« September 2006 | メイン | November 2006 »

October 28, 2006

高等学校の役割

 全国各地の公私立の高校に広がっている履修単位不足問題ですが、高校の授業では受験のために必要な科目だけを教える…という発想が、いつ頃から一般化したのか気になるところです。
 思い起こせば、私の大学受験時代というのはまだ「共通一次試験」が導入される前で、国立大学が一期校、二期校に分かれていた時代でした。あまりはっきりと記憶していないのですが、当時の入学試験は、各大学が独自の問題で実施していました。一般的には、国立大学の文系学部は外国語(英語以外にいくつかの外国語から選択可)、数学、そして国語2科目(現国必須で古文か漢文を選択)、社会2科目(日本史、世界史、地理、政経から選択)、理科1科目(物理、化学、生物から選択)…と最低7科目の試験を必要とし、理系学部は社会が1科目になってその代わりに理科が2科目になっているところが多かったと記憶しています。当時は、私立大学の文系の入試でも数学を必須にしているところが多く、私が国立大学を落ちて入学した某私大経済学部の入試でも、外国語、国語、歴史、論文に加えて、数学(数ⅡBまで)の試験が課せられました。
 こうした大学入試事情も背景にあったのでしょうか、ともかく高校では、全科目をみっしりと履修させられました。文系の私でも数学は、数ⅡB、数Ⅲまでやりましたし、理科も物理、化学、生物の全てをBまで履修しました。それなりに大学受験に熱心な進学校でしたが、「受験に必要でない科目は履修しなくてもよい」といった傾向は全くなかったように記憶しています。
 いまさら私が書くまでもないことですが、文系の学部でも数学や理科の基礎知識は必要ですし、理系の学部でも国語や社会の知識は必要です。私などは経済学部を受験しましたが、数学の知識が必要ない経済学なんてあり得ませんし、逆に論文を書いたり外国の文献を読む必要がない理学や工学もあり得ません。歴史に至っては、日本史・世界史の両方を学んでこそ意味があるのであって、どちらか一方だけを学んでも無意味です。日本史に限らず、一国の歴史は海外との関係史でもあることは自明です。
 そして、そんな実利的な話以前の問題として、高等学校というところは、義務教育の一つ上の段階であるところの「高等教育」を行なうところであり、その「高等教育」には「普遍的かつ広範囲な教養」が含まれていなければならないことは言うまでもありません。かつて私の通った高校が手を抜くことなく全科目を履修させる状況にあったのは、大学入試の科目自体が多かったこともありますが、当時の高校の教育現場が、まだ「高等教育の場」というプライドを捨てていなかった…ということだとも思われます。むろん、今でも地方の進学校や都内の私立中高一貫校などでは「教養教育」を大事にしているところがあります。たまたま私の子供が通っていた東京練馬区にある中高一貫の私立男子校は、全く大学受験対策的な勉強をせず、制服や校則もなく、塾や予備校へ通うことも嫌がり、父兄会のようなものもなければ修学旅行もないという、「リベラルアーツ教育」の高校版とでもいうような学校でした。ただ、こうした旧制高校のよい部分(エリート意識を植え付ける必要はまったくないと思われますが)を残すタイプの高校は、いまや全国的に見て少数派になりつつあるようです。
 大学入試の科目数減少傾向やAO/推薦入試の一般化、そして大学の専門学校化に対する批判は以前も書きましたが、大学だけなく、高校もまた「高等教育を担う学校」であることを自覚する必要があると思います。人間形成的な面もむろん重要ですが、教育機関である以上、人間形成以上に「修学」の部分が重要です。その意味では、「誰でも試験なしに大学に入れる時代」を問題にするだけでなく、「誰でも入れる高等学校」も問題にしなければならない時期だと思います。高校入試をより吟味し、入学者についても単位を取れない生徒をきちんと落第させる…という形が望ましいと考えます。巷間よく言われるような「九九ができない高校生」や「漢字がまともに読めない高校生」が存在すること自体…おかしいのです。繰り返しますが、高校は義務教育ではありません。

投稿者 yama : 01:48 PM | コメント (0)

