで所得が高め」だってのはよく知られているところ。アメリカのマーケット調査会社によって「Macユーザは Windowsユーザと比べて高所得で高学歴」という調査結果がしっかりと提示されています。でMacユーザは、この「インテリで高所得」に加えて「心情 的反体制または自称オルタナティブ」であり、さらに「『文化』という言葉に弱い」という特徴を持つことは確実です。「Windowsのような体制派とは違 う」という点にアイデンティティを見い出し、さらに「新しい文化の担い手」なんて言葉を聞くと、もう無条件で喜ぶタイプ。これって、マーケティングを考える立場からすると、「もっとも乗せやすい」ユーザ層ということになります。単純なミーハー層は流行に対する好みがどう転ぶかわからないし、ガチガチの保守派は逆に複雑なマーケティング手法を応用する余地が少ない。自らを革新的と考え、自分は流行に左右されないと自認している層こそが、実はもっとも「マーケティング手法を使って恣意的に流行を与えやすい」層である…

2010年05月28日

●いまのところ、ロクな電子書籍がないけど…

 私は、電子出版に対して非常に大きな期待を抱いています。前回のエントリーでも書いたように、基本的には自分自身が電子出版の利便性を享受したいためですが、こうした期待とは別に、電子書籍プラットフォームの標準化進展に対して一抹の不安もあります。それは、著者が作品を直接販売できる…、つまり誰でも「著者」になれるし、誰でも「版元」になれるという…部分への不安です。

 そういえば、かつてDTPシステムが登場した時に「出版民主主義」という妙な言葉でもてはやされたことがありますが、実は電子書籍こそが本当の出版民主主義をもたらすわけで、事実amazon kindleによって個人が印税35%の電子書籍を出版できる状況が現実になっています。
 こうした状況を受けて、最近、電子出版、電子書籍を肯定・礼賛し、既存の出版事業への疑問を投げかける論評が増えてきています。こうした電子書籍と既存出版業界に対する典型的な問題提起はといえば、例えばこちらのようなものです。でも、ここで述べられている話の方向性は、私が望む電子書籍とはかなりベクトルが異なります。
 例えば、電子出版で先進的動きを見せ、それなりに実績を上げつつあるディスカヴァー21など、自己啓発本とビジネス書ばかりで、私が読みたいと思う本は1冊もありません。また、誰でも簡単に自分で作ったコンテンツを電子書籍として販売できるとなると、個人が持つちょっとしたノウハウやら、個人が撮影した写真集やら、ある種「個人Webサイトの電子書籍化」に近いものが氾濫するでしょう。どうでもいい啓発本、ハウツー本など、別の読みたくもない本、言わば情報エントロピーの低い「本」ばかりが溢れる可能性の方が高いような気がします。具体的に例を挙げるとは、日垣隆や小飼弾のような現在電子書籍で実績を挙げている著者の本など、私は別に読みたくもありません。

 昨日のエントリーで大手出版による電子書籍の刊行を望む…と書いたのは、私のような本好きは、電子書籍であってもやはり、きちんとした質の高い小説やドキュメントを読みたいからです。例えば、私が愛する翻訳ミステリー、S.J.ローザンの新作やマイクル・コナリーの新作を電子書籍で読みたいとなると、そこにはどうしても既存出版社の版権が必要になります。
 にもかかわらず、既存出版業界に挑戦する…なんて話で、勝間和代の啓発本みたいなどうでもよいコンテンツばかりが、有象無象の新興電子出版企業から書籍化されても、ちっともうれしくありません。実際にiPhone用のアプリの電子書籍ジャンルで現在読めるコンテンツなど、ロクなものがありません。

 そういえば昨日以降、ソニー、凸版、KDDI、朝日新聞の四社が電子書籍配信事業に関する事業企画会社を設立する…というニュースが話題になっています。これなど、講談社の他に小学館、集英社なども参加するようなので、かなり期待してしまいます。また、ソニーも現在欧米で展開している電子書籍端末「Reader」がE Inkを使った非常に読みやすく使いやすい端末なので、これをベースにした読みやすい電子書籍端末を国内向けにも提供しくれると、期待しています。

2010年05月26日

●大手出版社は、早く電子出版ビジネスを立ち上げろ!

