« 2009年06月 | メイン | 2009年08月 »

2009年07月29日

●真夜中に聴きたい50曲 (8)

(8)Jethro TullLocomotive Breath」(ジェスロ・タル:ロコモティブ・ブレス) 

 最初からアメリカの音楽ばかりが続いていますが、これは無理も無い話。私の世代でロックが好きとなると、やはりアメリカの音楽の影響が大きくなるのはやむを得ません。とは言え、中学生の頃から、ツェッペリンやクリーム、ジェフ・ベックなどに代表されるブリティッシュロックにも大きな影響を受けたことも確かです。一方で、ビートルズとローリング・ストーンズには、ほとんど興味がありませんが…

 さて、今回の紹介するジェスロ・タルは、イギリス出身のロック・バンドです。強いてジャンル分けすれば「プログレッシブ」に近いのでしょうが、キング・クリムゾンやイエス、ELPやピンク・フロイドといった代表的なプログレッシブ・ロックのバンドに共通するサウンドとは、かなりテイストが異なる楽曲が多いかもしれません。ブルース・ロックの一面も持っていますし、アコースティックで叙情的な曲もたくさんあります。
 ジェスロ・タルと言えば、イアン・アンダーソンが超絶的なテクニックで奏でるフルートが印象的ですが、ロックミュージックとフルートという楽器の組み合わせは、非常に珍しいものです。他にマンドリンやオルガンなど多彩な楽器を駆使したバラエティ豊かなサウンドを聞かせてくれます。
 ジェスロ・タルのデビューは1968年で、ビートルズやストーンズが後期とは言えまだ活躍していた時代でもあり、ツェッペリンは全盛期でした。ディープ・パープルが結成された年でもあります。そんな初期のロック全盛時代にあって、ジェスロ・タルの存在感は独特のものでした。他のロックバンドに類を見ないサウンドのオリジナリティは当時から高い評価を受け、瞬く間に世界的な人気バンドとなります。

 まあ、ジェスロ・タルが熱狂的に好きなわけではないのですが、もともとプログレッシブ・ロックが好きなこと、そして高校時代に聞いてそのサウンド非常に印象に残ったバンドであることなどから、彼らの曲の中には何曲か好きな曲があります。
 そして、彼らの曲の中で個人的に最も印象的で好きな曲が、今回紹介する「Locomotive Breath」(ロコモティブ・ブレス)です。1971年にリリースされた4枚目のアルバム「AQUALUNG」(アクアラング)に収録されました。「蒸気機関車のあえぎ」と訳されるこの曲は、力強いリズムと覚えやすいメロディライン、そしてフルートのソロと、ともかく印象的な曲です。そしてこの曲は、彼らのライブの定番ともなっています。
 ちなみにアルバム「AQUALUNG」は、翌1972年にリリースされた「THICK AS A BRICK(ジェラルドの汚れなき世界)」とともに、彼らの最高傑作の1つでしょう。Bonus Trackには、彼らの代表作である「Living in the Past」や「Bouree」などの名作が含まれています。

2009年07月28日

●「傾聴」→「チョー聴く」

 今朝NHKの「おはよう日本」を見ていたら、大学生の中退者増加が大学の経営上大きな問題になっており、大学側が対応に追われている…というニュースをやっていました。で、いかに中退者を得ださないようにするか…について、「嘉悦大学」という大学が実際に行っている対策を紹介していました。その内容に、私はかなり驚いた次第です。

 中退者対策の第一は、「居心地のよい学生サロン」の設置です。24時間オープンで仮眠もできるおしゃれなサロンで学生がくつろいでいました。
 次に紹介された対策は、「大学生に将来に対する目的意識を持たせるための必修授業」です。その授業では、明日から始まる夏休みのついて、「夏休みの目標」なるものを学生に書かせていました。教官とおぼしき先生が学生に向かって、「夏休みの目標を書くように優しく語り掛けている授業風景が映し出されていました。
 次いで、教授・教官が集まって、「いかに学生に授業や勉強に興味を持たせるか」について議論をしていました。そこでは「授業では難しい言葉や学術用語を使わないようにする」ことが議題となっていました。難しい学術用語を使うと、学生が授業や勉強に対する興味を失ってしまうというのです。さらに学生が理解できない難しい言葉の例としてコミュニケーション系授業で必須の「傾聴」という言葉が提示され、それをどのように簡単な言葉に言い換えるか…が話し合われていました。そこで提案されたのが「よく聴く」「しっかり聴く」で、続いて「チョー聴く」という提案があり、教官陣がいっせいに「それはいい!」と賛同していました。