October 26, 2006

過去1ヶ月の読書記録

 たくさん読みましたが、記憶に残っているものだけを新旧取り混ぜて…

ナイト・フォール(上・下)」(N・デミル:講談社文庫)
 文句なしに面白い、何を読んでも面白いネルソン・デミルの力量には敬服。一番好きな作品は「アップ・カントリー」かな…。本作は「プラムアイランド」と同じくNY市警コーリー刑事が登場。96年7月17日に起きたTWA800便の墜落事故については、非常によく覚えてます。80年代によく訪れ、個人的に馴染み深いニューヨークのロングアイランド沖での出来事で、事故発生当時も人為的な破壊工作の可能性が大きな話題となりました。

ルシタニアの夜(上・下)」(ロバート・ライス:創元推理文庫)
 モンタナ州の片田舎の郵便局で起こった惨殺事件、90年前に投函され配達されなかった3通の手紙、アメリカが第1次大戦に参戦するきっかけになったUボートによる攻撃で沈没した客船ルシタニア号…、なんとなく三題噺のような展開だが、それなりに面白い。ただ「郵政捜査官」なる職業の設定は、作品のモチーフのために無理やり作ったような感が否めない。

天使と罪の街(上・下)」(M.コナリー:講談社文庫)
 「ザ・ポエット」の続編です。マケイレブの死からはじまり、FBI捜査官レイチェルが登場します。文句なしに面白いのですが、「ザ・ポエット」と比較すると、なんとなく物足りません。ま、期待があまりに大き過ぎたってことでしょう。

血の協会(上・下)」(マイケル・グルーバー:新潮文庫)
 「夜の回帰線」に続く、マイアミ警察のジミー・パス刑事を主人公にしたシリーズ2作目。これまた文句なしに面白い。アフリカの少数民族に伝わる呪術を扱った前作もよかったが、オカルト色がちょっと強かった。今回の設定はかなり異色。殺人犯とされた女性が辿った運命は、架空の物語とは言え、妙なリアリティがあります。出だしを読んだとき、その後にこんな展開が待っているとは予想できませんでしたた。アフリカの現状、人種・民族差別など社会問題がうまく散りばめられています。

大山倍達正伝」(小島一志、塚本佳子:新潮社)
 人物を描いたドキュメントとしては類を見ない労作で、面白さも超弩級。極めて個性的、いや個性的なんて言葉では表せないほどユニークな一人の人間の評伝として読んでも面白いが、戦後史、日韓関係史として読んでも面白い。彼が終戦からしばらくの間、建青の民族運動とケンカにあけくれる時期は、時代背景を浮き彫りにします。漫画の空手バカ一代は断片的に読んだ記憶がありますが、あの話はウソ、あの話はホント…的な興味以前に、虚実取り混ぜて伝説の人となった大山倍達とは、何とも魅力ある人物です。大山倍達は、1954年頃には自分の出自を公表していた…というのは知りませんでした。ちょっと重くて大きい本だけど、ぜひ一読をお奨めします。

硫黄島の星条旗」(ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ:文春文庫)
 栗林中将の戦略・戦術を高く評価し過ぎているように感じます。まあ、硫黄島で戦った海兵隊の勇気を高く評価し、しかもあまりに多い死傷者を正当化するために、敵の戦術を評価せざるを得なかったのでしょう。それにしても、戦争遂行のためには組織的なプロパガンダが必要だってことは、今も昔も変わりません。

箱崎ジャンクション」(藤沢周:文春文庫)
 いやあ、純文学です。茶化さないでまじめに感想を述べれば、実はかなり面白い。1時間もかからず一気に読みました。梁石日の「月はどっちに出ている」とか、映画「タクシードライバー」なんかもそうですが、タクシー運転手の日常というのは、小説や映画にしやすいのかもしれません。もっとも最近タクシーに乗ると、運転手に、不景気のグチ、中途半端な自由化による水揚げの大幅な低下のグチ…ばかりを聞かされてうんざりです。

犬坊里美の冒険」(島田荘司:光文社新書)
 プロットはあいも変わらず島田荘司そのものだけど、好きですよ、犬坊里美のキャラクター。御手洗潔にも吉敷竹史にも飽きたし、このシリーズに期待しましょう。島田荘司も多少、枯れてきたような気がする。

