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2009年07月22日

●無謀な人生

 大雪山系、トムラウシ岳の登山ツアー客の遭難事故、自己責任という言葉を安易に使うのは嫌いですが、やはり登山は危険なもの。自分がどの程度の体力・脚力を持っているか、どの程度の登山技術を持っているかを正確に自己判断でき、登ろうとする山の情報を自分で集めることができる人だけに許される「危険な遊び」です。どんな装備が必要でどんなスケジュールなら歩けるか…を「自分自身で」判断できない人間が、登山をやってはいけません。また、服装や装備は「最悪の天候、最悪の事態」を想定して整えるもの。私の拙い登山経験から見ても、今回のツアーに参加した登山者達の経験と装備では、起こるべくして起こった事態のような気がします。中高年登山客を食い物にするツアー会社もどうかとは思いますが、自らの意思で登山ツアーに参加する・しないの選択をした上での遭難ゆえに、生き残った遭難者は、この時期のトムラウシ岳の最悪の天候情況を事前に想定せず、実際に起こった事態に対処できなかった自らの能力と責任をあらためて自覚すべきでしょう。むろん亡くなった方は大変お気の毒であり、冥福をお祈りします。

 しかし、アウトドアでの遊びに関しては、私自身、昔から相当な無茶・無謀なことをやってきており、実際に何度も危険な情況にも陥りました。他人の遭難事故に対してえらそうなことを言える立場ではありません。

 登山は、若い頃から結構危険な目にあっています。しかも、万全の準備で臨んだ北アルプスや南アルプスの高峰の登山ではなく、むしろ気軽に出掛けた日帰りや小屋泊まり1泊程度の山行で、意外と危ない情況に陥ったことが何度もあります。
 10代の終わり頃、早春3月初め頃の鈴鹿で御池岳日帰り登山の帰りに、半ば日が落ちて暗くなり始めた白船峠の下りで雪に降られ、危うく遭難しそうになったことがあります。30代の頃に行った春の八ヶ岳、1泊したオーレン小屋から根石岳へ登り、さらに天狗岳を目指していた時に、稜線で20メートル以上の強風と雪混じりの氷雨に遭い、動けなくなって岩陰で長時間の停滞を余儀なくされ、余りの寒さにこれまた危うく遭難しかかった単独行もありました。いずれも、好天ならばハイキング程度の初心者向けコースでの話ですが、季節と天候次第ではかなり危険な事態になるという実例です。

 登山だけではありません。バイクツーリングなんて、もう無茶苦茶なことをやりました。これは20代の話、当時友人からタダで貰った不動で10年落ちのHONDA「CL250」というオンボロバイクを自分でレストアし、調子を見るために日帰りで信州へ出掛けました。しかも、現在のカミさんを後ろに乗せたタンデムです。往きは国道20号ですからどうってことありません。帰りは何を思ったか、野辺山から川上村を通り、三国峠経由で中津川林道を通って秩父へ抜けて帰ってこようとしました。そして三国峠の頂に着いたのは夕方かなり遅い時間です。当時、既に中津川林道は夜間走行が禁止されていたはず。でも、無謀にも薄暮の林道を下り始めました。
 1969年製のCL250がどんなバイクか今の人達は知らないでしょうが、1980年頃の当時のバイクとの比較ですら、既にまともとは言えないサスとまともとは言えない操縦性のバイクであったはず。そんなバイクに不安定な2人乗りで、夜道のオフロードを下り始めたわけです。峠を下り始めるとすぐに真っ暗になりましたが、CL250のヘッドライトと言えば、せいぜい15Wぐらいでしょうか、まあ最近の原チャリよりも暗いライトです。路肩やカーブの情況もまともに見えない有様で、急勾配、急カーブが連続する狭い林道を走るのです。怖いことこの上ない。しかも、走行しているうちに、オフロード部分の真ん中あたりで、エンジンが止まってしまったのです。月明かりと手探りでプラグを交換してポイントを掃除し、舗装部分まで下って来たときには、もう夜の10時を回っていました。今思えば、よく夜間の林道で崖から落ちたりしなかったものだと思います。
 でも当時は、そんな話と似たり寄ったりの無茶なツーリングを、毎週のようにやっていたものです。厳冬期の1月に、路上の各所に除雪後の雪が残り日陰部分は完全に凍結し、延々と急コーナーが続く20号線の大菩薩峠超えを、SR500で走った時の怖さは今でも覚えています。また、1980年代に行った東北ツーリングの途中、下北半島を1周しようとした時の話。今とは違って大間岬から南はほぼ全て未舗装だった時代で、土砂降りの中、林道並みに荒れた未舗装路を単気筒のオンロード車にやはりタンデムで半日走り続けて、脇野沢を過ぎる頃にはハンドルを押さえる手の感覚がなくなってしまった時のことも覚えています。

 ともかく、登山もバイクツーリングも自己責任において行うべき「危険な遊び」であることは間違いありません。私はこの年齢になって、1つ間違えば現在は生きていなかったような無謀なことをやり続けた人生を、迷惑を掛けたであろう周囲の人間と社会に対して反省しています。でも一方で、現在もなおこうして生きている自分の人生を、「実に好き勝手に、面白おかしく生きてきたものだ」と身勝手にほくそえんでいる部分もあります。無茶をやって生き残った人生というのは、間違いなく「幸運」な人生です。今回の大雪山系の遭難事故で生還できた方々は、自らの「幸運」に感謝すべきでしょう。そして、不謹慎な言説ながら、無念にも亡くなった方の分まで人生を楽しむべきです。

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