 このニュース、見ていたら何だか絶望的な気分になりました。友人・知人に大学の教官が何人もいますし、自分自身も大学で講義した経験も何度もあります。今の大学生の「レベル」についてはある程度わかっているつもりです。それでも、大学の授業で真面目に「夏休みの目標」を書かせている光景は衝撃的です。小学校ならともかく、大学で学生に「夏休みの目標を立てさせる」というのは、あまりにも痛すぎて見ていられません。
 そして「学術用語を使わない授業」をしないと学生が授業に興味を失う…というのは、もう「大学」の存在意義に関わるほどバカバカしい話です。学術用語を使わずに学問を教えなければならない…というのは、教える側にとっては「学問を教えてはいけない」に等しいでしょう。また、学術用語を聞くと授業を受ける気を失う学生がいるとすれば、大学に入学したこと自体が間違いなのです。
 「傾聴」の意味が理解できない大学生がいるという事実、そして「傾聴」を「チョー聴く」と言い換えるべきだと教える側が真面目に議論しているに至っては、頭を抱えてしまいます。

 ここで、安易に「こんな教育機関は不要だ」…とまでは書きません。少なくとも勉強をしない学生に何とか勉強させよう、学問の楽しさを教えようと多大な努力をしている点では、この「嘉悦大学」の教育体制を評価すべきです。また、大学側の対策の効果によって、実際にその気になって学問の世界に興味を持つ学生がいるとすれば、その志はそれなりに立派なものです。日本という国の国民全体の教育レベルを底上げするためには、こうした教育機関も必要かもしれません。しかし、少なくとも「大学」というものの存在理由、存在意義を考えれば、この大学は「大学」として存在すべきではないし、「夏休みの目標を書け」と言われて疑問に思わない学生、「傾聴」の意味を理解できない学生は、一般的な意味での「大学生」であるべきではありません。そして、どうやら今の日本にはこの嘉悦大学と同等の「レベル」の教育を行っている「大学ではない大学」が、非常にたくさんあるようです。
 こうした多くの大学に対しては、アメリカの社会人向けコミュニティカレッジのように、通常の「学問を学ぶ大学」とは別枠の「義務教育を終了した人向けの生涯教育・職業教育のための学校」といった位置付けを考えるべきでしょう。このレベルの大学と「学問を学ぶ意欲を持ちそれに応えるだけの高度な教育を行う大学」とが、制度面、法律面で同じ位置づけにあるのはおかしいし、また同じレベルで補助金や助成金を出すのもおかしな話です。

2009年07月26日

●真夜中に聴きたい50曲 (7)

(7)Pete SeegerI’ve been working on the railroad」(ピート・シーガー:線路は続くよどこまでも)

 私の父は、非常に真面目なサラリーマンではありましたが、音楽に関してはちょっと変わった趣味を持っている人間で、私がまだ小学校に上がる前の小さい頃、自宅で自己流でバイオリンを弾いていました。私はまだ小さかったから、別に不自然には思わなかったのですが、長じてから「誰にも習わず自己流でバイオリンを練習する」…という行為がかなり変わっていることを知りました。父は、何かの楽器の専門教育を受けたことがないにもかかわらず、いろんな楽器が好きで、ギターとかフルートとか突然楽器を買ってくるのです。しばらく遊んで飽きると子供、つまり私と妹に下げ渡されました。そんな父が、私が小学校3~4年の頃に突然買ってきたのがアコーディオンです。当時私はYAMAHA音楽教室などに長く通っており、ある程度ピアノが弾けたので、アコーディオンも右手の鍵盤部分の演奏にはすぐに慣れました。ただ、左手のベースボタンでコード押さえるのはなかなか難しく、そんな私が最初にアコーディオンでコード付きで弾けるようになった曲が、今回紹介する「線路は続くよどこまでも」であります。

 「I’ve been working on the railroad:線路は続くよどこまでも」は、アメリカの民謡、フォークソングであり、もともとは労働歌、すなわち「レールロードワークソング」として広まった曲です。Wikipediaによれば、