 もういい加減に、電子出版ビジネスを本格的に展開して欲しい。例えば今日の私は、外出する用事があったので、電車の中で読むために文庫本を3冊と新書を1冊カバンに入れて出かけました。これはけっこう嵩張るし、重い。平均250gとしても、4冊で約1kg。これが290gのKindle2に全部入るわけだし、数百冊入れておけば、いつでもどこでも好きな本が読め、海外旅行にも大量の本を持って行ける。こんなにテクノロジーとネットワーク環境が進み、著作権保護技術も成熟しつつある世の中で、日本に住む「本好き」は、なぜ電子出版のメリットを享受できないのか、どう考えても不本意です。
 以前も書いたように、既存の出版社が電子出版に乗り出すには、権利関係など多くの問題があることは十分に承知しています。しかし、現行の出版契約をそのままにして、現行の「本」と同じ価格でダウンロードさせるのであれば、さしあたり経営上の大きな問題は生じないはず。とりあえずそれでいいんです。電子出版だからといって価格を下げなくてもいいし、著者との印税契約なんかもそのままでいい。困るのは、さしあたり書店と取次店ですが、産業の変革期にダメになるビジネスが出てくるのは、やむをえないことでしょう。第一、本好き、活字好きの私としては、電子出版ビジネスが進んだとしても「本」も無くさないで欲しい。書店で本を書う楽しみ、印刷された本を読む楽しみを手放す気はありません。ましてやお年寄りや子供は、従来の本の方が読みやすいでしょう。

 最後に、カラーの雑誌はiPADでもいいけど、「書籍」をiPADで読むのは勘弁して欲しい。あんな大きくて重い端末を持ち歩くのは嫌だし、長時間読んで目が疲れないという面では、バックライト付きのカラー液晶よりも、モノクロの反射型ディスプレイであるE-inkの方がずっといい。「ヘビーな読書好き」「本好き」の多くは、iPADで本を読むよりもKindleで本を読む方がしっくりと来るはずです。特に、文庫や新書はKindleで読みたいなぁ…

2010年05月25日

●ハングルの誕生 ~音から文字を創る

 野間秀樹「ハングルの誕生 音から文字を創る」(平凡社新書)を読了しました。読み終わって、少し興奮しています。いや、こんなに面白い本を読んだのは、久しぶりです。年に数百冊の本を買い、うち3冊に1冊は面白くないと途中で読み捨ててしまう、筋金入りのすれっからしの本読みである私が、「面白い」と絶賛するのです。過去10年間に読んだ本の中でも、5本の指に入るか、それ以上の面白さです。この感触を、誰かに伝えたくてたまりません。

 内容は…といえば、タイトルの通りです。ハングルという文字体系(訓民正音)が、いかにして15世紀の朝鮮王朝で創られたか…という、ただそれだけのシンプルな話ですが、上質のミステリーを読むように、ページをめくるのが待ちきれないようなスリリングな興奮を掻き立ててくれる物語になっています。
 ハングルがカタカナ、ひらがなと同じような表音文字であり、李氏朝鮮の第4代国王世宗によって創られたことは、むろん知っていました。独特の形は、子音と母音の字母を組み合わせたもので、非常に合理的かつコンセプチュアルに創られたことも知ってはいました。また、本書の序章で紹介されているように、インドネシアの少数民族がハングルを文字として採用した話も知っていました。しかし本書を読んで、そんな知識のレベルでは到底わからなかった「ハングル」という文字体系が持つ本質的なオリジナリティを知ることになりました。先に「ハングルがカタカナ、ひらがなと同じような表音文字」と書きましたが、「カタカナと同じ」という理解の仕方自体が間違っていることを知りました。

