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2009年08月03日

●知識鉱脈 ~価値ある著作物と価値の無い著作物

 本好きな私ですが、根本的なところで「電子Book」というヤツで本を読む気がしません。でも、先日来報道されている「米で100万冊以上無料に ソニー電子書籍端末」というニュースを読むと、買ってもいいかな…という気になります。
 また、今回のソニーの電子書籍端末「Sony Reader」のディスプレイがどのようなものかは知りませんが、ソニーは2004年に国内市場に投入した電子書籍用リーダー「LIBRIe(リブリエ)」で、米E Ink Corp.製のFEDを採用した経緯があるので、今回の端末も同じFEDでしょう。私はamazonの「Kindle」については、機会があって実際の端末を手にとってみたことがありますが、ディスプレイとして採用されている「E Ink」は想像していたよりもずっと読みやすいのに感心しました。「E Ink」は、基本原理は一般的なFEDと同じ電気泳動方式のディスプレイです。FED(Field Emission Display)は、「LIBRIe」や「Kindle」に限らず昔からいろいろな端末への応用例があるのですが、最新の「E Ink」を見ると近年非常に視認性や応答速度が進歩していることがわかります。

 ただし、この著作権が切れたものを中心に100万冊以上の本が無料で読める…というのは、アメリカでの話。日本では、このような形で電子ブック向けコンテンツが無償で大量に提供される情況は当面訪れそうもありません。
 日本ではこれまで大手端末メーカーが手掛けた電子Bookビジネスが、今回アメリカ市場に参入するソニーを始めPanasonic、NECなど過去にことごとく失敗している上、電子Book用のフォーマット標準化が進まないこともあり、100万冊以上の書籍がタダで読める…といった情況には当面なりそうもありません。加えて、黒船とも言えるGoogleやAmazonの日本市場進出の動きに対応して、著作権問題も混迷している情況
 ともかく、日本語の壁に加えて著作権問題の壁もある日本では、電子Bookのマーケットの先行きはかなり不透明です。

 それにしても、ネット社会が進む中で「著作権」に関しては、もっと割り切った考え方は出来ないものでしょうか?
 だいたい私は、コピーライツとかオーサーシップなんてものについては、そんなに「ご大層なもの」だとは思っていません。むろん、なんでもコピーし放題、盗作し放題の無法地帯にしろといっているのではありませんが、著作権を強く主張する人間、特に「著者」によっては、著作権を主張する著作物の内容やオリジナリティが、「そんなに声高に権利を主張するほどご立派ではない」…というケースがたくさんあります。ちょっと過激な言い方をすれば、くだらない小説やくだらない論文、くだらない映像…といったものを作り出しておきながら、声高に著作権やらオーサーシップやらを訴えても、イマイチ説得力がありません。
 ちなみに、私自身も過去に何冊か著作を出し、雑誌などに記事を書いていますが、それらの内容を誰かに無許可で引用されようと、極論すれば内容を盗まれようと、さほど大きく騒ぎ立てるつもりはありません。これは書いたものの内容に自信が無いということではなく、ジャック・デリダを下敷きに内田樹がよく言っている「…私自身の書き物のほとんど全部は先人からの『受け売り』であり、私が用いている日本語はすべて先人たちが営々として構築したものをお借りしている。そのような作物に『知的所有権』を請求するようなことは、私にははばかられる」…というのと、ほとんど同じ感覚です。むろん、雑誌に書いたものについての原稿料は頂きますし、出版された書籍に関しては印税を頂きます。くれるというものは有難く頂戴してはいますが、1人のライターとしては著作権を声高に主張するほどオリジナリティの高い立派な文章を書いているという意識はありません。

 最近、いろいろな人が書いているBlogやら、デジカメ関係のサイトやらで、「このサイト内の文章や写真を無断で引用・流用することを固く禁じます」…といった著作権を主張するらしき注意書きが書かれています。でも、そういった注意書きを書いているサイトに限って、その大半はどうでもいいような内容の駄文とか自分で撮影した下手なデジカメの画像とか、そんな程度の内容しかありません。それが、ご大層に「著作権」を主張しているのを見ると、笑ってしまいます。
 私のこのサイトなんか、どうせ適当なことを書いているだけですし、駄文を引用されようと、中に掲載しているデジカメの写真を使われようと、よほど悪意を持ってやられるのでない限り、別にたいして気にもしません。

 ちなみに、私がネット社会における著作権に関して、「もっと緩く」してもよいと思う理由は、何もレッシグのクリエイティブ・コモンズの考え方に賛同しているからではなく、またジャック・デリダが好きだからというわけでもありません。