…原曲は、1863年から始まった大陸横断鉄道建設に携わったアイルランド系の工夫達によって歌われ始めたもので、線路工夫の過酷な労働を歌った民謡・労働歌の一つである。1955年に日本でも『線路の仕事』の題名で比較的忠実に紹介された。この曲が日本で大いに広まったのは、『線路は続くよどこまでも』としてである。『線路は続くよどこまでも』は1962年にNHK『みんなのうた』の中で紹介されて以降、ホームソング、童謡として愛唱されるようになった。フォークダンスのひとつである…

そして、歌詞の成り立ちについては次のような興味深い話が紹介されています。

…『線路は続くよどこまでも』の作詞者は、佐木敏であり、これは『みんなのうた』の二代目のディレクターであった後藤田純生のペンネームである。しかし、作詞は氏の単独作業によるものではなく、「ノッポさん」こと高見映による原案を元に、当時の番組スタッフの共同作業により作り上げられた…

 さて、ピート・シーガーが歌う「線路は続くよどこまでも」は1962年に録音されたアルバム「Children's Concert At Town Hall」に収録されています。このアルバム、タイトル通り、ピーートシーガーが子供の他に開いたコンサートのライブです。この「I’ve been working on the railroad」や「Michael Row The Boat Ashore:漕げよマイケル」など、誰も知っているフォークソングを、曲によっては子供たちと合唱しながら歌っているアルバムで、ほのぼのとした心温まる雰囲気のアルバムです。ここではピート・シーガーについて特に説明しませんが、反戦歌を歌うピート・シーガーよりも、「I’ve been working on the railroad」を歌うピート・シーガーの方が、私は好きです。

2009年07月25日

●真夜中に聴きたい50曲 (6)

(6)Leon RussellA Song For You」(レオン・ラッセル:ア・ソング・フォー・ユー)

 レオン・ラッセルは、70年代に一世を風靡した「スワンプ・ロック」の代表的なミュージシャンです。スワンプ(swamp)とは湿地や沼地を意味し、転じてアメリカ南部の湿地帯を指す言葉として使われています。私は既に書いたオールマンをはじめ、ザ・バンド、CCR、マーシャル・タッカー・バンドなど、俗にサザン・ロックとして括られるサウンドが大好きなんですが、この「サザン・ロック」と「スワンプ・ロック」は、かなりテイストが近い部分があります。事実、レオン・ラッセルのサウンドはブルースやソウルミュージックの影響を強く受けていますが、サザンロックの大御所であるザ・バンドのメンバーがカナダ出身であるのと同じく、レオン・ラッセルも南部とは無関係なLA出身です。ソロデビュー前は、ジョー・コッカーらとともにイギリスで活動していました。
 さて、「スワンプ・ロック」と「サザン・ロック」のテイストに似ている部分があるとは言っても、レオン・ラッセルのサウンドはあくまで独特なもの。彼の持つオリジナリティを最もよく現しているのが、1971年にリリースされたレオン・ラッセルのソロ第2作の「レオン・ラッセル・アンド・ザ・シェルター・ピープル」。サザン・ロックをベースにしながらも、よりポップでメロディを重視したサウンドの曲が並んでいます。

 で、今回挙げた「A Song For You」は、音楽ファンなら知らない人のいないレオン・ラッセルの代表曲とも言える名曲で、1970年に発売されたファースト・アルバムに収録されています。このファーストアルバムには、ジョージ・ハリスンやエリック・クラプトンも参加しており、70年代のロックシーンに全体に大きな影響を与えたもの。
 「A Song For You」はカーペンターズやレイ・チャールズなどがカヴァーしており、特にカーペンターズ版でこの曲を知った人は多いかもしれません。でもやはり、「A Song For You」はレオン・ラッセルのあの「ダミ声」で聞いてこそ味があります。そしてこの曲もまた、私が好きな「古きよき時代のアメリカ」の光景を思い浮かべる曲です。

2009年07月24日

●真夜中に聴きたい50曲 (5)

(5)Carly SimonYou Are My Sunshine」(カーリー・サイモン:ユー・アー・マイ・サンシャイン)

 さて、今回紹介する曲は、先に紹介したニール・ヤングやオールマン・ブラザーズ・バンドのように、そのミュージシャン自体が好きなので、1曲選べといわれてもどの曲を選んだらいいか迷う…というパターンではありません。私はカーリー・サイモンというシンガーを別に好きなわけではなく、むろんアルバムも1枚も持っていません。にもかかわらず、カーリー・サイモンが歌う「ユー・アー・マイ・サンシャイン」は大好きです。これは、言わばある種の「化学反応」のようなもので、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」という曲が大好きなわけでもなく、カーリー・サイモンというシンガーが大好きなわけでもないのに、「カーリー・サイモンが歌うユー・アー・マイ・サンシャイン」は特別の曲になってしまったわけです。

