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October 28, 2006

高等学校の役割

 全国各地の公私立の高校に広がっている履修単位不足問題ですが、高校の授業では受験のために必要な科目だけを教える…という発想が、いつ頃から一般化したのか気になるところです。
 思い起こせば、私の大学受験時代というのはまだ「共通一次試験」が導入される前で、国立大学が一期校、二期校に分かれていた時代でした。あまりはっきりと記憶していないのですが、当時の入学試験は、各大学が独自の問題で実施していました。一般的には、国立大学の文系学部は外国語(英語以外にいくつかの外国語から選択可)、数学、そして国語2科目(現国必須で古文か漢文を選択)、社会2科目(日本史、世界史、地理、政経から選択)、理科1科目(物理、化学、生物から選択)…と最低7科目の試験を必要とし、理系学部は社会が1科目になってその代わりに理科が2科目になっているところが多かったと記憶しています。当時は、私立大学の文系の入試でも数学を必須にしているところが多く、私が国立大学を落ちて入学した某私大経済学部の入試でも、外国語、国語、歴史、論文に加えて、数学(数ⅡBまで)の試験が課せられました。
 こうした大学入試事情も背景にあったのでしょうか、ともかく高校では、全科目をみっしりと履修させられました。文系の私でも数学は、数ⅡB、数Ⅲまでやりましたし、理科も物理、化学、生物の全てをBまで履修しました。それなりに大学受験に熱心な進学校でしたが、「受験に必要でない科目は履修しなくてもよい」といった傾向は全くなかったように記憶しています。
 いまさら私が書くまでもないことですが、文系の学部でも数学や理科の基礎知識は必要ですし、理系の学部でも国語や社会の知識は必要です。私などは経済学部を受験しましたが、数学の知識が必要ない経済学なんてあり得ませんし、逆に論文を書いたり外国の文献を読む必要がない理学や工学もあり得ません。歴史に至っては、日本史・世界史の両方を学んでこそ意味があるのであって、どちらか一方だけを学んでも無意味です。日本史に限らず、一国の歴史は海外との関係史でもあることは自明です。
 そして、そんな実利的な話以前の問題として、高等学校というところは、義務教育の一つ上の段階であるところの「高等教育」を行なうところであり、その「高等教育」には「普遍的かつ広範囲な教養」が含まれていなければならないことは言うまでもありません。かつて私の通った高校が手を抜くことなく全科目を履修させる状況にあったのは、大学入試の科目自体が多かったこともありますが、当時の高校の教育現場が、まだ「高等教育の場」というプライドを捨てていなかった…ということだとも思われます。むろん、今でも地方の進学校や都内の私立中高一貫校などでは「教養教育」を大事にしているところがあります。たまたま私の子供が通っていた東京練馬区にある中高一貫の私立男子校は、全く大学受験対策的な勉強をせず、制服や校則もなく、塾や予備校へ通うことも嫌がり、父兄会のようなものもなければ修学旅行もないという、「リベラルアーツ教育」の高校版とでもいうような学校でした。ただ、こうした旧制高校のよい部分(エリート意識を植え付ける必要はまったくないと思われますが)を残すタイプの高校は、いまや全国的に見て少数派になりつつあるようです。
 大学入試の科目数減少傾向やAO/推薦入試の一般化、そして大学の専門学校化に対する批判は以前も書きましたが、大学だけなく、高校もまた「高等教育を担う学校」であることを自覚する必要があると思います。人間形成的な面もむろん重要ですが、教育機関である以上、人間形成以上に「修学」の部分が重要です。その意味では、「誰でも試験なしに大学に入れる時代」を問題にするだけでなく、「誰でも入れる高等学校」も問題にしなければならない時期だと思います。高校入試をより吟味し、入学者についても単位を取れない生徒をきちんと落第させる…という形が望ましいと考えます。巷間よく言われるような「九九ができない高校生」や「漢字がまともに読めない高校生」が存在すること自体…おかしいのです。繰り返しますが、高校は義務教育ではありません。

投稿者 yama : October 28, 2006 01:48 PM

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