 第2章で、同じ漢字文化圏である日本語との対比でハングルが語られます。ハングル以前に存在した「口訣」は、万葉仮名のように漢字を借りた表記方法です。さらに「吏読」などは、高校の漢文の授業で返り点をつけて漢詩を読まされたわれわれには、非常に理解しやすい話です。言語が異なる他の国の文字に、自国の固有の発音体系をなんとか重ねようとする(著者は「レイヤー」と呼びます)手法は、アプローチの方法としては韓国も日本も同じです。「訓読」とは何か…が、あらためて理解できました。
 こうして、第1章、第2章までに語られるハングル誕生の背景は、第3章以降の具体的なハングルの創造プロセスへの言及部分に大きな期待を抱かせます。

 第3章以降の内容については、ここでは詳しく書きません。本書のもっとも面白い部分であり、これから読む人の興を削いでしまうからです。
 ともかく、「言語学」さらには「音声学」「音韻論」などというものが体系化されていなかった時代に、「音素」といった考え方がまだ知られていなかった時代に、どのようにして多様な「音」を体系化し、「文字」に置き換えていったのか、そこにどんな「合理」があったのか…、そのワクワクドキドキするようなプロセスは読んでいると興奮します。また「訓民正音」を創った世宗とそれを助ける若き秀才官僚たちの驚嘆すべき知的営為には、ただただ頭が下がります。これは、白紙の状態から「新しい文化」を創りだす試みと同時に、当時絶対視されていた中華世界からの文化的自立の試みでもありました。同時代の日本の知識人の動向、今も残る幾多の思想書や文学作品を見れば、これがいかに大変なことであったか、よくわかります。
 さらに、第6章 正音─ゲシュタルト(かたち)の変革…まで読むと、なぜ韓国で独自の金属活字印刷技術が発展したのかがよくわかります。また、短い最終章では、コンピュータによる言語処理とハングルが高い親和性を持つ理由がよく理解できます。

 この本には、「言語」そして「文字」の本質が散りばめられています。序で著者が断っているように、本書を読むにあたって言語学の知識などは不要でしょうが、私のように興味本位でもソシュールやヴィトゲンシュタイン、ロラン・バルトなどを読んだり、記号論の本を読んだり、吉本隆明「言語にとって美とは何か」、三浦つとむ「日本語はどういう言語か」なんて本を読んだことがある人間なら、さらに本書内容への興が増すかもしれません。また私は、たまたまコンピュータの全文検索システム関係の仕事に携わったことがあったので「分かち書き」や「形態素解析」といったことに馴染みがありました。パソコンの創世記にDTPシステムや文字フォントの開発に関わった経験があったことも、本書への興味を深くした原因かもしれません。しかし、そうした知識や経験の有無に関わらず、本書の面白さは変わらないはずです。わからない部分があれば、読み飛ばしても構いません。多少読み飛ばすぐらいでは、本書の面白さが損なわれることはないと思います。

 また、著者は非常に文章が上手いと思います。軽妙な語り口で、読みやすく、多少難しい内容をもうまく平易に説明しています。歴史、文化から言語学、記号論、音声学など多岐に渡る内容をうまくまとめ、飽きさせずに引っ張っていきます。また本全体の構成も含めて、著者だけでなく、優秀な編集者がいてこそ出来た本でしょう。編集者が膨大な作業と努力をした結果できた書物であることがよくわかります。
 これだけの内容の本を、誰でも読める安価な新書版で刊行したことにも、大きな意味を感じます。

 野間秀樹「ハングルの誕生 音から文字を創る」は、素晴らしい本です。面白い本です。言葉や文字に対して少しでも興味を持つ人には、絶対にお薦めできる本です。

 最後に、この本の紹介をするにあたって、ひとつだけ気になることを書いておきます。こういった紹介文を書くと、「ハングルを礼賛している」としてわけのわからない批判をする人が出てくる可能性があります。言いたいことはおわかりでしょうが、この本の面白さは「ネトウヨ」らの批判とは無関係です。他意のない単なる読後感想に、こんなくだらないことを書き添えなければならいことに、悲しみを覚えます。

