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August 18, 2006

「電子マネー」の不安

 最近私は、「電子マネー」関連の仕事をしているのですが、自分自身が現実にSuicaやEdy、お財布ケータイなどの電子マネーを使う一方で、電子マネーと言う存在の「曖昧さ」「不確実さ」について考えることが多くなりました。何よりも、電子マネーの日常的な利用には、ある種の「不安」が付きまといます。いったい「電子マネー」とは何でしょうか。「電子マネー」は「貨幣」と、どこが違うのでしょうか?
 電子マネーが内包するICチップは脆弱な存在です。SuicaやEdyの場合、何らかの理由があって内蔵するFelicaチップの記憶領域からチャージされている金額の記録が消えたら、ただの「ICカード」になってしまいます。一方で、貨幣には記憶領域がないので、例えば500円玉はよほどの理由があって損壊しない限り、500円の価値が損なわれることはありません。
 しかしながら、貨幣という存在自身も、経済学においてはその意味や実態を捉えにくいものと考えられています。貨幣の話になると必ず言及されるのが、岩井克人の『貨幣論』で、「貨幣には根拠がない。貨幣は貨幣として使われるから貨幣である」というテクストです。電子マネーの普及が進む現在、電子マネーの存在は貨幣論に何らかの影響を及ぼすのでしょうか?

 「電子マネーの不安」に話を戻しましょう。例えば、Suicaについて考えると、そのカードの中のICチップに1万円がチャージされていても、300円しかチャージされていなくても、カード自身の外観は変わりません。この「価値の変化が実態の変化を伴わない」と言う点に、まず不安が生じます。現実の貨幣には、少なくとも「実体」があります。そして多くの場合、「価値の大小」を表すように企図された実体が付与されています。貨幣は、洋の東西や時代を問わず、概ね「価値と大きさが比例する」形で作られています。特に硬貨は、高額貨幣であるほど「大きい」のはむろん、「重い」とか「キラキラと光る材質」といった形で、その「価値の大きさ」を「誇示」するようにつくられています。いかにも外観に見合った価値がありそうに作る…というのが、貨幣の基本です。
 余談ですが、貨幣のサイズで思い出されるのは、タイのサタン硬貨です(サタン:satangはバーツの補助単位で1B=100サタン)。そのサタン硬貨には25サタン、50サタンの2種類があり、どちらも非常に小さい。特に25サタン硬貨は小さくて軽くて、直径が7ミリぐらいでしょう。あまりにも小さい硬貨なので笑っちゃいます。
 さらに余談が続きますが、先日、「金属価格暴騰で硬貨密輸が急増|というニュースがありました。
 「…フィリピンの密輸業者たちが国内の旧ペソ硬貨を大量に国外に持ち出そうとしている。1ペソわずか2セントの額面価格のためではない。硬貨に含まれる銅とニッケルの価格が高騰しているからだ。フィリピン中央銀行によると、税関当局は先週末、日本に向けて密輸される硬貨200~300万枚を押収した。硬貨は長さ12メートルほどのコンテナに納められていた。フィリピンの法律では、1万ペソ以上の国外持ち出しには申告の義務がある。2003年まで鋳造されていた旧1ペソ硬貨の密輸出は頻繁に摘発されている。中央銀行のアルマンド・スラト副総裁によると、5月には40万枚が、2月には100万枚の密輸が摘発された。『密輸の原因は硬貨の含有成分のためです。2002年の時点で、1ペソ硬貨の鋳造に1.40~1.60ペソのコストがかかっていました』。2003年まで、6.1グラムの1ペソ硬貨は銅75%、ニッケル25%を含有する合金で鋳造されていた。現在の金属相場では硬貨1枚3.50ペソの価値がある。同副総裁によると、中央銀行は鋳造コスト削減のために2004年、ニッケルメッキを施した鋼鉄製の硬貨の鋳造を始めた。ロンドン金属取引所(LME)における銅価格は、中国における需要急増と供給不足から今年に入って75%上昇、10日は1トン=7730ドルで取引を終えた。ニッケルは同日、史上最高値の1トン=2万4800ドルを記録し、2万4650ドルで取引を終えた(1万円=4,521.50ペソ)」
 考えて見ると、貨幣に実体としての価値があるからこそ、こうした問題が起こるわけです。