 ともかく、非常に乱暴な意見であることは承知の上で、私はまず「テキスト(テクスト)」形態の著作物に限り、ネット上での流通に関しては著作権の対価を大幅に安くするべき考えています。そしてもう1つ、「著作権料」には、対象となる著作物の「価値」によって、差をつけてもよいと思うのです。ただし、誰がその「価値」を決めるのか…という問題については、アイデアはありません。
 さらに、「電子コンテンツ完全なコピー防止」は不可能である…とも思っています。これには2つの意味があります。まず「たいていのコピー防止技術は破られる」…ということ。また、技術の粋を尽くしてほぼ完全なコピー防止、暗号化を実現したとしても、そうなると「使い勝手が非常に悪く」なり、また「効率が悪い」システムになってしまう可能性が高いのです。むろん、完全なコピー防止を実現するためには、非常にコストもかかります。加えて、こての規格統一にはかならず妙な利権団体が絡んでくるのも不快です。これらの問題点については、既に有名無実になりつつあるDVDのコピー防止や、官僚が主導したあまりにもバカバカしい「B-CAS」、独禁法問題に揺れる「JASRAC」などの例を見れば明らかです。

 コピー防止技術の応用に限界や問題があるから著作権問題を緩くすべきだ…という論法は本末転倒だということは十分に承知しています。しかし、ゲームソフトのように不正コピーによる業界の損害額が莫大なる例がある一方で、一定割合の不正コピーを「許容すべき損害」として、宣伝効果やクチコミ普及効果などのメリットの方を大きく見る業界やビジネスモデルも実際にたくさん存在することは事実です。また、P2Pによる映画等映像メディアの不正ダウンロードに関しては、業界が訴えるほど実損は大きくない…との計算例もあります。
 いずれにしてもネットでの流通を前提としたデジタル問題には、強硬な著作権者側も納得する「落としどころ」があるはずで、個人的には早くそうした方向に進んでもらいたいと思います。

 さて、ここからが本題です。先に、「著作権料」は対象となる著作物の「価値」によって差をつけてもよいと思う…と書きました。これに関連して、もう20年以上昔に読んだ、あるSF小説を思い出しました。この小説は、「情報」をエネルギーに使う近未来社会…をテーマにした物語です。エネルギーが枯渇しつつある近未来社会で、誰かが「情報を電力に変換する装置」を発明し、世の中にありふれる「情報」をエネルギーに変換する社会を実現する話です。
 面白いのは、この「情報を電力に変換する装置」は、「エントロピーの高い情報ほど大きなエネルギーを取り出せる」というのです。そして、いったんエネルギーに変換してしまうと、その情報は世の中から消えてしまうわけです。で、この小説のどこが記憶に残っているかというと、取り出せるエネルギーの大きさで、その情報の「価値」がわかる…という部分です。記憶が定かではないのですが、小説の中でこんなシーンが出てきました。古典経済学の名著(例えば「資本論」とか「国富論」)を電力に変換したら膨大なエネルギーを取り出せた。しかし、ある有名な大学の経済学の先生が書いた本をエネルギーに変換したら、ほんの少ししかエネルギーに変換できなかった。それで、その先生が「そんなバカな」と怒る…という部分です。
 オリジナリティがあって人類社会に高度に有用な情報を含む著作物は大きなエントロピーを持ち、引用がメインのオリジナリティがない著作物はエントロピーが低いためほとんどエネルギーを取り出せない…、つまりその「変換装置」で取り出せるエネルギーの大きさで、情報の価値がわかってしまうというわけです。確か小説の中では、自分の書いたものがほとんどエネルギーに変換されない大学の教授やら小説家やらが怒ったり、大きなエネルギーを取り出せるばかりに大事な古典名著が世の中から消えてしまう…というような悲喜こもごもが起こったはずです。(20年以上前に一度読んだ記憶だけで書いているので、多少内容は違うかもしれません)。いずれにしても、日本人のSF作家が書いたこの小説、「情報エントロピーを物理エネルギーに変換する」という発想のユニークさが常に記憶の片隅に残っていました。

 この小説の「キモ」は、「情報、特に文字情報が物理的エネルギー(電気)に変換できる装置」にあるのだと思いますが、私が最も関心を持ったのは、「文字情報が持つエネルギー量に差があり、その差は『情報の質』『オリジナリティ』による」…という部分です。で、話は最初の「著作権」に戻りますが、私は世の中にはテキスト、音楽、映像など「無意味な著作物」「価値の無い著作物」が溢れていると思っています。これは、誰もがネットで自分の意見を開陳でき、著作物を自由に発表できるようになったことの功罪の「罪」の部分だとも思えます。何だか、誰もが口を合わせて「著作権」「著作権」と騒いでいる情況の中で、「お前の書いたものは、コピーライツを主張するほどものじゃないだろう」と、言ってやりたくなることが増えてきました

 最後に、今回紹介した「情報を電力に変換する装置」をテーマにした小説のタイトルが全く思い出せなかったので、ネットで検索してみました。その結果、この小説は1979年に刊行された「知識鉱脈」(笹原雪彦/日刊工業新聞社)というタイトルであることがわかりました。詳細はこちらのサイトをご覧下さい。はっきり言って、小説としてはこのサイトで絶賛しているほど面白かった記憶はありませんが、テーマと着想はユニークです。

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