2010年05月24日

●タイにおけるアンシャン・レジームの崩壊

 私などにえらそうなことを書く資格も知識もないことは十分承知の上で、タイの今後について、さらに書いてみたいと思います。

 前回、今後タイ社会が内乱状態になる可能性もある…とは書きましたが、私はタイという国が嫌いではありませんから、むろんそうなって欲しくはありません。事実、週末以降は各地の騒乱はとりあえず収まってきています。昨夜、スクンビットのトンロー近くに住む在タイの友人に連絡したところ、夜間の銃声なども聞こえず、概ね落ち着いてきているとのことでした。ボランティア市民も参加しての各所の跡片付け進み、まもなくBTSもMRTも正常運行に戻るとのことで、バンコク市民のとりあえず安堵する気持ちが伝わってきます。

 ただ、今回のUDDデモを武力鎮圧したことで、何かが解決したわけではありません。農村部と都市部の住民の間、そして都市部においてもスラムに住むような貧困層や東北部からの出稼ぎ農民と、もともと都市部に住む富裕層との間には、もはや埋められない溝が掘られてしまったように思います。いや、今回の騒動で埋められない溝ができたのではなく、もともとあった埋められない溝に、国民の全員が気付いてしまった…ということでしょう。アピシット政権は、今回のデモ騒動に対して社会階層間の融和策を打ち出していますが、小手先の融和策、例えば農村振興策や都市部の最低賃金の引き上げ…といった対策では、社会の本質的な矛盾に目を向け始めた農村部の住民や都市部の貧困層をごまかすことは不可能です。

 現状のタイ社会では、大企業の経営者はむろん、高級官僚から各種団体の幹部、軍や警察の幹部に至るまで、タイ社会で成功の要所となる社会ポジションや職業、またはうまみのある公職は、ほぼ独占的に旧貴族、富裕層の出身者が占めている…という現実があります。タイには相続税も固定資産税もないので、効率的に富を再分配するシステムもありません。そして既得権益を持つ層は、何が何でもそれを手放したくないのです。
 社会階層間の融和策を打ち出したアピシット政権ですが、彼らが本気で階層間の格差をなんとかしようと考えているとは、到底思えません。タイ社会で既得権益を持つ層は、単に既得権益を守りたいが故に下位の階層の社会進出を阻もうとしているだけでなく、下位の社会階層には正しい政治判断など無理だ…という強烈なエリート意識を持っています。農村部の住民が参加すると衆愚政治に陥る…と公言する、エリート層出身の政治家もたくさんいます。
 スワンナプーム空港占拠事件の折に明らかになったPAD(その構成員、支持母体や資金源については、他に詳しい解説が多いので割愛します)の主張は、タクシン元首相の影響力一掃…以外に、「下院議員の7割を任命制、3割を公選制とする」…という、近代民主主義の原則とは、およそ相容れないものでした。「責任ある選良(エリート)に主導される社会」こそが、PADに代表される、既存エリート層の主張なのです。

 さらにバンコクを中心とする都市部のエリート層の多くは、農村部の住民、特にイサーン地方の住民や出身者を、バカにします。バンコクには、イサーン地方の方言を話しているだけで、露骨に侮蔑の対象とするような人が非常に多いように思います。もともとタイ人は、ラオスやミャンマー、カンボジアなど、経済的に遅れた隣国をバカにする傾向があります。経済的優越感の裏返しというか、悪気はないのでしょうが、特にラオス人をバカにするケースは一般的で、「お前はラオス人のようだ」的な相手を侮蔑する常套句があるぐらいです。イサーン地方の文化や言葉はラオスのそれに似ているので、そうした部分を、特にバンコク市民がバカにする傾向があります。
 今回の]UDDデモにおいても、東北農村部の住民がバンコクで放火や略奪という形で暴れまわった背景には、そうした長年バカにされ続けてきたことによって鬱積したものがあったのかもしれません。