 カーリー・サイモンと言えば、私たちの世代にとっては1972年の大ヒット曲「うつろな愛(You're So Vain)」のイメージが余りにも強いシンガーです。まあ、彼女はある時代に非常に高い人気を誇った女性ポップスシンガーで、「うつろな愛」以外にも、「007 私を愛したスパイ」の主題歌 「Nobody Does It Better」など数多くのヒット曲があり、さらに私生活においてもジェームス・テイラーと結婚(後に離婚)するなど、アメリカでは現在も高い知名度とそれなりの人気を保っているシンガーです。
 で、曲の方ですが「ユー・アー・マイ・サンシャイン」は、1940年頃に当時売れないカントリーシンガーであったジミー・デイビスによってレコーディングされた歌。その後ジミー・デイビスがルイジアナ州知事になった経緯もあって、1977年にルイジアナ州の州歌となっています。「ユー・アー・マイ・サンシャイン」が有名になったのは、当時有名なカントリー歌手、ジーン・オートリーやポップシンガーのビング・クロスビーがレコーディングしてヒットしたからです。その後「ユー・アー・マイ・サンシャイン」をレコーディングしたシンガーは多く、第二次大戦義にはレイ・チャールズやアレサ・フランクリンなどが歌ってヒットしました。いまや誰もが知るアメリカのポピュラーソングです。
 you are my sunshine my only sunshine
 You make me happy  when skies are gray
…で始まる歌詞は、明るい恋の曲のようですが、実はトーチ・ソング(torch song)で、要するに「ユー・アー・マイ・サンシャイン」は失恋の歌です。これを知った上で、カーリー・サイモンが歌う「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を聞いてみてください。これが、何とも言えずいいんです。ちなみに「Into White」という2007年にリリースされたアルバムに収められています。

 私がこのカーリー・サイモンが歌う「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を知ったのは、ごく最近のこと。実は、アメリカのTVドラマ「コールドケース」によってです。シーズン4の第16話「ベビーベッド:The Good-Bye Room」で使われていました。まだアメリカで「未婚の母」が白い目で見られ、中絶もできなかった1964年の田舎町を舞台に、望まれない妊娠をした良家の女の子がこっそりと出産するために両親によって無理やり宗教施設に入れられて、生まれた子どもは養子に出される…という悲しくも切ない話ですが、このエピソードの中でカーリー・サイモンが歌う「ユー・アー・マイ・サンシャイン」は実に効果的に使われていました。今でも、ドラマの最終シーンの情景が目に浮かぶほどです。「コールドケース」のエピソードの中でも傑作の1つです。

2009年07月23日

●真夜中に聴きたい50曲 (4)

(4)STEPHEN STILLSJESUS GAVE LOVE AWAY FOR FREE」(スティーブン・スティルス:愛よりも自由を)

 私はCSN&Yが大好きですが、そのCSN&Yの中でスティーブン・スティルスがどのようなポジションにあったのか、スティーブン・スティルスが作ったバンドMANASSAS(マナサス)の演奏を聞くとよく理解できます。

 MANASSASというバンドは、2枚しかアルバムを残していません。「JESUS GAVE LOVE AWAY FOR FREE」が収録されているファーストアルバムは、1972年にリリースされました。発売時にはアナログ2枚組みのレコードで、バーズ出身のクリス・ヒルマンがマンドリンで参加するなど、一流のミュージシャンを集めてレコーディングされ、ロック、R&B、フォーク、ラテン、カントリー、ブルース等、様々な音楽のエッセンスを詰め込んだコンセプト・アルバムとなっています。片面ごとに「THE RAVEN」「THE WILDERNESS」「CONSIDER」「ROCK & ROLL IS HERE TO STAY」と4つのサブタイトルがついており、各面には同じ傾向の曲がまとめてあります。とは言え、全体としては格調の高いカントリー・ロックのアルバムとして芯の通った仕上がりとなっているのが素晴らしいですね。あくまで個人的評価ですが、1970年代後半以降のロックを中心とした音楽の方向性を示唆する作品が収められている、この時代を代表する珠玉のアルバムだと思います。