天下城(上・下)」(佐々木譲:新潮文庫)
 まあ、星2つがいいところの暇つぶし小説。ホント、この人の作品は、そこそこ面白い作品と駄作とが混じる。最近はイマイチの作品が多い。ちょっと前に「疾駆する夢」を「プロジェクトXのように安易なストーリー」とけなしたばかりだが、この「天下城」はちょっとマシ。週刊現代の連載時から時々読んでいたけど、「穴太衆」の視点から書いた戦国時代は新鮮かも。

21世紀のマルクス主義」(佐々木力:講談社学術文庫)
 佐々木力って、確か東大でセクハラ事件を起こしましたよね。まあ、それはともかくとして、古典的トロツキストの面目躍如たる本。マルクス主義に新しい光を当てた…とは到底思えませんが、和田春樹よりはマシ。「マルクス主義の誤りはソ連や東西ドイツ、東欧の崩壊で証明された」…的な単純な議論をする人は一度読んでもいい本かも。昨今の環境保全運動とマルクス主義の関係についてなど「なるほど」と思った部分もちょっとあります。

1968年」(スガ秀実:ちくま新書)
 スガ秀実はちょっと年食ってるけど、東浩紀や山形浩生あたりと並んで売れっ子です。で、この本だけど、混沌としていたこの時代の様々な思想潮流を網羅的に見るって、結構大変かもしれません。「ご苦労様」って感じです。クロカンやら大田竜、平岡正明、竹中労など懐かしい名前が並びます。大田竜の「辺境最深部へ退却せよ」は、高校時代に周囲のミニブームの中で私も読みました(内容は忘れた:笑)。あの大田竜が民族主義やら陰謀論の方向へ「行ってしまった」のは、今にして思えば理解できないでもないですね。個人的には、現在に至るまで谷川雁の「工作者宣言」が好きですが…。べ平連運動の内幕やら、それなりに面白く書いてあります。
 個人的には、ポスト団塊世代の私にとって1968年はリアルタイムでの体験者ではないです。でも、ベトナム反戦運動、公民権運動の高まり、キング牧師の暗殺、パリの「五月革命」、プラハの春…など、私の世代でもそれなりに影響を受けたことは確か。そういえば「1968 世界が揺れた年」(マーク・カーランスキ:ソニー・マガジンズ)も読みました。

中東イスラーム民族史」(宮田律:中公新書)
 イスラム世界を、アラブ、ペルシャ、トルコの3つの民族に分けて解説しています。これを読むと、あのアケメネス朝ペルシャの末裔たるイランという国の持つ「文化的プライド」がどれほどのものか、よくわかります。アメリカは、イランに手を付けると本当に泥沼に嵌まるでしょう。それにしても、ブッシュへの追従でアザデガン油田の権益を手放した日本政府・役人は本当にバカですね。

十二世紀ルネサンス」(伊東俊太郎:講談社学術文庫)
 「中世の真っ只中、閉ざされた一文化圏であったヨーロッパが、突如として『離陸』を開始する十二世紀。東方からシチリアへ、イベリア半島へ、ギリシア・アラビアの学術がもたらされる。ユークリッド、プトレマイオス、アル=フワーリズミーなどが次々とラテン訳され、飛躍的に充実する西欧の知的基盤。先進的アラビアとの遭遇が生んだ一大転換期を読む」…って、帯のフレーズそのままなんですが、面白い本です。12世紀当時の、イスラム圏とヨーロッパ圏の文化の差は、想像を絶するほど大きかった。ユークリッド幾何学もアリストテレスも知らなかったヨーロッパ人は、ギリシャ語→アラビア語→ラテン語という経路で翻訳されて、はじめて高度なギリシャ文明を知ったわけです。
 そういえば、先ごろローマ法王ベネディクト16世が、イスラム教を「邪悪で残酷」と表現した中世ビザンチン帝国皇帝の言葉を引用したことで、イスラム教徒の怒りを買ったことは記憶に新しいですね。この「十二世紀ルネサンス」を読むと、当時のキリスト教の哲学的レベルの低さでは、イスラムを評価することなど無理だったことがよくわかります。これは以前読んだ本ですが、「アラブから見た十字軍」(アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳:ちくま学芸文庫)という非常に面白い本があります。著者はレバノン在住の著名なジャーナリストですが、十字軍の名の下に文明国イスラムに攻め込んだキリスト教徒が、「フランク」と呼ばれ、「人肉喰いの野蛮人」として恐れられた状況が詳しく書いてあります。