 ところで、貨幣の持つ象徴性や記号性について考えていたら、ちょっと面白いテクストに出会いました。(財)産業研究所報告書の「電子取引時代における貨幣論に関する調査研究」なる論考ですが、ちょっと長くなりますが、その要約を引用します。
 「…情報化が極限にまで進んだ未来社会においては、自分自身をして貨幣=手段-道具として用い、目的を達成することも可能かつありうる。換言すれば、クロソウスキー的な意味で、目的=手段が同一化するということであり、情欲=目的を達成する手段としての貨幣も、貨幣として再評価しうるということである。事実、過去においては、人体が支払手段として用いられたことがあったし、売春は最も古い職業の一つだったとされる。ただし、古代における巫女との性交渉には神聖な意味合いがあり、後にその対価となっていく貴重な物品も、元々は神に対する奉納だったと思われる。再度、結論を先取りすると、それらを検討する過程において湧き出てきたものは、『一般的等価物として、金が貨幣の地位を占めた』という通説的歴史解釈は、本当に正しいのだろうかという疑問である。むしろ、考古資料から浮かんでくるのは、金はその美しさゆえに古代人を惑わし、誰もがそれを欲しがるようになり、さらに、権威ないし権力の象徴として用いられたという事実である。そこで、人々は、金を手に入れるために、自己の所有するあらゆる物を、それと交換するようになった。すなわち、通説とはちょう ど逆の過程を踏んだのではないだろうか。換言すれば、いわゆる『貨幣の物神化』とは正反対の、『物神の貨幣化』という発想へのコペルニクス的展開-少なくとも、伝統経済学のような教条的一元論である必要はないという認識の採用-である…」
 …まあ、「物神の貨幣化」という発想がコペルニクス的展開かどうかは別にしても、「金はその美しさゆえに古代人を惑わし、誰もがそれを欲しがるようになり、さらに、権威ないし権力の象徴として用いられた」「そこで、人々は、金を手に入れるために、自己の所有するあらゆる物を、それと交換するようになった」…という話は、ちょっと面白い。つまり、貨幣には、もともと「いかにも価値がありそう」という実体が必要だった…ということです。

 さて、電子マネーにこうした「貨幣的実体」を付与することは難しいでしょうか? 貨幣、特に金貨・銀貨などの硬貨とは異なり、素材としての価値を全く持たない電子マネーは、誰もが納得する新たな「電子的価値形態」を獲得することができるのでしょうか。外気温が35度を超える暑い日、冷房がよく効いた部屋で半分居眠りをしながらつらつらと考えてみました。
 例えば「チャージされている金額に応じて重くなるカード」というのはどうでしょう。Suicaを例にとれば、300円しかチャージされていないSuicaに1000円を追加チャージすると、残高300円だった時に30gだったSuicaが50g程度に重くなるのです。これが1万円をチャージすると、100g程度になってズッシリと重みを増すのです。これなら、持った感じで、今どれくらいチャージされているかが、感覚的にわかります。サイズを変えるのは不便なので、重さや色を変えるのがよいと思います。まあ、電荷によって質量やサイズが大きく変化する物質など存在しないので、現実には無理です。でも色の変化なら何とかなるかもしれません。Suica表面に通電によって色が変わる液晶素材などを塗布し、チャージされている金額が増えるほど、金色の輝きを増していく…というのであれば、金という物質に価値を見出した古代人も納得するカードができるかもしれません(何に納得?…笑)。

「…物々交換と貨幣交換のあいだには乗り越えがたい深淵が開いている。それゆえ、交換から貨幣を導出しようとする『交換先行説』や貨幣と商品集合に属すると見る『貨幣商品説』など、両者を架橋しようという試みは種々の難点を孕まざるをえない。貨幣とは、貨幣として使われる限りで貨幣であるといった自己遂行的な存在性格を持つ、非実在性・形而上性を帯びた実在である。それゆえ、貨幣は、商品概念を派生させ、市場を構成する要件として、商品概念に先行的にしかもモノの集合の外部において定義されなければならなかった。われわれは貨幣の発生過程を記述することには原理的な困難があると見る。それゆえ、われわれは『幣とは何か』『貨幣はどこから来たか」という問いを『貨幣とはどこにあるか』『貨幣は何をするか』という問いへとずらし、貨幣論の問題設定を貨幣発生論や流通根拠論から貨幣存在論や市場機能論へと転回したのである。貨幣の本質はフローとストックの二面性、すなわち過程と実在という量子論的両義牲にある。貨幣は、異質なモノを価格という一元的量により比較可能な商品に変えることで、市場という商品流通の場を形成するとともに、商品流通過程を分散的に作動・停止しうるバッファ機能をも持つ。こうした特性を持つ貨幣が存在する自律分散型市場は、資本の生産過程にかんする多層的調整行動と結合することによって、大域的な経済調整機能を獲得するが、調整過程は決して安定的でも効率的でもないのである。貨幣商品説は貨幣の経験的実在性を前提とするために、この両義的な貨幣の本性を市場理論の中に整合的に位置付けることができない。それは、貨幣の謎を解くかに見えて、実際には貨幣や市場の本質を隠蔽してしまう。本稿は、貨幣の謎を『解決』するどころか、貨幣の超越論性を前提とすることでかえって謎を深めたように見えるかもしれない。しかし、貨幣とは言語や宗教などと同じく、われわれ人間の『社会性』超越論性や無限性が刻印されていることを暗示しているのであって、その起源を安易に解きうる問題ではない…」(北海道大学経済学部 西部忠「自律分散型市場における貨幣」より)

 …さて、真夏の夜の夢のようなバカバカしい電子マネー話は、さらに続きます。

投稿者 yama : August 18, 2006 12:16 PM

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