 「JESUS GAVE LOVE AWAY FOR FREE」は、アナログ版の1枚目のA面に収録されており、スティーブン・スティルスのボーカルとサビの部分のコーラスがとても美しい、カントリーテイストたっぷりの叙情的な曲。邦題としてつけられた「愛よりも自由を」というタイトルは興を殺ぎますが、ともかくいい曲です。

 どうでもよい話ですが、「MANASSAS」というのは実在するヴァージニア州の地名であり、南北戦争の激戦地としてよく知られています(こちらを参照)。スティーブン・スティルスは曲名や曲のモチーフに実際の地名を使うのが好きで、上述したアルバムの4つのサブタイトルは全て実在の地名です。

2009年07月22日

●無謀な人生

 大雪山系、トムラウシ岳の登山ツアー客の遭難事故、自己責任という言葉を安易に使うのは嫌いですが、やはり登山は危険なもの。自分がどの程度の体力・脚力を持っているか、どの程度の登山技術を持っているかを正確に自己判断でき、登ろうとする山の情報を自分で集めることができる人だけに許される「危険な遊び」です。どんな装備が必要でどんなスケジュールなら歩けるか…を「自分自身で」判断できない人間が、登山をやってはいけません。また、服装や装備は「最悪の天候、最悪の事態」を想定して整えるもの。私の拙い登山経験から見ても、今回のツアーに参加した登山者達の経験と装備では、起こるべくして起こった事態のような気がします。中高年登山客を食い物にするツアー会社もどうかとは思いますが、自らの意思で登山ツアーに参加する・しないの選択をした上での遭難ゆえに、生き残った遭難者は、この時期のトムラウシ岳の最悪の天候情況を事前に想定せず、実際に起こった事態に対処できなかった自らの能力と責任をあらためて自覚すべきでしょう。むろん亡くなった方は大変お気の毒であり、冥福をお祈りします。

 しかし、アウトドアでの遊びに関しては、私自身、昔から相当な無茶・無謀なことをやってきており、実際に何度も危険な情況にも陥りました。他人の遭難事故に対してえらそうなことを言える立場ではありません。

 登山は、若い頃から結構危険な目にあっています。しかも、万全の準備で臨んだ北アルプスや南アルプスの高峰の登山ではなく、むしろ気軽に出掛けた日帰りや小屋泊まり1泊程度の山行で、意外と危ない情況に陥ったことが何度もあります。
 10代の終わり頃、早春3月初め頃の鈴鹿で御池岳日帰り登山の帰りに、半ば日が落ちて暗くなり始めた白船峠の下りで雪に降られ、危うく遭難しそうになったことがあります。30代の頃に行った春の八ヶ岳、1泊したオーレン小屋から根石岳へ登り、さらに天狗岳を目指していた時に、稜線で20メートル以上の強風と雪混じりの氷雨に遭い、動けなくなって岩陰で長時間の停滞を余儀なくされ、余りの寒さにこれまた危うく遭難しかかった単独行もありました。いずれも、好天ならばハイキング程度の初心者向けコースでの話ですが、季節と天候次第ではかなり危険な事態になるという実例です。

 登山だけではありません。バイクツーリングなんて、もう無茶苦茶なことをやりました。これは20代の話、当時友人からタダで貰った不動で10年落ちのHONDA「CL250」というオンボロバイクを自分でレストアし、調子を見るために日帰りで信州へ出掛けました。しかも、現在のカミさんを後ろに乗せたタンデムです。往きは国道20号ですからどうってことありません。帰りは何を思ったか、野辺山から川上村を通り、三国峠経由で中津川林道を通って秩父へ抜けて帰ってこようとしました。そして三国峠の頂に着いたのは夕方かなり遅い時間です。当時、既に中津川林道は夜間走行が禁止されていたはず。でも、無謀にも薄暮の林道を下り始めました。
 1969年製のCL250がどんなバイクか今の人達は知らないでしょうが、1980年頃の当時のバイクとの比較ですら、既にまともとは言えないサスとまともとは言えない操縦性のバイクであったはず。そんなバイクに不安定な2人乗りで、夜道のオフロードを下り始めたわけです。峠を下り始めるとすぐに真っ暗になりましたが、CL250のヘッドライトと言えば、せいぜい15Wぐらいでしょうか、まあ最近の原チャリよりも暗いライトです。路肩やカーブの情況もまともに見えない有様で、急勾配、急カーブが連続する狭い林道を走るのです。怖いことこの上ない。しかも、走行しているうちに、オフロード部分の真ん中あたりで、エンジンが止まってしまったのです。月明かりと手探りでプラグを交換してポイントを掃除し、舗装部分まで下って来たときには、もう夜の10時を回っていました。今思えば、よく夜間の林道で崖から落ちたりしなかったものだと思います。
 でも当時は、そんな話と似たり寄ったりの無茶なツーリングを、毎週のようにやっていたものです。厳冬期の1月に、路上の各所に除雪後の雪が残り日陰部分は完全に凍結し、延々と急コーナーが続く20号線の大菩薩峠超えを、SR500で走った時の怖さは今でも覚えています。また、1980年代に行った東北ツーリングの途中、下北半島を1周しようとした時の話。今とは違って大間岬から南はほぼ全て未舗装だった時代で、土砂降りの中、林道並みに荒れた未舗装路を単気筒のオンロード車にやはりタンデムで半日走り続けて、脇野沢を過ぎる頃にはハンドルを押さえる手の感覚がなくなってしまった時のことも覚えています。