 ともかく、PADに代表される既存エリート層の多くが、「判断力が乏しい農村部の人間や教育レベルが低い貧困層には、平等に参政権を与えるべきではない」…と考えているわけで、そうした主張に対して、人口的に多数を占める下位社会階層の人々が黙って従っていたら、そちらの方がよほど不自然です。
 いまやタイでは大学進学率が30%を超えて、さらに伸びて続けています。この数字の中には、無試験で入学できる「オープン大学」(スクンビット・ソイ23にあるシーナカリンウィロート大学など)が含まれているとは言え、最近では「普通の家庭」や「農家」の子供が名門大学に進学するものも珍しいことではありません。第一、日本の大学もその半分、いや半分以上が事実上「無試験のオープン大学」です。現在のタイでは、地方都市でも、塾に通いながら一流大学を目指して受験勉強に励んでいる高校生も多くいるぐらいで、感覚的には1980年代から90年代初頭あたりの日本と同じです。こんな状況の中で、「責任ある選良(エリート)に主導される社会」…などという時代錯誤なPADの主張、すなわちタイの旧支配層の主張が、広くタイ社会全体から受け入れられるわけがありません。
 そういえば、UDDの指導者の1人に、「スラムの天使」として国際的に知られ、マグサイサイ賞を受賞している元上院議員のプラティープ・ウンソンタム氏がいます。今回の騒乱で、クロントイ地区のスラム住民を組織化した彼女にも逮捕状が出ているというニュースがありましたが、彼女の存在は、今回の騒乱が「階級闘争」であることの1つの証しでしょう。

 タイにおけるアンシャン・レジームの崩壊は、まさに始まったばかりです。

2010年05月20日

●終わりの始まり ~バンコクで起きた政治動乱

 私は、ここ7~8年、タイで事業を展開する日系企業との仕事で、必ず年に数回はバンコクを訪れています。特にここ数年、日本人、タイ人を問わず、在タイの知人もずいぶんと増えました。
 今回のバンコクの騒動、いや政治的動乱の要因と行方について、マスコミだけでなく、在タイの日本人や、ビジネス上のつながりからタイに詳しい日本人がたくさん、Blogなどでその原因や今後の見通しを書いていますが、わたしも思うところを書いてみたいと思います。これは、たまたま今日(20日)からのバンコク出張が中止になったこともあって、タイの政治状況が非常に気になるからでもあります。

 私が最初にバンコクを訪れたのは1980年頃ですが、当時はまだ、ちょっと裏道に入ると未舗装の道路も多く、埃っぽさと喧騒と猥雑さと活気にあふれた「エキゾチックなアジアの都市」でした。しかし、今世紀に入ってから頻繁に訪問するバンコクは、急速な経済発展の中で、市域内に次々と大型ショッピングモールが開設され、また高層コンドミニアムの建設ラッシュ、BTS、地下鉄など公共交通機関の開通などもあって、急速に、東京、香港、シンガポール、クアラルンプールなど他のアジアの大都市と同じような「近代都市の顔」へと変貌して行きました。何よりも、他のアジアの大都市と同じくグローバリズムの洗礼を受ける中で、西欧系のブランドショップが立ち並び、中心部のどの街角にもマクドナルドなどのファストフードと、「スタバ」かスタバもどきのカフェが開店している状況は、東京の街とほとんど変わりません。
 一方で、バンコクの中心部からちょっと北の戦勝記念塔付近や、ちょっと東のスクンビットやエカマイ周辺へ行けば、おしゃれな飲食店などと混在する形で、あちこちで屋台街や安食堂が繁盛し、また大通りを1本入った狭いソイや裏道を覗けば、庶民の暮らし、猥雑な生活空間をもしっかりと見ることができます。大ホテルに滞在する短期ツアー観光客でも、無理せず安全に行動できる範囲で、利便性の高い近代都市と、懐かしくエキゾチックなアジアの都市…という2つの顔を簡単に体験できるバンコクは、多くの人が魅了されるのも無理はありません。