パレスチナとは何か」(エドワード・W・サイード:岩波現代文庫)
 スイス人写真家のジャン・モアが撮影したパレスチナ内外での写真に、サイードが随想的な文章を付けただけの本です。文章には、政治的な主張や解説はほとんど含まれません。ページをめくりながら写真によって「パレスチナの原風景」を見ていくだけなんですが、政治的、または地政学的な文脈で語られることが多いパレスチナには、実は「人が住んで日々の生活を営んでいる」という当たり前のことを思い出させてくれます。

石油の歴史-ロックフェラーから湾岸戦争後の世界まで」(エティエンヌ・ダルモン/ジャン・カリエ著:文庫クセジュ)
 書店でふと見つけて読んでみましたが、とても面白い本でした。1859年、アメリカ、ペンシルバニアで始めて商業ベースでの石油掘削が開始されて以降の「石油産業の歴史」が書かれていますが、現代の石油メジャーの成立過程がよくわかります。類書がないだけに、たくさんの人に一読を進めたい本です。

投稿者 yama : 06:18 PM | コメント (0)

October 21, 2006

社会的に許容されている飲酒運転

 悲惨な福岡市の3児死亡事故で、あれほどに飲酒運転の危険性が叫ばれながら、相も変わらず、毎日のように飲酒運転による交通事故の報道が続いています。
 先日、民主党が、飲酒運転による事故の続発を受け「飲酒ひき逃げ厳罰化法案」をまとめたというニュースがありました。刑法に「酒気帯び運転等業務過失致死傷罪」(10年以下の懲役ま たは200万円以下の罰金)を新設し、ひき逃げの最高刑を懲役10年に引き上げ、両罪の併合で最高15年の懲役刑を科せるようにする…とのことですが、飲酒運転による人身事故を厳罰化する…なんて話は、本質的な飲酒運転禁止論議から見れば、本末転倒もいいところです。飲酒による人身事故を厳罰化すれば、ひき逃げが増えるから反対…なんて話も出ていますが、これまたアホらしい議論。要するに、飲酒運転禁止問題については、「本質的な議論」がなされていません。

 さて、飲酒運転を本気でなくそうとするのなら、まずもって、「日本においては飲酒運転が実質的に認められている」ことを認識するところかスタートしなければならないはずです。
 この「日本では飲酒運転は認められている」…というのは、別にここでわざわざ私が言うまでもなく、誰もが「とっくにわかっている」ことです。地方都市の飲み屋街周辺など、検問をやれば絶対に大量の飲酒運転常習者を検挙できる場所では、現実にはほとんど検問などやっていません。駐車場付きの居酒屋が日本中に存在し、それが放置されている現状は、誰もが承知しているるとおりです。まったくもって、こうしたお店が飲酒運転幇助にならないのは不思議です。

 さて、以前読んだ「『おろかもの』の正義論」(小林和之著:ちくま新書)という本の中に、こんなことが書かれていたことを思い出します。
 「…もし、あらゆる価値観の中で、『人間の生命ほど大切なものはない』というのがもっとも崇高で絶対的な価値だとすれば、年間に交通事故で1万人が死ぬ…という現状に対して手を打つはずだ。例えば自動車の最高速度を物理的に大きく制限すれば交通事故及び事故死は劇的に減るはず。もし、自動車の最高速度が30kmだったら、交通事故死者数は1/10以下になるかもしれない。時速30Kmしか出せない自動車を製造するのは容易だ。しかし、そうすれば交通事故死が劇的に減ることはわかっていても、そんな自動車を製造しようという話にはならない。それは、自動車の最高速が時速30Kmになれば、自動車の持つ利便性や楽しさが大きくスポイルされ、経済的な損失も大きい。つまり、現状の交通事故の死者1万人というのは、車社会の利便性を甘受するためにはある程度の犠牲はやむを得ない…という社会的コンセンサスに基づく『犠牲』的な意味を持つ。要するに『人間の生命ほど大切なものはない』という価値観は絶対的なものではない」…という内容です(記憶を辿って書いたので1字1句同じ内容ではありません)。