 ともかく、登山もバイクツーリングも自己責任において行うべき「危険な遊び」であることは間違いありません。私はこの年齢になって、1つ間違えば現在は生きていなかったような無謀なことをやり続けた人生を、迷惑を掛けたであろう周囲の人間と社会に対して反省しています。でも一方で、現在もなおこうして生きている自分の人生を、「実に好き勝手に、面白おかしく生きてきたものだ」と身勝手にほくそえんでいる部分もあります。無茶をやって生き残った人生というのは、間違いなく「幸運」な人生です。今回の大雪山系の遭難事故で生還できた方々は、自らの「幸運」に感謝すべきでしょう。そして、不謹慎な言説ながら、無念にも亡くなった方の分まで人生を楽しむべきです。

2009年07月21日

●真夜中に聴きたい50曲 (3)

(3) Neil YoungKeep On Rockin' In The Free World」(ニール・ヤング:キープ・オン・ロッキング・イン・ザ・フリー・ワールド)

 だいたい、ニール・ヤングの曲から1曲を選べ…というのが土台無理な話。1960年代のデビュー以来、60代になった現在に至るまで、ソロシンガーとしての活動はむろん、バッファロー・スプリングフィールド、CSN&Y、そしてクレージーホースとのセッションを含めてあらゆるジャンルの音楽に手を出し、公民権運動やベトナム戦争から9.11テロ事件に至るまで常にその時代に起きた歴史的な出来事へのメッセージを送りながら第一線を走り続けてきた彼には、時代を象徴する曲や傑作と言えるアルバムが山ほどあります。アルバムで言えば「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」や「ハーベスト」、曲では「オンリー・ラヴ」や「ハート・オブ・ゴールド」などをベストに挙げる人も多いでしょうが、あえて私は、彼のミュージシャンとしての真髄を示す象徴的な曲として「Keep On Rockin' In The Free World」を挙げたいと思います。

 この曲を収録した1989年のアルバム「Freedom」は、グランジのがベースの轟音・爆音系の曲と、ジャンル分類不能なオルタナティブ系の曲、リンダ・ロンシュタットとのデュエット曲から叙情的な曲までがバラエティ豊かに収録されていますが、その中で「Keep On Rockin' In The Free World」はといえば、ともかく「ロック」をしている…としか言いようがない曲。時代へのメッセージを発信し続けてきたニール・ヤングだからこそ、ストレートなサウンドと歌詞が、心に響きます。私はこの曲が大好きです。ニール・ヤングは、○○系とレッテルを貼るのは難しいミュージシャンですが、私としては、やはり永遠のロックシンガーとしての彼が好きですね。

 そういえば、マイケル・ムーア監督の映画「華氏911」のエンディングテーマで、「Keep On Rockin' In The Free World」が使われていました。

 Keep on Rockin' in the Free World
 ロックし続けろ、ここは自由の国だ!