 さて、こうした短期滞在でバンコクに惹かれ、リピーターとなる人たちの多くが、タイという国に対して、「微笑みの国」「癒しの国」というイメージを持ち、さらにはタイに暮らす人々を「穏やかな国民性」「ホスピタリティを大切にする国民」…といったイメージで見るようになります。確かにその通りの部分もありますが、私が知るタイという国、そしてタイ人の平均的なメンタリティを見ると、こうした「穏やか」というイメージはあくまで一面に過ぎません。少なくとも、日本人の平均よりは、タイ人の方がはるかに「熱くなりやすい」ということは、タイに長く住んでいる人、タイ人のメンタリティをよく知る人なら、誰もが言うことです。
 そして、もう一つあまり知られていないのが、タイは「銃社会」であるということです。タイの新聞の社会面を見ていると、「痴情のもつれで喧嘩をした相手を射殺した」とか、「浮気した亭主を妻が射殺した」…といった記事をよく見かけます。銃を使った強盗時間も頻繁に起こります。タイ社会には、日本となどとは比較にならないほど銃が蔓延しており、実際に誰でも安く入手することができます。これほど銃が蔓延し、しかもしょっちゅう銃が使われていることは、タイを「穏やかな社会」などと思い込んでいる人には、想像ができないかもしれません。
 さらにタイ人は、「面子(メンツ)」にこだわる人がかなり多いと思います。表面的には中国人やベトナム人ほどメンツにこだわらないように見えますが、実は自分が「馬鹿にされた」とか「なめられた」と感じると、顔色を変える人が非常に多いかもしれません。
 これらの事実を併せた結論は、タイ人は、すくなくとも日本人と較べると、ずっと「激しやすい」国民であり、「怒れば、黙っていないで行動する」国民です。「じっと耐える」という言葉は、タイ人には似合いません。

 今回の政治的動乱の要因を、政治的には「社会階層(階級)間の闘争」、及び「下位・農村部社会階層の一部を利用した、上位階層間の権力闘争」…と見るのは常識です。ニューズウィークの記事にあったように「…泥沼化にもかかわらず、タクシンを追放したエリート層が後悔している様子はない。彼らにとって、タクシンはポピュリストのデマゴーグ(大衆迎合主義の扇動政治家)だった。タクシンは無教養な農村貧困層の大衆を操って権力を握った。第2のウゴ・チャベスになっていたかもしれない、というのが彼らの見解だ…」ということでしょう。一方で、同じ記事に「…農村の有権者を政治に参加させることで、タクシンは都市のエリート層の権力に対するチェック機能をつくり出した。タクシン政権は民主主義を実現したが国は分裂させた、というのは正しくない。分裂させたからこそ、民主主義的だったのだ」…とあるように、タクシンが立憲君主制のもとで特権階級のエリート層だけが利益を享受できる仕組みになっていたタイ社会に、一定の民主主義的な成果をもたらしたことも事実です。タクシンに、自らの権力のために、膨大な数の下位・農村部社会階層を利用した…側面があったとしても、タクシン政権下で現実に一定の経済力と政治的発言力を得ることになった下位・農村部社会階層は、タクシンの思惑すら超えたところで、政治的に目覚めた「主張する社会階層」へと変貌しつつあるように思います。

 また、今回のUDDの行動を「行き過ぎ」とし、「タクシンが暴力行為と社会分裂を扇動している」…と見る人は多いと思います。しかし、国際政治の常識から見る限り、行動の正当性はタクシン及びUDD側にあります。2006年9月の軍事クーデターでタクシンが追放され、2008年に起きたPADによるスワンナプーム空港不法占拠と憲法裁判所がタクシン派の与党「国民の力党」に解党を命じたことで、タクシン派は、不当な手段で政権を失いました。すくなくとも「選挙」によって選ばれた政権を軍事クーデー等で打倒した結果できた現在のアピシット政権は、選挙の審判を受けていません。「民主主義の原則」から見れば、いまなおタクシン派が政権を担っているべきですし、もっと厄介なことは、現在選挙を行ったとしても、やはりタクシン派が多数を占める可能性は高い…ということです。