 もし、飲酒運転について「ぜったいにやってはいけない危険な行動」という社会的なコンセンサスが出来ているのなら、飲酒運転の根絶など容易です。現時点で飲酒運転がなくらないのは、「事故を起こさないのなら多少の飲酒運転は許される」、または「車社会の利便性と経済利益を享受するためには、飲酒運転による多少の犠牲はやむを得ない」…というのが社会的コンセンサスだからでしょう。特に後者の「車社会の利便性と経済利益を享受するためには、飲酒運転による多少の犠牲はやむを得ない」…というコンセンサスは、おそらく経済界や政界の要請も含んだものとなっているはずです。
 「ある程度の犠牲を想定した上での利便性追求、効率追及」という部分では、実は速度違反も駐車違反も飲酒運転もまったく同じなのが現状です。

 飲酒運転が許容されている理由は、大きく4つほどあると思います。

 まず、産業保護や社会・経済の効率性維持の面では、2つの産業に対する「保護」の意図が働いています。
 飲酒運転を許容してまで保護されている産業の第1は、言うまでもなく自動車産業です。わが国の自動車関連産業への就労者は500万人を越えています。自動車製造部門だけをとっても、出荷額は43.2兆円、設備投資額は1.2兆円、研究開発費は1.6兆円に達します。関連産業の裾野の広さを考えれば、自動車産業はわが国の経済の命運を左右すると言っても過言ではないほど重要なものです。飲酒運転の厳格な禁止がどの程度自動車の販売台数に反映されるかはわかりませんが、具体的な数字の問題よりも、速度違反や駐車違反の問題も含めて「全般的に交通違反の処分を緩めにする」ことで、「クルマ社会の繁栄」に水を差さないようにしていることは確かでしょう。

 飲酒運転を許容してまで保護されている産業の第2は、「飲食業」です。GDPに占める飲酒業の比率がかなり大きいこともありますが、それよりも、目立った産業が少ない地方において飲食業界が景気の良し悪しに与える影響が非常に大きい点が、最大の理由でしょう。かつて高知県が役人の接待を禁止処分にしたところ、飲食店の売上げが大幅に減り高知市の景気が大きく後退したいう話がありました。そのとき、飲食店組合は地域活性化のために知事に接待禁止の緩和を訴えたどうです。こうした地方の飲食業こそが、飲酒運転規制の強化でもっとも大きな影響を受けるからこそ、地域社会のコンセンサスを受けて飲酒運転に対する対応を甘くしています。

 次に、飲酒運転を許容する大きな理由として、「地方経済」に対する保護・配慮…という問題があります。都市部と地方の経済的格差が進む中で、地方経済は人口減少による地盤沈下が進んでいます。公共交通機関が発展していない地域におけるコミュニティの崩壊を防ぎ、若い世代の永住を促すためには、クルマ社会を許容するしか方法がなく、そこには「ある程度の飲酒運転には目を瞑る」という配慮が働くのは当然です。こうした「地方」こそが、政権与党の大票田であることも忘れるわけにはいきません。