…と歌うニール・ヤングは、これからもずっと、過激なロックおやじでいて欲しいものです。

2009年07月17日

●真夜中に聴きたい50曲 (1)(2)

 私は音楽が好きです。で、誰も読む人がいないのを承知で、「私の好きな50曲」…という企画を勝手にやってみたいと思います。毎週1回、1曲づつ1年間に渡って書いていこうと決心しました。むろん、こんな決心など明日になれば忘れているかもしれないので、実際にこの企画が続くかどうかは、本人にもわかりません。
 ところで、「私の好きな50曲」というのもつまらないタイトルなので、毎晩就寝前に芋焼酎のお湯割りでもバーボンのロックでも好きなお酒を飲みながら聴いてみたい曲…ということで、「真夜中に聴きたい50曲」というタイトルにしてみます。

 ところで私は、このBlogにけっこう「ウソ」を書きます。ウソと言う言葉にはちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも「脚色」はしています。脚色する理由は、簡単です。本当の自分をあからさまに見せたくないからです。例えば、私が毎日読んでいる本のタイトルを日記の形で公表していったとします。10冊や20冊の本を羅列したところで、私がどんな人間なのかはまず分からないでしょう。でも、私が1年間に読む本(概ね500冊ぐらい)を全部書いたとしましょう。そうなると、私がどんなことを考えているのか、どんなものに興味を持っているか…といった傾向がわかってしまいます。私としては、やっぱりそうなるのは嫌ですから、自分が読んでいることを世間に知られたくない書籍については、このblogには書きません。また、読んで面白くなかった本を「面白い」と書くことで、自分の「モノの考え方」をわからないようにする…なんて「ウソ」をつくわけです。

 で、音楽についいても同じ。自分が本当に好きな曲を連載すると、私の音楽の趣味が完全にわかってしまいます。それはちょっと…。だから今回は、「好きでもない曲」を入れる…という形のウソは書きませんが、「本当に好きな曲」を何曲か故意に落とす形で書くことになりそうです。

 では、今日から「真夜中に聴きたい50曲」を書き始めます。第1回ということで、今回は2曲を掲載します。ちなみに、1人(1バンド)については1曲しか紹介しません。


(1) The Allman Brothers BandMidnight Rider」(オールマン・ブラザーズ・バンド:ミッドナイト・ライダー)

 オールマン・ブラザーズ・バンドは、私が最も好きなバンドの1つであり、毎日持ち歩いている容量16GBのDAPには、常に彼らのアルバムが7~8枚は入っているはずです。彼らがどのようなバンドなのか、そして彼らのサウンドのどこがいいか…なんてことをここでウダウダと語る必要もないでしょう。とは言え、好きなアルバム、好きな曲が多過ぎて、「1つのバンドから1曲」というルールを決めなければ、私の好きな50曲の中で、オールマン・ブラザーズ・バンドの曲が10曲以上は入ってしまいそうです。
 今回挙げた「ミッドナイト・ライダー」は、1970年に発表された彼らの最初のヒットアルバム「Idlewild South(アイドルワイルド・サウス)」に収録されています。このアルバムには、「リヴァイヴァル」や「エリザベス・リードの追憶」などの初期の名曲がキラ星のごとく収録されていますが、その中で私が最も好きなのが、グレッグ・オールマンがソロでも発表した「ミッドナイト・ライダー」なのです。この曲のどこがいいのかうまく説明できませんが、「いかにもオールマン・ブラザーズ・バンドらしい」…というのが唯一の答えでしょうか。

 彼らの初期の曲では、「Melissa」も大好きです。これは、1972年に発表され、デュアンの追悼盤になってしまった「Eat A Peach」というアルバムに収められています。グレッグのけだるいボーカルがすごくいいですね。

 でも、結局彼らのアルバムの中でいちばん聞くのは、やっぱり「Live At Fillmore East」かもしれません。

(2)Tom WaitsOl' 55」(トム・ウェイツ:オール’55)

 「Ol' 55」は、誰もが知る名曲です。「酔いどれ詩人」などと呼ばれ、一部でマニア的というかカルト的な人気を持つトム・ウェイツですが、個人的には、このトム・ウェイツというシンガーソングライターが大好き…というわけではありません。独特の叙情的な歌詞も、それほどいいとは思いません。むろん、DAPに入れて日常的にアルバムを聞いているわけでもありません。
 また、1949年生まれのトム・ウェイツがもっとも活躍した時期は、彼が30代~40代であった80年代ですが、私の場合は、60年代後半から70年代前半にかけての曲に好きな曲、思い入れのある曲が多く、80年代に活躍したシンガーにはあまり思い入れのある人やグループがいないのです。にもかかわらず、「Ol' 55」だけは何故か好きなのです。
 まあ、単純に言ってしまえば、この曲を聴くとストレートに「アメリカの光景を思い浮かべる」から好きなのでしょう。
 「Ol' 55」は、1973年、彼が23才の時に発表されたトム・ウェイツのファースト・アルバム「Closing Time」に収録されています。このアルバムは、彼の評価が高まった30代以降のどのアルバムよりもよいアルバムで、私なんかよりもコアなトム・ウェイツファンの多くが彼の最高のアルバムと評価するのはよくわかります。