 さて、UDDによる市域中心部の占拠は終結したものの、一夜明けた今なお、UDDの一部メンバーによる市内各地での散発的な示威運動、破壊活動は続いています。特に現政権派の財閥や有力者が関係している商業施設や銀行などを標的とした放火・破壊活動が行われています。騒乱は地方にも拡大し、ウドンタニでは5000人規模のUDDの集会が行われ、放火・破壊活動も行われているとのことです。
 タクシンは「軍事制圧は、民衆を怒らせゲリラにする」と発言しましたが、まさにその通りだと思います。現政権にダメージを与えるのなら、大人数で示威活動をするよりも、ゲリラ的に全国で治安を混乱させた方が効果的です。タクシンの立場に立ってみれば、2006年に戦車や装甲車を使ったクーデターで追われたわけですから、その戦車や装甲車と戦うためには、正規戦でなくゲリラ戦でいった方が効果的…と考える方が自然ですし、タクシン自身が実際にそうした行動を指示する意思はあると考えるべきです。
 タクシン派が自衛と騒乱惹起のために溜め込んだ武器と訓練した戦闘集団は、確かに軍隊との正規戦になれば取るに足らないものですが、ゲリラ戦に使うのなら、タイ軍はてこずるし、到底鎮圧は不可能です。私は、今後タイは「半内乱状態」に陥る可能性が十分にある…と考えます。

 こうした客観的な状況に加えて、先に挙げた「タイ人の気質」の問題もあります。「主張する社会階層」へと変貌した下位・農村部社会階層は、ここで簡単に引き下がることはないでしょう。日本人でも、タイで本格的にビジネスをやってみればすぐわかりますが、タイは特権階級による「コネ社会」です。政治家や弁護士、軍や警察の関係者へのコネがなければ、どんなビジネスもうまくいきません。こうした社会を「徐々に変革」していくことは、歴史的に見ても非常に難しく、あまり前例がないことです。特権階級が支配する社会は、一気にひっくり返すことでのみ、変革を実現します。

 そして、タイ人の間では本格的に議論することはタブーとされていますが、この問題は最終的には王室の問題へと行き着くはずです。長い目で見れば、タイは立憲君主制から共和制への移行プロセスを辿らざるを得ないかもしれません。今回、プミポン国王が「黙っていた」のは、マスコミが伝えるように「病気」や「高齢」が理由ではなく、皇室とその周辺が、タイ社会の中で密やかに醸成され始めた、こうした微妙な空気を感じ取っているからでしょう。
 私は、かつて在タイのある人から、タイの王室とその関係者が日本の天皇家・皇室のあり方に強い関心を持ち、熱心に研究していると聞いたことがあります。タイ王室は、共和制移行後の王室のあり方として、日本の皇室のあり方を参考にしようとしている可能性があるかもしれません。

2010年05月12日

●日常雑記 ~「赤い鼻」マスターに合掌

 昨夜は、祈祷師のびびこさんと、他に友人2人、合わせて4人で池袋西口ときわ通り奥の「木々家(はやしや)」へ。いつ食べても、この店のやきとんは絶品です。で、その席で友人のK氏から衝撃的な情報を聞きました。それは、「赤い鼻」のマスターが亡くなった…というもの。何でも10日に葬儀が行われたとのことです。早速、古くからの池袋飲み仲間のKさんやSさんに電話で連絡したところ、皆さん絶句。「木々家」の後で立ち寄ったバー「FREE FLOW RANCH」のマスターも昨夜知ったそうで、非常に驚きかつ残念がっていました。

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 「赤い鼻」というのは、知る人ぞ知る、西口の沖縄料理店。「知る人ぞ知る」という表現にはかなり深い意味があり、料理が美味しい名店…というのとはちょっと違います。カウンターだけの小さなお店で、朝までやっているところから、まあ「2軒目の飲み屋」として使う人が多かったと思います。良くも悪くも沖縄出身の個性的なマスターの人柄に支えられていたお店でした。
 この「赤い鼻」というお店がある場所は、かなり目立たないところで、確か「赤い鼻」ができる前は、阪神大震災で被災して神戸から移転してきた「神戸ラーメン」のお店がありました。その神戸ラーメンが数年で閉店した後に開店したのが「赤い鼻」、だからもう10年以上になるはず。最初の頃はランチなどもやっていたお店でしたが、徐々に飲み屋化し、昨今は深夜の池袋を徘徊するコアな人たちに愛される特異な存在のお店になっていました。
 こんな、一般的には誰も知らない小さなお店のことをあえて書いたのは、愛すべき赤い鼻のマスターのことをWeb上に記録として残しておきたかったから。昨夜、「木々家」で飲んだ後にその「赤い鼻」の前を通ったら、電気が消えて真っ暗になっていました。ワタガラス豆腐や、酢でじっくり煮た鳥モモを食べながら、シーカーサーサワーを飲む、ゆったりとしたひと時…。あのカウンターで、もう飲めないと思うと実に寂しいです。

