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July 07, 2006

「神の使い」がやってきた

 先日自宅のベランダから外を眺めていたら、隣家の屋根に、見たこともない大きな黒い鳥がとまってこちらを見ていました。感覚としてはカラスの3倍ぐらいはありそうです。写真を撮ろうと思ってカメラを取りに部屋に引き返し、再度ベランダに出てみると鳥は去った後でした。で、気になってWeb野鳥図鑑で調べて見たら、どうも「カワウ(川鵜)」らしいということがわかりました。東京に川鵜がいるという話は聞いたことがありますが、自宅は練馬区です。川鵜がよく見られるのは東京湾とか多摩川河口とかに近いところだろうと思っていたので、さらに調べて見ると、次のように書いてありました。「…川鵜はペリカン目ウ科に属する鳥で、通常数百羽の群れをなして行動する習性があり夏場は海を中心に、冬場は内陸の河川に生息すると言われている。関東地方では、主に東京都内の池や川岸等に巣を構えていたが1980年代の後半辺りから冬場に餌を求めて関東近県(内陸)にも多く飛来するようになった」…と書かれています。さらに調べて見たら、練馬区内でも川鵜が頻繁に目撃されていることが判明。石神井公園や光が丘公園内の野鳥の池あたりでは、いつでも見られるそうです。そういえば自宅は石神井川にも近く、川鵜を目撃しても特に不思議な場所ではないようです。夏場とはいえ、何らかの理由で練馬の住宅街に飛翔してきたのでしょう。

 「鵜」と言えば、真っ先に思い出すのは鵜飼です。魚を噛まずに丸呑みにする鵜の習性を利用して、首を縛って飲み込めないようにした鵜を紐で繋いで鵜匠がそれを操り、鮎を飲み込ませて取る漁法です。長良川の鵜飼が最も有名ですが、私は非常に近い名古屋で育ちながら、実際に見たことはありません。余談ですが、長良川の鵜飼で使う鵜は三陸海岸で捕獲したものを訓練しているという話を、前にTV番組でやっていました。
 ところで、こちらにもあるとおり、鵜飼は、古事記や日本書紀、万葉集、そして中国の随書・東夷伝にも記述があるほど古くからある漁法です。全国のあちこちの河川で、おそらくは古墳時代から行なわれていました。そして私は、もともとこの鵜飼がいわゆる「川の民」「被差別民」の生業であり文化だということを先日読んだ「日本民衆文化の原郷 -被差別部落の民族と芸能」(沖浦和光:文春文庫)という本で知りました(非常に面白い本なのでお奨めです)。そして、世阿弥に「鵜飼」という謡曲があることも、初めて知りました。
 この「日本民衆文化の原郷」という本のⅢ章「鵜飼で生きる川の民」には、広島県の三次で行なわれていた鵜飼について詳しく書かれており、江の川水系の被差別部落が、川の民の文化を今に伝えていること。そして彼らによって古くから鵜飼が行われてきたこと、さらには様々な芸能さらには、中世においてすでに「鵜飼の民」が賎視されてきたこと…などが、現地調査の結果として詳しく書かれています。また、鵜飼には「徒鵜飼」と「船鵜飼」があり、本来の川の民の漁法であった徒鵜飼が、近世後期になって、江戸幕府の御用鮎漁として保護された長良川の船鵜飼の鵜匠制度として各地に広まったということです。長良川の鵜飼は、特別な形で発展したものだったようです。

 川を巡る文化論というのは非常に面白いものがあります。こちらに書かれている文を少し引用します。
「…川は文化の通路である反面、その規模にもよるが、人や物資の流通を遮断し、文化の境界線を形成する場合もある。そのことは、物理的に障害をなしているだけでなく、観念的に現世と来世を隔てる区画としても作用する。川を渡る際の特別な習俗や、橋そのものに対する観念、および渡り初めの行事によく表現される場合がある。
 …日本の河川は荒川(あれかわ)で、流水の増減度が著しいために、河川敷・河原が広い。荒地のまま放置され、無主の広場も多い。しかし、河原には、一時的にせよ、住みつくようになったのは、ずいぶん古くからのことであるらしい。河原を生業の場とした人たちは、ときの権力者からは何らの干渉も受けず、租税な ど免れる気楽さがあった。そこに一応の生活根拠を置いたことから“河原の人”とか“河原乞食”などと呼ばれ、不当に蔑視されたのは、おそらく古代末期以降のことである。彼らの雑役として、最も古くから知られているのは、キヨメ(清掃人夫)であった。河原には市(いち)が立つところもあり、あるいは処刑や葬送の場、合戦場ともなった。とくに注目に値することは、この広大な空閑地に、14世紀半ばごろには粗末ながら筵囲(むしろがこい)小屋がつくられ、田楽の 勧進興行が行われるなど、民衆芸能の発祥地となったことである。近世以降の諸芸能の多くは、直接には河原を舞台に、河原の仲間によって育成されてきたものであった…」