 そして、「飲酒運転の許容」の問題を考えるにあたってこれが最大のポイントとなりますが、「飲酒」という行為自体を許容する国家権力のスタンスについて考える必要があります。明白に「麻薬」の一種である「アルコール」が、「国家の方針として認められている」点について、検証する必要があるはずです。
 アルコールは極めて依存性・中毒性の高い「薬物(ドラッグ)」です。こちらを見ればわかるとおり、アルコールはヘロインに匹敵する急性精神毒性、及び身体・精神への依存性を持っています。米国などでは、アルコールは「酒・麻薬類」として、保健衛生問題上ではドラッグと同等に扱われています。1998年フランス国立保健医療研究所が、麻薬の危険度調査で、身体的・精神的依存性、神経への毒性、社会的危険性など各項目について調査したところ、アルコールは非常に危険度が高く、ヘロインやコカインと並び最も危険な薬物…と結論づけました(たばこは幻覚剤や鎮静剤と同じ2番目に危険度の高いグループ、大麻は最も危険性の低いグループ)。だからこそ、日本では交通飲酒検問等により飲酒運転が検挙された場合、後述の酒気帯び運転であって交通事故の発生が無い場合には、飲酒運転罪のみで逮捕されることは少ないのですが、米国をはじめいくつかの国では、身体能力に影響する物質として、酒類も覚醒剤等の向精神薬と同じ定義とし、「薬物等の影響下での運転」(DUI)として基準を設け、DUIの基準を超えた場合は刑事事件となり、飲酒運転のみでも逮捕・勾留される…わけです。
 アルコール依存症というのは立派な精神疾患ですが、要するに「アル中」であるところのアルコール依存症患者の数は全国で440万人(久里浜式アルコール症スクリーニングテストによるもの)も存在し、精神疾患の中でも罹患率が高く危険なものです。要するに、酒はドラッグ以外のなにものでもありません。
 アルコールはまた、犯罪を引き起こす大きな原因となっていまず。飲酒運転による交通事故に限らず、酩酊しての傷害事件・殺人事件など、毎年かなりの数の事件が飲酒によって引き起こされています。飲酒は、傷害や殺人などの犯罪事件の約25%に関与している…という非公式な統計もあります。また厚生労働省の「成人の飲酒実態と関連問題の予防に関する研究」(2004年)によれば、暴言・暴力・からまれる・強要・セクハラなど、飲酒に関係したなんらかの問題行動の被害を受けた者の割合は、男性の31.3%、女性の26.3%で、合計28.7%にのぼり、「成人で飲酒問題被害にあった者」は3040万人と推定されています。うち、「被害の経験が被害者のその後の生き方や考え方になんらかの影響を与えた」と回答した者は、男女合わせて推計1400万人に達するとされています。
 こうしてみると、本来は「アルコールの摂取自体を禁止」すべきだと思うのですが、統治・管理システムとしての「国家権力」は、「統治下の国民のガス抜き」のために、最低限の「麻薬類」の利用を認める意向を持っており、それが「酒」ということになるわけです。仮に飲酒規制を強め過ぎれば、飲酒行動が地下に潜ることは、禁酒法やイスラム国家の実情で証明済み。結局は、鮭ぐらいは一定の管理下で認めた方がよい…というのが国家の意思ということです。

 飲酒運転をなくすにはどうしたらよいか、考えてみましょう。むろん、飲酒運転をしない…というモラルに頼るのではなく、「社会システム上、絶対に飲酒運転はできない」という制度を作る必要があります。
 そのためにもっとも簡単な方法は、まずは「飲酒運転で事故を起こしたら厳罰に処す」という形で法改正をするのではなく、「飲酒運転自体を厳罰に処す」ことです。
 まずもって呼気検査において「○○mg以上が酒気帯び」などという形で「許容範囲」が存在し、さらにアルコール検知量によって「酒気帯び」と「飲酒」の区分が存在する…ということ自体が「少量の飲酒なら運転を認めている」ということの明白な証左です。現状の「酒気帯び運転(0.15mg以上0.25mg未満)の減点が6点」なんて、飲酒運転の危険性を考えれば、バカバカしくて笑っちゃうような甘い処罰です。
 本気で飲酒運転をなくそうというのであれば、飲酒運転の違反処分の構成要件を、例え0.001mgであろうと「現行の検知器の検知可能限界値」のアルコール検出をもってし、その処分内容を「免許取り消し(欠格期間は永久)」…ってことにすればよいのです。要するに、一度でも酒を飲んで運転すれば、それが例えどんな微量であろうとも、永久に運転免許を失う…というシンプルな制度にするのです。こうした制度に変えて数年も経過すれば、運転免許を飲酒運転はほぼ無くなると思われます。この非常にシンプルな対策こそ、「アルコール検知装置付きの乗用車」なんてバカな代物を作るよりも、はるかに効果的な飲酒運転対策であることは確実です
 こうした飲酒運転規制の強化に加え、居酒屋やスナックだけでなくファミレス等も含めて、「駐車場を持つ飲食店全てに対して一切の例外を認めずアルコール提供を禁止する」措置もとるべきなのは言うまでもありません。
 いったいこうした制度を作ることの、どこに問題があるんでしょうか? 「軽い酒気帯び程度で処分が厳しすぎる」とか「更生の機会を与えるべき」なんてことを言っている時点で、飲酒運転を許容しているのと同じことです。

 でも、「一度でも酒を飲んで運転すれば、それが例えどんな微量であろうとも、永久に運転免許を失う」…なんて、こんな法律は絶対jにできっこありません。
 なぜなら、日本は「国家の意思」として「飲酒運転を許容している」からです。従って、「クルマ社会の利便性」、「経済効率の追求」のための犠牲者である「飲酒運転による被害者」は、今後もなくなることはないでしょう。

投稿者 yama : 02:25 PM | コメント (0) | トラックバック