 ところで、「Ol' 55」というのはアメリカのハイウェイ「I-55」、いわゆるインターステート55号線のことで、確かセントルイスから北へ向かう道のはず(もしかすると間違っているかもしれません)。つまり「Ol' 55」は、私が大好きなアメリカ中西部の光景がそのままイメージ化された曲なのです。この曲を聴くと、貧乏な20代の頃、グレイアハウンドのバスに乗ってアメリカ大陸を放浪した時のことを鮮明に思い出します
 なお、ご存知の通り「Ol' 55」はその後1974年に、イーグルスがアルバム「オン・ザ・ボーダー」でカヴァーして話題になりました。

2009年07月16日

●「F200EXR」を、さらに使ってみて…

 F200EXRの「手持ち夜景スナップ能力」はたいしたものです。今回海外出張に持って行き、暇を見て夜景中心に数百カット撮影してみましたが、かなりの確率で見られる画像が撮れました。

Dscf0215s.jpg

 この画像は、EXRのSNモードで最大ISO感度800の設定で撮った画像です。実際にはISO800、f3.3、1/28秒でシャッターが切れています。一瞬立ち止まってきちんと構えずに撮っても、画面の中に適当な光源があれば、この程度の画像を撮ることができます。拡大すると、背景の暗部の諧調なども結構しっかりと出ていて、F200EXRはまさにノンストロボ前提の夜間の街撮りスナップには個人的には理想に近いカメラということができます。
 記録目的の画像ならISO1600でも十分にいけますから、手ぶれのことを考えるとISO1600を上限にしても構わないのですが、まあ、記録ではなく鑑賞目的の画像ならISO800を上限設定にしておいた方が無難でしょう。

Dscf0149s.jpg

 夜景撮影能力が高い代わりに、AUTO設定で撮る昼間の画像は、それほど感心するものではありません。むろん、解像感、レンジ感はむろん、発色もけっして悪い画像ではないのですが、夜景スナップで撮れる画像があまりに素晴らしいだけに、私が勝手に期待し過ぎているということでしょう。
 昼間の撮影は、モードダイヤルを[P]または「AUTO」として、ISO感度の上限を400に設定、発色は[VELVIA]モードで撮影しています。しかし、撮れる画像は、例えばGRDやGRDⅡの絵と較べると、なんとなく「落ち着きのない絵」のように感じます。これは、別に[VELVIA]モードのせいではなく、標準の[PROVIA]モードで撮っても同じです。

 まあ、ともかくF200EXRは最近になく面白いカメラです。当初心配していたほどグリップも悪くないし、重要なタフさの問題も、今のところは裸でポケットに放り込んで持ち歩いていても大丈夫そうです。さらに使い込んでみるつもりです。

2009年07月02日

●ベンのテーマ

 朝の通勤前の時間、私はいつもコーヒーを飲みながら、テレビで朝のワイドショーなどをボンヤリと見ているのですが、相変わらずマイケル・ジャクソンの話題ばかりです。テレビの追悼特集では彼の代表作であるスリラーやBADのビデオクリップばかり流されています。
 そのマイケル・ジャクソンですが、音楽史に残る偉大なエンタテイナーであったことはその通りだと思いますけど、別に彼の音楽が好きだったわけでもないし、さほど興味のあるミュージシャンではありませんでした。そんな私にとって記憶に残るマイケル・ジャクソンの曲は、たった1曲だけ。それは1972年にリリースされた「ベンのテーマ」です。ネズミがいっぱい出てくる一種のパニック映画だった「ベン」、そんな映画のテーマにしては、とても美しいメロディの曲で、声変わりする直前のマイケル・ジャクソンののびやかな声が忘れられません。詳しくは、こちらのサイトを読んでください。
 ところで、このサイトに、1972年12月の「TBSラジオ ポップス・ベストテン」が掲載されているのですが、1位が「トップ・オブ・ザ・ワールド」(カーペンターズ)、2位が「チルドレン・オブ・ザ・リヴォリューション」(T.レックス)、そして9位に「愛の休日」(ミッシェル・ポルナレフ)、10位に「クロコダイル・ロック」(エルトン・ジョン)など、懐かしい曲が並んでいて、思わずニヤッとしてしまいました。思えば、毎晩のようにラジオの深夜放送を聴いていた頃です。