 ところで、祈祷師のびびこさん、本当に愉快な方です。そして、見掛けよりも(ゴメンナサイ)ずっと真面目で誠実な人。それにしても、今時「祈祷師」という肩書きで食べている人が存在するのは、やはり驚異。この不況の時代、精神的な拠り所を求める人はますます増えるでしょうが、がんばって欲しいものです。

 長く使っていたオリンパスのICレコーダーが壊れたので、買い換えました。どれにしようかと悩んだ挙句、購入したのはSANYO「ICR-PS502RM」。内蔵2GBに加えてMicroSDの4GBを入れて使い始めました。ズーム録音の感度が良好で音質もよく、気に入りました。もう少し使い込んだら、使用感など詳しく報告します。

 携帯電話の公式サイトでやっていたコンテンツをパクられました。うちの会社のコンテンツをそっくりパクってiPhone用アプリにして売っていたのです。とりあえずiTunesに連絡して、権利侵害申立を行いましたが、iPhone用アプリは非常に本数が多く、またあまり権利関係の審査が厳しくないので、一部でパクリが横行しているという話も聞きました。法的措置も取るつもりです。うちのコンテンツをパクったiPhone用アプリを販売するバカ会社はugatta と、Rakudoor(楽道)です。ugattaなる会社のHPを見たら、「経営理念:Fairness/公平性を重んじ…」とありますが、堂々と他社のコンテンツをパクって「Fairness」とはブラックジョークでしょう。本当にひどい話。

2010年05月11日

●twitterの使い途

 ちょっと前に、「twitterなんて、使っているのは、目立ちたがりの経営者と政治家と芸能人とヒマ人だけ…」なんて話がありましたが、実は私もそれに近い感触を持ってはいます。まあ、そこまでとは思わないにせよ、個人的にはあまり使い途がありません。最大のネックは「140文字」という制限で、私のような「饒舌」ならぬ「饒筆」な人間にとっては、ちょっと何かを書こうと思うと、全く字数が足りません。さらに、きちんと意見を述べるためには、やはり140文字では足りないことの方が多い。ビジネスでの利用た広告媒体としての利用も始まっていますが、いまのところそれほど重要なメディアとは考えていません。
 それに私は、「ソーシャルメディア」なるものの必要性が、個人的にはどうしてもわからない。社会的必要性については様々な意見があろうかとは思いますが、ともかく個人的には不要です。だいたい、見知らぬ人とコミュニケーションをとるのは非常に面倒。どの程度のコミュニケーション能力や知性を持っているのかわからない人間と、ネット上で議論をしたり交流したりするなんて、やってられません。ともかく、ビジネスもプライベートも含めて日常のコミュニケーションはメールと電話で十分。公に対して個人的な意思表示をするならWebサイトが有効だとは思います。私の場合はBlogシステムを使っていますが、コメントもトラックバックもオフにして使っているので、通常のWebサイトと使い方は同じです。CMS代わりにBlogシステムを使っているだけます。
 そんなわけで、twitterのアカウントを作って以降、何に使おうか考えてきたのですが、最近思いついたのが「読書記録」です。実際に10日ほど前から使ってみたら、これがけっこう便利です。私は、ところ構わず本を読み、しかも同時に何冊も併読し、電車の中やカフェの中など、どこで読了するのかわからない濫読生活を送っているので、通常の読書日記をつけようと思うと、その日に読み終わった本がどれで、読書中の本がどれで…といったことが、よくわからなくなり、面倒になってしまっていたのです。ところが、スマートフォンや携帯からも簡単に書き込みできるtwitterなら、読了と同時に、また読み始めると同時に、場所を問わず本のタイトルを記録しておけます。これって、意外と便利です。別に感想を書かなければ、140字でも十分なので、当分は備忘録代わりに、twitterで読書記録をつけていこうと思っています。