 そういえば、京都の鴨川の河川敷では、中世以降「芸能」の興行が頻繁に行なわれ、そうした興行を仕切っていたのは、時の権力者に属さない「川の民」「河原者」たちであった…と、様々な本で読んだことがあります。
 こちらの資料を読むと、河原に住む人々の存在自体が、被差別部落の歴史の端緒という説もあるようです。ちょっと引用してみましょう。
 「…中世起源説の立場からみると、部落の歴史の中世の部分については、次のようである。延長5年(927)に完成した『延喜式』に<濫僧>や<屠者>が京都の鴨御祖社の南辺に居住することはできないとして、彼らを排除し たことがみえる。さらに長和5年(1016)の記録には、京都・鴨川の河原に住みついていたと思われる<河原人>が死牛の皮を剥ぎ取っていたことが記されている(『左経記』同年正月2日の条)。鎌倉時代の文永・弘安年間(1264~88)の著とされる『塵袋』によれば、キヨメが<エタ>とも称され、人交わりができない人とみられていた(ちなみにこれが<エタ>の初見とされている)。こうした記録などによって、このころにはすでに部落の歴史は始まっているとみるのである。このようにして始まった<河原者>(<えた><キヨメ>もほぼ同じ階層の人々を指す言葉として使われていたようである)などの中世の被差別身分の人々は、法制的に制度化されたものではなかったが、中世後期の下剋上の社会においても、多少の流動性はあったものの最終的には解体されずに残存し、それらの人々が近世の<えた>(近世部落)にそのまま直結し、その被差別身分が近世の豊臣政権ないしは幕藩権力によって制度化されたとみるのである。
 一方、近世政治起源説をとる立場からみると、中世の河原者などは、近世の<えた>身分の存在形態においても系譜においても差異とズレが認められるので、部落史の前史をなすものであっても、部落史そのものではないと理解するのである。中世起源論者が、中世の<河原者>などを、近世権力による追認・制度化・固定化と解釈するのに対して、近世政治起源論者は、単なる追認とはとらえずに、その制度化の過程こそ部落形成の過程と解し、その制度化ないしは固定化をもって部落史の起点とみなす…」

 まあ、京都・鴨川の河原に住み着いた人々が被差別部落の起源となったかどうかについては諸説があるようですが、前述した江の川流域などの全国各地の川の民も含めて、現代では忌むべき身分制度である「被差別部落」の民こそが、能、歌舞伎、狂言、人形浄瑠璃など、中世以降の伝統的日本文化、いわゆる「芸能」の源流・底流を育んできたことは確かです。また彼らは、民間信仰、民族信仰を連綿と伝え、芸能興行や全国を渡り歩く門付け芸を通じて、神や仏、さらには天皇制を重んじる独特の世界観を伝えました。

 「川は、物理的に障害をなしているだけでなく、観念的に現世と来世を隔てる区画としても作用する」…からこそ、河川の存在そのものが、流域に住む民に豊かな想像力を与え、豊穣な文化を生み出す源となったであろうことは、理解できます。

 川鵜の話に戻りますが、川鵜は「海と川を往来する鳥」であり、川の民の文化とも深く関わっている鳥でした。
 この川鵜が往来する一方の「海」もまた、仏教でいうところの「浄土」につながるとという概念がありました。熊野の補陀洛山寺で知られる「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」です。補陀洛渡海とは、南の海上にあると想像された補陀洛世界、観音浄土を目指して船出するもので、紀州熊野の海岸や高知県の室戸岬や足摺岬などからは、多くの修行者が小船に乗って南の海の彼方へ消えていきました。

 南の彼方の浄土たる海と、現世と来世を隔てる河川とを自由に往来する川鵜は、まさに「神の使い」とでも言うべき鳥なのかもしれません。

投稿者 yama : July 7, 2006 03:16 PM

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